Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

うちの子が「うっせぇわ」に影響されて困っています

 某市、某中学校で保護者面談がおこなわれた。

「先生、最近うちの娘と全然会話にならないんです。何を言っても「うっせぇうっせぇ」で、取り付く島がないんです。しかも妙なフシがついてるんです。前はこんなんじゃなかったのに。ほんと素直で良い子だったんです。いったいどうしちゃったんでしょう、先生」

「おかあさん、それはネットで流行っている歌のせいですよ」

「ネットで?」

「ええ。「うっせぇわ」っていう歌がありましてね、サビで〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉って言ってるんです」

「まあ、そんな下品な歌があるんですの」

「ちょっと聞いてみますか。スマホですが」

「あまり聞きたくはないですけど・・・娘を理解するために聞いてみます」

 

 「うっせぇわ」(歌、Ado、作詞・作曲、syudou、2020年)視聴

 

「これ、歌っているのはまだ高校生の女の子なんですよ」

「まあ、随分ドスがきいた声だこと」

「子どもに聞かせたくない歌として、世のお母さんがたが頭を抱えているんです」

「みなさん同じことで悩んでらっしゃるのね」

「子どもは影響されやすいですからね。ですが、じきに飽きるでしょうから、少しのあいだの辛抱ですよ」

「だといいんですけど」

「むしろ流行ってよかったということになるかもしれませんよ」

「え? どうしてですか」

「爆発的に流行るものほど、古くなるのも早いんです。半年たってもまだ〈うっせぇうっせぇ〉なんて言ってたら、そのほうがダサいってことになりますよ。ですから、流行語になってくれたということは、むしろ排除されるものになったということです」

「半年後にそうなっていればいいですけど」

「「うっせぇ」ならまだいいんですけどね」

「よくはないですよ」

「これが「くっせぇ」とかに変化するとイジメになりますから」

「それはひどすぎます」

「実はもう早々に「くっせぇわ」という替え歌がYou Tubeにあがっていたりします」

「誰でも思いつきそうですものね」

「おじさんが上司のおじさんに対し〈くっせぇくっせぇ〉と言っている歌です」

「加齢臭? 歌っているのがおじさんなら、自分だって臭ってるんじゃないかしら?」

「それが、加齢臭ではなく、足の匂いがクサイとズラしているんですよ。自分を同類からはずすために」

「卑怯ですね」

「「うっせぇわ」の歌詞にも〈くせぇ口塞げや限界です〉とありますから、いずれは〈くっせぇ〉の方向に連想が向く可能性はあったんですけどね」

「はあ。その「うっせぇわ」の歌のことはよくわかりました。それで、うちの娘の進路のことなんですが・・・」

おたくの娘さんのことはともかく」

「ともかく?」

「少しおいておきまして、もう少し「うっせぇわ」について話したほうがいいと思うんです」

「え? なんでですか」

「これも、子どもたちのことをよく理解してもらうためです」

「はあ、そうなんですか」

「そうなんです。それで、おかあさんは、この歌を聞いてどうでしたか」

「どう、って・・・そうですね、その「うっせぇわ」ってなんか変な言い方だと思いました」

「そうですよね。私も子どものときは親に反抗して「うるせぇ」とは言いましたけど、「うっせぇ」と言った記憶はないし、あまり聞いたこともないんです」

「不良っぽいです。うっせぇ、なんて」

「方言かもしれませんね。ヤンキーって地元愛が強いからその土地の言葉を使うんですよ」

「そうなんですか」

「『遊子方言』みたいに言えば「ヤンキー方言」ですかね」

「『遊子方言』?」

「吉原言葉をネタにした江戸時代の戯作です。深い意味はありません」

「はあ。うーん、「うっせぇわ」に「わ」がついているのは歌い手が女性だからですか?」

「それは関係ないと思います。男性でも強調の意味合いで「わ」をつけることがあります。歌では〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉となっていて、最後の締めで〈わ〉をつけています」

「どうして「うっせぇわ」になったんですか」

「私なら「うるせぇわ」ですけど、でも、それだと曲にのらないですね。〈うっせぇうっせぇ〉って。そうすると〈るっせぇるっせぇ〉ですかね。「る」にアクセントを置きたいし、そこは巻き舌で強調したいから「る」を省略できない」

ねぶた祭りの〈らっせー らっせー らっせーらー〉と似ていますね」

「口癖のように短く「うっせ」という子どもたちもいます。「うるせぇ」を強く一言で言いたいときには「る」が強調され「るっせぇ」と怒鳴り口調になり、口癖のように軽く短く言う場合は「うっせ」になるのかもしれません。「るっせぇ」は相手の言うことの否定、「うっせ」は遮断ですね」

「若い人は、「うざい」の意味で「うぜぇ」ってよく言ますね。〈うっせぇ〉にはその影響もあるんじゃないですか?」

「「うざっ」とか「キモッ」とか、短い言葉のほうが人を刺しますね。それに反論するのは長い言葉になるから迫力が削がれます。「うざくない」とか。反論する方も短い言葉を考えるべきですね」

「娘がもっと汚い言葉を覚えて、親のことを、ジジィ! とかババァ! とか罵るようになったらと思うとゾッとします」

「人を罵るときは一言でピシャっと言うものなんですが、「うるせぇわ」では〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉と3度繰り返しています。ホントは、うるさい相手に対しては〈うっせぇ〉と1回遮断すれば十分です。繰り返したら、鋭さが欠けてしまう。短い意味がない」

「歌だから反復してるんじゃないんですか。それに、しつこく言われるから〈うっせぇ〉も繰り返して強調してると言うこともできそう」

「そうですが、何度も繰り返すと、それを言っている自分に意識が向いてきませんか?〈うっせぇうっせぇ〉と言っている自分はどういう自分なのかと」

「たんに条件反射的に〈うっせぇ〉と反発してるのとは違ってはいます」

「歌詞を聞いているとキツイ言葉が並んでいるんです。でも一方で、それを発している自分についてもシビアな意識が向けられています。メタな意識が強い歌です」

「メタ?」

「自分をモニターしている自分の視点です。どんな感情的な歌詞でも、それを言語で表現するとなれば、いったん客観的反省的な意識にならざるをえません。だからその意識をそのまま書けば、冷めたメタな見方が取り入れられることになります。この歌は、シラケたようなそのメタ意識を削除することなく、お道化に変換して歌詞に残しています。自分は何をやっているかわかってやっていますという照れ隠しがお道化になっているんです」

「ある意味、素直なところが残っているんですね」

「〈不平不満垂れて成れの果て サディスティックに変貌する精神〉という歌詞は、まさに自分の姿をモニターしている自分です」

「サディスティックって、攻撃的な歌詞ってことですか?」

「言葉が攻撃的で人を傷つけるんです。自分は普通の人として生きているから、気に入らないからといって相手を〈殴ったり〉はできないんですけど、代わりに〈言葉の銃口〉を相手の〈頭に突きつけて撃〉つんです。そのことは〈マジヤバない?止まれやしない〉んです。言葉の暴力が暴走しているけど止められない」

「自分を客観的に見ることができているから、カッとなって殴るタイプの人ではなさそう。でもこういう歌を作って公表してしまう程度には〈ヤバ〉い人なんですね」

「誰でも、満たされない何かを抱えていますよね。この人もそうで、毎日何かもの足りないと思っている。その原因は自分ではなく〈これは誰かのせい〉だという。で、考えてみたら、会社勤めというのがどうも自分には合わないらしいということに気づく。社会常識を身につけるのもストレスになっているし、職場の人も先輩風を吹かして上下関係を押し付けてくる」

「大なり小なり我慢しなければならないところはあるのに。でもそれは特定の〈誰かのせい〉ではないでしょう。うちの娘も親のせいにしなければいいけど」

「敵を明瞭にしないと攻撃の矛先を向けられませんからね。ただ、それを〈誰かのせい〉にしてるという自覚ははっきりとある。わかったうえでやっていると、あえて言っている」

「批判されそうなことには先手を打っているんですね」

「〈これは誰かのせい〉と言ったあとに、続けて〈あてもなくただ混乱する〉と言っていまして、それは本当は〈誰かのせい〉というのが擬制だということがよくわかっているからなんでしょう。誰のせいとも言えないから〈あてもなくただ混乱する〉んです。この歌では大人たちに反発しているんですけど、それは特定の思想やイデオロギーからくるものではないし、筋道だった理屈でもない、ただ混乱した頭から漏れ出てきたものなんだということです」

「若いうちは誰でも混乱するものですよね。混乱であって、悪人ではないのね」

「悪人ではない。いわば小市民がキレただけです。この歌はその溜まった鬱憤のガス抜きになります。連帯するわけでもありません。歌詞の言葉は攻撃的で口は悪いけど、社会に背を向けているその背中はきゃしゃで小さいものです」

「歌によるウサ晴らしですか?」

「それはイヤホンの中で、あるいはライブハウスの空間の中で5分で収束してしまうものです。イヤホンをはずし、あるいは会場から出てきたら溜まったものを吐き出してスッキリした顔をしているのなら、それは秩序維持にとって、むしろいいことではないですか?」

「社会につながっていく反抗ではないんですね」

「自分の中で終わっている。でも家庭だと、子どもが親に向かって〈うっせぇ〉と反発して、それが唯一社会という外部に反抗というかたちで露出します。おたくがそうであるように。会社ではふさわしくない態度をとると雇用契約を切られてしまうから〈うっせぇ〉とは言えませんが、親子の縁は簡単にはきれないから甘えられます」

「頭のなかで罵るしか手段がないのね。可愛そうになってきた。会社に労働組合はないのかしら。あってもほとんど役にたたないけど」

「歌で言ってることはパワハラとかの深刻なレベルではないし、なぜ仕事をするのかという哲学的な悩みでもなく、たんに会社の人間関係に上下の古いしがらみがあるとか、社会人としての基礎的な力をつけておくのが面倒くさいとかいうレベルですから、「うっせぇわ」は「インターナショナル」の代わりにはなりません」

「あらあら」

「いろんな状況で煩わしいと感じるところは誰しもあるでしょうけど、それを是正していくのに議論の場に相手を引っ張り出すのではなく、すぐ〈うっせぇ〉と拒絶するのは安易です。攻撃的になるのも防衛機制的な鎧です」

「とりあえず〈うっせぇ〉と言いたくなるのはわからないではないんですけど。ただ、それを歌にまでするのはある種の執拗さが感じられます」

「この歌は、相手の評価を下げるために相対的に自分を持ち上げています。そういうおまえはどうなんだという評価については先まわりして〈頭の出来が違うので問題はナシ〉〈どうだっていいぜ問題はナシ〉と言っています」

「何を言われるか批判を気にしているのね」

SNSの時代っぽい歌です。そういうおまえはどうなんだということに対してどう反応するかは、ネットの掲示板でさんざん訓練されてきたことです。〈頭の出来が違うので問題はナシ〉というのは実際に頭がいいのだというマウント表現ではなく、こちらは開き直っているので真面目に受け取ってさらなるマウントを仕掛けてくるなという合図なのです。受け手の出方を見越して発信しているんです」

「たいへんな気の遣いようですね。裏の裏を読んで行動するなんて、疲れてしまいます」

「この書き手は、乱暴な言葉遣いは作風のひとつで、ふだんは気配りしてる人なんですよ。米津玄師の誕生日に関するツイートが批判されて、「うっせぇ」と遮断せず、すぐ謝罪しています」

https://news.yahoo.co.jp/articles/8893cc822ca082fdc0514fa8cb70bbf050683024

「今の子どもたちにとっては、大人よりSNSによる干渉のほうがうるさいんじゃないかしら。私なんか、SNS的なものに対する煩わしさの方に「うっせぇ」と思ってしまいます」

「「うっせぇ」と遮断しないのは、そこからは逃げられないと思っているからなんでしょうね」

「この歌で、耳に残る言葉は〈うっせぇうっせぇ〉だけで、それ以外は何を言っているのかよくわからないんですけど、歌詞はどういう歌詞なんですか、先生?」

「私も最初は、歌ってるのが女子高生だし、〈うっせぇわ〉と言うから子どもが反抗しているのかと思ったのですが、歌詞をひとまとまりのものとして読んだら、会社勤めをはじめて数年の社会人という設定なんです。〈酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい 皆がつまみ易いように串外しなさい〉とか、上司に社会人のルールをしつけられる新人サラリーマンがキレたという設定です。この部分は飲み会のしきたりみたいなことを言っています」

「近頃の若い人は飲み会に参加しないって聞きますけど、この人はまだ参加するだけ従順な方なのかしら」

「参加しても腹の中でこんなこと思ってるんじゃ来てもらわないほうがいいですね」

「でも、いまどきここまで言う上司はいるんですか。ザ・昭和って感じがします」

「私も新規採用のときは、平成の時代になっていましたが、主任が偉そうに酒の席ではこうするもんだという講釈を垂れていました。でも、知らないとバカにされるより、口にだして教えてくれるのはありがたいと思いました。上の人にお酌するときはビールのラベルを上にしてつぎなさいとか、瓶は両手で持ちなさいとか。聞いていてバカバカしいと思ったので、やったりやらなかったりですね。ジョッキで出てくると面倒な気を遣わなくてよかったと思いました。でも店の人が最初に「ジョッキにしますか瓶にしますか」と聞くと、年配者はたいてい「瓶で」と答えるのでがっかりすることもあります」

「飲みに行ってまで気を遣いたくないですよね」

「実は飲み会での気の遣いようが出世に関係してるんですよね」

「仕事とは関係ないことなのに」

「自分に従順かどうかが一番重要なんですよ」

「何をどうやるかではなくて?」

「ビールの泡の出し方とかもそうですね。泡の量で味は変わらないと思いますけど、作られた伝統ですよ。受けるときは最初はコップを斜めにするとかもありますけど、あえて作法を知らないフリをします」

「先生も大変ですね」

「酒の席に限らず、最近は昔より作法だのマナーだのにうるさくなくなりました。それよりは合理的かどうかが重視されています。夏にネクタイをしないとか。夏にネクタイをしなくていいなら、冬もネクタイをする必要がないことに気づくのは時間の問題です。遠からずネクタイはサラリーマンのスタイルから消えると思います。そうするとスーツも消えていくかもしれません」

儀礼的なものが昔よりは緩やかになってきたなとは思います。結婚式やお葬式も随分簡単になりました。無駄なことは省いていくという傾向がありますね。コロナでそれが一気に加速されました。コロナが終息して、それがどの程度復活するか」

「無駄な会議や行事も減りました。みんなやめたくて仕方なかったものは、コロナがいい口実を与えてくれた。右へ倣えの国民性だから自分からは言い出しにくかったけど、お上が先導したから一転して中止ばかりになりました。ただこれが2年続けば身体化されると思うんですけど、1年ちょっとですから、7割くらい復活してくるかもしれませんね」

「拘束がだいぶ緩くなったにもかかわらず「うっせぇわ」というのは、どれだけ甘えたいのかと思うんですけど」

「外出自粛とか時短営業とか、代わりに別の規制はありますね。たんに人を管理するためだけにあるものや、上下関係を思い知らせるためのものや、昔は機能していたけど今やすっかり形骸化して意味をなさないもの、そういったものを押し付けてくるのならそれに対して反抗するということはあるんでしょうが、この歌で言っているのはそれもあるけど〈経済の動向も通勤時チェック 純情な精神で入社しワーク〉とも言っていて、たんに面倒くさいと言っている部分もあります。反ブラック企業の労働ソングというわけでもない。〈うっせぇ〉と突っぱねるようなことでもないことが歌われていて違和感があります。〈うっせぇ〉が発動される閾値がすごく低いんですね」

「モラトリアム気分が抜けないのかしら」

「歌詞は暗に「年配者/若者」という括りで語られているように見えるんですが、酒の席の話なんてジェンダーも関わってきますよね。女子社員に「お酌の仕方がなってない」と怒る年配男性も少なくないでしょう」

「女性が男性に〈うっせぇ〉と思うことは多いと思います」

「図にすると、縦軸に年齢、横軸に性別をとって4象限あれば、若い女性が一番〈うっせぇ〉と言いたくなる位置にいるんです」

「女子高生が新人サラリーマンの歌を歌わされているのは、それを戯画的にわかりやすくするため?」

「ミスマッチが意図せぬ深みを生んでいると言えるかもしれません。高校生が就職後の世界を聞きかじった範囲で想像してみたら、〈うっせぇ〉としか思えないものだったということ。作った時点では歌い手が高校生であることは重要ではなかったかもしれませんが、そういう情報はすぐ広まりますから、聞き手はそのようなものとして聞くことになります」

「いろんな意味で聞き手も重要ということね」

「同じ歌手で「ギラギラ」という新しい歌があります。作詞作曲は違う人です。歌詞は、醜悪な顔をしているということがテーマで、痣云々とあって、動画も顔に目立つ痣のようなものが描かれているのを見るとユニークフェイスのことなのかなと思います。若い女性が一番気を使うのは容姿ですけど、露骨すぎる気がするし、関心が限定されているから、ターゲット層以外の反応は鈍いかもしれません」

「うちの娘も時間さえあれば鏡を見ているから困ってしまいます。そんなに見たって変わらないわよ、おかあさんの子にしては上出来よって言うんですが、メイクにも興味を持っているみたいで、勉強が手につかないようです」

「顔といえば、「うっせぇわ」の歌詞は具体的ですけど、実際に誰かの顔を思い浮かべて歌詞を書いたのかと思わせます。〈丸々と肉付いたその顔面にバツ〉とあります。聞き手も誰かの顔を思い浮かべて聞くでしょう」

「若い人に嫌われたくないオジさんたちは、この歌を聞いて萎縮することになるんですか」

「〈酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい〉ということは、教えてもいいけど強制しないほうがいい」

「それだと〈酒が空いたグラス〉に〈直ぐに注〉ぐようなゴマスリを無意識にできる人が出世しやすくなりますね。オジさんの心をつかみやすい」

「実践するかどうかは本人しだいで評価に関係づけてほしくないですよ。それに、注がれるほうも、もう飲みたくない場合だってありますしね」

「お酒の席って、いかに気遣いができるかを披露する場になっていますでしょ。女性が接客するお店はそれを商売にしている」

「この歌でユニークなフレーズは、〈あなたが思うより健康です〉というところです。この人はいつもカップ麺とかコーラとかポテチとかジャンクフードばかり食べているから、そんなものばっかり食べていると体壊すぞと注意されたのかもしれませんね。早く結婚して奥さんに栄養のあるものを作ってもらえとか。昔はよく言われました」

「女性ならダイエットしてると心配されました。余計なお世話って感じかしら」

「私の身体は私の所有物であり、自己責任でやっていることなので外野からとやかく言うなということですね。でも、ジャンクフードで体ができているんならこの人はたぶんあまり健康的ではない。若いうちは体力があるから目立たないけど、年をとったらてきめんです。人生100年時代を生きられない。だから〈あなたが思うより健康です〉というときの〈健康〉は、今はそう見えるというだけで、あとになって後悔するんじゃないかなと思います。歪んだ自己認識です。自分を客観的に見ているつもりでも、所詮〈あなたが思うより健康です〉ていどの客観視なんですね。あまり距離がとれていない。先程のメタレベルの認識というのも似たようなものです。こういうことはたぶん外側から見ている人のほうがよくわかる」

「自分のことにかまってほしくないという年頃なんでしょうか。うちの娘もそうです。いちいち身につまされるわ。あなたのためを思って言ってあげてるのよ、と話しても、有難迷惑だ、お仕着せだ、うざい、と言って聞く耳もたない。最近はそれが〈うっせぇうっせぇ〉になってしまいました」

パターナリズムがなくなればスッキリしますが、全部自分で判断していかなければならないから個人間の差が大きくなります。自分ひとりではまだ無理だというのは本人も薄々わかっていて、親はまだ必要だと思っているから、〈うっせぇ〉って追っ払っても、お節介がまったくなくなっても困ると心のどこかで思っているので、縁を切って自分から出ていくわけでもない。〈うっせぇ〉と追い払うのはそういうことでしょう。本当に必要なときのために絆を残している」

「親や教師のように甘えが許される相手に対しては言えても、他人には言えない言葉ですね。口には出さずに、頭の中で〈うっせぇうっせぇ〉が鳴り響いているだけの人も、きっとたくさんいるでしょう」

「この歌詞は不思議な部分が混在していて、会社勤めに関わることだけでなく、〈嗚呼よく似合う その可もなく不可もないメロディー〉〈もう見飽きたわ 二番煎じ言い換えのパロディ〉といったフレーズも出てきて、これについても〈うっせぇうっせぇうっせぇわ〉と言っています。これもメタな視点によるものですね。自分で自分にツッコミをいれています。その自分は、かつて自分の創作物である歌について否定された経験があって、そのときの相手を自我に取り込んだものだと思います」

「会社に関するエピソードと、プライベートの創作に関するエピソードが混じりあっているんですか。つながりがわかりにくいです」

「詰め込みすぎだと思うんです。違う2つの歌に分けたらいい。そうすればさらに突っ込んだ表現ができるのになあと思います。あるいは1番と2番に振り分けるとか」

「はあ」

「〈ちっちゃな頃から優等生 気づいたら大人になっていた/ナイフの様な思考回路 持ち合わせる訳もなく〉という歌詞があります。これは「ギザギザハートの子守唄」の暗示引用になっていますから、〈二番煎じ言い換えのパロディ〉というのはこの歌じたいにあてはまります。〈現代の代弁者は私やろがい〉という〈代弁者〉は尾崎豊を思わせます」

「私、尾崎豊、好きだったんです。〈代弁者〉というのは、尾崎が自分で言ったのではなく、当時のマスコミが言ったことです」

「たしかに、代弁者というのは自分で言うことではないですね。あなたを代弁者に指名したつもりはないと批判されます。ここもあえて自分で〈代弁者〉ということでおちゃらけてみせているんでしょうけど。尾崎と共通点があるとすれば、言いたいことがあって、それを歌にしているということですね。これはこの歌の強さになっています。それと歌っているのが女子高生だから、高校生のときにデビューした尾崎を彷彿とさせるかもしれません」

「反抗的な身ぶりというか口ぶりは似ているかもしれませんけど、「うっせぇわ」のほうは随分言葉遣いが汚いですね」

「歌詞も実存的な深みはないし、〈私模範人間〉というように、表面的には社会に適応しているように見えても内面ではブチ切れているというのが恐ろしい」

「昔の若い人は大人からもっと頭を抑えつけられていたけど我慢してたんじゃないですか?」

「社会全体が右肩上がりだった時代は、我慢すればそのうち出世して給料もあがりいい生活ができる見込みがありましたが、今の若者は我慢しても先が見通せないから我慢するだけ損だと思ってるんじゃないですかね。今が充実していたほうがいい。それを邪魔して将来のために今の自分を捧げよという大人は〈うっせぇ〉存在なのかもしれない」

「刹那的ですこと」

「この歌では相手を貶めるのに、〈くせぇ口〉〈丸々と肉付いたその顔〉〈一切合切凡庸なあなた〉と言っていて、悪口を確信犯的に並べています。前の二つは単なる罵倒ですが、最後の一つは自分の評価と関わっています。」

「他に文句のつけようがなかったのかしら。相手の人はたぶん本当に平凡な「いい人」なんだと思う」

「自分のことは〈頭の出来が違う〉〈私が俗に言う天才です〉と言っていて、「凡庸/天才」の二項対立になっているんですが、これもそう思わないとやっていけないということでしょう。外からは見えない才能がプライドの拠り所になっている」

「こんな歌を作れるから天才っていうことですか?」

「ヒットした今となってはある意味そうなのでしょうが、作った時点では迷いの中にあったと思います。〈私が俗に言う天才です〉という自己言及がある一方で、〈可もなく不可もないメロディー〉というのも自己言及で、気分の高揚と落ち込みのあいだを揺れ動いています。自己評価の落差が激しい」

「不安定な精神状態ですね」

「自分のことを天才だと言って様になるのは北野武とか会田誠とかの人たちでしょう。いや、それも本当に自分でそう言っているのか、あるいはそう言っているように周りの人が見せているのかわからないですけど。いずれにせよ、自分でそう言いそうなキャラとして演出されています。知名度のある人なら本気とジョークのあわいとしてキャラづくりになるかもしれませんが、無名の人だと誇大妄想になる。それも含めて戦略的なキャラ作りと言ってしまえばそれまでですが、なんかそういう現実とは切り離されたところで空転している妄想性がこの歌の特徴だと思います。先程、〈あてもなくただ混乱する〉っていう歌詞があると言いましたが、そういう〈混乱〉が生み出した妄想に支配されているということなのかもしれません」

「それもこの書き手はわかってやっているということ、つまりそのように演出しているのですか」

「たぶん。というのも、歌の冒頭で〈正しさとは 愚かさとは/それが何か見せつけてやる〉と言っていまして、それが何のことかよくわからなかったんですけど、考えてみたら、この歌そのものが愚かしいものとして見せつけられているんだと思います」

「〈正しさ〉は?」

「この歌には何ら〈正しさ〉は示されていないので、〈正しさ〉を〈見せつけてやる〉と宣言はしたものの見せつけられず、しかし宣言自体は残されたままなので、結局〈正しさ〉なんてものはない、相対的なものだってことになるんじゃないでしょうか」

「うちの娘も早く目を覚ましてくれないかしら。はー」