Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

ラララのアトム、ルルルのジョー(その1)アトム編

 

谷川俊太郎が書いた「鉄腕アトム」の歌詞

 谷川俊太郎の詩のアンソロジー『いつかどこかで 子どもの詩ベスト147』(集英社文庫、2021年)収録作品中、一番ページ数をとっているのが「みみをすます」(1982年)である。長さもそうだが、質からいっても本作がこのジャンルでの谷川の代表作といっていいのではないか。「みみをすます」という澄んだ緊張感のある響きから始まる詩はすばらしいと思っていて、この本を親戚の子どもにプレゼントしたことがあった。

 谷川はどこからこの「みみをすます」という言葉を見つけてきたのだろうと思っていて、ふと『鉄腕アトム』の主題歌を口ずさんだときにそれがわかった。『鉄腕アトム』は1963年から放送された、日本初の本格的なテレビアニメシリーズである(手塚治虫の漫画は1952年連載開始)。その31話から使用された主題歌の作詞に、詩人の谷川が起用された。60年ほど前だが、その後もアニメ化されたときにこの主題歌は使用されたし、アニメソングの原点となる作品なので知らない人はいないだろう。

 その歌詞の2番はこうなっている。

〈耳をすませ ラララ 目をみはれ/そうだ アトム 油断をするな〉

 ここに〈耳をすませ〉が出てくる。これが初出ではないだろうか。谷川の他の作品を調べてないのであてずっぽうではあるが、そうなら面白い。

 ところで、アトムの歌で〈耳をすませ〉に対応させられているのが〈目をみはれ〉である。これはちょっと違和感がある。「目を見張る」というのは、目を大きく見開くことであるが、これは驚いたり感心したりしたときにとる様子である。他の漢字では「瞠る」であり、熟語では「瞠目」である。「目を見張る」は慣用表現なので、それを命令形にすることは規格外の用法である。この場合は〈目をみはれ〉と命令形になっているが、目を見張るのは不意の出来事に驚かされることなので、他人に驚けと命じられて驚くことではない。

 ものをよく見るときは、目を見開くのではなく、逆に目を細める。カメラの絞りと同じで、光量を少なくすることで焦点深度が深くなる。この歌では、アトムに〈油断をするな〉と言っている。つまり五感を働かせて周囲を警戒せよと言っている(ロボットだから味覚、嗅覚、触覚はなさそうなので残りは二感か)。〈耳をすませ〉に対応する言葉は「目をこらせ」のほうがふさわしいのではないか。だが目をこらすというのは一点を注意深く見つめるという意味である。アトムは全方位に注意を怠ってはならないので、事前にターゲットが定まっているのでなければ、目をこらすだけでは不十分だ。(驚いて「目を見張る」場合も、一点を見つめる感じになる。)

 おそらく谷川は「見張る」ことからの連想で〈目をみはれ〉としたのだろう。「見張る」には、目を大きく開いて見つめることと、見渡して番をする、という二つの意味がある(『角川国語辞典』)。だから〈耳をすませ ラララ よくみはれ〉とでもすれば、すっきりした意味になっただろう。けれど〈耳を/目を〉と対語にしたために、警戒の意味の「見張る」が、「目」と結合して、驚くという意味を生じさせてしまったのである。だから〈目をみはれ〉という歌詞を理解するには、これは「目を見張る」という慣用表現ではなく、〈目〉と〈みはれ〉という語は分けて考え、後者のもつ「見渡して番をする」という意味で理解せよということになる。歌詞にどうしても〈目〉を入れたかったのは、アトムの顔は大きい目が特徴だからかもしれない。アトムが目を細めているのは様にならない。また、後に述べるようにアトムの目はサーチライト付きだから、〈目をみはれ〉というのはアトムの用語法で、「目をサーチライトのように用いよ」ということ……なのかもしれない。

 さて、ロボットアニメの歌では、例えば『マジンガーZ』の〈とばせ鉄拳ロケットパンチ 今だだすんだブレストファイアー〉のように、武器の名前が叫ばれる。だがアトムの歌では、武器ではなくロボットの高い性能が称揚される。それは何かというと〈ジェット〉である。アトムの歌詞で〈空をこえて ラララ 星のかなた/ゆくぞ アトム ジェットの限り〉というのがそうである。

 アトムの両足は、空を飛ぶことができるジェット・エンジンを装備している。アトムの身体能力として第一にあげるべき能力が、ジェットの機能なのである。もちろん人工頭脳搭載なので頭はいいし、鉄腕というくらいだから力は強いのだけれど、スピードがあるというのが第一に掲げられるのである。敵を破壊する力があるだけではたんなる乱暴者だが、そうではなく、逃げたり撹乱させたりするために軽快な移動が役に立つのである。

 歌詞でも〈空をこえて ラララ 星のかなた〉〈町角に ラララ 海のそこに〉とあるように、場所を頻繁に素早く移動できることがアトムの特徴である。そうしたことを可能にするのが〈ジェット〉の力なのである。

 実は6,70年代というのは、不思議なパワーを持つものとしてジェットが流行った時期でもある。「少年ジェット」(1959年)「スーパージェッター」(1965年)などは、場所を早く移動できることが問題解決につながっていることを示すネーミングであるし、『サイボーグ009』(1964年)で、009の秘密兵器である加速装置は、スピードを増幅させる機能のことである。敵を攻撃し破壊するのではなく、正面からの戦いを避け、思いもかけない素早い行動で敵を煙にまくのである。武器の強力さを誇るよりスピードがあるほうが選ばれている。サイボーグ002はジェットという名前で、アトムのように空を飛ぶ。アトムの続編は『ジェッターマルス』(1977年)というアニメで、アトムそっくりの少年型ロボットが主人公だ。手塚治虫の『マグマ大使』(1965年)はテレビ版の歌詞に〈ジェット気流だ 新兵器〉とあるように、マグマが腕をぶんぶんまわすことでジェット気流が起こる。『ウルトラマン』(1966年)の科学特捜隊は〈自慢のジェットで敵をうつ〉とあるようにジェットビートルが主力機で、『マジンガーZ』(1972年)でマジンガーZがパワーアップするとき用意されたのは空飛ぶ翼ジェットスクランダーと、移動式の操縦室ホバーパイルダーの後継機はジェットパイルダーである。とにかく名前になんでもジェットをつけるとカッコよく強そうに聞こえる、そういう時代だったのである。

 歌詞にもあるアトムの「7つの威力」は、時期によって設定に変化があるが、1963年のアニメ版では、「電子頭脳、人工声帯、1000倍の聴力、サーチライト付きの目、原子力の動力、足のジェット、お尻に装備されたマシンガン」である(ウィキペディア参照)。これらのうち攻撃オンリーの武器はマシンガンだけで、あとは人間の能力を拡張させて比喩的に置き換えたものである(手塚治虫はアトムを破壊マシンにするのを嫌った)。〈耳をすませ ラララ 目をみはれ〉という歌詞も、上記の7つの威力を作動させたものであるが、劇中でもっとも効果的に使用されるのが足のジェット噴射である。7つの威力のなかに何故か「腕力があること」が入っていない。それは鋼鉄のロボットとして当然だからであろうが、〈心やさし〉いアトムの強さを強調したくないのであろう。そもそもアトムは物体として小さく軽量級なので、他のロボットとプロレスをするには不利である。パワーを増強することを競い合うのではなく、すばしっこく動いて敵の弱点や隙を見つけるほうがいいだろう。

 2番の歌詞、〈耳をすませ ラララ 目をみはれ/そうだ アトム 油断をするな〉と、3番の歌詞、〈町角に ラララ 海のそこに/今日も アトム 人間まもって〉は、1番の躍動感のある歌詞とは雰囲気が異なっている。2番と3番は、要するに油断しないで人間を守れということである。〈耳をすませ、目をみはれ、油断をするな〉というのは命令である。〈人間まもって〉というのも、明確に言えば「人間を守れ」という命令であろう。アトムはロボットであり、ロボットは人間のために作られたのだから命令されているのである。人間とロボットは対等な存在ではない。ところが3番には〈みんなの友だち 鉄腕アトム〉とあって、友達という対等な関係であると言っている。人間の下僕なのか友人なのか。この矛盾はアトムの悩みでもある。

 鉄腕アトムは子どもの体型である。それは何故なのか。天馬博士が事故で死んでしまった息子トビオそっくりにロボットを作ったから子どもなのであるが、なぜそういう設定にしたのか。違う言い方をすると、アトムはなぜ小さいロボットなのか。おそらく大きいロボットであれば、脅威を感じてしまうからであろう。日常生活の中に溶け込んで、親しみやすいロボットであるために小さく設計されたのである。(『鉄腕アトム』の原型である『アトム大使』では、アトムは、地球人と宇宙人という二項対立を和解させる媒介的存在である。少年でありロボットであるという非中心的な存在であることから、その役割を担わされたのだろう。)

 また、アトムは人工頭脳を持っていて自律型である。つまり自分の判断で行動することができる。これは、人間のいうことをそのままきかない可能性があるということである

。反抗はしなくても、人間の命令を誤解して受け取る可能性もあるし、命令に対して非人間的な過程により判断をする可能性もある。これは今のAIに対する恐れと同じである。自律型のロボットはそれだけで脅威である。

 アトムはフランケンシュタインのモンスターの流れをくんでいるが、このモンスターも死体を寄せ集めた人造人間で、自分で判断し、行動し、結局は人間に対して敵対的な行動をとるようになる。人工頭脳もそうだが、人間の作ったものには完全なものはないという古今東西共通するテーマがある。あるいは完全なものであっても、人間を基準にしないで、人間を害悪とみなして排除するというのもお決まりのパターンである。人間は自分が作ったものについて無意識のうちで恐怖を抱いている。映画の『ウエストワールド』(1973年)も『ジュラシック・パーク』(1993年)も、人間はいくら高度な科学技術を持っていても、造物主としては十分であることをテーマにしている(いずれもマイケル・クライトンが原作)。

 もし自律型のロボットが大きかったら脅威もおおきくなる。鉄人28号やマジンガーZガンダムは自分だけで勝手に動くことはない。人が操縦しなければ動かないようになっている。人が作るものは不完全なので、自律したものを作ると暴走する。暴走したら手に負えない。だから魂を抜いておく。エヴァンゲリオンも人が操縦するが、そのものの魂が残っていたので暴走するのである。人間は自律型ロボットに恐怖を感じている。だからアトムにいろいろ命令する一方で、それは命令ではなく友情でそうしてほしいと、〈友だち〉として受け止めてほしいと期待しているのである。

 鉄腕アトム』は最初期のロボット漫画なので、アトムは素直なお利口さんに造形されているが、少し時代がたつと「反アトム」とでもいうべき反逆児たちが登場する。それが『Dr.スランプ』(1980年)のアラレちゃんや『AKIRA』(1982年)のアキラである。アラレちゃんも自律型で子どもの形をしたロボットであるが、大人の思惑通りには動かず、トラブルばかり引き起こす。アキラは人間だが、軍の研究施設で能力を開発されたモルモットである。アキラも大人の手に負えず暴走してしまう。アトム、アラレ、アキラといずれも3文字で語頭に「ア」がつくのは偶然ではないだろう。アトムは歌では〈心やさし、心ただし、みんなの友だち〉と人間にとって脅威ではないことが繰り返されるが、それは不安の裏返しでもある。アトムはいつアラレやアキラになるやもしれぬ。歌という呪文によってアトムが暴走しないように抑え込んでいると、聞き手に安心感を与えているのである。〈心やさし ラララ 科学の子/十万馬力だ 鉄腕アトム〉と歌われる。気持ちが優しいこと、科学技術の精華であること、とてもパワーがあること。これらは本来なんの因果もないことであるし共存が難しいものである。バラバラなことを3つ並べているのは、アトムという存在が、人間に都合よくバラバラなものが統合されるよう望まれていることを示している。アラレちゃんは自分勝手だし、アキラは科学の子ではなく超自然の子で科学的に制御できない。だがアトムは、どれもがほどほどなのである。

 最後に、アトムのジェットの機能に関わることで、もう一つ気になることを述べておく。

 よく知られた冒頭を再度確認してみよう。〈空をこえて ラララ 星のかなた/ゆくぞアトム ジェットの限り〉となっている。たいていの人はここに何の違和感もないだろう。だが、〈空をこえて〉というけれど、空というのは越えられるものなのだろうかと、ふと疑問に思ったのである。山を越える、峠を越える、海を越えるとはいうが、空を越えるとはどういうことなのか。

 何かを「越える」ためには、そこに区切りがなければならない。山や海は境界に幅を持ちながらも、ある範囲として区切ることができ、富士山とか日本海といった固有の名付けをするように分割することができる。それらを「越える」ことは可能である。ところが、空はあまりにのっぺりとしていて境界がなく、特定の範囲で区切ることができない。領空権というのはあるが、それは地上の権利を空に延長したもので、空じたいに目印があって区切られたものではない。

 ネットには「あの空をこえて」という用例が見つかったが、範囲が曖昧であっても「あの」と特定されれば「越える」ことは論理上可能である。だが、たんに〈空をこえて〉というだけだとどうなのか。

 歌詞は〈空をこえて〉の後は〈星のかなた〉と続いている。アトムは〈空をこえて〉〈星のかなた〉へ行ったのである。空を地表と並行した空間と考えていたから区切りはないと思っていたのだが、垂直方向で考え、地球の大気圏(=空)を越えて宇宙空間に出ていったということであれば、空にも区切りが生じるので、「越える」ことができそうである。アトムの小さなジェットで大気圏を突破できるか心配だが、そこは詩的誇張である。また、ジェットエンジンは外部から空気を取り込む必要があるから宇宙空間で役に立たなくなるのではと思ったが、ウィキペディアには、足のジェットエンジンは、「宇宙空間ではロケットに切り替わり最大マッハ20で飛ぶ」と書いてあった。(https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄腕アトム#アトムの7つの威力)やはり「ジェット」というのは不可思議な威力のある装置というほどの意味なのであろう。〈空をこえて〉と〈星のかなた〉のつながりが〈ラララ〉で遮られていたからわかりにくかったのだ。アトムは〈ラララ〉と楽しそうに鼻歌でも歌って〈空をこえて〉いきそうだ。

唱歌「故郷(ふるさと)」は今でも日本人の心の原風景か?

 夕飯の準備をする妻は、鍋の蓋を開けたり閉めたり、まな板で包丁をトントンしたり、右に左にボクサーのようにキュッキュッと忙しなく動いている。

 私はテーブルで、コンビニの安物ワインを手酌でグラスに注いで飲んでいる。ツマミはスーパーの惣菜で買ってきた鴨肉である。酔って目がとろんとしてきた。今日は一日、外で野良仕事をしていたのでクタクタだ。

「これ本当に鴨の肉なのかな。売るほど捕れるのかな」

「知らない。鶏かも」

「でも、鴨っぽい味がするよ」

「そういう風味のエキスを垂らしてあるんじゃない」

「ふーん。美味いからいいけど」

 またワインを一口飲んで妻に聞いた。

「ねえ」

「なに。忙しいんだけど」

「ウサギって食べたことある」

「ないわよ」

「美味いのかな」

「知らない」

「ばあちゃんが、戦時中はウサギを食べたって言ってた」

「ふーん」

「皮を剥いて逆さに吊るしてたんじゃないかな。想像だけど」

「かわいそう」

「赤むけだったんだろうな」

「うえーっ」

因幡の白兎って話があるでしょう」

「あー、出雲神話

「そう、オオクニヌシが、いじめられてたウサギを助ける話。あのウサギはワニに皮を剥かれたことになっている」

「ワニ? 日本にいたの?」

「サメのことらしいけど」

「サメにしても、ウサギの皮を剥くなんて器用なことができるの?」

「神話だから」

「ガマの穂に寝転ぶんでしょ。ふわふわして気持ちよさそう。そこだけリアルな感じがする」

「皮を剥がされたら死んじゃうから、毛をむしられて血が滲んだということだと思いたい」

「鳥なら羽をむしるのは簡単だけど、ウサギの毛を全部むしるのは手間がかかりそう」

「ウサギが皮を剥かれたというのは、そうやって食べられていたということなんだろうね。今はウサギはペットであって食べるイメージはないけど」

「あんな可愛い生き物、食べたくなーい」

「この話では、ウサギはワニをだまして仕返しされたけど、カチカチ山ではウサギは悪いタヌキをやっつけるよね。知恵者なんだよ。トリックスターというやつ。因幡の白兎もワニを騙して仕返しされたけど、そういう知恵がはたらく」

「月で餅をついているよね、ウサギ」

「あれはジャータカ起源だね。老人に食べ物を与えるためにサルやキツネは木の実や魚を取ってきたけど、ウサギは何もなかったから燃えている火に飛び込んで自分を食べてくれと我が身を捧げた。それで感心した老人、実は神様なんだけど、みんなが見るようにウサギの姿を月にとどめたんだ」

「ふーん、セーラームーンって仏教説話が起源なんだ」

「仏教とバニーガールと女子高生と魔法少女竹取物語と戦隊モノのチャンポンだね」

「火に飛び込むって話は、ウサギは食べるものという風習があったから生まれた話よね」

「そうだね。サルやキツネは食べたくないな。昔は日本でもサルを食べたみたいだけど。でも同じ霊長類だから病気が感染しやすい」

「うえーっ」

「国宝の「鳥獣戯画」にウサギやカエルやサルが擬人化されて出てくるでしょ。でもシカやイノシシは擬人化されていない。ウサギがシカに乗って川を渡っている。イノシシは貢物として引かれている。シカやイノシシは狩猟の対象として人間にとってその役割がはっきりしていたからかな。ウサギやカエルは身近にいたけど、利用価値の低い曖昧な存在だったからか」

「ふーん」

「ウサギってどういう味なのかな」

「食べたいの?」

「そういうわけじゃないけど」

ジビエであると思うよ。シカやイノシシほどじゃないけど。野原を駆け回っているから脂肪は少なくて、さっぱりしてそうだわね」

「ちょっとネットを見てみるか。あ、実際、野ウサギを捕まえて焼いて食べた人の感想があった。やっぱり脂肪はなくて、臭みもなくて食べやすく美味しいって書いてある。「コクのある鶏むね肉みたい」だって」

https://heposara.com/archives/ウサギ(野うさぎ)の味はどうなの?食べてみま.html

「それでもあたしは食べたくない。コテツみたいでかわいそうだもん」

 コテツというのはうちで飼っている太ったネコである。保健所からもらってきた時は握り拳くらい小さかったが15年も経つうちにツチノコのように丸々としてきた。

「コテツなんかアブラっぽくて食べられないよ」

「うえーっ」

「非常食にとっておくよ」これは冗談である。

 

 テーブルに料理が並べられ、妻も席に着いた。

「どうしたの?」

「え?」

「なんで急にウサギの話するのよ」

「「故郷(ふるさと)って歌があるでしょ。大正時代に教科書に載った唱歌

「ウサギおいし、かの山~ってやつね」

「そうそう」

「え? それで? あのウサギは美味しいとかか不味いとかじゃなくて、追いかけるってことでしょ」

「そうなんだけど」

「勘違いしやすい歌詞で有名じゃない」

「「赤とんぼ」の〈負われて見たのは いつの日か〉も勘違いされやすくて、これも「おう」なんだけど、赤とんぼの大群に追いかけられたと思っている人がいるらしい」

「「故郷」でウサギを追いかけたから、「赤とんぼ」ではトンボに逆襲されて追いかけられたってわけ?」

「「赤とんぼ」の「おう」は、ねえやに背負われてトンボを見たってことだよね。作詞の三木露風は幼い頃に母親が離婚して家を出て行き祖父母に育てられたから、ねえやが雇われたんだ」

「豆知識あるんじゃない。そんならウサギが美味しいんじゃなくてウサギを追いかけたってことは当然わかってることでしょ」

「だから、ウサギを追いかけてどうするの」

「遊んでるのよ、子どもが」

「なんで追いかけるのかってこと。遊びは仕事の模倣だとすれば、それは何をやっていることになる?」

「追いかけっこ?」

「誰と?」

「ウサギと」

「ウサギは追いかけられはしても、追いかけてはこないでしょ。イノシシじゃないんだし」

「ふーん。じゃあ、たんに追いかけてるんでしょ」

「それは狩猟をしてるってことだよ。狩猟ってことは、追いかけて、捕まえてからどうするのかというと、結局食べることになる。ウサギの肉が美味しいというなら、なおさらそうだ」

「それじゃ結局、ウサギ追いしは、ウサギ美味しにつながってるってこと?」

「だね」

 妻が包丁を手にしたまま振り返った。

「でもここは〈追いし〉でしょ。〈かの山〉という場所とセットで思い出してるんだから〈美味し〉というのはおかしいでしょ。野外でバーベキューでもやったのかってツッコミたくなるわね。山で追っかけたのよ」

「それは歌詞を見れば〈兎追ひしかの山〉ってなっているから争うところではないけどさ。それに文字を見なくても、文語調の歌詞だから、口語ふうの美味しいという意味ではそぐわないし、「美味し」では語幹だけだし、違和感があるからおかしさに気づく。美味しいということなら〈兎うまし〉にするはずだと想像できる」

「それなら、いいじゃない。まだ何か問題が?」

「ウサギってピョンピョン跳ねるように走るから、相当早いでしょ。子どもが追いかけたって捕まらないと思うよ。大人の脚だって無理だろ。うちのコテツだって外に出ちゃえば人間には捕まえられないよ」

「いいえ、コテツはつかまるわよ。年寄りのデブ猫でヨタヨタしてるから」

「それは今だからね。小さいころは捕まらなかったじゃん。小さいけど素早い」

「だから?」

「追いかけるっていうのは、捕まえることが予測できる場合に言うでしょ。ウサギを見つけてもすぐ逃げられちゃうんじゃ、ウサギ逃げしかの山だ。だから単純に後ろから追いかけたわけではなくて、ウサギ網を仕掛けておいてそこに追い込んだのかもしれないし、友達と何人かで巻狩をしたのかもしれない」

「何それ?」

「巻狩っていうのは、獲物を四方から囲い込んでだんだん狭めて捕まえるやり方だよ。最後は銃とか弓矢で仕留めるけど、ウサギなら棍棒で殴れたんじゃないかな。今は狩猟の方法や対象は法律で規制されているけど、戦前のことだから」

「ふーん」

「昨日読んだ本にこんなことが書いてあった。元朝日新聞の記者が、「故郷」を作詞した高野辰之の生地、長野県永江村(現、中野市)を訪ね、高野辰之記念館の元館長に話を聞いた。永江では大正時代まで2月下旬に「兎追い」をしたんだって。山の麓に子どもたちが一列に並んで、大声を上げて雪山を駆け上る。するとウサギが驚いて逃げる。それを猟師が待ち伏せていて鉄砲でズドンと撃つ。獲物は小学校の校庭でウサギ鍋にして食べたってさ。(伊藤千尋『心の歌よ!』新日本出版社2021年、176頁)」

「か弱いウサギを、残酷~」

「狩猟ってそんなもんでしょ。やっぱり巻狩ってことだね。あ、ネットにもこんな記事があるよ。

  「作詞者である高野辰之は長野県出身である。「兎追いし」という歌詞は高野の時代は実際に学校の伝統行事であり、みんなでマントを着て、手をつなぎ輪になって大声を上げながら雪の山を登る。驚いた兎を追い込み捕まえる。兎鍋にして学校の校庭で食したとのこと。その頃は大事なタンパク源でもあった。おそらく高野は作詞にあたって幼少のころの思い出深い学校での行事、級友と鍋を囲んで食べた兎鍋は懐かしさが溢れる出来事だったのであろう。」(文部省唱歌ふるさと100年の変遷を辿る)

 言ってることは伊藤の本と同じだから、これは記念館の説明文にこう書かれているのかもしれない」

「山でウサギを追いかけるって、かなり限られた地域の話よね。山の資源を生活に利用する里山のことだと思うけど、このあたりも裏山があるわけでもないし、日本人全員のふるさとにするには特殊じゃない?」

「この歌は日本人の心の原風景だとか言われてるけど、山でウサギを追いかけたことがある人はほとんどいないだろうね。この唱歌の作詞作曲者が誰なのかは長いことわからなかったし、日本人がみんな巻狩を経験したとも思えないから、ウサギを追うという歌詞は、たんに野山にウサギがいるくらいのイメージで受け取られたんじゃないかな」

「あたしの実家は里山に近かったけど、それでも子どものころウサギがそこら辺を走っているのを見たことはないわよ。そういう歌がどうして原風景になるの?」

「ウサギを追いかけることが重要ではなくて、〈兎追ひし〉というのは〈かの山〉を導き出す序詞なんだよ。要点は〈かの山〉にある」

「ふーん」

「次は〈小鮒釣りしかの川〉でしょ。これも〈小鮒釣りし〉は、〈かの川〉を持ち出すための序詞みたいなもんだよ」

「こぶなって?」

「ときどきスーパーで甘露煮にして売ってるのあるよね。小さい魚」

「あー、あれ」

「小鮒は三面をコンクリートで固めた今の用水路でも釣れるらしいから、昔の石積みの川ならもっといたろうね。そういう川なら日本全国そこらじゅうにありそうだ」

「小鮒っていうくらいだからフナの小さいのってこと? でも、フナ自体がよくわからないけど」

「コイを小さくしたようなのがフナだよ。ヒゲがないのが特徴。いくつか種類があるけど素人には見分けるのが難しい。金魚だって改良されたフナだし」

「身の回りにいる親しみやすい魚ってことね」

「小鮒釣りだから、これも子どもの遊びの範疇だね。たくさん捕れればおやつくらいにはなるだろうけど、本格的な仕事とはいえない。仕事の模倣としての遊びだ」

「昔は家の周りでいろいろ調達したのね」

「うん。小鮒じゃないけど、うちの前の小さい水路にはドジョウがたくさんいて、筌(うけ)を仕掛けておくとバケツにいっぱいとれた。昭和40年代くらいだけどね。童謡の「どじょっこふなっこ」では、ドジョウもフナも農村にいる身近な淡水魚としてひとまとめにされている」

「それを食べたの?」

「ドジョウはバケツに入れて泥をはかせて、玉子とじにした。柳川だね。うなぎの小さいやつみたいなもんだ」

「ふーん」

「ウサギで〈かの山〉、小鮒で〈かの川〉を出して山と川がそろった。これでふるさとの風景が構成されたわけだ。遠景に山があって、手前に田畑が広がっていて、田畑の中に民家があって、その近くを小川が流れている」

「原田泰治の絵にありそう。もはやそういう田舎はバーチャルなものになったんじゃなない? 絵の中にしかない」

「それはしかたないね。高度成長は田舎の景色を変えてしまったから。都会に出ていった人には田舎の風景は心の中のものだし、田舎に住んでいる人にとっても目の前に存在しない心の中のものだ。古き良き風景は二重に遠のいた。だから心の原風景ということになる」

「この歌は男の子の外の遊びを歌ってるから、女のあたしが聞いても、懐かしくないはず。あたしはウサギを追いかけたこともないし、小鮒を釣ったこともない。でも、この歌を聞くとなぜかしんみりした気持ちになる。曲調のせいかな」

「曲はしんみりしたものではあるけれど、それだけでは懐かしさという複雑な感情は生まれないよ。言葉がないとね」

「ウサギを追いかけたり、小鮒を釣ったりしたことはなくても、それぞれの人が自分の子ども時代の経験をあてはめてるのかしら」

「よく言われるのは、曖昧に書くことによって、個々人の体験を代入することができるということで、曖昧にしか書けない人が、そういう理屈を言ったりする。でも君が言うのは、具体的に書いてあることから聞き手が自分の体験を連想していくってことだね。具体的に書いてあっても、想像をはたらかす障害にはならないということ?」

「〈かの山〉〈かの川〉ってところは「コソアド」の遠称だから、自分の経験を代入できるんじゃない? ウサギや小鮒のところは、自分の経験と直接つながらないけど、代わりになるような子どものころの思い出に置き換える」

「本当にそんな面倒な手続きで歌を聞いたり歌ったりしているの? そもそも、歌の最中は歌詞があるから、他のことは考えていられないでしょ。ウサギおいしという言葉が頭を占めている時に、それとは別に、木登りしたとか、トンボを捕まえたとか考えていられないじゃない。女の子ならあやとりとかお手玉とかでもいいけど。時間とともに流れ去っていく言葉が換気するイメージについていくのがやっとで、それ以外に複雑な反応はしていられないよ」

「うーん、じゃあ、聞き終わってから自分のことに置き換えるかな」

「ほんとかい? 歌を聞いたあとに復習してるのか?」

「うーん、してないか」

「聞き手は、この歌詞は具体的なエピソードを語ることによって、子ども時代ののどかな経験を思い出させようとしていることがわかる。だから聞き手は、そこで語られている個別具体の経験に反応するのではなく、具体的なエピソードから帰納される子ども時代への郷愁という心の動きそれ自体に反応しているのではないか」

「まあそうかも」

「違う言い方をすると、歌詞で語られていることを、いちいち自分の身に置き換える必要はないんじゃないかな。自分の身に置き換えるというより、そのまま語り手の心の動きに共感してるんじゃないか。歌詞でいちいち聞き手自身の経験を呼び覚ます必要はない。肝心なのはミラーニューロンみたいに共通した心の動きを作ることでしょう。そのためには、個別具体の素材が語り手の心にどういう気持を湧き上がらせているか想像できればいい。悲しいとか寂しいとか懐かしいという説明的な言葉を好む人は、それが苦手な人なのではないか」

「経験にともなう心の動きは人間だいたい同じだから、ひとつ例示すればわかるでしょ、ということ?」

「そうだね。歌詞で語られる個別のエピソードが自分に合致した経験ではないから共感できないというものではないでしょう。個別のエピソードが喚起する情感というものをすくいとることができる。そうでなければ「蛍の光」なんかとっくに廃止されているよ。蛍の光や窓の雪明かりで勉強したことなんか一度もないんだから。それに例えば「万葉集」に「信濃道は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましむな(なむ)沓(くつ)はけわが背」という歌があるけど、いまどき切り株の突き出た道なんかないから、この歌の気持ちがわからない、という人はいないでしょう」

「今なら、旦那さんが長期出張するときに、気をつけてねと送り出すみたいなもの?」

「かな」

「じゃあ、結婚してない人は共感できない?」

「いや、大切な相手を先回りして心配する気持ちは誰にもあるでしょう」

「わかるけど、歌詞の内容と聞き手の経験にあまりにズレがあると共感は薄れると思う。「蛍の光」は歌詞の内容を説明してもらわないとわからない。知識を経由しないと共感が生まれない。ただ、「蛍の光」は卒業式に歌われる歌として別離の感情がセットになっているから、歌詞の内容が詮索されることもあまりないけど」

「知識経由で共感が形成されることはあると思うよ。というより、むしろそのほうが殆どじゃないかな。何も媒介せずダイレクトに理解できるものなんて少ない。万葉集もそうだけど、解釈を聞くことで共感が形成される。むしろ千年以上経っても人を思う気持ちは変わらないんだと知ると、そのぶん感動が深まる。解釈を聞いても宇宙人の言語のようで理解できないというなら古典として残らない。複雑な情感は社会的に構築されたものだから、男女の基本的な関係は千年以上変化してないということだろう」

「古典として残るものならいいけど、たいていのものは言葉や感覚が古くなるとどんどん新しいものに取り替えられていくでしょ。「仰げば尊し」は前から人気が廃れていたけど、「蛍の光」も文語調でわかりにくいからと歌われなくなってきているみたい。代わりに「旅立ちの日に」とかJポップが人気ね。「故郷」の歌詞も文語だからわかりにくいと敬遠されそう。内容的にも、高度成長以降は都会でも原っぱが消えたから、今どきの都会育ちの子どもにウサギを追いかける歌は通用しないかも」

「そうだなあ。自然はテレビで見て知っているかもしれないけど、田舎暮らしというものを知らないかもしれない。親が田舎の出身でお盆には子連れで帰省して、田舎の山野に親しむということがかつてはあったが、都会育ちの第二世代になると親の実家も都会になるから帰省も減少する」

「田舎を知らない子どもが増えれば「故郷」は何を言っているのかチンプンカンプンね」

「都会育ちの故郷はアスファルトとコンクリートで囲まれている。例えば、尾崎豊は両親は岐阜の田舎から東京に出てきたんだけど、本人は都会で生まれ育ったから、〈立ち並ぶビルの中〉〈アスファルトに耳をあて〉というのが、彼のふるさとの風景になっている。山はビルに変わり、小川はアスファルトでふさがれて暗渠になってしまった。それでも自分をとりまく環境に対する探究的な態度は似ている。何がどこにあって、どうすればいいかわかっている」

「田舎に接する機会が減少したんなら、最近のキャンプブームはその反動だと言えるんじゃない?」

「キャンプでウサギ追いしや小鮒釣りをイメージするのか、新世代は」

「世代的な理由による共感の低下のほかに、そもそもこの歌は男の子の外の遊びを歌ってるから、女のあたしが聞くのと男のあなたが聞くのと共感の程度が違うと思うのよね。都会に出て志を果たすというのもそうだけど。そういう歌を日本人の心の原風景と言われてもしっくりこない。でも、よくおばさんたちが合唱してるけど、それも不思議なのよね」

「たしかに、立身出世にまつわる傷心だからな。でもそうした具体性は考慮されず、日本人全体の郷愁を呼び起こすものにされている」

「なにかにつけて故郷を思い出すという部分は男女共通だし、そういう都合のいい部分だけを抜き出して受容されていると思う。それと故郷というものを持たない人たちにとっても、子ども時代はあるわけだから、子ども時代への郷愁の歌として受けとめられているのかも」

「ためしに「故郷」の歌詞を曖昧なものにしたらどうなるかな」

「〈野原を駆けたあの頃 川で遊んだあの時〉ってのはどう?」

「あははは。小○○正っぽいね。ウサギも小鮒もいないから誰にも当てはまりそうだ。「当てはめ主義」あるいは「代入主義」の人が採用しそうな歌詞だ」

「「ポケモンGO」なら外で遊べるから、現代でも通用する歌詞ね」

「現代の野原はヴァーチャルの中に存在している。〈ピカチュウ追いし かの山 コイキング釣りし かの川〉」

「あ、ピカチュウってウサギじゃない?」

「耳が長いからね。でもウサギにしては尻尾が長い。尻尾はリスっぽい」

「チュウだからネズミ?」

「ネズミの特徴は尖った鼻でしょ。ミッキーマウスをご覧よ。ピカチュウは鼻が潰れていてネズミっぽくない」

「あははは」

「さっきの〈野原を駆けたあの頃 川で遊んだあの時〉には山がないけど、山はどうした?」

「山が近くにない人もいると思って。それに、山や川はなくても、〈あの頃〉という過去は誰にでもあるものだから、空間を限定する言葉ではなく時間を示す言葉にしたの。これなら、故郷を離れていない人でも、故郷をもたない人でも、自分の過去を懐かしむことができる」

「日本は山がちの国だから、山がないのはどうかな」

「でも山と川だけで日本人の原風景が構成されるの?」

「桃太郎の昔話で、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きましたってあるでしょう。柴刈りっていうのは焚き木をとりに行ったんだね。庭に生えている芝生の芝じゃないよ。木切れだ。山と川が生活と仕事の場だった」

「おじいさんはお年寄りなのに毎日山登りするんじゃたいへんね」

「山といっても、林のことをヤマという地域が各地にあるんだよ。昔は、地形の平坦・傾斜を問わず、生活の資材を採取してくる空間をヤマと言ったらしい。ヤマは生産の場だから。逆に、山のことをモリと言う地域もある。モリはもともと土地が盛り上がって小高くなったところを指していたけど、転じて木が生い茂る森を指すようになったんだろうね。いずれにせよ、山に柴刈りへ行ったといっても山登りしたわけじゃないと思うよ」

「そうなの? 山と川のほかに海はないの? 日本は海に囲まれてるでしょ。桃太郎だって海を渡って鬼ヶ島に行くわ」

「海が見える場所って限られてるよ。海は一番低いから、海岸近くにこないと見えない。ちょっと離れると土地の高低や木や工作物に遮られて見えなくなる。一方、山はかなり離れたところからも目に入る」

 

 夕飯の料理を食べ終えて、緑茶を啜りながら、なおも話を続けた。

「歌詞の続きだけど、〈夢は今もめぐりて〉というがわかりにくいのよね」

芭蕉の辞世の句に「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」というのがあるでしょう。それを思い出させるよね。芭蕉の句は、旅の途中で病の床に伏しているけれど、心は自由に野原を駆け巡っている、というほどの意味だと思うけど、この「夢」というのは、過去を思い出すことを指してそう言っているのか、あるいは、今の自分の動かない体に比して想像力は自由に羽ばたいているということを言っているのか、あるいは、将来こうしたいということを言っているのか、どのようにも読める。「故郷」の〈夢は今もめぐりて〉の〈夢〉も、同じように、過去の思い出、ウサギを追ったとか小鮒を釣ったとかみたいな子ども時代の記憶が大人になった今も次々思い出されるということなのか、あるいは歌詞の3番に〈こころざしをはたして いつの日にか帰らん〉とあるから、立身出世という夢というか野望があって、それをいまでも諦められず故郷に戻れないということなのか」

「文脈からすると昔の思い出のことを〈夢〉と言ってるんじゃない? 1番の歌詞で立身出世を持ち出すと複雑になりすぎる」

「〈夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷〉の〈めぐりて〉は頭の中をぐるぐる巡っているイメージかな。夢にとらわれている。〈今も〉というのがクセ者だね。これは本来もっと気楽に扱ってもいいはずの故郷の話題に、いまだにかなりの比重が置かれているというふうに読める」

「思い出を引きずっているのね」

「〈今も〉をどう解釈するかね。〈夢〉が思い出のことだとすると〈今も〉という言葉のニュアンスがもつ時間的距離は子ども時代からの距離で、子どもの頃の思い出を〈今も〉思い出しているという意味になる。一方、〈夢〉が将来叶えたい志のことだとすると、〈今も〉が意味するのは、その志は叶えられそうもないのに、いまだに諦めきれず頭の中を占拠されているという未練がましい惨めな境遇の絵になる」

「それなら、この〈夢〉というのは思い出のことなんでしょうね。将来の〈夢〉にいつまでもしがみついているという意味だと陰気くさい特殊な歌になってしまう。でも、思い出のことをあえて〈夢〉というのは、思い出以上のものがあるのかな」

「故郷を出て何年もたち、記憶が鮮明ではなくなってきたから〈夢〉と言ってるのでは」

「そうか」

「でもぼくはこの二つは混じり合っているような気がするな。理想化された過去を〈夢1〉とし、理想化された未来を〈夢2〉とすれば、自分を東京に縛り付ける立身出世という〈夢2〉が何年も実現されないので、故郷との断絶が長くなり、そのぶん故郷に関わる保存された記憶に歪みが生じ〈夢1〉へと理想化される。〈夢2〉に拘束される不自由さが、たんなる過去の思い出を〈夢1〉に変質させる。故郷は、そこに戻りたいという未来にもなって、過去以上のものになる。〈夢2〉に媒介されて〈夢1〉が生じる」

「ホームシックというとまだ日が浅い感じがするけど、もうちょっと深刻な感じ? ノスタルジー?」

「ノスタルジーというのは現状への適応不全が生み出す心の病のひとつで、もともと戦争で遠く家を離れた兵士たちにみられた心の病だった。2番の歌詞は〈雨に風につけても 思いいづる故郷〉となっているから、甘美な郷愁というより、もっと不安定な精神状態を思わせる」

「私はひとり暮らしをしたことがないからわからないけど」

「ぼくは大学で東京に出たとき1か月くらいは苦しんだな。よく上京したての大学生があやしげな団体の勧誘の標的にされるじゃない。共同体的親密さを偽装して近づいてくるからやられちゃう」

「この歌がなんだか病的な内容に思えてくるんだけど」

「この歌はノスタルジーをかきたてると同時に、そういう気持ちをバネにして現状を乗り越えさせる機能も持っているんじゃないか。歌うことで、自分の気持ちが客観視できる。だからこの歌は、老人が目に涙を溜めて歌うものというより、青年に向けた歌だと思う」

「今は大人が歌うことが多いけど、もともと子ども向けに作られた唱歌なんでしょ」

「そうなんだ。「故郷」が不思議なのは、この歌は子どもたちに歌わせる目的で作られた唱歌なのに、内容的には大人の歌、故郷を出た人たちの歌だということだ。子どもに未来の視点から過去を振り返らせていることになる。なんかこうあるべきだみたいな押しつけがある。都会に出ても故郷のことは忘れるなよって。知らないうちに、そういうふうに感性を養成されているというか」

「作詞の高野辰之ってほかにどういう歌があるんだっけ」

「「春の小川」「春がきた」「もみじ」「朧月夜」なんかだね」

「わー、子どものときに音楽の時間に歌わされた歌だ」

「どれも今目の前にあるきれいな景色を歌っているもので、「故郷」のように強烈な郷愁はない」

「たしかに「故郷」はちょっと変わってるかも。逆にそれが大人に親しまれている理由でもあるんだけど」

「大人になって自然にこういう気持ちがあふれるぶんにはかまわないけど、子どものうちからそう感じるように仕込まれるのはどうなのか」

「よく言えば涵養ね」

「この歌を子どものときに親しませておくというのは、この歌を歌った記憶じたい、ウサギを追うことや小鮒を釣ることと同じく、子ども時代の記憶のひとつになる。故郷を懐かしむ感受性がこの歌で刷り込まれると同時に、将来、懐かしさを作動させるスイッチにもなる」

「なぜ、そんなことをさせるの」

「いつか帰ってきてもらうためだよ。3番の歌詞に〈いつの日にか帰らん〉とあるでしょ。故郷を出ていくのはいいけど、故郷のことは忘れずに帰ってきてもらいたい。それは作者の意図とは離れているかもしれないけど、そういうふうに利用されている気がする」

「〈こころざしをはたして いつの日にか帰らん〉っていうところね。大志を果たさなければ帰れないということなら、なかには帰れない人もいるわけね。帰りたいけど帰れない、みたいな」

「帰りたくないという人もいて、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という「小景異情 その二」なんかそうでしょう。懐かしい場所には帰りたいものだ、というステレオタイプにひねりを加えている。この詩が収録された『抒情小曲集』(1918年)が出たのは「故郷」(1914年)が教科書に掲載された四年後だ」

「近いのね。実際、遠くで思っているだけのほうが理想が崩れなくていいけど」

「〈こころざしをはたして いつの日にか帰らん〉という歌詞は、実は、帰るといっても故郷に帰ってずっと故郷で暮らすというわけじゃないんだよ。だって〈こころざしをはたし〉たということは、それなりの社会的な地位があるわけで、社会を動かす重要な決定は全部東京で行われているんだから、その人が大きな〈こころざしをはたし〉たのであればあるほど東京から離れられなくなるでしょう」

「〈いつの日にか帰らん〉というのは、いわゆる「故郷に錦を飾る」っていうことなのね」

「そうだね。郷土の誇りとして親戚や近所の人や役場の人が集まって、のぼりをたてて出迎えてもらう。夜は宴会をして、翌日は講演をしたり出身校に出向いて生徒に話をしたりする。数日間の凱旋だよ。そしてまた東京に戻って仕事をする。本格的に故郷に根を生やすのは退職後だろう。〈こころざしをはたして〉というのを、リタイア後と解釈できなくもない。そうなるとスケール感が増すなあ」

「昔は交通が不便だから、今みたいに気軽に帰れなかったでしょうし。今、役場に垂れ幕や横断幕を設置してもらえるのはスポーツ選手くらいじゃない? 全国大会とかオリンピック出場おめでとう、みたいな。文化人はないわね。政治家だと安倍さんや菅さんが首相になったとき出身地の役場で横断幕が掲示されたことが問題になった」

「昔から、故郷に帰りたいという詩はいくつもあって、古くは陶淵明の「帰去来辞」がそうで、これは長年の役人暮らしを辞めて田舎に帰ろうというもそうなると〈こころざしをはたして〉というのも文字通り受け取ると、それは、一定の職責を果たした後にということになるなあ」

うちの子が「うっせぇわ」に影響されて困っています

 某市、某中学校で保護者面談がおこなわれた。

「先生、最近うちの娘と全然会話にならないんです。何を言っても「うっせぇうっせぇ」で、取り付く島がないんです。しかも妙なフシがついてるんです。前はこんなんじゃなかったのに。ほんと素直で良い子だったんです。いったいどうしちゃったんでしょう、先生」

「おかあさん、それはネットで流行っている歌のせいですよ」

「ネットで?」

「ええ。「うっせぇわ」っていう歌がありましてね、サビで〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉って言ってるんです」

「まあ、そんな下品な歌があるんですの」

「ちょっと聞いてみますか。スマホですが」

「あまり聞きたくはないですけど・・・娘を理解するために聞いてみます」

 

 「うっせぇわ」(歌、Ado、作詞・作曲、syudou、2020年)視聴

 

「これ、歌っているのはまだ高校生の女の子なんですよ」

「まあ、随分ドスがきいた声だこと」

「子どもに聞かせたくない歌として、世のお母さんがたが頭を抱えているんです」

「みなさん同じことで悩んでらっしゃるのね」

「子どもは影響されやすいですからね。ですが、じきに飽きるでしょうから、少しのあいだの辛抱ですよ」

「だといいんですけど」

「むしろ流行ってよかったということになるかもしれませんよ」

「え? どうしてですか」

「爆発的に流行るものほど、古くなるのも早いんです。半年たってもまだ〈うっせぇうっせぇ〉なんて言ってたら、そのほうがダサいってことになりますよ。ですから、流行語になってくれたということは、むしろ排除されるものになったということです」

「半年後にそうなっていればいいですけど」

「「うっせぇ」ならまだいいんですけどね」

「よくはないですよ」

「これが「くっせぇ」とかに変化するとイジメになりますから」

「それはひどすぎます」

「実はもう早々に「くっせぇわ」という替え歌がYou Tubeにあがっていたりします」

「誰でも思いつきそうですものね」

「おじさんが上司のおじさんに対し〈くっせぇくっせぇ〉と言っている歌です」

「加齢臭? 歌っているのがおじさんなら、自分だって臭ってるんじゃないかしら?」

「それが、加齢臭ではなく、足の匂いがクサイとズラしているんですよ。自分を同類からはずすために」

「卑怯ですね」

「「うっせぇわ」の歌詞にも〈くせぇ口塞げや限界です〉とありますから、いずれは〈くっせぇ〉の方向に連想が向く可能性はあったんですけどね」

「はあ。その「うっせぇわ」の歌のことはよくわかりました。それで、うちの娘の進路のことなんですが・・・」

おたくの娘さんのことはともかく」

「ともかく?」

「少しおいておきまして、もう少し「うっせぇわ」について話したほうがいいと思うんです」

「え? なんでですか」

「これも、子どもたちのことをよく理解してもらうためです」

「はあ、そうなんですか」

「そうなんです。それで、おかあさんは、この歌を聞いてどうでしたか」

「どう、って・・・そうですね、その「うっせぇわ」ってなんか変な言い方だと思いました」

「そうですよね。私も子どものときは親に反抗して「うるせぇ」とは言いましたけど、「うっせぇ」と言った記憶はないし、あまり聞いたこともないんです」

「不良っぽいです。うっせぇ、なんて」

「方言かもしれませんね。ヤンキーって地元愛が強いからその土地の言葉を使うんですよ」

「そうなんですか」

「『遊子方言』みたいに言えば「ヤンキー方言」ですかね」

「『遊子方言』?」

「吉原言葉をネタにした江戸時代の戯作です。深い意味はありません」

「はあ。うーん、「うっせぇわ」に「わ」がついているのは歌い手が女性だからですか?」

「それは関係ないと思います。男性でも強調の意味合いで「わ」をつけることがあります。歌では〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉となっていて、最後の締めで〈わ〉をつけています」

「どうして「うっせぇわ」になったんですか」

「私なら「うるせぇわ」ですけど、でも、それだと曲にのらないですね。〈うっせぇうっせぇ〉って。そうすると〈るっせぇるっせぇ〉ですかね。「る」にアクセントを置きたいし、そこは巻き舌で強調したいから「る」を省略できない」

ねぶた祭りの〈らっせー らっせー らっせーらー〉と似ていますね」

「口癖のように短く「うっせ」という子どもたちもいます。「うるせぇ」を強く一言で言いたいときには「る」が強調され「るっせぇ」と怒鳴り口調になり、口癖のように軽く短く言う場合は「うっせ」になるのかもしれません。「るっせぇ」は相手の言うことの否定、「うっせ」は遮断ですね」

「若い人は、「うざい」の意味で「うぜぇ」ってよく言ますね。〈うっせぇ〉にはその影響もあるんじゃないですか?」

「「うざっ」とか「キモッ」とか、短い言葉のほうが人を刺しますね。それに反論するのは長い言葉になるから迫力が削がれます。「うざくない」とか。反論する方も短い言葉を考えるべきですね」

「娘がもっと汚い言葉を覚えて、親のことを、ジジィ! とかババァ! とか罵るようになったらと思うとゾッとします」

「人を罵るときは一言でピシャっと言うものなんですが、「うるせぇわ」では〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉と3度繰り返しています。ホントは、うるさい相手に対しては〈うっせぇ〉と1回遮断すれば十分です。繰り返したら、鋭さが欠けてしまう。短い意味がない」

「歌だから反復してるんじゃないんですか。それに、しつこく言われるから〈うっせぇ〉も繰り返して強調してると言うこともできそう」

「そうですが、何度も繰り返すと、それを言っている自分に意識が向いてきませんか?〈うっせぇうっせぇ〉と言っている自分はどういう自分なのかと」

「たんに条件反射的に〈うっせぇ〉と反発してるのとは違ってはいます」

「歌詞を聞いているとキツイ言葉が並んでいるんです。でも一方で、それを発している自分についてもシビアな意識が向けられています。メタな意識が強い歌です」

「メタ?」

「自分をモニターしている自分の視点です。どんな感情的な歌詞でも、それを言語で表現するとなれば、いったん客観的反省的な意識にならざるをえません。だからその意識をそのまま書けば、冷めたメタな見方が取り入れられることになります。この歌は、シラケたようなそのメタ意識を削除することなく、お道化に変換して歌詞に残しています。自分は何をやっているかわかってやっていますという照れ隠しがお道化になっているんです」

「ある意味、素直なところが残っているんですね」

「〈不平不満垂れて成れの果て サディスティックに変貌する精神〉という歌詞は、まさに自分の姿をモニターしている自分です」

「サディスティックって、攻撃的な歌詞ってことですか?」

「言葉が攻撃的で人を傷つけるんです。自分は普通の人として生きているから、気に入らないからといって相手を〈殴ったり〉はできないんですけど、代わりに〈言葉の銃口〉を相手の〈頭に突きつけて撃〉つんです。そのことは〈マジヤバない?止まれやしない〉んです。言葉の暴力が暴走しているけど止められない」

「自分を客観的に見ることができているから、カッとなって殴るタイプの人ではなさそう。でもこういう歌を作って公表してしまう程度には〈ヤバ〉い人なんですね」

「誰でも、満たされない何かを抱えていますよね。この人もそうで、毎日何かもの足りないと思っている。その原因は自分ではなく〈これは誰かのせい〉だという。で、考えてみたら、会社勤めというのがどうも自分には合わないらしいということに気づく。社会常識を身につけるのもストレスになっているし、職場の人も先輩風を吹かして上下関係を押し付けてくる」

「大なり小なり我慢しなければならないところはあるのに。でもそれは特定の〈誰かのせい〉ではないでしょう。うちの娘も親のせいにしなければいいけど」

「敵を明瞭にしないと攻撃の矛先を向けられませんからね。ただ、それを〈誰かのせい〉にしてるという自覚ははっきりとある。わかったうえでやっていると、あえて言っている」

「批判されそうなことには先手を打っているんですね」

「〈これは誰かのせい〉と言ったあとに、続けて〈あてもなくただ混乱する〉と言っていまして、それは本当は〈誰かのせい〉というのが擬制だということがよくわかっているからなんでしょう。誰のせいとも言えないから〈あてもなくただ混乱する〉んです。この歌では大人たちに反発しているんですけど、それは特定の思想やイデオロギーからくるものではないし、筋道だった理屈でもない、ただ混乱した頭から漏れ出てきたものなんだということです」

「若いうちは誰でも混乱するものですよね。混乱であって、悪人ではないのね」

「悪人ではない。いわば小市民がキレただけです。この歌はその溜まった鬱憤のガス抜きになります。連帯するわけでもありません。歌詞の言葉は攻撃的で口は悪いけど、社会に背を向けているその背中はきゃしゃで小さいものです」

「歌によるウサ晴らしですか?」

「それはイヤホンの中で、あるいはライブハウスの空間の中で5分で収束してしまうものです。イヤホンをはずし、あるいは会場から出てきたら溜まったものを吐き出してスッキリした顔をしているのなら、それは秩序維持にとって、むしろいいことではないですか?」

「社会につながっていく反抗ではないんですね」

「自分の中で終わっている。でも家庭だと、子どもが親に向かって〈うっせぇ〉と反発して、それが唯一社会という外部に反抗というかたちで露出します。おたくがそうであるように。会社ではふさわしくない態度をとると雇用契約を切られてしまうから〈うっせぇ〉とは言えませんが、親子の縁は簡単にはきれないから甘えられます」

「頭のなかで罵るしか手段がないのね。可愛そうになってきた。会社に労働組合はないのかしら。あってもほとんど役にたたないけど」

「歌で言ってることはパワハラとかの深刻なレベルではないし、なぜ仕事をするのかという哲学的な悩みでもなく、たんに会社の人間関係に上下の古いしがらみがあるとか、社会人としての基礎的な力をつけておくのが面倒くさいとかいうレベルですから、「うっせぇわ」は「インターナショナル」の代わりにはなりません」

「あらあら」

「いろんな状況で煩わしいと感じるところは誰しもあるでしょうけど、それを是正していくのに議論の場に相手を引っ張り出すのではなく、すぐ〈うっせぇ〉と拒絶するのは安易です。攻撃的になるのも防衛機制的な鎧です」

「とりあえず〈うっせぇ〉と言いたくなるのはわからないではないんですけど。ただ、それを歌にまでするのはある種の執拗さが感じられます」

「この歌は、相手の評価を下げるために相対的に自分を持ち上げています。そういうおまえはどうなんだという評価については先まわりして〈頭の出来が違うので問題はナシ〉〈どうだっていいぜ問題はナシ〉と言っています」

「何を言われるか批判を気にしているのね」

SNSの時代っぽい歌です。そういうおまえはどうなんだということに対してどう反応するかは、ネットの掲示板でさんざん訓練されてきたことです。〈頭の出来が違うので問題はナシ〉というのは実際に頭がいいのだというマウント表現ではなく、こちらは開き直っているので真面目に受け取ってさらなるマウントを仕掛けてくるなという合図なのです。受け手の出方を見越して発信しているんです」

「たいへんな気の遣いようですね。裏の裏を読んで行動するなんて、疲れてしまいます」

「この書き手は、乱暴な言葉遣いは作風のひとつで、ふだんは気配りしてる人なんですよ。米津玄師の誕生日に関するツイートが批判されて、「うっせぇ」と遮断せず、すぐ謝罪しています」

https://news.yahoo.co.jp/articles/8893cc822ca082fdc0514fa8cb70bbf050683024

「今の子どもたちにとっては、大人よりSNSによる干渉のほうがうるさいんじゃないかしら。私なんか、SNS的なものに対する煩わしさの方に「うっせぇ」と思ってしまいます」

「「うっせぇ」と遮断しないのは、そこからは逃げられないと思っているからなんでしょうね」

「この歌で、耳に残る言葉は〈うっせぇうっせぇ〉だけで、それ以外は何を言っているのかよくわからないんですけど、歌詞はどういう歌詞なんですか、先生?」

「私も最初は、歌ってるのが女子高生だし、〈うっせぇわ〉と言うから子どもが反抗しているのかと思ったのですが、歌詞をひとまとまりのものとして読んだら、会社勤めをはじめて数年の社会人という設定なんです。〈酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい 皆がつまみ易いように串外しなさい〉とか、上司に社会人のルールをしつけられる新人サラリーマンがキレたという設定です。この部分は飲み会のしきたりみたいなことを言っています」

「近頃の若い人は飲み会に参加しないって聞きますけど、この人はまだ参加するだけ従順な方なのかしら」

「参加しても腹の中でこんなこと思ってるんじゃ来てもらわないほうがいいですね」

「でも、いまどきここまで言う上司はいるんですか。ザ・昭和って感じがします」

「私も新規採用のときは、平成の時代になっていましたが、主任が偉そうに酒の席ではこうするもんだという講釈を垂れていました。でも、知らないとバカにされるより、口にだして教えてくれるのはありがたいと思いました。上の人にお酌するときはビールのラベルを上にしてつぎなさいとか、瓶は両手で持ちなさいとか。聞いていてバカバカしいと思ったので、やったりやらなかったりですね。ジョッキで出てくると面倒な気を遣わなくてよかったと思いました。でも店の人が最初に「ジョッキにしますか瓶にしますか」と聞くと、年配者はたいてい「瓶で」と答えるのでがっかりすることもあります」

「飲みに行ってまで気を遣いたくないですよね」

「実は飲み会での気の遣いようが出世に関係してるんですよね」

「仕事とは関係ないことなのに」

「自分に従順かどうかが一番重要なんですよ」

「何をどうやるかではなくて?」

「ビールの泡の出し方とかもそうですね。泡の量で味は変わらないと思いますけど、作られた伝統ですよ。受けるときは最初はコップを斜めにするとかもありますけど、あえて作法を知らないフリをします」

「先生も大変ですね」

「酒の席に限らず、最近は昔より作法だのマナーだのにうるさくなくなりました。それよりは合理的かどうかが重視されています。夏にネクタイをしないとか。夏にネクタイをしなくていいなら、冬もネクタイをする必要がないことに気づくのは時間の問題です。遠からずネクタイはサラリーマンのスタイルから消えると思います。そうするとスーツも消えていくかもしれません」

儀礼的なものが昔よりは緩やかになってきたなとは思います。結婚式やお葬式も随分簡単になりました。無駄なことは省いていくという傾向がありますね。コロナでそれが一気に加速されました。コロナが終息して、それがどの程度復活するか」

「無駄な会議や行事も減りました。みんなやめたくて仕方なかったものは、コロナがいい口実を与えてくれた。右へ倣えの国民性だから自分からは言い出しにくかったけど、お上が先導したから一転して中止ばかりになりました。ただこれが2年続けば身体化されると思うんですけど、1年ちょっとですから、7割くらい復活してくるかもしれませんね」

「拘束がだいぶ緩くなったにもかかわらず「うっせぇわ」というのは、どれだけ甘えたいのかと思うんですけど」

「外出自粛とか時短営業とか、代わりに別の規制はありますね。たんに人を管理するためだけにあるものや、上下関係を思い知らせるためのものや、昔は機能していたけど今やすっかり形骸化して意味をなさないもの、そういったものを押し付けてくるのならそれに対して反抗するということはあるんでしょうが、この歌で言っているのはそれもあるけど〈経済の動向も通勤時チェック 純情な精神で入社しワーク〉とも言っていて、たんに面倒くさいと言っている部分もあります。反ブラック企業の労働ソングというわけでもない。〈うっせぇ〉と突っぱねるようなことでもないことが歌われていて違和感があります。〈うっせぇ〉が発動される閾値がすごく低いんですね」

「モラトリアム気分が抜けないのかしら」

「歌詞は暗に「年配者/若者」という括りで語られているように見えるんですが、酒の席の話なんてジェンダーも関わってきますよね。女子社員に「お酌の仕方がなってない」と怒る年配男性も少なくないでしょう」

「女性が男性に〈うっせぇ〉と思うことは多いと思います」

「図にすると、縦軸に年齢、横軸に性別をとって4象限あれば、若い女性が一番〈うっせぇ〉と言いたくなる位置にいるんです」

「女子高生が新人サラリーマンの歌を歌わされているのは、それを戯画的にわかりやすくするため?」

「ミスマッチが意図せぬ深みを生んでいると言えるかもしれません。高校生が就職後の世界を聞きかじった範囲で想像してみたら、〈うっせぇ〉としか思えないものだったということ。作った時点では歌い手が高校生であることは重要ではなかったかもしれませんが、そういう情報はすぐ広まりますから、聞き手はそのようなものとして聞くことになります」

「いろんな意味で聞き手も重要ということね」

「同じ歌手で「ギラギラ」という新しい歌があります。作詞作曲は違う人です。歌詞は、醜悪な顔をしているということがテーマで、痣云々とあって、動画も顔に目立つ痣のようなものが描かれているのを見るとユニークフェイスのことなのかなと思います。若い女性が一番気を使うのは容姿ですけど、露骨すぎる気がするし、関心が限定されているから、ターゲット層以外の反応は鈍いかもしれません」

「うちの娘も時間さえあれば鏡を見ているから困ってしまいます。そんなに見たって変わらないわよ、おかあさんの子にしては上出来よって言うんですが、メイクにも興味を持っているみたいで、勉強が手につかないようです」

「顔といえば、「うっせぇわ」の歌詞は具体的ですけど、実際に誰かの顔を思い浮かべて歌詞を書いたのかと思わせます。〈丸々と肉付いたその顔面にバツ〉とあります。聞き手も誰かの顔を思い浮かべて聞くでしょう」

「若い人に嫌われたくないオジさんたちは、この歌を聞いて萎縮することになるんですか」

「〈酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい〉ということは、教えてもいいけど強制しないほうがいい」

「それだと〈酒が空いたグラス〉に〈直ぐに注〉ぐようなゴマスリを無意識にできる人が出世しやすくなりますね。オジさんの心をつかみやすい」

「実践するかどうかは本人しだいで評価に関係づけてほしくないですよ。それに、注がれるほうも、もう飲みたくない場合だってありますしね」

「お酒の席って、いかに気遣いができるかを披露する場になっていますでしょ。女性が接客するお店はそれを商売にしている」

「この歌でユニークなフレーズは、〈あなたが思うより健康です〉というところです。この人はいつもカップ麺とかコーラとかポテチとかジャンクフードばかり食べているから、そんなものばっかり食べていると体壊すぞと注意されたのかもしれませんね。早く結婚して奥さんに栄養のあるものを作ってもらえとか。昔はよく言われました」

「女性ならダイエットしてると心配されました。余計なお世話って感じかしら」

「私の身体は私の所有物であり、自己責任でやっていることなので外野からとやかく言うなということですね。でも、ジャンクフードで体ができているんならこの人はたぶんあまり健康的ではない。若いうちは体力があるから目立たないけど、年をとったらてきめんです。人生100年時代を生きられない。だから〈あなたが思うより健康です〉というときの〈健康〉は、今はそう見えるというだけで、あとになって後悔するんじゃないかなと思います。歪んだ自己認識です。自分を客観的に見ているつもりでも、所詮〈あなたが思うより健康です〉ていどの客観視なんですね。あまり距離がとれていない。先程のメタレベルの認識というのも似たようなものです。こういうことはたぶん外側から見ている人のほうがよくわかる」

「自分のことにかまってほしくないという年頃なんでしょうか。うちの娘もそうです。いちいち身につまされるわ。あなたのためを思って言ってあげてるのよ、と話しても、有難迷惑だ、お仕着せだ、うざい、と言って聞く耳もたない。最近はそれが〈うっせぇうっせぇ〉になってしまいました」

パターナリズムがなくなればスッキリしますが、全部自分で判断していかなければならないから個人間の差が大きくなります。自分ひとりではまだ無理だというのは本人も薄々わかっていて、親はまだ必要だと思っているから、〈うっせぇ〉って追っ払っても、お節介がまったくなくなっても困ると心のどこかで思っているので、縁を切って自分から出ていくわけでもない。〈うっせぇ〉と追い払うのはそういうことでしょう。本当に必要なときのために絆を残している」

「親や教師のように甘えが許される相手に対しては言えても、他人には言えない言葉ですね。口には出さずに、頭の中で〈うっせぇうっせぇ〉が鳴り響いているだけの人も、きっとたくさんいるでしょう」

「この歌詞は不思議な部分が混在していて、会社勤めに関わることだけでなく、〈嗚呼よく似合う その可もなく不可もないメロディー〉〈もう見飽きたわ 二番煎じ言い換えのパロディ〉といったフレーズも出てきて、これについても〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉と言っています。これもメタな視点によるものですね。自分で自分にツッコミをいれています。その自分は、かつて自分の創作物である歌について否定された経験があって、そのときの相手を自我に取り込んだものだと思います」

「会社に関するエピソードと、プライベートの創作に関するエピソードが混じりあっているんですか。つながりがわかりにくいです」

「詰め込みすぎだと思うんです。違う2つの歌に分けたらいい。そうすればさらに突っ込んだ表現ができるのになあと思います。あるいは1番と2番に振り分けるとか」

「はあ」

「〈ちっちゃな頃から優等生 気づいたら大人になっていた/ナイフの様な思考回路 持ち合わせる訳もなく〉という歌詞があります。これは「ギザギザハートの子守唄」の暗示引用になっていますから、〈二番煎じ言い換えのパロディ〉というのはこの歌じたいにあてはまります。〈現代の代弁者は私やろがい〉という〈代弁者〉は尾崎豊を思わせます」

「私、尾崎豊、好きだったんです。〈代弁者〉というのは、尾崎が自分で言ったのではなく、当時のマスコミが言ったことです」

「たしかに、代弁者というのは自分で言うことではないですね。あなたを代弁者に指名したつもりはないと批判されます。ここもあえて自分で〈代弁者〉ということでおちゃらけてみせているんでしょうけど。尾崎と共通点があるとすれば、言いたいことがあって、それを歌にしているということですね。これはこの歌の強さになっています。それと歌っているのが女子高生だから、高校生のときにデビューした尾崎を彷彿とさせるかもしれません」

「反抗的な身ぶりというか口ぶりは似ているかもしれませんけど、「うっせぇわ」のほうは随分言葉遣いが汚いですね」

「歌詞も実存的な深みはないし、〈私模範人間〉というように、表面的には社会に適応しているように見えても内面ではブチ切れているというのが恐ろしい」

「昔の若い人は大人からもっと頭を抑えつけられていたけど我慢してたんじゃないですか?」

「社会全体が右肩上がりだった時代は、我慢すればそのうち出世して給料もあがりいい生活ができる見込みがありましたが、今の若者は我慢しても先が見通せないから我慢するだけ損だと思ってるんじゃないですかね。今が充実していたほうがいい。それを邪魔して将来のために今の自分を捧げよという大人は〈うっせぇ〉存在なのかもしれない」

「刹那的ですこと」

「この歌では相手を貶めるのに、〈くせぇ口〉〈丸々と肉付いたその顔〉〈一切合切凡庸なあなた〉と言っていて、悪口を確信犯的に並べています。前の二つは単なる罵倒ですが、最後の一つは自分の評価と関わっています。」

「他に文句のつけようがなかったのかしら。相手の人はたぶん本当に平凡な「いい人」なんだと思う」

「自分のことは〈頭の出来が違う〉〈私が俗に言う天才です〉と言っていて、「凡庸/天才」の二項対立になっているんですが、これもそう思わないとやっていけないということでしょう。外からは見えない才能がプライドの拠り所になっている」

「こんな歌を作れるから天才っていうことですか?」

「ヒットした今となってはある意味そうなのでしょうが、作った時点では迷いの中にあったと思います。〈私が俗に言う天才です〉という自己言及がある一方で、〈可もなく不可もないメロディー〉というのも自己言及で、気分の高揚と落ち込みのあいだを揺れ動いています。自己評価の落差が激しい」

「不安定な精神状態ですね」

「自分のことを天才だと言って様になるのは北野武とか会田誠とかの人たちでしょう。いや、それも本当に自分でそう言っているのか、あるいはそう言っているように周りの人が見せているのかわからないですけど。いずれにせよ、自分でそう言いそうなキャラとして演出されています。知名度のある人なら本気とジョークのあわいとしてキャラづくりになるかもしれませんが、無名の人だと誇大妄想になる。それも含めて戦略的なキャラ作りと言ってしまえばそれまでですが、なんかそういう現実とは切り離されたところで空転している妄想性がこの歌の特徴だと思います。先程、〈あてもなくただ混乱する〉っていう歌詞があると言いましたが、そういう〈混乱〉が生み出した妄想に支配されているということなのかもしれません」

「それもこの書き手はわかってやっているということ、つまりそのように演出しているのですか」

「たぶん。というのも、歌の冒頭で〈正しさとは 愚かさとは/それが何か見せつけてやる〉と言っていまして、それが何のことかよくわからなかったんですけど、考えてみたら、この歌そのものが愚かしいものとして見せつけられているんだと思います」

「〈正しさ〉は?」

「この歌には何ら〈正しさ〉は示されていないので、〈正しさ〉を〈見せつけてやる〉と宣言はしたものの見せつけられず、しかし宣言自体は残されたままなので、結局〈正しさ〉なんてものはない、相対的なものだってことになるんじゃないでしょうか」

「うちの娘も早く目を覚ましてくれないかしら。はー」

YOASOBI 「夜に駆ける」逐語解読

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 「夜に駆ける」は、公式のミュージックビデオは歌声が無機質な感じで親しみがわきにくいが、「THE HOME TAKE」バージョンの方はテンポを落としており、ボーカルも演歌ふうなところがあり(実際は洋楽に親しんでいる)、哀愁が増している。ikuraの外見も黒髪の真面目そうな感じの子であり、好感度が上がるだろう。

 「夜に駆ける」は、どこか不穏な感じのする歌である。歌詞の面からは、具体的にそれが何なのかということはわからない。歌詞を読んでも何を言っているのかよくわからないのである。もちろん断片的な言葉のまとまりはそれぞれわかるので、歌として聞いている分には不自由しない。だが、歌詞をひとつの言語の作品として見たとき、置かれている言葉どうしのつながりが見いだせず、飛躍を埋めるための糸口も推測できず、それらの言葉を貫く一本の何かが何なのかがよくわからない。書かれた言葉は表層をなぞるだけで、その奥に隠された何かに言及しない。歌詞は何かに基づいて書かれているように見えるが、それは歌詞からは判明しない。

 だが、この疑問への答えは事前に提出されている。この歌は「monogatary.com」というサイトに投稿された「小説」をベースにして書かれており、小説を歌に記号間翻訳したものなのだ。だから「小説」を読めば、この歌詞が何を言っているのかはっきりする。「monogatary.com」はソニー・ミュージックエンタテインメントが運営しており、そもそもこの歌が誕生する経緯は、運営側からもちかけられた話なのである。

 その「小説」というのは、星野舞夜という人が書いた「タナトスの誘惑」である。きわめて短いものであり、ゆっくり読んでも5分とかからない。歌を聞いている時間の方が長いだろう。ショートショートとか掌の小説とかそういった類のものよりもっとたわいのないものである。小説として完成していると言うよりどこかの一部分を切り出してきたようなものである。文体はポエムふうだが、それは改行が多い外観からくる印象である。ネット向けに書かれたもので、読みやすくするためにほどこされた工夫であろう。これを一般的な小説とは言い難いのでカッコ付きで「小説」とした(以下、煩わしいのでカッコをはずす)。作者は執筆当時、大学生ということである。星野舞夜という筆名は内容にあわせて考えられたものだろう。選択された筆名も書かれた文章も女性を思わせる。

 タナトスの誘惑」はジャンルでいえばファンタジーということになるだろう。内容は次のようなものである。マンションの屋上から飛び降り自殺を図ろうとしていた若い女性を助けた男性(僕)がその女性に恋をし、その後何度か自殺企図のメールがあるたびに屋上に出向くことになる。それが幾度も重なるうちに僕のほうも疲れてしまい、最後には一緒に飛び降りてしまう。

 タナトスというのは、ここでは死神のことで、死を願う者にはその人にだけ死神が見えるようになる。死神はとても魅力的な姿をしている。若い女性は死神が見えると言い、その姿を見てうっとりした表情をするので僕は嫉妬する。僕はブラック企業に勤務しており激務で毎日疲弊していた。僕は結局彼女と手をつないで屋上から飛び降りてしまうが、実は彼女は僕にとっての死神だった。彼女が魅力的に見えたのは、彼女が死神だったからである、というオチである。

 この小説のヒネリは、死神が魅力的な姿をして人を誘惑するというところにある。水木しげるが描くような死神は歯が欠けた年配の男で、杖を突きボロを着た不気味な出で立ちであるから近づきたくないが、死神がアイドルのような美少女やイケメンの姿をしていたらついフラフラとついて行ってしまうかもしれない。死神というのは、死への思いが外部化されたものであるから、死神の誘惑というのは、実は自分の願望が再帰化したものである。近年はいかつい戦国武将も美男子のやさ男ふうに描かれるから、死神がアイドルまがいの形象をもつのも不思議ではない。

 死が救済になるような内容なので陰鬱なもののように思われるが、筆致はいたって軽い。自殺に至る苦悩は数行で済まされているし、死神の造形は最後のオチに至る伏線であるから、情感にふれるものというより知的処理(謎解き)によって受容されるべき作品である。

 ところが、これが歌に作り変えられたときには、情感の部分が強調され、知的処理(謎解き)の部分は後退させられることになる。

 このような小説の内容を前提に歌詞を読むと、それまで理解できなかったところが理解できるようになる。歌詞の空白部分を満たすピースが見つけられる。同時に、歌詞になるときに新たに付け加えられた要素も見つかる。

 

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 「夜に駆ける」は自律性をもったひとつの作品である。小説にもとづいた歌詞ではあるが、小説を知らなくても歌詞を解釈することはできる。実際、多くの聞き手は、基になった小説を読んだことはないだろう。一般的に、歌詞は論理的に厳密な構築物とは考えられていない。歌の言葉は次から次に流れては消えていくので、メロディのまとまりに基づく言葉の断片をまたぐような整合性を聞き手は求めない。行間に飛躍があっても気にすることは(ほとんど)ない。一方で、歌詞を言語の作品として取り出してそれを解釈しようとしたときには、歌詞の全体が一望できるから、言語のもつ論理的な整合性が一層強く意識されることになる。そのため意味のまとまりどうしがどのような関係をもっているか理解しようとして、頭を悩ますことになる。

 「夜に駆ける」は、後者の点においてわかりにくい。歌詞の全体が何について書かれているのかわかりにくいのである。表面的な意味はなんとなくわかる。しかし、その裏に言葉では語られていない何かが隠されているようなもどかしさを感じるのである。何か大切なことを理解していない、ほのめかしなのか字義通りでいいのか、いくつかの言葉がささくれのようにひっかかるのである。歌詞の言葉は難解ではない。ひとつひとつの文は明瞭である。しかしそれが積み重ねられたものになると漠然としてしまう。このわかりにくさはスキームが与えられていないためである。歌詞をどういう枠組で読んだらいいのか、歌詞じたいには手がかりがない。タイトルの「夜に駆ける」がどういうことなのかすらわからない。もちろん「夜に駆ける」は日本語として意味は汲み取れる。何かあって夜中に走っているのである。ジョギングというわけでもあるまい。走るのだから何か緊急事態が起こっている感じがする。だが「小説」を読むことでほとんど全ての意味がわかってくる。「ほとんど」というのは、歌詞にする過程で付け加えられた部分があり、そこは別に解釈が必要だからである。しかし「小説」からそのまま歌詞に置き換えられた部分は相互参照できるので、意味はかなり限定して理解できる。例えば「夜に駆ける」というのは、マンションの屋上から飛び降り自殺することを美化して言ったことだとわかる。また、マンションの階段を駆け上がる「僕」のことでもあるだろう。他の部分についても、答えあわせをするように見ておこう。

 以下では、歌詞と小説を比べて、歌詞になるにあたって何が省略されたか、何が付け加えられたか、について検討する。

 

〈「さよなら」だけだった/その一言で全てが分かった〉

 彼女が「さよなら」の4文字をLINEで送ってきた。それは自殺するためにマンションの屋上にいるからそれを止めに来いという合図である。「死にたい」とか「たすけて」という4文字であれば、それはただちに「僕」を動かす言葉になるであろうが、「さよなら」だと、だからどうするという行動に普通はただちに結びつかない。いったん解釈が必要である。他の人なら動けないが、「僕」はすぐに理解して屋上に向かう。小説では「さよなら」のメールと「僕」が駆けつけることは4回繰り返されたことになっている。もともと二人は彼女が屋上で飛び降りるところを止めたことで出会ったのだから、メールの意味も理解しやすいだろうし、それが反復されたとなれば反射的に動けるだろう。〈その一言で全てが分か〉るのは、「僕」という特別な限らされた受信者である。「僕」以外には、この短い言葉で彼女を理解できない。

 屋上で飛び降り自殺を図るというスキームがないところでこの歌詞を読むと、一般的にありふれた状況として行間を理解しようとするので、〈「さよなら」だけだった/その一言で全てが分かった〉というのは、別れの危機に瀕している二人がいて、相手が送ってきたこの上ない短い言葉でその結論に至る相手の考えがわかった、というくらいの意味になるだろう。

 

〈日が沈み出した空と君の姿/フェンス越しに重なっていた〉

 歌詞では〈日が沈み出した空〉とあるが、小説では「もうとっくに日は沈んだ」ことになっている。〈日が沈み出した空〉というのは昼と夜の境界の時間であり、ドラマチックな時間であるからこちらのほうが絵になる。小説のほうは残業後の出来事だから夜にならざるをえない。

 〈フェンス越しに重なっていた〉というのは、小説では、マンションの屋上のフェンスの向こうで彼女が飛び降りる寸前の状態にいたということである。小説の枠組をはずして解釈すると、これは日常の中の美しい一コマにすぎない。フェンスというのはどこにでもあるから、そのフェンスと〈君〉と夕空の取り合わせがきれいに見えるというほどの意味に受け取れる。ただ、その場合に不穏なワードが〈空〉と〈フェンス越し〉の〈越し〉である。〈君〉と〈空〉が重なって見えるのはよほど開けた場所ということになる。また、たんにフェンスに寄りかかっているのではなく、ここであえて〈フェンス越し〉の状態でいるとされるのは何故かということである。それは無視しようと思えば無視できるものである。そういう情景なのだと強弁することもできる。だが歌詞はこのような細部において、日常性のバイアスからはみだすものをさしはさむことで、隠された二重性をほのめかしている。小説では、このフェンスは屋上のフェンスである。しかし歌詞ではそこまで言及しない。そこまで言うとあまりに不穏すぎて、歌詞の内容が限定されて、特殊な歌になってしまう。作詞者はもっと開かれたものにしておきたかったのだろう。歌を聞く人のほうが小説を読む人の数より多い。

 

〈初めて会った日から 僕の心の全てを奪った/どこか儚い空気を纏う君は 寂しい目をしてたんだ〉

 マンションの屋上で自殺を図る彼女を助けたのが最初の出会いだった、と小説では書かれている。彼女は、「つぶらな瞳にぽってりとした唇と、可愛らしい顔立ちだが、どこか儚げな表情をしている」と描写される。ここで気になるのは「ぽってりとした唇」である。通常、こういう表現をする場合は、この女性が肉感的であり、また生命力が強いことを示している。だがこの「小説」の設定では、この女性は「僕」が生み出した死神の幻影であり、精神的な存在であるはずである。ここは「薄い唇」とでもしたほうがぴったりするのだが、作者によるひっかけなのかもしれない。「僕」は彼女に一目惚れするのだが、それは「ぽってりとした唇」に象徴される身体に性的に吸引されたせいかもしれない。

 小説の「儚げな表情をしている」というところを、歌詞では〈儚い空気を纏う君は 寂しい目をしてたんだ〉と活かしている。ただ、目は「つぶらな瞳」が〈寂しい目〉に変わっている。小説の別のところでは「虚ろな目をした彼女」となっている。「つぶらな瞳にぽってりとした唇」は歌詞の雰囲気にそぐわないディテールなので改変されたのであろう。

 ところで小説では、どうしてはじめての出会いがマンションの屋上だったのだろうか。マンションの多くは安全上、屋上を開放しておらず、屋上は見知らぬ人どうしが出会う場としてはあまりふさわしくない。「僕」の住むマンションが屋上に関するルールがゆるいところだったとしても、「僕」いったいは屋上に何をしに行ったのだろうか。高いところから景色でも見ながらタバコを吸いに行ったのか。小説には書かれていないが、状況から推測すると、おそらく「僕」もまた飛び降りるために屋上に行ったのではないか。そしてそこで同じようなことを考えている彼女に出会ったのである。似たものどうしだったから、強く惹かれたのである。

 だが、このように考えると或る矛盾が生じてしまう。「僕」が死に場所を求めて自分で進んで屋上に行ったのなら、死の世界へと導く役の死神など必要ないだろう。死のうとしている彼女(死神)を見て、逆に「僕」は生の側に立って彼女を引き止めることになった。他人が死のうとするところを客観的に見ることで、自分のやろうとしていたこと(自殺)も客観的に見れるようになったのだ。死神はむしろ「僕」の死を遅延させたのではないか。ただ、「僕」んもすぐには思いきれないので、何回も屋上に誘い出し、完璧な死へと導いたということだろうか。

 

〈いつだってチックタックと 鳴る世界で何度だってさ/触れる心無い言葉うるさい声に 

涙が零れそうでも/ありきたりな喜び きっと二人なら見つけられる〉

 ここは歌詞のオリジナルな部分である。小説が投稿されたmonogatary.comでは、「お題」を決めて投稿を募集している。この小説は「夏の夜、君と僕の焦燥。」という「お題」のもとに投稿されている。小説では「お題」の「焦燥」を二つの観点から取り入れている。ひとつは、彼女の自殺をとめるためにマンションの階段を駆け上がるということ。もうひとつは、現代社会のせわしなさということである。ラストはこうなっている。

 

  この世界が僕らにもたらす焦燥から逃れるように、

  夜空に向かって駆け出した。

 

 つまり屋上から飛び降りた、ということである。「この世界が僕らにもたらす焦燥」というのは、小説の文脈では、お盆なのに残業したとか、ブラック会社に勤めているといったことである。時間に追われ休むまもなく働かされているということだろう。ブラック会社は強欲でせわしない社会の典型である。たんにその会社だけの問題ではなく、私達が生きている社会全体がそうなのである。だから、そこからは逃げることができない。その外側はない。逃げるためには生の向こう側に行かなければならない。歌詞では、自殺をとめるのに間に合うかという直接的な部分ではなく、現代社会に対する批評的な部分をふくらませている。作詞したAyaseはインタビューで、この小説のことを「スピーディー」「疾走感」があると言っている。それは曲としてはアップテンポにすることで表現され、歌詞においては時計の秒針が〈いつだってチックタックと鳴る世界〉と書かれることになった。〈触れる心無い言葉うるさい声に涙が零れそう〉というのはブラック会社での仕事を抽象的な言葉で敷衍したものだろう。

〈ありきたりな喜び きっと二人なら見つけられる〉に該当する部分は小説には存在しない。小説では、彼女と「僕」の関係がどういうものなのか、よくわからない。親しい友達なのか、恋人なのか、どのていど親密なのか。彼女は最近同じマンションに引っ越してきたということ、「いろいろな話をするようになり、仲良くな」って「付き合い始め」ていること、ということしかわからない。〈ありきたりな喜び きっと二人なら見つけられる〉という歌詞は、彼女が死神だとわかったとたん、空疎に響く。「僕」の想像から生まれた存在なので、〈二人〉というような対称性はない。〈ありきたりな喜び〉を彼岸での幸せととらえれば、これはかなりアイロニーのきいた歌詞ということになり、〈二人なら〉というのは二人で飛び降りたということになる。

 

〈騒がしい日々に笑えない君に/思い付く限り眩しい明日を〉

 これも歌詞のオリジナルであり、先程と同じテーマの反復である。小説と照らし合わせるなら、この部分はかなり強烈な反語的表現ということになる。彼岸の世界のことを〈眩しい明日〉というからだ。だが、普通は、ポップな曲にそれほど強い反語的な二重性があるとは考えないから、ここは歌詞を字義通りに青春ぽいものに解釈しようとするだろう。裏の意味との距離が遠いくなるほど歌詞の自律性が高くなる。歌詞の言葉の表面的な意味だけで構築された世界が浮かび上がる。

 

〈明けない夜に落ちてゆく前に/僕の手を掴んでほら〉

 ここは直前のフレーズと対句的になっていて、同じようなことを繰り返している。

〈騒がしい日々に笑えない君〉=〈明けない夜に落ちてゆく〉

〈思い付く限り眩しい明日を〉=〈僕の手を掴んでほら〉

 よく見ると、その前も似たようなことを言っているのである。

〈いつだってチックタックと鳴る世界〉というのは〈騒がしい日々〉のことだし、〈心無い言葉うるさい声に 涙が零れそう〉をかんたんに言ったら〈笑えない君〉ということになる。〈ありきたりな喜び〉をグレードアップしたら〈眩しい明日〉になるし、〈二人なら見つけられる〉というのは〈僕の手を掴んで〉いれば二人なのである。このあたりは同じようなことを言葉を変えて言っていて、それはここから、二人の人生が交差していく要所だからだ。

 小説だと、マンションの屋上から飛び降りようとする彼女を「僕」が救うわけだから、それを前提にすると、〈明けない夜に落ちてゆく前に/僕の手を掴んでほら〉という箇所は、まさにそれをほのめかしているものと読める。ただ小説では、「彼女が僕の手を振り払おうとしたので、思わず力強く握ってしまった」と書かれていて、彼女は「僕の手を振り払」いこそすれ、〈僕の手を掴〉もうとすることはない。歌詞では彼女や「僕」の意思を手の動きで表現しようとしており、手のしぐさは重要である。歌詞の後の方では小説に従い、〈がむしゃらに差し伸べた僕の手を振り払う君〉と描写されている。このあと、彼女の手の動きも出てくるのだが、ここではとりあえず「僕」の手の動きとして、〈手を掴んでほら〉と差し伸べていること、そしてそれは振り払われることを押さえておこう。なにしろ小説の彼女の正体は死神なので、常識はずれな言動をする。小説に寄り添う歌詞は死神云々は言及されないからわかりにくいものになっている。

 ここは文脈上関連したことが続けて述べられており、〈騒がしい日々〉〈眩しい明日〉とのつながりで、〈明けない夜に落ちてゆく前に/僕の手を掴んでほら〉というのもアレゴリーとして読むことができる。飛び降り自殺というもう一つのレイヤーがなくても、歌詞のテクストだけでそれなりの解釈が可能だ。

 

〈忘れてしまいたくて閉じ込めた日々も 抱きしめた温もりで溶かすから/怖くないよいつか日が昇るまで 二人でいよう〉

 ここもまた先ほどまで言っていたことと同じことの繰り返しだが、それをよりJポップふうの言葉で再解釈している。そのため歌詞のオリジナルな言葉遣いになっている。小説をベースにしているせいでい、どこかに芯を感じるのだが、ここはフワフワしたありきたりな言葉に終始している。

〈忘れてしまいたくて閉じ込めた日々〉というのは〈騒がしい日々〉〈明けない夜〉を敷衍したものである。このあとでも〈変わらない日々〉とあるが、この歌詞では語り手の環境を表すのに〈日々〉という言葉で表現することを好む。この〈日々〉は〈チックタックと鳴る世界〉の〈世界〉のことである。〈日々〉とは、継続する〈世界〉のことだ。〈日々〉は〈変わらない日々〉とあるように、繰り返しを基本とする。〈変わらない日々〉は〈閉じ込めた日々〉となって堆積されていく。そこにあるのは永遠の反復で、いわば昨日と同じ今日の繰り返しである。変化をもたらす〈明日〉はない。だから〈日が昇る〉〈眩しい明日〉を迎えることが希望になる。〈閉じ込めた日々〉を〈抱きしめた温もりで溶かす〉ことができれば、〈変わらない日々〉の呪縛も解けるだろう。

〈抱きしめた温もりで溶かす〉というのは〈僕の手を掴んで〉の延長にあり、〈いつか日が昇るまで〉というのは〈眩しい明日〉のことである。〈二人でいよう〉は〈二人なら見つけられる〉と同じだ。

 

〈君にしか見えない 何かを見つめる君が嫌いだ/見惚れているかのような恋するような そんな顔が嫌いだ〉

 他の何かに心を奪われていて「僕」を見てくれない、ということであるが、この部分は歌詞の文脈ではやや唐突に挟まれている印象を受ける。これは小説に書かれていることを、あえてJポップふうに翻訳したものである。だがここは、Jポップのスキーマだけでは不可解さが残る。〈君にしか見えない 何かを見つめる君が嫌いだ〉とあるが、ここで〈何か〉と曖昧にしているものがわかりにくい。Jポップのスキーマではこの〈何か〉に「夢」などを当てはめることが多い。遠い夢を見つめる君が、僕から離れていく、みたいな歌である。

・その瞳はキラキラ光って 遠く夢を見てた/優しく笑うあなたの顔 もっと早く 忘れたい もう二度と 会えない(SOPHIA-誰もいない海を見てた-」作詞、松岡充2003年)

とかがそうである。

 では、〈君にしか見えない 何かを見つめる君が嫌いだ/見惚れているかのような恋するような そんな顔が嫌いだ〉の〈何か〉に「夢」を入れてみたらどうなるか。ちょっと違和感が生じる。夢を見ている〈君が嫌いだ〉というのは否定しすぎであろう。Jポップでは相手が夢を追いかけて自分から離れていくことは、寂しいけれど応援しなくてはならないことなのである。それも含めて好き、なのであるはずだ。現実はともかく、歌のなかではそのように気張った応援者である。歌の中でくらい夢を応援してもいいだろう。

・何より素敵な贈り物なのね 遠くを見つめる眼差しが あなたがその夢あきらめることは 淋しさよりつらいな私は(菊池桃子、作詞、売野雅勇1987年)

という心の動きが定形になっている。

 だからもしここが〈夢を見つめる君が嫌いだ〉ということになってしまったら語り手は自分のことしか考えない我儘なやつということになって、聞き手の共感のレベルが下がってしまう。さらに〈見惚れているかのような恋するような そんな顔が嫌いだ〉とも言っていて、自分以外の他の人に見とれているならともかく、好きな人が好きなものは自分も好き、というのが定形で、だから、これが「夢」だとしたら、夢を追いかける君の横顔が好きだ、と普通ならなる。

〈見つめるその先に 今何が見えてるの 真っ直ぐに夢を追いかける 君の横顔が好きで…君の夢は僕の夢でも あるから大事にしたい〉(Kazoo「Brand New Day」作詞、kou takahashi、2017年)

 好きな人が一生懸命やることは応援するし、その姿勢も好きであるはずだが、「夜に駆ける」はそういう定形からはずれた歌詞になっている。

 この部分は小説を読めば、このように書かれた理由がすぐわかる。彼女は死神を見つめていたのである。死神はその人にとって「一番魅力に感じる姿をしている」ので、それを見つめる彼女もうっとりした表情になってしまうのだ。ただし死神は他の人からは見えない。「まるで恋をしている女の子のような表情をした。まるでそれに惚れているような。/僕は彼女のその表情が嫌いだった。」このあたりは小説とのギャップで、歌詞の意味はそういうことだったのか、という謎解きのような驚きを覚えるところである。ただ、小説そのものにおいては矛盾がある。彼女自身が死神なので、死神が死神を恋した人の目で見つめるというのは理屈があわない。無理やり解釈すると、彼女は「僕」に、私に惚れているあなたは今こういう顔をしているのよと教えているのである。彼女は死神であると同時に「僕」の鏡なのである。死神が「一番魅力に感じる姿をしている」のは、死へのあこがれが強いからだろう。

 いずれにせよ、「夜に駆ける」がJポップの歌詞の定形から少しでもはずれることができたのは、小説をベースにしたからであることは間違いない。小説という外部のものを持つことによって、マンネリから逃れることができたのだ。

 

〈信じていたいけど信じれないこと そんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあって そのたんび怒って泣いていくの/それでもきっといつかはきっと僕らはきっと 分かり合えるさ信じてるよ〉

 この部分では「信じること」「分かり合うこと」について書かれている。小説の登場人物の内面の独白として該当するものはないが、無理やり探せば、死神の存在を信じるかどうかということになる。だがそれは、やや無理があるだろう。だからここは歌詞の完全オリジナルな部分であると考えたい。そもそも彼女は死神なので対等なコミュニケーションがとれるわけではない。あくまで「僕」が生み出した幻想だ。小説でも彼女の生活がどういうものか、まるで描かれない。そういう朦朧とした人物と分かり合うとか信じるとか信念にかかわることを言うことは無理だろう。だから小説からは離れた部分である。ただ、聞き手の日常生活においてはよくあることなので、聞き手の共感をさそうために置かれた言葉だろう。

 この部分のもう一つの特徴は、促音「っ」のたたみかけと〈きっと〉の繰り返しである。

・どうしたって、きっと、これからだって、いくつもあって、怒って、きっと、きっと、きっと

 これは、自分の思っていることに言葉が追いつかないほど気持ちが高ぶっていることを表している。実際この〈そんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあって そのたんび怒って泣いていくの/それでもきっといつかはきっと僕らはきっと〉という部分は、文章としては体をなしていない。口のもつれを写したような文の乱れは、つんのめるほどの勢いを表現している。何しろ彼女は屋上から飛び降りる寸前なのだから、もたもた話している時間はない。とにかく止めなければならない。

 そしてここを前後でサンドイッチしているのが、〈信じていたいけど信じれないこと……分かり合えるさ信じてるよ〉という部分である。ここが実質的に言いたい部分である。つまり〈信じていたいけど信じれない〉ということを急いで否定するために〈きっと〉の部分でその理由を説明し、〈きっと分かり合えるさ信じてるよ〉と前向きなものに変えているのである。要点は、〈信じれない〉を〈信じてる〉に反転することである。(つづく)

若い性はどう描かれたか

1 ABCソング

 〈ABCは知ってても それだけじゃ困ります アルファベットのその次は 旺文社カセットLL〉という学習機器の販促コマーショルが、私が小学生の頃(一九七〇年代)流れていた。中学生になると、この〈ABCは知ってても それだけじゃ困ります〉という部分を、ませた友人などは訳知り顔で口ずさんでいた。私はあとで知るのだが、Aはキス、Bはペッティング、Cはセックスという、順番を意味する隠語である。ペッティングというのはわかりにくいが、セックスにまで至らない愛撫のことである。語源としてはペットのように可愛がることだ。〈ABCは知ってても それだけじゃ困ります〉という歌詞を裏読みすれば、セックスで妊娠しないように準備しておけといったほどの意味になるだろう。

 最近はこのABCの隠語はすっかり聞かなくなった。実際、段階を追って関係を深めていくのではなく、AがあればCまで一気に進むので、分ける意味がない。特にBとCは切り離しが難しいだろう。ウィキペディアの「ペッティング」の項目には「思春期から結婚前の男女間や近親姦において、妊娠・性感染症の危険性や処女を失うことへのためらい、性交同意年齢など心理的に罪悪感や様々な抵抗がある。そのため性交まで至らず、その前段階に留まりつつも身体的に快感を追求している状態こそが、中盤を取り持つペッティングであった」と書いてあるが、現在はそうした「ためらい・罪悪感・抵抗」が薄れているから、中間段階の切り分けは意味がないだろう。逆に、昔は、性行為のひとつづきの流れをABCという差異で区切ることによって、一線を越えようとする手前で踏みとどまらせる関門を作っていたのだといえる。次の「段階」へ進むには、相手の許しが必要になる。この点、かつてのほうが女性の主体性が残されていたといえる。なんとなく最後までいってしまうのではなく、段階的な名前があることを知っていたほうが、関所を越える意識を持ちやすい。

 ネットには、「DEF」の解説もあって、Dは妊娠(順番からしてそうだが、文字がお腹が膨らんだ形に見える)、Eはengagedで婚約、Fはfamilyで家族になるということらしい。Eは中絶とするものもある。こじつけであり、どのような説明も可能だろう。そもそも「ABC」はたんに順番を示すもので、そのような頭字語としての意味はない。「HIJK」というのもあるが、くだらないから省略する。

 ABCの隠語について、ネットでは8090年代に流行ったと書いてあるものがいくつか見受けられたが、私が中学生の頃(1970年代後半)には既にかなり浸透していた。研究社で1975年に『アメリカ俗語辞典』という酔狂な本を出しているが(翻訳)、そこにはABCについて上述のような意味は載ってない。アメリカでは60年代に性の革命が起きており、性に対する「ためらい・罪悪感・抵抗」は薄れていた。周囲の目を気にしながら段階的に交際を発展させていくABC方式は日本的なものだろう。もちろん、どこまで進んだかということは当人たちにしかわからないことであるから、本人の倫理的な抑制や、ふしだらな女と思われないためのふるまいとか、「彼と昨日キスしたの」などと友人らに報告する場合などしか段階は意味はなさないけれども。

 旺文社のCMが性的な意味で歌われたということは、『ABCは知ってても』というタイトルのマンガ(山辺麻由)や小説(夏井瑤子)が90年代前半に出ていることからも明らかだろう。もしかしたら、ABCが性的接触における進行段階の隠語となったのは、旺文社のコマーシャルが起源なのではないかとすら思える。冒頭に掲げた歌にはいくつかバージョンがあって、〈I LOVE YOU を知ってても それだけじゃ困ります〉という歌詞があるようだ(音源未確認)。これはかなり性的なニュアンスを含んでいる。作り手は子ども向けの真面目な学習機器に性的なことをほのめかすような遊びはしないはずで、〈I LOVE YOU〉は誰でも知っている英語ということで使ったのだろうが、それが、〈I LOVE YOU〉という言葉は知っていても、その次はどうすればよいか知っているかという意味で受け止められたのではないか。

 性的な符牒である「ABC」は80年代にいくつかの歌で取り上げられた。代表的なのは沖田浩之のデビュー曲「E気持(イーきもち)」(作詞、阿木燿子1981年)である。沖田は硬派な不良のイメージで売っていたのに、〈Aまでいったと〉〈Bまで済んだと〉〈Cまでスムース〉〈ABCハーンE気持〉という歌詞にかなり面くらった。これでは不良と言っても軟派である。沖田がこの歌を自らすすんで歌いたいと思ったとは思えず、テレビを見ていて痛々しいものを感じた。ただ、歌詞じたいはABCの意味を的確にとらえていて、ここにあるように、彼と「どこまで進んだか」というのは、当時の女子学生の定番の話題だった。焦ってはいけない、遅すぎてもいけない、つきあって1か月でAとか、夏休み中にはCとか、交際期間に応じたあるべき到達度が設定されており、女性ティーン誌などが有力な情報源だった。

 「E気持」は大学(キャンパス)が舞台で、そこでABCと進んでいく男女が噂になる。大学を舞台にしたのは歌の過激さをやわらげるためだろう。噂が噂として広まるのは平均から突出した者に制裁を加えるためであることが多いのだが(現在では、噂は、画像や音声という根拠をともなって写真や動画で拡散される)、この歌ではそうではなく、俺達は〈仲間同志さ手を貸すぜ/大人は昔の自分を忘れてしまう生きものさ〉とあるように、仲間うちで連帯し、無理解な大人に対抗しようとするのである。80年代前半まで中学・高校は生徒の暴力で荒れており、その原因は大人たちの無理解とされていて、沖田浩之は生徒の暴力やいじめがテーマだった『三年B組金八先生』の第二シリーズ(19801981)で注目されたから、その雰囲気が歌にまで持ち越されたのだろう。〈常識なんてぶっとばせ〉と歌うこの歌は、性の解放は旧弊からの解放の象徴でもある。

 もうひとつよく知られるABCソングは中山美穂のこれもデビュー曲「C」(作詞、松本隆1985年)である。中山自身が出演するテレビドラマ『夏・体験物語』の主題歌で、ドラマは初体験に憧れる女子高生たちの学園コメディ。性的モチーフが中心となり、16歳で初体験し妊娠・中絶したり避妊の方法とか結構なまなましいセリフが飛び交う。歌詞もそれに見合ったもので、〈Tシャツを脱ぎながら 入り江に走る/見ないでね 約束よ 水晶の波/てのひらに もぎたてのリンゴかくして〉とエロティックである。〈Cから始まる 恋のバラード〉とあり、この頃になるともう、ABCの順番どおりではなく、ABCの全てを一度に経験してしまうようになっている。沖田浩之の「E気持」がたとえ駆け足でも段階を踏んでいくとしたら、こちらはまどろこしくてそんなことはやっていられないとばかりに、一足飛びに〈Cから始まる〉のである。〈友達と話したの 誰が最初に 大人への階段を登るかなって〉ともあって、ABCの段階的進展を踏まえているように見えるが、この場合は一段目が〈C〉なのである。

 

2 果実ソング

 中山美穂の「C」で注目したいのは、〈てのひらに もぎたてのリンゴかくして〉というところだ。この歌は、月明りの夜の入り江で若い男女が性行為を行うというものだ。女性の方は初体験らしい。それをきらびやかな言葉を散りばめてロマンチックなものとして書いている。この作詞家は〈月明かり(灯り)〉と〈入り江〉の組み合わせが好きで、他にも、松田聖子秘密の花園」(1983年)、近藤真彦「永遠に秘密さ」(1984年)などでも用いている。入り江は海岸線がくぼんだ場所で周囲から隠されている。それが月明かりとなれば一層神秘めく。

 〈Tシャツを脱ぎながら 入り江に走る……てのひらに もぎたてのリンゴかくして〉とあり、手ブラで胸を隠したということである。歌詞を読むと、夜の浜辺で男を追いかけながらTシャツを脱ぎ捨て、胸だけは手で隠している、という珍妙な絵が浮かぶ。それに、ここまでは積極的なのだが、性行為に入るとウブなお姫様みたいに神妙になってしまうギャップもおかしい。能動性と受動性を組み合わせている。女性の性へのあこがれを描いているように見えて、実は男性の願望を投影したもののようにも思える。歌を受容する若い男女のどちらが聞いても自分が都合よいように解釈するであろう。

 それはともかく、ここで〈もぎたてのリンゴ〉というのは若い女性の乳房の比喩である。松本隆もよくこんな歌詞を書いたと思うが、ウィキペディアでは自ら志願して書いたものだとの記載がある(「C」の項目)。松本はちょうど松田聖子から距離を置き始めた頃で、聖子は並のアイドルとは別格だったからできなかったが、いかにも女性アイドルのデビュー曲っぽいエッチなアレゴリーの歌詞を書いてみたかったのかもしれない。

 脱線するが、松本隆が書く聖子の歌はたいてい相手の男性より少し高みにたってものを言うところがあって、歌詞のなかの女性は聖子のイメージでちょっとお高くとまっていた。相手の男のことを「白いパラソル」では〈あやふやな人ね〉と言い、「赤いスイートピー」では〈気が弱い〉、「渚のバルコニー」では〈あきれて〉、「Rock'n Rouge」では〈決めてるけど絵にならない〉、「ハートのイアリング」では〈男らしく抱いて〉などと、相手のことは好きだけれど相対的な優位を随所に示す物言いをしている。また、「秘密の花園」の〈私のことを口説きたいなら〉、「天国のキッス」の〈愛していると言わせたい〉、「ピンクのモーツァルト」の〈色っぽい動きだけ計算してる〉など、自分が主体となって相手を操作している一面があるところを見せる。松田聖子は男に都合よく動かせるアイドルのイメージを付与されなかった。都合よく動いているようでも、そこにはしたたかな〈計算〉がある、というイメージが歌詞によって作られている。

 話を戻すと、歌で、若い女性を果実に喩えることはよくある。古いものにスリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」(作詞、星野哲郎1959年)がある。冒頭から〈若い娘は ウフン〉とお色気満載で、〈ほらほら 黄色いサクランボ/つまんでごらんよ ワン/しゃぶってごらんよ ツー/甘くてしぶいよ スリー〉と思わせぶりだ。この歌でサクランボが具体的に何を意味しているのかははっきりしないが、歌詞の言葉やサクランボの大きさから、乳首など身体の部位を想像させる。サクランボが黄色とされているのは、黄色の種類のサクランボということではなく、赤く色づく前の成熟していない状態を思わせる。黄色=若い娘、ということである。

 戦後すぐに流行った「リンゴの唄」(作詞、サトウハチロー1946年)の〈赤いリンゴ〉は換喩的である。この歌でリンゴに〈くちびる寄せて〉いる語り手(歌い手である若い女性)はリンゴと密接に関係した存在であり、赤い頭巾をかぶった女の子を赤ずきんちゃんと言うように、リンゴについての記述はそのまま語り手についての記述になっている。だから〈リンゴの気持ちはよくわかる〉というのである。オリジナル盤では一番を並木路子、二番を霧島昇が歌っている。歌詞の二番では〈あの娘よい子だ 気立てのよい娘/リンゴによく似た 可愛い娘〉とあるように、第三者の視点になるが、歌い手が交代していることを考えると、視点の交代は妥当な解釈であろう。ここではリンゴは直喩として用いられる。だがこの歌では、リンゴはたんなる比喩にとどまらず、言葉にしがたい様々なものの象徴になっている。

 山口百恵の「青い果実」(作詞、千家和也1973年)はよく知られるが、タイトルには「果実」とあっても、歌詞に果実は出てこない。次に、歌詞に果実が出てくる歌をいくつか掲げてみよう。

 

・私は今もぎたてのオレンジ したたり落ちる甘いしずく/私は今まぶしさの最中 季節の色に染まる果実(柏原芳恵「毎日がバレンタイン」作詞、阿久悠1980年)

・私達って早熟の果実甘い蜜の香り 熱い吐息 頬をピンクに染めてた(おニャン子クラブ「早すぎる世代」作詞、秋元康1985年)

・軟派少女の真似して 口笛吹きほどいたポニーテイル/午前四時のビルの谷間 ガラスの天使たちがいっぱい……ひと夏のさよならの果実たち(荻野目洋子「さよならの果実たち」作詞、売野雅勇1987年)

・近ごろ私達は いい感じ/悪いわね ありがとね これからも よろしくね/もぎたての果実の いいところ/そういう事にしておけば これから先も イイ感じ(PUFFYこれが私の生きる道」作詞、奥田民生1996年)

・成熟した果実のように あふれ出してく 欲望に正直なだけ(SPEED「Go! Go! Heaven」作詞、伊秩弘将1997年)

・柔らかい口唇は禁断の果実……あぁ甘く香り立つ 魅惑の果実(深田恭子「最後の果実」作詞:黒須チヒロ1999年)

 

 例にあげたのは、いずれも男性が作詞し、若い女性アイドルが歌うものである。期せずしてそういうものばかりになったが、男性歌手が果実ソングを歌っていないわけではない。女性歌手もカマトトぶってはいるが歌詞の意味がわからないわけではない。彼女たちにこのての歌を歌わせるのは、商品説明を自分でおこなわせると同時に、作り手も聞き手も「言葉責め」を楽しみたいところがあるからであろう。

 女性を食べ物に喩えるというのはよくある。なかでも果実というのは未熟な青い状態から、熟れた成熟した状態まで変化があり、また、割れば果汁があふれてくるなど、エロティックな想像をかきたてやすい。

 果実というのは、その前に花の状態がある。花も女性の比喩になる。〈うつ向き加減の Little Rose 花びら 触れて欲しいの〉(松田聖子青い珊瑚礁」作詞、三浦徳子、1980年)などがそうである。花が開く前は蕾で、少女のままであることを意味する。蕾、花、果実という植物の変化が、そのまま人間の女性の成長になぞらえられる。

 果実は女性の喩えであるだけではなく、男女問わず若者を指したり、恋愛の心理状態を指したりすることがある。『狂った果実』(石原慎太郎)、『不機嫌な果実』(林真理子)といった小説があるが、これらは性に対して奔放なところがある人たちが登場している。学歴に苦闘する大学生の青春を描いた『ふぞろいの林檎たち』というテレビドラマもあった。最近だと『フルーツ宅配便』(鈴木良雄)というマンガは性風俗を描いていて、源氏名がレモン、あんず、モモといった果物名である。

 恋愛の心理状態を果実に喩えるのは、例えば河合奈保子「夏のヒロイン」(作詞、竜真知子、1982年)の〈甘いですか酸っぱいですか ちょっと青い フルーツみたい これが恋ね あなた〉がそうである。甘いだけではない、ちょっと酸っぱいところがあるのが恋愛なのだということであろう。また、甲斐智枝美「レモンの恋」(作詞、竜真知子、1981年)では〈恋は青いままのフルーツ……レモンの恋 もう はなさないでね〉と歌われる。こちらの恋はさわやかではあるが酸っぱさが強そうだ。いずれも作詞は竜真知子である。

 果実のいくつもある種類のなかで歌詞によく用いられるのが林檎や桃である。これらは球形をしており、男性に比べ曲線で構成される女性の身体に類似の想像力がはたらく。とくに胸部と臀部の膨らみは女性の身体の外観を特徴づけるから、球形の果実が比喩の対象に選ばれることになる。

 まずは小説から果実の比喩をあげておこう。村上春樹は独特の比喩で知られるが、これはそれほどオリジナリティはない。「グレープフルーツのような乳房」(『風の歌を聴け』)、「グレープフルーツのような大きさとかたちの、美しい一対の乳房」(『1Q84』BOOK 1)と果実の比喩を書いている。男性週刊誌のグラビアでは、「たわわなフルーツボディ」のような表現をしばしば見かけるし、大きな胸の女子アナがスイカップと呼ばれたこともあった。NHK地方局の契約キャスターだった古瀬絵理は、その胸の大きさからスイカップのあだ名がつけられた。ウィキペディアによるとそれは2003年である。このことが重要なのは、おそらく、それまで小説や歌の歌詞など限られた場所で用いられていた果実の比喩表現が、ここで一気に人口に膾炙したであろうということだ。

 女性の胸の重さを果実で喩えると何になるかというウェブページがいくつかある。以下、カップサイズと両胸の平均的な重さによる喩えである。

A 140g キウイフルーツ1個分

B 280g リンゴ1個分

C 480g グレープフルーツ1個分

D 760g リンゴ2個分

E 1.1㎏ パイナップル1個分

F 1.6㎏ マスクメロン1個分

G 2.2kg 小玉スイカ1個分

https://nakanode.com/breast-size/

 上記で参考にしたのはブラジャーを扱う会社のホームページなので、女性が見て嫌悪感を抱かないように配慮されているはずである。重さを比較するのが趣旨であるはずだが、形状においても球形の果実のほうが類似のイメージが持てるようだ。ここで選ばれた果実は文芸や流行歌などで比喩する対象となったものと共通している。

 これまで果実と書いてきたが、果物と書いても同じである。指す対象は同じだが、果物のほうが食べ物としての意味が強くなる。果物は食料品としての用語で、果実は生物学の用語だ。女性の身体を果実に喩えるのはそれが食べ物でもあるからで、性と食はつながっているとはよく言われる。次の歌詞は、食べることが攻撃性へと変わってしまっている。

 

・君の胸は まっ赤なリンゴさ まっぷたつにわりたい この指で/かぶりつき みつの味を 一人じめしたいよ(あいざき進也「狙いは女神」作詞、岡田冨美子1975年)

・ほらリンゴは食べごろだよ 噛めば 愛の血が満ちる……もう芯まで熟れてるのに 照れててんでいくじなし!(森川美穂「姫様ズームイン」作詞、ちあき哲也1986年)

 

 次の歌は珍妙なタイトルだが、ここにリンゴが出てくる。これは身体の部位の比喩というよりは恋愛の状態のことである。リンゴが出てくるのはロビンフッドが頭の上に置いたリンゴを見事矢で射たからで、そのロビンフッドの矢も、恋のキューピッドの矢からの連想で出てきたものだろう。矢はエロティックなものを連想させる。

 

・木陰に身をかくし ロビンフッドみたいに すばやく愛の矢をはなってくれた/青い青いリンゴが 赤く赤く色づいたのは あなたの矢がささったせいよ(榊原郁恵「いとしのロビン・フッドさま」作詞、藤公之介、1978年)

 

 次の歌にはイチゴが出てくる。イチゴは赤いので口唇の比喩になりやすい。ひとつめはまさにそれで穏当だが、ふたつめのイチゴは乳首の比喩である。しかもそれをタイトルにもってきている。17歳の女性アイドルにこういう歌を歌わせるのは1980年代後半のアイドル冬の時代を生き残るために必要な過激さだったのか。作詞の阿久悠も全盛期の感覚を失くしていたのか。

 

・ボニーボニー イチゴのような君のくちびる(近藤真彦「ミッドナイト・ステーション」作詞、松本隆1983年)

・たとえばそうね いちごがポロリ そんな感じかな/踊りに夢中に なってるあいだに 肩ひもがずり落ちて/そりゃもう おおさわぎ(本田理沙「いちごがポロリ」作詞、阿久悠1988年)

 

 次の二つの歌ではピーチ(桃)が出てくるが、ここでは女性の皮膚の色味や肌理の比喩になっている。

 

・君はもう まるごとフルーツのようです 素肌もかわいらしくピーチ/ぜひとも今夜 愛のフォークで突き刺したい で すかさず頬ばりたい……あふれる果汁 指ですくってホラ 味わってみたい(及川光博「まるごとフルーツ」作詞、及川光博2002年)

・薄いピーチの皮をむいてゆくように ストッキングをそっと脱がせようか(大谷めいゆう「フルーツ・ラ・ブ・モード」作詞、田久保真見2009年)

 

 果実の中では、ピーチ(桃)が一番女性の身体に近いかもしれない。『いろごと辞典』(小松奎文、角川ソフィア文庫2018年)には「桃」の項に、そっけなく「お尻」とあるだけ。この辞典は江戸時代中心だが、用例もないので、当時はそれほど広く用いられなかったのだろう。桃も今ほどありふれてはいなかった。当時は現在ほど身体の発育もよくなかったから、果物のように丸く張った乳房やお尻は少なかっただろう。ちなみに「桃尻」というのは、エロティックなお尻のことではなく、桃の実の先が尖っていることから、尻の落ち着かないことである。

 アメリカ俗語辞典』には、「peach」は「アンフェタミン」、「fruit」は「同性愛者」という説明がある。ネットで果物に関するスラングを調べても、果物が女性の身体に直接結びついているものは少なく、メロンが胸のことを言うとあるくらいだ。アメリカでは身体に向けられた性的なまなざしが果物のような比喩的媒介を経ずに直接、即物的にそれを捉えるのかもしれない。果物を女性の身体に結びつけて想像するのは現代日本においてだけなのか。今後の課題にしておく。

 ピーチ(桃)がそうだったが、球形という形状のほかにも、果実は女性の身体を連想させるところがある。果汁や食感(やわらかさ)、味覚(甘酸っぱさ)などに重点が置かれ、他の果実が選ばれることもある。

 

・ねえ 抱きしめられたら 甘いジュースになっちゃう/私もぎたてフルーツ パイナップルみたいに/ねえ わたしをみて ホラ みつめられたら はじける/私とびきりジューシー パイナップルみたいに(小泉今日子「パイナップル・フィーリング」作詞、森雪之丞1983年)

・君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね/咲かせましょうか 果実大恋愛(フルーツ・スキャンダル)(中原めいこ「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね」作詞、森雪之丞1984年)

 

 並べてみて気がついたのだが、いずれも作詞は森雪之丞であった。こういう発想を好む書き手なのだろう。後者は、パパイア(おっぱい)、マンゴー(おまんこ)といった響きが連想されるために選ばれたのだろう。いずれも若い女性自身に歌わせるところがミソである。歌ってる方も、歌詞の裏の意味なんて関係ないという顔をしている。

 果実を直接指さず、それが生(な)っている状態を言うことで間接的に果実の比喩を用いている場合もある。果実が枝にたくさん実ると重みで枝がたわむ。「たわむ」という動詞が形容動詞になったのが「たわわ」。〈たわわな胸〉〈たわわなバディ〉のような例がいくつかあるが、「たわわ」には大きいとか豊かという意味はない。〈たわわな胸〉は「柔らかに曲がっている胸」ということで、日本語として意味をなさない。略し過ぎである。たわわに実る果実のような胸、と言わねばなるまい。「たわわ」という語の響きにたくさん生っている感じがあるので勘違いしたのだろう。

 女性の身体を果実に喩えないで直接言うこともある。

 

・そっと口唇なぞれば華しゃな腕絡みつくよ/熟れた乳房鷲掴み どこまでアバンチュール(郷ひろみ「どこまでアバンチュール」作詞、HENRY HAMAGUCHI1984年)

 

 作詞のヘンリー浜口というのは(作曲もしている)、郷ひろみペンネームである。このとき郷ひろみ29歳になっており、アイドルという年齢でもなかったから欲望を率直にぶつけたような歌詞を書けたし歌えたのだろうが、〈熟れた乳房鷲掴み〉とは冒険的な表現である。〈自分で乳房をつかみ〉と歌う「時には娼婦のように」(作詞、なかにし礼1978年)の衝撃的なヒットから6年経っていたが、当時34歳になったばかりでニヒルなイメージのあった黒沢年男ですらこの歌を歌うのを尻込みしたという。だが、ひろみの歌には「時には~」のような退廃さはなく、方向性を見定めるための実験として〈アバンチュール〉に傾斜しているように見える。いずれにしても、こうした直接性は女性アイドルにはとうてい無理である。

 歌詞サイトで検索すると、歌詞に「乳房」を含む歌は200曲弱あった。そのほとんどが演歌と、エロをタブー視しない男性歌手によるもので、演歌は女性も歌っているが、若い女性アイドルはいない。演歌の場合〈乳房〉は、エロティックなイメージよりは母性的なものに回収されていく。

 女性の身体の部位を果実の比喩で表現することは、言葉としては迂遠であるが、イメージ喚起としては効果が高い。基本的に隠されている部位については、それを言葉で指し示されても指示対象についてのイメージが乏しいので言葉の響きが残るだけである。だが、よく知っているもので喩えられると、それを頼りに想像力を発動させることができる。比喩によるコラージュである。そしてまた、たんなる形状の類似だけでなく、その色や肌触りや弾力性(桃)、果汁のしたたり具合、熟し具合、食べること(究極の所有感)などが比喩の連鎖としてアレゴリカルに受容される。こうした点で、女性の身体部位のうち性的特徴のある部分を直接名指すよりは(場合によっては放送できないし、同性からも拒絶される)、果実による比喩で表現したほうがエロティックな度合いが増すのである。そしてそれを、本来ならその意味に気づいて恥ずかしがる年頃の女の子たちに、売ることと引き換えに歌わせることで従順さもが演出されるのである。

尾崎豊「虹」の読書会

 尾崎豊の「虹」(作詞、尾崎豊、1990年)はCD2枚組アルバム『誕生』に収録された歌である。最初に聞いたときはアルバムの埋め草のような退屈な歌だなと思ったが、ライブビデオでじっくり歌う姿を見ているうちにスルメを噛むような味がある歌だなと思った。今回は、ファン以外には知られないようなこの歌を取り上げてみよう。よく知られていない歌のほうが尾崎豊という強烈なキャラクターから離れてテキストそのものに向き合えることができるだろう。

      *

1

 雨まじりの強い風が吹くなか、早坂は区民センターめざして歩いていた。駅から目的地まで歩いて十五分たらずだったが、傘でしのぎきれない雨が服をしっとりと濡らした。十二月だというのに春のような暖かさで、気持ち悪いほどだった。

 区民センターは有名な建築家が設計したもので当初こそ奇抜なデザインを興がられたが、新鮮さは既に失せ、周囲の家並みから浮いた佇(たたず)まいは今や滑稽さを残すだけとなっていた。

 読書会の開始時刻は午後三時である。二〇分前に着いた早坂は、借りてきた鍵で会議室のドアを開けると、薄暗い部屋の蛍光灯をぱちんと点(つ)けた。小さな会議室の隅には、折りたたみ式の机と椅子が寄せかけてある。人数が少ないので一番小さな部屋を予約してあった。おかげで借りるのも簡単だった。

 今日集まるのは早坂を含めて五人である。女性二人と男性三人で、お互い初対面の人はいない。会員は十数名いるが、取り上げる本によって食指が動かない者は参加しない。今回は小説やビジネス書ではなく詩、それも歌詞を読もうという初めての試みだ。参加者が少ないのも仕方ない。他方で、ふだんあまり参加しないが今回は是非参加したいという男性が一人いた。

 テーブルを広げ、周囲を五つのパイプ椅子で囲んだ。来る途中のコンビニで買ってきたペットボトルの温かいお茶とスナック菓子を机の上に並べていると、ポツポツと参加者が集まりだした。

「なんだか妙に暖かくておかしな天気だな。上野のほうで、強風でビルの看板が落下したらしいぞ」

「ホントもう、髪がバサバサ」

「よかった、来てくれて」

「うーん、実はちょっと迷ったけど」

「すぐ暖房がきいてくるんで、服を乾かしてくださいね」

 などと話しているうちに、予定していた五人が集まった。

 今日は尾崎豊の「虹」という歌詞を読むことになっている。決めたのは今回の担当である早坂だ。何を読むかは事前にメールで知らせてある。尾崎豊という名前を知らない人はさすがにいないだろうが、この歌はアルバムの中の一曲なので、よほどのファンでないと知らないだろう。早坂が六歳のとき尾崎は亡くなったが、そのとき繰り返しテレビから流れた歌を聴いて母親が尾崎のファンになりアルバムを買い揃えたので、幼い早坂もよくそれを聴かされるはめになった。

 時間になったところで早坂は開始を告げ、今回の趣旨を簡単に説明した。

「どんな歌か、事前にネットの動画で確認してもらってあると思うけど念のため流しますね」

 コピーした歌詞をくばり、スマートフォンにスピーカーを付けてみんなで歌を聴いた。

 

 

    虹

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

  街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨の 小さな雫が瞳の中に落ちてくる

  閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく

  水たまりに映った 君の影が 僕の心を開く

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

  優しさだけなら 素直にもなれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする

  灰色の空の様な冷たさに震えてる

  人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて 心を開いて

 

 

「この歌詞について二時間も話すのか。時間もつかな」

 歌を聴き終わって、まず一声を発したのは小太りの西という男である。三〇代半ばで皮肉屋だ。自分ではそれを知的だと勘違いしている。二時間もつかなと言ったわりには、どこか自信ありげだ。

 たまにしか参加しないが今回特に意欲的なのは山口だ。

「僕、尾崎について結構詳しいんで、随所で解説できると思います」

 自信ありげに言う山口は二〇代前半の眼鏡男子で、高校の国語教師を目指している。現在は都立高校で非常勤講師をしている。山口は早速タブレットを取り出して操作しはじめた。調べてきたことをまとめてあるのだろう。

 進行は今回の担当である早坂の役目だ。早坂も西と同じくは三〇代半ばで、チェーン店の書店員をしている。中国地方の出身で、県内の国立大学に進学し、卒業後はコンピューター関係の会社に勤務したが、小説家になろうと思って上京し、SFの短編を書いてはコンテストに応募している。これまで三回ほどチャレンジしたが候補作どまりである。

 女性たちに歌の第一印象を尋ねた。

「イントロはいいですね。大きな虹の橋がぶわーっとかかる感じが目に浮かびます。ただ、歌詞は理解できないところがあります。雨上がりの虹っていうロマンチックな歌なのに、雨に濡れながら女の人の家のドアの前でずっと待っているって、ちょっとストーカーっぽい執念深さがあって、奇妙なところがある歌詞だなと思いました。今日ここに来るときも少し濡れたけど、この歌の人はずぶ濡れでも平気そうだから、歌の季節は夏ですね。ずぶ濡れだということは繰り返されるけど、寒くて震えるとは言ってませんから」

 そう感想を述べた香織は社交的な性格の女性で、多少理屈っぽいのはタウン誌の編集をやっているせいだろう。夜はジムでトレーニングをしたり、一人でカラオケへ行ってストレスを発散している。体に悪いのはわかっているが煙草を吸うのはやめられないという。

「私も。この人イケメンだからそんなことしそうにないって女性は騙されちゃうけど、歌詞はちょっとヘンかなと。でも、歌い方もうまいし聴き手は自然に受け入れてしまいますね。歌詞カードさえじっくり読まなければ」

 続けて発言したのはなつみである。香織の友人で、会社の事務をしている。おっとりしたお嬢様タイプで、縦巻きにした長い髪が可愛らしい。読書会ではあまり発言しないが、ときおり鋭いことを言う。

「うーん、ストーカーか。その感想をひっくり返してやりたいですね、僕は」

 と、山口は腕組みして宙を睨んだ。

 西が薄く笑った。「そうだなぁ」ともったいをつけるように喋った。顎を人差し指でこするようなしぐさをするのが話すときの癖だ。自分の頭の中から事例のストックを引き出してくるといった様子だ。「雨が降っているのに傘もささずに濡れているっていう設定はよくあるパターンでしょ。三善英史の「雨」(作詞、千家和也、一九七二年)なんてまさに〈雨にぬれながら たたずむ人がいる〉っていう歌だからね。約束した人をいつまでもじっと待っている。他には、何人にもカバーされている名曲「黄昏のビギン」(作詞、永六輔・中村八大、一九五九年)に、〈傘もささずに僕達は 歩きつづけた雨の中〉とある。この歌は状況設定がよくわからないけど、傘もささずに歩いているということで何か複雑な事情がある男女であることを想定させる。とにかく、雨に濡れ続けることは、感情を抑えた静かな激しさを表しているわけで、歌の世界の住人にとってはそれほど変なことじゃない。なにも泣きわめくだけが激しさじゃない。で、尾崎の「虹」ね。虹はロマンチックだって言ってたけど、この歌は雨があがってほしいとは歌っていても、歌詞には虹なんて出てこないよ。タイトルについてるだけ」

 西は声が大きいので威圧感がある。その西に負けじと、香織が言い返す。

「〈閉じた傘〉とか〈水たまり〉とあるので、雨はやんだんじゃないんですか。そこでこのタイトルですから、空には虹が出ていると思います。歌詞の中に描かれていなくてもタイトルも含めた全体で表現されているんだと思います」

 嫌味たらしく言われて引っ込んでいるようなおとなしい女性ではない。きつい目つきをして西を睨んだ。

 西は、ふっ、と息を漏らして言った。

「虹なんて遠くから見れば綺麗だけど実体がないものの象徴だよ。虹は陰鬱な雨に耐えたことのご褒美なんだろうけど、すぐ消えてなくなる不安定なものでもある。そこからすると、歌の二人の関係は仮に一旦良好になったとしても、それが長続きするとは思えない。ま、女のほうはどういう人物か皆目わからないけどね」

 

2

 早坂は話を切り替えた。

「最初からあまり決めつけるのはやめときましょう。歌詞を読む前に、まずこの歌の外側をざっと説明しますね。この歌は一九九〇年のアルバム『誕生』に収録されたものです。それまでの尾崎のスローバラードって、もの悲しかったり気怠かったりして狭いところに入り込んで行き詰まっている感じがしたものだったんだけど、この歌は広がりがあって安定した感じがあります。いわゆる尾崎らしさがあまりないというか」

「尾崎らしさって何?」

 すかさず西が口を挟む。定義がゆるいと我慢ならないらしい。

「尾崎らしさというのは、深い内省があるかと思えば過剰な激しさもあることです。あるいは、権威への反抗があるかと思えば他者に理解を求めたりします」

「この歌は」と西が疑問を呈した。「内省はちょっとしかないけど、〈ずぶ濡れで待つ〉なんて過剰さがあるし、権威への反抗はないけど〈心のドアを開けて〉なんて他者にすがっているじゃない。それは尾崎らしさじゃないの?」

「まあ、細かいところはあとにしましょう」と、早坂は軽くいなした。

「わかったよ。両極端だってことなんだな」

 西は意外にあっさりと矛をおさめた。

「ええ、両極端な人なんですけど、それゆえの疎外感を他者との一体感で埋め合わせようとするみたいなところがありますね。もちろそんそれは求めても得られないものですけど」

 早坂は続けた。

「この歌の「虹」というタイトルは、尾崎の歌の中では明るく希望のある感じのものだと思います。ライブ映像を見たとき、飾らずのびやかに歌っていたのが印象に残っています。曲のアレンジも、大空に虹がかかっているイメージを想像させます。歌詞は、雨に包まれる街を自分の心情風景に見立てていて、比喩もわかりやすい。一見、そう見えます。ただ、サビの部分はちょっとヘンな人と言われればそうです。歌を聴いているときはそれほど違和感はないのですが、こうして歌詞を文字として読んでみると言葉の意味がはっきりわかって、どうしても目がそこにいってしまいますね」

 早坂が一息ついたところに、すかさず西が割り込んだ。

「この歌は、井上陽水の「傘がない」に似ているなと思ったね。ネットで見たら尾崎は陽水が好きだったって書いてあった。「傘がない」は、連合赤軍が一九七二年に起こしたあさま山荘事件の二か月後に発売されたアルバム『断絶』に収録されていて、若者が社会的なものへ無関心になっていく様を描いている。「傘がない」は、新聞やテレビには暗いニュースがあふれているが、君のこと以外は何も見えない(見たくない)と歌っている。私的なことに開き直る罪悪感への償いであるかのように語り手は雨に濡れる」

 山口が憤然とした口調で、「どこが似てるっていうんですか。全然違うように思うけど」と、言った。

「状況は違うけれど、似ているのは言葉だ。「傘がない」にある〈君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ/つめたい雨が僕の目の中に降る〉という部分は、「虹」では〈雨が上がるのをずぶ濡れで待つ〉〈雨の小さな雫が瞳の中に落ちてくる〉とあって、そのまんまでしょう」

 嫌味な西の発言にムッとして山口がさらに反論した。

「雨が目の中に降るって、ありきたりの涙の比喩なんで、パクリみたいに言わないでほしいですね。森田健作の「さらば涙と言おう」(作詞、阿久悠、一九七一年)は、〈雨の降る日を待ってさらば涙と言おう/頬をぬらす涙は(略)小雨に流そう〉と歌ってますよ」

 西は平然と返した。

「それは涙を雨でごまかすということだよ。でも尾崎や陽水の歌詞は、目薬みたいに目の中に雨が降るっていうことで、発想が異なっているよ。一般的には、雨で涙を表す場合には、雨が頬にかかるとか頬を濡らすという描写をするよね。涙は目から出るものであって、外から目の中に入ってくるものではないから」

 山口が放った言葉は西に叩き落とされてしまった。

「まぁ、細かいことはまたあとでふれましょう」

 早速ヒートアップしそうなので、早坂は仲裁にはいった。じっくり語るべきところは語るが、歌詞についてパクリなのか偶然の一致なのかを言い出すときりがないし、それを裁断する場でもない。進行担当として、先に進むことにした。

「全体的な印象ですが、歌詞は雨のイメージに満ちています。単調なくらい雨のイメージ一本槍だといっていいです。もちろんこれは、たんなる雨降りの歌ではありません。雨について語りながらそれとは別のことを語っています。それは、語り手である〈おいら〉は今、生まれ変わる苦しみの中にいるということです。雨に濡れるのは、そのための禊(みそぎ)のようにも思えます。ただし僕には、その生まれ変わりはうまくいかないように感じられます。さきほど香織さんは傘を閉じたとあるから雨はやんだと言いましたが、〈だから今日も〉とあるように、この人は何日も雨に濡れているようにも思えるんです。雨が降ったりやんだりが繰り返されているんじゃないかな。ちょっとした晴れ間はあるけれども、ピーカンの青空までには至らずに、またグズついた天気になってしまう」

 なつみがおずおず口を開いた。

「私はこの歌に出てくるような男の人って苦手だな。このタイプの人って自分の気持ちをわかってくれっていう強引さばかりで、相手の気持ちはわかろうとしないんです。〈ずぶ濡れ〉で相手を待ち続けるってそういうことでしょう」

 どこか自分の過去の経験を語っているようにも聞こえる。

 なつみが話の流れからずれたようなことを言ったため、どう受けていいかわからない早坂は軽くうなづいただけで、半ば無視するように続けた。

「一般に、小説やドラマなどで雨が出てくるときにはそれなりの理由があります。天気は晴れであることが「無徴」です。無徴というのは、その言葉からまず想像されるもののことです。今日はいい天気だ、というのは晴れていることを意味しますよね。雨は、悲しく憂鬱な気分を表す隠喩だったり、出かけるのを控えるといった行動の制限、濡れないために傘のような雨を防ぐ手段を必要とする煩わしいことの象徴だったりします。そのため、雨上がりの後の虹は、沈鬱な気分が去ったことを示すわかりやすい記号になっています。自然現象の虹は、目には見えるけれどもすぐに消えてしまうし、どこまで行ってもつかめない。それでいて鮮やかです。だから希望の比喩としてよく使われる。遠くから憧れの眼差しで見ることはできるが、たどりつくことができず、つかむことができない」

「それはさっき俺が言ったことじゃないか。繰り返すなよ。くどいな」と西が口を挟んだ。

「ええ。もうちょっと敷衍させてください」早坂が弁明する。

「手短に頼むよ。新味のない意見を聞くのは時間の無駄だからな」と西が念押しする。

「いいじゃない。早坂さんの言うことを聞きたいわ。私は」香りが援護する。

「ありがとうございます。もともとこの読書会は実用的なものではないので勘弁してください、西さん」

「おまえらデキてんのか」西が冷やかす。「俺はジャイアンじゃねぇからな。強引に仕切るつもりはない。好きにしろよ」

「では」と早坂は続けた。「雨は人を家の中に足止めにし、事態を停滞させます。だから逆に、そんな雨の中に飛び出し、あえて雨に濡れることが意味を生じさせることになります。90年代のトレンディ・ドラマでは、喧嘩のすえ土砂降りの雨の中に飛び出した恋人を傘もささずに追いかけたり、あるいは雨の中で抱き合ったりする場面がよくありました。こういうとき彼らは、大切な人との別れや死という重大な局面を迎えていることが少なくありません。たんに雨が降ることと雨に濡れることでは意味が異なります。

 神話に典型に表れていますが、水に濡れることは、洗い清められることを意味しています。もっと言うと、生まれ変わることを意味している。その典型が禊(みそぎ)や洗礼です。禊は汚れを水で洗い清めることであり、洗礼はキリスト教徒として生まれ変わること。これらは神話や伝説に起源を持っています。日本では修験道で滝行をおこなっています。冷たく強い水に打たれることで精神修養をするのですが、肉体的にハードなので、没我体験を起こして自然との一体感を得られることもあるようです」

「雨の中でずぶ濡れになっていると普段の自分じゃなくなっちゃうってのはわかる」となつみが言った。「ドラマなんかでも、雨の中で濡れている二人って普段は言えないことを言っちゃうのよね。異常事態だから、つい本音を口にしてしまう」

「なつみさんもドラマ好きなんですね」

「恋愛ものとか大好きでよく見てます」

「うちも、母が見てるんで、つきあわされてつい見てしまいます。昔のドラマもレンタルでよく見てます」と早坂が嬉しそうに言った。「歌詞では、〈おいら〉は自らすすんで〈ずぶ濡れ〉になっています。〈おいら〉が人間関係において精神的に打ちのめされていることが〈ずぶ濡れ〉という比喩で語られていると同時に、〈おいら〉は雨に打たれることでこれまでの過去を雨によって洗い流し、過去を切断し、生まれ変わり、それまでの自分を超えようとしているように見えます。雨は精神的なダメージとその乗り越えを同時に意味していると思います。〈おいら〉は変化の過渡にあるように見えるのです。

 それは「虹」というタイトルにも暗示されています。旧約聖書にあるノアの方舟(はこぶね)の物語では、四〇日続いた大洪水のあと、神は今後このような大洪水は起こさないと約束し、その証(あかし)として空に虹をかけました。大洪水は地上に増えた悪い人間たちを一旦リセットするために神が起こしたものです。洪水によって地上は洗い流され、生き延びたノアの家族や動物たちは、いわば生まれ変わった人類です」

「約束の証が虹っていうのは洒落てるわね」と香織が言った。「私たちが虹を見るときも、雨に耐えたご褒美っていう感じがする」

 早坂の話を聞きながらうなづいていたなつみが思い出すように言った。

「何年か前に見た『ノア 約束の舟』っていう映画でも最後に虹がかかっていました。ノアがちょっと理解できない人に描かれていて、楽しくなかったけど」

 

3

 早坂はテーブルの上のチョコレートを一つほおばり、生ぬるくなったペットボトルのお茶を一口飲んだ。他の者もてんでに菓子をつまんだ。なつみは「このチョコおいしい。どこで買ったんですかー」と目を輝かせて、パッケージをひっくり返して眺めていた。西が「ふぁーっ」と大きなあくびをして両手を伸ばした。煙草を吸いに外に出ていた香織が部屋に戻ってきた。いぶしたような匂いを身にまとっている。

「歌詞をこまかく読んでいきましょう」

 小休止のあと早坂は再開した。

「まず、タイトルの「虹」ですけど、さきほども少し議論になったんですが、虹は歌詞の中には出てこないですね。歌詞の視点は街に膠着していて、空には虹がかかっていないとしても、それを雲の背後に潜在性として感じることで、街の背景に奥行きや広がりが出ます。

 歌には、タイトルにある言葉が歌詞の中でも使われているパターンと、タイトルにある言葉が歌詞の中では使われていないパターンがあります。歌ができる経緯を考えれば、タイトルがまず頭に浮かんでそこから歌詞を書き始める場合と、歌詞を書いてからその中の印象的な言葉をタイトルにもってくる場合、それと歌詞の全体的な雰囲気から歌詞の中にはない言葉をつける場合が考えられます」

 尾崎ファンである山口が自分の出番とばかり、解説をはじめた。

「尾崎の場合、最初は、タイトルにある言葉が歌詞の中でも使われているというシンプルなものが多かったんですが、そうでないものも増えていきます。タイトルは歌詞と少し離れていたほうがヒネリが感じられてカッコいいです。中には謎解きを要するようなわかりにくいタイトルもありますが、この歌は〈雨が上がるのを〉待っているという最初の一行でタイトルの意味はわかります。

 尾崎の歌のタイトルは比較的わかりやすいですよ。「BOW!」「卒業」「存在」「シェリー」「彼」「核」「LIFE」「時」「理由」「KISS」「COOKIE」「FIRE」など、単語を一語置いただけのシンプルなものも少なくないです。「虹」もこの系列にはいりますね。「虹」のように漢字一字のタイトルは、「彼」「核」「時」があります。漢字一字に高い象徴性が負わされています」

 スマートフォンをいじっていた西が、画面を見せながら言った。

「今、スマホの歌詞検索サイトで調べたら、Jポップには漢字一字の〈虹〉というタイトルの歌はざっと数えただけでも五〇曲以上はあった。「桜」というタイトルも多いけど、それより多い。桜の花びらと虹に共通するのは、その存在は鮮烈だが、それを目にできる時間が短いということだ。綺麗だがはかないものである。はかないから日常化しない。だから人は惹きつけられる。「虹色~」というタイトルも多いし、同じように「桜色~」というタイトルも多い。両方とも日常を超えた不思議な感じをもたらしてくれるものという共通点がある」

「虹というタイトルが桜のそれより多いのは意外でした」と、早坂が少し驚いてみせた。

 西は即興の思いつきをそれらしく仕立て上げて喋るのが得意だ。さらにその場で思い浮かんだであろうことを続けた。

「もしこの歌のタイトルが「虹」ではなく「雨」とか「雨上がり」「灰色の街」とかだったらどうだろう。そのほうが歌の内容に即している。しかしそれでは展望が開けない感じだし、内容とタイトルが「つきすぎ」ている。「つきすぎ」というのは俳句の批評でよく使われる言葉なんだけど、一つの句の中に似たような題材を二つ入れてしまうことで結びつきがわかりやすくなって広がりが出ないってこと。この歌では、歌詞と関連はあるが直接には言及されない「虹」としたことで歌詞世界に広がりがでた。雨が上がっても虹がでるとは限らない。むしろ虹が空にかからないことのほうが多い。だから珍しがられる。雨が上がることと虹がかかることのあいだには飛躍がある。「虹」という歌では、雨上がりにおいて、たんに雨が「ない」というだけではなく、虹が「ある」という状態だというんだね。雨が止んだだけでは状況の遷移がはっきりしない。虹という区切りが必要だと言っているんだ。ちなみに、現象としては別物だが、虹と似ているものにオーロラ(極光)がある。見ることのできる場所が限られているだけに非日常の度合いが増す。オーロラは夢や神秘、ありえないものの象徴として使われている。虹よりフィージビリティー(実現可能性)が低いんだ」

 西という男は皮肉屋だが、議論を深めてくれるのでありがたい存在だと早坂は思った。もしかしたら嫌われ役をすすんで引き受けて議論を活発にしようとしているのかもしれない。だが、いつまでもタイトルにこだわっていては先に進まない。どうしようかと迷っていたら、いいタイミングで山口が発言した。

「雨や虹のほかにこの歌詞の印象を方向づけるものとして語り手の自称があります。語り手が〈わたし〉と言うのか〈俺〉と言うのかで歌詞のイメージが随分違ってきます。この歌での一人称代名詞、つまり語り手自身を指す言葉は〈おいら〉と〈僕〉が混在していますね」

「あ、ホント」香織が気づかなかったというふうに嘆息した。山口はちょっと得意な顔になって眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと上げた。

「尾崎の歌の一人称はたいてい〈俺〉か〈僕〉なんですが、〈おいら(俺ら)〉を使うものは他に「街の風景」「ハイスクール Rock’n’ Roll」「COOKIE」があります。これらは初期に作った歌です。他にも「秋風」「弱くてバカげてて」「酔いどれ」「もうおまえしか見えない」などデビュー前に作った歌で、アルバムには選ばれず、死後発掘されたものが〈おいら〉で語られています。つまり尾崎豊という書き手が選んだ一人称代名詞は当初〈おいら〉だったということですね。それではあまりに田舎くさいので〈俺〉や〈僕〉になっていったのでしょう。正式に世に出すものと決めた作品として〈おいら〉が使われているのは、「街の風景」「ハイスクールRock’n' Roll」という最初のアルバムに収録された歌と、「虹」「COOKIE」という後期のアルバム『誕生』に収録されたものだけです」

「そうね、男の人で自分のことを〈おいら〉なんて言う人は私の周りにはいないもの」お嬢様ふうのなつみが言った。

ビートたけしが「おいら」って言うよね。足立区の下町で育った人で、「おいら」は下町言葉だ」と西が補足した。

 山口は「なるほど」と頷いた。「尾崎は一九七〇年前後の幼少時代を練馬区で過ごしています。周囲はまだ田畑や原っぱが広がっていて、都市化されつつあったけど、まだ過渡の時期ですね。実は、「虹」と「COOKIE」のサビ部分の歌詞は、デビュー前の創作ノートに書かれていたものをそのまま利用したものなんです。だからそのとき使っていた〈おいら〉がそのまま残ったんですね。のちに「虹」となる詞は、当時のノートではこうなっていました。

 

  今日も雨があがるのを ずぶぬれで待つおいらさ

  ねえ あきれた顔をしないで 心のドアをあけて

尾崎豊『NOTES 僕を知らない僕 1981-1992』新潮社、二〇一二年、一九頁)

 

 このフレーズは、その後もノートに繰り返し現れますから、よほど気に入ったイメージだったんでしょう。だから〈おいら〉もそのままにしておきたかったんじゃないでしょうか」

「〈ずぶ濡れで待つ〉っていうのは大人らしくないと思っていたけど、やっぱりそうだったのか。〈ずぶ濡れ〉になるのは子どもなら半分遊びみたいなもんだ。でもそれを大人になってやると、かなり追いつめられたイメージに変わってしまう」と西は言った。

「そうですね。同じイメージを使うにしても年齢によって受け取り方が違いますね」と山口は応じた。「人称についてもう少し話しますね。二人称を見ると、「虹」では〈おまえ〉と〈君〉が混在しています。これは、〈ずぶ濡れで待つおいらさ おまえ呆れた顔をしないで〉、〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉と使われているように、「おいら/おまえ」「僕/君」がセットで使い分けられているんです。人称というのは単独で存在するものではないですから。必ず対他関係をともなっています。〈おいら〉という人称では、それにふさわしいまなざしで世界を見ている。だから〈おいら〉の目に映るのは〈あなた〉ではなく〈おまえ〉なんです」

 いかにも国語の教師を目指している山口らしい読み方だった。

 

4

 早坂がチラッと時計を見ると、始まって一時間ほどが過ぎたところだった。まだ歌詞の具体的な内容に入っていない。歌詞に限らず読書会で詩を読んだことはなく、この短い歌詞で二、三時間もたせられるかと不安だったが杞憂に終わりそうだ。

「歌詞を最初から見ていきたいんですけど、この歌は奇妙な始まり方をしていますよね。ここも山口さんが得意なところだと思うんですが、どうですか」

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

 早坂が振ってきたのを山口は引き取った。

「はい。冒頭に〈だから今日も〉とあって、たしかに不思議な始まり方ですが、理由は単純です。これはサビを頭に持ってきただけです。いきなり聴き手の心をつかむためによくある構成上の手法です。歌詞としては、倒置法と同じ効果を生んでいると思います。唐突に〈だから〉と始まると聴き手はとまどいます。〈だから〉という接続詞は、その前に理由となる文を必要とします。〈だから〉に続く文は、その理由を承(う)けて導かれた出来事が語られるはずです。けれど、この歌ではその前の部分が語られないまま始まりますから、聴き手は〈だから〉の前に何があったのか好奇心がかきたてられ、推測することになります。冒頭に置かれた〈だから〉は、聴き手をとまどわせると同時に歌詞の世界に引き込む力を持っています。たった一語で聴き手は、自動的に謎解きに参加させられるんです。ま、答えはすぐ後に続いてるんですけどね。つまり、相手の〈心のドアを開けて〉もらいたいから、ということです。おまえさんに心を開いてもらいたいから、おいらは雨の中で濡れたまま待っているのさ、呆れないでくれよ、ということです」

 山口を補足するように西が他の例を引いた。

美川憲一の「さそり座の女」(作詞、斎藤律子、一九七二年)は〈いいえ私は さそり座の女〉と始まる。いきなり〈いいえ〉だからね。これも、その前が気になるな」

 香織は「それはわかるんですけど」と、眉をひそめる。「「虹」の、この二つの文は〈だから〉で結ぶにはどうもしっくりこないんですよね。どうして、〈おまえ〉の〈心のドアを開〉けるために、〈ずぶ濡れ〉で待つという行為が選択されるのか。両者には順当な因果関係はありませんよね。〈だから〉の後に続く文は、理屈っぽい接続詞のわりには説明になっていないと思います。継起する関係がなぜそうなのか、さらに別の説明を必要とする内容です。わかるのは〈おいら〉の頑張りというか意地を見せているということだけです。〈ずぶ濡れ〉の自分を見せれば、かえって相手の心証は悪くなる(呆れる)とわかっているのに、〈おまえ呆れた顔をしないで/心のドアを開けて〉くれと言うんですから、相手の反応は無視して自分のやり方を押しとおそうとしているんです。〈心のドアを開〉けさせるにはいろんなやり方があるんでしょうけど、相手の反応にかかわらずそのやり方を変えない。〈おまえ〉に見せつけるためにやっているパフォーマンスなんですが、それが気味悪がられているのに自分は精一杯やっているからいいと思っている。ズレてることに気づいていないんです」

 自分の考えを率直に述べると辛辣に聞こえる、ということを香織は承知している。けれども迂遠な言い方に変換しようと配慮しているあいだに口が先に動いてしまうのだ。

「そう。そこに飛躍があるのに〈だから〉という接続詞が出てくる発想をしてしまうこの男の人が、私にはちょっと無理かなと思います。さっきも同じことを言ったんですけど」なつみが女子の意見という感じで言った。

「対話的でなく一方通行なんだな。昨今なら、サプラ~イズ! とか言ってびっくりさせるやり方があるけど、あのサプライズっていうのも相手の都合を考えてないよな。感動と驚きとを勘違いさせている。吊り橋理論みたいに。やられた方はありがたがるしかないだろ。〈おまえ〉も〈呆れた顔〉をする以外にない。でも〈呆れた顔〉を見れたということはドアを開けることに成功したということか」と言って、西は首をひねった。

「建物のドアではなく比喩としての〈心のドア〉ですからね。〈呆れた顔〉では〈心のドア〉は開いてないと思います」と香織は言った。

 西は素直に、そうか、と頷(うなづ)いた。香織は、ちょっと意外だといった面持ちで西を見て、さらに続けた。

「なんにせよ、この人のやろうとしているのは、相手が呆れようが何しようが、その強情ぶりに諦めて〈心のドアを開〉けさせることです。〈ずぶ濡れ〉になるのはそのための自虐的な演技でしょ。これは誠実で粘り強いというより相手のことを考えない自己中心的な性格の表れだと思います。境界例っぽいですね。〈だから今日も〉の〈今日も〉は女の人にとっては怖いですよ。毎日帰り道で待ち伏せするストーカーみたいに、この人は、昨日も一昨日もそうしていたのだし、おそらく明日以降も同じ事を繰り返します。変わった人だと〈呆れ〉られても、それを変えるつもりもまた、ないんです。それは、自分は相手に好かれているはずだ、相手は誤解しているだけだ、という根拠のない自信があるからでしょう」

「〈だから〉は、昨日もやった、だから今日もやる、という反復それ自体を理由にしているんじゃないかな」と、西は言った。

 なつみが香織のあとを引き継いで話しはじめる。

「女子的に引いちゃうのは〈ずぶ濡れで待つ〉というところです。小雨だったら、月形半平太じゃないけど「春雨じゃ濡れて行こう」ってのはカッコいいんですけど、〈ずぶ濡れ〉ってのは普通じゃない。そもそも〈ずぶ濡れ〉になってしまえば、〈雨が上が〉ろうが上がるまいがどうでもよくなると思うんですけど」

「ま、そうだね。雨の中での行為としてはふさわしくない。ふさわしくないところにメッセージが込められている。そこを読み取ってくれという歌だ」西が腕組みをして言った。「雨には雨のアフォーダンスがある。アフォーダンスとは、環境が人に与える、行為の可能性だ。たいていの人は雨に濡れることを嫌う。だから雨を避けようとする行動をとる。なぜ濡れるのを嫌うかというと、水は空気に比べたら熱の伝導度が二〇倍以上あるから、水に濡れたままでいると空気よりも大量の熱エネルギーが体から奪われてしまう。雨は人間の生活にとっては必要なものだけど、衣服を通してであれ人体に直接作用するのは嫌だから、雨を避けるために傘をさしたり、外出を控えたりする。〈ずぶ濡れ〉が続く状態は、体温が落ち生命力が弱っている状態だね」

 早坂は言葉の問題に引き戻した。

「〈今日も〉と〈ずぶ濡れ〉はどのように待つかを表していますね。今日も待っている、ずぶ濡れで待っている。〈ずぶ濡れ〉で待とうがどうしようが、それが〈雨が上がる〉ことに影響を及ぼすことはない。科学的には因果関係はない。しかし呪術的な行為としては、〈ずぶ濡れ〉で待つことが気象に影響を与えうる。それは「祈り」あるいは「儀式」のような行動です。この雨はたんに気象としての雨ではないですから、〈ずぶ濡れ〉で待つことは気象に働きかけうるんですね。

 表面的な物語は、自分は雨に濡れて外で待っているんだから家のドアを開けて中に入れてくれということです。そういう物語として読むことができる一方で、アレゴリーとして明らかに別のことも意味しています。雨や虹は、たんなる気象現象ではなく別のものの比喩です。それが何かはわかりやすい。歌詞でずっと歌っているのは「心を開くこと」です。「雨=心を閉ざした状態」「虹=心を開いた状態」ということです。心の持ち方を問題にしている。ただ、ここでは閉ざされているのは〈おまえ〉の心とされていますが、実は、心を閉ざしているのは〈おまえ〉だけではないんですね。自分もまたそうなんです。それはまた後でふれることになると思いますけど。

 比喩とはいえ、〈ずぶ濡れ〉で待つことには、尋常さを超えた思い込みの激しさがあります。〈ずぶ濡れ〉というのは自分なりの誠意です。そこまでやっているのだから〈心のドアを開けて〉くれという交換を暗黙のうちに要求しています。あるいは、〈ずぶ濡れ〉でいる滑稽さは、雨の岩戸の奥に隠れた〈君〉という天照大神を誘いだすために岩戸の前で滑稽な踊りを踊ったアメノウズメのようにも見えます。道化を演じていますね。

 この歌では〈ずぶ濡れで待つおいら〉のことが歌われていますが、もう一人の登場人物である〈おまえ〉がどういう状況でいるのかよくわからないままです。おそらく濡れてはいないでしょうね。自分は〈ずぶ濡れ〉であるが、〈おまえ〉はこの雨で濡れてはいない。その非対称を告発しているのかもしれない。〈おいら〉は誰も見ていないところで〈ずぶ濡れ〉になるのではなく、その姿を〈おまえ〉という観客の前にさらしているのです。〈ずぶ濡れ〉になることはナルシスティックに自己憐憫の感傷にひたるという意味もあるでしょうが、それだけではなく、濡れた姿を〈おまえ〉に見せつけることで、雨に打たれた子犬を目にしたときのような哀れさの感覚を相手にもよおさせるんです」

「演劇的だよな」西が口を挟んだ。「俺は、ニーチェの言うキリスト教的な論理を連想した。雨に打たれた弱者を装い、恵まれたところにいる相手に心理的な負債を負わせる。負けているほうが強い。相手に直接はたらきかけるのではなく、自分が被害者になることで間接的に相手を操作しようとしている」

「そこまでの解釈は深読みすぎませんか」と山口は言った。「ただ、相手の拒絶や見捨てられる恐怖から自己破壊的な行動をとるのは、境界性パーソナリティ障害の特徴のひとつで、尾崎にはその傾向があると指摘する精神科医は何人かいるので、それが歌詞に反映していると言えなくもないですけど。どうなのかな」

「ちょっと歌詞からは脱線しますけど、ずぶ濡れでたたずむ姿は尾崎っぽいなと思います」と早坂が言った。「何年か前に、『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』というドキュメンタリー映画を見たんです。1987年に熊本県の野外劇場で夜通し行われたロックフェスで、7万人の観客を集め、記録的な豪雨のなか行われたイベントとして知られています。尾崎も深夜2時ころ出演して、その時が雨量のピークでした。歌っているアーティストはもちろん観客もずぶ濡れですが、尾崎にぴったりのシチュエーションだなと思いました。それでもフェスは貫徹され、観客がひけて最後に泥だらけのくぼんだ足跡が無数に残っているのが印象的でした。これは災害だなと」

「歌謡曲って雨の歌が多いですよね」と香織が言った。「うちのおじいちゃんが好きだっていう歌は戦前戦後に流行ったものなんですけど、「雨に咲く花」「小雨の丘」「雨のブルース」「或る雨の午後」「雨の夜汽車」「雨のオランダ坂」とか、雨のナントカっていうタイトルがいくつもあります」

「感傷的な歌が多いですからね」と山口が言った。山口はタブレットを操作して、「雨のなかでもすごい土砂降り(どしゃ降り)という言葉を歌詞に使っている歌を検索したら900曲近くありました。昔の雨の歌は、悲しいけど思い出になっているぶんおだやかなものが多いですが、土砂降りというのはもっとはげしい感情とセットになっていて劇的なシーンを想像させますね」

「一番印象的なのは和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」かな」と西が笑った。「和田アキ子のイメージでは普通の雨ではもの足りない」

 

5

 一休みしたところで早坂は続けた。

「歌詞では、雨の様々な様態が写生されています。まずは〈街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨〉と全景が捉えられ、次いで〈小さな雫が瞳の中に落ちてくる〉と微視的に捉えられます。映画のカメラワークふうに言えば、街全体を写すロングショットから一気に特定の個人の顔にクローズアップしています。

 雨粒は、宙空を落ちて地面にたどりつく前に、物に接触してその様態が雨粒から流体に変わります。それを〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉と描写し、最後に地面に到達して〈水たまり〉になって、雨とは別な状態をさすものになります。〈落ちてくる〉〈こぼれた〉〈流れてく〉〈水たまり〉。空から落ちてきた雨が地面に落ちて雨でなくなるまでの過程を観察して丁寧に描いています」

「尾崎は短歌をやっていたので言葉による外界の描写に長けているんでしょう」と山口が補足した。

「歌詞のこの部分をさらにこまかく見てみます」早坂は続けた。「〈街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨〉とあります。歌のタイトルが「虹」なので、この歌はどこかカラフルな感じを先入観として持ってしまうんですが、歌詞には、色に関しては〈銀色に染めて〉とか〈灰色の空〉とあるだけです。銀色も灰色も同じです。鼠色、薄墨色、鈍色(にびいろ)などいろいろ呼び名はあるけど、色とついてはいても彩度はなく明度があるだけです。そうした色のない世界ではありますが、雨が上がることによって、潜在的に虹を隠し持っている世界ではあります。雨に覆われた街は全体が灰色に塗り潰されていますが、雨が上がり、虹がかかるときは、街を包むように大きな七色の橋をかけることになります。街がモノクロがカラーに変化するんですね」

 西が何か言いたそうな顔をしたので、早坂は「どうぞ」と促した。

「〈銀色の雨〉とか〈銀の雨〉とか、雨を銀色に喩えるのはよくある。さっき出した「黄昏のビギン」もそう。サトウハチロー作詞の「古き花園」では〈雨の色はいぶし銀〉。雨の色については、〈水色の雨〉とか〈透明な雨〉という歌詞があるけど安易だろ。それに比べたら、〈雨はふるふる城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる〉という北原白秋の「城ヶ島の雨」は大正時代に作られたものだけど、雨の色ひとつとっても名作と呼ばれるものはよく考えられている。利久鼠というのは灰色のことで少し緑色をしている。城ヶ島を散歩していた白秋が、雨にけぶる木立(こだ)ちを見てその色名を取り入れた」

「そうですね」と早坂は引き取った。「銀色の雨というのは都会的です。雨の色は背景の色に影響されるから、高層ビルやピカピカしたものが多い都会では銀色と言いたくなる。白秋が木の緑を背景にした雨を利休鼠と言ったように。なんにせよ、言葉でも絵でも雨の表現は難しいですね。同時にヴァリエーションもある。『雨のことば辞典』というのがあるくらいです。

 さて、「虹」に話を戻しますね。〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉とあります。傘は雨から身をかばうためのものですが、その傘を閉じている。一方、森昌子の「せんせい」(作詞、阿久悠)には、好きな先生を見送るのに〈傘にかくれて 桟橋で〉とあります。このとき傘は自分のからだを人目から隠す役をはたしています。いずれにしても、傘は、自分の身体を直接外界にさらさないように守るためのものです。雨に象徴的な意味があったように、傘も別の意味を持っています。「虹」では、後段で〈嘘の痛み〉〈人波に心許せず〉とあるように、傘というのは他人の冷たさから自分を守るバリアなんです。その傘をささないでいるというのは無防備な状態です」

「〈閉じた傘〉というのは誰の傘なの? 〈ずぶ濡れ〉でいるはずの〈おいら〉が傘を持っているのはおかしいよね」と西が口を挟んだ。

 早坂はそう言われればそうだ、と思った。それで「他人の傘のことを描写しているんですかね」と答えた。西は続けた。

「〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉と細部を描写するんだから、近くにある傘を見ているということだ。でも、こんな〈ずぶ濡れ〉でいる人の近くに他人は寄ってこないでしょ。だからこれは自分の傘じゃないかな。そうすると、この人はよっぽど変な人ということになる。傘がなくて濡れたままでいるのなら、濡れることは気にしない豪胆な人だという理解もできなくはないけど、傘があるのにそれを閉じたままにして濡れるに任せているとしたら、その人は何かの理由で一時的に茫然自失しているのか、あるいは日常生活においても適切な行動ができない人なのか、はたまた何か目論見があってそうしているのか、いずれかだろうね。〈ずぶ濡れ〉でかまわないんならどこかに傘は置いてくればいいのに、そうしないで、あえて傘を手に持ったまま開かないでいるとしたら、そこから何らかの意味を読み取らざるをえない。〈ずぶ濡れ〉でいることじたい普通じゃないのに、その人が傘を持っていたらよけいおかしいでしょう。周囲の人はその人を避けて通るだろう」

「ここは雨があがったということを意味してるのかもしれません。歌詞の行論上では飛躍がありますけど、雨があがったから傘を閉じたのだと」と早坂は言った。「しかもその雨はあがったばかりだということがわかります。〈閉じた傘〉というのは閉じる動作がおこなわれた直後の傘であり、その前まで傘は開かれていたということです。それを裏づけるのは〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉という描写で、たった今、傘を閉じたばかりだから、傘についていた雨が流れ落ちているんです。それと、西さんの言うように、この傘は本人のものである確率が高いんでしょう。そうすると、傘を開いていたのに〈ずぶ濡れ〉になっていたという矛盾が生じます。

 大事なのは、傘が閉じられたということが指し示す状況です。普通、傘を閉じるというのは、雨がやむことを意味しています。軒下に入って雨宿りしたから傘を閉じたということも考えられますが、それならそうした場面の転換を意味する表現が入ってもいいはずですが、それがないので、たんに雨がやんだと解釈するのが自然だと思います。この歌では、雨がやんだと説明せずに〈閉じた傘〉を描写することで雨上がりを暗示させ、そのあとに出る虹へと期待感を持たせているんだと思います。

 〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉というのも雨上がりを意味しています。雨が上がって路面に水たまりが残されたんですね。水たまりに君が映るには、水たまりが鏡面のように澄明になっていなければなりません。雨が降っている状態では、波紋ができて水たまりの水面は乱れてそこに〈君〉は映らない」

「おっと、そこは俺に喋らせてくれよ。予習してきたところだからさ」

 早坂の独演がまだ続きそうなので、西が遮った。西は、あとはまかせろ、とばかりに鼻を指でこすった。

 早坂は、どうぞ、と機械的に応じた。

「〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉というこの部分はさ、この歌で最も不思議なところだよ。〈水たまりに映った君の影〉とあるけど、この〈影〉は何のことを言っているのかね。影というのは、〈君〉が陽の光を遮(さえぎ)ることによってできる影のことなのか。しかし〈君〉が〈僕〉の近くにいた形跡はないから、陽の光を遮る影はできようがない。また、もし〈君〉が近くにいたとしたら、生身の〈君〉を無視して〈君の影が僕の心を開く〉などとも言わないだろう。ということは、この〈影〉は、影のもう一つの意味、ぼんやりした姿としての影なんだよ。古賀政男の「影を慕いて」の「影」もそうだね。また、水や鏡に映った姿のことも影という。〈君〉が〈僕〉の近くにいたとは思えないから、水たまりに映ったのは現実の〈君〉ではなく、その幻影なんだろう。いずれにせよここでいう影は、〈君〉のことを思い出すきっかけとなる像のことだ」

 西はペットボトルのお茶を一口ぐびっと飲んで続けた。

「ここでの〈君〉には生身の実体はない。プラトンの洞窟の比喩、イデアとその影のような映像だ。実体ではなく映像。水たまりの表面が鏡となって〈君〉の幻の姿を映しだした。鏡には古来、神秘的な力が宿るとされてきた。神話・伝説・昔話、現代の怪談や空想物語にいたるまで、鏡は不思議なアイテムであり続けている。鏡は異次元への入り口であったり、人の無意識の願望を映しだしたりする」

 なつみは、魔法少女のアニメの名前をいくつか挙げて、「女の子と鏡は切っても切れない」と力説した。早坂は、男の子向けの作品にも鏡が使われているとして『ミラーマン』や『仮面ライダー龍騎』は鏡の世界を経由して変身する、あれは異次元の隠喩なんです、と言った。そして『鏡の国のアリス』を付け加えた。香織も、「怪談で、鏡を見ると幽霊が映るっていうのがあるじゃない。あれ怖いよね。学校の大きな鏡とか」と肩をすくめてみせた。鏡は映像になじみやすいね、という話になった。

 西は、『イグアナの娘』を例にして、「鏡には自己の本質が映される」と言った。『白雪姫』でも鏡は、現実世界のたんなる反射板ではなく、鏡を見る人の思い込みを超えた真実を語るという。

「話を戻すと、この歌では、〈僕〉は〈君〉の姿を望んでいた。だから水たまりという小さなスクリーンに〈君〉の姿が幻影のように映ったんだ。水たまりという魔法の鏡に映された〈君の影が僕の心を開く〉。ホンモノの〈君〉は〈心のドアを開けて〉くれそうにない。それで代替物として〈水たまりに映った君の影〉が要請された。雨上がりにできた水たまりに映る〈君の影〉は、最終的に待ち望まれるものとしての虹の前兆だ。面白いのは〈君〉に〈心のドアを開けて〉くれと言っている一方で、ここでは〈僕の心〉が開かれたと言っているんだよね。実は〈僕〉も〈心のドア〉を閉ざしていたんだね。でも〈僕〉はそれを〈水たまりに映った君の影〉で、つまり自分の想像力で解決できた。今度は〈君〉だ、ということだ。

 それと、ここでは〈君〉を映し出す魔法の鏡が、水たまりという小さくつまらないものであるところに、〈僕〉のうらぶれた感じがでている。〈君〉がドアを開けて〈僕〉を受け入れてくれたら、そんな水たまりは必要ないんだけど」

 西が言い終えたところで、腕組みをして聞いていた山口が首をかしげながら言った。

「なんか、随分曲がりくねった解釈だなあ。言ってることはわからないでもないけど、そんなに混みいったものなのかな。〈影〉という一語にそんなに複雑な意味を込められたら、それを歌という一瞬耳に入って過ぎ去ってしまう言葉として聴かされるほうは認知的な負荷がかかりすぎるんじゃないですか」

 山口をチラッと見て、西は答えた。「尾崎がどこまで考えて書いたかわからないよ。無意識に出てきた言葉だろうね。でもそこには言葉の来歴が複雑に折り重なっていて、本人の意図を超えたものになっている」

「詩の言葉をどこまで厳密に解釈するかっていう問題になりますね」と、香織。

「え、その解釈を楽しむ場じゃないの、ここは」と、西があきれた顔で言う。

「西さんの解釈は一応筋が通っているから、それはそれでひとまずいいと僕は思うけど」早坂は言った。「僕も面白いと思ったのは、さっきまで〈ずぶ濡れ〉になった〈おいら〉が〈おまえ〉に〈心のドアを開けて〉くれと言っていたことを議論してきたのに、西さんの言う通り、ここでは、〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉とあって、実は自分も心を閉ざしていたのだとわかります。一体、開かれるべきなのは、「君の心」なのか「僕の心」なのか、それとも両方なのか。自分が心を閉ざしているのに、相手には心を開けと促しているのはちょっと変ですね。

 〈心のドアを開けて 心を開いて〉と〈僕〉は〈君〉に言っていたけど、それは、「僕を受け入れるために心を開いてくれ」ということでしょう。でも、そういう〈僕〉の心もつい先程までは閉ざされていて、〈君〉を受け入れる用意はできていなかった。水たまりの〈君の影〉で〈僕〉の心は開かれ、〈僕〉は〈君〉を受け入れる準備が整ったから、次は〈君〉の番だと。

 いずれにせよ確かなのは、それが〈君〉であれ〈僕〉であれ、心を開くには自分一人では不可能で、相手を必要とすることです。それが幻影だとしても。〈君の影〉を見て〈僕〉の心は開かれ、〈おいら〉の〈ずぶ濡れ〉の姿を見せて〈おまえ〉の心を開かせようとする」

「変わるには自分の内側の力だけじゃダメってことね。外から力をもらわないと」と、なつみが呟(つぶや)いた。

 

6

 山口が片手を立てて早坂を拝んだ。

「僕、久しぶりに参加したのにあんまり喋れてないんで、ここからちょっと自分に時間もらえないですか」

「山口さんの出番を削いではいけないね、どうぞどうぞ」早坂は山口に場を任せた。

 山口はペコリと頭を下げ、タブレットと皆を交互に見ながら話した。

「歌詞の残りの部分を読んでみたいと思います。

 〈優しさだけなら素直にもなれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする〉

 さきほどの雨降りの写生とは異なり、抽象的な表現が並んでいます。これは対句的ですね。素直になること=心を開くことで、心が冷たいこと=心を閉ざすことです。〈優しさ/嘘〉〈素直/心が冷たい〉という二項対立でできています。ここにあるのはぼんやりした曖昧な気分ではなく、割合単純で明瞭な心の構造です。心の動きの因果関係は、「優しさがあると↓素直になれる」「嘘があると↓心が冷たくなる」と、わかりやすいんです。〈僕〉という人間はセンシティブで扱いにくい人間のように思われているかもしれないけれど、本当はわかりやすい人間なんです。でも、だから両極端に針が振れやすいとも言える。〈僕〉の気に入るようにしてくれればご機嫌で快活だけど、気に入らないとたちまち塞ぎこんでしまう。

 続く歌詞はもう少し複雑になります。〈君〉という要素が加わるからです。

 〈灰色の空の様な冷たさに震えてる 人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい〉

 〈僕〉を凍えさせているのは雨に包まれた街、無関係な他人があふれている街という外部の環境です。〈僕〉は冷たい街に抗いがたく、それと同化しつつあります。でも〈君〉への思いが熱源になっているので、まだ冷えきらずにすんでいる。ただし、暖かいのは〈君〉そのものではなく、〈君を思う心〉なんですけどね。

 心を軸に読むと、歌詞の一番では、心は「開く/閉ざす」という空間の比喩で語られていましたが、二番では「暖かい/冷たい」という温度の比喩になっています。嘘が〈心を冷たくする〉、見知らぬ人の群れには〈心許せず〉、他方、〈君〉を思う〈心だけが暖かい〉となっています。冷たさに関わるものは「嘘、灰色の空、人波」であり、暖かさに関わるものは「優しさ、君への思い」です。

 尾崎の歌には、〈人波〉という言葉が自分に無関係に存在している人たちのこととしてしばしば出てきます。〈人波〉は物理法則のように動いているだけで、〈僕〉に関心のあるまなざしを向けるわけではありません。〈僕〉は彼らにとって物のような存在だし、彼らも〈僕〉にとって物のような存在です。「十七歳の地図」には〈人波の中をかきわけ〉と、人の群れをまるで物のように描いています。都会は大勢の人がいるのに、その殆どが自分と無関係な顔のない人達です。そんな中で手応えのある特定の人として際立った存在であるのが〈君〉なんです」

 まだまだ続けそうな気配の山口を遮り、「もうそろそろ時間だろ。最後、締めくくらせてもらってもいいかな」と、西が言った。「こんな短い歌詞でも書き手の性格はにじみ出るし、ものの考え方が反映されるものなんだな、というのは今回勉強になったよ。〈君を思う心だけが暖かい〉とあるけど、尾崎の歌詞が不思議なのは、普通は〈君〉の〈僕〉への思いが〈僕〉の心を暖かくする、と言いそうなところを、そうではなく〈君〉を思う〈僕〉の心が暖かいと言っているところだ。これはさっき山口君も言っていたね。〈君〉の心は知りようがないからなのか、自分の心について述べているだけなんだな。現実の〈君〉は、心を閉ざし〈僕〉を拒むような存在。しかし〈君を思う心だけが暖かい〉という歌詞は、〈君〉がどう思っているかはともかく〈僕〉の心の在り方だけを問題にしている。〈君〉はあくまで意識の向かう先に過ぎない。問題にしているのは〈僕〉の心の志向性についてだ。ここにあるのは自分のことだけだ。この人は最初から最後まで自分のことだけを考えている。現象学的なんだな。現象学は世界の成り立ちを自分の意識に還元する。〈君〉に心を開いてくれといってもそれは〈君〉が精神的に豊かになるためにそうしたらいいというのではなく、〈僕〉の依存対象として必要だからだ。歌詞をよく読むと利己的なのに、聞き流しただけでは利他的に聞こえる。

 早坂くんは始めのほうで、語り手である〈僕〉は生まれ変わりの苦しみの中にいるが、それはうまくいかないであろう、と言ったね。〈君〉を触媒にしようとしたけど、他人を動かすのは難しい。やり方も間違っている。歌詞を最後まで読んでも、〈僕〉が能動的に何かをやることはない。〈君〉に心を開かせるために、ただ〈ずぶ濡れで待つ〉という、雨に濡れた子犬のような哀れさを誘う作戦だ。随分、子どもっぽいと思ったな。

 それに、自分のためにドアを開けてくれと言っているのに、〈君〉を閉じこもっている状態から救い出そうとしているかのような錯覚を起こさせる、ねじれた歌だと思ったね。ユング派に「傷ついた治療者」という言葉があるけど、この人はそのようにふるまおうとしているんだろうか。ピア的というか。尾崎自身も聴き手にとってそういう存在なのかもしれないな」

「人によって、いろんな解釈があるもんですね」と、山口が閉口気味に言った。

 早坂がスマートフォンで時間を確認すると五時半になるところだった。開始して二時間半になる。女性陣は疲れた顔になっていた。これで締めようと思い、西の毒舌を中和するため、最後にフォローした。

「歌は、正義や善や健康さといった喜ばしいものばかりを歌うだけではないですから、こういう歌があってもいいと思います。この歌は、タイトルが与えるイメージや、しっとりと歌い上げる歌い方だけで理解していると、歌詞に注目したときに意外性を感じるものになるかもしれません。そういう歌だということがわかりました」

 読書会を終えて五人は外へ出た。既に雨は上がり風もやんでいた。街灯に照らされた道を、駅に向かって歩いていった。薄闇になった空には、虹ではなく月が浮かんでいた。

 

     *

 冒頭で「よく知られていない歌のほうが尾崎豊という強烈なキャラクターから離れてテキストそのものに向き合えることができるだろう」と書いたが、結果的に、テキストから浮かび上がってきた作中人物像は、書き手によく似た人物だった。おそらく尾崎の書くほとんどの歌がそのようなものであろう。

Official髭男dism「Pretender」V.S.King Gnu「白日」 勝つのはどっちだ!

 さあ、今ここに前代未聞の白熱バトル、「Official髭男dism 対 King GnuKing Gnu)」の一大決戦が幕を開けようとしています! 絶大なる人気をほこるビッグネームどうし、その優劣を競い合うというから聞き捨てなりません。

 登場するのはお互いのファンを自認する二人の女性。ふだんはおしとやかであろう彼女たちですが、舌戦のリングに上がったとたん、なりふりかまわぬ大激戦、死闘を尽くしたガチンコバトルとなるでしょう。対戦の結果、軍配はどちらに上がるのか! 今まさに開幕の火蓋が切って落とされようとしていますっ!

 えー、その前に簡単にルールをご説明申し上げておきます。決戦の対象となるのはOfficial髭男dismは「Pretender」、King Gnuは「白日」、この二つの大ヒット曲についてとなっております。しかも、いずれも歌詞についてのみ論じるという、いささか変わった趣向となっております。

 この2曲はいずれも2019年上半期にそれぞれ映画、テレビドラマの主題歌として発表され、人気が接戦、You Tubeの視聴回数はどちらも3億回弱と拮抗しております。まさにライバル、火花を散らし、切磋琢磨しあう運命のもとに置かれています。

 さーあ、それでは、今まさに決戦のゴングが鳴り響こうとしています。宿命の対決、いざっ!

 

1

「カーーーーン!」

--張りつめた空気を切り裂くようにゴングが会場内に鳴り響きました。まず序盤の口火を切ったのは、Official髭男dismのファンのようです。さあ、どう攻めてくるんでしょうか。

Official髭男dism支持者(以下、ヒゲ)■はぁー、もうやってらんないわ。なんなのこの対決。ヒゲダン対ヌーって。お前は口が達者だから行ってこいって言われて仕方なく来たんだけど、やる前から結果わかってるじゃん。歌詞なんてぱっと見れば「Pretender」の方がいいってすぐわかるじゃない。

--おーっと、ヒゲダン派、これは挑発でしょうか、いきなり溜息をついています。しかも早々に勝利宣言です。よほど自信があるんでしょうか。

King Gnu支持者(以下、ヌー)□なに言ってんの。「白日」の繊細さはおたくにはわからないでしょうよ。あんたみたいなガサツな人にはヒゲ面がお似合いよ。

ヒゲ■ヒゲダンでヒゲを生やしている人はいません! インパクトを与えるためにつけた名前よ。ヌーのほうこそ、常田も井口もヒゲ面じゃん!

--おーっと、King Gnu派、オウンゴールを入れてしまったのかーー!

ヌー□フン! ヒゲダンのくせにヒゲを否定するんじゃないわよ! 自分のバンド名に嘘があるってことでしょ! とっちらかった名前で、Officialもそうだし、いちいち意味がないのよ。漫才コンビ髭男爵と勘違いするじゃない!

ヒゲ■なによ! ヌーだって大集団でわけのわからない大移動するっていう特徴しかないくせに! それで川に入って溺れ死ぬんでしょ! どうせならレミングにすればよかったじゃない。そのほうが可愛いわよ!

--あのー、バンド名のディスりはそのくらいにして、歌のほうにはいっていきませんか。ちなみにわたし、実況中継と同時に進行役も兼ねておりますので、随時口をだしていきます。ご容赦ください。

ヒゲ■そうね。じゃあ「Pretender」からいくわね。この曲は『コンフィデンスマンJP -ロマンス編-』っていう詐欺師が主人公のコメディ映画のために書かれたもの。英語のpretenderは何々のふりをするっていう意味。つまり詐欺師がそうよ。ちゃんと映画の内容にあわせた歌になっている。

ヌー□『コンフィデンスマンJP』って、あの呪われた映画でしょ。出演者が次々不幸になっていくという。やっぱり詐欺にいいも悪いもないわね。義賊をきどるんじゃないってこと!

ヒゲ■映画じたいは面白いから関係ないでしょ! 現代の日本で呪われたの何だのって、ファラオの呪いじゃあるまいし、あなた迷信家なの?

ヌー□点と点があればつなぎたくなるものよ。

ヒゲ■もういいわ。それで「Pretender」の歌詞はお芝居と観客の比喩で語られているの。恋が始まったと思ったけど結局お互いの〈ひとり芝居〉で、自分は相手と舞台を共にできず遠くから見ているだけの〈観客〉だったって。一緒に恋愛の舞台を演じられないのよ。

歌詞→https://j-lyric.net/artist/a059eab/l04bae4.html

ヌー□ん? 芝居をやっている役者? 見ている観客? どっちなの? 比喩が混乱してない?

ヒゲ■相手が一人で芝居をやっているときは自分が観客になっているっていうことね。

ヌー□ふーん、まあいいけど。でも、自分が恋愛の当事者なのに、それを他人が演じるお芝居のように見ているってどうなのかな? 「Pretender」って他人事みたいな恋愛ってこと? 本当の恋愛はしないの?

ヒゲ■違う違う。これは恋愛の中間地点でいったん総括してみたらこうだったってこと。どうやら悲しい経験に終わりそうだけど、それを受け入れる時にどういう枠組みを使うか試みているのよ。自分も相手もそれぞれ演者で、客席の側からみたら自分はどういうふうに見えるか。相手はその気がないのに、自分は夢中だったら滑稽でしょ。それがわかったから、それ以上のめり込まないように身を引く。

ヌー□少し距離をとって客観的に見るっていうことね。

ヒゲ■離れたところから見る視点というのは、この歌には他にもあって、〈誰かが偉そうに 語る恋愛の論理 何ひとつとしてピンとこなくて 飛行機の窓から見下ろした 知らない街の夜景みたいだ〉とあるのね。〈飛行機の窓から見下ろした 知らない街の夜景みたいだ〉ってものすごい俯瞰だけど、これだけ距離をとるともう自分とは無関係って感じね。

ヌー□今不覚にもちょっと面白いなと思ったのは、どの時点で距離をとるかということ。この歌は「終わってしまった恋愛」をあとから眺めて感傷にひたっているのではなく、現在進行形の恋愛なのに、その途中でもう恋の行く末を見通して〈君の運命のヒトは僕じゃない〉って諦めている。潔いといえば潔いけど、傷つきたくないから早めに身を引いたという感じがする。〈繋いだ手の向こうにエンドライン 引き伸ばすたびに 疼きだす未来には 君はいない〉ってかなり先を透視してるわね。先のことを考えすぎると臆病になる。

ヒゲ■この男の人は素朴さに憧れている。〈いたって純な心で 叶った恋を抱きしめて 「好きだ」とか無責任に言えたらいいな〉ってあるけど、そうはできない自分ってことで、恋愛とは何か、僕にとってキミとは何かって、いろいろ考え込むタイプ。〈無責任に言えたらいい〉というのは、無反省に言うということだから、自分にいちいち距離をとらないでスパッと言っちゃえたら気楽でいいのになということね。

ヌー□〈でも離れ難い〉って言ってるから、すぐ別れるわけでもなさそうだけど。わからない状態のまま、もう少しダラダラ続きそう。

ヒゲ■そうね〈君の運命のヒトは僕じゃない〉とは言ってるけど、「僕の運命のヒトは君じゃない」とは思っていないわけだから。結局は破綻するにしても、それまでズルズルいきそう。

ヌー□この歌では女の人が実は何を考えているか全然わからない。男性視点だけなので、どこがダメだったのかわからない。〈感情のないアイムソーリー それはいつも通り 慣れてしまえば悪くはないけど〉ってあるでしょう。これは彼女に「これ以上つきあえません、ごめんなさい」って断られたってことかな。〈それはいつも通り〉というのは、ふられ続けるのが〈いつも通り〉のことなのか、それとも彼女の〈感情のない〉態度が、彼女のいつもどおりの態度ということなのか。ふられ続けるとしたらコメディになってしまうから、彼女の態度ってことかな。〈慣れてしまえば悪くはない〉とあるから、彼女はいつもそういう態度で接してきたのね。だから未来はなさそうだと思ったのかな。

ヒゲ■お試し期間が終わってさよならされたってことみたいね。それにしては思い込みが激しいところがある。〈それもこれもロマンスの定めなら 悪くないよな〉とあるけど、そんなつれない態度の女性に対して思い込みが強すぎる。この〈ロマンス〉っていうのは映画のタイトルが「ロマンス編」なのでその引用でしょうけど、ここでは起伏のある恋愛っていうほどの意味でしょう。〈運命〉とか〈ロマンス〉とかいささか大げさな言葉遣いをして、ひとつの物語として自分の恋愛を理解しようとする歌になっている。つらいことがあっても物語上の試練だと思えば受け入れられる。この歌はそういう枠組みを殊更に強調している。実際には殆ど起伏がないような平凡な恋愛でも、当事者は懊悩して苦しむものでしょ。起伏は拡大されロマンチックな物語になる。

ヒゲ■あ、ちょっとごめんなさい。スマホが・・・あー、はい、あたしだけど、今ちょっと取り込んでるんだけど、何? メール? うんわかった。じゃあね。・・・あ、すみません。おかあさんからで、すぐメール見ろって。これナマ配信されてるんでおかあさん見ててメール送ってきたみたい。えと、ふーん、あー。おかあさん、さだまさしが好きで私もよく聞かされたんだけど、さださんに「主人公」(1978年)という歌があって〈自分の人生の中では 誰もがみな主人公〉って歌ってるの。さださんは自分の歌の解説を歌詞カードに書いていて、その写真をメールで送ってきてくれた。ちょっと読みます。「自分が主人公であるという考え方は、とかく「利己」を感じさせる危険な言い廻しですが、生きてゆく強さをふるいたたせる為に必要な起爆剤だと思って下さい。/自分の人生はドラマであると信じる事が、時として自分の不幸を救う事もあるのです。」

ヌー□母娘でタッグを組んでいるの? 仲がいいわね。 審判さん、助っ人ありって反則じゃない?

--はい、えー、想定していなかったのでルールにはないですけど・・・

ヌー□まあ、いいけど。続けて。

ヒゲ■「主人公」は40年も前の歌ですけど、〈自分の人生の中では 誰もがみな主人公〉という感性はもう一般化しているかな、と。「自分の人生はドラマであると信じる事が、時として自分の不幸を救う事もある」というのは「Pretender」にも当てはまる。やっぱり「不幸」なときに「ドラマ」は必要ね。幸福はのっぺりして歴史がないけど、不幸は時間の流れの中で解釈しないとやっていけない。

ヌー□自分が物語の主人公だと思ってみれば救われる、というのは素朴な感じがする。今はもっと自分に都合よく考えるでしょ。

ヒゲ■そう。私たちはそれぞれの物語を演じる主人公なんだけど、なかなか思うようにいかなくて、もっと違う物語を生きれたらいいな、やり直したいなって思うことがある。それを「Pretender」は〈もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった〉と歌っている。もちろんそんなことは無理だけど、ゲームに親しんでいればそういう発想になじみがある。ある意味、「Pretender」は「主人公」が40年で進化した歌ね。進化なのか変化なのかわからないけど。

ヌー□最近、異世界で生まれ変わるとか、タイムリープとかいった幼稚な設定のライトノベルやマンガが流行ってるらしいけど、「Pretender」はそういう発想の歌? 〈世界線 選べたらよかった〉っていうのは多元的宇宙を言ってるの?

ヒゲ■そうあればいいって言ってるだけで、でもそんなのは空想の話で現実には無理だってわかってる。だから、〈そう願っても無駄だから〉〈そう願っても虚しいのさ〉って言ってるでしょ。そこは大人なの。

ヌー□現実をすぐ受け入れるタイプなのね。それで〈グッバイ 君の運命のヒトは僕じゃない 辛いけど否めない〉って現実をわかっているんだ。潔いじゃん。と思ったら、一方ですぐ〈でも離れ難いのさ〉って続ける。この矛盾はなんなの? たった一語の〈でも〉で急旋回しちゃうって。

ヒゲ■すぐには思いきれない。簡単には割り切れない。行ったり来たりの葛藤がある。〈グッバイ〉という切断と、〈でも〉という接続が繰り返される。この歌のテーマが葛藤だということは、〈ない〉〈いや〉という否定が繰り返されることからもわかるわ。歌詞特有の言葉遊びでもあるけど、サビの部分に否定が集中してる。

 

  グッバイ

  君の運命のヒトは僕じゃない

  辛いけど否めない でも離れ難いのさ

  その髪に触れただけで 痛いや いやでも

  甘いな いやいや

 

ヌー□混乱した精神状態の歌ね。別の言い方をすると、未練がましいっていうことなんだけど。男のくせに〈いやいや〉はないでしょ。あ、男のくせにっていう言い方は抑圧的だったかしら。〈髪に触れた〉っていうけど、こんなことを思っている男に髪に触れられたくないわね。

ヒゲ■マッチョではないのはいいことじゃない。思考が柔軟な人なんですよ。自分のことは客観的に理解していて、〈君の運命のヒトは僕じゃない〉ってことは否定できないって言ってるでしょ。それでこの人は残された問いを問うのよ。〈君〉にとっての〈僕〉は〈運命のヒト〉じゃなかった。それなら〈僕〉にとっての〈君〉は何かっていうことね。〈それじゃ僕にとって君は何?〉という部分。混乱しているようでも、ちゃんと論理的に詰めているのよ。

ヌー□何かにすがろうとして懸命なのね。〈それじゃ〉っていうのは自分の答えに自分で反論しているのね。まさに〈ひとり芝居〉。この歌じたいが〈ひとり芝居〉で、肝腎のお相手のことが全然わからない。本人の激しい思いがストーカーみたいに一方的に垂れ流されるだけで、相手の人の気持ちが全然出てこないというのが非対称的でキモい。一方向からの見方を言い募るだけなのが思いつめた感じになっていて息苦しい。

ヒゲ■自分の意識の流れを歌にしてるんだからそれは仕方ないでしょ。混沌のまま終わらせるわけにはいかないから、最後はちゃんと締めくくってるし。

 

  それじゃ僕にとって君は何?

  答えは分からない 分かりたくもないのさ

  たったひとつ確かなことがあるとするのならば

 「君は綺麗だ」

 

歌詞サイトで見ると〈「君は綺麗だ」〉にはカギカッコがついてるのよね。強調ってことでしょう。〈確かなこと〉だということを視覚的にも示している。もうひとつカギカッコがついているのは〈「好きだ」〉っていうところ。これは〈いたって純な心で 叶った恋を抱きしめて 「好きだ」とか無責任に言えたらいいな〉とあるように、素直な気持ちで自然に言える言葉っていうこと。〈無責任に〉ってあるけどこれは反語で、飾らずにすっと出てきた言葉っていうことね。「君は綺麗だ」も「好きだ」も心の底から出てきた本心だということじゃないかしら。

ヌー□最後は文脈に関係なく〈君は綺麗だ〉とか〈とても綺麗だ〉とかで強引にまとめてるでしょ。それまでいろいろ〈答えは分からない 分かりたくもない〉とか考えるふりをしていたのを、ここでいきなり跳躍して、超論理的に強引に締め括る。それまでに〈綺麗だ〉っていう言葉につながるような伏線ってあったっけ? 何も気配がないところにいきなりでしょ。〈綺麗だ〉っていうのは感覚的な趣味判断であって、論理じゃない。〈僕にとって君は何?〉とか理屈で考えても〈分からない〉から美的判断に逃げた。次元をずらしてしまった。もっとしっかり考えろよと思うけど、結局〈分かりたくもないのさ〉っていうのが本心なのよ。〈僕にとって君は何?〉という問いをつきつめれば、勘違いの思い込みをしていたということになるだろうから、それを誤魔化すために〈綺麗だ〉と言う。「僕にとって君は綺麗だ」というのは日本語になっていない。鑑賞する対象ってこと? いずれにせよ、綺麗だと言われて怒る人はいない。女にはとりあえずそう言っておけば喜ぶだろう、文句は言わないだろうっていう線を狙って言った。でもこの立場の人にそう言われても、言われた方も困るんじゃない? 「綺麗? だから、何?」って。この人は次に続けたい、振り向かせたい、閉ざされた心をこじ開けたい、みたいに軽いサプライズとしてそう言った面もあるかもしれないけど、空振りに終わるだけ。女性からのアンサーソングを聞いてみたいわね。〈君は綺麗だ〉と言われて、なんと返すか。

ヒゲ■〈君は綺麗だ〉っていうのは、自分が好きだった人に対するはなむけの言葉でしょう。君は間違っていないという。〈永遠も約束もないけれど「とても綺麗だ」〉とあるけど、〈永遠も約束もない〉というのは確かなものは何もないように思われる中で、主観としては確かなもの(綺麗)があるということでしょ。

ヌー□なんか別れ際になって、ふられた男が急に偉そうに評価してきたみたいに感じる。イルカに「なごり雪」(作詞、伊勢正三、1974年)ってあるよね。田舎から東京に出てきた女の子がまた田舎に帰るんだけど、そのとき駅のホームで男が見送るという内容で、最後に男性が〈今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっときれいになった〉と思っている。口には出さず心の中で思っているだけなんだけど。これもムカつく歌詞ね。なんで男にそんなふうに観察されて評価されなくちゃいけないの。「Pretender」だって、〈君は綺麗だ〉なんて強調されなくても自分の外見は自分でよくわかってるわよ。それとも何? 慰めてるの? って感じ。

ヒゲ■「なごり雪」の〈きれいになった〉というのは、田舎から都会に出てきて垢抜けたとか、〈去年よりずっときれいになった〉と時間の中で語られているから、女の子が大人の女性になったとかいった変化の意味があると思う。もう一つ、これは別れ際だから、手離すときに一層価値を増して輝いて見えたということもある。あなたは「慰め」って言ったけど、ひねくれた捉え方ね。女性の側からすれば「きれいだ」と言われることは自信になるから自立してやっていく力になる。男性からすれば、この人は、自分がいなくても一人でやっていけるだろうと安心できるんじゃないかな。「Pretender」で〈君は綺麗だ〉というのも、自分は一歩引いて女性の自己完結性を讃えているように見えます。

ヌー□対等には付き合えないから、身を引いて称賛する側にまわるってことでしょ。

 

--はい、では、そろそろ第1ラウンドを終了とさせていただきたいので、まとめ的なことを最後に言っていただいてもいいでしょうか。

ヒゲ■この歌の枠組みは、人生を物語に見立てることにあります。〈ラブストーリー〉とか〈ロマンス〉とか〈設定〉とか、物語として語ろうとする。では、なぜ人生を物語として解釈しようとするのか。その答えが端的に表れているのが、〈それもこれもロマンスの定めなら 悪くないよな〉というフレーズです。物語を生きているのなら、この人生も〈悪くない〉と。ナマの現実を受け入れるのはつらいから、これは起伏のある物語で自分はそれに従う役者なんだってことで癒やされる。福沢諭吉も「人生は芝居のごとし」って言ってます。「人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし」。この歌は人生を物語に託すことで現実を受け入れやすくしている。芝居に見立てることで客観化し、距離をおいて見つめ直そうとしています。

ヌー□失恋で傷ついた心を癒やす歌っていうまとめね。おしまいのところで〈君は綺麗だ〉って相手を褒めるから女子ウケもいい。

 

2

--さ、Official髭男dism「Pretender」については、思っていることを全部吐き出せたでしょうか。よろしいでしょうか。では、ここで攻守逆転してKing Gnu「白日」を論戦の俎上にのせたいと思います。第二回戦、開始してください!

カーーーン!

ヌー□やっと「白日」について話せるのね。最初に断っておきますけど、この歌は歌詞がどうこういうより、歌としていいのよね。メロディの高低が激しくてクセになりそうだし、歌い方も繊細で引き込まれそう。もちろん歌詞もいいわよ。

歌詞→https://j-lyric.net/artist/a05d6d3/l04abb6.html

ヒゲ■ラッセーラー? あれレッセーラーか。って歌っているところがあって、何これ、ねぶた? とか思って歌詞を見たら〈真っ新に生まれ変わって〉の〈真っ新(さら)〉がレッセーラーに聞こえてた。そこが典型的なところなんだけど、曲に気を取られて歌詞は断片的にしか頭に入ってこないタイプの歌ね。繊細な歌い出しだから勘違いしちゃうけど、歌詞を文字で読むと、デリケートな言葉遣いをしているというより、意外にぞんざいな言葉が並んでいる。例えば〈朝目覚めたら どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな 聞き流してくれ〉ってあるけど、〈聞き流してくれ〉っていうはぐらかし方はひねりがないわね。詩になる手前でうっちゃってる。

ヌー□そう? カフカみたいでいいじゃない。虫にはなれないけど。虫って究極の〈どっかの誰か〉でしょ。この歌は、生まれ変わってやり直したいという歌です。もう死にたい、ではなく。生命力が強い。繊細な歌だけど芯がある。その芯は歌詞の言葉が作っている。それが人気の秘密かも。

ヒゲ■〈雪よ(…)全てを隠してくれ〉とあるけど、問題を解決しようという態度ではなく逃避じゃないの?

ヌー□逃げるというのは、それでも生きたいということですよ。

ヒゲ■ものは言いようだけど。

ヌー□「白日」が作られた経緯を紹介しておきますね。この歌は2019年の1月から1クール放送されたテレビドラマ『イノセンス 冤罪弁護士』のために書きおろされたものです。ウィキペディアには、前年の年末から2019年の始めにかけて「家に1人こもって楽曲を制作した」と書いてあります。歌詞のイメージが雪を中心としたものになっているのは、制作した時期が冬だったからでしょうね。

ヒゲ■作詞した人はどこの人なの?

ヌー□常田大希さん。長野県の伊那市出身で高校まで伊那にいて、東京藝大入学後は神奈川にいる祖母と一緒に7年間暮らしたそうです。藝大は1年も行かずに中退したみたい。いずれもネット情報なんだけど。

ヒゲ■ふーん。伊那って雪が多いの?

ヌー□え? どうかな。あ、友達がたまたま伊那の出身なんで聞いてみる。ちょっと待って・・・。あ、もしもし真弓? 私。あのさ、あんたの実家って伊那って言ってなかったっけ。あ、いきなりごめん。今ちょっとめんどくさいこと聞いてくる奴がいるもんだからさ。うん、そーそー。でさ、伊那って、雪とか降るんだっけ? うんうん、あーそーなんだ、へー。ありがと、じゃね、バイバーイ。・・・わかったわよ。降るは降るけど、すごい降るわけじゃないって。特に最近はあんまり降らなくなったって。

ヒゲ■そーなんだ。曲を作ったとき常田って人は東京とか神奈川あたりにいたんでしょ。そのあたりは雪って殆どふらないじゃん。歌詞では、雪が降りしきるとか雪が全てを覆い隠すとか言ってるから、そのフレーズはどこから来たのかって思ったの。子どもの頃を思い出して書いたのかなとか。でも、出身地でもそれほど雪は降らないんじゃ、歌詞にある〈降りしきる雪〉というのは実体験じゃないのかも。うちのおかあさんも長野の人だけど、子どもの頃は毎年、膝くらいまで雪が降って実家の庭で大きな雪だるまとかかまくらを作ったって聞いたことがある。うちの親の子どもの頃って1970年代だけど、その頃は気温が低くて地球は寒冷化するんじゃないかって心配されたくらいだから雪は結構降ったんじゃないかな。この常田って人は、えーと何年生まれだっけ?

ヌー□1992年。

ヒゲ■あら、私と近いのね。私のほうが2コ上だけど。今は温暖化の影響で降雪量は減ったけど、降る時はドカ雪が降る。この歌が作られた1年前は平成30年豪雪(2017-2018)で、北陸が記録的な大雪だった。テレビでそういう映像を見ているから、仮に自分の周りで雪が少なくても雪に覆われるっていうイメージはできるでしょうけど。

ヌー□実体験しか歌にしちゃいけないわけでもないし、実体験がなければ歌が理解できないわけでもない。オーロラの歌ってたまにあるけど、オーロラを見たことがある人ってすごく少ないでしょ。

ヒゲ■経験は重要よ。言葉を受け取る深度が違ってくる。オーロラを見たことがないほとんどの人は、カレンダー写真のような薄っぺらいイメージしか抱けないでしょ。今の高校生くらいの子たちって雪らしい雪って知らないだろうから、雪の歌ってどこまで理解できるんだろう。ま、オーロラよりは実感できるでしょうけど。雪ってそのうち、北海道とか新潟、北陸とかの地域限定の話題になりそう。数年に一度のドカ雪は情緒というより災害だし。で、この歌の雪は大雪みたいだけど、異常気象の時代の雪なのね。〈降りしきる雪よ 全てを包み込んでくれ 今日だけは 全てを隠してくれ〉っていうでしょ。〈今日だけは〉ってあるから毎日降ってる感じではない。積もった雪もあたりを覆い隠すけど、それもすぐ溶けてしまいそうね。要するに短期間だけの大量の雪。雪がありふれている感じはしない。なんか自分の心が弱っているときに、うまいタイミングで雪が降ったみたい。

ヌー□気象としての雪だけじゃなくて、この歌では雪は冤罪の比喩でもあるの。言わずもがな、だけど。無実の罪をはらすことを雪冤っていうでしょ。雪のように白くするっていうことかな。刑事ドラマでも、犯人かどうかの信憑性をシロだクロだっていうじゃない。

ヒゲ■その場合の雪は空から落ちてくる氷の結晶ではないわよね。雪という漢字は刷(さつ)・拭(しょく)と音が近いから、すすぐ、ぬぐう、という意味が派生した(白川静『常用字解』)。雪辱もその意味ね。主題歌になったテレビドラマの方は冤罪ものでも、この歌の内容は、雪は比喩ではなく物理的な現象として扱われている。あたりを白く覆って視界を閉ざすモノという意味で使われている。そこから〈真っ新(さら)に生まれ変わって〉〈真っ白に全てさよなら〉という発想が出てくる。白い景色は何も描かれていないキャンバスだから、そこにどんな新しい絵を描くこともできる、一からやり直せるという意味になる。

ヌー□〈明日へと歩き出さなきゃ 雪が降り頻ろうとも〉というところは困難さの比喩でしょ。雪は人の足を止める。〈明日へと歩き出〉すことを雪が阻んでいるのね。

ヒゲ■そう、そこね。この歌詞がユニークなのは「降り積もる雪」ではなく〈降りしきる雪〉とか〈雪が降り頻〉ると言っていること。普通は、積もった雪が世界を白く覆うという発想なんだけど、この歌はそうではなく、今現在降り続いている雪を話題にしている。たしかにすごく降れば視界が閉ざされることもある。そのひどいのがホワイトアウト。ただそれが〈真っ新に生まれ変わって〉につながるのは少し無理があるなあ。一晩で積もった雪が世界を一変させるというならわかるけど、降ってる最中の比喩としてはどうかな。降るというのは動きのある状態だから、その動きが一応完結して、そこから新しく始まるというならわかるけど。

ヌー□微妙すぎてよくわからないけど。

ヒゲ■それと、〈全てを包み込んで〉〈全てを隠してくれ〉とあるけど、その〈全て〉というのは、自分を取りまく世界のことなのか、それとも自分自身も含むものなのか。〈今だけはこの心を凍らせてくれ 全てを忘れさせてくれよ〉とあるから、自分も雪の中にいるのね。ただ、自分の心も凍ってしまうと困るでしょ。〈明日へと歩き出さなきゃ〉という気持ちがわき起こらない。

ヌー□〈今だけはこの心を凍らせてくれ〉って〈今だけは〉って言ってるでしょ。休息が必要なのよ。少し休んでから〈明日へと歩き出〉すってことじゃないの?

ヒゲ■うーん、言いたいのは、短い歌のなかで雪の扱い方が一貫してないってことなのよね。雪は人の歩みを止めるような困難さだったり、心を凍らせて全てを忘れさせてくれるようなものだったり、あたりを覆い隠してくれるものだったりする。どんな意味で使ってもいいけど、一つの歌の中ではどれかに統一して欲しいわね。そうでないと聞き手が混乱してしまう。

ヌー□歌の言葉って時間の流れの中で明滅している感じがする。歌を聞いているときって、断片的な言葉が次々と現れては消えて、印象として残るのは散らばった言葉だけなので、そういう言葉に意味の一貫性を求めるのは歌の言葉が求められるものとは違うと思う。

ヒゲ■私はああくまで全体が一挙に示された状態の言葉として解釈してるので前提が違うと言われればそれまでだけど、あなた、論理的に矛盾するような都合が悪いときだけ、時間的な解釈を持ち出してない?

ヌー□それなら、こう言ってもいいわ。ものごとには二つの側面があるでしょ。例えば雨の歌で、雨は人を濡らしたり屋内に閉じ込めたりする嫌なものだけど、汚れたものをきれいに洗い流してくれる、みたいな歌がありそうじゃない。そういうのもダメなわけ?

ヒゲ■それは考え方の転換を提示しているわけで、そこに面白みがあるわけだけど、この歌はそういうわけでもないでしょ。

ヌー□歌詞は論理じゃないからどうでもいいけど。冤罪についての話に戻すと、今のところは正確に引用すると〈真っ新(さら)に生まれ変わって 人生一から始めようが〉って逆接の〈が〉がついています。〈人生一から始めようが へばりついて離れない 地続きの今を歩いているんだ〉って。〈人生一から始めよう〉と意気込んでも、〈今〉の諸関係をきれいに断ち切ることはできないってことで、与えられた条件のもとでやるしかないということを言っています。この歌は冤罪のドラマの主題歌で、歌詞も冤罪についてのアレゴリーとして読むことができます。この部分も、いったん犯人だとみなされてしまうと、冤罪が証明されて釈放になって人生をやりなおそうとしても、自分も世間も「はい、わかりました」って、きれいに切り替えられるわけではないというふうに読めます。

ヒゲ■罪が「なかった」というのは、もともと罪が「ある」とされたから「なかった」と言っているわけで、一度「ある」ことにされてしまうと、それを何もない〈真っ新(さら)〉な状態に戻すことは不可能よね。「ある」とされたことが頭に残っているから、「なかった」ことは、一遍「なかった」と言えば済むものではなく、絶えず「ない、ない」と継続して言い続けて「ある」の芽を叩き潰していくしかない。

ヌー□ドラマの冤罪の文脈で解釈できそうな歌詞は他にもあって、冒頭の〈時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり 失ったりして初めて 犯した罪を知る〉がそう。ここはイントロがなく歌いだすところで、静寂な空間に井口さんの声が響いて感動するところ。人を〈傷つけてしま〉うことを気にかけるやさしさっていう歌詞と声が一致している。

ヒゲ■歌声は繊細でも、歌詞はそれに似つかわしくないところもある。〈犯した罪を知る〉という殊勝なことを言っておきながら、一方で、〈誰かのために生きるなら 正しいことばかり 言ってらんないよな〉とか、〈後悔ばかりの人生だ 取り返しのつかない過ちの 一つや二つくらい 誰にでもあるよな そんなんもんだろう うんざりするよ〉って随分ぞんざいに開き直っている。こういうのは歌詞を文字で読まないと、耳から入ってきた言葉だけでは気がつかない。

ヌー□開き直るっていうけど、生きるためには、うなだれてばかりいられないからでしょ。

ヒゲ■〈犯した罪を知る〉っていうのは、そこは罪を認めているんだから、冤罪じゃなくない?

ヌー□これは冤罪にした側のことを言っているんじゃないかと思う。〈誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしま〉うというのがそうです。冤罪にするほうも、テレビによくある腐敗した警察組織みたいに、とりあえず面目のために誰か犯人にしとけって意図的に罪を着せるのではなく、犯人だと思ったのに違ったという非意図的なことを〈知らず知らずのうちに〉って言ってるんだと思う。

ヒゲ■警察はそんなデリケートなことは考えないでしょうけど。

ヌー□冤罪って無実の人を拘束して名誉を犯すのだから加害行為ですよ。それを権力が法的にやっているから罰されないだけで、せいぜい少額の慰謝料で済まされていて、ほとんど泣き寝入りでしょ。冤罪って裁判で有罪にされる前から、警察に連行されて容疑者にされた時点で世間では犯人扱いされるので、もうそこから始まっていると思います。で、それを個人に置き換えたのがこの歌詞です。私たちの日常でも、人は自分が知らないうちに他人に罪を着せていることがありますよね。

ヒゲ■〈犯した罪を知る〉ってのが大げさな表現だと思ったけど、冤罪から発想しているのならわからないでもない。冤罪にする方も〈罪〉だっていうのがヒネリになっている。それはいいけど、この出だしの〈時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり〉っていう歌詞はありがちね。尾崎豊の「卒業」には〈時には誰かを傷つけても〉とあるし、ミスチルの「名もなき詩」には〈時には誰かを傷つけたとしても〉ってある。他にもいくつも例はあるけど、Jポップ特有のコロケーションね。コロケーションというのは言葉どうしのよくある組み合わせのこと。〈時には誰か〉とくれば〈傷つけた〉を思いつく。最後まで聞くまでもなく先取りでわかってしまう。

ヌー□歌詞が相互に関連しているという指摘は、歌詞だけじゃなく、全ての創作物がそうでしょ。いわゆる間テクスト性で、その指摘じたいあまり意味がない。だから何? って感じ。King Gnuウィキペディアには「歌謡曲然とした親しみやすいメロディーや日本語による歌詞を乗せることを重視しており、「Jポップをやる」ということがKing Gnuの大きなコンセプトの一つとなっている」と書いてあったけど、あえてする「Jポップらしさ」じゃないの?

ヒゲ■はたして、どこまでそうなのかしらね。せっかく音楽的にユニークなんだから、歌詞ももっと考えればいいと思っただけ。なんで歌詞だけ、従来のJポップらしくしちゃうのかなって。

ヌー□冤罪に話を戻すと、冤罪の文脈で解釈できるのは、他にも〈戻れないよ、昔のようには〉もそうですね。ここは冤罪にされた側の視点ですね。図解したほうがわかりやすいんですが、

 1 日常の生活 →2 有罪 →3 冤罪 →4 日常へ帰還

という流れで、〈戻れないよ、昔のようには〉というのは、有罪の刻印を押されてしまうと、冤罪になったとしても、「1 日常の生活」には戻れないということです。1の「日常」と4の「日常」は似ているけど違う。〈戻れない〉というのは1の「日常」には戻れないということです。さっきの〈真っ新(さら)に生まれ変わって 人生一から始めようが〉それはできないということと同じで、1、2、3という段階を経て4に至ると、4の状態は1に似ているけれど異なるもので、1には再び戻ることができない。この歌の主題ですね。一からやり直すことは不可能だから、せめてひとときでもいいから雪で覆い隠して忘れさせてくれって。

ヒゲ■なんだか禅の「十牛図」の不幸バージョンみたいね。いろいろ考えても結局〈真っ新に生まれ変わ〉ることはできないって結論から出られず堂々巡りするだけなので疲れてしまったのかな。〈今の僕には 何ができるの?〉〈へばりついて離れない〉〈どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな 聞き流してくれ〉とか、一歩を踏み出そうとはするけど、自分自身で問答を繰り返して、出した足を引っ込めたりして身動きできず、あまり現在地から動いていない。

ヌー□希望も示されていますよ。〈どこかの街で また出逢えたら 僕の名前を 覚えていますか?〉というのは「4 日常へ帰還」からさらに時間が経ったときのことで、新しい生活に落ち着いた頃のことだと思います。〈どこかの街〉だから、元の住所には戻らず、住む場所を変えているんですね。〈僕の名前を 覚えていますか?〉というのは、2番の歌詞でも〈君の名前を 呼んでもいいかな〉とあるように〈名前〉にこだわっているんですけど、〈名前〉は同一性を象徴しています。〈僕の名前を 覚えていますか?〉というのは、「1 日常の生活」と「4 日常へ帰還」したあとの〈僕〉を同じ存在として認めてくれるかということです。〈君の名前を 呼んでもいいかな〉の〈君〉は「1 日常の生活」のまま生きている〈君〉で、その〈名前を 呼んでもいいかな〉というのは、「1」の世界に触れてもいいかなということです。〈僕〉と〈君〉の世界は「1」から「2」に移行する時点でパラレルワールドに分岐してしまったかのようです。だから「1」のまま継続している世界に生きている人と「2」に分岐した世界に生きている人が接触するのは慎重にやらないといけないんです。SFだとパラレルワールドが混じり合うと宇宙が消滅することになりますから。〈その頃にはきっと 春風が吹くだろう〉と言っているから。希望を見ています。

ヒゲ■人生をやり直さずにどうやって生きていくか、というのがこの歌の主題なのかな。

ヌー□音楽的な部分だけでなく、歌詞がいいっていう人も結構いて、人生に迷ってる人に刺さる歌詞だと思う。生きていて過ちや後悔のない人はいないですから。

ヒゲ■たしかにこの歌は「生きること」についての率直なフレーズが多い。〈誰かのために生きるなら〉〈真っ新に生まれ変わって〉〈人生一から始めようが〉〈如何しようも無い今を 生きていくんだ〉〈忙しない日常の中で 歳だけを重ねた〉〈それでも愛し愛され 生きて行くのが定めと知って〉〈後悔ばかりの人生だ〉。「Pretender」はやり直せない恋愛を歌っていたけど、「白日」はやり直せない人生を歌っている。

ヌー□どちらが切実かといえば「白日」でしょ。

ヒゲ■「Pretender」も「白日」も似ていて、「Pretender」は〈もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった(…)そう願っても無駄だから〉と歌い、「白日」は〈朝目覚めたら どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな〉と歌う。リセットできるゲーム感覚とか、生まれ変わりといった発想をして、それは無理だとわかっているけど言ってみた、というところまで似ている。

ヌー□曲の雰囲気はかなり違うし、言葉の選択も異なるけど、発想の根底は同じかもしれない。作詞した人は1歳違うだけだから、経験も似たりよったりのはず。

ヒゲ■昔は、どうやったら自分らしく生きられるかを模索する歌が多かったのに、それとは逆、というか安直。自分らしくないからやり直したいという。

ヌー□行き詰まったときに根底からやり直したいなと思うときはありますね。やり直すときに黒く塗りつぶすのではなく、白い初期状態に戻す。黒く塗りつぶすと、消したという経過も残ってしまう。

ヒゲ■この歌の歌詞に統一感や一貫性をもたせているのが白でしょう。ただ、タイトルを「白日」という漢字二文字にしたのはJポップにしては難解だわね。

ヌー□無罪が決定したという感じがありますね。

ヒゲ■はじめ見たときは「白目」に見えた。でもそれじゃおかしいし弁護士もののテレビドラマだから「自白」かと思った。あるいはドラマが1クール3か月だから「百日」かもって。私、乱視なんで、似たような文字で横棒の数が違うだけって判別しにくいのよね。それはそうと、「白日」というのは辞書的には「太陽」「真昼」「罪がなく潔白になったたとえ」という意味があるけど、潔白というのは派生的な意味よね。

ヌー□この歌の場合は、雪であたりが白くなっているという意味もあります。

ヒゲ■辞書にはない意味を作ってしまったというわけね。潔白になることを白日というのは「青天白日」からきているけど、これって「晴れ渡った青空に太陽が輝いている」ように隠し事がないこと。晴れ渡った青空と〈降りしきる雪〉って正反対よ。無罪と白日が連想でつながって、白日と降る雪が連想でつながるのはわかるけど、無罪と降る雪はつながらないわね。だって「青天白日」は全てをさらけだしているのに、〈降りしきる雪〉は逆に〈全てを隠〉すようにはたらくのだから。白日が無罪と雪をつなげているけど、正反対のものにねじれてしまった。

ヌー□この歌の白は多義的で、〈真っ新(さら)に生まれ変わって〉とあるように、全てをリセットして一からやり直すという意味もあります。

ヒゲ■それは雪では無理ね。じきに溶けてしまうもの。雪は全てをリセットするものというより、人の目を誤魔化すもの。雪におおわれてリセットされたように見えてもそれは表面的なことで、実は何も変わらない。

ヌー□だから〈今日だけは〉〈今だけは〉って言ってるでしょ。心が弱っているから、休みが必要なのよ。リセットという言い方がよくなかったわね。resetからeをひとつ抜いてrestね。

 

--えー、そろそろお時間がまいりました。最後に言い残したことはないでしょうか。

ヒゲ■じゃあ、最後に最近出た「三文小説」(作詞、常田大貴、2020年)について話してもいい? この歌って「白日」に似ているじゃない? テレビの主題歌として作られたし、曲の雰囲気も似ている。

ヌー□『35歳の少女』ね。10歳の少女が事故で植物状態になり25年後に目覚めるというもの。〈随分老けた〉とか〈増えた皺の数〉とか、急に年をとったことを意識する歌詞になっています。

ヒゲ■「白日」と「三文小説」みたいな歌ばかりではないでしょうけど、この二つの歌から言えることは、King Gnuは音楽的な部分はすごいかもしれないけど、歌詞じたいは・・・ポエムよね。いかにもJポップにありがちな発想や言葉遣いだし。「三文小説」の歌詞も、〈今日も隣で笑うから 怯えなくて良いんだよ そのままの君で良いんだよ〉ってJポップふうの言葉で書かれてる。タイトルどおり人生を小説に喩えていて、〈この小説(はなし)の果ての その先を書き足すよ〉とか〈過ちだと分かっていても尚 描き続けたい物語があるよ〉〈小説のように人生を何章にも 区切ってくれるから〉〈愚かだと分かっていても尚 足掻き続けなきゃいけない物語があるよ〉〈駄文ばかりの脚本と 三文芝居〉とあって、徹底的に小説や物語にこだわっている。ここは「Pretender」の枠組みと同じじゃない?

ヌー□枠組みは似ていても内容は反対ですけどね。「Pretender」はやり直したいというけど、「三文小説」はこのまま続けたいって歌ってますから。

ヒゲ■「三文小説」のほうが前向きな感じの歌詞なので、よけい平成のJポップふうになっている。もうひとつ言うと、「白日」と「三文小説」を並べると、この歌詞の書き手の癖がよくわかるわね。

 

白日

・煌めいて見えたとしても

・雪が降り頻ろうとも

・羨んでしまったとしても

三文小説

・君を忘れ去っても

・三文小説だとしても

・過ちだと分かっていても

・息を潜めたとしても

・愚かだと分かっていても

 

かっこいいと思ってるんでしょう、この〈も〉が。

ヌー□勝手に言ってればいいわよ。歌が素敵なら私はいいんだから。あなたが何を言ったってこの歌の価値は1ミリも下がらないからね。

 

--えー、それではこれでお二人の対戦は終了とさせていただいて、判定のほうに移りたいと思います。

ヒゲ■もうどうでもいいわよ、判定なんて。私はしゃべってるうちにだんだんKing Gnuが好きになってきたし。歌詞はともかく歌としてつい聞いちゃうのよね。

ヌー□私も。「白日」や「三文小説」は根本のところで「Pretender」と同じだって言われれば、あーそうだなって思うし、曲のタイプが違うから、どっちが好きか嫌いかなんてあまり意味がない。

ヒゲ■両方ともいいと思っている人が殆どじゃない? どっちか優劣つけようっていうこの企画じたいゲスなのよ。

--そう言われてしまうと元も子もありませんが、判定するのは両者の歌詞がどうこうというより、それを弁じたヒゲさんとヌーさんについてということになりますから・・・

ヒゲ、ヌー■□なによ、そんなのもっとどうでもいいことじゃない。私たちに興味持ってる人なんていないんだから。

--わ、わかりました。では、以上で収録を終わります。

ヒゲ■お疲れさまでしたー。

ヌー□お疲れさまでしたー。

ヒゲ■セリフ多いから覚えるの大変だったね。結構アドリブ入ったと思う。

ヌー□そうそう、私も。