Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

YOASOBI 「夜に駆ける」逐語解読

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 「夜に駆ける」は、公式のミュージックビデオは歌声が無機質な感じで親しみがわきにくいが、「THE HOME TAKE」バージョンの方はテンポを落としており、ボーカルも演歌ふうなところがあり(実際は洋楽に親しんでいる)、哀愁が増している。ikuraの外見も黒髪の真面目そうな感じの子であり、好感度が上がるだろう。

 「夜に駆ける」は、どこか不穏な感じのする歌である。歌詞の面からは、具体的にそれが何なのかということはわからない。歌詞を読んでも何を言っているのかよくわからないのである。もちろん断片的な言葉のまとまりはそれぞれわかるので、歌として聞いている分には不自由しない。だが、歌詞をひとつの言語の作品として見たとき、置かれている言葉どうしのつながりが見いだせず、飛躍を埋めるための糸口も推測できず、それらの言葉を貫く一本の何かが何なのかがよくわからない。書かれた言葉は表層をなぞるだけで、その奥に隠された何かに言及しない。歌詞は何かに基づいて書かれているように見えるが、それは歌詞からは判明しない。

 だが、この疑問への答えは事前に提出されている。この歌は「monogatary.com」というサイトに投稿された「小説」をベースにして書かれており、小説を歌に記号間翻訳したものなのだ。だから「小説」を読めば、この歌詞が何を言っているのかはっきりする。「monogatary.com」はソニー・ミュージックエンタテインメントが運営しており、そもそもこの歌が誕生する経緯は、運営側からもちかけられた話なのである。

 その「小説」というのは、星野舞夜という人が書いた「タナトスの誘惑」である。きわめて短いものであり、ゆっくり読んでも5分とかからない。歌を聞いている時間の方が長いだろう。ショートショートとか掌の小説とかそういった類のものよりもっとたわいのないものである。小説として完成していると言うよりどこかの一部分を切り出してきたようなものである。文体はポエムふうだが、それは改行が多い外観からくる印象である。ネット向けに書かれたもので、読みやすくするためにほどこされた工夫であろう。これを一般的な小説とは言い難いのでカッコ付きで「小説」とした(以下、煩わしいのでカッコをはずす)。作者は執筆当時、大学生ということである。星野舞夜という筆名は内容にあわせて考えられたものだろう。選択された筆名も書かれた文章も女性を思わせる。

 タナトスの誘惑」はジャンルでいえばファンタジーということになるだろう。内容は次のようなものである。マンションの屋上から飛び降り自殺を図ろうとしていた若い女性を助けた男性(僕)がその女性に恋をし、その後何度か自殺企図のメールがあるたびに屋上に出向くことになる。それが幾度も重なるうちに僕のほうも疲れてしまい、最後には一緒に飛び降りてしまう。

 タナトスというのは、ここでは死神のことで、死を願う者にはその人にだけ死神が見えるようになる。死神はとても魅力的な姿をしている。若い女性は死神が見えると言い、その姿を見てうっとりした表情をするので僕は嫉妬する。僕はブラック企業に勤務しており激務で毎日疲弊していた。僕は結局彼女と手をつないで屋上から飛び降りてしまうが、実は彼女は僕にとっての死神だった。彼女が魅力的に見えたのは、彼女が死神だったからである、というオチである。

 この小説のヒネリは、死神が魅力的な姿をして人を誘惑するというところにある。水木しげるが描くような死神は歯が欠けた年配の男で、杖を突きボロを着た不気味な出で立ちであるから近づきたくないが、死神がアイドルのような美少女やイケメンの姿をしていたらついフラフラとついて行ってしまうかもしれない。死神というのは、死への思いが外部化されたものであるから、死神の誘惑というのは、実は自分の願望が再帰化したものである。近年はいかつい戦国武将も美男子のやさ男ふうに描かれるから、死神がアイドルまがいの形象をもつのも不思議ではない。

 死が救済になるような内容なので陰鬱なもののように思われるが、筆致はいたって軽い。自殺に至る苦悩は数行で済まされているし、死神の造形は最後のオチに至る伏線であるから、情感にふれるものというより知的処理(謎解き)によって受容されるべき作品である。

 ところが、これが歌に作り変えられたときには、情感の部分が強調され、知的処理(謎解き)の部分は後退させられることになる。

 このような小説の内容を前提に歌詞を読むと、それまで理解できなかったところが理解できるようになる。歌詞の空白部分を満たすピースが見つけられる。同時に、歌詞になるときに新たに付け加えられた要素も見つかる。

 

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 「夜に駆ける」は自律性をもったひとつの作品である。小説にもとづいた歌詞ではあるが、小説を知らなくても歌詞を解釈することはできる。実際、多くの聞き手は、基になった小説を読んだことはないだろう。一般的に、歌詞は論理的に厳密な構築物とは考えられていない。歌の言葉は次から次に流れては消えていくので、メロディのまとまりに基づく言葉の断片をまたぐような整合性を聞き手は求めない。行間に飛躍があっても気にすることは(ほとんど)ない。一方で、歌詞を言語の作品として取り出してそれを解釈しようとしたときには、歌詞の全体が一望できるから、言語のもつ論理的な整合性が一層強く意識されることになる。そのため意味のまとまりどうしがどのような関係をもっているか理解しようとして、頭を悩ますことになる。

 「夜に駆ける」は、後者の点においてわかりにくい。歌詞の全体が何について書かれているのかわかりにくいのである。表面的な意味はなんとなくわかる。しかし、その裏に言葉では語られていない何かが隠されているようなもどかしさを感じるのである。何か大切なことを理解していない、ほのめかしなのか字義通りでいいのか、いくつかの言葉がささくれのようにひっかかるのである。歌詞の言葉は難解ではない。ひとつひとつの文は明瞭である。しかしそれが積み重ねられたものになると漠然としてしまう。このわかりにくさはスキームが与えられていないためである。歌詞をどういう枠組で読んだらいいのか、歌詞じたいには手がかりがない。タイトルの「夜に駆ける」がどういうことなのかすらわからない。もちろん「夜に駆ける」は日本語として意味は汲み取れる。何かあって夜中に走っているのである。ジョギングというわけでもあるまい。走るのだから何か緊急事態が起こっている感じがする。だが「小説」を読むことでほとんど全ての意味がわかってくる。「ほとんど」というのは、歌詞にする過程で付け加えられた部分があり、そこは別に解釈が必要だからである。しかし「小説」からそのまま歌詞に置き換えられた部分は相互参照できるので、意味はかなり限定して理解できる。例えば「夜に駆ける」というのは、マンションの屋上から飛び降り自殺することを美化して言ったことだとわかる。また、マンションの階段を駆け上がる「僕」のことでもあるだろう。他の部分についても、答えあわせをするように見ておこう。

 以下では、歌詞と小説を比べて、歌詞になるにあたって何が省略されたか、何が付け加えられたか、について検討する。

 

〈「さよなら」だけだった/その一言で全てが分かった〉

 彼女が「さよなら」の4文字をLINEで送ってきた。それは自殺するためにマンションの屋上にいるからそれを止めに来いという合図である。「死にたい」とか「たすけて」という4文字であれば、それはただちに「僕」を動かす言葉になるであろうが、「さよなら」だと、だからどうするという行動に普通はただちに結びつかない。いったん解釈が必要である。他の人なら動けないが、「僕」はすぐに理解して屋上に向かう。小説では「さよなら」のメールと「僕」が駆けつけることは4回繰り返されたことになっている。もともと二人は彼女が屋上で飛び降りるところを止めたことで出会ったのだから、メールの意味も理解しやすいだろうし、それが反復されたとなれば反射的に動けるだろう。〈その一言で全てが分か〉るのは、「僕」という特別な限らされた受信者である。「僕」以外には、この短い言葉で彼女を理解できない。

 屋上で飛び降り自殺を図るというスキームがないところでこの歌詞を読むと、一般的にありふれた状況として行間を理解しようとするので、〈「さよなら」だけだった/その一言で全てが分かった〉というのは、別れの危機に瀕している二人がいて、相手が送ってきたこの上ない短い言葉でその結論に至る相手の考えがわかった、というくらいの意味になるだろう。

 

〈日が沈み出した空と君の姿/フェンス越しに重なっていた〉

 歌詞では〈日が沈み出した空〉とあるが、小説では「もうとっくに日は沈んだ」ことになっている。〈日が沈み出した空〉というのは昼と夜の境界の時間であり、ドラマチックな時間であるからこちらのほうが絵になる。小説のほうは残業後の出来事だから夜にならざるをえない。

 〈フェンス越しに重なっていた〉というのは、小説では、マンションの屋上のフェンスの向こうで彼女が飛び降りる寸前の状態にいたということである。小説の枠組をはずして解釈すると、これは日常の中の美しい一コマにすぎない。フェンスというのはどこにでもあるから、そのフェンスと〈君〉と夕空の取り合わせがきれいに見えるというほどの意味に受け取れる。ただ、その場合に不穏なワードが〈空〉と〈フェンス越し〉の〈越し〉である。〈君〉と〈空〉が重なって見えるのはよほど開けた場所ということになる。また、たんにフェンスに寄りかかっているのではなく、ここであえて〈フェンス越し〉の状態でいるとされるのは何故かということである。それは無視しようと思えば無視できるものである。そういう情景なのだと強弁することもできる。だが歌詞はこのような細部において、日常性のバイアスからはみだすものをさしはさむことで、隠された二重性をほのめかしている。小説では、このフェンスは屋上のフェンスである。しかし歌詞ではそこまで言及しない。そこまで言うとあまりに不穏すぎて、歌詞の内容が限定されて、特殊な歌になってしまう。作詞者はもっと開かれたものにしておきたかったのだろう。歌を聞く人のほうが小説を読む人の数より多い。

 

〈初めて会った日から 僕の心の全てを奪った/どこか儚い空気を纏う君は 寂しい目をしてたんだ〉

 マンションの屋上で自殺を図る彼女を助けたのが最初の出会いだった、と小説では書かれている。彼女は、「つぶらな瞳にぽってりとした唇と、可愛らしい顔立ちだが、どこか儚げな表情をしている」と描写される。ここで気になるのは「ぽってりとした唇」である。通常、こういう表現をする場合は、この女性が肉感的であり、また生命力が強いことを示している。だがこの「小説」の設定では、この女性は「僕」が生み出した死神の幻影であり、精神的な存在であるはずである。ここは「薄い唇」とでもしたほうがぴったりするのだが、作者によるひっかけなのかもしれない。「僕」は彼女に一目惚れするのだが、それは「ぽってりとした唇」に象徴される身体に性的に吸引されたせいかもしれない。

 小説の「儚げな表情をしている」というところを、歌詞では〈儚い空気を纏う君は 寂しい目をしてたんだ〉と活かしている。ただ、目は「つぶらな瞳」が〈寂しい目〉に変わっている。小説の別のところでは「虚ろな目をした彼女」となっている。「つぶらな瞳にぽってりとした唇」は歌詞の雰囲気にそぐわないディテールなので改変されたのであろう。

 ところで小説では、どうしてはじめての出会いがマンションの屋上だったのだろうか。マンションの多くは安全上、屋上を開放しておらず、屋上は見知らぬ人どうしが出会う場としてはあまりふさわしくない。「僕」の住むマンションが屋上に関するルールがゆるいところだったとしても、「僕」いったいは屋上に何をしに行ったのだろうか。高いところから景色でも見ながらタバコを吸いに行ったのか。小説には書かれていないが、状況から推測すると、おそらく「僕」もまた飛び降りるために屋上に行ったのではないか。そしてそこで同じようなことを考えている彼女に出会ったのである。似たものどうしだったから、強く惹かれたのである。

 だが、このように考えると或る矛盾が生じてしまう。「僕」が死に場所を求めて自分で進んで屋上に行ったのなら、死の世界へと導く役の死神など必要ないだろう。死のうとしている彼女(死神)を見て、逆に「僕」は生の側に立って彼女を引き止めることになった。他人が死のうとするところを客観的に見ることで、自分のやろうとしていたこと(自殺)も客観的に見れるようになったのだ。死神はむしろ「僕」の死を遅延させたのではないか。ただ、「僕」んもすぐには思いきれないので、何回も屋上に誘い出し、完璧な死へと導いたということだろうか。

 

〈いつだってチックタックと 鳴る世界で何度だってさ/触れる心無い言葉うるさい声に 

涙が零れそうでも/ありきたりな喜び きっと二人なら見つけられる〉

 ここは歌詞のオリジナルな部分である。小説が投稿されたmonogatary.comでは、「お題」を決めて投稿を募集している。この小説は「夏の夜、君と僕の焦燥。」という「お題」のもとに投稿されている。小説では「お題」の「焦燥」を二つの観点から取り入れている。ひとつは、彼女の自殺をとめるためにマンションの階段を駆け上がるということ。もうひとつは、現代社会のせわしなさということである。ラストはこうなっている。

 

  この世界が僕らにもたらす焦燥から逃れるように、

  夜空に向かって駆け出した。

 

 つまり屋上から飛び降りた、ということである。「この世界が僕らにもたらす焦燥」というのは、小説の文脈では、お盆なのに残業したとか、ブラック会社に勤めているといったことである。時間に追われ休むまもなく働かされているということだろう。ブラック会社は強欲でせわしない社会の典型である。たんにその会社だけの問題ではなく、私達が生きている社会全体がそうなのである。だから、そこからは逃げることができない。その外側はない。逃げるためには生の向こう側に行かなければならない。歌詞では、自殺をとめるのに間に合うかという直接的な部分ではなく、現代社会に対する批評的な部分をふくらませている。作詞したAyaseはインタビューで、この小説のことを「スピーディー」「疾走感」があると言っている。それは曲としてはアップテンポにすることで表現され、歌詞においては時計の秒針が〈いつだってチックタックと鳴る世界〉と書かれることになった。〈触れる心無い言葉うるさい声に涙が零れそう〉というのはブラック会社での仕事を抽象的な言葉で敷衍したものだろう。

〈ありきたりな喜び きっと二人なら見つけられる〉に該当する部分は小説には存在しない。小説では、彼女と「僕」の関係がどういうものなのか、よくわからない。親しい友達なのか、恋人なのか、どのていど親密なのか。彼女は最近同じマンションに引っ越してきたということ、「いろいろな話をするようになり、仲良くな」って「付き合い始め」ていること、ということしかわからない。〈ありきたりな喜び きっと二人なら見つけられる〉という歌詞は、彼女が死神だとわかったとたん、空疎に響く。「僕」の想像から生まれた存在なので、〈二人〉というような対称性はない。〈ありきたりな喜び〉を彼岸での幸せととらえれば、これはかなりアイロニーのきいた歌詞ということになり、〈二人なら〉というのは二人で飛び降りたということになる。

 

〈騒がしい日々に笑えない君に/思い付く限り眩しい明日を〉

 これも歌詞のオリジナルであり、先程と同じテーマの反復である。小説と照らし合わせるなら、この部分はかなり強烈な反語的表現ということになる。彼岸の世界のことを〈眩しい明日〉というからだ。だが、普通は、ポップな曲にそれほど強い反語的な二重性があるとは考えないから、ここは歌詞を字義通りに青春ぽいものに解釈しようとするだろう。裏の意味との距離が遠いくなるほど歌詞の自律性が高くなる。歌詞の言葉の表面的な意味だけで構築された世界が浮かび上がる。

 

〈明けない夜に落ちてゆく前に/僕の手を掴んでほら〉

 ここは直前のフレーズと対句的になっていて、同じようなことを繰り返している。

〈騒がしい日々に笑えない君〉=〈明けない夜に落ちてゆく〉

〈思い付く限り眩しい明日を〉=〈僕の手を掴んでほら〉

 よく見ると、その前も似たようなことを言っているのである。

〈いつだってチックタックと鳴る世界〉というのは〈騒がしい日々〉のことだし、〈心無い言葉うるさい声に 涙が零れそう〉をかんたんに言ったら〈笑えない君〉ということになる。〈ありきたりな喜び〉をグレードアップしたら〈眩しい明日〉になるし、〈二人なら見つけられる〉というのは〈僕の手を掴んで〉いれば二人なのである。このあたりは同じようなことを言葉を変えて言っていて、それはここから、二人の人生が交差していく要所だからだ。

 小説だと、マンションの屋上から飛び降りようとする彼女を「僕」が救うわけだから、それを前提にすると、〈明けない夜に落ちてゆく前に/僕の手を掴んでほら〉という箇所は、まさにそれをほのめかしているものと読める。ただ小説では、「彼女が僕の手を振り払おうとしたので、思わず力強く握ってしまった」と書かれていて、彼女は「僕の手を振り払」いこそすれ、〈僕の手を掴〉もうとすることはない。歌詞では彼女や「僕」の意思を手の動きで表現しようとしており、手のしぐさは重要である。歌詞の後の方では小説に従い、〈がむしゃらに差し伸べた僕の手を振り払う君〉と描写されている。このあと、彼女の手の動きも出てくるのだが、ここではとりあえず「僕」の手の動きとして、〈手を掴んでほら〉と差し伸べていること、そしてそれは振り払われることを押さえておこう。なにしろ小説の彼女の正体は死神なので、常識はずれな言動をする。小説に寄り添う歌詞は死神云々は言及されないからわかりにくいものになっている。

 ここは文脈上関連したことが続けて述べられており、〈騒がしい日々〉〈眩しい明日〉とのつながりで、〈明けない夜に落ちてゆく前に/僕の手を掴んでほら〉というのもアレゴリーとして読むことができる。飛び降り自殺というもう一つのレイヤーがなくても、歌詞のテクストだけでそれなりの解釈が可能だ。

 

〈忘れてしまいたくて閉じ込めた日々も 抱きしめた温もりで溶かすから/怖くないよいつか日が昇るまで 二人でいよう〉

 ここもまた先ほどまで言っていたことと同じことの繰り返しだが、それをよりJポップふうの言葉で再解釈している。そのため歌詞のオリジナルな言葉遣いになっている。小説をベースにしているせいでい、どこかに芯を感じるのだが、ここはフワフワしたありきたりな言葉に終始している。

〈忘れてしまいたくて閉じ込めた日々〉というのは〈騒がしい日々〉〈明けない夜〉を敷衍したものである。このあとでも〈変わらない日々〉とあるが、この歌詞では語り手の環境を表すのに〈日々〉という言葉で表現することを好む。この〈日々〉は〈チックタックと鳴る世界〉の〈世界〉のことである。〈日々〉とは、継続する〈世界〉のことだ。〈日々〉は〈変わらない日々〉とあるように、繰り返しを基本とする。〈変わらない日々〉は〈閉じ込めた日々〉となって堆積されていく。そこにあるのは永遠の反復で、いわば昨日と同じ今日の繰り返しである。変化をもたらす〈明日〉はない。だから〈日が昇る〉〈眩しい明日〉を迎えることが希望になる。〈閉じ込めた日々〉を〈抱きしめた温もりで溶かす〉ことができれば、〈変わらない日々〉の呪縛も解けるだろう。

〈抱きしめた温もりで溶かす〉というのは〈僕の手を掴んで〉の延長にあり、〈いつか日が昇るまで〉というのは〈眩しい明日〉のことである。〈二人でいよう〉は〈二人なら見つけられる〉と同じだ。

 

〈君にしか見えない 何かを見つめる君が嫌いだ/見惚れているかのような恋するような そんな顔が嫌いだ〉

 他の何かに心を奪われていて「僕」を見てくれない、ということであるが、この部分は歌詞の文脈ではやや唐突に挟まれている印象を受ける。これは小説に書かれていることを、あえてJポップふうに翻訳したものである。だがここは、Jポップのスキーマだけでは不可解さが残る。〈君にしか見えない 何かを見つめる君が嫌いだ〉とあるが、ここで〈何か〉と曖昧にしているものがわかりにくい。Jポップのスキーマではこの〈何か〉に「夢」などを当てはめることが多い。遠い夢を見つめる君が、僕から離れていく、みたいな歌である。

・その瞳はキラキラ光って 遠く夢を見てた/優しく笑うあなたの顔 もっと早く 忘れたい もう二度と 会えない(SOPHIA-誰もいない海を見てた-」作詞、松岡充2003年)

とかがそうである。

 では、〈君にしか見えない 何かを見つめる君が嫌いだ/見惚れているかのような恋するような そんな顔が嫌いだ〉の〈何か〉に「夢」を入れてみたらどうなるか。ちょっと違和感が生じる。夢を見ている〈君が嫌いだ〉というのは否定しすぎであろう。Jポップでは相手が夢を追いかけて自分から離れていくことは、寂しいけれど応援しなくてはならないことなのである。それも含めて好き、なのであるはずだ。現実はともかく、歌のなかではそのように気張った応援者である。歌の中でくらい夢を応援してもいいだろう。

・何より素敵な贈り物なのね 遠くを見つめる眼差しが あなたがその夢あきらめることは 淋しさよりつらいな私は(菊池桃子、作詞、売野雅勇1987年)

という心の動きが定形になっている。

 だからもしここが〈夢を見つめる君が嫌いだ〉ということになってしまったら語り手は自分のことしか考えない我儘なやつということになって、聞き手の共感のレベルが下がってしまう。さらに〈見惚れているかのような恋するような そんな顔が嫌いだ〉とも言っていて、自分以外の他の人に見とれているならともかく、好きな人が好きなものは自分も好き、というのが定形で、だから、これが「夢」だとしたら、夢を追いかける君の横顔が好きだ、と普通ならなる。

〈見つめるその先に 今何が見えてるの 真っ直ぐに夢を追いかける 君の横顔が好きで…君の夢は僕の夢でも あるから大事にしたい〉(Kazoo「Brand New Day」作詞、kou takahashi、2017年)

 好きな人が一生懸命やることは応援するし、その姿勢も好きであるはずだが、「夜に駆ける」はそういう定形からはずれた歌詞になっている。

 この部分は小説を読めば、このように書かれた理由がすぐわかる。彼女は死神を見つめていたのである。死神はその人にとって「一番魅力に感じる姿をしている」ので、それを見つめる彼女もうっとりした表情になってしまうのだ。ただし死神は他の人からは見えない。「まるで恋をしている女の子のような表情をした。まるでそれに惚れているような。/僕は彼女のその表情が嫌いだった。」このあたりは小説とのギャップで、歌詞の意味はそういうことだったのか、という謎解きのような驚きを覚えるところである。ただ、小説そのものにおいては矛盾がある。彼女自身が死神なので、死神が死神を恋した人の目で見つめるというのは理屈があわない。無理やり解釈すると、彼女は「僕」に、私に惚れているあなたは今こういう顔をしているのよと教えているのである。彼女は死神であると同時に「僕」の鏡なのである。死神が「一番魅力に感じる姿をしている」のは、死へのあこがれが強いからだろう。

 いずれにせよ、「夜に駆ける」がJポップの歌詞の定形から少しでもはずれることができたのは、小説をベースにしたからであることは間違いない。小説という外部のものを持つことによって、マンネリから逃れることができたのだ。

 

〈信じていたいけど信じれないこと そんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあって そのたんび怒って泣いていくの/それでもきっといつかはきっと僕らはきっと 分かり合えるさ信じてるよ〉

 この部分では「信じること」「分かり合うこと」について書かれている。小説の登場人物の内面の独白として該当するものはないが、無理やり探せば、死神の存在を信じるかどうかということになる。だがそれは、やや無理があるだろう。だからここは歌詞の完全オリジナルな部分であると考えたい。そもそも彼女は死神なので対等なコミュニケーションがとれるわけではない。あくまで「僕」が生み出した幻想だ。小説でも彼女の生活がどういうものか、まるで描かれない。そういう朦朧とした人物と分かり合うとか信じるとか信念にかかわることを言うことは無理だろう。だから小説からは離れた部分である。ただ、聞き手の日常生活においてはよくあることなので、聞き手の共感をさそうために置かれた言葉だろう。

 この部分のもう一つの特徴は、促音「っ」のたたみかけと〈きっと〉の繰り返しである。

・どうしたって、きっと、これからだって、いくつもあって、怒って、きっと、きっと、きっと

 これは、自分の思っていることに言葉が追いつかないほど気持ちが高ぶっていることを表している。実際この〈そんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあって そのたんび怒って泣いていくの/それでもきっといつかはきっと僕らはきっと〉という部分は、文章としては体をなしていない。口のもつれを写したような文の乱れは、つんのめるほどの勢いを表現している。何しろ彼女は屋上から飛び降りる寸前なのだから、もたもた話している時間はない。とにかく止めなければならない。

 そしてここを前後でサンドイッチしているのが、〈信じていたいけど信じれないこと……分かり合えるさ信じてるよ〉という部分である。ここが実質的に言いたい部分である。つまり〈信じていたいけど信じれない〉ということを急いで否定するために〈きっと〉の部分でその理由を説明し、〈きっと分かり合えるさ信じてるよ〉と前向きなものに変えているのである。要点は、〈信じれない〉を〈信じてる〉に反転することである。(つづく)