Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

アスコンソング

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 我が家の二匹の猫は、やわらかくて、ふわふわしていて、暖かいものにくるまれているのが大好きである。つまりは羽毛布団の上で、そこにぱふっと埋もれている。家の外に出ず、固いところを歩かないから、足裏の肉球は何年たってもぷにぷにのままである。もしこれがノラ猫だったらそうはいかない。ノラは土やアスファルトの上を歩き、やわらかいといっても干し草の上がいいところだ。うちの近所の空き地に積まれた枯れ草の上には、大きなフンがお礼のようにしてある。

 オートバイで高速道路を走るとき、若い頃は上半身はタンクトップ一枚だった。転倒すれば道路で大根おろしのようにすられて骨が見えただろう。アスファルト舗装は顔を近づけて見ると明らかだが、かなり凸凹している。小石と砂利が接着されたものなので、生物の肉体がこすられればひとたまりもない。

 コンクリートの表面はアスファルトよりなめらかである。だが強度はアスファルトより高い。材質の違いで、道路には主としてアスファルト、建造物にはコンクリートが用いられる。映画で、全身タイツのスーパーヒーローがコンクリートに叩きつけられるとコンクリートのほうが壊れるという場面があり違和感なく見てしまうが、人間ではありえない。破裂して死んでしまう。コンクリートの壁を拳で軽く殴れば、壁にはひび一つはいらないが自分の手は皮膚が破れ血が滲み、紫の鬱血ができるだろう。

 西欧の石の文明に比べて、日本は木の文明である。住宅をつくるとき、木造の場合は「木のぬくもりとやさしさ」というお決まりのフレーズがつくが、石は頑丈だが固く冷たいのに対し、木は人にやさしい。コンクリートも広義の石である。日本は「近代化」して石の建造物が増えたが、街全体にどこかよそよそしさを感じる。先日、神田にある湯島聖堂神田明神のあたりを歩いたが、これらは当初木造だったものが関東大震災で焼けて、今あるものは鉄筋コンクリートで木造を模して作り直したものである。私にはどうもそのあたりにありがたみが感じられなかった。公園などにコンクリート製の擬木柵や階段があるが、それと同じである。似せて造ってあるぶんだけよけい苛立たしい。

 Jポップには、アスファルトやコンクリートという単語がしばしば出てくる。固く、冷たく、ざらっとした感触をもつアスファルトやコンクリートが「ぬくもりとやさしさ」のラブソングの中に出てくると、異質なものが混じったような感じになる。それはわざとそうしているのである。

 アスファルトやコンクリートというのは、都会のとりつく島のなさの象徴である。柔軟で不確定に動く土を覆い、雑多な生命をもぐりこませず、清潔で管理しやすい空間としてなかば永遠に固定する。聖書では、最初の人間は土から造られた。植物は土から生える。アスファルトやコンクリートからは何も生えない。それは変化しない。鉄筋コンクリート湯島聖堂神田明神にありがたみを感じられないのは、それは木造のまがいものであるということと、何年経っても変わらないというところにあるのではないか。

 

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 アスファルトの道路は、その上を何トンもの自動車が行き交うため、しっかりしたものであるように舗装の構成が決められている。アスファルト舗装は、大雑把に言うと砂利(骨材)とその結合材であるアスファルトの混合物で、粒の大きさの異なる骨材の混合度合いによって舗装の肌理が異なり機能も異なる。粗い粒ほどざらっとしており、タイヤもすべりにくい。

 アスファルト混合物が使われているのは道路の表層と基層で、その下にはさらに砕石を敷いた路盤がある。私たちが目にするのは表層で、道路の交通量にもよるが厚さは十五センチほどである。人間の力では剥がすことはできないし穴も開けられないが、災害などで道路が寸断された映像では、舗装が紙のようにペラペラして見える。大地にとってはかさぶたのような薄い膜にすぎないのだ。

 とはいえアスファルトは人間にとっては頑丈なものである。ニュースで、クルマが人を引きずったまま何百メートルも走ったと聞くと残酷さに身震いしてしまう。人にとっては道路舗装はしばしば凶器になる。そんなアスファルトの隙間から、人間よりもっとか弱い草花が生えていることがある。岡本真夜の「TOMORROW」(作詞、岡本真夜真名杏樹、一九九五年)は、それを〈涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く花のように〉と歌う。アスファルトの下に花が埋もれているとか、雑草がアスファルトの割れ目から生えているといった歌はいくつもあるが(響子「蒼い血」、ラッパ我リヤ「愛と夢と」等)、岡本自身も「Life」(作詞、岡本真夜、二〇〇三年)という歌で〈アスファルトには花が咲いてる〉と繰り返している

 アスファルトに咲く花というと誤解しやすいが、草花が自分の力で舗装を突き破って生えてくるわけではない。アスファルトやその下の砕石に草の実が混じるとは考えられないし、さすがに厚い舗装を持ち上げるパワーはない。舗装の割れ目や継ぎ目、窪みなどに土が溜まり、そこから生えてくるのである。いったん生えれば、根が舗装の破れを押し広げることはあるだろう。花はか弱いものの象徴であるが、少しでも隙間があれば、そこに根付くことがある。弱そうに見えて、実はたくましい。だがこの花が次代に生をつなげるかというと環境が悪すぎて相当困難だろう。

 アスファルトは、冬は氷のように冷たく、夏は照り返しすら息苦しいほど焼けるように熱い。石は熱の伝導率が高いため、物質の温度も極端になる。そのことは、〈冷たいアスファルト〉とか〈灼けたアスファルト〉などとよく歌われている。それらは生命が寄りつくことを拒む過酷な表情をもっている。アスファルトはそれ自体ではそっけなく無愛想だが、そこに自然や人の行為が加わることでいろんな表情を見せる。雨に降られることでそこに色艶が生まれたり、人がにぎやかに靴音を響かせたり、活動の場としてのストリートになったりする。

 歌詞では、アスファルトは雨とセットになることが少なくない。

 雨とアスファルトの親和性は、タイトルに「雨」を含み、歌詞に〈アスファルト〉を含むものが五〇曲近くもあることからわかる。また、雨とアスファルトは、夜と結びつくことで、一層劇的な効果を生む。稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」(作詞、秋元康、一九八二年)は雨の夜を歌っている。〈光るアスファルト〉とあるのは、クルマのヘッドライトで濡れた路面である。舗装自体は単調なものだが、それが濡れ、光が反射すると、いろんなドラマを演じる舞台になる。

 Jポップでは、雨上がりには空を見上げたり、そこに虹を見たりするのが定番だが、雨上がりの道を歩くこともよくある。アスファルトで舗装されていれば、まだ濡れた路面が光っていたり、特有の匂いが強くするはずだ。〈雨上がり アスファルトの匂い〉(SMAP「ユーモアしちゃうよ」作詞、権八成裕)など、雨上がりのアスファルトの匂いを歌ったものがいくつもある。

 アスファルトに降る雨にも、いろんな顔がある。雨の降り始め、土砂降り、雨上がりなど様々だ。レミオロメンの「粉雪」(作詞、藤巻亮太、二〇〇五年)は変則的だ。この場合は雨ではなく雪である。

 〈粉雪 ねえ 永遠を前にあまりに脆く/ざらつくアスファルトの上シミになってゆくよ〉

 降りだしたばかりの細かい雪は、道路に落ちるとすぐに溶けて、濡れたシミになってしまう。降り積もることなく消えていく。溶けたシミもすぐ乾いて消えてしまうだろう。粉雪ははかないものの象徴だ。〈ざらつくアスファルト〉と〈粉雪〉の対比は、引用した前半部分に対応している。つまり〈永遠〉と〈あまりに脆〉いものである。この歌は難病の少女を主人公にしたテレビドラマの挿入歌であり、〈粉雪〉は夭逝した少女を思わせる。〈ざらつくアスファルト〉は何があろうとびくともしないもの、人事とは無関係に無慈悲に存在するもののことだ。

 アスファルト道路を人の暮らしとの関係でとらえた歌に尾崎豊のものがある。尾崎が遺した歌は七一曲だが、そのうち歌詞にアスファルトが含まれるものは五曲ある。

 

アスファルトに耳をあて 雑踏の下埋もれてる歌を見つけ出したい……「街の風景」

アスファルトの道端に うずくまり黄昏の影に手を伸ばし何か求めてた……「はじまりさえ歌えない」

アスファルトを抱きしめて ぬくもりを失くしていた……「彼」

・朝日はアスファルトに寝ころぶ俺をつつきながら……「RED SHOES STORY」

 

 以上の四曲は、アスファルトに耳をあてたり、そこにうずくまったり、寝ころんだり、あるいはそれを抱きしめたりして密接にふれあっている。たんに通過するための道路としての機能とは違うものをそこに見出している。以上四曲に加え、もう一曲「COLD WIND」には、〈暮らしは路上にたわむれ 石の中うめこまれてる/アスファルトのキラキラを 追いかけてゆく午前0時〉とあり、これも歌詞どおりストリート系の歌だ。アスファルトの舗装は本来、クルマの走行のためにある。人が歩く際にも泥や砂といった汚れやホコリを防いでくれるからありがたいものではあるが、それだけのための舗装としては過剰である。アスファルトは人を拒絶するかのごとき固く頑丈な物質であるが、都会の街が居場所だった尾崎は、都会を構成する一部であるアスファルトが、そこに寝ころぶのが気にならないほど好きだったのである。そこにはどこか倒錯した感じがあるが、同時にそれは、高層ビルの上から見る視線ではなく、道路にはいつくばった下からの視線ともなっていて興味深い。道路にはいろんな汚れがこびりついているが、その汚れを体に擦り付けることによって底辺的なるものと一体化する。

 「街の風景」にある〈アスファルトに耳をあて/雑踏の下埋もれてる歌を見つけ出したい〉という歌詞は、実は酔っ払って道路に寝転がったときのことを歌っているというが、アスファルトによって覆われたその下には、表面からは見えないものが隠されているというのである。アスファルトは地面を平らにならし、舗装という均一で厚い蓋をし、多様なものを覆って見えなくしてしまう。アスファルトを剥がすことはできない。だから、まずは耳をあてて、その下に眠るものを探す。これは先の岡本真夜の歌に通じている。岡本の歌では、花は人間の可能性で、アスファルトはそれを抑圧するものの比喩である。

 

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 アスファルト舗装は道路に用いられ、舗装で覆い尽くされた場所として都会を連想させるが、高度成長以降は、田舎の砂利道も軒並みアスファルト舗装されるようになった。アスファルトよりもっと都会をイメージさせるのはコンクリートである。コンクリートも道路舗装に使われるが、それよりもあらゆる建造物の基礎であり床であり壁面であり天井である。都会はコンクリートに囲まれた場所で、鉄とコンクリートでできた巨大な高層ビル群が都会の象徴だ。コンクリートの構造物は巨大で、人間に対してどこかよそよそしい。人は自分たちが作り出した反人間的な物に囲繞されている。だから歌詞に〈コンクリート〉が出てくると、それは人間にとって親しみを欠いたものに取り囲まれているというニュアンスで語られることになる。

 〈コンクリート〉を歌詞にもつ歌で一番知られているのは、都会の恋は〈コンクリートの篭の中〉と歌う「セーラー服と機関銃」であろう。タイトルに「機関銃」といういかつい言葉を含んでいるので、歌詞に〈コンクリート〉という硬い言葉が入っていても抵抗はない。

 ZARDの「もっと近くで君の横顔見ていたい」(作詞、坂井泉水、二〇〇三年)という歌には、〈コンクリートの壁 枯葉散る夕暮れ二人歩こうよ〉という歌詞がある。過去は甘やかで、現在は淋しさせつなさに覆われている。そのとき〈コンクリートの壁〉というそっけないものが、強固な障壁として塞がれた思いの比喩になっている。〈枯葉散る夕暮れ〉だけだとロマンチックで甘すぎるが、傍らに〈コンクリートの壁〉という無機物を置くことで対比が生まれ、現代の街の絵になる。それはこの上ない淋しい心象風景にもなっている。

 ところで、歌詞にコンクリートの語が使われる場合、コンクリートジャングルと言われるケースがとても多い。コンクリートジャングルというのは、高層ビルが林立する都会をさす常套句である。某ヒップホップグループなど4曲で〈コンクリートジャングル〉と言っている。ラップは即興性が高いが、そうするとどうしても常套句で語ってしまうのだろう。

 だが、都会は本当にコンクリートジャングルと呼ぶにふさわしいだろうか。ジャングルというのは熱帯の密林で、その中は枝葉が生い茂りうっそうと暗くなった森である。だが都会のビル群は、いわば枝葉がなく幹だけである。間伐されてすっきりした林である。十分離れたところからの視点では、ジャングルというほどでもない。ただ、ビル群の足元にあって地上から見上げる視点では、ビルに切り取られた狭くなった空が、ジャングルの森の中で見上げた空に類比して見えなくもない。また、地下や半地下のような場所では、天地四方がコンクリートに覆われてしまうので、これもわずかな木漏れ日だけの薄暗い密林の代わりになっているといっていいかもしれない。

 コンクリートジャングルという言葉は皮肉めいているが、その皮肉は、人間の設計思想に支配され自在の形状を作ることができるコンクリートの集合である都会が、人の手がほとんど加えられず樹木が繁茂し多様な生命が横溢する自然であるジャングルとして見立てられていることにある。自然とかけ離れたものが自然が横溢するものと対比される。人間が造った建造物も、その広がりにおいては様々なものが錯綜して入り乱れ全体としてのまとまりを欠くことになる。全体を見渡す鳥瞰的な視点においても、ごみごみしてジャングルのようではある。

 ジャングルという空間性が意識されることで、たんにコンクリートのビル群というだけでは滑り落ちてしまう、生を営む場としての空間意識が含意される。多様な生物が生存鏡を繰り広げる舞台で、自分もたくましくサバイブしていると言うことができる。

 〈文字通りの コンクリートジャングルで(中略)君と僕は 生き抜こう〉(浜崎あゆみ「Survivor」作詞、ayumi hamasaki

 もう一つ重要なのは、コンクリートジャングルを意識させる構成物はコンクリートだけではないということだ。見知らぬ無数の人間たちは、密林にうごめく多様な生物のごときである。木々もまた生き物のように曲がりくねり、からみつき、幹をゆする。自分とは無関係な人々の群れは、ジャングルのような濃密な生の空間を構成する。

 高層ビルが珍しい時代、それは憧れの象徴として摩天楼と呼ばれたが、摩天楼は、今ではレトロ感のある言葉になってしまった。摩天楼の集合がコンクリートジャングルである。『コンクリート・ジャングル』という六〇年代のイギリス映画がある。これは刑務所が重要な舞台になっているので、コンクリートジャングルとは刑務所のことであろう。コンクリートの寒々しさは、人間性を剥奪する刑務所にふさわしい。

 コンクリートジャングルという言い方のように、殺風景な都会の景色を自然の景観に見たてた言い方に〈ビルの谷間〉がある。これも常套的な見立てだ。道路に沿って整列したビルが山で、その間の道路が谷なのであろう。谷の部分に人やクルマが行き交う。ビルは相互に連携しあって建造されるわけではなく雑然としているが、道路という制約のもとに立地に法則性が生じて、それが自然のルールに従った地形に似てくるというわけだ。谷の部分で人々の活動があらわになっている。マクロな風景を切り取っているので、そこでうごめく人々は塵芥のように小さい。内山田洋とクール・ファイブの歌にある「東京砂漠」(作詞、吉田旺、一九七六年)というときの砂漠は不毛の地で、生命に満ちたジャングルとは対極にあるが、人間の構築物の集合を、それと正反対の別ものとして眺めてみるという発想は共通している。この歌では〈ビルの谷間の 川は流れない/人の波だけが 黒く流れて行く〉と歌われる。砂漠、谷間、川、波など、コンクリートの街を自然の景物に喩えることで、見慣れた都会の風景を普段とはずらした視点で見ることを教えている。砂漠は都会の孤独な人間関係のことである。個々が冷たく固く閉ざし、他人によそよそしい人の群れである。彼ら自身もまた人間なのにコンクリートのようなのである。コンクリートは砂や砂利をセメントで接着したものだから、コンクリートジャングルが崩壊した後に残るのは大量の砂に覆われた砂漠になる。