女が歌う男の「生き方」
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感傷的な歌詞の中にふと〈生き方〉という言葉が挟まれると、そこだけすっと背筋が伸びた感じになる。歌詞が引き締まる。〈生き方〉という言葉が、文脈からはずれて不意に出てきたときは軽い驚きを生む。私にとってそういう感じにさせる歌は二つある。
1-1
一つは荒井由実「卒業写真」(作詞、荒井由実、一九七五年)である。
卒業して何年かたって町で〈あの人〉を見かけたが、卒業写真と変わらなかった。一方、私は〈人ごみに流されて 変わって〉しまった、という歌である。「変わる私」と「変わらないあなた」が対比されている。
この歌は何人にもカバーされているが、それはよくわかる。歌詞が優れている。例えば二番で、〈話しかけるように ゆれる柳の下を 通った道〉とある。この表現じたい面白いが、普通なら思い出を記す一場面に使うところを、この歌はそれを、〈今はもう 電車から見るだけ〉というひねりを加えるのである。これによって過去を懐かしむかにみえて実はそれを語る現在に問題があることがわかる。現在は、電車を途中下車して昔の道を歩いてみる余裕もないくらい忙しい生活なのである。
この歌では、過去は薄い膜を隔てた向こう側にあるように描かれる。卒業アルバムの〈皮の表紙〉を開いた向こう側にかつての〈あなた〉は存在する。学校へと通った道は、今は〈電車から見るだけ〉。電車の窓を額縁として、その向こうにかつての風景が存在する。そしてそれらは、今も、当時と変わらぬものとして存在し続け、私の心の支えになっている。
もちろん、実際は年月が経過したぶん変わっているはずだ。遠くから見るだけではそれに気づかない。町で〈あなた〉を見かけたとき、話しかけるのを躊躇したという。その理由は、変わってしまった〈私〉を見せたくなかったからのようである。だが、本当は、近くに寄って話しかけることで、〈あなた〉も変わってしまっていることを知りたくなかったということもあるだろう。遠くから見て、〈あなた〉はあの頃のままだとずっと思っていたかったから、足が向かなかったのではないか。(だから〈私〉は、同窓会の通知がきてもただちに破り捨てるべきだろう。同窓会は、量子力学における観測問題のコペンハーゲン解釈が正しいことを納得させられる残酷な機会だ。)
「過去は薄い膜を隔てた向こう側にある」というのは、過去と現在が二層構造になっていると言い換えることができる。卒業アルバムのなかの〈あなた〉と現実の世界で生活している〈あなた〉。〈柳の下〉を歩いていた過去の自分はその景色を内側から見ていたが、今はその景色を外側から見ている。卒業写真を見るのも、街で〈あなた〉を見かけるのも、電車の窓から柳の道を見るのも、すべて「見る」という行為によって成り立っている。〈私〉は「見る」以上のはたらきかけをしない。〈町でみかけたとき〉に〈あなた〉に話しかけたりしない。〈私〉は「見る人」なのである。「見る」だけでは何も変わらない。対象に知られずに「見る」ことで、対象を変化させない。だから過去と現在の二層は、隔てられたまま保持され続ける。
〈あなた〉は〈私〉の中の変わってはいけない部分を対象化したもので、〈私〉の想像である。〈私〉が変わるのはリアルの中で生きているからで、〈あなた〉が変わらないのは〈私〉の一方的な想像の産物だからである。〈あなた〉は現実存在としての〈あなた〉と、想像の産物としての〈あなた〉と二種類存在することになる。〈私〉にとって変化しない〈あなた〉は、自分の一貫性を支える重要な一部だ。〈私〉は変化している。だから変化してはならない不動のものを保持しておかなければならない。〈私〉が〈あなた〉に話しかけてはならないのは、話しかけたとたんに想像の〈あなた〉は消失し、それによって現在の〈私〉の存在も危うくなるからだ。想像の〈あなた〉はいわば過去の〈あなた〉であり、タイムトラベルのパラドックスを生じさせないため過去に干渉してはならないのである。
〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉という。これが「上から目線」に感じるのは、〈私〉が視線の持ち主であり、〈あなた〉が価値づけされる対象だからである。ここには従来の男女関係における主体の逆転がある(〈あなた〉が男だとした場合)。自分は変わっているのに人に変わるなというのは随分勝手な言い草のように思えるが、想像の中の〈あなた〉であるので、これは〈私〉の中の変わらない部分を確保しておきたいということである。〈人ごみに流されて 変わってゆく私を/あなたはときどき 遠くでしかって〉とあるのは、内面化した〈あなた〉であり、超自我のように働くのである。
ここで〈生き方〉という言葉が出てくるが、〈生き方〉というのは、その人の生きてきた過程を対象化したときに、ある程度明確に取り出せる指針があるときに言えるもので、それはある程度長いスパンをもって持続するものとされるはずだが、年若い学生に、それとして示すことができるような〈生き方〉があるのかという疑問を感じる(学生であっても、ちょっとした仕草や言葉の端々に神秘的な深いものを漂わせる人がいないわけではないけれど)。にもかかわらず〈生き方〉と言ってみせるのは、当時より年齢を重ねた私自身の〈生き方〉が問題になっているからである。私自身の〈生き方〉を測ろうとしているので、定点として〈あなた〉が呼び出されるのである。
ところで、学生時代の〈私〉と〈あなた〉の関係がどういうものだったのかという根本のところが歌詞には書かれていない。〈あなた〉は恋人だったのか友人だったのかはわからない。〈あなた〉が男性なのか女性なのかすらわからない。〈あなた〉の〈生き方〉を理解しているくらいだから親密ではあったのだろう。だが、〈町でみかけたとき 何も言えなかった〉とあるので、卒業して関係が途絶えてしまっているようだ。何かの区切りを契機に関係が断絶し、修復しにくくなるのは友人関係より恋愛関係にありがちだ。だから、〈私〉と〈あなた〉はいわゆる「友達以上、恋人未満」という微妙な感じだったのかもしれない。
1-2
街で見かけた〈あなた〉は学生時代と変わっていなかった。外見が同じに見えたということだろう。外見が同じだったので、〈あなた〉は当時と〈生き方〉も変わってないだろうと〈私〉は推測する。
〈あの頃の生き方〉とはどういう〈生き方〉なのか。参考になるのは、同じ荒井由実が作詞した「『いちご白書』をもう一度」(一九七五年)である。学生運動の時代を回顧した歌で、〈就職が決まって 髪を切ってきた時/もう若くないさと 君にいいわけしたね〉とある。これは要するに卒業を待たずに変わってしまった〈あなた〉である。
〈就職が決まって 髪を切ってきた時〉というのは順番がおかしいといわれることがある。就職が決まる前の就職活動のさいに髪を切らなかったのかというのである。〈就職が決まって〉というのは、運動を継続するのではなく、就職することに方針を決め、就職活動を始めるために髪を切ったというふうに解釈すればいいだろう。
いずれにせよこれはヘアスタイルの問題ではなくて、精神のあり方の問題である。学生の自由と社会の現実のどちらを選択するかというときに、お金に支配された生き方を選び、自由を〈切ってきた〉ということである。青年から大人への変化である。〈生き方〉の変化を〈髪を切〉るという外見によって表現している。「卒業写真」の〈あの人〉とは対照的だ。〈あの人〉はおそらく、外見は学生時代と変わらない長髪のままだろう。
2-1
甘えた調子の歌詞の中に不意に〈生き方〉という言葉が出てきて驚く歌のもう一つは松田聖子の「赤いスイートピー」(作詞、松本隆、一九八二年)である。
内容を見るまえに、この歌がなぜ可愛らしく聞こえるかということを歌詞の観点からみておこう。
一番の歌詞の前半には促音(っ)が多い。
〈乗って、行って、そっと、知りあった、あなたって〉
また、この部分は〈て〉も重ねられる。
〈乗って、連れて、行って、過ぎて、あなたって〉
これらが集中する冒頭部分の〈春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ〉というところは舌足らずな感じがして、女性特有の甘えたふりがとてもよく出ている。いうまでもなく〈春色の汽車〉という出だしからして少女マンガ的空想の世界への誘いが企てられている。電車という現実的な乗り物ですらない。
また、〈何故~〉という小さな謎をつくることで、語られていることが平明であるゆえの飽きられやすさを、形式的なものではあれ深みを加えている。
〈何故知りあった日から半年過ぎても/あなたって手も握らない〉
〈何故あなたが時計をチラッとみるたび/泣きそうな気分になるの〉
好きな相手とのことは、どうということでなくても大げさに考えてしまうものである。それを〈何故〉という言葉による浮力で表現している。
2-2
「赤いスイートピー」に出てくる男性は、つきあって半年たっても手を握らないとか、気が弱いとか、一緒にいるのに時計をチラチラ見るとか、さんざんな言われようをされている。にもかかわらず〈素敵な人〉なのでついていきたいと言う。どこが〈素敵〉なのかは歌詞からは伺えない。
男性は〈煙草の匂いのシャツ〉を着ている。煙草をよく吸っているせいで、匂いが染み付いているのである。これはいろんな意味を含意しているが、そのうちの一つは、この人は十分な大人の男であるということである。そういう大人なのに、半年たっても手を握らないほどシャイであるというギャップが、ここで表現されている。
女性の方は男とは反対に、性的に活動的であることを匂わせている。手も握ったことがない相手をそれほど好きだと言ってしまうのは、惚れやすいタイプの女性なのである。〈今日まで 逢った誰より〉好きだと比較して言っていることにもそれは表れている。
〈今日まで 逢った誰より〉というのは控えめな表現だが、今までつきあってきた何人もの男たちより、ということである。これまではプレイボーイ風の男にひっかかってしまったけれど、今度の相手は逆に〈ちょっぴり気が弱い〉おとなしいタイプなので、そこがいいということかもしれない。〈手も握らない〉慎重さで私のことを大事にしてくれそうだ。今までの男は従わされるだけだったが、この人は自分からついていきたいと思えるタイプなのだ。〈I will follow you〉が繰り返されるが、それは自分が主体性を発揮できそうな相手(尻に敷けそう)だからでもある。もし今回のお相手が、初めてつきあう男性だったとすれば、ものたりなくてその後の発展はなかったかもしれない。異なるタイプとの交際を経たあとだったから、今回の男性の良さがわかったのである。
〈あなたの生き方が好き〉と〈生き方〉が出てくるが、この〈生き方〉がどういう〈生き方〉なのか、歌詞から具体的にはわからない。女性に対して積極的ではなく、リードしてくれそうなタイプではない。だが、この女性は〈海に連れて行ってよ〉とか〈このまま帰れない〉とか、自分のやりたいことはわりとはっきりしているので、リードしてくれる相手は必要ない。
女性は、この男性のどこがよかったのか。顔が好きとか、私に優しくしてくれるから好きだとかではない。そういうルッキズム(外見主義)や浅薄な優しさにひっかかるのは懲りているのであろう。〈生き方〉というその人自身で自律したあり方が好きなのだ。そういう芯があるように見えるから、何だかはっきりしない人だけれどついていくことができるのである。この男性の〈生き方〉はおそらく「不器用な生き方」ということであろう。不器用といえば高倉健である。そこまで渋くはなくても、チャラついた感じはなさそうである。
〈あなたの生き方が好き〉というのは最大の褒め言葉である。ほとんどの人は、お金もないし顔もよくないし、生き方も定まっていない。このうち〈生き方〉は計量できないし、外見から簡単に判断もできない曖昧なものである。誰に向けても言うことができる万能の言葉である。この歌を聞く世の男性たちは、この言葉を自分に当てはめてみるだろう。聞き手の自尊心をくすぐるリップサービスにもなっている。
2-3
「赤いスイートピー」では、海に行きたいと女性が言うのだが、それは電車で日帰りで行って帰ってこれるような近場の鄙びた海辺の町のようだ。クルマで行くのではないところに男性の社会的地位が垣間見える。男性はステイタスを誇示するような自分のクルマを持っているわけではない。そもそも運転免許がないのかもしれない。レンタカーを借りるわけでもないからだ。男性は〈気が弱い〉ので、都会で強欲を発揮してのしあがっていくタイプではない。まわりに女の影もチラつかない。そういう方面の心配はしなくてよさそうだ。
海辺の駅は〈他に人影もなく〉閑散としており、線路の脇に花が咲いていたりと長閑である。〈春色の汽車〉が運行するような〈線路の脇〉には〈赤いスイートピー〉がある。松本隆の手にかかると退屈な田舎の風景がキラキラしたものに変わる。「田舎ファンタジー」である。
なぜ海に来たのかというと、半年たっても進展がないので場所を変えてみたということだろう。だが、〈四月の雨に降られて 駅のベンチで二人〉とあるように、せっかく海に来たけれど、雨が降ってきたので駅から出ることができず時間をもてあましてしまった。男性の責任ではないにしても、はじめての遠出のデートなのにケチがついた。この男についていってもロクなことがなさそうであるが、それはこの男を選んだ女性が乗りこえるべき試練なのだ。
男性は時計をチラチラ見るのだが、手持ち無沙汰でなかなか時間が経ってくれない。本数が少ないので帰りの電車が来るのも時間がかかる。なんだか、海に行きたいと言い出した自分が責められているようにも女性には感じられただろう。女性としては、べつに海に来るのが目的ではない、二人で一緒にいたいだけだ。だから〈他に人影もなく〉二人でいることが際立つこの時間は祝福すべき時間なのだが、そういう気持ちは伝わらず〈泣きそうな気分になる〉。
男性をリードするタイプの女性であるが、必ずしも言いたいことを言ったりやったりしているわけではない。直接的なことは口にせず、行動にうつさず、遠回しなことをしている。〈煙草の匂いのシャツにそっと寄りそうから〉の〈そっと〉も相手に気づかれないようにという意味であるし、〈半年過ぎても あなたって手も握らない〉と言うが、女性の方から手を握るわけでもない。〈好きよ〉というのも相手に伝えたわけではないだろう。男性の方も察してはいるだろうけど、断定的な行動はとらない。お互い相手を大切にしたいから慎重なのである。
2-4
「卒業写真」のところで述べた「変わる私/変わらないあなた」は、この歌ではどうなるのか。〈生き方〉が変わるとどうなるのか。それには、同じ松本隆が作詞した「木綿のハンカチーフ」(一九七五年)が参考になる。(この項は、意図せずして一九七五年の楽曲が多くなった。)「赤いスイートピー」と「木綿のハンカチーフ」という、この二つの歌は随分歌詞の雰囲気が異なるので、発表された時期が違うように感じられるかもしれないが、「木綿~」から「赤い~」まで七年しかたっていない。
「木綿のハンカチーフ」は、田舎から都会に出ていって「変わってしまったあなた」を描いている。〈草にねころぶ あなた〉が〈見間違うような スーツ着たぼく〉に変わってしまう。〈見間違うような スーツ〉を着るようになるというのは金銭的な成功を意味し、〈ぼく〉の親なら嬉しいかもしれない。しかし田舎に残されている女性にとってそれは、男性の〈生き方〉が変わってしまったのと同じことであり、自分との距離ができることを意味する。「『いちご白書』をもう一度」で、お金に支配される生き方を選んだ人はヒッピーふうの長髪を切ってきたが、ここではビシッとしたスーツを着ることで資本主義の戦士の一員になっているのである。〈ぼく〉は〈君を忘れて 変わってく〉ことを自覚している。「木綿のハンカチーフ」では先の「卒業写真」と同じように、理想は過去にあり、現実ではそれが裏切られている。
「赤いスイートピー」と「木綿のハンカチーフ」という二つの歌は同じようなことを歌っている。
「木綿のハンカチーフ」は、列車で東へと向かうところから始まる。一方「赤いスイートピー」は、〈汽車に乗って海に連れて行ってよ〉とねだるところから始まる。電車(=列車、汽車)という人を遠くへ運ぶ乗り物によって、ここではない場所へ移動することから話が動き出す。二つの歌は、場所を変えることで人の〈生き方〉が変わるか変わらないかということを言っている。
「赤いスイートピー」は、〈海に連れて行ってよ〉と歌っているのに、歌詞には、肝心の海の描写はまったくでてこない。〈春色の汽車〉〈駅のベンチ〉〈線路の脇〉と、駅を中心とした景色にカメラが向けられる。電車が重要な意味を持っていることが暗示されている。電車は、遠くに行くための手段としてあるばかりではない。「木綿のハンカチーフ」がそうだったように、電車は人の〈生き方〉に関わっているからだ。
こう考えてくると、「赤いスイートピー」にある〈何故あなたが時計をチラッとみるたび/泣きそうな気分になるの?〉という歌詞の深い意味がわかる。「木綿のハンカチーフ」では、男は電車で都会へと旅立っていった。恋人の変化を媒介するのが長距離を移動する電車だ。遠くまでつながる電車は、都会への求心力を増加させる。「赤いスイートピー」で〈あなた〉が時計を見るのは、電車が来る時間を測っているかのようである。〈あなた〉も都会につながる電車に吸い寄せられている。女性のほうは、この何もないがゆえにお互いの存在を強く意識させる時間を〈あなた〉と一緒にもっと味わっていたいのに、〈あなた〉は何もないことに耐えられないかのように時計を気にする。せわしない都会の時間に冒されているのである。それは〈あなた〉の〈生き方〉にふさわしくない。その都会から遠ざかり、いわば転地療法としてここに連れてきたのに(連れて行ってよという真意は、〈あなた〉を連れて行きたいということである)、〈あなた〉はそれに気がつかず、早々に戻りたいという態度を示している。「赤いスイートピー」の二人は都会から離れた場所へと電車でやってきて、再び電車に乗って都会へと帰る。都会ではない場所で、女性は〈あなた〉への気持ちを確かなものに固めていく。女性はこの場所をはなれたくない。今ここで手ごたえのある反応を得ておかないと、お互いの気持ちが消失してしまいそうだ……。「木綿のハンカチーフ」を「赤いスイートピー」に代入するとこのように読めてくるのであるが、どんどん逸脱していきそうなのでこのあたりでやめておくが、もう少しだけ付け加えておく。
「赤いスイートピー」と「木綿のハンカチーフ」をつなぐアイテムがもう一つある。それは服である。「木綿のハンカチーフ」では、〈草にねころぶ〉のが似合いそうな服が、〈見間違うようなスーツ〉へと変わった。「赤いスイートピー」では〈煙草の匂いのシャツ〉を着ている。このシャツは木綿のシャツではないだろうか。〈草にねころぶ〉のが似合いそうなシャツである。草にねころんだシャツには青臭い〈匂い〉が染み付いているだろうが、それがここでは〈煙草の匂い〉にかわっている。〈煙草の匂い〉はここでは大人の男性を象徴する好ましいものとされている。女性はその匂いのシャツに付き従うように〈そっと寄りそう〉のである。服の素材としての木綿、着用した服の近縁にある草と煙草。ここでは植物への親近感が表現されている。何より、〈線路の脇〉には〈赤いスイートピー〉があるのだ。
「赤い」は「明るい」と語源を同じくする。「赤い」はもともと色の名ではなく、明度や彩度の高いことを言った。現在の用い方でも赤い色は、際立って見える。この歌で赤いこと、つまりはっきり明らかになったのは、私が〈あなた〉を好きだという気持ちである。気が弱いとか、煙草臭いということは、ネガティブな要素ではない。「だから嫌い」なのではなく、「だけど好き」なのである。これまでの、なんとなくそういう気持ちだったのが、この歌に歌われる過程で、はっきりと好きだということがわかったのである。〈線路の脇のつぼみは赤いスイートピー〉というのは、自分のそうした気持ちがはっきりした形になってきた(つぼみになった)ということである。
「木綿のハンカチーフ」では、〈半年が過ぎ〉た頃、〈都会で流行りの指輪〉を送るよ、
という。〈あなた〉が指輪を買うだけのお金を捻出できるようになったということは、一応、人並みの暮らしができるルートに乗れたということだ。お金もそうだし、都会の流行もわかるようになった。都会の生活になじんでいる。〈半年〉でそのように変わってしまったのである。一方、「赤いスイートピー」では、知りあって〈半年過ぎても〉手も握ってこないという。こちらは半年経っても、変わらぬままだ。いずれの歌でも〈半年〉というのは、人が変わるかどうかを見定める期間と考えられている。
田舎にとどまる者にとっては、〈半年〉はゆっくりとした時間であり、人の性質の変化を伴わない。そのスローぶりは、「木綿のハンカチーフ」では〈いまも素顔で くち紅もつけないままか〉と軽く揶揄され、「赤いスイートピー」では、奥手な男は〈手も握らない〉と、これも軽い揶揄が含まれている。いずれも田舎(っぽい)者における性的な達成度の遅さを、軽蔑ではないがからかっている。都会と田舎(あるいはそういうタイプの人)では流れる時間の違いが人をすれ違わせるのである。それが〈生き方〉が変化したように他の人には見えるのである。
3
私たちの多くは、自分の〈生き方〉などというものを持っていない。〈生き方〉を言葉で説明できるようなものとして持ってはいない。「あなたの生き方は何ですか?」と質問されたらたちどころに答えに窮してしまう。何か節目でもなければ、そんなことを考えることもない。おそらくこの歌の男性も、自分にそれとして取り出せるような〈生き方〉があるとは思ってもみなかっただろう。他の人から〈あなたの生き方が〉云々と言われることで、ようやく自分でもそれが〈生き方〉なんだとわかり、〈生き方〉を対象化できるようになる。〈生き方〉が発見される。〈あなたの生き方が好き〉と言われた煙草くさい男は、さぞ驚いたことだろう。
先に取り上げたいずれの歌も、女が男の〈生き方〉について口にしている。逆に、男が女の〈生き方〉を云々することはないだろう。女性は自分で〈生き方〉を決められるほど自由ではなく、男に追随しているということだろうか。
〈生き方〉には孤立した感じがつきまとう。そこには何か深い考えがあって、自分らしい〈生き方〉をしているように見える。〈あなたの生き方が好き〉と言われた男性は、周囲に同調しない「わが道を行く」タイプだったのかもしれない。男性の場合はそれはかっこよさにもつながるだろうが、女性の場合は協調性が優先されるから、仲間はずれにされたお一人様の変人のようなイメージになってしまう。そういうこともあって、女性にその〈生き方〉が「いいね」とは言いにくいのだろう。
「赤いスイートピー」における〈生き方〉は、まわりの人におもねらない、周囲に流されないで自分を持っているといった、いささか要領が悪く不器用な生き方のことを言うのだろう。一方、「卒業写真」における〈生き方〉は、学生時代というモラトリアム期間において、社会の中に位置づけられる前の自由さをその年齢集団に特有の〈生き方〉に見立て、それを〈あなた〉に代表させ、卒業後も社会の中に埋没しないあり方をよしとしたのではないか。いずれにしてもそのあり方はマジョリティに対して浮いている。しかしそれはプラスの評価をされている。聞き手は、誰もがみな順風満帆なわけではない。自分は社会の主流からちょっとずれているのではないかとどこか心配している。それを〈生き方〉として肯定的に評価してくれるところが小さな救いだ。