あいみょんと「若者ことば」
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あいみょんの「マリーゴールド」を聞くと、2年前のあの暑い夏を思い出す・・・てな具合に感傷にふけることができる歌は、年を取るほど少なくなっていきます。新鮮な経験というものがなくなりますから、経験に結びつく歌もなくなるのです。でも2年前の夏はバタバタしていたので、車の中でよく聞いたこの歌が、汗で背中に張り付いたシャツの感触とめまいのするような暑さとを思い出させるのです。
あいみょんはもともとアングラ的な、とがった歌詞を書く人でした。だんだん丸くなりましたが、それでも歌詞にはかなりクセが残っています。「マリーゴールド」は共感しやすい内容で、言葉づかいもポップなものになっていますが、それでも、〈でんぐり返しの日々 可哀想なふりをして だらけてみたけど〉といったところなど、独特な言語感覚がうかがえます。
今回注目するのは、「マリーゴールド」の冒頭部分です。こうなっています。
〈風の強さがちょっと 心を揺さぶりすぎて 真面目に見つめた 君が恋しい〉
言いたいことはわかります。恋をして心が激しく揺さぶられているということです。こういうことを素直に書いたらウブな高校生のポエムになってしまいますが、ちゃんと修辞的な工夫がなされています。普通なら「強い風に心を揺さぶられた」とでもするところを、この書き手は英語を直訳するみたいに、「風の強さが心を揺さぶりすぎた」というのです。
ここでは程度に関する表現が三つ並んでいます。まず〈風の強さ〉の〈強さ〉。次に、程度がはなはだしいことを表す〈揺さぶりすぎて〉の〈すぎて〉。そしてその直前に、程度が少ないことを表す〈ちょっと〉を入れています。〈強さ〉〈すぎて〉という程度が大きいことを表す言葉が二つ入っているので、そこに〈ちょっと〉という曖昧化する言葉を入れて引き算し、バランスをとろうとしたのかもしれません。
〈ちょっと〉には二重の意味があります。一つは、語調を整えるために入れるもので、意味としては希薄。もう一つは、逆説的な意味の〈ちょっと〉。〈ちょっと〉は、「少し」という意味ではなく「かなり」という意味でも使われることがあります。辞書には、「ちょっと名のしれた作家」という例がのっていました(デジタル大辞泉)。「ちょっとしたものだ」というのは「たいしたものだ」という意味です(角川国語辞典)。女性がしばしば軽く驚いたり困ったりしたときにも「ちょっとぉ」と言いますね。これは結構びっくりしたときです。山口百恵「プレイバックPart2」(作詞、阿木燿子)の〈ちょっと待って〉の〈ちょっと〉は呼びかけですが、有無を言わせぬ強さがあります。あいみょんの「プレゼント」という歌では、〈「知らない」で誤魔化せる日々は きっと続かないから ちょっとあなたにプレゼントあげる〉とありますが、これは軽い気持ちでプレゼントするというより、しっかり準備したうえでのプレゼントですね。だから「マリーゴールド」の、〈風の強さがちょっと 心を揺さぶりすぎて〉というのは、「風の強さがかなり心を揺さぶりすぎて」ということなのです。ただ、それだとあまりにストレートで曲がないので、〈ちょっと〉としたのでしょう。これは直感的レベルの語彙選択であって、深く効果を考えたものではないと思いますけど。
さて実は、この項で取り上げたいのは、〈心を揺さぶりすぎて〉の〈すぎて〉(=すぎる)の方です。
本来「○○すぎる」は、「食べすぎた」「甘すぎる」「静かすぎる」のように、動詞の連用形や形容詞・形容動詞の語幹について、程度が典型の基準を上回り過剰になっているときに使います。また、それらはマイナスのイメージで使われていることにも注意が必要です。
例えば「美しい」という語はプラスの意味で使われますが、「美しすぎる」となると、程度を越えたぶんよくないことがありそうです。八神純子の「思い出は美しすぎて」(作詞、八神純子、一九七八年)は〈思い出は美しすぎて それは悲しいほどに〉とあるように、「美しすぎる」と心地よさは減衰してしまいますし、野口五郎の「君が美しすぎて」(作詞、千家和也、一九七三年)は、美しすぎる君は僕の魂を苦しめ心を乱すから〈美しすぎて君が恐い〉と歌うのです。ジュディ・オングの「魅せられて」(作詞、阿木燿子、一九七九年)も、〈美しすぎると怖くなる〉と歌います。この場合の「怖い」には、崇高な感情が混じっています。なんにせよ、度を越したものは平常心を乱します。俗物には適度な「美しさ」がいいのです。
この「○○すぎる」が本来の使用法とはズレて使われ、それが広まるようになったのは、二〇〇七年に八戸市議に当選した藤川優里が「美人すぎる市議」として話題になったことがきっかけです。「美人すぎる~」というのはそこに驚きが込められていて面白い言い方だと思いましたが、その後、他の分野にも波及して、「美人すぎる警察官」「美人すぎるアスリート」「美人すぎる弁護士」「美人すぎる棋士」など簇出しました。
先に述べた二点、「○○すぎる」は動詞・形容詞・形容動詞につくということと、マイナスの意味あいを生じるということが、「美人すぎる」の場合は、名詞につくということと、プラスの意味あいで使われるということが、従来の用法と違っていました。ネットで検索すると、「すぎる」の使い方が気になるという記事は、二〇一〇年代の中頃から目につくようになります。二〇〇七年の「美人すぎる市議」以降、使用例があふれ、言葉に敏感な人が我慢できなくなってきたということでしょう。
名詞につくことについての違和感はいくつか議論があります。「美人」は名詞ではありますが形容動詞ふうにも使うことができ、ここでの「美人」は、人そのものを指すのではなく美しさという性質の過剰として使われていると理解できますから、接続する品詞のズレについての違和感は強くないということです。(名詞+すぎるの文については、佐藤らな「xすぎる構文の意味−天使すぎるはなぜ言えるのか−」が参考になります。「天使すぎる」という言い方は、天使そのものではなく、天使の性質のひとつである「可愛らしさ」が焦点化され(「モノ」から「モノの性質」へと焦点が移っている)、それに過剰の意味が付加されたものです。http://2jcla.jp/japanese/2019/handbook/papers/GS1-R4-1-JCLA20.pdf#search=%27すぎる構文+天使すぎる%27)
もうひとつの点、プラスの意味あいで使われることについては、「若者ことば」では実例にこと欠きません。「面白すぎる」「カッコよすぎる」「美味しすぎる」のように好意的なものにつけるのは近年よく目にするようになりました。英語で「ビッチ」や「ファック」が文脈によって親しみや褒め言葉になるように、程度を強調する言葉はさかんに使っているうちに肯定も否定も関係なくなってくるようです。「とても」や「全然」「すごい」、最近では「やばい」などは、元来、下に打ち消しや否定を伴う副詞、形容詞でしたが、プラスの意味で使われるようになっています。
多用される「○○すぎる」はパロディ化されています。アニメ『はなかっぱ』に出てくる「すぎるくん」は語尾に「すごすぎる~!」「おいしすぎる~!」と「すぎる」をつけるのです。この作品では、「○○すぎる」はキャラ語として使われていて、それじたいの意味は希薄になっています。アニメは二〇一〇年から放送開始、原作となる絵本のシリーズの第一作は二〇〇六年に刊行されています。すぎるくんの初登場時期は、まだ調べるには至っていません。
2
「マリーゴールド」に話を戻します。
この歌詞を「すぎる」だらけにしてみると、「強すぎる風が心を揺さぶりすぎて 真面目すぎるほどに見つめすぎた君が恋しすぎる」とでもなるでしょう。どこに「すぎる」をつけてもいいんですが、あいみょんはこのうち〈揺さぶりすぎて〉につけたということです。
実はあいみょんは「すぎる」が好きなんです。現時点であいみょん名義の曲は五七曲あり、そのうち十七曲に「すぎる」が使われています(二九・八%)。これは米津玄師と比べてみるとかなり多いのです。米津は九四曲のうちたった五曲です(五%)。
以下、あいみょんの例を掲げてみます。
1 好きすぎて あなたが欲しすぎて 「貴方解剖純愛歌 ~死ね~」2015
2 愛しすぎたの尽くしすぎたの 「幸せになりたい」2015
3 早くに覚えすぎたタバコ 「○○ちゃん」2015
4 先走りすぎた気持ち 「強がりました」2015
5 増やしすぎてるアイドル 「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」2015
6 若すぎたんだ 「ほろ酔い」2015
7 好きすぎる 「君がいない夜を越えられやしない」2016
8 上手くいきすぎる恋愛 「今日の芸術」2016
9 息を止めすぎたぜ 「君はロックを聴かない」2017
10 砂浜に足がのまれすぎて 「青春と青春と青春」2017
11 遠回しすぎるセリフ 「マトリョーシカ」2017
12 若すぎる僕ら 「猫」2017
13 心を揺さぶりすぎて 「マリーゴールド」2018
14 優しさに甘えすぎて怯えすぎた 「ハルノヒ」2019
15 サイズ違いのピースを拾いすぎて 「プレゼント」2019
16 暗すぎてなにも見えない 「空の青さを知る人よ」2019
17 ズルすぎるでしょ 「ユラユラ」2020
以上、十七曲のうち五曲は、インディーズ時代のファーストアルバム『tamago』(二〇一五年)に収録されたものです。このアルバム九曲のうち五曲で「すぎる」を使っており、使用率は高くなっています。口癖のようになっていたものがそのまま出たのかもしれません。
ここに掲げた例の特徴をみてみましょう。
まず、「すぎる」を二つ重ねているものがあることに気づきます。
1 好きすぎて あなたが欲しすぎて
2 愛しすぎたの尽くしすぎたの
14 優しさに甘えすぎて怯えすぎた
繰り返されると、思いが先走っている感じがして鼻白む一方で、若い女性の思いのたけの強さに怖さも感じます。実際、1と2は、男に迫る女という、かなり怖い歌詞になっています。
次は、プラスのイメージのものです。
1 好きすぎて あなたが欲しすぎて
7 好きすぎる
8 上手くいきすぎる恋愛
これだけ切り出すと、いっけん、今ふうの、プラスのイメージに使用する「若者ことば」としての用法のように見えますが、実は違います。
1の〈好きすぎて あなたが欲しすぎて〉というのは、〈あなた〉を切り裂いてでもそばに置いておきたいという倒錯した心情ですし、7の〈好きすぎる〉は、〈好きすぎる事が嫌になる 嫌われることを恐れてる〉と続くように、〈好きすぎる〉は、たんに「とても好きだ」という意味以上に、「好きすぎる事に困っている」ことにつながっています。8の〈上手くいきすぎる恋愛〉も〈上手くいきすぎる恋愛なんて 燃え上りもしないだろう〉と否定されています。
ついでですが、8は「今日の芸術」という岡本太郎をオマージュした歌で、この歌に〈目の前にあるキャンバスに 何も描かなくてもいい それも芸術だ〉という穿った歌詞があります。蘇東坡の「無一物中無尽蔵」やジョン・ケージの「4分33秒」を思い出させます。岡本太郎はどこかでそんなことを書いているのかもしれません。
次、「若すぎる」が2例あります。
6 若すぎたんだ
12 若すぎる僕ら
この「若すぎる」という言葉は歌詞でよく使われていて、検索すると400例ほどありました。カバー曲も含まれているので実際は350ほどになるでしょうか。「若すぎる」を好む作詞家は秋元康でしょう。9曲で使っていました。
「若すぎる」という指摘は、周囲の人からなされる場合と、当人があとから振り返ってそうみなす場合(「若すぎた」)とがあります。あいみょんの歌でも〈若すぎたんだ〉というのは、あとから振り返って別れた理由を述べるところにあたります(「ほろ酔い」)。「若すぎる」というのは、うまくいかない理由を述べるときのマジックワードですね。多くは「二人が出会ったのは若すぎたので、結局別れてしまった」というようなことです。具体的に何がどうだったのかという穿鑿は「若すぎた」という言葉の前で止まってしまいます。
若さというのは概ねプラスの価値なんですが、その中に若干の危険性も含まれていて、「若すぎる」のは若さの危うさが露出しているということです。判断が未熟だ、見通しが甘い、冒険的だ・・・。判断が未熟なので碌でもない相手を好きになってしまい、なんとかなると思って見通しが甘いまま行動し、とうとう駆け落ちしてしまった(冒険的)。ですが、こういう「イタイ」過去は、あとから思い出すと甘美な思い出と化して、歌詞の恰好な素材になるのです。
寺尾聰VS田辺靖雄の「16の夏」(作詞、寺尾聰VS田辺靖雄、一九七七年)という歌は「すぎる」を三回繰り返しています。〈時の流れは 早すぎて/君に逢うのが 若すぎて/好きというのが 遅すぎて〉。この歌ではまた、過去を甘酸っぱいものとして回想するときに〈あの〉を繰り返しています。〈あの頃の唄〉〈あの頃の君のハダ〉〈忘れない あの頃を/想い出す あの唄を〉。教科書に載せてもいいほどの見本のような歌です。過去の回想と、失敗の理由としての「すぎる」は相性がいい組み合わせのようです。
あいみょんの例で、次は違和感があるものです。
3 早くに覚えすぎたタバコ
これは意味がとりにくい。〈早く覚えすぎた〉ならわかります。〈早く覚え〉全体に「すぎる」がかかっているということならいいのですが、〈早くに〉と〈に〉が入り文を分断してしまい、〈覚えすぎたタバコ〉という意味不明な文になってしまいました。
ひとまず結論として、あいみょんは、「すぎる」という強調表現をよく使って語の意味を強めようとする傾向はあるものの、その使用法は、流行に流されるには至っていないと言えると思います。「若者ことば」に多い、プラスの意味の用法はないし、「名詞+すぎる」もありません。「若者ことば」を使いはするものの、語法のくずれは一部にとどまっています。あいみょんは中高年にもファンがいるのですが、流行りの語法を安易に採用していないことも、旧世代に対して高感度が高い点かもしれません。