童謡から松田聖子「Rock'n Rouge」まで~吃音ソング
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ここ数年、吃音に関する一般向けの本が立て続けに出て、しかも話題になった。『どもる体』(伊藤亜紗、医学書院、2018年)、『吃音:伝えられないもどかしさ』(近藤雄生、新潮社、2019年)、『吃音の世界』(菊池良和、光文社新書、2019年)などがそうである。吃音の治療を目的にしたものというより、吃音とはどういう経験なのかを考えようとするものである。
私自身、軽い吃りがあって、日常生活に支障はないが、声だけが頼りとなる電話には苦手意識がある。父親も軽度の吃りの症状を呈することがあり、それがうつったと思っている。父は、自分の子どもの頃、同級生に吃る人がいて、からかって真似しているうちに吃るようになったという。馬鹿なことをしたものである。私は、何十年も前の、見知らぬ誰かの影響を受けていることになる。
映画やドラマで、吃音者を演じる俳優は吃音のセリフを練習するわけだから、これをきっかけに本当に吃音になってしまうのではないかと心配していたが、現在では、吃音は真似することによってうつるとは考えられておらず(俄には信じがたい)、遺伝が関わっていると言われている。私も遺伝的に素因があったのかもしれない。それが父親がときどき吃るのを聞いて顕在化したということだろう。
吃音はその原因がよくわかっていないところがある。完全な治癒にも至らないという。だましだまし、それと付き合っていくしかない。
吃音者を一番悩ますのは、世間が、吃音者に対する理解がほとんどないことである。私も電話で言葉を切り出しにくくなることがあると(これを難発という)、会話の間(ま)が微妙におかしなものとなり、電話のむこうが「?」という雰囲気になることがある。言葉がスムーズに発せられるという「あたりまえ」のことができないことに、みじめな気持ちにさせられる。なぜそれができないのか、そうでない人にはまるで理解されないのがつらさを増幅する。
テレビドラマや映画、マンガにも吃音者が登場することがある。彼らはたいてい、吃音がコミュニケーションにさざ波以上のものを与えている者として描かれ、周囲の無理解やからかいの対象にされている。
NHK連続テレビ小説『エール』(2020年)は作曲家の古関裕而をモデルにしたもので、古関は吃音者であり、ドラマでもそのように描かれていた。吃音は人を内向的にし、その克服が人を成長させもすれば周囲への怨嗟を抱かせることもある。三島由紀夫『金閣寺』で寺に火を放つ学僧は最初の音が出せない難発だ。
画家の山下清を描いたテレビドラマ『裸の大将放浪記』(1980年)では、清の喋り方は軽い吃りとして演じられていた。清は知的障害があるが純粋で率直。吃音はそうした性格を表現するものとしても役立てられていたと思える。
外国人も吃る。最近みた映画では、ホラー映画『IT(イット)』のリメイク(2017年)で、主人公の少年が吃音だった。『死霊館 エンフィールド事件』(2016年)は、家族の兄弟で末弟が吃りでクラスメイトにバカにされていた。吃音じたいがテーマになっている映画は『英国王のスピーチ』(2010年)が有名である。
マンガでは、極度の吃りの女子高生を主人公にした『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(2012年)がある。著者の押見修造は自身も吃音を患っていた(映画化もされた)。小説家の重松清も吃音に悩んだ経験を『きよしこ』(2002年)、『青い鳥』(2007年)などの作品に昇華している。
吃音を題材にした作品はたくさんあるが、言葉がスムーズに出ないというたったそれだけのことが、当人にいかに深い苦悩をもたらすかということを伝えている。中には、それで人生が狂ってしまう人もいる。
吃音者に関わる作品は以下のウェブサイトでも紹介されている。
・文芸作品にみる吃音 https://kituonkenkyu.org/0006_006_01.html
・吃音者が登場する映画 https://cinema-rank.net/list/10031
・吃音をテーマにしたドラマ https://kitsuonkaizen.com/lovesong/
・吃音のことが出てくる本 http://fukuoka-genyukai.life.coocan.jp/hon.html
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吃音者が出てくる小説や映画、マンガはいくつもあるが、今回取り上げたいのは吃音の歌である。
吃音の歌には2種類ある。一つは、吃音という症状に悩む姿を主題にしたものだ。例えばハンバートハンバート「ぼくのお日さま」(作詞、佐藤良成、2014年)はこういう歌詞だ。
〈ぼくはことばが うまく言えない はじめの音で つっかえてしまう/だいじなことを 言おうとすると こ こ こ ことばが の の のどにつまる〉
いささか表面的なことをなぞっているだけのように思えるが、これに比べたらラッパーの達磨は自身の吃音への苦しみと怒りを「音文」という歌にしている。
〈周りの人とは違う 俺は吃音症…幸せを沢山かかえた奴が俺の不幸を鼻で笑うな…神様は…普通のことすらさせてくれないんだ…吃った俺を笑ったコンビニの店員 この野郎笑いたきゃ勝手に笑ってろ お前の馬鹿にした吃音を武器に 絶対にお前よりも幸せになってやる〉
「ぼくのお日さま」では吃音症に寄り添うふうで、吃音じたいを歌に取り入れている。吃りを真似されることは吃音者にとって屈辱である。私には、この歌の書き手にとって吃音は共感はしても他人事ではないかと感じられた。
一方で、この歌の感想で「この曲は吃音でなくても、自己表現が不器用な多くの方に当てはまるような気がしますね。好きな子に素直に告白出来ない中高生とか」というものがあった(https://abe-kenshu.hatenablog.com/entry/2018/12/20/083831)。この感想の書き手は吃音者であり、30年間吃り続けているという。この方は吃音研修講師であり、吃音について客観的に捉えることができているようだ。吃音の症状を自分から引き離して隠喩として捉えるのは当事者にとってはなかなか難しい。キューブラー・ロスの「死の受容」の5段階で言えば、最終段階の「受容」の段階に達しているのかもしれない。
達磨は若いラッパーで、「音文」では吃りを取り入れていない。歌詞からは、まだ彼が「受容」に至らず、「否認、怒り、取引、抑鬱」の段階にあることが伝わってくる。私も、いい年齢のおじさんだが、もし自分の吃りのマネをされたら、そこにからかいの意図がなくとも激怒するていどの段階にいる。
イマニシの「吃音症」(作詞、イマニシ)という歌は、少し抽象的な内容である。
〈変調の度、加速していく脈に/耐えきれず吃る吃音の音に/怒りを覚えた/氾濫する言の葉の羅列を/抑えようとも簡単に溢れて/哀しさに変わった〉
ここでは吃音について〈怒り〉と〈哀しさ〉を感じている。作詞者も吃音の症状があることを想像させる。歌詞の内容からは、達磨と同じ段階にあることが伺える。
「吃音症」というタイトルの歌は、もう一つ、バズマザーズにある。〈云えなかった言葉〉〈云えないだけで〉〈あー、また言葉に詰まる。/伝えたい言葉など詰まる程ないのに〉などとあって、実際の吃音症とは関係なく、たんに言葉に詰まることをそう言っているだけのようである。こういう場合、吃音症で悩んでいる人のことを考えると、せめて「症」はつけてほしくない。
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最近はとんと聞かないが、かつては赤面恐怖症という病があった。人前であがって顔が赤くなってしまうのである。吃音と赤面は身体の症状としては異なるものだが、精神的な症状としては近いものとして捉えられていたようだ。
吃音矯正や赤面症の対処法というのが戦前はよくあって、電柱に治療院の広告が貼ってあるのを見かけた、といった内容の寺山修司のエッセイを読んだことがある。寺山はそこで、〈ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団〉という「少年探偵団の歌」(作詞、壇上文雄、1956年)について、吃っていると(例の調子で)書いていたのを読んだ記憶がある(出典を探したが見つからなかった。見つかり次第、引用する)。
先に「吃音の歌には2種類ある」と書いたが、もう一つがこの「少年探偵団的吃音」である。吃音の悩みや苦しみを歌うのではなく、歌詞において語頭を連打するものである。もちろんこれは吃音症ではなく、吃音ふうの見かけをもつものにすぎない。吃音の連発と形が似ているので、方便として吃音ソングに含めることにする。
共感を装う歌のなかで吃音症の症状として連発を披露されるのは不愉快だが、歌における語頭の反復は吃音症とは関係のない外形上の吃音であり、むしろ歌の心地よさの本質的な部分と関わっていて、歌詞におこすと吃音を呈したふうに見えるにすぎない。そのため、その相似したパターンを客観的に面白がることができるのではないか。吃音ソングというより連発ソングと言ったほうがいいかもしれないが、何の連発なのかわかりにくいので吃音ソングとした。イルカやクジラを誤って魚類に分類するように外形は似ているが実質は全く異なるものなのか、あるいは深部で通じるものがあるものなのかわからない。
以下、本稿では「少年探偵団的吃音」を扱うが、そもそも歌と吃音には深い関係がある。その点について若干ふれておく。
先に紹介したラッパーの達磨もそうだが、吃音があっても歌を歌う時には吃らなくなる。それをヒントに制作された『ラヴソング』(2016年)というテレビドラマもある。吃音者が実は天賦の美声の持ち主というご都合主義の設定で、たんに吃音でなんの才能もない人にはなんの救いももたらさない。逆境を与える手段として吃音を使うことに嫌な感じがした。
吃音者は歌うときには吃らないが、その一方で、歌のなかには吃音の連発に似たものがたくさんあって、歌における連発は、歌い手にも聞き手にも心地よさをもたらすようである。それなら、吃音者が連発の歌を歌えば、そうでない人より上手く歌えるのではないか。またそれは自己肯定にもなりうる。
吃音者は、連発でない歌を歌えばその間は吃らないことに安心できるし、逆に、連発する歌を歌えばその巧みさに周囲が驚くことがある。後者を戦略的に取り込んだのがスキャットマン・ジョンである。大ヒットした「スキャットマン」という歌は、歌詞に〈誰でも吃ることがあるだろう〉とか〈歌っているときは吃らない〉とあるように、吃りがテーマになっている。ただ、高速ラップの英語詞であり、超絶技巧に驚嘆はしても、この歌が吃音の歌だと知る日本人は少なかっただろう。
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歌で使われる言葉というのは、繰り返しを好む傾向をもっている。リズムに乗る心地よさを味わうためだろう。誰でも知っている童謡・唱歌を思い出してもらえばそれはよくわかる。〈ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団〉という「少年探偵団的吃音」は、これらをさらに短くしたら連発になったものではないか。
まず、冒頭の数拍を繰り返す唄を掲げてみる。
・かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる(「かごめかごめ」わらべ唄)
・ずいずいずっころばし ごまみそずい(「ずいずいずっころばし」わらべ唄)
・さくらさくらのやまもさとも みわたすかぎり(「さくら さくら」古謡)
・ちょうちょうちょうちょう 菜の葉にとまれ(「ちょうちょう」作詞、野村秋足)
・さいたさいたチューリップのはなが(「チューリップ」作詞、近藤宮子)
・かきねのかきねのまがりかど(「たきび」作詞、巽聖歌)
・はるがきたはるがきた どこにきた(「はるがきた」」作詞、高野辰之)
・あめあめふれふれかあさんが(「あめふり」作詞、北原白秋)
・そそらそらそらうさぎのダンス(「うさぎのダンス」作詞、野口雨情)
・汽車汽車ポッポポッポ シュッポシュッポ シュッポポ(「汽車ポッポ(兵隊さんの汽車)」作詞、富原薫)
次の歌などは、繰り返したいために造語した例である。
・夕やけ小やけの赤とんぼ(「赤とんぼ」作詞、三木露風)
・おおさむこさむ山から小僧が泣いてきた(「おおさむこさむ」わらべ歌)
しばしば議論になるが、〈小やけ〉とか〈こさむ〉とか、それ自体に意味はない。語調を整えるために挟んだ言葉である。〈おうまの親子はなかよしこよし〉(「おうま」作詞、林柳波)の〈こよし〉もそうである。神永暁が参考になることを書いている。(日本語、どうでしょう? https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=292 )
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アニメソングにも繰り返しは多い。「キャンディキャンディ」は〈ハナペチャだって だって だって おきにいり…わたしは わたしは わたしはキャンディ…わらって わらって わらってキャンディ〉(作詞、名木田恵子(水木杏子)、1976年)と繰り返しが多いが、タイトルの『キャンディ・キャンディ』からして名前の愛称の反復である。
パターン化した反復もある。『科学忍者隊ガッチャマン』の「ガッチャマンの歌」(作詞、竜の子プロ文芸部、1972年)では、〈誰だ 誰だ 誰だ 空のかなたに躍る影…飛べ 飛べ 飛べ ガッチャマン/行け行け 行け ガッチャマン/地球は一つ 地球は一つ/おお ガッチャマン ガッチャマン〉と歌われ、これも反復が多い。『ガッチャマン』より3か月早く放送開始した『デビルマン』の「デビルマンのうた」(作詞、阿久悠、1972年)は〈あれは誰だ 誰だ 誰だ/あれはデビル デビルマン デビルマン〉と〈誰だ 誰だ 誰だ〉を繰り返す。
なぜ「あれは誰か」が問題にされるのか。ガッチャマンは忍者だから隠れた存在である。デビルマンも悪魔だから人に知られてはいけない。「デビルマンのうた」を作詞した阿久悠は宣弘社に勤めていたが、その宣弘社は『月光仮面』を制作して人気を誇っていた。主題歌「月光仮面は誰でしょう」(作詞、川内康範、1958年)は、〈どこの誰かは 知らないけれど/誰もがみんな 知っている…月光仮面は 誰でしょう/月光仮面は 誰でしょう〉と、誰なのかということが歌のモチーフになっている。デビルマンが誰なのかということは、その影響ではないか。
といったことを書いたところで『TV主題歌で笑え!』(加納則章編、メディアファクトリー、2000年)という本を読んでいたら「誰だソング」として上記の他に『怪奇大作戦』の「恐怖の町」(作詞、金城哲夫、1968年)〈やみをきりさく あやしいひめい/だれだ だれだ だれだ〉と、『仮面ライダー』の「仮面ライダーのうた」(作詞、八手三郎、1971年)〈嵐とともに やってきた/誰だ! 誰だ!/悪をけちらす嵐の男〉が掲げられていた。この2曲は子供のころよく耳にしたので、そう言われればそうかと膝を打った。(ちなみに、後者がそうだが、同書は「嵐を呼ぶ歌」もまとめていて、目のつけどころがいい。)(もうひとつ、昔のテレビソングは「○○のうた」というタイトルが多い。)
同書では「誰だソング」の元祖は「月光仮面は誰でしょう」としている。テレビではそうだろうが、歌としてはもっと遡ることができる。童謡「あの子はだあれ」(作詞、細川雄太郎、1939年)は〈あの子はだあれ だれでしょね/なんなんなつめの はなのした/おにんぎょさんとあそんでる/かわいいみよちゃんじゃ ないでしょか〉と歌う。これが「誰だソング」の元祖であろう。この歌も〈なんなんなつめ〉と連発になっている。
「あの子はだあれ」というのほ不思議な歌である。人形で遊んでいる子供が誰かと問うのだが、どこか怪談めいている。実はこの歌は歌詞が改変されている。細川の原詩では「泣く子はたアれ誰でしょね」となっていた。(参考、池田小百合なっとく童謡・唱歌 https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00kainuma.htm)
「泣く子」というのはナマハゲが典型だが(泣く子はいねぇか)、見咎められるものである。だから「泣く子はたアれ」というのはわかる。これが「あの子」に変換されてしまったから、不思議な歌になった。逆に不思議な歌になったからヒットしたのかもしれない。
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吃音の連発で「さくら」は「さ、さ、さくら」と語頭を連打するが、歌のように「さくらさくら」と語の全体を繰り返すわけではない。次に、より短く1拍を反復する「少年探偵団的吃音」を掲げてみる。
・ほ ほ ほたるこい(「ほたるこい」わらべ唄)
・しょしょ証城寺 証城寺の庭は つつ月夜だみんなでて こいこいこい(「証城寺の狸囃子」作詞、野口雨情)
・せっせっせのよいよいよい(手遊び歌)
・たん たん たぬきの○○○○は/風もないのに ぶーらぶら(賛美歌の替え歌)
・ド、ド、ドリフの大爆笑(「隣組」の替え歌)
・ソ、ソ、ソラクラテスかプラトンか ニ、ニ、ニイチェかサルトルか(野坂昭如サントリーのウィスキーのCM、作詞、仲畑貴志、1976年)
ミツワ石鹸の〈わわわ わがみっつ〉というコマーシャル(1966年)は、〈わ〉の連打だが、意味の上でもつながりがある。歌といえば歌であるが、姫くりというお笑いコンビのリズムネタに〈つ、つ、つ、都合いい お、お、お、女です〉というというものがあった(2008年)。
敏いとうとハッピー&ブルー「星降る街角」(作詞、日高仁、1972年)は〈星の降る夜は あなたとふたりで 踊ろうよ〉〈ふたりであてなく 歩こうよ〉というところを「お、お、お、お、お、踊ろうよ」「あ、あ、あ、あ、あ、歩こうよ」という歌い方をする。これは歌詞の上では連発的表現は見られないが、歌うさいの表現として音を切っている。「お」も「あ」も母音なので、「あ、あ、あ、あ、あ、歩こうよ」と区切れば連発のように聞こえる。もし「走ろうよ」であれば「は、あ、あ、あ、あしろうよ」と歌うだろうから連発にはならない。吃音の連発なら子音込みで「は、は、は、は、は、走ろうよ」と不随意的な発声になる。また、これらは「おーーーー踊ろうよ」「あーーーー歩こうよ」と伸ばして歌うこともできる。吃音の種類にあてはめれば、音を伸ばす伸発である(もちろん吃音ではない)。
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単に語頭を連打する見かけ上の吃音ではなく、吃音というシチュエーションを歌詞に取り込んだものも存在する。一番知られたものが松田聖子「Rock'n Rouge」(作詞、松本隆、1984年)であろう。
〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで/時は逃げないわ もっとスローにささやいて〉
この歌は特徴的なイントロを持っていて、「ド」を7小節ずっと連打するのである。その鬱屈が8小節めに一気に解放されるのであるが、そこに至るまでの詰まったような感じが吃音を誘発するのではないかとさえ思える。
この歌は吃音を扱った作品とはみなされていないし、実際、歌詞の登場人物(気取った若い男性)は吃音症ではない。女性に対し好意を持っていることを伝えようとしたときに、緊張のあまりつっかえただけである。この男性は瞬間的に吃音者になっただけである。
吃音は精神的な予期(吃るのではないかという恐れ)が大きく影響する。この男性も、好きだということを告げるタイミングを見計らって、頭の中で何度もリハーサルを繰り返していたのだろう。「好き」という言葉を意識しすぎて、それを適正に発しようと気を回しすぎたために、逆に不自然になりつっかえてしまったのである。これは症状としては吃音と同じである。そもそも、極度の緊張状態において、発音の難易度が高くない語を流暢に発声できないということは、日常生活に支障をきたさない程度とはいえ、この人は潜在的に吃音の傾向性があると言えるのかもしれない。吃音/非吃音の間には、こうした中間層があると思われる。
小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」(作詞、小田和正、1991年)は次のような歌詞がある。
何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて
浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ
君があんまりすてきだから
ただすなおに好きと言えないで
〈好き〉という〈ありふれた言葉〉しか思いつかず、〈君〉になんと言えばよいのかわからないという。一方、「Rock'n Rouge」のほうは〈すなおに好きと言〉おうとするのだが、それは連発になってしまうのである。相手に簡単に好きだと告げるのは困難なのである。
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「Rock'n Rouge」について、もう少し詳しくみていく。
「Rock'n Rouge」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0004ad/l005ea9.html
この歌は、経験値が高い女性が観察者となって、マニュアルで武装したウブな男性をシニカルな感じで寸評していくというところから始まる。カッコつけているけど絵にならない、海へ行こうと誘うが動機が不純だ、自分でいうほどモテない、肩に手をまわしてきたのでつねった等、1番の歌詞はこんなダメ出しエピソードの連発だ。このシニカルさは、「私が教えて成長させてあげる」という含みがもたされている。
男性は、スポーツカーに乗り髪をグリースで固めているとか、指を鳴らすとかいった古い映画のようなステレオタイプに描かれている。過度に表層的で、滑稽じみた道化として描かれている。女性に馴れていてガールフレンドがたくさんいるようにふるまっているが、それは嘘だと見透かされている。肩にまわした手を軽くつねられただけで〈ブルーに目を伏せ〉てしまうほど気弱である。マニュアルで速成された表層は簡単に剥がされてしまう。この男性がどういう背景をもってここに登場してきたのかさっぱりわからないが、どちらに決定権があるかという男女のマウントの取り合いでは、女性のほうが全勝している。
ではこの女性は、どんな男だったらよかったのか。それはカッコつけたりわざとらしいところのない、虚飾のない男である。そのことは、この歌のキーワードが〈PURE PURE LIPS〉であることからも明瞭だ。女性がピュアであるように、男性の方も飾りを剥ぎ取って欲しいのである。肝腎なときに〈ス・ス・スキだ〉と吃ってしまうカッコ悪さが、男性の本来の姿である。なめらかに「好きだ」と言われるより、〈ス・ス・スキだ〉と吃るほうが心の奥から絞り出された本心といった感じがある。
〈ス・ス・スキだと急にもつれ〉てしまうのは、その言葉の発声を過度に意識して緊張の圧が高まったからである。〈急に〉とあるから、それまではペラペラとしゃべっていたのであろう。それが、このワードでひっかかってしまった。だが、もし、役者のように「君がスキだ」と流暢に口にできたとしたらる、思いがこもっていないとか、あるいは言い慣れているのではないかと疑われることになるかもしれない。そうではなく〈もつれ〉ることで、誠実な感じが態度になって表れたと思えるからいいのである。
ただしそれは第一関門の突破にすぎない。誠実な人なのはわかった、次のステップとして、〈もっとスローにささやいて〉欲しいのである。これは歌詞違いバージョンで言えば〈ムードに乗せて ささやいて〉ということである。
それなのに、なぜ〈ス・ス・スキだと急にもつれないで〉と言うのか。
ただ、気をつけるべきなのは、女性は「ピュアであること」を志向しているのではなく、「ピュアに見えること」を志向しているということだ。〈PURE PURE LIPS〉というのは、ピュアに見えるようなメイクのひとつである。つまりこの「ピュアさ」は文字どおりのものとして受け取ってはいけない。リテラルに受け取ってはならないというのは、昨今のナチュラルメイクと同じである。歌詞中の〈KISSはいやと言っても反対の意味よ〉も同じである。含意の範囲が広すぎて反対の意味まで含んでいる。意味を理解するのは文脈で見定めることになるが、ツンデレタイプの女性のようなので、文脈はわかりにくく、男性は混乱することになる。意味の最終決定者は女性であり、女性優位のもと男性はふりまわされる。自分は多義性を確保したまま、相手には、表面と離反しない内面を持った一義性を求める。そのほうが状況をコントロールしやすい。悪く言えば手玉にとることができる。悪女というより、女性が生き抜くための方法論ということだろう。
松本隆と松田聖子の組み合わせでは、すでに「小麦色のマーメイド」(1982年)で、〈嘘よ 本気よ〉〈好きよ 嫌いよ〉という混乱語法を用いていた。これは文字どおり受けとれば両価的な感情ということになるが、そうではなく不安定な過渡的な状態にあるということからくるものだろう。波打ち際でチャプチャプ戯れる「小麦色のマーメイド」的な世界が永続するとは思えない。
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You Tubeには、この歌の歌詞違いバージョンが流出している。おそらく手直しされる前の歌詞であろう。そこでは〈PURE PURE LIPS 純粋な言葉でくどかれたら I WILL FALL IN LOVE〉となっている。〈純粋な言葉〉は〈ス・ス・スキだ〉と吃ることと同じであろう。女性は、つくろわれた表層を剥がすために辛辣になっていたのである。
この歌詞違いバージョンについてついでにふれておく。歌詞違いバージョンを聞き取ってブログに載せている人がいる(しおれたきゅうり氏)。
https://ameblo.jp/kmattyo/entry-11034576241.html
You Tubeの動画と照合したが、ほぼ正確だと思われる。(しおれた氏本人が書いている通り〈いやね耳と遊ぶ風〉のあたりは意味が不鮮明。また〈唇の 動きで意味がわかるフレーズがいいわ〉となっているところは、歌では〈フレーズのいいわ〉と聞こえる。)以下、しおれた氏の聞き取りを引用する。(一部表記を修正した。カッコ内は完成版バージョン。)
「Rock'n Rouge」未完成テイク
青い春のパレットで 描くような海岸線
(グッと渋い SPORTS CAR で待たせたねとカッコつける)
ガードレールに片足を 乗せてキザに手招きしてる
(髪にグリース光らせて決めてるけど絵にならない)
「僕はもてるから」と髪をとかすけれどかなり疑問形
(海へ行こうぜって指を鳴らすけれど動機が不純だわ)
1ダースもいるGIRL FRIEND その割には暇そうだわ(話ほどはもてないのよ)
100万$ 賭けていい アドレスには私きりなの(私きりね)
肩にまわした手が少し馴れ馴れしい 指でつついたら(軽くつねったら)
ちょっとブルーに目を伏せた
PURE PURE LIPS
花色の 唇そんな軽く許せないけれど
(気持ちは YES KISS はいやと言っても反対の意味よ)
PURE PURE LIPS
純粋な 言葉で口説かれたら
(待ってて PLEASE 花びら色の春に)
I WILL FALL IN LOVE
防波堤によじ登り 遠い岬探したわね
(防波堤を歩くとき ジョーク並べて笑わせたの)
いやね耳と遊ぶ風 指の隙間しっかり見てた
(黙りこむともりあがるムードの波避けるように)
君がス・ス・スキだと急にもつれないで 時は逃げないわ
ムードに乗せて ささやいて(もっとスローにささやいて)
PURE PURE LIPS
唇の 動きで意味がわかるフレーズがいいわ
(気持ちは YES 横断舗道白いストライプの上)
PURE PURE LIPS
微笑みが 自然にこぼれるとき
(待ってて PLEASE シグナル変わるまでに)
I WILL FALL IN LOVE
PURE PURE LIPS
純粋な 言葉で口説かれたら
(待ってて PLEASE 花びら色の春に)
I WILL FALL IN LOVE
正式版もそんなにできが良いとは思えないけれど、歌詞違いバージョンの男性キャラが多少わかりやすく仕上げられたものになっている。
化粧品のCMということで、歌詞違いバージョンのほうが、タイアップを意識した歌詞になっている。このバージョンでは、女性の唇を〈花色の唇〉とふれていることのほかに、男性についても、先の〈純粋な言葉でくどかれたら〉とか〈唇の動きで意味がわかるフレーズがいいわ〉などと、口の動きに注目しているのである。それが、正式版では〈ス・ス・スキだと急にもつれないで…ささやいて〉という部分だけが残ったのである。つまり〈PURE PURE LIPS〉のピュアな唇は女性だけでなく、男性の唇も意味していたのである。
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正式版の歌詞と、歌詞違い版のそれとを比べると、作詞者がこの歌詞を作るのに苦労したであろう跡が読み取れる。
正式版の冒頭は〈グッと渋い SPORTS CAR で待たせたねとカッコつける〉であるが、ここは歌詞違いバージョンでは〈青い春のパレットで 描くような海岸線〉となっていて、全く異なる文言になっている。〈青い春のパレット〉というのは、「赤いスイートピー」の〈春色の汽車〉のような松本ワードであるが、男性のズレた感覚の表現が不十分だと思ったのか、どうでもいい言葉をやめて、スポーツカーというアイテムに差し替えている。
では、その〈グッと渋い SPORTS CAR〉とは何だろうか。〈渋い〉というのは、落ち着いているということである。スポーツカーはピカピカしていて新しいことに価値があるので、落ち着いた感じのスポーツカーというのは褒めていることにはならない。〈渋い SPORTS CAR〉というのは、昔流行したタイプのスポーツカーということで、そんなものをカッコつけて乗ってきたということで、鼻で笑っているのである。
加えてわかりにくいのが、〈グッと〉である。〈グッ〉というのは体に力を込めてなにかするときの擬態語(息の漏れる音でもあるので擬音語でもある)であるが、その意味では、この歌詞にはあてはまらない。『擬音語・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社学術文庫、2015年)では、状態が大きく異なるとか変化している様子という意味を掲げている。例文として「ひと昔まえに比べぐっと少なくなってしまった」。体に力を込めてなにかするのが主意で、そこから派生した意味であろう。〈グッと渋い SPORTS CAR〉というのは「かなり渋いスポーツカー」ということで、誰がみても流行遅れの代物ということである。〈グッと〉は冒頭なので文脈から判断できず意味がとりにくい。〈渋い〉というのも反語的だ。冒頭からしてスッキリしないのである。
言葉の音符への乗せ方も無理して詰め込んだ感じがするところがある。〈グッと渋い SPORTS CARで〉〈1ダースもいる GIRL FRIEND〉のところで、〈SPORTS CAR〉〈GIRL FRIEND〉は、日本語らしいモーラのリズムでは「スポーツカー」「ガールフレンド」は、それぞれ6拍、7拍である。英語の音節リズムではそれぞれ2拍である。ところが歌では、「スポーツカー」は8分音符5つに「スポ・ー・ツ・カ・ー」と乗せられていて、「ガールフレンド」は8分音符2つと4分音符1つに「ガ・ル・フレーン」と乗せられている。何が言いたいかというと、日本語のモーラリズムとも英語の音節リズムともズレた、居心地の悪さを感じるのである。このような歌い方をしている歌で、言葉のもつれ(ス・ス・スキ)が取り上げられているのは興味深い。
また、この語り手は〈時は逃げないわ もっとスローにささやいて〉と相手に要求する一方で、自分は、信号機が変わるまでには恋に落ちているだろうというのである。〈スローにささやいて〉というのはどういうことかというと、歌詞違いバージョンでここは〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで 時は逃げないわ/ムードに乗せて ささやいて〉となっていることから明白だが、ムードを大事にしろということである。だが自分はというと、横断歩道を渡り終えるまでに恋に落ちるというのでムードなんてありはしない。
「私を口説くときはムードを大切にしてよ」という歌は、同じ松本隆、松田聖子の組み合わせで「秘密の花園」(1983年)もそうである(こちらのほうが早い)。〈真面目にキスしていいの なんて/ムードを知らない人 Ah…あせるわ〉という。では、どういうムードがいいかというと〈私のことを 口説きたいなら 三日月の夜〉とあるから、薄暗い三日月の夜がいいというのである。この夜も〈月灯り〉だったのだが、満月に近かったのかもしれない。また、〈小舟〉に乗って〈流れる星〉を見ながら〈さすらう〉のがよいという。「Rock'n Rouge」では〈グッと渋い SPORTS CAR〉という中途半端な乗り物だったので、これもムードがないのである。
「秘密の花園」では〈他の娘に気を許したら 思い切りつねってあげる〉とあり、「Rock'n Rouge」では〈肩にまわした手が少し慣れ慣れしい軽くつねったら〉とある。「つねる」というのは、ここでは相手の行為を矯正するためにおこなうしつけである。拒絶ではなく、将来の継続的な関係を前提にして是正を求めている。〈他の娘に気を許したら〉もうお別れよ、ではなく、〈肩にまわした手〉をピシャリと叩いて振り払うのでもない。「つねる」というのは自分の意思表示を明示しないままで(「やめてよ」とは言わない)、相手に気づきをうながすことである。プライドが高いのである。
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さて、〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで〉という「言葉のもつれ」が生じた瞬間は、芝居のようにカッコつけている男性がボロを出した瞬間でもある。男性の方が女性をリードしているつもりだったのに、無理をしていることが露呈してしまった。表面的な虚飾が剥がされて裸の自分があらわになった。吃音はごまかせない。吃音は、話者にはコントロールできないものとして、真実(ピュアさ)をさらけ出す機能を有する。
女性は、その機会を逃さず捉えて〈急にもつれないで…もっとスローにささやいて〉とアドバイスする。もちろん実際口に出したということではなく、内心で思ったということだろう。ここにはからかいの気持ちが多少なりとも見受けられる。こういう指摘を直接相手に言ったら、プライドを傷つけることになるだろうし、そもそも失敗した表出を〈ス・ス・スキだ〉と真似されること自体たいへん腹立たしいことだ。語り手の次元でも歌の次元でもそうである。先に見たように、歌ではリズムにのって語頭を連打することが好まれる。だがこの部分は、そういうリズム的要素から書かれたものではない。松本隆は「渚のバルコニー」で〈馬鹿ね 呼んでも無駄よ〉という歌詞の〈馬鹿〉について「かなり悩んだ」(『松田聖子と中森明菜』中川右京、幻冬舎新書、2007年、p191)ようだが、〈ス・ス・スキだ〉については悩まなかったのだろうか。
二人の関係において、女性が「場の支配者」であることがここではっきりした。実際、女性はそれまでも受動的決定者とでも言うべき立場であった。肩にまわした手をつねって拒否の態度を示したり、〈KISS はいやと言っても反対の意味よ〉と、言葉の意味の決定権を握っていた。
受動的決定者であることは、最終的に男性の求愛を受け入れるか否かという決定権を女性が持っていて、その表明のタイミングも女性が握っているのだという優位性を弄ぶことにつながっていく。要は、お姫様気分が満喫できるお相手なのだ。それまでは男性の方も自分が優位にたとうとして女性と暗黙の闘争(かけひき)をしていたのだが、吃音という「異常な状態」をはからずも晒すことによって闘争の場から敗退してしまった。
表明のタイミングというのは、たしかに〈気持ちは YES〉で相手の方に傾いていはいるのだけれど、今、横断歩道を渡っているところで〈シグナル変わるまでに I WILL FALL IN LOVE〉、つまり信号が変わるまでのとても短い間に、横断歩道を向こうに渡りきるまでの間に、恋に落ちているだろうと言うのである。それまで〈待ってて PLEASE〉と勿体をつけているのである。相手の気持ちを受け入れるかどうかは自分しだいなので、どのタイミングで自分の気持ちを決定しようかと楽しんでいるのである。そしてそれは何か感動的なきっかけではなく、横断歩道を渡るというどうということのない区切られた時間のうちになされるところに弄ぶ心理がうかがえる。
相手が〈渋い SPORTS CAR〉に乗ってきたり、〈髪にグリース光らせて〉いたり、〈海へ行こうぜって指を鳴ら〉したりするのを評定するあたりは、「ウッ」という感じで我慢している。しかし、相手が自滅することで男女の闘争に勝利して〈横断舗道白いストライプの上〉にいるときは解放感に満ちている。この歌は鬱屈から解放へという流れでも読むことができる。その転機となるのが吃音である。
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サビの〈PURE PURE LIPS〉というフレーズは、カネボウのコピーライターが用意したもので、それで松本隆は行き詰まって失踪してしまったらしい。(中川前掲『松田聖子と中森明菜』251ページ)
1970年代後半から1990年にかけては、資生堂、カネボウ、コーセーといった化粧品会社が、季節ごとにテレビCMを制作しており、その中からヒット曲がいくつも生まれた。(次のブログはこれを一覧表にまとめてある。https://hojipedia.hatenablog.com/entry/化粧品CM戦争キャンペーンソング比較年表)
「Rock'n Rouge」がタイアップしたのはカネボウ化粧品の1984年春のCMで、歌だけでなく、聖子自ら出演している。売ろうとしているのは「植物性色素配合バイオリップスティック」という口紅で、「唇を守る」「花染め色」であることがアピールされている。「ピュアピュア」という語が添えられているが、バイオ口紅がなぜピュアと結びつくのかはよくわからない。植物性=天然由来=ピュアという連想だろうか。
化粧品CMで「ピュア」という語が前面に打ち出されたのは、7年前の1977年、資生堂の口紅「ピュアな色 クリスタルデュウ」である。CMの長編バージョンでは、「春の色。混じりけがないから明るい感じです。ピュア」とナレーションが入る。イメージソングは尾崎亜美「マイピュアレディ」。歌詞には、〈あっ気持ちが動いてる/たったいま恋をしそう〉(作詞、尾崎亜美)とある。
この歌詞の解説にもなるようなことを、CM中で小林麻美がモノローグで語る。「目の前のものでいいんじゃない? 今ここにあるもの、本当に今自分がこう感じたからね、すごくハッピーになれて、泣きたいときにすごく素直に泣けて、そういうふうに自分の気持ちに素直に生きられるってことがピュアってことじゃないかなと思うのね」。
ここでは「ピュア」はたんに化粧品の色についてのものではなく、生き方に関わる価値にまで昇格する。つまり「自分の気持ちに素直」でいることが「ピュア」で、〈あっ気持ちが動いてる〉ということを敏感に感じとり、〈たったいま恋をしそう〉なので、ためらいもなく恋をするということが「ピュア」なのである。
これはまるで「Rock'n Rouge」について語られているかのように錯覚する。〈あっ気持ちが動いてる/たったいま恋をしそう〉というのは、「Rock'n Rouge」の〈シグナル変わるまでに I WILL FALL IN LOVE〉というのに近いだろう。「Rock'n Rouge」では、ピュアな色の口唇はピュアな気持ちの象徴となって、あれこれ余計なことを考えず自分の心の動きに素直に従うことがよいとされるのである。相手を好きだと思うなら、ためらわず好きになればよいのである。
〈KISS はいやと言っても反対の意味よ〉という韜晦的態度は、自分も相手のことが好きだということを悟られたくないゆえであるが、それはピュアな態度ではない。自分ももっと素直に率直に態度を表明すべきなのだ。バイオ口紅はそういう魔法をかける。あるいはそういう気分にふさわしい口紅だ。〈PURE PURE LIPS〉からこぼれるのは真実の気持ちである。〈気持ちは YES〉ということがはっきりしているなら、その〈気持ち〉に忠実になろう。そうはいっても、さらにもうひと押しきっかけが必要である(女性だから本音をみせるのは二重三重のベールを取る必要がある)。その転換になるのが、〈ちょっとブルーに目を伏せた〉とか、〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで〉といった、カッコつけた表層から垣間見える相手の本質である。
この歌では、表層は内面とは食い違いがあるということを一貫して言っている。だが〈ちょっとブルーに目を伏せた〉とか〈ス・ス・スキだと急にもつれ〉た瞬間は、その食い違いがなくなって、表層と内面が一致した瞬間である。女性の方も、それまでは〈反対の意味〉で表層を飾っていた。しかし相手が表層と内面を一致させ真実の姿をさらしたことで、自分も安心して素直(ピュア)になり、〈I WILL FALL IN LOVE〉と言うことができたのである。
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最後に、吃音になっている歌を拾い出してみたので掲載しておく。「Rock'n Rouge」の影響か、似たような言い方の歌詞も多く、それははじめの方にまとめておいた。
・明日こそちゃんと伝えたい ス・ス・ス・スキでした(増山加弥乃/望月美寿々「イマドキ乙女」)
・ス・ス・ス・ス・スキヤキは好きですか(DISH//「クイズ!恋するキンコンカン!」)
・照れずに今日は言うぞ I Love You「す、好きだー!!」(湘南乃風「炎天夏」)
・す、す、好きなんかじゃないから!(市ヶ谷有咲(伊藤彩沙)「す、好きなんかじゃない!」)
・でっかい声で、言うぞ、す、す、好きだー!(若旦那「夏の神様」)
・わたし あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが す、す、す、 わたし あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが す、好きです(吉澤嘉代子「未成年の主張」)
・あなたがずっとすすす好きでした!(SparQlew「Love Express」)
・あのね あたし あなた のこと あのね あたし あなた のこと あたしは あなたが…… す、す、すす、すす、す…す すすすす、す、す、す、す、 すう、はあ…ごめん、忘れて ……待って! す、す、すす、すすすす すすすす、す…す…す…す す、す、すす、すす、す…す すき、だあいすき!!!!(山音まー「すすすす、すき、だあいすき」)
・すすす好きさ 東京 おお 我が街 おお 我が友 トトト…東京 東京 東京…ツツツツ突走れ 息絶えるまで(遠藤賢司「東京ワッショイ」)
・「あなたがすすす」噛んじゃったまじでもういや 分かんない(妄想キャリブレーション「まじでもういや」)
・どうしよう?「す、す、す、す‥すき やきっておいしいですよね。」(小倉唯「Merry de Cherry」)
・「あなたのことがす、す、す、す、すーーー」すずめがちゅんちゅんかわい(halca「告白バンジージャンプ」)
・「す」のあとが続かなくても がんばれワタシ…す、す、す、す、す、す、す、 あのさ、ねえ す、す、す、す、す、す、す、 ちょっといい? す、す、す、す、す、す、す、 あなたが す、す、す、す、す、す、す、「すき」なんです(whiteeeen2「#やばちょ」)
・あ、あ、あ、愛しておくれよなんて言えない(The SALOVERS「愛しておくれ」)
・彼は言うはず「あ、愛してる…」ラッキー!(酒井法子「神のみぞ知るハートのゆくえ」)
・それもきっと愛だ あなたが笑えばほら世界がまわるよ 世界が ま、ま、まわるよ…世界を う、う、うつすよ(琴音「きっと愛だ」作詞、mochi)
・かかか回覧板を見ぬまま旅行へ鍵かけず家を出たOLさん(ゲスの極み乙女。「O.I.A」)
・受話器が叫ぶかかかかか勝手な女はななななな泣きじゃくる(人間椅子「神経症I LOVE YOU」)
・ババババババンドマンそう かかかかかか会社員もそう(ミオヤマザキ「バンドマン」)
・かかかかなり急展開!? だだだだれか助けてよ!!(きゅい~ん'ズ「ままままさかの片想い」)
・か、か、か、加速する(ONE N' ONLY「Dark Knight」)
・く、く、くぬぎの木とか こ、こ、こならの木には か、か、かならずいるぜ ノ、ノ、ノコギリクワガタ(PENICILLIN「男のロマンZ」)
・ななななんて気持ちはききき君一人じゃ無い独りぼっち同士の同志よ(吉田山田「押し出せ」)
・ささささくらの ききき季節に同じ桜は二度と咲かないががが頑張れ(Jin-Machine「がんばれ!桜、アディオス」)
・こ、こ、こんなところに Σ(゚д゚;)探し物はいつだって忘れた頃に(宏実「不意打ちLOVE」)
・ががががが頑固もの めめめ明治の男…じじじじじ人生の さささ最後の日々を(酒井法子「おじいちゃん is watching TV」)
・両手には 君の手とささささささサイダー…街灯に光るてててててて天使のような横顔は(Sundae May Club「サイダー」)
・ここここ コンテストまずは ささささ 参加してみれば(吉田凜音「パーティーアップ」)
・有刺鉄線に身を寄せてみよう 何か言わなくちゃ さ、さ、さ、さよなら(サクラメリーメン「夏影」)
・だ、だ、誰か助けてよ し、し、支配してくれよ だ、だ、誰彼構わないで 刺してしまいそう(suzumoku「泥雲」)
・せ、せ、正義の背並べなんて世界悔しいなおんなじページ(うじたまい「正義」)
・なななな何とかなるだろう そそそんなに気取らずに のののののんびり行こうよ(クサカンムリ「明日は明日の風が吹く」)
・そ、そ、そ、そんな、女のコと、手、手、手、手を繋ぐなんて こど、こど、こどど、子供ができちゃうじゃないですか(小須田崇ほか「DOUTEI☆ロケンロール」)
・「あなたは何が欲しいの?」そ、そ、そ、そ、そりゃもう君だぜ(THE 夏の魔物「コンプレクサー狂想組曲」)
・たたたたたた多数決でわたし 上下左右前後どこにいくの…たたたたたた足すんなら早めで(ふぇのたす「たびたびアバンチュール」)
・たたたたたたたたたた助けて神様 だだだだだだだだだだ大丈夫か俺は たたたたたたたたたた楽しくやってさ だだだだだだだだだだだんだん腐っていく(CIVILIAN「デッドマンズメランコリア」)
・君が触れたら、た、た、ただの花さえ笑って宙に咲け 君が登って、て、照れる雲も赤らんで飛んでいく…君がいるなら、た、た、退屈な日々も何てことはないけど(ヨルシカ「あの夏に咲け」)
・あ、あ、明日も朝まで遊ぼう か、か、乾いたカラダ枯らして さ、さ、散々騒ぎ騒いで た、た、怠惰 多分、他力本願…な、な、泣き言 何度も何度も泣いて は、は、恥さらし 早も来 二十歳(アルカラ「わ、ダメだよ」)
・つつつ使えない物は何でもベイビー切り捨て使い(セプテンバーミー「ハローグッデイ」)
・退屈に怯えてないで、で、で、で、で、出掛けよう…勇敢に夢を手に取り、り、り、り、り、凛と構え…Musicを鳴らし続けて、て、て、て、て、て、て… 手を伸ばせ(Yun*chi「Wonderful Wonder World*」)
・涙なんか かかか流せな なななない平気だって だって今も ももももあなたを(IZ*ONE「ご機嫌サヨナラ」作詞、秋元康)
・ままままさかこんなこと!? だだだだれのしわざなの??…ちょちょちょちょいと たっ、たんま!!…わわわわたしもしかして!? アイツに本気 ままままさかの片想い(きゅい~ん'ズ「ままままさかの片想い」)
・ババババリカタな片想い この気持ち早く届け かかか替え玉なんていないから 今あなたに会いにゆく ゼゼゼ全力で食べ尽くして…ななな何回だって会いにゆく あなたの事 す、すいとーよ(#フラサービックル「バリカタカタオモイッ!」)
・は、は、は、はじめてなのに なつ、なつ、なつかしいかほり…も、も、も、もぎたて胡瓜 ほ、ほ、ほ、ほうばり吸引(MINORITY BOYS「山岸先輩の,さくらんぼ狩り」)
・いいいいつでもどこでも きき君だけの世界へ ぽぽポケットの中で すすすスイッチ入れたら 「ね?」…ひひひ広い空の下 きき君がもしかしたら こここの声をきっと ままま待ってくれてるかも 「きゃっ」(イヤホンズ「耳の中へ」)
・ふ、ふ、ふ、ふ、ふなっしーい いつでも元気に梨汁(ふなっしー「ふな ふな ふなっしー♪」)
・子の希望の『望』を、ま、ま、ま、ま、守りたい。(中村一義「イロトーリドーリ」)
・ギリギリバッテリーま、ま、ま、ま、ま、まさかの起動でバ・グ・りそう(篠崎愛「メモライズ」)
・Hold on, Papa バ、バ、バリケード、ドド~ン Oh, ド、ド、ドレミファソラシ Go!(安室奈美恵「FIRST TIMER feat.DOBERMAN INC」)
・ややややや 焼き付くアスファルトに ななななな 波打つひとの流れ(夢みるアドレセンス「ストロベリーサマー」)