Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

オフコース「さよなら」~君僕ソング(その4)

父■オフコースを紹介するつもりが、だいぶ回り道をしてしまった。

娘□えー、今のは回り道だったんだ。

父■オフコースで一番ヒットしたのが1979年の「さよなら」(作詞、小田和正)。12月に発売されて、歌詞の内容と季節がマッチしていたのもよかった。この歌の歌詞は、歌詞を書くのが苦手というわりには、よくできていると思う。

オフコース「さよなら」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l002f59.html

娘□例えば?

父■冒頭は、〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉。これは、「もう 終わりだね 君を遠くに感じる」としても同じ意味だけど、それだと説明になってしまうから、そうせずに、感覚のパースペクティブを〈君が小さく見える〉と視覚的な隠喩で描写した。

娘□たしかに、相手への関心が薄れると、小さく見えるような気がする。

父■僕もそう思っていたから、イルカの「雨の物語」(作詞、伊勢正三1977年)にずっと違和感を持っていたんだ。〈化粧する君の その背中がとても 小さく見えて しかたないから/僕はまだ君を 愛しているんだろう〉とあるんだけど、小さく見えるということは関心がなくなったことを意味しているから、愛情も消えているはずなのに、逆にここでは、〈僕はまだ君を 愛している〉っていうことを確認する契機になっているんだよね。どういうことかと思ったら、これはたぶん「小さい背中」から子どもを連想して、守ってあげたいという保護意識が賦活されたってことじゃないかと思った。コンラート・ローレンツの有名な「ベビースキーマ」ってあるでしょ。幼い動物は特有の身体的特徴を共通して持っていて、それを見るとかわいい、守ってやりたいと思うという。小ささも可愛らしさに結びついているよね。

娘□「雨の物語」も「さよなら」も〈小さく見え〉るという言い方は共通しているのね。客観的に小さくなった、のではなく、主観的に〈小さく見え〉るということ。

父■〈小さく見え〉るのは愛情が薄れて遠くに感じるようになったからなんだけど、〈小さく見え〉るようになると、今度はベビースキーマが作動して、別の愛しい気持ちが湧いてくる。

娘□大人なのにベビースキーマ

父■「不憫さ」と言ったほうがいいのかな。そうなると「かわいい」ではなく「かわいそう」ということになるけど。言いたいのは、さよならの気持ち一本槍ではなく、ここで一旦屈折しているということ。「さよなら」は、先の〈小さく見える〉という歌詞のあと、〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉と続くんだ。もう終わりだって思いながら〈抱きしめたくなる〉という気持ちも湧き上がってくる。この矛盾した心の動きを「さよなら」は2段階に腑分けしている。

(1)もう 終わりだね → 君が小さく見える

(2)君が小さく見える → 抱きしめたくなる

 だから〈小さく見える〉には二重の意味があるということだね。

娘□(1)をもう少し丁寧に言うと、ここは、(a)君への関心が薄れたので君が小さく見えるようになったというより、逆に、(b)君が小さく見えるようになったことから二人の関係ももう終わりの時期にさしかかっていることを知った、ということなんじゃないかな。歌詞を補うと、

a)もう 終わりだね (だから)君が小さく見える

b)もう 終わりだね (なぜなら)君が小さく見える(ようになったから)

父■どちらとも解釈できるけど、(b)のほうが自然だろう。そういう認識の先後関係はあるにしても、「さよなら」は〈小さく見える〉ことをめぐって、(1)(2)のように2段階の過程で把握している。一方、「雨の物語」では、なぜ小さく見えるようになったかを書いておらず、「さよなら」における(1)に相当する部分がなく、小さく見えたからどうしたという反応の方(2)を書くだけなので、愛情と憐憫とを混同してしまい、小さく見えたからまだ愛していると言ったんだろう。

娘□本当はそれは愛ではなく憐憫、哀れみなのね。

父■そういうことだと思う。さて次に進もう。「さよなら」の歌詞のここが上手だと思うところ。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉という部分。これはこの歌の底流にある「哲学」なんだけど、それをシンプルに「自由」の二文字で表現して、それがどういうことかを前後の文脈でわからせるというのもうまい。

娘□自由って明るいはずのものなのに、哀しいものになってる。さっき、お父さんが、川島だりあの「悲しき自由の果てに」についてちょっと話したじゃない(その2に掲載)。その「自由」と似ている気がする。

父■そうだね。「自由」って解放的ではあるけど不安な要素も併せもっているね。

娘□私も挙げていい? 女性から見て微笑ましいところ。〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉という部分。ここは初々しいカップルの「あるある」を取り入れていると思う。書き手の観察眼を感じさせる。

父■それはわかるけど、〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉っていう歌詞、よく読むとへんだよね。だって、人に見られず寄り添い歩くなら〈誰も見ていない道〉だけで十分だろ。どうして〈寒い日〉という条件も必要になるのか。

娘□うーん、そう言われればそうかも。

父■答えを言うと、〈てれる〉には二重の意味があるんだ。〈誰も見ていない〉というのは人目を気にする点はクリアしているけど、〈僕〉自身の抵抗感を解除するには〈寒い〉から寄り添うという合理的な理由も必要だった。

娘□二重に照れ屋さんなんだ。めんどっちい人。この二人は、女性がリードしているみたいね。

父■誰もいない道で大胆になるのは女性が積極的な感じがするね。他のところでもそうかな?

娘□〈「私は泣かないから このままひとりにして」/君のほほを涙が 流れては落ちる〉という直接話法のところもそうじゃない? 涙が溢れ出てくるくらい悲しいんだけど、グッと耐えて、〈このままひとりにして〉と突っぱねる。相手の男性にはっきり「これでお別れなんだ」=「さよなら」だと思わせることができた点で、別れ方に成功したと思う。きっぱり別れたほうが次に進める。

父■そんなにきっぱりしてるかな。〈泣かない〉と言いつつ泣くのは自分の意に反したことを言っていますよというメッセージだとすれば、〈ひとりにして〉というのも「ひとりにしないで」という反対の意味に解釈せよということにならないか?

娘□どっちなんだろう。

父■この歌詞は弁証法的にジグザグ進んでいくところに特徴がある。まず〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉というのは、君への思いがなくなりかけているということだけど、それなのにすぐあとに〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉とある。君を遠くに感じているはずなのに、直後に、身近に引き寄せようとする。反対の方向に気持ちが振れている。次は、〈「私は泣かないから このままひとりにして」〉とあって、抱き寄せようとする僕の気持ちを察知したかのように、それを拒む。〈私は泣かない〉と言っている一方で、〈君のほほを涙が 流れては落ちる〉というように、言葉と反対の出来事が起こっている。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉とあるのは、束縛しない交際のほうが楽しいし長続きすると思ったんだろうけど、〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉と、結局、思いもかけず関係が破綻する原因になっている。二番の歌詞になると、君は今は僕以外の誰かとくっついて寝ているかもしれないと想像する一方で、かつては僕とくっついて歩いたこともあったと回想する。〈外は今日も雨 やがて雪になって〉とあるように、雨かと思えば雪になる。要するにこの歌は前言と反することが積み重ねられていくという構造になっている。事態がその性質のまま延長されていくのではなく、反対の事態が語られることによって折れ曲がって進んでいく。

娘□弁証法って「正反合」でしょ。「正反」はわかるけど「合」は?

父■雪だね。ラストで〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉ってあるでしょ。全てを覆い隠す雪は、心を凍てつかす一方で葛藤を浄化する。〈もうすぐ外は白い冬〉というのも白紙に戻すという感じがある。雪が、いざこざのすべてをチャラにしてしまう。

娘□歌詞って少ない言葉で表現しているから掌サイズの小説よりもっと短い指先サイズの小説みたいなものでしょ。その長さだと物語的にははっきりした構造をもたせることはできないから、とりあえずここで一旦締めくくりますっていうときに雪が使える。ストーリーが途中であっても、雪は個物を覆って情景全体をまとめあげてくれる。

父■イルカの「雨の物語」でも〈物語の終わりに こんな雨の日 似合いすぎてる〉って歌ってるでしょ。「さよなら」は雨が雪に変わるんだけど、雨とか雪という天候は、惚れたはれたという人事とは関係なく動いている。でもそれがリンクしているように見えるときがある。

娘□映画『天気の子』は、天候と人間の思念がリンクしている、というより操作している。

父■それはオカルトだから。昔から、気合で天気を操るという触れ込みの人はいたよ。それはともかく、和歌や俳句の感性なのか、僕たちは人間関係に問題があるとき、それを直視することを避けていったん棚上げするときに雨や雪に目をそらそうとする傾向がある。それを風流とも言うけど。風流って、人事から目をそらしているときに生まれる。

娘□俳句の「二物取り合わせ」はそういう技法じゃない?

父■ところでこの歌の出来事はどこで起きているんだろうか。

娘□どこで?

父■そう、場所はどこ?

娘□なんか道路に立ってやりとりしている感じ?

父■どうしてそう思った?

娘□なんかそういうイメージがあるんだけど、言われてみればはっきりした根拠はない。過去を回想する、〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉っていうところに引きずられたかな。

父■これ室内の出来事だよね。〈もうすぐ外は白い冬〉とか〈外は今日も雨〉とあるからね。自分たちは〈外〉に対して建物の内側にいる。

娘□そう言われればそうか。〈外〉って繰り返されているのにスルーしてた。

父■それで、〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉と歌っているよね。この比喩はねじれがある。雪は外で降る。でも〈僕ら〉は建物の中で降雪から保護されている。建物の「外/内」だ。一方、心は、ふつうは箱みたいに閉ざされたものとしてイメージされる。心にも「外/内」がある。だから、〈外〉で降る雪が〈心のなか〉に積もるというのは、入れ子状態になった内側に一気に入り込んでくるということになる。

娘□心が世界と一体化してるってことじゃないの? 窓の外に見える世界の出来事に自分を投影してたとか。

父■室内の出来事が重苦しいものになってきたから、そこから目をそらして窓の外を見たということだよね。外部は室内から関心をそらすために要請されたものだ。でもそれが一気に〈心のなか〉の出来事に結びつくのは飛躍があるなあ。もしこれが「僕らの上に静かに 降り積るだろう」ぐらいの歌詞ならわかるんだけど。「僕らの上」って「僕らの屋根の上」ってことだよ。三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ」だからね。

娘□理屈はわかるけど、歌の言葉は一瞬で消え去っていくものだから、聞き手のわかりやすさという点では〈心のなか〉とした方が、冷え切った感じがダイレクトに伝わるんじゃないかな。

父■そこまでの直接性は必要かなぁ。ところで、また「そもそも論」になるけど、そもそもこの歌ってどういう歌だと思う?

娘□恋人の二人が別れるところなんじゃないの?

父■たしかにそうだけど、すっきりしないところがあるんだよなあ。

娘□そう? わかりやすい歌だと思うけど。

父■じゃあ、どういう理由で二人は別れるんだい? どちらから別れを切り出したの?

娘□それは男の人からでしょ。だって女の人は泣いているじゃない。

父■でも2番で〈愛は哀しいね 僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉とあるんだよ。〈僕のかわりに君が〉という日本語がちょっと怪しげだけど、ここは「僕のかわりに君は」という意味だとすると、君は僕のかわりに他の誰かと眠るかもしれないということだから、別れたその日に、君はもう他の人とベッド・インしているわけだ。割り切りが早すぎないか。僕の他に彼氏をキープしておいたとしか思えない。

娘□でも、この人は泣いているのはどうして? 「私は泣かない」と言いつつ泣いているのは、自分の感情を制御できていないということで、別れはそれほど衝撃だったんでしょ。そういう人に他に好きな人がいるっていうのはおかしいんじゃないの?

父■「私は泣かない」というのはたんなる強がりではなく、そもそもこの女性が浮気したことが別れる原因で、原因は自分にあるから「私は泣かない」と言っているんじゃないかな? 自分が原因なのだから自分が被害者ヅラして泣くに価しない。「私は泣かない」というのは論理的にとるべき態度で、それに反して泣いてしまうのは感情的な態度だ。論理的にやるのは難しい。もし二股かけていたとしても、別れるのは寂しいんだろう。

娘□二股っていう根拠は何?

父■それはさっき言った〈僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉というフレーズだけど、この二人は最初からそうなる運命だったんだよ。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉とあるけど、その〈自由〉が原因なんだよ。

娘□「他人の関係」や「悲しき自由の果てに」にも〈自由〉ってあった。

父■同じオフコースの「眠れぬ夜」(作詞、小田和正1975年)も〈自由〉を主題にしている。〈愛にしばられて 動けなくなる〉〈愛のない毎日は 自由な毎日〉とあって、愛というのは人を束縛するもので、そこから逃げ出して自由になりたいという。そのあとで、どこまでそれが徹底できるか〈わからない〉とも言うんだけどね。「愛か自由か」はゼロサムで、どちらかを選べばどちらかを諦めなければならないと思われている。

娘□友達のことなんだけど、ステディになった途端に彼氏に厳しくされて、他の誰々と仲良くしすぎだとか、あの男と喋ってはだめだとか、どこに行ってたんだとか、スマホで連絡したときにすぐ返事を返せ何やってたんだとか、いろんなルール決められてウザくて仕方ないって。なにかそういう規制したり詮索したりする権利でも獲得したかのようにふるまわれて窮屈だって。

父■「他人の関係」という歌では、「愛か自由か」ではなく、「愛も自由も」の方法論が語られている。愛に拘束されないために、会っている時間以外は他人として自由でいようという。時間によって切り変えようとすところが実験的だね。時間によって態度を変更することで、不都合な恋愛のやましさを軽減している。でもこういう関係は両者の微妙なバランスで成り立っているものだから長続きしないだろうね。普通、こういう関係は金銭を介在させて時間を切り売りするものになるよね。「他人の関係」という歌は、性の売買から金銭的なものを取り去ったらどうなるかという思考実験だと思う。「愛と自由」は不安定だけど、「お金と自由」は安定している。

娘□「愛か自由か」という二者択一の他にも、「愛も自由も」という両者のいいとこ取りの方法もある。でも、いびつなところがあると。嫁入り前の娘のする話じゃないわよ。

父■それで〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉と歌う「さよなら」の〈自由〉はどうなのかというと、「愛か自由か」ではなく「愛も自由も」のほうなんだよ。ただし、「他人の関係」は時間によって愛と自由を切り替えることで両立させていたけど、「さよなら」は愛と自由を対立するものと考えず、両者を合体しようとした。

娘□ん? どういうこと?

父■つまり自由恋愛。

娘□自由恋愛って?

父■他に好きな人ができたら遠慮なくつきあえばいいじゃんってこと。つきあう相手は特定の一人に制約されない。複数の人と同時期に交際してもいい。恋愛の一番の束縛が結婚というかたちだから、結婚という制度には取り込まれない。なんか先を行っている感じでカッコいいんだけど、この歌の二人は結局うまくいかずに別れてしまった。〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉ということになった。このあたりの歌詞はうまいよね。

娘□女の人はその〈僕らは自由だ〉という言葉を信じて、何人も恋人を作ったのだけど、男の人はカッコつけてそう言ったものの、その現実に耐えられずに別れてしまったということ? 理想と現実の差が別れの原因?

父■うん。男の人は他に彼女を作らなかったんだろうな。〈愛したのはたしかに君だけ〉とはっきり言ってるからね。あ、この言葉はそういう意味だったのか。自分でしゃべってみて気がついたよ。この男性は〈僕がてれるから〉とあるように奥手なのに、カッコつけて流行りの「自由」を口にしてみた。それを女性は真に受けた。その結果こうなった。

娘□〈愛したのはたしかに君だけ〉のあとに続く〈そのままの君だけ〉っていうのは?

父■僕の知ってる君、ということだろうな。他の男に見せる顔、僕の知らない隠された顔の君もいたんだけど、〈そのままの君〉以外は〈愛〉の対象外なんだ。〈君〉を愛していたんだけど、それは〈そのままの君〉の範囲に限定されている。それが繰り返される〈だけ〉の意味だろう。

娘□たしかに別れた日に他の人と寝るなんてどうかと思うけど、私はこう解釈するな。この歌には〈今日〉が3回出てきます。1番の〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉という〈今日〉は別れた日。2番の〈僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉の〈今日〉は、別れた日から1年たって、同じ季節がめぐってきたので別れた日のことを思い出し、もう今頃は他の誰かと付き合っているだろうと思いをめぐらしている日。おしまいの〈外は今日も雨 やがて雪になって〉というのは2番の〈今日〉と同じ日。

父■ふーん。1番は過去の回想で、2番は語りの現在において君を想像してるってことか。

娘□1番には〈もうすぐ外は白い冬〉ってあるけど、ラストは〈外は今日も雨 やがて雪になって〉とあって、天候が微妙にずれている。〈もうすぐ〉というのは、冬になるにはまだ数日から数週間の時間の経過を要することを思わせるけど、〈やがて〉というのは、降水が継続した状態で雪になると言っているわけだから、その日のうちに雪、つまりもう今は冬なわけで、時間がずれている。〈もうすぐ〉は季節の変化、〈やがて〉は時間の変化を表している。タイムスパンが違う。これも1番の〈今日〉とおしまいの〈今日〉とが違う〈今日〉である証拠ね。

父■2番にも〈もうすぐ外は白い冬〉ってあるのはどうするのか。ま、そこは繰り返しだから意味の穿鑿はスルーしてくれってことかな。山下達郎の「クリスマス・イブ」(作詞、山下達郎1983年)で〈雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう〉っていうのがあって、クリスマスに雨が降っていると必ず誰かがこの歌を歌ったものだけれど、すでに小田和正が〈外は今日も雨 やがて雪になって〉と書いていたのは、あらためて気づいたよ。

 

娘□なかなか「あなたと私」のほうに話がいかないんですけど。

父■ああ、そうだった。「さよなら」には「君僕」がよく出てくるということを言うんだった。この歌の「君僕(私)」を抜き出してみよう。

 

君が小さく見える、僕は思わず君を、私は泣かない、君のほほを涙が、僕らは自由だ、愛したのはたしかに君だけ、そのままの君だけ、僕のかわりに君が、僕がてれるから、寒い日が君は好きだった、僕らの心のなかに

 

 どうだろう、一つの歌のなかにいくつも使われていると思わない? 歌詞に使える文字数は少ないから、必然的に登場人物も限られる。君と僕しかいない場合がほとんどだから、関係が描けていればいちいち僕が何をしたとか君が何を言ったとか指示しなくても文脈でわかる。どちらの行為なのかがわかればいいだけだから、もっと「君僕」を省略しても内容は伝わると思うな。

娘□書き言葉ならそうなんだけど、歌の言葉は発せられた瞬間に消えていくから、同じ言葉が繰り返し使われてもそれほど気にならないし、むしろそのつど人称代名詞を補ってやらないとわかりにくいんじゃないかな。脳が情報処理できるのは限られた言葉のまとまりでしょ。だから歌の言葉って、全体をとおした論理的なつながりを判断しているんじゃなくて、そのつど立ち現れてくる断片的で短いフレーズに反応しているだけだと思う。

父■聞き手にとってはそうだろうね。歌は直線的に進んでいくから、言葉の把握が不十分でも後戻りできない。歌詞は短い言葉のまとまりで理解されることになる。逆に言えば、同じ言葉がたびたび出てきてもあまり気にならない。書き手は、歌の言葉のそういう特性、断片の寄せ集めのような歌詞を書くこともできるし、あるいは、もっと歌詞の全体を見渡して書くこともできる。歌詞の全体を見渡しながら書くということは、歌詞を、言語の作品として自律したものにしたいということだろう。この傾向が強い書き手を「詩人タイプ」と呼ぶことにすれば、松本隆なんかは詩人タイプの典型じゃないかな。で、その松本隆は人称代名詞を少なくしたいと考えているんだよね。たぶん歌詞を、書かれた文字として見ているからだと思う。書かれた文字なら視線は何度でも紙の上を行き来できるから、同じ言葉が出てくると気になる。

娘□で、お父さんは「詩人派」なわけね。じゃ、あたしもそれにつきあって、この歌の「君僕」の必要性ということを考えてみましょう。「さよなら」で「君僕」を省略しても前後の文脈で意味が通じるのは、まず〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉。ここは〈君〉を取って〈僕は思わず 抱きしめたくなる〉にしても、あるいは語り手である〈僕〉を略して〈思わず君を 抱きしめたくなる〉でもいいかも。ここのところは、僕と君の距離がわからなくて、近くにいるのか離れているのかわからないから、余った文字数でその情報を補ってやればいいと思う。

父■Wikipediaの「さよなら」の項目には、「小田和正は、原詩では「僕は思わず 君を 抱きしめそうになる」としていたところを、間違えて『僕は思わず 君を 抱きしめたくなる』と、間違えて録音してしまったことを悔やんだという。」と書かれていて、このあたりの歌詞について、作詞者は言葉の細部にこだわっていたことがうかがえる。

娘□「抱きしめそうになる」と「抱きしめたくなる」は何が違うかよくわからない。

父■「抱きしめそうになる」のほうが、無意識にそうなってしまう感じがあるね。「抱きしめたくなる」は、意識にのぼっている感じがある。もう別れを決めているんだから、また「抱きしめたくなる」というのはおかしいということかな。

娘□ああ、そうか。「抱きしめたくなる」のほうが愛情が残っている感じがするね。「抱きしめそうになる」なんて条件反射みたいで嫌だな。

父■2文字違うだけだけど、印象も微妙に変わってくるよね。

娘□「君僕」の省略についてに話を戻すと、省略できるところとしては他に、〈君のほほを涙が 流れては落ちる〉は〈ほほを涙が 流れては落ちる〉でいいかな。

父■それだと〈僕〉の涙ということもありうるから、〈君〉であることをはっきりさせておかないと、言葉と態度の矛盾で引き裂かれた状態にあることが明らかにならないよ。

娘□そっか、そだね。〈愛は哀しいね 僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉の〈僕のかわりに〉もいらないんじゃない。むしろおかしな言葉遣いになってしまってる。〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉の〈僕が〉はなくてもわかるけど、ここは僕と君の対比でもあるから、あったほうがそれがはっきりわかるかな。〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉の〈僕ら〉は言わずもがな。

父■削れずに残したのも半分くらいあるね。

娘□そう、意外に必要でもあるんだと思った。省略しすぎると曖昧になって違う意味にとられかねない。

父■この歌って直接話法が2箇所引用されていたりして、結構演劇的だよね。「私は泣かないから」とか「僕らは自由だね」とか。

娘□たしかに。寸劇を見ているようで情景が目に浮かぶ。直接話法があるせいで、〈君〉や〈僕〉に存在感が生じている。歌謡映画にできそう。