Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

SMAP「世界に一つだけの花」と多様性

都内某大学、文学部国文学科、仲良し女子大生2人のお昼休みの会話

つむぎ あたしお花屋さんでバイトはじめたの。それでそのお店でよく流しているBGMがSMAPの「世界に一つだけの花」(作詞、槇原敬之、2002年)なんだよね

 

アオイ うわ。〈花屋の店先に並んだ〉っていう歌でしょ。そのまんまじゃん

 

つむぎ 店長は男の人だけど、〈NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one〉という歌詞が好きみたいで、バイトのあたしたちにもよく言うの

 

アオイ この子たちは〈NO.1〉になれそうもないって思われてるのかな

 

つむぎ 店長は30歳くらいだから、ゆとり世代真っ只中

 

アオイ その歌詞はよく引用されるよね。でもこの歌はいろんなランキングで何位になったとか言われて、それを騒ぎ立てるのは、〈NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one〉という考えと反するんじゃない? 順位付けから離れたところで価値を見出そうとしてる歌なんだから

 

つむぎ 言われてみればそうかも

 

アオイ そもそもこの歌って矛盾してることを言ってるよね

 

つむぎ 矛盾? わかりやすい歌じゃない? 花屋さんにはいろんなお花が置いてあって、どれがいいか比べられない、それぞれきれいでオッケーじゃん、という歌でしょ

 

アオイ その「比べる」っていうのがこの歌のキーワードよね。比べるから順位がつけられて、上下が生じる

 

つむぎ だから、人間は〈比べたがる〉けど、花は〈この中で誰が一番だなんて 争うこともしない〉って言ってるのよね

 

アオイ そこは擬人法で、〈花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた〉っていう語り手の視点からそう言ってるわけでしょ。花はお互い争っているようには見えないってことを擬人法で言っている。でもそうなの? 花だって植物なりの生存競争をしているわけで、きれいに見えるのはそれによって昆虫をひきつけたりしているためでしょ。人間によって交配させられてきれいなものが選択されているってこともあるし。人間にきれいに見えるっていうのは競争の副産物みたいなもので、きれいであること自体を争っているわけではないにしても、競争原理ははたらいている

 

つむぎ まあ人間目線で花の価値を判断してるのはそのとおりね。昆虫にとっての魅力と、人間の審美眼がたまたま一致したものについて、〈きれい〉という、ありもしない争い事のフレームをあてはめている

 

アオイ 〈バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている〉っていうのは擬人化しすぎだと思う。水と栄養が足りているので〈しゃんと〉しているわけで、自尊心があって〈胸を張っている〉わけではない

 

つむぎ この歌はアレゴリーだよね。人間関係を花に置き換えている。アレゴリーの場合、対象の特徴すべてが比喩になるのではなく、語り手の主張に見合ったところだけが抽出される。〈しゃんと胸を張っている〉という見立てはそれはそれで面白いと思う

 

アオイ 〈しゃんと〉って姿勢がいいって意味でしょ。背筋がまっすぐ伸びているっていうときに使うけど、〈しゃんと胸を張っている〉って微妙にずれた使い方よね。〈胸を張〉るというのは自信に満ちていることで、それは姿勢がいいこととはまた別

 

つむぎ アオイ、細かすぎる~

 

アオイ そういうことが気になる性格なの。だってこれが用例になって広がるかもしれないじゃない。ちょっと待ってね。歌詞検索してみると〈しゃんと胸張〉るという歌詞は、この歌の他に9曲あったわ。一方、〈しゃんと〉と〈背筋(背中)〉の組み合わせは17曲。歌の世界ではまだ正統派が勝っているみたい。でも〈しゃんと胸張〉る派も勢いを増してきている

 

つむぎ 国立国語研究所かよ!

 

アオイ えーと『擬音語・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社学術文庫、2015年)には「女はしゃんと座って胸を張った」っていう用例が出てる。川端康成の『雪国』。これをみると、二つの動作が組み合わさっている。しゃんとすることと、胸を張ること。ということは、この二つはやはり別々の姿勢っていうことじゃない?

 

つむぎ 背筋を伸ばして〈しゃんと〉座ってから〈胸を張っ〉たのなら連続する二つの動作だけど、しゃんと座ることが結果的に胸を張ることにもなっているのなら一つの動作よね

 

アオイ 動作としては一つだとしても姿勢としては別々の観点によるものよね。だから〈しゃんと胸張〉るは間違いとまでは言わないけど、省略しすぎると思う

 

つむぎ わかった、わかった、わかりました

 

アオイ 比べる話に戻すわね。〈この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで〉ってあるけど、これはミスリードだと思うな。たしかに花屋という〈この中で〉はそうかもしれない。でも、花屋というマーケットの一端に並んでいる時点で、その花はすでに選ばれた花になっている。まず、売れる品種が選ばれている。その中で、花びらが汚れていたり、茎が曲がっていたり、育ちの良くないもの、背が飛び出たもの、小さすぎるものは園芸ハウスに捨て置かれている。基準を満たさないものは捨てられる。その結果、花屋にある花はきれいなものばかりになっている。売り物になるものが選ばれて出荷された結果そうなる。テレビに出ている女優さんがみんなきれいなのと同じ。〈この中で〉ではなく、「その外で」激しい競争がおこなわれている

 

つむぎ 〈この中で〉っていうのは花屋に並んでいる花の中では争われていないということで、「その外で」というのは花屋に置かれるようになるまでに激しい競争がおこなわれているということね

 

アオイ 〈この中で〉では、花屋にある、たとえばバラとユリがどちらがきれいかということは比較できないでしょ。好き嫌いや用途があるだけで。母の日にカーネーションを贈るとか、誕生日にバラを贈るとか。きれいだからといってお供えにバラは飾らない。一方、「その外で」という、花屋に搬入される前の段階で、同種のものの中で選別がおこなわれている。同種のもののあいだでは比較され、優劣がつけられる。同種のもののなから優れたものが花屋に置かれ、異なる種類のものが集められた花屋ではお互いが競い合わない。同種のレベルでは比べられる。異なる種のレベルでは比べられない

 

つむぎ それって金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」よね。この詩の「みんなちがってみんないい」という一節は、多様性を尊重する文脈でしばしば引用されることがあるけど、ちょっと極端だなと思った。私は小鳥のように空を飛べないけど速く走れる、小鳥は速く走れないけど空を飛べる、私は鈴のようにきれいな音は出せないけどたくさん歌を知っている、鈴はたくさん歌は知らないけどきれいな音をだせる。だから「鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。」って言うのね。たしかに金子みすゞの詩には、自分ができないことをできるから他者はすばらしいというふうに書かれているけど、鈴と小鳥と私って異質すぎて比較できないでしょ。本来比較しようと思わない。「世界に一つだけの花」の花も種類が違えばきれいという基準では比較できないけど、みすゞの詩はそれをもっと極端なかたちで示している

 

アオイ 「私と小鳥」、「私と鈴」は比較してどっちもどっちと言うけど、「小鳥と鈴」は比較しないのよね。それは中心にあるのは「私だからじゃない? 「みんなちがって」と「みんないい」のあいだには飛躍があるよ。鈴にはいい音を出せるっていうこと以外に他に「いい」ところはないでしょ。「いい」ところが少なすぎる。一方、人間は人新世っていうくらい他に与える影響力が大きい。同じレベルでは語れない

 

つむぎ 金子みすゞの詩は弱者に目を向けているのね。鈴も小鳥もふだん見向きもされない小さいものでしょ。そういう小さいものに目を向けることで、人間中心主義をわかりやすいかたちで批判してる。たしかにちょっと強引だけど。「私」が中心になるのは、人間中心主義を相対化するため

 

アオイ 鈴なんてきれいな音をだすっていうけど、そもそも人間に作られたものだけどね。そういう造物主があるものと並べるのはどうかな

 

つむぎ みすゞがこの詩で言いたいのは、人間全般のことというより、本当は自分のことかもしれない。小鳥や鈴も自分の分身なんじゃないかな。みすゞの「光の籠」という詩では「私はいまね、小鳥なの。」と書いているし、自分の名前のなかに鈴は入っているでしょ。小鳥も鈴も「私」の一つの側面。「私」は小さいものの一員。自分で「私」のことを「いい」とは言いにくいから、「みんな」の中に「私」を隠して、「みんないい」と言ってるんだと思う

 

アオイ 金子みすゞの詩では、それぞれ異なる能力において優れているから「みんなちがって、みんないい」って言うんだけど、なんであれ能力をモノサシにしてしまったら、その能力の中では比較ができてしまうよね

 

つむぎ だからモノサシを増やすために、学校には音楽や美術や体育の授業があるのね。数学や理科や英語だけだったらテストの点数で順位付けされてしまうけど、音楽や体育という別のモノサシがあれば、それぞれの尺度で評価ができる。同じクラスにはいろんな人がいる。勉強ができる人、足が早い人、絵がうまい人、リーダー格の人、話がうまい人、容姿がすぐれた人など、様々な得意分野がある。その違いが個性でしょ。学校の中心的な価値観は勉強ができることなのははっきりしている。全員を一つのモノサシで計るから激しい競争が生じる。芸術や体育という科目は、勉強一本槍の価値観からこぼれ落ちる人を救済する機能もはたしている

 

アオイ 個性ってニッチってことよね。ニッチに分かれることで競争を避ける。でも、少数のグループならキャラ化することで競争を避けられるけど、クラス、学年と集団が大きくなるにつれ、同じ分野の人が増え、その中で競争がはじまる。だいたい、いつまでも小さなグループにいるだけでは満足できないと思うし、自分と同じ興味関心がある人を探すようになる。切磋琢磨がないと伸びない。違うからいいってわけではない

 

つむぎ 複数の能力をもっている場合もあるね。頭はいいしスポーツもできるしハンサムだしお金持ちだしとすべての点で勝っている人と、逆に何も自慢できるものがない人もいる

 

アオイ 「世界に一つだけの花」のモノサシは〈きれい〉という一つの尺度だけだけど、競争はおこらないとされている。勉強はテストの点数によって序列をつけることが簡単にできる。でも〈きれい〉は数量化できない。できるかもしれないけど要素が複雑すぎる。だから比較しにくい。本当はテストの成績もいろんなものをいっしょくたにして無理やり数値化したものだけど

 

つむぎ 足の速さみたいな単純なものなら比較しやすくない?

 

アオイ 100mで速い人もいればマラソンで速い人もいるよ

 

つむぎ じゃあ、絵がうまいっていうのは?

 

アオイ 油絵がうまいのとマンガがうまいのは別の才能だよ。抽象画と写実画もどっちがうまいかなんて比べられない

 

つむぎ 同じように〈きれい〉というのもかなり漠然とした概念で、それを尺度にして判断するのは難しそう。花の種類が違う場合は、どういう〈きれい〉さを扱うのか、決めてもらわなければいけない。一つ一つが大きくてはっきりした花もあれば、小ぶりな花がまとまってきれいさを感じさせる花もある。〈この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで〉ってあるけど、花も種類が違えば形や色も全然違うので争わない

 

アオイ 〈それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?〉って言ってるじゃない。〈比べたがる〉のは似ているからよね。少しの違いがあるから、どっちが優れているのかって競争になる。ライバル関係ってそうでしょ。かけはなれていたら競争しようなんて思わない。足の速さを比べるにしても、人間と馬は競争しないよね。人間は、馬に負けたからといって悔しがったりしない。人間と馬は違いすぎるので比べられない。競争する相手が自分と同じくらいの能力だと思わなければ比べようと思わない。花の種類の違いって、同じ哺乳類の人間と馬の違いくらい大きくない?

 

つむぎ 桜の花とチューリップの花はそのくらい違うかも

 

アオイ 花の種類が違うのと、同じ種類の花のなかで個体が違うのとでは注目しているレベル(次元)が異なる。この歌はそこが錯綜していると思う。花の方は種類の違いを言っているのに、人間の方は個体の違いを言っている。さっきも言ったけど、花も同じ種類の中では比べられていて、できの悪いのは花屋の店先に並ばない。〈花屋の店先に並んだ〉というだけで、すでに比べられたあとの状態を見ていることになる

 

つむぎ 似ているから比べるというのはわかる。でも似ていると、どっちが優れているか比べたくなるのはなんでなのかな。私たち似ているね、嬉しいね、でいいじゃん。そこに優劣つけなくても

 

アオイ それは自分のことを知りたいからじゃないかな。人と比べることで、あ、自分はこんなことができるんだってわかる。自分のことって自分の内側だけを見ていてもよくわからない。他の人という外側と比較してみることでわかるようになる。〈そうさ 僕らは 世界に一つだけの花/一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい〉って言うけど、〈その花〉っていうのがどういう花なのか、自分だけではわからないってこと。〈一人一人違う〉っていうけど、どう違うのかは比較してはじめてわかることでしょ。人は単独で存在してるんじゃない。他の人との関係によって自分という輪郭を持っている。「自分らしさ」は他の人とどう違うかということ。それがわからなければ、どういうふうに〈一生懸命になればいい〉かもわからない。むしろ似ている人と競い合ったほうが〈一生懸命になれ〉る

 

つむぎ この歌の〈一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?〉っていうのは、競争のしすぎってことじゃない?

 

アオイ 〈一番になりたがる〉というのはかなり競争心が強い人に限られるけど、これは〈NO.1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one〉っていうフレーズを導き出すためにそう言ってるんだと思う。〈一番になりたがる〉のは競争心が強い特殊な人だけど、だからといって〈比べたがる〉ことまで否定することはない。比べることが、いつのまにか一番を目指すことになってしまっている

 

つむぎ 人間は工業製品みたいな規格品じゃないから〈一人一人違う〉のは当然。規格通りの工業製品だったら、逆にその一つ一つがどれがいいなんて比べられることもないから皮肉よね。〈一人一人違う〉と言う時点で、比較の観点が入り込んでいる

 

アオイ 一人ひとりに人権があり、個人として尊重されるっていう近代の原則があって、個人どうしの競争はそこから必然的に生まれざるをえない。封建社会のように集団の中に埋没していたり、身分制や親族組織の中で役割があてがわれていれば個人間の競争はおこらなかった。〈一人一人違う〉と言いつつ、比べるなというのは原理的に無理な話。っていうか、〈一人一人違う〉っていうのは存在のレベルではそうなんだけど、個性として言うなら、他の人との関係によって個性というのは析出してくるものだから、比べてはいけないというのであれば、〈一人一人〉の違いも消えてしまう。他人と比べるなというのは、ある状況では批判性をもっているけれど、万能ではない。他人と比べるなというのは他者に無関心になることと裏腹の危うさも抱えている

 

つむぎ この歌を書いた人は、その競争が激しすぎてセルフ・エスティームが損なわれているから、こういうことを書いたのね。でも逆に、平等であることに気を使いすぎて、目立たないようにお互いの顔を見合わせてばかりいるというのも相当息苦しい。比べつつも、いちいち優劣をつけないっていうことはできるのかな。それがキャラ化による差異化なのか

 

アオイ この歌はいっけん存在のレベルで〈もともと特別なOnly one〉って肯定してくれている歌のように思えるけど、歌詞をよく見ると〈頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね〉ってあるんだよね。つまり頑張りは否定していない。たんに〈一人一人違う種を持つ〉からそれが咲けばいいというのではない。頑張ってきれいに咲けというわけ。そうでないと選ばれないと。〈どれも きれい〉というのは、きれいさという基準はそのままで、自分なりのきれいさが実現されているということ

 

つむぎ 比喩だとしても、きれいさってルッキズム的な視点で一番比較されやすい基準じゃない? その基準に沿って頑張れということね

 

アオイ 〈一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい〉、〈頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね〉という二つの歌詞で言っていることは〈一生懸命になれ〉〈頑張って咲〉けということで、そうでないと〈きれい〉な花にはならないということ。〈一人一人違う〉花というのは存在のレベルであって、〈きれい〉さはもっと上の基準になっている

 

つむぎ えー、やっぱり頑張らないとダメなのか。でも頑張るとしたら、お互い励みになるような相手がいたほうが、頑張る方向性がはっきりしてやりやすい

 

アオイ 頑張るのはいいとして、〈一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに〉っていう言い方はひっかかる。これはあくまで花の比喩と言ってしまえばそれまでなんだけど、〈種〉が〈花〉になるっていうほど人間は単純ではないよね。これだと「自分らしさ」という実体が生まれたときからあって、それがそのまま開花するっていう話なんだけど、自分って関係主義的に決まってくるものだから、〈種〉が〈花〉になるという比喩では、変化が考慮されていない。他の人と関わることで変化していくはずだけど、これは自分一人で、自力で、生まれたときからすでに決まっている花を咲かせるみたいなことになっている

 

つむぎ 〈もともと特別なOnly one〉の〈もともと特別〉っていう言い方も〈種〉っぽい

 

アオイ みんながみんな〈特別〉だっていうなら〈特別〉の意味がない。根拠のない特別感を植え付けそう。まあ、こういう強烈なアンチを言わなければならないほど競争過多だってことかもしれないけど

 

つむぎ あたしこの歌で気になるのが「見ている人」なの。花屋の店先で花を見ているでしょ。そして買い物をしている人を〈困ったように笑いながら ずっと迷ってる人がいる〉って観察しているでしょ。そうして〈一人一人違う〉から〈その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい〉って訓示みたいなことを垂れるじゃない。〈僕ら人間〉はって言うから、この「見ている人」は人間なんだけど、俗世間から一歩ひいて、人間世界をすみずみまで見ている神様みたいだなって

 

アオイ 語り手の問題ね。〈僕〉イコール語り手ではないし作詞者ではないけど、この歌では人間を客観的に見ているから、〈僕〉は語り手に限りなく近いし、メッセージ性もあるから作詞者にも近い。ただ、歌の場合、語り手は作詞者なのか、歌手なのかという曖昧さがある。歌詞には〈僕ら〉とあって、歌い手であるSMAPは5人だから複数形であることが歌い手を指しているようにも思え、また歌い手をとおして人間すべてを指しているようにも聞こえる。いずれにしても、この歌は語り手が重要な位置を占めていて、語り手は客観的な観察者をよそおいつつ、実はかなり操作的な視線を向けていると思う

 

つむぎ どういうこと?

 

アオイ 今まで話した以外に、この歌はもう一つの花を描いているよね

 

つむぎ 花屋の店先に置かれた花と、買い物をしたお客さんの様子のほかに?

 

アオイ 歌詞の2番で、不意に〈あの日僕に笑顔をくれた 誰も気づかないような場所で咲いてた花〉について語り始めるでしょ。ここはそれまで積み上げてきた状況設定から逸脱している。たぶん書き手は無意識のうちに、花屋の花だけでは共感が弱いことに気づいていて、唐突とも思える仕方でこの一節を挿入したんじゃないかな

 

つむぎ たしかにつながり方が不自然ね

 

アオイ ここって全く別の観点が持ち込まれている。〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉は、花屋にあるような選別されて残された優生学的な花ではない。これを入れることで、花屋の花のように人間に管理され生育された花もあれば、路傍に咲いている花もあるという幅の広い観点に立った歌だということになる。「世界に一つだけの花」って多様性の文脈で引用されることがあるけど、花屋の花は参考にならない。むしろミスリードになる。花屋の花は〈きれい〉であることが前提だから。多様性の文脈での説得力を支えているのは〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉が入っていることによる。この花は〈名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた〉花なんだよね。書き手は別に多様性とか考えていたわけじゃないと思うけど、無意識でこういうフレーズを入れていたと思う。で、こういう視点を入れるのは、マーケットに置かれたものだけに価値があるという世俗的な考えを超越しているでしょ。そこに詩の役割がある。

つむぎ 〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉だから競争にさらされていないし、誰にも見られることはないから〈きれい〉になるという頑張りも不要。なにかができる、なにか優れたものがあるからいい、というのではなく、存在そのものが認められている。聞き手の多くが、いわば〈誰も気づかないような場所で咲いて〉いるような名もなき花だとは思う。このほうがオンリーワンっぽいね。集団の中であたしはオンリーワンだって思い続けるのは苦しいけど、集団を抜け出て競争を降りたほうが文字どおりオンリーワンになれる。若干負け犬の遠吠えみたいな感じもあるけど。その傷ついた心を癒やすために詩が必要になる

 

アオイ 花屋の花とは違う原理で咲いている花ね。誰も肥料も水もくれない。誰も手入れをしてくれない。そういうところにニッチを見出して咲いている花って、植物として生存するための条件が厳しそうね。生育に適さない岩場なのかもしれないし、他の雑草と競争しなくてはいけない場所なのかもしれない。花どうしの競争からはまぬがれているかもしれないけど、他の条件との戦いがある。なんらかの競争はある。〈あの日僕に笑顔をくれた〉のは、その花が〈きれい〉だからではなく、たくましさを感じさせたからなんじゃないかな

 

つむぎ 歌によくある、〈アスファルトに咲く花〉的な?

 

アオイ いずれにしても、ここでは〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉に気づく語り手の優れた眼差しというのも誇りにされているわね