Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

「竈門炭治郎のうた」にみる運命論

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 鬼滅の刃』アニメ版は、非常に手をかけて緻密に作られた作品で、特に「第19話」はシリーズの中で一番盛り上がるように作られている。

 映像的に称賛されている回であるが、激闘シーンが最終局面に差しかかったところで流れる「竈門炭治郎のうた」は強い印象を残す。ベタな歌謡曲のようなものが流れるので初見では驚くが、番組の最後まで見ると、これが実にぴったりとはまっているのである。蜘蛛の糸を操る鬼・累との戦いで、主人公・炭治郎は「水の呼吸」を使って勝負にでる。そのときこの歌が流れ、最後は「ヒノカミ神楽」を使って鬼の首を落とし、そのままエンディングに流れ込む。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a060581/l04d4a6.html

曲→https://www.youtube.com/watch?v=4Ak5hD5q8QY

 「ヒノカミ神楽」の剣技は、炭治郎の幼い頃の記憶にある父の舞を応用したものだ。夜の闇の中での戦いだが、記憶のシーンのときだけ、画面は淡い霞がかかったように白っぽくなり違いが際立つ。

 鬼たちは夜の闇の中でしか生きられないため、肌は白い。加えて、蜘蛛の鬼・累は髪も白く着物も白い。累の仲間たちも皆、白装束で肌も髪も白い。炭治郎がこのとき戦った鬼は「白い鬼」だったのである。この白さは感情が消滅した状態であることを意味しているのだろう。一方の炭治郎は、黒い髪と赤い瞳をもち、緑と黒の市松模様の羽織を着ている。カラフルなのである。これは生き生きとした豊かな感情を持っていることを意味しているだろう。

 強い敵と戦うには、相手と似た者になるしかない。だから炭治郎は、記憶という「白い領域」をくぐり抜けることで「白い鬼」に近づいたのである。鬼となった累も、実は自分の両親を殺したという過去(白い領域)にとらわれていた。過去にとらわれて現在が無になっていたため「白い鬼」になっているのかもしれない。一方で炭治郎は家族を殺された過去にとらわれている。自分の親を殺した累とはさかさまの相似をなしている。(鬼と鬼殺隊との相似は、組織においてもみられる。一人のリーダーの下に強力な部下が何人もいて、忠誠を誓っているという構造はよく似ている。)

 「白い鬼」が使う妖術は白い蜘蛛の糸である。それに対して炭治郎は「水の呼吸 拾ノ型 生生流転」を使った。このワザは白と青の水の流れをイメージして描かれる。鬼の白い妖術に対し、炭治郎も白い剣術を使っているのである。だが、鬼がパワーアップした妖術(血鬼術)を使うと「水の呼吸」では立ち向かえなくなる。血鬼術は血液を利用したものなので赤い色をしている。白い蜘蛛の糸は血鬼術により赤い網になる。この赤い妖術に対抗するために炭治郎が用いたのがヒノカミ神楽なのである。ヒノカミ神楽を使うと、鍔先で折れた剣から、ライトセーバーのように赤い炎の刀身が生える。それを振り回して走るので周囲は赤い色に包まれる。炭治郎は赤い剣術によって、鬼の赤い妖術を上回ることができたのである。

 歌詞が詰め込まれて言葉の意味をとりにくいオープニング「紅蓮華」に比べ、シンプルな言葉がゆっくりと積み重ねられるこの「竈門炭治郎のうた」は、使用する場面の勘所がおさえられていることもあり、壮大に編曲された音楽とともに享受者の身体に染み込んでくる。歌詞は、過去の思い出を支えにして自分の運命を生き抜いていけ、というもので、炭治郎の強さの所以が過去にあることを語っている。この歌が最後の一押しとなって鬼が退治されるかのようであることが視聴者に納得される。

 ところで、この作品では「鬼」という言葉が殲滅すべき敵を指して使われている。鬼の元となっているのは鬼舞辻無惨という名の一人の古い鬼で、その血を分有した者のうち、異なる生体環境に適応できたものだけが鬼となることができる。それら派生鬼は一律同様の形態をしているわけではない。能力もバラエティに富んでいるので、彼らを「鬼」と一括りにしてしまっていいものかと思えるほどだが、根底にあるのは陽の光に身を晒すことができず、また人を食らわずには生きられないということである。彼らは私たちがよく知る牛のツノが生えた赤や青の鬼ではなく、吸血鬼のイメージに近い。

 違う見方をすると、彼らは病気で、感染が広まっていったものとも考えられる。現代なら、彼らを鬼と名指すことはなく、治療の対象とするだろう。だがこの作品の舞台は大正時代なので、鬼殺隊という私設部隊が、独断で殺傷しているのである。

 実際の作品は、吸血鬼が出てくるホラーものではなく、ホラー要素もあるがアクションもふんだんにある『寄生獣』(岩明均)にテイストが近い。『寄生獣』を『伊賀の影丸』(横山光輝)のような忍者ものに置き換えたら近くなるだろう。『伊賀の影丸』のような忍者ものは、不思議な忍術を使ってグループどうしが殺しあう。大正時代ではあるが、刀を持っているという設定の強引さは、忍者もの(ファンタジー)をやりたかったからだろう。大正時代というのは、明治と昭和初期という暗い時代のはざまにある明るい時代である。短い時代で、よく知られていないため、そこに想像が入り込む余地がある。

 

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 人気がある忍者もののマンガというのは、仲間の大虐殺が行われるというパターンがある。読者はそれでびっくりして、このあとどうなってしまうのかと作品に釘づけされる。先にもふれた『伊賀の影丸』では仲間の忍者が次々と殺されるし、『あづみ』(小山ゆう)では最初に仲間どうしで殺し合いがおこなわれる。現代西洋の忍者であるスパイの『ミッション・インポッシブル』(監督ブライアン・デ・パルマ)でも、始まってまもなくチームのメンバーが次々と殺されていく。

 鬼滅の刃』では、主人公の竈門炭治郎は、自分が留守にしていた一夜のうちに、母や兄弟たちが殺戮されてしまうという強烈な経験をする。そのため炭治郎は、残された一人の妹・禰豆子(ねづこ)を身を挺して守ることが使命になる。炭治郎は長男であり、すでに父を失っていたため、兄弟の父親代わりになっていた。家族を守るという意識がとくに強くなっていたのである。

 自分が守ってやれなかったという負い目に炭治郎はずっと支配される。アニメ「第19話」の印象的な挿入歌「竈門炭治郎のうた」は、そのことをずっと歌っている。作詞はufotableユーフォーテーブル)で、このアニメを制作した会社である。作品の内容を知悉しているからこそ書ける歌詞で、場面を効果的に盛り上げるために言葉と音楽が動員されている。

 全体的にわかりやすい言葉遣いだが、〈我に課す 一択の運命と覚悟する〉のところは文語調で異彩をはなち、〈一択〉という言葉の字面が強い印象を残す。他に選択肢はない。目の前には一本の道があるだけだ。〈どんなに苦しくても〉前に進むしかない。それを〈我に課す〉という。

 〈運命〉という言葉も重要だ。オープニングテーマやエンディングテーマはそれぞれ作詞者は違うが、いずれも歌詞に〈運命〉という言葉が使われている。それだけ、この作品を理解するうえで〈運命〉に従わされているという意識は重要なのである。

 「竈門炭治郎のうた」に使われる言葉は全て、この〈運命〉という二文字に吸い込まれてゆく。〈戻れない 帰れない〉〈どんなに苦しくても 前へ 前へ 進め〉〈失っても 失っても 生きていくしかない〉〈傷ついても 傷ついても 立ち上がるしかない〉〈どんなにうちのめされても 守るものがある〉〈目に見えぬ 細い糸〉など、なぜそれほど追い込まれるのかというと、〈運命〉に人生を乗っ取られているからである。敷かれたレールからはずれることは許されないということが、これらの言葉を生み出している。炭治郎の未来は過去によって強く決められているのだ。

 実は炭治郎が自分のせいだと思っているのは勘違いである。父親が特殊な技能の伝承者であったため、その家族が狙われたのである。父親が招き寄せたものなのだ。そういう意味では炭治郎の運命は、父親に負わされたものである。運命というと神秘的に聞こえてしまうので、生まれる前から決まっていた宿命といったほうがいいかもしれない。

 

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 聖闘士星矢』の「ペガサス流星拳」や『北斗の拳』の「北斗百裂拳」など、戦いでは、必殺技の名を叫ぶことで相手を倒している。マンガのようにひとつのコマで複雑な動きをいくつも描きわけるのが難しいメディアでは、言葉によって差異をだす手法が発達する。コマを重ねれば複雑な動きを描きわけることもできるだろうが、それではスピード感が減殺されてしまう。『鬼滅の刃』も同じように、ワザの名を叫ぶという昔ながらの描写をおこなうことで戦いにバリエーションをだしている。「水の呼吸 陸ノ型 ねじれ渦」などワザの名前もユニークである。これを一ページで一コマに描く。このマンガは言葉がかなり重要なツールになっている。アニメ版は、その静止した一枚の大ゴマに凝集された時間を解凍して動く絵にしている。もちろんアニメにも描写の限界はあるから、そこでは言葉による説明が役立つ。そもそも微妙な動きは、仮に現実に目の前で見たとしてもわかるものではない。見ればすべてわかるわけではないので、言葉が重要になる。

 鬼滅の刃』は、セリフの言い回しに独特なものがある。それが嵩じるとポエムふうになる。映画「無限列車編」が準備されているので、そのあたりから引いてみよう。例えば「第57話」は、夢の中で、死んだ家族と逢う話だが、そこでは炭治郎の心内語がこう書かれる。

 

  たくさん ありがとうと 思うよ

  たくさん ごめんと思うよ

  忘れること なんて無い どんな時も 心は傍(そば)にいる

  だからどうか 許してくれ

 

 Jポップの歌詞みたいである。「どんな時も 心は傍(そば)にいる」なんていうのは、そのまま歌詞にしてもおかしくない、よくある表現である。

 鬼滅の刃』は、既存のいろんな作品からの影響を感じさせるインターテクスト性の強い作風で、例えばこの引用した箇所は、夢の中から抜け出すのに難儀するというシーンの一部であるが、この場面は私に映画『マトリックス レボリューションズ』や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を思い出させる。『鬼滅の刃』は、たんに暗示引用に満ちているのではなく、そこに作者のアイディアが付け加えらる。この場面だと、主人公は夢から覚めるのに夢の中の自分の首を刀で切り落とせばよいということに気づくが、頻繁に催眠の術中に落ちるので、しだいに現実と夢の区別に混乱をきたすようになり、つい現実の自分の首を切り落とそうとする。こういう、ちょっとしたヒネリがつけられているので、読み手は、落語のオチを聞いたような満足感を得ることができる。オチがあることで、それまで長々と読まされてきた夢との戦いの意味が、このためにあるのだと腑に落ちるのである。

 さて再び言葉に戻ると、「第66話」は、主人公の兄貴格の先輩(柱)が敵にやられて死ぬ間際の言葉を記すが、そこはこう書かれている。

 

  己の弱さや 不甲斐なさに どれだけ打ちのめされようと

  心を燃やせ 歯を喰いしばって 前を向け

  君が足を止めて 蹲(うずくま)っても 時間の流れは 止まってくれない

  共に寄り添って 悲しんではくれない

 

 この人は豪放磊落な人で、デリケートな精神性は持ち合わせていないように見えたが、死に際は感傷性が高まるということだろう。ポエムになっているが、注目したいのは「どれだけ打ちのめされようと」という部分だ。「第68話」でも炭治郎は「今俺が自分の弱さに どれだけ 打ちのめされてると 思ってんだ」と言っている。「竈門炭治郎のうた」では、〈どんなにうちのめされても 守るものがある〉と歌われ、オープニングの「紅蓮華」(作詞、LISA)では〈世界に打ちのめされて負ける意味を知った〉と歌われている。打ちのめされて自分が弱い存在であることを知ることが、この作品では重要なのだ。ではそこからどうするのか。そこから再び立ち上がって前へ進むのである。それはオープニングもエンディングも挿入歌も共通している。マンガの「第69話」のタイトルも「前へ進もう少しずつでも構わないから」である。「竈門炭治郎のうた」は、マンガの中の言葉(アニメではセリフ)を歌詞において共有している。そのため聞き手は、炭治郎の心の中の言葉が歌になっているように感じるのである。

 ONE PIECE』のルフィも『ドラゴンボール』の悟空も、とにかく前向きである。新しい状況を楽しみ、敗れても立ち上がり、次々と壁を乗り越えようとする。また、彼らは人に対する邪悪な感情がなく、純粋な気持ちの持ち主である。人を信じる楽天さをもち、打ち負かした敵に対してもその事情を察する余裕がある。『鬼滅の刃』の炭治郎もその系譜に連なるよう造作された人物だ。「第57話」では、炭治郎の心が映像的に具象化されており、美しく、広くて暖かい海のようだとされている。常人ではないのだ。しかも炭治郎はその血統がダントツに優秀である。悟空もルフィもそうである。はじめはどこにでもいる子どもが努力して優秀な者になっているのかと思ったが、実は血筋からして貴種であり、自分もそれと知らずに巷に隠れていたのである。彼らはタブラ・ラサで経験のみにより階層を上昇していくのではなく、遺伝子が強く関与しているのである。努力はするけれど、決定的なのは血筋である。これら三つの作品は「週刊少年ジャンプ」に掲載されたものだ。「ジャンプ」の「友情・努力・勝利」の合言葉は、「楽天・血筋・勝利」にしてもいいかもしれない。