Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

「帰ってきたウルトラマン」の歌の謎を解く

 帰ってきたウルトラマン』の謎というと、多くの人は、初代のウルトラマンとは別のウルトラマンなのだから、「帰ってきた」というのはおかしいではないかと思うだろう。定番の疑問である。

 これについてはすでに答えが出ている。もともと『ウルトラマン』の続編として企画されたから「帰ってきた」とついたのである。「帰ってきた」という言い方は、当時テレビドラマ『帰って来た用心棒』やフォークソング帰って来たヨッパライ」があったので、「ウルトラマンも帰ってこさせたらどうかね」と円谷英二社長が言ったからである(白石雅彦『「帰ってきたウルトラマン」の復活』双葉社、2021年、54頁より孫引き)。だが、企画を練っていく過程で続編色は薄まり独自性が強くなっていった。変身の際はアイテムを使わないし、主人公の雰囲気も違うし、体の赤いデザインも違いをおおきくした。

 「帰ってきた」とはいっても、前作と同一の個体であるウルトラマンが帰ってきたわけではなく、外見はよく似ているが、人格としては全く別の人格である。両者は、首周りと大腿のあたりの模様が異なっており、新マンは、赤い模様の周囲をもう一本の赤い線が囲んでいる。これはゾフィーのデザインを応用したものだろう(MATの隊員服では、二代目隊長だけ胸の黒のV字模様が二重線になっているところにもデザインの共通性が認められる)。視聴者は、この二人のウルトラマンの関係について最初は混乱するが、異なる存在だということがなんとなく腑に落ちてくる(第38話で初代ウルトラマンと共演したのは決定的だ)。そしてそのときから、ウルトラマンというのは特定の個体を指す呼称ではなく、レベルが上のまとまりを指すものという認識ができてくる。

 初代ウルトラマンに対し、この帰ってきたウルトラマンウルトラマン・ジャックと呼んで差別化することがある。しかし本編の中では使われていないので、本稿では専ら「新マン」と呼ぶことにする。

 私の考えでは、帰ってくるなら、ゾフィーを帰ってこさせればよかった。新マンとゾフィーのデザインは似ている。だがゾフィーは地球に対してあまりよい感情を抱いていないようだ。『シン・ウルトラマン』では地球を滅ぼそうとさえする。だが地球人につれないウルトラマンというのも面白かったかもしれない。

 ゾフィー以下、ウルトラ6兄弟という設定がある。血縁関係はないが宇宙警備隊の精鋭として絆が強いので義兄弟として扱われる。宇宙は広いが、この兄弟たちはなぜか全員地球に来ている。地球はどうもそこで試練を受ける通過儀礼のような場所になっているようだ(ゾフィーは除く)。地球とウルトラマンの故郷であるM78星雲とははるか離れているはずだが、ウルトラマンゼットンにやられたときゾフィーは瞬時に駆けつけているし、その後も兄弟たちは仲間がピンチになると登場する。常に地球の動向にアンテナを張っていて、ワープして駆けつけるのだろう。

 

 帰ってきたウルトラマン』は今から50年前、1971年から72年にかけて放送された。私が6歳のときで、リアルタイムで見た最初のウルトラマンである。私が何かで入院しているとき、病院のベッドで読んでいた雑誌(学年誌?)に、『帰ってきたウルトラマン』が放送されると小さなニュース記事が出ていたのを覚えている。

 印象に残っているエピソードは、たいして強そうでない怪獣にウルトラマンが負けた第4話、ツインテールが出てきた第5-6話、東京が2大怪獣による津波に襲われる第13-14話、ウルトラブレスレットをもらった第18話、奇妙な印象が残った怪獣使いと少年の第33話、坂田兄弟が殺された第37-38話である。ウルトラブレスレットを使うようになったら何でもありになったのでつまらなくなった。

 本稿では『帰ってきたウルトラマン』主題歌の歌詞に焦点をあてる。主題歌のタイトルは「帰ってきたウルトラマン」、作詞は東京一(あずま きょういち)。プロデューサー円谷一つぶらや はじめ)のペンネームである。

 東京一は、1966~1973年のあいだに、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『マイティジャック』『ミラーマン』『トリプルファイター』『緊急指令10-4・10-10』『ファイヤーマン』といった円谷作品の主題歌、挿入歌を作詞している。

 本作の歌詞については別稿「ウルトラマンの歌」でもふれる。本稿では、作詞家としての東京一の独特のセンスあふれる言い回しを中心に述べる。

 以下は歌詞を読んで推察したことを書いていく。参考にしたのは、前掲の書籍(『「帰ってきたウルトラマン」の復活』)のほか、ウィキペディアとユーチューブであり、誰でも参照できる情報を元に書いている。それでも意外な発見はあるはずである。

 ちなみに前掲書には歌詞についての言及は一箇所しかない。「ツブちゃんが書いた主題歌の1行目が、ある意味では僕のテーマだったわけですよ。(中略)それはM78星雲じゃない、もっと身近な、君にだってその気になればウルトラの星は見えるんだよということです」(プロデューサー橋本洋二、97頁)。これはウルトラマンが体現している正義や勇気を視聴者である子どもたちにも我が事として感じ取ってもらいたいということだろう。

 本作では視聴者の子どもと作品世界をつなぐ役として坂田次郎という少年が存在し、「次郎くん」と呼ばれる。一方、主役の郷秀樹を演じるのは団次郎で、オープニングクレジットで名前が表示される。私は子どものとき、この「次郎かさなり」に混乱させられた。また、少年の兄を演じるのが岸田森で、MATには岸田隊員がいる。こうした混乱を招くような名付けをどうしてしたのだろうか。

 ネットを見ると、ヤフー知恵袋などに本作の歌詞についていくつかの疑問と回答が見受けられる。本稿とも重なる部分があるが、常識の範囲内の回答なので、いちいち言及しない。

 まず、歌詞を掲げておく。

 

 「帰ってきたウルトラマン」作詞、東 京一

  君にも見える ウルトラの星
  遠くはなれて 地球にひとり
  怪獣退治に 使命をかけて
  燃える街に あとわずか
  とどろく叫びを 耳にして
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

  十字を組んで 狙った敵は
  必殺わざの 贈りもの
  大地を飛んで 流星パンチ
  近くに立って ウルトラチョップ
  凶悪怪獣たおすため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

  炎の中に くずれる怪獣
  戦いすんで 朝がくる
  はるかかなたに 輝く星は
  あれがあれが 故郷だ
  正義と平和を 守るため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

 

 最初に言っておくと、私は、この歌詞は、東京一が作詞したものの中では最も出来のよいものであると思う。以下、1番から順に見ていくことにする。

 

〈君にも見える ウルトラの星〉

 出だしである。この〈君にも〉というのは、テレビの視聴者である子どもたちということであろう。最初にまず子どもたちに呼びかけることで、作品世界の中にグッと引き入れようとする。テレビの壁を越えようとする巻き込みタイプの歌詞である。実際、親にどれが〈ウルトラの星〉なのか聞いて夜空を見上げた子どもたちも少なくなかったのではないか。

 歌詞の文脈で考えると、〈君にも〉というのは、〈君〉の他にすでに〈ウルトラの星〉を見ている人がいることを想定してそう言っていることになる。それは誰なのかというと、〈ウルトラの星〉を〈ウルトラの星〉と知って見ている人であるから、地球にやって来たウルトラマンということになる。

 〈君にも見える〉ということは、「誰にも見える」ということとは違う。誰にでも見えるのなら、あえて〈君にも見える〉とは言うまい。見えない人もいるのであり、選ばれた〈君〉にだけ見えるということである。テレビの前にいる子どもたちは一律にそう呼びかけられているが、では、そのうち誰が特別に選ばれているのか。それは子どもたち次第である。ウルトラマンと同じものが見えるということは、ウルトラマンと仲間であるということだ。自分はウルトラマンの仲間になる資格があると思えば見えるはずだし、そうでなければ見えるように努力するだろう。

 〈ウルトラの星〉について考えると、3番の歌詞では、〈はるかかなたに 輝く星は/あれがあれが 故郷だ〉と歌われていて、ウルトラマンが郷愁をもって〈ウルトラの星〉を見ていることがわかる。この歌詞の語り手はウルトラマン本人か、近い立場からその心情を理解する者であるようだ。他のウルトラシリーズの歌詞が、外からウルトラマンに戦えとはやしたてるものであるのに比べ、「帰ってきたウルトラマン」の歌詞は、ウルトラマンの内面をくんだものになっており、そこには孤独と郷愁がただよう、しっとりした陰りのあるものになっている。この歌がウルトラシリーズには珍しく、ウルトラマン=郷秀樹役の団次郎が歌っているのも故なしとしない。

 

〈遠くはなれて 地球にひとり〉

 〈君にも見える ウルトラの星〉というのは、あんなに遠くから僕(ウルトラマン)はやって来たんだよということでもある。そのことは、続く歌詞〈遠くはなれて 地球にひとり〉から遡って解釈される。〈遠くはなれて 地球にひとり〉というのは、〈ウルトラの星〉を〈遠くはなれて〉ということである。

 〈遠くはなれて 地球にひとり〉という文は、文法的に間違っているわけではないが、どこか座りが悪い。〈遠くはなれた 地球にひとり〉としたほうがしっくりくる。〈遠くはなれて〉という言い方では、離れるという行為の過程が取り立てられ、その行為の結果〈地球にひとり〉という事態がもたらされたということになる。ここには動きと時間の流れが強くでている。〈遠くはなれた 地球にひとり〉と名詞修飾節にしても時間の流れがあるが、結果から見た言い方になり、静的な感じになる。書かれた文字として見るならば、〈遠くはなれた 地球にひとり〉のほうがしっかりと落ち着いた感じになる。時間の流れとともに言葉が耳を通過していく歌としては、〈遠くはなれて〉という動きのある歌詞のほうがいいかもしれない。

 

〈怪獣退治に 使命をかけて〉

 作詞者による独特の言いまわしが、この〈使命をかけて〉である。〈使命〉と〈かけて〉のつながりは不自然なコロケーションである。〈使命〉という語を使うなら、〈怪獣退治の使命を受けて〉とか〈使命を帯びて〉、〈使命に燃えて〉といったところになるであろう。あるいは逆に〈かけて〉を活かすなら、〈怪獣退治に 命をかけて〉といったところか。作詞者は「使命を受ける」「命をかける」を混同して用いたのかもしれない。

 では、なぜ混同したのか、あるいは混同させたのか。それはまず、〈使命〉という語を使いたかったからだろう。なぜ〈使命〉という語を使いたかったかというと、故郷を離れて戦う理由が必要だったからである。〈あれがあれが 故郷だ〉と思いを募らせていながら戻れない故郷への斥力が必要なのだ。それが〈使命〉である。故郷を懐かしむウルトラマンを故郷から引き離す力が〈使命〉である。

 次に、なぜ〈使命をかけて〉と「かける」を使ったのか。使命というのは、最後まで遂行することが強く望まれる任務であり、その威光はそれを授けた人が発している。しかし、ここで〈使命を受けて〉としてしまうと、他に誰か使命を与えた人がいるということになってしまい、その使命を与えたのは誰かということにもふれないわけにはいかなくなる。だが、そういう設定のドラマではないため、そこは曖昧にしておきたい。そのため、〈使命をかけて〉と、〈使命〉の起源を意識させず、自分で選択したもののようにしたのである。〈とどろく叫びを 耳にして/帰ってきたぞ〉と言っているように、ウルトラマンは他人(地球人)を助けるために、自らすすんで戦いに身を投じている。怪獣をたおすことを自分の使命とすることを「自分で決めた」のである。いわば「自分で自分に使命を与えた」のである。その任務は崇高なので、遂行すべき使命になり得たのである。

 宇宙戦艦ヤマト』の主題歌では、〈地球を救う 使命を帯びて〉と歌われる。ヤマトに使命を与えたのは地球防衛軍であり、ひいては人類全員である。地球を救う目的のためにヤマトは建造されたのだから当然である。一方、ウルトラマンが地球に来たのは偶然であり、怪獣との戦いはボランティアである。もしウルトラマンが誰かの命令で戦っているのだとしたらウルトラマンは兵隊の一人にすぎなくなり、人類のウルトラマンへの感謝の念は薄くなるだろう。ウルトラマンが地球人に義理もないのに自主的に戦ってくれていると思うから人は応援するのである。

 〈使命を受けて〉のように通常のわかりやすい用法はウルトラマンの存在を矮小化する。そのため、少しずらして〈使命をかけて〉にしたのではないか。これなら、全力で取り組んでいるという意志が伝わってくるし、ウルトラマンの利他行に感謝したくなる。

 

〈燃える街に あとわずか〉

 まるで現場まで急ぐ消防隊員のようであるが、ウルトラマンは郷秀樹が怪獣と戦ってピンチになると変身するので、たいてい現地にいきなり現れる。歌詞では離れたところで変身して飛行して駆けつける感じである。無理に解釈すれば、郷秀樹がマットアローとかに乗って現地に向かうイメージであろうか。〈あとわずか〉には切迫感がある。いずれにしても、この歌詞は動きがあるところがいい。ドラマ部分にはなさそうなところも、ドラマの説明ではない歌詞独自の世界観を形作っていていい。

 

〈とどろく叫びを 耳にして〉

 〈とどろく叫び〉のことを、私はずっと〈燃える街〉の住人たちの悲鳴だと思っていた。〈燃える街〉では、建物が壊れる音と住民の泣き叫ぶ声とが入り混じっている。ウルトラマン観音菩薩のように世界を見渡し、人々のうめく声を漏らさず聴き取り、たとえ遠くても駆けつけて救済する、そう思っていた。

 だが、それにしては〈とどろく叫び〉というのはおかしな言い方だと思った。〈とどろく〉というのは大地を揺るがすような、あるいは広範囲に空気を振動させる低く響く轟音である。たんに大きな音ということではなく、大砲とか雷とか地鳴りとか、そういった腹の底に響くような音が〈とどろく〉である。悲鳴は高く響くので、広範囲に浸透する低音ではない。〈とどろく〉とはイメージが違う。だからこれは、東京一の独特な言語感覚による歌詞なのだろうと思っていた。

 しかし、本稿を書くにあたり、他の東京一の歌詞を読んだら、これは人間の悲鳴ではなく、怪獣の叫びだということがわかった。『ウルトラQ』の「大怪獣の歌」では〈怪獣 怪獣 大怪獣/響けビルの谷間に/叫べ夜のハイウェイ〉となっている(これは半年前まで放送していた「鉄人28号」の主題歌〈ビルの街にガオー/夜のハイウエーにガオー〉によく似ている)。また、同作の「ウルトラマーチ」では、〈山をゆさぶるゴメスの叫び〉〈なだれと共に ペギラの叫び〉とあり、『ウルトラマン』の「特捜隊の歌」では、〈怪獣 怪獣 怪獣/耳をつんざく このさけび〉とあって、怪獣の存在と〈叫び〉声はセットになっているのである。

 とすると、この〈とどろく叫び〉というのも街を破壊している怪獣の〈叫び〉なのだろう。たしかに怪獣なら轟くような大音響を発しそうだ。ウルトラマンは人々の悲鳴を聞いて駆けつけたのではなく、怪獣の雄叫びに反応して駆けつけたことになる。ウルトラマンは菩薩のような慈悲で私たちを守ってくれるというよりは、怪獣の存在を目印に地球に来ているようなのだ。そう思うとちょっと残念だったが、子どものとき以来の勘違いに気づけて軽く興奮した。

 

 2番の歌詞に移る。テレビでは1番しか流れないので、2番の歌詞を知らない人は多いだろう。だが歌詞を読むと、1番、2番、3番とつなげて解釈できるように書かれている。

 2番の歌詞をもう一度掲げておく。

 

  十字を組んで 狙った敵は
  必殺わざの 贈りもの
  大地を飛んで 流星パンチ
  近くに立って ウルトラチョップ
  凶悪怪獣たおすため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン

 

〈十字を組んで 狙った敵は/必殺わざの 贈りもの〉

 いうまでもなくこれはスペシウム光線のことであるが、〈十字を組んで 狙〉うという言い方は、ライフル銃のスコープなど十字の線が入っているものを想像させ、十字を組むという仕草が、狙うことの換喩として働いている。

 興味深いのは、〈必殺わざの 贈りもの〉という言い方である。〈贈りもの〉というのは本来相手が喜ぶものを選ぶはずだから、必殺技を〈贈りもの〉にするのはシニカルな言い方になる。これは「お見舞い」と同じで、病人を慰めるために渡すものが「お見舞い」であるが、「パンチをお見舞いするぜ」などと相手を嫌な目にあわせるという反語として使われるのと同じである。そういうシニカルな言い方を子ども番組の主題歌で用いるというのが東京一らしい作詞作法である。あるべき緊張感を脱構築させる用語法である。

 また、〈十字を組んで 狙った敵は/必殺わざの 贈りもの〉というのは文法的にちょっとヘンで、これは〈十字を組んで 狙った敵に〉が正確であろう。ただ、ここは〈十字を組んで 狙った敵は〉どうなってしまうのかというと〈必殺わざ〉の餌食になるということであるから、省略した言い方だとも考えられる。歌の場合、あまり正確にわかりやすいものにしてしまうと、歌詞がこじんまりまとまったものになってしまうということもある。あえて不明瞭で曖昧にしておくというのも広がりをもたせるやり方といえる。

 

〈大地を飛んで 流星パンチ/近くに立って ウルトラチョップ〉

 これはヒーローものの歌詞によくあるパターンで、必殺技を並べたということであるが、スペシウム光線や八つ裂き光輪ではなく、パンチやチョップに流星だのウルトラだのをつけただけで、プロレス技のような安直さがある。聞いている子どもにしてみれば、なぜ必殺技の名前にしないのかもどかしいだろう。

 脱線するが、ヒーローものの主題歌は必殺技の名称を入れ込むというパターンがある。そのとき、どの必殺技を入れるかで作詞家の本気度がわかると思っている。例えば『マジンガーZ』の主題歌では、「ロケットパンチ、ブレストファイヤー、ミサイルパンチ、ルストハリケーン」が出てくるが、もっともよく使う「光子力ビーム」が出てこない。ルストハリケーンを入れるなら「光子力ビーム」を入れてよ、と子ども心に思ったものだ。

 東京一作詞の「ウルトラセブンのうた」には「ウルトラビーム」が出てくる。「ウルトラセブンの技 人気ランキング」というのがネット投票であって(https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/545172/)、ダントツ1位でアイスラッガー、2位ワイドショット、3位エメリウム光線である。エメリウム光線というのは額から出る光線であるが、これが別名「ウルトラビーム」らしい。別名? 別名なんてあるのかと思うが、歌詞に「ウルトラビーム」という意味不明の技があるから、たぶんこのことだろうと同定したのだろう。〈ウルトラビームでストライク!〉という歌詞は〈アイスラッガーでスライス!〉とでもすればよかった。

 主題歌は、まだ番組がはじまる前に作られるので、作詞者に渡る情報も少ない。何がメインの武器になるのかもわからないかもしれない。だが、そうした制約のもとに作られた歌詞ではあっても、番組が終わるまで(あるいは途中まで)流されるわけだから、その間、聞き手はもどかしい思いを抱き続けることになる。

 話を『帰ってきたウルトラマン』に戻す。

 そもそもウルトラマンは、仮面ライダーのように技の名前を叫ぶわけではないから、その技が何という名前なのかということは、テレビ以外から情報を得るしかない。最終回でゼットンを投げ飛ばすときは「ウルトラハリケーン」と叫んでいたが、基本的に技の名前を叫ばず、そのことは技の種類を固定しないことにつながった。スペシウム光線やその他の大技は反復的に使用されるが、それ以外は、状況に応じていろいろな技を繰り出せるのである。マジンガーZのようなロボットなら装備は限られているので武器は限定的だが、ウルトラマンは宇宙人なので超能力で技はいろいろ出せるのである。

 初代ウルトラマンからそうだが、とにかく困ったときはウルトラマンは回転する。垂直軸のスピンをしたり、飛行形態で臍を中心にプロペラ回転したりする。回転すればたいていのピンチは切り抜けられる。回転というのは全身を使ってするから、これ以上ない大技を繰り出しているように見える。回転は、ウルトラマンに異なる次元の力をもたらす。『ちびくろ・さんぼ』で木の周りをぐるぐる回ってトラがバターになるように、回転は見るものの視覚を混乱させることで、存在レベルで質の変化をもたらす。

 ウルトラブレスレットも万能の武器である。万能すぎて番組をつまらなくしている。ブレスレットは様々に形を変え、槍にも鞭にも盾にもナイフにもなる。なかでも、ウルトラマンが冷凍されて手足首胴がバラバラになったとき、ブレスレットがピカッと光って体がもとに戻ってしまったのには驚いた(第40話)。

 歌詞に戻る。

 〈大地を飛んで 流星パンチ/近くに立って ウルトラチョップ〉という歌詞である。動きをとらえている。たんに技の名前を伝えるだけではなく、そのときのウルトラマンの身体の動きを描写している。〈大地を飛んで〉とダイナミックに動き、〈近くに立って〉と間合いを詰める。

 ただ、ここで違和感があるのは、〈大地を飛んで 流星パンチ〉である。大地を飛ぶのは足によってであるし、身体の大きな移動をともなうので、体全体を使う足技となるのがふさわしいだろう。実際、〈近くに立って ウルトラチョップ〉とあるように、元来、パンチやチョップは接近戦で使うものである。

 ここは〈大地を飛んで 流星キック〉となるべきではないだろうか。実際、第4話は「必殺! 流星キック」というサブタイトルで、宙空に飛び上がって四足怪獣に上からキックをお見舞いしてツノを折っている。『帰ってきたウルトラマン』には別に「戦え! ウルトラマン」という歌があって(主題歌の候補だった)、歌詞が共通している部分が多くあり、当該部分は〈大地を飛んで キック一発〉とキックになっている。

 「流星キック」のほかに「ウルトラキック」という技もある。第27話では郷秀樹がキックボクサーにウルトラキックを伝授している。またこの回には沢村忠が出演している。TBSで『帰ってきたウルトラマン』の放送時間帯の前番組は、キックボクサー沢村忠を主人公としたアニメ『キックの鬼』であった。沢村の決め技は「真空飛び膝蹴り」で、何が真空なのかわからぬまま、子どものころこれもよく真似した。飛び膝蹴りは脚を伸ばさないので普通のキックとは違うが、蹴り技ではある。

 子どもたちにキックが流行しているときに放送されたウルトラマンである。そういうキックブームのおりであるにもかかわらず、しかも文脈上キックがふさわしいものであるにもかかわらず〈大地を飛んで 流星パンチ/近くに立って ウルトラチョップ〉と、歌詞でキックを使わないのは、それをあえて避けたのではないかと思われる。もしかしたら、ウルトラマンのスーツを着て、キックボクサーのように派手に蹴り上げるキックを撃つのは無理だろうと判断してキックという語を使わなかったのかもしれない。同時期放送の『仮面ライダー』がキックを必殺技に取り入れたのとは対照的である。

 ちなみに、〈大地を飛んで 流星パンチ〉とあるところの、この〈大地云々〉というのも東京一の好きな言い回しである。「進め! ウルトラマン」では〈大地をけって空を飛ぶ/それ行け それ行け/ウルトラマン〉、「ウルトラ警備隊のうた」では〈ウルトラカーで大地をけって/走れ 走れ/地球を守る警備隊〉、「ウルトラマンエース」では〈大地をけって すばやいジャンプ〉などとある。

 これらを見ると、大地をけるのは、空を飛んだりジャンプしたりするときのようである。「帰ってきたウルトラマン」では〈大地を飛んで〉とあるから、これはもうはっきりとジャンプして飛び上がっているということである。ちなみに『仮面ライダー』のエンディング「ライダーアクション」では、〈大地をけって ライダージャンプ〉と歌われる。『仮面ライダー』は『帰ってきたウルトラマン』と同時期に放送されていたライバル作品である。仮面ライダーはバッタなのでジャンプするのはわかる。しかしウルトラマンは空を飛べるのでジャンプするまでもなく空中に舞い上がれる。大地をけったりする必要は本来はない。

 こまかい指摘はこのあたりでやめておく。〈近くに立って ウルトラチョップ〉という歌詞で注目すべきは次のことである。手技なので〈近くに立〉つ必要がある。怪獣と接近して戦っている。怪獣と近距離にいるということが、歌詞の構造上、重要だ。

 これまでの歌詞を振り返ってみると、〈遠くはなれて 地球にひとり〉とあり、ウルトラマンは遠くから来ていると言っていた。それが〈燃える街に あとわずか〉となって、怪獣にだんだん近づいてくる。そしてついに怪獣の〈近くに立って ウルトラチョップ〉である。つまり、超遠距離、中距離、近距離という3段階の移動になっているのだ。歌詞では次第に怪獣という中心に接近してくる様を描いている。人々が待ち望んでいたウルトラマンが遠くからやって来た、もうすぐ来てくれそうだ、そして今は目の前で怪獣と対面している。そういうだんだん近づいて来て、今は目の前にいるんだという移動の感覚が歌われている。中心に怪獣がいて、その周辺で災害が起こり、MATやウルトラマンが集まってくるのである。

 

 歌詞の3番に移る。3番を再掲する。


  炎の中に くずれる怪獣
  戦いすんで 朝がくる
  はるかかなたに 輝く星は
  あれがあれが 故郷だ
  正義と平和を 守るため
  帰ってきたぞ 帰ってきたぞ
  ウルトラマン


〈炎の中に くずれる怪獣〉

 気になるのは〈くずれる怪獣〉という言い方である。ウルトラマンスペシウム光線などで怪獣をたおすと、たいてい爆発して粉々になる。怪獣が消滅し、戦いが終わったことをはっきりわかるようにするということだろう。これは『仮面ライダー』でも同じで、ライダーキックなどで息の根を止められると景気よく爆発する。怪人も生物なので、蹴とばされて爆発することはありえない(もしかしたら、重傷を負うような強い衝撃が加わると爆発するように改造されているかもしれない。治療するより殺してしまったほうが簡単である)。

 もし怪獣がたおされても爆発して消えなかったら、その巨大な死骸が残ることになり、あと片づけが大変である。映画の『パシフィック・リム』や『大怪獣のあとしまつ』ではそれが描かれている。爆発すれば、あと片づけの心配はしなくて済む(肉片は飛び散るが)。

 また、特に『帰ってきたウルトラマン』ではウルトラブレスレットの使用により、怪獣の手足や首、胴体が無残にも切断されて死ぬという場面が多くなった。切断というのも、これで最後だとはっきりわからせる手法である。切断されて爆発炎上することもある。つまり怪獣は、爆発するにせよ切断されるにせよ、凄惨な最後をとげるのである。それに対し〈くずれる怪獣〉という言い方は上品で、テレビの画面で伝えられるものとは異なるということである。

 歌詞では〈炎の中に くずれる怪獣〉とある。怪獣は生物ではあるが、ウルトラマンの攻撃により、自身で炎を吹き出して死ぬことがある。怪獣の最後を知らせる演出である。だが、歌詞の〈炎の中に〉というのは、ウルトラマンの攻撃により怪獣自身から炎が出ているというよりは、先に〈燃える街〉とあるから、その街の炎であろう。

 

〈戦いすんで 朝がくる〉

 時間の経過を意識したフレーズである。〈朝がくる〉というライブ感覚のある言い方もいい。先に、距離の移動を描いている歌詞だと指摘しておいたが、ここでは時間の経過も取り込んでいる。

 だが、疑問に思うのは、〈戦いすんで 朝がくる〉という言い方には、ある程度長い時間を戦ったという印象があり、戦いの長い夜が終わってようやく朝が来たと言っているのであるが、はて、ウルトラマンの活動時間は地球では3分のはずなのに、ここでは夜通し戦っていたかのように受け取れるのである。この〈朝〉を秩序の象徴、混沌の夜の終わりとしてとらえることもできるし、MATの戦いも含めて長い時間だったのだと解釈することもできる。だが私にはあまりそうは思えなくて、これは字義通りのことを言っているのだと思える。ただそうした場合、歌詞とドラマとにズレが生じるのであるが、そのズレは歌詞独自の味として受け止められると思う。例えば『ウルトラマン』をコミカライズしたときに、多かれ少なかれ漫画家の味が出るものだが、歌詞もそうした二次創作物のように楽しめるだろう。

 さて、〈戦いすんで 朝がくる〉というのだから、ここは薄闇のなかに朝日がさしてきて、その夜から朝への移行時期に佇むウルトラマンの姿を思い浮かべることになるだろう。実は新マンというのは、私の記憶の中では、夕焼けが似合うウルトラマンなのである。ツインテールやナックル星人にやられるときは夕日の中である。そもそもウルトラマンは太陽の光がエネルギーの源だから、日没が近い状態では太陽エネルギーも枯渇ぎみなのである。夕日が似合う新マンは、ウルトラマンの最盛期ではなく、その黄昏時のヒーローなのである。

 ちなみに、同じ作詞者による「ミラーマンの歌」には〈朝焼けの光の中に 立つ影は ミラーマン〉という歌詞がある。『ミラーマン』は『帰ってきたウルトラマン』と同じ年に放送された円谷プロの作品である。また、同歌詞の2番には〈夕焼けの光の中に 立つ影は ミラーマン〉とある。ミラーマンは、朝と夜のあいだの移行の時間が似合うと言っているのである。3番の歌詞は〈星空の光の中に 立つ影は ミラーマン〉となっている。実際、ミラーマンは夜の戦いが多いという印象がある。セットを作り込まずに済むためだろう。だが歌詞を作る時点でそういう予算的なことまで考えていたとも思えない。

 

〈はるかかなたに 輝く星は/あれがあれが 故郷だ〉

 先の歌詞は〈戦いすんで 朝がくる〉とあって、〈朝が来た〉ではない。まだ薄闇が残っている。そこに輝く星が見える。それが故郷の星である。怪獣をたおすという役目が終わったので、帰る場所に目をやったのである。

 歌詞の始めの方を思い出してもらいたい。そこには遠い星からやって来たということが語られていた。そしてこの終わりの方でもまた、はるか遠くに故郷の星があると言っている。つまりここで最初と最後がつながるのである。遠くからやって来て、また遠くへ帰る。すぐ帰るわけではなさそうだけれど、帰る方向を見定めている。役目は終わった、もう帰ってもいいかなという気配がある。ウルトラマンは地球に出稼ぎにでも来ているかのように、故郷を懐かしむのである。

 ウルトラマンは毎回怪獣をたおすと、空の彼方へ飛んで消え去る。いったいあれはどこへ行くのか。ウルトラマンは空から来て空へ帰っていくのだから、元の場所(故郷)へ帰っているふり(予行)をしているのかもしれない。用事が済んだらその場からただちに立ち去るのは、緊急の仕事に共通する行動様式である。疾風のように現れて、疾風のように去ってゆく、月光仮面と同じである。

 歌詞の1番では、遠くの星から地球にやって来て、怪獣のあばれる現地に向かうところまでが語られていた。2番では怪獣と格闘し、3番ではやっつけている。これはドラマの展開をなぞっている。歌詞を1番から3番まで通して読んでみると、そこでは一話の物語が語られていることがわかる。歌の最後では、自分の故郷の星に目を向けて、冒頭と接合している。こちらはウルトラマンが地球に来てから帰るまでという、もっと大きな物語を語っている。

 

〈正義と平和を 守るため〉

 ウルトラマンが〈帰ってきた〉のは〈正義と平和を 守るため〉であるという。歌詞の2番では〈凶悪怪獣たおすため〉となっていた。この〈○○のため〉というのはウルトラマンにとって重要である。なぜ遠い星から来て、寂しい思いをして地球にとどまるのか、その理由だからである。

 しかしこの理由は理由になっていない。なぜ宇宙人であるウルトラマンが、地球の〈正義と平和を 守るため〉に戦うのか。なぜ地球に出現する〈凶悪怪獣たおすため〉に命がけで戦うのか。どこにそんな義理があるのか、わからない。

 初代ウルトラマンの歌でも、〈光の国から ぼくらのために〉〈光の国から 正義のために〉〈光の国から 地球のために〉と〈○○ために〉が3回繰り返されている。ここでも、なぜ〈ぼくらのために〉〈正義のために〉〈地球のために〉ウルトラマンが戦うのかはわからない。ウルトラマンは、地球を含めた宇宙の平和や正義のために戦うことが使命になっているのかもしれない。では、なぜそんな使命があるのか、それはわからない。

 日本人もかつてはアメリカが日本のために戦ってくれると信じていた。強大な力をもっている大国は、世界に正義がいきわたるよう利他的にふるまうはずだと根拠もなく信じていた。スパイダーマンでは「大いなる力には、大いなる責任が伴う」と言っているが、それはアメリカのことを言っているようにも聞こえる。日本人もアメリカに、「大いなる責任」を感じていてほしいと都合よく思っている。

 ウルトラマンが個人的な関心にもとづいて行動しているという可能性もある。〈凶悪怪獣たおすため〉というのは、ウルトラマンが格闘家で、腕試しをしているとか、戦闘種族で戦いに生きがいを感じているからそうしているのだという解釈もできる。

 しかし〈正義と平和を 守るため〉というのはわからない。正義というのは人間同士でも相対的なものであり、ましてやウルトラマンは宇宙人であり、宇宙人と地球人の正義観はかなり違う可能性がある。マーベル映画『アベンジャーズ』のサノスは極悪人のように描かれているが、サノスにはサノスの正義があってやっている。ウルトラマンが人間中心主義者である保証はない。これまでたまたまそう行動しているように見えたのであるが、本心はわからない。明日、ウルトラマンが人間を虐殺し始めるということを否定する根拠はない。ウルトラマンが他の宇宙人の侵略から地球を守っているのは、自分たちが地球を侵略したいからたんに追っ払っているだけなのかもしれない。

 いかし新マンでは、「ウルトラ5つの誓い」という人間以上に人間を理解している言葉を残して去っていったので、結果的にウルトラマンの思考や感情はほぼ人間と同じだったと言える。しかし『シン・ウルトラマン』のゾーフィは人間性?に乏しく、地球を破壊しようとする。そしてゾーフィがウルトラ種族の一般的な考えであり、ウルトラマンのほうが例外のようである。

 ただ、『ウルトラマン』『帰ってきたウルトラマン』『シン・ウルトラマン』のいずれも、地球を守るという抽象的な目的で地球に来たのではなく、たまたま接触した人間が「いい人」だったので、人間を好きになり地球にとどまったようである。これはかなり心もとない理由である。もし接触したのが凶悪な人間だったら、ウルトラマンもゾーフィのように地球を破壊しようとしたかもしれない。

 いずれにせよ、〈正義と平和を 守るため〉というのはウルトラマンの行動原理ではなく、そうあって欲しいという人々の希望にすぎない。ウルトラマンがなぜ怪獣と戦っているかは全編をとおしての最大の疑問であり、人間にはその理由はわからない。主題歌で、ウルトラマンが〈ぼくらのために〉戦ってくれているのだと繰り返すのは、そう信じたいだけで、そう言い続けていればそれが真実になると思いたいからなのかもしれない。またそれは、視聴者への刷り込みになる。ウルトラマンという宇宙人がわけのわからないまま存在するのは人を不安にさせるが、それを自分に都合よく解釈して無害化し、安全だと言っているのである。

 

〈帰ってきたぞ 帰ってきたぞ/ウルトラマン

 最後に、〈帰ってきた〉という言い方について考えてみたい。

 〈帰ってきた〉というのは、そこを本拠地とする人に視点が置かれた言い方である。だから『帰ってきたウルトラマン』というのは、地球人から見て、ウルトラマンを〈帰ってきた〉ものとして見ているということである。だが、ウルトラマンにとっては、全然、帰ってきたということにはなっていない。というのも、歌詞にあるように〈遠くはなれて 地球にひとり〉なのであり、ウルトラマンはホーム(故郷)に帰ってきたのではなく、反対に、一人で遠くはなれた地に赴いているのである。

 歌詞は、タイトルと同じ『帰ってきた~』ではなく、〈帰ってきたぞ〉と〈ぞ〉がついている。〈帰ってきたぞ〉というのは、誰の、何を意味する言葉なのか。

 はじめのほうで、この歌詞はウルトラマンの内面に踏み込んだもので、ウルトラマンの心情を代弁したものであることを指摘しておいた。その一貫性を重視するならば、ここはウルトラマン自身が〈帰ってきたぞ〉と言っていることになる。だが〈帰ってきた〉というのは、そこをホームとする者がとる視点だから、ウルトラマンが自ら〈帰ってきたぞ〉というとそこには捻じれが生じてしまう。ウルトラマンにとって地球は第二の故郷であるから〈帰ってきた〉ということなのだと言いたいところだが、初代ウルトラマンが帰ってきたわけではないから、この説は無理である。

 考えられるのは、ウルトラマンが地球人のために「帰ってきてやったぞ」と思っていることである。凶悪怪獣をたおす〈ため〉に「帰ってきてやった」のである。〈帰ってきた〉のは同一個体ではなく、個体としては違うが、ウルトラマンという括りでは一緒であり、ウルトラマンという役割として〈帰ってきた〉のである。

 また一方で、この〈帰ってきたぞ〉というのは、テレビを見ている子どもたちの歓声でもある。1970年代初頭では怪獣ブームはすでに去ったと言われていたが、5年前の『ウルトラマン』は、再放送すると視聴率が高かった。また、戦いの場面を切り出して編集した『ウルトラファイト』も人気があったし、怪獣関係の玩具の売れ行きも良かった。子どもたちの新しいウルトラマンが見たいという声は高まっていた。『ウルトラセブン』終了から2年半経って、新しいウルトラマンがようやく放送される。その子どもたちの喜びの声が〈帰ってきたぞ〉である。それは同時にまた、慣れ親しんだ特撮番組のヒーローが〈帰ってきたぞ〉と告げる声でもあった。

 さらに、制作する円谷プロとしても、『ウルトラセブン』のあとの作品は視聴率がふるわず困っていたところ、TBSに本作の企画がとおり、数年ぶりのウルトラマンとして〈帰ってきたぞ〉という自信と喜びがあったと思う。「帰ってきた」とつけたのは当時存命だった社長の円谷英二の一言からだったし、歌詞を作詞したのは息子でプロデューサーの円谷一だった。

 まとめると次のようになる。

 

1 地球人から見て、ウルトラマンが地球に帰ってきてくれたこと

2 ウルトラマンから見て、地球へと帰ってきてやったこと

3 子どもたちから見て、ウルトラマンがテレビ番組として帰ってきてくれたこと

4 慣れ親しんだ特撮番組のヒーローからの帰ってきたぞという声がけ

5 円谷プロが、再びウルトラマンを作れたという喜び

 

 この5つの声が、〈帰ってきたぞ〉というフレーズの中にユニゾンとなって響いている。〈帰ってきた〉というフレーズはいろんな考察をいざなう、含みのある言い方なのである。

 〈帰ってきた〉という言い方のなかには、本来、帰ってこないもの、めったに帰ってくるものではないものが意外にも帰ってきたという、「えっ?」という軽い驚きのニュアンスが含まれている。「帰って来たヨッパライ」がそうである。この歌では、死んだ人間が帰ってくるのだから、そもそも帰ってくるはずのないものが帰って来たということで、驚きは大きい。

 ウルトラマンも帰ってくるとは思われていなかった。制作側としては、怪獣ブームは一旦終わったと思われていたから、再始動するのに時間がかかった。一方、ウルトラシリーズのドラマの中の論理でも、ウルトラマンが帰ってくるのは想定されていなかった。というのも、地球は自分達で守ると決意していたからである。『ウルトラマン』でも『ウルトラセブン』でも、最終回では地球は自分たちの手で守らなければならないと言っているのである。

 ウルトラマン』では、最終回でゾフィーがこう言っている。「地球の平和は人間の手でつかみとることに価値がある」。またウルトラマンが去る姿を見て、科特隊の隊長のムラマツは、「地球の平和は我々科学特捜隊の手で守り抜いていこう」と決意を口にしている。

 ウルトラセブン』の最終回でも、苦闘するセブンの姿を見て、ウルトラ警備隊のキリヤマ隊長は、「地球は我々人類自らの手で守り抜かなければならないんだ」同じことを言っている。

 にもかかわらず、そんなの無理でしょと言わんばかりにウルトラマンは帰ってくるのである。せっかく地球人は自立していこうと決めたのに、また舞い戻ってくるウルトラマン。子どもが一人で立ち上がろうとしているときに手を貸す親のようなもの。

 地球の平和は自分たちで守ると言ってはみたものの、怪獣相手に苦戦するのは必至。ウルトラマンがいてくれたほうがいい。実際、自分たちで何とかすると決意するのはウルトラマンがいなくなるときなのだ。頼る者がいなくなり、自分たちで何とかするしかないときの決意なので、帰ってきてくれるとわかれば歓迎する。なんで帰ってきたのかと追い払うことはしないのである。