Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

歌詞がねじれてますが、何か?

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 歌詞を詩のように本に印刷したとすれば、たいていのものは、縦書きなら見開き二ページ、横書きなら一ページに収まってしまうだろう。言語の作品としてみた場合、それほど短いものである。

 だがその短さであっても、なぜか途中で言っていることが変わってしまうものがある。歌として聞いているぶんには気にならない。歌を聞いているときは、耳に届いているフレーズとその前後の言葉ぐらいにしか注意が向かず、歌詞全体の論理的一貫性を気にすることは、まずない。ところが、歌詞を活字としてじっくり読んでみると、途中で言っていることがズレているのではないかと気づくことがある。それは詩的な跳躍とは別のものである。

 以下では、よく知られた歌を三つ取り上げる。1と2は飛躍を感じる程度のものだが、3は別種の歌詞を接合したようにすら感じる。

 

1 ZARD「負けないで」

 コロナ禍で長い自粛生活が強いられているとき、元気が出る歌を募ったところ、ランキングのトップになったのは嵐「Happiness」、二位がZARD「負けないで」、三位はあいみょんマリーゴールド」であった(NIKKEIプラス1、二〇二〇年五月二三日)。これを世代別でみると、十、二十、三十代では一位が嵐、二位があいみょん、五〇、六〇代では一位がZARD、二位がウルフルズ「ガッツだぜ!!」であった。四〇代は一位がウルフルズ、二位があいみょん

 この中で、興味深い歌詞がZARD「負けないで」(作詞、坂井泉水、一九九三年)である。応援ソングの代表であるが、歌詞の内容も時世にあっている。〈負けないで もう少し 最後まで走り抜けて〉というのは、いつまで続くかわからぬ休業要請や在宅要請はまるでマラソンのような持久戦であり、それはまさに〈もう少し〉〈もう少し〉と励まされ続けて〈最後まで 走り抜けて〉くれと言われているようである。また〈どんなに離れてても 心はそばにいるわ〉というのは、「社会的距離」を保ちながらも気持ちはいつもどおりという意味に符号していたし、テレワークや無観客の客席に本来いるべき人の〈心〉のあり様でもあった。この歌はそのように、聞き手の置かれた状況によってさまざまに「誤読」されることで、長い間(三〇年近くも)親しまれてきた。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a0009c5/l005be5.html

 この歌をソラで(記憶だけで)歌うことができる人はどのくらいいるだろうか。ヒット曲なので、おそらくサビの部分だけならかなりの人が口ずさめるだろう。だが平メロの部分も含めてということになると、冒頭の〈ふとした瞬間に……〉ぐらいは出てくるが、あとはゴニョゴニョとなってしまうのではないか。

 では、そのゴニョゴニョのところには何が書かれているのか。

 一番の歌詞では、好きな人と目が合ってときめいた、というウブな恋心が書かれており、二番では、〈あなた〉は何が起きても平気な顔をして「どうにかなる」と嘯く人だということが書いてある。

 これらの歌詞が、〈負けないで もう少し 最後まで走り抜けて〉というサビにつながっていくのだが、そこにはかなり飛躍がある。〈負けないで〉と応援するほどの境遇に〈あなた〉が置かれているようには見えないからだ。しいていえば、何がおきても平気な顔をしている〈あなた〉というところに、今その何かが起きているので〈負けないで〉と励ましているととれなくもない。しかし〈どうにかなるサと おどけてみせる〉という不真面目な相手に対し、〈負けないで〉と真摯な声がけをしても手応えはなさそうである。〈今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ〉というのは、〈あなた〉が言った〈おどけ〉のセリフであろうが、サビの、ゴールは近いからもう少しだけ頑張れ、という緊張感がある歌詞とは雰囲気がまるで違っている。違うものを張り合わせたような印象を受ける。

 この歌の「謎」は、〈あの日のように輝いてる あなたでいてね〉とか〈今もそんなあなたが好きよ 忘れないで〉といったように〈あなた〉との関係を過去のこととして語っていることである。また〈どんなに離れてても 心はそばにいるわ〉というように、近くにはいない。理由は語られないが、この二人はどうも現在は直接交流がなく、語り手が〈あなた〉を遠くから見守っているといった感じなのである。相手の〈夢〉だけは知っていて、心の中で応援している。既に遠い関係なのだから、〈夢〉といっても漠然としか知り得ないと思うが、それを沿道でマラソン選手に声がけするような直接さ(〈ほらそこに ゴールは近づいてる〉)で語るのである。このあたりは、作詞した坂井泉水の私生活が反映されているかもしれない。

 

2 中島みゆき「糸」

 カラオケでよく歌われる歌の一つに中島みゆきの「糸」(作詞、中島みゆき、一九九二年)がある。しんみりした曲で歌詞も七〇年代っぽい感じがするが、その素朴さゆえに人気がある。カバーするアーティストも多く、映画化もされ、まもなく公開される。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a000701/l0000fa.html

 歌は〈なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない〉とはじまる。タイトルが「糸」であり、この歌詞であれば、聞き手はただちに、赤い糸の言い伝えを連想するだろう。しかし歌詞には赤い糸という言葉は出てこない。それだとベタすぎるからだろうか。同じ中島みゆきの「おとぎばなし」(二〇〇二年)では〈小指の先に結ばれている赤い糸〉と歌われており、おとぎばなしのように恋がかなえばいいのにな、という内容である。赤い糸の言い伝えを匂わせはするが、それをダイレクトに示す言葉は置かれていないというのが、「糸」の重要なポイントだ。そのおかげで書き手の想像力が広がっていったと思われるからである。

 今更だが、赤い糸というのは、将来結ばれる運命にある男女は足首あるいは手の小指が赤い糸で結ばれているが、それは目に見えないという伝説である。いろんな歌によく出てくる。有名なのは木村カエラ「Butterfly」(作詞、木村カエラ、二〇〇九年)だろう。結婚式をイメージした歌であるが、そこに〈赤い糸で結ばれてく 光の輪のなかへ〉とある。この歌詞が興味深いのは、赤い糸は運命の人と結ばれているのではなく、結婚をしたから赤い糸がつながってゆくとしている点だ。書き手のたんなる勘違いなのか、あるいは〈白い羽ではばたいてく〉と対句にしたいのでそう表現したということなのかもしれないが、結果的に、赤い糸の言い伝えを作り変えたものになっている。

 中島みゆきの「糸」に話を戻すと、この歌は〈どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語〉と続いてゆくから、やはりその〈ふたつの物語〉をつないでいるのが赤い糸なのだろうと思わせる。だが、そのあとに続くサビは〈縦の糸はあなた 横の糸は私〉となっていて、赤い糸の話ではなく、糸で織られた布の話になっているのである。はじめはたしかに男女の縁を結ぶ赤い糸の話の流れで語られていたはずなのに、サビの部分で急旋回して、糸が加工された布という質的に変化したものに話が変わっている。糸の伝説から布の比喩へと連想が広がっていったのだろう。文脈からはそのように読める。

 歌詞の二番になると、心にできたささくれを治すのに糸では役に立たない、布なら役に立つ、という流れで〈こんな糸が なんになるの〉と歌われ、また〈縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出逢えることを 人は仕合わせと呼びます〉とあって、ここでは布こそが本来あるべき状態であり、それを形成する材料として糸が存在するということになっている。糸は〈あなた〉や〈私〉の比喩から発展して、〈逢うべき糸に 出逢えること〉というように「糸の擬人化」へと進んでいる。

 この歌は結婚式の余興で歌われる歌としても人気が高い。そもそも中島みゆきに関わりがある天理教の中心人物の結婚を祝って作られたようだ。なるほど結婚という節目を代入すると歌詞のねじれが理解できる。つまり二人が出会うまでは糸は赤い糸であり、結婚して家庭を築いてからは、その糸は織物になって人をやさしく包むということである。これは隠喩を重ねるアレゴリーである。

 また、〈縦の糸はあなた〉=男性に割り当てられ、〈横の糸は私〉=女性に割り当てられている点も興味深い。縦の方向は権力関係を象徴し、横の方向はつながりを象徴する。これは男女の旧来の性別役割に一致している。実際、織物を作るときも、まず縦の糸が張られ、その間を縫うように杼(ひ)によって横の糸が通される。不動の男性の周囲を女性が動きまわって家庭がつくられていくという構図と同じだ。

 この歌では縦糸(あなた)と横糸(わたし)が緊密に織り込まれ一体化している。こうなったらちょっとやそっとでは関係をほどくことはできなくなる。がんじがらめになった人間関係を喜びとするようなこの歌は年配の方(特に男性)には受け入れられやすいであろうが、若者がそれを受け入れられるとしたら、結婚式のような高揚した瞬間に限られるであろう。

 「糸」の歌詞には赤い糸という言葉は使われていないということは既に述べた。糸が赤い糸に限定されないことによって、織物としての〈布〉にまで発想を広げることができた。赤い糸は運命的な恋愛を夢見る若い人にとって定番となっている類想だが、年配の人が口にするのはいささか気恥ずかしいだろう。そういう赤面するようなポエムの手前で踏みとどまって、さらに「糸」というそっけなく渋いタイトルにして乙女チック度を下げたことが、この歌が広く受容されることにつながったのではないか。

 

3 美空ひばり川の流れのように

 美空ひばりが亡くなって三〇年以上経つが、数ある曲の中で一番親しまれているのは、秋元康が作詞した「川の流れのように」(一九八八年)であろう。生前最後のシングルであり、売上も一番。歌詞もひばりの人生の総決算のような内容である。

 偉大な歌手の偉大な歌であるが、「川の流れのように」の歌詞をあらためて読み直してみると、奇妙な印象が残る。それは、この歌詞が木に竹を接(つ)いだようなちぐはぐなものであることからきている。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a000977/l001189.html

 サビではタイトルどおり〈ああ 川の流れのように〉と〈川〉の比喩が使われているのだが、それ以外の平メロの部分では、一貫して〈道〉の比喩が使われている。人生を道に喩(たと)え、〈細く長いこの道〉〈でこぼこ道や曲がりくねった道〉〈終わりのないこの道〉〈雨に降られてぬかるんだ道〉などと様々な道の状態に関するいくつもの比喩をくり出している。それがなぜかサビになると突然〈川〉の比喩にスイッチしてしまうのである。どこかに船着き場でもあって、そこで舟に乗り換えたとでもいうみたいに(もちろん、そんな描写はない)。

 人生を道に喩えることと川に喩えることとでは、どのように生きるかについてのとらえ方が大きく異なっている。道というのは苦労して自分の脚で歩いていかなければ一歩も前に進まない。己の意志を重視している。一方、川というのは舟でそこに浮かんでいれば自分でことさらな努力をせずとも流れがこの身をいずこかへ運んでくれる。ただし、道を歩くときのようには行き先は自由に選べない。道の比喩は「何とかする」あるいは「何とかしてきた」人生を、川の比喩は「何とかなる」あるいは「何とかなった」人生を意味していると、とりあえずは言えるだろう。

 道と川の比喩は、二つの異なった寓意が込められているものなので、それを接ぎ木することは本当はできないはずである。この接ぎ方に意味を見出すとすれば、こういうことになるだろうか。数々のエピソードで知られるようにひばりの人生は、困難な〈でこぼこ道〉や〈ぬかるんだ道〉であったかもしれない。これまでは苦しい道を自力で生きてきた。しかし、振り返ってみると、個人の意志を超えた大きな流れがあり、結局そのとおりに進んできた。これからはその流れに従って〈おだやかにこの身をまかせていたい〉ということだろうか。川は最終的にいろんなものを飲み込んで、大きな川になってゆく。

 道の比喩では〈細く長いこの道〉〈でこぼこ道や曲がりくねった道〉〈ぬかるんだ道〉など、その困難さばかりが語られている。舗装された真っ直ぐな道路を自動車で快適に走ってきた、という比喩にはなっていない。これが川の比喩になると〈ゆるやか〉〈おだやか〉といった言葉で語られ、精神的な安定が得られている。川には、激流や濁流もあり、洪水や氾濫をおこすこともあるが、この歌の川は、適度なカーブがある、ゆるやかな流れの川である。激流の川なら人生の若い時期の比喩になるだろうが、ここでは老成した時期の比喩となる川である。道の比喩は人生の青年から壮年、川の比喩は人生の老年という時間的な区分にもなっている。

 また、川の比喩には〈時代〉とか〈空〉などの言葉がでてきて、スケールが大きくなる。道の比喩は個人の人生を語るのに向いているが、川の比喩はもっとスケールアップして、人間の来し方行く末を包み込み、さらには自然と融合した悟りの境地のような雰囲気さえ漂わせるようになる。〈川の流れのように おだやかにこの身をまかせていたい〉という歌詞は、何に身をまかせるのか曖昧であるが、そのため、人間というあり方を越えて〈川〉そのものになってしまったかのようにも読める。

 ひばりは自分の人生を歌で語るつもりで歌っているであろう。一方、聞き手にとっても〈でこぼこ道や曲がりくねった道〉はあるし、年を取れば全てがなるようになった川の流れのようなものとして人生が見えてくるだろう。聞き手は、歌をあるときは歌手の人生の自分語りとして聞きつつ、あるときは聞き手自身の人生のこととして聞くのである。

 また、美空ひばりという歌い手を「国民的な歌手」という象徴的な存在としてとらえると、こうも考えられる。川のもとになった雨の一滴一滴を大衆の一人一人と考えれば、それが集まって支流を作り、さらに支流が集まって大きな川になる。川は大衆の人生の総合であり、その太い一本の川が美空ひばりの人生に重ね合わせられることによって、ひばりが大衆を代理する。人生を道に喩えるだけでは個人的な語りで終止してしまい、聞き手に共感を抱かせることはできても、所詮は他人の人生であり、聞き手を巻き込むほどの言葉の力は持てない。だが、道が川に置き換わることによって、寓意の内容が途中で変化してしまうけれども、多くの人の人生を暗示することができるのである。

 歌詞の不思議な接合は、美空ひばりという偉大な歌手によって無理なく一つの歌にまとめあげられている。歌詞だけを取り出して読んでみると、歌手の後光が消え去って、気づかずスルーしていたものが気になってくる。道や川はいずれも人生の比喩として一般によく使われるものだから、いつのまにか切り替わっていることに気づきにくい。歌詞の言葉は少しずつのまとまりでしか記憶にとどまらないので、もし道や川の比喩が交互に出てきたらさすがにおかしいと思うだろうが、平メロ、サビというふうにまとまりで切り替わっているため、そこに何となく変わって然るべき意味があるように思ってしまうのだろう。そして、そのように見過ごしていたものに気づいたあとで、それをもとにもう一度歌詞を解釈しなおしてみると、またこの歌の別の側面を発見(創造)することができるのである。

 

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 これまで見てきた「負けないで」「糸」「川の流れのように」は、比喩が重要な役割を担っている。比喩が歌の命である。そして「糸」と「川の流れのように」は比喩するものが途中で変わっている(糸→布、道→川)。一つの比喩が意匠の中心に据えられているものは、俳句でいえば「一物仕立て」である。「一物仕立て」の句はありきたりなものになりやすく、作るのが難しい。しかし、いい句ができると力強いものになる。

 「糸」や「川の流れのように」は、一つの比喩で押しとおす「一物仕立て」のように見えるタイトルだが、内容はそうではなかった。「一物仕立て」の外観をしているがそうではないものを、本稿では「ねじれ」と呼んだ。本稿では、ねじれた歌詞を三作みてきた。それらはいずれも大ヒットしている。歌詞がねじれているにもかかわらず受け入れられるのは、聞き手は歌詞のねじれを重視していない(気にならない、気がつかない)ということである。あるいは、歌詞の最初から最後まで統一した論理を求めていない(求められない)ということである。歌の言葉は次々に流れてきては消えていく。耳に残る断片的なフレーズに違和感を感じなければよいということだろう。

 ただ、歌詞が活字になって言語の作品として置き換えられたものを目で読んでみると、そのねじれや唐突な変化が、作品の統一感を揺るがすことになる。歌詞が裸の言葉としてさらされてしまうと、歌手の存在や楽曲によって一つにまとめあげられていた歌のイメージがほどけて崩れてしまう。歌詞というのは、言語の作品のなかでは短くコンパクトなものであり、全体を見渡しやすい。歌詞のねじれの許容は、歌詞が従属物であること、単独で鑑賞するものではないことを示している。