Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

歌がわかれば『ウルトラマン』がわかる

 日本でカラー放送が開始されたのは1960年からだが、当初はカラーテレビじたいが少なく、カラーで撮影された番組も少なかった。NHK総合テレビの全番組がカラー化されたのは1971年である(「NHK放送博物館」)。71年時点のカラーテレビ普及率は42.3%、白黒テレビは82.3%である(http://honkawa2.sakura.ne.jp/2650.html)。足して100を超えるのは、カラーテレビと白黒テレビは併置されていたからである。カラーテレビは70年代の前半に急速に普及し、普及率は9割に達する。

 それより前、1966年から67年にかけて放送された『ウルトラマン』はカラー放送で、番組制作が白黒からカラーへと変わる過渡期の作品である。66年当時のカラーテレビ普及率は0.3%にすぎないから、ほとんどの子どもは白黒でウルトラマンを見ていたことになる。カラータイマーが青から赤に色が変わっても白黒テレビでは判別できない。点滅するのは白黒テレビでも変化がわかるようにというエピソードがある。

 ウルトラシリーズを概観すると、大方の評価は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の2作品は傑作で、だいぶ落ちて『帰ってきたウルトラマン』までは大人の鑑賞に耐える、ということになるだろうか。私の視聴経験では、『ウルトラマンエース』『ウルトラマンタロウ』は幼稚すぎて、小学校低学年の当時でも見るのが苦痛で、はじめの数回しか見ていない(大人になれば大人の見方をする人もいるだろう)。『ウルトラマンレオ』は、セブンが出てくるというので見てみたが、すぐ変身できなくなるし、レオは殴る蹴るばかりではがゆい。平成のウルトラシリーズでは、『ウルトラマンガイア』と『ウルトラマンネクサス』が面白かった。『ウルトラマンメビウス』のあとは見ていない。変身シーンについては、やはりウルトラマンは文句なしだが、セブンは残念、新マンの最後の浜辺での変身は神々しささえ漂っていた。

 2022年は『シン・ウルトラマン』の映画が話題になったこともあり、NHKでもウルトラマンについて度々放送されていた。その中で、『ウルトラマン』の第1話(怪獣ベムラー)と第30話(怪獣ウー)のハイビジョンリマスター版が放送された。大人が見ても楽しめるはずだと思い、両作品を見たが、「こんな出来だったっけ?」と拍子抜けした。その主な原因は脚本にある。制作当時は、これほど繰り返し見られることになると思っていなかったのだろうか、あるいは時間がなかったのか、あるいは子どもだから深く追求しないと思ったのか、勢いで書き流しているように思えた。細かく指摘すると切りがないので第1話から2点だけあげるにとどめる。

 

 ハヤタとウルトラマンとのファーストコンタクトで、次のような会話が交わされる。

 

ハヤタ「これは何だ」

ウルトラマン「ベータカプセル」

ハヤタ「ベータカプセル?」

ウルトラマン「困った時にこれを使うと、そうすると…」

ハヤタ「そうするとどうなる」

ウルトラマン「フッハハハ。心配することはない」

 

 心配しなくていいと言われても、宇宙人からわけのわからないものを渡されて使い道も効果もわからないのに、それは無理だろう。「困った時にこれを使」えと言われても、どのように「困った時」なのかわからない。電車に乗り遅れそうになったとか、タクシーで財布を忘れたとか、いろんな「困った時」がある。それなのにハヤタは、怪獣に襲われたときカプセルをかざすという正しい使い方をする。いずれにせよ「フッハハハ。心配することはない」と答えるウルトラマンはどこか楽しんでいるかのようだ。

 ヒーローが変身するというのは、今ではすっかり当たり前のことになっているが、当時は新鮮な驚きだったのではないか。それまでの日本のヒーローといえば、鞍馬天狗月光仮面も変装した姿で現場に駆けつけたのだった。

 アメコミでも、スパイダーマンバットマンも人に知られないところで着替えてから登場したので、変身したわけではない。スーパーマンはワイシャツの下にスーツを着込んでおり、眼鏡とネクタイをはずし、シャツの胸を開くとその下に「S」のマークが見えるのである。『ウルトラマン』も第1話を見ると、科特隊が基地から出動するとき、青いブレザーの下にオレンジ色の隊員服を着込んでいることがわかる。スラックスの裾からチャックをあげると、隊員服が出てくるのである。私たちも小学生のとき水泳があると事前に海水パンツを履いていったのと同じである。

 ちょっと違うのはハルクで、これは感情が高ぶると緑色の巨大な怪物に変身する。日本の漫画では手塚治虫の『ビッグX』が薬を飲むと巨大化する。ハルクは1962年、『ビッグX』は1963年の初出である。同じ1963年には『8マン』という漫画があった。これはロボットだが、人工皮膚を持っていて、どんな顔にも変身できる。怪人二十面相とか、多羅尾伴内七色仮面の流れである。薬を飲むと変身するのは『ジキル博士とハイド氏』である。

 ウルトラマンがこれらと違うのは、同一人物が変身するのではないということだ。変身する前と後とでは別個体に置き換わっている。ハヤタの体が大きくなってウルトラマンになるのではない。ハヤタとウルトラマンは入れ替わっているのである。『シン・ウルトラマン』では、この点を深堀りしていて、ベータカプセルを起動することによって、別次元にあるウルトラマンの身体を呼び寄せているということになっている(たぶん)。

 会話をもう一度引用すると、

 

ウルトラマン「困った時にこれを使うと、そうすると…」

ハヤタ「そうするとどうなる」

ウルトラマン「フッハハハ。心配することはない」

 

 ウルトラマンにはこのとき、まだ「変身」という概念がなかったのかもしれない。それで「そうすると…」と口ごもったのかもしれない。変身するときに「変身!」と叫ぶのは仮面ライダー2号からで、ウルトラシリーズでは何も言わないでポーズを取るだけか、あるいは「デュワッ」と叫んだり、「タロウ」「レオ」「エイティ」など名前を呼ぶだけである。

 ところで、ウルトラマンがハヤタに、「困った時にこれを使」うように指示するということは、ハヤタには自由意志が残されているということである。ハヤタはウルトラマンと一心同体になったが、それまでのハヤタの肉体や精神は継続して存在している。だが、最終回でウルトラマンとハヤタが分離すると、ハヤタには記憶がなくなっている。「僕は竜ヶ森で衝突して・・・衝突して今までどうなっていたのかな」ときょとんとしている。ハヤタの精神はウルトラマンに乗っ取られていたのだろうか。それとも記憶だけ消されたのか。物語の中では、ハヤタの人格がどこまでウルトラマンと融合していたのか、自律していたのか不明である。

 

 ウルトラマン』第1話の脚本で気になったところをもう一点掲げる。

 ハヤタは肝心なところで「そんなこと」と言って話を逸らす。

 行方不明になったハヤタを科特隊のみんなが探しているとき、不意に連絡が入りアキコ隊員がそれを受ける。

 

アキコ「ハヤタ隊員! 一体どこにいるの? あなたのことをみんなが探しているのよ」

ハヤタ「そんなことはどうでもいい。それより特殊潜航艇S16号を竜ケ森のYマークの地点まで運んでほしいんだよ」

 

 その後、ムラマツ隊長と話をして、どうして助かったのかと詮索されたときの会話はこうだ。

 

ムラマツ「ゆうべは一体なにが起こったのだ。ビートルからどうやって助かったのだ」

ハヤタ「彼が助けてくれたんですよ」

ムラマツ「彼? 彼って誰だ」

ハヤタ「キャップ、そんなことより、まずベムラーをやっつけるのが先です」

 

 ムラマツとしては疑問で頭がいっぱいだ。しかしハヤタは、そんなことはどうでもいいと一蹴する。隊長としても、怪獣を前にしては一隊員の不審な行動にかまっていられないから、それ以上ハヤタの詮索はやめてしまう。物語としても、枝葉のことは気にせず話をどんどん進めていきたいときに、疑問をスキップさせる「そんなことより」という「うっちゃり語」を使うのが便利なのだ。

 ハヤタが乗った潜航艇は、このあと怪獣によって地上に放り出され、光線を浴びて炎上する。(このときハヤタはヘルメットをかぶっていたにもかかわらず、額に一条の血を流していた。何のためのヘルメットか。)ハヤタはウルトラマンに変身して怪獣を倒し、人間に戻って科特隊の隊員たちと再会する。

 

アラシ「ハヤタ、大丈夫か」

ハヤタ「五体ピンピンだよ」

イデ「ハヤタ、君は本当のハヤタなのかい?」

ハヤタ「本当も嘘もない。実物はたったひとつだよ。キャップ、ところでベムラーはどうなりました?」

ムラマツ「うん、宇宙人が追っ払ってくれたよ」

ハヤタ「やっぱり彼が出てきましたか。僕もそうじゃないかと思って安心してたんですよ」

アキコ「すると、あなたを助けてくれたのも・・・」

ハヤタ「彼だ」

(中略)

ムラマツ「君は全く悪運の強い男だよ」

ハヤタ「僕は不死身ですよ、キャップ」

 

 こうした会話で、ハヤタは自分がウルトラマンであることをみんなに隠したままにする。自分とは別にウルトラマンが出てきたかのように装っている。だが、この時点ではまだ、自分がウルトラマンであることを、それほど強い秘密事項にするつもりはなかったのではないだろうか。誰がウルトラマンなのかということは、この時点では焦点にはなっていないが、自分とウルトラマンとの関係を曖昧にする巧妙な会話になっている。私には、初めに言い出せなかったことがずっと秘密になってしまったような気がしないでもない。

 ハヤタはどうして自分がウルトラマンに変身したことを隠そうとしたのか。どこまで徹底的に隠すつもりがあったのか。この先、何度も怪獣と戦ううちに、ウルトラマンとハヤタはなにか関係がありそうだと誰でも気づくはずであるが、科特隊は鈍感なのか、誰も疑問に思わない。そんなことにも気づいてもらえなほど、ハヤタの人間としての存在は希薄なのだ。物語の中でのハヤタの役割はウルトラマンが出現するまでの過渡的なもので、人間性は薄いのである。最終回でハヤタは、今まで自分は何をやっていたのかと首をひねるが、その乗っ取られ感と、主人公であるにも関わらずハヤタ自身の魅力のなさとは、ある意味一致していて整合性がある。これが『ウルトラセブン』になると、最終回でダンはその正体をアンヌに明かし、どこかメロドラマっぽい別れになる。BGMもクラッシクが使われ、悲壮さが盛り上げられる。

 ヒーローはその正体を隠すのか隠さないのか。隠すとしたら、「善きこと」をしているのになぜ隠すのか。その議論は本稿の趣旨とはズレるので、ここでは措く。

 

 では『ウルトラマン』の主題歌「ウルトラマンの歌」の歌詞を見ていこう。

 作詞は東京一(あずまきょういち)で、円谷一つぶらやはじめ)のペンネームである。円谷一は、円谷プロの創業者、円谷英二の長男で、TBSテレビを経て、父の死後、円谷プロの社長になっている。ウルトラシリーズでは『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』で何本か監督をつとめている。作詞家としては、他のウルトラシリーズや『ミラーマン』『ファイヤーマン』など円谷プロが製作した作品の作詞をしている。

 

ウルトラマンの歌」(作詞、東京一)

 

  胸につけてる マークは流星
  自慢のジェットで 敵をうつ
  光の国から ぼくらのために
  来たぞ 我等のウルトラマン

  手にしたカプセル ピカリと光り
  百万ワットの 輝きだ
  光の国から 正義のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

  手にしたガンが ビュビュンとうなる
  怪獣退治の 専門家
  光の国から 地球のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

 

 歌はフルサイズでは3番まであるが、テレビのオープニングで流れるのは2番までである。「ウルトラマンの歌」とはいうものの、〈胸につけてる マークは流星/自慢のジェットで 敵をうつ〉とか、〈手にしたガンが ビュビュンとうなる/怪獣退治の 専門家〉というのは科特隊のことで、科特隊の歌といってもいいくらいである(「特捜隊の歌」は別に作られている)。聞き手の子どもたちは、露払いの科特隊のことよりも、ウルトラマンについて歌ってほしかったのではないか。

 1番で〈自慢のジェットで 敵をうつ〉と科特隊が出てくるのはいいとしても、2番で〈手にしたカプセル〉でウルトラマンに変身したのだから、3番ではスペシウム光線などの必殺技でやっつけてほしいところである。そういう順番なら、ドラマの展開に沿ったスムーズな流れになる。ところが、3番の歌詞では〈手にしたガン〉と科特隊のことにまた話が戻ってしまった。たしかに、科特隊の活躍は馬鹿にならず、ジェロニモケムラーゼットンなど、科特隊の銃やバズーカで倒した怪獣もある。ビートルによる攻撃ではなく、手で携行する兵器でたおすところが科特隊ならではだ。とはいえ、科特隊が戦いの決着をつけるのはやはり例外的だ。歌では科特隊の秘密兵器のことはもういいから、ここは主役のウルトラマンの必殺技を話題にして欲しかった。例えば、〈手にしたガンが ビュビュンとうなる〉ではなく、〈光の光線ビュビューッとうなる〉とでもしておけば、〈怪獣退治の専門家〉がウルトラマンのこととしてスムースにつながるのである。

 以下、歌詞を順に細かく見ていこう。

 

〈胸につけてる マークは流星〉

 たしかに隊員服の左胸には流星のマークがついている。だがそれは、たんなるマークではなく、ピンバッジの形をした小型無線機であり、実用品である。

 科特隊はこの流星マークに囲まれている。隊員服には、胸のほかに、腕にもマークが縫い付けられている。また、ヘルメットの正面にも大きく描かれている。オレンジ色の隊員服は現場に行くときの服装だが、基地にいるときは青いブレザーとグレーのスラックスを着用している。このブレザーの胸には大きい流星バッジがぶら下がっており、衿にはそれよりこぶりの流星バッジがつけられている。また、ジェットビートルの主翼垂直尾翼、自動車や潜航艇、基地の外壁などにも流星マークが描かれている。小学生が自分の持ち物全部に名前を書くように、空いているスペースがあればこのマークを描いている。

 科特隊といえばオレンジの隊員服姿であるから、〈胸につけてる マークは流星〉というのも、この隊員服の小型無線機のことであろう。ただそれは、いくつもつけられたマークの中では、小さく目立たないものである。にもかかわらず、あえて〈胸〉のマークが選ばれている。同じ作詞者による「特捜隊の歌」(「科特隊の歌」ではなく「特捜隊の歌」となっている)でも、〈流星 流星 流星 胸に輝くこのマーク〉とある。場所は胸というより衿なのであるが、〈胸につけてる〉ことが重要なのである。では、〈胸につけてる〉とはどういうことか。

 胸につけるものといえば、リボンとか勲章、バッジ、ブローチ、名札、といったものである。これはその人がどういう人かを示す展示場所として胸が最適だからである。所属や階級をあきらかにしたり、見せびらかしたりするのに目につきやすい場所である。胸に飾るものは人に見てもらいたいものである。科特隊の場合、流星マークを誇らしく思っているということが伝わってくる。これは続けて〈自慢のジェットで 敵をうつ〉と言っていることとつながっている。

 科特隊は立派なすごい組織で、そこに所属している人たちもそれを誇りに思っている。科特隊が頑張っているから、それに呼び寄せられるようにウルトラマンも宇宙の彼方から来てくれた。もし科特隊がショボい組織だったら、そんな連中を誰も助けたいと思わないだろう。ウルトラマンが最初に接触した地球人は科特隊の隊員だった。しかも中でも真面目なハヤタであった。ハヤタは科特隊を代表し、科特隊は地球人を代表する。ウルトラマンはハヤタと接触し、地球人はみんな真面目で一所懸命だと思ってしまったのである。

 次に、〈マークは流星〉とあるところの流星について検討してみよう。実は『ウルトラマン』の半年前まで同じTBSで放送していたアニメ『スーパージェッター』で主人公が愛用していた乗り物の名称が流星号で、オープニングの「流星号応答せよ、流星号」というセリフは、私も真似した記憶がある。『帰ってきたウルトラマン』では主人公が乗るレーシングカーとして用意されていた車が流星号と名付けられている。のちには『流星人間ゾーン』という特撮番組もあったりして、流星というのはどこか未知なものに対するかっこよさがあるようだ。

 歌詞に〈流星〉が使われているのは『帰ってきたウルトラマン』もそうである。〈大地をとんで流星パンチ〉とある。この場合の〈流星〉は素早いという意味である。科特隊も素早く現場に駆けつける。だから流星みたいだ、という意味もあるだろう。だが、本来、流星というのは夜空で突然光っては消える得体のしれないものである。古来、不吉なものとされることが多かった。SF映画でも、宇宙からの未知の侵略者は流星となって地球にやってくる。流星は地球にもたらされる禍々しいもの、災厄の兆候である。『ウルトラマンタロウ』で〈彼方からせまりくる赤い火〉も一種の流星である。科特隊がそれをマークに取り入れているのは、地上での異常事態ではなく宇宙規模の事変に対処するということである。

 一方、『ウルトラセブン』に出てくるウルトラ警備隊のマークは横長で、青い地球を赤い円が囲み、左右に矢印が長く伸びている図案だ。私にはこれは監視する眼のように見える。続く『帰ってきたウルトラマン』のMATはウルトラ警備隊の図案を翻案したものになっている。『エース』『タロウ』のTAC、ZATのチームも赤青の色と円のイメージは継承している。何が言いたいかというと、科特隊が図案化した流星というのは危機の象徴そのものであり、対処される対象であって対処する主体ではないが、セブン以降は、対処する主体の図案になっているということだ。ウルトラ警備隊の場合は監視する眼であり、他のマークには「MAT」「TAC」「ZAT」とチームの略称が入っている。科特隊のマークは受動的、セブン以降は能動的な主体になっている。

 この流星マークは縦でも横でも使われている。科特隊の制服や隊員服では縦置きだが、ビートルの垂直尾翼や潜水艦、専用車は横置きである。『ウルトラマン』のオープニングのシルエットでも横向きに出てくる。つまりこのマークは天地の定めがなく、場合によって縦でも横でもいいというユルイものなのだ。流星がモチーフなら横向きが妥当だろうが、縦だとロケットのように見える。服では縦置きなのは来賓のリボンみたいだからだろう。いずれにしても、このマークは使用規定も決められていらず、科特隊がよく使っているけれど、本当に科特隊のための専用のマークなのか怪しいところがあると私は睨んでいる。

 ところで、ウルトラ警備隊のマークはなぜ赤で縁取られているのか。これは企画段階でレッドマンとも言われたウルトラセブンと共通点を持たせたいためであろう。ウルトラ警備隊のマークはウルトラセブンが変身するときに用いる赤い縁のウルトラアイを彷彿させもするのである。この点は『ウルトラマン』も同じである。科特隊の所有するジェットビートルは、鈍く輝く銀色の地に赤い縁取りがなされていて、これは銀色の巨人で赤い模様のウルトラマンと共通のデザイン思想に貫かれている。ビートルとウルトラマンは外見だけで仲間だとわかるのである。

 チームのマークと変身アイテムに関係が見いだされるのはウルトラマンタロウもそうである。タロウに変身するとき主人公は腕につけたバッジをはずして天にかざす。このバッジのデザインとZATのマークの雰囲気が似ている。科特隊の流星マークは、『タロウ』では昇格して変身アイテムになったのである。タロウの変身バッジは中心の円から三方に小さな円が雫のように飛び出ている。ZATのマークは中心の円から四方に小さな円が飛び出ている。これはもう同じコンセプトに基づいたものであると言っていいだろう。このタロウの変身バッジは、当初、隊員服の胸につける予定であったらしい。しかしアクションの邪魔になるので上腕に変更したという。科特隊も隊員服の胸には流星マークのバッジ、上腕には同じマークのワッペン(エンブレム、アップリケ)がついている。このエンブレムが『タロウ』では変身アイテムにまで昇格したと言えそうである。

 

〈自慢のジェットで 敵をうつ〉

 この〈ジェット〉というのはジェットビートルのことだろう。〈自慢のビートルで 敵をうつ〉としたほうが具体性があっていいと思うが、作詞したときは、まだ名称がきまっていなかったのかもしれない。2番3番でも〈カプセル〉〈ガン〉とあるだけで、固有名詞を使っていない。

 ウルトラマン』の初期のオープニングでは、〈胸につけてる〉というところで流星マークのシルエットが出て歌詞と画面がシンクロするが、続く〈自慢のジェットで〉のところでビートルのシルエットがでるかというと、そうでもない。流星マークはオープニングのタイトルバックで3回使われているが、ビートルは出てこない。『ウルトラマン』のシルエットは怪獣中心で、『セブン』『新マン』はチームと兵器が中心、『エース』は怪獣中心(しかも旧作の怪獣)になる。『タロウ』は一転して、シルエットではなく基地からメカが発進する様子を映している。子どものメカ好きを反映したものらしい。

 ウルトラ警備隊以降になると戦闘機も3種類くらい持って充実してくるが、科特隊は普段使いの戦闘機(?)としてはジェットビートルしかない。このころはまだ乗り物にまで手が回らなかったのかもしれない。

 〈自慢のジェットで 敵をうつ〉という歌詞は、意味としてはわかるが、ひっかかるのは〈自慢の〉という部分である。はたして科特隊の面々はビートルを〈自慢〉していたのだろうか。そもそも大人になると人は「自慢」ということをしなくなる。自分から得意げに何かをすることはない。無邪気に自慢をするのは子どもである。そういう意味では〈自慢のジェット〉と誇示するのは子どもっぽいしぐさであり、大人である科特隊にそぐわないといえる。

 自慢というのは、辞書には「自分のこと、自分の持ち物、自分が所属するものなどの良さを他に対して得意げに示すこと」とある(デジタル大辞泉)。逆にいえば、自分で「得意げに示」さなければ、他者にその良さをわかってもらえないということである。ということは、他と違いが際立っていないということである。あからさまに違うのであれば、わざわざ自慢しなくても他人は「すごいな」と感心してくれるであろう。ジェットビートルはどうか。ああいう航空機を持っているのは日本でも科特隊だけである。わざわざ自慢しなくても認めてもらえる。ビートルは、自慢するまでもなく、人々はそれを見ただけで褒め称えるだろう。

 ビートルを自慢する必要はない。だが、歌詞をよく見ると〈自慢のジェット〉とあって、自分が〈自慢しているジェット〉ということではない。どうも、他人から自慢しているように見えるということである。先の辞書には、「自慢」のもう一つの意味として「おはこ。転じて癖のこと」と書いてある。なるほど、こちらのニュアンスのほうで解釈できそうである。「怪獣が出た。また科特隊がいつものビートル出してきたよ」という感じである。「おはこ」とは、「その人の、よくやる動作や口癖」のことである(前掲辞書)。何かというとビートルで出るのは科特隊のおはこ、つまり自慢なのである。この意味の〈自慢〉はちょっとシニカルである。「いつものビートル出してきた」のは、自慢だからそうしているように見えるのだろう。

 歌詞を解釈するとそういうことになるが、子ども向け番組で、こういうシニカルな意味で〈自慢〉という言葉を使うとも思えない。〈自慢〉という言葉は、ちぐはぐな居心地の悪い言葉なのである。実は、この歌には他にもそういうところがある。3番の歌詞に〈怪獣退治の 専門家〉がある。〈手にしたガンが ビュビュンとうなる〉のあとに続くから、この〈怪獣退治の 専門家〉というのは科特隊のことなのだろう。学者を指すかのような響きのある〈専門家〉という言葉と、〈怪獣退治〉という子どもっぽい言葉のつながりがチグハグである。

 そもそも科特隊は〈怪獣退治の 専門家〉なのだろうか。第1話の冒頭では次のようなナレーションが入っている。

「パリに本部を置く国際科学警察機構の日本支部科学特捜隊と呼ばれる5人の隊員たちがあった。彼らは怪事件や異変を専門に捜査し、宇宙からのあらゆる侵略から地球を防衛する重大な任務をもっていた」

 このナレーションでは、警察のような「捜査」する機関なのか、それとも自衛隊のような「防衛」する組織なのかはっきりしない。特捜隊、つまり特別捜査隊というくらいだから捜査が主軸なのだろう(『シン・ウルトラマン』ではそんな感じだ)。しかし第1話の怪獣ベムラーのときは、ろくに捜査もせず攻撃している。ベムラーはただ湖から姿を現しただけなのに攻撃されている。ハヤタのビートルが墜落したのは怪獣のせいだと思ったのだろうか。実はそれはウルトラマンのしわざなのに。科特隊は捜査より攻撃に比重がある。特別捜査隊というより、特別攻撃隊といったほうがいい。だがそれでは略すと特攻隊になってしまう。

 科学特捜隊とはいうものの、たいして捜査はしない。挿入歌で「特捜隊の歌」という歌があり、特捜隊という省略方法もあったことを伺わせる。だがあまり捜査もしないので捜査の文字が入らない科特隊になったのかもしれない。

 防衛チームは、『セブン』ではウルトラ警備隊の名称だが、『新マン』ではMAT(Monster Attack Team)、『エース』はTAC(Terrible-monster Attacking Crew)、『レオ』はMAC(「Monster Attacking Crew」)と、いずれも攻撃(アタック)の文字が入る。たんに不可解なものを捜査する警察の延長ではなく、敵を定めた攻撃が主眼になる。(ちなみに『タロウ』のZATは、Zariba of All Territoryということで「全地域防衛機構」という意味らしい。「らしい」というのは「Zariba」という単語が謎だからである。この語については、以下に考察がある。http://mekago.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/zatz-eb59.html

 のちのチームに比べたら、科特隊はまだ捜査と攻撃のあいだで揺れていて、はっきり目的が定まらないチームだった。『セブン』以降は武装が充実しているが、科特隊は戦闘機といったらビートルしかなかった。どこかのんびりしていた。しかし歌は攻撃を主眼としたチームであることが述べられる。〈自慢のジェットで 敵をうつ〉〈手にしたガンが ビュビュンとうなる/怪獣退治の 専門家〉といった歌詞は、もっぱら科特隊の攻撃の威力をアピールしている。「特捜隊の歌」でも〈悪いやつらをやっつける〉〈スーパーガンでたちむかう〉とあって、捜査のことなどどこにも書かれておらず、敵をみつけてやっつけることに主軸が置かれている。

 科特隊の捜査する組織という性格は、のちの『怪奇大作戦』(1968年)のSRI(Science Research Institute、科学捜査研究所)に引き継がれているといえる。主題歌の「恐怖の町」も〈謎をおえ〉〈怪奇をあばけ〉と、謎の解明に主眼がある。『シン・ウルトラマン』の禍特対(禍威獣特設対策室)も調査分析し対策をたてる頭脳派集団で、攻撃はしない。科特隊の本来の役目である捜査の部分を受け継いでいるといえる。

 

〈光の国から ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン

 ここでは〈国〉という言い方をしているが、他のウルトラシリーズでは〈星〉となっている。

 

・はるかな星が 郷里だ(「ウルトラセブンの歌」)

・君にも見える ウルトラの星…はるかかなたに 輝く星は あれがあれが 故郷だ(「帰ってきたウルトラマン」)

・遠くかがやく 夜空の星に(「ウルトラマンエース」)

 

 なぜ〈国〉という言い方をしなくなったのだろう。私たちがよく使う意味での「国」には二つの意味がある。一つは近代国家。もう一つは地域とか故郷である。川端康成の小説『雪国』、テレビドラマの『北の国から』、ペギー葉山の歌う「南国土佐を後にして」などで使われる「国」である。「お国はどこかね」というのは出身地を尋ねている。だが、こうした意味での「国」は現在はあまり使われなくなっている。それは「国」が国家を意味するような使い方が主流になっているからだ。出身地としての「国」を使う人は明治生まれまでであろう。そうした意味での「国」は古代の行政区分で、明治時代の廃藩置県で県ができてからは、次第に馴染みのない言い方になっていく。

 〈光の国から〉というとき、それは出身地を表している。しかし述べてきたように、そこにはどこか古くさいイメージも随伴していた。「ウルトラセブンの歌」や「帰ってきたウルトラマン」の〈星〉は〈故郷〉とセットであるから、この〈星〉は出身地という意味での〈国〉の言い換えであることがわかる。

 この〈光の国〉という言い方はイメージをふくらませる力があったようで、多くのウルトラマン一族が暮らす「国」として設定が整えられていった。故郷という意味での「国」が、国家という意味での「国」にずらされていったのである。

 

 次に〈ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン〉という歌詞であるが、これは大変問題が多い言い方である。そもそもウルトラマンが地球に来たのは、凶悪怪獣ベムラーを護送中に逃げられたのを追って、たまたまやってきただけである。そこでハヤタを死なせてしまったので、ハヤタと一体化し、地球に住み着いたのである。刑事モノのドラマで言えば、護送中の犯人が逃亡し民家に立てこもり、刑事が誤って発砲して家の住人を殺してしまったので、その家に住み込んで親代わりとなって子どもを育てるようなものである。

 ウルトラマンが地球に来たのは〈ぼくらのため〉ではないし、正体不明の宇宙人であるウルトラマンを勝手に〈我等の〉と持ち上げるのはおかしい。しかし『ウルトラマン』に限らず、男の子のヒーローものの主題歌にはこの〈ぼくらのため〉とか〈我等の〉といった言い回しがよく出てくるのである。

 

・無敵の力はぼくらのために(「マジンガーZ」)

・斗え 僕らのミラーマン(「ミラーマンの歌」)

・斗え ぼくらのアイアンキング(「アイアンキング」)

・超人超人ぼくらのバロムワン(「ぼくらのバロム1」)

・He came to us from a star(「ウルトラマン80」)

 

 制作者としては、ヒーローに親しみを感じてもらいたいから〈ぼくらの〉という言い方をしているのだろう。〈ぼくらの〉と言うことで活躍を応援したくなる。子どもを番組に巻き込む言葉である。

 作品に即して考えると、人間が操縦するロボットや、人間が変身するヒーローは、人間のために、〈ぼくらの〉ために動いてくれることは期待できる。しかし、ウルトラマンは宇宙人なので何を考えているかわからない。視聴者には、人間のために動いてくれる理由が知られている。だが、ハヤタを死なせた負い目というのも、気まぐれに近いものだ。

 だいたい、宇宙から来るのは侵略者ばかりである。ウルトラマンのシリーズでも、地球に来る宇宙人で侵略するつもりがないのはウルトラマンだけで、ウルトラマンは例外的な宇宙人なのである。しかも傍観者ではなく、地球のために戦ってさえくれるのである。ウルトラマンは人間に向かって言語的メッセージを発するわけではなく、たんに怪獣をやっつけて去っていくだけである。いまのところ人間に害を及ぼすわけではなく、人間に益することをやってくれているようなのであるが、その行動を意味づけるのは人間である。ウルトラマンは、他の怪獣に比べたらデザインはシンプルですっきりしていてカッコいい。カッコいいものは味方だと思われやすい。それにウルトラマンは人間に似ている。たぶん味方であろうが、断定はできない。もしかしたらウルトラマンの一族は地球を植民地化しようとしていて、その準備のために他の宇宙人を追っ払っているだけなのかもしれない。

 ウルトラマンは、よくわからない曖昧な存在なのであるが、この曖昧さを排除するために、はっきり言語化してウルトラマンの位置づけを確定してくれているのが歌詞である。〈光の国から ぼくらのために/来たぞ 我等のウルトラマン〉という解釈は、ドラマの外部にある歌によって提示されており、ドラマの見方を指示するものである。ここでは二度も〈ぼくらのために〉〈我等の〉と言っている。こうした言葉によって解釈の方向性が刷り込まれ、視聴者は迷わずにすみ、番組は見やすくなる。歌詞は、劇中でのウルトラマンの位置づけを明確にするのに役立っている。

 

 ところで、〈ぼくらのために〉ということをウルトラマンの側から言うと、自分以外の人のために、ということであり、これは利他的行動を意味している。

 

・みんなのためにみんなのために未来を開け(「勇者はマジンガー」)

・そうだ おそれないで みんなのために…いけ! みんなの夢 まもるため(「アンパンマンのマーチ」)


 ヒーローというのは、自分を捨てて、世のため人のため、みんなのために働くからヒーローなのである、ということを子どもは学んでいく、というか刷り込まれていく。悪人というのはだいたい自分のことしか考えていない。自分がよければ他の人が不幸になってもかまわない。人の財産に手をかけるのは悪いことだが、それよりももっと悪いのは自分のことしか考えない奴である。鼠小僧次郎吉みたいに金持ちから銭を盗んで庶民に再分配するのは義賊と呼ばれる。善とか悪とかは、手段や方法の問題ではない。

 

 〈来たぞ 我等のウルトラマン〉というフレーズは、のちの「帰ってきたウルトラマン」の〈帰ってきたぞ 帰ってきたぞ ウルトラマン〉というフレーズに受け継がれている。

 〈来たぞ 我等のウルトラマン〉というときの〈来たぞ〉は、どこから来たかというと〈光の国〉からである。『ウルトラマン』ではまだはっきり言われていないが、この〈光の国〉というのは地球から遠いところにある。『ウルトラセブン』以降で、ウルトラ一族は、遠いところからわざわざ地球にやって来たのだということがはっきり打ち出されていく。

 

・はるかな星が 郷里だ(「ウルトラセブンの歌」)

・君にも見える ウルトラの星/遠くはなれて 地球にひとり…はるかかなたに 輝く星は/あれがあれが 故郷だ(「帰ってきたウルトラマン」)

・遠くかがやく 夜空の星に/ぼくらの願いが とどく時/銀河連邦 はるかに越えて/光とともに やってくる(「ウルトラマンエース」)

・遠くの星から 来た男が/愛と勇気を 教えてくれる(「ウルトラマン80」)

 

 これらの歌に共通するのは、「遠くから来た」ということである。『シンウルトラマン』の主題歌「M87」でも、「来た」とは言わないが〈遙か空の星が ひどく輝いて見えたから〉と〈遙か〉を入れている。ウルトラマンの存在を考えるとき、遠くからわざわざ来て人間に深く関わっているということが強い意味を持っている。なぜ地球にきたのか、なぜ地球にとどまっているのか。そういったことはウルトラマンの存在にとって本質的なことなのである。

 ウルトラマンのシリーズも第5作となる『ウルトラマンタロウ』ともなると、この遠くから来たという特徴は変質して、ウルトラマンはもっと身近にいる存在になる。主題歌の作詞は阿久悠に変わり、歌詞もドラマの変化を反映したものになっている(それまで作詞をしていた円谷一は『タロウ』放送の2か月前に亡くなっている)。

 ウルトラマンタロウ」の歌詞はこうなっている。

 〈ウルトラの 父がいる/ウルトラの 母がいる/そしてタロウが ここにいる〉

 タロウは、遙か彼方からやってくるのではなく、すでに〈ここにいる〉のである。〈そしてタロウが ここにいる〉の〈そして〉は、父母がいるおかげでタロウがいるという由来を述べている。タロウは不可解な宇宙人ではなく、視聴者である子どもたちの家族と同じような家族構成をもった親しみのある隣人として存在しているかのようだ。そもそもウルトラマンに「タロウ」という和風の典型名を折衷させることは、ウルトラマンから超越性、神秘性を剥奪し、強引に世俗の中にねじりこませることに他ならない。タロウの実母ウルトラの母もまた、地球では「緑のおばさん」に身をやつして子どもたちの安全を見守っている。遠くからやってくるのは〈かなたから迫りくる 赤い火〉というように謎の侵略者のほうである。

 ウルトラマンタロウ」の2番では、〈ウルトラの 父が来た/ウルトラの 母が来た/そしてタロウが やって来た〉と、タロウも〈来た〉者であるという起源へと遡って語られている。やはりタロウは宇宙人なので、どの時点においてか地球に来なければならない。タロウは起源としては来訪神なのだが、5人目のウルトラマンともなると、その存在に驚きや神秘性はなく、身近な慣れ親しみのある神となっているのである。

 

 以上で「ウルトラマンの歌」の1番の歌詞は読み終わった。次いで、2番と3番の歌詞を概観しよう。歌詞を再掲する。

 

  手にしたカプセル ピカリと光り
  百万ワットの 輝きだ
  光の国から 正義のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

 

  手にしたガンが ビュビュンとうなる
  怪獣退治の 専門家
  光の国から 地球のために
  来たぞ 我等のウルトラマン

 

 2番と3番の歌詞は、出だしに共通の形式を持っている。〈手にしたカプセル〉〈手にしたガンが〉とあって、〈手にした〉アイテムについて語っている。そしてそれらがどうなるのかは、〈ピカリと光り〉とか〈ビュビュンとうなる〉とあるように、擬態語・擬音語で表されている。また、1番はどうだったかというと、〈胸につけてるマーク〉である。つまり出だしはどれも、身体に付属した小さなアイテムから歌詞の発想をふくらませているのである。

 

〈手にしたカプセル ピカリと光り/百万ワットの 輝きだ〉

 ハヤタが変身するときに使うアイテムは「ベーターカプセル」という。歌詞ではたんに〈カプセル〉である。これは不思議である。というのも、それは棒状のマイクロフォン、あるいは小型懐中電灯のようなものにしか見えないからだ。いわばスティックである。カプセルというのは筒状の容器のことである。容器の中には何かが入っている。あんな小さいものの中に何が入るというのだろうか。『シン・ウルトラマン』ではこの考えは発展して、「ベーターシステム」というものが封入されていることになった。ベーターシステムというのは、ウルトラマンが巨大化するときに異次元から物質を呼び寄せる装置のことらしい。あの片手に入る小さなカプセルは、たんに変身のきっかけのためだけのものではない。『シン・ウルトラマン』は、このベーターシステムを巡る物語だと言ってもいいくらいで、カプセルはSF的発想を誘発する重要なアイテムにまで昇格しているのである。

 ウルトラセブンはメガネ、ウルトラマンエースとレオは指輪、タロウはバッジで変身する。指輪というのは魔法物語によく登場するし、タロウの変身バッジのデザインは魔法陣に似ている。魔法陣というのは、悪魔を呼び出すときに描く図像である。いずれも、変身にあたって何か実のある役割を受け持っているというより、たんなる呪術的記号になっている。仮面ライダーは風車のついた変身ベルトをしているが、それは風力エネルギーを変身のためのエネルギーに転換しているからである。もちろんそんな理屈は滑稽だが、変身というスペクタクルを本当らしく見せるギミックとして重要なのである。一方、指輪とかバッジで変身するというのはいかにも魔術的である。それに比べ、ウルトラマンのベーターカプセルが、ベータースティック=魔法の杖ではなく、超科学的な何かが詰まっている容器=カプセルとして設定されていることは重要である。

 そのカプセルが、〈ピカリと光り/百万ワットの 輝きだ〉という。〈ピカリと光り〉というが、〈光り〉の語源は擬態語の〈ピカリ〉なので重言的である。また、その〈輝き〉が〈百万ワット〉だと説明したり、ウルトラマンの故郷も〈光の国〉だったりと、光ることが重ねられた歌詞になっている。

 〈ピカリ〉にもう少しこだわってみたい。〈ピカリ〉というのは、私の感覚だと豆電球が灯るようなかわいい光が〈ピカリ〉である。ウルトラマンが変身するときの莫大なエネルギーが瞬時に消費された感じではない。辞書的には、〈ピカリ〉には、消費電力の大きさの意味は見当たらない。その継続性のみが問題にされている。つまり、その光が強烈であるかどうかは関係なく、一瞬だけ光るのが〈ピカリ〉なのである。稲妻もピカリである。『擬音語・擬態語辞典』では、「ピカリ」は名詞として広島・長崎に投下された原爆をさすとも紹介している。井伏鱒二『黒い雨』には、「ピカリの閃光を見て数秒後に」とある。ピカドンという言い方のほうがよく知られているが、これもピカである。私が〈ピカリ〉に可愛らしさを感じるのは、接尾辞〈リ〉の響きがこじんまりした感じをだしていることと、〈ピ〉という半濁音にある。瞬間的な強烈な明るさを擬態語で表現するなら「ビカッ」となるだろう。だが、この歌が書かれたのは戦後まだ20年しか経っていないころである。当時はまだ原爆の強い光を「ピカリ」と表現する語感が残っていたのだろう。

 ところで〈手にしたカプセル ピカリと光り/百万ワットの 輝きだ〉とあるが、実際の変身シーンを見ると、〈手にしたカプセル ピカリと光り〉と〈百万ワットの 輝きだ〉は切り離して解釈したほうがいいと思える。というのも、変身するときにカプセルの先端部分は一瞬光るので〈手にしたカプセル ピカリと光り〉というのはいいとして(まさにピカリと小さく光る)、ウルトラマンがこぶしを突き上げて巨大化する場面は、赤いバックにフラッシュが何度も明滅するのであり、これは〈百万ワットの 輝き〉ではあっても、〈ピカリ〉という一瞬の光りとは言い難い。つまり〈百万ワットの 輝きだ〉は、〈手にしたカプセル ピカリと光り〉を説明しているのではなく、〈手にしたカプセル ピカリと光り〉、その後に〈百万ワットの 輝き〉をともなってウルトラマンに変身するという継起する2段階の状態を描写していると考えたほうがいいと思うのである。