Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

かぐや姫「神田川」~50年前の切断〜フォークソングの日本語

 私が大学生だった頃はバブル景気真っ只中の東京で、吉祥寺や世田谷に住んでいたが、いずれも大家さんの自宅の一部を改造したような安アパートで、四畳半で風呂なし、共同便所で家賃3万円だった。

 予備校時代はバブル直前の時期で立川に住んでいた。駅南口から歩いて5分くらいのところだったが、立川駅南口土地区画整理事業が本格的に始まる前で、古い家並みが残っており、大家さんの家の隣にある古い木造倉庫の2階の1室を借りていた。1階はガランとしており真っ暗だった。共同トイレは2階からクソを垂れると、途中にひっかかったちり紙にあたってバサバサと音をたてて落下していった。部屋の格子窓の板ガラスが振動で一日中ビリビリと小刻みに揺れていた。

 思い出を書いたのは、私が学生生活を送ったのは、かぐや姫の「神田川」(作詞、喜多條忠、1973年)がヒットしてから10年ちょっと経った頃だが、似たような生活をしていたなあと思うからである。

 神田川」では同棲が歌われている。当時は上村一夫のマンガ『同棲時代』(1972-73年)が流行るなど同棲がブームだった。私も彼女と二人で銭湯に行ったことが何度かあったが、この歌のように毎回待たせていた。ただ、彼女は湯上がりに外で震えているのではなく、待合室みたいなところで牛乳を飲んで待っていたのである。また、同じかぐや姫の「赤ちょうちん」(作詞、喜多条忠、1974年)に〈キャベツばかりをかじってた〉というフレーズがあるが、私もキャベツはよく食べた。安いし調理しやすい。すべて昔の話になったが、キャベツだけは今でも私の頭の中に残っていて、野菜イコールキャベツである。

かぐや姫神田川」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001d22/l019dca.html

 神田川」についてよく言われるのは、貧乏くさい四畳半フォークであることと、1972年の連合赤軍事件により若者の政治への関心が一気に失速して内向きになった時代の象徴的な歌であるということだ。両者は関係している。四畳半フォークといわれる所以の一つは、関心領域の狭さである。世界や日本という国への関心が四畳半の生活へと縮減する。一緒に銭湯に行ったとか、似顔絵を描いたとかいった身の周りのことばかりである。そこになんとも言えないむなしさの感覚が付随している。

 

 この歌は〈貴方は もう忘れたかしら〉と始まり、〈若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった〉と終わっている。〈貴方〉に始まって〈貴方〉に終わる。〈貴方〉に話しかけているように聞こえる。

 語られる内容は過去の暮らしで、〈貴方〉との思い出である。〈私〉が過去の思い出を語るという「枠形式」になっている。〈私〉はなぜ過去を思い出しているのか。しかも最後は〈貴方のやさしさが 恐かった〉という不可解な結びかたである。この点はあとでふれることにする。

 歌詞を最初から見ていく。

 〈赤いてぬぐい マフラーにして〉とある。コミカルな感じがする言い回しである。わざわざマフラーを買う金もないので代用品で済ませたという「貧しさ」も滲んでいる。

 このフレーズには、現在の感覚からすると引っかかるところが4点ある。

 

(1) タオルでなくてぬぐいである

(2) 赤いてぬぐいとは何か

(3) マフラーにするとはどういうことか

(4) 二人ともそうなのか

 

 順に見ていく。

(1) タオルでなくてぬぐいである

 現在、入浴の用途に限らず、いろんな場面で手ぬぐいを使う人はあまりいないだろう。タオルがほとんどである。手ぬぐい(日本手拭)は高度成長期にタオル(西洋手拭)に置き換わっていった。タオルというのは私の記憶では手ぬぐいより高級品で、子供の頃(昭和4、50年代)は大事に使っていた記憶がある。父親はずっと手ぬぐいを好んでいたので、身近なものの使用については世代的になじんだものを使い続けたのだろう。「神田川」が出た頃は、手ぬぐいがタオルに急速に置き換えられていく時期にあたっている。歌の中の二人は手ぬぐいになじんでいたし、タオルを買うほどの贅沢もしなかったということである。

(参考、今治地方のタオルと生産量推移 https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/5/view/958

 手ぬぐいとタオルというのは、平面的か立体的かという違いがある。手ぬぐいは平縫いで薄い。濡らした手ぬぐいはペタッとしているので、入浴で体を洗うには使いにくいし、体を拭く場合も水分をあまり吸収しない。一方、タオルは表面に小さな糸の輪(パイル)があり、肌にあたったとき柔らかいし、吸水性もいい。

 ただ、こんなことを思い出した。「昭和のお風呂の入り方」というブログに、「風呂桶の中で、手ぬぐいを風船のように膨らませて遊びました。「タオルクラゲ」というそうですよ。」という記述があった。(https://middle-edge.jp/articles/04IqF?page=3)私もよくやったが、手ぬぐいだからできた。タオルを使うようになってからは風船にならなかった。

 風呂で使う手ぬぐいについて興味深い歌詞がある。パブリック娘。「お風呂」(作詞、パブリック娘。、2019年)である。

〈おれはまだ子供 タオルめっちゃ必要/じいちゃんは手ぬぐいひとつ 全てこなす玄人/体洗う時も手ぬぐい 体拭う時も手ぬぐい/手ぬぐい手ぬぐい手ぬぐい手ぬぐい/おれは子供だバスタオル〉

 パブリック娘。は平成生まれの3人のラップユニットだが、この歌詞が彼らの実体験によるものなら、平成の少なくても初期はまだ、手ぬぐい派とタオル派が混在していたことになる。

 

(2) 赤いてぬぐいとは何か

 〈赤いてぬぐい〉というからには、地が赤く染められた手ぬぐいのことであろう。手ぬぐいというのは白地で藍染のものが多いから、〈赤いてぬぐい〉というのは珍しい。ポイントで赤が入ったものはあるが、地が赤い手ぬぐいというのは見たことがない(ネットで検索するばあるものの)。歌でもわざわざ〈赤いてぬぐい〉と言うところが、〈赤〉は有徴であることを教えている。かまやつひろしの「我が良き友よ」(作詞、吉田拓郎、1975年)では、〈下駄をならして奴がくる/腰に手ぬぐいぶらさげて〉とあるが、これは白い手ぬぐいであろう。

 では、なぜ〈赤いてぬぐい〉が出てくるのか。〈赤いてぬぐい〉というシニフィアンは、どういうシニフィエと結びついているのか。60年代末の学園闘争とその挫折、70年代初頭の連合赤軍事件の凄惨な結末を目にして、若者の革命への情熱は一気に潰え去った。この歌が出た1973年はそういう時代であり、〈赤いてぬぐい〉の〈赤〉は革命の見立てではないか。元来、赤は革命の象徴で、赤色旗は反乱者の血にひたされて赤くなった旗である。〈赤いてぬぐい〉は、掲げていた赤い旗を下ろし、使わなくなったそれを代用品として手ぬぐいにしたものではないか。その〈赤いてぬぐい〉もマフラーに代用されることになる。ここには使えるものは何にでも使うという、生き延びるための柔軟さがある。

 歌詞の2番になると、〈二十四色のクレパス買って/貴方が描いた 私の似顔絵〉とあるように、赤の一色だけに束縛されることなく、〈二十四色〉へと解放される。ただ、赤以外の色が持ち込まれても、この似顔絵は〈いつもちっとも 似てないの〉というように、〈二十四色〉をうまく使いこなせないのである。〈二十四色〉を与えられてもどうしていいかわからず、とまどっているのである。

 

(3) マフラーにするとはどういうことか

 その〈赤いてぬぐい〉は、なぜマフラーに見立てられたのだろうか。寒い季節だから防寒ということでマフラーを連想したかもしれないが、「赤い手ぬぐい首に巻いて」と、首に巻いたというだけでよかったのではないか。あるいは手ぬぐいはマフラーほど長くなく、スカーフていどの大きさであるから「赤い手ぬぐいスカーフにして」という歌詞でもよかったかもしれない。

 私はここにはサブカルチャーの影響があると思う。1969年には「右手にジャーナル、左手にマガジン」といわれるほど、大学生がマンガを手にすることへの抵抗感は薄れていた。

 50年代の終わりから70年代にかけてのヒーローは、その多くが首にマフラーを巻いて両端を長く垂らしていた。赤いマフラーを巻いていたのは初期のサイボーグ009で、映画・テレビアニメの主題歌「サイボーグ009」(作詞、漆原昌久、1966年)では、〈赤いマフラーなびかせて〉と歌われる。仮面ライダーも赤いマフラーで、〈ゴーゴー・レッツゴー 真紅のマフラー〉(「レッツゴー!!ライダーキック」作詞、石森章太郎、1971年〉とある。他に仮面の忍者赤影(1966年)も赤いマフラーである。赤ではないが、まぼろし探偵はテレビドラマ版で〈黄色いマフラーなびかせて〉(「まぼろし探偵の歌」作詞、照井範夫、補作詞、山本流行、1959年)と歌われ、少年ジェットは〈白いマフラーは正義のしるし〉(「少年ジェットの歌」作詞、武内つなよし、1959年)と歌われる。覆面ヒーローの元祖である月光仮面(1958年)も白マントに白マフラーであり、さらにその源流である鞍馬天狗1924年)も、頭巾をかぶりながら長い襟巻きを垂らしている。変身忍者 嵐(1972年)は紫色、イナズマン(1973年)は黄色のマフラーである。他にも上げればきりがない。

 彼らはなぜマフラーを巻いていたのか。彼らの多くは、馬とかオートバイといった、身体を露出させて高速で移動する乗り物に乗っている。首元が空いていると寒い。カウボーイは首にスカーフを巻いているし、白バイ隊員は白いマフラーをしている。現実的には防寒の必要からであろうが、それがマンガになると、流れるような曲線で画面が優美になるし、特撮では、マスクとスーツの継ぎ目を隠すことができて、胸元のデザインも賑やかにすることができる。もう一つ考えられるのは、アメリカのヒーローであるスーパーマンバットマンはマント(ケープ)を付けているが、それをもっとコンパクトにしてヒーローの象徴にしたのかもしれない。

 マフラーがヒーローの象徴であるなら、〈赤いてぬぐい マフラーにして〉というのは、お手軽なコスプレである。ありあわせの風呂敷をマントにして月光仮面のマネをした子どもの延長である。

 

(4) 二人ともそうなのか

 〈赤いてぬぐい マフラーにして〉風呂屋に行ったのは、二人ともそうだったのか。ペアルックのように首に巻いていたのだろうか。風呂に行ったのはおそらく暗くなってからである。だから、格好を気にせず、手ぬぐいをマフラーにしたのだろう。

 

 次の歌詞に移る。

〈二人で行った 横丁の風呂屋/一緒に出ようねって 言ったのに/いつも私が待たされた〉

 銭湯も毎日行ったわけではないだろう。このころはまだ毎日風呂に入るという習慣もない。各家庭に風呂があっても、週に1,2回、多くても3回くらいであろう。

 ここでは〈いつも〉という副詞に注目したい。この〈いつも〉は、「二人で一緒に行ったときはいつも」ということであるが、「二人で一緒に行く」ことじたいも〈いつも〉のことだったであろう。

 〈いつも〉女性のほうが待たされたという。〈いつも〉女性の方が先に風呂から出てきたのである。これはどういうことか。一般的に女性の方が長風呂である。風呂で一番時間がかかるのは洗髪である(中には風呂に入ったとき軽く洗濯をするという人もあるだろうがそれは除く)。女性の方が髪が長いから、女性の方が入浴時間が長くなる。だが、女性の方が早く出てきたということは、この女性は短髪だったということが考えられる。逆に、男は長髪だったかもしれない。当時は、反体制的なしるしとして長髪が流行していた。「Cut lab1518」という美容院のブログにはこうある。「1967年にツイッギーが来日し大流行した。このシャープなショートカットを手がけたのはその当時、美容師だったあのヴィダル サスーンと言われている。当時男性が長髪で女性が短髪というのが当たり前だった。」(http://cutlab1518.com/blog-detail/entry/77

 なお、Wikipediaの「神田川」の項目には、「喜多条が銭湯で飼われていた鯉に餌をやり、観賞していた」ので風呂から出るのが遅れたという説が書かれている。鯉が歌詞の他の部分と関わっているなら解釈を豊穣化するが(例えば、神田川ー鯉という連想)、そうでなければ楽屋落ちを聞かされたようなものでシラける。寒い季節に女を外で待たせながら平然と鯉にエサをやっているという冷酷さが「神田川」の裏に隠されていたと想像してみると、待たされた側の言う〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉というフレーズが、やさしさの仮面の裏側に隠された真実に気づいていたセリフとして聞こえてくる。

 


 次の歌詞は〈洗い髪が芯まで冷えて/小さな石鹸 カタカタ鳴った〉となっている。〈洗い髪が芯まで冷え〉るのはドライヤーで乾かしてないからである。当時はヘアドライヤーはまだ普及の緒についたばかりなので、美容院にはあっても銭湯にはない。髪は自然に乾かせば済むので、どうしてもなければならないものではない。今でもホテルや温泉にはドライヤーは置いてあるが、銭湯では有料である。ところで、〈洗い髪〉とか先の〈風呂屋〉とか、古めかしい言い回しをしている。〈二十四色のクレパス〉も「にじゅうよいろ」である。

 〈小さな石鹸 カタカタ鳴った〉とある。ここは私が疑問に思うところだ。この「カタカタ鳴る小さな石鹸」というのは、〈私〉のことであろう。たんに寒いから震えているのではなく、将来への展望がない生活に不安で震えているのである。〈洗い髪が芯まで冷えて〉というのは、いつ風邪をひいてもおかしくない状態に置かれているということだ。この女性は相手に合わせるのにかなり無理をしている。受動的な生き方である。だが、受動的だからといって、それがただちに悪いわけではない。人生において主体的になるときもあれば、人の影響を受けるときもある。この女性は、このとき相手に合わせて生きていて、それがそんなに嫌ではなかった。そのことは「神田川」の続編ともいうべき「赤ちょうちん」に〈そんな生活(くらし)が おかしくて/あなたの横顔 見つめてた〉と書かれていることからもわかる。この〈おかしくて〉という感想は、自分たちの生活を客観的に見ていることからきている。自分のことなのに、どこか他人事のように観察している。〈あなたの横顔 見つめてた〉というのは観察するまなざしである。その余裕は若さから来ているのだろう。〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というフレーズはここでも活きている。こんな状態がいつまで続くのかと思って将来が不安になっていると同時に楽しんでもいるのである。

 ところでこの「カタカタ鳴る小さな石鹸」という描写の意図はわかるものの、本当にそんなことがあるのかという疑問がある。銭湯では石鹸やシャンプーは持参しなければならない。持ち込んだ石鹸は、帰る時は使ったばかりなので濡れてヌルヌルしているはずである。石鹸函のなかにくっついている。震えたくらいでカタカタ鳴るとは思えない。カタカタというのは乾いた軽い物がぶつかって立てる音である。仮に音がしても、〈小さな石鹸〉なので、音も微かである。もっとも、ここを石鹸函が自分の持ち込みの洗い桶とぶつかってたてた音だとか、石鹸ではなく軽石が立てた音だとかいう理屈はあるだろうが、そういうことは歌詞に書かれていない。

 

 次の歌詞は、〈貴方は私の からだを抱いて/冷たいねって 言ったのよ〉となっている。

 〈貴方〉は、「寒かったね」と言ったわけではなく、ましてや「待たせたね」とか「ごめんね」とか言ったわけでもない。〈冷たいねって 言った〉のである。つまり〈私〉のことを思いやって共感的に声をかけたのではなく、モノとして冷えていると、からかっているのである。もちろん、抱いたのは寒いからあたためようと思ってそうしたのであろうし、〈冷たいね〉という即物的な言い方にも「照れ」が含まれているのであろう。だが〈私〉を思いやる直接的な表現がないことは、二人の関係の対等性を次第に崩していくものになるだろう。

 また、〈私〉もこの時点ではあからさまにそれを不満に思うわけではない。震えるほど寒い中を待たされても、抱きしめられれば許してしまう。〈私〉のことを気遣ってくれる優しい人だと思ってしまうのである。今ならこの逆説的な心理はDVにおける共依存の関係から類推できるであろう。〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という歌詞はそういう観点からも理解できる。

 

 歌詞の2番をみていこう。

〈貴方〉は〈二十四色のクレパス〉を買って〈私の似顔絵〉を描く。だが、それが〈ちっとも 似てない〉という。〈うまく描いてねって 言ったのに/いつもちっとも 似てないの〉という。絵をうまく描くことと、それがモデルに似ていることとは別のことである。そうでなければ、ピカソは絵が下手ということになってしまう。ただここは、そういう絵画論を述べているのではなく、素朴なしろうと理論として、うまく描けばモデルに似るはずだという前提で語られている。〈貴方〉が美大生なら独自の美的感覚を持っているのであろうが、そういう特殊な状況ではない。美大生なら画材は身近にあるはずなので、わざわざ〈二十四色のクレパス〉を買うこともない。ふだん絵なんか描かない人なのに、ふとした思いつきあるいは気まぐれに買ってきたからあえて述べているのである。

 クレパスというのはサクラクレパスが大正14年に開発した商品である。誰でも子どもの頃使ったことがあるだろう。クレパスとクレヨンとは違うが、私の周辺では、クレパスもクレヨンと呼んでいた。クレパスは基本的に子ども向けの画材で、絵の具を使って絵を描く前の段階で、簡単に使うことができる画材である。大人が使ってそれなりにしっかりした絵を描くこともできるが、色を混ぜたりハッチングしたり高度な技法が必要だ。子どもは塗り絵のようなベタ塗りしかできない。

 〈貴方〉も子どもの頃親しんだクレパスを買ってきたのだろう。だがそこは大人なので色数の多い24色にした。子どもの頃はベタ塗りしかできなかったが、大人になったのでもう少しましな絵が描けるのだろうと思ったのかもしれない。だが24色あっても描画技術がなければうまい絵は描けない。頭の中で思っていることは、現実化するとやはり無理だった。大人になれば自然にできるようになっていることと、そうではないことがある。技術は訓練しなければ自然には身につかない。

 会話にすればこんなふうだろう。

 

「なぁにクレパスなんか買ってきて」

「ちょいと仕事帰りに画材屋で見かけてね。前から絵を描いてみたいと思ったんだ」

「あなた絵なんか描けるの」

「馬鹿にしたもんじゃないさ。24色もあれば何でも描けるよ。子どものときは12色しかなかったからね、あれじゃ決まりきった記号のような絵になってしまう。24色あればリアルに描けるはずだ。どれ、君を描いてやろう」

「うまく描いてね」

「サラサラサラッと・・・」

「描けた? なにこれ・・・」

「おかしいな。もっとうまく描けると思ったんだけど。なぁに、毎日描いていればそのうちうまくなるさ。なんとかなるよ」

 

 〈24色のクレパス〉を買うことは、子どもとはちがう画材を持つことであり、つまりは大人になることである。年齢にあわせた色数と考えれば、24色とは24歳のことだといえるだろう。だがたんに色数が増えただけでは、年を重ねただけでは、うまく絵を描くことはできない、うまく生きることはできない。それを思い知る。

 うまく絵が描けないということは二人の生活の比喩としても読める。もう少しまともな生活ができるようになるかな、なかなか難しいね、という実感はやがて、不甲斐ない自分、という個人に向けられることになる。

 〈うまく描いてねって 言ったのに いつもちっとも 似てないの〉という部分は、1番の歌詞の〈一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が待たされた〉に対応している。相手に対する要望を述べても、〈いつも〉叶えられないのである。〈貴方〉は〈私〉の願望を叶えられるほどの実力を持った男ではない。

 この部分はまたお互いのわかりあえなさの表現にもなっている。銭湯に同時に行っても、中で男女に分かれて、出てくる時間が一致しないというのは男女のわかりあえなさを表している。絵を描いても〈私の似顔絵〉が〈ちっとも 似てない〉というのは、絵の技術の有無というより、〈私〉のことをよく理解できているかどうかということであり、個人同士のわかりあえなさを意味している。ただ〈二十四色のクレパス〉は〈私〉のことを理解する媒介となる道具であったので、それを〈貴方はもう捨てたのかしら〉と思うことは、「貴方はもう私のことを理解するつもりがないんでしょうね」ということだろう。

 

 次の歌詞は一転して視点が切りかわり、〈窓の下には神田川/三畳一間の小さな下宿〉となっている。

 ここで〈窓の下には〉とあるのは、自分たちの部屋は2階にあるということだろう。1階であれば「窓の向こうは神田川」となるはずだ。いずれにせよ、これは俳句的な取り合わせである。私は芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の河」という句を連想したが、この歌詞も、神田川という東京を代表する河川の一つと、〈三畳一間の小さな下宿〉という、大きなものと小さなものを対比している。自分たちがいるのは〈三畳一間の小さな〉世界だが、窓を開ければすぐそこには東京を横断して流れる神田川が流れている。小さな世界が、大きな世界につながっている感覚。

 もっとも、この歌が出た当時、高度成長期の神田川は汚い川として知られていた。生活雑排水や工場からの排水で臭いドブ川となり、「死の川」とも呼ばれた。下宿の部屋は小さく、窓を開けても汚いものに囲まれている(それらは都会の活力の負の側面を象徴している)。そういう生活しかできないということで、わびしさを相乗するために書かれたのかもしれない。

 神田川の汚さは今では改善されてきているし、神田川=汚い川という知識は、当時の川沿いの住人に限定されたものである。そうした歴史的でローカルな知識がないと「神田川」という歌が理解できないものであれば、当時もヒットしないし、現在では理解できない歌になってしまうだろう。だがそうではないのは、神田川/三畳一間の下宿の対比が、大きな自然と小さな人間の営みの対比として解釈できるからである。

神田川が汚い川であることは次を参照した。)

https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/08/kandagawa-ayu-sake_n_11398556.html

https://dailyportalz.jp/kiji/170424199417

 

〈貴方は私の指先見つめ/悲しいかいって きいたのよ〉

 ここでは〈三畳一間の小さな下宿〉から、さらにもっと小さな〈私の指先〉へとカメラがフォーカスされる。〈貴方〉は〈私〉の顔ではなく指先を見つめる。顔を見ることは〈私〉と正面から向き合うことだ。〈貴方〉は〈私〉の顔を描くのに失敗した。〈私〉と正面から向き合うことは自分の力量を超えている。だから〈私〉の一部である指先へと目をそらし、〈悲しいかいって きいた〉のである。〈悲しいかい〉という本質的なことをストレートに聞くには目をそらさなければならなかったのである。

 〈悲しいかい〉と聞かれて〈私〉は何と答えたのであろうか。それは記されてはいない。〈貴方〉が〈悲しいかい〉と聞いたのは、〈私〉がそう感じているはずだと思ったからであろう。ドブ川の匂いが漂ってくる狭い部屋で貧しい暮らしをさせているのは自分のせいである。その自分についてくるのは〈私〉が選んだことである。語られるのは、一緒に銭湯にいったり、似顔絵を描いてもらったりと、本来楽しいはずのエピソードである。だが一緒に銭湯に行ってもいつも待たされるし、似顔絵を描いてもらっても下手くそである。〈貴方〉と〈私〉の関係はどこかしっくりしない。二人はうまくやっていけないという予感のようなものが語られている。

 〈悲しいかい〉という問いかけは〈私〉には微妙にズレたものだっただろう。〈私〉が感じているのは、「悲しみ」という感傷的なものではなく、〈若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった〉とあるように「恐れ」をめぐるものなのである。エクマンの6つの感情理論でも「恐れ」と「悲しみ」は別のものである。この点でも〈私〉と〈あなた〉の感覚はズレている。〈あなた〉は空想的で〈私〉は現実的だ。

 

 この歌には、明言されはしないものの、不安な感じが漂っている。既に述べたところもあるが、まとめておく。

 

(1) 銭湯から出て、いつも待たされたというのは、銭湯で男女で別れるとそれぞれはブラックボックスとなって、同じことをしても結果のタイミングが一致しない。これは男女間でのわかりあえなさを意味している。

(2) 風呂上がりの体が冷えて震えるというのは、将来への不安を意味している。〈貴方〉が示す〈やさしさ〉はその場をやりすごす方便でしかない。

(3) 風呂に行くのも似顔絵を描くのも二人きりの行為である。ここには、ベースになる共同体がなく、二人きりで世界に投げ出されている感じがある。70年代は過激な時代のあとに到来した「やさしい青年の時代」であり、個人主義が進んだ時代である。「やさしさ」も個人間の繋がりである。なんの強制もなく、簡単に切れやすい。

(4) 似顔絵がちっとも似ていないというのは、個人同士でのわかりあえなさを意味している。絵を描くという行為は対象をよく見ることでもある。その絵が似てないということは、相手のことをよく見ることができていないか、それを表すにふさわしい道具や技術を持っていないということである。

(5) 神田川と小さな下宿の対比は、世の中に対して、自分たちがいかにちっぽけな存在、無力な存在であるかということを示している。

 

 不安に包まれているとはいえ、救いもある。〈窓の下には神田川〉というのは、二人の世界の閉ざされは強固ではないことを意味している。二人は地下室に閉じ込められているのではない。窓を開ければ外には広い世界がある。二人の閉ざされた世界の希望が窓に象徴されている。ただ、世界とつながる川は少し下にある。その点、隔たりがある。

 

10

 歌詞の2番まで読み終えたので、あらためて全体を見てみると、この歌が額縁ソングになっていることがわかる。1番は〈貴方はもう忘れたかしら〉、2番は〈貴方は もう捨てたのかしら〉と始まっている。そして〈貴方のやさしさが 恐かった〉と締められる。どこかにいる〈貴方〉への語りかけを枠として持っていて、過去の思い出がその中で綴られる。

 〈貴方はもう忘れたかしら〉というのは、〈貴方〉はどうか知らないけど、〈私〉はまだはっきり覚えているということである。この過去はどのくらい前のことなのだろうか。語りの「今」は、それから何年たっているのだろうか。それを考える手がかりは〈貴方は もう忘れたかしら〉の〈もう〉にある。

 〈もう〉とはどういう意味か。ネットにある辞書として詳細に記しているウィクショナリー「もう」の項目にはいくつか書かれているが、関係しそうなのは次の2つだ。

 

(1)〔完了したことや状態が変化してしまっていることを表す〕 もはや。すでに。(例文、社長はもう帰りました。)

(2)〔話者から見て時期尚早であると感じられる様を表す〕はやくも。強勢を置いて発音される。(例文、いま泣いたカラスがもう笑った。)

https://ja.wiktionary.org/wiki/もう

 

 (1)の用法の中には(2)のニュアンスも含まれている。〈貴方は もう忘れたかしら〉という文の〈もう〉は、意味としては(1)であるが、ここには(2)の「話者から見て時期尚早であると感じられ」るというニュアンスも含まれている。

 ではその忘れるにあたって「時期尚早」というのはどのくらいの期間なのか。「こういうことがあったよね」と話しかけられた場合、「そうだよね」という返事がくるのか、「そんなことあったっけ?」と返されるのか。前者は記憶として残っているが、後者はすっかり忘れている。思い出されているのは日常の反復的なエピソードであり、特に強い印象を残すものではない。何気ない一コマが忘却の淵に沈まずに記憶に留まるのは2,3年であろうか。2,3年前の習慣的な出来事を問いただすのに〈貴方は もう忘れたかしら〉という言い方をするのはなじまない。「まだ覚えてるよね」という言い方のほうがふさわしい。これが5,6年経過するとさすがに日常生活の細部は記憶から抜け落ちて〈もう忘れた〉ということになるだろうし、10年経過していれば「時期尚早」の〈もう〉は使えない。〈もう〉を使うのに2,3年では早すぎるし、10年では遅すぎる。5,6年というのが私の見立てである。語り手がこの思い出を語っているのは、その出来事が起きてから5,6年経ってからではないかと推測する。そしてその出来事は〈私〉にはなぜだか「忘れえぬ」ものだけれど、〈貴方〉にとってはどうなのかわからないという極めて私的な性質のものである。

 語られる過去は同棲生活である。では何歳頃のことだろうか。同棲であるから結婚はしていない。語り手は口調からして女性である。この歌が発表された1970年代前半において、女性の平均初婚年齢の推移を見ると、1973年の時点では24.3歳である。そこから5,6年遡れば、想起された現在では20歳前後ということになろう。2人とも大学に通っていれば、学生の同棲生活ということになる。学生時代が終わって、二人は離れ離れになり、女性が結婚を前にして、当時のことを思い出している、という歌なのだろう。

 これはこの歌が制作された際の作詞家のエピソードと一致している。手早くWikipediaの「神田川 (曲)」の項を参照しよう。次のようにある。

「南から作詞を依頼された喜多條は当時25歳で、早大を中退したのち放送作家として売り出し中だった。彼はタクシーで早稲田通りの小滝橋を通りがかった時、神田川の河川整備をする都庁職員を目にし、19歳の時に1年間だけ早大生の髪の長い女学生と三畳一間のアパートで同棲した日々を思い出した。」

 一方、語りの「今」において〈貴方〉がどうなっているかは伺いしれない。歌詞のなかに手がかりはない。ただ、〈貴方〉との生活を懐かしんでいるものなので、嫌な別れ方をしたのではないだろう。

 この二人の暮らしはどういうものだったかというと、一緒に銭湯に行ったとか、似顔絵を描いてもらったとか、一見ほのぼのしたものなのだが、〈貴方は私の からだを抱いて/冷たいねって 言ったのよ〉〈貴方は私の指先見つめ/悲しいかいって きいたのよ〉とあるように、〈冷たい〉〈悲しい〉といった言葉で直視しなければならないような現実があった。この〈冷たいね〉〈悲しいかい〉は、いずれも〈貴方〉の言葉の引用であり、〈貴方〉の言葉が出てくるのはこの2箇所だけである。〈貴方〉はトボけた感じの人のように見えるが、本質を直視したことを言う人でもある。むしろ〈私〉のほうが、〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というまとめ方をするような熱さがあった。

 〈私〉の語りからは、恨み節のようなものは感じられない。貧しいけれど不幸ではなく、楽しい思い出として振り返られている。同じ作詞者の「赤ちょうちん」(作詞、喜多條忠、1974年)では、貧乏暮らしは〈そんな生活(くらし)が おかしくて〉という受け取り方をされている。この客観性も〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉という余裕からくるのだろう。だが、若くなくなったらどうなるのか。いつまでも続けられる生活ではないということだ。

 〈貴方はもう忘れたかしら〉というのは、どこかにいる〈あなた〉への問いかけというより、〈私〉の記憶を引き出すための独り言みたいなレトリカルなものとも言える。〈私〉が過去を回想するのは、たんに懐かしむため以上のものがある。〈私〉の現在は語られないが、それは反語的に語られている。つまりあの頃のように不幸を〈何も恐くなかった〉と蹴とばせる強さが欲しいということだ。おそらく数年前の出来事を〈あの頃〉と感じるほど、昔の自分と今の自分は落差があり、かつては元気があったけど、今は生命力が枯渇してきていると感じているのかもしれない。

 バンバン「いちご白書をもう一度」(作詞、荒井由実、1975年)には、〈就職が決って 髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね〉とあるが、ここでは、就職によってひとつの若い時代の終わりという切断線が引かれている。会社に従うことで、自由を奪われる感覚が生じる。「いちご白書をもう一度」は、四畳半的なものと決別したときに残る哀しみを歌っている。過去を思い出して、〈君もみるだろうか〉という問いかけがあるのも似ている。作詞したユーミンは「神田川」を四畳半フォークと言ったが、同じような歌を作っているのである。

 神田川」の語りの「今」において、〈貴方〉がどうなっているかはわからない。一方、語られている「過去」においては、逆に〈私〉のことがよくわからない。「過去」において、二人の関係はどのように描かれているのか。

 次のような箇所では、〈貴方〉のすぐあとに〈私〉が出てくる。

 

・貴方は私のからだを抱いて
・貴方が描いた 私の似顔絵
・貴方は私の指先見つめ

 どれも行為の主体は〈貴方〉で、〈私〉は作用を受ける側で受動的である。この歌では〈私〉は語り手で、思い出す主体ではあるのだが、そこで回想される内容はどれも〈貴方〉の行為が〈私〉へと作用を及ぼしていることばかりで、方向が一方的である。〈私〉も〈貴方〉に、風呂を上がるタイミングは合わせてくれとか、似顔絵はうまく描いてくれといったお願いはするのだが、それらは〈いつも〉叶えられない。「神田川」の回想される過去において、主役は〈あなた〉であり、〈私〉はその観察者であり脇役である。一人称の語りは、〈私〉が観察者になって周囲の人物の挙動を語るのに向いている。この歌もそういう歌である。

 回想された過去においては、その「世界」を作っているのは〈貴方〉で、〈私〉は添え物である。〈私〉は銭湯あがりに寒いなか待たされても抱きしめられれば文句も言わず、下手な似顔絵を描かれても怒らず、三畳一間の貧乏暮らしでも不平は垂れない。〈あなた〉のやることなすことに従っていた。これが理想の女だとばかりに主体性がない。〈私〉はお人形さんみたいに意志がなく、〈あなた〉のいい加減さにつきあわされていた。「神田川」を敷衍した「赤ちょうちん」も枠形式で過去の回想が大部分を占めるのだが、こちらの男性も刹那的な生き方をしていて、それにつきあわされる女性は〈そんな生活(くらし)がおかしくて あなたの横顔見つめてた〉と観察者になっている。

 

11

 この歌でよく議論になるのが終結部分の歌詞である。〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉のあとに、〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉と続いていて、「やさしさが恐いってどういうこと?」とよくわからないままストンと終わっている。

 この部分は謎めいているので、いろいろ考察されているし、作詞者もそれに答えるべく自作について度々コメントしている。前にテレビで放送したときは(『驚きももの木20世紀』「神田川伝説」1995年8月25日)、ここだけ視点が男女入れ替わっていて、女性がやさしくしてくれるから自分はだめになってしまうのが怖い、というようなことであった。ネットを見てもそんなような事が書いてある。(「BS朝日 うたの旅人」https://archives.bs-asahi.co.jp/uta/prg012.html

 この部分だけ取り出せばわからないでもない。例えば松山千春の「銀の雨」(作詞、松山千春、1977年)にも、〈これ以上私が そばに居たなら/あなたがだめに なってしまうのね〉〈せめて貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉とあって、同じようなことを言っているし、女性に母親を見出す傾向があることは似ている。

 だが「神田川」の場合、前後のつながりがよくないのである。歌詞を通して読んでみても、書かれたエピソードからは、なんとなく不安であることや、そこはかとない悲しみは伝わってくるものの、〈貴方のやさしさが 恐かった〉ということには素直につながってゆかず、唐突感を否めないのである。最後の部分だけ男性視点の歌詞をくっつけたというのは乱暴すぎるし、作品の展開や内的な論理をあまりに無視している。同じ〈貴方〉という言葉が使われていれば、別の人だとは思わないし、男女がそこだけ入れ替わっていると言われても、歌詞として破綻していることになってしまう。作家主義の批評家でもそれを採用するのは苦しいと思うだろう。

 また、別の機会に作詞者は、そもそもこの歌の語り手は男性なのか女性なのかよくわからないとも言っている。当時は男性も女性みたいな長髪が多かったから外見は勘違いしやすかったかもしれない。(出典は書かれていないが、以下のブログに記載あり。https://otokake.com/matome/9yxVqR?page=2)

 だが、この歌の語り手が男性なのか女性なのかわからないとまでいうのは無理がある。〈私〉の言葉遣いは〈貴方はもう忘れたかしら〉〈いつもちっとも 似てないの〉と女性語だし、〈貴方〉のほうは〈悲しいかい〉と男性語。〈貴方は私の からだを抱いて〉というのも〈貴方〉が男性であることを思わせる。叙述トリックのミステリーみたいなことを言うのは、作詞者自身、つじつまをあわせるのに苦労させられているということなのだろう。

 この歌詞は、作ったときに南こうせつに電話で伝えて、こうせつは聞き取りしながら曲をつけていったという逸話がある。そのとき歌詞としてかっちり固まっていたのだろうか。この部分がどういう構成を考えて書かれたものか曖昧だったのかもしれない。

 創作経緯を推測すれば、〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というのは総括的な言い回しである。貧しかったけれど、若さゆえ恐いものがなかったと。もしかしたら、元の歌詞はそこで終わっていたのではないか。だが、こうせつが作曲して、言葉が足りないからもう少し書き足してくれと言われて、急遽〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という部分を付け加えたのかもしれない。根拠はない。推測である。

 〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というのは常套句である。そのあとに何か気の利いたことを続けるとしたら、常套句をひっくり返すために、〈何も恐くなかった ただ○○が恐かった〉という形を導き出し、その〈○○〉を何にしようかと考えて、意外なものにしよう、怖そうではないものを恐いと逆転してみようと考えて、〈やさしさが恐かった〉にしたのかもしれない。この最後のアイロニカルなフレーズによって、全体を支配する感傷にいくぶん苦味が加わって複雑な味わいの歌詞になった。

 作詞者も説明に苦慮するような〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という部分は、歌詞の語り手である〈私〉が、書き手も意図しないことを勝手にしゃべりだしたように思えるポリフォニックなものになったと言える。〈私〉は年数を経ることで自立性を増し、過去の〈貴方〉と対話的関係になることができた。同時に、作詞者とも対話的になりえたのである。

 

世界の構築性 佐良直美「世界は二人のために」、小坂明子「あなた」~君僕ソング(その9)

9-1

父■〈僕〉と〈あなた〉はセットで出てきても存在論的に対等ではないことがある。ちょっと時間をさかのぼることになるけど、僕が生まれた1967年に佐良(さがら)直美という人がデビューして、「世界は二人のために」(作詞、山上路夫)という歌が大ヒットした。

佐良直美「世界は二人のために」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001f9d/l004ca9.html

娘□また昔に戻っちゃった。なんかおノロケっぽいタイトルね。この「世界」って、アメリカとかイギリスとか中国とか諸々の国々のことではないでしょ。

父■そんな独裁者の歌じゃないよ(笑)。このタイトルは反語ととらえることもできるし、独我論的なものととらえることもできる。もう一つ「あなた」もキーワードだね。この歌では、〈空 あなたとあおぐ 道 あなたと歩く/海 あなたと見つめ 丘 あなたと登る〉というように、何をやるのも〈あなた〉と一緒だ。

娘□恥ずかしいくらい、めっちゃベタベタしてる。つきあい初めか、新婚さんいらっしゃーいって感じ? あたしには息苦しい。もうちょっと一人の時間がほしい。

父■ベタベタさは聞いているこちらが赤面するくらいのものなんだけど、これはあえてそうしているものだから。いわばポエム的極限を想像して書いている。恋愛初期の全能感があふれている。二人で一緒に経験するのが新鮮な喜びであるということは、逆に言えば、それまでは深い孤独だったってことだろう。

娘□だから喜びも大きいわけね。幸せすぎてちょっと不安になるくらい。でも別に、好きとか愛してるとか言っているわけではない。ただ二人で一緒にいるだけで、それ以上の過剰な思いが伝えられるわけではない。Jポップにも〈二人〉という言葉はよく使われているけど、二人で同じものを見て、二人で同じ経験をするっていうのが最近の恋愛で、好きとか愛してるとか気持ちをグイグイ押し付けてこない。一緒にはいる。けど何センチか離れてもいる。

父■でもそれは存在論的に対等というわけではない。この歌の歌詞を見てご覧。〈あなた〉というワードは16回出てくる。対して〈私〉は1回だね。〈あなた〉と〈私〉の出現回数は極端に違う。この歌の〈私〉の少なさはどうしてなのか。

娘□〈空 あなたとあおぐ/道 あなたと歩く〉とあるところの〈と〉が何を意味するのか。この〈と〉は「あなたと私」ということでしょ。〈私〉は隠されているだけで、実は〈あなた〉が出てくる回数だけ出ていることになる。「世界は二人のために」あるというのは、この〈世界〉は〈あなたと〉の共同主観的なものということじゃないかな。

父■でも、この〈あなた〉には主体がたちあがるほどの存在感はないよ。字面としては〈私〉は隠されているけど、本当は強固に存在しているのは〈私〉だけで、〈あなた〉を含めこの「世界」は孤独な〈私〉が作り出した幻想なのかもしれない。〈二人のため世界はあるの〉と歌うけど、実は内容的には「広い世界の中で誰にも邪魔されず二人でいる」ということで、ガラガラの店に行くと「今日は貸し切りだね」って言うのと同じ。〈私〉が作った世界だから、必要のないものは存在しない。

娘□恋愛しているときは周りが見えなくなるっていうわよね。

父■〈私〉は登場回数が少ないから影が薄いのではなく、逆に、認識の中心として強い権力をもっているから出てこない。この世界は〈私〉が構築している独我論的な世界。『世界の中心で、愛をさけぶ』ってあったよね。自分が「世界の中心」にいるという感覚は、自分の意識があるから世界が存在しているということからくるんじゃないかな。自分が死んだら、同時にこの世界も終わる。認識の主体は〈私〉で、その〈私〉の目はいつも〈あなた〉をとらえている。「図と地」の図式でいえば、〈空〉とか〈道〉とか一般名詞で表されるものは舞台の書割にすぎなくて、それは背景としての「地(=世界)」で、〈あなた〉が「図」として屹立している。〈二人のため世界はあるの〉というのは、〈あなた〉の格付けが〈私〉と同じところまで高くなっていることを意味している。〈あなた〉は〈私〉の影のように都合よくどこにでもたち現れる。とはいえそういう格付けも〈私〉が行っているわけで、〈あなた〉はとても重要ではあるけれど、〈私〉によって作られた世界の構成要素の一つにすぎない。

娘□あたしの感覚だと、その「世界」は〈私〉がプレイするゲームの中の世界みたい。道があって丘があって〈あなた〉がいて、〈私〉の目がそれを追いかけている。一人称視点のゲームで、〈私〉=プレイヤーは画面に出てこない。

父■ゲームの区分にFPSとTPSがあるね。FPSは一人称視点のシューティングゲームで、TPSは三人称視点のシューティングゲーム。この歌はFPSだ。プレイヤーが画面に映らないように歌詞にも〈私〉は出てこない。1回出てくる〈私〉は、〈いま あなたと私〉というふうに対象化された〈私〉にすぎない。〈あなたと私〉と並べられてはいるけど、両者の間には存在論的に深い断絶がある。〈私〉は世界を支配する視点人物で、〈あなた〉はゲームの中で生きているキャラ。

娘□最近の歌は〈あなた〉と同じくらい〈私〉が出てくるわね。

父■この歌は〈私〉に見えるものを歌うから〈私〉は出てこない。一方、Jポップは自分の意識を歌う「自分語り」が多いから、必然的に〈私〉や〈僕〉が多くなる。でも〈私〉というのはそんなに強固にあるわけではなく、フラフラしているもので、〈私〉とは何かというのは、〈あなた〉によって反照的に規定される。さっきのUru「あなたがいることで」もそうだよね。〈私〉は語り手であっても、あらかじめそんなに確固たる存在ではなく、〈あなた〉との関係でしっかりした存在になる。見えるものを歌っていくと世界を構築していく方向になり、一方で、自分の意識の流れに注目していくと〈私〉や〈僕〉といった言葉がたくさん使われるようになって、世界を構築する力は弱くなる。

娘□この歌はすごい幸せかというと、そうでもないんじゃない? 今が幸せのピークであとは幸福感は減少していく。だって〈あなた〉といても特に何かをするわけではない。ただ一緒にいるだけで幸せ。そういう状態は長くは続かない。

父■一緒にいて特に幸せだと感じなくても、また別の境地が待っているからそれはそれでいい。ただ、僕は聞き手としてこの歌に入り込めなかった。この歌は〈あなた〉という人が操り人形みたいで主体性がなく、〈私〉に引きつられているだけで存在感がない。〈私〉が作った世界だから、〈私〉の意識のほつれによって簡単に世界が瓦解しそうな脆弱さをはらんでいる。

娘□〈私〉の想像で閉じていて、他者が存在していないのね。

 

9-2

父■「世界は二人のために」における世界の構築性をもっとはっきり歌った歌がある。小坂明子の「あなた」(作詞、小坂明子、1973年)。これも〈私〉によって構築された世界だ。ただ「あなた」の世界は〈家〉にまで縮小限定され、逆に具体化されている。「世界は二人のために」に出てくるのは〈空、道、海、丘〉という分類にすぎないけど、「あなた」のほうは〈子犬、じゅうたん、坊や、編みもの〉と具体的、個性的になっている。ゲームで言えば画面の精細度が上がっている。

娘□タイトルからして「あなた度」が濃厚そう。

小坂明子「あなた」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001ccb/l0047f9.html

父■〈もしも私が家を建てたなら〉と歌うから住宅のCMに使えそうなんだけど、〈小さな家を建てたでしょう〉と続くから難しい。安月給のサラリーマンがカラオケで歌ったら身の丈にあったマイホームだと揶揄されそうだ。

娘□歌の編曲はゴージャスだから豪邸の感じがするんだけど。

父■少女マンガの背景が花で飾られるようなものなのかな。Wikipediaの「あなた」の項目には、「最初のイントロを聴いた小坂が「これは私の作曲のイメージとは違います。もっとスタンダードジャズのようにおごそかな静かなイメージで世界歌謡祭はアレンジを変えて下さい」と依頼した」とある。ユーチューブに小坂がピアノの弾き語りで歌っている映像があって、シンプルなほうがこの歌にあっていると思った。

娘□女の子は、豪邸じゃなくても好きな人がそばにいてくれるだけで幸せな気分になれる。編曲のゴージャス感は、少女が夢見る幸福はこのくらい大きいっていう編曲者の解釈なのかも。

父■歌詞でだれもが驚くのは〈もしも私が家を建てたなら〉って女子高生が想像するところ。「私はこんな家に住みたい」って言うのではなく〈家を建てたなら〉だからね。親から独立して建てた家に、結婚した旦那さんと子どもまでいる想像をするんだから早熟だ。河原の土手に二人で腰掛けて隣でずっと笑っていて欲しいという、よくある歌がビンボくさく思えてくる。〈あなた〉のために家まで建てて、そこに囲っちゃうんだから。僕も新聞の広告に戸建てやマンションの間取りが書いてあると、それをじっと眺めて自分が生活することを想像してみるのが好きなんだけど。

娘□もしも私が総理大臣ならこんな国にしたい、っていう歌があってもいいかも。財務大臣には誰々さんを据えて、消費税は15%にするのよとか、替え歌を作ったら面白いじゃない。

父■たぶんもうあるよ。

娘□でも、あたしが国家について歌を作ったとしても、あたしの問題意識に引っかかってくることって身の回りの小さなことばっかりだと思う。バイト代の時給900円が1000円に上がったら何に使うか想像できるけど、1億円や1兆円の使いみちはわからない。この歌も、家という枠組ではあっても〈私〉の想像力の範囲を超えていないでしょ。

父■歌詞は、暖炉、子犬、じゅうたん、坊や、編みものという、〈私〉にとっての幸せの記号を集めたものになっている。もし、書き手が男の子だったら、子犬や編みものの代わりにプラモデルやサッカーボールになったかもしれない。あるいは〈小さな家〉ではなく「大きな球場」を作りたいというかもしれない。

娘□自分の好みのものが集められ、しかも〈小さな家〉だからそれらがギュッと詰まった状態になっている。〈小さな家〉からは、幸せを感じさせるもの意外は排除されている。16歳の女の子が作った歌だから考えつく限りの幸せなものを詰め込んだとしても少しのスペースで収まってしまう。それが逆にミニマルな暮らしに満足する点で、今ふうかも。あたしも自分の空間を、好きなもの、可愛いものだけで埋め尽くしたい。

父■家を建てるというのはゼロから何かを構築するってことだよね。自分の部屋というすでにある場所を装飾するとか、自分の裁量がきく場所に自分の好きなものを配置するというのとは違う。そういう構築性の強い歌なんだけど、それらに意味を与えているのは何かというと〈あなた〉だ。でも、その肝心の〈あなた〉が不在だよね。1番の歌詞は、〈子犬の横には あなた あなた あなたが居て欲しい/それが私の夢だったのよ/いとしいあなたは 今どこに〉とあって、2番では、坊やの横にはあなたが居て欲しい、3番では、私の横にはあなたが居て欲しい、と歌う。子犬や坊やがいて私がデッキチェアでレースを編んでいたとしても、幸福の源泉である〈あなた〉がいなければ、全てが雲散霧消してしまう。

娘□〈それが私の夢だった〉と過去形だから、すでに雲散霧消しているのよ。大好きだった人に失恋でもしたんじゃない? 想像力の中では何でもできるお姫様だけど、この歌はふと現実を垣間見ているのよね。一瞬にして想像の家は蒸発してしまう。幸福は想像の中だけでは完結しないことがはっきりしている。

父■私の家は〈あなた〉という空虚を中心に成り立っている。〈あなた〉は子犬や坊やと対等な存在ではなく、家を成り立たせる特権的な存在だ。だが、その中心たる〈あなた〉は不在。〈あなた〉と呼ぶ声(シニフィアン)は宙に漂うばかりで、それにあった内容(シニフィエ)がない。この歌はいっけん明るいけれど、そういう空虚さが漂っている。

娘□神社を作ったけど、肝心のそこで祀る神様が勧請されていないのね。〈あなた〉が不在なら、そもそも〈家を建てたなら〉なんて想像をしなければよかったのに。わざわざ想像しておいて肝心の〈あなた〉がいないなんてオチじゃ、虚しさを自分で作り上げていることになる。般若心経の「色即是空、空即是色」の認識を練習しているみたい。さっきの「世界は二人のために」も、なんだか夢のなかの出来事を歌っている気がするけど、〈あなた〉の不在までは想到していない。その点「あなた」のほうが進化している。「あなた」はいわば「小さな家は二人のために」という歌でしょ。

父■これまでふれてきた「あなたがいることで」「世界は二人のために」「あなた」に共通しているのはモノローグ的だということ。「世界(家)」を作っているのは〈私〉で、〈あなた〉はその中の登場人物。登場人物がどういう人かは語り手である〈私〉によって決められており、自己主張しない。奥深さを欠いている。〈私〉と〈あなた〉が出てきても、その関係は対等ではなく、〈あなた〉は道具的に扱われている。しかし〈あなた〉なしでは「世界(家)」は存在しえないから、〈私〉に構築力のマジックを与えてくれたのは〈あなた〉だったことがわかる。〈私〉は〈あなた〉に依存している。だからその〈あなた〉は〈私〉の頭の中にいるだけでは駄目なんだ。〈私〉がふと現実に思いを馳せた途端全てが消滅してしまうからね。君の比喩で言えば、ゲームの画面から顔を上げて現実を見回したとき、孤独であることが返って痛感させられる。現実への足がかりが必要で、空白の〈あなた〉の場所に頭の外から誰か来てもらわなければならない。

娘□このあいだ、ライアン・レイノルズの『フリーガイ』っていう映画を見たんだけど、ゲームのモブキャラが自意識を持つようになって、主人公になろうとする話だったんだよね。人工知能が進化し始めたっていうことなんだけど、今の歌で言えば「あなた」に出てくる〈あなた〉が勝手に発言しだしたら、こぎれいにまとまっていた世界が歪んできちゃうんじゃない? つまり、現実において〈あなた〉に相当する人が出てきてダイアローグになったら、自己完結していた少女趣味の想像が成り立たないってことに挫折させられるかも。

父■「世界は二人のために」とか「あなた」は、女性が主人公の歌だよね。さだまさしに「主人公」(作詞、さだまさし、1978年)という歌があって、これは長らくさだまさしの人気ナンバーワンの歌だったんだけど、〈あなたは教えてくれた 小さな物語でも/自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という歌詞が、平凡に生きる女性たちに力を与えた。「あなた」における〈小さな家〉というのは、「主人公」における〈小さな物語〉に該当するんだろうな。「主人公」では〈時折思い出の中で あなたは支えてください〉とあるように、〈あなた〉は〈私〉の想像の内部にいることがはっきりしている。外部に手がかりがあれば、想像の内部でも人は励まされることはある。外部の手がかりがあることの重要性は荒井由実の「卒業写真」でもわかる。

娘□今は女性活躍社会だから、あたしには「主人公」の歌詞は古いなあ。自分の人生だけじゃなくて、社会でも主人公にならなきゃね。

Uru「あなたがいることで」だまし絵の歌詞 ~君僕ソング(その8)

娘□これまで読んできたフォークとかニューミュージックとか「ルビーの指環」とかって4,50年も前の歌でしょ。最近の歌では人称代名詞はどうなっているのかな。このところ、Uru「あなたがいることで」(作詞、Uru、2020年)が好きでよく聞くんだけど。

Uru「あなたがいることで」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a04b107/l04f281.html

父■ああ、テレビドラマの主題歌になってたやつだね。

娘□『テセウスの船』というミステリーで、過去にタイムスリップして歴史を変えようとするもの。自分の父親が大量殺人の犯人として服役中で、息子が事件の直前にタイムスリップする。

父■『僕だけがいない街』とか『東京リベンジャーズ』とかもヒットしたけど、なんでそういう不思議な現象がうまい具合に起こったのかは説明されない。

娘□そういう能力を持った人だからじゃないの?

父■それは説明すべき事柄を一つ先送りしただけ。

娘□そういう野暮な詮索はしないで楽しむものなのよ。

父■たしかに大量殺人は重大だけど、隠されているのは犯人の動機や方法だけで人間の理解の範囲に収まる。それに比べタイムスリップが起こったことのほうがあらゆる法則を覆す大事件。でもそこにあんまりこだわらず、身の周りの問題の方が重要だってなっちゃう。

娘□設定は前提として受け入れないと。

父■昔はマッドサイエンティストとかがいてへんな装置を発明したとかという、いい加減だけど説明はあった。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか。今はそれも省略されている。靄に包まれたり気を失ったりして簡単に時間を遡る。

娘□なんでタイムスリップしたかなんて誰が考えてもそんなに新しいことは思いつかない。ある日突然そういうことが自分の身に降り掛かったらどういう行動をするかという思考実験なのよ。タイムスリップの仕方じたいに関心があるのではなく、タイムスリップしたあとで何をやるかに関心があるんだから。

父■歌の話に戻すと、この歌はタイトルからしてそうなんだけど、歌詞にもよく〈あなた〉が出てくる。数えてみたら〈あなた〉が9回、〈僕〉が7回あった。他に〈僕ら〉が3回。

娘□そんなにあるんだ。

父■特徴的なのが次のようなところ。

 

・不器用な僕だけど ちゃんとあなたに届くように

・僕はずっとあなたを想うよ

・あの日僕にくれたあなたの笑顔が

・あなたが僕を信じてくれたように

・いつか僕に話してくれた あなたが描いた未来の中に

 

 これらは〈僕〉と〈あなた〉が出てくる位置が近いよね。〈僕〉と〈あなた〉がセットになっている。それで出現率が高くなる。後半になると二人が融合して〈僕ら〉が何回か出てくるようになる。

娘□あらためて言われると〈僕〉や〈あなた〉が耳につくようになる。〈僕〉や〈あなた〉を入れる必要性がどこまであるのかなって。少ない文字数の中で同じ語が繰り返されると気になる。省略できるところがないか見てみるね。えーと、例えば出だしのところ。

 

どんな言葉で/今あなたに伝えられるだろう

不器用な僕だけど/ちゃんとあなたに届くように

 

 これは〈僕〉と〈あなた〉を全部取っ払って、

 

どんな言葉で/今伝えられるだろう

不器用だけど/ちゃんと届くように

 

 としてもほとんど意味を違わずに伝わる。次も同じね。

 

もしも明日世界が終わっても/会えない日々が続いたとしても

僕はずっとあなたを想うよ

 ↓

もしも明日世界が終わっても/会えない日々が続いたとしても

ずっと想っている

 

あの日僕にくれたあなたの笑顔が/生きる力と勇気をくれたんだ

 ↓

あの日の笑顔に生きる力と勇気をもらった

 

あなたが僕を信じてくれたように/次は僕がその手を強く握るから

 ↓

あなたが信じてくれたように/次は僕がその手を強く握るから

 

父■登場人物は〈僕〉と〈あなた〉だけだから、大胆に省略しても意味は伝わる。文字数が空くので違う言葉を入れられる。

娘□〈僕〉と〈あなた〉が多いのは、極端なことを言えば、何か内容のあることを言いたいというよりは、〈僕〉と〈あなた〉という二つの言葉を入れたかったからってことなのかも。

父■たしかに、小坂明子の「あなた」(作詞、小坂明子、1973年)のように、〈あなた〉と繰り返すだけで歌になる歌もある。他にも、〈あなた変わりはないですか…あなた恋しい 北の宿〉という都はるみ「北の宿から」(作詞、阿久悠、1975年)みたいな歌は、〈あなた〉という呼びかけに最大の情感が込められる。

娘□そういう歌は2文字の〈君〉より3文字の〈あなた〉のほうが歌になるわね。〈君〉の母音は2つとも「i」で軽薄な感じなのに、〈あなた〉の母音は3つとも「a」で、歌うとき気持ちを乗せやすい。

父■〈あなた〉の発展形なのかな、80年頃だけど、女性名を歌い込む歌がいくつもヒットしたんだ。「SACHIKO」(ばんばひろふみ、1978年)、「いとしのエリー」(サザンオールスターズ、1979年)、「安奈」(甲斐バンド、1979年)、「順子」(長渕剛、1980年)なんかがそうだ。

娘□サチコやジュンコは和風で、エリーやアンナは洋風ね。下着の広告のモデルってたいてい外人さんじゃない。日本人だと妙に生々しくなっちゃう。それと同じで和風の名前を歌われるのって同級生っぽいというか生活感が出ちゃう。

父■ヨーコ、ユーコ、アケミという名前の歌もあるけど、あだ名や源氏名みたいに軽いほうが歌にはいいかもね。

娘□自分の名前の歌が流行ったらさんざんはやしたてられそうで迷惑すると思う。

父■「サッちゃん」(作詞、阪田寛夫、1959年)は、〈ちっちゃいから〉という理由でいろいろ制限されるんだけど、替え歌にして「○○ちゃんはね」ってよく歌った。「おーい中村君」とか「山口さんちのツトム君」とか、全国の中村さんや山口さんはさんざんからかわれただろう。しつこいとうんざりするよね。倉沢淳美の「プロフィール」(作詞、売野雅勇1984年)という歌は〈アツミ アツミ 呼び捨てにして〉というものだったけど、本人に向かって歌っていたやつがいたな。

娘□脱線してきた。

父■省略についての話に戻そう。人称代名詞ではなく別の角度からの省略だけど、〈弱さを見せないあなたが 初めて見せた涙〉というのは、たんに〈あなたが初めて見せた涙〉で十分じゃないかな。〈初めて〉と言うだけで、これまで〈弱さを見せない〉人だったということはわかる。〈目が合えば笑って 一緒にいれば楽しくて〉というのも〈一緒にいれば楽しくて〉という説明はいらないよ。〈目が合えば笑って〉いるなら、一緒にいて楽しいということは確実だからね。

娘□省略の文学っぽい見方ね。

父■同じような印象をもたらす言い方もいくつかある。〈共に過ごした毎日は かけがえのないものだった〉というのと〈通り過ぎてきた何気ない日々の中に 僕らの幸せは確かにあった〉というのは同じことでしょ。〈明日が見えなくなって〉とか〈もしも明けない夜の中で〉みたいな似たような言い方もある。この歌は似たようなことを反復している。

娘□冗長ってこと? それはそれでいいんじゃない。言いたいことを、少しずつ言い方を変えて言うのが言葉の芸でしょ。

父■〈日〉という言い方も好きなんだな。〈会えない日々、あの日共に過ごした毎日、何気ない日々、笑える日〉などと出てくる。生活とか暮らしということなんだろうけど、ぼんやりした言い方だよね。〈明日〉も3回出てくる。〈明日が見えなくなって、もしも明日世界が終わっても、どんな明日も〉

娘□この歌は韻を踏むように同じ語尾を反復しているのが特徴なのよね。

・明日が見えなくなって/信じることが怖くなって

・もしも明日世界が終わっても/会えない日々が続いたとしても

・目が合えば笑って/一緒にいれば楽しくて

父■そうだね。今あげたのは技法として意図的にやっているよね。

娘□ラップがこれだけ流行ってるから、語尾で洒落っ気をだそうと思わない人はいないでしょう。

父■この歌で二人の関係をよく表している一語があるね。何だと思う?

娘□ん? 〈一緒に〉? 2回出てくるわよ。同じような意味で〈僕ら〉もあって、こちらは3回。

父■〈一緒に〉や〈僕ら〉って対等な二人って感じだよね。この二人の関係って対等なのかな? ちょっと意外に思うかもしれないけど、〈あの日僕にくれたあなたの笑顔が/生きる力と勇気をくれたんだ〉みたいに、この歌には5回も〈くれた〉が出てくるんだよ。

 

1 僕を愛し続けてくれた人

2 あの日僕にくれたあなたの笑顔

3 生きる力と勇気をくれた

4 あなたが僕を信じてくれたように

5 いつか僕に話してくれた

 

 これは二つに分けられるね。2と3は、相手が自分にモノやコトを与える場合。1,4,5は補助動詞で、「てくれる」の形で相手が自分に何かする場合。1から5まで、どれも〈あなた〉が〈僕〉に与えている。〈僕〉は〈あなた〉に何かしてもらっていると引け目のように思っているのじゃないかな。

娘□言われてみれば、そうかも。

父■〈僕〉と〈あなた〉はいっけん対等に見えるんだけど、〈僕〉は〈あなた〉に一方的に与えられてばかりなんだ。それがこの「くれる」の多用によく表れている。ネットの辞書を見ていたら、「くれる」について、「その行為が好意的、恩恵的になされる場合が多い」と書いてあって、この歌の場合は、相手が恩恵のつもりでそうしたというよりも、受け手の側がそういうつもりで受け取ったということだろうね。自分に恩恵として与えられたものだと解釈したわけだ。相手の心を深読みしている部分もあるだろうけど。いずれにせよ自分は与えられる一方なので、今度は自分がお返しする番だということで、〈次は僕がその手を強く握るから〉とあって、この歌はついに自分が〈あなた〉にお返しをするときがきたということをずっと歌っているんだね。

娘□あー、なるほどって思った。この歌はテレビドラマ用に書き下ろされたものらしいの。だから歌詞は物語をふまえて解釈できる。ドラマは父親と息子の絆の話が一つの軸になっていて、歌詞の〈あなた〉というのは主人公である息子から見た父親のこととして読める。そう解釈すればお父さんの今の説明は納得がいく。父親は刑務所に入っているんだけど冤罪を主張していて、〈もしも明けない夜の中で 一人静かに泣いているのなら〉という歌詞なんかはまさにそのことを言っていると思う。ふつうドラマの主題歌って、部分的にドラマの内容に寄せてみる程度のことはするけど、この歌は最初から最後までドラマの内容にあわせてある。その一方で、歌としての自律性もあって、男女の恋愛の歌としても読める。ダブルミーニングというより反転図形になっている歌詞としてみごとに成立している。

父■男女の恋愛の歌だとすると、男のほうが頼りなくて、女のほうがしっかりしていることになるけどね。草食系男子と姉御肌の女性の組み合わせ。標準的ではないけど、ありえなくはない。

松本隆「ルビーの指環」のフェティシズム ~君僕ソング(その7)

7-1 松本隆は人称代名詞を使いたくない

娘□松本隆は人称代名詞を好まないって話をちょこっとしたでしょ。それが気になってるんだけど。

父■ああ、「詩人派」のところね。「君が」とか「僕は」だったら、まだ3文字3拍で済むけど、「わたしの」「あなたは」なんて4文字もとられてしまう。それを他の言葉に使えないかってこと。最近読んだ松本隆の本『松本隆のことばの力』(藤田久美子編、2021年、インターナショナル新書)で松本はこう言っていた。「否定形と人称代名詞は、使わないように気を付けている」として、否定形について述べたあと、こう言っている。

 

「人称代名詞も、言わないで済むのならなるべく使わないほうがきれいな日本語になる。「あなたの」と言うと、音符を四つも使う。貴重な音符を使うのだから、その四つで別なことを言いたい。詞に無駄なことばを使わないのは西洋も東洋もいっしょだが、究極は俳句だろう。」(120ページ)

 

娘□「人称代名詞も、言わないで済むのならなるべく使わないほうがきれいな日本語になる」って、人称代名詞を使わないと、どうして「きれいな日本語」になるの?

父■「きれいな日本語」って曖昧すぎるけど、「無駄なことばを使わない」ほうがいいということが言いたいらしいので、「きれいな日本語」というのは簡潔な日本語ということなんだろう。歌詞は言葉の数に制限があるから、簡潔なほうがいいというのはそのとおりだ。でもそれは、松本隆みたいに言いたいことがたくさんある人の方法論であって、言いたいことがあまりない人は、隙間を埋めるのに使える「君、僕」「あなた、私」を重宝してるんじゃないかな。歌詞を口ずさんで歌を作っていく人も、「君、僕」が多くなると思う。まず口に出てくる言葉だよね、「君が~」「僕は~」って。

娘□書きたいことがないのに歌詞を書こうと思うんだね。

父■書きたいことがない人が書いた歌詞というのも興味深いものだよ。高校生の頃聞いていたアルバムの中の曲でそういうのがあった。フォークデュオの、ふだん曲作りする人「じゃない方」の人が書いたもので、〈藁半紙 机の鉛筆と消しゴムの 無邪気で気ままな 絵踊り〉という歌詞でね。歌い方は面白いけど、歌詞からはまったく何も感じなかった。歌詞を書かなきゃいけなくなって、自分の机の上に乗っているものを見て書いたのかなと思った。小学生のとき、授業で、詩集を作るのでみんな詩を書けと言われて、そうしたら、「消しゴムくんはかわいそう 自分をすり減らしてノートをきれいにしてる」みたいな詩を書いた奴が2,3人いてね、それを思い出した。消しゴムに自分を投影してたのかな。いつも先生に叱られているような奴だった。

娘□藁半紙、机、鉛筆、消しゴムって、人間が作ったもので無機物が並んでる。それが〈無邪気で気まま〉に踊って絵を描いてるのかな。ちょっとシュールな感じがした。実験的な詩。

父■「おもちゃのチャチャチャ」ってそういう歌だよ。〈みんなすやすや ねむるころ/おもちゃは はこをとびだして/おどるおもちゃのチャチャチャ〉(「おもちゃのチャチャチャ」作詞、野坂昭如吉岡治、1962年)。

娘□言いたいことがない人が書いた歌詞って言うけど、その人に言いたいことがあるかどうかなんて、お父さんにはわからないでしょ。

父■それはそうだ。言いたい気持ちを感じ取れない歌詞、と言ったほうがいいかな。

 

7-2 「木綿のハンカチーフ」の人称代名詞と否定形

娘□松本隆は人称代名詞を使いたくないっていうことだけど、実際はどうなの?

父■うん、本当にそうなのか、代表作をいくつか見てみよう。松本隆といえば、まず太田裕美木綿のハンカチーフ」(1975年)だね。

太田裕美木綿のハンカチーフ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000516/l005d33.html

 この歌は、手紙のやり取りのように男女の心情が交互に語られている。〈恋人よ 僕は旅立つ〉と男性が語りかけ、女性が〈いいえ あなた私は 欲しいものはないのよ〉と受ける。歌詞では「あなた、私、君、僕」が多用されている。登場人物が二人きりとはいえ、語り手がめまぐるしく入れ替わるので、誰が誰に向けて言っているのかはっきりさせるためだろう。歌の言葉は耳に入ってすぐ消えていくので、要所に「君僕」をはさまないと聞き手が理解しにくい。この歌を、書かれた詩として読んだ場合は、文脈で理解できて省略できる人称代名詞はいくつもある。

娘□結構技巧的に構築されている歌よね。4番まである長い歌詞だけど、3回とも女性は〈いいえ〉で受けている。他にも〈欲しいものはない、染まらないで、逢えないが 泣かないで、きらめくはずない、口紅もつけない、ぼくは帰れない〉とあって、〈ない〉が多用されている。あれ? 否定形は使わないとも言っていたんじゃなかったっけ?

父■先のインタビューでは「否定形を使うと書きやすいし、お洒落な雰囲気も出る。否定形を多用するヒットメーカーもいるけれど、それを反面教師にしようと思った。(中略)一〇〇%使わないわけにはいかないが、使わなくてはならない最小限度に絞る」(前掲書117-118ページ)と言っているね。「木綿のハンカチーフ」は初期の作品だし、否定形云々のことは、まだセオリーに入れてなかったんじゃないかな。この歌は「変わる人/変わらない人」の対比が主題だから否定形が多くなったんだろう。否定形や〈いいえ〉を重ねておきながら、女性は最後に〈いいえ〉を使わないで応答するところがミソだ。それまでは変わらないでと引き止めていたけど、最後は受け入れたということが鮮やかになっている。この場合の受け入れたというのは諦めたということだけれど。

娘□「否定形を多用するヒットメーカー」って誰なんだろう。気になる。

父■松本隆がヒットメーカーというくらいだから、阿久悠なかにし礼だと思ったんだけど、よくわからない。なかにしには否定を効果的に使ったヒット曲が見当たらなかったので阿久悠の例を掲げてみよう。

 

・別れのそのわけは話したくない…それは知りたくない それはききたくない(尾崎紀世彦また逢う日まで」1971年)

・誰も知らない 知られちゃいけない…何も言えない 話しちゃいけない(「今日もどこかでデビルマン」1972年)

・うつ向くなよ ふり向くなよ…誰も涙を笑わないだろう 誰も拍手を惜しまないだろう…君のその顔を忘れない(ザ・バーズふり向くな君は美しい」1976年)

・だけどぼくにはピアノがない 君に聴かせる腕もない(西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」1981年)

・一日二杯の酒を飲み さかなは特にこだわらず…妻には涙を見せないで 子供に愚痴をきかせずに…目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず(河島英五「時代おくれ」1986年)

 

 阿久悠で否定形を最も効果的に使っている歌詞は「時代おくれ」だろう。ただ、上掲の例では該当作が少なすぎるから、松本隆が「反面教師にしようと思った」というほどではないんだけど。

娘□否定形を重ねるとたしかに「お洒落な雰囲気も出る」わね。

父■ヒットメーカーの作詞ではないけど、美川憲一さそり座の女」(作詞、斉藤律子、1972年)は〈いいえ私は さそり座の女〉と〈いいえ〉から始まる。2021年の『M1グランプリ』でモグライダーのネタが「さそり座の女」。この歌が〈いいえ私は さそり座の女〉から始まるのは、その前に星座と性別を聞いてきた奴がいる。ハズれたので「いいえ」となっている。「いいえ」とならないようにイントロ中に全て星座を聞く。性別は最後に聞くのが論理的だという知的な漫才だった。

娘□あたし、ときどき坂井泉水に似てるって言われるんだけど、その人が歌詞を書いたZARDには、タイトルに「ない」がつくものが多いんだよね。「負けないで」が代表作だけど、「愛が見えない」「あなたのせいじゃない」「あの微笑みを忘れないで」「息もできない」「きっと忘れない」「君と今日の事を一生忘れない」「眠れない夜を抱いて」「瞳そらさないで」「もう探さない」「もう逃げたりしない想い出から」。90年代の歌だから今の話には関係ないけど。

 

7-3 人称代名詞が少ない「ルビーの指環」は多義的

娘□松本隆の他の歌では人称代名詞はどうなっているの?

父■大ヒットした寺尾聰ルビーの指環」(1981年)を見てみよう。

寺尾聰ルビーの指環」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000aec/l005e82.html

娘□歌詞をよく見ると、一つ一つのセンテンスはどれもネガティブな言葉で綴られているのに、全体のイメージはそんなに暗い感じはしない。宝飾品の華やかなイメージが救いになっているのかな。

父■この歌は、別れる男女が喫茶店でテーブルをはさんで最後の会話を交わしている場面を描いている。人称代名詞については必要最小限にとどめている感じがする。その点は練達してきたのかな。あるいは歌詞から詩に近づいたのかもしれない。普通ならもっと「あなた」(この歌では〈貴女〉)を入れたくなるであろうところをそうしない。例えば、〈指のリング抜き取ったね〉というのは〈貴女はリング抜き取ったね〉とできるし、〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉というのは〈貴女の言葉が頭に渦巻くよ〉とかにもできる。

娘□ふうん。でも、その例だと、〈貴女〉を使わない代わりに使った言葉って、そんなにたいしたものに思えないんだけど。

父■まあ僕が作った例だからね。

娘□そもそも、「俺/貴女」という人称の組み合わせって釣りあっていないんじゃない? 丁寧さや親しみの度合いで「俺/お前」「私/あなた」の組み合わせが一般的でしょ。この二人がうまくいかない関係性みたいなものが「俺/貴女」という非対称の人称の使い方に表れている。〈孤独が好きな俺さ〉というように、独特の男くささを出すために〈俺〉という人称があり、一方で、〈貴女〉と呼ばれる相手には女性崇拝的なものを感じる。相手の本当の姿を見ておらず、女性に対して理想や観念を投影していたのじゃないかしら。

父■別れて2年経ってもいまだに〈貴方〉の幻影を追いかけているというのだから、もうこの〈貴方〉は相当理想像に近いものになっているだろうね。〈俺〉っていうのはハードボイルド小説でよく使われるよね。規範からはみ出て単独行動を好む感じがある。この歌を歌っとき寺尾聰は30代半ば。〈俺〉という自称は子どもっぽい印象があるから、ギリギリの年齢だね。

娘□コートの袖から出た〈指にルビーのリングを探〉してるんでしょ。執念ね。〈孤独が好きな俺さ〉というのが強がりだってことがミエミエじゃん。〈枯葉ひとつの 重さもない命〉という比喩もカッコつけすぎる。それもハードボイルド?

父■冬だから〈枯葉〉が出てくるんだろう。夏だったら「セミの抜け殻みたいなこの命」になっていたかも。過去の恋の哀しみを枯葉に喩えるのは有名なシャンソンがあるでしょう。サザエさんだって〈枯葉よ~〉って口ずさんでいるよ。『サザエさん』のアニメでそういう回があるんだよ。

娘□あまり芸術とは無縁な感じがするサザエさんすら口ずさむほどの、そういう比喩の伝統にのっとっているわけね。

父■それで、この歌は人称代名詞を省略しすぎて、イメージが曖昧になっている感じがするところすらあるんだ。例えば、〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね〉とあって、この〈問わず語りの心〉は文脈上〈貴女〉のことなんだろうけど、〈俺〉のことのようにも錯覚される。状況を推測すると、別れは〈貴女〉のほうから切り出して、〈問わず語り〉にその理由を並べたんだろう。別れを言い出すほうが立場上「強い」はずなのに、納得のいく理由をいろいろ考えている様子が哀れにすら見えたんだろう。それが〈問わず語りの心が切ないね〉ということだ。一方で、この歌自体が〈俺〉の問わず語りのものになっている。未練がましい〈俺〉はまさに哀れな存在だ。〈問わず語りの心が切ないね〉というのはまさに〈俺〉にピッタリ。書かれた詩として読めばそういう錯覚はおこりにくいけど、次々と言葉が現れては消えていく歌では、どっちがどっちのことを言っているのか、適宜注釈をはさんでくれないとわからなくなってくる。

娘□自分を哀れんでいるのは、ちょっと無理めな解釈じゃない? でも〈問わず語りの心が切ないね〉という冒頭の時点では、まだ彼女のことは語られていないし、すぐあとに〈枯葉ひとつの 重さもない命〉と自分のことを述べているから、〈切ない〉というのも自分のこととして解釈するのも無理はないか。ここを〈貴方〉のこととして受け取るには、それこそ詩として文字で読まなければ難しいかも。

父■同じようなことは〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉という部分にもある。どちらの気が変わらぬうちなのか。文脈上は〈俺〉の〈気が変わらぬうち〉だろう。〈俺〉は別れを切り出されても本当は嫌だと断りたい。でも、格好もつけたいから、いきおいで別れを了承してしまう。熟考すれば相手を引き止めることになる。だから〈俺〉の〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉ということだろう。でもこの〈気が変わらぬうちに〉というのは女性の方の〈気が変わらぬうちに〉と解釈することもできる。一旦別れを告げたものの、相手がみじめに思えたのでやっぱり別れを取り消そうとするかもしれない。そういう情けはかけないでくれという意味で言ったのかもしれない。また、直前に〈孤独が好きな俺さ/気にしないで行っていいよ〉とあるよね。この〈気にしないで行っていい〉ということと〈気が変わらぬうちに早く消えてくれ〉というのは同じことを言っているようにも思える。〈気にしないで〉というのは女性に対して言っている。ということは〈気が変わらぬうちに〉というのも女性の〈気が〉変わらぬうちということにもとれる。「気にしないで/気が変わらぬうちに」と、「気」に引きづられて〈貴女〉のこととして言っているようにとれる。別れたい気持ちは〈貴女〉にあるので、その気が変わらぬうちにという強がりだね。

娘□なんだか微妙でこまかいところだけど、人称代名詞がないと記述された言葉の帰属が不安定になることに違いないわね。

 

7-4 「ルビーの指環」の構造と時間

父■この歌にふれたついでに、この歌の構造が複雑だということも話しておきたい。

娘□喫茶店で別れるだけのソリッドシチュエーションじゃないの?

父■空間的には限定的だけれど、時系列が複雑なんだよ。この歌は、喫茶店で男女が向かい合って座っていて、女性が別れ話を切り出して、指環を抜いて雑踏の中に去っていくという歌でしょ。時期は冬に近い秋かな。これが歌の「現在」。

娘□指環は置いていったのではなく、持ち帰ったんだけどね。

父■そのとき、愛を誓いあった夏の日のことを思い出しているよね。これは「過去」だ。夏に始まって冬に終わる恋。それから二年たってもまだ彼女のことを思っていて、彼女を思わせる人を目で追っている。これは「2年後の現在」で、わかりやすく「未来」としよう。

娘□つまり、この歌には「過去・現在・未来」が入っているっていうことね。

父■そう。ただ、その順番どおりに書かれているわけではないので混乱する。それを踏まえて歌詞を順に見ていこう。

〈くもり硝子の向うは風の街〉これは語り手の「現在」の状況。喫茶店かどこかでテーブルに座って外を見ている。この〈くもり硝子〉というのは擦りガラスのことではなく内と外の寒暖差で曇ったガラスのことだろう。二重ガラスがなかった時代だね。外を見るといっても〈くもり硝子〉越しだから、ほとんど見えない。外を見るというより、顔を外に向けている感じ。

娘□〈くもり硝子〉って自分の心の比喩でもあるんじゃない? 自分の心が〈くもり硝子〉のように閉ざされているイメージ。ただその外側の〈風の街〉というのも、あまり明るく楽しい感じではないけど。

父■〈風の街〉は松本隆の定番ワードだね。作詞家はそれぞれ自分の街をもっていて、そこの住人が歌の登場人物になっている。松本隆はそれを割合はっきり出している人じゃないかな。さだまさしも初めの頃「まさしんぐタウン」って言ってたからね。

娘□住人が歌の登場人物になるというより、新しい歌ができれば新しい住人が加わっていくってことなのかな。

父■〈問わず語りの心が切ないね〉というのは、語り手である〈俺〉の目の前にいる〈貴女〉の「現在」。聞いたわけでもないのに自分でぽつぽつ話しているんだね。でも、さっきも言ったように、この歌じたいが〈俺〉の〈問わず語り〉のシロモノであるから、そういう〈俺〉のことを自己憐憫して〈切ない〉と言っているようにも聞こえる。〈俺〉のことだったら、メタな視点がここに挟まれていることになる。

娘□いきなり自分のことに飛ぶのはごちゃまぜになりすぎない?

父■そうかな。次のフレーズのほうがもっと不可解だよ。〈枯葉ひとつの 重さもない命 貴女を失ってから〉というのはいつの時点のことなのか。

娘□〈貴女を失ってから〉とあるから、「未来」のことね。うーん、さっきの「現在」に続けて「未来」か。混乱するなあ。

父■実は〈貴女を失ってから〉というのは、この歌の一番最後のフレーズとしても出てくる。〈そして二年の月日が流れ去り/街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ/貴女を失ってから〉と締めくくられている。つまり冒頭の〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね/枯葉ひとつの 重さもない命/貴女を失ってから〉というのも「未来」における語りとして読めるんじゃないか。「未来」において過去を想起している。そうなると〈問わず語りの心が切ないね〉というのは自己憐憫ということになる。

娘□けど、〈くもり硝子の向うは風の街〉って喫茶店にいる「現在」じゃないの? あとのほうでも〈くもり硝子の向うは風の街/さめた紅茶が残ったテーブルで〉ってあるわよ。

父■「未来」においても別れたのと同じ時期に、同じ喫茶店の同じテーブルにいて思い出しているんだろう。

娘□ふうん。語り手の場所が同じなんで「現在」と「未来」が溶融してきているんだね。

父■〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね〉というのは現在でもあり未来でもあるという折衷的な解釈が妥当だね。〈問わず語りの心が切ないね〉というのは、現在の場合は〈貴女〉についてのことで、未来の場合は自分についてのことになる。

娘□メロディーとしては、冒頭から〈枯葉ひとつの 重さもない命 貴女を失ってから〉というところまで一まとまりなので、時間的にも一まとまりのことじゃないの? そうすると未来のことになるけど。回想する枠組みをここで提示している。最後が〈そして二年の月日が流れ去り〉となっているのも、これが額縁ソングだってことを明示している。

父■構造的にはそうだけど、それだと〈問わず語りの心が切ないね〉というのが一義的に自己憐憫ということになってしまって、〈貴女〉のことではなくなってしまうんだよなあ。メタな語りではあるけど、それってやっぱり後景に退いていることで効果があるから、いきなり自分で自分を〈問わず語りの心が切ないね〉なんて言うのは不自然だからなあ。

娘□同じ場所に座っているから、未来と現在は入り混じってしまうのね。そういうことにしておきましょう。

父■いずれにしても、この歌の隠れた主題は時間だよね。なめらかな継起にしないことで、そこに注意を向ける。映画でもよくあるよね。過去・現在・未来のショットが断りもなくがごちゃまぜになっているやつ。親切なのは「2年後」とか「1年前」とかテロップが入ったり、昔の出来事っていう意味でセピアがかった映像に加工したりするけど、そういう細工をしないで、微妙な違和感だけでつないでいくもの。何度か見直さないと理解できない。そういうわかりにくさがあるものが高尚な作品だと思われている。筋よりも手法に注目させる。

娘□その手法がどういう効果を生むのかが重要だと思うけど、なかには切り貼りして順番を入れ替えただけのものがある。たいした手法ではないのに、わかりにくくされているので頭にくる。叙述トリックのミステリーにもそういうのある。現在のことを読んでいると思ったら過去のことだったとか。

 

7-5 コートと指環を探す意味

父■語り手である〈俺〉は、ハードボイルドを気取っているふうに見えるのに、諦めが悪いというか、意外に執着心のある人だよね。別れた人をいつまでも思っている。〈街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ〉ってあるけど、これどこで探しているのかな。街を歩いているときなのか。あるいは喫茶店とかのテーブルに座って街行く人を眺めているときなのか。別れた時は〈くもり硝子の向うは風の街/さめた紅茶が残ったテーブルで/襟を合わせて日暮れの人波に/紛れる貴女を見てた〉とあるから、探すときも同じ場所で見てるんじゃないかと思ったけど。

娘□〈ベージュのコート〉を着る季節なので寒い時期でしょ。そういうとき、思い出の喫茶店の窓は〈くもり硝子〉になっているから、喫茶店の中から探すってのは無理なんじゃない?

父■ちょっと待って。すると別れたときも〈くもり硝子〉だったから窓の外の〈貴女を見〉ることなんてできないはず。寒暖差でできたくもりなら手でぬぐったのか。

娘□そんなことは一言も書いてないわ。窓をぬぐうなんて意味深で重要なしぐさだと思うけど、それにふれてないということは、やらなかったということでしょ。こういうのって歌詞の言葉だけだと雰囲気で読めちゃうけど、歌謡映画とかにして映像で具体化されると矛盾がはっきりするわね。

父■検索してみたらやはり疑問に思った人がいたみたいで、書いてあった。ヤフーの知恵袋で、

 

質問「くもりガラス(すりガラス)なのに、なんで向こう(日暮れの人波にまぎれるあなた)が見えたんだろう?」

ベストアンサー「♪曇りガラスを手で拭いて~(さざんかの宿)或いは ♪息で曇る窓のガラス拭いてみたけど~(津軽海峡冬景色)みたいな動作が歌詞の上では端折られているのかもしれませんね。/そんな突っ込み所はあれど、ルビーの指輪は傑作だと思います。」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184563372

 

 回答も傑作だね。たぶん作詞家は歌が世に出てから「あっしまった!」と思ったんじゃないかな。

娘□この部分、あたしもひとつ疑問に思ったところがあるので言わせてもらうと、〈襟を合わせて日暮れの人波に/紛れる貴女を見てた〉っていうところ。描写は細かいけど、視点がずれている気がする。これは語り手の〈俺〉目線よね。〈日暮れの人波に/紛れる〉というのは、遠ざかって夕闇に消えていく後ろ姿を見ていたということ。一方、〈襟を合わせて〉というのは、喫茶店から出たときに寒くて〈襟を合わせ〉たということ。〈風の街〉だから寒風が吹いていたのね。でも、喫茶店から出る瞬間を〈俺〉の目から見ることができるのかしら。出入り口から近いところに座っていた? 去っていく後ろ姿を見ることができる位置に座っているという条件もあるから、この二つを満たすのはなかなか厳しいと思う。間口が狭く奥行きが長い店も多いしね。あ、喫茶店とはどこにも書いてないけど、そうだと思う。

父■後ろ姿でも〈襟を合わせ〉ている姿はわかるけどね。腕を折り曲げているから。

娘□後ろ姿で腕を折り曲げているだけなら、胸に手を当てているだけかもしれないじゃない。あたしはここに〈俺〉以外の視点が挿入されていると思うのよね。

父■そういう感じはあるね。話を戻すと、〈指にルビーのリングを探す〉のは〈俺〉がどこでなのか、ということなんだけど、喫茶店の中からは〈くもり硝子〉だから無理なら、街ですれ違うときなのか。そもそもコートの袖って長いから指が隠れて見えにくいし、ポケットに手をつっこんでいる人だっているしなあ。それで指環の小さい石がルビーかどうか見分けるって、どれだけ視力がいいんだ。すれ違う瞬間に気づくとかならまだいいけど、後ろから見ていたら尾行しているみたいで嫌だなあ。

娘□すれ違うときはないんじゃない。だって顔を見ればみればわかるもん。それとルビーって赤色で、誕生石の中では一番目立つ色だから、わかりやすいと思う。ガーネットも赤系統はルビーと似ているけど緑色系もあるしね。

父■探しやすいからルビーにしたのか。なるほどなあ。すれ違うときでなければ後ろからか? でも後ろからだと指環の種類はわからないな。〈探す〉というくらいだから、彼女に気づかれないように見るのだろうけど、やはり喫茶店の中からなのか。喫茶店の中は暗いから、ガラスがマジックミラーのようになって、外からは見えにくくなっている。観察する〈俺〉の姿は見えない。

娘□ルビーって7月の誕生石だけど、歌詞は〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ/あれは八月 目映い陽の中で 誓った愛の幻〉ってなっていて、〈誓った〉というのだから〈八月〉に指環を贈って愛を誓いあったんだよね。7月の誕生石を8月に贈る、このズレは何なのかな。

父■これもヤフーの知恵袋に質問があったよ。すごいな知恵袋。ま、ヤフーで検索したから上位に出ただけなんだろうけど。ヒット曲だからいろんな人が歌詞を解釈を楽しんでいるね。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12245733027?__ysp=44Or44OT44O844Gu5oyH55KwIOaMh%2BOBq%2BODq%2BODk%2BODvOOBruaMh%2BeSsOOCkuaOouOBmeOBk%2BOBqOOBquOCk%2BOBpuOBp%2BOBjeOCi%2BOBruOBiw%3D%3D

 ただ、これを読んでもピンとくる回答はないね。僕なりのこじつけでは、7月にプレゼントすべきところを8月になっちゃったから、それが別れの原因になったのかと思うよ。

娘□〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ〉ってあるところの〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉っていうのは、〈指にルビーのリングを探す〉ときにも頭の中で渦巻いているってこと? 〈誕生石ならルビーなの〉という言葉が頭の中に残響となって響いているというのは、ルビーの指環イコール〈貴女〉になっているということよね。だからルビーの指環を探すというのは〈貴女〉を探すことになるのね。

父■〈貴女〉を探すにしても、コートから目星をつけるってのはどうかなあ。何年も同じコートを着ているとも思えないし、コートの色にこだわるより全体のシルエットや歩き方のほうが〈貴女〉らしさが出ていると思うけど。竹内まりやに「駅」(作詞、竹内まりや、1986年)という歌があって中森明菜をイメージした曲なんだけど、この歌は「ルビーの指環」の女性版みたいな内容になっている。気がついている人いるかなと思って検索したら、いたね。「日本百名曲/20世紀篇」というブログで、「同じようなシチュエーション」と一言だけ書いてあった。ちなみに君が言ったことも書いてあったよ。「手を見るということは、/後ろ姿を見かけると、ということだろう。/正面から見ているのであれば顔を見るだろうからね」(https://songs20thcentury.hateblo.jp/entry/2015/10/09/072000

娘□同じようなこと考えるものね。

父■竹内まりやの「駅」はこういう歌詞。〈見覚えのある レインコート/黄昏の駅で 胸が震えた/はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね〉となっていて、こちらは男のほうがコートを着ている。また、〈二年の時が 変えたものは〉とあって、2年後の設定であるのも、〈そして二年の月日が流れ去り〉という「ルビーの指輪」と同じだ。さらに、「駅」は夕暮れ時で〈ラッシュの人波にのまれて/消えてゆく 後ろ姿が〉とあり、「ルビーの指環」は〈襟を合わせて日暮れの人波に 紛れる貴女を見てた〉となっている。

娘□同じようなこと考えるものね。そういえば「贈る言葉」(作詞、武田鉄矢、1979年)も〈夕暮れ〉どきで、〈遠ざかる影が 人混みに消えた〉となっていた。「夕暮れ、人混み(人波)、消える(紛れる)」は定番のイメージなのね。

父■表面的には似ている部分もあるけど、ものの見方はどれもかなり違う。同じ〈コート〉という言葉でもそれが何を指しているのかは違う。「駅」で〈見覚えのある レインコート〉というのは、コートという衣服の同一性をもって〈昔愛してた あの人なのね〉と同定するのではなく、さっき言った「全体のシルエットや歩き方」を含めてそう判断したと思われる。コートに包まれた身体の造形的特徴と挙措。そのことは歌詞からもわかる。コートの人は〈はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね〉とある。〈まぎれもなく〉というふうに的を絞っているが、それは〈はやい足どり〉という全体の雰囲気が醸し出すものからきた確証だ。

娘□その点〈ベージュのコートを見かけ〉ただけで条件反射的に〈指にルビーのリングを探す〉という「ルビーの指輪」よりリアリティが増しているわね。こちらの歌ではコートという「表皮」にだけ反応しているように思う。

父■「ルビーの指輪」でコートを目にとめるっていうのは、〈俺〉の滑稽さを言ってるんだと思う。女性のコートって、白かベージュが多いよね。ベージュのコートを着てる人は大勢いる。数限りないベージュのコートの人の指に目を凝らしたって無駄だよ、徒労なだけだよって言ってると思う。注目する順番を間違えている。

娘□自分があげた指環を、まだ別れた彼女がはめていてくれるのか、つまり自分のことをまだ思っていてくれるのか、独り身なのか、ということを確認しようとしているのね。でもたとえ独りでも、昔つきあってた男からもらった指環を別れたあともしているとは思えないけどな。それに他につきあっている人がいて、その人からも誕生石のプレゼントをされたらそれもルビーだろうし。なんにせよ指環を探すのは無駄だと思うけど。

父■〈俺〉の頭の中では時間が止まっているんだね。ルビーの指環に限らずベージュのコートをまだ着ていると思ってる。指環はいまだに自分とのつながりの証拠だと思っている。赤い糸の代理みたいに。彼女はまだ自分があげた指環を捨ててないという自信が〈俺〉にはどこかある。別れるときの彼女の姿がそう思わせていると思う。〈背中を丸めながら 指のリング抜き取ったね/俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉とある〈背中を丸めながら〉というところなんだけど、これは彼女が〈俺〉に対して申し訳ないと思っているからではないか。俯いている。直視していない。〈俺〉は捨てられた弱者なんだけど、この瞬間だけは優位に立っている。そこで〈俺〉は〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉と言うんだね。〈俺〉に悪いと思っているんなら捨てられないだろうと思って啖呵を切っているわけ。捨てられるもんなら捨ててみろって、彼女の良心に訴えかけている。で、捨てられないからまだ持っているはずだと。

娘□〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉ってイジワルよね。俺は受け取らないよって。返せないし捨てにくいものだから彼女は困ってしまう。困らせるために言っている。彼女がいい人で、仮に捨ててないとしても、指にはめているとは限らない。絶対はめてなんかいないわよ。ひどい勘違いだと思う。

父■奮発して買った指環だったんだね。だからはめていてほしかったのかも。

娘□彼女を探すのにコートと指環以外に他に手がかりはないの? 相手のことをそれしか知らないていどの浅いつきあいだったの? それなのに別れたあとは〈枯葉ひとつの 重さもない命〉っていうほど落ち込むなんて、いったいどういう人なの。〈あれは八月 目映い陽の中で/誓った愛の幻〉っていうのはひと夏のアバンチュールって感じが漂ってるんだけど。

父■〈襟を合わせて日暮れの人波に 紛れる貴女〉という歌詞の〈襟を合わせ〉るって、ちょっと古風な上品なしぐさだよね。アバンチュールしそうな女性じゃない。ひと夏の遊びだったら、そんな相手に指環はあげないだろう。指摘の中では〈目映い陽の中で〉っていうのが気になる表現だよね。〈愛の幻〉とも言ってるように、夏の幻影なんだ。この人はずっと幻影を追いかけているんだよ。

娘□〈枯葉ひとつの 重さもない命/貴女を失ってから〉ってあるけど、実ははじめから失われていたんじゃないか。ずっと幻を見ていた。幻だから〈くもり硝子〉でもその向こうに〈貴女〉を見ることができた。

父■ちょっと先走りすぎだから話を戻すと、さっき、7月の誕生石のルビーを8月に贈ったという話をしたけど、7月にプレゼントすべきところを8月になってしまったのは、〈俺〉がうっかりしていたのではなく、そうせざるを得なかったからかもしれない。つまり7月に贈りたくても贈れなかった。

娘□というと?

父■知り合ったのが8月だった。あるいは指環を贈るほど親密になって誕生石を聞いたのが8月だった。

娘□それで冬になる前に別れてしまったと。それとも何年かつきあったのかな。でも彼女についていろんなデータを持ってなさそうだから、やっぱり半年ももたずに終わったのかな。

父■交際期間は比較的短かかったし、あまり会ったこともなかったんだと思う。というのも、〈街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ〉ってあるけど、なんでコートを着ていない姿の彼女は探さないのかって不思議なんだよ。

娘□別れた瞬間がトラウマになっていて、コートを着る季節になると心の傷がうずくんじゃない?

父■別れてからは〈枯葉ひとつの 重さもない命〉っていうほど全存在をかけて愛していた相手なのに、その季節にだけ記憶が刺激されるってのはおかしい。他の季節は彼女のことを気にしなかったのか? そうではなく、いつも彼女の幻を探していたはずだ。にもかかわらずベージュのコート姿にしか反応しないというのは、それ以外の彼女の姿をほとんど知らないからではないか。実は数回しか会ったことがないのかもしれない。数回会っただけで心を奪われるということはないではない。ベージュのコート姿は君が言うように別れたときだから目に焼き付いている。

娘□その「目に焼き付いている」というのが失敗のもとなのよ。「船に刻みて剣を求む」っていう故事があるじゃない。指環をあげたのは夏だから軽装をしている。指環をあげたときの服装を覚えていて、同じような服装をしている女性の指を探してもいいはずで、そのほうが指環もわかりやすいのに、でもそうしないで別れた時の服装にこだわるのは、船のこのあたりで剣を落としたとマークしてしまうみたいに、間違った記憶の固定をしているのよ。

父■語り手の〈俺〉は徹底的に受け身の人だよね。仮に彼女の住んでいるところや電話番号を知っていても、そこを訪ねたり連絡したりはしないだろう。未練がましいからね。探して見つけたら、偶然ばったり会ったふりをするんじゃないかな。「やあ、久しぶり。元気?」なんて話しかけたりして。

娘□えーッ! わざとらしい。

父■この人は自分で決めて動くよりは、相手に委ねるタイプだよね。歌詞にはこうある。〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉と。これは「○○してくれ」という命令形になっている。〈俺〉のためにそうしてくれという依頼だ。沢田研二に「ダーリング」(作詞、阿久悠、1978年)という歌があるけど、「○○してくれ」で押し通していたね。〈ここへすわってくれ 足を組んでくれ/黄昏に顔を向けてくれ/その指で髪をかきあげてくれ〉ってあるけど、これが「ここへすわれ、足を組め、黄昏に顔を向けろ、その指で髪をかきあげろ」だったら命令になってしまう。そうではなく、俺のために「○○してくれ」とお願いしている。逆に、さだまさしの「関白宣言」(作詞、さだまさし、1979年)で〈めしは上手く作れ/いつもきれいでいろ〉が「めしは上手く作ってくれ、いつもきれいでいてくれ」だったら亭主関白ではなくなってしまう。「○○してくれ」っていうのは下手(したて)に出ているわけだからね。「いやだ」と拒否される可能性もある。相手の気持ちを斟酌しない命令ではなく、相手の了解も取り付けつつ動いてもらう。「ルビーの指環」も「俺に返すつもりなら捨てろ、気が変わらぬうちに早く消えろ」という一方的な押し付けじゃないんだよね。依頼に従うかどうか相手の意思を媒介にしている。〈俺〉としては拒否してほしいんだよ。そもそも相手に〈捨ててくれ〉と頼むより自分で捨てたほうが確実だし、相手に〈消えてくれ〉と頼むより自分が席を立ったほうが早い。それなのにそうしないのは、本当はそうしたくないからだよ。自分でそうするのは耐え難いから相手に引導を渡してもらう。

娘□自分で決めることはせず相手に肝心な部分を委ねるのね。

父■一応言ってはみたものの、最終的に行動に移すかどうかは相手に任せている。本当は捨ててもらいたくないし、席にいてほしい。

娘□なぜ?

父■別れだからね。できるだけ引き伸ばしたい。別れを曖昧にしたい。最後の抵抗だ。

娘□うじうじした感じにならない程度に男らしさを保つためのぎりぎりのところで出てきた言葉ってことか。男らしくあるのもつらいわね。

父■この歌で奇妙なのは、ルビーの指環という細部に強くこだわっているところだよね。〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ〉とあるように、頭の中が彼女の言葉を介してルビーで支配されている。さっき竹内まりやの「駅」で見たとおり、当人かどうかは全体のたたずまいから判別できる。全体がまず目に飛び込んできて、ただちに「あ、あの人だ」と認識されるはず。なのにこの歌では、全体の印象はベージュのコートとというモノの同一性の判断以上に踏み込まず、それを着ている人がお目当ての人かどうかということをとばして、〈指にルビーのリングを探す〉というように細部に目を凝らして自分とのつながりを確認しようとしている。

娘□なぜ細部にこだわるの?

父■〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉という記述は、何かそこに逸脱したものがあることを示唆している。取り憑かれてしまったみたいになって、頭からその観念が追い払えないんだね。こだわりのポイントも通常とズレている人なのかもしれない。

娘□お目当ての人かどうかは、指環に目を凝らすまでもなく、コートを着ている雰囲気でわかるはずなのにね。そこをとばして細部に目が行ってしまう。

父■指環をしているかどうか知りたいなら、まずその人かどうかを同定して、そのあとで指環を探すという順番になるはずだ。

娘□彼女に知られないように指環を確認するのは難しそうだけど。

父■もし、ベージュのコートを着ていてルビーの指環もしている人を運よく見つけ出せたとしても、それが別れた彼女でなければなんの意味もない。探す順番を間違えている。順番としては、

 

1 ベージュのコートを着ている女性が感知される。

2 それが別れた彼女であると推測される。

3 ルビーの指環をしているか(自分とのつながりを)確認する。

 

 この順序が普通だと思うな。1と2の過程はほとんど同時に遂行される。でもこの歌ではどうやら「1→3→2」の順番に倒錯している。もしかしたら2は求められていない可能性すらある。「それが別れた彼女でなければなんの意味もない」と言ったけど、彼女への欲望がベージュのコートやルビーの指環に置き換わっているかもしれない。この順番の倒錯は、「ベージュのコートフェチ」「ルビーの指環フェチ」の倒錯みたいになっている。

娘□それが彼女でなくても、ルビーの指環をしている女性ならいいってこと?

父■よくミステリーで連続殺人犯が長い黒髪の女性ばかり狙うというのがあるよね。フラれた彼女が黒髪だったので、同じような黒髪の女性を見つけては復讐していくっていう話。

娘□その彼女には相手にしてもらえないので、ベージュのコートやルビーの指環をしている女性に欲望が向けられたのね。なんかミステリー小説みたいな歌にされちゃったわね。

父■話しながらだんだんわかってきたのは、ルビーの指環を探しているが、彼女を探しているわけではないということ。というのも、〈街でベージュのコートを見かけると〉ってあるけど、〈俺〉は〈貴女〉はもうこの街にはいないことを知っているんじゃないかと思う。ベージュのコートを着て、指にルビーの指環をしている女性がいたとしても、それは〈貴女〉ではないことを知っているんじゃないか。

娘□〈貴女〉かもしれないってことはないんだ。

父■〈貴女〉はどこか遠くへ行ってしまったんだと思う。仕事とか留学とかで海外に行ったのかもしれない。そのとき、仕事をとるか〈俺〉との結婚をとるか選択することになって、〈俺〉は選ばれなかったんだと思う。

娘□確かに別れる理由はよくわからなかったけど、その説は何を根拠にしているの?

父■〈孤独が好きな俺さ/気にしないで行っていいよ/気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉という歌詞があるよね。この〈行っていいよ〉とか〈消えてくれ〉というのは喫茶店の席から立ち去ってくれということだと思っていた。でもそれにしては表現に違和感があったんだ。

娘□〈行っていいよ〉というのは、この街から離れて遠くの土地へ〈行っていいよ〉ということなのね。〈貴女〉がそう決めたなら好きにすればいいと。〈消えてくれ〉というのは、もう二度と姿を見せるなって感じよね。喫茶店から出ていけというには大げさな言い方ね。

父■それで時期はいつかということなんだけど、遠くへ行く選択肢が浮上したのは2月か3月くらいではないかと。

娘□「ルビーの指環」は、そうした種類のお別れソングの一つだったのね。

父■喫茶店へ〈俺〉を呼び出したのは女性の方で、それはそこで指輪を返すために呼び出したんだと思う。〈指のリング抜き取っ〉て〈俺に返す〉というのは別れの儀式だよね。でも〈俺〉はそれを途中で遮った。〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉と言って、別れを中途半端なものにした。曖昧にした。別れが完遂されてない。だから〈俺〉はいつまでも〈貴女〉への思いを引き伸ばすことができる。一方、本物の〈貴女〉はいないから、代わりに指環をしている女性を見つけては、そこに〈貴女〉の幻を重ねるんだ。やがて指環を見るだけで満たされることになる。そのためには逆に〈貴女〉がいないことが必要になる。

娘□言葉の細部にこだわった「言葉フェチ」のお父さんの倒錯的読み方ね。

小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」の謎 ~君僕ソング(その6)

6-1

父■オフコースを解散してソロになった小田和正は特大ヒットを放った。それが「ラブ・ストーリーは突然に」(作詞、小田和正、1991年)。

小田和正ラブ・ストーリーは突然に」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a04a641/l00330a.html

娘□タイトルの意味がよくわからない。

父■『東京ラブストーリー』というテレビドラマの主題歌だから、そこから来ているんだろう。

娘□それは知ってる。レンタルで見たことあるよ。でも、なんかおかしなタイトルじゃない?「ラブ・ストーリーは突然に」って。これって「ラブ・ストーリーは突然に始まった」という文を省略したものだと思うけど、ストーリーって、後から見返したときに一定のまとまりがあるものとして見出されるものでしょ。まとまりっていうのは因果関係の連鎖でできている。出会いは突然でもいいけど、その時点では先のことはわからない。ストーリーにまで発展せず終わってしまうかもしれない。「突然」というのは出会いの段階の衝撃のことで、つまりは「点」。それに対して全体を俯瞰して見えてくる「ストーリー」は「線」。「点」と「線」という次元の違うものが瞬時に結び付けられているところが落ち着きのなさの原因かな。

父■「突然」というのは歌詞にも関わってくることだからね。ラブ・ストーリーが突然に始まったということなら、それはいつ始まったんだろう。

娘□〈あの日あの時あの場所〉からかな? 〈あの〉が三段重ねされていて、サビにもなっている。

父■〈あの日あの時あの場所〉って、なんだかとても的を絞った示し方だよね。よほど印象が深かったのかな。記念日にしてもいいくらいだ。

娘□よくアニメなんかで、学校に遅刻しそうになって食パンをくわえたまま走っていて交差点で出会い頭にぶつかって転ぶっていうシーンがあって、学校についたらぶつかった相手が転校生として紹介されて「あ、あいつだ」ってことになるのが、あたしの〈あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら〉というイメージなんだよね。

父■絵に描いたような唐突さだね。無数の恋愛対象の中から、運命の一人をスルーしないようにマーキングしておく。それが特殊な出会い。運命は事前に予告されているというのは、恋愛ドラマの定石だよね。交差点でぶつかったことは相手を印象づけることになるけど、それで恋に落ちるわけじゃない。むしろ「気をつけろコンニャロー」みたいにマイナスの印象。知らない相手と出会った瞬間に恋に落ちるというのは、かなり特殊なことだと思う。

娘□『東京ラブストーリー』というテレビドラマは社内恋愛を描いたもので、くっついたり別れたりを繰り返していた。突然始まる恋愛じゃなくて、恋愛感情が熟成されるまでに時間がかかっている。冒頭でカンチとリカの二人は出会うんだけど、カンチは就職のため愛媛から飛行機で上京し、先輩社員のリカが空港で出迎える。国内線なのにボードをかざして大きな声で名前を呼ばれるから恥ずかしいし、名前も完治で「カンジ」なのに「カンチ」と間違えられて以降もそれを押し通される。しかも着くなり倉庫に連れて行かれ荷降ろしを手伝わされる。カンチは冒頭からエキセントリックなリカのペースに振り回される。〈あの日あの時あの場所で 君に会〉ったわけなんだけど、そのときは一目惚れには程遠かったから「突然」始まるラブストーリーというわけではないし、社内恋愛でその後も仕事の関係で何度も顔をあわせることになるから〈あの日あの時あの場所〉を逃しても〈僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉ということにはならない。

父■ドラマの二人も突然燃え上がってラブ・ストーリーが始まるわけではなかった。まあドラマの内容と主題歌の内容がぴったり一致していなくてもいいんだけどさ。歌は歌で自律性があるわけだし。では、歌としては、〈あの日あの時あの場所で〉突然ラブ・ストーリーが始まったという理解でいいんだろうか。それを検討する前に歌詞の全体の理解を深めておく必要がある。

 

6-2

父■この歌詞は何が言いたいのか、初めのうちはよくわからなかったけど、じーっと見ていたら、あ、そうか、言葉がテーマなんだということがわかった。言葉に苦労した小田和正らしい歌詞だなと。

娘□どういうこと? ふわふわしていて、あまり構築的な歌詞じゃないと思ったけど。比喩に一貫性もない。例えば、〈君のためにつばさになる君を守りつづける/やわらかく君をつつむあの風になる〉とあるけど、君の〈つばさ〉になりたいのか〈風〉になりたいのか、どっちなのって思う。〈つばさ〉と〈風〉は近接した関係にあるけど、別物でしょ。それと、〈つばさ〉になることがどうして〈君を守〉ることにつながるのか。〈つばさ〉って、ふつうは冒険的なことに結びつくと思うけど。旅立ちとか。

父■〈つばさ〉が生えて空を飛んで〈風〉が生まれるというふうに発展してるんじゃないかな。〈風〉はソフトに〈君をつつむ〉ものだから守っていることになる。

娘□他にも、〈君があんまりすてきだから/ただすなおに好きと言えないで〉というのは、〈好き〉という〈ありふれた言葉〉では伝えられないほどの思いを抱いているということでしょう。君のことが結構好きだっていうことはわかるんだけど、そのあとで〈明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉なんて言っていて、まだ好きになる余地が残っているみたいなのよね。これも、どういうことなのって思うところ。もし「突然」出会って、一目惚れしたとしたら、そういう場合は出会った瞬間がピークであとはだんだん幻滅していくものだから、逆に、だんだん好きになっていくような言い方もしっくりこない。それと、〈あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら〉というロマチックなことを言うので、二人は固く結びついているかと思いきや、そうでもないみたいなのよね。〈君〉は〈誰かが甘く誘う言葉にもう心揺れたりしないで〉とフラフラしているところがある。これも結局、〈あの日あの時あの場所で〉の出会いに運命を感じていたのは〈僕〉だけで、その感動は〈君〉は共有していなかったっていう証拠だと思う。

父■これがどういう歌なのかというところからまず見ていこう。実際、何についてそう言っているのかというスキームがわかりにくい。まず最初は、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて/浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ〉と始まる。

娘□この歌じたい、〈分からない〉で始まっているのね。〈浮かんでは消えてゆく〉っていうのもあぶくみたいで、出だしからはっきりしない。

父■何度か読み返さないとわかりにくいんだけど、ここで言っているのは、この二人は長いつきあいがあるけど、男性の方は女性を好きだっていう気持ちを伝えられていないということだね。君をうんと好きだっていう気持ちをうまく言語化できない。〈浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ〉というのはどういう言葉なのかというと、次に〈君があんまりすてきだから/ただすなおに好きと言えないで〉とあるように、〈好き〉という言葉なんだね。自分の気持ちを素直に言うと〈好き〉になる。〈ありふれた言葉〉は〈すなお〉な言葉でもある。

娘□そういえば「Yes・No」でも似たようなこと言ってなかった?〈ことばがもどかしくて うまくいえないけれど/君のことばかり 気になる〉って。

父■出来あいの言葉なんかじゃこの気持は表せないってことなんだろうね。

娘□思いの強さに見合う言葉がないって言葉のせいにするのはボキャ貧の人にありがちな発想よね。

父■まあ、たしかにそうだけど、この人はそれなりの解決方法をみつけたみたい。その前に相手の女性の方にふれておくと、好きな気持をはっきり伝えてもらえないから、他の人によろよろしていた。〈誰かが甘く誘う言葉に(…)心揺れたり〉していた。〈君を誰にも渡さない〉とあるから、他の人のものになる危険があったんだね。それが、男性の方がようやく何か気の利いたことを言ったものだから、〈今君の心が動いた〉というふうに女性の心が転回した。

娘□何か気の利いたことを言ったって、なんて言ったの?

父■この部分の歌詞はこうなっている。

 

誰かが甘く誘う言葉にもう心揺れたりしないで

切ないけどそんなふうに心は縛れない

明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる

そのすべてが僕のなかで時を超えてゆく

 

〈明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉という文がヒントになる。結局この人は、〈好き〉っていう言葉以外に思いつかなかったんだけど、〈好き〉以外に思いつかないからそれを強めていったんだ。もっと好き、もっともっと、と。質では違いを表せないから、量を増やす。明日は今日より〈もっと好きになる〉、日を追うごとにどんどん〈好きになる〉。〈好き〉が重なっていく。〈ありふれた言葉〉ではあっても〈好き〉の量がどんどん増えていくと、質的に違うものに変化してくる。それをなんと言えばよいのかというと、この歌詞の中から探せば、「守る」ということかな。〈君のためにつばさになる君を守りつづける〉ってあるでしょ。その〈守りつづける〉が、〈好き〉の進化形だと思う。さっきもふれたけど〈やわらかく君をつつむあの風になる〉というのは、風になって守っているんだね。〈好き〉は自分の一方的な気持ちに過ぎないけど、「守る」は相手を大切にするっていうことでしょ。利己から利他へ変化している。

娘□ふうん。「好き」から「守る」へ、か。男の思いつきそうなことだって気がするけど。べつに守って欲しいとか言ってるわけじゃないでしょ、この女性は。勝手に騎士ぶって盛り上がってる。

父■それと、微妙な点だけど、〈守りつづける〉の〈つづける〉。これって時間的に継続されていくことだよね。〈もっと好きになる〉が〈もっと〉という量的な変化だとすれば、〈守りつづける〉は〈つづける〉という時間的な持続だ。量的な変化が時間方向にも拡張している。〈明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉のあとは〈そのすべてが僕のなかで時を超えてゆく〉とつながっていて、ここにも〈時を超えてゆく〉という表現が出てきている。〈時を超えてゆく〉っていうのは、いつまでも続いていくということだね。〈君〉が好きという気持ちは、〈あの日あの時あの場所〉が全ての起点、始まりで、そこから始まって、この先もずっと永遠に続いていく。量的な変化は時間的な継続に移行する。君をもっともっと好きになっていく気持ちは、最初は右肩上がりでぐんと増えていき、やがてなだらかな高原のようになっていく。

娘□〈そのすべてが僕のなかで時を超えてゆく〉の〈そのすべて〉が好きになる気持ちだったらそういう解釈でいいかもしれないけど、〈そのすべて〉って〈君〉のことじゃないのかな?〈君〉の存在は〈僕〉にとって永遠だみたいなことじゃない? 女性崇拝というか女神扱いしてるんだと思う。〈もっと好きになる〉とか〈守りつづける〉とかエラそうなんだけど、そういう態度と女性崇拝は矛盾してない。要は対等に見てないってことだから。上げるか下げるかしてるのよ。

父■うーん、そういうところはないとは言い切れないけど、この歌ではかなり抑えられていると思うよ。

 

6-3

父■この歌は、「友達以上恋人未満」の女性に長年の恋心をようやく伝えることができた男性の喜びの歌っていうことなんだと思う。〈君のためにつばさになる〉とか言って盛り上がってるのも、自分の気持ちが伝わって躁的な気分になったんじゃないかな。

娘□〈今君の心が動いた〉だけなのに、すっかり自分の女にしたつもりなのね。

父■〈君のためにつばさになる君を守りつづける/やわらかく君をつつむあの風になる〉というところには「ソフト騎士道」とでも言うべき高揚感があるね。

娘□一方的に相手を守る献身というか奉仕って非対称な関係よね。女性の書き手だったら、こういう比喩は、仲良しのつがいになりたいとか、おしどりになりたいといった対称的な関係になると思うな。

父■何から守るかというと、悪い虫から守るんだね。〈誰かが甘く誘う言葉に心揺れたりしないで/君をつつむあの風になる〉という組み合わせもあるから。悪い誘いを遮断するバリヤーになっている。

娘□〈やわらかく君をつつむあの風になる〉ってウットリするようなことを言うけど、実際どういうことなのか。

父■まあ、それはくどき文句だからさ。現実に対応するような意味はないよ。

娘□言葉をそのまま真に受けて期待したら肩透かしをくらうわけね。

父■実は〈僕〉も、そのとき「甘い言葉」を言えたわけだね。それも含めて、この歌は言葉がテーマだから。〈僕〉の心の変化は全て言葉によってもたらされている。〈僕〉は〈何から伝えればいいのか分からない〉と悩み、〈ありふれた言葉〉しか思い浮かばないと悩み、〈ただすなおに好きと言えないで〉悩む。「何を」「どう」伝えればよいのかわからないんだね。

娘□相手のことがすっごい好きで、それをどう伝えたらいいか表現を悩んでいたっていうことか。〈好き〉という〈ありふれた言葉〉ではガキっぽいしストレートすぎるから、もっと深みのある洒落た言い回しを探してたのね。類義語辞典でも引けばよかったのに。

父■自分にもちょっと自信がなかったのかもしれないね。そういう〈すなお〉な言葉しか言えない〈僕〉とは対照的に口のうまいやつがいて、その〈誰かが甘く誘う言葉〉に女性はよろめく。

娘□甘い言葉は作りものの言葉で、ありふれた言葉は素直な心から出た言葉っていう対比ね。巧みな偽物に騙されてはいけない、素朴であっても真心のある方を選べってことね。

父■さっき掲げた歌詞をもう一度見てみよう。こうなっていたね。〈誰かが甘く誘う言葉にもう心揺れたりしないで(…)明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉。誰かが囁く甘い言葉に対抗できるのは素直な言葉なんだけど、それだけだと素朴すぎるから、〈もっと好きになる〉とアピールしているんだ。

娘□たんなるラブソングかと思ったら、ライバルをやっつける戦略も隠されていたのね。ただ、〈もっと好きになる〉って、失礼な言い方じゃない? 今がピークであとは冷めていくだけ、っていうよりもいいと思ったのかな。〈君〉の魅力的なところをどんどん発見していくっていうことなのか。あるいは魅力的な面をもっと見せてくれということなのか。

父■〈好きになる〉のが止まらない、ということを〈もっと好きになる〉と言っているんだと思うよ。それで、言葉についてだけど、〈今君の心が動いた言葉止めて肩を寄せて〉というところがあって、〈僕〉の熱意のある言葉でようやく〈君の心が動いた〉んだけど、この人はおそらく言葉じたいには期待してないから、そこで〈言葉止めて〉抱き寄せたんだな。言葉より身体の方を信用している。精一杯のことは言ったので、これ以上はうまいこと言えないという、言葉に対する無力さもほの見える。

娘□〈今君の心が動いた〉っていうのはちょっと笑っちゃう。「やった、山が動いた!」みたいな。でもさ、何をもって「心が動いた」と言っているのかしら。人の内面の変化を外見から判断したってことでしょ。ちょっと表情が変わったってことかな。例えばお芝居なら、役者さんは「心が動いた」ことをどういう演技で表現するのかなって思う。脚本のト書きで、「太郎の言葉に、花子は心を動かされた」って書いてあったら、その変化はどう表現されるの?

父■オフコースのときの「愛を止めないで」にも同じような状況が書かれているよ。〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉って。そういう「お、今ちょっと心を動かしたな」って相手を観察している人なんだね。外見から内面を推測している。それが正しいかどうかはわからないけど、疑ってもいない。

娘□〈今君の心が動いた〉っていうのは、描写ではなく説明よね。そう説明されてるんだからそうなんだっていう。

父■この歌はだいたいそういう感じの歌だからね。例えば〈誰かが甘く誘う言葉〉って言っても、一般論では想像できるけど、具体性はない。僕の嫉妬が混じっている。〈多分もうすぐ雨も止んで二人たそがれ〉という描写がちょこっと入るのでホッとするけど、これはドラマのスチールでも見せられたのを取り入れたのかもしれない。

 

6-4

娘□「ラブ・ストーリーは突然に」の「突然」って、〈あの日あの時あの場所〉のことなのかということなんだけど。

父■さっきは「ストーリー」と「突然」の組み合わせは相性が悪いし、ドラマの内容とも違うという話をしたね。

娘□歌詞をよく読んだら、歌詞じたいの整合性という観点からしても〈あの日あの時あの場所〉っていうのを「突然」だとすると、そこからラブ・ストーリーが始まっていることにするのはおかしいと思う。

父■歌詞じたいにもそういう要素があると。

娘□〈あの日あの時あの場所〉をもって「突然」と言うなら、その一方で、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉と言っていることと矛盾してくる。だって、〈時は流れて〉というのは、それなりの時間の経過を意味しているでしょ。突然始まったというより、長いあいだ火がついてなかったってことよね。ラブ・ストーリーというからには〈君〉も巻き込んでいる必要があるけど、これはそれ以前の段階で、ひとり〈僕〉の気持ちだけが空回りしている。「突然」の瞬間とラブ・ストーリーの起点は同じではなくズレがある。

父■〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉=(a)という状況と、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉=(b)という状況が二つながら成り立つのは一体どういう場合だろう。(a)という偶発的な出来事によってもたらされた状況が、(b)のように不本意なかたちであれ安定的に存続しているのはどういう場合なのか。例えば街角で見知らぬ男女が出会ったような場合は(a)の条件は満たすけど、(b)の条件は満たさない。ナンパならすぐ口説き始めるだろうから、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉なんてことはありえない。じゃあ、合コンならどうか。これは(a)も(b)も満たしそうだ。連絡先を交換してどうということのないやりとりをしていただけであまり進展がなかったような場合。でも、恋愛が目的なので〈何から伝えればいいのか分からない〉というのもしっくりこない。

娘□たしかに、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉というグズグズした時間が許されるのは、恋愛以外の理由でお互いが近くにいることができるからよね。近くにいるから気持ちを伝えることに焦ることはなく、先延ばししてしまう。近くにいるから焦ってはいないけど、かといってどうでもいいわけではなく、その人へのこだわりがある。それってどういう関係なのかな。友達? 同じ会社の人? というのも無理があるか。

父■ちょっと例が思いつかないんだよね。〈あの日あの時あの場所〉っていうのは、字義どおりとらえるよりは詩的誇張だととらえたほうがいいかもしれない。

娘□どういうこと?

父■こまかく限定する方向での誇張ね。〈あの日あの時あの場所〉を厳密に考えると袋小路に入っちゃうし、傍からみていると、そういうこだわり方は滑稽に見える。歌だから〈あの、あの、あの〉っていうのは口調の良さで選ばれたんだろうって、多くの人は思っているのではないか。この歌詞の意味の密度からみても「あの時君に会えなかったら」で十分だと思う。「あの時」で済むのに、それを〈あの日あの時あの場所〉と微分することの理由が歌詞の中に見当たらない。

娘□歌詞の外側、受容のされ方も含めて考えれば、〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら〉というのは、運命の出会いを期待する聞き手にとっては共感ポイントじゃないかな。一方で、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉というのも、日常の惰性に流されてもがいている聞き手にとっての共感ポイントになる。でもこの二つが同時に共感ポイントとして受容できる人はまず見つからないのでは? ただ、歌を聞いているときって歌詞の聞き方は結構いい加減だから、この二つについてどちらかに共感すれば、もう一方は背景に沈むのではないかと思う。

父■詩的誇張って言ってしまえば何でもそれで説明できてしまうから「逃げ」なんだけどね。

娘□だから、そこは逃げずに、もう少し〈あの日あの時あの場所〉にこだわってみたい。〈あの〉が何を指しているかというと記憶でしょ。始まりの日付をもった恋愛、まあ片思いだけど。そこでたんに〈君〉と出会ったということだけでなく、それじたいが記憶に刻まれるようなインパクトのある出来事がともなっていないと〈あの日あの時あの場所〉にはならない。そうでなかったら〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉なんてもったいぶった言い方は必要なく、たんに〈君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉でいいじゃん。

父■〈あの日あの時あの場所〉という熱のあるフレーズと、〈君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉という平熱のフレーズが組み合わさって微妙なねじれを生んでいる。

娘□〈君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉だけだったら、そんなの「あたりまえ」よね。二人が出会わなければ〈見知らぬ二人のまま〉なのは当然。トートロジー。もしこれが「僕等はいつまでも他人どうしのまま」とかだったら、情報が増えるんだけど。〈君〉とは他人ではない関係になっていることを前提にするから。で、平熱のフレーズにプラスされた〈あの日あの時あの場所〉という言葉が、その瞬間を特別なものであると伝えている。〈君〉と出会ったから〈あの日あの時あの場所〉が特別なものになったということはあるにしても、それ以上に、〈あの日あの時あの場所〉がそもそも特別な何かだったから、〈君〉との出会いも特別なものになった。

父■〈君〉と出会えたから〈あの日あの時あの場所〉が特別なものになったというんじゃなくて? その瞬間をのがすと出会えなかったような二人が出会えた運命的な偶然。

娘□いつどこで出会っても〈あの日あの時あの場所〉という聖なる瞬間になりうる。その偶然を記念日にしたり、思い出の店にしたりはあるけど、〈あの日あの時あの場所〉ってきざみ過ぎなのよね。そこには〈君〉と出会ったこと以上の何かがあったように思えるのよ。何か重要な瞬間としてピンどめされている。

父■それはどういう場合なの?

娘□例えば交通事故とか。

父■交通事故?

娘□〈あの日あの時あの場所〉と言うのに一番ふさわしいのは交通事故でしょ。事故と言っても大怪我をするわけじゃなくて小さい事故ね。その加害者と被害者として知り合う。事故は事故として銘記され、同時にそれは二人を引き合わせた出来事という意味も持つ。

父■まさに、食パンくわえて曲がり角で「ドーン!」だね。ぶつかった痛みとセットで相手が印象づけられる。

娘□そうして出会った二人は別に恋愛を前提に出会ったわけではないから、なかなか恋愛モードを出しにくく〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉しまったと。

父■そういうレアケースを歌った歌なのか。他にどういうケースが考えられるか募集したいね。

娘□いずれにせよ、〈あの日あの時あの場所〉で出会えて感激しているのは〈僕〉だけで、〈君〉はその気持を共有していない。ラブ・ストーリーというからには二人の関係性が必要だから、〈あの日あの時あの場所〉ではまだラブ・ストーリーは始まっていなかったと言えると思う。ずっと続いていたのは〈僕〉の片思い。「突然」なのは一目惚れのことだったらわかる。

父■三原順子に「だって・フォーリンラブ・突然」(作詞、横浜銀蝿、1982年)というちょっと流行った歌がある。

娘□「ラブ・ストーリーは突然に」ではなく、「フォーリンラブは突然に」というタイトルならわかる。恋に落ちるのは「突然」だから「フォーリンラブ」と「突然」の結びつきは相性がいい。

父■ただ、「だって・フォーリンラブ・突然」は女性側の視点の歌で、恋人ではない男にドライブに誘われて海に行き、〈ちょっといいムードに負け(…)フォーリンラブあなたに夢中〉になったという内容で、男の方は十分その気があって誘っていて、なかなか女性の方がなびかなかったんだね。でも〈もういい私の負け〉と陥落した。

娘□あ、そのフォーリンラブって「ラブ・ストーリーは突然に」で言えば、〈今君の心が動いた〉に相当するって言いたいわけ?

父■そうそう。まあ、言葉がもどかしくてもじもじしている感じだから海に誘うほどの積極性はないんだけどね。逆に言えば、言葉だけで勝負してるのがエラい。

娘□お父さんって、すぐ話を脱線させるよね。〈あの日あの時あの場所〉で出会えて感激しているのは〈僕〉だけで、〈君〉はその気持を共有していないんじゃないかということに話を戻すね。さっき、〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉という部分について話したじゃない? そこって、ある意味正しい認識が書かれていると思う。あの日あの時に出会えたことで〈見知らぬ二人〉ではなくなったというんでしょ。あの日あの時から恋愛関係が始まったとは言っていないのよ。たんに〈見知らぬ二人〉ではなくなっただけで恋人ではない。ラブ・ストーリーの起点ではない。それを自ら吐露しているのよ。

父■なるほど。でもそういう前後の文脈というのはいわば状況証拠だよね。それに加え、〈あの〉の使い方の説明も必要だよ。ふつう〈あの日あの時あの場所〉のように〈あの〉を使う場合は、二人がそれを特別なものとする共通した記憶を持っているからと考えるからね。会話の中で「あれ」とか「あの」とかの遠称を使う時、それが指す対象は目の前にない遠くにあるもので、記憶の中にあるものにも使う。二人で会話している場合は、お互いが共有している記憶があるものについて「あれ」や「あの」が使える。だから、〈君〉が〈あの〉を共有していないというのは、その点では無理があるかも。

娘□それが原則だけど、『日本語の大疑問』(国立国語研究所編、幻冬新書、2021年)という本が売れていて、それを読んだらこう書いてあった。

 

「「あれ」は、話し手と聞き手の共有知識を指し、そのことによって2人の共感を高めることができるのです。ただし(略)とても強い思い入れを表したいときには、例外的に、聞き手が知らなくても「あれ」が使えることがあります」(143頁)

 

 これってまさに今話していることが書かれていると思うの。〈あの日あの時あの場所〉の〈あの〉は〈君〉と〈僕〉の「共有知識」ではなく、たんなる〈僕〉の「強い思い入れ」と解釈できる。だって、その時点では〈君〉に恋心は生じていなかったから〈あの〉は〈君〉の記憶に残りようがない。気持ちを共有できない。

父■その「強い思い入れ」の場合の例文は掲げられている?

娘□あるわ。「このあいだ喫茶店でケーキを食べたんだけど、あれ、本当においしかったなあ!」

父■それってほとんど独り言だよね。

娘□そう。だからこの歌詞も〈僕〉の「独り言」ということになる。この本にも遠称は独り言でも使えるってあるわ。(141頁)

父■〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら〉というのは独り言か。ということは、この歌の言葉は全て〈僕〉という語り手の独り言ということになるね。独り言というか心内語。頭の中でそう思っているだけで、口に出したわけではない。だとすると〈あの日あの時あの場所〉というのは、ちょっと思い込みが激しくて滑稽な感じがするね。

娘□〈あの日あの時あの場所〉でなければ、いつラブ・ストーリーが始まったのかというと、〈今君の心が動いた〉とある、その時ね。〈君〉の心が動いたときにラブ・ストーリーという合作が開始される、というか、開始しうる。

父■〈君〉もフォーリンラブしたときだね。〈今君の心が動いた〉というだけではちょっと微妙だけど、歌詞の中から探せば、相当する言葉はそれしか見当たらない。

娘□まとめると、〈あの日あの時あの場所〉は〈僕〉にとってのフォーリンラブで、ラブ・ストーリーが始まったと言えるのは、〈君〉もフォーリンラブしたと考えられる〈今君の心が動いた〉ときから。ラブ・ストーリーって二人の気持ちが一緒じゃないと成立しない。ラブ・ストーリーの「突然」さは、〈今君の心が動いた〉の〈今〉で表現されている。

海援隊「贈る言葉」「人として」の超越的視点と自己啓発~フォークソングの日本語

0 武田鉄矢の二つの貌

 「Jポップの日本語」と題しながら、70年代フォークに言及することがよくあるので、この際、「フォークソングの日本語」と括りなおして書いてみることにした。

 なぜ「70年代フォークに言及することがよくあ」ったのかというと、フォークの歌詞は面白いからである。これまでいくつもの歌詞を読解してきたが、分析に適した歌詞と、そうでない歌詞の二種類がある。心情を事物に託す歌詞は分析して面白いが、心情をそのまま説明してしまう歌詞は、書かれていること以上に何も言うことがないのでつまらない。Jポップ(=90年代以降の流行歌)以前は前者が多く、それ以後は後者が多いという印象をもっている。

 第一回目は何を取り上げるか。フォークの代表というわけではないが、超有名なところで海援隊の「贈る言葉」(作詞、武田鉄矢、1979年)と「人として」(作詞、武田鉄矢、1980年)を取り上げたい。言わずと知れたドラマ『3年B組金八先生』のシーズン1,2の主題歌である。

 海援隊は1973年に出した「母に捧げるバラード」で名を知られたが人気が続かず、その後77年の「あんたが大将」や79年の「JODAN JODAN」などのコミカルソングで再び耳にするようになった。「あんたが大将」のシニカルな歌詞はセンスが光っているし、〈あんたが大将〉というフレーズもちょっと流行った。「思えば遠くへ来たもんだ」という感傷的な歌もあって、これもその頃出て、のちに映画化もされた。

 海援隊は「贈る言葉」や「人として」が大ヒットして誰もが知るバンドになったが、これらの歌は生まじめさが前面にだされていて好きではなかった。私はベストアルバムを1枚買って聞いただけだが、海援隊の本質はコミカルな中に漂う悲しみだろうと思った。リーダーで作詞担当の武田鉄矢の俳優業が忙しくなったのか、海援隊の音楽活動は尻つぼみで終わっていった。

 タレントとしての武田鉄矢には、教師キャラと、冴えない男キャラ(女にモテない、会社で出世しない)というイメージの二つがある。いずれもテレビドラマの影響が大きく、前者は金八先生のシリーズに典型で、後者は『101回目のプロポーズ』(1991年)で戯画的に描かれた。この二つは分離したものではなく、金八先生はシリーズ当初は教師らしくない長髪で、冴えない外見でもあった。

 作詞においても、教師キャラ、冴えない男キャラが反映されている。「贈る言葉」は女にふられた男が人生訓を説くものだし、「あんたが大将」は出世した相手をねたみつつ、〈云わせてもらえばこの人の世は チャンスばかりじゃないんだよ/心に燃える小さな夢を つまずきながら燃やすこと〉(作詞、武田鉄矢、1977年)と、人生とはなんぞやを語る。「JODAN JODAN」も冴えない男キャラの歌だが、こちらには人世訓はない。そのかわり道化に徹底する。冴えない男キャラはそのままではやりきれないので、道化になるか、反転して教師化するのである。

 

1 「思えば遠くへ来たもんだ」の構築力

 贈る言葉」を見ていく前に、武田鉄矢の文学青年的な側面が強く表れている「思えば遠くへ来たもんだ」について簡単にふれておきたい。海援隊の歌の中で私が最も好きな歌だからだ。

海援隊「思えば遠くへ来たもんだ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0016d9/l00623d.html

 「思えば遠くへ来たもんだ」(作詞、武田鉄矢、1978年)は曲調もそうだが、しんみり感全開の歌である。歌詞は中原中也の詩「頑是ない歌」を発展させたもので、表現は一部流用されている。「頑是ない歌」はズルズルと続く内面が書かれているが、武田鉄矢の作詞のほうが構造がしっかりしている。改作という観点からも興味深い。

 「頑是ない歌」では、子どもの頃の12歳の自分を〈今では女房子供持ち〉の大人になった自分が回想している。一方、武田鉄矢の作詞では、歌という反復的な構造をもった性質のものにあわせる都合もあってか、過去の自分は14歳と20歳という2パターンが用意される。故郷にいた14歳の子ども時代を思い出しているのは〈故郷離れて六年目〉のときで、年齢的には20代半ばであろうか、これは在郷/離郷の対比である。20歳のときは女にふられて死にたいと泣いており、それを思い出しているのは〈今では女房子供持ち〉になったときである。これは孤独/家族の対比である。このあと〈眠れぬ夜に酒を飲み〉という場面も語られるが、これはさらに年齢を重ねたときのものであろう。大人時代/子ども時代の対比といえる。

 「頑是ない歌」がある固定した一点から一点への回想であるのに対し、武田の歌詞は段階的に年齢を重ねていき、回想される状況もそれにあわせてスライドしていて、状況の変化がよりくっきりした対比として描き出される。たんなる郷愁ではなく、過去は今に続いていて、今は未来に続いている。私はどこから来て、どこへ行くのか。今の自分を過去の自分は想像しえただろうか。「思えば遠くに来たもんだ」という感慨は、〈あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ〉(「夜空ノムコウ」作詞、スガシカオ、1998年)というよく知られたフレーズに似ている。この歌はのちに映画化されたが、映画化したくなるようなドラマ的な構成をもっている。私がこの歌をはじめて聞いたのは中高生くらいのときだが、自分の行く末についても思いを巡らしたことを覚えている。

 ところで、この歌には〈踏切、貨物列車、レール、夜汽車、汽笛〉など鉄道に関わる語が何度も出てくるのでちょっと不思議だったが、wikipediaの「思えば遠くへ来たもんだ」の項に、「元々は所属事務所からの日本国有鉄道国鉄)のキャンペーンソングを作れという命令で作られた曲であったが、同じ事務所の谷村新司の作った「いい日旅立ち」が採用され、この曲は不採用となった」とあって腑に落ちた。

 ついでながら忘れないうちに書いておく。ミスチルの「イノセントワールド」(作詞、桜井和寿、1994年)を聞いた時に、〈窓に反射する(うつる) 哀れな自分(おとこ)が 愛しくもある この頃では〉という部分がどこかで聞いたことのある歌詞だなと思っていたら、これは海援隊の「心が風邪をひいたようで」(作詞、武田鉄矢、1982年)とそっくりなのだと思った。〈窓の向うに やけに寂しい 男がいるなと 僕が僕を見た/こんな悲しい 顔して生きてたのか〉。もちろんこれは石川啄木の短歌「鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも」と類似の発想である。誰かがパクったとか、そういう話ではない。

 

2 「贈る言葉

2-1 夕暮れと影

 贈る言葉」は別離を描いている。卒業式でよく歌われるので卒業ソングと思われているが、厳密に言えば送別の歌である。卒業ソングは、学校生活であんなことやこんなことがあった、もうお別れで寂しいね、というものだが、この歌には仲間同士の共感的な回想は含まれない。これからの処世的な注意事項が語られる。

 wikipedia贈る言葉」の項目には次のような記述がある。

 

「元来は叶わなかった愛を歌うラブ・ソングとして書かれた曲であった。当の武田自身は、この曲は、福岡市中央区桜坂で「女々しか(女々しい)」という理由で当時21歳の女性(ウメダさん)にフラレて、それを契機に作られた曲(失恋ソング)である、とも語っている[5]。別の機会には、(略)女性にふられ「大きい声出すよ!」と去られた経験から生まれたとも語っている。」

 

 この歌は作詞した武田鉄矢が女性にふられた経験を思い出して書いたものだという。別れる相手に人世訓を垂れるというのはおかしな話のように思える。ふられた者(弱者)は強者の立場から語ることはできない。だが賢者のように語ることはできる。賢者は、強者/弱者の対立軸を超越している。賢者の叡智を生み出すのは弱者の省察である。だからこの歌でも、別れ際に弱者が賢者に変身できたのである。人生訓じみた言葉を上から目線で語る「贈る言葉」は、弱者が強者を屈服させようとする、ニーチェ道徳の系譜』のような価値転倒をめざす歌なのかとさえ思えてくる。

海援隊贈る言葉」→ https://j-lyric.net/artist/a0016d9/l008fd6.html

 歌詞は〈暮れなずむ町の 光と影の中〉と、文学的な表現から始まる。〈暮れなずむ〉という言葉は普段あまり使わない。NHK放送文化研究所の言葉についてのコラムにはこう書いてある。

 

「暮れなずむ」というのは、完全に日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表します。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使っているのだとしたら、それは本来の使い方ではありません。

「暮れなずむ」ということばのなりたちについて考えてみましょう。まず「なずむ」という動詞があります。これは「水・雪・草などに阻まれて、なかなか思うように前に進めないこと」を表す伝統的なことばで、古事記万葉集にも出てきます。このような意味から広がって、物事がなかなかうまく進まなくなること、また、しようとしていることがうまくいかずに思い悩むこと、なども表すようになりました。/「暮れなずむ」というのは、この「物事がなかなかうまく進まなくなること」の意味を生かしたことばです。「暮れなずむ空」「暮れなずむ春の日」などのように使います。(略)暮れそうでなかなか暮れない状態のこと、春の日足の長いことを表します。

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/078.html

 

 〈暮れなずむ〉というのは、時期的には春のことなのである。描かれる別れは春の別れであるから、卒業や就職を契機に関係を解消するということであろう。2番の歌詞に〈これから始まる 暮らしの中で/だれかがあなたを 愛するでしょう〉とあるが、〈これから始まる 暮らし〉というのが、新しい暮らし、年度変わりの新生活と読めるので符牒が合っている。

 南沙織に「人恋しくて」(作詞、中里綴、1975年)という感傷的な歌があって、〈暮れそうで暮れない 黄昏どきは〉という歌詞がある。私が小学生のとき流行っていて、歌詞の意味はわからないまま歌っていた。〈暮れなずむ〉というのは「完全に日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態」ということだから、まさに〈暮れそうで暮れない 黄昏どき〉ということである。では、どうして「贈る言葉」は黄昏どきの歌なのか。2番の歌詞でも〈夕暮れの風に〉とあって、その時間帯をことさら指し示している。

 実は、海援隊の歌には「夕陽、夕空、夕暮れ、日暮れ」がよく出てくる。

 

・その空もゆっくり暮れてゆく 夕陽沈む時悲しみは きれいな茜に染まるでしょう 「いつか見た青い空」

・そして夕陽に消えてゆく 「思えば遠くへ来たもんだ」

・病院の窓から夕陽みつめ親父は黙って笑ってる 「おやじ」

・はぜる火の粉は夕空に舞い 「巡礼歌」

・鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど 「人として」

・飛んでみたくなる 夕暮の空 「新しい人へ」

・夕暮れの空まで 真っ直ぐに 駆けてきた 「遥かなる人」

・あなたが心を 夕暮に染めた 「恋不思議」

・丸太を割って薪にしようそして 夕暮れの浜辺に積み上げ 「ヘミングウェイをきどって」

・君と交せし恋文を日暮れの庭にて火に焼べる 「恋文」

・秋の日暮れに じゃが芋カレーライス 「郷愁心~のすたるじい~」

・日暮れの庭で薪を割る 「冬じたく」

・陽暮れの街角響く歌声 「ダメージの詩」

  (以上の作詞は全て武田鉄矢

 

 夕暮れというのは、昼から夜に移行する中間の時間帯である。一日はまだ終わりきらないが、これから何か行動を起こすには遅い。何かやり残したことがあっても、あきらめどきの、受け入れるしかない時間である。

 贈る言葉」が〈夕暮れ〉なのも理解できる。ここで語られるのは、何か区切りがついたときに振り返って出てくる言葉である。ヘーゲルは「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」と書いたが、これは哲学の知は現実に遅れてやってくるということだ。夕暮れどきに発せられる言葉は、どんなに気が利いていても現実を変えるには遅い。しかし、自分にとっては恋愛の終わり(=夕暮れ)であっても、相手にとっては〈これから始まる 暮らし〉(=新しい朝)なのである。だから、夕暮れに得た智慧を、相手に贈ろうとするのである。

 贈る言葉」が夕暮れの、しかも〈暮れなずむ〉歌であるのは、その内容からもふさわしいものである。さきほど引用したコラムで、「なずむ」というのは「しようとしていることがうまくいかずに思い悩むこと、なども表すようになりました」とあったことを思い出してほしい。「贈る言葉」は男女の別れの場面を描いている。ここでいろいろ言っている男の〈私〉はどういう性格かというと、〈さよなら〉とすっぱり別れるというよりは、〈さよならだけでは さびしすぎる〉と言って、いろいろ説教臭いことを言う。もう別れる相手に、である。少しでも自分の影響を残したいと思ったのだろうか。あるいは、うまいことを言って相手の気が変わるのを期待しているのかもしれない。言われる方からすれば余計なお世話である。〈さよなら〉だけで別れられると思っていたに違いない。別れる相手に人生とはこういうものだみたいなエラそうなことを言われたくない。〈暮れなずむ〉グズグズした感じがこの男にピッタリなのである。

 次に進もう。〈暮れなずむ町の 光と影の中〉とあるが、この〈光と影の中〉とは、どういうことだろうか。夕暮れどきは光が弱くなる。光が弱くなるということは影も薄くなる。光のあたっている部分と影になっている部分の境があいまいになっているということだろうか。

 〈光と影〉というのは、本のタイトルなどでも『○○の光と影』とかよくある言い方なので、思い浮かべやすいフレーズである。いいところも悪いところも含めた全体ということである。この歌の場合は、原義どおりで視覚的なものだ。〈影〉は、黒く塗りつぶされるのではなく、印象派の絵画みたいにいろんな色をもっている。影には陰という漢字もある。私(筆者)は、「陰」は日のあたらない暗い部分で、「影」は地面にできる二次的なもののことかと思っていたが、考えてみれば両者に原理的な違いはない。辞書にはこうある。「「陰」は物にさえぎられて光が当たらない暗い部分、目立たない部分を指すのに対し、「影」はできる「かげ」の像・形に注目し、「姿」という意味を持つという違いです。」(https://www.weblio.jp/content/陰と影の意味の違い・使い方の解説)この違いだと、歌詞の漢字は〈影〉より〈陰〉の方がふさわしいだろう。

 いずれにせよ、〈光と影の中〉というのは、冗長な付け足しのように思える。〈暮れなずむ〉というのは光の状態の変化に注目した言い方である。だからそれをまた〈光と影の中〉にいるというのは、同じようなことを言っていることになる。〈暮れなずむ〉という説明だけでは伝わらない〈光と影〉の微妙な状態を描写するならいいが、たんに〈光と影の中〉と説明するだけなら情報が絞り込まれていかない。とはいえ、こういう発想は俳句的だと言われるかもしれない。俳句なら冗長な部分は省略していくが、歌詞はすぐ耳から消えていくから、同じようなことでもあれこれ言い方を変えて繰り返したほうがわかりやすくなる。理解に時間がかかる歌詞ばかりだったら、聞いていて疲れてしまう。

 〈光と影の中〉についてもう少し説明を続けたい。歌の終わりの方はこうなっている。〈遠ざかる影が 人混みに消えた/もうとどかない 贈る言葉〉。〈遠ざかる影〉とあるように、ここにも〈影〉が出てくる。こちらの〈影〉は、さきほどの「陰と影の意味の違い」の説明どおり「像・形」のことである。〈影〉は、はじめの方で〈光と影(=陰)の中〉と出てきて、終わりの方で〈遠ざかる影〉と出てくることで呼応しあっている。明瞭な「像・形」をもっていた〈あなた〉の〈影〉は、〈人混み〉にまぎれて、ぼんやりした陰のようになって消えてしまう。全体の〈光と影〉の一部として溶け込んでいく。〈暮れなずむ町〉の一部になる。終わりと始まりが円環になっている。すべては、夕暮れという明晰さを書いた明かりの中の出来事である。

 

2-2 人生訓の真意

 次は〈去りゆくあなたへ 贈る言葉〉である。〈去りゆく〉というのは気取った言い方に聞こえる。ここは男がフラれるところのはずだ。その露骨さを〈去りゆく〉という言葉で隠している。なぜ〈去りゆく〉ことになるのか、その理由は語られない。

 ここまで〈暮れなずむ〉〈光と影〉〈去りゆく〉というブンガク的な言葉が並べられていた。だが、このあとは途端にドロっとしてくるのである。悲しいとか、泣くとか、信じないとか、強い情念的な言葉が出てくる。そして、ここは問題が多いところでもある。順に見ていこう。

 まず、1番と2番で、どう言っているかを掲げてみる。

 

1番 悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい

2番 信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい

 

 1番で言っているのは、無理せずに素直に感情に従えということである。悲しいなら、思い切り泣いて十分悲しみなさいというのである。一方、2番はどうかというと、1番の逆なのである。1番の論理を2番の内容に適用すれば、信じられないならどこまでも信じるな、ということになるはずだ。しかし、そうではない。騙されて傷ついてもいいから信じろというのである。今度は逆に、2番の論理を1番にあてはめるなら、悲しければ泣くのではなく笑ったほうがいい、ということになるだろう。実際、ジェームズ=ランゲ説では、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだと言われる。〈涙かれるまで 泣〉くのを勧めたら、悲しみを深くするだけではないだろうか。

 上記の二つの文は、「○○するよりも、○○したほうがいい」という形式を持っている。これを「徹底すること/抑制すること」という観点で書き直すと次のようになる。

 

1番 悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい

  →抑制するよりも、徹底したほうがいい

 

2番 信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい

  →徹底するよりも、抑制したほうがいい

 

 ということになる。方法論が一貫していない。これら二つの文は、普遍的にそうせよということではなく、場合によるものと理解したほうがいい。場合によっては、「涙かれるまで泣くよりも、悲しみこらえて微笑むほうがいい」こともあるし、「人を信じて傷つくよりも、信じられぬと嘆いたほうがいい」こともある。適用する当人の背景・文脈を抜きにはどちらともいえない。

 実は、1番のほうは、どういう場合にそうすべきかが示されている。続く歌詞にそれは書かれている。

 

1番 悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい/人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから

 

 ここには、〈涙かれるまで 泣くほうがいい〉のはどうしてなのかという理由が書かれている。泣くことは悲しみの感情の表出である。たくさん泣くことはたくさん悲しむことを意味する。〈人は悲しみが 多いほど 人には優しく できる〉ものである。人は人に優しくすべきだ。だから〈涙かれるまで 泣くほうがいい〉。人は、泣くと他人に優しくなれる。これは社会学ふうに言えば、順機能であり潜在的機能である。誰も、人に優しくなりたいがために泣くわけではない。目的論ではなく、悲しむから結果的にそうなるのである。

 2番の歌詞を見てみる。こちらはもう少し込み入っている。

 

2番 信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい/求めないで 優しさなんか 臆病者の 言いわけだから

 

 後半部分は、この歌で最も難解な箇所である。というのも、1番で〈人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから〉と言って〈優しさ〉を推奨しているのに、2番では〈求めないで 優しさなんか 臆病者の 言いわけだから〉などと言って、〈優しさ〉をずいぶん軽く扱っているからである。

 私は次のように解釈した。〈信じられぬと 嘆く〉のは〈人を信じて 傷つ〉きたくないからである。〈人を信じて 傷つ〉いたときに、それを癒やしてくれるのが誰かの〈優しさ〉である。だが〈優しさ〉を条件に人を信じるのは〈臆病者〉である。臆病の反対は勇気である。傷ついてもいいから人を信じようとするのが勇気のある人だ。人を信じることは跳躍である。跳躍に失敗したとき〈優しさ〉という救済が保証されていなければそうしないというのは臆病である。

 1番では、自分の悲しみは他者への優しさの肥やしになるという。2番では、他者への開かれ(人を信じること)を勧め、その際、自律した強さ(優しさを求めない)を持てという。優しさは人に贈与するものではあるが、傷つきと交換で求めるものではない。1番も2番も、他者に対して開放的であれという点は同じだ。

 さて、1番の歌詞は、誰が発した言葉なのかという点も重要である。〈人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから〉というのは、どこかで聞いたことがあるような(いわばクサイ)セリフでもあるが、こうしたセリフは、人生経験豊富な人が言うときにそれなりの説得力をもつ。だが、語り手の〈私〉は、〈はじめて愛した あなたのために〉というくらいだから、まだ若く、青年の年齢のようである。そうだとすれば、本を読んだだけで人生を知った気になっているのかもしれない。あるいは、若いのにすでに相当苦労を積んだ人である。

 もっと根本的なことをいうと、そもそも失恋して悲しいのは自分のほうであろう。〈涙かれるまで 泣くほうがいい〉というのは自分に言うべき言葉ではないか。それなのに、慰めの言葉を相手に言っているのである。この違和感は、これを再帰的な言葉として解釈することで理解できる。自分はすでに〈涙かれるまで 泣く〉経験をしている。だから〈人には優しく できる〉。そうした経験は今回もまた〈あなた〉とのあいだで反復された。〈贈る言葉〉は、今それを告げている相手との経験それ自体もその一部となって生まれた言葉であり、それを相手に伝えることは教訓であると同時に皮肉なのである。

 

2-3 うんざりする〈あなた〉と縋りつく〈私〉

 この歌では、語り手である〈私〉と〈あなた〉の関係がよくわからない。どういう状況で言っているのかも曖昧である。〈私〉が〈あなた〉を愛しているのは確かである。しかし〈あなた〉から〈私〉への愛は感じられない。学校もののテレビドラマなので、〈私〉と〈あなた〉は教師と生徒の関係ではないかと思ってしまうかもしれない。教師が生徒を教え子として愛するということは十分ありうる。しかし歌詞の中に〈だけど 私ほど あなたの事を/深く愛した ヤツはいない〉ともある。教師だったら、生徒に対し自分のことを〈ヤツ〉と卑下した言葉を使うまい。また〈私ほど(の)ヤツはいない〉という独占的な言い方もしないだろう。一般的に、生徒の家族の愛のほうが、教師の愛よりもずっと深いはずである。〈私〉と〈あなた〉を教師と生徒の関係であると考えるのは無理である。

 この歌はどういう状況を歌っているのか。すでに見たように、時期は春で、就職や進学で離れ離れになるのを契機に、交際も終わりになったようである。場所は路上である。では、別れ際の二人はどういう位置関係で立っているのか。「贈る言葉」というタイトルからは、二人が向かい合っていて片方の言葉を聞いているように思えるが、そうなのか。

 二人の位置関係を表す表現が少しながらある。〈去りゆくあなた〉〈遠ざかる影が 人混みに消えた/もうとどかない 贈る言葉〉である。これを読むと、語り手である〈私〉は一点に立ちつくしたままで、〈あなた〉は移動しているようである。しかも〈私〉がまだ言葉を発しているうちにどんどん動いて〈人混みに消え〉てしまうのである。〈あなた〉は、〈私〉の〈贈る言葉〉を行儀よく聞いていたわけではなく、〈私〉が話しているうちでも、背を向けて離れていってしまうのである。〈私〉は、それにも関わらず話し続けているようだ。〈もうとどかない 贈る言葉〉というのは、〈あなた〉が離れているときもまだ話していたことを表している。〈人混みに消え〉るとき〈私〉の言葉は届かなくなる。〈人混みに消え〉る、つまり〈あなた〉を個人として識別できなくなったので、思いを届ける先を失ったのである。あくまで〈私〉にとって〈もうとどかない〉ということである。

 では〈あなた〉はいつ、どのタイミングで〈私〉に背を向けたのか。二つ考えられる。一つは、最初から背を向けていたのではないかということである。冒頭は〈暮れなずむ町の 光と影の中/去りゆくあなたへ 贈る言葉〉となっている。この〈去りゆく〉というのは、一般的な解釈では「去りぎわ」とか「別れようとするそのとき」といった時間的意味であるが、この歌では〈あなた〉が〈遠ざかる影〉と動きをもって描かれているところをみると、この〈去りゆく〉も空間的に離れていくことを描写していると解釈できる。つまり〈私〉が〈贈る言葉〉を話している最初から、〈あなた〉は〈私〉に背を向けて離れつつあるのである。

 〈私〉に背を向けるタイミングとして考えられるもう一つは、2番の歌詞の〈夕暮れの風に 途切れたけれど/終わりまで聞いて 贈る言葉〉という箇所にある。これは2番の歌の最初に置かれているので、外見的には、歌の1番が終わり、間奏があって2番が始まるときに、間奏で〈途切れたけれど〉歌はまだ続くから〈終わりまで聞いて〉ということのように読める。歌の構造的にはそういう理由で書かれた歌詞かもしれない。だが、二人の位置関係の観点から考えると、男の話が〈夕暮れの風に 途切れた〉のを見計らって、チャンスとばかりに背を向けたというふうにも読める。〈終わりまで聞いて 贈る言葉〉というのは、〈贈る言葉〉はまだ途中なのに〈あなた〉がその場を離れていってしまうので、最後まで聞いてくれと引き止めているのである。〈終わりまで聞いて〉と言うのでまだまだ続きそうな気配であるが、〈あなた〉としては早く切り上げてもらいたかった。たぶん〈あなた〉にしてみれば別れの言葉は〈さよなら〉だけで十分だったであろう。だが〈さよならだけでは さびしすぎるから〉と勘違いした男が、道学者めいたことを語りだし、しかも長いので、うんざりしているのである。

 この歌では、二人が別れることになる理由は書かれていないが、おそらく〈さよならだけでは さびしすぎるから〉と〈贈る言葉〉を語りだし、長いので背を向けると〈終わりまで聞いて〉とすがりつく。「あなたのそういうところが嫌いなの!」ということではないか。(2-1で引用したwikipediaにある「女々しか」というのはそういうことであろう。)

 どちらのパターンにせよ、〈私〉は立ちつくしたまま話し続け、〈あなた〉はそれに対して何も応答せず無反応で立ち去る。せっかくの〈贈る言葉〉を〈あなた〉は無視するかのように離れていき、その背中に〈贈る言葉〉は投げかけられる。それがこの歌の二人の位置関係になるだろう。そしてそれはすこぶる奇妙な情景である。

 これまで、去りゆくあなたの背中に語り続けているという前提で書いてきたが、相手がいないにも関わらず話しているとしたら周囲からは異常に見られるので、途中からは心内語として語っていると解釈してもいいだろう。

 以上、「贈る言葉」を読んできたが、よく読むとふうがわりな歌詞であることがわかる。「贈る言葉」とはいうものの、それは一般的にイメージするような端的なアフォリズムのようなものではないし、前向きなものというより、痛々しさが残る赤むけの言葉なのである(それが〈飾りもつけずに 贈る言葉〉ということなのかもしれない)。

 どこからどこまでが「贈る言葉」なのか。〈悲しみこらえて~〉〈信じられぬと~〉というところであろう。だが、そもそもそれは、別れるときに贈る言葉にふさわしいものとは言い難い。この人が一番伝えたいことは、〈これから始まる 暮らしの中で だれかがあなたを 愛するでしょう/だけど 私ほど あなたの事を 深く愛した ヤツはいない〉というところだろう。この部分はそれまでとは趣を異にしている。それまでは人生悟りきったようなことを言っていたのが、ここでは自分の思いがストレートに出されている。これは、オレと離れてもオレとの愛や思い出を糧に(自信に)生きてくれ、ということとは違う。この先もオレほどあなたの事を深く愛するヤツは現れない、オレはあなたにとって特別な存在なんだ、オレのことを忘れないでくれ、もっと言えば、オレと別れたことを後悔するぞ、というルサンチマンが含まれた言葉なのである。それが〈だけど〉という接続詞に表れている。他の〈だれか〉より、この〈私〉の特別さ。だが、他の〈だれか〉より、この〈私〉の愛のほうが深いという根拠はない。あるのは信念だけである。

 〈私ほど あなたの事を 深く愛した ヤツはいない〉という主張は、相手に何を求めているのだろうか。よりを戻せということか。言われた方はそれに対してどうしようもないだろう。「ありがとう」くらいなら返せたかもしれない。だが〈あなた〉から〈私〉へと贈られる言葉はない。〈私ほど あなたの事を 深く愛した ヤツはいない〉というのが最後の「贈る言葉」だとしたら、その言葉は相手を混乱させるだけである。この歌の救いは、その言葉は〈もうとどかない〉ものとされていることである。逆に言えば、相手に届かないとわかっているからそう言った(思った)のである。

 

3 「人として」

3-1 「人として」の自己啓発

 贈る言葉」は『3年B組金八先生』の第1シーズンの主題歌であるが、第2シーズンの主題歌は「人として」(作詞、武田鉄矢、1980年)である。

海援隊「人として」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0016d9/l005a16.html

 「人として」はそのタイトルや繰り返される〈人として〉というフレーズから、露骨な説教調の歌かと思われてしまうが、歌詞を読んでみるとなかなか気の利いたことを言っている。「贈る言葉」の高みに立った賢者視点ではなく、弱者に寄り添ったものになっている。次のような部分がそうである。

 〈鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど/翼は愚かな あこがれと気付く/私は大地に影おとし 歩く人なんだ〉

 これは「翼をください」(作詞、山上路夫、1971年)に代表される、翼が生えて空をとびたいという歌に対するアンチである。「人として」のあとも、卒業ソングの定番「旅立ちの日に」(作詞、小嶋登、1991年)では〈勇気を翼にこめて 希望の風にのり〉と歌われ、小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」(作詞、小田和正、1991年)でも〈君のためにつばさになる君を守りつづける〉と歌われる。「翼ソング」は、ポジティブな感じをだすための発想の一つの類型になっている。

 だが、こうした「翼ソング」にも弊害はある。翼を求めるから翼がないことに悩む。本来ないものを想像してその欠如に悩むとしたら愚かである。「人として」は、空を見上げていたまなざしを大地に反転させる。中島みゆき地上の星」(作詞、中島みゆき、2000年)もそうである。〈地上にある星を誰も覚えていない/人は空ばかり見てる〉。これら現実主義の歌は、空をフワフワ舞うような夢を語る歌の群れの中にあって、新鮮なものの見方を提供する。

 とはいえ、それは作詞者の一貫した考えが反映されたものというわけではない。「人として」の2年後に出した「遥かなる人」(作詞、武田鉄矢、1982年)では、〈本など広げて 言葉を探すより/人は空を見上げている方が/ずっと 賢くなれるんだ〉と正反対のことを言っている。流行歌は世間の常識と反対のことを言うから日常のレースからはずれた人の心の癒やしになる。本を読む(勉強する)より空を見ていたほうが賢くなる、というのも流行歌ふうの逆説ではある。

 ちなみに「遥かなる人」は〈恋に悩んで考えこむより 汗を飛ばして走ってみろよ ただの水さえ美味く飲めるから〉などと三島由紀夫太宰治に対して言うようなことを言ったりして、日常の思考のクセを否定することで変革をうながす自己啓発につながっていく感じがあって好きではない。この書き手は、エンタメと自己啓発の危ういところでバランスをとっているように私には思える。〈遙かなる人の 声が僕に届く〉という言い方には超越的な視点がはっきり表れているので、この歌は海援隊的なものを受容できるか否かの試金石になるだろう。

 「人として」にもそういう側面がある。この歌には1番と2番に共通するフレーズがある。

 

1番 思いのままに生きられず 心に石の礫なげて
   自分を苦しめた 愚かさに気付く
   私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ

2番 鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど

   翼は愚かな あこがれと気付く

   私は大地に影おとし 歩く人なんだ

 

 ここで〈自分を苦しめた 愚かさに気付く〉、〈翼は愚かな あこがれと気付く〉というのがそうである。愚かな自分に気づくということである。では、何を契機にそう気づいたのかというと、それはよくわからない。〈思いのままに生きられず 心に石の礫なげて〉と言った直後に、次の行では、それが愚かなことだったと気づいてしまうのである。この跳躍は、これが詩だからである。

 「気づき」の直接のきっかけはわからない。しかしどうやって気づいたかは書かれている。それが〈そうだ人なんだ〉というところである。〈そうだ…なんだ〉が気づきを意味している。人間は完璧ではない。現実と妥協して生きていくしかない。人間そのものが中途半端で愚かな生き物であり、自分はその一員である。だから愚かであるのは当然である、ということである。「私は人間である。人間は愚かである。だから私は愚かである」という三段論法であるが、この中で「人間は愚かである」というのが重要である。人間には愚かでない人もいるが、それはむしろ例外である。自分は例外のうちに含まれない。「人間は愚かである」と定義することができるというのが「気づき」の部分である。

 「気づき」というのは自己啓発のキーワードであるが、それを2回も繰り返すこの歌は、駄目な自分という自己否定感を一瞬で自己肯定感に変え、〈人として〉前向きに生きることを促す。ただしその〈人〉は、エリートではなく大衆の一人である。

 

3-2 「人として」の倒置法

 「人として」の歌詞の最初の部分を「贈る言葉」と対比しつつ読んでみよう。

 〈遠くまで見える道で 君の手を握りしめた〉と始まる。なぜ〈遠くまで見える道で〉なのか。この歌の場所的なイメージは、2番の歌詞にも〈鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど〉とあるように、開放感のある屋外である。「贈る言葉」も〈暮れなずむ町の 光と影の中〉〈夕暮れの風〉などとあり、屋外にいることがわかる。これらは『金八先生』のオープニングに出てくる広々として多くの人々が行き交う荒川土手を想像させる。特に「人として」にある〈遠くまで見える道〉というのはそうである。〈君の手を握りしめた〉のがもし映画館の暗闇の中であれば、かなり違う雰囲気の歌になっただろう。

 武田鉄矢という人は、モテない男の道化ぶりを笑いと嘆きで語る人で、このあとの歌詞にも、〈手渡す言葉も 何もないけど〉とか〈思いのままに生きられず 心に石の礫なげて〉といった不器用さが語られているので、この歌の場面も口説達者な爽やかイケメンが女性をうまいこと手玉にとっているというものではないのだが、開けた屋外であることによって、〈君の手を握りしめた〉という行為に非モテのいじけたコソコソ感はまったくない。

 〈遠くまで見える道で 君の手を握りしめた〉というのは、比喩としては、君と将来の約束をするというように読める。〈手渡す言葉も 何もないけど〉とあるのは、知的な理解より身体性が優位になっているということを言っている。2番の歌詞に〈夢を語り合えばいつも 言葉はすぐに途切れてしまう〉とあり、言葉の無力さが繰り返される。これは言葉の力を信じている「贈る言葉」と対照的だ。「贈る言葉」の能弁さは頭でっかちと退けられ、代わりに、しどろもどろであっても存在じたいに価値を認めている。すでにふれた「遥かなる人」では、さらに進んで〈本など広げて 言葉を探すより/人は空を見上げている方が/ずっと 賢くなれるんだ〉とか〈恋に悩んで 考えこむより 汗を飛ばして走ってみろよ〉と反知性的な方向へ進んでいる。

 ところで、なぜ冒頭で〈君の手を握りしめた〉とでてくるのだろう。この人は手を握ったものの〈手渡す言葉も 何もないけど〉という。手を握って声をかけるのではなく、言葉にならないから手を握ったのである。それはいいが、それなのに、なぜここで手を握ったのかである。歌の語り手は不器用な生き方をしてきたことを自認している。〈思いのままに生きられず〉〈自分を苦しめた〉とか〈ひざを抱えて うつむくことばかり〉などと自分に自信がない。〈手渡す言葉も 何もないけど〉というのは言葉のみならず、相手に与える価値のあるものは何もない、魅力のない人間だということである。そういう人はたいてい自分のカラに閉じこもりがちだ。にもかかわらずここでは他者に積極的にふれあおうとしている。それはなぜか。それはこの冒頭の一文は始まりではなく答えだからである。すでに述べたように、〈自分を苦しめた 愚かさに気付〉いた語り手は、その悟りをもって他者にふれあおうとしたのだ。魅力のない人間でも〈人として〉価値がある。それは言葉では伝えにくい。存在として示すしかない。

 〈君の手を握りしめ〉ることができたのは気づきの成果である。そこにいたるまでの道のりが、冒頭の一文に続いて語られていることなのである。結果が倒置されているのである。

オフコース「YES-YES-YES」「Yes・No」「愛を止めないで」~君僕ソング(その5)

1「YES-YES-YES

娘□オフコースの他の歌はどうなのかな?

父■じゃあ僕が好きなところで「YES-YES-YES」(作詞、小田和正1982年)。間奏でクラクションの効果音が入るのが洒落ていていいんだよね。きれいにまとまっているだけでは物足りないと思ったので異物を入れたのかな。

オフコースYES-YES-YES」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l005cde.html

娘□歌詞をとおして読んでも状況がよくわからないんだけど、なんとなくマッチョというか、マンスプレイニングの感じがする。

父■ああ、そうなんだ。実は歌詞をしっかり読んだことがないんだ。この機会に読んでみよう。

娘□この歌詞の内容には、はっきりした目的があるでしょ。何回も繰り返される〈僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ〉っていうこと。その目的を達成するために、〈君〉に指図したり、おだてたり、言い訳したりして自分に従わせようとしいる。具体的にどういう場面かはわからないのに、〈僕〉の〈君〉に対する支配性、エラそうに「教え導く感じ」だけは伝わってくる。

父■そうなんだ(笑)

娘□最初から見ていくと、〈君が思うよりきっと 僕は君が好きで〉っていうのは、なんだか見透かしている感じだし、マウントをとりたがっている。この二人はうまくいってないんだね。その原因は〈僕〉にあって、〈あの頃の僕はきっと どうかしていたんだね〉っていうから、過去になんかやらかしたんだね。それを〈どうかしていた〉で済まそうとしている。浮気でもしていたのかな。それで〈失すものはなにもない 君の他には〉なんて持ち上げているけど、他の彼女に逃げられてしまったので、〈君〉にまで逃げられないように囲い込もうとしているように聞こえる。〈失すものはなにもない 君の他には〉って、それはあなたの都合でしょ。〈今 君はすてきだよ〉というのも評価者ぶった言い方。自分には〈どうかしていた〉という引け目があるから、そっぽむかれないようにおだてておく。〈大切なことは ふたりでいること〉とか〈切ないときには 開けてみればいい〉なんていうのは教え諭す立場からの言い方。〈どうかしていた〉人に言われたくない、って思うんだけど。他人を評価したり指導したりできる立場なのか。

父■君は何にたいしてムカついているの?

娘□もちろんテクスト内の人物であり語り手でもある〈僕〉についてよ。歌詞の書き手の人生観とかそういうのじゃなくて。誤解されないように言っておくけど。

父■この歌では〈君〉は〈僕〉に一方的にはたらきかけられる対象になっていて、〈君〉のことはよくわからないままだね。〈君はいつも そんな顔して〉ってあるからムスッとしているのかな。〈僕〉に強く促されて、小さな声で「うん」とでも言ったのか。それが〈君〉の返事としての〈YES-YES-YES〉ってことだろう。

娘□〈もっと大きな声で きこえない きこえない〉ってせっつくんだけど、相手は渋々返事をしただけでまだ迷っているのに、無理やり承諾させるみたいで嫌だ。無理やり復縁を迫る感じ?「お前は俺の言うとおりにしてりゃいいんだよ! 俺についてきますって言えよ! 「はい」って言えよ!「はい」って!」みたいな。

父■そんなに乱暴かな。

娘□言われる方は脅威よ。〈もっと大きな声で きこえない きこえない〉なんて。

父■小学校の先生が子どもを叱るみたいではあるね。あるいは上級生が新入生に気合を入れるみたいな?「声が小さい! 聞こえないぞ!」って。

娘□怖~い。もともと過失は〈僕〉にあったはずなのに、〈振り返らないで〉〈手を離さないで〉って禁止したり〈もっと大きな声で〉とか命令的な言い方になっているし、〈あなたを連れてゆく〉なんて指導者になったつもりでいる。そもそも〈僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ〉っていうけど、そんなに自信があるわけ?〈僕のゆくところ〉に。

父■〈僕のゆくところ〉って具体的に何のことかわからないけど、これから先の人生を一緒に歩いてほしいといったことじゃないかな。この〈YES-YES-YES〉っていうのは、〈君〉はそんなに嫌がっていないような気もするんだけど。むしろ嬉しくて、ちょっと恥ずかしがっているから声が小さいのかもしれない。

娘□まあ、〈君〉の態度がよくわからないから、そうととれなくもないけど、〈君はいつも そんな顔して〉というところに〈君〉の気分が表されているとすれば〈君〉は不機嫌なままなんじゃないかな。

父■〈そんな顔〉ってどんな顔?

娘□嬉しそうな顔ではない。「そんな顔するな」って言うのは、相手の意に沿わない顔のことでしょ。

父■〈そんな顔〉をさせることになった理由に思い当たるフシがあるから、〈あの頃の僕はきっと どうかしていたんだね〉って反省というか言い訳したんだね。その上、〈失すものはなにもない 君の他には〉っていう「君が大事アピール」を付け加えた。案外これで簡単に機嫌が直ったのかもしれないよ。

娘□そうかなあ。そんなに簡単かなあ。だとしたら、みくびられてるなあ。

父■「君僕」の観点から言うと、出だしの〈君が思うよりきっと 僕は君が好きで/でも君はいつも そんな顔して/あの頃の僕はきっと どうかしていたんだね/失すものはなにもない 君の他には〉というところは「君僕」が繰り返されていて、それによって世界がすごく狭くなっている気がする。視線が君と僕のあいだでぐるぐる往復しているだけで息苦しい。出口がないというか。〈君の嫌いな東京も 秋はすてきな街/でも大切なことは ふたりでいること〉とあって、〈東京〉の風景に開かれるかと思いきや〈ふたり〉に閉じてしまう。歌詞だけだとそうなんだけど、さっき間奏でクラクションの効果音が入るって言ったでしょ。クルマの走行音や電車のガタンゴトンといった雑多なものがその一瞬に詰め込まれている。雑踏の雰囲気が凝縮されている。歌詞じたいは、ふたりの世界に閉じられているんだけど、効果音が断片的に入ることによって、街の風景がスッと広がってくるんだ。効果音が覗き穴のようになって、そこから街の広がりが見える。街の広がりを言葉ではなく音で表現する。見事じゃないか。しかもこの効果音は歌詞とのつながりで意味を持っている。決して遊びで入れたものじゃない。あなたに〈YES〉と言わせたいのに、それが聞こえないというところで入っている。〈もっと大きな声で/きこえない きこえない〉というのは、なんで聞こえないかというと、街の雑踏がうるさいからだ。ちゃんと理屈がとおっている。理知的な遊びだよね。

娘□へえ、一瞬で反転するのが好きなんだ。お父さんらしい、ひねくれた感受性だね。

 

2「YesNo

父■「YES-YES-YES」を取り上げたら、「YesNo」についてもふれておかなきゃだね。

娘□似たようなタイトルだ。

父■「YesNo」は1980年の、「YES-YES-YES」は1982年のシングル。最初に細かいことを言うと、シングルレコードジャケットや歌詞カードでは「YesNo」の真ん中の点はナカグロになっているけど、レコードに貼ってあるラベルやCDでは「Yes-No」とハイフンになっている。こういうこだわりのなさはオフコースのグループ名と共通している。一方、「YES-YES-YES」はハイフンで統一されている。

娘□ナカグロって日本語の並列表記とか、「お・も・て・な・し」みたいに一字づつ区切るとき使うけど、英語ではあまり見ないね。

父■この歌の場合は「YesNo」とスラッシュにしたほうがかっこよかったかもね。それと、このジャケットで左側にいるメンバーがのけぞっているんだけど、それが小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」の写真とちょっと似ている。ま、どうでもいい話なんだけど。

娘□先にでた「YesNo」と、後にでた「YES-YES-YES」はどういう関係なの?

父■「YesNo」というのは疑問文が重ねられた歌詞で、返事は「Yesなのか、Noなのか、どちらなの」と迫っている歌。「YES-YES-YES」の方は「YES」と返事をしているみたいだけど、声が小さいし、周囲がうるさいので、本当に「YES」と言っているのか、それとも「YES」と言うように促しているだけなのか曖昧さが残る。〈きこえない きこえない〉というのが本当に聞こえないのか、それとも〈もっと大きな声で〉言わせて意思表示をはっきりさせるためにそう言っているだけなのか確定できない。実は「YesNo」も答えを聞いていない。こちらは逆に、自分のほうが〈ぼんやり〉しているんだけどね。

娘□「YesNo」は「Yesなのか、Noなのか」という選択だったけど、「YES-YES-YES」は「YES」を3連打しているわけで、一歩前進なのか、それとも〈僕〉に都合のよい解釈をしただけなのか。どちらにせよ、「YesNo」も「YES-YES-YES」も、二人で手をたずさえて睦まじくという感じの歌ではなさそうね。「YES-YES-YES」には〈手を離さないで〉ってあるから、二人の結びつきにはすでに懸念材料があること(手を離すかもしれない)が承知されている。

父■〈僕〉はどんどん先に行くから、置いてかれないようにしてねってことでしょう。

娘□この二人はペースが合わないのよ。

父■タイトル解釈はそのくらいにして、「YesNo」の歌詞を読んでみよう。

オフコースYesNo」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l005cf4.html

娘□「YesNo」ってタイトルとしては洒落てると思うけど、歌詞を読んでも、状況がよくわからない。

父■うふふ。

娘□なに? 気持ち悪い。

父■2,3回じっくり読んでみてよ。

娘□えー。(5分経過)あ、わかった、そういうことか。

父■では、順を追って説明してみて。

娘□最初はスキーマが不明な歌だなって思った。イメージがぼやけていて像を結んでこない。歌詞にも〈君のことぼんやり見てた〉ってあるように、曖昧な靄に包まれて〈ぼんやり〉した感じの歌だなって。昼下がりの気怠そうな感じがした。

父■そのはっきりしない感じがどこから来たのかもっと教えて。

娘□〈~の?〉という疑問文が多いからかな。〈今なんていったの、好きな人はいるの、君を抱いていいの、好きになってもいいの、心は今 何処にあるの〉。で、それに対する答えは最後までない。宙ぶらりんのまま。〈好きな人はいるの?〉って聞くのは、いなければ自分が立候補したいっていうことでしょ。でもここには肝心の問がないわね。この男の人はこの女の人が好きだってことはわかる。で、女の人に他に〈好きな人はいるの?〉と聞いている。ここまではいいけど、もし返事がノーだったら、即、抱いてもいいということになるわけ? そうじゃないわよね。だって女の人がこの男の人を好きかどうかの情報がないじゃない。「僕のことは好きなの?」という問いが抜けている。

父■たぶんそこはあんまり期待してないんじゃないかな。〈心は今 何処にあるの〉っていうくらいだから、中途半端だということがわかっている。〈好きな人はいるの、君を抱いていいの、好きになってもいいの〉という質問は、君を好きになったらトラブルが生じるかという質問でしょ。君が僕を好きかどうかは聞いていない。答えてくれなさそうだからね。だから、君の意思は曖昧なままでも、自分の気持ちを遂行した場合、トラブルにはならないよね、という確認をしているんじゃないかな。

娘□しゃべらないけど雰囲気で語るタイプなのね、この女の人は。〈ああ 時は音をたてずに ふたりつつんで流れてゆく〉とか〈今 君の匂いがしてる〉っていうから、もうかなり親密な感じがする。それなのに今さら〈君を抱いていいの〉って許可をもとめてくるのは、あんた空気読めない男ね、って思ってるんじゃないかな。〈好きになってもいいの〉って言うけど、好きになる気持ちって自分を超えたところから押し寄せてくるものだから、好きになろうと決めて好きになりましたっていうもんじゃないでしょ。まあ、この人はいろいろ聞いてくるけど〈君のことばかり 気になる〉っていうように、もう自分を制御できてない状態になってる。いっそギュッと抱きしめてしまえばよさそうなものなのに、我慢強くて、あくまで相手の許可を得られるまで一線を超えようとしない。ある意味ずるいところがある。「君が承諾したから行為に及んだんだ」って言い訳を用意している。

父■この歌を作詞した小田和正は『YES-NO 小田和正ヒストリー』でこう言っている。

「ずっと疑問文で成立している。そして最後に相手に責任を取らせる歌なんだ。どうなんだって、突きつける。当時それならタイトルは『Yes or No?』じゃないかって言った奴がいたけど、突きつけてるんだ。だから『Yes-No』なんだ」(WikipediaYesNo」の項目から孫引き)。

娘□たしかに〈好きな人はいるの、君を抱いていいの、好きになってもいいの〉はどれもイエスかノーの二者択一で答えられる問いね。二者択一だからまさに突きつけられている感じがする。でも「Yes or No?」じゃなくて、突きつけてるから「Yes-No」なんだってどういうことなのかな?「Yes or No?」と「Yes-No」の違いがよくわからない。だけど、どうしてそんなこと突きつけられなきゃいけないのかな? 自分は女性に誘惑されたって思ってるの? 誘惑されたのに相手の態度が曖昧だから、どうすればいいのかってジレンマに陥って怒ってるの? もうこの状況なら自分で行動しちゃえばいいと思う。返事はいらないでしょ。でもこの人は、手を出すのに許可を求めている。慎重派というかズルいというか。

父■その誘惑されたのか、っていう見方は面白いね。誘惑したんだから態度を鮮明にしろと。でも誘惑というのは曖昧なまま引っ張るものなんだよね。小田はさっきの本でこんなことも言っていた。「抱きしめようはともかく、君を抱いていいのは、当時の歌詞の中でも一線を越えてた。でも、そこを超えたから、みんなのアンテナに引っ掛かったんだよ。世の中には、いい曲だけど地味な曲って、たくさんある。それは、歌詞が一線を越えてないから、アンテナには引っ掛からないってことなんだよ」(同前)。

娘□たしかに〈君を抱いていいの〉はちょっとキツいフレーズだと思った。お金が介在してるみたいな割り切った言い方。

父■この前年に出した「愛を止めないで」には〈いきなり君を抱きしめよう〉ってあるんだよね。いきなり抱きしめるより〈君を抱いていいの〉と相手に了解を得るほうが「一線を越えて」いるのはどうしてか。行為としてはいきなり抱きしめるほうが過激だよね。

娘□それは男の人の意志か女の人の意志かということでしょ。いきなり抱きしめるのは男の人がやることだから男性が支配する社会では許されているけど、〈君を抱いていいの〉という問いに「はい」と答えるのは女の人の意志をあきらかにしてしまうことになる。それは本来隠しておかなければならないもの。性について女が主体性を持ってはいけないとされているから。

父■そうだね。ちょっと引っ掛け問題だったけど、実は「愛を止めないで」のほうは〈なだらかな明日への坂道を駆け登って/いきなり君を抱きしめよう〉という文脈なので比喩的だし、外で抱きしめてもその後はないんだけど、〈君を抱いていいの〉のほうは性行為を意味する換喩だからね。字面は似ているけど、比較はできない。

娘□でも字面だけから解釈すれば、あたしの言ったことも間違ってないはず。

父■さっき君が言った「誘惑」という考えを敷衍することで解釈できるフレーズがある。〈今日はありがとう 明日会えるね〉という不思議な歌詞があるんだけど、前後の文脈から浮いていて唐突だと思ったんだよね。言葉が足りなくなって適当な言葉で埋めたのかなと思っていた。〈ありがとう〉なんて何も思いつかないときにふっと口をついて出てきそうな言葉だからね。でもこの人が誘惑されて、相手にメロメロになっているとしたら、まさに〈今日はありがとう 明日会えるね〉なんてボーッとした頭で言いそうだね。

娘□この男の人って、自分のことは棚に上げて相手を責めている感じがする。最初からそう。〈今なんていったの? 他のこと考えて 君のことぼんやり見てた〉って。いろいろ相手に問いただしている状況で、〈今なんていったの?〉はないでしょ。この歌の中心的な問いは〈好きになってもいいの〉だと思うけど、もしかしたらそれへの答えを言ったのかもしれないのよ。それなのにぼんやりして聞いてなかったなんて。一旦答えているのに、何度も聞いてくるから呆れているんじゃないかな。〈ほら また 笑うんだね ふざけているみたいに〉というのは、答えをはぐらかしているということかと思ったけど、質問に対して答えているのに、また同じことを聞いてくるから笑っちゃうという意味もあるのかも。

父■〈ほら また 笑うんだね ふざけているみたいに〉というのは、ひとつの答えだよね。言わなくてもわかるでしょ、ということかな。

娘□何か答えても〈今なんていったの?〉と聞き返してくるとしたら、それはなんでだろう。聞きたくない答えだったから聞こえないことにしたのかな。もしそうなら、〈好きな人はいるの? こたえたくないなら/きこえない ふりをすればいい〉という歌詞があるけど、この〈きこえないふり〉は自分がすでにやっていることになる。〈こたえたくないなら/きこえない ふり〉をするに対応して、聞きたくない答えには〈きこえないふり〉をするっていう。

父■聞きたくない答えが返ってきたとすると、言わなくてもわかるでしょ、というふざけてはぐらかす感じとは相容れないものになってしまうな。

娘□あたしが言いたいのは、相手に対して投げかけていることは全部自分に跳ね返ってきているってこと。〈心は今 何処にあるの〉って言うけど、そういう自分の〈心は今 何処にあるの〉か? 自分にも煮え切らないところがあるでしょ。質問する前に行動すればいいと思う。だって「YES-YES-YES」の方はそういう歌でしょ。「YesNo」は返事を待って行動しないけど、「YES-YES-YES」は返事を聞く前に先に行動している。俺について来いって。

父■「YES-YES-YES」は「YesNo」のアンサーソングかと思ったけど、行動原理はかなり違っているね。

娘□あたしは、どちらの男も好きじゃない。「YES-YES-YES」みたいに決めつける男も、「YesNo」みたいに女に決めさせる男も嫌。

父■「YesNo」にはシンプルな言葉が並べられているんだけど、そのせいか言葉どうしが反応しあうところがあるね。

娘□あたしも、じっくり読み直したときに思ったのがそういうこと。作詞者はパズルのように言葉を並べているんじゃないかって。〈心は今 何処にあるの〉ってまじめに聞いているようだけど、実は最初から〈今なんていったの?〉ってはぐらかしていて、何を言ってもしっかり聞いていない人なんだってことを仄めかしている。尻尾と頭がつながっている。これってパズル的な配置じゃない?「言葉にできない」についてしゃべったときも、そんなような感じを受けた。哀しくても悔しくても嬉しくても、全部〈言葉にならない〉で締めくくれるっていうところが。

父■僕も、この人が書く歌詞は、素朴な言葉をパズルのように組み合わせたものだと思う。全部の作品がそうだとは言わないけど。でもそれは僕たちの深読みから生まれたものかもしれないね。同じような言葉を使って書いているから、言葉どうしが共鳴しやすくなって、そう読めるのかもしれない。

娘□この歌にはまだ謎なところがある。〈他のこと考えて 君のことぼんやり見てた〉ってあるけど、何を考えていたのかな?〈君〉は他に好きな人がいるのかなって考えていたのかな。だとしたら質問の答えを聞く前に次の質問で頭が埋まっていたことになる。この段階では考えるばかりで、目の前にいる〈君〉の存在をしっかり感じていない。

父■この男の人は言葉にこだわっていて、〈君〉の返事は曖昧な態度や雰囲気ではなく、明瞭な言葉として聞きたいようだ。一方で、自分の気持ちを伝えることには不器用で、〈ことばがもどかしくて うまくいえないけれど 君のことばかり 気になる〉っていうんだ。たしかに、〈君を抱いていいの〉なんてぶしつけな聞き方をするのは〈ことばがもどかしくて うまくいえない〉からだろう。二者択一の質問になるのも、言葉の微妙なニュアンスを表現できないからだろう。

娘□自分だって〈うまくいえない〉のに、相手にははっきりしろって言うのね。二者択一だから答えやすいと思うのは勘違いね。どちらでもない中間はどう答えたらいいの?

父■どっちとも答えられないから〈ほらまた笑うんだね〉ということになる。言葉へのこだわりがくじかれていく。それで、だんだん言葉から存在にシフトしてくる。〈今 君の匂いがしてる〉なんて、言葉ではないものが〈君〉の存在を強烈に意識させているということだよね。両者にとって、はたして言葉は必要なのか。〈ああ そうだね 少し寒いね〉という歌詞がある。この〈ああ そうだね〉という応答は何に対してのものなのだろうか。言葉ではなく体感でコミュニケーションが成立している。

娘□歌詞の謎なところといえば、〈何もきかないで 何も なにも見ないで/君を哀しませるもの 何も なにも見ないで〉っていうところも、どういうことかよくわからない。文脈上も唐突だし。

父■僕だけを頼ってくれってことなのかな。何も見るな、何も聞くなって引き算していって、残るのはこの僕だけになる。僕は〈君〉をそれまでの環境から引き離そうとしている。

娘□〈何もきかないで〉とは言うけど、僕の言うことは聞けと。〈なにも見ないで〉とは言うけど、僕のことは見ろと。もちろん比喩としてね。

父■〈君を哀しませるもの 何も なにも見ないで〉と言ってる。僕は君を〈哀しませ〉ない、だから僕を見よ、ということが言外にあると思う。いずれにせよ、〈何もきかないで 何も なにも見ないで〉というのはちょっと強い言い方だよね。だって、それまでは〈好きになってもいいの〉なんて遠慮がちな口ぶりだったのに、ここでは、〈何も〉聞くな、〈何も〉見るなって強調してるからね。

娘□ここだけ口ぶりが変わっている。

父■もう一つの特徴は、〈何もきかないで 何も なにも見ないで〉って、〈○○ないで〉を繰り返していること。この歌は疑問文を繰り返したり、〈○○ないで〉を繰り返したり、文体に意識的だよね。実は、小田和正はこの〈○○ないで〉という言い方が好きなんだよ。

娘□あ、「YES-YES-YES」にも〈振り返らないで()手を離さないで〉ってあった。

父■〈○○ないで〉を重ねるやり方は言葉が出て来やすいということに「愛を止めないで」で気がついたんじゃないかな。小田が作詞した歌でタイトルに「ないで」がついているのは3曲ある。オフコース時代の「愛を止めないで」(1979年)、ソロになってから「勝手に寂しくならないで」(1990年)、「だからブルーにならないで」(1993年)。これらは歌詞にも〈○○ないで〉が多用されている。

 

「愛を止めないで」・・・やさしくしないで、愛を止めないで!そこから逃げないで!、甘い夜はひとりでいないで

「勝手に寂しくならないで」・・・約束させないで そんなに縛らないで、想いをめぐらさないで、電話で捜さないで、愛が醒めたと責めないで、黙らないで、勝手に空しくならないで、もう ため息つかないで、勝手にひとりにならないで、勝手に寂しくならないで

「だからブルーにならないで」・・・ブルーにならないで 哀しいカオしないで、そんなふうに思わないで、時をさかのぼらないで、もう 戻らないで、失くさないで、気分じゃないなんて 言わないで、ためらわないで、忘れないで

 

娘□なにかするたびに〈○○ないで〉ってチクチクと禁止されたり否定されたりしたら、中森明菜じゃないけど「いい加減にして」って言いたくなる。「寂しくならないで」も「ブルーにならないで」も同じような意味だけど、そう言われても無理でしょう。

父■「だからブルーにならないで」に顕著なんだけど、〈○○ないで〉は、指示的な言葉とセットになっている。〈元気を出して、強く足をけって 走り出して、笑いとばせ、もう少し 顔上げて、だから信じて〉と上からの物言いなんだ。「愛を止めないで」もそういうところがあって、〈愛を止めないで! そこから逃げないで! /すなおに涙も流せばいいから/ここへおいで! くじけた夢を すべてその手にかかえたままで〉とあって、禁止と助言がセットになっている。「YES-YES-YES」もそうだったでしょ。

娘□応援ソングで「負けないで」とか「夢をあきらめないで」とか、「ないで」形式で奮起させるのがあるけど、そういうのとは違うなあ。応援ソングは相手を励ますために叱咤しているんだけど、これは応援ではない。

父■例えば〈そんなにブルーにならないで 気分じゃないなんて 言わないで/ためらわないで その愛が 誰れかの心に届く その時まで〉という〈○○ないで〉の3連発は、否定から励ましへ転換しているよね。いずれにせよ、〈○○ないで〉という形式を重ねると相手を追い込むかたちになって息苦しいかな。でも形式があるというのは言葉が出てきやすいということだから、つい使ってしまうのかもね。ちなみに、他の人の歌で、タイトルに「ないで」が含まれるものを見ると、いくつかパターンがあって、多いのが「あきらめないで」「行かないで」「さよならと(は)言わないで」「冷たくしないで」「泣かないで」「忘れないで」といったもの。発想が類型的になっている。

 

3「愛を止めないで」

父■オフコースについて、これまでもたびたび言及してきた「愛を止めないで」(作詞、小田和正1979年)を最後に見ておこう。この歌は、歌詞に〈「眠れぬ夜」はいらない もういらない〉とあるんだけど、「眠れぬ夜」はオフコース1975年に出したシングルで、それをわざわざカギカッコつけて引用している。タイトルの引用だけで、歌詞の内容は「眠れぬ夜」に関係ないんだけどね。

オフコース「愛を止めないで」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l001a01.html

娘□それなら、なんでそんなことしたんだろう。

父■その8か月くらい前に、山口百恵の「プレイバックPart2」(作詞、阿木燿子1978年)が発売されて大ヒットしていた。その歌詞に〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉とあるんだ。これはその1年前にヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」からきている。沢田の歌の歌詞には「勝手にしやがれ」という言葉は入っていない。もともとゴダールの映画のタイトルで、映画好きな阿久悠が拝借したものだ。ただ、〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉の〈出ていくんだろ〉があることで、沢田研二の歌を出典にしていることが明確になっている。そこで僕の勝手な想像なんだけど、小田和正は、歌詞に他の歌のタイトルを引用すると不思議な味が出ることに気づいたんじゃないかな。オフコースの歌の場合は自分が作った歌だけど。

娘□ちょっと論証にはなってないけど、ふーんって思った。

父■では、歌詞の内容をみていこう。まず、外見上の特徴だけど、同じ言葉が重ねられている。〈恐れている、叩いてる、揺れ始めてる〉と語尾に〈て(い)る〉を重ねる。それとさっきみた〈ないで〉の反復。それと、〈そっとそっと〉〈いらない もういらない〉という繰り返し。これは音読する場合に効果的なやり方だね。他には、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が〉と、直前のフレーズに出てきた〈君の心〉を引き取ってすぐ繰り返すところ。

娘□技巧的なのか、意図せずそうなっただけなのか……

父■それはわからないけど。

娘□じゃあ、次はあたしの感想を言わせてもらうね。まず「愛を止めないで」っていうタイトルなんだけど、これ、日本語として舌足らずな感じがする。愛する気持ちを止めないでってことなんだろうけど。

父■winkの「愛が止まらない」(1988年)っていうヒット曲もあるよ(笑)。「止める/止まる」は他動詞/自動詞っていう違いがあるけれど、共通しているのは、愛という精神的なものを客体化して、操作する対象として扱っていることだね。日本語としてはこなれていない。ポエムを書く時に使うくらい。愛の客体化といえば、「時に愛は」(作詞、小田和正1980年)のほうがすすんでいて、〈時に愛は力つきて 崩れ落ちてゆくようにみえても/愛はやがてふたりを やさしく抱いてゆく〉と擬人化されている。「愛を止めないで」を擬人化して言えば「愛よ止まらないで」になる。

娘□なんでそんなふうに愛を生き物みたいに言うの?

父■人を愛したときって、その気持をおさえようと思ってもおさえきれなかったり、逆に、あっというまに冷めてしまったりする。自分の気持ちなのに自分の思うようにいかない。しかも愛は二人の関係によって成り立っているものだから、余計当人どうしの思惑からずれてしまう。まるでそれ自体が意思をもった生き物みたいに。

娘□はぁー、今後の参考にさせてもらいます。次にいくね。歌詞の最初に〈「やさしくしないで」君はあれから/新しい別れを恐れている〉とあるんだけど、この〈新しい別れ〉っていうのも気になる言い方なのよね。そんな言い方する? ネットでも用例がほとんど見つからない。この歌が出て40年経っているのに用例がないということは、〈新しい別れ〉という言い方は受け入れられなかったということになる。

父■過去の別れの経験がまだ心の傷として残っていて、それが癒えないうちにまた別れるのは怖いということだろう。〈新しい別れ〉というのは斬新な言い方ではあるけど、かといって他の言い方も思いつかない。

娘□この歌の二人って、そもそもまだ正式につきあっている感じでもないのに、つきあう前から別れる心配を先取りしているのね。

父■なるほど、それならこれは〈新しい別れ〉というより「新しい出会い」だね。新しい出会いを恐れている。これなら日本語としてすっきりするし意味もわかりやすい。もちろんこの「出会い」というのは単なる人と人が出会うことではなく、おつきあいするという意味だよ。

娘□なんで「新しい出会い」はしっくりするのに、〈新しい別れ〉はしっくりしないの?

父■「新しい」という形容詞は多くの場合、プラスの価値をもって使われる。一方、「別れ」はたいていマイナスの場面に結びついているし、「出会い」はプラスの価値と結びついている。だから〈新しい別れ〉はちぐはぐな印象になるんじゃないかな。

娘□なるほどね。じゃあ、冒頭に戻ります。この歌が〈やさしくしないで〉って始まるところはいいと思うの。なんの前置きもなくいきなり〈やさしくしないで〉って言われると、聞き手は「どういうこと?」って引き込まれる。だって普通はやさしくしてほしいもの。やさしくされてあなたのことが好きになっちゃうと困るから、私に〈やさしくしないで〉っていうことでしょ。それでそうやって心を閉ざしている女の人にアプローチしてくる人がいて、それを〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という隠喩で表現している。〈心の扉を叩〉くっていうのはよくある表現だけど、この歌にある別の言い方では〈やさしく〉するということね。〈やさしく〉するのが〈君の心の扉を叩〉いていることになる。だから〈やさしくしないで〉というのは私の〈心の扉を叩〉かないでということ。私は誰とも関わらず閉じこもっていたいから。でも諦めずに〈心の扉を叩〉き続けたから、私も変わりはじめた。〈やさしく〉接したのが功を奏した。ここらへんまでは素直に理解できる。問題はここから先。

父■ほう、なんだろう?

娘□比喩の一貫性ということなんだけど、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉のあとに〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉と続くでしょ。この組み合わせがちぐはぐなのよね。〈愛を止めないで!〉というのは、〈愛〉を運動としてとらえ、それは今動いているということでしょ。止めるなという言葉は、動いているものにたいして言うよね。『カメラを止めるな!』って映画があったけど、あれはカメラを動かし続けろってことよね。

父■映画で叙述トリックを使ったものだった。

娘□何が言いたいかというと、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という比喩で、〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉というのは止まっていた心が動き出したということでしょ。〈君の心〉を心臓マッサージのようにほぐしていったら、〈君の心〉が蘇生したってことだと思う。閉ざされた〈扉〉を開きそうな気配が〈扉〉のむこうから伝わってきた。〈君の心〉は、〈ぼく〉がはたらきかけるまで仮死状態にあった、自分の部屋に閉じこもっていた、運動を停止していたわけ。心の動きは愛の前提。〈君の心〉が活動を再開して愛という運動が再びはじまる。

父■あー、わかった。こう言いたいんだな。〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉ということは、〈揺れ始め〉る前は、〈君の心〉はほとんど活動を停止していたということ。つまり愛も止まっていた。愛はすでに動きを止めていたのに、それに対して〈止めないで!〉と呼びかけるのはおかしいと。

娘□そうそう。

父■論理的な整合性を求めるとそうなるかな。うーん、でもこうも考えられる。ほら、火をおこすとき、種火ができたらフーフー息を吹きかけて火を大きくしようとするみたいに、〈君の心が そっとそっと揺れ始めて〉愛も少しずつ動き出したから、その再開した運動について〈止めないで!〉と言ってるのかも。頑張れって励ましてる。「火よ消えないで!」って。

娘□えー、屁理屈っぽい!〈愛を止めないで!〉という呼びかけは、比喩の中の〈ぼくが君の心の扉を叩いてる〉しぐさに相当すると思う。だからやっぱり止まっているものについて〈止めないで!〉と言ってるのよ。

父■すでにサボっている人に「サボるな!」とも言うね。

娘□サボり続けることはその状態を継続するために絶えずサボり続けている必要があるから「サボるな!」という禁止がサボりを解除することに効果があるけど、止まっているものは何の力も必要なくただ止まっているだけだから、その状態でいるものに〈止めないで!〉って言っても、もう遅い。

父■君の理屈だと、〈そこから逃げないで!〉もおかしいということになる?

娘□うん。それって逃げようとする人を引き止めるときに言う言葉でしょ。〈君〉はどうしているかというと、この隠喩では心を閉ざしているわけだから、愛から逃げてしまった人ということになる。どこまで逃げれば完全に逃げたことになるのか、逃げるのは永遠に終わらない過程なのかということは議論はできるけど、心の動きを停止してしまったような人は、とりあえず一旦は逃げおおせて、〈そこ〉つまり葛藤のある場所とは別の場所に引きこもったということができると思う。要は、逃げようとしているのではなく、もう〈そこ〉から逃げてしまって〈そこ〉にはいない。だから〈そこから逃げないで!〉という呼びかけも〈愛を止めないで!〉と同じで、もう遅い。

父■〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉という呼びかけは、〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という比喩と齟齬があるってことか。それなら〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉はどう言い直せばいいのかな。

娘□「愛を動かせ、そこから出てこい」とかじゃない。

父■おれじゃ歌にならないよ(笑)

娘□逆に〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉というフレーズを活かしたいなら、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という比喩を変えたほうがいいかも。

父■二番の歌詞に〈なだらかな明日への坂道を駆け登って いきなり君を抱きしめよう〉ってあるじゃない。これも比喩だけど、これはどう?

娘□心を閉ざして部屋の中に閉じこもっていた人が、明るい屋外に出てきたイメージなのかな。〈坂道を駆け登〉るっていうから坂道の上のほうに〈君〉はいるのかな。坂の上って解放的な感じがする。狭い部屋とは対照的。一番の比喩と二番の比喩はちょっと飛躍はあるものの一貫したイメージの延長として理解できる。でも〈いきなり君を抱きしめよう〉っていうのは気になる。外に出てきた人がまた薄暗い部屋に戻らないように抱きしめるってことなのかな。〈君〉を部屋から引き出したのは〈ぼく〉の功績だから、〈ぼく〉には抱きしめる権利があるってこと? でも〈いきなり〉すぎない? 〈君〉の気持ちを無視して〈ぼく〉の妄想を遂行しようとしている。そもそも〈君〉は〈ぼく〉のことをどれだけ理解してるんだろう。歌詞からは二人の関係がよくわからないけど、少なくとも「恋人未満」の関係だと思う。あたしの解釈は、女の人が失恋して落ち込んでいるところに新しく言い寄ってきたのが〈ぼく〉なんだと思う。そういう恋人でもない人にいきなり抱きつかれたらびっくりする。過去の傷を癒そうと思って外に出たらセクシュアルな関係を想定していない男に抱きつかれて、またトラウマになる、なんて戯画的な事態になりそう。それまでは〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉なんてやさしく見守る感じだったのに、いきなり男くささが全開になっちゃった。女なんて抱いてやれば全部忘れるもんだ、みたいな押し付けがある。〈愛を止めないで!そこから逃げないで!〉っていうのも説教臭く聞こえてくる。この歌もマンスプレイニングソングなのかな。

父■マンスプレイニングは、言っている当人はそのことに無自覚だよね。

娘□精神科医斎藤環が『なぜ人に会うのはつらいのか』(中公新書ラクレ2022年、78-87頁)という対談で、人と会うことは暴力性をはらんでいると言っているのね。ここでの暴力というのは殴って従わせるとかということじゃなくて、「他者に対する力の行使」のこと。相手がどんなに優しい人だったとしても、会って会話をするのは相手の領域を侵犯しあう行為になる。とくに対人恐怖症ぎみの人はそれに敏感。この歌の〈君〉も心に傷を抱えている。そういう人が〈やさしくしないで〉というのは、私の領域に入ってこないでということでしょ。なのに〈ぼく〉は〈君の心の扉を叩いて〉、相手の領域に入ろうと試みている。〈ぼく〉からすれば〈君〉のためを思っての行為なんだろうけど、本来慎重であるべき。それなのに〈いきなり君を抱きしめよう〉なんて企んでいるなんて、まさに暴力。

父■そういう意味での暴力は、一律に否定できない。暴力的でなければいつまでも〈君〉は一人で心を閉ざしたままになってしまう。こじあけるのはよくないけどね。この歌の場合は、比喩の流れで解釈すれば、〈ぼく〉の呼びかけに応答して自分から外に出てきた感じかな。

娘□でも、それをいきなり抱きしめるのはやりすぎでしょ。

父■まあ〈ぼく〉の気持ちも理解してやってよ。〈ぼく〉は〈君〉が出てきてくれたんで嬉しくなって、つい抱きついちゃったんだよ。いや、そう思っちゃったんだよ。

娘□この人は〈君の人生がまっすぐにぼくの方へ〉続いていると、どういう根拠なのか思いこんでいる人だから、相手のことを思っているというより、自分中心な考えの持ち主なのよ。

父■そういうことをファンの人が聞いたら喧嘩になるよ。ネットにあったけど、普通はこういう解釈なんだから。

【愛を止めないで/オフコース】歴史に残る名曲の歌詞を解釈!ためらう相手を全て受け止める大きな愛に感動 https://otokake.com/matome/iF906Q

娘□ふうん。読んでみたけど、歌詞を素朴に理解するとこうなるってことか。そのサイトの解釈だと抱きしめることは救済だみたいなことが書いてあった。ここね。

 

「なだらかな未来への坂道を登り切ったら、いきなり君を抱きしめる。/これまでの「ぼく」から考えると少し大胆な行動にも思えます。/しかしその背景には、過去の傷から少しでも早く「君」を救い出したいという気持ちが表れています。/どこを切り取っても、「ぼく」は「君」の気持ちを第一優先として思いやっています。」

 

 えっと、〈いきなり君を抱きしめ〉ることがどうして「「君」の気持ちを第一優先として思いやってい」ることになるのか、あたしにはさっぱりわからないんだけど。

父■実は作詞した小田和正もそのあたりのこと、歌詞にでてくる男の傲慢さについては自覚的なんだよ。違う歌だけど「秋の気配」についてこう言っている。

 

いちばん好きな曲は?って、ファンクラブでアンケートをとると必ず1位になったんだよ。こんなに冷たい男なのに、どこがいいんだ?って、いっつも思ったもんね。この男の正体を、君たちはわかってないなって」

「本当に好きだったら、別れないもんね。別れるのは好き度が低下したからなんだし、もっといい相手が出てきてこっちのほうがいいなあと思ったからかもしれないんで。そういう傲慢な気持ちを横浜の風景の中に隠したのが、あの曲だったんだ。でも、書いたときは必死だったんだよ、言葉さがして。本当はそんなつもりなかったんだけど、あとで考えたらひどい男だな、と」

(小貫信昭『小田和正インタビュー たしかなこと』ソニー・マガジンズ2005年。引用はWikipedia「秋の気配」の項から孫引き)

 

娘□自分が書いた歌詞についてよくわかってる人なんだね。「冷たい男」「傲慢な気持ち」とかはなかなか言えないよ。書いた本人のほうがファンより客観的に見れている。聞き手は、曲のきれいさに引きずられて、そこまで深読みできないのかもね。だから歌詞を歌から切り離して、それを書かれた言葉として解釈することに意味が出てくる。

父■ファンは、たとえ違和感があったとしても批判的に語ることに遠慮があるだろうし、そもそも「そんなこまかいことは気にならない」タイプの人たちなのかもしれない。

娘□お父さんやあたしみたいに歌詞の細部にこだわる人間のほうが異常なのよ。9割9分の人は聞き流しているわよ。歌詞を丁寧に読む人でも、さっきのサイトみたいに微妙なところは適当に辻褄をあわせちゃうでしょうし。

父■比喩といえば、さっきもちょっと出てきたけど、この歌には印象的な歌詞があるじゃない。〈君の人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐにぼくの方へ〉っていうところ。最後は、それを反転して〈ぼくの人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐに〉と結ばれている。図解的にわかりやすいよね。ここが好きだっていう人は多いと思う。

娘□あたし、他人に「あなたの人生は二つに分かれてます」って言われたら頭にくる。あたしの人生お見通しみたいなこと言わないでって。しかも〈そのひとつがまっすぐにぼくの方へ〉って傲慢でしょ。占い師か!って。「あなたの人生は二つに分かれてます。一つは天国に続く道、もう一つは地獄へ続く道。天国に続く道はぼくの方です」みたいな。

父■うーん、この歌で一番感動してもらう部分なんだけどなあ……

娘□二つに分かれていて、どっちにするんだって〈君〉に選択させているのよ。「YesNo」も〈君を抱いていいの〉ってイエスかノーを選択させる歌だったけど、「愛を止めないで」も選択を迫る歌。それが「YES-YES-YES」になると〈僕のゆくところへ/あなたを連れてゆくよ〉、返事はイエスだよねって有無を言わせぬ強引さになる。選択できたほうが主体性を認められているぶんまだよかったのかとすら思う。

父■「愛を止めないで」は〈ぼくの方へ〉来てほしいから〈ここへおいで!〉と誘っているんだよね。しかも〈ここへおいで!くじけた夢を すべてその手にかかえたままで〉ってワケありの人を引き受ける気前良さがある。

娘□ホ、ホ、ホタルこい、こっちの水は甘いぞって、自分のほうに誘ってるわけね。〈ここへおいで!〉って言うけど、自分のほうから行こうとはしないのかな?「YES-YES-YES」みたいな強引さではなく。

父■過去を乗り越えるには自分で未来を選択しなければならないってことを言いたいんじゃないのかな? 「自分のほうから」ということでは、選択してもらう前に〈いきなり〉抱きしめちゃってるよね、強引にも。でも〈抱きしめよう〉だから未遂かもしれない。

娘□この歌をぼんやり聞いていると、〈まっすぐにぼくの方へ〉とあるから、将来二人は一緒になるような期待をさせるけど、〈ふたつに分れてる〉わけだから、〈君〉の選択次第でどうなるかまだわからない。〈ぼく〉としては〈ここへおいで!〉と誘い、〈くじけた夢を すべてその手にかかえたままで〉来なさい、それも引き受けるよと破格の条件を示しているんだけど、あくまで〈ぼく〉を選べ、全てはそのあとだということでしょ。そういうところに〈ぼく〉のプライドを感じるな。〈君〉という傷ついた人に対しても自分のプライドを優先する。

父■微妙なところをついてくるね。厳しいなあ。じゃあ、〈ぼくの人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐに〉って、〈ぼく〉も選択をすることになってるのはどうなの?

娘□〈ぼく〉のほうから反転させた視点ね。〈君の人生がふたつに分れてる〉の〈君〉を〈ぼく〉に入れ替えたら面白いと思って付け足したんじゃないかな。「言葉にできない」で、〈哀しくて 言葉にできない〉を〈嬉しくて 言葉にできない〉に置き換えても成り立つと思ったのと同じように。〈君の人生〉〈ぼくの人生〉という場合、順番が重要なのよね。先に〈君〉の選択が置かれている。〈ぼく〉は「あとだしじゃんけん」のように〈君〉のあとに選択する。〈そのひとつがまっすぐに〉といい差しになっているのも気になる。

父■言わなくてもわかるから言わないんじゃないのかな。〈ぼくの人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐに〉のあとは、当然、君の方へ続いてるってことじゃないかな。

娘□そう思わせておいて言わない。あたしにはそれがズルいなって思う。自分のことになると、言うまでもないじゃんって曖昧にするところが。選択の順番ということでは、これは〈君〉がまだ選択をしてないので、〈ぼく〉と〈君〉のルートが明瞭になっていないということを言っているようにも思える。〈君〉が〈ぼくの方〉を選択してくれたら〈ぼくの人生〉もまっすぐに君の方へつながる道ができる。でも自分から〈君〉への道は作らない。相手が態度をはっきりしないうちは自分も曖昧にしておく。問題はさらにあって、仮に君の方へつながる道ができたとしても、まだ〈ぼく〉にはもう一つの分かれ道が残されているということ。〈君〉に選ばれたあとも、まだ〈ぼくの人生〉は〈ふたつに分かれてる〉のよ。その分岐って必要? 相手に〈ここへおいで!〉って誘うなら、〈ぼくの人生〉は〈君〉への道一本じゃね? まだ分岐を残しておく理由はある? だから歌詞はいさぎよくこうあるべきね。「ぼくの人生がひとつに続いてる その先はまっすぐに君の方へ」

父■だけど、もし〈君〉が〈ぼく〉を選ばなかったらどうするの?

娘□馬脚をあらわしたわね。選ばれなかった場合を想定して保険をかけておくなんて。〈ぼく〉が自分の人生について言う場合、それが〈ふたつに分かれてる〉というのは「逃げ」なのよ。〈そこから逃げないで〉という人が、自分に関しては巧妙に逃げ道を用意している。

父■〈君の人生がふたつに分れてる〉という文を下敷きにして書いてしまったから陥った誤りのようにも思うけど、君の個人的な解釈としては面白いね。