Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

若い性はどう描かれたか

1 ABCソング

 〈ABCは知ってても それだけじゃ困ります アルファベットのその次は 旺文社カセットLL〉という学習機器の販促コマーショルが、私が小学生の頃(一九七〇年代)流れていた。中学生になると、この〈ABCは知ってても それだけじゃ困ります〉という部分を、ませた友人などは訳知り顔で口ずさんでいた。私はあとで知るのだが、Aはキス、Bはペッティング、Cはセックスという、順番を意味する隠語である。ペッティングというのはわかりにくいが、セックスにまで至らない愛撫のことである。語源としてはペットのように可愛がることだ。〈ABCは知ってても それだけじゃ困ります〉という歌詞を裏読みすれば、セックスで妊娠しないように準備しておけといったほどの意味になるだろう。

 最近はこのABCの隠語はすっかり聞かなくなった。実際、段階を追って関係を深めていくのではなく、AがあればCまで一気に進むので、分ける意味がない。特にBとCは切り離しが難しいだろう。ウィキペディアの「ペッティング」の項目には「思春期から結婚前の男女間や近親姦において、妊娠・性感染症の危険性や処女を失うことへのためらい、性交同意年齢など心理的に罪悪感や様々な抵抗がある。そのため性交まで至らず、その前段階に留まりつつも身体的に快感を追求している状態こそが、中盤を取り持つペッティングであった」と書いてあるが、現在はそうした「ためらい・罪悪感・抵抗」が薄れているから、中間段階の切り分けは意味がないだろう。逆に、昔は、性行為のひとつづきの流れをABCという差異で区切ることによって、一線を越えようとする手前で踏みとどまらせる関門を作っていたのだといえる。次の「段階」へ進むには、相手の許しが必要になる。この点、かつてのほうが女性の主体性が残されていたといえる。なんとなく最後までいってしまうのではなく、段階的な名前があることを知っていたほうが、関所を越える意識を持ちやすい。

 ネットには、「DEF」の解説もあって、Dは妊娠(順番からしてそうだが、文字がお腹が膨らんだ形に見える)、Eはengagedで婚約、Fはfamilyで家族になるということらしい。Eは中絶とするものもある。こじつけであり、どのような説明も可能だろう。そもそも「ABC」はたんに順番を示すもので、そのような頭字語としての意味はない。「HIJK」というのもあるが、くだらないから省略する。

 ABCの隠語について、ネットでは8090年代に流行ったと書いてあるものがいくつか見受けられたが、私が中学生の頃(1970年代後半)には既にかなり浸透していた。研究社で1975年に『アメリカ俗語辞典』という酔狂な本を出しているが(翻訳)、そこにはABCについて上述のような意味は載ってない。アメリカでは60年代に性の革命が起きており、性に対する「ためらい・罪悪感・抵抗」は薄れていた。周囲の目を気にしながら段階的に交際を発展させていくABC方式は日本的なものだろう。もちろん、どこまで進んだかということは当人たちにしかわからないことであるから、本人の倫理的な抑制や、ふしだらな女と思われないためのふるまいとか、「彼と昨日キスしたの」などと友人らに報告する場合などしか段階は意味はなさないけれども。

 旺文社のCMが性的な意味で歌われたということは、『ABCは知ってても』というタイトルのマンガ(山辺麻由)や小説(夏井瑤子)が90年代前半に出ていることからも明らかだろう。もしかしたら、ABCが性的接触における進行段階の隠語となったのは、旺文社のコマーシャルが起源なのではないかとすら思える。冒頭に掲げた歌にはいくつかバージョンがあって、〈I LOVE YOU を知ってても それだけじゃ困ります〉という歌詞があるようだ(音源未確認)。これはかなり性的なニュアンスを含んでいる。作り手は子ども向けの真面目な学習機器に性的なことをほのめかすような遊びはしないはずで、〈I LOVE YOU〉は誰でも知っている英語ということで使ったのだろうが、それが、〈I LOVE YOU〉という言葉は知っていても、その次はどうすればよいか知っているかという意味で受け止められたのではないか。

 性的な符牒である「ABC」は80年代にいくつかの歌で取り上げられた。代表的なのは沖田浩之のデビュー曲「E気持(イーきもち)」(作詞、阿木燿子1981年)である。沖田は硬派な不良のイメージで売っていたのに、〈Aまでいったと〉〈Bまで済んだと〉〈Cまでスムース〉〈ABCハーンE気持〉という歌詞にかなり面くらった。これでは不良と言っても軟派である。沖田がこの歌を自らすすんで歌いたいと思ったとは思えず、テレビを見ていて痛々しいものを感じた。ただ、歌詞じたいはABCの意味を的確にとらえていて、ここにあるように、彼と「どこまで進んだか」というのは、当時の女子学生の定番の話題だった。焦ってはいけない、遅すぎてもいけない、つきあって1か月でAとか、夏休み中にはCとか、交際期間に応じたあるべき到達度が設定されており、女性ティーン誌などが有力な情報源だった。

 「E気持」は大学(キャンパス)が舞台で、そこでABCと進んでいく男女が噂になる。大学を舞台にしたのは歌の過激さをやわらげるためだろう。噂が噂として広まるのは平均から突出した者に制裁を加えるためであることが多いのだが(現在では、噂は、画像や音声という根拠をともなって写真や動画で拡散される)、この歌ではそうではなく、俺達は〈仲間同志さ手を貸すぜ/大人は昔の自分を忘れてしまう生きものさ〉とあるように、仲間うちで連帯し、無理解な大人に対抗しようとするのである。80年代前半まで中学・高校は生徒の暴力で荒れており、その原因は大人たちの無理解とされていて、沖田浩之は生徒の暴力やいじめがテーマだった『三年B組金八先生』の第二シリーズ(19801981)で注目されたから、その雰囲気が歌にまで持ち越されたのだろう。〈常識なんてぶっとばせ〉と歌うこの歌は、性の解放は旧弊からの解放の象徴でもある。

 もうひとつよく知られるABCソングは中山美穂のこれもデビュー曲「C」(作詞、松本隆1985年)である。中山自身が出演するテレビドラマ『夏・体験物語』の主題歌で、ドラマは初体験に憧れる女子高生たちの学園コメディ。性的モチーフが中心となり、16歳で初体験し妊娠・中絶したり避妊の方法とか結構なまなましいセリフが飛び交う。歌詞もそれに見合ったもので、〈Tシャツを脱ぎながら 入り江に走る/見ないでね 約束よ 水晶の波/てのひらに もぎたてのリンゴかくして〉とエロティックである。〈Cから始まる 恋のバラード〉とあり、この頃になるともう、ABCの順番どおりではなく、ABCの全てを一度に経験してしまうようになっている。沖田浩之の「E気持」がたとえ駆け足でも段階を踏んでいくとしたら、こちらはまどろこしくてそんなことはやっていられないとばかりに、一足飛びに〈Cから始まる〉のである。〈友達と話したの 誰が最初に 大人への階段を登るかなって〉ともあって、ABCの段階的進展を踏まえているように見えるが、この場合は一段目が〈C〉なのである。

 

2 果実ソング

 中山美穂の「C」で注目したいのは、〈てのひらに もぎたてのリンゴかくして〉というところだ。この歌は、月明りの夜の入り江で若い男女が性行為を行うというものだ。女性の方は初体験らしい。それをきらびやかな言葉を散りばめてロマンチックなものとして書いている。この作詞家は〈月明かり(灯り)〉と〈入り江〉の組み合わせが好きで、他にも、松田聖子秘密の花園」(1983年)、近藤真彦「永遠に秘密さ」(1984年)などでも用いている。入り江は海岸線がくぼんだ場所で周囲から隠されている。それが月明かりとなれば一層神秘めく。

 〈Tシャツを脱ぎながら 入り江に走る……てのひらに もぎたてのリンゴかくして〉とあり、手ブラで胸を隠したということである。歌詞を読むと、夜の浜辺で男を追いかけながらTシャツを脱ぎ捨て、胸だけは手で隠している、という珍妙な絵が浮かぶ。それに、ここまでは積極的なのだが、性行為に入るとウブなお姫様みたいに神妙になってしまうギャップもおかしい。能動性と受動性を組み合わせている。女性の性へのあこがれを描いているように見えて、実は男性の願望を投影したもののようにも思える。歌を受容する若い男女のどちらが聞いても自分が都合よいように解釈するであろう。

 それはともかく、ここで〈もぎたてのリンゴ〉というのは若い女性の乳房の比喩である。松本隆もよくこんな歌詞を書いたと思うが、ウィキペディアでは自ら志願して書いたものだとの記載がある(「C」の項目)。松本はちょうど松田聖子から距離を置き始めた頃で、聖子は並のアイドルとは別格だったからできなかったが、いかにも女性アイドルのデビュー曲っぽいエッチなアレゴリーの歌詞を書いてみたかったのかもしれない。

 脱線するが、松本隆が書く聖子の歌はたいてい相手の男性より少し高みにたってものを言うところがあって、歌詞のなかの女性は聖子のイメージでちょっとお高くとまっていた。相手の男のことを「白いパラソル」では〈あやふやな人ね〉と言い、「赤いスイートピー」では〈気が弱い〉、「渚のバルコニー」では〈あきれて〉、「Rock'n Rouge」では〈決めてるけど絵にならない〉、「ハートのイアリング」では〈男らしく抱いて〉などと、相手のことは好きだけれど相対的な優位を随所に示す物言いをしている。また、「秘密の花園」の〈私のことを口説きたいなら〉、「天国のキッス」の〈愛していると言わせたい〉、「ピンクのモーツァルト」の〈色っぽい動きだけ計算してる〉など、自分が主体となって相手を操作している一面があるところを見せる。松田聖子は男に都合よく動かせるアイドルのイメージを付与されなかった。都合よく動いているようでも、そこにはしたたかな〈計算〉がある、というイメージが歌詞によって作られている。

 話を戻すと、歌で、若い女性を果実に喩えることはよくある。古いものにスリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」(作詞、星野哲郎1959年)がある。冒頭から〈若い娘は ウフン〉とお色気満載で、〈ほらほら 黄色いサクランボ/つまんでごらんよ ワン/しゃぶってごらんよ ツー/甘くてしぶいよ スリー〉と思わせぶりだ。この歌でサクランボが具体的に何を意味しているのかははっきりしないが、歌詞の言葉やサクランボの大きさから、乳首など身体の部位を想像させる。サクランボが黄色とされているのは、黄色の種類のサクランボということではなく、赤く色づく前の成熟していない状態を思わせる。黄色=若い娘、ということである。

 戦後すぐに流行った「リンゴの唄」(作詞、サトウハチロー1946年)の〈赤いリンゴ〉は換喩的である。この歌でリンゴに〈くちびる寄せて〉いる語り手(歌い手である若い女性)はリンゴと密接に関係した存在であり、赤い頭巾をかぶった女の子を赤ずきんちゃんと言うように、リンゴについての記述はそのまま語り手についての記述になっている。だから〈リンゴの気持ちはよくわかる〉というのである。オリジナル盤では一番を並木路子、二番を霧島昇が歌っている。歌詞の二番では〈あの娘よい子だ 気立てのよい娘/リンゴによく似た 可愛い娘〉とあるように、第三者の視点になるが、歌い手が交代していることを考えると、視点の交代は妥当な解釈であろう。ここではリンゴは直喩として用いられる。だがこの歌では、リンゴはたんなる比喩にとどまらず、言葉にしがたい様々なものの象徴になっている。

 山口百恵の「青い果実」(作詞、千家和也1973年)はよく知られるが、タイトルには「果実」とあっても、歌詞に果実は出てこない。次に、歌詞に果実が出てくる歌をいくつか掲げてみよう。

 

・私は今もぎたてのオレンジ したたり落ちる甘いしずく/私は今まぶしさの最中 季節の色に染まる果実(柏原芳恵「毎日がバレンタイン」作詞、阿久悠1980年)

・私達って早熟の果実甘い蜜の香り 熱い吐息 頬をピンクに染めてた(おニャン子クラブ「早すぎる世代」作詞、秋元康1985年)

・軟派少女の真似して 口笛吹きほどいたポニーテイル/午前四時のビルの谷間 ガラスの天使たちがいっぱい……ひと夏のさよならの果実たち(荻野目洋子「さよならの果実たち」作詞、売野雅勇1987年)

・近ごろ私達は いい感じ/悪いわね ありがとね これからも よろしくね/もぎたての果実の いいところ/そういう事にしておけば これから先も イイ感じ(PUFFYこれが私の生きる道」作詞、奥田民生1996年)

・成熟した果実のように あふれ出してく 欲望に正直なだけ(SPEED「Go! Go! Heaven」作詞、伊秩弘将1997年)

・柔らかい口唇は禁断の果実……あぁ甘く香り立つ 魅惑の果実(深田恭子「最後の果実」作詞:黒須チヒロ1999年)

 

 例にあげたのは、いずれも男性が作詞し、若い女性アイドルが歌うものである。期せずしてそういうものばかりになったが、男性歌手が果実ソングを歌っていないわけではない。女性歌手もカマトトぶってはいるが歌詞の意味がわからないわけではない。彼女たちにこのての歌を歌わせるのは、商品説明を自分でおこなわせると同時に、作り手も聞き手も「言葉責め」を楽しみたいところがあるからであろう。

 女性を食べ物に喩えるというのはよくある。なかでも果実というのは未熟な青い状態から、熟れた成熟した状態まで変化があり、また、割れば果汁があふれてくるなど、エロティックな想像をかきたてやすい。

 果実というのは、その前に花の状態がある。花も女性の比喩になる。〈うつ向き加減の Little Rose 花びら 触れて欲しいの〉(松田聖子青い珊瑚礁」作詞、三浦徳子、1980年)などがそうである。花が開く前は蕾で、少女のままであることを意味する。蕾、花、果実という植物の変化が、そのまま人間の女性の成長になぞらえられる。

 果実は女性の喩えであるだけではなく、男女問わず若者を指したり、恋愛の心理状態を指したりすることがある。『狂った果実』(石原慎太郎)、『不機嫌な果実』(林真理子)といった小説があるが、これらは性に対して奔放なところがある人たちが登場している。学歴に苦闘する大学生の青春を描いた『ふぞろいの林檎たち』というテレビドラマもあった。最近だと『フルーツ宅配便』(鈴木良雄)というマンガは性風俗を描いていて、源氏名がレモン、あんず、モモといった果物名である。

 恋愛の心理状態を果実に喩えるのは、例えば河合奈保子「夏のヒロイン」(作詞、竜真知子、1982年)の〈甘いですか酸っぱいですか ちょっと青い フルーツみたい これが恋ね あなた〉がそうである。甘いだけではない、ちょっと酸っぱいところがあるのが恋愛なのだということであろう。また、甲斐智枝美「レモンの恋」(作詞、竜真知子、1981年)では〈恋は青いままのフルーツ……レモンの恋 もう はなさないでね〉と歌われる。こちらの恋はさわやかではあるが酸っぱさが強そうだ。いずれも作詞は竜真知子である。

 果実のいくつもある種類のなかで歌詞によく用いられるのが林檎や桃である。これらは球形をしており、男性に比べ曲線で構成される女性の身体に類似の想像力がはたらく。とくに胸部と臀部の膨らみは女性の身体の外観を特徴づけるから、球形の果実が比喩の対象に選ばれることになる。

 まずは小説から果実の比喩をあげておこう。村上春樹は独特の比喩で知られるが、これはそれほどオリジナリティはない。「グレープフルーツのような乳房」(『風の歌を聴け』)、「グレープフルーツのような大きさとかたちの、美しい一対の乳房」(『1Q84』BOOK 1)と果実の比喩を書いている。男性週刊誌のグラビアでは、「たわわなフルーツボディ」のような表現をしばしば見かけるし、大きな胸の女子アナがスイカップと呼ばれたこともあった。NHK地方局の契約キャスターだった古瀬絵理は、その胸の大きさからスイカップのあだ名がつけられた。ウィキペディアによるとそれは2003年である。このことが重要なのは、おそらく、それまで小説や歌の歌詞など限られた場所で用いられていた果実の比喩表現が、ここで一気に人口に膾炙したであろうということだ。

 女性の胸の重さを果実で喩えると何になるかというウェブページがいくつかある。以下、カップサイズと両胸の平均的な重さによる喩えである。

A 140g キウイフルーツ1個分

B 280g リンゴ1個分

C 480g グレープフルーツ1個分

D 760g リンゴ2個分

E 1.1㎏ パイナップル1個分

F 1.6㎏ マスクメロン1個分

G 2.2kg 小玉スイカ1個分

https://nakanode.com/breast-size/

 上記で参考にしたのはブラジャーを扱う会社のホームページなので、女性が見て嫌悪感を抱かないように配慮されているはずである。重さを比較するのが趣旨であるはずだが、形状においても球形の果実のほうが類似のイメージが持てるようだ。ここで選ばれた果実は文芸や流行歌などで比喩する対象となったものと共通している。

 これまで果実と書いてきたが、果物と書いても同じである。指す対象は同じだが、果物のほうが食べ物としての意味が強くなる。果物は食料品としての用語で、果実は生物学の用語だ。女性の身体を果実に喩えるのはそれが食べ物でもあるからで、性と食はつながっているとはよく言われる。次の歌詞は、食べることが攻撃性へと変わってしまっている。

 

・君の胸は まっ赤なリンゴさ まっぷたつにわりたい この指で/かぶりつき みつの味を 一人じめしたいよ(あいざき進也「狙いは女神」作詞、岡田冨美子1975年)

・ほらリンゴは食べごろだよ 噛めば 愛の血が満ちる……もう芯まで熟れてるのに 照れててんでいくじなし!(森川美穂「姫様ズームイン」作詞、ちあき哲也1986年)

 

 次の歌は珍妙なタイトルだが、ここにリンゴが出てくる。これは身体の部位の比喩というよりは恋愛の状態のことである。リンゴが出てくるのはロビンフッドが頭の上に置いたリンゴを見事矢で射たからで、そのロビンフッドの矢も、恋のキューピッドの矢からの連想で出てきたものだろう。矢はエロティックなものを連想させる。

 

・木陰に身をかくし ロビンフッドみたいに すばやく愛の矢をはなってくれた/青い青いリンゴが 赤く赤く色づいたのは あなたの矢がささったせいよ(榊原郁恵「いとしのロビン・フッドさま」作詞、藤公之介、1978年)

 

 次の歌にはイチゴが出てくる。イチゴは赤いので口唇の比喩になりやすい。ひとつめはまさにそれで穏当だが、ふたつめのイチゴは乳首の比喩である。しかもそれをタイトルにもってきている。17歳の女性アイドルにこういう歌を歌わせるのは1980年代後半のアイドル冬の時代を生き残るために必要な過激さだったのか。作詞の阿久悠も全盛期の感覚を失くしていたのか。

 

・ボニーボニー イチゴのような君のくちびる(近藤真彦「ミッドナイト・ステーション」作詞、松本隆1983年)

・たとえばそうね いちごがポロリ そんな感じかな/踊りに夢中に なってるあいだに 肩ひもがずり落ちて/そりゃもう おおさわぎ(本田理沙「いちごがポロリ」作詞、阿久悠1988年)

 

 次の二つの歌ではピーチ(桃)が出てくるが、ここでは女性の皮膚の色味や肌理の比喩になっている。

 

・君はもう まるごとフルーツのようです 素肌もかわいらしくピーチ/ぜひとも今夜 愛のフォークで突き刺したい で すかさず頬ばりたい……あふれる果汁 指ですくってホラ 味わってみたい(及川光博「まるごとフルーツ」作詞、及川光博2002年)

・薄いピーチの皮をむいてゆくように ストッキングをそっと脱がせようか(大谷めいゆう「フルーツ・ラ・ブ・モード」作詞、田久保真見2009年)

 

 果実の中では、ピーチ(桃)が一番女性の身体に近いかもしれない。『いろごと辞典』(小松奎文、角川ソフィア文庫2018年)には「桃」の項に、そっけなく「お尻」とあるだけ。この辞典は江戸時代中心だが、用例もないので、当時はそれほど広く用いられなかったのだろう。桃も今ほどありふれてはいなかった。当時は現在ほど身体の発育もよくなかったから、果物のように丸く張った乳房やお尻は少なかっただろう。ちなみに「桃尻」というのは、エロティックなお尻のことではなく、桃の実の先が尖っていることから、尻の落ち着かないことである。

 アメリカ俗語辞典』には、「peach」は「アンフェタミン」、「fruit」は「同性愛者」という説明がある。ネットで果物に関するスラングを調べても、果物が女性の身体に直接結びついているものは少なく、メロンが胸のことを言うとあるくらいだ。アメリカでは身体に向けられた性的なまなざしが果物のような比喩的媒介を経ずに直接、即物的にそれを捉えるのかもしれない。果物を女性の身体に結びつけて想像するのは現代日本においてだけなのか。今後の課題にしておく。

 ピーチ(桃)がそうだったが、球形という形状のほかにも、果実は女性の身体を連想させるところがある。果汁や食感(やわらかさ)、味覚(甘酸っぱさ)などに重点が置かれ、他の果実が選ばれることもある。

 

・ねえ 抱きしめられたら 甘いジュースになっちゃう/私もぎたてフルーツ パイナップルみたいに/ねえ わたしをみて ホラ みつめられたら はじける/私とびきりジューシー パイナップルみたいに(小泉今日子「パイナップル・フィーリング」作詞、森雪之丞1983年)

・君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね/咲かせましょうか 果実大恋愛(フルーツ・スキャンダル)(中原めいこ「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね」作詞、森雪之丞1984年)

 

 並べてみて気がついたのだが、いずれも作詞は森雪之丞であった。こういう発想を好む書き手なのだろう。後者は、パパイア(おっぱい)、マンゴー(おまんこ)といった響きが連想されるために選ばれたのだろう。いずれも若い女性自身に歌わせるところがミソである。歌ってる方も、歌詞の裏の意味なんて関係ないという顔をしている。

 果実を直接指さず、それが生(な)っている状態を言うことで間接的に果実の比喩を用いている場合もある。果実が枝にたくさん実ると重みで枝がたわむ。「たわむ」という動詞が形容動詞になったのが「たわわ」。〈たわわな胸〉〈たわわなバディ〉のような例がいくつかあるが、「たわわ」には大きいとか豊かという意味はない。〈たわわな胸〉は「柔らかに曲がっている胸」ということで、日本語として意味をなさない。略し過ぎである。たわわに実る果実のような胸、と言わねばなるまい。「たわわ」という語の響きにたくさん生っている感じがあるので勘違いしたのだろう。

 女性の身体を果実に喩えないで直接言うこともある。

 

・そっと口唇なぞれば華しゃな腕絡みつくよ/熟れた乳房鷲掴み どこまでアバンチュール(郷ひろみ「どこまでアバンチュール」作詞、HENRY HAMAGUCHI1984年)

 

 作詞のヘンリー浜口というのは(作曲もしている)、郷ひろみペンネームである。このとき郷ひろみ29歳になっており、アイドルという年齢でもなかったから欲望を率直にぶつけたような歌詞を書けたし歌えたのだろうが、〈熟れた乳房鷲掴み〉とは冒険的な表現である。〈自分で乳房をつかみ〉と歌う「時には娼婦のように」(作詞、なかにし礼1978年)の衝撃的なヒットから6年経っていたが、当時34歳になったばかりでニヒルなイメージのあった黒沢年男ですらこの歌を歌うのを尻込みしたという。だが、ひろみの歌には「時には~」のような退廃さはなく、方向性を見定めるための実験として〈アバンチュール〉に傾斜しているように見える。いずれにしても、こうした直接性は女性アイドルにはとうてい無理である。

 歌詞サイトで検索すると、歌詞に「乳房」を含む歌は200曲弱あった。そのほとんどが演歌と、エロをタブー視しない男性歌手によるもので、演歌は女性も歌っているが、若い女性アイドルはいない。演歌の場合〈乳房〉は、エロティックなイメージよりは母性的なものに回収されていく。

 女性の身体の部位を果実の比喩で表現することは、言葉としては迂遠であるが、イメージ喚起としては効果が高い。基本的に隠されている部位については、それを言葉で指し示されても指示対象についてのイメージが乏しいので言葉の響きが残るだけである。だが、よく知っているもので喩えられると、それを頼りに想像力を発動させることができる。比喩によるコラージュである。そしてまた、たんなる形状の類似だけでなく、その色や肌触りや弾力性(桃)、果汁のしたたり具合、熟し具合、食べること(究極の所有感)などが比喩の連鎖としてアレゴリカルに受容される。こうした点で、女性の身体部位のうち性的特徴のある部分を直接名指すよりは(場合によっては放送できないし、同性からも拒絶される)、果実による比喩で表現したほうがエロティックな度合いが増すのである。そしてそれを、本来ならその意味に気づいて恥ずかしがる年頃の女の子たちに、売ることと引き換えに歌わせることで従順さもが演出されるのである。