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流行歌の歌詞について

松山千春「銀の雨」「旅立ち」〜君僕ソング(その1)

父■このあいだ松山千春「銀の雨」(作詞、松山千春1977年)を久しぶりに聞いたんだ。なんかカッコいい歌だなと思った。でも歌詞を読んだら「ん?」ってなった。

娘□松山千春ってスキンヘッドでサングラスかけた強面(こわもて)の人でしょ。話はおもしろいみたいだけど、近よりたくない。歌は顔に似合わないやさしい声をしている。

父■昔はフサフサしていたんだけどね。当時は、さだまさしとどっちが薄くなったとか冗談で競いあっていた。今は、さだまさしはなぜか前より髪の毛が増えたように見えるけど、千春は潔く剃髪してしまった。

娘□お父さんもここ数年で急に薄くなったよね。

父■うちの父親も祖父も禿げてなかったのでおかしいなと思ったら、母方の祖父が見事な禿頭だったんだよね。さだまさしは坊主頭だと詞のイメージに似合わないかもしれないけど、これから取り上げる千春の歌詞はマッチョ的なので、意外にスキンヘッドでも似合ったりする。

娘□「銀の雨」って、銀色の雨ってこと?

父■〈銀色の雨〉とか〈銀の雨〉とか、雨を銀色に喩えるのはよくある。有名なところでは「黄昏のビギン」(作詞、永六輔、中村八大、1959年)とか。〈ふたりの肩に 銀色の雨〉とある。他には、〈雨はふるふる城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる〉という北原白秋の「城ヶ島の雨」は大正2年に作られたもの。

娘□〈利久鼠〉って?

父■少し緑がかった灰色のこと。昔は灰色のことを「ねずみいろ」って言った。今は鼠もすっかり見なくなったけれど、前はどこにでもいたよ。城ヶ島を散歩していた白秋が、雨にけぶる木立(こだ)ちを見て、それを〈利久鼠〉のような色だと言ったんだね。

娘□侘び寂び~。銀色っていうのは、雨の粒が光を反射するから銀色に見えるのかな。昔は銀色みたいに光るものが少なかったから、そういう比喩を思いつかなかったんじゃない? 城ヶ島の磯に銀色の雨が降るっていう歌だったら、小洒落た風景になっちゃう。

父■八神純子に「みずいろの雨」(作詞、三浦徳子1978年)っていう歌があって、雨は水なんだから水を「みずいろ」って言うのはトートロジーだと思ったけど、僕の好きな野口五郎の「沈黙」(作詞、松本隆1977年)も〈水色の雨降る街は〉って歌ってるんだよな。

娘□色の名前って、ものの名前の借用だよね。「はいいろ」って灰の色でしょ。「ちゃいろ」もお茶の色のことだけど、お茶って淡い黄緑色じゃん。昔はほうじ茶みたいに炒ったお茶が主流だったから、ああいう色が茶色って呼ばれるようになったみたい。

父■クレヨンとか色鉛筆で「うすだいだい」とか「ペールオレンジ」って言われている色は、ちょっと前までは「はだいろ」って言っていたんだよね。いろんな肌の色の人がいるので差別的だとして言い換えられた。でも僕が不思議だったのは、そもそも「はだいろ」って、日本人でもああいう肌の色をした人はいないってこと。でもこのHPを見てなんとなくわかった。「8世紀ごろにあった人や獣の肉の色を表す『しし色』が『はだ色』の前身」なんだって。(NHK生活情報ぶろぐ https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/800/299152.html)。なるほど、スーパーで売ってる皮をはいだ鶏肉って肌色してるのがあるね。でもあれは肌じゃないけど。だから「ししいろ」なんだね。「とりにくいろ」でもよさそうな気がする。

娘□それだと、いままで「はだいろ」を使って人の絵を描いていた人は気分を害することになるわね。

父■君も小さい頃そうだったんだけど、絵の中の太陽を赤色のクレヨンでグリグリ描く子がいるんだよね。あれは不思議だったな。どうして太陽が赤く見えるのか。夕日だと空は赤くなるけど、太陽は黄色いまま。たまに赤く見えるときもあるけど。

娘□暑さの隠喩なんじゃない? あるいは夕日で赤く照らされた景色の換喩。

父■なるほど。〈まっかに燃えた太陽だから 真夏の海は恋の季節なの〉(美空ひばり「真っ赤な太陽」作詞、吉岡治1967年)の赤い太陽は暑さに関係してそうだし、〈赤い夕日が校舎をそめて〉(舟木一夫「高校三年生」作詞、丘灯至夫1963年)の赤い夕日は換喩だな。正確には「夕日が赤く校舎を染めて」だろう。

娘□また脱線してるね。

父■はいはい、松山千春の「銀の雨」に戻ろう。

松山千春「銀の雨」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001fb5/l001b20.html

 この歌には〈貴方〉がよく出てくる。歌詞の2番はこうなっている。

 

  貴方のそばで 貴方のために

  暮らせただけで 幸せだけど

  せめて貴方の さびしさ少し

  わかってあげれば 良かったのに

  貴方がくれた 思い出だけが

  ひとつふたつ 銀の雨の中

 

 ここでは〈貴方〉は4回出てくる。歌詞の1番では2回、3番の歌詞では3回出てくる。一方、〈私〉は1番では1回、2番ではなし、3番では2回ある。

 歌の内容は、

 

 ・私がいつまでも貴方のそばにいたら貴方がダメになってしまう(1番)

 ・貴方の寂しさを少しもわかってやれなかった(2番)

 ・貴方についてきたのは私のわがままだった(3番)

 

ということが語られている。〈貴方〉が何回も出てくることからわかるように、〈私〉は〈貴方〉にたいへん気を使っている。引用した部分でも〈貴方のために 暮らせ〉て〈幸せ〉だったと言っている。

娘□歌詞だけ見ると演歌っぽい。3番の歌詞はとくにそう。〈ごめんと私に いってくれたのは/貴方の最後の やさしさですね〉って、それ〈やさしさ〉じゃなくて身勝手でしょ。〈いいのよ貴方に ついて来たのは/みんな私の わがままだから〉って、悪いのは女の人のほうなの? それなのに〈貴方の夢が かなう様に祈る〉って言わせてる。なんでそこまで気をつかうのって思うくらい。

父■女性歌手による応援ソングってあるでしょ。岡村孝子「夢をあきらめないで」(作詞、岡村孝子1987年)とか、ZARD「負けないで」(作詞、坂井泉水1993年)とか。それの一歩手前にある歌だよね「銀の雨」は。

娘□ニューミュージックの服を着てるけど、心は演歌のままってこと?

父■応援ソングって、他人を応援するけど、応援する自分のことについてはふれていない。自分はちょっと離れた立場から応援していて、相手に巻き込まれない客観的な位置を確保している。「銀の雨」も応援ソングの先祖みたいなものだけど、相手との距離がとれていないので運命共同体になっている。それで演歌の中の堪え忍ぶ女性みたいになってしまっている。

娘□「銀の雨」で、この二人が別れた理由はわからないけど、別れを切り出したのはたぶん男のほうよね。なのに〈私〉が〈貴方〉のことを理解してやれなかったってことにされてる。〈せめて貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉っていうけど〈貴方の さびしさ〉ってなんなの?

父■なんだろうね。〈私〉は召使いみたいに献身的なのに、〈貴方〉は〈私〉の理解をすり抜けていく。

娘□ありえなくない?

父■歌として聞くとスルスル聞けてしまうんだけどね。文字で読むとたしかに抵抗感がある。「銀の雨」に出てくるのは、古い日本の献身的(依存的)な女性で、男に都合よく使い捨てられる女性なのに自ら身を引くように描かれている。きれいな歌になっているから、歌詞の内容まではいちいち穿鑿されなかったと思うよ。「銀の雨」はシングルのB面だしね。それに比べたら、大ヒットしたさだまさしの「関白宣言」(作詞、さだまさし1979年)はフェミニストから抗議を受けた。歌詞を読めばタイトルは強がりだということがわかるし、「早く起きろ、飯を作れ」という歌詞も、気の弱い男の哀れさを滑稽味をもって逆説的に表現しているにすぎない。だけど、人はわかりやすい部分でしか反応しないからね。

娘□「銀の雨」と「関白宣言」じゃ、タイトルだけでどちらに矛先を向けるか決まっている。

父■80年代に入っても似たようなものだよ。都はるみ岡千秋「浪花恋しぐれ」(作詞、たかたかし、1983年)は〈芸のためなら 女房も泣かす/それがどうした 文句があるか〉という開き直り。これは今ならDVと言われそうだけど、当時としても時代感覚があまりにずれていて、「ダメ亭主を支えるけなげな女房」というコミックソングだと思って僕は聞いていたから不快感はなかったな。それに、妻は依存症的というより、夫を支える共同体という歌詞だった。

娘□それって男目線の読み方だと思うけどね。80年代ってフェミニズムが退潮してた頃よね。だから許されたのかな。男女雇用機会均等法の施行が86年で女性の職場進出が本格的になる。その途端、88、89年に子連れ出勤のアグネス論争が起きる。この論争って女どうしでやってたのよね。

父■男目線ということもあるかもしれないけど、ここには〈芸のためなら〉っていうマジックワードがあって、これが全ての不条理を飲み込んでしまう。もしこれが「ギャンブルのために女房を泣かす」ならお話にならないけどね。ギャンブルで快楽を得るのは男だけで、女は何の得にもならない。〈芸のため〉という、自分を超えた価値をもったものがあって、男もそのために身を捧げている。その男に女房は身を捧げる。結局は女房は男を媒介して芸のために身を捧げている。

娘□身を捧げるって、犠牲になってるってことでしょ。それに男のほうは好きでやってるからいいけど、奥さんのほうはつきあわされてるだけじゃないの?

父■男が好きでやってるのが問題ないとしたら、奥さんが旦那さんを好きでやってるなら問題ないってことにならないか?

娘□コミックソングって言うけど、私には面白くは聞こえないな。だって真剣に歌ってるもの。おちゃらけてないよ。

父■大真面目にやるから面白いんだよ。そこは僕の独特のとらえ方だけども。

娘□私、漫才やコントで精神障害っぽい人をからかったり(風変わりなおじさん)、ハゲの人をからかったりするのは、自虐であっても頭にくるのよね。やってる本人がハゲているからって、ハゲをからかう免罪符にはならないでしょ。同じように、女が女の地位を下げるようなことを言うのも許せない。

父■「銀の歌」は女性が自ら身を引くということになっていて、男にしてみれば相手があっさり別れてくれて都合がいいかも。女性がものわかりがいいから、別れはドロドロしたものにはならず、あっさりとしている。〈これ以上私が そばに居たなら/あなたがだめに なってしまうのね〉〈いいのよ貴方に ついて来たのは/みんな私の わがままだから〉というように、事を荒立てないよう先回りしている。

娘□姫くりの「都合いい女」のコントみたい。忖度しすぎる思考回路は自分が傷つかないようにするために発達したんじゃないかって思う。こういう歌は、女の側から一方的に男に都合のいい忖度をするように書くんじゃなくて、せめて男の側からのホンネを入れた掛け合いにしてほしいわね。〈貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉って女が勝手に忖度してるけど、せめて何がさびしいのか男の側から言って欲しい。

父■対話っていうことだね。それは重要だ。「浪花恋しぐれ」はそうなっているけどね。

娘□あれは男の価値観に女が合わせてるだけ。今見れば依存症的だけど、芸人という特殊性と関西という地域性で中心からの価値規範が撹乱されて、古くさい夫婦像が擁護されている。

父■それに歴史性もある。明治から大正にかけて人気のあった実在の落語家をモデルにしている。戦前の人を描いているので、それを「古くさい夫婦像」と批判しても意味がない。江戸時代が封建的なのはあたりまえのように。

娘□だからそういう夫婦像を戦後40年近くもたってから発掘し歌にするのは、理想というか規範として復活させようというバックラッシュの一つじゃないのかってこと。

 

父■松山千春の「旅立ち」(作詞、松山千春1977年)も「銀の雨」に似ている。

松山千春「旅立ち」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001fb5/l005d1f.html

 この歌では〈貴方〉は6回、〈私〉は4回出てくる。〈私の事など もう気にしないで/貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉とある。私が足枷になるくらいなら捨ててくれということだ。それを〈貴方〉の〈旅立ち〉であると捉えている。

娘□女性のほうから言わせているのがいやらしいわね。

父■「別れじゃなく旅立ち」であるみたいな価値転換の歌は卒業ソングなんかによくあるけど、そのパターンだね。同じ出来事でも言葉によって捉え方が180度変わる。

娘□発想の転換っていうやつでしょ。別れは旅立ちであるといえばかっこいいけど、これもなんか「都合いい女」の感じがする。そんなにすっきり気持ちを切り替えられるものじゃない。

父■すがりついて泣いて引き止めるのはみっともないという「諦め」の美学みたいなものがあるかも。これがもう少し勝ち気な女性の場合は、堀江淳「メモリーグラス」(作詞、堀江淳1981年)の〈ふられたんじゃないわ あたしがおりただけよ〉ということになるのかな。

娘□忖度じゃなくて強がりになってる。

父■どう思うにせよ、すっきり別れられたことに喜ぶ男はいるかもね。「旅立ち」では、いつか別れることになるのは何故か〈二人が出会った時に 知っていたはず〉と言っていて、自分もあらかじめ承知していたことになっている。

娘□運命論というより自己責任論ね。実際に別れた場合の損得は非対称なのに「おあいこ」にされてしまう。

父■「銀の雨」や「旅立ち」には、〈貴方の夢がかなう様に〉とか、〈貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉という歌詞はあるけど、〈私〉はどうなるのか不明なんだよ。ほっておかれる。〈貴方〉は輝ける夢を追いかけるからいいけど、〈私〉はその夢のルートから外れて日陰の道を歩いていきそうだな。〈私〉は〈貴方〉につきあわされるけど、その後は知らないと使い捨てられる。ロケットを打ち上げるときのブースターみたいに切り捨てられる。

娘□タレントなんかで、有名になると糟糠の妻と別れて若くてきれいな女と結婚する人がいるけど、そうなった場合でも、別れた奥さんは〈貴方の夢〉がかなってよかったと思うのかしら。〈貴方の夢〉には別の女の人が傍らにいるとしたら、そんなに簡単に送り出せるかな。「浪花恋しぐれ」みたいに古女房を隣に置いているほうがまだいい。

父■お、認めたな。

娘□結局、女性に母親的なものを求めているのかもしれないね。「旅立ち」って、息子の門出を祝いつつ寂しがる母親の心境みたいな歌だから。

(その2に続く)