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流行歌の歌詞について

応援ソング〜女性編

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 何かを応援する人が増えたように思う。スポーツの応援はサッカー人気でサポーターという言葉が定着したし、阪神淡路大震災は多くの人がボランティアに駆けつけボランティア元年と呼ばれた。SNSの普及で応援してますというメッセージも発信しやすくなった。「いいね」を押すのも小さな応援である。

 歌の効能のひとつに、聞く人を励ますということがある。落ち込んでいるときに歌を聞いて元気になったとか、迷っているときに勇気をもらったとかがそうである。

 悲しいときには明るい歌を聞けば励まされるのか、それとも、悲しいときは悲しい歌を聞いたほうが癒されるのか、ということはよく議論になる。ちょっと落ち込んでいるようなときは気分を盛り上げる明るい歌を聞くのがよく、かなり気が滅入っているときは暗い歌のほうがいいと言われる。時間の経緯に即して言えば、落ち込んだ当初は暗い歌がよくて、少し立ち直ってきたら明るい歌がよい。

 応援ソングと呼ばれるジャンルの歌がある。応援ソングは明るい歌の括りに入るだろう。ひどく落ち込んでいるときには応援ソングは聞く気になれない。張り切らねばならないときに聞くと、馬力をかけることができる。

 今回は応援ソングのうち、女性歌手によるものをみていきたい。男性にとっては、女性からの励ましのほうが力になる。いわばチアガールとか運動部の「女子マネ」的な役割が期待される。励ます立場が女性であるのは伝統的な性役割に思えて抵抗を感じる方もいるだろうが、応援ソングじたいは男性歌手によるものもたくさんある。男性歌手による応援ソングは項をあらためてみていきたい。

 歌い手と聞き手の関係を分類すれば次のようになる。

 

1 女性が女性を励ます。女性が女性に励まされる。

2 女性が男性を励ます。女性が男性に励まされる。

3 男性が女性を励ます。男性が女性に励まされる。

4 男性が男性を励ます。男性が男性に励まされる。

5 性別に関係なく励ます。性別に関係なく励まされる。

 

 私たちが歌を聞くとき、歌手の性別をどれほど意識しているだろうか。特にビジュアルが随伴していない場合、これは男性の声だとか女性の声だとかはあまり意識しないのではないか。もちろん、あらためて問われれば別だけれど、上の分類では「5」として聞いているのではないか。敏感になるのは、男性とか女性とかよりも、好きなアーティストであるか否かという個人の別についてである。

 先に述べたことをもう少し精確に記すと、応援ソングを聞く場合、ドリンク剤とは違い、元気をもらおうと思ってそれを選んで聞くことはあまりないのではないか。どこからかふと流れてきた歌のほうが心うごかされるはずである。それは予想していなかったことだからである。落ち込んだときに聞く場合もそうである。落ち込んだから悲しい歌でも聞いて癒されようとはあまり思わないだろう。落ち込んでいるときはそんな気力もわかないはずだ。自分が選んだのではない、ふと流れてきた歌に不意打ちされたほうが身体の芯まで届くものだ。だから応援ソングは、事前にあるものではなく、結果的にそれが応援ソングになるのである。広義では、すべての歌が応援ソングになりうる。一方で、いかにも相手の励ましを意図するタイプの歌詞がある。それを狭義の応援ソングとして、以下ではそれをみていく。

 書き手についていえば、自分は男性だからこういう歌詞にするのだとか、女性だからこういう歌詞にするのだということを明瞭に意識することはほとんどの場合ない、といっていいだろう。だが、書かれたものには痕跡が残る。応援ソングにおいてもそれはいえる。

 

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 ネットには応援ソングのランキングがいくつもあるが、それをみると、女性歌手のもので定番となっているのは、岡村孝子「夢をあきらめないで」(作詞、岡村孝子、1987年)とZARD「負けないで」(作詞、坂井泉水、1993年)、岡本真夜「TOMORROW」(作詞、岡本真夜真名杏樹、1995年)などである。いずれも歌い手自らが作詞していて、彼女らを代表する歌になっている。二、三〇年前の歌であるが、応援ソングであることによって長く聞かれ続けてきたと言えるだろう。

 応援ソングという分類は、歌詞の内容による分類だといっていい。曲だけではそこまで限定できない。応援ソングは言葉が重要な役割を持っているということになる。

 以下、岡村孝子の「夢をあきらめないで」と、歌詞にその影響が見られるZARD「負けないで」の比較を中心に、おしまいのところで、坂井泉水が作詞するZARDの歌詞全般についてみていく。岡本真夜「TOMORROW」については、応援ソングとは言い難いので除外する。理由は後述する。

 岡村孝子の「夢をあきらめないで」は、発表当時、予備校のCMとして使われていた。私が大学生のとき、この歌がラジオからよく流れてきた。岡村孝子は好きな歌手だし、この歌も嫌いな歌ではなかったけれど、「夢を」あきらめないでと励まされても、夢などない私は、どこかしらけた思いで聞いていた。私にはやりたいことはあったが、それを夢というのは大仰だった。将来ミュージシャンになりたいとか役者になりたいとか成功率が低いものであれば夢といってもいいかもしれないが、多くの人が人生コースで遭遇する大学受験とかスポーツの試合とか、そういう小さな成功まで夢と呼ぶのは言葉のポエム化だと思った。

 それに比べたら、ZARDの歌のように「負けないで」という言い方のほうが聞き手にとって敷居が低い。何に負けないかは、人それぞれであるから、いろんな場面で通用する。解釈に柔軟性がある。フルマラソンでゴール手前の人の頭の中でこの歌が鳴り響くこともあれば、朝起きて今日学校に行くのが嫌だなと思ってる人の頭の中でリピートすることもある。入試の勉強でも怪我のリハビリでも会社の営業マンでも子育て中のお母さんでも就活中の学生でもラスボスと戦っているゲーマーでも、誰にも「負けない」でふんばる必要のある場面がありうる。

 「夢をあきらめないで」は、〈乾いた空に続く坂道 後姿が小さくなる〉という情景描写から始まる。情景といっても多分に象徴的である。坂道には上り坂も下り坂もあるが、ここは〈空に続く坂道〉とあるから、語り手は坂道を下から見上げていて、〈後姿〉の人はその坂道を登っていくのだということがわかる。坂道は過程の困難さを意味している。〈乾いた空〉というのは晴れた空、青い空ということだろう。これは夢=大志の象徴だ。だが、孤独である。〈後姿が小さくなる〉とあって、語り手は見送りはするけれど、一緒には行かない。その場にたたずみ手を振るだけだ。そして、〈いつかは 皆 旅立つ/それぞれの道を歩いていく〉という一般論に切り替わる。その人が自分から離れるにつれて親しみの程度が弱くなり、名前をもった固有の人から一般の人へと変わってゆく。

 この歌は、スタート時を応援する歌である。夢という遠くにある目標に向かって人を強く押し出すのである。ただ、最初は励ましてくれるけれど、あとは自分しだい、頑張ってねということである。〈あなたの夢を あきらめないで〉と励ましてくれるけれど、自分は〈遠くにいて信じている〉というのである。ロケット打ち上げの時のブースター、あるいは富士急ハイランドのドドンパのように、最初に勢いよく送り出してくれるのだが、あとは遠くから見守るだけ。これだと、ある程度非凡な才能がないと夢にたどりつけないかもしれない。

 よく読むと〈冷えたその手を 振り続けた〉とある。〈この手〉ではなく〈その手〉。語り手自身が手を振っているのであれば〈この手〉とすべきだが、そうなっていないのは、第三者の視点で描いているということか。しかし心内語に満ちていることから、どうもそうではない。おそらく〈冷えたこの手を 振り続けた〉にすると、身体性がなまなましく出てしまうから、一歩ひいて〈その手〉にしたのではないか。少しだけ客観的にすることで語り手の身体にピントがあうことを避け、かわりに〈後姿〉の人にピントをあわせ続けようとしているのではないか。応援する私はあくまで黒子であり、焦点は〈後姿〉の人にある。私を話題の中心に置かないように、語りにおける距離感を生じさせる〈その〉を使ったのではないか。それによって、私と後姿の人のバランスをとっているのである。

 ZARD「負けないで」は、歌詞の端々に「夢をあきらめないで」の影響が見受けられる歌であるが、大きな違いがあって、それは、応援する人が、応援される人に寄り添ったものになっているということである。「夢をあきらめないで」も、書き手は、そんなに突き放したつもりではないのであろうが、それをはっきりと言葉にしている。

 「負けないで」には、〈どんなに離れてても/心はそばにいるわ〉とある。こちらも遠くに離れているのであるが、〈心はそばにいる〉と付け加えている。「夢をあきらめないで」もそれは同じなのであろうが、そのことをはっきり書いているので親しみさが増す。

 〈心は そばにいる〉ということで、彼女がとなりで伴走して声がけしてくれるイメージがある。近くで絶えず励まされて少しづつ進んでいく。最初の推進力だけで進んでいくロケットに対して、いつも補助してくれる電動アシストの自転車みたいである。「射出型」に対する「伴走型」。普通の人に向いている歌である。

 さらに、〈負けないで もう少し〉とあって、もう少しもう少しと、だましだましで優しいのである。途切れず頑張れば慣性で〈遥かな夢〉までたどり着ける。ちょっとづつ頑張れば結果的に夢は叶うよ、と言っているわけで、最初から大きく「夢をあきらめないで」と言うのではなく、目標はとりあえずおいておいて過程を重視している。「夢をあきらめないで」にも〈負けないように〉という歌詞があるし、「負けないで」にも〈追いかけて 遥かな夢を〉とあって、二つの歌は似たようなことを歌っているのであるが、「夢をあきらめないで」は〈夢〉が前面に出ているぶん、人生における「大きな物語」の語りになるのに対し、「負けないで」はもっと断片的な場面に対応できるのである。

 

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 もう少し細かい言葉の使い方に着目して、「夢をあきらめないで」と「負けないで」を読み比べてみる。

 この二つの歌のタイトルは「ないで」という言い方が共通している。〈ないで〉は婉曲な禁止である。歌詞にも〈ないで〉は使われている。

 

・心配なんて ずっとしないで(「夢をあきらめないで」)

・そんなあなたが好きよ 忘れないで(「負けないで」

 

 また、この二つの歌には〈て〉も使われている。

 

・あなたらしく 輝いてね(「夢をあきらめないで」)

・あの日のように輝いてる あなたでいてね(「負けないで」

・最後まで 走り抜けて(同前)

・追いかけて 遥かな夢を(同前)

・感じてね 見つめる瞳(同前)

 

 終助詞の〈て〉が多用されている。特に「負けないで」では、サビで反復されるので印象に残る。語尾に〈て(ね)〉をつけるのは女性がよく用いる言い方で、可愛らしくありつつ軽い命令やお願いの感じがある。見守ってくれる母親というかお姉さん的な女性の感じがある。言っていることはストレートで厳しい内容を含んでいるのだけれど、舌足らずな感じで可愛らしさがある。

 〈て〉や〈ないで〉が効果的に使われている歌といえば、〈けんかをやめて 二人をとめて 私のために争わないで〉と歌う河合奈保子「けんかをやめて」(作詞、竹内まりや、1982年)がある。岡本真夜「TOMORROW」(作詞、岡本真夜、1995年)でも、〈おびえないで〉〈カッコつけないで〉と〈~ないで〉が使われており、〈信じていてね〉と〈て〉が用いられている。先に、「TOMORROW」は応援ソングとは言い難いと述べたが、それは次の理由による。

 この歌は、〈涙の数だけ強くなれるよ〉とか、〈明日は来るよ 君のために〉とか、聞いたふうなことを繰り返し言う。どれだけ人生の裏打ちがあって発された言葉だろうか。人生経験豊富ぶった人が若い人に諭すような口ぶりで、実は紋切型のセリフであることに気づかない安っぽさがある。〈抱きしめてる思い出とか/プライドとか 捨てたらまた いい事ある〉とか、〈時には 夢の荷物 放り投げて/泣いてもいいよ つきあうから/カッコつけないで〉とか、〈自分をそのまま 信じていてね〉とか、〈頼りにしてる〉とは言うものの、上から目線の指示と教えに満ちている。応援ソングというより説法ソングではないか。もちろん説法でも励まされる人はいるから、人それぞれである。

 先ほど、〈ないで〉〈て〉は軽い命令、お願いであると述べた。応援ソングはどちらかといえば、上から目線になりがちだが、それでもほぼ対等の立場で肩を並べて走りながらの応援である。「負けないで」は特にそういう感じであるし、「夢をあきらめないで」は〈苦しいことに つまずく時も/きっと 上手に 越えて行ける〉など訳知りなことを言う箇所があるものの、〈優しい言葉 探せないまま〉などと、自分の無力さを自覚している。「TOMORROW」のように応援する側が完全無欠で、一方的に相手を教導するような人生相談の駄目パターンの回答のような内容だと、相手の主体性が入りこむ隙のない金言のようなものになってしまう。

 

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 先ほども少しふれたが、「夢をあきらめないで」では、〈遠くにいて信じている〉といい、「負けないで」では、〈どんなに離れてても/心はそばにいる〉という。いずれも、近くで応援してくれているわけではない。これは応援ソングとして、聞き手に対して或る枠組を設定する重要なポイントである。歌詞の文脈では友人や恋人を励ますものであっても、遠く離れているという距離をとることによって、これが歌い手と聞き手、スターとファンの関係に置き換えることが可能となる。スターとファンは一対多数の関係だ。スターの体は一つしかないから、特定の誰かに寄り添うのではなく、遠くから大勢を励ますことしかできない。逆に、それによって励ましを多数に分配できる。「負けないで」では、それに加えて〈心はそばにいる〉という。一人じゃないよという「同行二人」である。

 こういう言い方は、坂井泉水が作詞する他の歌でもよく見られる。応援ソングというわけではないが、例えば

 

どんなに遠くにいてもつながってる(「愛を信じていたい」

・たとえ遠く 離れてても(中略)君の声が(中略)かすかに声が聞こえた(「Get U’re Dream」)

たとえ遠く離れていてもときめく心 止めないで(「あなたを感じていたい」)

・君に夢中だよ 離れてても 腕の中にいる気がする(「息もできない」)

 

 他にも、遠くにいる相手との関係性を歌うものがいくつもある。もしかしたら、坂井は、遠くにいる人を好きだったのかもしれないし、仕事柄、好きな人に会えていないのかもしれないなどと、書き手特有の事情を推測させる。

 

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 最後に、ZARD坂井泉水)の歌詞を、女性性という角度から述べておきたい。

 日本語というのは語尾にその人の特徴が表れる。「そうだぜ」と言えば男性だし、「そうだわ」と言えば女性、「そうじゃ」と言えばお年寄りが話しているとすぐわかる。マンガなどではそれが記号的に使われていて、役割語と呼ばれる。坂井の歌詞には女性特有の言い回しが多く、それが語尾によく表れている。坂井泉水は女性だから女性的な言い回しになるのは当然だと思うかもしれないが、そうではない。私たちはふだん、そんなに性別のはっきりした言い方をしていない。

 また「負けないで」を例にとってみよう。歌詞の語尾には〈~でしょ〉〈~ね〉〈~わ〉〈~の〉〈~よ〉など、いかにも女性語といった特徴が表れている。こういう典型的な女性語は語り手の輪郭をはっきりさせるために創作物にはよく出てくるし、受け手もそれを理解して受け取っている。一方、この歌には、いっけんそうとは思えない部分にも女性的な表現が用いられている。先にも述べたが、タイトルの「負けないで」の「ないで」が女性っぽい言い方であるし、終助詞〈て〉も多用される。〈~てください〉などと言い切らず、〈て〉で止めるところに特徴がある。この場合の終助詞〈て〉は軽い命令(お願いや配慮を含む)を意味し、主に親しい間柄で用いられるもので、公的な場(巷間に流布する歌は半ば公的な存在である)においてそうした言い方をするのは男性にはためらわれることが多い。歌は絵画のように閉ざされた場所でひっそり鑑賞されるものではない(イヤホンは状況に依存した限定的な聞き方である)。歌は広く拡散するところに特徴があるし、耳という感覚器官も入ってくる音を防がないような仕組みになっている。そうした半ば公的なあり方をするものであるにもかかわらず親しさの表現が許容されるのは、それが女性的なものだとみなされているからであろう。

 ZARDの歌詞は女性性を演出している。坂井は無意識にそのように書いてきたのではないかと思う。その秘密は、ZARDという名前に隠されている。ZARDという名前は、濁音中心のざらついた感じの響きを持ち、「Z」の文字も入っていてカッコよく、男性的である。坂井泉水のビジュアルとはベクトルが逆なのだ。坂井は、ZARDという名前の男臭さを中和しようとして無意識のうちに女性的な言い回しを多用したのではないか、というのが私の「推理」である。それは、ZARDという存在に不思議な深みを与えている。ZARDというパッケージで提供される歌、つまり歌い手の容姿やその歌詞の内容が、ZARDという名前の持つイメージとはギャップがあることで、通常の理解を超えた深みが生まれ、聞き手は、よけいその世界を知りたくなるのではないか。もし坂井泉水の名前のままでこれらの歌が出ていたら、不思議さは薄れたと思う。女性的なものが男性的な器で提供されたことが、性別を超えて幅広い層に支持された一因ではないだろうか。

 坂井泉水ZARDとしてデビューし人気を博してからは、ライブもメディアへの露出も抑えぎみだった。人気があった九〇年代前半はインターネットなどなかったから、テレビや雑誌に出なければCDのジャケットによるしか風貌はわかりようがない。ビジュアルが一般に広く知られていないことと、ZARDという名前を与えられた効果は相乗的に働いたであろう。

 坂井泉水の本名は蒲池幸子松田聖子の本名と名字が同じだったので、従姉妹だなどとまことしやかに語られたこともあった。坂井泉水というのは本名の上に被せられた芸名である。そこにさらにZARDというアーティスト名が被せられている。二重に覆われているのである。ZARDという名前は英語っぽいのだが辞書的な意味はない。ネットのない時代、多くの聞き手は、この女性歌手がなぜZARDという名前で活動しているのかわからなかったはずだ。聞き手は歌い手に興味を持って彼女のことを知ろうとしても、名前やビジュアルという表層的な部分でただちにはね返されてしまう。もどかしいのであるが、それは神秘性の土壌になる。知りたいけど知りえない状態に置かれ、人は対象に一層興味をかきたてられることになった。