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流行歌の歌詞について

さだまさし「道化師のソネット」を読む〜ピエロの菩薩行

(概要)歌詞に3回出てくる〈小さい〉という言葉は、個々人の人生における無力さを表している。ピエロは利他行で人を救うとともに自分も救われることを望んでいる。

 

1 位置づけ

 道化師のソネット」は、さだまさしの人気がピークを迎えていた1980年に発表されている。前年に出した「関白宣言」が社会現象とも言えるブームを巻き起こし、その勢いにのって、続く「親父の一番長い日」という12分以上もある風変わりな曲も大ヒットしていた。

 道化師のソネット」は、さだ本人が主演した映画『翔べイカロスの翼』(1980年)の主題歌として作られたものである。歌詞は映画の内容をふまえていて〈笑ってよ〉〈道化師(ピエロ)〉などと出てくる。歌詞自体に物語性はない。映画が物語をもっているので、歌詞に物語性は必要なかった。

 歌詞の内容には思わせぶりなものはなく、川や山の比喩はわかりやすい。ピエロは比喩ではなく、そのものであるが、映画を見ていればその意味は明白である。

 この歌はサビ始まりで、冒頭が〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉となっていて、ここに歌の主題が明示されている。例えばさだの一番人気の「主人公」(作詞、さだまさし1978年)は、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という主題は歌詞の最後に置かれていて、そこでようやく「主人公」というタイトルの意味がわかる仕組みになっているのであるが、「道化師のソネット」は「道化師」と〈笑ってよ〉という言葉が出だしで結びついているのである。出だしからわかりやすいのである。

 わかりやすいということは軽いものとみなされることでもある。「道化師のソネット」は売れたのでよく知られているし、サビがはっきりしていて聞きやすい。耳に馴染んでいる。けれどそれは、わかりやすく作られた大衆迎合的な歌と評価されるおそれももっている。「関白宣言」や「親父の一番長い日」という大ヒットを連発していたさなかなので、一挙に広がったファンに向けて、誰が聞いてもわかるものにしようと思ったのかもしれない。映画に依拠したピエロという表現も、歌の自立性をそこねたと思われる。「親父の一番長い日」という歌詞が6番まである長い曲に比べたら「道化師のソネット」のシンプルな歌詞は従来のファンには物足りないものではなかったか。「道化師のソネット」のあとは、一転して、「防人の詩」というシンプルな言葉で仏教的な死生観を語った深い歌ができた。これも映画主題歌であるが、映像作品からそのエッセンスを読み取り、そこに付きすぎず離れすぎない歌を作るという才能は、「北の国から」「夢の吹く頃」などでも示されている。

 

2 タイトル

 タイトルは「道化師」と書いてそのまま「どうけし」と読むが、歌の中では〈ピエロ〉と歌い、歌詞カードにもそのようにルビがついている。

 なぜタイトルは「どうけし」と読ませるのか。「ピエロのソネット」ではカタカナが続き軽い感じになってしまう。なにより「どうけし」と言った方がカッコいいからだろう。「ピエロ」というと私たちは、あの白塗りで大きな赤い口の顔を思い浮かべる。ところが「どうけし」になると途端にイメージがぼやけてしまう。そういう言葉は知っているが、それに対応するイメージはダイレクトに結びつくものがない。ヨーロッパの宮廷にいた道化師か、あるいは文学好きな人なら太宰治の「人間失格」を連想するのではないか。

 文化人類学では70年代に「道化」論が流行して、トリックスターなんて立派な名前が与えられていた。ピエロというとありふれたイメージに向かってしまうが、「道化師」ということで知的で高尚なイメージになってくる。

 ピエロというのはサーカスにいて滑稽なことを演じる人であるが、それが最近ではすっかり恐ろしい不気味な表象として定着してしまった。古くは、子供を多数誘拐した「ハーメルンの笛吹き男」はピエロのような衣装で不気味な存在であったが、近年では、『バットマン』のジョーカーや『IT(イット)』の怪物が典型だ。個人的には、子供のときに見た『帰ってきたウルトラマン』に出てきた凶悪なナックル星人がピエロ風で恐ろしかったのを覚えている。最近見た『仮面病棟』というツマラナイ邦画でも、犯人はなぜかピエロのマスクを被っていた。道化恐怖症という症状もある。ピエロは人を楽しませる存在ではなく、その厚塗りの化粧の下に邪悪な本心を隠した危ない奴ということになってしまった。

 ピエロと重複する概念にクラウン、アルルカン、マリオネットなどがある。ウィキペディアの「道化師」の項目には次のような記載があった。「クラウンとピエロの細かい違いはメイクに涙マークが付くとピエロになる。涙のマークは馬鹿にされながら観客を笑わせているがそこには悲しみを持つという意味を表現したものであるとされる。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/道化師)

 涙マークが省略されているピエロも多いが、ピエロはその顔の中に、笑う唇と涙という矛盾した感情をあわせもっていることが特徴だといえそうだ。涙のマークは瞳を中心にした十字のデザインに抽象化されることがあり、どちらが起源なのか(涙か十字か)わからないが、ピエロの顔にはもの悲しさを感じることは間違いないし、肝心なのは、ピエロはそれを隠していないということだ(化粧で表現している)。

 ということを書いてから『さだまさし 旅のさなかに』(さだまさし著、1982年、新潮文庫)という歌詞集を見たら、「道化師のソネット」についてのエッセイで、こう書いてあった。

 

「映画でピエロを演じる事になった時、メイクの人に頼んで、左の目の下に涙を入れてもらった。そんなピエロのメイクなんて見た事がない、と言われたが、お願いして入れてもらった。本当は描かずに、演技で見せるべきものなのだろうが、こちらはからきしだから、せめて、思い入れだけでも形にしたかったのだ。’’涙のピエロ’’は珍しかったとみえて、キグレサーカスの子供達は、かわるがわる見に来ては、変なの!?と言った。」(『さだまさし 旅のさなかに』30-31頁)

 

 これだけを読むと、ピエロの涙メイクはさだまさし起源のように思えてしまうが、さだもどこかで見たものを依頼したのであろう。

 日本の歌ではマリオネットが好まれている。BOØWYの「MARIONETTE」が有名だが、歌に出てくるマリオネットはもの悲しい存在で、自分自身であるとされる。さだまさしにもマリオネットを歌った歌がある。グレープの時代に書いた「哀しきマリオネット」で、〈糸が絡んだ操りピエロ〉と歌っていて、ピエロと同義で使われている。マリオネットは操り人形のことであるが、ピエロを模したマリオネットも少なくない。ピエロもまた操り人形を模したパントマイムをおこなうことがある。

 タイトルの後半部分は「ソネット」である。ソネットというのは歌謡をもとにした西欧の定型詩で、1篇が14行からなり、日本では短詩とか小曲とか訳されている。「道化師のソネット」は、道化師についてのちょっとした歌というていどの意味であろう。おそらくタイトルに他の言葉を思い浮かばなかったのであろう。「マツケンサンバ」とか「黒猫のタンゴ」とかの「サンバ」や「タンゴ」の呼称は、歌の内容に付加される情報量としては微小であり、タイトルをそれらしく見せるために付けられたものと考えられる。ウィキペディアの「道化師のソネット」には次のように記載されている。

 

「さだは詩を完成させた後で「道化師のソネット」というタイトルを付けたが、命名後に詩の行数を数えたら、偶然ソネットの形式通りの14行になっていた、つまり意志的に14行で完成させたから「ソネット」と名付けたわけではない。さだはこの偶然について「神様っているのかもわかんない」とコメントしている。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/道化師のソネット

 

 つまり、さだ本人も、タイトルに「ソネット」とつけたのは深い意味がなかったということである。また、ソネットには構成や押韻などに制約があるが、さだがたまたま一致したと喜んでいるのは14行という点だけである。しかもその14行というのは、歌唱で最初にある〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉という部分を無視して14行なのである。それを入れると15行になってしまう。そのためシングルレコード添付の歌詞表示はこの部分を省略して14行にしている。歌詞を見て、なんで冒頭部分がないのか疑問に思った人は(私もそうだが)、こういう事情があったのである。

 

3 歌詞

 道化師のソネット」の歌詞について具体的にみていく。

 まず形式的な面ですぐ目につくのは、この歌は対句的な発想で書かれているということだ。「笑ってよ 君のために/笑ってよ 僕のために」「舟人/山びと」、そして「小さな舟」と「別々の山」というのも、個別の人生という意味で対応している。なぜ対句的に書かれているかというと、書きやすいからだろう。フォーマットを一つ作れば、あとは応用でできる。1番の歌詞を書いて、それを下敷きにして2番の歌詞を書いたのだろう。

 

 この歌には〈小さな〉という形容動詞が3回使われている。〈小さな舟〉〈小さな手〉〈小さな腕〉がそうである。歌詞という少ない言葉のなかに、これだけ同じ言葉がでてくるということは、重要な言葉であるということだ。おそらく作詞者は自分でも気づかずに使ってしまったのだろう。この歌詞は一気に書かれたものであることを推測させる。

 では、この〈小さな〉が意味するものはなんだろうか。〈小さな舟〉〈小さな手〉〈小さな腕〉は次のように使われている。

 

〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉

〈君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを〉

〈君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉

 

 見てわかるように、〈小さな手〉と〈小さな腕〉は同じことの言い換えである。この三つは、〈小さな舟〉と〈小さな手〉〈小さな腕〉の二つに分けられる。

 まず〈小さな舟〉であるが、これは一人用の舟である。〈僕達〉は個人個人がそれぞれ〈小さな舟〉に乗るように別々の速さで各人の人生を生きている。私達はこの世界に一人ころんと投げ出されている。

 この解釈が正しいことは2番の歌詞からもわかる。そこでは〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね〉と歌われている。なぜか〈別々の山を それぞれの高さ目指して〉いるのである。パーティーを組んで協力しあって同じ山頂を目指しているわけではない。人は孤独に各々の人生を生きている。背中には重い荷物をしょっているだろう。同じように、舟もみんなが乗ることができる大きな舟ではなく〈小さな舟〉なのである。〈小さな舟〉だから、そこに積む荷物もたくさんは乗らない。宝舟のようにたくさん乗せられれば財産であるが、必要最小限の荷物だけであり、しかもそれは〈哀しみという荷物〉なのである。

 実はさだまさしの他の歌でも〈小さな〉はよく出てくる言葉である。この歌に関係しそうなのは、「主人公」の〈小さな物語〉と「驛舎(えき)」の〈小さな包み〉である。

 「驛舎(えき)」(作詞、さだまさし1981年)は、都会でうまくいかずに故郷へ帰ってきた女性を駅で出迎えるという内容である。〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉で、〈重すぎるはずの君の手荷物〉とされる。ここでも〈荷物〉は〈小さな〉ものである。その量は、一人ぶんの人生にみあったものだ。生きてきて最低限必要なものがそれだけだったものを持ち帰ったということである。都会で生きてきた何年間は、たったふたつの〈小さな包み〉にまとめられてしまうほどの価値しかなかった。それが〈重すぎるはず〉というのは、具体的な荷物は〈哀しみという荷物〉という象徴も帯びているということである。

 「主人公」(作詞、さだまさし1978年)は先にも引用したが、学生時代を思い出して、あなたの存在を糧に、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉と前向きになる応援ソングである。この〈小さな物語〉とは、平凡な〈自分の人生〉のことである。私は誰かの物語の一部を生きているわけではなく、私以外のもっと「大きな物語」のために生きているわけでもなく、人はそれぞれ個人の〈小さな物語〉を生きていて、その物語の主役であるということだ。そうした価値転換をもたらす歌であるために、広く長くファンに支持された。本稿の文脈で確認しておきたいのは、この〈小さな物語〉はおのおのの物語であり〈小さな舟〉、〈別々の山〉と同じことであるということだ。それぞれ生きている個人が一人の力でできることは小さい。その無力感は諦念とともに受容される。

 

 さだはこの「道化師のソネット」を2021年の年末の『第72回NHK紅白歌合戦』で歌うという。対戦する歌手としてではなく、企画枠である。

 この紅白のテーマは「Colorful~カラフル~」である。趣旨説明にはこうある。コロナ禍のために日常の暮らしは彩りの欠けたものになってしまった。だから少しでも世の中を「カラフル」に彩りたい、「そして「カラフル」には、多様な価値観を認め合おうという思いも込められています。あらゆる色が集い、重なり合い、称え合い、素敵な大みそかを彩る。それが今年の紅白です。」(https://www.nhk.or.jp/kouhaku/theme/

 コロナ禍で彩りを欠いた世の中をカラフルに変えたいというのはこじつけで、「そして」以降に本当の理由が語られているように思える。アイコンも、赤と白がすっぱりと分かれているのではなく、グラデーションが施され、白の端はうっすら青味がかっている。工夫はされているが、基本は赤と白なのでカラフルとは言い難い。紅白に分かれて戦うのにカラフルでありたいというのは自己否定につながる。

 タイトルに「カラフル」「colorful」がつく歌は、歌詞検索サイトで検索すると150曲以上みつかる。「color」も含めるともっと増える。そんなにあるなら、テーマによる出場枠を作って誰かが「カラフル」という歌を歌えばいいのにと思うが、そういう歌はなかった。代わりにというわけではないが、出場者の中でテーマに関係した歌を歌うのは、ゆず「虹」とBUMP OF CHICKEN「なないろ」(連続テレビ小説の主題歌)である。「なないろ」も虹のことである。(検索するとタイトルに「なないろ」「七色」とつく歌は100曲以上出てくるので驚く。)出場者のNiziUは名前に「虹」が含まれている。

 学校の出席簿も男女が混合になっている時代である。『紅白歌合戦』が男女に分かれて戦う形式になっているのはいかがなものかという批判は毎年ある。今年も朝日新聞の社会面で記事になっていた(12月27日)。男女に二分するという露骨さから排除されるのが性的マイノリティだ。紅白のテーマをカラフルにしたのは性的マイノリティへの配慮からだろう。性的マイノリティの社会運動を象徴する旗がレインボーフラッグだし、多様性が実現される社会をカラフルという言葉で語っている。『紅白歌合戦』は、今後は言葉やアイコンだけでなく、肝心の出場者の選出や扱いについても苦慮していくことになるだろう。トランスジェンダー(当時は性同一性障害)であることを公表した中村中は2007年に紅組で紅白歌合戦に出場しているが、性的マイノリティであることが強調された演出でキツかったという。もし、カラフルであることをテーマに掲げたときに、それを実行しているかのように出演者を選出しマイノリティなのに頑張っていることを過剰に演出したら当人は傷つくだろう。理念を掲げても、その実現を具体的な人によって見せるのは難しい。

 さだまさしはこれまで『紅白歌合戦』に20回出場しているが、「道化師のソネット」を歌うのは初めてだという。さだは企画枠での出場なので、「カラフル」というテーマとこの選曲とは密接な関係があると推測される。そこで歌詞を見ると、該当しそうなのが、〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね/君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉という部分である。それぞれの人が別々の山を、哀しみという荷物を抱いて(背負って)登っているという歌詞で強調されているのは、「みんなちがう」ということである。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という詩に対し、さだの歌が言っているのは「みんなちがって、みんなかなしい」ということである。先に紹介したゆずの「虹」(作詞、北川悠仁2009年)という歌でも〈特別な事ではないさ それぞれ悲しみを抱えてんだよ〉と歌われている。これも「道化師のソネット」と重なる言葉を持つ歌詞である。なぜ同じような言葉遣いになるかというと、人は個人個人に切り離されると弱くなり〈それぞれ悲しみを抱え〉るからである。多様性を認め合うには、人はいったんバラバラに切り離される時期を経ることになる。そのとき、それぞれの荷物を自分で持たなければならない。自分の悲しみを自分が引き受けなければならない。「道化師のソネット」は今のそういう時期を歌っているようにも受け取れる歌なのである。

 紅白歌合戦』で男女を二分することのおかしさは、性的マイノリティが問題になる以前からわかっていた。グループやバンドで男女混合になる場合はどちらの組に属するのか。男女のデュエットで歌う場合はどうなのか、といった問題があった。それらについては、複数で男女混合の場合はフロントマンで、デュエットで担当部分が半々の場合は有名なほうで判断するという基準があるように思えた。例えばデュエットで半分づつ歌うの都はるみ岡千秋「浪花恋しぐれ」は都はるみのほうが有名だから紅組、平尾昌晃・畑中葉子「カナダからの手紙」は平尾昌晃のほうが有名だから白組である。では、ロス・インディオス&シルヴィア「別れても好きな人」はどうか。ロス・インディオスは既にヒット曲もある男性5人組で、シルヴィアはクラブ歌手からスカウトされたデビュー作である。これは紅組としての出場になった。歌唱量は女性のほうが若干多めであるが、おそらく華やかさという点で紅組にされたのだろう。だがシルヴィアは、のちに菅原洋一と組んだ「アマン」では白組で歌っている。歌唱量は半々。菅原のほうがベテランとはいえ、シルヴィアもその時点で3回も紅白に出ているし、「華やかさ」という観点では、ハンバーグ顔の菅原は問題にならないはずだ。男女混合の場合、どちらの組に所属することになるかは、はっきりした基準がないようだ。恣意的なのである。先の朝日新聞の記事では「紅白の振り分けはNHKが決めており、申し出がない限り、出演者本人の意思を確認することはない」とある。これからは先に出演者の意思確認が必要になるだろう。だがそんなことをしたら、紅白が同数にならなくなるかもしれないし、イタズラっ気のある者は、男でも紅組で歌いたいと言ってめちゃくちゃになってしまうだろう。また、風男塾のように男装のグループの場合、紅白どちらにするのか、迷うことになるだろう。

 仮に『紅白歌合戦』が理想的に改善されたとしても、それで歌手のセクシュアリティの扱いにおける問題が解決されるわけではない。AKBや坂道グループはどうして女性ばかりなのか、ジャニーズはどうして男性ばかりなのか、エグザイルはどうして男性ばかりなのか。女性はどうしてE-girlsという妹分として外部グループを作るのか。一部のグループ、バンドやコーラス、ダンサーなどを除くと、芸能活動をするグループは男女が截然と分かれている。AKB48の第17期生メンバーの募集資格には「202227日時点で満12歳~満20歳までの女性(現小学校6年生から)」とある。AKBはアイドルになりたい人が全員女性だったというわけではない。募集時点で女性に限定されている。『紅白歌合戦』は、男性性、女性性をことさらに意識させるパフォーマーを分類して掛け合わせるのに適したシステムである。『紅白』は戦後72年も続いてきた、日本中が注目するイベントである。その歴史性を考えても、『紅白』はいろんなものを映し出す鏡であり続ける。これからどのように変容していくか注目していきたい。

 

 紅白歌合戦』に迂回したが、「道化師のソネット」の歌詞に戻る。

 先ほど〈小さな舟〉について見たので、次は〈小さな手〉〈小さな腕〉についてである。もう一度引用しておく。

 

〈君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを〉

〈君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉

 

 この〈小さな手〉は外見がそう見えることからきているが、比喩としてもっと拡大して解釈されることが読み手に期待されている。字面をそのまま読めば〈君〉は小柄な女性だという推測がなされる。しかしこの人が手にしているのは〈哀しみ〉である。既に〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉という表現があることを見ておいたが、〈哀しみ〉イコール〈荷物〉として捉えられている。「驛舎(えき)」に〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉とあるように、どこへ行ってもこの荷物は人についてまわるものである。

 では〈哀しみ〉とは何かというと、これは生きることそのものである。人が生きることに哀しみはつきまとっていて、そこから逃れることはできない。さだはこのころ「防人の詩」という仏教の四苦(生(しょう)・老・病・死)を読み込んだ歌を作っている。〈生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと/病いの苦しみと 死にゆく悲しみと〉とある。生苦は、一般的には生まれることと説明される。人が生まれることがすべての苦の大本だ。今、「親ガチャ」という言葉が若者のあいだで流行っているが、生まれた条件は自分で選べずしかもそれは変えられないということであり、「親ガチャ」は生苦の現代的な表現だと言っていいだろう。最近、ファンタジーで「転生もの」や「人格交代もの」「タイムリープもの」などが大流行しているように、人は人生をやりなおしたいという思いが強い。だが、今の自分の肉体から外に出ることは不可能であり、自分の「生・老・病・死」は他の人と交換できない。

 ただ、苦といっても、古代インドではたしかに生きることは肉体的にも痛苦であっただろうが、文明化された現代日本では肉体的な苦痛はかなりやわらいで、感覚的な悲哀にまで低減されているだろう。生・老・病・死のような大きな悩みでなくても、生きていくうえでは様々な哀しいことに遭遇し、大なり小なり悲しむために生きているようだと感じることも少なくないだろう。私達の舟にはいつも〈哀しみという荷物〉が積まれているのである。

 そこで〈小さな手(腕)〉は何を意味しているかというと、これは外見とは関係がない。〈哀しみという荷物〉を抱えているのは大柄な女性でもそうだし、屈強な男性でもそうである。彼らはみな〈小さな手〉をしているのである。他の誰も「この私」に成り代わることはできない。自分の哀しみは自分で抱えるしかない。〈小さな〉は、人が無力な個人として世界に投げ出されていることの比喩である。個人でできることは限られている。誰しもなにか問題を抱えていて、それに一人で対処するのが難しい。その個人個人が向き合っている無力さが〈小さな〉という言葉で表現されているのである。つまりこれは、先にふれた〈小さな舟〉〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉と同じことなのである。

 

 では、この〈小さな〉ことからくる無力さであるが、それを克服する方法はあるのだろうか。たんに諦めるしかないのか。答えは簡単だ。他の人が手を差し伸べればいいのである。みたび「驛舎(えき)」という歌を持ち出すと、〈重すぎるはずの 君の手荷物をとれば〉とあるように、ここで手助けしてくれる人が現れるのである。小さくても一人で持つには〈重すぎる〉荷物である。はおそらく〈君〉一人だけでは立ち直れないかもしれない。動き始めるまでは負担が重い。駅に着いたとき、つまり再起しようとする瞬間にちょっとだけでいいから手を差し伸べてくれる人がいれば随分助かるのである。ちょっと手を貸すことはできる。だが助っ人といえどもそれ以上は立ち入れない。「驛舎(えき)」の歌詞は次のように続いている。〈ざわめきの中で ふたりだけ息を止めてる/口を開けば 苦しみが全て 嘘に戻るようで〉。言葉をかわして相手に少しでも〈苦しみ〉を分有してもらおうと思ってもそれは無理なのだ。〈苦しみ〉は自分で引き受けるしかない。他人は〈君〉の人生を生きることができない。

 道化師のソネット」でも手を差し伸べてくれる人が登場する。というより、この歌はその「お助けマン」誕生の瞬間を描いた歌なのである。

〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になれるよ〉
〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になろう〉

 というのがそれである。この歌が映画の主題歌でなければ、ここで唐突に〈道化師(ピエロ)〉が出てくるのは面食らう。ここまでにピエロにつながるような伏線はなにもないからだ。

 〈僕は道化師(ピエロ)になろう〉とあるので、まだピエロにはなっていない。ピエロになる決意を固めただけである。そもそも〈僕〉はどういう人なのだろうか。人の哀しみを見てそれをやわらげようとしていることはわかる。ではことさらそう思う〈僕〉自身は何者なのか。〈僕〉は特別な人ではない。〈僕〉も哀しみを抱えている市井の一人なのである。〈僕達は舟人たちのようだね〉とあるように、〈僕〉もまた〈舟人〉である。逆に言えば、〈舟人たち〉の中のひとりが、発心してピエロになろうとするのである。仏教ふうに言えば、ピエロになろうとするのは他人の幸福のために行動しようということだから利他行である。映画『翔べイカロスの翼』は実話をもとにしており、ピエロになった青年はサーカスの公演中に事故により亡くなってしまう。

 常不軽菩薩という変わった菩薩がいる。菩薩というのはブッダになるために修行している人のことだ。常不軽菩薩は相手が誰であっても近づいていって、「あなたがたは仏になる可能性がある人だから敬います、軽んじません」と礼拝したのである。こんなことをされれば怒る人がでてくるので、石を投げられたり杖で打たれたりと迫害された。それでも礼拝をやめなかった。この、みな仏になるというのは大乗仏教の真髄である。

 ピエロの笑いというのは、人を笑わせるために自分が笑われる者になることである。ときには映画のように命がけで危ういこともする。人を幸せにするために自分をなげうつ。歌詞には奇しくも〈せめて笑顔が救うのなら〉と「救い」の文字が使われている。ピエロは人を救済するために道化を演じているのである。涙を流しながら人々を笑わしているというのは修行ではなくてなんであろうか。もちろんピエロが全員菩薩行をしていると言いたいわけではない。ただ、この「道化師のソネット」という歌が、ピエロの笑いによる人々の救済を描いているのは間違いないだろう。いわば常被笑菩薩である。

 道化師のソネット」は、〈小さな舟〉とか〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉といった小乗的な言葉で語られている。その中からやがて、ピエロという利他的な行いをするものが出てくる。だが、この歌に描かれる段階ではまだ自分のための修行という面が表れている。それは〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉の〈僕のために〉という部分である。ピエロの役割は笑われることにある。〈僕〉がピエロになったとしても笑ってもらえなければ自分が救われない。自分のことを考えて相手に笑ってくれというのでは、まだ未熟さが残っている。無理もない、まだピエロを志願したばかりなのだ。ツラい菩薩行に耐えられるのはごくわずかである。多くの修行者は途中で脱落してしまうはずだ。そのとき、弱い心の者もみんな含めて救われるように書かれたのが〈笑ってよ 僕のために〉である。〈笑ってよ 君のために〉は自分以外の全員に向けられている。〈笑ってよ 僕のために〉は自分に向けられている。この二つがあわさって取り残しのない全員になる。泣き顔のピエロという自己犠牲の思想は普遍性をもちえない。「道化師のソネット」は自己犠牲の熾烈さを超えたやさしさをもっている。