Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

野口五郎vs.松本隆

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 野口五郎の時代というのが確かにあった。私にとってそれは、「むさし野詩人」「沈黙」「季節風」「風の駅」がリリースされた一九七七年である。その頃は中学一、二年の多感な時期で、野口五郎の歌はお子様が聞いてもいいアイドル歌謡のはずなのに、歌詞で語られる男女は子どもにはよくわからないことをしていたのである。

 私は野口五郎ファンとしては出遅れていた。ヒット曲の年譜を調べると、野口五郎の人気のピークは七五、六年であり、七七年はその人気にやや陰りが見えはじめていた時期であった。

 簡単におさらいすると、野口五郎は一九七一年、十五歳のときに演歌「博多みれん」でデビューした。それが売れなかったためすぐさまポップスに転じ、二作目の「青いリンゴ」は筒美京平作曲でヒット。翌年は、のちに新御三家と呼ばれるようになる郷ひろみ西城秀樹が次々デビューし、ヒットを競い合う。一九七四年には「甘い生活」が、七五年には兄が作曲した「私鉄沿線」が大ヒット。七六年には「針葉樹」があり、これらは今も野口五郎の代表曲となっている。

 七〇年代の男性アイドルは、新御三家沢田研二がぶっちぎりの人気があったとはいえ、七〇年代の終わり頃になると苦戦をしいられるようになる。年に四作のルーティンで出す歌は陳腐化をまぬがれなかったし、七〇年代の後半にはニューミュージックが台頭してきて、若者は商品として与えられたものではなく自分たちの感性を代弁してくれるものを選ぶようになった。どんなに人気があってもいつかは飽きられる。引導を渡したのは新たに登場したジャニーズ系の一〇代のアイドルで、二〇代半ばの使い古されたアイドルは主舞台から去っていった。

 新御三家の中では、西城秀樹の激しさ、郷ひろみの甘さ陽気さに対し、野口五郎は繊細で暗いタイプの歌ばかり歌ってきた。繊細とはいえ歌い方は言葉がくっきりしていて、弱々しさはない。ビブラートをきかせるのも特徴だ。

 その路線の行き詰まりが見えたためのテコ入れなのか、七八年は平尾昌晃が作曲してスケール感のある「愛よ甦れ」(歌詞も壮大)を歌う。続く「泣き上手」は再びなぜこの歌なのかと思うほど歌詞が暗すぎてうんざりしたが、次作は一転して明るい「グッド・ラック」、翌年は自らエレキギターをかき鳴らすロック調の「真夏の夜の夢」、八〇年には聴衆参加型の「コーラス・ライン」など、ポップな歌も挟み込むようになった。だがそれは徹底した方向転換というわけでもなく、長い試行錯誤のように見えた。一方、テレビのコント番組「カックラキン大放送!」でミスマッチともいえる人選ながら人気をつないでいた(一九七六年から八三年まで間断的だがレギュラー出演し、ダジャレ好きという一面を見せる)。八三年の「19:00時の街」は、ドラマの主題歌ということもあって久しぶりのヒットになる。だが、これを最後にヒットには恵まれず、紅白歌合戦の出場もこの年が最後になっている。

 八〇年代になっても存在感を示していたのが郷ひろみで、「お嫁サンバ」(八一年)、「哀愁のカサブランカ」(八二年)、「2億4千万の瞳」(八四年)などがヒットする。色物、セクシー路線、バラードなど引き出しが多く、その後にまで通用するキャラができていった。

 西城秀樹はデビュー当初からシャウトするタイプの歌唱をし、またアクションのある振り付けを行うという「ワイルドさ」が特徴だった。その集大成ともいえるようなカバー曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(七九年)が爆発的にヒットしたため、時代を超越したアイドルのアイコンになった。

 新御三家は、人気があった七〇年代当時、コンスタントに二、三〇万枚のシングルセールスを誇っていた。まれに五〇万枚前後枚売れるときがあり、そうなると大ヒットである。西城秀樹なら「ちぎれた愛」「激しい恋」などがそうであり、郷ひろみなら「よろしく哀愁」「哀愁のカサブランカ」「GOLDFINGER'99」、野口五郎なら「甘い生活」「私鉄沿線」がそうである。そのなかで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は八〇万枚超なのでメガヒットである。

 

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 郷ひろみ西城秀樹がどういう人だったのかというのは、同時代にファンだった人でなくてもなんとなくわかる。では野口五郎はどうかというと、歌手で名前も顔も知ってはいるけれど、その名前に結びつくような歌の集団的記憶はないのではないか。代表曲ともいえる「甘い生活」や「私鉄沿線」は地味だし、それ以外の歌となるとファンしか覚えていないだろう。西城秀樹のように四〇年経った今でも時代を超えるようなヒット曲を持っているわけではないし、郷ひろみのように振り切れたキャラが確立しているわけでもない。

 ひところコロッケが野口五郎のモノマネをして鼻クソを食べるしぐさで笑いをとっていたが、それも遠い昔になってしまった。「鼻クソを食べる」というのは野口五郎の真面目さに揺さぶりをかけるもので、逆にいえば、そういう架空のしぐさを作らなければひっかかりがないほどキャラが薄い人物だったということである。また、野口五郎短足厚底ブーツを履いてそれを誤魔化しているなどとずっと揶揄されていたが(コロッケも短足のいでたちを強調している)、取り立てていうほどのことでもないそうした悪口が流通したのは、他に欠点がなかったからだろう。野口五郎のまじめさは、郷ひろみ西城秀樹のように恋愛スキャンダルがなかったというところにも表れている。

 

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 野口五郎新御三家のなかでも影が薄かった。バロメーターの一つとなる「NHK紅白歌合戦」の出場回数は、郷ひろみが三〇回、西城秀樹が十八回、野口五郎が十一回である。

 新御三家の紅白出場は八〇年代半ばに一端途絶える。リアルタイムのヒット曲がなくなったからだ。九〇年代に入って、往年の歌手が再び注目されるようになると西城秀樹郷ひろみはまた出場するようになるが、野口五郎には声がかからなかった。郷ひろみは二〇〇〇年代こそ出場が途絶えたが、二〇一〇年代になるとまた出場し続ける。年をとっても衰えをしらず、場を盛り上げて華やかにするお祭り男というキャラが重宝されているのだろう。その点、野口五郎のようなまじめキャラは、割りを食っている。歌がうまいとか、ギターがうまいとかいうことだけでは代わりの者がいくらでもいて、野口五郎しかできないことではないからだ。

 野口五郎がそれにもかかわらず今でも名前を覚えていてもらえるのは、新御三家と言う括りに入っていたおかげだろう。これは「たのきんトリオ」でも同じである。田原俊彦近藤真彦にくらべ、野村義男知名度が格段に低いが、それでもかつてトリオとされていたせいで、野村の名前や顔を覚えている人は多い。西城秀樹のイメージは近藤真彦が、郷ひろみのイメージは田原俊彦が継承しているように見える。そうなると野口五郎を引き継ぐのは野村義男ということになるが、実際、両者はギターつながりで仲がいい。

 

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 そもそも野口五郎は名前でかなり損をしているのではないか。古臭いし、華やかさが全くないのである。

 野口五郎というのは芸名である。本名は佐藤靖(やすし)。ちなみに西城秀樹は木本龍雄、郷ひろみは原武裕美であり、平凡すぎたり覚えにくかったりする名前は芸名として異なる名前をつけたのであるが、野口五郎の場合はかえって平凡になってしまっているし、なにより「NOGUCHI GORO」という名前が人に与える印象は、母音の「O」が三つ、「U」が一つあり、暗くこじんまりした感じを与える響きなのである。「O」や「U」は口をすぼめて発音する音なので暗く感じるのである。この名前のうちで明るさを持っているのは「CHI」だけだ。

 野口五郎という名前は野口五郎岳という山の名前から来ていることはよく知られる。その山の名前はどうしてつけられたかというと、ウィキペディアを見ると、「野口」は、山のある長野県大町市の集落「野口」に由来し、「五郎」は大きな石が転がっている場所を表す「ゴーロ」の当て字であるという。ゴーロの説明がよくわからないが、石がゴロゴロしているというところから来ているのだろう。

 演歌歌手としてなら野口五郎という名前でもよかったが、ポップス路線に切り替えたときに芸名も変えるべきだった。将来こんなに売れるとは思わなかったので、そのままにしてしまったのだろうか。野口五郎では漢字としても子沢山の末っ子みたいで、当時としても三〇年くらい古いセンスである。『北の国から』(一九八一年)の主人公、黒板五郎は一九三五年生まれで八人兄弟の五男という設定であることからも、その名前の使われ方がわかる。ちなみに、女性アイドルのグラビアが売りの男性誌が『GORO』という誌名だったが、一九七四年創刊なので、当時人気が高かった野口五郎は当然意識していたであろう。不思議な誌名である。

(「微ゑろblog 2.0」によれば「GOROのタイトルは、「野口五郎のようなカッコいい20代独身男性になりたい」と願っていた読者にアピールしたそうです。」

 http://biwero.seesaa.net/article/380369991.html

 帰ってきたウルトラマン』の主人公は郷秀樹という。これは当時人気だった郷ひろみ西城秀樹をくっつけたものである……と、私はリアルタイムでこの放送を見ており、そのときからずっとそう思っていたが(安易なネーミングだなと)、本稿を書くためググっていたら、『帰マン』の放送は一九七一年開始で、二人がデビューするのは一九七二年だから、それはありえないことがわかった。『帰マン』のウィキペディアにも、その説は誤解であると書かれていた。

 もしかしたら逆に、『帰ってきたウルトラマン』の主人公の名前が、二人の芸名に影響した可能性すらある。またウィキペディアに頼ると、西城秀樹の芸名は月刊雑誌『女学生の友』の一般公募だというからテレビの影響もありうるし、郷ひろみの芸名はファンの声援の「レッツゴーひろみ」からきているとか、フォーリーブスの弟分(五番目)だからという説があるが、漢字をあてはめる場合、他にも「五、号、合、豪、剛」などの候補があるうちで「郷」が選ばれた経緯がわからない。そもそも前段の知識が何もない状態では「郷ひろみ」では「さとひろみ」と読まれかねない。『帰マン』で頻繁に「郷」と呼ばれたことが下地にあったから郷ひろみも受け入れられたのではないか。

 

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 このブログは歌詞について考察するものなので、以下は野口五郎の「むさし野詩人」についてとりあげてみたい。なぜ「むさし野詩人」かというと、この歌が何故か一番印象に残っているからだ。

 歌詞についてはどんな歌詞か自分ではよく知っていると思っていた。しかし、今回、これを書くためにあらためて読み直してみたら、そうでもないことがわかった。この歌を初めて聞いてから四〇年以上たつが、かなりいい加減なレベルで頭に入っていた。

 まず驚いたのは、作詞が松本隆だったということだ。私は山上路夫という作詞家に興味があったので「私鉄沿線」の作詞は山上路夫だということはわかっていたが、似た感じのする「むさし野詩人」もなんとなく山上だと思っていた。山上は文学的な香りのする歌詞を書くが、この歌も文学的だからである。作曲も兄の佐藤寛で、筒美京平ではなかった。

 松本隆は一九七〇年代のはじめにはっぴいえんどというバンドでドラムを叩き、作詞を担当していた。バンド解散後、作詞家としては七五年の「木綿のハンカチーフ」で注目を浴び、七七年には原田真二のデビューに関わっていた。野口五郎には、本作「むさし野詩人」に続く「沈黙」も松本隆が書いていて、これらは七七年だが、原田のデビュー前の時期に書かれている。この頃は作詞家としては阿久悠の絶頂期だが、松本隆がその座を奪うのは鼻先に迫っていた。

(ついでに書くと、原田真二はデビューから毎月シングルをリリースし、そのどれも雰囲気が異なっていてイメージがつかみにくい人だった。よくテレビに出ていたが、中学生の私はまったく興味がもてなかった。その中では「キャンディ」だけは覚えているが、当時流行っていたアニメ『キャンディ・キャンディ』と何の関係もない内容で、どうしてそれを思わせるような歌詞なのか不思議だった。)

 

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 さて、「むさし野詩人」の内容をみていこう。

  歌詞→ http://j-lyric.net/artist/a0020a8/l003b3c.html

 彼女と別れて間もない青年が、思い出をたどって〈むさしの公園〉を散策するという内容である。この〈むさし野公園〉というのはどこのことだろうか。

 「伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る」というブログにはこう書いてある。

 「この曲の歌詞に登場する「むさし野公園」という名の公園は東京・小金井市府中市の市境に「都立武蔵野公園」として実在する(1969年開園)。しかし、この歌でいう「むさし野公園」はここを直接指しているものではなく、武蔵野市三鷹市の市境に位置する「井の頭恩賜公園」をイメージして設定された架空の公園と解されている。」

https://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/290514601b8dce8f6b37b1ab6b755b63

 このうち「1969年開園」とあるのは「武蔵野公園」について書かれたウィキペディアからの引用であろうが、都立公園のホームページでは開園年月日は「昭和39年8月1日」となっているから、こちらのほうが正しいだろう。前回東京オリンピックの二か月前にオープンしたのである。

 「むさし野詩人」の歌詞には池が出てくる。だが、武蔵野公園に池はなく、井の頭公園には神田川の源流である大きな井の頭池がある。この池を囲むように公園が整備されているのだ。また、武蔵野公園には隣接して野川公園があり、こちらの方が大きく、面積は二倍弱である。わざわざ小さい方の武蔵野公園に舞台を設定するとしたらよほど特別な理由が必要だろう(そんなものはない)。

 また、井の頭公園吉祥寺駅の近くで、〈繁華街から静かな道へ〉と歌の冒頭にあるように、駅から公園のほうに少し歩くと、とたんに寂しい通りになり、公園に入ると一層寂しくなる。私は八〇年代の終わりころ井の頭公園の近くに住んでいたが、公園の中はカップルが多く、それを狙った「のぞき」もまた多かった。吉祥寺は駅の北口のほうが商業施設が広がっていて、公園のある南口のほうは百貨店の丸井をすぎると住宅街になる(この歌の当時はまだそこに丸井はなく旅館などがあった。丸井が井の頭公園前にできるのはこの歌の翌年である)。歌詞には〈映画帰りにここまで来たね〉とあるが、北口のほうの映画館で映画を見て、駅のガード下を通り井の頭公園まで歩いてきたのだろう(当時、吉祥寺には映画館が八~一〇館もあった)。

 歌は〈繁華街から静かな道へ〉と始まっていた。喧騒から静寂へ、人混みから人のまばらな通りへ、色とりどりの華やかな電飾からとぎれとぎれの薄暗い街灯へと一瞬で切り替わる。これはこの街がそれほど大きい街ではない、少し移動すればとたんに様子が変わるようなこじんまりした街であることを示している。武蔵野の雑木林の名残を公園として残しているようなところで、そういうところに開けた街なのである。また、これは二人の思い出の道筋であるが、それは、この二人が〈繁華街〉の喧騒には溶け込めず、おのずと〈静かな道〉を選んでしまうような人たちであることをも示している。都会の華やかさよりは武蔵野という地名に残る田舎っぽさのほうが落ち着くのである。

 〈繁華街〉という言葉はふだんあまり使わない。学校の先生が子どもたちに〈繁華街〉には親と一緒に行くこと、一人で行かないように、などと注意するときに使うような言葉である。いわゆる盛り場である。子どもにはイメージしにくい言葉で、とくに漢字を離れると意味が取りにくくなる言葉のつらなりである。歌を聞くと「はんかがイイから」と聞こえるので、「はんかがイイ」って何がいいの? と思って明星の付録のソングブックを見たら〈繁華街〉だったという記憶が中学生だった私にある。だが〈繁華街〉の意味がわからなかったので親に聞いたら、子どもが行っちゃいけないところだとの答えだった。

 〈繁華街〉という言葉を歌詞に用いている歌は検索すると八〇曲ほどあったが、冒頭から〈繁華街〉と歌い出すのは「むさし野詩人」を含め三曲だけである(他は、FIELD OF VIEW「あの頃の僕に」、syudou「コールボーイ」)。耳で理解するには難易度の高い言葉であり、冒頭という文脈の助けがないところでいきなり出てくると、よけいわかりにくいのである。

 「むさし野詩人」では〈むさし野公園〉とひらがな表記になっている。これは武蔵野公園と間違われないためであろうか。「井の頭詩人」でもない。井の頭公園も武蔵野公園もそれほど離れていない。古くから武蔵野と呼ばれた地域にある公園というほどのことだろう。また、この歌の三年前にみなみらんぼうが「武蔵野詩人」というアルバムを出しているのでそれとの差異化という意味もあったかもしれない。それに「武蔵野詩人」では大岡昇平の「武蔵野夫人」と間違えそうである。なにより「むさし野」とひらがなにすることで軽くなった。「武蔵」を「むさし」と読むのは、その地名に縁がない子どもには難しい。

 松本隆太田裕美に「煉瓦荘」(一九七八年)という歌を書いていて、この中にも〈井の頭〉に住んでいた彼女のことが出てくる。「煉瓦荘」は「むさし野詩人」の翌年なので、このころ松本隆は井の頭がお気に入りだったのだろう。

 

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 「むさし野詩人」は松本隆の作詞ということもあり、いろんな「仕掛け」がある。

 まず、言葉の選び方が鋭角的である。次は二番のサビ部分の歌詞だ。

 〈20才の春は短かくて お見合いの事悩んだあなた/あの時ぼくがなぐったら あなたはついて来たろうか〉

 それまでの〈ぼく〉は感傷にひたる軟弱そうな男だと思えていたのに、ここで唐突に女性を殴るという荒っぽい言葉が出てくるので、ちょっと驚く。ここで男っぽく無理にでも〈あなた〉を従わせていたらよかったのかと想像している。もちろんそんなことはできなかったのだけれど。

 実際どうだったかに関わらず、殴るという想像は飛躍しすぎではないか。まずは言葉ではっきり言うべきだろう。それをすっ飛ばして手が出てしまうのは、この人は口下手だったということなのか。殴るというのは拳(グー)で強く打つことである。手が出るにしても、手のひら(パー)で頬を打つのならまだわかるけれども、〈なぐったら〉にしたのは、他の言葉が音符にうまく乗らなかったのか、あるいは刺激的な言葉を使ってみせたのか、それとも殴るは方言のような使い方なのか。ただ、この語り手のような優男(やさおとこ)になら殴られてもヘナチョコパンチでたいして痛くはないだろうけど。

 あとで述べるが、〈ぼく〉は結構行動的である。部屋でうじうじ悩んでいないで、彼女との思い出をあちこち歩き回って探し集めている。犯人を追いかけている探偵のようである。そういう行動的な〈ぼく〉だからつい手が出てしまいそうになったのか。結局、〈ぼく〉は〈あなた〉を殴らなかったのだけれど、では〈あのときぼく〉はどうしていたのか。何もせず彼女の言うことをただ聞いていたのである。そして彼女は去っていった。

 

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 先ほどの部分をもう一度引用する。

 〈20才の春は短かくて お見合いの事悩んだあなた/あの時ぼくがなぐったら あなたはついて来たろうか〉

 ここは、歌詞の中で、〈ぼく〉と〈あなた〉の関係が一番端的に表れている部分である。二人がどういう性格で、どういう境遇に置かれていて、どういう交際をしてきたのか、そしてこれからどうなるのかが、この部分に集約して表されている。

 恋愛結婚の割合が見合い結婚の割合を上回るのは一九六〇年代後半である。それでも、この「むさし野詩人」が出た七〇年代後半には、見合い結婚する人はまだ三割いた。(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/15/backdata/01-01-03-009.html

二人が恋愛関係を継続して結婚に至るのか、女性が見合いをして先に結婚してしまうのか、どちらもありうることだった。

 歌詞の女性が〈お見合いの事悩んだ〉とは、どういうことだろうか。

 昔のテレビドラマなんかでは、煮え切らない態度の交際相手に対して女性が、「親がお見合いしろってうるさいのよね」などと言って様子をうかがう場面がよくあった。「私が他の人と結婚しちゃってもいいの? あなたがすぐ俺と結婚してくれって言ってくれればお見合いは断るけど」と男を試しているのである。こういとき男はたいてい返事はせずにうつむいてしまい、実際お見合いの現場に乗りこんでいってめちゃめちゃにしてしまうというのが、ありがちな展開である。

 この歌にはそういう相手を試すような駆け引きの要素はなさそうである。〈悩んだ〉ということなので、ある程度のスパンをもっている。また、見合いをすることを悩んだというのは、自分ひとりの心の中で解決すべき問題として捉えているのであって、〈ぼく〉との交互作用によって解決しようという期待はない。ただ、女性としては〈ぼく〉に引き止めてもらいたかったであろうことは確かだ。〈ぼく〉に自分のこととして受け止めてもらいたかったはずだ。そのことは〈ぼく〉もわかっている。殴るような強引さで引き止めれば〈あなたはついて来たろうか〉と言っているので、心中を察しているのである。

 それにしても二〇歳でお見合いというのは早すぎるのではないか。一九七七年の女性の初婚年齢は二五歳である。明治時代の終わりでも二三歳である。(https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/html_h/html/g3350000.html

 この歌では女性の方は年齢が特定されていないが、語り手と同じだとすれば二〇歳ということになる。二〇歳でお見合いをすすめられるのは少し早い気もするが、何かの節目ということなのかもしれない。地方から東京に出てきて短大に通い、卒業したら田舎に帰って結婚してくれということかもしれない。あるいは、中学または高校を卒業して東京に出て就職していたが、田舎に帰って結婚してくれということなのかも。

 ここで女性を地方出身者と想定しているのは、女性が特定の男性と交際していることを親は知らないので、見合いをすすめていると考えられるからだ。田舎の両親は娘が都会でどんな生活をしているかわからない。だからもうこちらへ帰ってきて結婚してくれと言っている。お見合いのことで悩むというのは、田舎に帰るかどうか悩むということとセットなのである。もし娘が東京で両親のもとで暮らしているなら、いくらお見合いをしても、断ればいいだけだ。恋愛結婚の割合も高くなっているのだから、親も自由恋愛を否定できないだろう。だが、そこで悩んでいるというのは、お見合いのほかに別の要件があるからだろう。いつまでも二人だけで閉じた恋愛が続くわけではない。そこに第三者が関わってきて社会があることを知らされる。

 こういう女性(二〇歳でお見合いをすすめられるような女性)と交際しているということで、語り手の男性像も見えてくる。二人とも恋愛には不慣れな感じである。大学生がウェイトレスをナンパしたというふうでもない。出会ったのは共通の職場とか学校とか趣味のサークルといったところだろう。二人は似たような環境にいると思われる。

 男性のほうも何か仕事をしていて、しかしそれがまだ下積みで経済的に十分ではなく、結婚をして家族をもつといった自信がないのだろう。〈映画帰りにここまで来たね〉とあるように、映画を見たあと食事したり喫茶店に行ったりするほどの余裕はなく、お金のかからない公園を一緒に歩くといったことに向かってしまうのである。身近な公園ですごしたことが思い出の中心になっているのだから、経済的に余裕がなかったことをうかがわせる。二人は低賃金の若い労働者として生きていたのだ。

 このままつきあっても先の展望がない男が〈あの時ぼくがなぐったら〉と、つい粗野な部分が出てしまうのも、行動がそのように回路づけられていることをあらわにしている。そういう家庭で育ったであろうことを思わせる。女性のほうも、早く田舎に帰ってこいというのだから、故郷の家も、いつまでも遊ばせておくほど裕福ではなさそうだ。

 歌詞の短い断片から以上のように想像するのは「深読み」であるが、しかし述べてきたことと逆ということもまたありそうにない。いずれにせよ、この歌で二〇歳であることとお見合いをするということとは、それがひとつの区切りであるということを強く意識させるものである。区切りはこの歌では重要だ。二〇歳も区切りだし見合いも区切りだ。この歌の男の語りにはむなしさの感じが漂っているが、それはひとつのシークエンスが終わり次のシークエンスに移行するまでの空白期間を男が彷徨っているからである。

 

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 この歌のユニークな部分は〈15行目から恋をして 20行目で終ったよ〉というところである。ここを書いたとき作詞家は「よく書けた」と思ったのではないか。あるいは、この部分の表現が先にできていて、それをこの歌で使ったのかもしれない。というのも、この部分は全体から浮いていて唐突に挟み込まれた感じがするからである。タイトルに「詩人」とついているので違和感が抑えられているが、そうでなければ意味不明になってしまう。

 私がこの歌を聞いたのは中学生のときであったが、はじめのうちは、なんで〈15行目〉とか〈20行目〉という言葉が入っているのかわからなかった。それがわかったのは、語り手は自分を詩人になぞらえていて、詩人が原稿用紙に書いている行数のことだということに気づいたからである。しかしそれでも、なぜ〈15行目から……20行目〉とされているのかまでは気が回らなかった。何年かたって聞き直したときにようやく、これは「15歳から20歳まで」のことだと合点がいった。原稿用紙に一行ずつ自分の人生の出来事を書いてきて、十五歳の時に恋をして二〇歳の時に終わったということなのである。だから歌では〈20才の春ははかなくて〉〈20才の春は短かくて〉〈20才の春は淋しくて〉と、二〇歳という年齢を繰り返すのである。ただこれを、二〇歳のとき別れた彼女と十五歳のときからつきあっていたと解釈するのは無理がある。十五歳だから高校生になる年齢だ。いかにも早熟であるが、二人は高校の時からつきあって五年も経つという感じではない。〈ぼく〉は十五歳の時に恋というものに憧れをもち、二〇歳のとき〈あなた〉と出会い、そして数ヶ月で別れたということだろう。〈20才の春〉の短さやはかなさが繰り返されるのは、歌の出来事が二〇歳のときに集中して起きたからだろう。本当は十五歳ではなく十八歳くらいにして、〈18行目から恋をして 20行目で終ったよ〉というほうが現実的であるが、音符の関係で〈15行目〉にしたのだろう。そしてそのほうが刺激的で、歌としてはよかったかもしれない。

 原稿用紙は縦二〇字、横二〇行が基本である。二〇行に達したということは、ちょうど用紙一枚終わったということだ。これは、次の紙をめくり新しい人生がはじまるということを意味している。二〇行はただの数字ではなく、区切りを意味している数字なのである。

 二番の冒頭は〈映画帰りにここまで来たね〉となっているが、これは一番の冒頭〈繁華街から静かな道へ〉とほぼ同じことを言っている。いずれも場所を移動していることを示している。公園が舞台なのだから公園のことだけ記せばよさそうなものなのに、なぜか公園にくるまでを含めてどうだったのかを語るのである。公園にはその外部があるということである。あたりまえのことだが、重要なのだ。それは、公園から出てゆくこともまたできることを意味している。恋人との思い出は公園で過ごした時間に集約されている。語り手はそこに閉じ込められてしまいそうだ。そのとき外側が重要になる。おしまいのほうで〈再びここには来ないだろう〉と歌われる。公園から出ることができること、思い出の外に出られることは、語り手が過去の原稿用紙をめくって新しいページに向き合うことを可能にする。

 

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 この歌詞は全体としてみると難易度の高い歌詞だといえる。音楽に乗せる言葉としては、理解するのが難しい。そもそも歌というのは、歌われる言葉が次から次へと耳に入ってきて滞留することなく流れてゆき、しかもメロディやリズムに気を取られて言葉の理解にまで手が回らないため、言葉の全体をまとまりのあるものとして理解するのがなかなか困難である。そのため歌詞カードなど歌詞の全体が表示されたものを「読む」ことによって、はじめて意味がつかめることがある。テレビなど歌詞のテロップが表示されることがあるが、一節ごと途切れているので、つながりがわかりにくい。

 この歌も一節づつは理解できるのだが、それが堆積したものになると、わけがわからなくなってくるのだ。先に述べたように、歌の言葉は次々に生起しては消えてゆくが、言葉どうしに少しくらい飛躍があっても気にはならないが、矛盾があるとそこでひっかかってしまう。

 この歌ではそれは、一人でいるのに二人でいるように見えるというところにある。語り手は恋人のことを思い出しているのであるが、歌詞が視覚的に描かれているため、聞き手はそこにはいない恋人の姿を語り手と同等の存在感をもって思い浮かべることになる。一方で、〈むさし野公園ひとりきり〉と一人であることが繰り返されるので、ぼんやり聞いていると、いったい一人なのか二人なのかわからなくなってしまうのである。歌詞の意味を理解しようとしたら、全体の意味を把握してから、遡及して一節ずつの意味を確認することが求められる。

 同じようなことは次作の「沈黙」でも起きている。これも松本隆の作詞であるが、ちょっと実験的なことがおこなわれている。次のような箇所がある。

 

・街でタクシー つかまえる頃/あなたの瞳は 手紙に揺れる

・風のホームで 列車を待つ頃/あなたはぐるぐる 部屋を廻るね

・海辺のバスに 乗り換える頃/あなたは悔やんで ベッドで泣くね

 

 ここは「○○する頃/あなたは○○しているね」というパターンで書かれている。「○○する頃」は主語が隠れているが、語り手の行動を述べている。〈ぼく〉が○○している頃、〈あなた〉は○○していると、映画のショットが切り替わるように、二人の様子が交互に語られているのである。歌詞のほかの部分で比喩的に映画のようだと書かれているので、これは明らかに映画の技法を意識したものだといえる。趣向はいいが、このようにパッパッと切り替わると、耳を一瞬通過するだけの歌の言葉では、そこまでの情報処理はおいつかない。しかも〈ぼく〉については主語が省かれているのでよけいわかりにくいのである。「沈黙」も技法が凝らされているが、それは複雑さとなって、歌詞の全体を文字で読むことのない聞き手にとっては認知的負荷の高いものになる。

 

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 そのほかに、この歌のなかに隠されているつながりを見てみたい。

 一番の歌詞には〈灯りの浮かぶ公衆電話/今はあなたの影も見えない〉とあり、二番の歌詞には〈芝生を横切る長い影〉とある。最初の〈影〉は人の姿かたちということで、次の〈影〉は光が遮られてできる黒いかたちという別の意味である。公衆電話の灯りの下にに浮かび上がる幻の姿と、夕陽によって伸びた〈長い影〉。後者は〈あなた〉の影ではなく誰か知らない人のものだ。しかし〈ぼく〉はあなたかもしれないと思っただろう。この〈影〉はすでにいない〈あなた〉のことが仄めかされているのである。幻の影と正体のわからぬ影。いずれも〈あなた〉は実在しないが、幻影として存在することが〈影〉によって示されている。公園で〈ひとりきり〉なのであるが、その寂しさが幻影を招き寄せるのである。

 歌詞のなかのおかしなところをあげてみよう。〈染まった頬のうす紅色が/池の夕陽にこわれて揺れた〉とある。頬が染まっているのは、夕日に照らされていることと、映画でラブ・シーンを見て上気しているという二重の意味がある。だが、その〈頬のうす紅色〉が〈池の夕陽にこわれて揺れた〉というのはどういうことだろうか。池に反射した夕陽のきらめきが波立って〈こわれて揺れた〉というのはわかるが、〈頬のうす紅色が/池の夕陽にこわれて揺れた〉となると日本語として意味をなさない。

 

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 ここからは、野口五郎のほかの歌と「むさし野詩人」のかかわりを述べてみよう。

 野口五郎の人気は、一九七四~七八年頃を中心とするだろう。当時のシングル曲のラインナップを掲げてみる。

 

 七四年 こころの叫び、告白、愛ふたたび、甘い生活

 七五年 私鉄沿線、哀しみの終るとき、夕立ちのあとで、美しい愛のかけら

 七六年 女友達、きらめき、針葉樹

 七七年 むさし野詩人、沈黙、季節風、風の駅

 七八年 愛よ甦れ、泣き上手、グッド・ラック、送春曲

 

 タイトルをざっと眺めただけでも、愛や美的なもののはかなさ壊れやすさを歌う人だということがわかる。

 作詞は七四年の「愛ふたたび」から七六年の「きらめき」までの二年間を山上路夫がおこない、野口五郎の文学的で女性ともたれあうような線の細いイメージを作り上げた。その後は、麻生香太郎松本隆喜多条忠山川啓介阿久悠など人気作家や新鋭に依頼しているが、山上が完成させたイメージを変奏したり、そこから脱却させようとしたりするが、山上の影響の範囲内にあるように思える。

 山上の歌詞は、野口五郎という歌い手の声質や容姿、パフォーマンスと融和していた。新御三家の他の二人は、西城秀樹はハスキーな声と躍動感が特徴で、郷ひろみは鼻にかかった甘い声と髪型は他の二人と違い、肩にかかる長髪にしたことはない。それぞれ個性が強い。西城秀樹郷ひろみ野口五郎の歌を歌ってもしっくりこないわけではない。歌いこなせるであろう。だが、「一群の歌」ということになると、山上によって作られたイメージは野口五郎に一番ぴったりくるようだ。

 野口五郎の歌には「雨、夕立、夜、街、風、思い出、泣く、悲しみ、指、お店、部屋」などのワードがよく出てくる。世界観がよく似ているものが多く、区別がつきにくい。作曲は筒美京平と野口の兄の佐藤寛で固められており、これも全体としてみたときにどれも似たような傾向に感じられる一因だろう。事情は西城秀樹郷ひろみも同じだが、二人のような派手さがないぶん、よけい個々の楽曲のイメージが薄くなってしまうのである。

 

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 野口五郎の代表曲というと、一九七五年の「私鉄沿線」になるであろう。シングルの売上はその前に出した「甘い生活」(一九七四年)のほうが若干大きいが、この歌は子どもは耳を塞いでいないといけないようなアダルトなものである。一方「私鉄沿線」は歌詞がユニークな視点で書かれていて、独創性が高い。両方とも作詞は山上路夫で、両作は家族のように類似している。

 「私鉄沿線」は、別れて行方の知れなくなった彼女を引っ越しもせず待っているという歌で、駅の改札口で彼女が電車を降りてくるのを待っていたとか、伝言板に君のことを書いたとか、オリジナリティにあふれている。「甘い生活」では、二人で行った〈なじみのお店〉があり、「私鉄沿線」でも、なじみの喫茶店があり、その店で〈君はどうしているのか〉と聞かれる。二人で過ごした部屋や街に対する愛着がある。「甘い生活」の前の「愛ふたたび」でもなじみの〈小さなお店〉が出てくるが、そのイメージを継承している。

 このあと「哀しみの終るとき」「夕立ちのあとで」「美しい愛のかけら」「女友達」と演歌調の歌が続く。「女友達」(一九七六年)は「私鉄沿線」と同じ作詞家(山上路夫)で、そのせいか両者は類似している。「私鉄沿線」では〈君はどうしているのでしょう〉と、女性の行方は語り手も知らない。「女友達」も〈君に電話をかけても今では/どこに越したか行方は知れない〉と女性は行方知れずになっている。

 「女友達」の次の「きらめき」(一九七六年)は二人で街歩きをしている歌で、〈店の名も街の角も/今はどれも馴染み〉とあるように〈馴染み〉の店や街が出てくる。喫茶店で〈コーヒー〉を飲むのも同じだ。「甘い生活」「私鉄沿線」と世界のたたずまいが似ている。作詞家も同じだ。

 このあと「針葉樹」(一九七六年)という異色の歌が挟まる。歌詞にはこれまでのように女と男がどうしたというグダグダした感じはない。映像的に〈針葉樹のりりしさ〉が際立つ。この歌にも、それまでのような歌詞をつけることはできただろうが、作詞家の麻生香太郎は全くタイプの異なる言葉をのせた。私にはこの歌の前と後とで野口五郎が変わったように思える。野口五郎を前期/後期で分けるとしたら、ここに線がひかれるだろう。「私鉄沿線」で離陸を試みたが、中途半端に終わり、「針葉樹」で完全に離陸したように思う。ただ、その後も歌詞は前期の影響圏のなかにあって、それと格闘し続ける。

 そして「むさし野詩人」(一九七七年)である。この歌には〈あなたの想い出集めたよ〉とあるが、「私鉄沿線」も不在の彼女の思い出を集めて歩くような歌だ。「私鉄沿線」が駅を中心とした思い出集めなのに対し、「むさし野詩人」は駅を通り過ぎ公園を中心にした思い出集めである。記憶は場所にしみついている。観光地ではなく駅や公園という日常の何気ない場所が選ばれている。

 面白いのは、〈灯りの浮かぶ公衆電話/今はあなたの影も見えない〉(「むさし野詩人」)、〈伝言板に君のこと/僕は書いて帰ります〉(「私鉄沿線」)とあるように〈公衆電話〉〈伝言板〉のように〈君(あなた)〉と他の誰かをつなぐものがあることだ。ただし、この二曲は作詞家が違う。だが「私鉄沿線」の世界が強烈だったので、そのイメージの残照が「むさし野詩人」にも漂っているのではないか。

 

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「むさし野詩人」の次に出されたのは「沈黙」(一九七七年)である。これは松本隆筒美京平のゴールデンコンビによるものだ。「沈黙」もまた、人を待つことが主題である。しかしこの歌は「私鉄沿線」や「むさし野詩人」とは男女逆転している。今までは女性が姿を消していた。しかし今度は、仕返しのように自分が消えるのである。〈どんな気がする どんな気がする/ひとり淋しい置いてきぼりは〉というのは、これまでの歌詞で男が置かれた立場であった。今度はそれを女のほうに味わってみろというのだ。「愛ふたたび」(作詞、山上路夫、一九七四年)では〈君はなぜ何も言わずに/別れていった〉とあるが、「沈黙」も〈何も言わない〉で去っていくのである。

 これまでは去っていった方は行方はわからないとされていた。「沈黙」でも残された女にとって去っていった男の行方はわからない。だが、これまでは残された側の視点で書かれていたのに、この歌では去っていった方の視点にたって書かれているという違いがある。

 「沈黙」は野口五郎の歌のなかで私の好きな歌であるが、セールス的には「むさし野詩人」からだいぶ枚数を落としている。おそらくタイトルがいけなかったのだろう。「沈黙」というタイトルの歌に消費喚起力はおそらく……ない。アルバムの中の一曲とか、あるいは詩とか小説ならいいんだけどね(遠藤周作の名作がありました)。

 「沈黙」というタイトルは内容ともうまく噛み合っていない。サイレント映画を題材に使いたかったのだろうけれど、静かに泣くとか静かに旅立つとか、こじつけになってしまっている。

 「沈黙」についてはその歌詞を少し詳しくふれておく。

  歌詞→ http://j-lyric.net/artist/a0020a8/l011687.html

 この歌では、「街でタクシーつかまえる頃↓風のホームで列車待つ頃↓海辺のバスに乗り換える頃」というように、タクシー、列車、バスと乗り継いで、語り手はだんだん〈あなた〉から遠ざかっていく。バスは〈海辺のバス〉であるから、都会から地方へと向かっているのであろう。しばらくは戻らない感じである。

 男は女から離れていくのであるが、残してきた女が何をしているのだろうかと随分気にしている。あてつけのように「家出」してきたのだが、潔いというにはほど遠い。「あなたの瞳は手紙に揺れる↓あなたはぐるぐる部屋を廻る↓あなたは悔やんで ベッドで泣く」というように〈あなた〉の心理的ダメージも大きくなっていく。だが、語り手は遠くにいるわけだから〈あなた〉の様子を見ているわけではない。これは語り手の空想である。〈あなた〉は〈戯れとわりきっていた〉わけだから、男が黙って出て行っても何とも思わないだろう。〈あなた〉のことは語り手がこうあって欲しいという願望が投影されたものだ。〈あなた〉は男の置き手紙をチラッと見ただけで放り投げてスヤスヤと寝てしまったのかもしれない。遊びだとわりきっていた〈あなた〉の心の中に一片の良心をあてにしていたのかもしれないが歌詞にはその痕跡は読み取れない。女の〈あなた〉は、「私鉄沿線」や「むさし野詩人」の〈ぼく〉のように、去っていった男が帰ってくるのを待ち続けたり思い出を探し求めて歩くこともないだろう。「沈黙」で去っていった男にあるのは強がりだけで、立場を変えてもむなしさは変わらないのだ。

 ちなみに、この歌でも遠く隔たった二人をつなぐものがある。「私鉄沿線」では伝言板、「むさし野詩人」では公衆電話だった。この歌では手紙である。

 

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 「沈黙」の半年後に出たのが「風の駅」(一九七七年)である。この歌も「むさし野詩人」と類似している。「風の駅」は「神田川」(一九七三年)を作詞した喜多條忠が作詞したもので、「神田川」の冒頭部分を思わせる内容である。「神田川」は赤いてぬぐいをマフラーにして銭湯の前で男が出てくるのを待っている女性の歌だ。「風の駅」の女性は赤いサンダルを履いて、駅のベンチで僕の帰りを待っている。

 この「風の駅」は「私鉄沿線」をひっくり返している。「私鉄沿線」では男が改札口で女が電車から降りてくるのを待っていた。「風の駅」では女が駅で男を待っていた。「私鉄沿線」では〈想い出たずねもしかして/君がこの街に来るようで〉とあり、女性がいつか男が待っている駅に来るかもしれないと願望を語っているが、「風の駅」では〈夢の続きを 見れるはずもないのに/君が待ってた 駅におりたよ〉と、かつて待たれていた男が、女性がかつてのように待っていてくれないかなと願望をもって駅に降りるのである。「私鉄沿線」で〈想い出たずねもしかして/君がこの街に来る〉ことはなさそうだが、「風の駅」では、男がそれを実行しているのである。

 これらの歌には、今は過去と結ばれているという強い感覚がある。過去に意味を奪われているせいで、今はうつろでむなしいのである。いずれにしても、駅で人を待つというパターンが共通しているが、これも「私鉄沿線」のイメージが野口五郎にあるからだろう。

 このあとの歌をみてみよう。七八年の「グッド・ラック」は山川啓介の作詞で、これまでのグズグズしていた男のイメージとは雰囲気が異なる。一夜をともに過ごした女を残したまま黙ってカッコよく立ち去るというもので、「沈黙」に似ているが、それよりは男くさく、ハードボイルドを思わせるふるまいだ。

 〈男は心にひびく汽笛に嘘はつけない/行かせてくれよ〉と歌うこの歌は、半年ほど前に阿久悠沢田研二に書いた「サムライ」にどこか似ている。「サムライ」でも、〈俺は行かなくちゃいけないんだよ〉と歌われている。どこに行くというのか。あてはないが、一箇所にとどまってはいられないということだ。「男はこうするものだ」という男の美学(カッコつけ)である。実は、そういう男らしさのステレオタイプは「沈黙」ですでに書かれていた。〈男は静かに旅立つものさ〉とあって、この男は女のもとを黙って去るのだが、急にいなくなるのだから、何か具体的なあてがあるわけではないだろう。小林旭の「渡り鳥」のような放浪の旅に出るのだろうか。だが「グッド・ラック」はライトな感じのポップスで、「サムライ」のような芯は感じられない中途半端さがあった。

 「グッド・ラック」のあと阿久悠の作詞で「送春曲」「真夏の夜の夢」「女になって出直せよ」の三曲を歌うのだが(七八~七九年)、これで混迷を深めてしまった。野口五郎は「グッド・ラック」のあと売上二〇万枚を超えるシングルをだせていない。八〇年代になっても売上をキープする西城秀樹郷ひろみとは対象的に、早々とレースから脱落してしまった。

 阿久悠は再生請負屋みたいなところがあって、落ち目の歌手をイメチェンをさせて復活させるのが得意だったが、今回のイメチェンは裏目に出た。「送春曲」の女性は病的なほど男にもたれかかっていて、聞いていて憂鬱になってくるほどだ。「真夏の夜の夢」は一転してはじけた感じの歌になるが、幻想的であり、地に足はついていない。「女になって出直せよ」は〈いい男といい女〉になってやりなおそうというもので、〈昔見た歳月は もうここで終った/マシュマロのベッドでは 愛にはならない〉という歌詞は、「甘い生活」以来の歌詞世界の乗り越えであろう。だが、サビで反復される〈女になって出直せよ〉という歌詞のマッチョぶりは野口五郎のイメージとはあまりに乖離しており無理があった。 

 阿久悠がひっかきまわしたあとは「青春の一冊」(一九七九年)という曲で、タイトルどおり真面目な内容だが、辛気くさく、本という小さい世界へと縮小してしまった。本の貸し借りで二人の関係がアナロジーとして語られるのだが凡庸な見立てだし、肝心の本がどういう内容かもわからないので、本にこだわる理由がみつからない。大塚博堂にも「一冊の本」(作詞、藤公之介、一九七六年)という歌があって、五木寛之の本を借りたが、〈また逢う口実 作りたくて 返すためにだけ借りた本です〉というもので、本は貸し借りのための道具になっている。

 「青春の一冊」には〈ほんと愛してるその一言で/君はあかりを黙って消した〉などという、〈愛してる〉と言ってやれば女は何でも言うことを聞くと思っているホスト的なファンタジーが書かれている。そういえば「女友達」という歌も、恋人同然のつきあいなのに恋人と認めず都合のいい友達として利用していて、相手の気持ちには最後まで気づかないふりをしているというもので、作詞としては高度なテクニックだが、内容としては嫌な感じのするものであった。

 続く「愛の証明」はなかにし礼の作詞だが、僕の愛を疑うなら〈この胸をナイフで裂いてみせる〉などと言葉遣いが大仰で古めかしく、男っぽいというより一人よがりでおしつけがましい感じのする歌詞で、若い女性には敬遠されそうである。実際、この頃はもうシングルの売上はずっと一〇万枚を切っていた。

 私は八〇年になった当時もまだ野口五郎がなんとか復活してくれないかなと案じていたが、次の「コーラスライン」は情念の重さが取り払われた明るいものだったので、いくぶんほっとした。ただ、これでは弱いなと思った。当時の批評にも、野口五郎は本当にこんな歌を歌いたかったのかというものがあって、印象に残っている。

 八一年の「序曲・愛」は七八年の「愛よ甦れ」を思わせる広がりのある曲だが、歌詞はひっかかりがなく散漫で、無難な言葉だけで組み立てられており、印象に残る言葉が一つもなかった。八三年に久しぶりにヒットした「19:00の街」はライトなポップス路線だったが、「過去の人の再起の一発」に終わってしまった。田原俊彦近藤真彦松田聖子中森明菜が全盛を誇っていた時期である。

 

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 野口五郎らしさというのは何だろうか。西城秀樹のカラ元気の激しさ(そればかりではないけれど)や郷ひろみの性愛的な勝者の面持ちを敬遠する人は、彼らの影の部分を補完する野口五郎の傷つきやすいやさしい青年像に癒やしを求めたのではないか。だがその役割は、七〇年代後半に登場してきたニューミュージックの歌い手たちが描くリアリティのある自己像のほうに共感の軸を移していったのではないか。

 野口五郎は作詞家によってその歌の世界が一曲づつ変わってしまう。職人である歌手としてはそれでよいけれども、様々な曲を串刺しにしても成立するようなキャラクターの造形がしにくいこともあって、一つづつの歌を評価してもらうことによって人気を持続させるのは難しかった。