Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

謎解き「山口さんちのツトム君」

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 フォークシンガーみなみらんぼうが作詞作曲した「山口さんちのツトム君」はNHK「みんなのうた」で流れて大ヒットした。一九七六年のことである。いろんな歌手がレコードを出しており、売上累計は一五〇万枚だという。(https://www.news-postseven.com/archives/20200221_1543331.html

 子どものあいだでヒットする歌というのは、子どもにとって重要なことを歌っている場合がある。この歌は、母親がいかに気になる存在かを歌っている。母親が家にいる安心感がまずベースにあって、そのあとで家の外に関心が向いていく。

 子どもの歌だから子ども向けとは限らない。子どもに向けられているが、大人の鑑賞にも堪えうるものもある。「山口さんちのツトム君」はそういう作品である。使われている言葉が選びぬかれているし、その歌詞はストーリーを持っていて、時間の経過とともに事態が展開し、「日常の謎」のようなミステリー要素がある。聞き終えて不思議な感じが残る。だから何回も聞きたくなる。

 歌い出しは、〈山口さんちのツトム君 このごろ少し変よ どうしたのかな〉となっていて、ここにすでに〈少し変〉だとか、〈どうしたのか〉という疑問が語られている。〈山口さんち〉つまり、秘密が家のなかに隠されている、家の中で何かが起きているところも、本格ミステリによくある『○○家殺人事件』みたいでミステリアスだ。

 歌は幼い少女の視点で語られており、その年齢の子どもが持つことのできる情報量や理解力で判断された状況が語られている。大人にとっては察しがつくようなことでも、限定的な知識しか子どもには不思議にみえる。この歌は、大人にはわかっていることが子どもには不思議に見えるということがひとつの主題になっていることは間違いない。それが、子どもの目の高さで語られることによって重大なことのように見えてくる。

 この歌が流行ったとき私は小学生だったが、同級生の山口よしお(漢字)くんは、しきりに「このごろ少しへんよ、どうしたのかな」とからかわれていた。頭のいい人だったので笑ってやり過ごしていたが、隣のクラスの山口くんは同じ目にあって不機嫌だった。

 山口ツトムという名づけは絶妙である。これが鈴木一郎とか山田太郎とかいったありふれた記号みたいな名前だったら実在する感じがせず、想像力もかきたてられない。反対に武者小路ナントカみたいな特殊な名前だと身近に思えないしギャグになってしまう。山口ツトムというどこかにいそうな名前であることによって、どこかで起きていることではないかという本当らしさが出る。ツトムが片仮名であるところも、よく考えられている。これが「勤・勉・努」といった漢字が使われていたら固有名詞として特定されすぎてしまう。ほどよく片仮名でぼかしてあるところがミソだ。ツトムと片仮名にしたところで、エリーのように無国籍ふうになることはないが、日本人の男子で片仮名名前はかなり珍しいので(女性にはしばしばある。ユリとか)、片仮名の名前にすることによって、実在と非実在の境界に漂うことになる。

 よく人名の歌があるが、それはたいてい名前だけであって、名字まではいっているものはない。

 

1 ママ

 歌詞から謎を推理していこう。

 女の子が気に病んでいるのは、最近ツトム君が一緒に遊んでくれなくなったことである。誘いに行っても応じてくれない。元気がないようだけれど、それは何故なのか。

 答えは三番の歌詞に書いてある。〈田舎へ行ってたママが 帰ってきたら たちまち元気になっちゃって〉とあるように、ママが家にいなかったから元気がなかったのである。問題は、ママはなんのために田舎、つまり実家に里帰りしていたのか、ということである。理由は歌詞には書かれていない。

 どんな用件で実家へ帰っていたのだろうか。

 高校の同窓会とか、実家で身内のお葬式があったとかいったことだろうか。しかし、同窓会だったら一晩留守にするだけで帰ってくるだろうし、葬式だったらイチゴがお土産というのも変である。

 他に考えられる理由としては、夫婦喧嘩をして実家へ帰ってしまったということである。しばらく滞在して、気持ちが落ち着いてきたので戻ってきたということなのかもしれない。これなら、ツトム君が元気がなかったこともわかる。子ども心に何か感じとっていたのだろう。

 あるいは、ママが出産のために里帰りしていたということも考えられる。ツトム君はまだ幼いが手がかからなくなってきたので、もう一子ということなのかもしれない。

 ママが不在の理由で一般的に考えられるのはそんなところであろうが、細部をもっと詰めて考えてみる。

 まず、ママが不在にしていた期間はどのくらいなのか。ツトム君がおかしくなったのは〈このごろ〉とあるから、数日かせいぜい一週間のことだろう。女の子が誘ってもツトム君が反応してくれなければ、やがて女の子もあきらめてしまうはずだ。一週間もろくな返事がなければ、声をかけるのは億劫になるだろう。女の子も他に適当な遊び相手がいないので、ツトム君に声をかけ続けているのかもしれない。いずれにせよ、女の子がツトム君を見放す前に、ツトム君のママは戻ってきた。ママは出産のため一か月も留守にしていたというわけではなさそうだ。そもそもママが赤ん坊を連れて戻ってきたという記述もない。仮に赤ん坊を連れてきたら、ツトム君は何事もなかったように〈たちまち元気になっちゃって〉ということはないだろう。新しい弟か妹にとまどうはずだが、そうした変化はなく、ただ元に戻ったかのようだ。

 〈たちまち元気になっちゃって〉というのはちょっと皮肉っぽい言い方である。「今泣いた烏がもう笑う」ように、先ほどまでの自分を忘れた様子を観察者の立場からちくりと刺している。女の子にしてみれば、自分が何回誘っても効果がなかったのに、ママの姿を見たとたん、特効薬が効いたようにツトム君は元気になるのだから。いわば「マザコンね」くらいの気持ちが裏に隠されている。ツトム君は子どもだから仕方ないけれど、女の子は知らずにママと張り合っているのかもしれない。

 そう考えてくると、やはり夫婦喧嘩でママは実家に帰っていたのかと思える。ツトム君もママがいない理由を薄々気づいている。もしかしたら帰ってこない可能性も予想している。他のことに気が回らないくらい落ち込んでいる。外に遊びに出ることなどできないほど心配なのである。

 実はこの歌、当初の案ではママは帰ってこなかったようだ。みなみらんぼうは創作の裏話をこう話している。

 「3番でお母さんが帰ってくるのは、ディレクターの方に“あんまり寂しいから、3番はハッピーエンドにしてくれよ”って言われて直したものなんです。」(https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail178.html

 なんと、ツトム君は再びママの顔を見ることがなかったのである。幼い子どもにはかなり辛い状況だ。ツトム君はずっと家に籠もったきりになる可能性もありうる。

 ママが帰ってこなかったとしたら、それはどういう場合だろうか。夫婦喧嘩をして家を出ていってしまい、そのまま離婚してしまったとか、あるいは病気や事故で急に亡くなってしまったということが考えられる。みなみらんぼうはこう言っている。山口ツトムのモデルは自分自身であると。「これは自分自身だったと。僕は中学1年の時に母親を亡くしてるんですが、その時の心情が上手いこと幼児を借りてあらわされているんですね。ビックリしました。」(同前)歌を作っているときは自分でも気づかなかったが、あとで考えてみたら、過去の体験が反映されていたということである。

 作者の言うとおりだとすると、ツトム君のママは死んでしまい、ツトム君は永久にママに会えないことになる。ママが帰って来ないままの歌詞だったら、この歌の印象もかなり異なったものになる。子ども向けの歌としては相当ビターなものになる。女の子も、〈このごろ少し変よ どうしたのかな〉などとのんびりしたことを言っている場合ではない。ツトム君の家でお葬式をだしたことも知らないで遊びに誘っていたことになる。それはそれで幼い子どもの残酷さである。

 作者の話を読んで思ったのは、ママは病気で短期間入院していたという説もありうる、ということである。田舎に帰っていたというのは、ツトム君を心配させないために嘘をついていたのである(よその家には「ちょっと旅行に行っていた」とか言って取り繕い病気を隠すこともできる)。ママはいったん家には帰ってきたけれど、もしかしたらまた入院してしまう恐れもある。ママが帰ってきたから全てが元どおり、ということではなくなる。ママがいなくなる前と後では何かが変わってしまっているのだ。……ただ、この説はテクストの中に裏付けとなる根拠がなく、弱い可能性としてあるだけで、いわば深読みである。

 作者が語る裏話はさておき、ここでは、テクストとして書かれたものがどのように読めるかということを引き続き試みていきたい。

 

2 ユミ

 女の子のほうは、お姉さん的というか世話焼きである。毎日声をかけてくれるみたいで、いろいろな方法を試している。広場で遊ぼうとか、絵本を見ようとか、かなり違う誘い方をあれこれ試みている。しかし一様に拒否されている。雨の日も見に来たようだし、朝も声がけしている。これはたんに遊びに誘っているということを超えて、心配だから来ているということである。ツトム君は、女の子の呼びかけに、はじめのうちは〈「あとで」〉と答えていたが、そのうち〈「おはよう」〉と言っても返事すら返さなくなる(〈返事がない〉)。高齢者の見守りなら通報レベルである。歌詞は、ツトム君が次第に元気がなくなっていく様子を、ツトム君の姿を出さずに、声の応答だけで描いている。

 先ほど、女の子が「雨の日も見に来たようだ」と書いたが、これは〈大事にしていた三輪車/お庭で雨にぬれていた〉とあることからそう書いたのだが、女の子の家がツトム君の家の隣で、窓ごしに〈山口さんち〉の庭が見えたということはないだろうか。だがそうであれば、女の子はもっとツトム君の情報を持っていてもいいはずだ。窓から常時見える状態であれば〈山口さんち〉の様子がそれなりにわかるはずだが、この女の子はわざわざ〈山口さんち〉の前まで出かけていって情報を仕入れてくるという感じなのだ。隣家であれば、ツトム君のママがいなくなるという大きな変化があれば、なんとなく様子でわかるはずだが、女の子はツトム君の気鬱の原因について全く思いつかないようなのだ。

 さて、女の子があの手この手で誘ってみるが、どれも効果がない。心配ということもあるが、女の子にとっても遊び相手がいないので自分も〈つまんない〉のである。ここがお姉さんタイプとはいえ、子どもらしいところだ。女の子も退屈だし寂しいのである。お互い兄弟もいなさそうだし、近所に他に遊び相手もいないようだ。一方で、この女の子の言う〈つまんない〉は、韜晦だと考えることもできる。〈つまんない〉とでも言わないと子どもらしく見えないから、そう言ったのである。

 この歌はちょっと物悲しい感じがする。それはどこから来ているかというと、よその家の問題に他人は手を出せず無力だということにある。女の子がいくら心配しようと何もできない。山口さんの家で起きていることに女の子は介入できない。もしかしたら大変なことが起きているかもしれない。それでも他人の家で起きていることに他の家の人は同意なく手出しできない。ツトム君に〈あとで〉と拒否されてしまうと、家の中に入っていけない。外から見ているしかない。

 それは子どもだからというだけでなく、よほど緊急事態であることが察知できなければ、大人も手出しできない。これが田舎であれば七〇年代にはまだ人間関係が濃密だったので近所の家どうしの情報は筒抜けになっていたが、出身地を異にする者どうしが集まった都会のゲゼルシャフトでは、他人の家に積極的な関心を向けるのは品がないことなのである。

 あとで見るが、アンサーソングでは、女の子の一家は引っ越しをすることになる。おそらく転勤族で、仮住まいだったのである。近所であっても家どうしのつながりは希薄で、子どもが遊び相手としてのつながりがあっただけなのではないか。他人の家に干渉しすぎないというのが基本だが、この女の子はまだ子どもなので、斥候となってよその家を覗けるのである。ただ、この女の子も、これ以上ツトム君の家に深入りするのはまずいということがわかっているから、〈つまんない〉という自分の事情にして、気持ちを引き上げてしまうのである。

 

3 ツトム

 ツトム君は女の子と遊ぶくらいだからちょっとおとなしい子どもなのだろう。他の男の子の友だちは近所にいないのか誘いにきたふうもない。そういう子どもだから母親がいなくなるとてきめんに元気がなくなる。外で遊んで気を紛らわすのではなく、家に閉じこもってじーっと考え込んでしまう。勉強はできるのであろう。ツトム君という真面目そうな名前も、親が銀行員か何かを思わせる。

 ツトム君は女の子が心配してくれたことについて鈍感だったわけではない。ママの問題が解決したところで、次にようやく女の子の気持ちを汲むことができるようになる。

 ママが帰ってきて、〈たちまち元気になっちゃって 田舎のおみやげ持ってきた つんだばかりのイチゴ〉というところの〈持ってきた〉に子どもらしい可愛いらしさが表現されている。ツトム君は、お土産のイチゴを女の子の家まで走って届けに来たのかもしれない。ちょっと得意げな顔をして。お土産を持ってきたのは、女の子の家とツトム君の家とが家同士のつきあいがあったからではない。それならママが持っていくであろうし、女の子もツトム君が元気がないわけを親から聞き知っていたはずである。ツトム君はあくまで個人的に、女の子に対して持っていったのだ。そのとき、ママが田舎に帰っていたからという説明もしたのだろう。イチゴはその証拠の品でもある。

 田舎のおみやげが〈つんだばかりのイチゴ〉というのは、ママの実家でとれたものだということだろう。ママの親が、「これでも持っていきなさい」と帰りがけにママにくれたのであろう。旅行に行ってきたわけではないので、商品としてのお土産を買って帰るのもおかしい。とりあえず手近にあるものを持たせてもらって帰ってきたわけだ。だからそのイチゴは自家消費用であり商品として売れるようなものではないし、まだ熟してもいないから〈チョッピリすっぱい〉のである。もちろんその酸味は、ママ不在事件の顛末を象徴してもいる。

 〈すっぱい〉というのは女の子が使った表現で、もしかしたらこの女の子はツトム君のママが居なかった理由を知っていたのかもしれないとも思わせる、こましゃくれた言い方だ。すっぱさの意味は女の子にはわかっている。たんなるお土産というより、引き換えにつらい経験をしたわけだからね、ツトム君は、ということだ。ツトム君は結構喜んでいるんだけど、総括的にすっぱいよねと言っているのである。この女の子はなんだかマセた感じがするのだが、それは直感的に事情をわかっていたからだろう。

 

4 ユミの家

 〈山口さんちのツトム君〉という呼び方にも、おマセな感じが漂っている。ツトム君は絵本を楽しめる一方で三輪車を大事にしていることから四歳前後だろう。女の子もそれに近い年齢だ。だがその年齢でいくらおマセとはいえ、友達のことを〈○○さんちの○○君〉などと言うだろうか。この場合、たんに〈ツトム君〉だろう。〈○○さんちの○○君〉というのは大人の言い方である。昨今は逆に、母親のことをツトム君ママなんて言ったりもするが、この歌は七〇年代だから、まだそういう子ども中心の言い方はなかったろう。むしろ家を中心にして呼んでいた。どこそこのお宅の子どもとか。

 〈山口さんちのツトム君 このごろ少し変よ〉という言い方は、おそらく、この女の子の家のお母さんが、お父さんにむかって「山口さんち、このごろ少し様子が変なのよね」などと言っているのを聞いて、女の子が覚えたのかもしれない。それを九官鳥みたいに口真似しているのである。出産で里帰りしたならよその家の親もそのことを知っているはずだから、漠然と〈変よ〉などと言わないはずである。子どもどうし仲が良いなら、親どうしもお互いの家の情報をある程度共有しているはずだ。それなのにツトム君の様子が〈このごろ少し変よ〉としかわからないのは、母親が家にいないことを知らないからである。

 ツトム君のママは、「しばらく実家に帰っているのでうちの息子をよろしく」なんて挨拶できなかった。つまり、よその家に知られたくない事情で帰っている。女の子の家でもだんだん情報を仕入れて、どうやらこれはツトム君の問題ではなく、山口家の問題なのだということがわかってくる。ツトム君の父親も元気なさそうだ、夫婦喧嘩して里に帰ったんじゃないのとか、噂をする。それを耳にして女の子も「ははーん」となる。

 

5 ツトムの家

 歌にはツトム君のパパは姿を見せない。パパがいないのではなく、パパは姿を見せないところでいろいろ動いているのである。パパは平日は仕事で忙しいし、休みの日は、ママが戻ってくるよう実家に働きかけたり、実際迎えに行ったりしたかもしれない。ツトム君のことはかまってられない。だから〈大事にしていた三輪車 お庭で雨にぬれていた〉と三輪車が放置されたままになっている。ツトム君は家に閉じこもったままだし、パパも片付けている暇はない。片付けてくれる人が誰もいない。〈大事にしていた三輪車〉がほっておかれるくらい、重大なことがおきたのである。

 三輪車がしまわれないままにあるということは、事態が急に動いたということをも意味している。三輪車で遊びそれを片付けるという一連の行為が途中で中断されたままである。それだけあわただしかったのである。ママは急に出ていったのだ。動かない三輪車はツトム君の心もそこで止まっていることを意味している。雨晒しになっていることは寂しいツトム君の姿の比喩でもある。

 三輪車が庭にあるということは山口さんは一軒家に住んでいるということである。七〇年代に母親をママと呼ぶのは都会的な家庭だ。遊び場は原っぱでなく広場だし、絵本を見るとかもそうだ。泥んこ遊びなんかしない小洒落た家庭である。そもそも〈田舎〉を二回も繰り返すことで、自分たちは都会に住んでいることを反照的に言っていることになる。ママは何日も実家に帰るのだから仕事をしていない専業主婦。パパ、ママ、子どもの三人家族である。ツトム君はママがいないと意気消沈してしまうし、ママが戻ってくると途端に元気になる。遊び相手は女の子で、ちょっと逞しさがない。一家は、理想のマイホームを手に入れていっけん幸せそうだが、核家族は家族の一人が欠けただけでも崩壊してしまうという脆さがよく出ている。それは歌の語り手である女の子の家も同じなのであろう。

 

6 二つの家

 この歌が出た半年後に、アンサーソング「ユミちゃんの引越し~さよならツトム君~」が同じ作者でつくられている。だが、同じ作者とは思えないほど言葉の選び方がゆるい。

 今作では、語り手が女の子からツトム君に交替している。女の子の名前はユミちゃんという。そのユミちゃんが遠くの町に引っ越しするので、ツトム君は〈ママと二人でお別れに来た〉が、ユミちゃんは泣きそうだった。ユミちゃんのパパは転勤族なのだろうか。それで、ユミちゃんはそろそろ自分ちが引っ越ししそうなことがわかっていたのかもしれない。そのため前作でツトム君のことが一層気にかかったのではないか。

 どちらの歌も、ツトム君にとって大切な女性が遠くに行ってしまうという内容である。ママのときは落ち込んだけど、ユミちゃんのときは泣かないし、お小遣い貯めて会いにいくとか、手紙を寄越せとか妙に行動的になっている。ツトム君も成長して男の子らしくなったのである。励ます/励まされる立場が逆転している。また、手紙は全部ひらがなで書いてよ、そしたら自分で読める、とツトム君はお願いしているが、これで、ユミちゃんのほうが少し年上であるらしいことがわかる。

 この歌(「ユミちゃんの引越し」)の難を言うと、子どもらしさを示す役割語ということなのか、語尾の〈よ〉〈ね〉が繰り返されているのだが、それが耳ざわりである。〈むこうへついたらね きっと手紙を書いてよね〉とか。「山口さんちのツトム君」には〈このごろ少し変よ どうしたのかな〉とあって〈よ〉〈な〉が印象的に使われているから、それを継承したのかもしれないが、うるささを感じる。

 ユミちゃんは親の事情で引っ越すのであろうが、ツトム君も子どもで、お互い子どもだからどうすることもできない。「山口さんちのツトム君」も「ユミちゃんの引越し」も、子どもは親に左右される、という歌である。これらの歌では、家が隠された主題なのだ。そして、七〇年代の歌では、まだ家は核家族を最小限のユニットにしてその枠組を保持していたが、現在ではその核とされた単位も崩壊がすすみ、ひとり親家庭が急速に増えている。それは平成になって離婚件数が急増したからである。(https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000083324.pdf#search=%27ひとり親家庭数+推移%27)家という単位を前提としたこのような歌のリアリティは急速に薄れつつあるから、現在、同じ趣向の歌を作るのは難しいであろう。子どもが庭で遊んでいる姿というのもすっかり見られなくなった。