かぐや姫「神田川」~50年前の切断〜フォークソングの日本語
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私が大学生だった頃はバブル景気真っ只中の東京で、吉祥寺や世田谷に住んでいたが、いずれも大家さんの自宅の一部を改造したような安アパートで、四畳半で風呂なし、共同便所で家賃3万円だった。
予備校時代はバブル直前の時期で立川に住んでいた。駅南口から歩いて5分くらいのところだったが、立川駅南口土地区画整理事業が本格的に始まる前で、古い家並みが残っており、大家さんの家の隣にある古い木造倉庫の2階の1室を借りていた。1階はガランとしており真っ暗だった。共同トイレは2階からクソを垂れると、途中にひっかかったちり紙にあたってバサバサと音をたてて落下していった。部屋の格子窓の板ガラスが振動で一日中ビリビリと小刻みに揺れていた。
思い出を書いたのは、私が学生生活を送ったのは、かぐや姫の「神田川」(作詞、喜多條忠、1973年)がヒットしてから10年ちょっと経った頃だが、似たような生活をしていたなあと思うからである。
「神田川」では同棲が歌われている。当時は上村一夫のマンガ『同棲時代』(1972-73年)が流行るなど同棲がブームだった。私も彼女と二人で銭湯に行ったことが何度かあったが、この歌のように毎回待たせていた。ただ、彼女は湯上がりに外で震えているのではなく、待合室みたいなところで牛乳を飲んで待っていたのである。また、同じかぐや姫の「赤ちょうちん」(作詞、喜多条忠、1974年)に〈キャベツばかりをかじってた〉というフレーズがあるが、私もキャベツはよく食べた。安いし調理しやすい。すべて昔の話になったが、キャベツだけは今でも私の頭の中に残っていて、野菜イコールキャベツである。
かぐや姫「神田川」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001d22/l019dca.html
「神田川」についてよく言われるのは、貧乏くさい四畳半フォークであることと、1972年の連合赤軍事件により若者の政治への関心が一気に失速して内向きになった時代の象徴的な歌であるということだ。両者は関係している。四畳半フォークといわれる所以の一つは、関心領域の狭さである。世界や日本という国への関心が四畳半の生活へと縮減する。一緒に銭湯に行ったとか、似顔絵を描いたとかいった身の周りのことばかりである。そこになんとも言えないむなしさの感覚が付随している。
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この歌は〈貴方は もう忘れたかしら〉と始まり、〈若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった〉と終わっている。〈貴方〉に始まって〈貴方〉に終わる。〈貴方〉に話しかけているように聞こえる。
語られる内容は過去の暮らしで、〈貴方〉との思い出である。〈私〉が過去の思い出を語るという「枠形式」になっている。〈私〉はなぜ過去を思い出しているのか。しかも最後は〈貴方のやさしさが 恐かった〉という不可解な結びかたである。この点はあとでふれることにする。
歌詞を最初から見ていく。
〈赤いてぬぐい マフラーにして〉とある。コミカルな感じがする言い回しである。わざわざマフラーを買う金もないので代用品で済ませたという「貧しさ」も滲んでいる。
このフレーズには、現在の感覚からすると引っかかるところが4点ある。
(1) タオルでなくてぬぐいである
(2) 赤いてぬぐいとは何か
(3) マフラーにするとはどういうことか
(4) 二人ともそうなのか
順に見ていく。
(1) タオルでなくてぬぐいである
現在、入浴の用途に限らず、いろんな場面で手ぬぐいを使う人はあまりいないだろう。タオルがほとんどである。手ぬぐい(日本手拭)は高度成長期にタオル(西洋手拭)に置き換わっていった。タオルというのは私の記憶では手ぬぐいより高級品で、子供の頃(昭和4、50年代)は大事に使っていた記憶がある。父親はずっと手ぬぐいを好んでいたので、身近なものの使用については世代的になじんだものを使い続けたのだろう。「神田川」が出た頃は、手ぬぐいがタオルに急速に置き換えられていく時期にあたっている。歌の中の二人は手ぬぐいになじんでいたし、タオルを買うほどの贅沢もしなかったということである。
(参考、今治地方のタオルと生産量推移 https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/5/view/958)
手ぬぐいとタオルというのは、平面的か立体的かという違いがある。手ぬぐいは平縫いで薄い。濡らした手ぬぐいはペタッとしているので、入浴で体を洗うには使いにくいし、体を拭く場合も水分をあまり吸収しない。一方、タオルは表面に小さな糸の輪(パイル)があり、肌にあたったとき柔らかいし、吸水性もいい。
ただ、こんなことを思い出した。「昭和のお風呂の入り方」というブログに、「風呂桶の中で、手ぬぐいを風船のように膨らませて遊びました。「タオルクラゲ」というそうですよ。」という記述があった。(https://middle-edge.jp/articles/04IqF?page=3)私もよくやったが、手ぬぐいだからできた。タオルを使うようになってからは風船にならなかった。
風呂で使う手ぬぐいについて興味深い歌詞がある。パブリック娘。「お風呂」(作詞、パブリック娘。、2019年)である。
〈おれはまだ子供 タオルめっちゃ必要/じいちゃんは手ぬぐいひとつ 全てこなす玄人/体洗う時も手ぬぐい 体拭う時も手ぬぐい/手ぬぐい手ぬぐい手ぬぐい手ぬぐい/おれは子供だバスタオル〉
パブリック娘。は平成生まれの3人のラップユニットだが、この歌詞が彼らの実体験によるものなら、平成の少なくても初期はまだ、手ぬぐい派とタオル派が混在していたことになる。
(2) 赤いてぬぐいとは何か
〈赤いてぬぐい〉というからには、地が赤く染められた手ぬぐいのことであろう。手ぬぐいというのは白地で藍染のものが多いから、〈赤いてぬぐい〉というのは珍しい。ポイントで赤が入ったものはあるが、地が赤い手ぬぐいというのは見たことがない(ネットで検索するばあるものの)。歌でもわざわざ〈赤いてぬぐい〉と言うところが、〈赤〉は有徴であることを教えている。かまやつひろしの「我が良き友よ」(作詞、吉田拓郎、1975年)では、〈下駄をならして奴がくる/腰に手ぬぐいぶらさげて〉とあるが、これは白い手ぬぐいであろう。
では、なぜ〈赤いてぬぐい〉が出てくるのか。〈赤いてぬぐい〉というシニフィアンは、どういうシニフィエと結びついているのか。60年代末の学園闘争とその挫折、70年代初頭の連合赤軍事件の凄惨な結末を目にして、若者の革命への情熱は一気に潰え去った。この歌が出た1973年はそういう時代であり、〈赤いてぬぐい〉の〈赤〉は革命の見立てではないか。元来、赤は革命の象徴で、赤色旗は反乱者の血にひたされて赤くなった旗である。〈赤いてぬぐい〉は、掲げていた赤い旗を下ろし、使わなくなったそれを代用品として手ぬぐいにしたものではないか。その〈赤いてぬぐい〉もマフラーに代用されることになる。ここには使えるものは何にでも使うという、生き延びるための柔軟さがある。
歌詞の2番になると、〈二十四色のクレパス買って/貴方が描いた 私の似顔絵〉とあるように、赤の一色だけに束縛されることなく、〈二十四色〉へと解放される。ただ、赤以外の色が持ち込まれても、この似顔絵は〈いつもちっとも 似てないの〉というように、〈二十四色〉をうまく使いこなせないのである。〈二十四色〉を与えられてもどうしていいかわからず、とまどっているのである。
(3) マフラーにするとはどういうことか
その〈赤いてぬぐい〉は、なぜマフラーに見立てられたのだろうか。寒い季節だから防寒ということでマフラーを連想したかもしれないが、「赤い手ぬぐい首に巻いて」と、首に巻いたというだけでよかったのではないか。あるいは手ぬぐいはマフラーほど長くなく、スカーフていどの大きさであるから「赤い手ぬぐいスカーフにして」という歌詞でもよかったかもしれない。
私はここにはサブカルチャーの影響があると思う。1969年には「右手にジャーナル、左手にマガジン」といわれるほど、大学生がマンガを手にすることへの抵抗感は薄れていた。
50年代の終わりから70年代にかけてのヒーローは、その多くが首にマフラーを巻いて両端を長く垂らしていた。赤いマフラーを巻いていたのは初期のサイボーグ009で、映画・テレビアニメの主題歌「サイボーグ009」(作詞、漆原昌久、1966年)では、〈赤いマフラーなびかせて〉と歌われる。仮面ライダーも赤いマフラーで、〈ゴーゴー・レッツゴー 真紅のマフラー〉(「レッツゴー!!ライダーキック」作詞、石森章太郎、1971年〉とある。他に仮面の忍者赤影(1966年)も赤いマフラーである。赤ではないが、まぼろし探偵はテレビドラマ版で〈黄色いマフラーなびかせて〉(「まぼろし探偵の歌」作詞、照井範夫、補作詞、山本流行、1959年)と歌われ、少年ジェットは〈白いマフラーは正義のしるし〉(「少年ジェットの歌」作詞、武内つなよし、1959年)と歌われる。覆面ヒーローの元祖である月光仮面(1958年)も白マントに白マフラーであり、さらにその源流である鞍馬天狗(1924年)も、頭巾をかぶりながら長い襟巻きを垂らしている。変身忍者 嵐(1972年)は紫色、イナズマン(1973年)は黄色のマフラーである。他にも上げればきりがない。
彼らはなぜマフラーを巻いていたのか。彼らの多くは、馬とかオートバイといった、身体を露出させて高速で移動する乗り物に乗っている。首元が空いていると寒い。カウボーイは首にスカーフを巻いているし、白バイ隊員は白いマフラーをしている。現実的には防寒の必要からであろうが、それがマンガになると、流れるような曲線で画面が優美になるし、特撮では、マスクとスーツの継ぎ目を隠すことができて、胸元のデザインも賑やかにすることができる。もう一つ考えられるのは、アメリカのヒーローであるスーパーマンやバットマンはマント(ケープ)を付けているが、それをもっとコンパクトにしてヒーローの象徴にしたのかもしれない。
マフラーがヒーローの象徴であるなら、〈赤いてぬぐい マフラーにして〉というのは、お手軽なコスプレである。ありあわせの風呂敷をマントにして月光仮面のマネをした子どもの延長である。
(4) 二人ともそうなのか
〈赤いてぬぐい マフラーにして〉風呂屋に行ったのは、二人ともそうだったのか。ペアルックのように首に巻いていたのだろうか。風呂に行ったのはおそらく暗くなってからである。だから、格好を気にせず、手ぬぐいをマフラーにしたのだろう。
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次の歌詞に移る。
〈二人で行った 横丁の風呂屋/一緒に出ようねって 言ったのに/いつも私が待たされた〉
銭湯も毎日行ったわけではないだろう。このころはまだ毎日風呂に入るという習慣もない。各家庭に風呂があっても、週に1,2回、多くても3回くらいであろう。
ここでは〈いつも〉という副詞に注目したい。この〈いつも〉は、「二人で一緒に行ったときはいつも」ということであるが、「二人で一緒に行く」ことじたいも〈いつも〉のことだったであろう。
〈いつも〉女性のほうが待たされたという。〈いつも〉女性の方が先に風呂から出てきたのである。これはどういうことか。一般的に女性の方が長風呂である。風呂で一番時間がかかるのは洗髪である(中には風呂に入ったとき軽く洗濯をするという人もあるだろうがそれは除く)。女性の方が髪が長いから、女性の方が入浴時間が長くなる。だが、女性の方が早く出てきたということは、この女性は短髪だったということが考えられる。逆に、男は長髪だったかもしれない。当時は、反体制的なしるしとして長髪が流行していた。「Cut lab1518」という美容院のブログにはこうある。「1967年にツイッギーが来日し大流行した。このシャープなショートカットを手がけたのはその当時、美容師だったあのヴィダル サスーンと言われている。当時男性が長髪で女性が短髪というのが当たり前だった。」(http://cutlab1518.com/blog-detail/entry/77)
なお、Wikipediaの「神田川」の項目には、「喜多条が銭湯で飼われていた鯉に餌をやり、観賞していた」ので風呂から出るのが遅れたという説が書かれている。鯉が歌詞の他の部分と関わっているなら解釈を豊穣化するが(例えば、神田川ー鯉という連想)、そうでなければ楽屋落ちを聞かされたようなものでシラける。寒い季節に女を外で待たせながら平然と鯉にエサをやっているという冷酷さが「神田川」の裏に隠されていたと想像してみると、待たされた側の言う〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉というフレーズが、やさしさの仮面の裏側に隠された真実に気づいていたセリフとして聞こえてくる。
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次の歌詞は〈洗い髪が芯まで冷えて/小さな石鹸 カタカタ鳴った〉となっている。〈洗い髪が芯まで冷え〉るのはドライヤーで乾かしてないからである。当時はヘアドライヤーはまだ普及の緒についたばかりなので、美容院にはあっても銭湯にはない。髪は自然に乾かせば済むので、どうしてもなければならないものではない。今でもホテルや温泉にはドライヤーは置いてあるが、銭湯では有料である。ところで、〈洗い髪〉とか先の〈風呂屋〉とか、古めかしい言い回しをしている。〈二十四色のクレパス〉も「にじゅうよいろ」である。
〈小さな石鹸 カタカタ鳴った〉とある。ここは私が疑問に思うところだ。この「カタカタ鳴る小さな石鹸」というのは、〈私〉のことであろう。たんに寒いから震えているのではなく、将来への展望がない生活に不安で震えているのである。〈洗い髪が芯まで冷えて〉というのは、いつ風邪をひいてもおかしくない状態に置かれているということだ。この女性は相手に合わせるのにかなり無理をしている。受動的な生き方である。だが、受動的だからといって、それがただちに悪いわけではない。人生において主体的になるときもあれば、人の影響を受けるときもある。この女性は、このとき相手に合わせて生きていて、それがそんなに嫌ではなかった。そのことは「神田川」の続編ともいうべき「赤ちょうちん」に〈そんな生活(くらし)が おかしくて/あなたの横顔 見つめてた〉と書かれていることからもわかる。この〈おかしくて〉という感想は、自分たちの生活を客観的に見ていることからきている。自分のことなのに、どこか他人事のように観察している。〈あなたの横顔 見つめてた〉というのは観察するまなざしである。その余裕は若さから来ているのだろう。〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というフレーズはここでも活きている。こんな状態がいつまで続くのかと思って将来が不安になっていると同時に楽しんでもいるのである。
ところでこの「カタカタ鳴る小さな石鹸」という描写の意図はわかるものの、本当にそんなことがあるのかという疑問がある。銭湯では石鹸やシャンプーは持参しなければならない。持ち込んだ石鹸は、帰る時は使ったばかりなので濡れてヌルヌルしているはずである。石鹸函のなかにくっついている。震えたくらいでカタカタ鳴るとは思えない。カタカタというのは乾いた軽い物がぶつかって立てる音である。仮に音がしても、〈小さな石鹸〉なので、音も微かである。もっとも、ここを石鹸函が自分の持ち込みの洗い桶とぶつかってたてた音だとか、石鹸ではなく軽石が立てた音だとかいう理屈はあるだろうが、そういうことは歌詞に書かれていない。
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次の歌詞は、〈貴方は私の からだを抱いて/冷たいねって 言ったのよ〉となっている。
〈貴方〉は、「寒かったね」と言ったわけではなく、ましてや「待たせたね」とか「ごめんね」とか言ったわけでもない。〈冷たいねって 言った〉のである。つまり〈私〉のことを思いやって共感的に声をかけたのではなく、モノとして冷えていると、からかっているのである。もちろん、抱いたのは寒いからあたためようと思ってそうしたのであろうし、〈冷たいね〉という即物的な言い方にも「照れ」が含まれているのであろう。だが〈私〉を思いやる直接的な表現がないことは、二人の関係の対等性を次第に崩していくものになるだろう。
また、〈私〉もこの時点ではあからさまにそれを不満に思うわけではない。震えるほど寒い中を待たされても、抱きしめられれば許してしまう。〈私〉のことを気遣ってくれる優しい人だと思ってしまうのである。今ならこの逆説的な心理はDVにおける共依存の関係から類推できるであろう。〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という歌詞はそういう観点からも理解できる。
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歌詞の2番をみていこう。
〈貴方〉は〈二十四色のクレパス〉を買って〈私の似顔絵〉を描く。だが、それが〈ちっとも 似てない〉という。〈うまく描いてねって 言ったのに/いつもちっとも 似てないの〉という。絵をうまく描くことと、それがモデルに似ていることとは別のことである。そうでなければ、ピカソは絵が下手ということになってしまう。ただここは、そういう絵画論を述べているのではなく、素朴なしろうと理論として、うまく描けばモデルに似るはずだという前提で語られている。〈貴方〉が美大生なら独自の美的感覚を持っているのであろうが、そういう特殊な状況ではない。美大生なら画材は身近にあるはずなので、わざわざ〈二十四色のクレパス〉を買うこともない。ふだん絵なんか描かない人なのに、ふとした思いつきあるいは気まぐれに買ってきたからあえて述べているのである。
クレパスというのはサクラクレパスが大正14年に開発した商品である。誰でも子どもの頃使ったことがあるだろう。クレパスとクレヨンとは違うが、私の周辺では、クレパスもクレヨンと呼んでいた。クレパスは基本的に子ども向けの画材で、絵の具を使って絵を描く前の段階で、簡単に使うことができる画材である。大人が使ってそれなりにしっかりした絵を描くこともできるが、色を混ぜたりハッチングしたり高度な技法が必要だ。子どもは塗り絵のようなベタ塗りしかできない。
〈貴方〉も子どもの頃親しんだクレパスを買ってきたのだろう。だがそこは大人なので色数の多い24色にした。子どもの頃はベタ塗りしかできなかったが、大人になったのでもう少しましな絵が描けるのだろうと思ったのかもしれない。だが24色あっても描画技術がなければうまい絵は描けない。頭の中で思っていることは、現実化するとやはり無理だった。大人になれば自然にできるようになっていることと、そうではないことがある。技術は訓練しなければ自然には身につかない。
会話にすればこんなふうだろう。
「なぁにクレパスなんか買ってきて」
「ちょいと仕事帰りに画材屋で見かけてね。前から絵を描いてみたいと思ったんだ」
「あなた絵なんか描けるの」
「馬鹿にしたもんじゃないさ。24色もあれば何でも描けるよ。子どものときは12色しかなかったからね、あれじゃ決まりきった記号のような絵になってしまう。24色あればリアルに描けるはずだ。どれ、君を描いてやろう」
「うまく描いてね」
「サラサラサラッと・・・」
「描けた? なにこれ・・・」
「おかしいな。もっとうまく描けると思ったんだけど。なぁに、毎日描いていればそのうちうまくなるさ。なんとかなるよ」
〈24色のクレパス〉を買うことは、子どもとはちがう画材を持つことであり、つまりは大人になることである。年齢にあわせた色数と考えれば、24色とは24歳のことだといえるだろう。だがたんに色数が増えただけでは、年を重ねただけでは、うまく絵を描くことはできない、うまく生きることはできない。それを思い知る。
うまく絵が描けないということは二人の生活の比喩としても読める。もう少しまともな生活ができるようになるかな、なかなか難しいね、という実感はやがて、不甲斐ない自分、という個人に向けられることになる。
〈うまく描いてねって 言ったのに いつもちっとも 似てないの〉という部分は、1番の歌詞の〈一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が待たされた〉に対応している。相手に対する要望を述べても、〈いつも〉叶えられないのである。〈貴方〉は〈私〉の願望を叶えられるほどの実力を持った男ではない。
この部分はまたお互いのわかりあえなさの表現にもなっている。銭湯に同時に行っても、中で男女に分かれて、出てくる時間が一致しないというのは男女のわかりあえなさを表している。絵を描いても〈私の似顔絵〉が〈ちっとも 似てない〉というのは、絵の技術の有無というより、〈私〉のことをよく理解できているかどうかということであり、個人同士のわかりあえなさを意味している。ただ〈二十四色のクレパス〉は〈私〉のことを理解する媒介となる道具であったので、それを〈貴方はもう捨てたのかしら〉と思うことは、「貴方はもう私のことを理解するつもりがないんでしょうね」ということだろう。
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次の歌詞は一転して視点が切りかわり、〈窓の下には神田川/三畳一間の小さな下宿〉となっている。
ここで〈窓の下には〉とあるのは、自分たちの部屋は2階にあるということだろう。1階であれば「窓の向こうは神田川」となるはずだ。いずれにせよ、これは俳句的な取り合わせである。私は芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の河」という句を連想したが、この歌詞も、神田川という東京を代表する河川の一つと、〈三畳一間の小さな下宿〉という、大きなものと小さなものを対比している。自分たちがいるのは〈三畳一間の小さな〉世界だが、窓を開ければすぐそこには東京を横断して流れる神田川が流れている。小さな世界が、大きな世界につながっている感覚。
もっとも、この歌が出た当時、高度成長期の神田川は汚い川として知られていた。生活雑排水や工場からの排水で臭いドブ川となり、「死の川」とも呼ばれた。下宿の部屋は小さく、窓を開けても汚いものに囲まれている(それらは都会の活力の負の側面を象徴している)。そういう生活しかできないということで、わびしさを相乗するために書かれたのかもしれない。
神田川の汚さは今では改善されてきているし、神田川=汚い川という知識は、当時の川沿いの住人に限定されたものである。そうした歴史的でローカルな知識がないと「神田川」という歌が理解できないものであれば、当時もヒットしないし、現在では理解できない歌になってしまうだろう。だがそうではないのは、神田川/三畳一間の下宿の対比が、大きな自然と小さな人間の営みの対比として解釈できるからである。
(神田川が汚い川であることは次を参照した。)
https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/08/kandagawa-ayu-sake_n_11398556.html
https://dailyportalz.jp/kiji/170424199417
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〈貴方は私の指先見つめ/悲しいかいって きいたのよ〉
ここでは〈三畳一間の小さな下宿〉から、さらにもっと小さな〈私の指先〉へとカメラがフォーカスされる。〈貴方〉は〈私〉の顔ではなく指先を見つめる。顔を見ることは〈私〉と正面から向き合うことだ。〈貴方〉は〈私〉の顔を描くのに失敗した。〈私〉と正面から向き合うことは自分の力量を超えている。だから〈私〉の一部である指先へと目をそらし、〈悲しいかいって きいた〉のである。〈悲しいかい〉という本質的なことをストレートに聞くには目をそらさなければならなかったのである。
〈悲しいかい〉と聞かれて〈私〉は何と答えたのであろうか。それは記されてはいない。〈貴方〉が〈悲しいかい〉と聞いたのは、〈私〉がそう感じているはずだと思ったからであろう。ドブ川の匂いが漂ってくる狭い部屋で貧しい暮らしをさせているのは自分のせいである。その自分についてくるのは〈私〉が選んだことである。語られるのは、一緒に銭湯にいったり、似顔絵を描いてもらったりと、本来楽しいはずのエピソードである。だが一緒に銭湯に行ってもいつも待たされるし、似顔絵を描いてもらっても下手くそである。〈貴方〉と〈私〉の関係はどこかしっくりしない。二人はうまくやっていけないという予感のようなものが語られている。
〈悲しいかい〉という問いかけは〈私〉には微妙にズレたものだっただろう。〈私〉が感じているのは、「悲しみ」という感傷的なものではなく、〈若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった〉とあるように「恐れ」をめぐるものなのである。エクマンの6つの感情理論でも「恐れ」と「悲しみ」は別のものである。この点でも〈私〉と〈あなた〉の感覚はズレている。〈あなた〉は空想的で〈私〉は現実的だ。
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この歌には、明言されはしないものの、不安な感じが漂っている。既に述べたところもあるが、まとめておく。
(1) 銭湯から出て、いつも待たされたというのは、銭湯で男女で別れるとそれぞれはブラックボックスとなって、同じことをしても結果のタイミングが一致しない。これは男女間でのわかりあえなさを意味している。
(2) 風呂上がりの体が冷えて震えるというのは、将来への不安を意味している。〈貴方〉が示す〈やさしさ〉はその場をやりすごす方便でしかない。
(3) 風呂に行くのも似顔絵を描くのも二人きりの行為である。ここには、ベースになる共同体がなく、二人きりで世界に投げ出されている感じがある。70年代は過激な時代のあとに到来した「やさしい青年の時代」であり、個人主義が進んだ時代である。「やさしさ」も個人間の繋がりである。なんの強制もなく、簡単に切れやすい。
(4) 似顔絵がちっとも似ていないというのは、個人同士でのわかりあえなさを意味している。絵を描くという行為は対象をよく見ることでもある。その絵が似てないということは、相手のことをよく見ることができていないか、それを表すにふさわしい道具や技術を持っていないということである。
(5) 神田川と小さな下宿の対比は、世の中に対して、自分たちがいかにちっぽけな存在、無力な存在であるかということを示している。
不安に包まれているとはいえ、救いもある。〈窓の下には神田川〉というのは、二人の世界の閉ざされは強固ではないことを意味している。二人は地下室に閉じ込められているのではない。窓を開ければ外には広い世界がある。二人の閉ざされた世界の希望が窓に象徴されている。ただ、世界とつながる川は少し下にある。その点、隔たりがある。
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歌詞の2番まで読み終えたので、あらためて全体を見てみると、この歌が額縁ソングになっていることがわかる。1番は〈貴方はもう忘れたかしら〉、2番は〈貴方は もう捨てたのかしら〉と始まっている。そして〈貴方のやさしさが 恐かった〉と締められる。どこかにいる〈貴方〉への語りかけを枠として持っていて、過去の思い出がその中で綴られる。
〈貴方はもう忘れたかしら〉というのは、〈貴方〉はどうか知らないけど、〈私〉はまだはっきり覚えているということである。この過去はどのくらい前のことなのだろうか。語りの「今」は、それから何年たっているのだろうか。それを考える手がかりは〈貴方は もう忘れたかしら〉の〈もう〉にある。
〈もう〉とはどういう意味か。ネットにある辞書として詳細に記しているウィクショナリーの「もう」の項目にはいくつか書かれているが、関係しそうなのは次の2つだ。
(1)〔完了したことや状態が変化してしまっていることを表す〕 もはや。すでに。(例文、社長はもう帰りました。)
(2)〔話者から見て時期尚早であると感じられる様を表す〕はやくも。強勢を置いて発音される。(例文、いま泣いたカラスがもう笑った。)
https://ja.wiktionary.org/wiki/もう
(1)の用法の中には(2)のニュアンスも含まれている。〈貴方は もう忘れたかしら〉という文の〈もう〉は、意味としては(1)であるが、ここには(2)の「話者から見て時期尚早であると感じられ」るというニュアンスも含まれている。
ではその忘れるにあたって「時期尚早」というのはどのくらいの期間なのか。「こういうことがあったよね」と話しかけられた場合、「そうだよね」という返事がくるのか、「そんなことあったっけ?」と返されるのか。前者は記憶として残っているが、後者はすっかり忘れている。思い出されているのは日常の反復的なエピソードであり、特に強い印象を残すものではない。何気ない一コマが忘却の淵に沈まずに記憶に留まるのは2,3年であろうか。2,3年前の習慣的な出来事を問いただすのに〈貴方は もう忘れたかしら〉という言い方をするのはなじまない。「まだ覚えてるよね」という言い方のほうがふさわしい。これが5,6年経過するとさすがに日常生活の細部は記憶から抜け落ちて〈もう忘れた〉ということになるだろうし、10年経過していれば「時期尚早」の〈もう〉は使えない。〈もう〉を使うのに2,3年では早すぎるし、10年では遅すぎる。5,6年というのが私の見立てである。語り手がこの思い出を語っているのは、その出来事が起きてから5,6年経ってからではないかと推測する。そしてその出来事は〈私〉にはなぜだか「忘れえぬ」ものだけれど、〈貴方〉にとってはどうなのかわからないという極めて私的な性質のものである。
語られる過去は同棲生活である。では何歳頃のことだろうか。同棲であるから結婚はしていない。語り手は口調からして女性である。この歌が発表された1970年代前半において、女性の平均初婚年齢の推移を見ると、1973年の時点では24.3歳である。そこから5,6年遡れば、想起された現在では20歳前後ということになろう。2人とも大学に通っていれば、学生の同棲生活ということになる。学生時代が終わって、二人は離れ離れになり、女性が結婚を前にして、当時のことを思い出している、という歌なのだろう。
これはこの歌が制作された際の作詞家のエピソードと一致している。手早くWikipediaの「神田川 (曲)」の項を参照しよう。次のようにある。
「南から作詞を依頼された喜多條は当時25歳で、早大を中退したのち放送作家として売り出し中だった。彼はタクシーで早稲田通りの小滝橋を通りがかった時、神田川の河川整備をする都庁職員を目にし、19歳の時に1年間だけ早大生の髪の長い女学生と三畳一間のアパートで同棲した日々を思い出した。」
一方、語りの「今」において〈貴方〉がどうなっているかは伺いしれない。歌詞のなかに手がかりはない。ただ、〈貴方〉との生活を懐かしんでいるものなので、嫌な別れ方をしたのではないだろう。
この二人の暮らしはどういうものだったかというと、一緒に銭湯に行ったとか、似顔絵を描いてもらったとか、一見ほのぼのしたものなのだが、〈貴方は私の からだを抱いて/冷たいねって 言ったのよ〉〈貴方は私の指先見つめ/悲しいかいって きいたのよ〉とあるように、〈冷たい〉〈悲しい〉といった言葉で直視しなければならないような現実があった。この〈冷たいね〉〈悲しいかい〉は、いずれも〈貴方〉の言葉の引用であり、〈貴方〉の言葉が出てくるのはこの2箇所だけである。〈貴方〉はトボけた感じの人のように見えるが、本質を直視したことを言う人でもある。むしろ〈私〉のほうが、〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というまとめ方をするような熱さがあった。
〈私〉の語りからは、恨み節のようなものは感じられない。貧しいけれど不幸ではなく、楽しい思い出として振り返られている。同じ作詞者の「赤ちょうちん」(作詞、喜多條忠、1974年)では、貧乏暮らしは〈そんな生活(くらし)が おかしくて〉という受け取り方をされている。この客観性も〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉という余裕からくるのだろう。だが、若くなくなったらどうなるのか。いつまでも続けられる生活ではないということだ。
〈貴方はもう忘れたかしら〉というのは、どこかにいる〈あなた〉への問いかけというより、〈私〉の記憶を引き出すための独り言みたいなレトリカルなものとも言える。〈私〉が過去を回想するのは、たんに懐かしむため以上のものがある。〈私〉の現在は語られないが、それは反語的に語られている。つまりあの頃のように不幸を〈何も恐くなかった〉と蹴とばせる強さが欲しいということだ。おそらく数年前の出来事を〈あの頃〉と感じるほど、昔の自分と今の自分は落差があり、かつては元気があったけど、今は生命力が枯渇してきていると感じているのかもしれない。
バンバン「いちご白書をもう一度」(作詞、荒井由実、1975年)には、〈就職が決って 髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね〉とあるが、ここでは、就職によってひとつの若い時代の終わりという切断線が引かれている。会社に従うことで、自由を奪われる感覚が生じる。「いちご白書をもう一度」は、四畳半的なものと決別したときに残る哀しみを歌っている。過去を思い出して、〈君もみるだろうか〉という問いかけがあるのも似ている。作詞したユーミンは「神田川」を四畳半フォークと言ったが、同じような歌を作っているのである。
「神田川」の語りの「今」において、〈貴方〉がどうなっているかはわからない。一方、語られている「過去」においては、逆に〈私〉のことがよくわからない。「過去」において、二人の関係はどのように描かれているのか。
次のような箇所では、〈貴方〉のすぐあとに〈私〉が出てくる。
・貴方は私のからだを抱いて
・貴方が描いた 私の似顔絵
・貴方は私の指先見つめ
どれも行為の主体は〈貴方〉で、〈私〉は作用を受ける側で受動的である。この歌では〈私〉は語り手で、思い出す主体ではあるのだが、そこで回想される内容はどれも〈貴方〉の行為が〈私〉へと作用を及ぼしていることばかりで、方向が一方的である。〈私〉も〈貴方〉に、風呂を上がるタイミングは合わせてくれとか、似顔絵はうまく描いてくれといったお願いはするのだが、それらは〈いつも〉叶えられない。「神田川」の回想される過去において、主役は〈あなた〉であり、〈私〉はその観察者であり脇役である。一人称の語りは、〈私〉が観察者になって周囲の人物の挙動を語るのに向いている。この歌もそういう歌である。
回想された過去においては、その「世界」を作っているのは〈貴方〉で、〈私〉は添え物である。〈私〉は銭湯あがりに寒いなか待たされても抱きしめられれば文句も言わず、下手な似顔絵を描かれても怒らず、三畳一間の貧乏暮らしでも不平は垂れない。〈あなた〉のやることなすことに従っていた。これが理想の女だとばかりに主体性がない。〈私〉はお人形さんみたいに意志がなく、〈あなた〉のいい加減さにつきあわされていた。「神田川」を敷衍した「赤ちょうちん」も枠形式で過去の回想が大部分を占めるのだが、こちらの男性も刹那的な生き方をしていて、それにつきあわされる女性は〈そんな生活(くらし)がおかしくて あなたの横顔見つめてた〉と観察者になっている。
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この歌でよく議論になるのが終結部分の歌詞である。〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉のあとに、〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉と続いていて、「やさしさが恐いってどういうこと?」とよくわからないままストンと終わっている。
この部分は謎めいているので、いろいろ考察されているし、作詞者もそれに答えるべく自作について度々コメントしている。前にテレビで放送したときは(『驚きももの木20世紀』「神田川伝説」1995年8月25日)、ここだけ視点が男女入れ替わっていて、女性がやさしくしてくれるから自分はだめになってしまうのが怖い、というようなことであった。ネットを見てもそんなような事が書いてある。(「BS朝日 うたの旅人」https://archives.bs-asahi.co.jp/uta/prg012.html)
この部分だけ取り出せばわからないでもない。例えば松山千春の「銀の雨」(作詞、松山千春、1977年)にも、〈これ以上私が そばに居たなら/あなたがだめに なってしまうのね〉〈せめて貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉とあって、同じようなことを言っているし、女性に母親を見出す傾向があることは似ている。
だが「神田川」の場合、前後のつながりがよくないのである。歌詞を通して読んでみても、書かれたエピソードからは、なんとなく不安であることや、そこはかとない悲しみは伝わってくるものの、〈貴方のやさしさが 恐かった〉ということには素直につながってゆかず、唐突感を否めないのである。最後の部分だけ男性視点の歌詞をくっつけたというのは乱暴すぎるし、作品の展開や内的な論理をあまりに無視している。同じ〈貴方〉という言葉が使われていれば、別の人だとは思わないし、男女がそこだけ入れ替わっていると言われても、歌詞として破綻していることになってしまう。作家主義の批評家でもそれを採用するのは苦しいと思うだろう。
また、別の機会に作詞者は、そもそもこの歌の語り手は男性なのか女性なのかよくわからないとも言っている。当時は男性も女性みたいな長髪が多かったから外見は勘違いしやすかったかもしれない。(出典は書かれていないが、以下のブログに記載あり。https://otokake.com/matome/9yxVqR?page=2)
だが、この歌の語り手が男性なのか女性なのかわからないとまでいうのは無理がある。〈私〉の言葉遣いは〈貴方はもう忘れたかしら〉〈いつもちっとも 似てないの〉と女性語だし、〈貴方〉のほうは〈悲しいかい〉と男性語。〈貴方は私の からだを抱いて〉というのも〈貴方〉が男性であることを思わせる。叙述トリックのミステリーみたいなことを言うのは、作詞者自身、つじつまをあわせるのに苦労させられているということなのだろう。
この歌詞は、作ったときに南こうせつに電話で伝えて、こうせつは聞き取りしながら曲をつけていったという逸話がある。そのとき歌詞としてかっちり固まっていたのだろうか。この部分がどういう構成を考えて書かれたものか曖昧だったのかもしれない。
創作経緯を推測すれば、〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というのは総括的な言い回しである。貧しかったけれど、若さゆえ恐いものがなかったと。もしかしたら、元の歌詞はそこで終わっていたのではないか。だが、こうせつが作曲して、言葉が足りないからもう少し書き足してくれと言われて、急遽〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という部分を付け加えたのかもしれない。根拠はない。推測である。
〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というのは常套句である。そのあとに何か気の利いたことを続けるとしたら、常套句をひっくり返すために、〈何も恐くなかった ただ○○が恐かった〉という形を導き出し、その〈○○〉を何にしようかと考えて、意外なものにしよう、怖そうではないものを恐いと逆転してみようと考えて、〈やさしさが恐かった〉にしたのかもしれない。この最後のアイロニカルなフレーズによって、全体を支配する感傷にいくぶん苦味が加わって複雑な味わいの歌詞になった。
作詞者も説明に苦慮するような〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という部分は、歌詞の語り手である〈私〉が、書き手も意図しないことを勝手にしゃべりだしたように思えるポリフォニックなものになったと言える。〈私〉は年数を経ることで自立性を増し、過去の〈貴方〉と対話的関係になることができた。同時に、作詞者とも対話的になりえたのである。