Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

振り上げた握りこぶしはグーのまま振り上げておけ相手はパーだ(枡野浩一)

 25年ほど前に書かれた短歌だが、今ふうにも解釈できる内容である。SNSクソリプに腹を立てて、つい返信してしまいそうになるとき、「こんなアホを相手にしてもしょうがない」と、「振り上げた握りこぶし」を振り下ろすのをやめるときの心境とそっくりである。

 

 以下、私の読みを記す。

 この歌は、言語の遊戯性を楽しむ歌であり、おしまいの一語でものの見え方がガラリと変わる。激しい感情が発露されそうな場面が、別のルールを持ったジャンケンゲームの場へと読み変えられ、緊迫感が脱臼される。

 変化してゆく様子を少し丁寧に見てみる。まず「握りこぶし」という言い方である。これは、握られた手の形を描写したものである。人が「握りこぶし」をつくるのは相手を殴るときだけではない。身体に力がはいるときはつい「握りこぶし」をつくる。その意味で「握りこぶし」じたいに暴力的な価値が内在するわけではない。この歌で「握りこぶし」が相手を殴るためのそれであると思わせているのは「振り上げた」という動作がつけられていることによる。振り上げる動作は継続して振り下ろす動作を想定させるからだ。振り下ろすために振り上げたのである。振り上げる動作には振り下ろす動作が潜在している。

 歌は「握りこぶしはグーのまま」とある。ここで読み手は多少の違和感を感じはじめる。小説でいえば伏線である。どこに違和感があるかというと、「握りこぶし」のすぐあとにトートロジーのように「グーのまま」と付け加えられていることにある。手の状態としては全く同じなのに、あえて言い換えをしている。そこにチラッと作為的なものを感じはするが、この段階ではまだ意図がわからない。わからないままここで「握りこぶし」と「グー」が併存することになる。そして最後に「パー」とあることによって併置されていた「グー」のほうに力点が移り、認識の枠組がジャンケンに移行する。違和感として存在した伏線がここで回収される。「握りこぶし」と「グー」が併存していた段階で、暴力的な場面の裏にジャンケンというゲームの世界が滑り込まされていたことがわかる。

 こうやって見てみると、既に「握りこぶし」といういささか古めかしい言い方がされていた時点で、ジャンケンへの移行のたくらみ=兆候が隠されていたことがわかる。「握りこぶし」は、複数の意味をほのめかすことができるあわいに位置する言葉として使われていたのだ。

「握りこぶし」を「グー」と言い直すことは、状況の見立てを暴力からジャンケンゲームに移行させることである。それに伴い、他の言葉も意味が変容する。この歌では「振り上げ」るという動詞も繰り返されるが、短歌のように短い形式で何かを語る場合、同じ言葉を繰り返すことは情報量が減少してしまうので通常は避けるはずである。にもかかわらずそれをやるのは、そうする理由があるからである。この冗長性(繰り返し)は、重層したレイヤーを生み出すためのものである。

 はじめの「振り上げた」は「握りこぶし」について言っている。次の「振り上げておけ」はジャンケンの「グー」について言っているものである。それぞれ異なる見立ての身体動作である。「振り上げ」るという言葉の反復が、世界の見え方が二重になっていることを、より印象強く読み手に与えている。この短歌に流れる時間は直線的に進むというよりは、「グー」の直前で切断され、二度目の「振り上げ」るは、最初の「振り上げ」るの位置に重ねられる。枡野は「短歌は一行書きにせよ」とどこかで書いていたが、この短歌を図像的に書けば二行の分かち書きになる。

 

       振り上げた握りこぶしは

 グーのまま 振り上げておけ相手はパーだ

 

 このように、一つの動作を二重像で描いている。改行は認識の遅延(ズレ)を表現している。

 相手を殴るための「こぶし」がただのジャンケンの記号(グー)へと無害化されてしまったわけだが、そうなったのはおそらく語り手自身がそうしたかったからである。語り手も「こぶし」を「振り上げた」まではよかったが(つい勢いでそうしてしまったのだろう)、そのあと、この場をどう収めればよいかわからなくなってしまったのだ。自分も本当は「こぶし」を振り下ろしたくない。だから振り下ろさないで済むようにこの状況をジャンケンに見立て、認識の枠組をスライドさせたのである。先にも述べたように、振り上げる動作は振り下ろす動作とセットである。振り上げたままでは動作が完結しない。それを完結させるには、その動作を違う意味の仕草へとずらすしかない。

(中学校のとき、授業でみんなが手を挙げるので、勉強のできない私の友人もおそるおそる手を挙げたところ、先生に指名されてしまった。彼は「頭を掻いてました」と釈明した。また別のときは「袖を直してました」と言った。)

 この状況がジャンケンだとすると、相手がパーを出しているので、こちらがグーをだせば負けてしまう。だからグーの手を振り下ろせない。ここで、「振り下ろせない→振り下ろさない」という選択肢を、論理的なものとして得ることができた。もちろん相手が実際にパーをだしていたのではない。語呂合わせによって作られた二重性である。自身の認識のなかでのみ完結する論理(見立て)であり、相手と共同の認識ではない。

「振り上げた握りこぶし」を振り下ろしたくないので、そのことの論理的な理由が得られたところまではよかった。しかし、ここで、金縛りのようなジレンマに追い込まれてしまった。相手をパーとみなしたことによって、「アホなやつにお灸をすえる」という衝動性(振り上げた握りこぶし)に加え、「アホを相手にしても仕方ない」という客観性(グーのまま振り上げておけ)が生じた。実は、短歌で(直接的に)歌われているのはここまでである。短歌で描かれた状況の、その先がなければならない。それは「こぶし」は振り上げたままなので、それをどうすればよいかという問題である。このままでは、「振り上げた」腕が疲れても振り下ろすこともできない。腕を下ろすには、そこからさらに進む必要がある。それには自分の行為の中断を表明するしかない。つまりなんの理由であれ、その行為が完遂できず失敗したこと(=負け)を認めることである。

 振り上げたこぶしを下ろすのは、中途半端なみっともなさが残る。たとえ「負けるが勝ち」などと、大人ぶった余裕を見せてもごまかせない。だが、同じ負けるにしても、その意味づけによって受容しやすさは異なる。暴力的な場面からの逃避(男性性の敗北)ではなく、遊戯のルールにしたがったもの(論理的な帰結)であれば、自らを諭して受け入れやすい。

 この場合は、負けたと言ってもジャンケンに負けた(とみなした)だけであるから、プライドは傷つかない。ジャンケンに意味の場を移行させたのはそのためである。ジャンケンというのは、その勝敗に自分の実存が左右されずに結果の強制がともなう極めて簡易な行為である。勝っても負けても行為は泡のように消え、結果だけが残る。勝敗じたいに重みはないから、結果を受け入れやすい。こだわりを発揮する場面ではない。漫画風に言えば、「バカを相手にしても仕方ない」という態度で、軽く「ふっ」と笑って、「負けるが勝ち」を受け入れるところだ。ただ、その意味は相手にはわからない。ジャンケンの見立てを共有しない相手は、なぜこちらが動作を途中でやめたかわからない。

 この短歌は、さらに深読みをいざなう。そもそも本当に相手は「パー」なのか、自分でそう思いたいだけではないか、というのも読み方次第である。「パー」は、あるいは「愚」を装った「大愚」かもしれない。また、ジャンケンのパーが勝ちの意味を持つのは、グーを包み込むからであるが、相手をパーとみなすことは、相手の方が包摂性を持っているということ、自分のグーは開かれない頑なさを象徴しているともとれる。ジャンケンに見立てた時点で、お互いの本質をはからずも見抜いていたのかもしれない。

 もしジャンケンの論理で勝とうと思えば、パーにたいしてチョキを出すしかない。チョキの手の形をよく見ると、それはピースサインになっている。つまり戦いは終わり、平和にやろうよということになる。パーの相手には暴力(グー)ではどうしても勝てない仕組みになっているのだ。

 

 この歌ではジャンケンは見立てに用いられているが、実はこの歌を知ったあとでは、ジャンケンをするときにこの歌が脳裏をかすめて、なんだかジャンケンにさえ悲しみを感じるようになるかもしれない。