Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

伊勢正三「22才の別れ」、荒井由実「卒業写真」、菊池桃子「卒業」〜君僕ソング(その2)

父■〈貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉というのは、言い方を変えれば、「あなたはあなたのままでいてほしい」ということになる。

娘□「あなたはあなたのままでいてほしい」と言われても、自分をはっきり持っている人はいいけど、ほとんどの人はそう言われても逆に「自分っていったいなんだろう」って思うんじゃないかしら。

父■誰でも自分のやりたいことを持っている、という理想の姿がこういう歌の前提だから。

娘□将来の夢をサラサラ書けるような子どものまま大きくなっているってことね。

父■松山千春ほどの隠れマチズモではないけど、伊勢正三「22才の別れ」(作詞、伊勢正三1974年)もそうした発想の歌だよ。

伊勢正三「22才の別れ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0004fd/l0058d1.html

 この歌では〈あなた〉は6回、〈私〉は5回出てくる。「22才の別れ」も、松山千春「旅立ち」と同じく旅立ちを歌っている。というより、こちらのほうが古い歌なんだけど。

娘□あー、その歌好き。お父さんがよくカラオケで歌ってるでしょ。

父■伊勢正三かぐや姫のメンバーで、「22才の別れ」はかぐや姫のアルバム『三階建の詩』に入っている。

娘□あれ? でも、風の歌じゃなかったっけ?

父■ヒットさせたのはそうだね。

娘□歌詞に〈私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに/私の目の前にあった幸せに すがりついてしまった〉とあるじゃん。ここがよくわからないんだけど。

父■この〈鏡〉っていうのは、未来を映しているんだろうね。童話の『白雪姫』でもそうだけど鏡ってマジカルな道具でしょ。日本なら、三種の神器八咫鏡は神秘的な物とされるし、『ひみつのアッコちゃん』や『ミラーマン』では、鏡は不思議な世界を媒介する。

娘□鏡は女性に身近なアイテムだから、この人も鏡に向かっていろいろ考えたのね。

父■〈私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに〉というのは、あなたとの将来が考えられなかったということだろう。おそらくあなたは何か叶えることが難しい夢を持っていて、私は途中まであなたの夢につきあったけれど、いつまでもそれは無理で、結局お見合いかなんかで知り合った人と結婚してしまうという現実を選んだんだね。

娘□じゃあ、〈目の前にあった幸せに すがりつい〉たっていうところは?

父■そこは意味がはっきりしないんだけど、「鏡に映る姿(未来)/目の前の幸せ(現在)」という対比の文脈だから、「あなた/もう一人別の存在」っていう対比にもとれるし、〈あなた〉の現在と未来との対比で、将来のことは直視せず毎日をだらだら続けてしまったともとれる。そもそもこの歌は最初のところが〈あなたに「さよなら」って言えるのは今日だけ/明日になって またあなたの暖い手に触れたら きっと言えなくなってしまう〉とあって、「今日/明日」の対比になっているように、対比で進んでいく歌なんだよね。

娘□〈あなた〉を捨てて、他の人とお見合いをして、その人のところへ行くってこと? お見合いについては歌詞には出てこないけど。

父■僕は野口五郎の「むさし野詩人」(作詞、松本隆1977年)が好きでよく聞いていたんだけど、歌詞に〈15行目から恋をして 20行目で終ったよ〉とあった。これは15歳から20歳まで彼女とつきあっていたということで、「22才の別れ」の17本目のローソクから22本までいっしょに火をつけたというのと類似の表現だ。どちらも不思議と5年間だしね。「むさし野詩人」は別れた彼女のことを思い出している歌なんだけど、〈お見合いの事悩んだあなた〉とあって、彼女はお見合いで結婚して離れていったと思わせる。僕はこの歌を通して「22才の別れ」を解釈しているからそう言ったんだね、きっと。

娘□そのころはまだお見合いって多かったと思うから、似たような別れ方になっても不思議ではない?

父■70年代半ばは、まだ全体の1/3はお見合い結婚だった。「22才の別れ」に〈あなたの知らないところへ嫁いでゆく〉ってあるよね。〈あなたの知らないところ〉というのは、〈あなた〉とは関係のないところということでしょ。具体的には、田舎から出てきた女性が両親に結婚をせっつかれて地元の男性とお見合いして田舎に帰って結婚するということだと思う。〈あなた〉と〈私〉の関係には、まだ〈私〉の背後にいる家族は関わっていない。〈私〉の家族は〈あなたの知らないところ〉に切り離されている。〈あなた〉の関心からはずれたところが〈あなたの知らないところ〉だ。要は、都会でカップルになって好き勝手やっている甘い時間、モラトリアムが終わったんだ。見ないふりをしていた家族との関係の力の強さを思い知らされる。

娘□それって「なごり雪」に似てるじゃん。

父■そう。「22才の別れ」が女性視点の歌だとすれば、同じ状況を男性視点で描いたのが、同じアルバムに入っている同じ作者の「なごり雪」だろう。「なごり雪」も女性が遠くに離れていく歌だ(〈東京で見る雪もこれが最後ね〉)。作詞した伊勢正三大分県の出身だ。

娘□遠くに行くから別れることになるのか、きっぱり別れたいから遠く離れようとするのかわからないけどさ、なんか地理的に距離をとらないと別れられないっていうのは面倒くさいな。遠くへ行った先でまたいろいろしがらみができそうだし、そこで幸せになれる保証もないし。場所を変えずに別れたいなぁ、あたしは。

父■今はドラマを見ていても、スマホの連絡先をサクッと削除することが別れの儀式になっているね。何度も消すのをためらったりすることで心の揺れを表現しているんだけど、指先一つで解消される関係ってのも薄っぺらいな。

娘□遠くに行くなんて、昔の人はフロンティア・スピリットがあったんだね。

父■故郷に帰るんだからフロンティアってことはないけど。

娘□〈嫁いでゆく〉っていう言い方は、たんに二人が結婚しますってことじゃなくて相手の家に入るっていうことだから、冒険よ。フロンティア精神がなければできないわ。解放的な都会暮らしを経験したあとは、濃密な人間関係の残る田舎は未知なる土地になるでしょ。子どものときとは違う大人の人間関係に巻き込まれるわけだしさ。

父■フロンティアかどうかはともかくとして、70年代っていうのはまだ、田舎から都会に出てきて故郷を思うという「望郷ソング」の影響が強く残っていたから、恋愛ソングもそういうタイプの歌になったんだろうね。都会で恋愛相手を見つけて都会で家庭を持つ、ということができなかった人のうち、何割かは故郷へ帰っていく。田舎から都会に出てきてそこで家庭を持てた人たちの子どもは、今は都会で華やかな恋愛を繰り広げている。彼らは、別れるにしても人の移動はセットにはならない。

娘□恋愛にいろんなものを絡ませたくないだけなんだよね。旅情ものの歌ってあるでしょ。失恋して旅に出て、すっきりして戻ってくるっていう。あれって、リセットしてまた元の環境に戻るわけだから、人が移動したように見えても、実質的な移動ではない。

父■バス旅行の歌集に必ず載っていた山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」(作詞、山上路夫1974年)も〈この旅終えて街に帰ろう〉とあって、都会の住人が田舎に来て、また都会に戻っていくという構造になっている。この歌の場合は、バス旅行は、亡くなったと思われる彼女についての「喪の仕事」の一部になっている。旅先での、人間を超越する自然や、バスという乗り物だからこそ保存されている世俗的な日常性により、〈僕〉は元の場所に帰ることができる。回復が予見されている。自分で一人でクルマを運転して同じ場所に行っても得られない体験だ。この歌の特徴は、都会から田舎へ、あるいは田舎から都会へという一方通行ではなく、往還を一つの歌の中で描いていることだね。

娘□移動ではなく元の場所に戻ることに主眼がある。

父■ご当地ソングてだいたいそうだよね。恋に敗れた女が都会から一人で地方都市に来て、そこの風物に癒されるという。旅と移住の違い。70年代は国鉄のディスカバー・ジャパンのキャンペーンがあって個人旅行が盛んになったし、雑誌片手の「アンノン族」という若い女性の一人旅も流行った。失恋と旅が結びつくのは、そういう女性の一人旅が珍しくなくなったという時代背景があるのかもしれない。80年代付近になると、久保田早紀の「異邦人」(1979年)とか中森明菜の一連の旅情ものなどグローバルなものになっていく。若い女性が一人で旅行している姿をはたから見ては、そこにセンチメンタル・ジャーニーのようなロマンチックな幻想を投影していくというパターンだね。

娘□そういうのに比べたら「22才の別れ」や「なごり雪」は行ったっきりになる。で、遠く離れるといっても、都会に行くんじゃなくて田舎に戻るわけよね。田舎の両親にしてみれば帰ってきてほしいわけでしょ。あれ? なんかそういう歌なかったっけ?

父■青木光一の「早く帰ってコ」(作詞、高野公男、1956年)か? 松村和子の「帰ってこいよ」(作詞、平山忠夫、1980年)かな?

娘□三味線をベンベンかき鳴らしてたやつ。

父■松村和子のほうだね。「帰ってこいよ」は東京に出ていった女性を、青森にいる幼なじみの男性の立場から、帰ってこいよと呼びかけている。一方、青木光一の「早く帰ってコ」は、田舎に残った農家の長男が、東京に出た次男三男に早く帰ってこいと呼びかけるもの。〈幼なじみも 変わりゃしないよ〉と田舎は変わらずに待っていると言っている。この2曲のあいだには24年の時間が経っているから社会的な事情は同じではないけど、田舎から人が出ていくことは同じだ。今でも、東京一極集中が止まらない。特に若い女性は、田舎では仕事がないからといって、どんどん東京に出て行ってしまう。今「帰ってこいよ」と呼びかけているのは地方自治体だけどね。

娘□ちょっと疑問なんだけど、「22才の別れ」は、田舎から出てきた女性が都会で男性と出会い、再び田舎に帰っていくという前提で話しているんだけど、〈私の誕生日に 22本のローソクをたて()17本目からはいっしょに火をつけた〉っていうことは、17歳から22歳まで交際していたっていうことでしょ。私はてっきり大学生活の出来事だと思っていたんだけど、17歳ってまだ高校2年か3年なんだよね。この人が田舎の高校を出て都会に来たとしたらおかしくない?

父■中学を卒業して集団就職で上京したのかもしれない。70年代に入ると都会への人口流入は減少数する。この歌が書かれた74年はオイルショックが起きて高度経済成長の時代も終わり、中卒者の採用も減少したけど、74年時点で22歳だとしたら、15歳時は67年で、その頃の高校進学率は右肩上がりで上昇しているころで、今みたいにほぼ全入ではなく、まだ7,8割だった。(就職・進学移動と国内人口移動の変化に関する分析 https://ktgis.net/lab/study/papers/tani2000a.pdf

娘□どうしても田舎から都会に来たということにしたいわけね。

父■僕がそう解釈したのは〈あなたの知らないところへ嫁いでゆく〉という部分からだけど、〈あなたの知らないところ〉って、〈私〉は知ってるけど〈あなた〉は知らない場所というニュアンスが含まれてるでしょ。〈私〉にとっても未知の場所に嫁いでいくとしたら、誰も知らないところへ嫁いでいくという、もっと覚悟を決めた表現になるはずだ。君の言うフロンティア的な場所になる。でも〈私〉は知ってる場所というニュアンスがあるから、〈私〉には〈あなた〉と暮らしている場所の他に、別に故郷があると思えるんだ。自分の出身地に帰るのに〈嫁いでゆく〉という言い方はへんだけど、相手の家に嫁いでゆくということなんだろう。

娘□この女性が高校を出て就職して22歳で結婚することになったとか、あるいは大学を出てすぐに結婚することになったとかいうことは考えられないの?

父■高校から就職、あるいは大学への進学ってそこに切断線があるよね。人間関係も大きく入れ替わる。でもこの二人は17歳から22歳まで5年間継続した関係をもっていた。そこに環境の変化が感じられない。

娘□べつに高校のときつきあい出して、そのあともずっとつきあっていてもいいじゃない。

父■いいけど、僕には17歳から22歳までずっと同じ環境だったように感じられるなあ。それと〈17本目からはいっしょに火をつけた〉っていうのは、家族より男性との関係のほうが濃密な感じだから、家族とは離れた場所で男性と同棲していたのだと思わせる。誕生日のお祝いは家族とではなく男性と一緒だったということでしょ。17歳なら普通はまわりに家族がいるはずだけど、この歌の場合は男性しかいなさそう。やっぱりこの人は、家族とは離れて暮らしているんだと思う。

娘□ふうん。でも〈私の誕生日に 22本のローソクをたて〉るってバースデーケーキにローソクを22本も立てたら穴だらけになっちゃうし、イチゴとか置くスペースがないよ。それなりに大きなケーキが必要だし、それだと家族で食べなければ食べきれない。ローソクって子どもが小さいうちだけだと思う。ローソクよりプレゼントが欲しい。〈ひとつひとつが みんな君の人生だね〉ってうまいこと言ってローソクでごまかされてる。ローソクの数ばかり増えていくから、こりゃだめだと思って別れる決心をしたんじゃないの? ローソクを立てることで、むしろ費やした年数を思い知らされたのね。

父■なんだか話しているうちに、〈私の誕生日に 22本のローソクをたて/ひとつひとつが みんな君の人生だねって言って/17本目からはいっしょに火をつけた〉って随分寂しい感じがしてきた。もしかしたらこの女性は田舎かから出てきたのではなく、家族をなくして孤独な境遇だったのかもしれないなあ。

 

父■話を本筋に戻そう。「あなたはあなたのままでいてほしい」ということを「22才の別れ」では、〈あなたは あなたのままで 変らずにいて下さい そのままで〉と歌っている。「あなたはあなたのままでいてほしい」って、なんでそんなことを言うと思う?

娘□なんで? あなたは変わらないでいてほしいっていうことでしょ。あなたは変わらないでっていうことは他に変わってしまう人がいるっていうことか。歌にはあなたと私しか出てこないから、あ、変わるのは私なのね。私は変わってしまうけど、あなたは変わらないでっていうこと?

父■そうだね。その「私は変わるけど、あなたは変わらないで」ということをはっきり歌っているのが「22才の別れ」の翌年に出たユーミンの「卒業写真」(作詞、荒井由実1975年)だよ。〈人ごみに流されて変わって行く私〉と〈卒業写真の面影がそのままだった〉あなたが対比される。そして〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉とひそかに願っている。

荒井由実「卒業写真」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000c13/l00f607.html

娘□ちょっと都合よくない? 自分は変わってるのに相手には変わるなって。

父■まあ、心の中で思っているだけだからね。なぜそのように願うかというと、〈あなたは私の青春そのもの〉で、過去の記憶の中の〈あなた〉と一致していてほしいから、変わってほしくないんだよ。〈あなたは私の青春そのもの〉なので、変わらないあなたがいることが、変わらない過去の私があることを保証している。そして変わらない過去の私があることが、今の私の支えになっている。今の私はどんどん変わっているさなかにあるので、何が本当の私なのかわからなくなっているのだろう。そのとき確かなものとして依りどころとなるのが過去の私なんだ。

娘□今の私は過去の私を支えにし、過去の私は変わらないあなたを支えにしている。あなたってそんなに確かなものなの?

父■幻想だね。根拠をさかのぼってゆくと、最後は幻想というか空虚に行き着く。

娘□あなたに変わってほしくないっていっても、現実の〈あなた〉は何十年か経って同窓会であったらすっかり変わってオジサンになっていたっていうのがオチだろうけど。

父■この変わる女性というのは子どもから大人に変化するということでもあるし、男性のほうは青年のままでいてほしいということだろう。ここには逆説があって、変わらないということは保守的ということではなく、夢を持ったまま変わらないということだから未来志向なんだよね。一方、変わるというのは変化を恐れないというより、現実にあわせて変わってゆくということだから現実主義なんだ。現実が変わっているので、それに合わせて自分も変わっていく。

娘□男は未来を、女は目の前の現実を見るというのは類型的な発想よね。男脳/女脳の違いという疑似科学に結びつけられやすい。

父■未来志向と現実主義の対比を男女の違いに固定するわけではないよ。歌詞においても、男女の立場は入れ替えられているものがある。ひとつのパターンの中にもいろんな組み合わせがある。

娘□その「いろんな組み合わせ」のところは時間がかかるから省略して。

父■あ、そう。ではその一つを言うね。「22才の別れ」では女性のほうが遠くにいったけど、歌で、男と女のどちらが遠くに行くことになるのかという易動性の役割は固定的ではない。高度成長期に流行った望郷歌謡には、女性が田舎に残るという歌もいくつもある。例えば、大ヒットした青木光一「柿の木坂の家」(作詞、石本美由起1957年)はノスタルジーを喚起する典型的な歌で、男が都会に出て、故郷にいる〈あの娘〉は今も〈機(はた)織り〉して暮らしているかと思われている。この場合、女性は「変わらないふるさと像」の一部に織り込まれているんだけどね。

娘□その歌はちょっと古すぎてわからない。

父■太田裕美木綿のハンカチーフ」(作詞、松本隆1975年)も田舎に残るのは女性で、都会に出ていくのは男性。田舎に残るほうが変化にさらされないから、必然的に、変わっていくのは男性で、変わらないのは女性ということになる。この歌に出てくる男ってサイテー扱いされるけど、男がいる都会は変化が早くて、変化の早さについていくには自分も早く変わっていかなければならない。『鏡の国のアリス』の赤の女王じゃないけど、「同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」。

娘□変わる変わらないは、何と比較するかという相対的なものだってことね。田舎は変化がゆっくりだから、そこにいる人も変わらないように見える。都会は変化が早いから、そこにいる人も変わり方が早い。どちらも周囲の環境に適合しているだけ。田舎の中の視点、都会の中の視点では、それぞれ流れる背景の速さは同じで、それを背に人物が止まっているように見えるためには、それに合わせた速度で動いていなければならない。それが、田舎から都会に人が移動して、田舎の視点で都会の中を覗くとすごく早く動いているように見える。

父■「木綿のハンカチーフ」の男性が都会へ行ったのは就職のため。進学のために都会に出て行くこともある。菊池桃子の「卒業」(作詞、秋元康1985年)は進学か就職かわからないけど、こちらも男性が都会に行く。この歌には〈あなた〉という言葉は出てこない。代わりに〈あの人〉となっている。〈あの〉というのは遠称だね。近くにはいない人。自分たちのことなんだけど、語りの客観性が高くなっている。

娘□〈あの人〉って大人びた言い方だから、演歌なら〈あの人〉ってありそうだけど、アイドル歌謡で〈あの人〉ってのはユニークね。歌詞は高校生のことみたいだから、〈あなた〉っていう呼び方が照れくさいってこともあるのかな。お互い好きなんだけど、まだ恋人というほどはっきりした関係になれてなかったのかも。それで〈あの人〉なんてぼかした言い方になったのかもね。というか、〈あの人〉という呼び方からそう思わせるんだけど。

菊池桃子「卒業」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a00112e/l004f91.html

父■1番と2番のサビは同じで、〈4月になると ここへ来て 卒業写真めくるのよ/あれほど誰かを 愛せやしないと〉とあるんだけど、この〈になると〉が曲者なんだよね。一回の出来事なのか、毎年反復される習慣的な出来事なのか、どちらともとれる。

娘□よく、卒業してもみんなで毎年ここで会おうってのがあるじゃん。結局、半分も集まらなかったりするんだけど、そのときは感情が昂ぶっているからノリで言うじゃん。それみたいに、毎年4月に〈ここ〉へ来て思い出をたどるということじゃないの? この歌の場合は一人みたいだけど。他のみんなは卒業写真として。

父■普通に考えるとそうなんだけど、〈あれほど誰かを 愛せやしない〉という言い方がしっくりこないんだよな。若い人は出会いがいっぱいあるのに、いつまでもそんなことを思っているかな。

娘□それはいつまでもそう思うにちがいないほど素敵な人ってことよ。だから納得のいく恋愛ができるまでは毎年〈ここ〉へ来るんじゃない? 歌詞には〈ここ〉に該当する場所は出てこないから、〈ここ〉がどこかはわからないけど。ま、学校の敷地のどこかでしょうけど。

父■僕は、これは一回だけのことだと思うんだよね。〈あの人〉がいなくなった4月に、〈私〉は〈ここ〉にきて卒業写真をめくるということ。これは一番最後の、〈4月が過ぎて都会へと 旅立ってゆく あの人〉と対比になってるんだと思う。

娘□〈4月が過ぎて〉というのは、日本語としてちょっとヘンじゃない? 5月に都会に行くの? 〈4月になって〉ならわかるけど。普通は準備もあるから3月中に移動するはずだけど、区切りという意味では4月よね。

父■まさにそうなんだ。〈4月が過ぎて〉がおかしいのと同じように、〈4月になると〉もおかしいんだよ。〈になると〉という言い方は周期的な反復行動を思わせるでしょ。春になるとツバメが来る、みたいに。でも僕はこれは1回かぎりのことだと思うので、君の言うようにここも〈4月になって〉とでもすべきなんだよ。つまり「4月になって ここへ来て 卒業写真めくる私」と「4月になって都会へと 旅立ってゆく あの人」の対比なんだ。〈ここ〉と〈都会〉、〈卒業写真〉と〈旅立〉ち、〈私〉と〈あの人〉。卒業写真には過去が固着されている。一方、旅立ちは変化を示している。

娘□それはお父さんの図式に当てはめすぎじゃない? 歌詞を変えてまで自分の解釈にあわせるのは駄目でしょ。もとのままだと時間が錯綜してわかりにくいけど、それが味になっているんじゃないの?

父■あんまりきれいな図式にまとめられる歌だと、作り手の意図が見え透いてシラケてしまうかもね。整合的な解釈をはみでたところがあったほうが深さを感じる。

娘□私は別のところが気になった。最後の、〈4月が過ぎて都会へと 旅立ってゆく あの人の/素敵な生き方 うなずいた私〉と締められているところで、〈うなずいた私〉って何それウケる、って思った。自分で自分にツッコミいれてるじゃん。

父■この頷きは、〈私〉の判断は間違ってないということを自分に言い聞かす意味があるよね。〈私〉を捨てて遠くに去っていくんだから本当は恨み節の一つや二つは言いたくなるところをそうせずに、〈あの人〉の生き方を肯定する。そうでないと自分がみじめになるしね。〈あなた〉の生き方が素敵ならば、自分が捨てられたことも〈素敵な〉ことの一部でしょ。捨てられたのではなく違う意味が生じる。

娘□ありのままの現実を受け入れるのが恐いからごまかしているのかな。

父■たしかに〈あの人の/素敵な生き方〉ってどういうことなのか具体的にイメージできないんだけど、これって、「卒業写真」の〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉に通じるものがあるよね。どちらも高校生か大学生くらいなんだけど、そんな若造に〈生き方〉なんてしっかりしたものがあるのかと。〈生き方〉というには対象になるスパンが短すぎるでしょ。〈あの人の/素敵な生き方〉は他の人には幻想にしか見えないとしても、根拠が自分の外に置かれているので、詮索を一旦そこで止めることができる。他の解釈として、〈あの人〉のこれまでの学生時代の〈生き方〉というより、この先の延長が〈素敵な生き方〉になるに違いないと言っている可能性もあるけれどね。

娘□この「卒業」も、田舎に残るのは女性で、都会に行くのは男性ね。都会に行って変わったとか変わらないとかは書いてないけど、それはまだ先の話ね。

父■〈素敵な生き方〉の人だから「木綿のハンカチーフ」の男のように変わってはいかないことが期待されている。

娘□〈素敵な生き方〉が、その人を縛る呪文になっている。変わらないようにする呪文。直接本人に言ったわけではないだろうけど、お祈りみたいなものなのかな。

父■いずれにしても、変わる変わらないは、置かれた立場によって、男でも女でもどちらでもありうる。

娘□移動する先は、都会に行くというのが多いみたいね。高度成長で都会に吸い寄せられていくからでしょうけど。さっきの「22才の別れ」は田舎に行くことがドラマを生んでいるでしょ。それって珍しくない?

父■そうだね。「さすらいもの」の別れのパターンなら、あちこち田舎を流浪するというのはあるけど、田舎に定着するために田舎に行くというのは・・・あ、「津軽海峡・冬景色」は田舎に帰るパターンだな。あれは、東京で失敗して北に逃げるタイプの歌だね。ドラマ『北の国から』みたいな。都落ちソング。「22才の別れ」も時間切れという点では失敗と言えるかも。敗者が北とか南に逃げるのは、日本人の想像力のパターンにあるよね。あるいは中心を避けつつ流浪する。それはまた別の話になってくる。今話しているのは「あなたと私」の二者関係の問題で、逃避行や流浪は、その関係がもう断ち切れて一人で行動している。まあ、「昭和枯れすすき」(1974年)みたいに二人で逃避行というのもあるけど。二者関係の移動を図式化すれば、移動する先(都会、田舎)、移動する人の性別(男、女)、語り手の場所(都会、田舎)、語り手の性別(男、女)の組み合わせでいろんなパターンができる。あ、またパターンの話に戻ってきちゃったな。

娘□変わる変わらないの歌って、変わるのは悪いことってイメージがあると思う。でも、変わるのは悪じゃないと思う。変わるのは生きていくために環境の変化に合わせるってことで、変化と場所の移動がセットになっているのは、移動が環境の変化をもたらすから。場所が変わらなくても、就職して環境が変われば自分も変わらざるをえない。女性の場合は、加えて結婚ということがある。結婚は女性のほうが男性に合わせる場合が多い。それに女性のほうが結婚の「適齢期」が短いとされるから、子どもから大人への変化の圧力が高くなる。女性の方が変わりやすい、というか変わる必要に迫られる場面が多い。

父■女性の方が環境の変化に対して柔軟に適応しているんじゃないかな。男のほうが硬直した考え方をしているような気がする。

 

父■「あなたはあなたのままでいてほしい」という歌を見てきたんだけど、ここにはもう一方の極が隠されている。

娘□なに?

父■「あなたはあなたのままでいてほしい」が「私」のほうに折り返されてくると「私は私のままでいたい」ということになる。

娘□それじゃ個人主義じゃん。二人をくっつけていた接着剤である愛が霧消してバラバラになっちゃう。

父■「あなたはあなた、私は私」って言い出すのは、普通は二人が別れたときだよね。うんと古い例をだせば、佐藤千夜子「この太陽」(作詞、西條八十1930年)では、いいなづけだった二人は、小さいときは一緒に遊んだりしたけど、大人になってからは〈恋の巡礼者〉となり〈あなたはあなたの途(みち)をゆき 私は私の途をゆく〉と離ればなれになってしまう。昭和5年の歌だ。

娘□別々の道を行くとか、それぞれの道を行くとか、違う道を行くとかいうのはJポップの歌詞にもよくあるけど、西條八十が書いた詞をいまだになぞってるんだねJポップは。

父■別れたあとなら「あなたはあなた、私は私」っていう潔さは、「別れは新しい出会いの始まり」という認識の転換をもたらして生産的なんだけど、つきあってるうちから既に「あなたはあなた、私は私」という意識が生じてることがあるんだよね。

娘□それが「あなたはあなたのままでいて、私は私のままでいる」という、干渉しあわない個人主義ね。

父■ユーミンの「卒業写真」では、〈人ごみに流されて 変わって行く私〉が歌われていて、現実にあわせて流されるように変わっていく女性が描かれているように見えたけれど、歌にある「変わっていく私」と「変わらないあなた」の対比のうち、「変わっていく私」は実はそれほど否定されているわけではなく、そこにあるのは「あなたはあなたのままでいて、私は私のままでいる」という、「あなた」から自立した女性なんだろうな。もっと言えば、「私が私のままでいるために、あなたはあなたのままでいて」ということで、「あなたと私」は対等ではなく。「私」の方に比重がある。いっけん「あなた」に象徴される過去に依存しているように見えるけれど、それはもうじき捨て去られるライナスの毛布なんだろう。過渡的な意識が歌われてるんだと思う。

娘□「あなたはあなた、私は私」ってはっきり言うのは、客観的でさっぱりしてるけど、突き放した冷たい感じがする。

父■自立していて、お互い干渉しないので、そう感じるんだな。そういう歌の典型は金井克子「他人の関係」(作詞、有馬三恵子、1973年)だろう。交通整理みたいに手を左右に振りわけるしぐさと「パッパッパパパ」というバックコーラスは子どものころよく真似したなあ。無表情で歌う金井克子はちょっと怖かったけど。子どもには歌詞の意味はわからなかったけど、大人は困ったんじゃないかな。

娘□小さい子は、形が面白いとすぐ真似するよね。

父■〈愛したあと おたがい 他人の二人/あなたはあなた そして私はわたし〉という歌詞で、会うときも別れるときも他人のふりをしようということ。会うときは初めて会う人のように新鮮な気持ちで会い、別れたあとは自由でいられるように、ということだね。「逢引の哲学」とでもいうのかな、お互いを尊重しあうということが、自分の領域への侵襲を防ぐことにつながっている。この歌の場合は、お互い深入りしないほうが長続きするという計算の上でそうしてるんだろうけど。「他人の関係」というのは、計算づくで動ける「大人の関係」でもあるね。

娘□「関係」って、なんか淫靡な響きがあるけど、それはこの歌から?

父■さあ、どうだろう。

娘□歌われているのは、なんかゲーム感覚の恋愛って感じね。でも、そんなにきれいに割り切れるものかな。恋愛って不安定なものでしょ。うまくいっているときはいいけど、どちらかのバランスが崩れるとあっというまに駄目になりそうな関係ね。

父■この歌の場合は恋愛というより、お互いが楽しむための契約という感じだね。契約といえば『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマがあって、二人の関係が愛という不安定なものから始まるのではなく、契約結婚という安定したものから始めようとしていた。結婚という制度を表面的に利用した関係だったのが、結局真実の愛にめざめるっていう展開だった。形式に内容が満たされていく。『逃げ恥』は結婚をふんぎるまでの敷居を低くして、愛がなくても結婚していい、愛はあとからついてくる、人は人によって変化するということを言っていたと思う。実際、愛なんてよくわからない心理状態でしょ。私は本当にあの人のことを愛しているのかしら、ってドラマのヒロインもよく悩んでるでしょ。

娘□あなた色に染まりたいっていう歌がよくあるけど、あなた色に染まっちゃったら「あなたはあなた、私は私」に戻れないね。

父■ウェディングドレスが純白であることの意味だね。一旦染まってしまったら洗っても落ちなそうだ。テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」(作詞、荒木とよひさ1986年)が〈時の流れに身をまかせ/あなたの色に染められ〉と歌っていたな。この歌は、一度きりの自分の人生さえ捨ててもいいと歌っていたから極端だけれど。

娘□尽くしてくれる女性って、男の理想じゃないの?

父■ここまで受け身だと特殊な事情を感じるね。こじれて厄介なことに巻き込まれそうな気がする。正反対の歌を川島だりあが歌っている。〈あなた色に染まってく 自分がこわくて/悲しき自由の果てに〉(「悲しき自由の果てに」作詞、川島だりあ1992年)。ドラマ『ウーマンドリーム』のサントラに入っていた。この歌の二人は別れて、自分が自分でいられることのほうを選んだんだね。愛より自由。〈悲しき自由の果てに〉というのは、自分が自分でいること(自由)をつらぬくのは寂しさと引き換えだということだろう。自分がなくなる、飲み込まれることが恐いんだね。自由というワードは「他人の関係」でも、〈大人同士の恋は 小鳥のように/いつでも自由でいたいわ〉と使われている。また『逃げ恥』の話をすれば、結婚によって自由を奪われると考える人がいるけれど、『逃げ恥』は自由が愛に入れ替わってゆく過程を描いているんだと思う。そしてそれはそんなに嫌なことではない。

娘□自由と拘束(愛)の中間ってないのかな。

父■1976年に亡くなった武者小路実篤が、晩年、色紙によく書いたというのが、「君は君 我は我也 されど仲よき」。一旦バラバラな個人になって、そのあと結びつく。これって束縛されてもいないし、孤独でもない。

娘□そうかも。でも、「仲よき」が「されど」で接続させられているのが危ういわね。飛躍できる根拠がないでしょ。

父■「君は君 我は我也」をどこまで徹底するかということだろう。「されど」と転回できる余地があるためには、ある程度のところで折り合わなければならない。相反するベクトルがある状態を保持するには均衡が重要だね。

娘□仏教でいう「愛」って執着っていうことだっけ。執着は「悟り」の障害になる。「あなたはあなた、私は私」というのは相手に執着しないということなら、これはある意味「悟り」なわけ?

父■「生悟り」だよね。中途半端なところで止まっている。あなたに干渉しないからこちらも放っといてというのでは、対話による深まりが得られないということで、お互い自立しているのはいいけど、バラバラなのは無関心に行き着く。僕はこの「あなたはあなた、私は私」という言い方は実は好きじゃない。決めつけてるよね。「あなたはあなた」というのは決めつけだし、「私は私」というのも自分のことを決めつけている。相手のことを全部わかっている人はいない。なのに全部わかったような言い方だ。人間って変化し続けるものだ。「あなたはあなた」、つまり「A = A」という同一性にとどまることを拒否して運動を生み出すのが「自同律の不快」だ。

娘□なにそれ? あ、埴谷雄高。えーと、ネットに立花隆との対談が抜粋されてる。

 

埴谷 ぼくが言うのは、「自同律の不快」というものを持たなければ、あらゆる存在は存在的価値を持っていない。「自同律の不快」というのは絶えず満たされない魂を持っていて、満たされよう、満たされようと思って絶えず満たされる方向へ向かっていく。これがぼくの宇宙の原理なんです。その満たされざる魂を持っているのが宇宙の原理だけどね、ぼくもある意味でヘーゲル的なんですね。(『無限の相のもとに』)

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父■「絶えず満たされない」のだから、相手をこういう人だと決めつけることはできない。「あなたはあなた、私は私」と言った途端に、お互いの変化が見えなくなってしまう。

娘□このあいだの哲学の授業で紹介されたバフチンという人が似たようなことを言っていた。

父■人は誰でも、他の人に理解できない不確定な部分が残る存在でしょ。そもそも自分ですら自分のことは十分にわからないから、なおさら決めつけることはできない。

娘□私、高校のときは世話焼きのお姉さんキャラだったのね。友達もみんなキャラ化していて、お互いかぶらないようにしていたけど、そういうのってホント、自分にも他人からも決めつけられたふるまいになっちゃってて苦しかった。現実の自分とズレがあるし、キャラを壊すことになるから変わりたいのに変われないし、そもそもキャラって自分の一部分でしかないから、そういう人間として接してこられるのはすごく嫌だった。お姉さんキャラでしっかりしてなきゃいけないから、友達に甘えたいときがあっても甘えられないし。泣きたいときは陰で泣いてた。

父■そうだったんだ。全然、気がつかなくてごめんね。