Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

特撮ソングの深い意味「レッツゴー!! ライダーキック」

 3月に公開を控える『シン・仮面ライダー』。庵野秀明による『シン~』というリブートのシリーズは、原点に還るというシンプルな手法で想像力を起動させようとしている。

 「原点に還る」といっても、様々なレベルの切り口がある。『シン・仮面ライダー』の場合は、文字どおり「仮面をかぶったバイク乗り」というところにキモを見出すのではないか。ヘルメットではなく仮面をかぶっていたら、それはどういう「バイク乗り」なのか。

 仮面ライダー』にも、かつて原点回帰を志向した『真・仮面ライダー 序章』(1992年)というオリジナルビデオがあった。このライダーは、仮面や強化服が皮膚と融合しているバイオモンスターで、「変身」をつきつめるとこうなるという造形であった。一方、今回の『シン・仮面ライダー』でいう「仮面」は文字どおりの仮面であり、脱着可能なものであって、仮面や強化服の下には人間の身体があることをアピールしている(強化服は変身により出現するのではなく、普段はロングコートの下に隠されているのだろう)。こちらは、「仮面」をかぶることをつきつめたものになっている。

 同じく「真=シン」を銘打っても、正反対のアプローチなのである。どちらが原点なのか。初代ライダーの「仮面」は、どちらの要素も含んだ曖昧なものだった。こういう場合は、仮面ライダーの他の特徴を見ればいい。それはベルトである。『真~』ではベルトは消失している。『シン~』では大きなベルトはそのまま残されている。『シン~』のほうが、初代がはらんでいた曖昧さへの解答として率直なものになっていると言えそうだ。

 では、主題歌はどうなるのか。旧作の主題歌を主人公の俳優が歌っていたように、『シン』のプロモーション映像では、本郷猛役の池松壮亮が「レッツゴー!! ライダーキック」を無骨に歌っている。このプロモ映像は、オープニングを旧作に似せて作ってみせたパロディなので、この歌も余興的なものであり、これを映画に使うとは思えない。

 特撮番組は『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』が放送された1966~1968年が第一次ブームで、1971年に『スペクトルマン』に始まり『仮面ライダー』や『帰ってきたウルトラマン』へと続いていくのが第二次ブームである。この第二次ブームでは『仮面ライダー』が切り開いた等身大の変身ヒーローが量産され、’74-5年になるとマンネリ化して、以下は尻すぼみになっていく。’80年以降は戦隊もの宇宙刑事ものといったシリーズで占められ、’96年から新生ウルトラマン、2000年から新生仮面ライダーがそこに加わる。

 1971年4月に放送を開始した一番最初の『仮面ライダー』の主題歌は「レッツゴー!! ライダーキック」で、作詞は原作者の石森章太郎である。石森は自分が関わったアニメや特撮の作詞をいくつもしているが、この歌はその最初期のものであり、これ以前には『サイボーグ009』や『ドンキッコ』などのアニメソングがいくつかあるくらいである。

 「レッツゴー!! ライダーキック」は、ライダージャンプとかライダーキックとか歌っている、いかにも子ども向けの特撮ソングらしい内容で、歌詞について言語の作品として講釈を垂れるほどのものではないと思われるかもしれない。『仮面ライダー』は石森が初めて関わる特撮であり、「レッツゴー!! ライダーキック」はその主題歌であるので、当然ながら作詞にも力がこもっているはずだ。番組がヒットしたのでシングルレコードも売れ、130万枚の大ヒットになった。

 この歌は当初、ライダー役の藤岡弘が歌うバージョンが放送されていたが、早々にケガで降板して主役が交替するとともに、子門真人(藤浩一)が歌唱するものに差し替えられた。私が子どものころ、子門真人の独特のクセを真似して〈迫るショッカー〉と歌うのが流行っていた。子門はこのあと、アニメや特撮ソングや「およげ! たいやきくん」で大活躍することになるが、その最初が「レッツゴー!! ライダーキック」だったのである。

 

 「レッツゴー!! ライダーキック」(作詞:石森 章太郎)

  迫るショッカー 地獄の軍団
  我等をねらう 黒い影
  世界の平和を 守るため
  ゴー ゴー・レッツゴー 輝くマシン
  ライダー「ジャンプ!」
  ライダー「キック!」
  仮面ライダー 仮面ライダー
  ライダー ライダー

  迫るショッカー 悪魔の軍団
  我が友ねらう 黒い影
  世界の平和を 守るため
  ゴー ゴー・レッツゴー 真紅のマフラー
  ライダー「ジャンプ!」
  ライダー「キック!」
  仮面ライダー 仮面ライダー
  ライダー ライダー

  迫るショッカー 恐怖の軍団
  我が町ねらう 黒い影
  世界の平和を 守るため
  ゴー ゴー・レッツゴー 緑の仮面
  ライダー「ジャンプ!」
  ライダー「キック!」
  仮面ライダー 仮面ライダー
  ライダー ライダー

 

 予備知識なしに『仮面ライダー』のオープニングを見た人は首をひねるかもしれない。荒れ地を走るオートバイがまっすぐこちらへ向かってくる。丸い輪郭に丸い目の仮面が大映しになる。愛嬌のある造形だが、濃緑のマスクは陰鬱で牙は怪物めいている。そこに〈迫るショッカー〉と歌が流れる。〈ショッカー〉というのは、こちらに迫ってくるこのマスクの怪物のことだろうか。『巨人の星』の「重いコンダーラー」と同様、映像に同期する歌詞をキャプション的に理解したものである。

 仮面の大映しにタイトルが重なり、あとはひたすらオートバイを操縦している映像が続く。正義の味方である月光仮面はスーパージャイアンツゆずりの白づくめだったが、この丸顔の怪物は黒づくめである。番組を見るうちに、この怪物はショッカーではなく、仮面ライダーという名であることがわかる。当時の子どもはまだ、ライダーという語とオートバイ乗りという意味とが結びつかない。言葉の意味が伝わらないため、ライダーを仮面の男の固有名だと錯覚する。

 

 歌詞について見ていこう。

 歌詞が3番まであるうち、どれも始まりの言葉は〈迫る〉である。〈迫る〉というのは目標の近くまで来つつあるということで、勢いを感じさせる言葉だ。だが、どこに〈迫る〉というのか。文頭で唐突に〈迫る〉と言われてもそれがどこに向かっているものなのかわからない。しかしすぐ〈我等をねらう 黒い影〉とあるから、どうも〈我等〉のほう、視聴者である私たちのほうに矢印が向いていることがわかる。

 ショッカーは私たちに迫っている。まだその姿は見えるか見えないかである。〈地獄の軍団〉という情報だけはある。〈我等をねらう 黒い影〉ともあって、正体ははっきりしないが、来てほしくない連中であることは確かだ。わずかな情報をふくらませて想像する時間が一番怖い。この〈影〉というのは影法師のことではなく、人の姿かたちのことである。『金田一少年の事件簿』の「犯人の犯沢さん」が文字どおり〈黒い影〉である。

 〈我等をねらう 黒い影〉であって〈ぼくらをねらう 黒い影〉ではない。歌詞に〈ぼくら〉が入るととたんに世界観が甘くなる。ここでは〈我等〉とあるので、子どもだけでなく、大人も含めた社会全体が狙われているのである。子どもだけを狙っているのなら大人に守ってもらえばいいが、そういうわけにはいかない。普通の大人を超える存在が必要とされる。仮面ライダーへの期待値がここで高められる。

 実際、ショッカーは大人を狙う。社会を混乱させるには大人をあやつらなければならない。子どもは特有の好奇心をもって大人の周りをうろちょろするから、人質になったりして事件に巻き込まれる。子どもは大人を動かすために利用されることはあるが(ショッカーに操られると目の周りが黒くなる。怪人が倒されると催眠が解けるというパターン)、子どもじたいを狙っているわけではない。だから〈ぼくらをねらう 黒い影〉ではなく、〈我等をねらう 黒い影〉なのである。

 ちなみに「ウルトラマン」では〈光の国から ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン〉とあるように、〈ぼくら〉と〈我等〉が混在している。〈ぼくら〉と言ってはみたものの、〈我等〉と言い直している。〈ぼくら〉は〈我等〉に含まれる。〈ぼくら〉だけの世界ではなく〈我等〉も含まれた世界である。

 ショッカーは、〈地獄の軍団〉〈悪魔の軍団〉〈恐怖の軍団〉というように様々に形容されるが、いずれも〈軍団〉の比喩で語られている。〈迫る ショッカー〉というのは軍隊なみの集団が押し寄せているということである。〈我等〉の社会を狙うので大規模な侵攻である。〈我等〉と規模が対応しているのが〈軍団〉であるる。

 物語の中では、大軍が一度に押し寄せて来るわけではなく、なぜか怪人は一体づつ小出しに出てきている。一人の怪人に対応するのは〈我等〉の中から選ばれた一人、あるいは1グループである。〈我等〉の中から特定の個人が標的にされる。怪人は個人の身近に忍び寄る。

 ライダーがアジトに乗り込む場合は、町道場(アジト)に殴り込んできた仮面ライダー(道場破り)に抵抗する師範(改造人間)と道場生たち(戦闘員)という感じになっている。アジトは分散されている。軍団とはいっても分散されているからライダー一人でも戦うことができる。しかし、ライダーが戦うのは、気まぐれな個人や小集団のグループではなく、軍隊並みの秩序をもったそれなりの大きさの組織である。そのため、執拗に、途切れることなく戦いが続けられる。

 ナレーションでは、ショッカーは「世界征服をたくらむ悪の秘密結社」と言われている。秘密結社といえばフリーメイソンとかテンプル騎士団をイメージするが、それらの構成員は各地にネットワークとして分散しており、意図も不分明で手段も迂遠で媒介的であり、直接行動はせず背景の黒幕として存在する。だからこそ秘密が保たれた謎の組織になっている。一方、ショッカーはいつも集団でまとまり、目的達成のために直接的な行動をとり、人前に姿をさらすことも厭わない。なるべく人々に気づかれないようにこっそり行動するものの、露見しても暴力的に解決するので隠れることに気を使いすぎることはない。

 仮面ライダー』の世界ではマスメディアはあまり発達していないか、あるいは悪事に勘づいた記者はすぐ消されてしまうようで、ショッカーという組織の全容が世間に暴かれることはない。また、警察も交番の巡査が事件に巻き込まれるくらいで、組織だって解明しようとしない。事件は公的なものにならず、本郷猛の探偵まがいの行動により、あくまで個人的な奇妙な出来事として解決されるだけだ。本郷も、ショッカーの組織を調べ上げてそれを根絶やしにするつもりはなく(一人だけでそんなことはできない)、対症療法的に行動するだけである。決まり文句は「出たなショッカーの改造人間」で、向こうから出てくるのを待っている。ショッカーは世間に認知された犯罪組織ではなく、噂話的な〈黒い影〉である。〈黒い影〉の暗躍に対抗できるのは、非公式に動ける別の〈黒い影〉、それが黒づくめの仮面ライダーである。

 ショッカーは毎回個性的な怪人(改造人間)が登場するがその手先になって動くのが無数の戦闘員である。彼らは覆面(最初期は顔の装飾)をかぶり、一律の戦闘服(骸骨模様の黒タイツ)に身を包むことで個性を消されている。個人間の身体能力の差に目立った違いはない(科学者は白衣を着用している)。並の成人男性よりは強いが武道の達人よりは弱いレベルである。仮面ライダーの動きを阻止することはできないが邪魔する役には立つ。うざい連中で、いわゆるザコである。こういう連中は時代劇のチャンバラでもよく登場した。のちの『スターウォーズ』には帝国軍の歩兵ストームトルーパーが出てくるが、こちらは武装しているぶん強い。

 怪人は首領の意向に沿って自分の特殊能力にあった計画をたて(蝙蝠男なら人間を吸血鬼に変えて操ろうとする)、戦闘員とともに実行していく。シリーズの中盤から、ゾル大佐、死神博士地獄大使といった大幹部が出てくるようになり(博士とか大使とか大佐とか肩書きはバラバラだが、なにか偉そうな感じがすればよいのだろう)、組織内の階級性が強化された。怪人が特殊能力をもっているということは、怪人は技術者であり、その行動は自分で判断できる部分が相当あったと思うが、組織性が強調されることで、怪人は命令を受けてこなすだけの組織の一員にすぎないとされ、怪人の実存的な魅力は描かれることはなかった。

 

 次に、〈我等をねらう 黒い影/世界の平和を 守るため〉というときの〈世界〉について考えてみたい。

 仮面ライダー』の3クールめ(第26話)から番組強化策としてゾル大佐が登場する。ショッカー中近東支部から日本支部へ派遣された大幹部で、ゾル大佐の登場によりショッカーの組織のスケール感が拡大され、「首領 - 大幹部 - 怪人 - 戦闘員」といった組織構成が確立された(ウィキペディアゾル大佐」の項)。

 ショッカーは世界各地に支部があり、幹部ばかりでなく、優れた能力をもつ怪人も海外から呼び寄せられることがある。グローバルに活動している組織である。ショッカー怪人の出身地はメキシコとかアマゾンとかの中南米、アフリカ、ニューギニアなど南太平洋の島々が多い。どうもそういった辺境に妖気が満ちていると思われているようだ。http://tadahiko.c.ooco.jp/LISTCOLE/001-SHOCKER.HTML

 一方、仮面ライダーは、1号も2号も、脳改造手術の手前で運よく逃げ出せたことにより偶然誕生した反逆者なので、他の国でも同様にライダーが存在しているとは思えない。仮面ライダーが仲間を増やすなら、仮面ライダーV3のように自分たちで改造人間を作るしかない。仮面ライダーはショッカーのバグとして日本にだけ特異に存在している。ショッカーが世界的なネットワークを持っていることをほのめかしているのがFBI捜査官である滝和也の存在である。アメリカでもショッカーは暗躍していたのである。滝はなぜか、長期間にわたり、日本で仮面ライダーのアシスタントをしている。

 仮面ライダーは東京近郊を主な舞台として戦っているが、日本の各地へ出向くこともある。第71話の予告では次のようにナレーションされている。

「さて次回は地方ロケシリーズ第1弾、神戸有馬六甲山を舞台にメキシコの怪人アブゴメスとライダーの大追跡。特に高さ130メートルで行われる六甲ロープウェーでの大アクションはスリル満点だよ。次回、怪人アブゴメス六甲山大ついせき! 抜群の迫力だよ、見てね」

 番組としては、地方ロケは視聴者サービスであろう。だが、ここからは、日本に仮面ライダーは一人しかいないが、必要とあらば地方にも赴き、日本全体を守っているのだというメッセージが伝わってくる。番組では、1号ライダーから2号ライダーへ、そしてまた新1号ライダーへと入れ替わるが、そのとき、1号はショッカーを追ってヨーロッパへ、2号は南米へ旅立ったとされる。ヨーロッパのショッカーは少ないだろうが、南米からはショッカーの怪人が次々送り込まれてくるので、ショッカーの巣窟になっているかもしれない。2号が南米に旅立つのもわかる。

 だが、1号や2号が海外で戦う姿が放送されるわけではない。視聴者の実感としては、立花藤兵衛が経営するスナックを中心とした日本の片隅で戦っている印象である。スパイダーマンがニューヨークという街のヒーローであると同じように、仮面ライダーも「街のヒーロー」といっていいだろう。ライダー側の勢力は微力で、組織化されておらず(少年ライダー隊!)、ショッカーとは非対称である。

 歌詞の2番3番からもそれはよくわかる。〈我が友ねらう 黒い影〉〈我が町ねらう 黒い影〉となっていて、身近な友人や日常生活をおくる町を守っている。歌詞は〈世界の平和を守るため〉と続くが、そのような〈我が町〉を守ることがどうして〈世界の平和〉を守ることにつながるのか。それは飛躍だろうか。

 地球を守るという歌詞はヒーローソングにはよくある。『マグマ大使』では〈地球の平和を まもるため〉と歌うが、マグマ大使は地球の創造主が造ったもので、宇宙から来た敵と戦うので、地球を守るというのはそのとおりだろう。『科学忍者隊ガッチャマン』の当初の主題歌「倒せ! ギャラクター」では〈太陽輝く 地球を守れ〉と歌う。敵のギャラクターは地球規模の災害を起こし、ガッチャマンはゴッドフェニックスに乗って世界のどこにでも赴くから、これも地球を守っている。『バビル2世』は、〈地球の平和を まもるため/三つのしもべに 命令だ〉と歌う。主人公はバベルの塔を造った宇宙人の子孫で、世界の各地でグローバルな戦いをしている。マグマ大使ガッチャマンバビル2世のように長距離飛行が可能な乗り物があれば、遠くの異変を感知して赴くことができる。ただ、「守る」とはいうが、自衛というより反撃である。また、地球を守るとはいっても、人間の文明を守るということである。

 一方、仮面ライダーが活躍するのは、オートバイで短時間で移動可能なエリアに限られる。ライダーは長距離を高速移動できるマシンを持っていないので、海外に日帰りで遠征するわけにはいかない。ショッカーが近づいてくるのを待つだけである。〈迫るショッカー〉をその都度、迎え撃つのがライダーの戦いである。ショッカーは全国どこでも悪事をはたらくことができるはずだが、基本、ライダーの近くで悪事をはたらく(ライダーをおびきだす意味もある)。仮に遠くの街で異変が起きても、たいていの場合、ライダーは知りようがない。だからライダーが〈我が町〉を守るというのはよくわかる。だが、さすがにそれを拡大して〈地球を守る〉とは言い難い。〈日本を守る〉というのも難しい。ライダーは殴ったり蹴ったりの接近戦で目の前の敵を倒すので、広い地域を守備範囲にすることはできない。たまに出張試合をするていどである。世界はおろか、日本の各地に仮面ライダーの仲間のネットワークがあるわけではないし、個人で行動しているから「面」での守備は無理で、「点」で勝負をしている。ショッカーは世界各地の怪人を関東近郊に呼び寄せている。ライダーの存在じたいがショッカーを呼び寄せている。ライダーが存在する限り、ショッカーはライダーの拠点(立花藤兵衛のスナックがある町)を攻略することに力を注いでいくであろう。このため「点」の戦いにも意味がある。

 いずれにせよ、「レッツゴー!! ライダーキック」にあるように〈世界の平和を守る〉というのは無理である。仮面ライダーローカルヒーローなので世界の国々を守れるわけがない。ではこの歌詞は間違いなのかというとそうでもない。〈世界〉という語は多義的である。辞書には主な意味が、次のようにある

 

 1 地球上のすべての地域・国家。「―はひとつ」「―をまたにかける」

 2 自分が認識している人間社会の全体。人の生活する環境。世間。世の中。「新しい―を開く」「住む―が違う」(デジタル大辞泉)。(3以下省略)

 

 ここで「2」の意味ならば、〈世界の平和を守る〉ことと〈我が町〉の平和を守ることとは矛盾しない。〈世界の平和を守る〉というときの〈世界〉は「1」の意味であるのだろうが、「2」の意味も持っていることによって、町内的な日常世界を活躍の舞台としている仮面ライダーであるにもかかわらず、歌詞はそのまま理解できるのである。もし仮面ライダーが〈地球の平和を守る〉と言えば、それは誇張が過ぎるが、〈世界の平和を守る〉というなら、受け入れられるのである。

 等身大ヒーローの仮面ライダーにとって、〈我が町〉が行動可能な〈世界〉である。巨大怪獣とウルトラマンの戦いであれば、影響範囲は〈我が町〉だけにはとどまらない。広域で警戒が必要になる。だがショッカーが対象とするのは各個人であり、影響範囲も限られている。『仮面ライダー』では日本各地にロケに行くが、それはライダーが日本全体を守ることにはつながらない。ロケ先が〈我が町〉となり、ライダーはその〈世界〉を守るのである。ロケ先が増えても、それは〈我が町〉が日本中に拡大したということではない。〈我が町〉はライダーが存在する場所に、その都度、点として存在するだけである。

 〈地球〉と〈世界〉の違いは、〈世界〉のほうが思弁的で、その範囲や地点が融通無礙である。ある人にとって想像の及ぶ範囲が、その人がその一部である〈世界〉である。

 

 さて、〈迫るショッカー〉に対して、仮面ライダーは〈ゴー ゴー レッツゴー〉と向かっていく。〈迫る〉と〈ゴー ゴー〉は、「来る」と「行く」で、セットなのである。

 アニメや特撮の主題歌では、力強さや景気よくするために〈ゴー ゴー〉がよく使われる。思いつくものを発表年順に並べてみた。

 

・マッハ ゴーゴー/マッハ ゴーゴー/マッハ ゴーゴーゴー(「マッハゴー・ゴー・ゴー」1967年)

スペクトルマン スペクトルマン/ゴーゴーゴーゴー ゴゴー(「スペクトルマン・ゴーゴー」1971年)

・チェインジ チェインジ/ゴーゴゴゴー ゴゴゴー(「ゴーゴー・キカイダー」1972年)

・ゴーゴー トリトン/ゴーゴー トリトン/ゴーゴーゴーゴーゴー トリトン(「GO! GO! トリトン」1972年)
・ゴー ゴゴー/五つの力を 一つに合わせて(「進め! ゴレンジャー」1975年)

 

 「レッツゴー!! ライダーキック」は発表順では「スペクトルマン・ゴーゴー」の次になる。「ゴーゴー・キカイダー」と「進め! ゴレンジャー」はライダーと同じ石森章太郎の作詞である。

 タイトルを見るとよくわかるが、〈ゴー〉は1回ではなく、〈ゴー ゴー〉と2回繰り返されるのが基本である。歌では、「マッハゴー・ゴー・ゴー」や「GO! GO! トリトン」のように、2回繰り返したあと、締めでは3回以上繰り返されることがある。「スペクトルマン・ゴーゴー」や「ゴーゴー・キカイダー」などは〈ゴー〉が執拗に繰り返されるが、これは歌詞の穴埋めのように使われたとも考えられる。

 〈ゴー ゴー〉は日本語で言えば〈行け行け〉ということになろう。

 

・ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ(「ゆけゆけ飛雄馬」1968年)

・行け! 行け! タイガー タイガー/タイガーマスク(「行け! タイガーマスク」1969年)

 

 〈行け行け〉も2回重ねになっているのが面白い。また、〈ゆけゆけ…どんとゆけ〉という語の構成は、〈ゴー ゴー レッツゴー〉に似ている。3回めの繰り返しで、さらに拍車をかけている。

 〈レッツゴー〉についてもう少しふれる。「Let’s go.」は、「さあ行こう」「一緒に行こう」ということで、話し手が、その場にいる相手に一緒に行こうと促すことである。

 仮面ライダー』の始まった1971年当時は「レッツゴー」という言い方が流行っていた。

 

  レッツゴー! 若大将(映画、1967年公開)

  レツゴー三匹(お笑いトリオ、1968年結成)

  レッツラゴン赤塚不二夫の漫画、1971年連載開始)

  レッツゴーヤングNHK音楽番組、1974年放送開始)

 

 67年の映画の題名に採用されるくらいなので、60年代半ばにはみんな気軽に「レッツゴー」と口にしていたのだろう。

 〈迫るショッカー〉に対して、〈ゴー ゴー〉と立ち向かう仮面ライダー。この段階では両者はまだ直接向き合っていない。お互い激突して戦いが始まるのは次の段階である。それを実況したのが、〈ライダー「ジャンプ!」/ライダー「キック!」〉である。

 仮面ライダーのキャラ造形は月光仮面によく似ている。オートバイに乗る。マフラーをしている。マスクをしている。だが決定的に違うところは、仮面ライダーがライダージャンプやライダーキックのように肉弾戦をするのに対し、月光仮面は二丁拳銃という飛び道具を使うことだ。敵も銃を持っているが、月光仮面のほうが射撃の腕前が上である。しかも二丁持っている。月光仮面は奇抜な衣装に身を包み、「月よりの使者」を名乗ったりするが、射撃が得意で危険な現場に飛び込む勇気があれば誰でも月光仮面になれそうである。

 一方、ライダーキックは仮面ライダーにしかできず、他の誰かと代替不可能である。当時、キックボクサー沢村忠を主人公にしたマンガ『キックの鬼』が人気があり、アニメ版は『仮面ライダー』放送開始の直前まで放送されていた。ライダーキックがとっておきの技でありえたのは、当時、キックには、それで何でも粉砕できるという神話的な力があったからだろう。ブルース・リーの映画によってカンフーがブームになるのはまだ2年先である。

 

 〈ゴーゴー・レッツゴー 輝くマシン〉とあるが、ここになぜ〈輝くマシン〉が入るのだろうか。

 〈輝くマシン〉というのは改造オートバイのサイクロン号のことだ。それまでの歌詞の中で、初めて、仮面ライダーに直接関わる要素が出てきた。

 初代の仮面ライダーに変身ポーズはなく、オートバイに乗っているときに風を受けてベルトの風車がまわり変身する。〈輝くマシン〉が出てきたということは、ここで仮面ライダーに変身したということではないか。つまりこの歌詞は番組の流れをなぞっているのである。歌詞の流れは、ショッカーが忍び寄る、本郷猛が現場へ行く、バイクで変身する、ライダーキックをお見舞いする、仮面ライダー万歳、そういう一連の流れになっていて、番組の展開がそのまま歌詞に歌われているのである。(最後に〈仮面ライダー 仮面ライダー/ライダー ライダー〉と連呼するのは、ヒーローを称賛しているのである。)

 少し戻って〈輝くマシン〉について考えてみよう。〈輝く〉とは何なのか。2番、3番の歌詞では相当する場所に〈真紅のマフラー〉〈緑の仮面〉とあり、共通するのは色彩なので、1番の〈輝く〉も色彩に関わる表現ということになる。サイクロン号はフルカウルだが、ホイールやマフラーは金属の光沢があるので〈輝くマシン〉に見えるのは間違いない。〈輝く〉には、誇らしいとか素晴らしいといった比喩的意味もあるので、それも含意されているだろう。

 〈輝くマシン〉がライダーに対応する表現だとすれば、ショッカーに対応する表現は〈黒い影〉である。輝きに対して黒い影と対照的である。

 石森章太郎は「戦え! 仮面ライダーV3」の歌詞も書いているが、そこでは1番から3番の出だしは、それぞれ〈赤い赤い 赤い仮面のV3〉〈青い青い 青い車のV3〉〈白い白い 白いマフラーV3〉となっていて、色から連想をはじめている。また「進め! ゴレンジャー」は5つの色が歌詞に織り込まれている(これはプロデューサーの要望によるものとウィキペディアには書いてある)。キャラクターは色別にすると違いがわかりやすくなる。

 続いて、2番の〈真紅のマフラー〉、3番の〈緑の仮面〉について考えてみたい。

 仮面ライダー1号と2号は〈真紅のマフラー〉を首に巻いている。なぜ赤色なのか。当時のヒーローはマフラーを巻いていることがよくあった。色は白や赤が多い。ライダーは上半身前面のプロテクターが青緑色であるほか、全身が黒っぽく地味である。その中で赤いマフラーは華やかさを演出している。マスクとプロテクターなどが青緑色なので、補色の組み合わせになったともいえる。

 赤い頭巾をかぶる女の子を「赤ずきんちゃん」と呼ぶからといって、ライダーのことを「赤マフラー」と呼ぶことはできない。〈真紅のマフラー〉は隣接関係に基づく換喩になるほどライダーの中心的な特徴にはならない。しかし際立つ差異にはなっている。グローブとブーツについては、1号は青緑からシルバーに変わり、2号は青緑から赤に変わったが、マフラーはどちらも赤のままだった。一方、6人のショッカーライダー(偽ライダー)は、マフラーは色とりどり(黃白緑青紫桃)で、グローブとブーツは共通の黄色をつけていた。本物のライダーにとって、グローブとブーツの違いはアイデンティティに関わらないが、マフラーの色は変えられないものであることがわかる。マフラーは体の中心に近い位置にある。同じ色のマフラーは、1号も2号も同じ意志を持つことの換喩なのである。

 逆にショッカーライダーはマフラーの色はバラバラで、グローブとブーツという端部は揃えられていた。端部の統一は統制がとれていることを示しており、マフラーの差異は識別のためであるが、それはショッカーライダーは外見の統制とは裏腹に内面において共有するものがないことを示している。

 〈真紅のマフラー〉は仮面ライダーとして変わることのない特徴である。作詞時もそのことは直感的に把握されていたから〈緑のブーツ〉や〈緑のグローブ〉という歌詞はありえず、〈真紅のマフラー〉が選ばれるのである。

 歌詞の3番は〈緑の仮面〉である。〈仮面〉のあり様のほうが〈マフラー〉より仮面ライダーの特徴を表現しているので、先に歌詞の2番に使ってよさそうなものだがそうなっていない。おそらく色名に問題があったのではないか。仮面ライダーのマスクには色や形状に変遷があるが、最初期のものは、色については緑というより濃い青緑色であり、それを〈緑の仮面〉というのはやや無理があった(後の映画『仮面ライダー THE FIRST』では1号は青色に解釈されて造形されている)。そういう形容詞し難い色であれば、あえて〈緑の仮面〉などと言わないで、〈正義の仮面〉とでもすればよかっただろう。実際、エンディングの「仮面ライダーのうた」(作詞は八手三郎)では〈仮面ライダー 正義のマスク〉となっている。2番の歌詞で〈真紅のマフラー〉と書いたので、3番は色つながりで〈緑の仮面〉と書いたのかもしれない。〈緑〉には、たんにマスクの色というだけではなく、緑つまり自然からの使者という意味も込めているのであろう。石森章太郎のマンガ版では、ライダーは自分のことを「大自然がつかわした正義の戦士」と名乗っている。