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流行歌の歌詞について

山口百恵「プレイバック part2」

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 今年出版された山口百恵の本『時間(とき)の花束 Bouquet du temps』が売れている。内容は自作のキルト作品集で、今の自分を直接晒すものではない。息子の三浦祐太朗もテレビなどに出演し、母親を語ることがあるが、その穏やかな話しぶりや周囲の出演者の反応は、決してスキャンダラスなものを期待していない。そのように演出されているように見える。思うに山口百恵の扱いは、今や皇室のそれに近いものになっているのではないか。

 山口百恵の一番の傑作は「プレイバック part2」(作詞、阿木燿子、一九七八年)であろう。「いい日旅立ち」という百恵の代表曲とみなされている歌があるが、この二曲は対照的だ。「いい日旅立ち」は作詞作曲が谷村新司で、後に「昂」を書いた谷村らしい壮大さがある。この〈旅〉は恋人探しのわりにはお姫様の花婿(はなむこ)探しのようにスケールが大きく、〈日本のどこかに私を待ってる人がいる〉と歌われる。〈私〉はオクテのお嬢様のようであり、親離れして、赤い糸で結ばれているはずの男性と出会うための一歩を踏み出そうとしている。旧い家(親もと)を出て、新しい家(夫)を築くための〈旅立ち〉である。

 一方、「プレイバック part2」は車を走らせる〈みじかい旅〉である。こちらの〈私〉は昨夜の情事が不満で〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴りちらす、おきゃんな女だ。どちらの歌も一人旅であることは同じだが、内容は正反対であり、その正反対のものが二つながら山口百恵の代表曲と目されるところにこの歌手の面白さがある。

 二つの歌のどちらが山口百恵らしいかといえば、「いい日旅立ち」は、〈私を待ってる人〉=三浦友和を見つけ結婚して家庭の主婦となってテレビからその姿を消したままの現在からみると、こちらのほうが百恵のイメージに近いといえるかもしれない。「昭和の歌ベスト一〇〇」といったテレビ番組があればリクエスト上位に入りそうな歌で、国民歌謡になっているといえそうだ。けれども、山口百恵らしさの「らしさ」が他の誰かと代替不可能を意味するとすれば、百恵らしさが出ているのは「プレイバック part2」の方である。「いい日旅立ち」は他の歌手が歌ってもさまになるが「プレイバック part2」の切れ味は山口百恵でなければだせない。

 

 プレイバック part2   作詞 阿木燿子   作曲 宇崎竜童 (一九七八年)

  (略)

 

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 歌詞は冒頭、〈緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ〉と、緑と赤の補色を対比させ鮮烈に始まる。風景は鳥瞰的だ。

 一面を緑色に塗りつぶされた空間の中で、赤いポルシェは画面の中に埋没することなく存在を主張する。疾走する赤いポルシェは女の〈私〉でもある。それは圧倒的な緑の中を移動するひときわ目立つ孤高な一点だ。私たちはこの一行を聞いただけで、何か心がざわざわして落ち着かない気持ちになる。主人公の心理状態はひどく不安定な状態にあることが、続く歌詞でわかる。

 風景の鳥瞰から赤い一点へ、さらに車を運転している〈私〉へと、カメラは急速にズームアップされる。そしてそのまま〈私〉の内面(〈気まま〉)まで覗き込もうとするが、その瞬間カメラの方向は反転して突如起きたアクシデント(交差点でのミラーの接触)に向きを変える。これは映画的なカメラの動きである。最初はフルショットで全景をとらえ(緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ)、次にバストショットに寄って(私気ままにハンドル切るの)、アップにしてセリフを言わせる(馬鹿にしないでよ)。

 さて、〈ひとり旅なの 私気ままにハンドル切るの〉というように、〈気まま〉に運転していたはずが、一転、交差点で隣の車のミラーをこするアクシデントを起こし、一気に緊張が高まる。〈気ままにハンドル切る〉というのは、旅の目的地が決まっておらず、そのときの気分で道路の分岐を選んでいるということであろう。しかし後でわかるが、ここで言っている〈気まま〉な一人旅というのは嘘である。隣の車(の男)に怒鳴られて、後先も考えず〈ついつい〉怒鳴りかえしてしまうくらい〈私〉はイライラしているのだ。〈私〉のクルマはオープンカーなのだろう。それで運転しているのが女だということが一目瞭然で、〈隣の車〉のたぶん男にナメられて怒鳴られたのだろう。二番の歌詞でも〈潮風の中〉とあり、窓を開けて走っているというよりは、オープンカーの雰囲気がある。

 先に述べたように、〈私〉はイラついて雑な運転をしていた。事故を起こすのは当然のなりゆきである。それもあるが、ミラーをこするような運転なのだから技術的にヘタなのも間違いない。少なくともこの車の運転には慣れていない。(たぶんサングラスなんぞをかけて)気取って運転してはいるが、借り物である。おそらく後で出てくる喧嘩して飛び出した〈あなた〉から借りたもの(あるいは貰ったばかり)なのである。今までは〈あなた〉の隣に乗っていたので、自分では運転はあまりしたことがなかったのだ。しかも馴れない外車である。

 ミラーを擦るという物損事故ともいえないようなアクシデントも、独りで行動しているから身にふりかかる災難である。助けてくれる男はいない。頼りになる男が欲しいというのはこういうところでも痛感するはずだ。こういう場面で女一人ということが思い知らされる。作詞者は、女が一人であることの解放感とあやうさが背中合わせになっていることを短い歌詞のうちに的確に描く。これは後で、〈あなた〉のもとへ帰ることの伏線になる

 この歌で一番印象に残るのは、〈馬鹿にしないでよ そっちのせいよ〉というフレーズである。女も、男に怒鳴られておとなしく引っ込んでいる時代じゃない、泣き寝入りしないわよ、ということを宣言したようなインパクトが当時はあった(もっとも、今ならたんに「逆切れ」したと思われるのがオチだが)。

 〈怒鳴っているから私もついつい大声になる〉とあるが、〈ついつい〉言ってしまったのにはワケがある。昨夜も男に同じセリフを言ってしまったからだ。その興奮がいまだ冷めやらぬうちに接触事故を起こした。おそらく〈私〉の頭の中では昨夜のセリフがずっとエコーしていたのである。それで反射的に同じセリフが口をついて出てしまった。肝腎なのは、この時点で〈私〉は隣の車の相手に対して、自分がなぜそんな態度に出てしまうのか自覚していなかったということだ。それは記憶をプレイバックしてみて初めてわかることである。昨夜の男は〈坊や〉と見下しても安全なところがあったが、交差点で怒鳴ってきた〈隣の車〉の相手については氏素性も知らないわけで、〈ついつい〉怒鳴ってしまったが無事に済む保証はない。

 〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴り返すが、これは奇妙な言い返しかただ。相手から「ミラーをこすったじゃねぇか、このヤロー!」と怒鳴られたとしよう。そのとき「馬鹿にしないでよ」と言い返すのはおかしい。どこが。相手は〈私〉の人格を馬鹿にしてそう言っているわけではないからだ。しかし私はなぜか、馬鹿にされた、見下されたと思いこんでしまっている。これが安い軽自動車にでも乗っていれば馬鹿にされたと思わぬでもないが、当方も高級車なのだ。馬鹿にされる要素はない。あるとすれば女だからである。自分が女だから相手は見下していると思いこんだとしか思えない(ここから逆に、〈隣の車〉の怒鳴ってきた相手が男だと推測できる)。〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴り返したのは、女である自分が外車を運転していたから二重に(外車に乗っていることと、それを運転していること)生意気だと思われているに違いないと思い、過剰に反応してしまったのだろう。

 そういえば〈私〉は、女だからという理由で見下された経験をつい昨夜もしたばかりだったことを思い出す。しかし本当は、それ(〈馬鹿にしないでよ〉)を言ったから思い出したというよりは、ずっとそのことばかりを考えていたので、本来〈馬鹿にしないでよ〉などと言うべき場面でないときにも、昨夜と同じ〈馬鹿にしないでよ〉というセリフが口をついて出てしまったのである。

 

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 歌は、〈馬鹿にしないでよ〉という刺激的な言葉をカットバックに、昨夜のシーンの回想に入る。これまでの運転場面は枠構造における枠に過ぎなかったのである。肝腎なのはここからだ。歌の流れは一旦中断され、回想シーンがプレイバックされる。歌詞の冒頭では絵画的構成が強調されていたが、ここでは時間的な次元が強調される。その時間も単純に一方向に流れる線的なものではなく、中断したり折り返したりを繰り返す複雑なものだ

 この歌が実験的になるのは次のフレーズだ。

 〈ちょっと侍って Play Back  Play Back 今の言葉 Play Back  Play Back〉

 ここで〈ちょっと侍って〉と歌の流れをせき止めているのは、誰が誰に対して言っているのか。〈私〉が自己言及的に語っているということだろうか。メタレベルにいる自分が自分に対して編集者的にふるまい、記憶をさかのぼるよう要請しているようである。先に述べてきたように、〈私〉は頭の中ではずっと昨夜のセリフが堂々巡りしてプレイバックされていたと思われる。だがそれはここまでの歌詞には出てこない。隠蔽されている。聴き手は、なぜこの女性はこんなにイライラしているのだろうと疑問に思っているが、それがここで謎ときされる。メタレベルの〈私〉は、神の視点から、探偵のように隠されているものをおもてに暴きだすのである。冒頭では俯瞰的な視点から一人称視点に切り替わっていたが、ここでもまた視点の錯綜が引き起こされている。

 では、昨夜〈私〉に何が起こったのか? 

 〈気分次第で抱くだけ抱いて 女はいつも待ってるなんて〉

 ということだ。状況はよくわからない。が、〈私〉はこれで怒ってしまった。そしてこう言う。

 〈坊や いったい何を教わって来たの〉

 セックスをした相手のことを〈坊や〉というくらいだから、〈私〉はそんなに若くない。〈私だって 私だって 疲れるわ〉というので、やはり若くないのか(山口百恵はこのときまだ十九歳。作詞者の阿木燿子は三三歳である)。いや、これは〈坊や〉をたてて芝居をするのに〈疲れた〉という意味である。〈私〉は〈坊や〉のわがまま(わがままだから〈坊や〉と呼ばれる)と〈女はいつも待ってる〉という貞淑さを装うのに(〈坊や〉の価値観にあわせたのだろう)疲れたのである。

 相手のことを〈坊や〉と子供あつかいするのは、大人/子供という枠組で相手を見るということを意味している。この〈坊や〉は、大人の女のことを何も知らない。包容力もない。〈気分次第で抱く〉ような自分中心のセックスは卒業してくれ、ということである。それまで相手に感じていた男性性はここで崩れ、〈男〉から〈子ども(坊や)〉へと転落してしまう。男/女という枠組から大人/子どもという枠組に認知が変化したのである。男/女の関係を演じることに興醒めし、〈坊や〉という見下した第三者的な態度を取るようになった。ところが、ここで〈坊や〉と小馬鹿にしているのに、歌詞の二番になると、なんの脈絡もなく〈あなたのもとへ Play Back〉したいと飛躍する。同じ相手を、大人/子どもの関係を際立たせたいときには〈坊や〉と呼び、男/女の関係を際立たせたいときには〈あなた〉と呼んでいるのである。今回の〈みじかい旅〉は、〈坊や〉のもとを飛び出して旅の途中で回心し〈あなた〉のところへ戻るという、〈私〉の精神的な変容の旅なのである。

 〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴る〈私〉は、男に怖じけづかない戦闘的な威勢のいい女性のように見えるが、実はそれはたんにムシャクシャしていたからそうしただけであり、フェミニストとして男と対等にはりあう自立した女性というわけでは全くない。〈~のもとへ帰る〉という言い方じたい、庇護してくれる相手を求めている。男のもとを飛び出したはいいが、結局ほかに行き場所もなく戻るしかなく、相手を〈本当はとても淋しがり屋〉だからと理由をつけている。今この歌を聴けば、〈私〉に依存症の傾向があることを読み取るのは困難ではない。

 

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 歌詞の二番になると、クルマは鬱蒼とした森の中から開けた海沿いの道に出る。〈力いっぱいアクセル踏む〉とか〈ラジオのボリュームフルに上げれば〉のように〈力いっぱい〉〈フルに〉という量的な過剰さを表わす言葉がある。中庸ではなく、針が振り切れる方を選ぶところに、まだ〈私〉が不安定な心理状態であることを示唆している。また、〈ラジオのボリュームフルに上げ〉て流れてきた歌によって昨夜の記憶がフラッシュバックするのだが、この〈フルに上げ〉るというのは、一番の歌詞の〈怒鳴っている〉という部分に相応している。怒鳴られた後に記憶が遡行したように、フルボリュームのラジオを聴いて記憶が遡行するのだ。この歌では、記憶を呼び覚ますマドレーヌの匂いの役割を、鼓膜に刺激を与える大きな音が果たしている。

 ラジオから流れてきた〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉という歌の歌詞が、昨夜、男が言ったセリフと同じだった。〈ステキな唄〉だと思って聞いていたのに昨夜のイヤな事を思い出してしまったのである。そういえば一番の歌詞でも〈気まま〉に運転していたはずなのに昨夜のイヤな事を思い出してしまうのだった。この歌はこういう転回を特徴とする。何を見ても(聞いても)何かを思い出す。緑の中を走るポルシェ、海岸を走るポルシェ。そういった一見カッコいいシーンでも、ドライバーの心の中は複雑である。

 ところで、その〈ステキな唄〉とはどういう歌か。〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉と歌うとおり、これは明らかに前年(一九七七年)発売してヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」を引用している。

 この歌が沢田研二の「勝手にしやがれ」を引用しているとすれば、昨夜〈あなた〉と〈私〉とのあいだにあったことが「勝手にしやがれ」の歌詞を読めばより詳しくわかるのではないか。「プレイバック part2」は「勝手にしやがれ」の後日譚であり、女性の側から見たアンサーソングだと考えることができる。

勝手にしやがれ」は女が出て行くのを男が窓辺で見ている歌である。しかしそこには、なんで女が出て行くのか説明されてはいない。たんに〈やっぱりお前は出て行くんだな〉とあるだけである。理由は〈やっぱり〉という判じ物めいた言葉があるのみ。それに対応させるがごとく、「プレイバック part2」には、〈私やっぱり 私やっぱり 帰るわね〉というフレーズが出てくる。〈やっぱり帰る〉と〈やっぱり出て行く〉。どちらも行為の理由は〈やっぱり〉である。なぜそうなったのかは語られない。〈やっぱり〉という意味ありげな言葉によって隠されている。

勝手にしやがれ」の男の特徴はやたらにカッコつけたがることである。出て行く女を引き止めるのもカッコ悪いと思っている。ところが内面は照れ屋であり本心が言えない。「プレイバック part2」になると、女のほうもカッコつけたがっている。ポルシェを駆って疾駆する。ところがこちらも内面はグチャグチャだ。

 「プレイバックPART2」というテクストは、先行する「勝手にしやがれ」というテクストを引用しつつ、そのテクストでは明言されていない意味を創作することによって、「プレイバックPART2」の解釈を経由した「勝手にしやがれ」というテクストを新たに生み出し、テクストが書かれた時間的な先後関係を逆転してしまったのである。

 タイトルにもなっている「プレイバック」について考えてみると、この歌の「プレイバック」には、記憶の再生、〈あなた〉のもとへ戻ること、歌自体が一回戻るといった意味が重ねられている。歌詞は、車に乗ったヒロインが直線的にどんどん恋人から離れてゆくかと思いきや、突如〈やっぱり〉という一語で一瞬で反転して恋人の元へ帰ることになる。この不合理な心情は男性の作詞家にはなかなか書けないのではないか。

 もとへ戻った理由を少し考えてみる。たいした理由もなく戻るということは、実は、出て行った理由もたいしたものではなかったのではないかと思える。ミラーを擦って怒鳴られ〈馬鹿にしないでよ〉と言い返す。それと同じくらい些細な原因で喧嘩して〈馬鹿にしないでよ〉と言って飛び出したのではないか。それが些細な原因であったことを、ミラーを擦るという些細な経験を反復して思い至ったのではないか。