Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

世界の構築性 佐良直美「世界は二人のために」、小坂明子「あなた」~君僕ソング(その9)

9-1

父■〈僕〉と〈あなた〉はセットで出てきても存在論的に対等ではないことがある。ちょっと時間をさかのぼることになるけど、僕が生まれた1967年に佐良(さがら)直美という人がデビューして、「世界は二人のために」(作詞、山上路夫)という歌が大ヒットした。

佐良直美「世界は二人のために」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001f9d/l004ca9.html

娘□また昔に戻っちゃった。なんかおノロケっぽいタイトルね。この「世界」って、アメリカとかイギリスとか中国とか諸々の国々のことではないでしょ。

父■そんな独裁者の歌じゃないよ(笑)。このタイトルは反語ととらえることもできるし、独我論的なものととらえることもできる。もう一つ「あなた」もキーワードだね。この歌では、〈空 あなたとあおぐ 道 あなたと歩く/海 あなたと見つめ 丘 あなたと登る〉というように、何をやるのも〈あなた〉と一緒だ。

娘□恥ずかしいくらい、めっちゃベタベタしてる。つきあい初めか、新婚さんいらっしゃーいって感じ? あたしには息苦しい。もうちょっと一人の時間がほしい。

父■ベタベタさは聞いているこちらが赤面するくらいのものなんだけど、これはあえてそうしているものだから。いわばポエム的極限を想像して書いている。恋愛初期の全能感があふれている。二人で一緒に経験するのが新鮮な喜びであるということは、逆に言えば、それまでは深い孤独だったってことだろう。

娘□だから喜びも大きいわけね。幸せすぎてちょっと不安になるくらい。でも別に、好きとか愛してるとか言っているわけではない。ただ二人で一緒にいるだけで、それ以上の過剰な思いが伝えられるわけではない。Jポップにも〈二人〉という言葉はよく使われているけど、二人で同じものを見て、二人で同じ経験をするっていうのが最近の恋愛で、好きとか愛してるとか気持ちをグイグイ押し付けてこない。一緒にはいる。けど何センチか離れてもいる。

父■でもそれは存在論的に対等というわけではない。この歌の歌詞を見てご覧。〈あなた〉というワードは16回出てくる。対して〈私〉は1回だね。〈あなた〉と〈私〉の出現回数は極端に違う。この歌の〈私〉の少なさはどうしてなのか。

娘□〈空 あなたとあおぐ/道 あなたと歩く〉とあるところの〈と〉が何を意味するのか。この〈と〉は「あなたと私」ということでしょ。〈私〉は隠されているだけで、実は〈あなた〉が出てくる回数だけ出ていることになる。「世界は二人のために」あるというのは、この〈世界〉は〈あなたと〉の共同主観的なものということじゃないかな。

父■でも、この〈あなた〉には主体がたちあがるほどの存在感はないよ。字面としては〈私〉は隠されているけど、本当は強固に存在しているのは〈私〉だけで、〈あなた〉を含めこの「世界」は孤独な〈私〉が作り出した幻想なのかもしれない。〈二人のため世界はあるの〉と歌うけど、実は内容的には「広い世界の中で誰にも邪魔されず二人でいる」ということで、ガラガラの店に行くと「今日は貸し切りだね」って言うのと同じ。〈私〉が作った世界だから、必要のないものは存在しない。

娘□恋愛しているときは周りが見えなくなるっていうわよね。

父■〈私〉は登場回数が少ないから影が薄いのではなく、逆に、認識の中心として強い権力をもっているから出てこない。この世界は〈私〉が構築している独我論的な世界。『世界の中心で、愛をさけぶ』ってあったよね。自分が「世界の中心」にいるという感覚は、自分の意識があるから世界が存在しているということからくるんじゃないかな。自分が死んだら、同時にこの世界も終わる。認識の主体は〈私〉で、その〈私〉の目はいつも〈あなた〉をとらえている。「図と地」の図式でいえば、〈空〉とか〈道〉とか一般名詞で表されるものは舞台の書割にすぎなくて、それは背景としての「地(=世界)」で、〈あなた〉が「図」として屹立している。〈二人のため世界はあるの〉というのは、〈あなた〉の格付けが〈私〉と同じところまで高くなっていることを意味している。〈あなた〉は〈私〉の影のように都合よくどこにでもたち現れる。とはいえそういう格付けも〈私〉が行っているわけで、〈あなた〉はとても重要ではあるけれど、〈私〉によって作られた世界の構成要素の一つにすぎない。

娘□あたしの感覚だと、その「世界」は〈私〉がプレイするゲームの中の世界みたい。道があって丘があって〈あなた〉がいて、〈私〉の目がそれを追いかけている。一人称視点のゲームで、〈私〉=プレイヤーは画面に出てこない。

父■ゲームの区分にFPSとTPSがあるね。FPSは一人称視点のシューティングゲームで、TPSは三人称視点のシューティングゲーム。この歌はFPSだ。プレイヤーが画面に映らないように歌詞にも〈私〉は出てこない。1回出てくる〈私〉は、〈いま あなたと私〉というふうに対象化された〈私〉にすぎない。〈あなたと私〉と並べられてはいるけど、両者の間には存在論的に深い断絶がある。〈私〉は世界を支配する視点人物で、〈あなた〉はゲームの中で生きているキャラ。

娘□最近の歌は〈あなた〉と同じくらい〈私〉が出てくるわね。

父■この歌は〈私〉に見えるものを歌うから〈私〉は出てこない。一方、Jポップは自分の意識を歌う「自分語り」が多いから、必然的に〈私〉や〈僕〉が多くなる。でも〈私〉というのはそんなに強固にあるわけではなく、フラフラしているもので、〈私〉とは何かというのは、〈あなた〉によって反照的に規定される。さっきのUru「あなたがいることで」もそうだよね。〈私〉は語り手であっても、あらかじめそんなに確固たる存在ではなく、〈あなた〉との関係でしっかりした存在になる。見えるものを歌っていくと世界を構築していく方向になり、一方で、自分の意識の流れに注目していくと〈私〉や〈僕〉といった言葉がたくさん使われるようになって、世界を構築する力は弱くなる。

娘□この歌はすごい幸せかというと、そうでもないんじゃない? 今が幸せのピークであとは幸福感は減少していく。だって〈あなた〉といても特に何かをするわけではない。ただ一緒にいるだけで幸せ。そういう状態は長くは続かない。

父■一緒にいて特に幸せだと感じなくても、また別の境地が待っているからそれはそれでいい。ただ、僕は聞き手としてこの歌に入り込めなかった。この歌は〈あなた〉という人が操り人形みたいで主体性がなく、〈私〉に引きつられているだけで存在感がない。〈私〉が作った世界だから、〈私〉の意識のほつれによって簡単に世界が瓦解しそうな脆弱さをはらんでいる。

娘□〈私〉の想像で閉じていて、他者が存在していないのね。

 

9-2

父■「世界は二人のために」における世界の構築性をもっとはっきり歌った歌がある。小坂明子の「あなた」(作詞、小坂明子、1973年)。これも〈私〉によって構築された世界だ。ただ「あなた」の世界は〈家〉にまで縮小限定され、逆に具体化されている。「世界は二人のために」に出てくるのは〈空、道、海、丘〉という分類にすぎないけど、「あなた」のほうは〈子犬、じゅうたん、坊や、編みもの〉と具体的、個性的になっている。ゲームで言えば画面の精細度が上がっている。

娘□タイトルからして「あなた度」が濃厚そう。

小坂明子「あなた」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001ccb/l0047f9.html

父■〈もしも私が家を建てたなら〉と歌うから住宅のCMに使えそうなんだけど、〈小さな家を建てたでしょう〉と続くから難しい。安月給のサラリーマンがカラオケで歌ったら身の丈にあったマイホームだと揶揄されそうだ。

娘□歌の編曲はゴージャスだから豪邸の感じがするんだけど。

父■少女マンガの背景が花で飾られるようなものなのかな。Wikipediaの「あなた」の項目には、「最初のイントロを聴いた小坂が「これは私の作曲のイメージとは違います。もっとスタンダードジャズのようにおごそかな静かなイメージで世界歌謡祭はアレンジを変えて下さい」と依頼した」とある。ユーチューブに小坂がピアノの弾き語りで歌っている映像があって、シンプルなほうがこの歌にあっていると思った。

娘□女の子は、豪邸じゃなくても好きな人がそばにいてくれるだけで幸せな気分になれる。編曲のゴージャス感は、少女が夢見る幸福はこのくらい大きいっていう編曲者の解釈なのかも。

父■歌詞でだれもが驚くのは〈もしも私が家を建てたなら〉って女子高生が想像するところ。「私はこんな家に住みたい」って言うのではなく〈家を建てたなら〉だからね。親から独立して建てた家に、結婚した旦那さんと子どもまでいる想像をするんだから早熟だ。河原の土手に二人で腰掛けて隣でずっと笑っていて欲しいという、よくある歌がビンボくさく思えてくる。〈あなた〉のために家まで建てて、そこに囲っちゃうんだから。僕も新聞の広告に戸建てやマンションの間取りが書いてあると、それをじっと眺めて自分が生活することを想像してみるのが好きなんだけど。

娘□もしも私が総理大臣ならこんな国にしたい、っていう歌があってもいいかも。財務大臣には誰々さんを据えて、消費税は15%にするのよとか、替え歌を作ったら面白いじゃない。

父■たぶんもうあるよ。

娘□でも、あたしが国家について歌を作ったとしても、あたしの問題意識に引っかかってくることって身の回りの小さなことばっかりだと思う。バイト代の時給900円が1000円に上がったら何に使うか想像できるけど、1億円や1兆円の使いみちはわからない。この歌も、家という枠組ではあっても〈私〉の想像力の範囲を超えていないでしょ。

父■歌詞は、暖炉、子犬、じゅうたん、坊や、編みものという、〈私〉にとっての幸せの記号を集めたものになっている。もし、書き手が男の子だったら、子犬や編みものの代わりにプラモデルやサッカーボールになったかもしれない。あるいは〈小さな家〉ではなく「大きな球場」を作りたいというかもしれない。

娘□自分の好みのものが集められ、しかも〈小さな家〉だからそれらがギュッと詰まった状態になっている。〈小さな家〉からは、幸せを感じさせるもの意外は排除されている。16歳の女の子が作った歌だから考えつく限りの幸せなものを詰め込んだとしても少しのスペースで収まってしまう。それが逆にミニマルな暮らしに満足する点で、今ふうかも。あたしも自分の空間を、好きなもの、可愛いものだけで埋め尽くしたい。

父■家を建てるというのはゼロから何かを構築するってことだよね。自分の部屋というすでにある場所を装飾するとか、自分の裁量がきく場所に自分の好きなものを配置するというのとは違う。そういう構築性の強い歌なんだけど、それらに意味を与えているのは何かというと〈あなた〉だ。でも、その肝心の〈あなた〉が不在だよね。1番の歌詞は、〈子犬の横には あなた あなた あなたが居て欲しい/それが私の夢だったのよ/いとしいあなたは 今どこに〉とあって、2番では、坊やの横にはあなたが居て欲しい、3番では、私の横にはあなたが居て欲しい、と歌う。子犬や坊やがいて私がデッキチェアでレースを編んでいたとしても、幸福の源泉である〈あなた〉がいなければ、全てが雲散霧消してしまう。

娘□〈それが私の夢だった〉と過去形だから、すでに雲散霧消しているのよ。大好きだった人に失恋でもしたんじゃない? 想像力の中では何でもできるお姫様だけど、この歌はふと現実を垣間見ているのよね。一瞬にして想像の家は蒸発してしまう。幸福は想像の中だけでは完結しないことがはっきりしている。

父■私の家は〈あなた〉という空虚を中心に成り立っている。〈あなた〉は子犬や坊やと対等な存在ではなく、家を成り立たせる特権的な存在だ。だが、その中心たる〈あなた〉は不在。〈あなた〉と呼ぶ声(シニフィアン)は宙に漂うばかりで、それにあった内容(シニフィエ)がない。この歌はいっけん明るいけれど、そういう空虚さが漂っている。

娘□神社を作ったけど、肝心のそこで祀る神様が勧請されていないのね。〈あなた〉が不在なら、そもそも〈家を建てたなら〉なんて想像をしなければよかったのに。わざわざ想像しておいて肝心の〈あなた〉がいないなんてオチじゃ、虚しさを自分で作り上げていることになる。般若心経の「色即是空、空即是色」の認識を練習しているみたい。さっきの「世界は二人のために」も、なんだか夢のなかの出来事を歌っている気がするけど、〈あなた〉の不在までは想到していない。その点「あなた」のほうが進化している。「あなた」はいわば「小さな家は二人のために」という歌でしょ。

父■これまでふれてきた「あなたがいることで」「世界は二人のために」「あなた」に共通しているのはモノローグ的だということ。「世界(家)」を作っているのは〈私〉で、〈あなた〉はその中の登場人物。登場人物がどういう人かは語り手である〈私〉によって決められており、自己主張しない。奥深さを欠いている。〈私〉と〈あなた〉が出てきても、その関係は対等ではなく、〈あなた〉は道具的に扱われている。しかし〈あなた〉なしでは「世界(家)」は存在しえないから、〈私〉に構築力のマジックを与えてくれたのは〈あなた〉だったことがわかる。〈私〉は〈あなた〉に依存している。だからその〈あなた〉は〈私〉の頭の中にいるだけでは駄目なんだ。〈私〉がふと現実に思いを馳せた途端全てが消滅してしまうからね。君の比喩で言えば、ゲームの画面から顔を上げて現実を見回したとき、孤独であることが返って痛感させられる。現実への足がかりが必要で、空白の〈あなた〉の場所に頭の外から誰か来てもらわなければならない。

娘□このあいだ、ライアン・レイノルズの『フリーガイ』っていう映画を見たんだけど、ゲームのモブキャラが自意識を持つようになって、主人公になろうとする話だったんだよね。人工知能が進化し始めたっていうことなんだけど、今の歌で言えば「あなた」に出てくる〈あなた〉が勝手に発言しだしたら、こぎれいにまとまっていた世界が歪んできちゃうんじゃない? つまり、現実において〈あなた〉に相当する人が出てきてダイアローグになったら、自己完結していた少女趣味の想像が成り立たないってことに挫折させられるかも。

父■「世界は二人のために」とか「あなた」は、女性が主人公の歌だよね。さだまさしに「主人公」(作詞、さだまさし、1978年)という歌があって、これは長らくさだまさしの人気ナンバーワンの歌だったんだけど、〈あなたは教えてくれた 小さな物語でも/自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という歌詞が、平凡に生きる女性たちに力を与えた。「あなた」における〈小さな家〉というのは、「主人公」における〈小さな物語〉に該当するんだろうな。「主人公」では〈時折思い出の中で あなたは支えてください〉とあるように、〈あなた〉は〈私〉の想像の内部にいることがはっきりしている。外部に手がかりがあれば、想像の内部でも人は励まされることはある。外部の手がかりがあることの重要性は荒井由実の「卒業写真」でもわかる。

娘□今は女性活躍社会だから、あたしには「主人公」の歌詞は古いなあ。自分の人生だけじゃなくて、社会でも主人公にならなきゃね。