Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

オフコース「言葉にできない」〜君僕ソング(その3)

父■「あなたと私」の歌詞に話を戻すよ。フォークでもうひとりというか、グループなんだけど、取り上げたい人がいて、オフコース小田和正がいたグループだって言えばわかるかな。デビューしたのは1970年だけど、テレビにも出なかったせいか、なかなかヒットにめぐまれず、79年の「さよなら」でブレイクした。それまでも「眠れぬ夜」(1975年)とか「秋の気配」(1977年)とか人気のある曲はあったんだけど、ヒットというわけでもなかった。

娘□オフコースって面白い名前ね。「もちろん」ってどういうこと?

父■よくあるボケだね。OF COURSE ではなく OFF COURSE ね。グループ名をいちいち説明しなきゃいけないってのも余計な手間だ。誤解を修正することから入るコミュニケーションって、なんか気まずい。

娘□いっそ、オフロードとかにすればよかったのに。間違えにくいし、男っぽいじゃん。

父■それじゃ「お風呂どう?」みたいだ。OFF COURSE は、出身高校の野球部OB会の名前をそのままつけたらしい。シングルを見ると、始めは、カタカナ書きのオフコースと英語表記の OFF COURSE が混在していて、カタカナ書きのほうの書体が大きかったんだけど、やがて英語表記の方が優勢になって、「さよなら」のヒットのあとは英語表記だけになる。名前が認知されたから英語だけにしたのかな。英語のほうが本当の名前だということなんだろうか。そもそも当初はジ・オフ・コースと the がついていた。カタカナ表記もオフ・コースの中黒がとれてオフコースになっていったという経緯がある。英語表記も大文字だけの OFF COURSE と小文字の Off Course もあってこれは最後まで統一されていない。こういう表記の揺れがあるところも、どういうグループなのかわかりにくくさせている一因じゃないかな。テレビに出ていれば表記についてはもっと統一感のあるものになったと思う。

シングルジャケット一覧→https://sp.universal-music.co.jp/offcourse/disco/single/

娘□たぶんテレビに出てたら司会者にオフコースって「もちろん」ってことですかってからかわれて、うんざりしたでしょうね。

父■オフコースはシングルA面の曲はだいたい小田和正が作詞作曲している。

娘□A面って?

父■レコードの時代は、黒い円盤をひっくり返して聞いたんだよ。シングルの場合、AB面に1曲ずつ入っていた。制作サイドがプッシュしてるのがA面。B面はオマケ扱い。アルバムはSIDE 1SIDE 2 と表記されていた。

娘□小田和正って伝説の人でしょ。テレビの「歌うまランキング」で、高い声がきれいだって、よく名前が出てくる。

父■伝説というか、まだ現役だけどね。小田和正はたくさん曲を作っているんだけど、歌詞を書くのが苦手らしい。歌詞の書き方についてたびたび語っているんだけど、それを読むと面白い。例えば、『たしかなこと』(小貫信昭著、2005年、以下はWikipediaからの孫引き)のインタビューで、「言葉にできない」という歌についてこう言っている。この歌は今でもCMなんかで流れるから知ってるよね。歌詞には〈lalala……言葉にできない〉が繰り返されている。

オフコース「言葉にできない」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a002409/l002816.html

 

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(小田)「何しろラララでいこうというのはアイデアとしてあって。ただ、そこにたどり着くまでの過程があって。歌なんてもしかしたら、歌詞がないほうが強いんじゃないか?”って思ったのかな。その前段階で、歌詞、書くのイヤだなって、そう思ってたのが、だんだん歌詞がないほうが…”ってなっていったのかな。いや、ともかくラララって歌っているうちに、このままのほうがシンプルで強いって確信してったんだよ。ちょうどそれが当時の、バンドのテーマだったから」

(小田)「循環コードを弾きながら、ラララって、歌いながらメロディをちょっとずつ直していったんだと思う。ラララのあと、言葉にできないが先か悲しくてが先か、どっちか忘れたけど、このふたつが前後して浮かんだと思うんだよ。とにかく、そこのブロックが最初に出来たのは覚えている。言葉にできないって歌詞とラララっていうのはとても辻褄が合うじゃない?

(小田)「そしたら、悲しくてだけじゃなく、悔しくてっていうのも言葉にできないラララとも辻褄が合う。で、途中で、否定的な、暗いまま終わるのはイヤだなっていうことで嬉しくて言葉にできないという、それで締めればいいんだみたいな。そう思いついたときにああ、そうか、これで解決。ハッピー、ハッピー!って、この展開は素晴らしいな、とね」

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娘□最初に「歌詞、書くのイヤだな」があったってのがウケる。でもそこから論理的に整合性があるように組み立てるところがすごい。悲しくても、悔しくても、嬉しくても言葉にできないんだね。何があっても言葉にできないと言い張っているようで、かたくなささえ感じる。「悲しくて言葉にできない」というのは、今ふうに言えば、「悲しすぎて言葉にできない」ってなるね。

父■ただね、僕にいわせれば、〈言葉にできない〉という歌詞を使うのは、お一人様1回にしてもらいたい。

娘□なんで?

父■だって反則技でしょ。歌詞は言葉で書いているのに、〈言葉にできない〉なんていうのはさ。それなら言葉にできる人が歌詞を書けばいいじゃん。先日読んだ本で、歌人永田和宏という人が対談で短歌入門の本を出しているんだけど、そこでこう言っていた。できあいの言葉を使わないようにという文脈だ。

 

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よくある表現としては「ひとり」とか「寂しい」とか「悔しい」とか、あるいは、「計り知れない」とか多いね。もっとひどいのは、「言葉に尽くせない」とかね。言葉にしようとしているのに、言葉に尽くせないでは自己矛盾だよね。(永田和宏知花くらら『あなたと短歌』、朝日新聞出版、2018年、60-61頁)

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娘□短歌って何度も読み返すじゃない。だから精選された言葉を味わうことができる。でも歌の歌詞って、右の耳から左の耳に通り過ぎていくでしょ。そういう言葉は一度聞いただけでわかるフワっとした言葉のほうがいいんじゃない? 好きな歌は何度も聞きなおすけど、それでも、通り過ぎていく言葉って吟味しにくい。やっぱり短歌のように精密に組み立てられた言語作品とは違うような気がするなあ。

父■今引用した本で、こういう短歌が紹介されている。投稿歌なんだけど、「コンビニに流れる歌詞に聞き入ってどうかしている今日の私は」(松原和音)(同前、186頁)。ふつうは「コンビニに流れる歌に聞き入って」とすると思うけど、この人は「コンビニに流れる歌詞に聞き入って」としているでしょ。「歌詞を聞く」というねじれた言い方で、言葉を問題にしているということをはっきり言っている。

娘□失恋したときに、自分の気持ちを言葉にしたような歌詞があったので耳を傾けたというようなことかな。

父■どういう状況かはわからないけど、これなんか、短歌の言葉と歌詞の言葉の違いが表現されているようで面白い。「歌詞に聞き入ってどうかしている今日の私は」なんて、短歌を詠むような言葉へのこだわりのある人が、ふだんはみくびっている歌詞に、つい心を奪われてしまったっていうことでしょう。マジメな人がナンパされて、ついフラフラついていってしまうみたいな。歌詞の言葉の不思議さだよね。言語作品として精密なものに人が引きつけられるわけではない。

娘□短歌って縦に1行、ドーンと書かれているじゃない。周りに余白がたっぷりとられているし威厳がある。だから、それを読むときは、何が表現されているか読む人がちょっと身構えて解釈にのぞむ。一方、歌の言葉って、向こうから耳に入ってくるので、解釈する時間もないまま消えていくし、解釈してやろうなんて身構えてもいない。隙だらけの状態でいきなり耳に入ってくる。

父■短歌は正座して鑑賞し、歌の言葉は歩きながら聞く。評価の軸が違うんだろう。だけど、かといって、どの歌も「ひとり」「寂しい」「悔しい」「言葉に尽くせない」ばかりだったらうんざりするでしょ。

娘□うーん、たしかに「言葉にできない」という歌は、「ひとり」「哀しい」「せつない」「くやしい」「嬉しい」っていう歌だけど、こういうシンプルな言葉が耳にすっと入ってくるときってあるのよねえ。

父■シンプルな歌詞があってもいいけど、せいぜい10曲に1曲くらいにしてもらいたいな。例えば、あいみょんという人はひねった歌詞を書く人だけど、「裸の心」なんかはとてもシンプルだよね。曲もそうだけど。たまにそういう歌を歌うから、そこに何か強い思い入れのようなものを感じることができる。

娘□10曲に1曲っていう根拠は?

父■1枚のアルバムに1曲はそういうちょっと素朴な歌詞があっても、バリエーションの一つとしてありうる、ぐらいの感じかな。

娘□ふーん、お父さんの希望なのね。

父■最初に〈言葉にできない〉っていう匙を投げたような歌詞を思いついた人は、「こりゃ便利な言い方だ」と思ったんじゃないかな。何にでも使えるメタレベルに立った言い方だ。それこそ、嬉しくても悲しくても言葉にできないって言えば済む。聞き手の側の推測に委ねるものが多すぎる。

娘□でも実際、息を呑むとか、筆舌に尽くしがたいとか、感動のあまり言葉失うとかいったことはあるわけだから、〈言葉にできない〉という歌詞も「あり」だと思うけどな。

父■〈言葉にできない〉という言葉を発するまでの過程がそれなりに描かれていれば説得力のある歌詞になるだろうね。でも、安易に〈言葉にできない〉と逃げてしまうのは日本語の蓄積を無視している。たいていのことは言葉にできる。人が死んで悲しい、子どもが生まれて嬉しい、恋人と別れて悲しい、好きな人と一緒にいて嬉しい、こういったことはその心の振り幅にあった言葉の蓄積が千年ぶんある。失恋して悲しいなんてのは、言葉にできないような特異な経験ではない。宇宙人に会って驚いた、というのはあまりないかもしれないけど。

娘□言葉っていうのは他人が作ったものでしょ。それだと自分だけが持っている気持ちや考えを表現できないってことじゃないの?

父■じゃあ、自分だけの気持ちを伝えるのに、自分だけの言語を作るの? 私的言語っていうやつだね。でもそれって他人には伝わらないよ。

娘□だから〈言葉にできない〉って言うんじゃないの?

父■言葉にするのは他人に理解してもらいたいからでしょ。でも〈言葉にできない〉というのは、「俺の気持ちは他人であるあんたにはわからない」って言っているように聞こえる。

娘□そんなに特別感のあるものでも喧嘩腰的なものでもないけど。

父■今、二つの異なる観点のことが話題になっていて、言葉では表現しきれないことがあるということと、自分の気持ちは他人にはわからないっていうことで、この二つは別のことだから、分けて考えてみよう。

娘□あ、違うんだ。

父■まず、言葉では表現しきれないことがあるということから。〈言葉にできない〉って、そもそもどういう意味なのか。まず辞書をひいてみよう。国語辞書には、「言葉」の項に「言葉に余る」があり、「ことばでは言いつくせない」と説明されている。これはいくつかの辞書で全く同じだ。「言葉に余る」は、言葉にしてみたけれど、言い足りない部分が残ってしまうということだね。「言葉に余る」は、一旦は言葉にしてみたという点が〈言葉にできない〉とは違う。では、〈言葉にできない〉はどうなのか。全く言葉にならなかったのか、それとも「ことばでは言いつくせない」部分については言葉にできないという意味なのか。両方だろうけど、〈言葉にできない〉という方が、「言葉に余る」という言い方より強いよね。

娘□言い方にもいろいろあるんだ。

父■ネットにある「Weblio類語辞書」は、「言葉にできない」の類語を次の四つに分類している。わかりやすくするため順番を入れ替えた。カッコ内は類語の例から抽出した。

 

(1) 感動や衝撃で言葉が出ないさま(言葉を失う、絶句する、唖然とする、言葉が出ない、息を呑む)

(2) うまく表現できず思いを言い表せない(ふさわしい言葉が見つからない、言いようのない、言葉にならない)

(3) 言葉で表現できない程すぐれているさま(筆舌に尽くしがたい、言葉では言い表せない、得も言われぬ

(4) 言葉で表現しにくいさま(何とも言い難い、名状しがたい、言語を絶する、形容しがたい)

 

 〈言葉にできない〉理由として、(1)と(2)は表現する主体の側に重きがあり、(3)と(4)は対象の側に重きがある。オフコースの「言葉にできない」を見ると、使用例は次の3つ。

 

・終わる筈のない愛が途絶えた(…)また 誰れかを愛している/こころ 哀しくて 言葉にできない
・自分がちいさすぎるから/それが くやしくて 言葉にできない
・あなたに会えて ほんとうによかった/嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない

 

 これらは(2)に(1)が少し混じってる感じかな。

娘□ふーん、そうなんだ。たしかに自分の心が通常の状態ではなくなって〈言葉にできない〉っていう感じだね。一方の(3)と(4)は対象の側に重きがあるっていうけど、対象の側ってどういうこと。例えば?

父■浦島太郎がそうだよ。〈昔昔浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来てみれば 絵にもかけない美しさ〉という唱歌があるでしょ。

娘□それはいくらなんでも知ってる。〈たちまち太郎はお爺さん〉っていうあれね。

唱歌「浦島太郎」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a00126c/l013288.html

父■明治四四年の『尋常小学唱歌』に載せられた。僕も子どものとき歌ったけど、ずーっと違和感があったんだよね。

娘□浦島太郎が水中で呼吸できたのかってこと?

父■それもそうだけど、どこがひっかかるかというと〈絵にもかけない美しさ〉のところ。浦島太郎は龍宮城の美しさを表すのに絵によって表現しようと思ったのかね。そんなはずないよ。浦島太郎の伝説は古代からある。今ある昔話のかたちに近くなったのは室町時代に書かれた『御伽草子』。どういう話かというと…

 「昔丹後国に、浦島といふもの侍りしに、その子に浦島太郎と申して、年の齢二十四五の男有りけり。明け暮れ海のうろくづをとりて、父母を養ひけるが……」

 とあって、室町時代においても「昔」の話として伝えられていたんだね。そういう昔の人が簡単に絵を描こうと思うかな。絵を描くには道具が必要だろ。今なら手近なところに画材はいくらでもあるけど、昔はそうじゃなかった。チューブ入り絵具が発明されたのも、多色の色鉛筆が作られたのも一九世紀半ば。絵を描くという行為は一般に身近なものではなかったはずだ。絵師が工房で行う仕事だった。

娘□へんなとこにこだわるわね。どうでもいい気がするけど。

父■浦島は「明け暮れ海のうろくづ(=うろこ、つまり魚のこと)をとりて」とあるように、魚をとって生計をたてていた。今風に言えば漁師だね。漁師が絵を描いて人に感動を伝えようという発想が湧くだろうか。せいぜい砂浜に木の棒で落書きすることはあっても、浦島が半紙を片手に龍宮城のことを思い出してサラサラと絵を描き、「こりゃ美しすぎてうまく描けないな」などとつぶやくかな。仮にもし、浦島の手元に絵の道具が揃っていて絵を描いたとしても、その絵の出来はたいしたものではなかったはず。浦島の主な仕事は魚をとることなんだから。

娘□で、何が言いたいわけ?

父■〈絵にもかけない美しさ〉と言うとき、絵を描く腕前がそれなりにある人が、自分の力量を上回る対象について、それを表現しきれないというならわかるが、もともとたいした技量のない人が「俺の才能を越えている」と言ってみたところで、おまえの技術が未熟だから描けないのだろうと言い返されるだけだってこと。時代的にも語り手の資質的にも、二重の意味において、〈絵にもかけない美しさ〉という言い方は発想されえないものだ。

娘□〈絵にもかけない美しさ〉というのは美しいことの極みを表現したいための喩えでしょ。それを字義通りに解釈するのはバカだって言われるわよ。

父■喩え方が適切ではないから、違和感を生じさせるんだよ。『御伽草子』では龍宮城は、「此女房のすみ所、ことばにも及ばれず、中々申すもおろかなり」と書かれている。つまり「言葉にできない、言い尽くせない」ということ。それなら唱歌も〈龍宮城へ来てみれば 言葉にできない美しさ〉とでもすればいい。美しさという視覚的なものなので、つい〈絵にもかけない〉という歌詞にしたんだろうけど、それは歌詞を書いた近代の人間の感覚がそうさせたってこと。

娘□おしまい?

父■おしまい。

娘□残念ね。浦島太郎の歌が〈絵にもかけない美しさ〉じゃなくて〈言葉にできない美しさ〉だったらJポップの元祖になれたのに。

父■浦島の例は、対象の側に〈言葉にできない〉理由があった。それで、さっきは〈言葉にできない〉理由を主体の側に原因がある場合と対象の側に原因がある場合の二つに分けたけど、そもそも主体の側に原因があるといっても、その前に主体の外部の出来事があるわけで、それを知覚した結果生じる心の動きだから(1)から(4)は根本的な区分とは言えない。肝心なのは、表現するのは結局「この私」ってことで、自分の言語能力が経験を語るのに追いつかない、不十分だということだよね。

娘□どういう場合にそうなるの?

父■さっき君は「自分の心が通常の状態ではなくなって〈言葉にできない〉」って言ったでしょ。それなら、通常の状態なら滞りなく言葉にできるのかな?

娘□そういうことになるわね。普段の経験まで〈言葉にできない〉となったらボキャ貧か失語症でしょ。

父■そうかな。僕なんか普段の経験でも細かいニュアンスは伝えるのが無理だなって思うんだけど。誰でも同じようなことを考えているみたいで、例えば、作詞家でもあるいしわたり淳治という人は『言葉にできない想いは本当にあるのか』(筑摩書房、2020年)という本の「はじめに」でこう書いている。ちょっと長めに引用するね。

 

   ***

 音楽を聞いていると、よく「言葉にできない思い」というようなフレーズを耳にする。自分でも過去にそんな言葉を何度か書いたりもしたことがあるけれど、その表現にこの頃ちょっとした違和感を覚えるようになってきた。

 というのも、「言葉にできない思い」があるとわざわざ言っているということは、その人は日頃自分の感情をすべて言葉に出来ているということになる。しかし、どうだろう。私たちは本当にそんな大そうなことを日々やってのけているのだろうか。

 自分の感情を他人に伝えるために、人類が発明した非常に便利な道具が「言葉」である。言葉という道具はあまりにも便利すぎて、ともすれば忘れてしまいそうになるけれど、私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。

 例えば、恋人に「愛している」と伝える時、ただ単に「愛している」と口から発しただけで、愛情がすべて伝わるかというと、残念ながらそうではない。「愛している」の一言だけで、相手のことをどんな風に、どのくらい愛しているかを表現するのはハリウッドの名優でも至難の技だろう。だから私たちは、「君の笑顔だけが僕の幸せだ」とか、「出会った日から寝ても覚めても君のことばかり考えている」とか、「世界中を敵に回しても僕は君の味方だ」などと、「愛している」の言い換えをするのである。

 しかし、いくら言い換えて自分の思いと言葉とを近づけようとしても、じゃあ本当に君の笑顔以外では幸せを全く感じないかというとそんなはずはなく、眠っている間に別の誰かの夢を見ることがないかというと当然あるわけで、世界中を敵に回すほどのことをやってしまった人を本当に愛し続けられるかと言われると正直なところ難しい。つまり、これらのセリフは、一見するとさも自分の感情のきれいに言語化したもののようだけれど、どれも感情を大きくオーバーランしている表現なのである。もちろん、こういった大袈裟な言葉を並べることで、思いの熱量が伝わって説得力が増すという効果はあるとは思うけれど、それが自分の感情とイコールかというと、決してそうではないのである。

 そんな風に、私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする。

 「明日9時に集合ね」「そこのペンとって」のような事務的な連絡だけならば正確に言語化できていると言えるのかもしれないが、とかく「感情」という目に見えないものを言語化しようとすると、「言葉」は意外と不便な部分が多く、それこそ「言葉にできない感情」だらけではないかと思う。

   ***

 

 要するに、何をどう言おうと言葉は感情の全部を表現しきれるわけではなくて、「言葉にできない」ものがあるのは当たり前なのに、それをことさら「言葉にできない」などという人は、他のことは言葉に出来ていると思っているのだろうか、というシニカルなことを言っているんだ。

娘□〈言葉にできない〉を反語的に考えてみたってことか。でも、なんで言葉は「感情の近似値」しか表現できないの? 言葉は人間が作った道具だけど、それは不完全な道具だから? じゃあそれはもっと完璧なものに近づけられるの?「それ(言葉)が自分の感情とイコールかというと、決してそうではない」とか「私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする」って言うけど、両者が限りなく近づけば問題ないの? 限りなく円に近い多角形って円と同じじゃない?

父■この書き手は、まだだいぶギザギザのある円だって言いたいんだろうね。

娘□あたしはもう十分だと思うけど。これ以上言葉が微分化されても困るし、実際言葉って微細なニュアンスをとばしてコントラストを高める方向に変化していくでしょ。

父■「感情の近似値」とか「言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいる」という言い方は現実の写像として言語を捉えているみたいで誤解を招きやすいなあ。そもそも言葉の論理と世界の論理は別々のもので、言葉は世界と無関係な体系として自己完結しているということが理解されていない。そのことは、言葉と世界の齟齬が「感情」に限定されて語られていることからもわかる。

娘□民族によって虹が何色に見えるか違いがあるって聞いたことがある。言葉が違うから、言葉によって切り分けられる世界も違って見えてくるって。サピア-ウォーフの仮説だっけ? 言語によって世界の捉え方が異なるという。

父■それは言語が人の思考様式に影響を与えるというものだね。色の変化みたいにはっきりした線引きがないものは、特に言葉による分類に左右されそうだね。

娘□虹の色が5色だという民族の人が、そこにない2色をなんとか表現したいのに、ふさわしい言葉がみつからないとき、そのもどかしい感じを〈言葉にできない〉って言うのかも。

父■同じ虹を見ていても、それをどう捉えているかはわからない。『古畑任三郎』という刑事ドラマで、雨だれが音程になって聞こえる絶対音感の持ち主が犯人だったことがあったけど、僕たちは雨だれは雨だれにしか聞こえない。絶対音感をもっている人はどんな音でも音名で聞こえるので他のことに集中できないとかいうよね。その感覚は僕ら凡人には理解できない。それは違いがはっきりした極端な例だけど、他の人の頭の中で何が起きているかは、その人以外わからない。言葉とかジェスチャーとか、表面に出てきて共有できるものからしか理解できない。

娘□それって、さっき二つの観点があるという話に関係してる?

父■「自分の気持ちは他人にはわからない」っていうことね。哲学の独我論の問題になってくるけど、「私とあなた」は脳味噌を共有しているわけではないから、私の考えていることは所詮あなたにはわからない。言葉ってみんなで共有しているものでしょ。他人の脳味噌がどのように働いているかはわからないけど、言語として共通の場に表れてきたものは理解できる。逆に、言葉で言い表せない「この私」にしかわからない部分は、他の人にとっては、ないも同然ってことになる。言葉で表されたものしかわからない。しかも、言葉で表現されたものでも違う内容を受け取る。例えば、同じ「机」という言葉を聞いても、私とあなたではイメージしているものはかなり違う。だから、言葉にすらできないということになると、その時点でお手上げだ。

娘□歌詞の場合はそんなに小難しい話じゃないと思う。〈言葉にできない〉っていう言い方は、実質的な情報は何ももっていない、たんなる強調表現みたいなものになっていると思う。強調表現ってインフレぎみになるけど、なんでも「チョー」「マジ」「めっちゃ」で済ます人っているじゃない? それって微細な違いを無視して一律な表現に全てを押し込めているでしょ。そういう強調表現って、心の針がポンと右に振れた経験を共感してもらいたいってことかな。〈言葉にできない〉もそれに似たところがある。

父■そうだね。〈哀しくて 言葉にできない〉というのは「とても哀しい」ってことだもんね。だから〈くやしくて 言葉にできない〉〈嬉しくて 言葉にできない〉というのも、「とてもくやしい」「とても嬉しい」ということで、〈言葉にできない〉は何にでも付けられるんだよ。「おいしくて言葉にできない」とか。

娘□〈言葉にできない〉って、やっぱり一定のレベルの言語能力を有している人しか使えない言い方だなって思う。ちょっと上から目線な感じもしてきた。

父■歌詞には、他にも似たような言い方がいくつもある。〈言葉にならない〉〈言葉では表せない〉〈言葉では言えない〉〈言葉では足りない〉〈言葉では伝えきれない〉〈言葉では片付けられない〉なんていうのもあるよ。GLAYの「HOWEVER」(作詞、TAKURO)は〈言葉では伝える事がどうしてもできなかった 愛しさの意味を知る〉。もう少し洒落た言い方では、〈言葉にすれば()嘘に染まる〉(「ダンシング・オールナイト」作詞、水谷啓二)なんてのも。ここまで言葉が信用できなくなると、〈言葉なんていらない〉〈言葉なんかいらない〉ということになる。〈言葉にならない〉というところまで極端なことは言わない代わりに、ちょっと言い訳するみたいに〈うまく言えないけど〉とか〈ありふれた言葉〉だけどって留保をつけて何か言う場合もある。いずれも、適切な言葉が見つからないということなので、〈言葉にならない〉の一歩手前にいる。

娘□裾野が広いのね。

父■〈言葉にできない〉というフレーズは記号化しているけど、聞き手次第で、実質的な意味を残すことができる。聞き手は、歌詞の不明瞭な部分に、過去の自分の経験を当てはめて解釈する。でもそれって聞き手に丸投げしてるってことじゃないかな。聞き手の解釈に委ねる部分が多すぎると思う。浦島太郎が、竜宮城は〈絵にもかけない美しさ〉だから絵に描きませんでしたと白紙をだして、この白紙にそれぞれの人が思い浮かぶ最高の美しさをイメージしてくださいと言ったら、大喜利だったら1回は許すけど、安直すぎるから2回めは認めたくない。そういうのは「白いキャンバスソング」とでも言ったらいいのかな。