Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

松本隆「ルビーの指環」のフェティシズム ~君僕ソング(その7)

7-1 松本隆は人称代名詞を使いたくない

娘□松本隆は人称代名詞を好まないって話をちょこっとしたでしょ。それが気になってるんだけど。

父■ああ、「詩人派」のところね。「君が」とか「僕は」だったら、まだ3文字3拍で済むけど、「わたしの」「あなたは」なんて4文字もとられてしまう。それを他の言葉に使えないかってこと。最近読んだ松本隆の本『松本隆のことばの力』(藤田久美子編、2021年、インターナショナル新書)で松本はこう言っていた。「否定形と人称代名詞は、使わないように気を付けている」として、否定形について述べたあと、こう言っている。

 

「人称代名詞も、言わないで済むのならなるべく使わないほうがきれいな日本語になる。「あなたの」と言うと、音符を四つも使う。貴重な音符を使うのだから、その四つで別なことを言いたい。詞に無駄なことばを使わないのは西洋も東洋もいっしょだが、究極は俳句だろう。」(120ページ)

 

娘□「人称代名詞も、言わないで済むのならなるべく使わないほうがきれいな日本語になる」って、人称代名詞を使わないと、どうして「きれいな日本語」になるの?

父■「きれいな日本語」って曖昧すぎるけど、「無駄なことばを使わない」ほうがいいということが言いたいらしいので、「きれいな日本語」というのは簡潔な日本語ということなんだろう。歌詞は言葉の数に制限があるから、簡潔なほうがいいというのはそのとおりだ。でもそれは、松本隆みたいに言いたいことがたくさんある人の方法論であって、言いたいことがあまりない人は、隙間を埋めるのに使える「君、僕」「あなた、私」を重宝してるんじゃないかな。歌詞を口ずさんで歌を作っていく人も、「君、僕」が多くなると思う。まず口に出てくる言葉だよね、「君が~」「僕は~」って。

娘□書きたいことがないのに歌詞を書こうと思うんだね。

父■書きたいことがない人が書いた歌詞というのも興味深いものだよ。高校生の頃聞いていたアルバムの中の曲でそういうのがあった。フォークデュオの、ふだん曲作りする人「じゃない方」の人が書いたもので、〈藁半紙 机の鉛筆と消しゴムの 無邪気で気ままな 絵踊り〉という歌詞でね。歌い方は面白いけど、歌詞からはまったく何も感じなかった。歌詞を書かなきゃいけなくなって、自分の机の上に乗っているものを見て書いたのかなと思った。小学生のとき、授業で、詩集を作るのでみんな詩を書けと言われて、そうしたら、「消しゴムくんはかわいそう 自分をすり減らしてノートをきれいにしてる」みたいな詩を書いた奴が2,3人いてね、それを思い出した。消しゴムに自分を投影してたのかな。いつも先生に叱られているような奴だった。

娘□藁半紙、机、鉛筆、消しゴムって、人間が作ったもので無機物が並んでる。それが〈無邪気で気まま〉に踊って絵を描いてるのかな。ちょっとシュールな感じがした。実験的な詩。

父■「おもちゃのチャチャチャ」ってそういう歌だよ。〈みんなすやすや ねむるころ/おもちゃは はこをとびだして/おどるおもちゃのチャチャチャ〉(「おもちゃのチャチャチャ」作詞、野坂昭如吉岡治、1962年)。

娘□言いたいことがない人が書いた歌詞って言うけど、その人に言いたいことがあるかどうかなんて、お父さんにはわからないでしょ。

父■それはそうだ。言いたい気持ちを感じ取れない歌詞、と言ったほうがいいかな。

 

7-2 「木綿のハンカチーフ」の人称代名詞と否定形

娘□松本隆は人称代名詞を使いたくないっていうことだけど、実際はどうなの?

父■うん、本当にそうなのか、代表作をいくつか見てみよう。松本隆といえば、まず太田裕美木綿のハンカチーフ」(1975年)だね。

太田裕美木綿のハンカチーフ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000516/l005d33.html

 この歌は、手紙のやり取りのように男女の心情が交互に語られている。〈恋人よ 僕は旅立つ〉と男性が語りかけ、女性が〈いいえ あなた私は 欲しいものはないのよ〉と受ける。歌詞では「あなた、私、君、僕」が多用されている。登場人物が二人きりとはいえ、語り手がめまぐるしく入れ替わるので、誰が誰に向けて言っているのかはっきりさせるためだろう。歌の言葉は耳に入ってすぐ消えていくので、要所に「君僕」をはさまないと聞き手が理解しにくい。この歌を、書かれた詩として読んだ場合は、文脈で理解できて省略できる人称代名詞はいくつもある。

娘□結構技巧的に構築されている歌よね。4番まである長い歌詞だけど、3回とも女性は〈いいえ〉で受けている。他にも〈欲しいものはない、染まらないで、逢えないが 泣かないで、きらめくはずない、口紅もつけない、ぼくは帰れない〉とあって、〈ない〉が多用されている。あれ? 否定形は使わないとも言っていたんじゃなかったっけ?

父■先のインタビューでは「否定形を使うと書きやすいし、お洒落な雰囲気も出る。否定形を多用するヒットメーカーもいるけれど、それを反面教師にしようと思った。(中略)一〇〇%使わないわけにはいかないが、使わなくてはならない最小限度に絞る」(前掲書117-118ページ)と言っているね。「木綿のハンカチーフ」は初期の作品だし、否定形云々のことは、まだセオリーに入れてなかったんじゃないかな。この歌は「変わる人/変わらない人」の対比が主題だから否定形が多くなったんだろう。否定形や〈いいえ〉を重ねておきながら、女性は最後に〈いいえ〉を使わないで応答するところがミソだ。それまでは変わらないでと引き止めていたけど、最後は受け入れたということが鮮やかになっている。この場合の受け入れたというのは諦めたということだけれど。

娘□「否定形を多用するヒットメーカー」って誰なんだろう。気になる。

父■松本隆がヒットメーカーというくらいだから、阿久悠なかにし礼だと思ったんだけど、よくわからない。なかにしには否定を効果的に使ったヒット曲が見当たらなかったので阿久悠の例を掲げてみよう。

 

・別れのそのわけは話したくない…それは知りたくない それはききたくない(尾崎紀世彦また逢う日まで」1971年)

・誰も知らない 知られちゃいけない…何も言えない 話しちゃいけない(「今日もどこかでデビルマン」1972年)

・うつ向くなよ ふり向くなよ…誰も涙を笑わないだろう 誰も拍手を惜しまないだろう…君のその顔を忘れない(ザ・バーズふり向くな君は美しい」1976年)

・だけどぼくにはピアノがない 君に聴かせる腕もない(西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」1981年)

・一日二杯の酒を飲み さかなは特にこだわらず…妻には涙を見せないで 子供に愚痴をきかせずに…目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず(河島英五「時代おくれ」1986年)

 

 阿久悠で否定形を最も効果的に使っている歌詞は「時代おくれ」だろう。ただ、上掲の例では該当作が少なすぎるから、松本隆が「反面教師にしようと思った」というほどではないんだけど。

娘□否定形を重ねるとたしかに「お洒落な雰囲気も出る」わね。

父■ヒットメーカーの作詞ではないけど、美川憲一さそり座の女」(作詞、斉藤律子、1972年)は〈いいえ私は さそり座の女〉と〈いいえ〉から始まる。2021年の『M1グランプリ』でモグライダーのネタが「さそり座の女」。この歌が〈いいえ私は さそり座の女〉から始まるのは、その前に星座と性別を聞いてきた奴がいる。ハズれたので「いいえ」となっている。「いいえ」とならないようにイントロ中に全て星座を聞く。性別は最後に聞くのが論理的だという知的な漫才だった。

娘□あたし、ときどき坂井泉水に似てるって言われるんだけど、その人が歌詞を書いたZARDには、タイトルに「ない」がつくものが多いんだよね。「負けないで」が代表作だけど、「愛が見えない」「あなたのせいじゃない」「あの微笑みを忘れないで」「息もできない」「きっと忘れない」「君と今日の事を一生忘れない」「眠れない夜を抱いて」「瞳そらさないで」「もう探さない」「もう逃げたりしない想い出から」。90年代の歌だから今の話には関係ないけど。

 

7-3 人称代名詞が少ない「ルビーの指環」は多義的

娘□松本隆の他の歌では人称代名詞はどうなっているの?

父■大ヒットした寺尾聰ルビーの指環」(1981年)を見てみよう。

寺尾聰ルビーの指環」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000aec/l005e82.html

娘□歌詞をよく見ると、一つ一つのセンテンスはどれもネガティブな言葉で綴られているのに、全体のイメージはそんなに暗い感じはしない。宝飾品の華やかなイメージが救いになっているのかな。

父■この歌は、別れる男女が喫茶店でテーブルをはさんで最後の会話を交わしている場面を描いている。人称代名詞については必要最小限にとどめている感じがする。その点は練達してきたのかな。あるいは歌詞から詩に近づいたのかもしれない。普通ならもっと「あなた」(この歌では〈貴女〉)を入れたくなるであろうところをそうしない。例えば、〈指のリング抜き取ったね〉というのは〈貴女はリング抜き取ったね〉とできるし、〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉というのは〈貴女の言葉が頭に渦巻くよ〉とかにもできる。

娘□ふうん。でも、その例だと、〈貴女〉を使わない代わりに使った言葉って、そんなにたいしたものに思えないんだけど。

父■まあ僕が作った例だからね。

娘□そもそも、「俺/貴女」という人称の組み合わせって釣りあっていないんじゃない? 丁寧さや親しみの度合いで「俺/お前」「私/あなた」の組み合わせが一般的でしょ。この二人がうまくいかない関係性みたいなものが「俺/貴女」という非対称の人称の使い方に表れている。〈孤独が好きな俺さ〉というように、独特の男くささを出すために〈俺〉という人称があり、一方で、〈貴女〉と呼ばれる相手には女性崇拝的なものを感じる。相手の本当の姿を見ておらず、女性に対して理想や観念を投影していたのじゃないかしら。

父■別れて2年経ってもいまだに〈貴方〉の幻影を追いかけているというのだから、もうこの〈貴方〉は相当理想像に近いものになっているだろうね。〈俺〉っていうのはハードボイルド小説でよく使われるよね。規範からはみ出て単独行動を好む感じがある。この歌を歌っとき寺尾聰は30代半ば。〈俺〉という自称は子どもっぽい印象があるから、ギリギリの年齢だね。

娘□コートの袖から出た〈指にルビーのリングを探〉してるんでしょ。執念ね。〈孤独が好きな俺さ〉というのが強がりだってことがミエミエじゃん。〈枯葉ひとつの 重さもない命〉という比喩もカッコつけすぎる。それもハードボイルド?

父■冬だから〈枯葉〉が出てくるんだろう。夏だったら「セミの抜け殻みたいなこの命」になっていたかも。過去の恋の哀しみを枯葉に喩えるのは有名なシャンソンがあるでしょう。サザエさんだって〈枯葉よ~〉って口ずさんでいるよ。『サザエさん』のアニメでそういう回があるんだよ。

娘□あまり芸術とは無縁な感じがするサザエさんすら口ずさむほどの、そういう比喩の伝統にのっとっているわけね。

父■それで、この歌は人称代名詞を省略しすぎて、イメージが曖昧になっている感じがするところすらあるんだ。例えば、〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね〉とあって、この〈問わず語りの心〉は文脈上〈貴女〉のことなんだろうけど、〈俺〉のことのようにも錯覚される。状況を推測すると、別れは〈貴女〉のほうから切り出して、〈問わず語り〉にその理由を並べたんだろう。別れを言い出すほうが立場上「強い」はずなのに、納得のいく理由をいろいろ考えている様子が哀れにすら見えたんだろう。それが〈問わず語りの心が切ないね〉ということだ。一方で、この歌自体が〈俺〉の問わず語りのものになっている。未練がましい〈俺〉はまさに哀れな存在だ。〈問わず語りの心が切ないね〉というのはまさに〈俺〉にピッタリ。書かれた詩として読めばそういう錯覚はおこりにくいけど、次々と言葉が現れては消えていく歌では、どっちがどっちのことを言っているのか、適宜注釈をはさんでくれないとわからなくなってくる。

娘□自分を哀れんでいるのは、ちょっと無理めな解釈じゃない? でも〈問わず語りの心が切ないね〉という冒頭の時点では、まだ彼女のことは語られていないし、すぐあとに〈枯葉ひとつの 重さもない命〉と自分のことを述べているから、〈切ない〉というのも自分のこととして解釈するのも無理はないか。ここを〈貴方〉のこととして受け取るには、それこそ詩として文字で読まなければ難しいかも。

父■同じようなことは〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉という部分にもある。どちらの気が変わらぬうちなのか。文脈上は〈俺〉の〈気が変わらぬうち〉だろう。〈俺〉は別れを切り出されても本当は嫌だと断りたい。でも、格好もつけたいから、いきおいで別れを了承してしまう。熟考すれば相手を引き止めることになる。だから〈俺〉の〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉ということだろう。でもこの〈気が変わらぬうちに〉というのは女性の方の〈気が変わらぬうちに〉と解釈することもできる。一旦別れを告げたものの、相手がみじめに思えたのでやっぱり別れを取り消そうとするかもしれない。そういう情けはかけないでくれという意味で言ったのかもしれない。また、直前に〈孤独が好きな俺さ/気にしないで行っていいよ〉とあるよね。この〈気にしないで行っていい〉ということと〈気が変わらぬうちに早く消えてくれ〉というのは同じことを言っているようにも思える。〈気にしないで〉というのは女性に対して言っている。ということは〈気が変わらぬうちに〉というのも女性の〈気が〉変わらぬうちということにもとれる。「気にしないで/気が変わらぬうちに」と、「気」に引きづられて〈貴女〉のこととして言っているようにとれる。別れたい気持ちは〈貴女〉にあるので、その気が変わらぬうちにという強がりだね。

娘□なんだか微妙でこまかいところだけど、人称代名詞がないと記述された言葉の帰属が不安定になることに違いないわね。

 

7-4 「ルビーの指環」の構造と時間

父■この歌にふれたついでに、この歌の構造が複雑だということも話しておきたい。

娘□喫茶店で別れるだけのソリッドシチュエーションじゃないの?

父■空間的には限定的だけれど、時系列が複雑なんだよ。この歌は、喫茶店で男女が向かい合って座っていて、女性が別れ話を切り出して、指環を抜いて雑踏の中に去っていくという歌でしょ。時期は冬に近い秋かな。これが歌の「現在」。

娘□指環は置いていったのではなく、持ち帰ったんだけどね。

父■そのとき、愛を誓いあった夏の日のことを思い出しているよね。これは「過去」だ。夏に始まって冬に終わる恋。それから二年たってもまだ彼女のことを思っていて、彼女を思わせる人を目で追っている。これは「2年後の現在」で、わかりやすく「未来」としよう。

娘□つまり、この歌には「過去・現在・未来」が入っているっていうことね。

父■そう。ただ、その順番どおりに書かれているわけではないので混乱する。それを踏まえて歌詞を順に見ていこう。

〈くもり硝子の向うは風の街〉これは語り手の「現在」の状況。喫茶店かどこかでテーブルに座って外を見ている。この〈くもり硝子〉というのは擦りガラスのことではなく内と外の寒暖差で曇ったガラスのことだろう。二重ガラスがなかった時代だね。外を見るといっても〈くもり硝子〉越しだから、ほとんど見えない。外を見るというより、顔を外に向けている感じ。

娘□〈くもり硝子〉って自分の心の比喩でもあるんじゃない? 自分の心が〈くもり硝子〉のように閉ざされているイメージ。ただその外側の〈風の街〉というのも、あまり明るく楽しい感じではないけど。

父■〈風の街〉は松本隆の定番ワードだね。作詞家はそれぞれ自分の街をもっていて、そこの住人が歌の登場人物になっている。松本隆はそれを割合はっきり出している人じゃないかな。さだまさしも初めの頃「まさしんぐタウン」って言ってたからね。

娘□住人が歌の登場人物になるというより、新しい歌ができれば新しい住人が加わっていくってことなのかな。

父■〈問わず語りの心が切ないね〉というのは、語り手である〈俺〉の目の前にいる〈貴女〉の「現在」。聞いたわけでもないのに自分でぽつぽつ話しているんだね。でも、さっきも言ったように、この歌じたいが〈俺〉の〈問わず語り〉のシロモノであるから、そういう〈俺〉のことを自己憐憫して〈切ない〉と言っているようにも聞こえる。〈俺〉のことだったら、メタな視点がここに挟まれていることになる。

娘□いきなり自分のことに飛ぶのはごちゃまぜになりすぎない?

父■そうかな。次のフレーズのほうがもっと不可解だよ。〈枯葉ひとつの 重さもない命 貴女を失ってから〉というのはいつの時点のことなのか。

娘□〈貴女を失ってから〉とあるから、「未来」のことね。うーん、さっきの「現在」に続けて「未来」か。混乱するなあ。

父■実は〈貴女を失ってから〉というのは、この歌の一番最後のフレーズとしても出てくる。〈そして二年の月日が流れ去り/街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ/貴女を失ってから〉と締めくくられている。つまり冒頭の〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね/枯葉ひとつの 重さもない命/貴女を失ってから〉というのも「未来」における語りとして読めるんじゃないか。「未来」において過去を想起している。そうなると〈問わず語りの心が切ないね〉というのは自己憐憫ということになる。

娘□けど、〈くもり硝子の向うは風の街〉って喫茶店にいる「現在」じゃないの? あとのほうでも〈くもり硝子の向うは風の街/さめた紅茶が残ったテーブルで〉ってあるわよ。

父■「未来」においても別れたのと同じ時期に、同じ喫茶店の同じテーブルにいて思い出しているんだろう。

娘□ふうん。語り手の場所が同じなんで「現在」と「未来」が溶融してきているんだね。

父■〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね〉というのは現在でもあり未来でもあるという折衷的な解釈が妥当だね。〈問わず語りの心が切ないね〉というのは、現在の場合は〈貴女〉についてのことで、未来の場合は自分についてのことになる。

娘□メロディーとしては、冒頭から〈枯葉ひとつの 重さもない命 貴女を失ってから〉というところまで一まとまりなので、時間的にも一まとまりのことじゃないの? そうすると未来のことになるけど。回想する枠組みをここで提示している。最後が〈そして二年の月日が流れ去り〉となっているのも、これが額縁ソングだってことを明示している。

父■構造的にはそうだけど、それだと〈問わず語りの心が切ないね〉というのが一義的に自己憐憫ということになってしまって、〈貴女〉のことではなくなってしまうんだよなあ。メタな語りではあるけど、それってやっぱり後景に退いていることで効果があるから、いきなり自分で自分を〈問わず語りの心が切ないね〉なんて言うのは不自然だからなあ。

娘□同じ場所に座っているから、未来と現在は入り混じってしまうのね。そういうことにしておきましょう。

父■いずれにしても、この歌の隠れた主題は時間だよね。なめらかな継起にしないことで、そこに注意を向ける。映画でもよくあるよね。過去・現在・未来のショットが断りもなくがごちゃまぜになっているやつ。親切なのは「2年後」とか「1年前」とかテロップが入ったり、昔の出来事っていう意味でセピアがかった映像に加工したりするけど、そういう細工をしないで、微妙な違和感だけでつないでいくもの。何度か見直さないと理解できない。そういうわかりにくさがあるものが高尚な作品だと思われている。筋よりも手法に注目させる。

娘□その手法がどういう効果を生むのかが重要だと思うけど、なかには切り貼りして順番を入れ替えただけのものがある。たいした手法ではないのに、わかりにくくされているので頭にくる。叙述トリックのミステリーにもそういうのある。現在のことを読んでいると思ったら過去のことだったとか。

 

7-5 コートと指環を探す意味

父■語り手である〈俺〉は、ハードボイルドを気取っているふうに見えるのに、諦めが悪いというか、意外に執着心のある人だよね。別れた人をいつまでも思っている。〈街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ〉ってあるけど、これどこで探しているのかな。街を歩いているときなのか。あるいは喫茶店とかのテーブルに座って街行く人を眺めているときなのか。別れた時は〈くもり硝子の向うは風の街/さめた紅茶が残ったテーブルで/襟を合わせて日暮れの人波に/紛れる貴女を見てた〉とあるから、探すときも同じ場所で見てるんじゃないかと思ったけど。

娘□〈ベージュのコート〉を着る季節なので寒い時期でしょ。そういうとき、思い出の喫茶店の窓は〈くもり硝子〉になっているから、喫茶店の中から探すってのは無理なんじゃない?

父■ちょっと待って。すると別れたときも〈くもり硝子〉だったから窓の外の〈貴女を見〉ることなんてできないはず。寒暖差でできたくもりなら手でぬぐったのか。

娘□そんなことは一言も書いてないわ。窓をぬぐうなんて意味深で重要なしぐさだと思うけど、それにふれてないということは、やらなかったということでしょ。こういうのって歌詞の言葉だけだと雰囲気で読めちゃうけど、歌謡映画とかにして映像で具体化されると矛盾がはっきりするわね。

父■検索してみたらやはり疑問に思った人がいたみたいで、書いてあった。ヤフーの知恵袋で、

 

質問「くもりガラス(すりガラス)なのに、なんで向こう(日暮れの人波にまぎれるあなた)が見えたんだろう?」

ベストアンサー「♪曇りガラスを手で拭いて~(さざんかの宿)或いは ♪息で曇る窓のガラス拭いてみたけど~(津軽海峡冬景色)みたいな動作が歌詞の上では端折られているのかもしれませんね。/そんな突っ込み所はあれど、ルビーの指輪は傑作だと思います。」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184563372

 

 回答も傑作だね。たぶん作詞家は歌が世に出てから「あっしまった!」と思ったんじゃないかな。

娘□この部分、あたしもひとつ疑問に思ったところがあるので言わせてもらうと、〈襟を合わせて日暮れの人波に/紛れる貴女を見てた〉っていうところ。描写は細かいけど、視点がずれている気がする。これは語り手の〈俺〉目線よね。〈日暮れの人波に/紛れる〉というのは、遠ざかって夕闇に消えていく後ろ姿を見ていたということ。一方、〈襟を合わせて〉というのは、喫茶店から出たときに寒くて〈襟を合わせ〉たということ。〈風の街〉だから寒風が吹いていたのね。でも、喫茶店から出る瞬間を〈俺〉の目から見ることができるのかしら。出入り口から近いところに座っていた? 去っていく後ろ姿を見ることができる位置に座っているという条件もあるから、この二つを満たすのはなかなか厳しいと思う。間口が狭く奥行きが長い店も多いしね。あ、喫茶店とはどこにも書いてないけど、そうだと思う。

父■後ろ姿でも〈襟を合わせ〉ている姿はわかるけどね。腕を折り曲げているから。

娘□後ろ姿で腕を折り曲げているだけなら、胸に手を当てているだけかもしれないじゃない。あたしはここに〈俺〉以外の視点が挿入されていると思うのよね。

父■そういう感じはあるね。話を戻すと、〈指にルビーのリングを探す〉のは〈俺〉がどこでなのか、ということなんだけど、喫茶店の中からは〈くもり硝子〉だから無理なら、街ですれ違うときなのか。そもそもコートの袖って長いから指が隠れて見えにくいし、ポケットに手をつっこんでいる人だっているしなあ。それで指環の小さい石がルビーかどうか見分けるって、どれだけ視力がいいんだ。すれ違う瞬間に気づくとかならまだいいけど、後ろから見ていたら尾行しているみたいで嫌だなあ。

娘□すれ違うときはないんじゃない。だって顔を見ればみればわかるもん。それとルビーって赤色で、誕生石の中では一番目立つ色だから、わかりやすいと思う。ガーネットも赤系統はルビーと似ているけど緑色系もあるしね。

父■探しやすいからルビーにしたのか。なるほどなあ。すれ違うときでなければ後ろからか? でも後ろからだと指環の種類はわからないな。〈探す〉というくらいだから、彼女に気づかれないように見るのだろうけど、やはり喫茶店の中からなのか。喫茶店の中は暗いから、ガラスがマジックミラーのようになって、外からは見えにくくなっている。観察する〈俺〉の姿は見えない。

娘□ルビーって7月の誕生石だけど、歌詞は〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ/あれは八月 目映い陽の中で 誓った愛の幻〉ってなっていて、〈誓った〉というのだから〈八月〉に指環を贈って愛を誓いあったんだよね。7月の誕生石を8月に贈る、このズレは何なのかな。

父■これもヤフーの知恵袋に質問があったよ。すごいな知恵袋。ま、ヤフーで検索したから上位に出ただけなんだろうけど。ヒット曲だからいろんな人が歌詞を解釈を楽しんでいるね。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12245733027?__ysp=44Or44OT44O844Gu5oyH55KwIOaMh%2BOBq%2BODq%2BODk%2BODvOOBruaMh%2BeSsOOCkuaOouOBmeOBk%2BOBqOOBquOCk%2BOBpuOBp%2BOBjeOCi%2BOBruOBiw%3D%3D

 ただ、これを読んでもピンとくる回答はないね。僕なりのこじつけでは、7月にプレゼントすべきところを8月になっちゃったから、それが別れの原因になったのかと思うよ。

娘□〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ〉ってあるところの〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉っていうのは、〈指にルビーのリングを探す〉ときにも頭の中で渦巻いているってこと? 〈誕生石ならルビーなの〉という言葉が頭の中に残響となって響いているというのは、ルビーの指環イコール〈貴女〉になっているということよね。だからルビーの指環を探すというのは〈貴女〉を探すことになるのね。

父■〈貴女〉を探すにしても、コートから目星をつけるってのはどうかなあ。何年も同じコートを着ているとも思えないし、コートの色にこだわるより全体のシルエットや歩き方のほうが〈貴女〉らしさが出ていると思うけど。竹内まりやに「駅」(作詞、竹内まりや、1986年)という歌があって中森明菜をイメージした曲なんだけど、この歌は「ルビーの指環」の女性版みたいな内容になっている。気がついている人いるかなと思って検索したら、いたね。「日本百名曲/20世紀篇」というブログで、「同じようなシチュエーション」と一言だけ書いてあった。ちなみに君が言ったことも書いてあったよ。「手を見るということは、/後ろ姿を見かけると、ということだろう。/正面から見ているのであれば顔を見るだろうからね」(https://songs20thcentury.hateblo.jp/entry/2015/10/09/072000

娘□同じようなこと考えるものね。

父■竹内まりやの「駅」はこういう歌詞。〈見覚えのある レインコート/黄昏の駅で 胸が震えた/はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね〉となっていて、こちらは男のほうがコートを着ている。また、〈二年の時が 変えたものは〉とあって、2年後の設定であるのも、〈そして二年の月日が流れ去り〉という「ルビーの指輪」と同じだ。さらに、「駅」は夕暮れ時で〈ラッシュの人波にのまれて/消えてゆく 後ろ姿が〉とあり、「ルビーの指環」は〈襟を合わせて日暮れの人波に 紛れる貴女を見てた〉となっている。

娘□同じようなこと考えるものね。そういえば「贈る言葉」(作詞、武田鉄矢、1979年)も〈夕暮れ〉どきで、〈遠ざかる影が 人混みに消えた〉となっていた。「夕暮れ、人混み(人波)、消える(紛れる)」は定番のイメージなのね。

父■表面的には似ている部分もあるけど、ものの見方はどれもかなり違う。同じ〈コート〉という言葉でもそれが何を指しているのかは違う。「駅」で〈見覚えのある レインコート〉というのは、コートという衣服の同一性をもって〈昔愛してた あの人なのね〉と同定するのではなく、さっき言った「全体のシルエットや歩き方」を含めてそう判断したと思われる。コートに包まれた身体の造形的特徴と挙措。そのことは歌詞からもわかる。コートの人は〈はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね〉とある。〈まぎれもなく〉というふうに的を絞っているが、それは〈はやい足どり〉という全体の雰囲気が醸し出すものからきた確証だ。

娘□その点〈ベージュのコートを見かけ〉ただけで条件反射的に〈指にルビーのリングを探す〉という「ルビーの指輪」よりリアリティが増しているわね。こちらの歌ではコートという「表皮」にだけ反応しているように思う。

父■「ルビーの指輪」でコートを目にとめるっていうのは、〈俺〉の滑稽さを言ってるんだと思う。女性のコートって、白かベージュが多いよね。ベージュのコートを着てる人は大勢いる。数限りないベージュのコートの人の指に目を凝らしたって無駄だよ、徒労なだけだよって言ってると思う。注目する順番を間違えている。

娘□自分があげた指環を、まだ別れた彼女がはめていてくれるのか、つまり自分のことをまだ思っていてくれるのか、独り身なのか、ということを確認しようとしているのね。でもたとえ独りでも、昔つきあってた男からもらった指環を別れたあともしているとは思えないけどな。それに他につきあっている人がいて、その人からも誕生石のプレゼントをされたらそれもルビーだろうし。なんにせよ指環を探すのは無駄だと思うけど。

父■〈俺〉の頭の中では時間が止まっているんだね。ルビーの指環に限らずベージュのコートをまだ着ていると思ってる。指環はいまだに自分とのつながりの証拠だと思っている。赤い糸の代理みたいに。彼女はまだ自分があげた指環を捨ててないという自信が〈俺〉にはどこかある。別れるときの彼女の姿がそう思わせていると思う。〈背中を丸めながら 指のリング抜き取ったね/俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉とある〈背中を丸めながら〉というところなんだけど、これは彼女が〈俺〉に対して申し訳ないと思っているからではないか。俯いている。直視していない。〈俺〉は捨てられた弱者なんだけど、この瞬間だけは優位に立っている。そこで〈俺〉は〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉と言うんだね。〈俺〉に悪いと思っているんなら捨てられないだろうと思って啖呵を切っているわけ。捨てられるもんなら捨ててみろって、彼女の良心に訴えかけている。で、捨てられないからまだ持っているはずだと。

娘□〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉ってイジワルよね。俺は受け取らないよって。返せないし捨てにくいものだから彼女は困ってしまう。困らせるために言っている。彼女がいい人で、仮に捨ててないとしても、指にはめているとは限らない。絶対はめてなんかいないわよ。ひどい勘違いだと思う。

父■奮発して買った指環だったんだね。だからはめていてほしかったのかも。

娘□彼女を探すのにコートと指環以外に他に手がかりはないの? 相手のことをそれしか知らないていどの浅いつきあいだったの? それなのに別れたあとは〈枯葉ひとつの 重さもない命〉っていうほど落ち込むなんて、いったいどういう人なの。〈あれは八月 目映い陽の中で/誓った愛の幻〉っていうのはひと夏のアバンチュールって感じが漂ってるんだけど。

父■〈襟を合わせて日暮れの人波に 紛れる貴女〉という歌詞の〈襟を合わせ〉るって、ちょっと古風な上品なしぐさだよね。アバンチュールしそうな女性じゃない。ひと夏の遊びだったら、そんな相手に指環はあげないだろう。指摘の中では〈目映い陽の中で〉っていうのが気になる表現だよね。〈愛の幻〉とも言ってるように、夏の幻影なんだ。この人はずっと幻影を追いかけているんだよ。

娘□〈枯葉ひとつの 重さもない命/貴女を失ってから〉ってあるけど、実ははじめから失われていたんじゃないか。ずっと幻を見ていた。幻だから〈くもり硝子〉でもその向こうに〈貴女〉を見ることができた。

父■ちょっと先走りすぎだから話を戻すと、さっき、7月の誕生石のルビーを8月に贈ったという話をしたけど、7月にプレゼントすべきところを8月になってしまったのは、〈俺〉がうっかりしていたのではなく、そうせざるを得なかったからかもしれない。つまり7月に贈りたくても贈れなかった。

娘□というと?

父■知り合ったのが8月だった。あるいは指環を贈るほど親密になって誕生石を聞いたのが8月だった。

娘□それで冬になる前に別れてしまったと。それとも何年かつきあったのかな。でも彼女についていろんなデータを持ってなさそうだから、やっぱり半年ももたずに終わったのかな。

父■交際期間は比較的短かかったし、あまり会ったこともなかったんだと思う。というのも、〈街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ〉ってあるけど、なんでコートを着ていない姿の彼女は探さないのかって不思議なんだよ。

娘□別れた瞬間がトラウマになっていて、コートを着る季節になると心の傷がうずくんじゃない?

父■別れてからは〈枯葉ひとつの 重さもない命〉っていうほど全存在をかけて愛していた相手なのに、その季節にだけ記憶が刺激されるってのはおかしい。他の季節は彼女のことを気にしなかったのか? そうではなく、いつも彼女の幻を探していたはずだ。にもかかわらずベージュのコート姿にしか反応しないというのは、それ以外の彼女の姿をほとんど知らないからではないか。実は数回しか会ったことがないのかもしれない。数回会っただけで心を奪われるということはないではない。ベージュのコート姿は君が言うように別れたときだから目に焼き付いている。

娘□その「目に焼き付いている」というのが失敗のもとなのよ。「船に刻みて剣を求む」っていう故事があるじゃない。指環をあげたのは夏だから軽装をしている。指環をあげたときの服装を覚えていて、同じような服装をしている女性の指を探してもいいはずで、そのほうが指環もわかりやすいのに、でもそうしないで別れた時の服装にこだわるのは、船のこのあたりで剣を落としたとマークしてしまうみたいに、間違った記憶の固定をしているのよ。

父■語り手の〈俺〉は徹底的に受け身の人だよね。仮に彼女の住んでいるところや電話番号を知っていても、そこを訪ねたり連絡したりはしないだろう。未練がましいからね。探して見つけたら、偶然ばったり会ったふりをするんじゃないかな。「やあ、久しぶり。元気?」なんて話しかけたりして。

娘□えーッ! わざとらしい。

父■この人は自分で決めて動くよりは、相手に委ねるタイプだよね。歌詞にはこうある。〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉と。これは「○○してくれ」という命令形になっている。〈俺〉のためにそうしてくれという依頼だ。沢田研二に「ダーリング」(作詞、阿久悠、1978年)という歌があるけど、「○○してくれ」で押し通していたね。〈ここへすわってくれ 足を組んでくれ/黄昏に顔を向けてくれ/その指で髪をかきあげてくれ〉ってあるけど、これが「ここへすわれ、足を組め、黄昏に顔を向けろ、その指で髪をかきあげろ」だったら命令になってしまう。そうではなく、俺のために「○○してくれ」とお願いしている。逆に、さだまさしの「関白宣言」(作詞、さだまさし、1979年)で〈めしは上手く作れ/いつもきれいでいろ〉が「めしは上手く作ってくれ、いつもきれいでいてくれ」だったら亭主関白ではなくなってしまう。「○○してくれ」っていうのは下手(したて)に出ているわけだからね。「いやだ」と拒否される可能性もある。相手の気持ちを斟酌しない命令ではなく、相手の了解も取り付けつつ動いてもらう。「ルビーの指環」も「俺に返すつもりなら捨てろ、気が変わらぬうちに早く消えろ」という一方的な押し付けじゃないんだよね。依頼に従うかどうか相手の意思を媒介にしている。〈俺〉としては拒否してほしいんだよ。そもそも相手に〈捨ててくれ〉と頼むより自分で捨てたほうが確実だし、相手に〈消えてくれ〉と頼むより自分が席を立ったほうが早い。それなのにそうしないのは、本当はそうしたくないからだよ。自分でそうするのは耐え難いから相手に引導を渡してもらう。

娘□自分で決めることはせず相手に肝心な部分を委ねるのね。

父■一応言ってはみたものの、最終的に行動に移すかどうかは相手に任せている。本当は捨ててもらいたくないし、席にいてほしい。

娘□なぜ?

父■別れだからね。できるだけ引き伸ばしたい。別れを曖昧にしたい。最後の抵抗だ。

娘□うじうじした感じにならない程度に男らしさを保つためのぎりぎりのところで出てきた言葉ってことか。男らしくあるのもつらいわね。

父■この歌で奇妙なのは、ルビーの指環という細部に強くこだわっているところだよね。〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ〉とあるように、頭の中が彼女の言葉を介してルビーで支配されている。さっき竹内まりやの「駅」で見たとおり、当人かどうかは全体のたたずまいから判別できる。全体がまず目に飛び込んできて、ただちに「あ、あの人だ」と認識されるはず。なのにこの歌では、全体の印象はベージュのコートとというモノの同一性の判断以上に踏み込まず、それを着ている人がお目当ての人かどうかということをとばして、〈指にルビーのリングを探す〉というように細部に目を凝らして自分とのつながりを確認しようとしている。

娘□なぜ細部にこだわるの?

父■〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉という記述は、何かそこに逸脱したものがあることを示唆している。取り憑かれてしまったみたいになって、頭からその観念が追い払えないんだね。こだわりのポイントも通常とズレている人なのかもしれない。

娘□お目当ての人かどうかは、指環に目を凝らすまでもなく、コートを着ている雰囲気でわかるはずなのにね。そこをとばして細部に目が行ってしまう。

父■指環をしているかどうか知りたいなら、まずその人かどうかを同定して、そのあとで指環を探すという順番になるはずだ。

娘□彼女に知られないように指環を確認するのは難しそうだけど。

父■もし、ベージュのコートを着ていてルビーの指環もしている人を運よく見つけ出せたとしても、それが別れた彼女でなければなんの意味もない。探す順番を間違えている。順番としては、

 

1 ベージュのコートを着ている女性が感知される。

2 それが別れた彼女であると推測される。

3 ルビーの指環をしているか(自分とのつながりを)確認する。

 

 この順序が普通だと思うな。1と2の過程はほとんど同時に遂行される。でもこの歌ではどうやら「1→3→2」の順番に倒錯している。もしかしたら2は求められていない可能性すらある。「それが別れた彼女でなければなんの意味もない」と言ったけど、彼女への欲望がベージュのコートやルビーの指環に置き換わっているかもしれない。この順番の倒錯は、「ベージュのコートフェチ」「ルビーの指環フェチ」の倒錯みたいになっている。

娘□それが彼女でなくても、ルビーの指環をしている女性ならいいってこと?

父■よくミステリーで連続殺人犯が長い黒髪の女性ばかり狙うというのがあるよね。フラれた彼女が黒髪だったので、同じような黒髪の女性を見つけては復讐していくっていう話。

娘□その彼女には相手にしてもらえないので、ベージュのコートやルビーの指環をしている女性に欲望が向けられたのね。なんかミステリー小説みたいな歌にされちゃったわね。

父■話しながらだんだんわかってきたのは、ルビーの指環を探しているが、彼女を探しているわけではないということ。というのも、〈街でベージュのコートを見かけると〉ってあるけど、〈俺〉は〈貴女〉はもうこの街にはいないことを知っているんじゃないかと思う。ベージュのコートを着て、指にルビーの指環をしている女性がいたとしても、それは〈貴女〉ではないことを知っているんじゃないか。

娘□〈貴女〉かもしれないってことはないんだ。

父■〈貴女〉はどこか遠くへ行ってしまったんだと思う。仕事とか留学とかで海外に行ったのかもしれない。そのとき、仕事をとるか〈俺〉との結婚をとるか選択することになって、〈俺〉は選ばれなかったんだと思う。

娘□確かに別れる理由はよくわからなかったけど、その説は何を根拠にしているの?

父■〈孤独が好きな俺さ/気にしないで行っていいよ/気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉という歌詞があるよね。この〈行っていいよ〉とか〈消えてくれ〉というのは喫茶店の席から立ち去ってくれということだと思っていた。でもそれにしては表現に違和感があったんだ。

娘□〈行っていいよ〉というのは、この街から離れて遠くの土地へ〈行っていいよ〉ということなのね。〈貴女〉がそう決めたなら好きにすればいいと。〈消えてくれ〉というのは、もう二度と姿を見せるなって感じよね。喫茶店から出ていけというには大げさな言い方ね。

父■それで時期はいつかということなんだけど、遠くへ行く選択肢が浮上したのは2月か3月くらいではないかと。

娘□「ルビーの指環」は、そうした種類のお別れソングの一つだったのね。

父■喫茶店へ〈俺〉を呼び出したのは女性の方で、それはそこで指輪を返すために呼び出したんだと思う。〈指のリング抜き取っ〉て〈俺に返す〉というのは別れの儀式だよね。でも〈俺〉はそれを途中で遮った。〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉と言って、別れを中途半端なものにした。曖昧にした。別れが完遂されてない。だから〈俺〉はいつまでも〈貴女〉への思いを引き伸ばすことができる。一方、本物の〈貴女〉はいないから、代わりに指環をしている女性を見つけては、そこに〈貴女〉の幻を重ねるんだ。やがて指環を見るだけで満たされることになる。そのためには逆に〈貴女〉がいないことが必要になる。

娘□言葉の細部にこだわった「言葉フェチ」のお父さんの倒錯的読み方ね。