Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

映画ガリレオ『沈黙のパレード』主題歌、KOH+「ヒトツボシ」の女性観

 福山雅治主演の映画『沈黙のパレード』を見た。

 エンドロールとともに流れてきた主題歌「ヒトツボシ」が印象的だったので、それについて書いてみる。

 

1 映画

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 まずは映画の感想である。

 はじめの20分くらいは、長い歳月を隔てた二つの殺人事件と、幾人もの登場人物がからみあった複雑な相関図を頭にいれるのに集中力を要する。殺された少女(食堂の娘で19歳ほど)について生まれたときからの映像が断片的に挿入され、被害者人物にふくらみをもたしている。主役は大学教授だし、重厚で面白い映画になるのではないかと期待した。

 だが、次第にありきたりの人情話になってきた。私は、原作者である東野圭吾の小説は古いものを十数冊読んだことがあるだけで、『秘密』や『白夜行』は面白いと思ったが、他の長編は出だしは面白いが後半はだらだらしてくる傾向があると思った。最近のものは知らないが、この作品も(映画を通してだが)そういう悪い癖が出ているように思えた。

 本作では女性刑事として柴咲コウが再登場している。映像のガリレオシリーズでは、女性刑事は花をそえるだけで、無知でからかわれる役どころである。本作でもそれは変わらず、女性の扱い方が古くさいと思った。

 事件の場所は都下の菊野市というところで、そこの商店街の人たちの下町的な人間関係が軸になるので、これはむしろ同じ作者の加賀恭一郎シリーズ向けではないかと思った。殺し方がガリレオ風にアレンジしてあるだけで、福山雅治はその謎解きを披露するものの、事件への関わり方は人情によるものであるし(たまたま行きつけの食堂の主人が疑われたため首を突っ込むことになる)、詰めの「推理」は論理がゆるく根拠も希薄。物理学者ではなく名探偵になってしまっている。つまりこれはガリレオでなくても入れ替え可能な世界なのである。

 福山雅治はそれほど活躍しないので、ファンには少しものたりないだろう。北村一輝が主役を食っているところがある。

 

1-2【この節はネタバレがある】

 実は、殺された少女がそれまで生きてきた記録を観客に見せるのは伏線になっている。作者は『オリエント急行の殺人』を意図したのだろう。商店街の人の何人かが犯行に関わるが、他人の子どものための復讐に手を貸すには、その子どもなり家族なりに相当の思い入れがないとできない。だから、どういう子どもでどういう家族だったのかを見せておくことがストーリーにリアリティをもたせるために重要である。原作を読んでいないが、おそらくこの少女の人生の描写にかなり枚数を費やしているのではないか。映画でこの点がうまくできているかというと、首をかしげる。犯行に関わる人間が多いほどバレやすいし、商店街という地域の人間の横のつながりがそれほど強固だとも思えない。

 少女を殺した犯人が、血のついた作業着をわざと警察に発見させる意味もわからない。音楽家の妻(檀れい)を脅迫するためだというが、自分が逮捕され有罪になるリスクが高すぎる。物証があるのに黙秘でやりすごせるとも思えない。引き換え、脅迫のためにちらつかせるのは「俺は見たぞ」という裏付けのない証言だけだ(ビデオ撮影したとは言っていない)。物証と証言とどちらが重要か、考えなくともわかる。

 他にも、犯人は少女を運ぶ一方で、檀れいの身元をどうやって知ったのか、専業主婦らしい檀れいは脅迫代金をどうやって捻出したのか、謎だらけである。犯人と同じ産廃業者に15年前の被害者の関係者が働いていたというのも偶然すぎる。犯行に使ったトリックもひねりすぎていてそこまでやる必要性が薄く、商店街の人たちの日常とも連続性がない。

 なにより、檀れいが少女を突き飛ばして頭を打って気絶したのを見てびっくりして逃げたというところは、よくあるパターンだが、こんな大仕掛けの作品で隠されていたのがそんなショボい「真実」だったのはがっかりする。その不自然さを軽減するにはキャスティングが重要だが、檀れいの配役はそれを多少なりともカバーするものだったといえよう。しっかりしてそうで実は不安定な脆さを抱えている奥様の風情である。そもそも椎名桔平檀れいが夫婦役という段階で怪しさがみなぎっているのだけれど。

 

2 歌詞

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 以下、主題歌KOH+「ヒトツボシ」について述べていく。歌は柴咲コウ、作詞作曲は福山雅治である。

 まずタイトルである。カタカナになっているが、それはなぜか。

 歌詞サイトで検索すると「ひとつ星」というタイトルの歌が2つ、「一つ星」が2つ、「ヒトツボシ」がKOH+含め3つあった。カタカナにしている「ヒトツボシ」の歌詞はどれも歌詞の内容からはカタカナにする必然性は見当たらなかった。

 カタカナだけのタイトルは珍しくはない。ミスチルの「ニシエヒガシエ」、JUDY AND MARY「イロトリドリノセカイ」、B'z「イチブトゼンブ」、Greeen「キセキ」、MISIA「アイノカタチ」、あいみょん「ハルノ匕」など切りがない。

 ここでは、SMAPの「夜空ノムコウ」と比べてみる。この歌も歌詞の内容からはカタカナにする理由は見当たらない歌であるが、漢字+カタカナになっている点に特徴がある。

 カタカナにする効果はいくつかある。一つは目立つこと。通常、漢字やひらがなにすべきところをカタカナにしているので目を引くことになる。二つめは差異化すること。もし「夜空の向こう」というタイトルだったとしたら、文字は意味を伝達する透明な媒体となって、それによって示される内容は瞬時に理解されるが、「夜空ノムコウ」であれば、文字は文字として意識され、解釈はいったん立ち止まる。普通の「夜空の向こう」とは別のものがあることが暗示され、それはこの歌をとおしてしかわからないものになる。カタカナにした意図が詮索され、そのぶん歌詞は深く読まれるようになる。通常の用途から外れた表記方法にすることで、思わせぶりな何かが付け加えられる。

 また、「夜空ノムコウ」は「ヨゾラノムコウ」ではない。漢字が一つもなければわかりにくくなり暗号みたいになってしまう。一方、「ヒトツボシ」は「ヒトツ星」ではない。「夜空」や「星」という、意味の中心的な部分は漢字に残しておいたほうが解釈の助けになる。「ヒトツボシ」は5文字、「ヨゾラノムコウ」は7文字である。その違いもあるだろう。カタカナが続くと文字を目で追うのに時間がかかり、一瞬では読み取りにくくなって、たどたどしさが増す。また、「ヒトツ星」では「ヒトツせい」と誤読される恐れがあることを危惧したのかもしれない。

 「ほし」の語源を見るといくつか説があるが、どれも「ほ」は「火」から来ているとしている。夜空にあって火のように光るものが「ほし」なのである。

 一つ星というのは、辞書的には明けの明星、宵の明星である金星のこと、また方位の基準になる北極星のことである。歌詞には〈君のヒトツボシになれますように〉とあるから、この歌での一つ星は北極星のことだろう。

 映画の中では「Jupiter」という歌が印象的に使われている。ジュピターは木星である。惑星と恒星とは違うが、天空では同じ星として現れる。この映画では星つながりの歌ということになる。

 

2-2

 歌詞は、いかにもJポップふうの言葉遣いになっている。

 映画館で聞いていて思ったのは、繰り返される〈君〉が気になるということである。特に文頭にでてくる〈君〉がそうである。〈君〉の「き」は鋭い音で、耳につく(飛行機は甲高い音でキーンと飛び、急ブレーキはキキーッとけたたましい音を立てる)。

 歌詞をみると一人称は〈わたし〉、二人称は〈君〉で、語り手の意識は〈わたし〉と〈君〉のあいだを行ったり来たりしているだけで、世界はこの二人で閉じている。

 この歌から、〈わたし〉と〈君〉を抜きだしてみる。


君にサヨナラ
わたしひとり
君がわたし
君の物語
君と ただ君と
好きな君
あのわたし
君のヒトツボシ
君が 誰か愛し
わたしが君のこと

君の旅

 

 以上のように、〈わたし〉は4回、〈君〉は10回も出てくる。〈わたし〉と〈君〉だけの世界なのだから、そんなに「君、君」言わなくてもわかるので省略すればいいと思うが、つい口をついて出てしまうのだろう。

 歌でよく使われる二人称は「あなた」と「君」である。両者には音象徴の点で大きな違いがある。母音を見ると、「あなた」は「anata」と「a」だけで構成され、「君」は「kimi」と「i」だけで構成されている。母音「a」と「i」は、大きさ/小ささというイメージが大きく異るとされている。「a」は大きい、「i」は小さいと感じられる。「あなた」は大きく、「君」は小さく感じられるということだ。「あなた」は自立した大人、「君」は小さい子どもにふさわしい二人称と言えるかもしれない(もちろん例外の用法はある)。

 この歌では一貫して〈君〉が用いられている。〈君〉という響きには小さいイメージが伴っているから、どこか頼りない感じもある。実際、〈君のヒトツボシになれますように〉と言っていて、これは〈君〉には基準を示してあげる必要があるということを意味している。〈わたし〉は死ぬことによって〈君〉を導く存在になる。〈わたし〉は死んでからも〈君〉のことを案じている。もしこれが〈君〉ではなく〈あなた〉だったら、〈あなた〉は誰にも頼らず、自力で生きていこうとするだろう。

 

2-3

 歌詞の内容はメタファーに満ちている。どういうメタファーかというと人生を旅に喩えたものである。旅は海を行く小舟に見立てられている。〈わたし〉は舟を漕いでいる。〈わたしひとり星になったね〉という言い方は死を暗示させる。そしてその星はどういう星かということに連想がつながっていく。すでに述べたように、この文脈での一つ星は北極星として理解される。〈君〉の人生はメタファーとしてもほとんど語られることがないが、〈君のヒトツボシ〉とあることによって、〈君〉もまた北極星を頼りに舟を進める者として想定されているらしいことがわかる。

 

2-4

 もう少し細部をみていく。

 ひっかかるのは次の部分である。

〈いつか いつの日にか/君がわたしのこと/泣かずに思い出せるように/君の物語の邪魔しないように〉

 というところである。この〈君の物語の邪魔しないように〉というのは、どういうことか。

 1977年に松山千春の「旅立ち」という歌がヒットした。「旅立ち」は〈貴方〉の旅立ちで、「ヒトツボシ」は〈わたし〉の旅立ちという違いはあるが、いずれも好きな男のために身を引く女の歌である。男のことを中心に考えて、自分のことは二の次にする。だから歌詞の雰囲気も似ているところがある。

 「旅立ち」には、〈私の事など もう気にしないで/貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉という歌詞がある。私が足枷になるくらいなら捨ててかまわないということだ。それが〈貴方〉の〈旅立ち〉である。

 一方、「ヒトツボシ」の方は、〈君の物語の邪魔しないように〉自ら進んで姿を消すのである。〈君が 誰か愛し 愛されますように〉とも言っていて、不在となった〈私〉の代わりに別の女性と幸せになるように願っているのである。自分を犠牲にして男を庇護する、古い日本の献身的な女性のように思える。

 「ヒトツボシ」の女性観のこのような古くささ(男のために自己犠牲を選ぶ女)は、『沈黙のパレード』という映画での女性の扱いとマッチしている。

 映画で主要な女性登場人物は3人いる。女刑事の柴咲コウはテレビ版からそうだったが、男たちほど知性的ではなく、からかわれ、軽くあしらわれる扱いをされる。歌手を目指してずっと努力をしてきた女の子は、交際相手の子どもを妊娠し、自己実現の夢をあっさり捨て母になることを選ぶ。音楽家の妻である檀れいは、アクシデントによる傷害事件で気が動転し救護を怠り現場から逃げてしまう。そのため脅迫され、いいなりになり、最後は夫に守ってもらうことになる。

 彼女たちは男社会のなかで自分の人生を主体的に生きていない。近年の映画はジェンダー意識に敏感だが、そんな目でこの映画を見ると古いなあと思うのである。強いて言えば吉田羊は芯のありそうなところを見せるのだが、たいして活躍することなく引っ込んでしまう。