浜崎あゆみの技法
以下は20年前に書いた原稿。
歌詞をこま切れにする
二〇〇二年一月一日発売のアルバム『I am...』までで浜崎あゆみが作詞した歌は六〇曲近くになる。その全てに目を通すと、よく似た言葉が何回も使用されていることがわかる。語や句のレベルばかりでなく、文のレベルでもよく似ているものがある。また、浜崎あゆみといえば本書の前半でもふれたように歌詞のアダルト・チルドレン的な内容ばかり指摘されるが、実は文の修辞に関してもかなり意識した書き手なのである。歌詞には文の反復的な配置がよく用いられている。以下では、よく使用される語と、文のレトリックについて述べる。そして、主として形式的な特徴を言うにとどめる。
まず歌詞で頻用されている言葉をピックアップしてみることにした。それらをまとめたのが別表である。一曲のうちにその言葉が一回でも使用されているものについて○をしてある。○の合計から、目立って使用回数が多いベストテンは次のとおり。
〈だから〉〈~から〉三六曲
〈だけど〉〈~けど〉三二曲
〈~なら〉 三〇曲
〈今〉〈今日〉 二八曲
〈いつか〉 二七曲
〈もう〉 二七曲
〈きっと〉 二三曲
〈なんて〉〈なんか〉二一曲
〈全て〉 二一曲
〈~だけ〉 二〇曲
いずれも二〇曲以上において使用されている。対象としたのは五六曲だから、二八曲以上使用されているものは二曲に一曲はその言葉が入っていることになる。
これらの中には同形異機能語が含まれている。例えば〈もう〉は、〈もう戻れない〉のように時間的な完了相を表わすこともあれば、〈もう一度〉のように、現在の状態にさらに付加するときに用いたりする。浜崎の場合、用例としては前者の方が多い。しかしいずれの場合でも、この〈もう〉の部分に感情の圧がかかってくることに変わりはない。〈もう〉は歌い手が感情をのせやすいポイントなのだ。そういう言葉をいくつかちりばめておかないと、歌の言葉としては平坦なものになってしまう。
表の横の行である個々の楽曲の合計を見ていただきたい。特に得点が高いのは「FRIEND2」「SIGNAL」「Fly high」「And Then」「WHATEVER」「A song is born」である。頻用語というのは、その本人にとっての口癖みたいなものだ。口癖が多いということは、あまりよく考えもせず思いつくことをしゃべっている、ここでは歌詞を書いている、ということになるだろう。普通は繰り返し出てくる言葉はチェックして他の言葉に置き換えるものだが、そうした作業をしていないということになる。ただし、だからといってそれが作品の出来不出来につながるかというとそうでもない。浜崎の作品群をトータルに見たとき、頻用語の得点の多いものは浜崎の中でのユニークさは少ないということに過ぎない。しかし、それらの作品の方にこそ浜崎の口癖が多く出ているのだから、浜崎らしさ、浜崎の言葉の体臭みたいなものが出ていると言うこともできる。だからそれらの作品の方が好きだというファンもいるかもしれない。ただ、アーティストと呼ばれるべき者ならば、同じ表現の反復ではなく、常に自分自身を乗り越えた新しい境地を開いてゆくべきだということも言える。
なお、歌詞というのは純粋に言語の組み合わせで完結しているわけではない、特殊な事情がある。言うまでもないが、言葉を選ぶ基準に、歌ったときの響きの心地よさも加味されるということだ。例えば〈だから〉とか〈~なら〉といった言葉が好んで使われるのは、母音がaの連続であるということと無関係ではないだろう。一般的に、同じ母音が続くと耳に心地よいし、それがa音なら明るい感じが作れる。「Trauma」で〈あなたなら誰に見せてる〉と歌うとき、母音の連なりは〈aaaaaaeiieeu〉となってaが連打される。
次に、アルバムごとに見てみよう。各アルバムの合計点を収録曲数で割ると、一曲あたりどの程度頻用語が使われているかの平均がわかる。
1st『A Song for ××』 一三・二
2nd『LOVEppears』 一二・〇
3rd『Duty』 一〇・二
4th『I am...』 一二・一
(注 1st『A Song for ××』所収の「Present」は歌詞が極端に短いのでここでは省いて計算してある。)
それぞれのアルバムは、1stは九八年のシングルを中心に、2ndは九九年、3rdは二〇〇〇年、4thは二〇〇一年を中心に構成されている。それぞれのアルバムがその年の成果品に対応すると言っていい。そこで得点を見ると、1stが最も点数が高く、2nd、3rdと下がってきて、4thでまた上がる。1st『A Song for ××』と3rd『Duty』のポイントの差はかなりはっきりしたものだ。アルバムによって、口癖のような言葉の選び方に質的な変化が見られる。均質ではない。『Duty』は4枚のアルバムの中で異色な言葉使いになっているといえる。ある特定の語を指標にすると、それはもっとはっきりする。
〈全て〉という言葉は、『A Song for ××』『LOVEppears』『I am...』の三枚のアルバムでは、この言葉が使われているのは六曲ずつあるのに、『Duty』には一曲しかない。
〈本当〉〈ホント〉という言葉は、『A Song for ××』『LOVEppears』では六曲ずつ、『I am...』は二曲、『Duty』には一曲しかない。
〈今〉〈今日〉という言葉は、『A Song for ××』には一〇曲、『LOVEppears』は九曲、『I am...』は六曲、『Duty』には二曲である。
〈全て〉、〈本当〉〈ホント〉、〈今〉〈今日〉といった言葉は、歌詞の内容に深く関わっていない。ことがらを強調したり感情をかけるための間投的な言葉である。そういう言葉が少ないということは『Duty』は語り手の主観の押し出しがそのぶん弱く、平坦な作りになっているといえるだろう。
以下は、この表をもとにそれぞれの言葉が持つ表現上の効果を見ていくことにする。
(表は省略)
頻用語の検討
〈いつ~〉というように〈いつ〉を語幹とする言葉に、〈いつも〉〈いつか〉〈いつから〉などがある。これらは似ているが意味は随分異なる。〈いつも〉と、〈いつか〉〈いつから〉では、表現上の意図が違っている。前者は大げさな誇張表現であり、後者は時期を特定しない曖昧にボカした言い方である。まずこの二つに分類できるものから見ていこう。
一 誇張表現
極端に一般化を図ったり、極端に他の要素や可能性を切り捨てて限定したりしているという点で、物事をあえて誇張して理解し(させ)ようとする言い回しである。これらには次のような言葉がある。
(一般化)いつも、いつでも、ずっと、何でも、誰にも、全て
(限定) 誰より、たったひとつ、ただ、~だけ、~ばかり
特定の個人の特定の時の特定の出来事であるにもかかわらず〈誰もが〉〈いつも〉〈全て〉といった一般化をはかることで、ロマンチックに盛り上げようとする。〈誰もがキズを持っているから〉(「For My Dear...」)などと言われれば、ふと我が身を振り返って〈キズ〉の一つ二つを見つけ、自分もそうだと共感してしまう。誰にも当てはまる真理が語られているような気にさせられる。〈人はみんないつだって ひとりぼっちな生きモノ〉「poker face」)とか〈人間(ひと)はね儚く だけどね強いモノ〉(「UNITE!」)というときの〈人は~〉というのも格言なみに一般化した言い方だ。
こういった言葉を使うのは聴き手を取り込むための一般的な技法である。他の作詞家もよく使用していることだから、浜崎に特有というわけではない。他の作詞家というのは、たとえばソングブックのたまたま開いたページに出ていた野猿「夜空を待ちながら」。これは秋元康というプロの作詞家の手になるものだが、そこには〈いつでも・何もかもが・すべて・誰もみな・明日だけ・真実だけ・ずっとひとつ〉という感傷的な言葉がインフレぎみに並ぶ。このての言葉が多すぎると、作者の思い込みばかり押し付けられるようで胸やけがする。
誇張表現のなかでも特に目につくのが〈全て〉である。これは二一例あった。他のアーティストでも〈全て〉を多用する人は少なくない。本書でも取り上げた椎名林檎もそうである。これは浜崎個人の口癖というよりJポップの口癖といった方がいい。〈全て〉と言いきるのはカッコいいが、そう言えることが世の中にそんなにあるとは思えない。
二 曖昧表現
述べられた事柄を明確にせず、曖昧なままにしておく、あるいは敢えて曖昧にするために、次のような言葉が用いられている。
いつから、いつまで、いつか、どこから、どこへ、どこか、何か、何が、誰か、誰が
〈いつ〉は時間を、〈どこ〉は空間を、〈何〉は物や事を、〈誰〉は人を、曖昧にしている。中でも〈いつか〉の使用回数は多い。浜崎の詞にはセンチメンタルな感じが漂うが、それはこのような曖昧表現の効用によるところが大きい。
〈いつか〉は、時間的な過去についても、その反対の未来についても使用できる。「immature」や「P.SⅡ」等では、同じ曲の中で〈いつか〉の語に過去も未来も担わせている。
過去〈いつかのあの川で流れてたものは〉(「immature」)
未来〈僕らはいつか幸せになるために〉(「immature」)
過去〈すでに失くなったいつかの破片を〉(「P.SⅡ」)
未来〈いつかこの歌をひとりで聞く日来ても忘れないで〉(「P.SⅡ」)
遠い過去や未来に思いをはせるときに〈いつか〉は使われる。向きは反対だが、いずれの場合も遠くを見るようなまなざしは同じである。
〈何~〉の使用例としては次のようなものがある。
〈大きな何かを手に入れながら〉〈何を犠牲にしてきたのだろう〉(「TO BE」)
〈誰もがきっと何かを背負って〉〈誰もが何かを犠牲にしては 新しい何かを手に入れてきたのなら〉(「LOVE~refrain」)
これだけ〈何か〉を連発されると、〈何か〉って何だとツッコミを入れたくたくなるが、曖昧に思わせぶりに語ることで、そこに〈何か〉深い意味があるように見せかけている。
〈誰もが何かを〉というのは「誇張+曖昧」である。〈誰もがきっと何かを背負って〉いるという言い方は、誰にでも当てはまる反面、実は何も言っていないに等しい。浜崎は詩が発生する場所に立ってはいるが、詩的に深化させようとは思っていないらしい。曖昧な方が感情移入できていいと思う人もいるかもしれないが、そのような「あてはめ論」は間違いである。ここにあるのは形骸だけだ。もし感動するとしたら、それは聞き手が浜崎の詞を骨組みにし、そこに自分の記憶の肉付けを行うからである。つまり感動しているのは、浜崎の詞にではなくナルシスティックな自分自身になのである。
三 逆接・順接
〈けど〉〈けれど〉といった逆接的な意味合いの接続助詞も頻繁に使用されており、三二曲に見られる。こういった語の後に本当に言いたいことが置かれる。スムーズに論理が展開されるのでなく、そこで一回屈曲する。内容に深みがでる。
文頭に〈だけど〉を置く例も多く十三曲あった。文頭の〈だけど〉は逆接の意味合いが一層強くなる。面白いことに、2ndアルバム『LOVEppears』には文頭の〈だけど〉は一曲もなく(文頭の〈けれど〉は一曲ある)、3rd『Duty』、4th『I am...』にそれぞれ五曲づつと集中している。そのかわり文末の〈けど〉や〈けれど〉が多いのが『A Song for ××』と『LOVEppears』で、それぞれ八曲と七曲ある。逆に『Duty』や『I am...』は少ない。なぜそうなるのか。文末の言葉の方が無意識的に置かれることが多いが、文頭になるとかなり意識的に言葉を選択せざるをえない。1st、2ndアルバムに収められた初期の作品はまだ何となく書いていたということであろう。
原因や理由、決意を表わす〈だから〉〈~から〉も用例が多い。〈だから〉は〈dakara〉と母音のaが連打し心地よい響きになるし、文末の〈~から〉は歌うと耳に残りやすい。逆接的に展開していく〈だけど〉と、順接的に展開していく〈だから〉は反対の機能を持っているかのように見える。だが両者にはそれほど論理性を担わされているわけではない。主眼は、心がどうであれ動いていることを表現することにある。〈だけど〉と〈だから〉の機能は反対だが、音が似ているので、次の例のような遊びがされることがある。
〈だけどきっと だから時々〉(「 End of the World」)
〈だけど何とか進んでって だから何とかここに立って〉(「evolution」)
〈MARIA だけど信じていたい MARIA だから祈っているよ〉(「M」)
四 モダリティ、とりたて詞、その他
〈きっと〉という副詞は五六曲中二三曲に用いられている。二曲に一曲近くは〈きっと〉を使っていることになる。例をあげる。
〈きっと何だか嬉しくて〉(「evolution」)
〈全てはきっとこの手にある〉(「Fly high」)
〈きっと〉は話し手の確信や想像である。命題(出来事の内容)の信憑性に関する話し手の判断を示しているが、命題の内容には関わらない。このような、話し手の捉え方や聞き手への態度が現れている部分を、「命題」に対して「モダリティ」という。モダリティを必要最小限にまで削ってしまえば、ずいぶん味気ない歌になってしまう。歌詞におけるモダリティ要素は、歌に気持ちをのせやすくするという意義を持っている。かといってモダリティが過剰だと、思い入ればかりで内容の空疎な歌になってしまう。
〈きっと〉のような、あってもなくても言いたい事の内容を左右しない副詞が多く使われている他の理由は、音符に言葉をのせていったときの空白をこの手の副詞で埋めやすいということがある。少しばかりできてしまった空白を埋めるには短い副詞がちょうどいいのだ。
機能は異なるが、〈きっと〉に似た形態の語に〈ずっと〉がある。〈ずっと〉も十一曲において使用されている。〈きっと〉や〈ずっと〉が好んで用いられるのは、「促音+と」という音が、短く歯切れがいいからだろう。〈ずっと〉という副詞は時間的継続の意味や比較程度の大きさの意味などがあるが、浜崎の歌詞ではほとんどが時間的継続の意味で用いられている。継続には、〈離れられずにいたよ ずっと〉(「Fly high」)のように過去から現在への継続という意味と、〈これからもずっと〉(「Who...」)のように現在から未来への継続という場合がある。
浜崎にユニークな使い方なのが〈べき〉である。おしゃべり口調の歌詞の中に突然古めかしい〈べき〉が現れる。以下の七曲に用いられていた。
〈守るべきものがある〉(「And Then」)
〈守るべきもののために 〉(「no more words」)
〈僕には守って行くべき 君がいる〉(「 UNITE!」)
〈愛すべきもののため〉(「Dearest」)
〈MARIA 愛すべき人がいて〉(「M」)
〈僕らの地球のあるべき姿〉(「A song is born」)
〈今はココで すべき事をして〉(「WHATEVER」)
これらのうち、アルバム『LOVEppears』収録は二曲、『I am...』収録は五曲となっていて、最近特に〈べき〉がお気に入りであることがわかる。〈べき〉は命題についての話し手の気持ちを表わすモダリティである。〈べき〉を使うことで、何か使命感のようなものを漂わせている。あまりに自由勝手に生きている若者たちにとっては、逆に使命感のような拘束的なものに対して憧れが生じるのかもしれない。
〈なんて〉〈なんか〉は二一曲に用いられている。うち九曲は『LOVEppears』に集中している。〈なんか〉〈なんて〉は、それがついた要素を取り上げるはたらきがあるので、これを「とりたて詞」という。「Trust」では〈なんて〉が次のように使われている。
〈赤い糸なんて信じてなかった〉
〈あきらめるなんて もうしたくなくて〉
〈永遠なんて見たことないけど〉
形としてはいずれも〈~なんて~ない〉というふうになっている。〈なんて〉は、とりたてた要素についての低い評価を表わしているから、それを〈ない〉と否定するのは、心理的に当然である。浜崎の他の歌詞でも半数は〈なんて〉や〈なんか〉は〈ない〉と呼応している。
ただしこの「Trust」では、〈なんて〉と低く評価されているのは過去のことがらであって、これからはそうした過去を乗り越えていこうとする前向きな態度を表わすために〈なんて〉が用いられている。あなたとの〈赤い糸なんて信じてなかった〉が、今は信じている。今は〈あきらめるなんて もうしたくなくて〉。〈永遠なんて見たことないけど〉今は二人の永遠を信じられる。
その他に浜崎がよく使う言葉に、〈信じる/信じない〉〈わかる/わからない〉がある。前者は十五曲、後者は十四曲の用例がある。「Trust」には〈信じ〉るという言葉が三回使われている。信じられるかどうかというのは浜崎にとってとても大事なことだ。信じるということは、今目に見えている状態ではない可能性になるという希望や予測である。外見に左右されずに内なるものに賭けることである。浜崎はそのような外見と内側の違い、何が見せかけで何がホンモノかということに敏感である。〈わかる/わからない〉も、やはり外見から内側がわかるかどうかということに関わっている。それが一番よく表われているのが「appears」である。手をつないで歩いている恋人達は幸せそうで、うまくいっているかのように見えるが、本当はどうなのか〈誰にもわからない〉と歌う。〈いつまで待っていれば 解り合える日が来る〉と歌う「A Song for ××」も、見かけからは内情はわからないことを主題にしている。
わからないことを断定するのは強引である。「For My Dear...」「Fly high」「monochrome」「kanariya」といった歌では〈かも知れない〉という断定を回避するモダリティ表現が反復されている。
レトリック~反復とズラシ
音楽というものは反復的な構造をしている。繰り返しに心地よさがある。だから、曲に言葉をのせれば言葉も反復的になりやすい。しかし、メロディも反復、言葉も反復なら、すぐ聴き飽きてしまう。音楽の反復性を、むしろ歌詞でズラしてやる必要がある。歌詞の機能には、音楽の単調な繰り返しを少しずつズラしてやる面がある。
言葉はそれ自体の美学でも反復する。単純な反復ではなくズラシが入る。浜崎は、このズラシを得意とする。
〈自分よりも不幸なヒトを見ては少し慰められ 自分よりも幸せなヒト見つけたなら急に焦ってる〉(「 End of the World」)
この例では〈不幸/幸せ〉〈少し/急に〉〈慰められ/焦ってる〉というように、対応する語彙がひっくり返されている。
〈あなたのこと必要としている人〉〈あなたが必要とする人〉(「Depend on you」)
この例では、〈あなた(を)〉という目的を、〈あなたが〉という主語に入れ替えている。最近流行の『~する人、~しない人』といった本のタイトルに使えそうだ。『あなたを必要とする人、あなたが必要とする人』。
次の例も似ている。
〈君にとって僕が必要なんだと思ったワケじゃない 僕にとって君が必要だと思ったからそばにいる〉(「from your letter」)
浜崎のやり方がなんとなくわかってきたことと思う。いずれも、どこかで聞いたことがあるような文で、文じたいのオリジナリティは弱いが、浜崎のユニークさは、こういう文型を歌詞に積極的に取り込んだことにある。最後に掲げた例では、〈~じゃない〉というふうに、前件を否定して後件においてより深める形になっている。この型は他でも用いられている。
〈孤独で何も見えなくなったんじゃない もう何も見たくなかったんだ〉(「immature」)
〈なけなくなったワケじゃなくて ただ泣かないと決めただけ〉(「kanariya」)
しかし一体誰が前件部分、つまり〈孤独で何も見えなくなった〉とか〈なけなくなった〉と見なしたというのだろうか。それは語り手である自分自身である。自分で言っておいて自分で否定しているのだ。〈孤独で何も見えなくなった〉というような事は、あらかじめ否定されることがわかっている架空の事柄である。これはレトリックの種類としては緩叙法的表現ということになる。緩叙法は、存在しない反対のものごとを想像して、それを否定してみせるところに特徴がある。〈見えなくなった〉という自動性を否定して、〈見たくなかった〉という意志性を強調する。〈なけなくなった〉という自動性を否定して、〈泣かないと決めた〉という意志性を強調する。ここではいずれも自分の意志が強調されている。
しかしそれだけだろうか。〈孤独で何も見えなくなったんじゃない〉というのは、本当は〈孤独で何も見えなくなった〉から〈もう何も見たくな〉い、という意志を持つようになったのではないか。同じように、〈なけなくなったワケじゃなくて〉というのは、本当は〈なけなくなっ〉てしまったので、意志として〈泣かないと決めた〉ということではないだろうか。〈~じゃなくて〉という逆接は、本当は〈~から〉とか〈~ので〉という原因理由を表わす接続助詞が使われるべきところをそうしないで、言わば「強がり」として、自分の意志で選択したかのように〈~じゃなくて〉と否定しているのである。
「End roll」も反復が印象的な歌だ。
〈人は哀しいもの 人は哀しいものなの? 人はうれしいものだって それでも思ってていいよね〉
ここで浜崎は、反復を重ねることによって、それをひっくり返すという離れ業をやっている。まず〈人は哀しいもの〉という断定をする。次に一旦断定したそれに〈人は哀しいものなの?〉と疑問を抱き、ついには〈人はうれしいもの〉と反対の結論を導く。もっともそれは断定ではなく、そう〈思ってていいよね〉と留保する。
この部分を言葉で言えばこうなるだろう。「人は哀しい生き物なのね。人って哀しい。人はみんな哀しい。哀しい。でも本当に哀しいのかな。人は哀しい生き物なのかな。本当にそうかなのかな。そうかもしれない。でも本当は人は生きるのがうれしいはずじゃないの。うれしい。そう、人は生きるのがうれしい生き物なのよ。そうでしょ。そう思っててもいいよね」というような心の中の反復とそのひっくり返しを、〈人は~〉を三回繰り返すことで表わしているのである。これはなかなか高度なワザである。
既出の「immature」にはもう一つ異なったレベルの反復がある。この歌では〈だ〉という音節が繰り返されている。その数十六個。〈望んだり〉〈何だろう〉〈のぞき込んだんだ〉など、別に韻を踏んでいるわけではないが、〈だ〉の響きが言葉にはずみを与えている。詞を曲から離して口にしてみたときも〈だ〉の繰り返しによるかすかなリズムが感じられるだろう。
十六個の〈だ〉のうち、一〇個が〈~んだ〉という形のものである。浜崎の歌詞は話し言葉ふうだが、話し言葉で〈だ〉が現れやすいのは、文末が〈~だよ〉〈~だね〉〈~んだ〉となる場合である。このとき〈だ〉を取ると女性特有の話し言葉になってしまう。例えば、「そうだよ」「そうだね」「そうなんだ」といった文から「だ」を取れば、「そうよ」「そうね」「そうなの」(「ん」は「の」に変換される)となる。「immature」が文末に〈だ〉を反復するのは、言葉の女性化を避けるためである。この歌は私個人のことというより同世代の仲間たちのことを歌にしているのである。
(引用した歌詞は、全て浜崎あゆみの作詞です。)