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仮面ライダーは仮面をかぶっているのか?

 庵野秀明の『シン・ゴジラ』とか『シン・ウルトラマン』といった『シン』のシリーズは、原点に還って、そこから新たなものを生み出すということが共通している。「ゴジラ」はそもそもどういう怪物なのか。「ウルトラマン」はそもそもどういう存在なのか。発想の根本に立ち返って、自分ならこうだという新しい見方を提示する。

 おそらく『シン・仮面ライダー』もそういう作品になると思うが、『ゴジラ』や『ウルトラマン』と違うのは、『仮面ライダー』の原点を考える場合、そのタイトルじたいがヒントになっているということである。

 仮面ライダー」というのは「仮面をかぶったオートバイ乗り」という意味である。オートバイに乗る人は普通はヘルメットをかぶっているが、ヘルメットではなく仮面をかぶってオートバイに乗っている人はいったいどういう存在なのか。なぜ仮面をかぶるのか、なぜオートバイに乗るのか。どういう特殊な事情があるのか。仮面とオートバイという連立方程式を解くことで、ヒーローの存在性格が固まってくる。

 あらためて「仮面ライダー」という名前を考えてみると、不思議な名前であることがわかる。「仮面」と「ライダー」というのは、それぞれ普通名詞である。その組み合わせが固有名詞として使われている。実際、支援者の一人、立花藤兵衛も、変身した本郷猛のことを「ライダー」と呼んでいる。ヘルメットではなく、仮面をかぶったオートバイ乗りというのははとても珍しいから、固有名として機能していた。

 当時は「ライダー」という英語は日常ではなじみがなかったから、これをヒーロー固有の名前であるとして受け入れることに抵抗はなかった。「ライダー」に一般的な意味があることに、ほとんどの子どもは気づかなかった。私も、子どものころ、のちに「ライダーというのはオートバイに乗る人のことなんだよ」と大人から教えられ、ずいぶん驚いた。明治時代に日本人が西洋犬のことを「カメ(come)」とか「カメヨ(come here)」という名前だと思ったようなものである。

 仮面ライダー」が一人しかいなければ「仮面ライダー」以外の名前は必要なかったが、「仮面ライダー」は途中で一人増え、二人になった。二人になると「仮面ライダー」は普通名詞となり、個別の名前が必要になった。それで「1号」「2号」と呼ばれるようになった。いくら改造人間とはいえ、「1号」「2号」では機械の製造番号みたいで、あんまりである。これが「V3」だと名前らしくなる。「3」は製造番号だが「V」がついている。この記号は、人間の名前でいえば「一郎」の「郎」みたいに、番号に血を通わせる。

 「兄弟」「稲妻」「あんパン」といった普通名詞に「マン」をつけて固有名詞にしたヒーロー名がある。「キョーダイン」「イナズマン」「アンパンマン」などがそうである(「キョーダイン」は変則的)。これらの名前はなじみのある普通名詞を強引に固有名詞に変えている。ヒーロー名にしては親しみ安すぎる。「マン」をつけても元の意味を隠しきれない。隠そうともしない。「ガスピタン」とか「のどぬ~る」といった市販薬も同じである。その点、「ライダー」は視聴者である子どもにとってなんの意味も持っていなかったので、個物に直結してヒーローの名前になることができた。

 脱線するが、石森作品で、「なじみのある普通名詞を強引に固有名詞に変えているヒーロー」といえば『人造人間キカイダー』(1972年)が最初である。「人造人間キカイダー」というネーミングのセンスは、それより8年前の『サイボーグ009』(1964年)より後退している。当時は「サイボーグ」という呼び方は新しく、それを取り入れた石森のセンスが光っている。

 当時、石森プロにいて「キカイダー」のコミカライズを担当したすがやみつるによれば、「人造人間キカイダー」は、直前まで「人造人間ゼロダイバー」という名前だったという。だがテレビ局から、それだと視聴率ゼロをイメージさせて縁起が悪いという意見が出て、石森が急遽「キカイダー」に変えたという。石森は「ほとんどヤケクソで命名した」ようである。「あまりに直裁(ママ)的な、そして、ダジャレにしか思えないタイトルに、私たちは「これ、ギャグ番組か?」と思った」という。(『コミカライズ魂』河出新書、2022年、p150)

 私(筆者)はテレビ放送時7歳だったが、「キカイダー」はあんまりだと思った記憶がある。ヒーローへの思い入れを拒むネーミングである。「ゼロダイバー」なら、もっとヒットしていたはずだ。だが、「キカイダー」の名がなければ「ハカイダー」もなかっただろうし、機械人間という存在の困難さも表現が甘くなっていただろう。「ダイバー」は響きはよいが意味がヒーローの存在性格と連携できなそうだ。そうはいっても「キカイダー」は良いとは思わない。「ダー」の語尾にこだわらず、人造人間だから「アートマン」でよかったんじゃないか?「ゼロ」の名前は続編の「キカイダー01」に引き継がれている。

 

 仮面ライダー」に話を戻す。

 「ライダー」はオートバイに乗っているから「ライダー」である。「月光仮面」(1958年)もオートバイに乗っているし、「まぼろし探偵」(1957年)もオートバイに乗っている(マンガ版。テレビ版は空飛ぶ自動車)。「まぼろし探偵」は鳥打帽とアイマスクで顔を半分隠している。「仮面の忍者赤影」(1966年)もアイマスクで顔を隠しているがそれを仮面と言っているので、「まぼろし探偵」も仮面をかぶっていると言っていいかもしれない。

 月光仮面」も「まぼろし探偵」も仮面にオートバイは共通しているので、どちらも仮面ライダーである。だが両者では、オートバイに乗ることについてはネーミングでことさら表現されていない。ライダーであることに意識が向かなかったのかもしれない。

「仮面+ライダー」という性質はいくつかのヒーローに共通したものである。「仮面ライダー」だけの特徴ではない。だが「仮面ライダー」というネーミングには固有の性質が表されていない。「月光仮面」の「月光」、「まぼろし探偵」の「まぼろし」にあたる名前がない。『月光仮面』のあとに作られたのは『七色仮面』(1959年)。敵の名前にはどくろ仮面やコブラ仮面があり、「○○仮面」という名付け方には伝統がある。「仮面」のネーミングを活かすなら、バッタの改造人間なので「仮面ホッパー」という名前でもよかった。しかしなぜかオートバイに乗ることが重要視されて、「仮面ライダー」と名付けられた。ライダーであることをあらためて発見して、名前として切り出してきたことによって固有名として機能することになった。

 

 仮面ライダーはなぜオートバイに乗るのかよくわからない。仮面ライダーのうち「仮面」は改造人間であることを表しているが、オートバイに乗ることは改造人間であることとは関係ない。変身するためにオートバイが必要なのだというかもしれない。しかしなぜ変身するときに風で風車をまわす必要があるのか。ショッカーの改造人間で変身するのは仮面ライダーだけだ。なぜショッカーはそのように改造したのか。あるいは脳改造の途中で脱走したから完全な姿に変身する余地を残しており、それが変身(完全態への変化)なのか。ベルトは変身のために必要であるが、ショッカーは変身する必要があることを事前に考慮してベルトをつけたということになる。あるいはパワーアップのためにつけたベルトを変身のために流用しているのか。しかもオートバイに乗っていなくても、高いところから飛び降りて風車をまわして変身することもできるので、オートバイは必ずしも必要ではない。

 

 仮面ライダー」の「仮面」というのも不思議な名付けである。劇中、仮面ライダーに対し、「あんたは仮面をかぶっている」と言っている人はいるのだろうか。仮面ライダーは改造人間であり、仮面をかぶっているわけではない。ただ、この点はテレビ版とマンガ版では解釈が異なっている。石森章太郎のマンガ版では、感情が昂ぶって変身するときに顔に改造手術の後が醜く浮かび上がるので、それを隠すためにマスクをかぶっているとされていた(ただ、それだと首から下が強化服になっていることの説明がつかない)。一方、テレビではそういう説明はなく、変身すると瞬時に異貌の存在となって、同時にパワーも増すことになっていた。つまり仮面の部分だけではなく、身体全体の見え方が変化し、同時に強化したものである。頭部は首から下の強化服と一体のものであり、ヘルメットのように随時着脱できるものとしては表現されていない。ただ、初期には、マスクの下から髪の毛が出ていたりして、また「仮面」という名前からしても複数の解釈を許す余地があった。この点は、後に二つの方向の解釈へと別れていく。「変身重視」と「仮面重視」である。

 テレビシリーズは基本的に「変身重視」の路線になっているが、特にこの点を突き詰めたのがオリジナルビデオ版『真・仮面ライダー 序章』で、変身ではまさにモンスターへの変化となっている。ウィキペディアでは、本作について次のように記されている。

「これは第1作の『仮面ライダー』で描写が見送られた「仮面やスーツを着用して改造人間の醜い体を隠す」という本来の「仮面」の意味を、次回作で語るという狙いがあった。(中略)仮にシリーズ化が実現していれば、シンが仮面とスーツやバイクを手に入れて仮面ライダーガイアとなってゆく過程が描かれたはずであり、原作者のラフデザインも存在している。」

 モンスター化したシンが、さらにその上から仮面をかぶるというのは「サナギマン」から「イナズマン」に二重変身するようなことに相当するだろうか。もしそれが実現していれば、変身と仮面という矛盾する事態はその続編で融合されることになったであろう。(ここでシンというのは主人公・風祭真(かざまつり しん)のことである。『シン・仮面ライダー』の名前は先取りされていた。)ちなみに、二重の仮面というテーマは、あとでもふれる石森章太郎のマンガ『鉄面探偵ゲン』で取り上げられている。

 『真・仮面ライダー 序章』の構想された続編で、そこまで生真面目に「仮面」にこだわるのは、タイトルが『仮面ライダー』だからである。テレビ版では「仮面」の意味が曖昧なまま「仮面ライダー」は固有名詞化していた。劇中ではショッカーも「仮面ライダー」と呼んでおり、「仮面」という言葉の意味は希薄になり、「ライダー」とセットで仮面ライダーという固有名になった。結果的に「仮面」には、着ぐるみを意味する楽屋落ちの言葉としてメタレベルのものが忍び込むことになった。

 

 仮面には多様な役割がある。そのひとつは顔を覆うことである。先にもふれたが、それまでも「月光仮面」や「七色仮面」、「仮面の忍者赤影」で「仮面」という呼称は使われていた。だが、それらの仮面の素材はバラバラであり、機能として共通しているのが顔を隠すことだった。顔を隠すのは正体を隠すのが本義だが、かっこよく見せるためにそうするということがヒーローものには重要である。

 英語ではかぶり物のことを「マスク」というが、日本語の「仮面」とはニュアンスが異なる。多くの日本人が仮面から連想するのは「ひょっとこ」「おたふく」「般若」といった伝統芸能で使用される面であろう。そのポップな展開が縁日で売られている子ども向けのお面である。仮面をつけたように見える土偶が出土していることから、縄文時代の昔から仮面はなじみのあるものだったといえる。

 ウィキペディアの「仮面」の項目は、網羅的かつ簡潔に記述されているので、そちらも参考になるが、ここでは、日本人にとっての仮面を次のように定義しておく。

 「仮面は、硬質な材質で作られた、顔の前面を覆う着脱可能なもので、異相を表現したもの」

 本稿は、ヒーローと仮面の関係を考えているので、以下、いくつかの仮面ヒーローについて、上記の定義との関係を述べてみたい。

 

 1.仮面の材質(硬質(鉄製、木製等)か軟質(布製、紙製等)か)

 月光仮面」は、その前年の映画で日本初の特撮ヒーロー「スーパージャイアンツ」(1957年)と同じく、全身白タイツ姿である。「スーパージャイアンツ」は「スーパーマン」を真似ているが、頭部は白い布で覆われており、「鞍馬天狗」のように顔だけ露出している。「鞍馬天狗」は黒づくめで闇にまぎれるが、「月光仮面」は月の光なので白づくめである。白をまとうのは弁慶の五条袈裟以来の伝統である。「月光仮面」は鼻と口も白い布で覆い、目はサングラスで隠している。頭に白いターバンを巻いて三日月のマークをつけている。

 月光仮面」は柔らかい素材で顔を隠しているが、それを仮面と呼ぶには違和感がある。目だけ開いている竹田頭巾の延長である。敵の「どくろ仮面」や「サタンの爪」は硬質の仮面をかぶっているので仮面といっていいが、むしろ主人公のほうが仮面の本来の意味と離れている。

 月光仮面」の「仮面」は仮面の物質的な定義からは外れているものの、この場合の仮面は、正体を隠して超法規的なふるまいをするという記号になっており、顔の社会性を閉ざす役割をはたしている。だから材質は何でもよいのである。水着では性器は布一枚で覆われるだけでなんの防護機能もはたしていないが、布一枚でも視線が遮られればよいのである。

 布で顔を覆う場合にもいくつかやり方がある。白い包帯で顔を隠すのはミイラである。拷問で顔が崩壊した「ダークマン」はミイラ男のように包帯巻きである。紙で顔を隠す例はマンガ『予告犯』。主人公たちは新聞紙で顔を隠し「シンブンシ」と名乗る。バットマンシリーズに出てくる「ジョーカー」は化粧で顔を隠す。ただし彼らはそれを仮面とは名乗らない。正体を隠すだけなら、物質的な遮蔽物は不要な場合がある。ふりをすればよいのである。滑り止めの大学に入学して志望大学を目指す学生を「仮面浪人」というが、これも本当の自分を隠すという意味で「仮面」であり、この場合、仮面は物理的に顔さえ隠していない。むしろ普通であることが重要である。

 硬質と軟質の中間として皮革(レザー)がある。アメコミ出身のヒーローに多い。物語上はレザーではなく、特殊な物質であることもある。

 

 2.被覆する部分(目の周辺、口元、顔全体の前面、頭部全体)

 仮面の忍者赤影」は目の周辺だけをアイマスクで隠している。頭部は隠していない。忍者であるが露出が多いといえる。むしろ「月光仮面」のほうが忍者ふうのいでたちである。「まぼろし探偵」はアイマスクだが、頭に鳥打帽をかぶっている。

 仮面舞踏会(マスカレード)では目の周辺だけ隠せば顔を隠したことになるようだ。アイマスクには洋風なイメージがある。アメリカの映画やドラマにはアイマスクのヒーローは結構ある。古くは「怪傑ゾロ」「グリーン・ホーネット」などがそうである。変装としては安上がりである。彼らはいずれも帽子をかぶって輪郭の印象を曖昧にしている。

 頭部の覆いとアイマスクが一体化したものに「キャプテン・アメリカ」「バットマン」「デアデビル」「ザ・フラッシュ」「ヒット・ガール」などがあり、アメリカ人はこうした変装を好むようだ。「バットマン」「デアデビル」は鼻も隠している。口元はしゃべるために開けているということもあるだろうが、アメリカ人はあまり顔を隠すことを好まないのかもしれない。「スーパーマン」のように素顔をむき出しにするのが基本なのだろう。日本なら「ライダーマン」「電波人間タックル」「シルバー仮面」などは、口元を隠していない。前2者は、未完成の変身を意味している。顔の全部を覆わないと完全ではないという前提がある。「シルバー仮面」は巨大化すると口元も硬質なマスクで覆われる。

 目は露出するが口元を隠すのが「キャシャーン」である。戦闘モードになるとマウスシャッターが閉まり顔を防護する。「キック・アス」「キャットウーマン」(ザ・バットマン版)は目の周辺と口元を露出し、鼻だけ隠している。「ねずみ小僧次郎吉」のようなほっかむりである。

 仮面ライダー」の仮面はライダーという点からもヘルメットの延長であり頭から顔まで頭部全体をすっぽり覆うものになっている。首にはマフラーを巻いて下のボディスーツとのつなぎ目から肌が見えないようにしているが、首元の肌や頭髪がわずかに見える場合もある。

 マフラーはヒーローの定番アイテムである。機能的には防寒だが、夏冬関係なく着用している。マフラーは「鞍馬天狗」の首巻き以来の定番だが、マントの省略形だともいえる。「スーパーマン」も「バットマン」「黄金バット」「月光仮面」もマント(ケープ)をつけている。マントの本来の機能は防寒だが、空を飛ぶ翼のイメージもある。子どもが風呂敷を首に巻いてヒーローになりきるように、場違いないでたちをすることで日常を超越していることを示す記号になっている。マントは大きく、どこか鬱陶しいし、体の輪郭の特徴も一律にしてしまうので、マントに似ているマフラーになったのではないか。だからマフラーは首に巻く剰余の部分(垂れ下がっている部分)にこそ意味があるだろう(マンガではマフラーを描くことで流麗な曲線を表現できる)。

 ちなみに、『仮面ライダー』のギラーコオロギの出てくる第69話で、「すべての力を吸収してしまう吸収マット」に覆われた小部屋に閉じ込められたライダーは、ジャンプやキックの能力が封じられ、脱出できず困っていたが、「そうだこれだ」と思いついて首のマフラーをシュルシュルとはずして明り取りの窓の格子に投げつけて結びつけ、手で体を引き上げて窓にスクリューキックをぶち込み脱出する。マフラーが飾りでなく役立ったのである。

 タイガーマスク」は覆面レスラーである。覆面レスラーも、マスクの仕様からいって頭部全体を覆うもので、布やレザー等でできている。

 頭をすっぽり覆ってしまうと頭の形の特徴が消えてしまう。特に「仮面ライダー」のように丸いヘルメットをかぶると禿頭のように単調な形状になり、ツルツルした滑稽さが生じてしまう。そのため、頭頂部の単調な曲面をくずすために工夫がなされる。「仮面ライダー」ではそれは眉間から伸びるアンテナである。歴代の「仮面ライダー」は、頭部の丸みをくずすための突起を例外なくデザインに加えている。「ウルトラマン」でも同じく、頭部から伸びる突起がある。「七色仮面」ではそれはチョンマゲのように乗せられた三条の板である。「ウルトラセブン」の前身ともいえるが、正面から見ると「オバケのQ太郎」の三本の毛みたいである。そういう滑稽な突起をつけなければならないほど、そこには何かが必要だったのである。「鞍馬天狗」も菱形の宗十郎頭巾にすることで覆った頭部に個性をもたせ、「月光仮面」は巻くことを強調することで輪郭に変化をつけている。

 「ゴレンジャー」に始まる戦隊ものはどれも仮面の頭頂部に突起がない。それは彼らが量産タイプだからである。チームで協働して解決することを期待されているから、個性を表すものは省かれ、全員同じ輪郭になっている。この輪郭が枠となり、違いは色や枠内部のデザインで表現される。量産タイプはどうあるべきかをはっきり打ち出したのが『機動戦士ガンダム』の「ジム」である。「ジム」は「ガンダム」に比べてのっぺりしている。頭部は、チョンマゲは残っているがツノは省略されている。「ザク」と「シャアザク」の関係も同様で、「ザク」には「シャアザク」のようなツノがない。

 

 3.着脱可能か

 楳図かずおのホラー漫画には、お面を主題にした作品がいくつかあるが、中に、つけられた仮面がとれなくなる、仮面と顔が一体化してしまうといった作品があった。仮面(非日常)と日常の切り替えができなくなると困ったことになる。いくらカッコ良くても「仮面ライダー」の姿のままでは日常生活は送れない。仮面は脱着が自由にできる限りにおいて便利なアイテムである。

 仮面ライダー」は仮面の着脱ではなく変身によって、その切り替えをしていた。「ダークマン」「デッドプール」「エレファントマン」では逆に、包帯やマスク、かぶり物をして顔を隠しているほうが日常である。

 石森章太郎のマンガ『鉄面探偵ゲン』は、二重の仮面をかぶっている。ある事件によって脱ぐことのできない鉄仮面をかぶせられたゲンは、その上にさらに現実の自分の顔を模したマスク(リビングマスク)をかぶっている。このマンガでは、変身に相当するのがリビングマスクを脱いで鉄面を見せることである。ふつう、変身というのは生身の顔に鉄面をかぶることであるが、このマンガではその仕草が反転している。

 石森章太郎の作品には、変身による日常/非日常の切り替えがないタイプのヒーローが存在する。「ロボット刑事K」や「キョーダイン」(途中から変身できるようになる)などがそうである。常に「変身後」に相当する姿である。アメコミの『ファンタスティック・フォー』に出てくる、岩のような外見の「ザ・シング」も、人間の姿との切り替えができず、醜い姿に悩んでいる。仮面なら、その着脱によって日常/非日常の切り替えができるが、着脱ができなければそれが自分の顔である。「ロボット刑事K」の顔は仮面ではなく自前であり、他の誰かが変身して「K」になれるわけではない。

 仮面の機能の一つに個性の消去がある。仮面じたいにそれぞれ個性はあるが、それは人間の顔ほど微細なものではない。単純化、様式化されている。また、仮面はアイテムとして譲渡できれば、それをつけることで誰でも同じ外見になれる。「仮面ライダー1号」と「2号」は同じ「顔」をしている。それは同じ仮面をつけているからである。変身前の本郷猛と一文字隼人を混同する人はいない。しかし立花藤兵衛は変身後の1号と2号の区別がつかないときがある。例えば第72話で久しぶりに2号が登場したときは、変身を解くまで2号であることに気が付かなかった。スーツは違う(手袋やブーツの色、体のライン)ところがあるのに、仮面は全く同じだからだ。『仮面ライダー555』に出てくるライダーたちは、オルフェノクであれば、譲渡されたベルトによって誰でもライダーに変身できる。『ウルトラマンネクサス』では、デュナミストという資格者であればウルトラマンに変身できる。複数の人が同一の存在になることができるのは、変身後の姿が仮面をつけたものだからである。

 千と千尋の神隠し』に「カオナシ」という妖怪が出てくる。「カオナシ」は呪術的な意匠がデザインされた仮面をかぶっている。なぜ「カオナシ」と呼ばれるのか。それは仮面しかないからであろう。その奥にあるはずの自分の顔がないのである。『銀河鉄道999』の車掌さんもそうである。

 カオナシ」というのは仮面にとって本質的なことである。顔がないということは、個性としての顔がないということである。仮面の奥に誰の顔があっても、仮面に覆われてしまうから関係ない。複数の人が同一の仮面ヒーローに変身できるのはこのためだ。ただそこには制約があって、特定の資格が課せられる。その資格はたいてい特定の個人(改造された等)に結び付けられているが、『仮面ライダー555』や『ウルトラマンネクサス』のように複数に開かれている場合もある。「仮面ライダー1号」と「2号」は同じ「顔」だが、複数の人が変身して一つの仮面の姿になるのではなく、同一の仮面が複数あるとされる。仮面の裏の演技者は固定しなくてよい。当初、「仮面ライダー」のスーツアクターは本郷猛役の藤岡弘がやっていた。しかし大怪我を負ってしまったので、その後は別の人がやっている。それが可能なのは仮面をかぶっているからである。

 

4.異相か

 異相というのは人間ではない顔をしたもの、あるいは人間の顔でも平均からずれた特徴をもったものである。重要なのは、仮面をつけると、仮面が表象している性質がその存在性格として仮面をつけた者に宿るということだ。バッタを模した仮面をつけた「仮面ライダー」はバッタのように跳躍する。戦隊ものの仮面は単純なデザインを旨とし、色分けが主たる特徴になっている。その仮面に表象されているのは集団のチームワークである。「進め! ゴレンジャー」の歌詞で〈五つの力を 一つに合わせて〉と書かれているとおりだ。彼らはキャラがかぶらないように、仮面によって色分けが固定されている。ずっと同じ色の仮面(キャラ=ペルソナ)を演じ続けるしかないという抑圧を受けている。

 異相でない仮面もある。変装や覆面である。

 変装というのは別人になりすますことである。特定の他者になること、あるいは匿名の誰かにまぎれることである。したがって、仮面(マスク)をつけていることを感づかれてはならない。「怪人二十面相」が得意とするところであり、『ミッション・インポッシブル』でおなじみのリビングマスクもそうである。整形はそれが固定されたものである。

 たんに当人であることを隠すのであれば覆面を用いる。覆面レスラーの覆面は模様がデザインされており、一貫して同じものが使用されるのでアイデンティティが付着するが、覆面強盗の目出し帽には個性はいらない。『ザ・ファブル』の殺し屋「佐藤アキラ」は、目出し帽をかぶることで、おとぼけ佐藤から殺し屋ファブルに変身する。その目出し帽は、目の部分をくり抜いた手製の粗雑なものだが、定例的に使用しており、個性になっている。個性(顔)を消すための目出し帽が個性になってしまった。

 月光仮面」の場合は、白い布で顔を隠す覆面のように見える。しかし「月よりの使者」を名乗っているので、想像上の存在を模した異相の仮面といえるかもしれない。

 

 仮面ライダーには、以上に示した仮面の定義がどのていどあてはまるだろうか。仮面の定義をもう一度書くと、「仮面は、硬質な材質で作られた、顔の前面を覆う着脱可能なもので、異相を表現したもの」ということである。

 

 1.仮面の材質は硬質か→ ライダーというくらいで、ヘルメットの発展した硬質なものである。

 2.被覆する部分は顔の前面か→ 首から上の頭部全体を覆っており、身体部位の特徴をほぼ消している。首はマフラーを巻き、肌(人間くささ)を隠している。「仮面ライダー」の仮面は、顔を隠すが、正体を隠す覆面としての機能は限定的である。というのも、その正体は周囲の人たちに知られているし、敵のショッカーにもばれている。そもそもライダーに改造したのがショッカーだ。

 3.着脱可能か→ テレビ版では首から下のボディスーツと分離して頭部が露出したことはなく一体的である。つまり仮面として着脱はできないようである。変身によって着脱しているともいえるが、全身的な変化であり、改造人間として皮膚と一体化したものとも考えられる。映画『仮面ライダー THE FIRST』では、仮面として着脱しており、仮面性が強調されている。テレビの『響鬼』でも頭部だけ変身が解かれた姿が見られたが、こちらは仮面の着脱ではなく呪術による変化である。「ライダーマン」の変身ポーズは、ヘルメットをかぶることである。「ライダーマン」は「仮面ライダー」ではない。ライダーにあやかって仮面をかぶっているといえる。

 4.異相か→ バッタと人間を融合させた顔貌である。石森のマンガ版では、ライダーは「大自然がつかわした正義の戦士」と自ら名乗っている。仮面をかぶっていることで人間を超えた存在になることができる。もし、顔をさらしたままで「大自然がつかわした正義の戦士」などと名乗ったら滑稽である。

 

 こうして見てくると、「仮面ライダー」は仮面をかぶっている、と言うとき抵抗を感じるのは「3.着脱可能性」についてである。この点について、日本人が「仮面」という言葉を聞いたときにいだくイメージと、「仮面ライダー」の仮面にはズレがあるように思える。「仮面ライダー」の仮面は、日本的な仮面よりももっと意味を広げた解釈が必要なようだ。それは「変身」という意味である。

 変身ヒーローは多々あるが、「変身」という言葉を最初に使いだしたのはどの作品からであろうか。「ウルトラマン」(1966年)は変身するとき「変身」とは言わない。ベータカプセルを持った右手を黙って上に掲げるだけだ。「ウルトラセブン」(1967年)はウルトラアイを目に当てて「ジュワッ!」と言うが、これは変身にともなう効果音を自分で言っているようなものだ。「帰ってきたウルトラマン」(1971年)は何も言わないし決まったポーズすらない。「仮面ライダー」は同時期放送だが、「変身」の掛け声とポーズは2号からである。

 私の記憶では「変身」という言葉を作品内で常用するのは『スペクトルマン』(当初は『宇宙猿人ゴリ』として1971年1月放送開始)である。「スペクトルマン」は自力では変身できない。母星のネビュラ71から送られる光線を浴びることで変身する。そのためネビュラに変身を請い、許可を受けるという過程が必要になる。このとき「変身願います」「変身せよ」というやりとりが交わされる。『仮面ライダー』は『スペクトルマン』の3か月後の1971年4月放送開始だが、2号が登場するのは第14話(1971年7月3日放送)からで、『スペクトルマン』が「変身」という言葉を使いはじめて半年たっている。

 スペクトルマン』の「変身願います」「変身せよ」というやりとりは子どもにとってまどろっこしかったのか、上司の決裁をあおぐサラリーマンのような変身方法では「変身」という言葉への憧れは生じなかったと思われる。変身を願い出る際は右手を挙げる。私は子どもの頃、空に向かって片手を上げて「変身願います」とやっていて、そのことを今でもありありと覚えている。「スペクトルマン」の窮屈な変身よりも、自分の判断で自由に変身できる「仮面ライダー2号」の変身のほうが人気がでるのは当然だろう。しかも「変身願います」という陳述はいかにも文であるが、「変身!」は行為遂行的な発話であり、発話することじたいが変身という行為を生じさせるかのようでもあった。そしてそれは変身ポーズとセットになることで特別な行為として括りだされることになった。

 己の意志で自在に変身できる2号ライダーが登場する前、初代ライダーが変身するには、オートバイに乗るか高いところから飛び降りるかなどして、風を受けなければならないという制約があった。『仮面ライダー』の第2話では次のようにナレーションされている。

「改造人間本郷猛はベルトの風車に風圧を受けると仮面ライダーに変身するのだ」

 ここでは「変身」は事実を述べている言葉にすぎず、「スペクトルマン」の変身の延長にあった。「スペクトルマン」は右手を挙げて変身を乞う。これは変身ポーズといっていいだろう。だが受動的に変身する「仮面ライダー」には「変身」という言葉はあっても、変身を生じさせる動作はない。このとき『仮面ライダー』において、変身を生じさせる行為に相当するのが「仮面」化だったのではないか。変身に至る準備行為がなく、仮面の装着としてただちに変身が実現される。このことをわかりやすく表現しているのが「ライダーマン」の変身だ。「ライダーマン」の変身ポーズは仮面をかぶることである。仮面をかぶることがすなわち変身であることを示している。もし『仮面ライダー』が最初から変身ポーズで変身していたら、タイトルは『変身ライダー』になっていたのではないか。実際、翌年の忍者ものは『変身忍者嵐』なのである。『仮面の忍者赤影』と比べれば、「仮面=忍者」が互換的で等しいことがわかる。

 「変身!」というかけ声はあまりに直接的だったため、その後は変身時の掛け声はキャラの名前を呼んでその身を召喚するものや、関連する言葉を唱えるものに変わっていく。「シルバー仮面ジャイアント」に変身するには「シルバー!」、「ライオン丸」は「忍法獅子変化!」、「バロム・1」は「バロームクロース!」、「キカイダー」は「チェンジ! スイッチオン! ワンツースリー」、「イナズマン」は「超力招来(チョーリキショーライ)!」、「アイアンキング」は「アイアーンショック!」、「ゴレンジャー」はシンプルに「ゴー!」である。かけ声とポーズは必要である。ちなみに、アニメのロボットものも、合体や出陣のときに「パイルダーオン!」「ライディーン! フェードイン!」などと叫んでいる。ガンダムの「アムロ行きまーす!」も同じである。これらは「変身!」の代わりであろう。