Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

自己言及ソング

「この歌が君に届くように」とか「僕は歌い続けている」のように、歌のなかで、その歌自身を指示しているものを自己言及ソングと呼ぶことにする。今歌っている歌のことを題材にしている歌である。

 こういう歌は、一つのジャンルを形成するほどたくさんある。歌詞に〈この歌〉や〈こんな歌〉とあるのは、たいてい自己言及ソングである。歌詞検索サイトで〈この歌〉の語を歌詞に含むものを検索すると約2460曲あった。〈こんな歌〉の語を含むものは約240曲である。合計で2700曲になる。カバー曲も含まれているので、差し引き2500曲ほど作られていることになる。(2021103日)

 例をみてみよう。

 

・それでも好きな人が できなかった人のために/この歌は僕からあなたへの 贈りものです(オフコース「僕の贈りもの」作詞、小田和正

・しなやかに歌って 淋しい時は/しなやかに歌って この歌を(山口百恵「しなやかに歌って」作詞、阿木燿子

・俺の歌 届くかな お前の その空へ(中略)約束だね この歌 cry cry crying 歌うよ(チェッカーズ「星屑のステージ」作詞、売野雅勇

・勉強ちっともしないで こんな歌ばっかり歌ってるから/来年はきっと歌ってるだろ 予備校のブルースを(高石ともや「受験生ブルース」作詞、中川五郎

・抑えきれない思いをこの声に乗せて 遠く君の街へ届けよう/たとえばそれがこんな歌だったら/僕らは何処にいたとしてもつながっていける(スキマスイッチ「奏(かなで)」作詞、大橋卓弥

・少し寂しそうな君に こんな歌を聴かせよう(あいみょん「君はロックを聴かない」作詞、あいみょん

 

「この歌」や「こんな歌」の扱われ方としては、以下が考えられる。

 

1 自分が歌う

2 他の誰かが歌う

3 自分が聞く

4 他の誰かが聞く

 

 1~4には組み合わせのパターンがあり、多いのは、1+4で、自分が歌う歌を他の誰か(多くは「君」)に聞かせるというものである。上記の例では、「僕の贈りもの」「星屑のステージ」「奏(かなで)」「君はロックを聴かない」がそうである。「Your Song」というタイトルの歌も多い。

「君に聞かせる」ということをもっとポエミーに言えば「君に届ける」「君に贈る」「君に捧げる」ということになる。上記の例では、「星屑のステージ」「奏(かなで)」で、「届く」という語が使用され、「僕の贈りもの」では「贈る」が使用されている。

 自作の歌を、他の誰かに届けたり贈ったりするのは勇気がいる。駄作にするわけにはいかない。贈り物に値する歌を作らねばならない。かつての歌は、神に届けられるもの、神に贈られるものだったという側面を持つが、それが随分と世俗化したものになった。

 1+2の組み合わせというのもある。自分と他の誰かが歌うということで、みんなで歌うことはここに含まれる。始原の歌は、歌い手と聞き手が分離しておらず、みんなで一緒に歌うものだったはずだ。今でも、コンサートなどで、歌手とみんなが一緒になって歌うことがある。そして、みんなが一緒に歌うことを歌った歌もある。

 

・さあ僕と声合わせて ひとつになろうよ/くちびるから くちびるへ 愛を伝えよう/心をひらいて つなごう コーラス・ライン(野口五郎コーラスライン」作詞、麻生香太郎

Sing a Song 歌いましょう(中略)これからもこのまま みんなで一緒になって 素晴らしい愛の歌 歌い続けていけたなら(松田聖子Sing」作詞、Seiko Matsuda

 

 こうした歌は、ある程度の大物歌手でないと、みんな一緒にという包容力が表現できない。

 1,2,4の例について見てきた。残ったのは「3 自分が聞く」である。3の例はあまりないが、ちあきなおみ喝采」(作詞、吉田旺)に、〈耳に私のうたが通りすぎてゆく〉とある。また、吉幾三「酒よ」(作詞、吉幾三)は、〈ひとり酒 手酌酒 演歌を聞きながら〉という。「酒よ」はベタな演歌であるから、演歌を聞いていることを歌う演歌ということになる。〈聞きながら〉つながりでいえば、尾崎豊十七歳の地図」(作詞、尾崎豊)にある〈十七のしゃがれたブルースを聞きながら〉のブルースが十七歳の自分の作った歌のことだとすると、これは自分の歌を聞いている歌ということになる。「十七歳の地図」はもともとテンポがゆっくりだったというから、「この歌」を聞いていることを「この歌」で歌っているという自己言及ソングになる。

 

 以上、「歌を歌う歌」についてみてきた。ただ、「1 自分が歌う」は、あくまで「この歌」にフォーカスがあった。似ているが違うものとして「歌う自分」にフォーカスするものがある。歌い手は歌を歌うことが仕事であり日常である。シンガーソングライターだと、歌を歌うことが経験の中心にあるので、歌の題材を探すときに、歌うことそれ自体が選ばれやすくなる。そのため「歌う自分」というジャンルも生じることになる。先に引用したちあきなおみ喝采」では、恋人の死を経験しても〈それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる〉と歌われる。歌う私について歌っているメタソングである。

 自分はなぜ歌を歌うのか、歌とは何か、という自明なものの問い直しを主題にした歌が作られている。メタ性に自覚的な歌である。これについては「rockin’on.com」に「ミュージシャンが「歌」について歌った曲10」という記事がある。(2019.10.10

https://rockinon.com/news/detail/189830

 そこで紹介されている中で、奥田民生「これは歌だ」、斉藤和義歌うたいのバラッド」、ケツメイシ「何故歌う」などは、歌とは何か、なぜ歌うのか、を主題にしており、[Alexandros]Your Song」は、作られた歌が一人称で語るという奇想が目を引く。

「歌う自分」への関心は、まず、歌うことが自分の存在証明になっていることに始まるだろう。尾崎豊僕が僕であるために」(作詞、尾崎豊)は、〈僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない〉と歌う。この歌には、もう一つ「○○し続ける」というフレーズがあり、それが〈歌い続けてる〉である。これを、〈僕が僕であるために歌い続けなきゃならない〉と入れ替えても、趣意をはずしてはいないだろう。歌い続けることが自分らしさをかたち作っているのだ。また、そこでは〈この冷たい街の風に 歌い続けてる〉とある。〈風〉という目に見えない空気の動きに対して、同じく〈歌〉という目に見えない空気の振動で対抗しようとする。途絶えることなく〈歌い続け〉なければ、大きな流れには抵抗できない。ここには、歌手である自分には歌うことしか手段を持てないというもどかしさも感じられる。(何に対してであれ、〈歌うことしかできない〉という内容の歌詞はJポップにしばしば登場する。)

 ジローズ戦争を知らない子供たち」(作詞、北山修)では、〈若すぎるからと許されないなら/髪の毛が長いと許されないなら/今の私に残っているのは 涙をこらえて歌うことだけさ〉と歌われる。歌うことが唯一残された抵抗の身振りである。歌も、平和的手段による社会変革である。手段である歌は、目的でもある。「歌うこと」という自由は〈許され〉ているということを、今まさに歌っていることで証明している。

 

「この歌」がどのように歌われるべきか、歌詞に規定される場合もある。「青い山脈」(作詞、西條八十)は、〈若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く〉と歌うが、〈若く明るい歌声〉とは、この歌を歌っている〈歌声〉それ自体である。私たちがもしこの歌をカラオケで歌うとしたら、歌詞との認知的不協和が生じないように、伸び伸びと明るく歌うことに務めるだろう。

「手のひらを太陽に」(作詞、やなせたかし)を歌うときも同じである。〈ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ〉と歌うこの歌はやはり、生き生きと歌うことを義務付けられている。小学生のとき音楽の時間で、この歌の躁病的カラ元気がどうにも好きになれなかった私は、小さい口でボソボソ歌っていたら、みんなの前で担任から注意を受けたことがあった。「〈ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きている〉んだ。お前だって生きているんだろう」と侮辱されたのである。金物屋セガレだったこの担任は、別に私が呪い殺したわけではないのだが、50代早々にして死んだ。それにしても、〈みんなみんな生きているんだ 友だちなんだ〉という歌詞は飛躍している。〈生きている〉ことは、ただちに〈友だち〉であることには結びつかない。

 

 ところで、歌が共有される「歌う/聞く」という場面においては、聞き手は一方的な受容者であるが(みんなで歌うという場合を除き)、ダンスのように、たんなる受容者ではなく能動的な参加者になることもできる。「東京音頭」(作詞、西條八十)は踊りを踊るための歌であるが、その歌詞は〈踊り踊るなら チョイト 東京音頭〉というもので、「この東京音頭という歌で踊ろう」といっている。この歌を聞いて踊る人は、「この歌で踊ろう」という歌で踊っていることになる。〈花の都の 花の都の 真中で〉という歌詞も、踊る人の場所を示している。同じく踊りの歌である「阿波踊り」も、〈同じアホなら踊らにゃそんそん〉と、踊ることをめぐる歌詞が入っている。踊る人の意識は、歌と身体の動きのリンクに向かっているので、意識が歌に沿いやすいようにするために自己言及的な歌詞がいいのかもしれない。

 ここで思い出されるのが労働歌である。労働歌のなかには、作業するときにみんなで息をあわせるために歌われるものがあり、歌とそれを聞く人とは一体である。労働歌を歌に取り込んだ美輪明宏ヨイトマケの唄」(作詞、美輪明宏)で〈父ちゃんのためならエンヤコラ〉と歌われるとき、歌い手と聞き手は一致している。これらは歌の素朴なかたち、歌い手と聞き手が分裂する前の歌のかたちを残している。