Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

阿久悠 VS. ウルトラマン

 1970年代、ヒット曲の作詞は阿久悠の名で埋め尽くされていた。

 阿久悠は、演歌やアイドル歌謡はもちろんのこと、「ピンポンパン体操」などの子ども向けの歌、「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメ、「ウルトラマンタロウ」などの特撮も作詞している。

 阿久悠が作詞に関わったウルトラシリーズは『ウルトラマンタロウ』(1973)、『ウルトラマンレオ』(1974)、『ザ•ウルトラマン』(1979)の3作品である。『ウルトラマンA(エース)』(1972)までのウルトラシリーズは、円谷一つぶらやはじめ、円谷プロ二代目社長)が東京一(あずまきょういち)の名で作詞していたが、『タロウ』放映の2か月前に亡くなっており、『タロウ』からは阿久悠が登板している。

 

 「ウルトラマン・タロウ」

  タロウ ウルトラマン ナンバー6

 

  ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる

  そしてタロウがここにいる

  空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ

  かなたから迫りくる 赤い火を

  何かが地球におきるとき 胸のバッヂが輝いて

  タロウがとびたつ タロウがたたかう

  タロウ タロウ タロウ ウルトラマン タロウ

 

  ウルトラの父が来た ウルトラの母が来た

  そしてタロウがやって来た

  あれは何 あれは敵 あれは何だ

  なぞをひめ 襲い来る 侵略者

  力がほしいと願うとき 胸のバッヂが輝いて

  タロウがとびたつ タロウがたたかう

  タロウ タロウ タロウ ウルトラマン タロウ

 

 それまで東京一が作詞したウルトラシリーズの主題歌では、どれも〈怪獣〉というワードが使用されていた(「エース」のみ〈超獣〉)。だが、この「タロウ」には〈怪獣〉は出てこない。代わりにあるのは〈かなたから迫りくる 赤い火〉とか〈何かが地球におきるとき〉という明確でない脅威である。怪獣という実体に結実する手前の〈何か〉である。あるいは〈あれは何 あれは敵 あれは何だ/なぞをひめ 襲い来る 侵略者〉ともあるように、対象として捉えがたい侵略者である。このような漠然とした言い方をするのはなぜなのだろう。

 テレビ番組の主題歌というのは、出来上がった作品を見てから作るわけではない。まだ製作途中で設定の細部もどこまで決まっているかわからないような状態で、作品の大まかな内容をもとに書いている。そもそも、事前に最後の結末までしっかりプロットを決めてそれに沿って作品を作っていく場合は少ないので、歌詞も今後の展開の邪魔にならない程度のあたりさわりのないものにならざるをえない。

 いずれにしても、歌詞と作品の齟齬を目立たなくするには、歌詞では一般論を述べるにとどめるか、具体性を避けて多義的な言葉を使うか、あるいは、細部の変わらぬ一点を取り込んだり、それで歌詞を全面展開することが試みられる。

 例えば、最初の『仮面ライダー』の主題歌である「レッツゴー!! ライダーキック」には〈ショッカー〉という固有名が入っているが、〈地獄の軍団/我等をねらう 黒い影〉といった一般論以上にショッカーを規定しておらず、仮面ライダーも〈ジャンプ〉や〈キック〉はするが〈世界の平和を 守るため〉という一般論以上になぜ戦うのかという理由は示されない。

 「細部の変わらぬ一点」というのは、この歌の2番における〈真紅(しんく)のマフラー〉を例にすると、仮面ライダー1号と2号は〈真紅のマフラー〉を首に巻いているが、ライダーのマフラーが〈真紅〉であることに内在的理由があるとは思えず、配色の観点からは、白でも青でも黄でもよかった。また、マフラーとその色はライダーが進化するにつれて変化するポイントになるわけでもない。赤い頭巾をかぶる女の子を「赤ずきんちゃん」と呼ぶからといって、ライダーのことを〈真紅のマフラー〉と呼ぶことはできない。〈真紅のマフラー〉は隣接関係に基づく換喩になるほどライダーの中心的な特徴にはならない。しかし際立つ差異にはなっている。2号は途中でグローブとブーツが緑から赤に変わったが、マフラーは赤のままだった。一方、ショッカーライダー(偽ライダー)は黄色のマフラーとグローブ、ブーツをつけていた。グローブとブーツの違いはアイデンティティに関わらないが、マフラーの色は深く関わることがわかる。それはマフラーが身体の中心の位置にあるからだろう。〈真紅のマフラー〉は仮面ライダーとして変わることのない特徴である。作詞時もそのことは直感的に把握されていたから〈緑のブーツ〉は歌詞にならず、〈真紅のマフラー〉や(3番では〈緑の仮面〉)になるでのである。

 時間的な細部を取り出してみせるのが『宇宙戦艦ヤマト』のオープニングである。主題歌は旅立ちの瞬間を歌っている。旅立ちという特定の時間にこだわって、それを全面展開した歌詞になっている。一方、エンディングは、赤いスカーフという一点のアイテムから想像を広げている。赤いスカーフは、ヤマトのドラマ上なんらかの意味が担わされているかというと、そうではない。仮面ライダーの〈真紅のマフラー〉と違って、赤いスカーフはたんなるイメージである。作詞者による想像なので、ヤマトがどういう展開になろうとも使える。

 『ヤマト』は長期のシリーズとなったが、当初作られた主題歌はヤマトの印象と強く結びついていたので、テレビ版の『ヤマト2』『ヤマト3』はイスカンダルとは関係がないにも関わらず、〈イスカンダル〉という固有名が入った歌がオープニングとしてそのまま使われており、強引だなと思った。もし〈イスカンダル〉という固有名を入れずに、代わりに〈遙かな星〉とでもなっていれば、違和感なく使いまわせたであろう。リメイク版の『ヤマト2202』ではインストルメンタルだけになった。

 「翔べ! ガンダム」は一般論的な歌詞である。〈ガンダム〉という主役メカの名称こそ出てくるが、それ以外の部分は何にでも応用可能である。『ゲッターロボ』の歌詞としても成り立つ。〈怒りに燃える闘志〉とか〈正義の怒りをぶつけろ〉とか、かなり怒っている。ロボットアニメの主人公はたいてい短気で怒りっぽいので、一般論的な歌詞としてはこれでいいのだが、『ガンダム』のアムロは主人公としては異例のクールな少年で、怒ることはほとんどないので、一般論的であるにも関わらずズレのある歌詞になってしまった。

 とはいえ、歌詞が作品とぴったり一致しているのがよいということではない。歌詞があまり具体的だと作品が作りにくくなってしまうだろう。歌詞が作品内容を説明する必要はない。『エヴァンゲリオン』の「残酷な天使のテーゼ」のように、作品の内容と付かず離れずで、想像力を掻き立て、自律性のあるもののほうがいいだろう。

 

 そこで「ウルトラマンタロウ」の歌詞をあらためて見てみよう。

 この歌には、敵の脅威に対する具体的な描写はない。代わりに、〈かなたから迫りくる 赤い火を〉とか〈何かが地球におきるとき〉〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉など、漠然とした言い方がなされている。

 〈赤い火〉というのは不吉なものの象徴である。歌詞を書く段階で設定の詳細が決まっていなくても、ウルトラマンの敵は怪獣か宇宙人と相場は決まっているので、そのように書くこともできたはずだがそうしなかったのは、ウルトラマンもシリーズが進んで、怪獣や宇宙人はすっかり既知のもの、想像の範囲内のもの、親しみのあるものになってしまい、そうしたワードでは脅威を表現できないと思ったからだろう。曖昧で未知な状態のほうが恐ろしいのである。〈何〉の使用もその延長にある。

 先日、水木一郎が亡くなったのでその作品集を聴いていたのだが、そこで流れてきたのが「アストロガンガー」である。私が子どものころの作品で、『マジンガーZ』と同時期の放送だ(1972年開始)。

 その歌詞は〈どこかでどこかで何かがあれば〉〈だれかにだれかに何かがあれば〉〈いつでもいつでも何かがあれば〉とふんだんに〈何か〉を使っている。〈どこかで何かがあ〉るのは当たり前だろうと思ったが、私たちがふだん「何かあったら」と言うとき、その「何か」にはなんでも代入できるわけではなく、たいてい、よくないこと、嫌なこと、不安に思うことである。未知に対する漠然とした恐れが反映されている。「タロウ」や「アストロガンガー」の歌詞で繰り返される〈何か〉や〈何〉は、原因や正体がわからないものは、人の心を不安にさせるということを踏まえている。

 〈何かが地球におきるとき〉は決してよいことが地球に起きるわけではない。不吉な出来事が予感されている。〈何か〉わからないことに人は怯える。ヒーローソングにありがちだが「地獄だ」「悪魔だ」とはっきり言わないでも、〈何か〉と曖昧に言うだけで十分効果はあるのである。〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉というのは興味深い並べ方である。ここでは「何=敵」である。〈あれは敵〉とわかっているにも関わらず、さらに〈あれは何だ〉と言っているのは「何=敵」だからである。〈何〉という未知のものに〈敵〉が投影されている。未知の段階ではとりあえず敵とみなして警戒を高めるに越したことはない。

 

 違う角度から「タロウ」の歌詞をみてみる。

 〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ かなたから迫りくる 赤い火を〉

 これは、「空を見ろ! 鳥だ! 飛行機だ! いや、スーパーマンだ!」というおなじみのセリフにヒントを得たものであろう。〈見ろ 見ろ 見ろ〉と畳み掛けており、歌詞として力強い。2番の歌詞では〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉となっており、〈あれ あれ あれ〉が繰り返される。作詞家は言葉を連打する効果を狙って使っている。他にも、〈ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる/そしてタロウがここにいる〉、〈タロウがとびたつ タロウがたたかう〉〈タロウ タロウ タロウ ウルトラマン タロウ〉など、反復がリズムを作っている。

 〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ〉というのは、視点としては、地球にいる私たちの位置から語られており、〈空〉→〈星〉→〈宇宙〉へと目(=探索の隠喩)を向け、地球から遠い宇宙の深部へと視界を展開していく。そうしておいて、その遠い〈かなたから迫りくる 赤い火〉があると、一挙にこちらに向かってベクトルを反転する。〈何かが地球におきるとき〉と続き、地球から出発した意識が折り返されて地球に戻ってくる。この大きな往還運動が、歌詞をダイナミックなものにしている。

 なお、〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ〉の前に置かれているのが〈そしてタロウがここにいる〉という詞である。宇宙から脅威が飛来しても、近くにタロウがいてくれるから安心なのである。

 

 この歌詞で意外に重要なのは、〈ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる そしてタロウがここにいる〉とあるところの接続詞〈そして〉である。タロウはウルトラの父母の子どもである。初代ウルトラマンウルトラセブンの出自はよくわからない。だがタロウは父母あってのタロウである。タロウがいくら超人であっても、父母がいなければタロウは存在できない。時間的な順序、つまり原因と結果という因果関係を、この〈そして〉が表している。子どもが憧れるヒーローでさえ、父母があって存在しているのだ。

 阿久悠は自分の子どもに「太郎」という名前をつけており、奇しくも同じ名前のウルトラマンの主題歌を書くことになって「大いに喜んだ」という。父母がいて〈そしてタロウがここにいる〉というのは、自分の子どもに諭すように書いたのかもしれない。

 しかしそうすると、この〈そして〉というのは、ひとつの抑圧のようにも感じられてくる。タロウは〈そして〉という順番を覆すことはできない。タロウはこの歌を歌うたびにいつも〈そして〉を意識させられることになる。どんなことがあってもウルトラの父母を乗り越えられず、それを思い知らされ続けるのである。

 

 タロウに変身するためのバッジは、二つの三角形を上下逆さに重ねたダビデの星に似ており、その六芒星の両肩と下の部分をグッとのばしてタロウのイニシャル「T」に近い形にデザインされている。六芒星というより十字架に近い形にも見える。そうすると、〈ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる そしてタロウがここにいる〉という歌詞を、キリスト教ふうに解釈したくなる誘惑にも襲われる。ウルトラの父は天なる父ヤハウェウルトラの母は神としてのマリア、タロウは神ヤハウェが人間界に遣わしたイエス・キリストという見立てである。実際、ウルトラシリーズにはウルトラマンが十字架にかけられるシーンがあるし、ウルトラマンは人間の代わりに戦う苦難を背負っているのだというモチーフも通底している。ウルトラマンは何の縁もない地球人を命がけで守るという利他行を行う菩薩とも思えるが、いずれにしてもウルトラマンの存在は、人間の延長である仮面ライダーよりは宗教的なのである。

 

 「タロウ」の歌詞を他のウルトラシリーズの歌詞と比較してみる。『タロウ』の前の4作品(『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』)の主題歌は全て東京一(あずまきょういち、円谷一ペンネーム)が作詞している。

 阿久悠の「タロウ」と、東京一のウルトラ4作品には、どういう違いがあるだろうか。

 東の作詞に共通するイメージは、ウルトラマンは遥か遠くの星から地球にやってきたということである。

 

ウルトラマン…〈光の国から僕らのために 来たぞ我らのウルトラマン

ウルトラセブン…〈はるかな星が郷里だ〉

帰ってきたウルトラマン…〈遠く離れて地球に一人〉〈はるかかなたに輝く星は あれがあれがふるさとだ〉

ウルトラマンエース…〈遠くかがやく 夜空の星に/ぼくらの願いが とどく時/銀河連峰 はるかに越えて/光とともに やってくる〉(歌詞カードには「銀河連峰/連邦」の揺れがあるが、「連峰」表記が多い)

 

 一方、「タロウ」では、ウルトラマンは遥か遠くの星から地球にやってくるというよりは、既に地球に来ている、〈ここにいる〉とされる。〈空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ かなたから迫りくる 赤い火を〉という歌詞の視点は地球であった。〈かなた〉からやってくるのはウルトラマンではなく、侵略者のほうなのだ。歌詞の2番では〈そしてタロウがやって来た〉となっているが、〈来た〉とあるように、既に過去に来ていて、今は〈いる〉のである。「タロウ」は地球になじんでいて、地球人の視点でものを見ている。それを可能にしているのが、〈来た〉という過去から〈いる〉という現在までに蓄積した時間である。

 また、「帰ってきたウルトラマン」の〈遠く離れて地球に一人〉〈はるかかなたに輝く星は あれがあれがふるさとだ〉という歌詞のように、「タロウ」の歌詞には遠く離れた星(故郷)からやってきて地球で一人で寂しいといった感じはない。「タロウ」には〈光の国〉という故郷よりももっと直接的に支えになる父母の存在があるからである。東京で一番という意味のペンネームを持つ作詞者が書いた歌詞にどこか高度成長期に流行った望郷歌謡曲の影があるとしたら、「タロウ」にはそうした時代の刻印はもうない。故郷を離れて地球にやって来たウルトラマンの存在が放つ寂しさには、故郷を離れて東京にやってきた金の卵たちの寂しさが投影されているかもしれない。奇しくも『タロウ』放送中の1973年10月に第一次オイルショックが起きて高度成長は終わりを迎えている。タロウは故郷から集団就職で出てきた陰りのある青年ではなく、その子どもたち、東京で生まれ核家族ウルトラの父母)の下で無邪気に育った離郷二世なのである。

 名前の点でもそうである。他の兄弟が、ゾフィー、セブン、エース、レオと外国風なのに、タロウだけが和風である。企画段階ではジャックという名前だったが、タロウに落ち着いたという経緯がある。古風な名前が与えられ、兄弟や親子といったファミリーの概念が強調されるのも、ウルトラマンを地球人と異質な存在ではなく、類似の存在と考えようとするからだろう。これまでのウルトラマンは、遥か遠くの星から地球にやってきた孤高の存在であったが、タロウには隣人のような親しみやすさがある。

 ウルトラ兄弟というのは、シリーズが続いて、似たようなヒーローが増えてきたときに、彼らを同一空間、同一時間の中で互いにどう位置づけるかについての製作者からの提案である。似ているから兄弟でどうかというわけだ(血のつながった兄弟ではなく仁侠的な兄弟である)。そして兄弟がいるなら父母もいるだろうということでウルトラの父母が創作される。ここでは因果は逆転され、父母は子を原因としている。

 

 阿久悠が作詞した他のウルトラシリーズウルトラマンレオ』と『ザ•ウルトラマン』の主題歌についても簡単に見ておこう。

 『レオ』は『タロウ』に続いて放送され、作詞作曲は『タロウ』と同じコンビである。主題歌が前期後期で変わっているが、作詞作曲は同じ人たちである。私は前期の歌のほうが好きである。ネットの評判も同様である。歌っているのは主演俳優で、テレビではなぜか歌詞の2番が用いられている。2番はこうなっている。

 

 「ウルトラマンレオ

  突然あらしが まきおこり
  突然炎が ふきあがり
  何かの予言が あたる時
  何かが終りを 告げる時
  誰もが勇気を 忘れちゃいけない
  やさしい心も 忘れちゃいけない
  獅子の瞳が輝いて ウルトラマンレオ
  レオ レオ レオ レオ レオ
  燃えろ レオ 燃えろよ レオ!

 何やら不穏な雰囲気のある歌詞である。世の終わりを告げる予言が的中したかのように、〈突然あらしが まきおこり/突然炎が ふきあがり〉と不気味な現象が起こっている。1番の歌詞にも〈地球の最後が 来るという〉とある。怪獣や宇宙人なら街を少し破壊するだけだが、自然現象の変異は、私たちが住む地球という基盤の環境がおかしくなっているわけで深刻である。

 それまでのウルトラシリーズの主題歌とは違い、阿久悠が書いた「タロウ」「レオ」「ザ•ウルトラマン」のいずれにも、怪獣や宇宙人というワードは出てこない。本当の脅威は怪獣なんかではない、もっと違うところにあると言いたかったのかもしれない。

 

 『レオ』が放送されたのは1974年。前年の1973年には五島勉の『ノストラダムスの大予言』や小松左京の『日本沈没』が出版されて終末ブームが起きていた。『日本沈没』は同年末に映画が公開され大ヒットしている。『レオ』には当時のそういった雰囲気が取り入れられており、歌詞もそれを反映していた。〈何かの予言が あたる時〉というのは、ノストラダムスの予言を暗示引用している。

 一方、番組の第1・2話は、『日本沈没』を踏まえたものになっている。第1話のサブタイトルは「セブンが死ぬ時! 東京は沈没する!」、第2話は「大沈没! 日本列島最後の日」である。ダン隊長による「ウルトラマンレオが負ければ、日本が沈没する!」という台詞もあった。

 ただし、沈没の原因は地学的なものではなく、怪獣が引き起こす津波である。これは『帰ってきたウルトラマン』のエピソード「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」の反復である。『帰マン』の大津波も迫力があったが、『レオ』も大津波によって東京が破壊されるシーンが丁寧に描写されたスペクタクルあふれるものになっていた。子どもには十分である。

 このあとのエピソードでも『レオ』には残酷な場面が多いという評判がある。極めつけは怪獣攻撃隊MACが中盤で全滅してしまうことだろう。信頼し依拠していたものが不意になくなってしまい、空虚感におそわれた子どももいたのではないか。

 

 ウルトラマンレオ』は前期(1-13話)と後期(14-51話)で主題歌が変えられたという珍しいケースである。しかも前期は歌詞の1番でなく2番がオープニングで使われている。ネットを見ると、歌詞の1番が使われなかったのは〈地球の最後が 来るという〉というフレーズを子どもが怖がるからという書き込みがあるが、詳しい理由はわからない。

 前期と後期で歌が変わった理由は、番組の視聴率が悪くテコ入れで路線変更にあわせて、暗く不吉な歌詞を明るい歌詞の歌に変えたと言われている。後期で使われた歌は敵に立ち向かうレオが主役になった歌詞になっている。ただし、「当初はこの曲が主題歌になる予定だった」(Wikipedia)ようなのでややこしい。

 ヤフー知恵袋には、次のような書き込みがあった。

「歌が変更されたのは視聴率うんぬんよりも、放映当時の1974年に伊豆で起こった地震によって死者が出たそうです。この地震の被害者に対して「突然炎が吹き上がり」や「突然嵐が巻き起こり」という歌詞が災害を彷彿とさせるのではないかという配慮の意味もこめて、変更したのだそうです。当時の番組の書籍に記載してありました。」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11161382416

 実際、1974年5月9日に伊豆半島南端で震度5地震があり、山が崩れ、死者30人、負傷者102人、家屋の全半壊は300棟以上という被害があった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/311shogen/disaster_records/detail.cgi?das_id=D0010060218_00000

 終末ブームに便乗した作風だったが、子どもには合わず、早々に路線変更を余儀なくさせられたようである。

 

 世相はさておき、歌詞じたいの作りを見てみたい。まず目につくのは、反復の形式である。〈突然…り〉〈何か…る時〉〈忘れちゃいけない〉などが繰り返されている。繰り返すことで話題を深めていくパターンを持っている。

 この〈何かの予言が あたる時/何かが終りを 告げる時〉の〈何か〉は「ウルトラマンタロウ」でも〈何かが地球に おきるとき〉と使われていた。

 「タロウ」との共通点では、ほかにも、〈腕のバッチが かがやいて〉という「タロウ」の歌詞は、「レオ」では〈獅子の瞳が輝いて〉になっている。〈獅子の瞳〉というのは、レオに変身するためのアイテムである指輪のことで、獅子の顔の造形になっており、変身時にそれが光る。レオは「獅子座L77星」から来た宇宙人だから獅子なのである。また、〈タロウ タロウ タロウ〉〈レオ レオ レオ レオ レオ〉という名前の反復も同じである。

 ついでに言うと、1番の歌詞には〈誰かが起たねば ならぬ時/誰かが行かねば ならぬ時〉とあるが、この〈誰かば…ねばならぬ〉は、『レオ』の半年後に放送された『宇宙戦艦ヤマト』主題歌の2番の歌詞〈誰かがこれを やらねばならぬ〉に流用されているように思える(『ヤマト』の作詞も阿久悠である。)『レオ』と同時期の『ヤマト』もまた終末思想を背景にした作品であることが興味深い。

 

 『レオ』の後期の主題歌についてもふれておく。

 

 「戦え! ウルトラマンレオ

  レオ! ウルトラマン
  レオ! 君の番!
  レオ! たたかえ!

  レオはそこまで来ている
  レオは怒りに燃えてる
  赤い炎をくぐって
  やがてあらわれる
  平和をこわす敵は
  この手で叩き伏せる
  それが レオの使命
  それが レオの願い
  獅子の瞳が燃えて
  嵐たちまち起こり
  たたかう たたかう
  ウルトラマン レオ

 前期の歌が、後期はこの歌に差し替えられたということだが、同時に作られた歌なのであろう。歌詞には共通している言葉がある。(前期/後期)

「燃えろレオ/レオは怒りに燃えてる」「突然炎が ふきあがり/赤い炎をくぐって」「この平和を こわしちゃいけない/平和をこわす敵」「獅子の瞳が輝いて/獅子の瞳が燃えて」「突然あらしが まきおこり/嵐たちまち起こり」

 だが、両者の印象はかなり異なる。前期の歌は、天変地異で地球環境が悪化し人間に未来はない状況で、それでも諦めず立ち上がるという感じの歌だったが、後期の歌には、地球レベルの危機をもたらす災害のイメージはなく、敵の姿は〈平和をこわす敵〉へと形をとり、その敵をやっつけるレオの力強さが焦点になっている。いくら超人レオでも地球レベルの災害には太刀打ちできないが、敵として具体的な姿をとってくれれば〈この手で叩き伏せる〉ことができる。

 前期の歌で、終末へと向かう予兆を示す〈突然あらしが まきおこり/突然炎が ふきあがり〉とある〈あらし〉と〈炎〉は、後期の歌では、〈赤い炎をくぐって やがてあらわれる〉〈獅子の瞳が燃えて 嵐たちまち起こり〉というように、レオが登場する際の威勢のよさを表現する舞台装置へと変換されている。

 これは『仮面ライダー』のエンディング「仮面ライダーのうた」も同じである。〈嵐とともに やってきた/誰だ! 誰だ! 悪をけちらす嵐の男〉とあるように、仮面ライダーも登場するときに嵐を呼び起こす。嵐は激烈さの比喩であろう。石原裕次郎嵐を呼ぶ男」の〈俺らがおこれば嵐を呼ぶぜ〉の伝統に連なる。裕次郎は怒っているし、ライダーもまた〈怒りをこめて ぶちあたれ/ショッカーどもを ぶちのめせ〉と怒っている。

 後期の歌はレオの頼もしさがクローズアップされる。ヒーローソングでは、私たちを助けてくれる正義の味方が今どこにいるかということが重要である。私たちが助けを求めた時にすぐ駆けつけてくれなければ意味がない。

 東京一が作詞した「帰ってきたウルトラマン」では、怪獣が暴れている街にウルトラマンが急行して、〈燃える街に あとわずか〉だという。ここにはピンチに間に合うかという緊迫感がある。同じく「ウルトラマンエース」では〈遠く輝く 夜空の星に/ぼくらの願いが とどくとき/銀河連峰 はるかにこえて/光とともに やってくる〉とあり、遥か彼方から光の速さで駆けつけてくれるという。願いはすぐに聞き届けられたのである。

 阿久悠作詞の「ウルトラマンタロウ」になると〈ウルトラの 父がいる/ウルトラの 母がいる/そしてタロウが ここにいる〉と、タロウはもう身近に来ていて、守りのスタンバイができている。

 ではレオはどうかというと、「戦え! ウルトラマンレオ」では〈レオはそこまで来ている…赤い炎をくぐって/やがてあらわれる〉という。すぐそこまで来ているという途中経過な感じが面白い。来る途中、あるいは待っているときのドキドキした感じが表現されている。例えば100km離れたところからレオが飛来するとして、姿が見えるか見えないかのあと1kmくらいが一番まちどおしいものである。ここは「帰マン」の〈燃える街に あとわずか〉という歌詞にヒントを得たのかもしれない。「帰マン」はウルトラマンの視点だが、「戦レオ」は待つ側の視点である。

 また、「エース」の〈遠く輝く 夜空の星に/ぼくらの願いが とどくとき/銀河連峰 はるかにこえて/光とともに やってくる〉に対応するかのように、〈レオを呼ぶ声響けば レオは今すぐ答える/空の果てからマッハで すぐにとんで来る〉とある。助けを求めたらすぐに駆けつけてくれることが安心感を与えてくれるのだ。

 『ザ•ウルトラマン』はウルトラシリーズの中では異色のアニメ作品である。1979年の放送当時はアニメブームで『機動戦士ガンダム』と同時期の放送である。アニメ製作は日本サンライズで、これも『ガンダム』と同じである。

 

 「ザ•ウルトラマン

  誰もが知ってる ウルトラの戦士
  光か はやてか 音か
  今 燃える
  緑の地球を 汚(けが)したやつらは
  決して許しておけないと
  ウルトラマン

 

 テレビドラマ『月光仮面』(1958年放送開始)はその後のヒーローものの基礎を作った。川内康範が作詞した「月光仮面月光仮面は誰でしょう~」の歌詞は〈どこの誰かは 知らないけれど/誰もがみんな 知っている〉〈疾風のように 現われて/疾風のように 去って行く〉というヒネリのあるものだ。以後、正義のヒーローは、正体を知られないことと、現場に早く駆けつけて用件が済んだらすぐさまたち去ることが特徴になっていく。もちろん『月光仮面』は神出鬼没の覆面ヒーロー『鞍馬天狗』を現代風に置き換えたものであるが、言葉で「誰にも知られない、疾風のように現れる」と歌われることで、それがヒーローの性質として意識されていく。アメコミではマスクをかぶり正体を隠すヒーローもいるが、そういうことに頓着しないヒーローも多い。スーパーマンに本当に韜晦志向があるか疑わしい。

 阿久悠はアニメ作品では『デビルマン』(1972年)の作詞をしている。エンディングの「今日もどこかでデビルマン」は、〈誰も知らない 知られちゃいけない/デビルマンが 誰なのか〉という歌詞である。これは「月光仮面」の〈どこの誰かは 知らない〉という一般市民の視点をヒーロー側に反転させたものだ。

 「ザ•ウルトラマン」では、〈誰もが知ってる ウルトラの戦士〉と歌われる。これは「月光仮面」の〈誰もがみんな 知っている〉から来ているし、「ザ•ウルトラマン」の〈光か はやてか 音か〉というのも「月光仮面」の〈疾風のように 現われて〉から来ているといえるだろう。『レオ』の後期の主題歌〈空の果てからマッハで/すぐにとんで来る〉というのもそうだろう。昭和12年生まれの阿久悠にとって、知っているヒーローソングといえば昭和33年にテレビ放送された『月光仮面』だったのだろう。阿久悠が就職した先である宣弘社が当時『月光仮面』を制作していたというつながりもある。

 

 昔のアニメや特撮には「悪を許さない」とか「怒りに燃えて」といったアツい歌詞が多かった。感情が激することは「燃える」と比喩表現されるが、「レオ」も「ザ・ウルトラマン」も燃えている。前期レオでは〈燃えろ レオ 燃えろよ〉、後期レオでは〈レオは怒りに燃えてる〉、「ザ・ウルトラマン」では〈光か はやてか 音か/今 燃える〉とある。『レオ』放送の直前にカンフー映画燃えよドラゴン』が公開されて一世を風靡していたから、燃えやすくはなっていたのだろう。

 「燃えること」と近似なのが「怒ること」である。ゴレンジャーもガンダムも「怒りに燃え」ている。

・真っ赤な血潮 怒りに燃えて(「進め! ゴレンジャー」)
・まだ 怒りに燃える 闘志があるなら(「翔べ! ガンダム」)
 ヒーローは正義の名のもとに怒りっぽかったのである。「ザ•ウルトラマン」も怒っていて、〈緑の地球を 汚(けが)したやつらは/決して許しておけないと〉と言っている。「レオ」も、先に引用したとおり〈レオは怒りに燃えてる〉と怒っている。

 

 「ザ•ウルトラマン」の歌詞はいっけんただのヒーローソングにありがちな言葉を羅列しただけのように思えるが、独特の表現が見受けられる。ヒーローソングでは、正義のために戦うのだというフレーズが決まり文句になっている。だが「ザ•ウルトラマン」は正義のために戦うとは言わない。1番では〈緑の地球を 汚(けが)したやつらは/決して許しておけない〉、2番では〈この世のルールを 乱したやつらは/宇宙の果てまで運び去る〉と言うのである。悪は正義を踏みにじるからではなく、〈緑の地球を 汚(けが)

した〉とか〈この世のルールを 乱した〉ことにある。

 地球を守るという歌詞はヒーローソングにはよくある。〈地球の平和を まもるため/三つのしもべに 命令だ〉と「バビル2世」でも歌っているが、敵が宇宙人など地球外の存在かどうかということは関係ない。「バビル2世」では世界の各地でグローバルな戦いをしている。「ガッチャマンの歌」でも〈地球は一つ〉だという。ガッチャマンはゴッドフェニックスに乗って地球規模の戦いをしている。では仮面ライダーはどうだろう。ライダーが戦うのは日本各地である。さすがに地球云々は言えない。だが日本を守るとも言いにくい。そこで無意識に採用されたのが〈世界の平和を守るため〉(「レッツゴー!! ライダーキック」)である。〈地球〉と〈世界〉の違いは、〈世界〉のほうは思弁的で、その範囲が融通無礙だということにある。ある人にとって想像の及ぶ範囲が、その人がその一部である〈世界〉なので、身の回りだけが〈世界〉の人もいるし、地球の裏側まで〈世界〉である人もいる。

 「ザ•ウルトラマン」では〈緑の地球を 汚(けが)したやつら〉が許せない敵である。私たちが生きている土台である地球は何より重要である。(この場合の地球というのは惑星というより、人間の生存環境である。)正義という概念は相対的なものであるから自分の正義を主張するのはあやういところがあるが、地球という基本的な環境を守ろうというなら反対する人はいないだろう。ヒーローソングで、守る対象が正義から地球へ変遷していった過程を調べれば面白いかもしれない。

 「ザ•ウルトラマン」で面白いのは〈この世のルールを 乱したやつらは/宇宙の果てまで運び去る〉という歌詞にある。「正義」というワードを拒否し迂回した表現になっている。〈この世のルール〉というのは人間どうしの取り決めである。ウルトラマンの相手は怪獣や宇宙人なので、人間どうしが作る〈この世〉を共有していない。〈この世のルールを 乱したやつら〉というのではスケールが小さすぎる。人間レベルの犯罪である。だが、あえて〈この世のルールを 乱したやつら〉という遠慮がちな表現にしたのは「正義」という硬直した言葉を使いたくなかったからだろう。また、悪いやつらをやっつけると直接的な表現ではなく、〈宇宙の果てまで運び去る〉と迂遠な言い方をするのもどこかポリティカル・コレクトネス的な言い換えのような雰囲気がある。「戦え! ウルトラマンレオ」の〈レオは怒りに燃えてる…平和をこわす敵は/この手で叩き伏せる〉という荒々しさに比べたら、ずいぶんお行儀がいい。〈平和を守る〉という歌詞はよくあるが、「レオ」のように〈平和をこわす敵は/この手で叩き伏せる〉というのは、ちっとも平和的な解決手段ではない。〈宇宙の果てまで運び去る〉と言い換えたほうが政治的に正しい。ただ、字義どおりだとすると残酷ではあるし、手間がかかりすぎるので比喩なのだろうけど。