Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

尾崎豊「虹」の読書会

 尾崎豊の「虹」(作詞、尾崎豊、1990年)はCD2枚組アルバム『誕生』に収録された歌である。最初に聞いたときはアルバムの埋め草のような退屈な歌だなと思ったが、ライブビデオでじっくり歌う姿を見ているうちにスルメを噛むような味がある歌だなと思った。今回は、ファン以外には知られないようなこの歌を取り上げてみよう。よく知られていない歌のほうが尾崎豊という強烈なキャラクターから離れてテキストそのものに向き合えることができるだろう。

      *

1

 雨まじりの強い風が吹くなか、早坂は区民センターめざして歩いていた。駅から目的地まで歩いて十五分たらずだったが、傘でしのぎきれない雨が服をしっとりと濡らした。十二月だというのに春のような暖かさで、気持ち悪いほどだった。

 区民センターは有名な建築家が設計したもので当初こそ奇抜なデザインを興がられたが、新鮮さは既に失せ、周囲の家並みから浮いた佇(たたず)まいは今や滑稽さを残すだけとなっていた。

 読書会の開始時刻は午後三時である。二〇分前に着いた早坂は、借りてきた鍵で会議室のドアを開けると、薄暗い部屋の蛍光灯をぱちんと点(つ)けた。小さな会議室の隅には、折りたたみ式の机と椅子が寄せかけてある。人数が少ないので一番小さな部屋を予約してあった。おかげで借りるのも簡単だった。

 今日集まるのは早坂を含めて五人である。女性二人と男性三人で、お互い初対面の人はいない。会員は十数名いるが、取り上げる本によって食指が動かない者は参加しない。今回は小説やビジネス書ではなく詩、それも歌詞を読もうという初めての試みだ。参加者が少ないのも仕方ない。他方で、ふだんあまり参加しないが今回は是非参加したいという男性が一人いた。

 テーブルを広げ、周囲を五つのパイプ椅子で囲んだ。来る途中のコンビニで買ってきたペットボトルの温かいお茶とスナック菓子を机の上に並べていると、ポツポツと参加者が集まりだした。

「なんだか妙に暖かくておかしな天気だな。上野のほうで、強風でビルの看板が落下したらしいぞ」

「ホントもう、髪がバサバサ」

「よかった、来てくれて」

「うーん、実はちょっと迷ったけど」

「すぐ暖房がきいてくるんで、服を乾かしてくださいね」

 などと話しているうちに、予定していた五人が集まった。

 今日は尾崎豊の「虹」という歌詞を読むことになっている。決めたのは今回の担当である早坂だ。何を読むかは事前にメールで知らせてある。尾崎豊という名前を知らない人はさすがにいないだろうが、この歌はアルバムの中の一曲なので、よほどのファンでないと知らないだろう。早坂が六歳のとき尾崎は亡くなったが、そのとき繰り返しテレビから流れた歌を聴いて母親が尾崎のファンになりアルバムを買い揃えたので、幼い早坂もよくそれを聴かされるはめになった。

 時間になったところで早坂は開始を告げ、今回の趣旨を簡単に説明した。

「どんな歌か、事前にネットの動画で確認してもらってあると思うけど念のため流しますね」

 コピーした歌詞をくばり、スマートフォンにスピーカーを付けてみんなで歌を聴いた。

 

 

    虹

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

  街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨の 小さな雫が瞳の中に落ちてくる

  閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく

  水たまりに映った 君の影が 僕の心を開く

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

  優しさだけなら 素直にもなれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする

  灰色の空の様な冷たさに震えてる

  人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて 心を開いて

 

 

「この歌詞について二時間も話すのか。時間もつかな」

 歌を聴き終わって、まず一声を発したのは小太りの西という男である。三〇代半ばで皮肉屋だ。自分ではそれを知的だと勘違いしている。二時間もつかなと言ったわりには、どこか自信ありげだ。

 たまにしか参加しないが今回特に意欲的なのは山口だ。

「僕、尾崎について結構詳しいんで、随所で解説できると思います」

 自信ありげに言う山口は二〇代前半の眼鏡男子で、高校の国語教師を目指している。現在は都立高校で非常勤講師をしている。山口は早速タブレットを取り出して操作しはじめた。調べてきたことをまとめてあるのだろう。

 進行は今回の担当である早坂の役目だ。早坂も西と同じくは三〇代半ばで、チェーン店の書店員をしている。中国地方の出身で、県内の国立大学に進学し、卒業後はコンピューター関係の会社に勤務したが、小説家になろうと思って上京し、SFの短編を書いてはコンテストに応募している。これまで三回ほどチャレンジしたが候補作どまりである。

 女性たちに歌の第一印象を尋ねた。

「イントロはいいですね。大きな虹の橋がぶわーっとかかる感じが目に浮かびます。ただ、歌詞は理解できないところがあります。雨上がりの虹っていうロマンチックな歌なのに、雨に濡れながら女の人の家のドアの前でずっと待っているって、ちょっとストーカーっぽい執念深さがあって、奇妙なところがある歌詞だなと思いました。今日ここに来るときも少し濡れたけど、この歌の人はずぶ濡れでも平気そうだから、歌の季節は夏ですね。ずぶ濡れだということは繰り返されるけど、寒くて震えるとは言ってませんから」

 そう感想を述べた香織は社交的な性格の女性で、多少理屈っぽいのはタウン誌の編集をやっているせいだろう。夜はジムでトレーニングをしたり、一人でカラオケへ行ってストレスを発散している。体に悪いのはわかっているが煙草を吸うのはやめられないという。

「私も。この人イケメンだからそんなことしそうにないって女性は騙されちゃうけど、歌詞はちょっとヘンかなと。でも、歌い方もうまいし聴き手は自然に受け入れてしまいますね。歌詞カードさえじっくり読まなければ」

 続けて発言したのはなつみである。香織の友人で、会社の事務をしている。おっとりしたお嬢様タイプで、縦巻きにした長い髪が可愛らしい。読書会ではあまり発言しないが、ときおり鋭いことを言う。

「うーん、ストーカーか。その感想をひっくり返してやりたいですね、僕は」

 と、山口は腕組みして宙を睨んだ。

 西が薄く笑った。「そうだなぁ」ともったいをつけるように喋った。顎を人差し指でこするようなしぐさをするのが話すときの癖だ。自分の頭の中から事例のストックを引き出してくるといった様子だ。「雨が降っているのに傘もささずに濡れているっていう設定はよくあるパターンでしょ。三善英史の「雨」(作詞、千家和也、一九七二年)なんてまさに〈雨にぬれながら たたずむ人がいる〉っていう歌だからね。約束した人をいつまでもじっと待っている。他には、何人にもカバーされている名曲「黄昏のビギン」(作詞、永六輔・中村八大、一九五九年)に、〈傘もささずに僕達は 歩きつづけた雨の中〉とある。この歌は状況設定がよくわからないけど、傘もささずに歩いているということで何か複雑な事情がある男女であることを想定させる。とにかく、雨に濡れ続けることは、感情を抑えた静かな激しさを表しているわけで、歌の世界の住人にとってはそれほど変なことじゃない。なにも泣きわめくだけが激しさじゃない。で、尾崎の「虹」ね。虹はロマンチックだって言ってたけど、この歌は雨があがってほしいとは歌っていても、歌詞には虹なんて出てこないよ。タイトルについてるだけ」

 西は声が大きいので威圧感がある。その西に負けじと、香織が言い返す。

「〈閉じた傘〉とか〈水たまり〉とあるので、雨はやんだんじゃないんですか。そこでこのタイトルですから、空には虹が出ていると思います。歌詞の中に描かれていなくてもタイトルも含めた全体で表現されているんだと思います」

 嫌味たらしく言われて引っ込んでいるようなおとなしい女性ではない。きつい目つきをして西を睨んだ。

 西は、ふっ、と息を漏らして言った。

「虹なんて遠くから見れば綺麗だけど実体がないものの象徴だよ。虹は陰鬱な雨に耐えたことのご褒美なんだろうけど、すぐ消えてなくなる不安定なものでもある。そこからすると、歌の二人の関係は仮に一旦良好になったとしても、それが長続きするとは思えない。ま、女のほうはどういう人物か皆目わからないけどね」

 

2

 早坂は話を切り替えた。

「最初からあまり決めつけるのはやめときましょう。歌詞を読む前に、まずこの歌の外側をざっと説明しますね。この歌は一九九〇年のアルバム『誕生』に収録されたものです。それまでの尾崎のスローバラードって、もの悲しかったり気怠かったりして狭いところに入り込んで行き詰まっている感じがしたものだったんだけど、この歌は広がりがあって安定した感じがあります。いわゆる尾崎らしさがあまりないというか」

「尾崎らしさって何?」

 すかさず西が口を挟む。定義がゆるいと我慢ならないらしい。

「尾崎らしさというのは、深い内省があるかと思えば過剰な激しさもあることです。あるいは、権威への反抗があるかと思えば他者に理解を求めたりします」

「この歌は」と西が疑問を呈した。「内省はちょっとしかないけど、〈ずぶ濡れで待つ〉なんて過剰さがあるし、権威への反抗はないけど〈心のドアを開けて〉なんて他者にすがっているじゃない。それは尾崎らしさじゃないの?」

「まあ、細かいところはあとにしましょう」と、早坂は軽くいなした。

「わかったよ。両極端だってことなんだな」

 西は意外にあっさりと矛をおさめた。

「ええ、両極端な人なんですけど、それゆえの疎外感を他者との一体感で埋め合わせようとするみたいなところがありますね。もちろそんそれは求めても得られないものですけど」

 早坂は続けた。

「この歌の「虹」というタイトルは、尾崎の歌の中では明るく希望のある感じのものだと思います。ライブ映像を見たとき、飾らずのびやかに歌っていたのが印象に残っています。曲のアレンジも、大空に虹がかかっているイメージを想像させます。歌詞は、雨に包まれる街を自分の心情風景に見立てていて、比喩もわかりやすい。一見、そう見えます。ただ、サビの部分はちょっとヘンな人と言われればそうです。歌を聴いているときはそれほど違和感はないのですが、こうして歌詞を文字として読んでみると言葉の意味がはっきりわかって、どうしても目がそこにいってしまいますね」

 早坂が一息ついたところに、すかさず西が割り込んだ。

「この歌は、井上陽水の「傘がない」に似ているなと思ったね。ネットで見たら尾崎は陽水が好きだったって書いてあった。「傘がない」は、連合赤軍が一九七二年に起こしたあさま山荘事件の二か月後に発売されたアルバム『断絶』に収録されていて、若者が社会的なものへ無関心になっていく様を描いている。「傘がない」は、新聞やテレビには暗いニュースがあふれているが、君のこと以外は何も見えない(見たくない)と歌っている。私的なことに開き直る罪悪感への償いであるかのように語り手は雨に濡れる」

 山口が憤然とした口調で、「どこが似てるっていうんですか。全然違うように思うけど」と、言った。

「状況は違うけれど、似ているのは言葉だ。「傘がない」にある〈君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ/つめたい雨が僕の目の中に降る〉という部分は、「虹」では〈雨が上がるのをずぶ濡れで待つ〉〈雨の小さな雫が瞳の中に落ちてくる〉とあって、そのまんまでしょう」

 嫌味な西の発言にムッとして山口がさらに反論した。

「雨が目の中に降るって、ありきたりの涙の比喩なんで、パクリみたいに言わないでほしいですね。森田健作の「さらば涙と言おう」(作詞、阿久悠、一九七一年)は、〈雨の降る日を待ってさらば涙と言おう/頬をぬらす涙は(略)小雨に流そう〉と歌ってますよ」

 西は平然と返した。

「それは涙を雨でごまかすということだよ。でも尾崎や陽水の歌詞は、目薬みたいに目の中に雨が降るっていうことで、発想が異なっているよ。一般的には、雨で涙を表す場合には、雨が頬にかかるとか頬を濡らすという描写をするよね。涙は目から出るものであって、外から目の中に入ってくるものではないから」

 山口が放った言葉は西に叩き落とされてしまった。

「まぁ、細かいことはまたあとでふれましょう」

 早速ヒートアップしそうなので、早坂は仲裁にはいった。じっくり語るべきところは語るが、歌詞についてパクリなのか偶然の一致なのかを言い出すときりがないし、それを裁断する場でもない。進行担当として、先に進むことにした。

「全体的な印象ですが、歌詞は雨のイメージに満ちています。単調なくらい雨のイメージ一本槍だといっていいです。もちろんこれは、たんなる雨降りの歌ではありません。雨について語りながらそれとは別のことを語っています。それは、語り手である〈おいら〉は今、生まれ変わる苦しみの中にいるということです。雨に濡れるのは、そのための禊(みそぎ)のようにも思えます。ただし僕には、その生まれ変わりはうまくいかないように感じられます。さきほど香織さんは傘を閉じたとあるから雨はやんだと言いましたが、〈だから今日も〉とあるように、この人は何日も雨に濡れているようにも思えるんです。雨が降ったりやんだりが繰り返されているんじゃないかな。ちょっとした晴れ間はあるけれども、ピーカンの青空までには至らずに、またグズついた天気になってしまう」

 なつみがおずおず口を開いた。

「私はこの歌に出てくるような男の人って苦手だな。このタイプの人って自分の気持ちをわかってくれっていう強引さばかりで、相手の気持ちはわかろうとしないんです。〈ずぶ濡れ〉で相手を待ち続けるってそういうことでしょう」

 どこか自分の過去の経験を語っているようにも聞こえる。

 なつみが話の流れからずれたようなことを言ったため、どう受けていいかわからない早坂は軽くうなづいただけで、半ば無視するように続けた。

「一般に、小説やドラマなどで雨が出てくるときにはそれなりの理由があります。天気は晴れであることが「無徴」です。無徴というのは、その言葉からまず想像されるもののことです。今日はいい天気だ、というのは晴れていることを意味しますよね。雨は、悲しく憂鬱な気分を表す隠喩だったり、出かけるのを控えるといった行動の制限、濡れないために傘のような雨を防ぐ手段を必要とする煩わしいことの象徴だったりします。そのため、雨上がりの後の虹は、沈鬱な気分が去ったことを示すわかりやすい記号になっています。自然現象の虹は、目には見えるけれどもすぐに消えてしまうし、どこまで行ってもつかめない。それでいて鮮やかです。だから希望の比喩としてよく使われる。遠くから憧れの眼差しで見ることはできるが、たどりつくことができず、つかむことができない」

「それはさっき俺が言ったことじゃないか。繰り返すなよ。くどいな」と西が口を挟んだ。

「ええ。もうちょっと敷衍させてください」早坂が弁明する。

「手短に頼むよ。新味のない意見を聞くのは時間の無駄だからな」と西が念押しする。

「いいじゃない。早坂さんの言うことを聞きたいわ。私は」香りが援護する。

「ありがとうございます。もともとこの読書会は実用的なものではないので勘弁してください、西さん」

「おまえらデキてんのか」西が冷やかす。「俺はジャイアンじゃねぇからな。強引に仕切るつもりはない。好きにしろよ」

「では」と早坂は続けた。「雨は人を家の中に足止めにし、事態を停滞させます。だから逆に、そんな雨の中に飛び出し、あえて雨に濡れることが意味を生じさせることになります。90年代のトレンディ・ドラマでは、喧嘩のすえ土砂降りの雨の中に飛び出した恋人を傘もささずに追いかけたり、あるいは雨の中で抱き合ったりする場面がよくありました。こういうとき彼らは、大切な人との別れや死という重大な局面を迎えていることが少なくありません。たんに雨が降ることと雨に濡れることでは意味が異なります。

 神話に典型に表れていますが、水に濡れることは、洗い清められることを意味しています。もっと言うと、生まれ変わることを意味している。その典型が禊(みそぎ)や洗礼です。禊は汚れを水で洗い清めることであり、洗礼はキリスト教徒として生まれ変わること。これらは神話や伝説に起源を持っています。日本では修験道で滝行をおこなっています。冷たく強い水に打たれることで精神修養をするのですが、肉体的にハードなので、没我体験を起こして自然との一体感を得られることもあるようです」

「雨の中でずぶ濡れになっていると普段の自分じゃなくなっちゃうってのはわかる」となつみが言った。「ドラマなんかでも、雨の中で濡れている二人って普段は言えないことを言っちゃうのよね。異常事態だから、つい本音を口にしてしまう」

「なつみさんもドラマ好きなんですね」

「恋愛ものとか大好きでよく見てます」

「うちも、母が見てるんで、つきあわされてつい見てしまいます。昔のドラマもレンタルでよく見てます」と早坂が嬉しそうに言った。「歌詞では、〈おいら〉は自らすすんで〈ずぶ濡れ〉になっています。〈おいら〉が人間関係において精神的に打ちのめされていることが〈ずぶ濡れ〉という比喩で語られていると同時に、〈おいら〉は雨に打たれることでこれまでの過去を雨によって洗い流し、過去を切断し、生まれ変わり、それまでの自分を超えようとしているように見えます。雨は精神的なダメージとその乗り越えを同時に意味していると思います。〈おいら〉は変化の過渡にあるように見えるのです。

 それは「虹」というタイトルにも暗示されています。旧約聖書にあるノアの方舟(はこぶね)の物語では、四〇日続いた大洪水のあと、神は今後このような大洪水は起こさないと約束し、その証(あかし)として空に虹をかけました。大洪水は地上に増えた悪い人間たちを一旦リセットするために神が起こしたものです。洪水によって地上は洗い流され、生き延びたノアの家族や動物たちは、いわば生まれ変わった人類です」

「約束の証が虹っていうのは洒落てるわね」と香織が言った。「私たちが虹を見るときも、雨に耐えたご褒美っていう感じがする」

 早坂の話を聞きながらうなづいていたなつみが思い出すように言った。

「何年か前に見た『ノア 約束の舟』っていう映画でも最後に虹がかかっていました。ノアがちょっと理解できない人に描かれていて、楽しくなかったけど」

 

3

 早坂はテーブルの上のチョコレートを一つほおばり、生ぬるくなったペットボトルのお茶を一口飲んだ。他の者もてんでに菓子をつまんだ。なつみは「このチョコおいしい。どこで買ったんですかー」と目を輝かせて、パッケージをひっくり返して眺めていた。西が「ふぁーっ」と大きなあくびをして両手を伸ばした。煙草を吸いに外に出ていた香織が部屋に戻ってきた。いぶしたような匂いを身にまとっている。

「歌詞をこまかく読んでいきましょう」

 小休止のあと早坂は再開した。

「まず、タイトルの「虹」ですけど、さきほども少し議論になったんですが、虹は歌詞の中には出てこないですね。歌詞の視点は街に膠着していて、空には虹がかかっていないとしても、それを雲の背後に潜在性として感じることで、街の背景に奥行きや広がりが出ます。

 歌には、タイトルにある言葉が歌詞の中でも使われているパターンと、タイトルにある言葉が歌詞の中では使われていないパターンがあります。歌ができる経緯を考えれば、タイトルがまず頭に浮かんでそこから歌詞を書き始める場合と、歌詞を書いてからその中の印象的な言葉をタイトルにもってくる場合、それと歌詞の全体的な雰囲気から歌詞の中にはない言葉をつける場合が考えられます」

 尾崎ファンである山口が自分の出番とばかり、解説をはじめた。

「尾崎の場合、最初は、タイトルにある言葉が歌詞の中でも使われているというシンプルなものが多かったんですが、そうでないものも増えていきます。タイトルは歌詞と少し離れていたほうがヒネリが感じられてカッコいいです。中には謎解きを要するようなわかりにくいタイトルもありますが、この歌は〈雨が上がるのを〉待っているという最初の一行でタイトルの意味はわかります。

 尾崎の歌のタイトルは比較的わかりやすいですよ。「BOW!」「卒業」「存在」「シェリー」「彼」「核」「LIFE」「時」「理由」「KISS」「COOKIE」「FIRE」など、単語を一語置いただけのシンプルなものも少なくないです。「虹」もこの系列にはいりますね。「虹」のように漢字一字のタイトルは、「彼」「核」「時」があります。漢字一字に高い象徴性が負わされています」

 スマートフォンをいじっていた西が、画面を見せながら言った。

「今、スマホの歌詞検索サイトで調べたら、Jポップには漢字一字の〈虹〉というタイトルの歌はざっと数えただけでも五〇曲以上はあった。「桜」というタイトルも多いけど、それより多い。桜の花びらと虹に共通するのは、その存在は鮮烈だが、それを目にできる時間が短いということだ。綺麗だがはかないものである。はかないから日常化しない。だから人は惹きつけられる。「虹色~」というタイトルも多いし、同じように「桜色~」というタイトルも多い。両方とも日常を超えた不思議な感じをもたらしてくれるものという共通点がある」

「虹というタイトルが桜のそれより多いのは意外でした」と、早坂が少し驚いてみせた。

 西は即興の思いつきをそれらしく仕立て上げて喋るのが得意だ。さらにその場で思い浮かんだであろうことを続けた。

「もしこの歌のタイトルが「虹」ではなく「雨」とか「雨上がり」「灰色の街」とかだったらどうだろう。そのほうが歌の内容に即している。しかしそれでは展望が開けない感じだし、内容とタイトルが「つきすぎ」ている。「つきすぎ」というのは俳句の批評でよく使われる言葉なんだけど、一つの句の中に似たような題材を二つ入れてしまうことで結びつきがわかりやすくなって広がりが出ないってこと。この歌では、歌詞と関連はあるが直接には言及されない「虹」としたことで歌詞世界に広がりがでた。雨が上がっても虹がでるとは限らない。むしろ虹が空にかからないことのほうが多い。だから珍しがられる。雨が上がることと虹がかかることのあいだには飛躍がある。「虹」という歌では、雨上がりにおいて、たんに雨が「ない」というだけではなく、虹が「ある」という状態だというんだね。雨が止んだだけでは状況の遷移がはっきりしない。虹という区切りが必要だと言っているんだ。ちなみに、現象としては別物だが、虹と似ているものにオーロラ(極光)がある。見ることのできる場所が限られているだけに非日常の度合いが増す。オーロラは夢や神秘、ありえないものの象徴として使われている。虹よりフィージビリティー(実現可能性)が低いんだ」

 西という男は皮肉屋だが、議論を深めてくれるのでありがたい存在だと早坂は思った。もしかしたら嫌われ役をすすんで引き受けて議論を活発にしようとしているのかもしれない。だが、いつまでもタイトルにこだわっていては先に進まない。どうしようかと迷っていたら、いいタイミングで山口が発言した。

「雨や虹のほかにこの歌詞の印象を方向づけるものとして語り手の自称があります。語り手が〈わたし〉と言うのか〈俺〉と言うのかで歌詞のイメージが随分違ってきます。この歌での一人称代名詞、つまり語り手自身を指す言葉は〈おいら〉と〈僕〉が混在していますね」

「あ、ホント」香織が気づかなかったというふうに嘆息した。山口はちょっと得意な顔になって眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと上げた。

「尾崎の歌の一人称はたいてい〈俺〉か〈僕〉なんですが、〈おいら(俺ら)〉を使うものは他に「街の風景」「ハイスクール Rock’n’ Roll」「COOKIE」があります。これらは初期に作った歌です。他にも「秋風」「弱くてバカげてて」「酔いどれ」「もうおまえしか見えない」などデビュー前に作った歌で、アルバムには選ばれず、死後発掘されたものが〈おいら〉で語られています。つまり尾崎豊という書き手が選んだ一人称代名詞は当初〈おいら〉だったということですね。それではあまりに田舎くさいので〈俺〉や〈僕〉になっていったのでしょう。正式に世に出すものと決めた作品として〈おいら〉が使われているのは、「街の風景」「ハイスクールRock’n' Roll」という最初のアルバムに収録された歌と、「虹」「COOKIE」という後期のアルバム『誕生』に収録されたものだけです」

「そうね、男の人で自分のことを〈おいら〉なんて言う人は私の周りにはいないもの」お嬢様ふうのなつみが言った。

ビートたけしが「おいら」って言うよね。足立区の下町で育った人で、「おいら」は下町言葉だ」と西が補足した。

 山口は「なるほど」と頷いた。「尾崎は一九七〇年前後の幼少時代を練馬区で過ごしています。周囲はまだ田畑や原っぱが広がっていて、都市化されつつあったけど、まだ過渡の時期ですね。実は、「虹」と「COOKIE」のサビ部分の歌詞は、デビュー前の創作ノートに書かれていたものをそのまま利用したものなんです。だからそのとき使っていた〈おいら〉がそのまま残ったんですね。のちに「虹」となる詞は、当時のノートではこうなっていました。

 

  今日も雨があがるのを ずぶぬれで待つおいらさ

  ねえ あきれた顔をしないで 心のドアをあけて

尾崎豊『NOTES 僕を知らない僕 1981-1992』新潮社、二〇一二年、一九頁)

 

 このフレーズは、その後もノートに繰り返し現れますから、よほど気に入ったイメージだったんでしょう。だから〈おいら〉もそのままにしておきたかったんじゃないでしょうか」

「〈ずぶ濡れで待つ〉っていうのは大人らしくないと思っていたけど、やっぱりそうだったのか。〈ずぶ濡れ〉になるのは子どもなら半分遊びみたいなもんだ。でもそれを大人になってやると、かなり追いつめられたイメージに変わってしまう」と西は言った。

「そうですね。同じイメージを使うにしても年齢によって受け取り方が違いますね」と山口は応じた。「人称についてもう少し話しますね。二人称を見ると、「虹」では〈おまえ〉と〈君〉が混在しています。これは、〈ずぶ濡れで待つおいらさ おまえ呆れた顔をしないで〉、〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉と使われているように、「おいら/おまえ」「僕/君」がセットで使い分けられているんです。人称というのは単独で存在するものではないですから。必ず対他関係をともなっています。〈おいら〉という人称では、それにふさわしいまなざしで世界を見ている。だから〈おいら〉の目に映るのは〈あなた〉ではなく〈おまえ〉なんです」

 いかにも国語の教師を目指している山口らしい読み方だった。

 

4

 早坂がチラッと時計を見ると、始まって一時間ほどが過ぎたところだった。まだ歌詞の具体的な内容に入っていない。歌詞に限らず読書会で詩を読んだことはなく、この短い歌詞で二、三時間もたせられるかと不安だったが杞憂に終わりそうだ。

「歌詞を最初から見ていきたいんですけど、この歌は奇妙な始まり方をしていますよね。ここも山口さんが得意なところだと思うんですが、どうですか」

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

 早坂が振ってきたのを山口は引き取った。

「はい。冒頭に〈だから今日も〉とあって、たしかに不思議な始まり方ですが、理由は単純です。これはサビを頭に持ってきただけです。いきなり聴き手の心をつかむためによくある構成上の手法です。歌詞としては、倒置法と同じ効果を生んでいると思います。唐突に〈だから〉と始まると聴き手はとまどいます。〈だから〉という接続詞は、その前に理由となる文を必要とします。〈だから〉に続く文は、その理由を承(う)けて導かれた出来事が語られるはずです。けれど、この歌ではその前の部分が語られないまま始まりますから、聴き手は〈だから〉の前に何があったのか好奇心がかきたてられ、推測することになります。冒頭に置かれた〈だから〉は、聴き手をとまどわせると同時に歌詞の世界に引き込む力を持っています。たった一語で聴き手は、自動的に謎解きに参加させられるんです。ま、答えはすぐ後に続いてるんですけどね。つまり、相手の〈心のドアを開けて〉もらいたいから、ということです。おまえさんに心を開いてもらいたいから、おいらは雨の中で濡れたまま待っているのさ、呆れないでくれよ、ということです」

 山口を補足するように西が他の例を引いた。

美川憲一の「さそり座の女」(作詞、斎藤律子、一九七二年)は〈いいえ私は さそり座の女〉と始まる。いきなり〈いいえ〉だからね。これも、その前が気になるな」

 香織は「それはわかるんですけど」と、眉をひそめる。「「虹」の、この二つの文は〈だから〉で結ぶにはどうもしっくりこないんですよね。どうして、〈おまえ〉の〈心のドアを開〉けるために、〈ずぶ濡れ〉で待つという行為が選択されるのか。両者には順当な因果関係はありませんよね。〈だから〉の後に続く文は、理屈っぽい接続詞のわりには説明になっていないと思います。継起する関係がなぜそうなのか、さらに別の説明を必要とする内容です。わかるのは〈おいら〉の頑張りというか意地を見せているということだけです。〈ずぶ濡れ〉の自分を見せれば、かえって相手の心証は悪くなる(呆れる)とわかっているのに、〈おまえ呆れた顔をしないで/心のドアを開けて〉くれと言うんですから、相手の反応は無視して自分のやり方を押しとおそうとしているんです。〈心のドアを開〉けさせるにはいろんなやり方があるんでしょうけど、相手の反応にかかわらずそのやり方を変えない。〈おまえ〉に見せつけるためにやっているパフォーマンスなんですが、それが気味悪がられているのに自分は精一杯やっているからいいと思っている。ズレてることに気づいていないんです」

 自分の考えを率直に述べると辛辣に聞こえる、ということを香織は承知している。けれども迂遠な言い方に変換しようと配慮しているあいだに口が先に動いてしまうのだ。

「そう。そこに飛躍があるのに〈だから〉という接続詞が出てくる発想をしてしまうこの男の人が、私にはちょっと無理かなと思います。さっきも同じことを言ったんですけど」なつみが女子の意見という感じで言った。

「対話的でなく一方通行なんだな。昨今なら、サプラ~イズ! とか言ってびっくりさせるやり方があるけど、あのサプライズっていうのも相手の都合を考えてないよな。感動と驚きとを勘違いさせている。吊り橋理論みたいに。やられた方はありがたがるしかないだろ。〈おまえ〉も〈呆れた顔〉をする以外にない。でも〈呆れた顔〉を見れたということはドアを開けることに成功したということか」と言って、西は首をひねった。

「建物のドアではなく比喩としての〈心のドア〉ですからね。〈呆れた顔〉では〈心のドア〉は開いてないと思います」と香織は言った。

 西は素直に、そうか、と頷(うなづ)いた。香織は、ちょっと意外だといった面持ちで西を見て、さらに続けた。

「なんにせよ、この人のやろうとしているのは、相手が呆れようが何しようが、その強情ぶりに諦めて〈心のドアを開〉けさせることです。〈ずぶ濡れ〉になるのはそのための自虐的な演技でしょ。これは誠実で粘り強いというより相手のことを考えない自己中心的な性格の表れだと思います。境界例っぽいですね。〈だから今日も〉の〈今日も〉は女の人にとっては怖いですよ。毎日帰り道で待ち伏せするストーカーみたいに、この人は、昨日も一昨日もそうしていたのだし、おそらく明日以降も同じ事を繰り返します。変わった人だと〈呆れ〉られても、それを変えるつもりもまた、ないんです。それは、自分は相手に好かれているはずだ、相手は誤解しているだけだ、という根拠のない自信があるからでしょう」

「〈だから〉は、昨日もやった、だから今日もやる、という反復それ自体を理由にしているんじゃないかな」と、西は言った。

 なつみが香織のあとを引き継いで話しはじめる。

「女子的に引いちゃうのは〈ずぶ濡れで待つ〉というところです。小雨だったら、月形半平太じゃないけど「春雨じゃ濡れて行こう」ってのはカッコいいんですけど、〈ずぶ濡れ〉ってのは普通じゃない。そもそも〈ずぶ濡れ〉になってしまえば、〈雨が上が〉ろうが上がるまいがどうでもよくなると思うんですけど」

「ま、そうだね。雨の中での行為としてはふさわしくない。ふさわしくないところにメッセージが込められている。そこを読み取ってくれという歌だ」西が腕組みをして言った。「雨には雨のアフォーダンスがある。アフォーダンスとは、環境が人に与える、行為の可能性だ。たいていの人は雨に濡れることを嫌う。だから雨を避けようとする行動をとる。なぜ濡れるのを嫌うかというと、水は空気に比べたら熱の伝導度が二〇倍以上あるから、水に濡れたままでいると空気よりも大量の熱エネルギーが体から奪われてしまう。雨は人間の生活にとっては必要なものだけど、衣服を通してであれ人体に直接作用するのは嫌だから、雨を避けるために傘をさしたり、外出を控えたりする。〈ずぶ濡れ〉が続く状態は、体温が落ち生命力が弱っている状態だね」

 早坂は言葉の問題に引き戻した。

「〈今日も〉と〈ずぶ濡れ〉はどのように待つかを表していますね。今日も待っている、ずぶ濡れで待っている。〈ずぶ濡れ〉で待とうがどうしようが、それが〈雨が上がる〉ことに影響を及ぼすことはない。科学的には因果関係はない。しかし呪術的な行為としては、〈ずぶ濡れ〉で待つことが気象に影響を与えうる。それは「祈り」あるいは「儀式」のような行動です。この雨はたんに気象としての雨ではないですから、〈ずぶ濡れ〉で待つことは気象に働きかけうるんですね。

 表面的な物語は、自分は雨に濡れて外で待っているんだから家のドアを開けて中に入れてくれということです。そういう物語として読むことができる一方で、アレゴリーとして明らかに別のことも意味しています。雨や虹は、たんなる気象現象ではなく別のものの比喩です。それが何かはわかりやすい。歌詞でずっと歌っているのは「心を開くこと」です。「雨=心を閉ざした状態」「虹=心を開いた状態」ということです。心の持ち方を問題にしている。ただ、ここでは閉ざされているのは〈おまえ〉の心とされていますが、実は、心を閉ざしているのは〈おまえ〉だけではないんですね。自分もまたそうなんです。それはまた後でふれることになると思いますけど。

 比喩とはいえ、〈ずぶ濡れ〉で待つことには、尋常さを超えた思い込みの激しさがあります。〈ずぶ濡れ〉というのは自分なりの誠意です。そこまでやっているのだから〈心のドアを開けて〉くれという交換を暗黙のうちに要求しています。あるいは、〈ずぶ濡れ〉でいる滑稽さは、雨の岩戸の奥に隠れた〈君〉という天照大神を誘いだすために岩戸の前で滑稽な踊りを踊ったアメノウズメのようにも見えます。道化を演じていますね。

 この歌では〈ずぶ濡れで待つおいら〉のことが歌われていますが、もう一人の登場人物である〈おまえ〉がどういう状況でいるのかよくわからないままです。おそらく濡れてはいないでしょうね。自分は〈ずぶ濡れ〉であるが、〈おまえ〉はこの雨で濡れてはいない。その非対称を告発しているのかもしれない。〈おいら〉は誰も見ていないところで〈ずぶ濡れ〉になるのではなく、その姿を〈おまえ〉という観客の前にさらしているのです。〈ずぶ濡れ〉になることはナルシスティックに自己憐憫の感傷にひたるという意味もあるでしょうが、それだけではなく、濡れた姿を〈おまえ〉に見せつけることで、雨に打たれた子犬を目にしたときのような哀れさの感覚を相手にもよおさせるんです」

「演劇的だよな」西が口を挟んだ。「俺は、ニーチェの言うキリスト教的な論理を連想した。雨に打たれた弱者を装い、恵まれたところにいる相手に心理的な負債を負わせる。負けているほうが強い。相手に直接はたらきかけるのではなく、自分が被害者になることで間接的に相手を操作しようとしている」

「そこまでの解釈は深読みすぎませんか」と山口は言った。「ただ、相手の拒絶や見捨てられる恐怖から自己破壊的な行動をとるのは、境界性パーソナリティ障害の特徴のひとつで、尾崎にはその傾向があると指摘する精神科医は何人かいるので、それが歌詞に反映していると言えなくもないですけど。どうなのかな」

「ちょっと歌詞からは脱線しますけど、ずぶ濡れでたたずむ姿は尾崎っぽいなと思います」と早坂が言った。「何年か前に、『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』というドキュメンタリー映画を見たんです。1987年に熊本県の野外劇場で夜通し行われたロックフェスで、7万人の観客を集め、記録的な豪雨のなか行われたイベントとして知られています。尾崎も深夜2時ころ出演して、その時が雨量のピークでした。歌っているアーティストはもちろん観客もずぶ濡れですが、尾崎にぴったりのシチュエーションだなと思いました。それでもフェスは貫徹され、観客がひけて最後に泥だらけのくぼんだ足跡が無数に残っているのが印象的でした。これは災害だなと」

「歌謡曲って雨の歌が多いですよね」と香織が言った。「うちのおじいちゃんが好きだっていう歌は戦前戦後に流行ったものなんですけど、「雨に咲く花」「小雨の丘」「雨のブルース」「或る雨の午後」「雨の夜汽車」「雨のオランダ坂」とか、雨のナントカっていうタイトルがいくつもあります」

「感傷的な歌が多いですからね」と山口が言った。山口はタブレットを操作して、「雨のなかでもすごい土砂降り(どしゃ降り)という言葉を歌詞に使っている歌を検索したら900曲近くありました。昔の雨の歌は、悲しいけど思い出になっているぶんおだやかなものが多いですが、土砂降りというのはもっとはげしい感情とセットになっていて劇的なシーンを想像させますね」

「一番印象的なのは和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」かな」と西が笑った。「和田アキ子のイメージでは普通の雨ではもの足りない」

 

5

 一休みしたところで早坂は続けた。

「歌詞では、雨の様々な様態が写生されています。まずは〈街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨〉と全景が捉えられ、次いで〈小さな雫が瞳の中に落ちてくる〉と微視的に捉えられます。映画のカメラワークふうに言えば、街全体を写すロングショットから一気に特定の個人の顔にクローズアップしています。

 雨粒は、宙空を落ちて地面にたどりつく前に、物に接触してその様態が雨粒から流体に変わります。それを〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉と描写し、最後に地面に到達して〈水たまり〉になって、雨とは別な状態をさすものになります。〈落ちてくる〉〈こぼれた〉〈流れてく〉〈水たまり〉。空から落ちてきた雨が地面に落ちて雨でなくなるまでの過程を観察して丁寧に描いています」

「尾崎は短歌をやっていたので言葉による外界の描写に長けているんでしょう」と山口が補足した。

「歌詞のこの部分をさらにこまかく見てみます」早坂は続けた。「〈街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨〉とあります。歌のタイトルが「虹」なので、この歌はどこかカラフルな感じを先入観として持ってしまうんですが、歌詞には、色に関しては〈銀色に染めて〉とか〈灰色の空〉とあるだけです。銀色も灰色も同じです。鼠色、薄墨色、鈍色(にびいろ)などいろいろ呼び名はあるけど、色とついてはいても彩度はなく明度があるだけです。そうした色のない世界ではありますが、雨が上がることによって、潜在的に虹を隠し持っている世界ではあります。雨に覆われた街は全体が灰色に塗り潰されていますが、雨が上がり、虹がかかるときは、街を包むように大きな七色の橋をかけることになります。街がモノクロがカラーに変化するんですね」

 西が何か言いたそうな顔をしたので、早坂は「どうぞ」と促した。

「〈銀色の雨〉とか〈銀の雨〉とか、雨を銀色に喩えるのはよくある。さっき出した「黄昏のビギン」もそう。サトウハチロー作詞の「古き花園」では〈雨の色はいぶし銀〉。雨の色については、〈水色の雨〉とか〈透明な雨〉という歌詞があるけど安易だろ。それに比べたら、〈雨はふるふる城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる〉という北原白秋の「城ヶ島の雨」は大正時代に作られたものだけど、雨の色ひとつとっても名作と呼ばれるものはよく考えられている。利久鼠というのは灰色のことで少し緑色をしている。城ヶ島を散歩していた白秋が、雨にけぶる木立(こだ)ちを見てその色名を取り入れた」

「そうですね」と早坂は引き取った。「銀色の雨というのは都会的です。雨の色は背景の色に影響されるから、高層ビルやピカピカしたものが多い都会では銀色と言いたくなる。白秋が木の緑を背景にした雨を利休鼠と言ったように。なんにせよ、言葉でも絵でも雨の表現は難しいですね。同時にヴァリエーションもある。『雨のことば辞典』というのがあるくらいです。

 さて、「虹」に話を戻しますね。〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉とあります。傘は雨から身をかばうためのものですが、その傘を閉じている。一方、森昌子の「せんせい」(作詞、阿久悠)には、好きな先生を見送るのに〈傘にかくれて 桟橋で〉とあります。このとき傘は自分のからだを人目から隠す役をはたしています。いずれにしても、傘は、自分の身体を直接外界にさらさないように守るためのものです。雨に象徴的な意味があったように、傘も別の意味を持っています。「虹」では、後段で〈嘘の痛み〉〈人波に心許せず〉とあるように、傘というのは他人の冷たさから自分を守るバリアなんです。その傘をささないでいるというのは無防備な状態です」

「〈閉じた傘〉というのは誰の傘なの? 〈ずぶ濡れ〉でいるはずの〈おいら〉が傘を持っているのはおかしいよね」と西が口を挟んだ。

 早坂はそう言われればそうだ、と思った。それで「他人の傘のことを描写しているんですかね」と答えた。西は続けた。

「〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉と細部を描写するんだから、近くにある傘を見ているということだ。でも、こんな〈ずぶ濡れ〉でいる人の近くに他人は寄ってこないでしょ。だからこれは自分の傘じゃないかな。そうすると、この人はよっぽど変な人ということになる。傘がなくて濡れたままでいるのなら、濡れることは気にしない豪胆な人だという理解もできなくはないけど、傘があるのにそれを閉じたままにして濡れるに任せているとしたら、その人は何かの理由で一時的に茫然自失しているのか、あるいは日常生活においても適切な行動ができない人なのか、はたまた何か目論見があってそうしているのか、いずれかだろうね。〈ずぶ濡れ〉でかまわないんならどこかに傘は置いてくればいいのに、そうしないで、あえて傘を手に持ったまま開かないでいるとしたら、そこから何らかの意味を読み取らざるをえない。〈ずぶ濡れ〉でいることじたい普通じゃないのに、その人が傘を持っていたらよけいおかしいでしょう。周囲の人はその人を避けて通るだろう」

「ここは雨があがったということを意味してるのかもしれません。歌詞の行論上では飛躍がありますけど、雨があがったから傘を閉じたのだと」と早坂は言った。「しかもその雨はあがったばかりだということがわかります。〈閉じた傘〉というのは閉じる動作がおこなわれた直後の傘であり、その前まで傘は開かれていたということです。それを裏づけるのは〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉という描写で、たった今、傘を閉じたばかりだから、傘についていた雨が流れ落ちているんです。それと、西さんの言うように、この傘は本人のものである確率が高いんでしょう。そうすると、傘を開いていたのに〈ずぶ濡れ〉になっていたという矛盾が生じます。

 大事なのは、傘が閉じられたということが指し示す状況です。普通、傘を閉じるというのは、雨がやむことを意味しています。軒下に入って雨宿りしたから傘を閉じたということも考えられますが、それならそうした場面の転換を意味する表現が入ってもいいはずですが、それがないので、たんに雨がやんだと解釈するのが自然だと思います。この歌では、雨がやんだと説明せずに〈閉じた傘〉を描写することで雨上がりを暗示させ、そのあとに出る虹へと期待感を持たせているんだと思います。

 〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉というのも雨上がりを意味しています。雨が上がって路面に水たまりが残されたんですね。水たまりに君が映るには、水たまりが鏡面のように澄明になっていなければなりません。雨が降っている状態では、波紋ができて水たまりの水面は乱れてそこに〈君〉は映らない」

「おっと、そこは俺に喋らせてくれよ。予習してきたところだからさ」

 早坂の独演がまだ続きそうなので、西が遮った。西は、あとはまかせろ、とばかりに鼻を指でこすった。

 早坂は、どうぞ、と機械的に応じた。

「〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉というこの部分はさ、この歌で最も不思議なところだよ。〈水たまりに映った君の影〉とあるけど、この〈影〉は何のことを言っているのかね。影というのは、〈君〉が陽の光を遮(さえぎ)ることによってできる影のことなのか。しかし〈君〉が〈僕〉の近くにいた形跡はないから、陽の光を遮る影はできようがない。また、もし〈君〉が近くにいたとしたら、生身の〈君〉を無視して〈君の影が僕の心を開く〉などとも言わないだろう。ということは、この〈影〉は、影のもう一つの意味、ぼんやりした姿としての影なんだよ。古賀政男の「影を慕いて」の「影」もそうだね。また、水や鏡に映った姿のことも影という。〈君〉が〈僕〉の近くにいたとは思えないから、水たまりに映ったのは現実の〈君〉ではなく、その幻影なんだろう。いずれにせよここでいう影は、〈君〉のことを思い出すきっかけとなる像のことだ」

 西はペットボトルのお茶を一口ぐびっと飲んで続けた。

「ここでの〈君〉には生身の実体はない。プラトンの洞窟の比喩、イデアとその影のような映像だ。実体ではなく映像。水たまりの表面が鏡となって〈君〉の幻の姿を映しだした。鏡には古来、神秘的な力が宿るとされてきた。神話・伝説・昔話、現代の怪談や空想物語にいたるまで、鏡は不思議なアイテムであり続けている。鏡は異次元への入り口であったり、人の無意識の願望を映しだしたりする」

 なつみは、魔法少女のアニメの名前をいくつか挙げて、「女の子と鏡は切っても切れない」と力説した。早坂は、男の子向けの作品にも鏡が使われているとして『ミラーマン』や『仮面ライダー龍騎』は鏡の世界を経由して変身する、あれは異次元の隠喩なんです、と言った。そして『鏡の国のアリス』を付け加えた。香織も、「怪談で、鏡を見ると幽霊が映るっていうのがあるじゃない。あれ怖いよね。学校の大きな鏡とか」と肩をすくめてみせた。鏡は映像になじみやすいね、という話になった。

 西は、『イグアナの娘』を例にして、「鏡には自己の本質が映される」と言った。『白雪姫』でも鏡は、現実世界のたんなる反射板ではなく、鏡を見る人の思い込みを超えた真実を語るという。

「話を戻すと、この歌では、〈僕〉は〈君〉の姿を望んでいた。だから水たまりという小さなスクリーンに〈君〉の姿が幻影のように映ったんだ。水たまりという魔法の鏡に映された〈君の影が僕の心を開く〉。ホンモノの〈君〉は〈心のドアを開けて〉くれそうにない。それで代替物として〈水たまりに映った君の影〉が要請された。雨上がりにできた水たまりに映る〈君の影〉は、最終的に待ち望まれるものとしての虹の前兆だ。面白いのは〈君〉に〈心のドアを開けて〉くれと言っている一方で、ここでは〈僕の心〉が開かれたと言っているんだよね。実は〈僕〉も〈心のドア〉を閉ざしていたんだね。でも〈僕〉はそれを〈水たまりに映った君の影〉で、つまり自分の想像力で解決できた。今度は〈君〉だ、ということだ。

 それと、ここでは〈君〉を映し出す魔法の鏡が、水たまりという小さくつまらないものであるところに、〈僕〉のうらぶれた感じがでている。〈君〉がドアを開けて〈僕〉を受け入れてくれたら、そんな水たまりは必要ないんだけど」

 西が言い終えたところで、腕組みをして聞いていた山口が首をかしげながら言った。

「なんか、随分曲がりくねった解釈だなあ。言ってることはわからないでもないけど、そんなに混みいったものなのかな。〈影〉という一語にそんなに複雑な意味を込められたら、それを歌という一瞬耳に入って過ぎ去ってしまう言葉として聴かされるほうは認知的な負荷がかかりすぎるんじゃないですか」

 山口をチラッと見て、西は答えた。「尾崎がどこまで考えて書いたかわからないよ。無意識に出てきた言葉だろうね。でもそこには言葉の来歴が複雑に折り重なっていて、本人の意図を超えたものになっている」

「詩の言葉をどこまで厳密に解釈するかっていう問題になりますね」と、香織。

「え、その解釈を楽しむ場じゃないの、ここは」と、西があきれた顔で言う。

「西さんの解釈は一応筋が通っているから、それはそれでひとまずいいと僕は思うけど」早坂は言った。「僕も面白いと思ったのは、さっきまで〈ずぶ濡れ〉になった〈おいら〉が〈おまえ〉に〈心のドアを開けて〉くれと言っていたことを議論してきたのに、西さんの言う通り、ここでは、〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉とあって、実は自分も心を閉ざしていたのだとわかります。一体、開かれるべきなのは、「君の心」なのか「僕の心」なのか、それとも両方なのか。自分が心を閉ざしているのに、相手には心を開けと促しているのはちょっと変ですね。

 〈心のドアを開けて 心を開いて〉と〈僕〉は〈君〉に言っていたけど、それは、「僕を受け入れるために心を開いてくれ」ということでしょう。でも、そういう〈僕〉の心もつい先程までは閉ざされていて、〈君〉を受け入れる用意はできていなかった。水たまりの〈君の影〉で〈僕〉の心は開かれ、〈僕〉は〈君〉を受け入れる準備が整ったから、次は〈君〉の番だと。

 いずれにせよ確かなのは、それが〈君〉であれ〈僕〉であれ、心を開くには自分一人では不可能で、相手を必要とすることです。それが幻影だとしても。〈君の影〉を見て〈僕〉の心は開かれ、〈おいら〉の〈ずぶ濡れ〉の姿を見せて〈おまえ〉の心を開かせようとする」

「変わるには自分の内側の力だけじゃダメってことね。外から力をもらわないと」と、なつみが呟(つぶや)いた。

 

6

 山口が片手を立てて早坂を拝んだ。

「僕、久しぶりに参加したのにあんまり喋れてないんで、ここからちょっと自分に時間もらえないですか」

「山口さんの出番を削いではいけないね、どうぞどうぞ」早坂は山口に場を任せた。

 山口はペコリと頭を下げ、タブレットと皆を交互に見ながら話した。

「歌詞の残りの部分を読んでみたいと思います。

 〈優しさだけなら素直にもなれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする〉

 さきほどの雨降りの写生とは異なり、抽象的な表現が並んでいます。これは対句的ですね。素直になること=心を開くことで、心が冷たいこと=心を閉ざすことです。〈優しさ/嘘〉〈素直/心が冷たい〉という二項対立でできています。ここにあるのはぼんやりした曖昧な気分ではなく、割合単純で明瞭な心の構造です。心の動きの因果関係は、「優しさがあると↓素直になれる」「嘘があると↓心が冷たくなる」と、わかりやすいんです。〈僕〉という人間はセンシティブで扱いにくい人間のように思われているかもしれないけれど、本当はわかりやすい人間なんです。でも、だから両極端に針が振れやすいとも言える。〈僕〉の気に入るようにしてくれればご機嫌で快活だけど、気に入らないとたちまち塞ぎこんでしまう。

 続く歌詞はもう少し複雑になります。〈君〉という要素が加わるからです。

 〈灰色の空の様な冷たさに震えてる 人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい〉

 〈僕〉を凍えさせているのは雨に包まれた街、無関係な他人があふれている街という外部の環境です。〈僕〉は冷たい街に抗いがたく、それと同化しつつあります。でも〈君〉への思いが熱源になっているので、まだ冷えきらずにすんでいる。ただし、暖かいのは〈君〉そのものではなく、〈君を思う心〉なんですけどね。

 心を軸に読むと、歌詞の一番では、心は「開く/閉ざす」という空間の比喩で語られていましたが、二番では「暖かい/冷たい」という温度の比喩になっています。嘘が〈心を冷たくする〉、見知らぬ人の群れには〈心許せず〉、他方、〈君〉を思う〈心だけが暖かい〉となっています。冷たさに関わるものは「嘘、灰色の空、人波」であり、暖かさに関わるものは「優しさ、君への思い」です。

 尾崎の歌には、〈人波〉という言葉が自分に無関係に存在している人たちのこととしてしばしば出てきます。〈人波〉は物理法則のように動いているだけで、〈僕〉に関心のあるまなざしを向けるわけではありません。〈僕〉は彼らにとって物のような存在だし、彼らも〈僕〉にとって物のような存在です。「十七歳の地図」には〈人波の中をかきわけ〉と、人の群れをまるで物のように描いています。都会は大勢の人がいるのに、その殆どが自分と無関係な顔のない人達です。そんな中で手応えのある特定の人として際立った存在であるのが〈君〉なんです」

 まだまだ続けそうな気配の山口を遮り、「もうそろそろ時間だろ。最後、締めくくらせてもらってもいいかな」と、西が言った。「こんな短い歌詞でも書き手の性格はにじみ出るし、ものの考え方が反映されるものなんだな、というのは今回勉強になったよ。〈君を思う心だけが暖かい〉とあるけど、尾崎の歌詞が不思議なのは、普通は〈君〉の〈僕〉への思いが〈僕〉の心を暖かくする、と言いそうなところを、そうではなく〈君〉を思う〈僕〉の心が暖かいと言っているところだ。これはさっき山口君も言っていたね。〈君〉の心は知りようがないからなのか、自分の心について述べているだけなんだな。現実の〈君〉は、心を閉ざし〈僕〉を拒むような存在。しかし〈君を思う心だけが暖かい〉という歌詞は、〈君〉がどう思っているかはともかく〈僕〉の心の在り方だけを問題にしている。〈君〉はあくまで意識の向かう先に過ぎない。問題にしているのは〈僕〉の心の志向性についてだ。ここにあるのは自分のことだけだ。この人は最初から最後まで自分のことだけを考えている。現象学的なんだな。現象学は世界の成り立ちを自分の意識に還元する。〈君〉に心を開いてくれといってもそれは〈君〉が精神的に豊かになるためにそうしたらいいというのではなく、〈僕〉の依存対象として必要だからだ。歌詞をよく読むと利己的なのに、聞き流しただけでは利他的に聞こえる。

 早坂くんは始めのほうで、語り手である〈僕〉は生まれ変わりの苦しみの中にいるが、それはうまくいかないであろう、と言ったね。〈君〉を触媒にしようとしたけど、他人を動かすのは難しい。やり方も間違っている。歌詞を最後まで読んでも、〈僕〉が能動的に何かをやることはない。〈君〉に心を開かせるために、ただ〈ずぶ濡れで待つ〉という、雨に濡れた子犬のような哀れさを誘う作戦だ。随分、子どもっぽいと思ったな。

 それに、自分のためにドアを開けてくれと言っているのに、〈君〉を閉じこもっている状態から救い出そうとしているかのような錯覚を起こさせる、ねじれた歌だと思ったね。ユング派に「傷ついた治療者」という言葉があるけど、この人はそのようにふるまおうとしているんだろうか。ピア的というか。尾崎自身も聴き手にとってそういう存在なのかもしれないな」

「人によって、いろんな解釈があるもんですね」と、山口が閉口気味に言った。

 早坂がスマートフォンで時間を確認すると五時半になるところだった。開始して二時間半になる。女性陣は疲れた顔になっていた。これで締めようと思い、西の毒舌を中和するため、最後にフォローした。

「歌は、正義や善や健康さといった喜ばしいものばかりを歌うだけではないですから、こういう歌があってもいいと思います。この歌は、タイトルが与えるイメージや、しっとりと歌い上げる歌い方だけで理解していると、歌詞に注目したときに意外性を感じるものになるかもしれません。そういう歌だということがわかりました」

 読書会を終えて五人は外へ出た。既に雨は上がり風もやんでいた。街灯に照らされた道を、駅に向かって歩いていった。薄闇になった空には、虹ではなく月が浮かんでいた。

 

     *

 冒頭で「よく知られていない歌のほうが尾崎豊という強烈なキャラクターから離れてテキストそのものに向き合えることができるだろう」と書いたが、結果的に、テキストから浮かび上がってきた作中人物像は、書き手によく似た人物だった。おそらく尾崎の書くほとんどの歌がそのようなものであろう。