Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

SMAP「世界に一つだけの花」と多様性

都内某大学、文学部国文学科、仲良し女子大生2人のお昼休みの会話

つむぎ あたしお花屋さんでバイトはじめたの。それでそのお店でよく流しているBGMがSMAPの「世界に一つだけの花」(作詞、槇原敬之、2002年)なんだよね

 

アオイ うわ。〈花屋の店先に並んだ〉っていう歌でしょ。そのまんまじゃん

 

つむぎ 店長は男の人だけど、〈NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one〉という歌詞が好きみたいで、バイトのあたしたちにもよく言うの

 

アオイ この子たちは〈NO.1〉になれそうもないって思われてるのかな

 

つむぎ 店長は30歳くらいだから、ゆとり世代真っ只中

 

アオイ その歌詞はよく引用されるよね。でもこの歌はいろんなランキングで何位になったとか言われて、それを騒ぎ立てるのは、〈NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one〉という考えと反するんじゃない? 順位付けから離れたところで価値を見出そうとしてる歌なんだから

 

つむぎ 言われてみればそうかも

 

アオイ そもそもこの歌って矛盾してることを言ってるよね

 

つむぎ 矛盾? わかりやすい歌じゃない? 花屋さんにはいろんなお花が置いてあって、どれがいいか比べられない、それぞれきれいでオッケーじゃん、という歌でしょ

 

アオイ その「比べる」っていうのがこの歌のキーワードよね。比べるから順位がつけられて、上下が生じる

 

つむぎ だから、人間は〈比べたがる〉けど、花は〈この中で誰が一番だなんて 争うこともしない〉って言ってるのよね

 

アオイ そこは擬人法で、〈花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた〉っていう語り手の視点からそう言ってるわけでしょ。花はお互い争っているようには見えないってことを擬人法で言っている。でもそうなの? 花だって植物なりの生存競争をしているわけで、きれいに見えるのはそれによって昆虫をひきつけたりしているためでしょ。人間によって交配させられてきれいなものが選択されているってこともあるし。人間にきれいに見えるっていうのは競争の副産物みたいなもので、きれいであること自体を争っているわけではないにしても、競争原理ははたらいている

 

つむぎ まあ人間目線で花の価値を判断してるのはそのとおりね。昆虫にとっての魅力と、人間の審美眼がたまたま一致したものについて、〈きれい〉という、ありもしない争い事のフレームをあてはめている

 

アオイ 〈バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている〉っていうのは擬人化しすぎだと思う。水と栄養が足りているので〈しゃんと〉しているわけで、自尊心があって〈胸を張っている〉わけではない

 

つむぎ この歌はアレゴリーだよね。人間関係を花に置き換えている。アレゴリーの場合、対象の特徴すべてが比喩になるのではなく、語り手の主張に見合ったところだけが抽出される。〈しゃんと胸を張っている〉という見立てはそれはそれで面白いと思う

 

アオイ 〈しゃんと〉って姿勢がいいって意味でしょ。背筋がまっすぐ伸びているっていうときに使うけど、〈しゃんと胸を張っている〉って微妙にずれた使い方よね。〈胸を張〉るというのは自信に満ちていることで、それは姿勢がいいこととはまた別

 

つむぎ アオイ、細かすぎる~

 

アオイ そういうことが気になる性格なの。だってこれが用例になって広がるかもしれないじゃない。ちょっと待ってね。歌詞検索してみると〈しゃんと胸張〉るという歌詞は、この歌の他に9曲あったわ。一方、〈しゃんと〉と〈背筋(背中)〉の組み合わせは17曲。歌の世界ではまだ正統派が勝っているみたい。でも〈しゃんと胸張〉る派も勢いを増してきている

 

つむぎ 国立国語研究所かよ!

 

アオイ えーと『擬音語・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社学術文庫、2015年)には「女はしゃんと座って胸を張った」っていう用例が出てる。川端康成の『雪国』。これをみると、二つの動作が組み合わさっている。しゃんとすることと、胸を張ること。ということは、この二つはやはり別々の姿勢っていうことじゃない?

 

つむぎ 背筋を伸ばして〈しゃんと〉座ってから〈胸を張っ〉たのなら連続する二つの動作だけど、しゃんと座ることが結果的に胸を張ることにもなっているのなら一つの動作よね

 

アオイ 動作としては一つだとしても姿勢としては別々の観点によるものよね。だから〈しゃんと胸張〉るは間違いとまでは言わないけど、省略しすぎると思う

 

つむぎ わかった、わかった、わかりました

 

アオイ 比べる話に戻すわね。〈この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで〉ってあるけど、これはミスリードだと思うな。たしかに花屋という〈この中で〉はそうかもしれない。でも、花屋というマーケットの一端に並んでいる時点で、その花はすでに選ばれた花になっている。まず、売れる品種が選ばれている。その中で、花びらが汚れていたり、茎が曲がっていたり、育ちの良くないもの、背が飛び出たもの、小さすぎるものは園芸ハウスに捨て置かれている。基準を満たさないものは捨てられる。その結果、花屋にある花はきれいなものばかりになっている。売り物になるものが選ばれて出荷された結果そうなる。テレビに出ている女優さんがみんなきれいなのと同じ。〈この中で〉ではなく、「その外で」激しい競争がおこなわれている

 

つむぎ 〈この中で〉っていうのは花屋に並んでいる花の中では争われていないということで、「その外で」というのは花屋に置かれるようになるまでに激しい競争がおこなわれているということね

 

アオイ 〈この中で〉では、花屋にある、たとえばバラとユリがどちらがきれいかということは比較できないでしょ。好き嫌いや用途があるだけで。母の日にカーネーションを贈るとか、誕生日にバラを贈るとか。きれいだからといってお供えにバラは飾らない。一方、「その外で」という、花屋に搬入される前の段階で、同種のものの中で選別がおこなわれている。同種のもののあいだでは比較され、優劣がつけられる。同種のもののなから優れたものが花屋に置かれ、異なる種類のものが集められた花屋ではお互いが競い合わない。同種のレベルでは比べられる。異なる種のレベルでは比べられない

 

つむぎ それって金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」よね。この詩の「みんなちがってみんないい」という一節は、多様性を尊重する文脈でしばしば引用されることがあるけど、ちょっと極端だなと思った。私は小鳥のように空を飛べないけど速く走れる、小鳥は速く走れないけど空を飛べる、私は鈴のようにきれいな音は出せないけどたくさん歌を知っている、鈴はたくさん歌は知らないけどきれいな音をだせる。だから「鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。」って言うのね。たしかに金子みすゞの詩には、自分ができないことをできるから他者はすばらしいというふうに書かれているけど、鈴と小鳥と私って異質すぎて比較できないでしょ。本来比較しようと思わない。「世界に一つだけの花」の花も種類が違えばきれいという基準では比較できないけど、みすゞの詩はそれをもっと極端なかたちで示している

 

アオイ 「私と小鳥」、「私と鈴」は比較してどっちもどっちと言うけど、「小鳥と鈴」は比較しないのよね。それは中心にあるのは「私だからじゃない? 「みんなちがって」と「みんないい」のあいだには飛躍があるよ。鈴にはいい音を出せるっていうこと以外に他に「いい」ところはないでしょ。「いい」ところが少なすぎる。一方、人間は人新世っていうくらい他に与える影響力が大きい。同じレベルでは語れない

 

つむぎ 金子みすゞの詩は弱者に目を向けているのね。鈴も小鳥もふだん見向きもされない小さいものでしょ。そういう小さいものに目を向けることで、人間中心主義をわかりやすいかたちで批判してる。たしかにちょっと強引だけど。「私」が中心になるのは、人間中心主義を相対化するため

 

アオイ 鈴なんてきれいな音をだすっていうけど、そもそも人間に作られたものだけどね。そういう造物主があるものと並べるのはどうかな

 

つむぎ みすゞがこの詩で言いたいのは、人間全般のことというより、本当は自分のことかもしれない。小鳥や鈴も自分の分身なんじゃないかな。みすゞの「光の籠」という詩では「私はいまね、小鳥なの。」と書いているし、自分の名前のなかに鈴は入っているでしょ。小鳥も鈴も「私」の一つの側面。「私」は小さいものの一員。自分で「私」のことを「いい」とは言いにくいから、「みんな」の中に「私」を隠して、「みんないい」と言ってるんだと思う

 

アオイ 金子みすゞの詩では、それぞれ異なる能力において優れているから「みんなちがって、みんないい」って言うんだけど、なんであれ能力をモノサシにしてしまったら、その能力の中では比較ができてしまうよね

 

つむぎ だからモノサシを増やすために、学校には音楽や美術や体育の授業があるのね。数学や理科や英語だけだったらテストの点数で順位付けされてしまうけど、音楽や体育という別のモノサシがあれば、それぞれの尺度で評価ができる。同じクラスにはいろんな人がいる。勉強ができる人、足が早い人、絵がうまい人、リーダー格の人、話がうまい人、容姿がすぐれた人など、様々な得意分野がある。その違いが個性でしょ。学校の中心的な価値観は勉強ができることなのははっきりしている。全員を一つのモノサシで計るから激しい競争が生じる。芸術や体育という科目は、勉強一本槍の価値観からこぼれ落ちる人を救済する機能もはたしている

 

アオイ 個性ってニッチってことよね。ニッチに分かれることで競争を避ける。でも、少数のグループならキャラ化することで競争を避けられるけど、クラス、学年と集団が大きくなるにつれ、同じ分野の人が増え、その中で競争がはじまる。だいたい、いつまでも小さなグループにいるだけでは満足できないと思うし、自分と同じ興味関心がある人を探すようになる。切磋琢磨がないと伸びない。違うからいいってわけではない

 

つむぎ 複数の能力をもっている場合もあるね。頭はいいしスポーツもできるしハンサムだしお金持ちだしとすべての点で勝っている人と、逆に何も自慢できるものがない人もいる

 

アオイ 「世界に一つだけの花」のモノサシは〈きれい〉という一つの尺度だけだけど、競争はおこらないとされている。勉強はテストの点数によって序列をつけることが簡単にできる。でも〈きれい〉は数量化できない。できるかもしれないけど要素が複雑すぎる。だから比較しにくい。本当はテストの成績もいろんなものをいっしょくたにして無理やり数値化したものだけど

 

つむぎ 足の速さみたいな単純なものなら比較しやすくない?

 

アオイ 100mで速い人もいればマラソンで速い人もいるよ

 

つむぎ じゃあ、絵がうまいっていうのは?

 

アオイ 油絵がうまいのとマンガがうまいのは別の才能だよ。抽象画と写実画もどっちがうまいかなんて比べられない

 

つむぎ 同じように〈きれい〉というのもかなり漠然とした概念で、それを尺度にして判断するのは難しそう。花の種類が違う場合は、どういう〈きれい〉さを扱うのか、決めてもらわなければいけない。一つ一つが大きくてはっきりした花もあれば、小ぶりな花がまとまってきれいさを感じさせる花もある。〈この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで〉ってあるけど、花も種類が違えば形や色も全然違うので争わない

 

アオイ 〈それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?〉って言ってるじゃない。〈比べたがる〉のは似ているからよね。少しの違いがあるから、どっちが優れているのかって競争になる。ライバル関係ってそうでしょ。かけはなれていたら競争しようなんて思わない。足の速さを比べるにしても、人間と馬は競争しないよね。人間は、馬に負けたからといって悔しがったりしない。人間と馬は違いすぎるので比べられない。競争する相手が自分と同じくらいの能力だと思わなければ比べようと思わない。花の種類の違いって、同じ哺乳類の人間と馬の違いくらい大きくない?

 

つむぎ 桜の花とチューリップの花はそのくらい違うかも

 

アオイ 花の種類が違うのと、同じ種類の花のなかで個体が違うのとでは注目しているレベル(次元)が異なる。この歌はそこが錯綜していると思う。花の方は種類の違いを言っているのに、人間の方は個体の違いを言っている。さっきも言ったけど、花も同じ種類の中では比べられていて、できの悪いのは花屋の店先に並ばない。〈花屋の店先に並んだ〉というだけで、すでに比べられたあとの状態を見ていることになる

 

つむぎ 似ているから比べるというのはわかる。でも似ていると、どっちが優れているか比べたくなるのはなんでなのかな。私たち似ているね、嬉しいね、でいいじゃん。そこに優劣つけなくても

 

アオイ それは自分のことを知りたいからじゃないかな。人と比べることで、あ、自分はこんなことができるんだってわかる。自分のことって自分の内側だけを見ていてもよくわからない。他の人という外側と比較してみることでわかるようになる。〈そうさ 僕らは 世界に一つだけの花/一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい〉って言うけど、〈その花〉っていうのがどういう花なのか、自分だけではわからないってこと。〈一人一人違う〉っていうけど、どう違うのかは比較してはじめてわかることでしょ。人は単独で存在してるんじゃない。他の人との関係によって自分という輪郭を持っている。「自分らしさ」は他の人とどう違うかということ。それがわからなければ、どういうふうに〈一生懸命になればいい〉かもわからない。むしろ似ている人と競い合ったほうが〈一生懸命になれ〉る

 

つむぎ この歌の〈一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?〉っていうのは、競争のしすぎってことじゃない?

 

アオイ 〈一番になりたがる〉というのはかなり競争心が強い人に限られるけど、これは〈NO.1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one〉っていうフレーズを導き出すためにそう言ってるんだと思う。〈一番になりたがる〉のは競争心が強い特殊な人だけど、だからといって〈比べたがる〉ことまで否定することはない。比べることが、いつのまにか一番を目指すことになってしまっている

 

つむぎ 人間は工業製品みたいな規格品じゃないから〈一人一人違う〉のは当然。規格通りの工業製品だったら、逆にその一つ一つがどれがいいなんて比べられることもないから皮肉よね。〈一人一人違う〉と言う時点で、比較の観点が入り込んでいる

 

アオイ 一人ひとりに人権があり、個人として尊重されるっていう近代の原則があって、個人どうしの競争はそこから必然的に生まれざるをえない。封建社会のように集団の中に埋没していたり、身分制や親族組織の中で役割があてがわれていれば個人間の競争はおこらなかった。〈一人一人違う〉と言いつつ、比べるなというのは原理的に無理な話。っていうか、〈一人一人違う〉っていうのは存在のレベルではそうなんだけど、個性として言うなら、他の人との関係によって個性というのは析出してくるものだから、比べてはいけないというのであれば、〈一人一人〉の違いも消えてしまう。他人と比べるなというのは、ある状況では批判性をもっているけれど、万能ではない。他人と比べるなというのは他者に無関心になることと裏腹の危うさも抱えている

 

つむぎ この歌を書いた人は、その競争が激しすぎてセルフ・エスティームが損なわれているから、こういうことを書いたのね。でも逆に、平等であることに気を使いすぎて、目立たないようにお互いの顔を見合わせてばかりいるというのも相当息苦しい。比べつつも、いちいち優劣をつけないっていうことはできるのかな。それがキャラ化による差異化なのか

 

アオイ この歌はいっけん存在のレベルで〈もともと特別なOnly one〉って肯定してくれている歌のように思えるけど、歌詞をよく見ると〈頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね〉ってあるんだよね。つまり頑張りは否定していない。たんに〈一人一人違う種を持つ〉からそれが咲けばいいというのではない。頑張ってきれいに咲けというわけ。そうでないと選ばれないと。〈どれも きれい〉というのは、きれいさという基準はそのままで、自分なりのきれいさが実現されているということ

 

つむぎ 比喩だとしても、きれいさってルッキズム的な視点で一番比較されやすい基準じゃない? その基準に沿って頑張れということね

 

アオイ 〈一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい〉、〈頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね〉という二つの歌詞で言っていることは〈一生懸命になれ〉〈頑張って咲〉けということで、そうでないと〈きれい〉な花にはならないということ。〈一人一人違う〉花というのは存在のレベルであって、〈きれい〉さはもっと上の基準になっている

 

つむぎ えー、やっぱり頑張らないとダメなのか。でも頑張るとしたら、お互い励みになるような相手がいたほうが、頑張る方向性がはっきりしてやりやすい

 

アオイ 頑張るのはいいとして、〈一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに〉っていう言い方はひっかかる。これはあくまで花の比喩と言ってしまえばそれまでなんだけど、〈種〉が〈花〉になるっていうほど人間は単純ではないよね。これだと「自分らしさ」という実体が生まれたときからあって、それがそのまま開花するっていう話なんだけど、自分って関係主義的に決まってくるものだから、〈種〉が〈花〉になるという比喩では、変化が考慮されていない。他の人と関わることで変化していくはずだけど、これは自分一人で、自力で、生まれたときからすでに決まっている花を咲かせるみたいなことになっている

 

つむぎ 〈もともと特別なOnly one〉の〈もともと特別〉っていう言い方も〈種〉っぽい

 

アオイ みんながみんな〈特別〉だっていうなら〈特別〉の意味がない。根拠のない特別感を植え付けそう。まあ、こういう強烈なアンチを言わなければならないほど競争過多だってことかもしれないけど

 

つむぎ あたしこの歌で気になるのが「見ている人」なの。花屋の店先で花を見ているでしょ。そして買い物をしている人を〈困ったように笑いながら ずっと迷ってる人がいる〉って観察しているでしょ。そうして〈一人一人違う〉から〈その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい〉って訓示みたいなことを垂れるじゃない。〈僕ら人間〉はって言うから、この「見ている人」は人間なんだけど、俗世間から一歩ひいて、人間世界をすみずみまで見ている神様みたいだなって

 

アオイ 語り手の問題ね。〈僕〉イコール語り手ではないし作詞者ではないけど、この歌では人間を客観的に見ているから、〈僕〉は語り手に限りなく近いし、メッセージ性もあるから作詞者にも近い。ただ、歌の場合、語り手は作詞者なのか、歌手なのかという曖昧さがある。歌詞には〈僕ら〉とあって、歌い手であるSMAPは5人だから複数形であることが歌い手を指しているようにも思え、また歌い手をとおして人間すべてを指しているようにも聞こえる。いずれにしても、この歌は語り手が重要な位置を占めていて、語り手は客観的な観察者をよそおいつつ、実はかなり操作的な視線を向けていると思う

 

つむぎ どういうこと?

 

アオイ 今まで話した以外に、この歌はもう一つの花を描いているよね

 

つむぎ 花屋の店先に置かれた花と、買い物をしたお客さんの様子のほかに?

 

アオイ 歌詞の2番で、不意に〈あの日僕に笑顔をくれた 誰も気づかないような場所で咲いてた花〉について語り始めるでしょ。ここはそれまで積み上げてきた状況設定から逸脱している。たぶん書き手は無意識のうちに、花屋の花だけでは共感が弱いことに気づいていて、唐突とも思える仕方でこの一節を挿入したんじゃないかな

 

つむぎ たしかにつながり方が不自然ね

 

アオイ ここって全く別の観点が持ち込まれている。〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉は、花屋にあるような選別されて残された優生学的な花ではない。これを入れることで、花屋の花のように人間に管理され生育された花もあれば、路傍に咲いている花もあるという幅の広い観点に立った歌だということになる。「世界に一つだけの花」って多様性の文脈で引用されることがあるけど、花屋の花は参考にならない。むしろミスリードになる。花屋の花は〈きれい〉であることが前提だから。多様性の文脈での説得力を支えているのは〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉が入っていることによる。この花は〈名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた〉花なんだよね。書き手は別に多様性とか考えていたわけじゃないと思うけど、無意識でこういうフレーズを入れていたと思う。で、こういう視点を入れるのは、マーケットに置かれたものだけに価値があるという世俗的な考えを超越しているでしょ。そこに詩の役割がある。

つむぎ 〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉だから競争にさらされていないし、誰にも見られることはないから〈きれい〉になるという頑張りも不要。なにかができる、なにか優れたものがあるからいい、というのではなく、存在そのものが認められている。聞き手の多くが、いわば〈誰も気づかないような場所で咲いて〉いるような名もなき花だとは思う。このほうがオンリーワンっぽいね。集団の中であたしはオンリーワンだって思い続けるのは苦しいけど、集団を抜け出て競争を降りたほうが文字どおりオンリーワンになれる。若干負け犬の遠吠えみたいな感じもあるけど。その傷ついた心を癒やすために詩が必要になる

 

アオイ 花屋の花とは違う原理で咲いている花ね。誰も肥料も水もくれない。誰も手入れをしてくれない。そういうところにニッチを見出して咲いている花って、植物として生存するための条件が厳しそうね。生育に適さない岩場なのかもしれないし、他の雑草と競争しなくてはいけない場所なのかもしれない。花どうしの競争からはまぬがれているかもしれないけど、他の条件との戦いがある。なんらかの競争はある。〈あの日僕に笑顔をくれた〉のは、その花が〈きれい〉だからではなく、たくましさを感じさせたからなんじゃないかな

 

つむぎ 歌によくある、〈アスファルトに咲く花〉的な?

 

アオイ いずれにしても、ここでは〈誰も気づかないような場所で咲いてた花〉に気づく語り手の優れた眼差しというのも誇りにされているわね

童謡から松田聖子「Rock'n Rouge」まで~吃音ソング

1-1

 ここ数年、吃音に関する一般向けの本が立て続けに出て、しかも話題になった。『どもる体』(伊藤亜紗医学書院、2018年)、『吃音:伝えられないもどかしさ』(近藤雄生、新潮社、2019年)、『吃音の世界』(菊池良和、光文社新書、2019年)などがそうである。吃音の治療を目的にしたものというより、吃音とはどういう経験なのかを考えようとするものである。

 私自身、軽い吃りがあって、日常生活に支障はないが、声だけが頼りとなる電話には苦手意識がある。父親も軽度の吃りの症状を呈することがあり、それがうつったと思っている。父は、自分の子どもの頃、同級生に吃る人がいて、からかって真似しているうちに吃るようになったという。馬鹿なことをしたものである。私は、何十年も前の、見知らぬ誰かの影響を受けていることになる。

 映画やドラマで、吃音者を演じる俳優は吃音のセリフを練習するわけだから、これをきっかけに本当に吃音になってしまうのではないかと心配していたが、現在では、吃音は真似することによってうつるとは考えられておらず(俄には信じがたい)、遺伝が関わっていると言われている。私も遺伝的に素因があったのかもしれない。それが父親がときどき吃るのを聞いて顕在化したということだろう。

 吃音はその原因がよくわかっていないところがある。完全な治癒にも至らないという。だましだまし、それと付き合っていくしかない。

 吃音者を一番悩ますのは、世間が、吃音者に対する理解がほとんどないことである。私も電話で言葉を切り出しにくくなることがあると(これを難発という)、会話の間(ま)が微妙におかしなものとなり、電話のむこうが「?」という雰囲気になることがある。言葉がスムーズに発せられるという「あたりまえ」のことができないことに、みじめな気持ちにさせられる。なぜそれができないのか、そうでない人にはまるで理解されないのがつらさを増幅する。

 テレビドラマや映画、マンガにも吃音者が登場することがある。彼らはたいてい、吃音がコミュニケーションにさざ波以上のものを与えている者として描かれ、周囲の無理解やからかいの対象にされている。

 NHK連続テレビ小説『エール』(2020年)は作曲家の古関裕而をモデルにしたもので、古関は吃音者であり、ドラマでもそのように描かれていた。吃音は人を内向的にし、その克服が人を成長させもすれば周囲への怨嗟を抱かせることもある。三島由紀夫金閣寺』で寺に火を放つ学僧は最初の音が出せない難発だ。

 画家の山下清を描いたテレビドラマ『裸の大将放浪記』(1980年)では、清の喋り方は軽い吃りとして演じられていた。清は知的障害があるが純粋で率直。吃音はそうした性格を表現するものとしても役立てられていたと思える。

 外国人も吃る。最近みた映画では、ホラー映画『IT(イット)』のリメイク(2017年)で、主人公の少年が吃音だった。『死霊館 エンフィールド事件』(2016年)は、家族の兄弟で末弟が吃りでクラスメイトにバカにされていた。吃音じたいがテーマになっている映画は『英国王のスピーチ』(2010年)が有名である。

 マンガでは、極度の吃りの女子高生を主人公にした『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(2012年)がある。著者の押見修造は自身も吃音を患っていた(映画化もされた)。小説家の重松清も吃音に悩んだ経験を『きよしこ』(2002年)、『青い鳥』(2007年)などの作品に昇華している。

 吃音を題材にした作品はたくさんあるが、言葉がスムーズに出ないというたったそれだけのことが、当人にいかに深い苦悩をもたらすかということを伝えている。中には、それで人生が狂ってしまう人もいる。

 吃音者に関わる作品は以下のウェブサイトでも紹介されている。

 

・文芸作品にみる吃音  https://kituonkenkyu.org/0006_006_01.html

・吃音者が登場する映画 https://cinema-rank.net/list/10031

・吃音をテーマにしたドラマ https://kitsuonkaizen.com/lovesong/

・吃音のことが出てくる本  http://fukuoka-genyukai.life.coocan.jp/hon.html

 

1-2

 吃音者が出てくる小説や映画、マンガはいくつもあるが、今回取り上げたいのは吃音の歌である。

 吃音の歌には2種類ある。一つは、吃音という症状に悩む姿を主題にしたものだ。例えばハンバートハンバート「ぼくのお日さま」(作詞、佐藤良成、2014年)はこういう歌詞だ。

〈ぼくはことばが うまく言えない はじめの音で つっかえてしまう/だいじなことを 言おうとすると こ こ こ ことばが の の のどにつまる〉

 いささか表面的なことをなぞっているだけのように思えるが、これに比べたらラッパーの達磨は自身の吃音への苦しみと怒りを「音文」という歌にしている。

〈周りの人とは違う 俺は吃音症…幸せを沢山かかえた奴が俺の不幸を鼻で笑うな…神様は…普通のことすらさせてくれないんだ…吃った俺を笑ったコンビニの店員 この野郎笑いたきゃ勝手に笑ってろ お前の馬鹿にした吃音を武器に 絶対にお前よりも幸せになってやる〉

 「ぼくのお日さま」では吃音症に寄り添うふうで、吃音じたいを歌に取り入れている。吃りを真似されることは吃音者にとって屈辱である。私には、この歌の書き手にとって吃音は共感はしても他人事ではないかと感じられた。

 一方で、この歌の感想で「この曲は吃音でなくても、自己表現が不器用な多くの方に当てはまるような気がしますね。好きな子に素直に告白出来ない中高生とか」というものがあった(https://abe-kenshu.hatenablog.com/entry/2018/12/20/083831)。この感想の書き手は吃音者であり、30年間吃り続けているという。この方は吃音研修講師であり、吃音について客観的に捉えることができているようだ。吃音の症状を自分から引き離して隠喩として捉えるのは当事者にとってはなかなか難しい。キューブラー・ロスの「死の受容」の5段階で言えば、最終段階の「受容」の段階に達しているのかもしれない。

 達磨は若いラッパーで、「音文」では吃りを取り入れていない。歌詞からは、まだ彼が「受容」に至らず、「否認、怒り、取引、抑鬱」の段階にあることが伝わってくる。私も、いい年齢のおじさんだが、もし自分の吃りのマネをされたら、そこにからかいの意図がなくとも激怒するていどの段階にいる。

 イマニシの「吃音症」(作詞、イマニシ)という歌は、少し抽象的な内容である。

〈変調の度、加速していく脈に/耐えきれず吃る吃音の音に/怒りを覚えた/氾濫する言の葉の羅列を/抑えようとも簡単に溢れて/哀しさに変わった〉

 ここでは吃音について〈怒り〉と〈哀しさ〉を感じている。作詞者も吃音の症状があることを想像させる。歌詞の内容からは、達磨と同じ段階にあることが伺える。

 「吃音症」というタイトルの歌は、もう一つ、バズマザーズにある。〈云えなかった言葉〉〈云えないだけで〉〈あー、また言葉に詰まる。/伝えたい言葉など詰まる程ないのに〉などとあって、実際の吃音症とは関係なく、たんに言葉に詰まることをそう言っているだけのようである。こういう場合、吃音症で悩んでいる人のことを考えると、せめて「症」はつけてほしくない。

 

2-1

 最近はとんと聞かないが、かつては赤面恐怖症という病があった。人前であがって顔が赤くなってしまうのである。吃音と赤面は身体の症状としては異なるものだが、精神的な症状としては近いものとして捉えられていたようだ。

 吃音矯正や赤面症の対処法というのが戦前はよくあって、電柱に治療院の広告が貼ってあるのを見かけた、といった内容の寺山修司のエッセイを読んだことがある。寺山はそこで、〈ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団〉という「少年探偵団の歌」(作詞、壇上文雄、1956年)について、吃っていると(例の調子で)書いていたのを読んだ記憶がある(出典を探したが見つからなかった。見つかり次第、引用する)。

 先に「吃音の歌には2種類ある」と書いたが、もう一つがこの「少年探偵団的吃音」である。吃音の悩みや苦しみを歌うのではなく、歌詞において語頭を連打するものである。もちろんこれは吃音症ではなく、吃音ふうの見かけをもつものにすぎない。吃音の連発と形が似ているので、方便として吃音ソングに含めることにする。

 共感を装う歌のなかで吃音症の症状として連発を披露されるのは不愉快だが、歌における語頭の反復は吃音症とは関係のない外形上の吃音であり、むしろ歌の心地よさの本質的な部分と関わっていて、歌詞におこすと吃音を呈したふうに見えるにすぎない。そのため、その相似したパターンを客観的に面白がることができるのではないか。吃音ソングというより連発ソングと言ったほうがいいかもしれないが、何の連発なのかわかりにくいので吃音ソングとした。イルカやクジラを誤って魚類に分類するように外形は似ているが実質は全く異なるものなのか、あるいは深部で通じるものがあるものなのかわからない。

 以下、本稿では「少年探偵団的吃音」を扱うが、そもそも歌と吃音には深い関係がある。その点について若干ふれておく。

 先に紹介したラッパーの達磨もそうだが、吃音があっても歌を歌う時には吃らなくなる。それをヒントに制作された『ラヴソング』(2016年)というテレビドラマもある。吃音者が実は天賦の美声の持ち主というご都合主義の設定で、たんに吃音でなんの才能もない人にはなんの救いももたらさない。逆境を与える手段として吃音を使うことに嫌な感じがした。

 吃音者は歌うときには吃らないが、その一方で、歌のなかには吃音の連発に似たものがたくさんあって、歌における連発は、歌い手にも聞き手にも心地よさをもたらすようである。それなら、吃音者が連発の歌を歌えば、そうでない人より上手く歌えるのではないか。またそれは自己肯定にもなりうる。

 吃音者は、連発でない歌を歌えばその間は吃らないことに安心できるし、逆に、連発する歌を歌えばその巧みさに周囲が驚くことがある。後者を戦略的に取り込んだのがスキャットマン・ジョンである。大ヒットした「スキャットマン」という歌は、歌詞に〈誰でも吃ることがあるだろう〉とか〈歌っているときは吃らない〉とあるように、吃りがテーマになっている。ただ、高速ラップの英語詞であり、超絶技巧に驚嘆はしても、この歌が吃音の歌だと知る日本人は少なかっただろう。

 

2-2-1

 歌で使われる言葉というのは、繰り返しを好む傾向をもっている。リズムに乗る心地よさを味わうためだろう。誰でも知っている童謡・唱歌を思い出してもらえばそれはよくわかる。〈ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団〉という「少年探偵団的吃音」は、これらをさらに短くしたら連発になったものではないか。

 まず、冒頭の数拍を繰り返す唄を掲げてみる。

 

・かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる(「かごめかごめ」わらべ唄)

・ずいずいずっころばし ごまみそずい(「ずいずいずっころばし」わらべ唄)

・さくらさくらのやまもさとも みわたすかぎり(「さくら さくら」古謡)

・ちょうちょうちょうちょう 菜の葉にとまれ(「ちょうちょう」作詞、野村秋足)

・さいたさいたチューリップのはなが(「チューリップ」作詞、近藤宮子)

・かきねのかきねのまがりかど(「たきび」作詞、巽聖歌)

・はるがきたはるがきた どこにきた(「はるがきた」」作詞、高野辰之)

・あめあめふれふれかあさんが(「あめふり」作詞、北原白秋

・そそらそらそらうさぎのダンス(「うさぎのダンス」作詞、野口雨情)

・汽車汽車ポッポポッポ シュッポシュッポ シュッポポ(「汽車ポッポ(兵隊さんの汽車)」作詞、富原薫)

 

 次の歌などは、繰り返したいために造語した例である。

 

・夕やけ小やけの赤とんぼ(「赤とんぼ」作詞、三木露風

ゆうやけこやけでひがくれて(「夕焼小焼」作詞、中村雨紅)

・おおさむこさむ山から小僧が泣いてきた(「おおさむこさむ」わらべ歌)

 

 しばしば議論になるが、〈小やけ〉とか〈こさむ〉とか、それ自体に意味はない。語調を整えるために挟んだ言葉である。〈おうまの親子はなかよしこよし〉(「おうま」作詞、林柳波)の〈こよし〉もそうである。神永暁が参考になることを書いている。(日本語、どうでしょう? https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=292

 

2-2-2

 アニメソングにも繰り返しは多い。「キャンディキャンディ」は〈ハナペチャだって だって だって おきにいり…わたしは わたしは わたしはキャンディ…わらって わらって わらってキャンディ〉(作詞、名木田恵子水木杏子)、1976年)と繰り返しが多いが、タイトルの『キャンディ・キャンディからして名前の愛称の反復である。

 パターン化した反復もある。『科学忍者隊ガッチャマン』の「ガッチャマンの歌」(作詞、竜の子プロ文芸部、1972年)では、〈誰だ 誰だ 誰だ 空のかなたに躍る影…飛べ 飛べ 飛べ ガッチャマン/行け行け 行け ガッチャマン/地球は一つ 地球は一つ/おお ガッチャマン ガッチャマン〉と歌われ、これも反復が多い。『ガッチャマン』より3か月早く放送開始した『デビルマン』の「デビルマンのうた」(作詞、阿久悠、1972年)は〈あれは誰だ 誰だ 誰だ/あれはデビル デビルマン デビルマン〉と〈誰だ 誰だ 誰だ〉を繰り返す。

 なぜ「あれは誰か」が問題にされるのか。ガッチャマンは忍者だから隠れた存在である。デビルマンも悪魔だから人に知られてはいけない。「デビルマンのうた」を作詞した阿久悠は宣弘社に勤めていたが、その宣弘社は『月光仮面』を制作して人気を誇っていた。主題歌「月光仮面は誰でしょう」(作詞、川内康範、1958年)は、〈どこの誰かは 知らないけれど/誰もがみんな 知っている…月光仮面は 誰でしょう/月光仮面は 誰でしょう〉と、誰なのかということが歌のモチーフになっている。デビルマンが誰なのかということは、その影響ではないか。

 といったことを書いたところで『TV主題歌で笑え!』(加納則章編、メディアファクトリー、2000年)という本を読んでいたら「誰だソング」として上記の他に『怪奇大作戦』の「恐怖の町」(作詞、金城哲夫、1968年)〈やみをきりさく あやしいひめい/だれだ だれだ だれだ〉と、『仮面ライダー』の「仮面ライダーのうた」(作詞、八手三郎、1971年)〈嵐とともに やってきた/誰だ! 誰だ!/悪をけちらす嵐の男〉が掲げられていた。この2曲は子供のころよく耳にしたので、そう言われればそうかと膝を打った。(ちなみに、後者がそうだが、同書は「嵐を呼ぶ歌」もまとめていて、目のつけどころがいい。)(もうひとつ、昔のテレビソングは「○○のうた」というタイトルが多い。)

 同書では「誰だソング」の元祖は「月光仮面は誰でしょう」としている。テレビではそうだろうが、歌としてはもっと遡ることができる。童謡「あの子はだあれ」(作詞、細川雄太郎、1939年)は〈あの子はだあれ だれでしょね/なんなんなつめの はなのした/おにんぎょさんとあそんでる/かわいいみよちゃんじゃ ないでしょか〉と歌う。これが「誰だソング」の元祖であろう。この歌も〈なんなんなつめ〉と連発になっている。

 「あの子はだあれ」というのほ不思議な歌である。人形で遊んでいる子供が誰かと問うのだが、どこか怪談めいている。実はこの歌は歌詞が改変されている。細川の原詩では「泣く子はたアれ誰でしょね」となっていた。(参考、池田小百合なっとく童謡・唱歌 https://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00kainuma.htm

 「泣く子」というのはナマハゲが典型だが(泣く子はいねぇか)、見咎められるものである。だから「泣く子はたアれ」というのはわかる。これが「あの子」に変換されてしまったから、不思議な歌になった。逆に不思議な歌になったからヒットしたのかもしれない。

 

2-3

 吃音の連発で「さくら」は「さ、さ、さくら」と語頭を連打するが、歌のように「さくらさくら」と語の全体を繰り返すわけではない。次に、より短く1拍を反復する「少年探偵団的吃音」を掲げてみる。

 

・ほ ほ ほたるこい(「ほたるこい」わらべ唄)

・しょしょ証城寺 証城寺の庭は つつ月夜だみんなでて こいこいこい(「証城寺の狸囃子」作詞、野口雨情)

・ぽっぽっぽ はとぽっぽ(「はと」文部省唱歌

・せっせっせのよいよいよい(手遊び歌)

・たん たん たぬきの○○○○は/風もないのに ぶーらぶら(賛美歌の替え歌)

・とんとんとんからりと隣組(「隣組」作詞、岡本一平

・ド、ド、ドリフの大爆笑(「隣組」の替え歌)

・ソ、ソ、ソラクラテスかプラトンか ニ、ニ、ニイチェかサルトルか(野坂昭如サントリーのウィスキーのCM、作詞、仲畑貴志、1976年)

 

 ミツワ石鹸の〈わわわ わがみっつ〉というコマーシャル(1966年)は、〈わ〉の連打だが、意味の上でもつながりがある。歌といえば歌であるが、姫くりというお笑いコンビのリズムネタに〈つ、つ、つ、都合いい お、お、お、女です〉というというものがあった(2008年)。
 敏いとうとハッピー&ブルー「星降る街角」(作詞、日高仁、1972年)は〈星の降る夜は あなたとふたりで 踊ろうよ〉〈ふたりであてなく 歩こうよ〉というところを「お、お、お、お、お、踊ろうよ」「あ、あ、あ、あ、あ、歩こうよ」という歌い方をする。これは歌詞の上では連発的表現は見られないが、歌うさいの表現として音を切っている。「お」も「あ」も母音なので、「あ、あ、あ、あ、あ、歩こうよ」と区切れば連発のように聞こえる。もし「走ろうよ」であれば「は、あ、あ、あ、あしろうよ」と歌うだろうから連発にはならない。吃音の連発なら子音込みで「は、は、は、は、は、走ろうよ」と不随意的な発声になる。また、これらは「おーーーー踊ろうよ」「あーーーー歩こうよ」と伸ばして歌うこともできる。吃音の種類にあてはめれば、音を伸ばす伸発である(もちろん吃音ではない)。

 

3-1

 単に語頭を連打する見かけ上の吃音ではなく、吃音というシチュエーションを歌詞に取り込んだものも存在する。一番知られたものが松田聖子「Rock'n Rouge」(作詞、松本隆1984年)であろう。

〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで/時は逃げないわ もっとスローにささやいて〉

 この歌は特徴的なイントロを持っていて、「ド」を7小節ずっと連打するのである。その鬱屈が8小節めに一気に解放されるのであるが、そこに至るまでの詰まったような感じが吃音を誘発するのではないかとさえ思える。

 この歌は吃音を扱った作品とはみなされていないし、実際、歌詞の登場人物(気取った若い男性)は吃音症ではない。女性に対し好意を持っていることを伝えようとしたときに、緊張のあまりつっかえただけである。この男性は瞬間的に吃音者になっただけである。

 吃音は精神的な予期(吃るのではないかという恐れ)が大きく影響する。この男性も、好きだということを告げるタイミングを見計らって、頭の中で何度もリハーサルを繰り返していたのだろう。「好き」という言葉を意識しすぎて、それを適正に発しようと気を回しすぎたために、逆に不自然になりつっかえてしまったのである。これは症状としては吃音と同じである。そもそも、極度の緊張状態において、発音の難易度が高くない語を流暢に発声できないということは、日常生活に支障をきたさない程度とはいえ、この人は潜在的に吃音の傾向性があると言えるのかもしれない。吃音/非吃音の間には、こうした中間層があると思われる。

 小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」(作詞、小田和正、1991年)は次のような歌詞がある。

 

何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて

浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ

君があんまりすてきだから

ただすなおに好きと言えないで

 

 〈好き〉という〈ありふれた言葉〉しか思いつかず、〈君〉になんと言えばよいのかわからないという。一方、「Rock'n Rouge」のほうは〈すなおに好きと言〉おうとするのだが、それは連発になってしまうのである。相手に簡単に好きだと告げるのは困難なのである。

 

3-2

 「Rock'n Rouge」について、もう少し詳しくみていく。

「Rock'n Rouge」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0004ad/l005ea9.html

 この歌は、経験値が高い女性が観察者となって、マニュアルで武装したウブな男性をシニカルな感じで寸評していくというところから始まる。カッコつけているけど絵にならない、海へ行こうと誘うが動機が不純だ、自分でいうほどモテない、肩に手をまわしてきたのでつねった等、1番の歌詞はこんなダメ出しエピソードの連発だ。このシニカルさは、「私が教えて成長させてあげる」という含みがもたされている。

 男性は、スポーツカーに乗り髪をグリースで固めているとか、指を鳴らすとかいった古い映画のようなステレオタイプに描かれている。過度に表層的で、滑稽じみた道化として描かれている。女性に馴れていてガールフレンドがたくさんいるようにふるまっているが、それは嘘だと見透かされている。肩にまわした手を軽くつねられただけで〈ブルーに目を伏せ〉てしまうほど気弱である。マニュアルで速成された表層は簡単に剥がされてしまう。この男性がどういう背景をもってここに登場してきたのかさっぱりわからないが、どちらに決定権があるかという男女のマウントの取り合いでは、女性のほうが全勝している。

 ではこの女性は、どんな男だったらよかったのか。それはカッコつけたりわざとらしいところのない、虚飾のない男である。そのことは、この歌のキーワードが〈PURE PURE LIPS〉であることからも明瞭だ。女性がピュアであるように、男性の方も飾りを剥ぎ取って欲しいのである。肝腎なときに〈ス・ス・スキだ〉と吃ってしまうカッコ悪さが、男性の本来の姿である。なめらかに「好きだ」と言われるより、〈ス・ス・スキだ〉と吃るほうが心の奥から絞り出された本心といった感じがある。

 〈ス・ス・スキだと急にもつれ〉てしまうのは、その言葉の発声を過度に意識して緊張の圧が高まったからである。〈急に〉とあるから、それまではペラペラとしゃべっていたのであろう。それが、このワードでひっかかってしまった。だが、もし、役者のように「君がスキだ」と流暢に口にできたとしたらる、思いがこもっていないとか、あるいは言い慣れているのではないかと疑われることになるかもしれない。そうではなく〈もつれ〉ることで、誠実な感じが態度になって表れたと思えるからいいのである。

 ただしそれは第一関門の突破にすぎない。誠実な人なのはわかった、次のステップとして、〈もっとスローにささやいて〉欲しいのである。これは歌詞違いバージョンで言えば〈ムードに乗せて ささやいて〉ということである。

 それなのに、なぜ〈ス・ス・スキだと急にもつれないで〉と言うのか。

 

 ただ、気をつけるべきなのは、女性は「ピュアであること」を志向しているのではなく、「ピュアに見えること」を志向しているということだ。〈PURE PURE LIPS〉というのは、ピュアに見えるようなメイクのひとつである。つまりこの「ピュアさ」は文字どおりのものとして受け取ってはいけない。リテラルに受け取ってはならないというのは、昨今のナチュラルメイクと同じである。歌詞中の〈KISSはいやと言っても反対の意味よ〉も同じである。含意の範囲が広すぎて反対の意味まで含んでいる。意味を理解するのは文脈で見定めることになるが、ツンデレタイプの女性のようなので、文脈はわかりにくく、男性は混乱することになる。意味の最終決定者は女性であり、女性優位のもと男性はふりまわされる。自分は多義性を確保したまま、相手には、表面と離反しない内面を持った一義性を求める。そのほうが状況をコントロールしやすい。悪く言えば手玉にとることができる。悪女というより、女性が生き抜くための方法論ということだろう。

 松本隆松田聖子の組み合わせでは、すでに「小麦色のマーメイド」(1982年)で、〈嘘よ 本気よ〉〈好きよ 嫌いよ〉という混乱語法を用いていた。これは文字どおり受けとれば両価的な感情ということになるが、そうではなく不安定な過渡的な状態にあるということからくるものだろう。波打ち際でチャプチャプ戯れる「小麦色のマーメイド」的な世界が永続するとは思えない。

 

3-3-1

 You Tubeには、この歌の歌詞違いバージョンが流出している。おそらく手直しされる前の歌詞であろう。そこでは〈PURE PURE LIPS 純粋な言葉でくどかれたら I WILL FALL IN LOVE〉となっている。〈純粋な言葉〉は〈ス・ス・スキだ〉と吃ることと同じであろう。女性は、つくろわれた表層を剥がすために辛辣になっていたのである。

 この歌詞違いバージョンについてついでにふれておく。歌詞違いバージョンを聞き取ってブログに載せている人がいる(しおれたきゅうり氏)。

https://ameblo.jp/kmattyo/entry-11034576241.html

 You Tubeの動画と照合したが、ほぼ正確だと思われる。(しおれた氏本人が書いている通り〈いやね耳と遊ぶ風〉のあたりは意味が不鮮明。また〈唇の 動きで意味がわかるフレーズがいいわ〉となっているところは、歌では〈フレーズのいいわ〉と聞こえる。)以下、しおれた氏の聞き取りを引用する。(一部表記を修正した。カッコ内は完成版バージョン。)

 

「Rock'n Rouge」未完成テイク

青い春のパレットで 描くような海岸線

(グッと渋い SPORTS CAR で待たせたねとカッコつける)

ガードレールに片足を 乗せてキザに手招きしてる

(髪にグリース光らせて決めてるけど絵にならない)

「僕はもてるから」と髪をとかすけれどかなり疑問形

(海へ行こうぜって指を鳴らすけれど動機が不純だわ)

 

1ダースもいるGIRL FRIEND その割には暇そうだわ(話ほどはもてないのよ)

100万$ 賭けていい アドレスには私きりなの(私きりね)

肩にまわした手が少し馴れ馴れしい 指でつついたら(軽くつねったら)

ちょっとブルーに目を伏せた

 

PURE PURE LIPS

花色の 唇そんな軽く許せないけれど

(気持ちは YES KISS はいやと言っても反対の意味よ)

PURE PURE LIPS

純粋な 言葉で口説かれたら

(待ってて PLEASE 花びら色の春に)

I WILL FALL IN LOVE

 

防波堤によじ登り 遠い岬探したわね

(防波堤を歩くとき ジョーク並べて笑わせたの)

いやね耳と遊ぶ風 指の隙間しっかり見てた

(黙りこむともりあがるムードの波避けるように)

君がス・ス・スキだと急にもつれないで 時は逃げないわ

ムードに乗せて ささやいて(もっとスローにささやいて)

 

PURE PURE LIPS

唇の 動きで意味がわかるフレーズがいいわ

(気持ちは YES 横断舗道白いストライプの上)

PURE PURE LIPS

微笑みが 自然にこぼれるとき

(待ってて PLEASE シグナル変わるまでに)

I WILL FALL IN LOVE

 

PURE PURE LIPS

純粋な 言葉で口説かれたら

(待ってて PLEASE 花びら色の春に)

I WILL FALL IN LOVE

 

 正式版もそんなにできが良いとは思えないけれど、歌詞違いバージョンの男性キャラが多少わかりやすく仕上げられたものになっている。

 化粧品のCMということで、歌詞違いバージョンのほうが、タイアップを意識した歌詞になっている。このバージョンでは、女性の唇を〈花色の唇〉とふれていることのほかに、男性についても、先の〈純粋な言葉でくどかれたら〉とか〈唇の動きで意味がわかるフレーズがいいわ〉などと、口の動きに注目しているのである。それが、正式版では〈ス・ス・スキだと急にもつれないで…ささやいて〉という部分だけが残ったのである。つまり〈PURE PURE LIPS〉のピュアな唇は女性だけでなく、男性の唇も意味していたのである。

 

3-3-2

 正式版の歌詞と、歌詞違い版のそれとを比べると、作詞者がこの歌詞を作るのに苦労したであろう跡が読み取れる。

 正式版の冒頭は〈グッと渋い SPORTS CAR で待たせたねとカッコつける〉であるが、ここは歌詞違いバージョンでは〈青い春のパレットで 描くような海岸線〉となっていて、全く異なる文言になっている。〈青い春のパレット〉というのは、「赤いスイートピー」の〈春色の汽車〉のような松本ワードであるが、男性のズレた感覚の表現が不十分だと思ったのか、どうでもいい言葉をやめて、スポーツカーというアイテムに差し替えている。

 では、その〈グッと渋い SPORTS CAR〉とは何だろうか。〈渋い〉というのは、落ち着いているということである。スポーツカーはピカピカしていて新しいことに価値があるので、落ち着いた感じのスポーツカーというのは褒めていることにはならない。〈渋い SPORTS CAR〉というのは、昔流行したタイプのスポーツカーということで、そんなものをカッコつけて乗ってきたということで、鼻で笑っているのである。

 加えてわかりにくいのが、〈グッと〉である。〈グッ〉というのは体に力を込めてなにかするときの擬態語(息の漏れる音でもあるので擬音語でもある)であるが、その意味では、この歌詞にはあてはまらない。『擬音語・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社学術文庫、2015年)では、状態が大きく異なるとか変化している様子という意味を掲げている。例文として「ひと昔まえに比べぐっと少なくなってしまった」。体に力を込めてなにかするのが主意で、そこから派生した意味であろう。〈グッと渋い SPORTS CAR〉というのは「かなり渋いスポーツカー」ということで、誰がみても流行遅れの代物ということである。〈グッと〉は冒頭なので文脈から判断できず意味がとりにくい。〈渋い〉というのも反語的だ。冒頭からしてスッキリしないのである。

 言葉の音符への乗せ方も無理して詰め込んだ感じがするところがある。〈グッと渋い SPORTS CARで〉〈1ダースもいる GIRL FRIEND〉のところで、〈SPORTS CAR〉〈GIRL FRIEND〉は、日本語らしいモーラのリズムでは「スポーツカー」「ガールフレンド」は、それぞれ6拍、7拍である。英語の音節リズムではそれぞれ2拍である。ところが歌では、「スポーツカー」は8分音符5つに「スポ・ー・ツ・カ・ー」と乗せられていて、「ガールフレンド」は8分音符2つと4分音符1つに「ガ・ル・フレーン」と乗せられている。何が言いたいかというと、日本語のモーラリズムとも英語の音節リズムともズレた、居心地の悪さを感じるのである。このような歌い方をしている歌で、言葉のもつれ(ス・ス・スキ)が取り上げられているのは興味深い。

 また、この語り手は〈時は逃げないわ もっとスローにささやいて〉と相手に要求する一方で、自分は、信号機が変わるまでには恋に落ちているだろうというのである。〈スローにささやいて〉というのはどういうことかというと、歌詞違いバージョンでここは〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで 時は逃げないわ/ムードに乗せて ささやいて〉となっていることから明白だが、ムードを大事にしろということである。だが自分はというと、横断歩道を渡り終えるまでに恋に落ちるというのでムードなんてありはしない。

 「私を口説くときはムードを大切にしてよ」という歌は、同じ松本隆松田聖子の組み合わせで「秘密の花園」(1983年)もそうである(こちらのほうが早い)。〈真面目にキスしていいの なんて/ムードを知らない人 Ah…あせるわ〉という。では、どういうムードがいいかというと〈私のことを 口説きたいなら 三日月の夜〉とあるから、薄暗い三日月の夜がいいというのである。この夜も〈月灯り〉だったのだが、満月に近かったのかもしれない。また、〈小舟〉に乗って〈流れる星〉を見ながら〈さすらう〉のがよいという。「Rock'n Rouge」では〈グッと渋い SPORTS CAR〉という中途半端な乗り物だったので、これもムードがないのである。

 秘密の花園」では〈他の娘に気を許したら 思い切りつねってあげる〉とあり、「Rock'n Rouge」では〈肩にまわした手が少し慣れ慣れしい軽くつねったら〉とある。「つねる」というのは、ここでは相手の行為を矯正するためにおこなうしつけである。拒絶ではなく、将来の継続的な関係を前提にして是正を求めている。〈他の娘に気を許したら〉もうお別れよ、ではなく、〈肩にまわした手〉をピシャリと叩いて振り払うのでもない。「つねる」というのは自分の意思表示を明示しないままで(「やめてよ」とは言わない)、相手に気づきをうながすことである。プライドが高いのである。

 

3-4

 さて、〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで〉という「言葉のもつれ」が生じた瞬間は、芝居のようにカッコつけている男性がボロを出した瞬間でもある。男性の方が女性をリードしているつもりだったのに、無理をしていることが露呈してしまった。表面的な虚飾が剥がされて裸の自分があらわになった。吃音はごまかせない。吃音は、話者にはコントロールできないものとして、真実(ピュアさ)をさらけ出す機能を有する。

 女性は、その機会を逃さず捉えて〈急にもつれないで…もっとスローにささやいて〉とアドバイスする。もちろん実際口に出したということではなく、内心で思ったということだろう。ここにはからかいの気持ちが多少なりとも見受けられる。こういう指摘を直接相手に言ったら、プライドを傷つけることになるだろうし、そもそも失敗した表出を〈ス・ス・スキだ〉と真似されること自体たいへん腹立たしいことだ。語り手の次元でも歌の次元でもそうである。先に見たように、歌ではリズムにのって語頭を連打することが好まれる。だがこの部分は、そういうリズム的要素から書かれたものではない。松本隆は「渚のバルコニー」で〈馬鹿ね 呼んでも無駄よ〉という歌詞の〈馬鹿〉について「かなり悩んだ」(『松田聖子中森明菜』中川右京、幻冬舎新書、2007年、p191)ようだが、〈ス・ス・スキだ〉については悩まなかったのだろうか。

 二人の関係において、女性が「場の支配者」であることがここではっきりした。実際、女性はそれまでも受動的決定者とでも言うべき立場であった。肩にまわした手をつねって拒否の態度を示したり、〈KISS はいやと言っても反対の意味よ〉と、言葉の意味の決定権を握っていた。

 受動的決定者であることは、最終的に男性の求愛を受け入れるか否かという決定権を女性が持っていて、その表明のタイミングも女性が握っているのだという優位性を弄ぶことにつながっていく。要は、お姫様気分が満喫できるお相手なのだ。それまでは男性の方も自分が優位にたとうとして女性と暗黙の闘争(かけひき)をしていたのだが、吃音という「異常な状態」をはからずも晒すことによって闘争の場から敗退してしまった。

 表明のタイミングというのは、たしかに〈気持ちは YES〉で相手の方に傾いていはいるのだけれど、今、横断歩道を渡っているところで〈シグナル変わるまでに I WILL FALL IN LOVE〉、つまり信号が変わるまでのとても短い間に、横断歩道を向こうに渡りきるまでの間に、恋に落ちているだろうと言うのである。それまで〈待ってて PLEASE〉と勿体をつけているのである。相手の気持ちを受け入れるかどうかは自分しだいなので、どのタイミングで自分の気持ちを決定しようかと楽しんでいるのである。そしてそれは何か感動的なきっかけではなく、横断歩道を渡るというどうということのない区切られた時間のうちになされるところに弄ぶ心理がうかがえる。

 相手が〈渋い SPORTS CAR〉に乗ってきたり、〈髪にグリース光らせて〉いたり、〈海へ行こうぜって指を鳴ら〉したりするのを評定するあたりは、「ウッ」という感じで我慢している。しかし、相手が自滅することで男女の闘争に勝利して〈横断舗道白いストライプの上〉にいるときは解放感に満ちている。この歌は鬱屈から解放へという流れでも読むことができる。その転機となるのが吃音である。

 

3-5

 サビの〈PURE PURE LIPS〉というフレーズは、カネボウのコピーライターが用意したもので、それで松本隆は行き詰まって失踪してしまったらしい。(中川前掲『松田聖子中森明菜』251ページ)

 1970年代後半から1990年にかけては、資生堂カネボウ、コーセーといった化粧品会社が、季節ごとにテレビCMを制作しており、その中からヒット曲がいくつも生まれた。(次のブログはこれを一覧表にまとめてある。https://hojipedia.hatenablog.com/entry/化粧品CM戦争キャンペーンソング比較年表)

 「Rock'n Rouge」がタイアップしたのはカネボウ化粧品1984年春のCMで、歌だけでなく、聖子自ら出演している。売ろうとしているのは「植物性色素配合バイオリップスティック」という口紅で、「唇を守る」「花染め色」であることがアピールされている。「ピュアピュア」という語が添えられているが、バイオ口紅がなぜピュアと結びつくのかはよくわからない。植物性=天然由来=ピュアという連想だろうか。

 化粧品CMで「ピュア」という語が前面に打ち出されたのは、7年前の1977年、資生堂の口紅「ピュアな色 クリスタルデュウ」である。CMの長編バージョンでは、「春の色。混じりけがないから明るい感じです。ピュア」とナレーションが入る。イメージソングは尾崎亜美「マイピュアレディ」。歌詞には、〈あっ気持ちが動いてる/たったいま恋をしそう〉(作詞、尾崎亜美)とある。

 この歌詞の解説にもなるようなことを、CM中で小林麻美がモノローグで語る。「目の前のものでいいんじゃない? 今ここにあるもの、本当に今自分がこう感じたからね、すごくハッピーになれて、泣きたいときにすごく素直に泣けて、そういうふうに自分の気持ちに素直に生きられるってことがピュアってことじゃないかなと思うのね」。

 ここでは「ピュア」はたんに化粧品の色についてのものではなく、生き方に関わる価値にまで昇格する。つまり「自分の気持ちに素直」でいることが「ピュア」で、〈あっ気持ちが動いてる〉ということを敏感に感じとり、〈たったいま恋をしそう〉なので、ためらいもなく恋をするということが「ピュア」なのである。

 これはまるで「Rock'n Rouge」について語られているかのように錯覚する。〈あっ気持ちが動いてる/たったいま恋をしそう〉というのは、「Rock'n Rouge」の〈シグナル変わるまでに I WILL FALL IN LOVE〉というのに近いだろう。「Rock'n Rouge」では、ピュアな色の口唇はピュアな気持ちの象徴となって、あれこれ余計なことを考えず自分の心の動きに素直に従うことがよいとされるのである。相手を好きだと思うなら、ためらわず好きになればよいのである。

 〈KISS はいやと言っても反対の意味よ〉という韜晦的態度は、自分も相手のことが好きだということを悟られたくないゆえであるが、それはピュアな態度ではない。自分ももっと素直に率直に態度を表明すべきなのだ。バイオ口紅はそういう魔法をかける。あるいはそういう気分にふさわしい口紅だ。〈PURE PURE LIPS〉からこぼれるのは真実の気持ちである。〈気持ちは YES〉ということがはっきりしているなら、その〈気持ち〉に忠実になろう。そうはいっても、さらにもうひと押しきっかけが必要である(女性だから本音をみせるのは二重三重のベールを取る必要がある)。その転換になるのが、〈ちょっとブルーに目を伏せた〉とか、〈君がス・ス・スキだと急にもつれないで〉といった、カッコつけた表層から垣間見える相手の本質である。

 この歌では、表層は内面とは食い違いがあるということを一貫して言っている。だが〈ちょっとブルーに目を伏せた〉とか〈ス・ス・スキだと急にもつれ〉た瞬間は、その食い違いがなくなって、表層と内面が一致した瞬間である。女性の方も、それまでは〈反対の意味〉で表層を飾っていた。しかし相手が表層と内面を一致させ真実の姿をさらしたことで、自分も安心して素直(ピュア)になり、〈I WILL FALL IN LOVE〉と言うことができたのである。

 

 最後に、吃音になっている歌を拾い出してみたので掲載しておく。「Rock'n Rouge」の影響か、似たような言い方の歌詞も多く、それははじめの方にまとめておいた。

 

・明日こそちゃんと伝えたい ス・ス・ス・スキでした(増山加弥乃/望月美寿々「イマドキ乙女」)

・ス・ス・ス・ス・スキヤキは好きですか(DISH//「クイズ!恋するキンコンカン!」)

・照れずに今日は言うぞ I Love You「す、好きだー!!」(湘南乃風「炎天夏」)

・す、す、好きなんかじゃないから!(市ヶ谷有咲(伊藤彩沙)「す、好きなんかじゃない!」)

・でっかい声で、言うぞ、す、す、好きだー!(若旦那「夏の神様」)

・わたし あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが す、す、す、 わたし あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが あなたが す、好きです(吉澤嘉代子未成年の主張」)

・あなたがずっとすすす好きでした!(SparQlew「Love Express」)

・あのね あたし あなた のこと あのね あたし あなた のこと あたしは あなたが…… す、す、すす、すす、す…す すすすす、す、す、す、す、 すう、はあ…ごめん、忘れて ……待って! す、す、すす、すすすす すすすす、す…す…す…す す、す、すす、すす、す…す すき、だあいすき!!!!(山音まー「すすすす、すき、だあいすき」)

・すすす好きさ 東京 おお 我が街 おお 我が友 トトト…東京 東京 東京…ツツツツ突走れ 息絶えるまで(遠藤賢司「東京ワッショイ」)

・「あなたがすすす」噛んじゃったまじでもういや 分かんない(妄想キャリブレーション「まじでもういや」)

・どうしよう?「す、す、す、す‥すき やきっておいしいですよね。」(小倉唯「Merry de Cherry」)

・「あなたのことがす、す、す、す、すーーー」すずめがちゅんちゅんかわい(halca「告白バンジージャンプ」)

・「す」のあとが続かなくても がんばれワタシ…す、す、す、す、す、す、す、 あのさ、ねえ す、す、す、す、す、す、す、 ちょっといい? す、す、す、す、す、す、す、 あなたが す、す、す、す、す、す、す、「すき」なんです(whiteeeen2「#やばちょ」)

 

・あ、あ、あ、愛しておくれよなんて言えない(The SALOVERS「愛しておくれ」)

・彼は言うはず「あ、愛してる…」ラッキー!(酒井法子「神のみぞ知るハートのゆくえ」)

・それもきっと愛だ あなたが笑えばほら世界がまわるよ 世界が ま、ま、まわるよ…世界を う、う、うつすよ(琴音「きっと愛だ」作詞、mochi)

・かかか回覧板を見ぬまま旅行へ鍵かけず家を出たOLさん(ゲスの極み乙女。「O.I.A」)

・受話器が叫ぶかかかかか勝手な女はななななな泣きじゃくる(人間椅子神経症I LOVE YOU」)

・ババババババンドマンそう かかかかかか会社員もそう(ミオヤマザキ「バンドマン」)

・かかかかなり急展開!? だだだだれか助けてよ!!(きゅい~ん'ズ「ままままさかの片想い」)

・か、か、か、加速する(ONE N' ONLY「Dark Knight」)

・く、く、くぬぎの木とか こ、こ、こならの木には か、か、かならずいるぜ ノ、ノ、ノコギリクワガタPENICILLIN男のロマンZ」)

・ななななんて気持ちはききき君一人じゃ無い独りぼっち同士の同志よ(吉田山田「押し出せ」)

・ささささくらの ききき季節に同じ桜は二度と咲かないががが頑張れ(Jin-Machine「がんばれ!桜、アディオス」)

・こ、こ、こんなところに Σ(゚д゚;)探し物はいつだって忘れた頃に(宏実「不意打ちLOVE」)

・ががががが頑固もの めめめ明治の男…じじじじじ人生の さささ最後の日々を(酒井法子「おじいちゃん is watching TV」)

・両手には 君の手とささささささサイダー…街灯に光るてててててて天使のような横顔は(Sundae May Club「サイダー」)

・ここここ コンテストまずは ささささ 参加してみれば(吉田凜音「パーティーアップ」)

・有刺鉄線に身を寄せてみよう 何か言わなくちゃ さ、さ、さ、さよなら(サクラメリーメン「夏影」)
・だ、だ、誰か助けてよ し、し、支配してくれよ だ、だ、誰彼構わないで 刺してしまいそう(suzumoku「泥雲」)

・せ、せ、正義の背並べなんて世界悔しいなおんなじページ(うじたまい「正義」)
・なななな何とかなるだろう そそそんなに気取らずに のののののんびり行こうよ(クサカンムリ「明日は明日の風が吹く」)

・そ、そ、そ、そんな、女のコと、手、手、手、手を繋ぐなんて こど、こど、こどど、子供ができちゃうじゃないですか(小須田崇ほか「DOUTEI☆ロケンロール」)

・「あなたは何が欲しいの?」そ、そ、そ、そ、そりゃもう君だぜ(THE 夏の魔物「コンプレクサー狂想組曲」)

・たたたたたた多数決でわたし 上下左右前後どこにいくの…たたたたたた足すんなら早めで(ふぇのたす「たびたびアバンチュール」)

・たたたたたたたたたた助けて神様 だだだだだだだだだだ大丈夫か俺は たたたたたたたたたた楽しくやってさ だだだだだだだだだだだんだん腐っていく(CIVILIAN「デッドマンズメランコリア」)

・君が触れたら、た、た、ただの花さえ笑って宙に咲け 君が登って、て、照れる雲も赤らんで飛んでいく…君がいるなら、た、た、退屈な日々も何てことはないけど(ヨルシカ「あの夏に咲け」)
・あ、あ、明日も朝まで遊ぼう か、か、乾いたカラダ枯らして さ、さ、散々騒ぎ騒いで た、た、怠惰 多分、他力本願…な、な、泣き言 何度も何度も泣いて は、は、恥さらし 早も来 二十歳(アルカラ「わ、ダメだよ」)

・つつつ使えない物は何でもベイビー切り捨て使い(セプテンバーミー「ハローグッデイ」)

・退屈に怯えてないで、で、で、で、で、出掛けよう…勇敢に夢を手に取り、り、り、り、り、凛と構え…Musicを鳴らし続けて、て、て、て、て、て、て… 手を伸ばせ(Yun*chi「Wonderful Wonder World*」)

・涙なんか かかか流せな なななない平気だって だって今も ももももあなたを(IZ*ONE「ご機嫌サヨナラ」作詞、秋元康

・ままままさかこんなこと!? だだだだれのしわざなの??…ちょちょちょちょいと たっ、たんま!!…わわわわたしもしかして!? アイツに本気 ままままさかの片想い(きゅい~ん'ズ「ままままさかの片想い」)

・ババババリカタな片想い この気持ち早く届け かかか替え玉なんていないから 今あなたに会いにゆく ゼゼゼ全力で食べ尽くして…ななな何回だって会いにゆく あなたの事 す、すいとーよ(#フラサービックル「バリカタカタオモイッ!」)

・は、は、は、はじめてなのに なつ、なつ、なつかしいかほり…も、も、も、もぎたて胡瓜 ほ、ほ、ほ、ほうばり吸引(MINORITY BOYS「山岸先輩の,さくらんぼ狩り」)

・いいいいつでもどこでも きき君だけの世界へ ぽぽポケットの中で すすすスイッチ入れたら 「ね?」…ひひひ広い空の下 きき君がもしかしたら こここの声をきっと ままま待ってくれてるかも 「きゃっ」(イヤホンズ「耳の中へ」)
・ふ、ふ、ふ、ふ、ふなっしーい いつでも元気に梨汁(ふなっしー「ふな ふな ふなっしー♪」)

・子の希望の『望』を、ま、ま、ま、ま、守りたい。(中村一義「イロトーリドーリ」)

・ギリギリバッテリーま、ま、ま、ま、ま、まさかの起動でバ・グ・りそう(篠崎愛メモライズ」)

・Hold on, Papa バ、バ、バリケード、ドド~ン Oh, ド、ド、ドレミファソラシ Go!(安室奈美恵「FIRST TIMER feat.DOBERMAN INC」)

・ややややや 焼き付くアスファルトに ななななな 波打つひとの流れ(夢みるアドレセンス「ストロベリーサマー」)

かぐや姫「神田川」~50年前の切断〜フォークソングの日本語

 私が大学生だった頃はバブル景気真っ只中の東京で、吉祥寺や世田谷に住んでいたが、いずれも大家さんの自宅の一部を改造したような安アパートで、四畳半で風呂なし、共同便所で家賃3万円だった。

 予備校時代はバブル直前の時期で立川に住んでいた。駅南口から歩いて5分くらいのところだったが、立川駅南口土地区画整理事業が本格的に始まる前で、古い家並みが残っており、大家さんの家の隣にある古い木造倉庫の2階の1室を借りていた。1階はガランとしており真っ暗だった。共同トイレは2階からクソを垂れると、途中にひっかかったちり紙にあたってバサバサと音をたてて落下していった。部屋の格子窓の板ガラスが振動で一日中ビリビリと小刻みに揺れていた。

 思い出を書いたのは、私が学生生活を送ったのは、かぐや姫の「神田川」(作詞、喜多條忠、1973年)がヒットしてから10年ちょっと経った頃だが、似たような生活をしていたなあと思うからである。

 神田川」では同棲が歌われている。当時は上村一夫のマンガ『同棲時代』(1972-73年)が流行るなど同棲がブームだった。私も彼女と二人で銭湯に行ったことが何度かあったが、この歌のように毎回待たせていた。ただ、彼女は湯上がりに外で震えているのではなく、待合室みたいなところで牛乳を飲んで待っていたのである。また、同じかぐや姫の「赤ちょうちん」(作詞、喜多条忠、1974年)に〈キャベツばかりをかじってた〉というフレーズがあるが、私もキャベツはよく食べた。安いし調理しやすい。すべて昔の話になったが、キャベツだけは今でも私の頭の中に残っていて、野菜イコールキャベツである。

かぐや姫神田川」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001d22/l019dca.html

 神田川」についてよく言われるのは、貧乏くさい四畳半フォークであることと、1972年の連合赤軍事件により若者の政治への関心が一気に失速して内向きになった時代の象徴的な歌であるということだ。両者は関係している。四畳半フォークといわれる所以の一つは、関心領域の狭さである。世界や日本という国への関心が四畳半の生活へと縮減する。一緒に銭湯に行ったとか、似顔絵を描いたとかいった身の周りのことばかりである。そこになんとも言えないむなしさの感覚が付随している。

 

 この歌は〈貴方は もう忘れたかしら〉と始まり、〈若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった〉と終わっている。〈貴方〉に始まって〈貴方〉に終わる。〈貴方〉に話しかけているように聞こえる。

 語られる内容は過去の暮らしで、〈貴方〉との思い出である。〈私〉が過去の思い出を語るという「枠形式」になっている。〈私〉はなぜ過去を思い出しているのか。しかも最後は〈貴方のやさしさが 恐かった〉という不可解な結びかたである。この点はあとでふれることにする。

 歌詞を最初から見ていく。

 〈赤いてぬぐい マフラーにして〉とある。コミカルな感じがする言い回しである。わざわざマフラーを買う金もないので代用品で済ませたという「貧しさ」も滲んでいる。

 このフレーズには、現在の感覚からすると引っかかるところが4点ある。

 

(1) タオルでなくてぬぐいである

(2) 赤いてぬぐいとは何か

(3) マフラーにするとはどういうことか

(4) 二人ともそうなのか

 

 順に見ていく。

(1) タオルでなくてぬぐいである

 現在、入浴の用途に限らず、いろんな場面で手ぬぐいを使う人はあまりいないだろう。タオルがほとんどである。手ぬぐい(日本手拭)は高度成長期にタオル(西洋手拭)に置き換わっていった。タオルというのは私の記憶では手ぬぐいより高級品で、子供の頃(昭和4、50年代)は大事に使っていた記憶がある。父親はずっと手ぬぐいを好んでいたので、身近なものの使用については世代的になじんだものを使い続けたのだろう。「神田川」が出た頃は、手ぬぐいがタオルに急速に置き換えられていく時期にあたっている。歌の中の二人は手ぬぐいになじんでいたし、タオルを買うほどの贅沢もしなかったということである。

(参考、今治地方のタオルと生産量推移 https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/5/view/958

 手ぬぐいとタオルというのは、平面的か立体的かという違いがある。手ぬぐいは平縫いで薄い。濡らした手ぬぐいはペタッとしているので、入浴で体を洗うには使いにくいし、体を拭く場合も水分をあまり吸収しない。一方、タオルは表面に小さな糸の輪(パイル)があり、肌にあたったとき柔らかいし、吸水性もいい。

 ただ、こんなことを思い出した。「昭和のお風呂の入り方」というブログに、「風呂桶の中で、手ぬぐいを風船のように膨らませて遊びました。「タオルクラゲ」というそうですよ。」という記述があった。(https://middle-edge.jp/articles/04IqF?page=3)私もよくやったが、手ぬぐいだからできた。タオルを使うようになってからは風船にならなかった。

 風呂で使う手ぬぐいについて興味深い歌詞がある。パブリック娘。「お風呂」(作詞、パブリック娘。、2019年)である。

〈おれはまだ子供 タオルめっちゃ必要/じいちゃんは手ぬぐいひとつ 全てこなす玄人/体洗う時も手ぬぐい 体拭う時も手ぬぐい/手ぬぐい手ぬぐい手ぬぐい手ぬぐい/おれは子供だバスタオル〉

 パブリック娘。は平成生まれの3人のラップユニットだが、この歌詞が彼らの実体験によるものなら、平成の少なくても初期はまだ、手ぬぐい派とタオル派が混在していたことになる。

 

(2) 赤いてぬぐいとは何か

 〈赤いてぬぐい〉というからには、地が赤く染められた手ぬぐいのことであろう。手ぬぐいというのは白地で藍染のものが多いから、〈赤いてぬぐい〉というのは珍しい。ポイントで赤が入ったものはあるが、地が赤い手ぬぐいというのは見たことがない(ネットで検索するばあるものの)。歌でもわざわざ〈赤いてぬぐい〉と言うところが、〈赤〉は有徴であることを教えている。かまやつひろしの「我が良き友よ」(作詞、吉田拓郎、1975年)では、〈下駄をならして奴がくる/腰に手ぬぐいぶらさげて〉とあるが、これは白い手ぬぐいであろう。

 では、なぜ〈赤いてぬぐい〉が出てくるのか。〈赤いてぬぐい〉というシニフィアンは、どういうシニフィエと結びついているのか。60年代末の学園闘争とその挫折、70年代初頭の連合赤軍事件の凄惨な結末を目にして、若者の革命への情熱は一気に潰え去った。この歌が出た1973年はそういう時代であり、〈赤いてぬぐい〉の〈赤〉は革命の見立てではないか。元来、赤は革命の象徴で、赤色旗は反乱者の血にひたされて赤くなった旗である。〈赤いてぬぐい〉は、掲げていた赤い旗を下ろし、使わなくなったそれを代用品として手ぬぐいにしたものではないか。その〈赤いてぬぐい〉もマフラーに代用されることになる。ここには使えるものは何にでも使うという、生き延びるための柔軟さがある。

 歌詞の2番になると、〈二十四色のクレパス買って/貴方が描いた 私の似顔絵〉とあるように、赤の一色だけに束縛されることなく、〈二十四色〉へと解放される。ただ、赤以外の色が持ち込まれても、この似顔絵は〈いつもちっとも 似てないの〉というように、〈二十四色〉をうまく使いこなせないのである。〈二十四色〉を与えられてもどうしていいかわからず、とまどっているのである。

 

(3) マフラーにするとはどういうことか

 その〈赤いてぬぐい〉は、なぜマフラーに見立てられたのだろうか。寒い季節だから防寒ということでマフラーを連想したかもしれないが、「赤い手ぬぐい首に巻いて」と、首に巻いたというだけでよかったのではないか。あるいは手ぬぐいはマフラーほど長くなく、スカーフていどの大きさであるから「赤い手ぬぐいスカーフにして」という歌詞でもよかったかもしれない。

 私はここにはサブカルチャーの影響があると思う。1969年には「右手にジャーナル、左手にマガジン」といわれるほど、大学生がマンガを手にすることへの抵抗感は薄れていた。

 50年代の終わりから70年代にかけてのヒーローは、その多くが首にマフラーを巻いて両端を長く垂らしていた。赤いマフラーを巻いていたのは初期のサイボーグ009で、映画・テレビアニメの主題歌「サイボーグ009」(作詞、漆原昌久、1966年)では、〈赤いマフラーなびかせて〉と歌われる。仮面ライダーも赤いマフラーで、〈ゴーゴー・レッツゴー 真紅のマフラー〉(「レッツゴー!!ライダーキック」作詞、石森章太郎、1971年〉とある。他に仮面の忍者赤影(1966年)も赤いマフラーである。赤ではないが、まぼろし探偵はテレビドラマ版で〈黄色いマフラーなびかせて〉(「まぼろし探偵の歌」作詞、照井範夫、補作詞、山本流行、1959年)と歌われ、少年ジェットは〈白いマフラーは正義のしるし〉(「少年ジェットの歌」作詞、武内つなよし、1959年)と歌われる。覆面ヒーローの元祖である月光仮面(1958年)も白マントに白マフラーであり、さらにその源流である鞍馬天狗1924年)も、頭巾をかぶりながら長い襟巻きを垂らしている。変身忍者 嵐(1972年)は紫色、イナズマン(1973年)は黄色のマフラーである。他にも上げればきりがない。

 彼らはなぜマフラーを巻いていたのか。彼らの多くは、馬とかオートバイといった、身体を露出させて高速で移動する乗り物に乗っている。首元が空いていると寒い。カウボーイは首にスカーフを巻いているし、白バイ隊員は白いマフラーをしている。現実的には防寒の必要からであろうが、それがマンガになると、流れるような曲線で画面が優美になるし、特撮では、マスクとスーツの継ぎ目を隠すことができて、胸元のデザインも賑やかにすることができる。もう一つ考えられるのは、アメリカのヒーローであるスーパーマンバットマンはマント(ケープ)を付けているが、それをもっとコンパクトにしてヒーローの象徴にしたのかもしれない。

 マフラーがヒーローの象徴であるなら、〈赤いてぬぐい マフラーにして〉というのは、お手軽なコスプレである。ありあわせの風呂敷をマントにして月光仮面のマネをした子どもの延長である。

 

(4) 二人ともそうなのか

 〈赤いてぬぐい マフラーにして〉風呂屋に行ったのは、二人ともそうだったのか。ペアルックのように首に巻いていたのだろうか。風呂に行ったのはおそらく暗くなってからである。だから、格好を気にせず、手ぬぐいをマフラーにしたのだろう。

 

 次の歌詞に移る。

〈二人で行った 横丁の風呂屋/一緒に出ようねって 言ったのに/いつも私が待たされた〉

 銭湯も毎日行ったわけではないだろう。このころはまだ毎日風呂に入るという習慣もない。各家庭に風呂があっても、週に1,2回、多くても3回くらいであろう。

 ここでは〈いつも〉という副詞に注目したい。この〈いつも〉は、「二人で一緒に行ったときはいつも」ということであるが、「二人で一緒に行く」ことじたいも〈いつも〉のことだったであろう。

 〈いつも〉女性のほうが待たされたという。〈いつも〉女性の方が先に風呂から出てきたのである。これはどういうことか。一般的に女性の方が長風呂である。風呂で一番時間がかかるのは洗髪である(中には風呂に入ったとき軽く洗濯をするという人もあるだろうがそれは除く)。女性の方が髪が長いから、女性の方が入浴時間が長くなる。だが、女性の方が早く出てきたということは、この女性は短髪だったということが考えられる。逆に、男は長髪だったかもしれない。当時は、反体制的なしるしとして長髪が流行していた。「Cut lab1518」という美容院のブログにはこうある。「1967年にツイッギーが来日し大流行した。このシャープなショートカットを手がけたのはその当時、美容師だったあのヴィダル サスーンと言われている。当時男性が長髪で女性が短髪というのが当たり前だった。」(http://cutlab1518.com/blog-detail/entry/77

 なお、Wikipediaの「神田川」の項目には、「喜多条が銭湯で飼われていた鯉に餌をやり、観賞していた」ので風呂から出るのが遅れたという説が書かれている。鯉が歌詞の他の部分と関わっているなら解釈を豊穣化するが(例えば、神田川ー鯉という連想)、そうでなければ楽屋落ちを聞かされたようなものでシラける。寒い季節に女を外で待たせながら平然と鯉にエサをやっているという冷酷さが「神田川」の裏に隠されていたと想像してみると、待たされた側の言う〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉というフレーズが、やさしさの仮面の裏側に隠された真実に気づいていたセリフとして聞こえてくる。

 


 次の歌詞は〈洗い髪が芯まで冷えて/小さな石鹸 カタカタ鳴った〉となっている。〈洗い髪が芯まで冷え〉るのはドライヤーで乾かしてないからである。当時はヘアドライヤーはまだ普及の緒についたばかりなので、美容院にはあっても銭湯にはない。髪は自然に乾かせば済むので、どうしてもなければならないものではない。今でもホテルや温泉にはドライヤーは置いてあるが、銭湯では有料である。ところで、〈洗い髪〉とか先の〈風呂屋〉とか、古めかしい言い回しをしている。〈二十四色のクレパス〉も「にじゅうよいろ」である。

 〈小さな石鹸 カタカタ鳴った〉とある。ここは私が疑問に思うところだ。この「カタカタ鳴る小さな石鹸」というのは、〈私〉のことであろう。たんに寒いから震えているのではなく、将来への展望がない生活に不安で震えているのである。〈洗い髪が芯まで冷えて〉というのは、いつ風邪をひいてもおかしくない状態に置かれているということだ。この女性は相手に合わせるのにかなり無理をしている。受動的な生き方である。だが、受動的だからといって、それがただちに悪いわけではない。人生において主体的になるときもあれば、人の影響を受けるときもある。この女性は、このとき相手に合わせて生きていて、それがそんなに嫌ではなかった。そのことは「神田川」の続編ともいうべき「赤ちょうちん」に〈そんな生活(くらし)が おかしくて/あなたの横顔 見つめてた〉と書かれていることからもわかる。この〈おかしくて〉という感想は、自分たちの生活を客観的に見ていることからきている。自分のことなのに、どこか他人事のように観察している。〈あなたの横顔 見つめてた〉というのは観察するまなざしである。その余裕は若さから来ているのだろう。〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というフレーズはここでも活きている。こんな状態がいつまで続くのかと思って将来が不安になっていると同時に楽しんでもいるのである。

 ところでこの「カタカタ鳴る小さな石鹸」という描写の意図はわかるものの、本当にそんなことがあるのかという疑問がある。銭湯では石鹸やシャンプーは持参しなければならない。持ち込んだ石鹸は、帰る時は使ったばかりなので濡れてヌルヌルしているはずである。石鹸函のなかにくっついている。震えたくらいでカタカタ鳴るとは思えない。カタカタというのは乾いた軽い物がぶつかって立てる音である。仮に音がしても、〈小さな石鹸〉なので、音も微かである。もっとも、ここを石鹸函が自分の持ち込みの洗い桶とぶつかってたてた音だとか、石鹸ではなく軽石が立てた音だとかいう理屈はあるだろうが、そういうことは歌詞に書かれていない。

 

 次の歌詞は、〈貴方は私の からだを抱いて/冷たいねって 言ったのよ〉となっている。

 〈貴方〉は、「寒かったね」と言ったわけではなく、ましてや「待たせたね」とか「ごめんね」とか言ったわけでもない。〈冷たいねって 言った〉のである。つまり〈私〉のことを思いやって共感的に声をかけたのではなく、モノとして冷えていると、からかっているのである。もちろん、抱いたのは寒いからあたためようと思ってそうしたのであろうし、〈冷たいね〉という即物的な言い方にも「照れ」が含まれているのであろう。だが〈私〉を思いやる直接的な表現がないことは、二人の関係の対等性を次第に崩していくものになるだろう。

 また、〈私〉もこの時点ではあからさまにそれを不満に思うわけではない。震えるほど寒い中を待たされても、抱きしめられれば許してしまう。〈私〉のことを気遣ってくれる優しい人だと思ってしまうのである。今ならこの逆説的な心理はDVにおける共依存の関係から類推できるであろう。〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という歌詞はそういう観点からも理解できる。

 

 歌詞の2番をみていこう。

〈貴方〉は〈二十四色のクレパス〉を買って〈私の似顔絵〉を描く。だが、それが〈ちっとも 似てない〉という。〈うまく描いてねって 言ったのに/いつもちっとも 似てないの〉という。絵をうまく描くことと、それがモデルに似ていることとは別のことである。そうでなければ、ピカソは絵が下手ということになってしまう。ただここは、そういう絵画論を述べているのではなく、素朴なしろうと理論として、うまく描けばモデルに似るはずだという前提で語られている。〈貴方〉が美大生なら独自の美的感覚を持っているのであろうが、そういう特殊な状況ではない。美大生なら画材は身近にあるはずなので、わざわざ〈二十四色のクレパス〉を買うこともない。ふだん絵なんか描かない人なのに、ふとした思いつきあるいは気まぐれに買ってきたからあえて述べているのである。

 クレパスというのはサクラクレパスが大正14年に開発した商品である。誰でも子どもの頃使ったことがあるだろう。クレパスとクレヨンとは違うが、私の周辺では、クレパスもクレヨンと呼んでいた。クレパスは基本的に子ども向けの画材で、絵の具を使って絵を描く前の段階で、簡単に使うことができる画材である。大人が使ってそれなりにしっかりした絵を描くこともできるが、色を混ぜたりハッチングしたり高度な技法が必要だ。子どもは塗り絵のようなベタ塗りしかできない。

 〈貴方〉も子どもの頃親しんだクレパスを買ってきたのだろう。だがそこは大人なので色数の多い24色にした。子どもの頃はベタ塗りしかできなかったが、大人になったのでもう少しましな絵が描けるのだろうと思ったのかもしれない。だが24色あっても描画技術がなければうまい絵は描けない。頭の中で思っていることは、現実化するとやはり無理だった。大人になれば自然にできるようになっていることと、そうではないことがある。技術は訓練しなければ自然には身につかない。

 会話にすればこんなふうだろう。

 

「なぁにクレパスなんか買ってきて」

「ちょいと仕事帰りに画材屋で見かけてね。前から絵を描いてみたいと思ったんだ」

「あなた絵なんか描けるの」

「馬鹿にしたもんじゃないさ。24色もあれば何でも描けるよ。子どものときは12色しかなかったからね、あれじゃ決まりきった記号のような絵になってしまう。24色あればリアルに描けるはずだ。どれ、君を描いてやろう」

「うまく描いてね」

「サラサラサラッと・・・」

「描けた? なにこれ・・・」

「おかしいな。もっとうまく描けると思ったんだけど。なぁに、毎日描いていればそのうちうまくなるさ。なんとかなるよ」

 

 〈24色のクレパス〉を買うことは、子どもとはちがう画材を持つことであり、つまりは大人になることである。年齢にあわせた色数と考えれば、24色とは24歳のことだといえるだろう。だがたんに色数が増えただけでは、年を重ねただけでは、うまく絵を描くことはできない、うまく生きることはできない。それを思い知る。

 うまく絵が描けないということは二人の生活の比喩としても読める。もう少しまともな生活ができるようになるかな、なかなか難しいね、という実感はやがて、不甲斐ない自分、という個人に向けられることになる。

 〈うまく描いてねって 言ったのに いつもちっとも 似てないの〉という部分は、1番の歌詞の〈一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が待たされた〉に対応している。相手に対する要望を述べても、〈いつも〉叶えられないのである。〈貴方〉は〈私〉の願望を叶えられるほどの実力を持った男ではない。

 この部分はまたお互いのわかりあえなさの表現にもなっている。銭湯に同時に行っても、中で男女に分かれて、出てくる時間が一致しないというのは男女のわかりあえなさを表している。絵を描いても〈私の似顔絵〉が〈ちっとも 似てない〉というのは、絵の技術の有無というより、〈私〉のことをよく理解できているかどうかということであり、個人同士のわかりあえなさを意味している。ただ〈二十四色のクレパス〉は〈私〉のことを理解する媒介となる道具であったので、それを〈貴方はもう捨てたのかしら〉と思うことは、「貴方はもう私のことを理解するつもりがないんでしょうね」ということだろう。

 

 次の歌詞は一転して視点が切りかわり、〈窓の下には神田川/三畳一間の小さな下宿〉となっている。

 ここで〈窓の下には〉とあるのは、自分たちの部屋は2階にあるということだろう。1階であれば「窓の向こうは神田川」となるはずだ。いずれにせよ、これは俳句的な取り合わせである。私は芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の河」という句を連想したが、この歌詞も、神田川という東京を代表する河川の一つと、〈三畳一間の小さな下宿〉という、大きなものと小さなものを対比している。自分たちがいるのは〈三畳一間の小さな〉世界だが、窓を開ければすぐそこには東京を横断して流れる神田川が流れている。小さな世界が、大きな世界につながっている感覚。

 もっとも、この歌が出た当時、高度成長期の神田川は汚い川として知られていた。生活雑排水や工場からの排水で臭いドブ川となり、「死の川」とも呼ばれた。下宿の部屋は小さく、窓を開けても汚いものに囲まれている(それらは都会の活力の負の側面を象徴している)。そういう生活しかできないということで、わびしさを相乗するために書かれたのかもしれない。

 神田川の汚さは今では改善されてきているし、神田川=汚い川という知識は、当時の川沿いの住人に限定されたものである。そうした歴史的でローカルな知識がないと「神田川」という歌が理解できないものであれば、当時もヒットしないし、現在では理解できない歌になってしまうだろう。だがそうではないのは、神田川/三畳一間の下宿の対比が、大きな自然と小さな人間の営みの対比として解釈できるからである。

神田川が汚い川であることは次を参照した。)

https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/08/kandagawa-ayu-sake_n_11398556.html

https://dailyportalz.jp/kiji/170424199417

 

〈貴方は私の指先見つめ/悲しいかいって きいたのよ〉

 ここでは〈三畳一間の小さな下宿〉から、さらにもっと小さな〈私の指先〉へとカメラがフォーカスされる。〈貴方〉は〈私〉の顔ではなく指先を見つめる。顔を見ることは〈私〉と正面から向き合うことだ。〈貴方〉は〈私〉の顔を描くのに失敗した。〈私〉と正面から向き合うことは自分の力量を超えている。だから〈私〉の一部である指先へと目をそらし、〈悲しいかいって きいた〉のである。〈悲しいかい〉という本質的なことをストレートに聞くには目をそらさなければならなかったのである。

 〈悲しいかい〉と聞かれて〈私〉は何と答えたのであろうか。それは記されてはいない。〈貴方〉が〈悲しいかい〉と聞いたのは、〈私〉がそう感じているはずだと思ったからであろう。ドブ川の匂いが漂ってくる狭い部屋で貧しい暮らしをさせているのは自分のせいである。その自分についてくるのは〈私〉が選んだことである。語られるのは、一緒に銭湯にいったり、似顔絵を描いてもらったりと、本来楽しいはずのエピソードである。だが一緒に銭湯に行ってもいつも待たされるし、似顔絵を描いてもらっても下手くそである。〈貴方〉と〈私〉の関係はどこかしっくりしない。二人はうまくやっていけないという予感のようなものが語られている。

 〈悲しいかい〉という問いかけは〈私〉には微妙にズレたものだっただろう。〈私〉が感じているのは、「悲しみ」という感傷的なものではなく、〈若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった〉とあるように「恐れ」をめぐるものなのである。エクマンの6つの感情理論でも「恐れ」と「悲しみ」は別のものである。この点でも〈私〉と〈あなた〉の感覚はズレている。〈あなた〉は空想的で〈私〉は現実的だ。

 

 この歌には、明言されはしないものの、不安な感じが漂っている。既に述べたところもあるが、まとめておく。

 

(1) 銭湯から出て、いつも待たされたというのは、銭湯で男女で別れるとそれぞれはブラックボックスとなって、同じことをしても結果のタイミングが一致しない。これは男女間でのわかりあえなさを意味している。

(2) 風呂上がりの体が冷えて震えるというのは、将来への不安を意味している。〈貴方〉が示す〈やさしさ〉はその場をやりすごす方便でしかない。

(3) 風呂に行くのも似顔絵を描くのも二人きりの行為である。ここには、ベースになる共同体がなく、二人きりで世界に投げ出されている感じがある。70年代は過激な時代のあとに到来した「やさしい青年の時代」であり、個人主義が進んだ時代である。「やさしさ」も個人間の繋がりである。なんの強制もなく、簡単に切れやすい。

(4) 似顔絵がちっとも似ていないというのは、個人同士でのわかりあえなさを意味している。絵を描くという行為は対象をよく見ることでもある。その絵が似てないということは、相手のことをよく見ることができていないか、それを表すにふさわしい道具や技術を持っていないということである。

(5) 神田川と小さな下宿の対比は、世の中に対して、自分たちがいかにちっぽけな存在、無力な存在であるかということを示している。

 

 不安に包まれているとはいえ、救いもある。〈窓の下には神田川〉というのは、二人の世界の閉ざされは強固ではないことを意味している。二人は地下室に閉じ込められているのではない。窓を開ければ外には広い世界がある。二人の閉ざされた世界の希望が窓に象徴されている。ただ、世界とつながる川は少し下にある。その点、隔たりがある。

 

10

 歌詞の2番まで読み終えたので、あらためて全体を見てみると、この歌が額縁ソングになっていることがわかる。1番は〈貴方はもう忘れたかしら〉、2番は〈貴方は もう捨てたのかしら〉と始まっている。そして〈貴方のやさしさが 恐かった〉と締められる。どこかにいる〈貴方〉への語りかけを枠として持っていて、過去の思い出がその中で綴られる。

 〈貴方はもう忘れたかしら〉というのは、〈貴方〉はどうか知らないけど、〈私〉はまだはっきり覚えているということである。この過去はどのくらい前のことなのだろうか。語りの「今」は、それから何年たっているのだろうか。それを考える手がかりは〈貴方は もう忘れたかしら〉の〈もう〉にある。

 〈もう〉とはどういう意味か。ネットにある辞書として詳細に記しているウィクショナリー「もう」の項目にはいくつか書かれているが、関係しそうなのは次の2つだ。

 

(1)〔完了したことや状態が変化してしまっていることを表す〕 もはや。すでに。(例文、社長はもう帰りました。)

(2)〔話者から見て時期尚早であると感じられる様を表す〕はやくも。強勢を置いて発音される。(例文、いま泣いたカラスがもう笑った。)

https://ja.wiktionary.org/wiki/もう

 

 (1)の用法の中には(2)のニュアンスも含まれている。〈貴方は もう忘れたかしら〉という文の〈もう〉は、意味としては(1)であるが、ここには(2)の「話者から見て時期尚早であると感じられ」るというニュアンスも含まれている。

 ではその忘れるにあたって「時期尚早」というのはどのくらいの期間なのか。「こういうことがあったよね」と話しかけられた場合、「そうだよね」という返事がくるのか、「そんなことあったっけ?」と返されるのか。前者は記憶として残っているが、後者はすっかり忘れている。思い出されているのは日常の反復的なエピソードであり、特に強い印象を残すものではない。何気ない一コマが忘却の淵に沈まずに記憶に留まるのは2,3年であろうか。2,3年前の習慣的な出来事を問いただすのに〈貴方は もう忘れたかしら〉という言い方をするのはなじまない。「まだ覚えてるよね」という言い方のほうがふさわしい。これが5,6年経過するとさすがに日常生活の細部は記憶から抜け落ちて〈もう忘れた〉ということになるだろうし、10年経過していれば「時期尚早」の〈もう〉は使えない。〈もう〉を使うのに2,3年では早すぎるし、10年では遅すぎる。5,6年というのが私の見立てである。語り手がこの思い出を語っているのは、その出来事が起きてから5,6年経ってからではないかと推測する。そしてその出来事は〈私〉にはなぜだか「忘れえぬ」ものだけれど、〈貴方〉にとってはどうなのかわからないという極めて私的な性質のものである。

 語られる過去は同棲生活である。では何歳頃のことだろうか。同棲であるから結婚はしていない。語り手は口調からして女性である。この歌が発表された1970年代前半において、女性の平均初婚年齢の推移を見ると、1973年の時点では24.3歳である。そこから5,6年遡れば、想起された現在では20歳前後ということになろう。2人とも大学に通っていれば、学生の同棲生活ということになる。学生時代が終わって、二人は離れ離れになり、女性が結婚を前にして、当時のことを思い出している、という歌なのだろう。

 これはこの歌が制作された際の作詞家のエピソードと一致している。手早くWikipediaの「神田川 (曲)」の項を参照しよう。次のようにある。

「南から作詞を依頼された喜多條は当時25歳で、早大を中退したのち放送作家として売り出し中だった。彼はタクシーで早稲田通りの小滝橋を通りがかった時、神田川の河川整備をする都庁職員を目にし、19歳の時に1年間だけ早大生の髪の長い女学生と三畳一間のアパートで同棲した日々を思い出した。」

 一方、語りの「今」において〈貴方〉がどうなっているかは伺いしれない。歌詞のなかに手がかりはない。ただ、〈貴方〉との生活を懐かしんでいるものなので、嫌な別れ方をしたのではないだろう。

 この二人の暮らしはどういうものだったかというと、一緒に銭湯に行ったとか、似顔絵を描いてもらったとか、一見ほのぼのしたものなのだが、〈貴方は私の からだを抱いて/冷たいねって 言ったのよ〉〈貴方は私の指先見つめ/悲しいかいって きいたのよ〉とあるように、〈冷たい〉〈悲しい〉といった言葉で直視しなければならないような現実があった。この〈冷たいね〉〈悲しいかい〉は、いずれも〈貴方〉の言葉の引用であり、〈貴方〉の言葉が出てくるのはこの2箇所だけである。〈貴方〉はトボけた感じの人のように見えるが、本質を直視したことを言う人でもある。むしろ〈私〉のほうが、〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というまとめ方をするような熱さがあった。

 〈私〉の語りからは、恨み節のようなものは感じられない。貧しいけれど不幸ではなく、楽しい思い出として振り返られている。同じ作詞者の「赤ちょうちん」(作詞、喜多條忠、1974年)では、貧乏暮らしは〈そんな生活(くらし)が おかしくて〉という受け取り方をされている。この客観性も〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉という余裕からくるのだろう。だが、若くなくなったらどうなるのか。いつまでも続けられる生活ではないということだ。

 〈貴方はもう忘れたかしら〉というのは、どこかにいる〈あなた〉への問いかけというより、〈私〉の記憶を引き出すための独り言みたいなレトリカルなものとも言える。〈私〉が過去を回想するのは、たんに懐かしむため以上のものがある。〈私〉の現在は語られないが、それは反語的に語られている。つまりあの頃のように不幸を〈何も恐くなかった〉と蹴とばせる強さが欲しいということだ。おそらく数年前の出来事を〈あの頃〉と感じるほど、昔の自分と今の自分は落差があり、かつては元気があったけど、今は生命力が枯渇してきていると感じているのかもしれない。

 バンバン「いちご白書をもう一度」(作詞、荒井由実、1975年)には、〈就職が決って 髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね〉とあるが、ここでは、就職によってひとつの若い時代の終わりという切断線が引かれている。会社に従うことで、自由を奪われる感覚が生じる。「いちご白書をもう一度」は、四畳半的なものと決別したときに残る哀しみを歌っている。過去を思い出して、〈君もみるだろうか〉という問いかけがあるのも似ている。作詞したユーミンは「神田川」を四畳半フォークと言ったが、同じような歌を作っているのである。

 神田川」の語りの「今」において、〈貴方〉がどうなっているかはわからない。一方、語られている「過去」においては、逆に〈私〉のことがよくわからない。「過去」において、二人の関係はどのように描かれているのか。

 次のような箇所では、〈貴方〉のすぐあとに〈私〉が出てくる。

 

・貴方は私のからだを抱いて
・貴方が描いた 私の似顔絵
・貴方は私の指先見つめ

 どれも行為の主体は〈貴方〉で、〈私〉は作用を受ける側で受動的である。この歌では〈私〉は語り手で、思い出す主体ではあるのだが、そこで回想される内容はどれも〈貴方〉の行為が〈私〉へと作用を及ぼしていることばかりで、方向が一方的である。〈私〉も〈貴方〉に、風呂を上がるタイミングは合わせてくれとか、似顔絵はうまく描いてくれといったお願いはするのだが、それらは〈いつも〉叶えられない。「神田川」の回想される過去において、主役は〈あなた〉であり、〈私〉はその観察者であり脇役である。一人称の語りは、〈私〉が観察者になって周囲の人物の挙動を語るのに向いている。この歌もそういう歌である。

 回想された過去においては、その「世界」を作っているのは〈貴方〉で、〈私〉は添え物である。〈私〉は銭湯あがりに寒いなか待たされても抱きしめられれば文句も言わず、下手な似顔絵を描かれても怒らず、三畳一間の貧乏暮らしでも不平は垂れない。〈あなた〉のやることなすことに従っていた。これが理想の女だとばかりに主体性がない。〈私〉はお人形さんみたいに意志がなく、〈あなた〉のいい加減さにつきあわされていた。「神田川」を敷衍した「赤ちょうちん」も枠形式で過去の回想が大部分を占めるのだが、こちらの男性も刹那的な生き方をしていて、それにつきあわされる女性は〈そんな生活(くらし)がおかしくて あなたの横顔見つめてた〉と観察者になっている。

 

11

 この歌でよく議論になるのが終結部分の歌詞である。〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉のあとに、〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉と続いていて、「やさしさが恐いってどういうこと?」とよくわからないままストンと終わっている。

 この部分は謎めいているので、いろいろ考察されているし、作詞者もそれに答えるべく自作について度々コメントしている。前にテレビで放送したときは(『驚きももの木20世紀』「神田川伝説」1995年8月25日)、ここだけ視点が男女入れ替わっていて、女性がやさしくしてくれるから自分はだめになってしまうのが怖い、というようなことであった。ネットを見てもそんなような事が書いてある。(「BS朝日 うたの旅人」https://archives.bs-asahi.co.jp/uta/prg012.html

 この部分だけ取り出せばわからないでもない。例えば松山千春の「銀の雨」(作詞、松山千春、1977年)にも、〈これ以上私が そばに居たなら/あなたがだめに なってしまうのね〉〈せめて貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉とあって、同じようなことを言っているし、女性に母親を見出す傾向があることは似ている。

 だが「神田川」の場合、前後のつながりがよくないのである。歌詞を通して読んでみても、書かれたエピソードからは、なんとなく不安であることや、そこはかとない悲しみは伝わってくるものの、〈貴方のやさしさが 恐かった〉ということには素直につながってゆかず、唐突感を否めないのである。最後の部分だけ男性視点の歌詞をくっつけたというのは乱暴すぎるし、作品の展開や内的な論理をあまりに無視している。同じ〈貴方〉という言葉が使われていれば、別の人だとは思わないし、男女がそこだけ入れ替わっていると言われても、歌詞として破綻していることになってしまう。作家主義の批評家でもそれを採用するのは苦しいと思うだろう。

 また、別の機会に作詞者は、そもそもこの歌の語り手は男性なのか女性なのかよくわからないとも言っている。当時は男性も女性みたいな長髪が多かったから外見は勘違いしやすかったかもしれない。(出典は書かれていないが、以下のブログに記載あり。https://otokake.com/matome/9yxVqR?page=2)

 だが、この歌の語り手が男性なのか女性なのかわからないとまでいうのは無理がある。〈私〉の言葉遣いは〈貴方はもう忘れたかしら〉〈いつもちっとも 似てないの〉と女性語だし、〈貴方〉のほうは〈悲しいかい〉と男性語。〈貴方は私の からだを抱いて〉というのも〈貴方〉が男性であることを思わせる。叙述トリックのミステリーみたいなことを言うのは、作詞者自身、つじつまをあわせるのに苦労させられているということなのだろう。

 この歌詞は、作ったときに南こうせつに電話で伝えて、こうせつは聞き取りしながら曲をつけていったという逸話がある。そのとき歌詞としてかっちり固まっていたのだろうか。この部分がどういう構成を考えて書かれたものか曖昧だったのかもしれない。

 創作経緯を推測すれば、〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というのは総括的な言い回しである。貧しかったけれど、若さゆえ恐いものがなかったと。もしかしたら、元の歌詞はそこで終わっていたのではないか。だが、こうせつが作曲して、言葉が足りないからもう少し書き足してくれと言われて、急遽〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という部分を付け加えたのかもしれない。根拠はない。推測である。

 〈若かったあの頃 何も恐くなかった〉というのは常套句である。そのあとに何か気の利いたことを続けるとしたら、常套句をひっくり返すために、〈何も恐くなかった ただ○○が恐かった〉という形を導き出し、その〈○○〉を何にしようかと考えて、意外なものにしよう、怖そうではないものを恐いと逆転してみようと考えて、〈やさしさが恐かった〉にしたのかもしれない。この最後のアイロニカルなフレーズによって、全体を支配する感傷にいくぶん苦味が加わって複雑な味わいの歌詞になった。

 作詞者も説明に苦慮するような〈ただ貴方のやさしさが 恐かった〉という部分は、歌詞の語り手である〈私〉が、書き手も意図しないことを勝手にしゃべりだしたように思えるポリフォニックなものになったと言える。〈私〉は年数を経ることで自立性を増し、過去の〈貴方〉と対話的関係になることができた。同時に、作詞者とも対話的になりえたのである。

 

世界の構築性 佐良直美「世界は二人のために」、小坂明子「あなた」~君僕ソング(その9)

9-1

父■〈僕〉と〈あなた〉はセットで出てきても存在論的に対等ではないことがある。ちょっと時間をさかのぼることになるけど、僕が生まれた1967年に佐良(さがら)直美という人がデビューして、「世界は二人のために」(作詞、山上路夫)という歌が大ヒットした。

佐良直美「世界は二人のために」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001f9d/l004ca9.html

娘□また昔に戻っちゃった。なんかおノロケっぽいタイトルね。この「世界」って、アメリカとかイギリスとか中国とか諸々の国々のことではないでしょ。

父■そんな独裁者の歌じゃないよ(笑)。このタイトルは反語ととらえることもできるし、独我論的なものととらえることもできる。もう一つ「あなた」もキーワードだね。この歌では、〈空 あなたとあおぐ 道 あなたと歩く/海 あなたと見つめ 丘 あなたと登る〉というように、何をやるのも〈あなた〉と一緒だ。

娘□恥ずかしいくらい、めっちゃベタベタしてる。つきあい初めか、新婚さんいらっしゃーいって感じ? あたしには息苦しい。もうちょっと一人の時間がほしい。

父■ベタベタさは聞いているこちらが赤面するくらいのものなんだけど、これはあえてそうしているものだから。いわばポエム的極限を想像して書いている。恋愛初期の全能感があふれている。二人で一緒に経験するのが新鮮な喜びであるということは、逆に言えば、それまでは深い孤独だったってことだろう。

娘□だから喜びも大きいわけね。幸せすぎてちょっと不安になるくらい。でも別に、好きとか愛してるとか言っているわけではない。ただ二人で一緒にいるだけで、それ以上の過剰な思いが伝えられるわけではない。Jポップにも〈二人〉という言葉はよく使われているけど、二人で同じものを見て、二人で同じ経験をするっていうのが最近の恋愛で、好きとか愛してるとか気持ちをグイグイ押し付けてこない。一緒にはいる。けど何センチか離れてもいる。

父■でもそれは存在論的に対等というわけではない。この歌の歌詞を見てご覧。〈あなた〉というワードは16回出てくる。対して〈私〉は1回だね。〈あなた〉と〈私〉の出現回数は極端に違う。この歌の〈私〉の少なさはどうしてなのか。

娘□〈空 あなたとあおぐ/道 あなたと歩く〉とあるところの〈と〉が何を意味するのか。この〈と〉は「あなたと私」ということでしょ。〈私〉は隠されているだけで、実は〈あなた〉が出てくる回数だけ出ていることになる。「世界は二人のために」あるというのは、この〈世界〉は〈あなたと〉の共同主観的なものということじゃないかな。

父■でも、この〈あなた〉には主体がたちあがるほどの存在感はないよ。字面としては〈私〉は隠されているけど、本当は強固に存在しているのは〈私〉だけで、〈あなた〉を含めこの「世界」は孤独な〈私〉が作り出した幻想なのかもしれない。〈二人のため世界はあるの〉と歌うけど、実は内容的には「広い世界の中で誰にも邪魔されず二人でいる」ということで、ガラガラの店に行くと「今日は貸し切りだね」って言うのと同じ。〈私〉が作った世界だから、必要のないものは存在しない。

娘□恋愛しているときは周りが見えなくなるっていうわよね。

父■〈私〉は登場回数が少ないから影が薄いのではなく、逆に、認識の中心として強い権力をもっているから出てこない。この世界は〈私〉が構築している独我論的な世界。『世界の中心で、愛をさけぶ』ってあったよね。自分が「世界の中心」にいるという感覚は、自分の意識があるから世界が存在しているということからくるんじゃないかな。自分が死んだら、同時にこの世界も終わる。認識の主体は〈私〉で、その〈私〉の目はいつも〈あなた〉をとらえている。「図と地」の図式でいえば、〈空〉とか〈道〉とか一般名詞で表されるものは舞台の書割にすぎなくて、それは背景としての「地(=世界)」で、〈あなた〉が「図」として屹立している。〈二人のため世界はあるの〉というのは、〈あなた〉の格付けが〈私〉と同じところまで高くなっていることを意味している。〈あなた〉は〈私〉の影のように都合よくどこにでもたち現れる。とはいえそういう格付けも〈私〉が行っているわけで、〈あなた〉はとても重要ではあるけれど、〈私〉によって作られた世界の構成要素の一つにすぎない。

娘□あたしの感覚だと、その「世界」は〈私〉がプレイするゲームの中の世界みたい。道があって丘があって〈あなた〉がいて、〈私〉の目がそれを追いかけている。一人称視点のゲームで、〈私〉=プレイヤーは画面に出てこない。

父■ゲームの区分にFPSとTPSがあるね。FPSは一人称視点のシューティングゲームで、TPSは三人称視点のシューティングゲーム。この歌はFPSだ。プレイヤーが画面に映らないように歌詞にも〈私〉は出てこない。1回出てくる〈私〉は、〈いま あなたと私〉というふうに対象化された〈私〉にすぎない。〈あなたと私〉と並べられてはいるけど、両者の間には存在論的に深い断絶がある。〈私〉は世界を支配する視点人物で、〈あなた〉はゲームの中で生きているキャラ。

娘□最近の歌は〈あなた〉と同じくらい〈私〉が出てくるわね。

父■この歌は〈私〉に見えるものを歌うから〈私〉は出てこない。一方、Jポップは自分の意識を歌う「自分語り」が多いから、必然的に〈私〉や〈僕〉が多くなる。でも〈私〉というのはそんなに強固にあるわけではなく、フラフラしているもので、〈私〉とは何かというのは、〈あなた〉によって反照的に規定される。さっきのUru「あなたがいることで」もそうだよね。〈私〉は語り手であっても、あらかじめそんなに確固たる存在ではなく、〈あなた〉との関係でしっかりした存在になる。見えるものを歌っていくと世界を構築していく方向になり、一方で、自分の意識の流れに注目していくと〈私〉や〈僕〉といった言葉がたくさん使われるようになって、世界を構築する力は弱くなる。

娘□この歌はすごい幸せかというと、そうでもないんじゃない? 今が幸せのピークであとは幸福感は減少していく。だって〈あなた〉といても特に何かをするわけではない。ただ一緒にいるだけで幸せ。そういう状態は長くは続かない。

父■一緒にいて特に幸せだと感じなくても、また別の境地が待っているからそれはそれでいい。ただ、僕は聞き手としてこの歌に入り込めなかった。この歌は〈あなた〉という人が操り人形みたいで主体性がなく、〈私〉に引きつられているだけで存在感がない。〈私〉が作った世界だから、〈私〉の意識のほつれによって簡単に世界が瓦解しそうな脆弱さをはらんでいる。

娘□〈私〉の想像で閉じていて、他者が存在していないのね。

 

9-2

父■「世界は二人のために」における世界の構築性をもっとはっきり歌った歌がある。小坂明子の「あなた」(作詞、小坂明子、1973年)。これも〈私〉によって構築された世界だ。ただ「あなた」の世界は〈家〉にまで縮小限定され、逆に具体化されている。「世界は二人のために」に出てくるのは〈空、道、海、丘〉という分類にすぎないけど、「あなた」のほうは〈子犬、じゅうたん、坊や、編みもの〉と具体的、個性的になっている。ゲームで言えば画面の精細度が上がっている。

娘□タイトルからして「あなた度」が濃厚そう。

小坂明子「あなた」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001ccb/l0047f9.html

父■〈もしも私が家を建てたなら〉と歌うから住宅のCMに使えそうなんだけど、〈小さな家を建てたでしょう〉と続くから難しい。安月給のサラリーマンがカラオケで歌ったら身の丈にあったマイホームだと揶揄されそうだ。

娘□歌の編曲はゴージャスだから豪邸の感じがするんだけど。

父■少女マンガの背景が花で飾られるようなものなのかな。Wikipediaの「あなた」の項目には、「最初のイントロを聴いた小坂が「これは私の作曲のイメージとは違います。もっとスタンダードジャズのようにおごそかな静かなイメージで世界歌謡祭はアレンジを変えて下さい」と依頼した」とある。ユーチューブに小坂がピアノの弾き語りで歌っている映像があって、シンプルなほうがこの歌にあっていると思った。

娘□女の子は、豪邸じゃなくても好きな人がそばにいてくれるだけで幸せな気分になれる。編曲のゴージャス感は、少女が夢見る幸福はこのくらい大きいっていう編曲者の解釈なのかも。

父■歌詞でだれもが驚くのは〈もしも私が家を建てたなら〉って女子高生が想像するところ。「私はこんな家に住みたい」って言うのではなく〈家を建てたなら〉だからね。親から独立して建てた家に、結婚した旦那さんと子どもまでいる想像をするんだから早熟だ。河原の土手に二人で腰掛けて隣でずっと笑っていて欲しいという、よくある歌がビンボくさく思えてくる。〈あなた〉のために家まで建てて、そこに囲っちゃうんだから。僕も新聞の広告に戸建てやマンションの間取りが書いてあると、それをじっと眺めて自分が生活することを想像してみるのが好きなんだけど。

娘□もしも私が総理大臣ならこんな国にしたい、っていう歌があってもいいかも。財務大臣には誰々さんを据えて、消費税は15%にするのよとか、替え歌を作ったら面白いじゃない。

父■たぶんもうあるよ。

娘□でも、あたしが国家について歌を作ったとしても、あたしの問題意識に引っかかってくることって身の回りの小さなことばっかりだと思う。バイト代の時給900円が1000円に上がったら何に使うか想像できるけど、1億円や1兆円の使いみちはわからない。この歌も、家という枠組ではあっても〈私〉の想像力の範囲を超えていないでしょ。

父■歌詞は、暖炉、子犬、じゅうたん、坊や、編みものという、〈私〉にとっての幸せの記号を集めたものになっている。もし、書き手が男の子だったら、子犬や編みものの代わりにプラモデルやサッカーボールになったかもしれない。あるいは〈小さな家〉ではなく「大きな球場」を作りたいというかもしれない。

娘□自分の好みのものが集められ、しかも〈小さな家〉だからそれらがギュッと詰まった状態になっている。〈小さな家〉からは、幸せを感じさせるもの意外は排除されている。16歳の女の子が作った歌だから考えつく限りの幸せなものを詰め込んだとしても少しのスペースで収まってしまう。それが逆にミニマルな暮らしに満足する点で、今ふうかも。あたしも自分の空間を、好きなもの、可愛いものだけで埋め尽くしたい。

父■家を建てるというのはゼロから何かを構築するってことだよね。自分の部屋というすでにある場所を装飾するとか、自分の裁量がきく場所に自分の好きなものを配置するというのとは違う。そういう構築性の強い歌なんだけど、それらに意味を与えているのは何かというと〈あなた〉だ。でも、その肝心の〈あなた〉が不在だよね。1番の歌詞は、〈子犬の横には あなた あなた あなたが居て欲しい/それが私の夢だったのよ/いとしいあなたは 今どこに〉とあって、2番では、坊やの横にはあなたが居て欲しい、3番では、私の横にはあなたが居て欲しい、と歌う。子犬や坊やがいて私がデッキチェアでレースを編んでいたとしても、幸福の源泉である〈あなた〉がいなければ、全てが雲散霧消してしまう。

娘□〈それが私の夢だった〉と過去形だから、すでに雲散霧消しているのよ。大好きだった人に失恋でもしたんじゃない? 想像力の中では何でもできるお姫様だけど、この歌はふと現実を垣間見ているのよね。一瞬にして想像の家は蒸発してしまう。幸福は想像の中だけでは完結しないことがはっきりしている。

父■私の家は〈あなた〉という空虚を中心に成り立っている。〈あなた〉は子犬や坊やと対等な存在ではなく、家を成り立たせる特権的な存在だ。だが、その中心たる〈あなた〉は不在。〈あなた〉と呼ぶ声(シニフィアン)は宙に漂うばかりで、それにあった内容(シニフィエ)がない。この歌はいっけん明るいけれど、そういう空虚さが漂っている。

娘□神社を作ったけど、肝心のそこで祀る神様が勧請されていないのね。〈あなた〉が不在なら、そもそも〈家を建てたなら〉なんて想像をしなければよかったのに。わざわざ想像しておいて肝心の〈あなた〉がいないなんてオチじゃ、虚しさを自分で作り上げていることになる。般若心経の「色即是空、空即是色」の認識を練習しているみたい。さっきの「世界は二人のために」も、なんだか夢のなかの出来事を歌っている気がするけど、〈あなた〉の不在までは想到していない。その点「あなた」のほうが進化している。「あなた」はいわば「小さな家は二人のために」という歌でしょ。

父■これまでふれてきた「あなたがいることで」「世界は二人のために」「あなた」に共通しているのはモノローグ的だということ。「世界(家)」を作っているのは〈私〉で、〈あなた〉はその中の登場人物。登場人物がどういう人かは語り手である〈私〉によって決められており、自己主張しない。奥深さを欠いている。〈私〉と〈あなた〉が出てきても、その関係は対等ではなく、〈あなた〉は道具的に扱われている。しかし〈あなた〉なしでは「世界(家)」は存在しえないから、〈私〉に構築力のマジックを与えてくれたのは〈あなた〉だったことがわかる。〈私〉は〈あなた〉に依存している。だからその〈あなた〉は〈私〉の頭の中にいるだけでは駄目なんだ。〈私〉がふと現実に思いを馳せた途端全てが消滅してしまうからね。君の比喩で言えば、ゲームの画面から顔を上げて現実を見回したとき、孤独であることが返って痛感させられる。現実への足がかりが必要で、空白の〈あなた〉の場所に頭の外から誰か来てもらわなければならない。

娘□このあいだ、ライアン・レイノルズの『フリーガイ』っていう映画を見たんだけど、ゲームのモブキャラが自意識を持つようになって、主人公になろうとする話だったんだよね。人工知能が進化し始めたっていうことなんだけど、今の歌で言えば「あなた」に出てくる〈あなた〉が勝手に発言しだしたら、こぎれいにまとまっていた世界が歪んできちゃうんじゃない? つまり、現実において〈あなた〉に相当する人が出てきてダイアローグになったら、自己完結していた少女趣味の想像が成り立たないってことに挫折させられるかも。

父■「世界は二人のために」とか「あなた」は、女性が主人公の歌だよね。さだまさしに「主人公」(作詞、さだまさし、1978年)という歌があって、これは長らくさだまさしの人気ナンバーワンの歌だったんだけど、〈あなたは教えてくれた 小さな物語でも/自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という歌詞が、平凡に生きる女性たちに力を与えた。「あなた」における〈小さな家〉というのは、「主人公」における〈小さな物語〉に該当するんだろうな。「主人公」では〈時折思い出の中で あなたは支えてください〉とあるように、〈あなた〉は〈私〉の想像の内部にいることがはっきりしている。外部に手がかりがあれば、想像の内部でも人は励まされることはある。外部の手がかりがあることの重要性は荒井由実の「卒業写真」でもわかる。

娘□今は女性活躍社会だから、あたしには「主人公」の歌詞は古いなあ。自分の人生だけじゃなくて、社会でも主人公にならなきゃね。

Uru「あなたがいることで」だまし絵の歌詞 ~君僕ソング(その8)

娘□これまで読んできたフォークとかニューミュージックとか「ルビーの指環」とかって4,50年も前の歌でしょ。最近の歌では人称代名詞はどうなっているのかな。このところ、Uru「あなたがいることで」(作詞、Uru、2020年)が好きでよく聞くんだけど。

Uru「あなたがいることで」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a04b107/l04f281.html

父■ああ、テレビドラマの主題歌になってたやつだね。

娘□『テセウスの船』というミステリーで、過去にタイムスリップして歴史を変えようとするもの。自分の父親が大量殺人の犯人として服役中で、息子が事件の直前にタイムスリップする。

父■『僕だけがいない街』とか『東京リベンジャーズ』とかもヒットしたけど、なんでそういう不思議な現象がうまい具合に起こったのかは説明されない。

娘□そういう能力を持った人だからじゃないの?

父■それは説明すべき事柄を一つ先送りしただけ。

娘□そういう野暮な詮索はしないで楽しむものなのよ。

父■たしかに大量殺人は重大だけど、隠されているのは犯人の動機や方法だけで人間の理解の範囲に収まる。それに比べタイムスリップが起こったことのほうがあらゆる法則を覆す大事件。でもそこにあんまりこだわらず、身の周りの問題の方が重要だってなっちゃう。

娘□設定は前提として受け入れないと。

父■昔はマッドサイエンティストとかがいてへんな装置を発明したとかという、いい加減だけど説明はあった。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか。今はそれも省略されている。靄に包まれたり気を失ったりして簡単に時間を遡る。

娘□なんでタイムスリップしたかなんて誰が考えてもそんなに新しいことは思いつかない。ある日突然そういうことが自分の身に降り掛かったらどういう行動をするかという思考実験なのよ。タイムスリップの仕方じたいに関心があるのではなく、タイムスリップしたあとで何をやるかに関心があるんだから。

父■歌の話に戻すと、この歌はタイトルからしてそうなんだけど、歌詞にもよく〈あなた〉が出てくる。数えてみたら〈あなた〉が9回、〈僕〉が7回あった。他に〈僕ら〉が3回。

娘□そんなにあるんだ。

父■特徴的なのが次のようなところ。

 

・不器用な僕だけど ちゃんとあなたに届くように

・僕はずっとあなたを想うよ

・あの日僕にくれたあなたの笑顔が

・あなたが僕を信じてくれたように

・いつか僕に話してくれた あなたが描いた未来の中に

 

 これらは〈僕〉と〈あなた〉が出てくる位置が近いよね。〈僕〉と〈あなた〉がセットになっている。それで出現率が高くなる。後半になると二人が融合して〈僕ら〉が何回か出てくるようになる。

娘□あらためて言われると〈僕〉や〈あなた〉が耳につくようになる。〈僕〉や〈あなた〉を入れる必要性がどこまであるのかなって。少ない文字数の中で同じ語が繰り返されると気になる。省略できるところがないか見てみるね。えーと、例えば出だしのところ。

 

どんな言葉で/今あなたに伝えられるだろう

不器用な僕だけど/ちゃんとあなたに届くように

 

 これは〈僕〉と〈あなた〉を全部取っ払って、

 

どんな言葉で/今伝えられるだろう

不器用だけど/ちゃんと届くように

 

 としてもほとんど意味を違わずに伝わる。次も同じね。

 

もしも明日世界が終わっても/会えない日々が続いたとしても

僕はずっとあなたを想うよ

 ↓

もしも明日世界が終わっても/会えない日々が続いたとしても

ずっと想っている

 

あの日僕にくれたあなたの笑顔が/生きる力と勇気をくれたんだ

 ↓

あの日の笑顔に生きる力と勇気をもらった

 

あなたが僕を信じてくれたように/次は僕がその手を強く握るから

 ↓

あなたが信じてくれたように/次は僕がその手を強く握るから

 

父■登場人物は〈僕〉と〈あなた〉だけだから、大胆に省略しても意味は伝わる。文字数が空くので違う言葉を入れられる。

娘□〈僕〉と〈あなた〉が多いのは、極端なことを言えば、何か内容のあることを言いたいというよりは、〈僕〉と〈あなた〉という二つの言葉を入れたかったからってことなのかも。

父■たしかに、小坂明子の「あなた」(作詞、小坂明子、1973年)のように、〈あなた〉と繰り返すだけで歌になる歌もある。他にも、〈あなた変わりはないですか…あなた恋しい 北の宿〉という都はるみ「北の宿から」(作詞、阿久悠、1975年)みたいな歌は、〈あなた〉という呼びかけに最大の情感が込められる。

娘□そういう歌は2文字の〈君〉より3文字の〈あなた〉のほうが歌になるわね。〈君〉の母音は2つとも「i」で軽薄な感じなのに、〈あなた〉の母音は3つとも「a」で、歌うとき気持ちを乗せやすい。

父■〈あなた〉の発展形なのかな、80年頃だけど、女性名を歌い込む歌がいくつもヒットしたんだ。「SACHIKO」(ばんばひろふみ、1978年)、「いとしのエリー」(サザンオールスターズ、1979年)、「安奈」(甲斐バンド、1979年)、「順子」(長渕剛、1980年)なんかがそうだ。

娘□サチコやジュンコは和風で、エリーやアンナは洋風ね。下着の広告のモデルってたいてい外人さんじゃない。日本人だと妙に生々しくなっちゃう。それと同じで和風の名前を歌われるのって同級生っぽいというか生活感が出ちゃう。

父■ヨーコ、ユーコ、アケミという名前の歌もあるけど、あだ名や源氏名みたいに軽いほうが歌にはいいかもね。

娘□自分の名前の歌が流行ったらさんざんはやしたてられそうで迷惑すると思う。

父■「サッちゃん」(作詞、阪田寛夫、1959年)は、〈ちっちゃいから〉という理由でいろいろ制限されるんだけど、替え歌にして「○○ちゃんはね」ってよく歌った。「おーい中村君」とか「山口さんちのツトム君」とか、全国の中村さんや山口さんはさんざんからかわれただろう。しつこいとうんざりするよね。倉沢淳美の「プロフィール」(作詞、売野雅勇1984年)という歌は〈アツミ アツミ 呼び捨てにして〉というものだったけど、本人に向かって歌っていたやつがいたな。

娘□脱線してきた。

父■省略についての話に戻そう。人称代名詞ではなく別の角度からの省略だけど、〈弱さを見せないあなたが 初めて見せた涙〉というのは、たんに〈あなたが初めて見せた涙〉で十分じゃないかな。〈初めて〉と言うだけで、これまで〈弱さを見せない〉人だったということはわかる。〈目が合えば笑って 一緒にいれば楽しくて〉というのも〈一緒にいれば楽しくて〉という説明はいらないよ。〈目が合えば笑って〉いるなら、一緒にいて楽しいということは確実だからね。

娘□省略の文学っぽい見方ね。

父■同じような印象をもたらす言い方もいくつかある。〈共に過ごした毎日は かけがえのないものだった〉というのと〈通り過ぎてきた何気ない日々の中に 僕らの幸せは確かにあった〉というのは同じことでしょ。〈明日が見えなくなって〉とか〈もしも明けない夜の中で〉みたいな似たような言い方もある。この歌は似たようなことを反復している。

娘□冗長ってこと? それはそれでいいんじゃない。言いたいことを、少しずつ言い方を変えて言うのが言葉の芸でしょ。

父■〈日〉という言い方も好きなんだな。〈会えない日々、あの日共に過ごした毎日、何気ない日々、笑える日〉などと出てくる。生活とか暮らしということなんだろうけど、ぼんやりした言い方だよね。〈明日〉も3回出てくる。〈明日が見えなくなって、もしも明日世界が終わっても、どんな明日も〉

娘□この歌は韻を踏むように同じ語尾を反復しているのが特徴なのよね。

・明日が見えなくなって/信じることが怖くなって

・もしも明日世界が終わっても/会えない日々が続いたとしても

・目が合えば笑って/一緒にいれば楽しくて

父■そうだね。今あげたのは技法として意図的にやっているよね。

娘□ラップがこれだけ流行ってるから、語尾で洒落っ気をだそうと思わない人はいないでしょう。

父■この歌で二人の関係をよく表している一語があるね。何だと思う?

娘□ん? 〈一緒に〉? 2回出てくるわよ。同じような意味で〈僕ら〉もあって、こちらは3回。

父■〈一緒に〉や〈僕ら〉って対等な二人って感じだよね。この二人の関係って対等なのかな? ちょっと意外に思うかもしれないけど、〈あの日僕にくれたあなたの笑顔が/生きる力と勇気をくれたんだ〉みたいに、この歌には5回も〈くれた〉が出てくるんだよ。

 

1 僕を愛し続けてくれた人

2 あの日僕にくれたあなたの笑顔

3 生きる力と勇気をくれた

4 あなたが僕を信じてくれたように

5 いつか僕に話してくれた

 

 これは二つに分けられるね。2と3は、相手が自分にモノやコトを与える場合。1,4,5は補助動詞で、「てくれる」の形で相手が自分に何かする場合。1から5まで、どれも〈あなた〉が〈僕〉に与えている。〈僕〉は〈あなた〉に何かしてもらっていると引け目のように思っているのじゃないかな。

娘□言われてみれば、そうかも。

父■〈僕〉と〈あなた〉はいっけん対等に見えるんだけど、〈僕〉は〈あなた〉に一方的に与えられてばかりなんだ。それがこの「くれる」の多用によく表れている。ネットの辞書を見ていたら、「くれる」について、「その行為が好意的、恩恵的になされる場合が多い」と書いてあって、この歌の場合は、相手が恩恵のつもりでそうしたというよりも、受け手の側がそういうつもりで受け取ったということだろうね。自分に恩恵として与えられたものだと解釈したわけだ。相手の心を深読みしている部分もあるだろうけど。いずれにせよ自分は与えられる一方なので、今度は自分がお返しする番だということで、〈次は僕がその手を強く握るから〉とあって、この歌はついに自分が〈あなた〉にお返しをするときがきたということをずっと歌っているんだね。

娘□あー、なるほどって思った。この歌はテレビドラマ用に書き下ろされたものらしいの。だから歌詞は物語をふまえて解釈できる。ドラマは父親と息子の絆の話が一つの軸になっていて、歌詞の〈あなた〉というのは主人公である息子から見た父親のこととして読める。そう解釈すればお父さんの今の説明は納得がいく。父親は刑務所に入っているんだけど冤罪を主張していて、〈もしも明けない夜の中で 一人静かに泣いているのなら〉という歌詞なんかはまさにそのことを言っていると思う。ふつうドラマの主題歌って、部分的にドラマの内容に寄せてみる程度のことはするけど、この歌は最初から最後までドラマの内容にあわせてある。その一方で、歌としての自律性もあって、男女の恋愛の歌としても読める。ダブルミーニングというより反転図形になっている歌詞としてみごとに成立している。

父■男女の恋愛の歌だとすると、男のほうが頼りなくて、女のほうがしっかりしていることになるけどね。草食系男子と姉御肌の女性の組み合わせ。標準的ではないけど、ありえなくはない。

松本隆「ルビーの指環」のフェティシズム ~君僕ソング(その7)

7-1 松本隆は人称代名詞を使いたくない

娘□松本隆は人称代名詞を好まないって話をちょこっとしたでしょ。それが気になってるんだけど。

父■ああ、「詩人派」のところね。「君が」とか「僕は」だったら、まだ3文字3拍で済むけど、「わたしの」「あなたは」なんて4文字もとられてしまう。それを他の言葉に使えないかってこと。最近読んだ松本隆の本『松本隆のことばの力』(藤田久美子編、2021年、インターナショナル新書)で松本はこう言っていた。「否定形と人称代名詞は、使わないように気を付けている」として、否定形について述べたあと、こう言っている。

 

「人称代名詞も、言わないで済むのならなるべく使わないほうがきれいな日本語になる。「あなたの」と言うと、音符を四つも使う。貴重な音符を使うのだから、その四つで別なことを言いたい。詞に無駄なことばを使わないのは西洋も東洋もいっしょだが、究極は俳句だろう。」(120ページ)

 

娘□「人称代名詞も、言わないで済むのならなるべく使わないほうがきれいな日本語になる」って、人称代名詞を使わないと、どうして「きれいな日本語」になるの?

父■「きれいな日本語」って曖昧すぎるけど、「無駄なことばを使わない」ほうがいいということが言いたいらしいので、「きれいな日本語」というのは簡潔な日本語ということなんだろう。歌詞は言葉の数に制限があるから、簡潔なほうがいいというのはそのとおりだ。でもそれは、松本隆みたいに言いたいことがたくさんある人の方法論であって、言いたいことがあまりない人は、隙間を埋めるのに使える「君、僕」「あなた、私」を重宝してるんじゃないかな。歌詞を口ずさんで歌を作っていく人も、「君、僕」が多くなると思う。まず口に出てくる言葉だよね、「君が~」「僕は~」って。

娘□書きたいことがないのに歌詞を書こうと思うんだね。

父■書きたいことがない人が書いた歌詞というのも興味深いものだよ。高校生の頃聞いていたアルバムの中の曲でそういうのがあった。フォークデュオの、ふだん曲作りする人「じゃない方」の人が書いたもので、〈藁半紙 机の鉛筆と消しゴムの 無邪気で気ままな 絵踊り〉という歌詞でね。歌い方は面白いけど、歌詞からはまったく何も感じなかった。歌詞を書かなきゃいけなくなって、自分の机の上に乗っているものを見て書いたのかなと思った。小学生のとき、授業で、詩集を作るのでみんな詩を書けと言われて、そうしたら、「消しゴムくんはかわいそう 自分をすり減らしてノートをきれいにしてる」みたいな詩を書いた奴が2,3人いてね、それを思い出した。消しゴムに自分を投影してたのかな。いつも先生に叱られているような奴だった。

娘□藁半紙、机、鉛筆、消しゴムって、人間が作ったもので無機物が並んでる。それが〈無邪気で気まま〉に踊って絵を描いてるのかな。ちょっとシュールな感じがした。実験的な詩。

父■「おもちゃのチャチャチャ」ってそういう歌だよ。〈みんなすやすや ねむるころ/おもちゃは はこをとびだして/おどるおもちゃのチャチャチャ〉(「おもちゃのチャチャチャ」作詞、野坂昭如吉岡治、1962年)。

娘□言いたいことがない人が書いた歌詞って言うけど、その人に言いたいことがあるかどうかなんて、お父さんにはわからないでしょ。

父■それはそうだ。言いたい気持ちを感じ取れない歌詞、と言ったほうがいいかな。

 

7-2 「木綿のハンカチーフ」の人称代名詞と否定形

娘□松本隆は人称代名詞を使いたくないっていうことだけど、実際はどうなの?

父■うん、本当にそうなのか、代表作をいくつか見てみよう。松本隆といえば、まず太田裕美木綿のハンカチーフ」(1975年)だね。

太田裕美木綿のハンカチーフ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000516/l005d33.html

 この歌は、手紙のやり取りのように男女の心情が交互に語られている。〈恋人よ 僕は旅立つ〉と男性が語りかけ、女性が〈いいえ あなた私は 欲しいものはないのよ〉と受ける。歌詞では「あなた、私、君、僕」が多用されている。登場人物が二人きりとはいえ、語り手がめまぐるしく入れ替わるので、誰が誰に向けて言っているのかはっきりさせるためだろう。歌の言葉は耳に入ってすぐ消えていくので、要所に「君僕」をはさまないと聞き手が理解しにくい。この歌を、書かれた詩として読んだ場合は、文脈で理解できて省略できる人称代名詞はいくつもある。

娘□結構技巧的に構築されている歌よね。4番まである長い歌詞だけど、3回とも女性は〈いいえ〉で受けている。他にも〈欲しいものはない、染まらないで、逢えないが 泣かないで、きらめくはずない、口紅もつけない、ぼくは帰れない〉とあって、〈ない〉が多用されている。あれ? 否定形は使わないとも言っていたんじゃなかったっけ?

父■先のインタビューでは「否定形を使うと書きやすいし、お洒落な雰囲気も出る。否定形を多用するヒットメーカーもいるけれど、それを反面教師にしようと思った。(中略)一〇〇%使わないわけにはいかないが、使わなくてはならない最小限度に絞る」(前掲書117-118ページ)と言っているね。「木綿のハンカチーフ」は初期の作品だし、否定形云々のことは、まだセオリーに入れてなかったんじゃないかな。この歌は「変わる人/変わらない人」の対比が主題だから否定形が多くなったんだろう。否定形や〈いいえ〉を重ねておきながら、女性は最後に〈いいえ〉を使わないで応答するところがミソだ。それまでは変わらないでと引き止めていたけど、最後は受け入れたということが鮮やかになっている。この場合の受け入れたというのは諦めたということだけれど。

娘□「否定形を多用するヒットメーカー」って誰なんだろう。気になる。

父■松本隆がヒットメーカーというくらいだから、阿久悠なかにし礼だと思ったんだけど、よくわからない。なかにしには否定を効果的に使ったヒット曲が見当たらなかったので阿久悠の例を掲げてみよう。

 

・別れのそのわけは話したくない…それは知りたくない それはききたくない(尾崎紀世彦また逢う日まで」1971年)

・誰も知らない 知られちゃいけない…何も言えない 話しちゃいけない(「今日もどこかでデビルマン」1972年)

・うつ向くなよ ふり向くなよ…誰も涙を笑わないだろう 誰も拍手を惜しまないだろう…君のその顔を忘れない(ザ・バーズふり向くな君は美しい」1976年)

・だけどぼくにはピアノがない 君に聴かせる腕もない(西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」1981年)

・一日二杯の酒を飲み さかなは特にこだわらず…妻には涙を見せないで 子供に愚痴をきかせずに…目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず(河島英五「時代おくれ」1986年)

 

 阿久悠で否定形を最も効果的に使っている歌詞は「時代おくれ」だろう。ただ、上掲の例では該当作が少なすぎるから、松本隆が「反面教師にしようと思った」というほどではないんだけど。

娘□否定形を重ねるとたしかに「お洒落な雰囲気も出る」わね。

父■ヒットメーカーの作詞ではないけど、美川憲一さそり座の女」(作詞、斉藤律子、1972年)は〈いいえ私は さそり座の女〉と〈いいえ〉から始まる。2021年の『M1グランプリ』でモグライダーのネタが「さそり座の女」。この歌が〈いいえ私は さそり座の女〉から始まるのは、その前に星座と性別を聞いてきた奴がいる。ハズれたので「いいえ」となっている。「いいえ」とならないようにイントロ中に全て星座を聞く。性別は最後に聞くのが論理的だという知的な漫才だった。

娘□あたし、ときどき坂井泉水に似てるって言われるんだけど、その人が歌詞を書いたZARDには、タイトルに「ない」がつくものが多いんだよね。「負けないで」が代表作だけど、「愛が見えない」「あなたのせいじゃない」「あの微笑みを忘れないで」「息もできない」「きっと忘れない」「君と今日の事を一生忘れない」「眠れない夜を抱いて」「瞳そらさないで」「もう探さない」「もう逃げたりしない想い出から」。90年代の歌だから今の話には関係ないけど。

 

7-3 人称代名詞が少ない「ルビーの指環」は多義的

娘□松本隆の他の歌では人称代名詞はどうなっているの?

父■大ヒットした寺尾聰ルビーの指環」(1981年)を見てみよう。

寺尾聰ルビーの指環」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000aec/l005e82.html

娘□歌詞をよく見ると、一つ一つのセンテンスはどれもネガティブな言葉で綴られているのに、全体のイメージはそんなに暗い感じはしない。宝飾品の華やかなイメージが救いになっているのかな。

父■この歌は、別れる男女が喫茶店でテーブルをはさんで最後の会話を交わしている場面を描いている。人称代名詞については必要最小限にとどめている感じがする。その点は練達してきたのかな。あるいは歌詞から詩に近づいたのかもしれない。普通ならもっと「あなた」(この歌では〈貴女〉)を入れたくなるであろうところをそうしない。例えば、〈指のリング抜き取ったね〉というのは〈貴女はリング抜き取ったね〉とできるし、〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉というのは〈貴女の言葉が頭に渦巻くよ〉とかにもできる。

娘□ふうん。でも、その例だと、〈貴女〉を使わない代わりに使った言葉って、そんなにたいしたものに思えないんだけど。

父■まあ僕が作った例だからね。

娘□そもそも、「俺/貴女」という人称の組み合わせって釣りあっていないんじゃない? 丁寧さや親しみの度合いで「俺/お前」「私/あなた」の組み合わせが一般的でしょ。この二人がうまくいかない関係性みたいなものが「俺/貴女」という非対称の人称の使い方に表れている。〈孤独が好きな俺さ〉というように、独特の男くささを出すために〈俺〉という人称があり、一方で、〈貴女〉と呼ばれる相手には女性崇拝的なものを感じる。相手の本当の姿を見ておらず、女性に対して理想や観念を投影していたのじゃないかしら。

父■別れて2年経ってもいまだに〈貴方〉の幻影を追いかけているというのだから、もうこの〈貴方〉は相当理想像に近いものになっているだろうね。〈俺〉っていうのはハードボイルド小説でよく使われるよね。規範からはみ出て単独行動を好む感じがある。この歌を歌っとき寺尾聰は30代半ば。〈俺〉という自称は子どもっぽい印象があるから、ギリギリの年齢だね。

娘□コートの袖から出た〈指にルビーのリングを探〉してるんでしょ。執念ね。〈孤独が好きな俺さ〉というのが強がりだってことがミエミエじゃん。〈枯葉ひとつの 重さもない命〉という比喩もカッコつけすぎる。それもハードボイルド?

父■冬だから〈枯葉〉が出てくるんだろう。夏だったら「セミの抜け殻みたいなこの命」になっていたかも。過去の恋の哀しみを枯葉に喩えるのは有名なシャンソンがあるでしょう。サザエさんだって〈枯葉よ~〉って口ずさんでいるよ。『サザエさん』のアニメでそういう回があるんだよ。

娘□あまり芸術とは無縁な感じがするサザエさんすら口ずさむほどの、そういう比喩の伝統にのっとっているわけね。

父■それで、この歌は人称代名詞を省略しすぎて、イメージが曖昧になっている感じがするところすらあるんだ。例えば、〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね〉とあって、この〈問わず語りの心〉は文脈上〈貴女〉のことなんだろうけど、〈俺〉のことのようにも錯覚される。状況を推測すると、別れは〈貴女〉のほうから切り出して、〈問わず語り〉にその理由を並べたんだろう。別れを言い出すほうが立場上「強い」はずなのに、納得のいく理由をいろいろ考えている様子が哀れにすら見えたんだろう。それが〈問わず語りの心が切ないね〉ということだ。一方で、この歌自体が〈俺〉の問わず語りのものになっている。未練がましい〈俺〉はまさに哀れな存在だ。〈問わず語りの心が切ないね〉というのはまさに〈俺〉にピッタリ。書かれた詩として読めばそういう錯覚はおこりにくいけど、次々と言葉が現れては消えていく歌では、どっちがどっちのことを言っているのか、適宜注釈をはさんでくれないとわからなくなってくる。

娘□自分を哀れんでいるのは、ちょっと無理めな解釈じゃない? でも〈問わず語りの心が切ないね〉という冒頭の時点では、まだ彼女のことは語られていないし、すぐあとに〈枯葉ひとつの 重さもない命〉と自分のことを述べているから、〈切ない〉というのも自分のこととして解釈するのも無理はないか。ここを〈貴方〉のこととして受け取るには、それこそ詩として文字で読まなければ難しいかも。

父■同じようなことは〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉という部分にもある。どちらの気が変わらぬうちなのか。文脈上は〈俺〉の〈気が変わらぬうち〉だろう。〈俺〉は別れを切り出されても本当は嫌だと断りたい。でも、格好もつけたいから、いきおいで別れを了承してしまう。熟考すれば相手を引き止めることになる。だから〈俺〉の〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉ということだろう。でもこの〈気が変わらぬうちに〉というのは女性の方の〈気が変わらぬうちに〉と解釈することもできる。一旦別れを告げたものの、相手がみじめに思えたのでやっぱり別れを取り消そうとするかもしれない。そういう情けはかけないでくれという意味で言ったのかもしれない。また、直前に〈孤独が好きな俺さ/気にしないで行っていいよ〉とあるよね。この〈気にしないで行っていい〉ということと〈気が変わらぬうちに早く消えてくれ〉というのは同じことを言っているようにも思える。〈気にしないで〉というのは女性に対して言っている。ということは〈気が変わらぬうちに〉というのも女性の〈気が〉変わらぬうちということにもとれる。「気にしないで/気が変わらぬうちに」と、「気」に引きづられて〈貴女〉のこととして言っているようにとれる。別れたい気持ちは〈貴女〉にあるので、その気が変わらぬうちにという強がりだね。

娘□なんだか微妙でこまかいところだけど、人称代名詞がないと記述された言葉の帰属が不安定になることに違いないわね。

 

7-4 「ルビーの指環」の構造と時間

父■この歌にふれたついでに、この歌の構造が複雑だということも話しておきたい。

娘□喫茶店で別れるだけのソリッドシチュエーションじゃないの?

父■空間的には限定的だけれど、時系列が複雑なんだよ。この歌は、喫茶店で男女が向かい合って座っていて、女性が別れ話を切り出して、指環を抜いて雑踏の中に去っていくという歌でしょ。時期は冬に近い秋かな。これが歌の「現在」。

娘□指環は置いていったのではなく、持ち帰ったんだけどね。

父■そのとき、愛を誓いあった夏の日のことを思い出しているよね。これは「過去」だ。夏に始まって冬に終わる恋。それから二年たってもまだ彼女のことを思っていて、彼女を思わせる人を目で追っている。これは「2年後の現在」で、わかりやすく「未来」としよう。

娘□つまり、この歌には「過去・現在・未来」が入っているっていうことね。

父■そう。ただ、その順番どおりに書かれているわけではないので混乱する。それを踏まえて歌詞を順に見ていこう。

〈くもり硝子の向うは風の街〉これは語り手の「現在」の状況。喫茶店かどこかでテーブルに座って外を見ている。この〈くもり硝子〉というのは擦りガラスのことではなく内と外の寒暖差で曇ったガラスのことだろう。二重ガラスがなかった時代だね。外を見るといっても〈くもり硝子〉越しだから、ほとんど見えない。外を見るというより、顔を外に向けている感じ。

娘□〈くもり硝子〉って自分の心の比喩でもあるんじゃない? 自分の心が〈くもり硝子〉のように閉ざされているイメージ。ただその外側の〈風の街〉というのも、あまり明るく楽しい感じではないけど。

父■〈風の街〉は松本隆の定番ワードだね。作詞家はそれぞれ自分の街をもっていて、そこの住人が歌の登場人物になっている。松本隆はそれを割合はっきり出している人じゃないかな。さだまさしも初めの頃「まさしんぐタウン」って言ってたからね。

娘□住人が歌の登場人物になるというより、新しい歌ができれば新しい住人が加わっていくってことなのかな。

父■〈問わず語りの心が切ないね〉というのは、語り手である〈俺〉の目の前にいる〈貴女〉の「現在」。聞いたわけでもないのに自分でぽつぽつ話しているんだね。でも、さっきも言ったように、この歌じたいが〈俺〉の〈問わず語り〉のシロモノであるから、そういう〈俺〉のことを自己憐憫して〈切ない〉と言っているようにも聞こえる。〈俺〉のことだったら、メタな視点がここに挟まれていることになる。

娘□いきなり自分のことに飛ぶのはごちゃまぜになりすぎない?

父■そうかな。次のフレーズのほうがもっと不可解だよ。〈枯葉ひとつの 重さもない命 貴女を失ってから〉というのはいつの時点のことなのか。

娘□〈貴女を失ってから〉とあるから、「未来」のことね。うーん、さっきの「現在」に続けて「未来」か。混乱するなあ。

父■実は〈貴女を失ってから〉というのは、この歌の一番最後のフレーズとしても出てくる。〈そして二年の月日が流れ去り/街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ/貴女を失ってから〉と締めくくられている。つまり冒頭の〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね/枯葉ひとつの 重さもない命/貴女を失ってから〉というのも「未来」における語りとして読めるんじゃないか。「未来」において過去を想起している。そうなると〈問わず語りの心が切ないね〉というのは自己憐憫ということになる。

娘□けど、〈くもり硝子の向うは風の街〉って喫茶店にいる「現在」じゃないの? あとのほうでも〈くもり硝子の向うは風の街/さめた紅茶が残ったテーブルで〉ってあるわよ。

父■「未来」においても別れたのと同じ時期に、同じ喫茶店の同じテーブルにいて思い出しているんだろう。

娘□ふうん。語り手の場所が同じなんで「現在」と「未来」が溶融してきているんだね。

父■〈くもり硝子の向うは風の街/問わず語りの心が切ないね〉というのは現在でもあり未来でもあるという折衷的な解釈が妥当だね。〈問わず語りの心が切ないね〉というのは、現在の場合は〈貴女〉についてのことで、未来の場合は自分についてのことになる。

娘□メロディーとしては、冒頭から〈枯葉ひとつの 重さもない命 貴女を失ってから〉というところまで一まとまりなので、時間的にも一まとまりのことじゃないの? そうすると未来のことになるけど。回想する枠組みをここで提示している。最後が〈そして二年の月日が流れ去り〉となっているのも、これが額縁ソングだってことを明示している。

父■構造的にはそうだけど、それだと〈問わず語りの心が切ないね〉というのが一義的に自己憐憫ということになってしまって、〈貴女〉のことではなくなってしまうんだよなあ。メタな語りではあるけど、それってやっぱり後景に退いていることで効果があるから、いきなり自分で自分を〈問わず語りの心が切ないね〉なんて言うのは不自然だからなあ。

娘□同じ場所に座っているから、未来と現在は入り混じってしまうのね。そういうことにしておきましょう。

父■いずれにしても、この歌の隠れた主題は時間だよね。なめらかな継起にしないことで、そこに注意を向ける。映画でもよくあるよね。過去・現在・未来のショットが断りもなくがごちゃまぜになっているやつ。親切なのは「2年後」とか「1年前」とかテロップが入ったり、昔の出来事っていう意味でセピアがかった映像に加工したりするけど、そういう細工をしないで、微妙な違和感だけでつないでいくもの。何度か見直さないと理解できない。そういうわかりにくさがあるものが高尚な作品だと思われている。筋よりも手法に注目させる。

娘□その手法がどういう効果を生むのかが重要だと思うけど、なかには切り貼りして順番を入れ替えただけのものがある。たいした手法ではないのに、わかりにくくされているので頭にくる。叙述トリックのミステリーにもそういうのある。現在のことを読んでいると思ったら過去のことだったとか。

 

7-5 コートと指環を探す意味

父■語り手である〈俺〉は、ハードボイルドを気取っているふうに見えるのに、諦めが悪いというか、意外に執着心のある人だよね。別れた人をいつまでも思っている。〈街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ〉ってあるけど、これどこで探しているのかな。街を歩いているときなのか。あるいは喫茶店とかのテーブルに座って街行く人を眺めているときなのか。別れた時は〈くもり硝子の向うは風の街/さめた紅茶が残ったテーブルで/襟を合わせて日暮れの人波に/紛れる貴女を見てた〉とあるから、探すときも同じ場所で見てるんじゃないかと思ったけど。

娘□〈ベージュのコート〉を着る季節なので寒い時期でしょ。そういうとき、思い出の喫茶店の窓は〈くもり硝子〉になっているから、喫茶店の中から探すってのは無理なんじゃない?

父■ちょっと待って。すると別れたときも〈くもり硝子〉だったから窓の外の〈貴女を見〉ることなんてできないはず。寒暖差でできたくもりなら手でぬぐったのか。

娘□そんなことは一言も書いてないわ。窓をぬぐうなんて意味深で重要なしぐさだと思うけど、それにふれてないということは、やらなかったということでしょ。こういうのって歌詞の言葉だけだと雰囲気で読めちゃうけど、歌謡映画とかにして映像で具体化されると矛盾がはっきりするわね。

父■検索してみたらやはり疑問に思った人がいたみたいで、書いてあった。ヤフーの知恵袋で、

 

質問「くもりガラス(すりガラス)なのに、なんで向こう(日暮れの人波にまぎれるあなた)が見えたんだろう?」

ベストアンサー「♪曇りガラスを手で拭いて~(さざんかの宿)或いは ♪息で曇る窓のガラス拭いてみたけど~(津軽海峡冬景色)みたいな動作が歌詞の上では端折られているのかもしれませんね。/そんな突っ込み所はあれど、ルビーの指輪は傑作だと思います。」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184563372

 

 回答も傑作だね。たぶん作詞家は歌が世に出てから「あっしまった!」と思ったんじゃないかな。

娘□この部分、あたしもひとつ疑問に思ったところがあるので言わせてもらうと、〈襟を合わせて日暮れの人波に/紛れる貴女を見てた〉っていうところ。描写は細かいけど、視点がずれている気がする。これは語り手の〈俺〉目線よね。〈日暮れの人波に/紛れる〉というのは、遠ざかって夕闇に消えていく後ろ姿を見ていたということ。一方、〈襟を合わせて〉というのは、喫茶店から出たときに寒くて〈襟を合わせ〉たということ。〈風の街〉だから寒風が吹いていたのね。でも、喫茶店から出る瞬間を〈俺〉の目から見ることができるのかしら。出入り口から近いところに座っていた? 去っていく後ろ姿を見ることができる位置に座っているという条件もあるから、この二つを満たすのはなかなか厳しいと思う。間口が狭く奥行きが長い店も多いしね。あ、喫茶店とはどこにも書いてないけど、そうだと思う。

父■後ろ姿でも〈襟を合わせ〉ている姿はわかるけどね。腕を折り曲げているから。

娘□後ろ姿で腕を折り曲げているだけなら、胸に手を当てているだけかもしれないじゃない。あたしはここに〈俺〉以外の視点が挿入されていると思うのよね。

父■そういう感じはあるね。話を戻すと、〈指にルビーのリングを探す〉のは〈俺〉がどこでなのか、ということなんだけど、喫茶店の中からは〈くもり硝子〉だから無理なら、街ですれ違うときなのか。そもそもコートの袖って長いから指が隠れて見えにくいし、ポケットに手をつっこんでいる人だっているしなあ。それで指環の小さい石がルビーかどうか見分けるって、どれだけ視力がいいんだ。すれ違う瞬間に気づくとかならまだいいけど、後ろから見ていたら尾行しているみたいで嫌だなあ。

娘□すれ違うときはないんじゃない。だって顔を見ればみればわかるもん。それとルビーって赤色で、誕生石の中では一番目立つ色だから、わかりやすいと思う。ガーネットも赤系統はルビーと似ているけど緑色系もあるしね。

父■探しやすいからルビーにしたのか。なるほどなあ。すれ違うときでなければ後ろからか? でも後ろからだと指環の種類はわからないな。〈探す〉というくらいだから、彼女に気づかれないように見るのだろうけど、やはり喫茶店の中からなのか。喫茶店の中は暗いから、ガラスがマジックミラーのようになって、外からは見えにくくなっている。観察する〈俺〉の姿は見えない。

娘□ルビーって7月の誕生石だけど、歌詞は〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ/あれは八月 目映い陽の中で 誓った愛の幻〉ってなっていて、〈誓った〉というのだから〈八月〉に指環を贈って愛を誓いあったんだよね。7月の誕生石を8月に贈る、このズレは何なのかな。

父■これもヤフーの知恵袋に質問があったよ。すごいな知恵袋。ま、ヤフーで検索したから上位に出ただけなんだろうけど。ヒット曲だからいろんな人が歌詞を解釈を楽しんでいるね。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12245733027?__ysp=44Or44OT44O844Gu5oyH55KwIOaMh%2BOBq%2BODq%2BODk%2BODvOOBruaMh%2BeSsOOCkuaOouOBmeOBk%2BOBqOOBquOCk%2BOBpuOBp%2BOBjeOCi%2BOBruOBiw%3D%3D

 ただ、これを読んでもピンとくる回答はないね。僕なりのこじつけでは、7月にプレゼントすべきところを8月になっちゃったから、それが別れの原因になったのかと思うよ。

娘□〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ〉ってあるところの〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉っていうのは、〈指にルビーのリングを探す〉ときにも頭の中で渦巻いているってこと? 〈誕生石ならルビーなの〉という言葉が頭の中に残響となって響いているというのは、ルビーの指環イコール〈貴女〉になっているということよね。だからルビーの指環を探すというのは〈貴女〉を探すことになるのね。

父■〈貴女〉を探すにしても、コートから目星をつけるってのはどうかなあ。何年も同じコートを着ているとも思えないし、コートの色にこだわるより全体のシルエットや歩き方のほうが〈貴女〉らしさが出ていると思うけど。竹内まりやに「駅」(作詞、竹内まりや、1986年)という歌があって中森明菜をイメージした曲なんだけど、この歌は「ルビーの指環」の女性版みたいな内容になっている。気がついている人いるかなと思って検索したら、いたね。「日本百名曲/20世紀篇」というブログで、「同じようなシチュエーション」と一言だけ書いてあった。ちなみに君が言ったことも書いてあったよ。「手を見るということは、/後ろ姿を見かけると、ということだろう。/正面から見ているのであれば顔を見るだろうからね」(https://songs20thcentury.hateblo.jp/entry/2015/10/09/072000

娘□同じようなこと考えるものね。

父■竹内まりやの「駅」はこういう歌詞。〈見覚えのある レインコート/黄昏の駅で 胸が震えた/はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね〉となっていて、こちらは男のほうがコートを着ている。また、〈二年の時が 変えたものは〉とあって、2年後の設定であるのも、〈そして二年の月日が流れ去り〉という「ルビーの指輪」と同じだ。さらに、「駅」は夕暮れ時で〈ラッシュの人波にのまれて/消えてゆく 後ろ姿が〉とあり、「ルビーの指環」は〈襟を合わせて日暮れの人波に 紛れる貴女を見てた〉となっている。

娘□同じようなこと考えるものね。そういえば「贈る言葉」(作詞、武田鉄矢、1979年)も〈夕暮れ〉どきで、〈遠ざかる影が 人混みに消えた〉となっていた。「夕暮れ、人混み(人波)、消える(紛れる)」は定番のイメージなのね。

父■表面的には似ている部分もあるけど、ものの見方はどれもかなり違う。同じ〈コート〉という言葉でもそれが何を指しているのかは違う。「駅」で〈見覚えのある レインコート〉というのは、コートという衣服の同一性をもって〈昔愛してた あの人なのね〉と同定するのではなく、さっき言った「全体のシルエットや歩き方」を含めてそう判断したと思われる。コートに包まれた身体の造形的特徴と挙措。そのことは歌詞からもわかる。コートの人は〈はやい足どり まぎれもなく/昔愛してた あの人なのね〉とある。〈まぎれもなく〉というふうに的を絞っているが、それは〈はやい足どり〉という全体の雰囲気が醸し出すものからきた確証だ。

娘□その点〈ベージュのコートを見かけ〉ただけで条件反射的に〈指にルビーのリングを探す〉という「ルビーの指輪」よりリアリティが増しているわね。こちらの歌ではコートという「表皮」にだけ反応しているように思う。

父■「ルビーの指輪」でコートを目にとめるっていうのは、〈俺〉の滑稽さを言ってるんだと思う。女性のコートって、白かベージュが多いよね。ベージュのコートを着てる人は大勢いる。数限りないベージュのコートの人の指に目を凝らしたって無駄だよ、徒労なだけだよって言ってると思う。注目する順番を間違えている。

娘□自分があげた指環を、まだ別れた彼女がはめていてくれるのか、つまり自分のことをまだ思っていてくれるのか、独り身なのか、ということを確認しようとしているのね。でもたとえ独りでも、昔つきあってた男からもらった指環を別れたあともしているとは思えないけどな。それに他につきあっている人がいて、その人からも誕生石のプレゼントをされたらそれもルビーだろうし。なんにせよ指環を探すのは無駄だと思うけど。

父■〈俺〉の頭の中では時間が止まっているんだね。ルビーの指環に限らずベージュのコートをまだ着ていると思ってる。指環はいまだに自分とのつながりの証拠だと思っている。赤い糸の代理みたいに。彼女はまだ自分があげた指環を捨ててないという自信が〈俺〉にはどこかある。別れるときの彼女の姿がそう思わせていると思う。〈背中を丸めながら 指のリング抜き取ったね/俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉とある〈背中を丸めながら〉というところなんだけど、これは彼女が〈俺〉に対して申し訳ないと思っているからではないか。俯いている。直視していない。〈俺〉は捨てられた弱者なんだけど、この瞬間だけは優位に立っている。そこで〈俺〉は〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉と言うんだね。〈俺〉に悪いと思っているんなら捨てられないだろうと思って啖呵を切っているわけ。捨てられるもんなら捨ててみろって、彼女の良心に訴えかけている。で、捨てられないからまだ持っているはずだと。

娘□〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉ってイジワルよね。俺は受け取らないよって。返せないし捨てにくいものだから彼女は困ってしまう。困らせるために言っている。彼女がいい人で、仮に捨ててないとしても、指にはめているとは限らない。絶対はめてなんかいないわよ。ひどい勘違いだと思う。

父■奮発して買った指環だったんだね。だからはめていてほしかったのかも。

娘□彼女を探すのにコートと指環以外に他に手がかりはないの? 相手のことをそれしか知らないていどの浅いつきあいだったの? それなのに別れたあとは〈枯葉ひとつの 重さもない命〉っていうほど落ち込むなんて、いったいどういう人なの。〈あれは八月 目映い陽の中で/誓った愛の幻〉っていうのはひと夏のアバンチュールって感じが漂ってるんだけど。

父■〈襟を合わせて日暮れの人波に 紛れる貴女〉という歌詞の〈襟を合わせ〉るって、ちょっと古風な上品なしぐさだよね。アバンチュールしそうな女性じゃない。ひと夏の遊びだったら、そんな相手に指環はあげないだろう。指摘の中では〈目映い陽の中で〉っていうのが気になる表現だよね。〈愛の幻〉とも言ってるように、夏の幻影なんだ。この人はずっと幻影を追いかけているんだよ。

娘□〈枯葉ひとつの 重さもない命/貴女を失ってから〉ってあるけど、実ははじめから失われていたんじゃないか。ずっと幻を見ていた。幻だから〈くもり硝子〉でもその向こうに〈貴女〉を見ることができた。

父■ちょっと先走りすぎだから話を戻すと、さっき、7月の誕生石のルビーを8月に贈ったという話をしたけど、7月にプレゼントすべきところを8月になってしまったのは、〈俺〉がうっかりしていたのではなく、そうせざるを得なかったからかもしれない。つまり7月に贈りたくても贈れなかった。

娘□というと?

父■知り合ったのが8月だった。あるいは指環を贈るほど親密になって誕生石を聞いたのが8月だった。

娘□それで冬になる前に別れてしまったと。それとも何年かつきあったのかな。でも彼女についていろんなデータを持ってなさそうだから、やっぱり半年ももたずに終わったのかな。

父■交際期間は比較的短かかったし、あまり会ったこともなかったんだと思う。というのも、〈街でベージュのコートを見かけると/指にルビーのリングを探すのさ〉ってあるけど、なんでコートを着ていない姿の彼女は探さないのかって不思議なんだよ。

娘□別れた瞬間がトラウマになっていて、コートを着る季節になると心の傷がうずくんじゃない?

父■別れてからは〈枯葉ひとつの 重さもない命〉っていうほど全存在をかけて愛していた相手なのに、その季節にだけ記憶が刺激されるってのはおかしい。他の季節は彼女のことを気にしなかったのか? そうではなく、いつも彼女の幻を探していたはずだ。にもかかわらずベージュのコート姿にしか反応しないというのは、それ以外の彼女の姿をほとんど知らないからではないか。実は数回しか会ったことがないのかもしれない。数回会っただけで心を奪われるということはないではない。ベージュのコート姿は君が言うように別れたときだから目に焼き付いている。

娘□その「目に焼き付いている」というのが失敗のもとなのよ。「船に刻みて剣を求む」っていう故事があるじゃない。指環をあげたのは夏だから軽装をしている。指環をあげたときの服装を覚えていて、同じような服装をしている女性の指を探してもいいはずで、そのほうが指環もわかりやすいのに、でもそうしないで別れた時の服装にこだわるのは、船のこのあたりで剣を落としたとマークしてしまうみたいに、間違った記憶の固定をしているのよ。

父■語り手の〈俺〉は徹底的に受け身の人だよね。仮に彼女の住んでいるところや電話番号を知っていても、そこを訪ねたり連絡したりはしないだろう。未練がましいからね。探して見つけたら、偶然ばったり会ったふりをするんじゃないかな。「やあ、久しぶり。元気?」なんて話しかけたりして。

娘□えーッ! わざとらしい。

父■この人は自分で決めて動くよりは、相手に委ねるタイプだよね。歌詞にはこうある。〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉〈気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉と。これは「○○してくれ」という命令形になっている。〈俺〉のためにそうしてくれという依頼だ。沢田研二に「ダーリング」(作詞、阿久悠、1978年)という歌があるけど、「○○してくれ」で押し通していたね。〈ここへすわってくれ 足を組んでくれ/黄昏に顔を向けてくれ/その指で髪をかきあげてくれ〉ってあるけど、これが「ここへすわれ、足を組め、黄昏に顔を向けろ、その指で髪をかきあげろ」だったら命令になってしまう。そうではなく、俺のために「○○してくれ」とお願いしている。逆に、さだまさしの「関白宣言」(作詞、さだまさし、1979年)で〈めしは上手く作れ/いつもきれいでいろ〉が「めしは上手く作ってくれ、いつもきれいでいてくれ」だったら亭主関白ではなくなってしまう。「○○してくれ」っていうのは下手(したて)に出ているわけだからね。「いやだ」と拒否される可能性もある。相手の気持ちを斟酌しない命令ではなく、相手の了解も取り付けつつ動いてもらう。「ルビーの指環」も「俺に返すつもりなら捨てろ、気が変わらぬうちに早く消えろ」という一方的な押し付けじゃないんだよね。依頼に従うかどうか相手の意思を媒介にしている。〈俺〉としては拒否してほしいんだよ。そもそも相手に〈捨ててくれ〉と頼むより自分で捨てたほうが確実だし、相手に〈消えてくれ〉と頼むより自分が席を立ったほうが早い。それなのにそうしないのは、本当はそうしたくないからだよ。自分でそうするのは耐え難いから相手に引導を渡してもらう。

娘□自分で決めることはせず相手に肝心な部分を委ねるのね。

父■一応言ってはみたものの、最終的に行動に移すかどうかは相手に任せている。本当は捨ててもらいたくないし、席にいてほしい。

娘□なぜ?

父■別れだからね。できるだけ引き伸ばしたい。別れを曖昧にしたい。最後の抵抗だ。

娘□うじうじした感じにならない程度に男らしさを保つためのぎりぎりのところで出てきた言葉ってことか。男らしくあるのもつらいわね。

父■この歌で奇妙なのは、ルビーの指環という細部に強くこだわっているところだよね。〈そうね 誕生石ならルビーなの/そんな言葉が頭に渦巻くよ〉とあるように、頭の中が彼女の言葉を介してルビーで支配されている。さっき竹内まりやの「駅」で見たとおり、当人かどうかは全体のたたずまいから判別できる。全体がまず目に飛び込んできて、ただちに「あ、あの人だ」と認識されるはず。なのにこの歌では、全体の印象はベージュのコートとというモノの同一性の判断以上に踏み込まず、それを着ている人がお目当ての人かどうかということをとばして、〈指にルビーのリングを探す〉というように細部に目を凝らして自分とのつながりを確認しようとしている。

娘□なぜ細部にこだわるの?

父■〈そんな言葉が頭に渦巻くよ〉という記述は、何かそこに逸脱したものがあることを示唆している。取り憑かれてしまったみたいになって、頭からその観念が追い払えないんだね。こだわりのポイントも通常とズレている人なのかもしれない。

娘□お目当ての人かどうかは、指環に目を凝らすまでもなく、コートを着ている雰囲気でわかるはずなのにね。そこをとばして細部に目が行ってしまう。

父■指環をしているかどうか知りたいなら、まずその人かどうかを同定して、そのあとで指環を探すという順番になるはずだ。

娘□彼女に知られないように指環を確認するのは難しそうだけど。

父■もし、ベージュのコートを着ていてルビーの指環もしている人を運よく見つけ出せたとしても、それが別れた彼女でなければなんの意味もない。探す順番を間違えている。順番としては、

 

1 ベージュのコートを着ている女性が感知される。

2 それが別れた彼女であると推測される。

3 ルビーの指環をしているか(自分とのつながりを)確認する。

 

 この順序が普通だと思うな。1と2の過程はほとんど同時に遂行される。でもこの歌ではどうやら「1→3→2」の順番に倒錯している。もしかしたら2は求められていない可能性すらある。「それが別れた彼女でなければなんの意味もない」と言ったけど、彼女への欲望がベージュのコートやルビーの指環に置き換わっているかもしれない。この順番の倒錯は、「ベージュのコートフェチ」「ルビーの指環フェチ」の倒錯みたいになっている。

娘□それが彼女でなくても、ルビーの指環をしている女性ならいいってこと?

父■よくミステリーで連続殺人犯が長い黒髪の女性ばかり狙うというのがあるよね。フラれた彼女が黒髪だったので、同じような黒髪の女性を見つけては復讐していくっていう話。

娘□その彼女には相手にしてもらえないので、ベージュのコートやルビーの指環をしている女性に欲望が向けられたのね。なんかミステリー小説みたいな歌にされちゃったわね。

父■話しながらだんだんわかってきたのは、ルビーの指環を探しているが、彼女を探しているわけではないということ。というのも、〈街でベージュのコートを見かけると〉ってあるけど、〈俺〉は〈貴女〉はもうこの街にはいないことを知っているんじゃないかと思う。ベージュのコートを着て、指にルビーの指環をしている女性がいたとしても、それは〈貴女〉ではないことを知っているんじゃないか。

娘□〈貴女〉かもしれないってことはないんだ。

父■〈貴女〉はどこか遠くへ行ってしまったんだと思う。仕事とか留学とかで海外に行ったのかもしれない。そのとき、仕事をとるか〈俺〉との結婚をとるか選択することになって、〈俺〉は選ばれなかったんだと思う。

娘□確かに別れる理由はよくわからなかったけど、その説は何を根拠にしているの?

父■〈孤独が好きな俺さ/気にしないで行っていいよ/気が変わらぬうちに早く 消えてくれ〉という歌詞があるよね。この〈行っていいよ〉とか〈消えてくれ〉というのは喫茶店の席から立ち去ってくれということだと思っていた。でもそれにしては表現に違和感があったんだ。

娘□〈行っていいよ〉というのは、この街から離れて遠くの土地へ〈行っていいよ〉ということなのね。〈貴女〉がそう決めたなら好きにすればいいと。〈消えてくれ〉というのは、もう二度と姿を見せるなって感じよね。喫茶店から出ていけというには大げさな言い方ね。

父■それで時期はいつかということなんだけど、遠くへ行く選択肢が浮上したのは2月か3月くらいではないかと。

娘□「ルビーの指環」は、そうした種類のお別れソングの一つだったのね。

父■喫茶店へ〈俺〉を呼び出したのは女性の方で、それはそこで指輪を返すために呼び出したんだと思う。〈指のリング抜き取っ〉て〈俺に返す〉というのは別れの儀式だよね。でも〈俺〉はそれを途中で遮った。〈俺に返すつもりならば 捨ててくれ〉と言って、別れを中途半端なものにした。曖昧にした。別れが完遂されてない。だから〈俺〉はいつまでも〈貴女〉への思いを引き伸ばすことができる。一方、本物の〈貴女〉はいないから、代わりに指環をしている女性を見つけては、そこに〈貴女〉の幻を重ねるんだ。やがて指環を見るだけで満たされることになる。そのためには逆に〈貴女〉がいないことが必要になる。

娘□言葉の細部にこだわった「言葉フェチ」のお父さんの倒錯的読み方ね。

小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」の謎 ~君僕ソング(その6)

6-1

父■オフコースを解散してソロになった小田和正は特大ヒットを放った。それが「ラブ・ストーリーは突然に」(作詞、小田和正、1991年)。

小田和正ラブ・ストーリーは突然に」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a04a641/l00330a.html

娘□タイトルの意味がよくわからない。

父■『東京ラブストーリー』というテレビドラマの主題歌だから、そこから来ているんだろう。

娘□それは知ってる。レンタルで見たことあるよ。でも、なんかおかしなタイトルじゃない?「ラブ・ストーリーは突然に」って。これって「ラブ・ストーリーは突然に始まった」という文を省略したものだと思うけど、ストーリーって、後から見返したときに一定のまとまりがあるものとして見出されるものでしょ。まとまりっていうのは因果関係の連鎖でできている。出会いは突然でもいいけど、その時点では先のことはわからない。ストーリーにまで発展せず終わってしまうかもしれない。「突然」というのは出会いの段階の衝撃のことで、つまりは「点」。それに対して全体を俯瞰して見えてくる「ストーリー」は「線」。「点」と「線」という次元の違うものが瞬時に結び付けられているところが落ち着きのなさの原因かな。

父■「突然」というのは歌詞にも関わってくることだからね。ラブ・ストーリーが突然に始まったということなら、それはいつ始まったんだろう。

娘□〈あの日あの時あの場所〉からかな? 〈あの〉が三段重ねされていて、サビにもなっている。

父■〈あの日あの時あの場所〉って、なんだかとても的を絞った示し方だよね。よほど印象が深かったのかな。記念日にしてもいいくらいだ。

娘□よくアニメなんかで、学校に遅刻しそうになって食パンをくわえたまま走っていて交差点で出会い頭にぶつかって転ぶっていうシーンがあって、学校についたらぶつかった相手が転校生として紹介されて「あ、あいつだ」ってことになるのが、あたしの〈あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら〉というイメージなんだよね。

父■絵に描いたような唐突さだね。無数の恋愛対象の中から、運命の一人をスルーしないようにマーキングしておく。それが特殊な出会い。運命は事前に予告されているというのは、恋愛ドラマの定石だよね。交差点でぶつかったことは相手を印象づけることになるけど、それで恋に落ちるわけじゃない。むしろ「気をつけろコンニャロー」みたいにマイナスの印象。知らない相手と出会った瞬間に恋に落ちるというのは、かなり特殊なことだと思う。

娘□『東京ラブストーリー』というテレビドラマは社内恋愛を描いたもので、くっついたり別れたりを繰り返していた。突然始まる恋愛じゃなくて、恋愛感情が熟成されるまでに時間がかかっている。冒頭でカンチとリカの二人は出会うんだけど、カンチは就職のため愛媛から飛行機で上京し、先輩社員のリカが空港で出迎える。国内線なのにボードをかざして大きな声で名前を呼ばれるから恥ずかしいし、名前も完治で「カンジ」なのに「カンチ」と間違えられて以降もそれを押し通される。しかも着くなり倉庫に連れて行かれ荷降ろしを手伝わされる。カンチは冒頭からエキセントリックなリカのペースに振り回される。〈あの日あの時あの場所で 君に会〉ったわけなんだけど、そのときは一目惚れには程遠かったから「突然」始まるラブストーリーというわけではないし、社内恋愛でその後も仕事の関係で何度も顔をあわせることになるから〈あの日あの時あの場所〉を逃しても〈僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉ということにはならない。

父■ドラマの二人も突然燃え上がってラブ・ストーリーが始まるわけではなかった。まあドラマの内容と主題歌の内容がぴったり一致していなくてもいいんだけどさ。歌は歌で自律性があるわけだし。では、歌としては、〈あの日あの時あの場所で〉突然ラブ・ストーリーが始まったという理解でいいんだろうか。それを検討する前に歌詞の全体の理解を深めておく必要がある。

 

6-2

父■この歌詞は何が言いたいのか、初めのうちはよくわからなかったけど、じーっと見ていたら、あ、そうか、言葉がテーマなんだということがわかった。言葉に苦労した小田和正らしい歌詞だなと。

娘□どういうこと? ふわふわしていて、あまり構築的な歌詞じゃないと思ったけど。比喩に一貫性もない。例えば、〈君のためにつばさになる君を守りつづける/やわらかく君をつつむあの風になる〉とあるけど、君の〈つばさ〉になりたいのか〈風〉になりたいのか、どっちなのって思う。〈つばさ〉と〈風〉は近接した関係にあるけど、別物でしょ。それと、〈つばさ〉になることがどうして〈君を守〉ることにつながるのか。〈つばさ〉って、ふつうは冒険的なことに結びつくと思うけど。旅立ちとか。

父■〈つばさ〉が生えて空を飛んで〈風〉が生まれるというふうに発展してるんじゃないかな。〈風〉はソフトに〈君をつつむ〉ものだから守っていることになる。

娘□他にも、〈君があんまりすてきだから/ただすなおに好きと言えないで〉というのは、〈好き〉という〈ありふれた言葉〉では伝えられないほどの思いを抱いているということでしょう。君のことが結構好きだっていうことはわかるんだけど、そのあとで〈明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉なんて言っていて、まだ好きになる余地が残っているみたいなのよね。これも、どういうことなのって思うところ。もし「突然」出会って、一目惚れしたとしたら、そういう場合は出会った瞬間がピークであとはだんだん幻滅していくものだから、逆に、だんだん好きになっていくような言い方もしっくりこない。それと、〈あの日あの時あの場所で 君に会えなかったら〉というロマチックなことを言うので、二人は固く結びついているかと思いきや、そうでもないみたいなのよね。〈君〉は〈誰かが甘く誘う言葉にもう心揺れたりしないで〉とフラフラしているところがある。これも結局、〈あの日あの時あの場所で〉の出会いに運命を感じていたのは〈僕〉だけで、その感動は〈君〉は共有していなかったっていう証拠だと思う。

父■これがどういう歌なのかというところからまず見ていこう。実際、何についてそう言っているのかというスキームがわかりにくい。まず最初は、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて/浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ〉と始まる。

娘□この歌じたい、〈分からない〉で始まっているのね。〈浮かんでは消えてゆく〉っていうのもあぶくみたいで、出だしからはっきりしない。

父■何度か読み返さないとわかりにくいんだけど、ここで言っているのは、この二人は長いつきあいがあるけど、男性の方は女性を好きだっていう気持ちを伝えられていないということだね。君をうんと好きだっていう気持ちをうまく言語化できない。〈浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ〉というのはどういう言葉なのかというと、次に〈君があんまりすてきだから/ただすなおに好きと言えないで〉とあるように、〈好き〉という言葉なんだね。自分の気持ちを素直に言うと〈好き〉になる。〈ありふれた言葉〉は〈すなお〉な言葉でもある。

娘□そういえば「Yes・No」でも似たようなこと言ってなかった?〈ことばがもどかしくて うまくいえないけれど/君のことばかり 気になる〉って。

父■出来あいの言葉なんかじゃこの気持は表せないってことなんだろうね。

娘□思いの強さに見合う言葉がないって言葉のせいにするのはボキャ貧の人にありがちな発想よね。

父■まあ、たしかにそうだけど、この人はそれなりの解決方法をみつけたみたい。その前に相手の女性の方にふれておくと、好きな気持をはっきり伝えてもらえないから、他の人によろよろしていた。〈誰かが甘く誘う言葉に(…)心揺れたり〉していた。〈君を誰にも渡さない〉とあるから、他の人のものになる危険があったんだね。それが、男性の方がようやく何か気の利いたことを言ったものだから、〈今君の心が動いた〉というふうに女性の心が転回した。

娘□何か気の利いたことを言ったって、なんて言ったの?

父■この部分の歌詞はこうなっている。

 

誰かが甘く誘う言葉にもう心揺れたりしないで

切ないけどそんなふうに心は縛れない

明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる

そのすべてが僕のなかで時を超えてゆく

 

〈明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉という文がヒントになる。結局この人は、〈好き〉っていう言葉以外に思いつかなかったんだけど、〈好き〉以外に思いつかないからそれを強めていったんだ。もっと好き、もっともっと、と。質では違いを表せないから、量を増やす。明日は今日より〈もっと好きになる〉、日を追うごとにどんどん〈好きになる〉。〈好き〉が重なっていく。〈ありふれた言葉〉ではあっても〈好き〉の量がどんどん増えていくと、質的に違うものに変化してくる。それをなんと言えばよいのかというと、この歌詞の中から探せば、「守る」ということかな。〈君のためにつばさになる君を守りつづける〉ってあるでしょ。その〈守りつづける〉が、〈好き〉の進化形だと思う。さっきもふれたけど〈やわらかく君をつつむあの風になる〉というのは、風になって守っているんだね。〈好き〉は自分の一方的な気持ちに過ぎないけど、「守る」は相手を大切にするっていうことでしょ。利己から利他へ変化している。

娘□ふうん。「好き」から「守る」へ、か。男の思いつきそうなことだって気がするけど。べつに守って欲しいとか言ってるわけじゃないでしょ、この女性は。勝手に騎士ぶって盛り上がってる。

父■それと、微妙な点だけど、〈守りつづける〉の〈つづける〉。これって時間的に継続されていくことだよね。〈もっと好きになる〉が〈もっと〉という量的な変化だとすれば、〈守りつづける〉は〈つづける〉という時間的な持続だ。量的な変化が時間方向にも拡張している。〈明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉のあとは〈そのすべてが僕のなかで時を超えてゆく〉とつながっていて、ここにも〈時を超えてゆく〉という表現が出てきている。〈時を超えてゆく〉っていうのは、いつまでも続いていくということだね。〈君〉が好きという気持ちは、〈あの日あの時あの場所〉が全ての起点、始まりで、そこから始まって、この先もずっと永遠に続いていく。量的な変化は時間的な継続に移行する。君をもっともっと好きになっていく気持ちは、最初は右肩上がりでぐんと増えていき、やがてなだらかな高原のようになっていく。

娘□〈そのすべてが僕のなかで時を超えてゆく〉の〈そのすべて〉が好きになる気持ちだったらそういう解釈でいいかもしれないけど、〈そのすべて〉って〈君〉のことじゃないのかな?〈君〉の存在は〈僕〉にとって永遠だみたいなことじゃない? 女性崇拝というか女神扱いしてるんだと思う。〈もっと好きになる〉とか〈守りつづける〉とかエラそうなんだけど、そういう態度と女性崇拝は矛盾してない。要は対等に見てないってことだから。上げるか下げるかしてるのよ。

父■うーん、そういうところはないとは言い切れないけど、この歌ではかなり抑えられていると思うよ。

 

6-3

父■この歌は、「友達以上恋人未満」の女性に長年の恋心をようやく伝えることができた男性の喜びの歌っていうことなんだと思う。〈君のためにつばさになる〉とか言って盛り上がってるのも、自分の気持ちが伝わって躁的な気分になったんじゃないかな。

娘□〈今君の心が動いた〉だけなのに、すっかり自分の女にしたつもりなのね。

父■〈君のためにつばさになる君を守りつづける/やわらかく君をつつむあの風になる〉というところには「ソフト騎士道」とでも言うべき高揚感があるね。

娘□一方的に相手を守る献身というか奉仕って非対称な関係よね。女性の書き手だったら、こういう比喩は、仲良しのつがいになりたいとか、おしどりになりたいといった対称的な関係になると思うな。

父■何から守るかというと、悪い虫から守るんだね。〈誰かが甘く誘う言葉に心揺れたりしないで/君をつつむあの風になる〉という組み合わせもあるから。悪い誘いを遮断するバリヤーになっている。

娘□〈やわらかく君をつつむあの風になる〉ってウットリするようなことを言うけど、実際どういうことなのか。

父■まあ、それはくどき文句だからさ。現実に対応するような意味はないよ。

娘□言葉をそのまま真に受けて期待したら肩透かしをくらうわけね。

父■実は〈僕〉も、そのとき「甘い言葉」を言えたわけだね。それも含めて、この歌は言葉がテーマだから。〈僕〉の心の変化は全て言葉によってもたらされている。〈僕〉は〈何から伝えればいいのか分からない〉と悩み、〈ありふれた言葉〉しか思い浮かばないと悩み、〈ただすなおに好きと言えないで〉悩む。「何を」「どう」伝えればよいのかわからないんだね。

娘□相手のことがすっごい好きで、それをどう伝えたらいいか表現を悩んでいたっていうことか。〈好き〉という〈ありふれた言葉〉ではガキっぽいしストレートすぎるから、もっと深みのある洒落た言い回しを探してたのね。類義語辞典でも引けばよかったのに。

父■自分にもちょっと自信がなかったのかもしれないね。そういう〈すなお〉な言葉しか言えない〈僕〉とは対照的に口のうまいやつがいて、その〈誰かが甘く誘う言葉〉に女性はよろめく。

娘□甘い言葉は作りものの言葉で、ありふれた言葉は素直な心から出た言葉っていう対比ね。巧みな偽物に騙されてはいけない、素朴であっても真心のある方を選べってことね。

父■さっき掲げた歌詞をもう一度見てみよう。こうなっていたね。〈誰かが甘く誘う言葉にもう心揺れたりしないで(…)明日になれば君をきっと今よりもっと好きになる〉。誰かが囁く甘い言葉に対抗できるのは素直な言葉なんだけど、それだけだと素朴すぎるから、〈もっと好きになる〉とアピールしているんだ。

娘□たんなるラブソングかと思ったら、ライバルをやっつける戦略も隠されていたのね。ただ、〈もっと好きになる〉って、失礼な言い方じゃない? 今がピークであとは冷めていくだけ、っていうよりもいいと思ったのかな。〈君〉の魅力的なところをどんどん発見していくっていうことなのか。あるいは魅力的な面をもっと見せてくれということなのか。

父■〈好きになる〉のが止まらない、ということを〈もっと好きになる〉と言っているんだと思うよ。それで、言葉についてだけど、〈今君の心が動いた言葉止めて肩を寄せて〉というところがあって、〈僕〉の熱意のある言葉でようやく〈君の心が動いた〉んだけど、この人はおそらく言葉じたいには期待してないから、そこで〈言葉止めて〉抱き寄せたんだな。言葉より身体の方を信用している。精一杯のことは言ったので、これ以上はうまいこと言えないという、言葉に対する無力さもほの見える。

娘□〈今君の心が動いた〉っていうのはちょっと笑っちゃう。「やった、山が動いた!」みたいな。でもさ、何をもって「心が動いた」と言っているのかしら。人の内面の変化を外見から判断したってことでしょ。ちょっと表情が変わったってことかな。例えばお芝居なら、役者さんは「心が動いた」ことをどういう演技で表現するのかなって思う。脚本のト書きで、「太郎の言葉に、花子は心を動かされた」って書いてあったら、その変化はどう表現されるの?

父■オフコースのときの「愛を止めないで」にも同じような状況が書かれているよ。〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉って。そういう「お、今ちょっと心を動かしたな」って相手を観察している人なんだね。外見から内面を推測している。それが正しいかどうかはわからないけど、疑ってもいない。

娘□〈今君の心が動いた〉っていうのは、描写ではなく説明よね。そう説明されてるんだからそうなんだっていう。

父■この歌はだいたいそういう感じの歌だからね。例えば〈誰かが甘く誘う言葉〉って言っても、一般論では想像できるけど、具体性はない。僕の嫉妬が混じっている。〈多分もうすぐ雨も止んで二人たそがれ〉という描写がちょこっと入るのでホッとするけど、これはドラマのスチールでも見せられたのを取り入れたのかもしれない。

 

6-4

娘□「ラブ・ストーリーは突然に」の「突然」って、〈あの日あの時あの場所〉のことなのかということなんだけど。

父■さっきは「ストーリー」と「突然」の組み合わせは相性が悪いし、ドラマの内容とも違うという話をしたね。

娘□歌詞をよく読んだら、歌詞じたいの整合性という観点からしても〈あの日あの時あの場所〉っていうのを「突然」だとすると、そこからラブ・ストーリーが始まっていることにするのはおかしいと思う。

父■歌詞じたいにもそういう要素があると。

娘□〈あの日あの時あの場所〉をもって「突然」と言うなら、その一方で、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉と言っていることと矛盾してくる。だって、〈時は流れて〉というのは、それなりの時間の経過を意味しているでしょ。突然始まったというより、長いあいだ火がついてなかったってことよね。ラブ・ストーリーというからには〈君〉も巻き込んでいる必要があるけど、これはそれ以前の段階で、ひとり〈僕〉の気持ちだけが空回りしている。「突然」の瞬間とラブ・ストーリーの起点は同じではなくズレがある。

父■〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉=(a)という状況と、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉=(b)という状況が二つながら成り立つのは一体どういう場合だろう。(a)という偶発的な出来事によってもたらされた状況が、(b)のように不本意なかたちであれ安定的に存続しているのはどういう場合なのか。例えば街角で見知らぬ男女が出会ったような場合は(a)の条件は満たすけど、(b)の条件は満たさない。ナンパならすぐ口説き始めるだろうから、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉なんてことはありえない。じゃあ、合コンならどうか。これは(a)も(b)も満たしそうだ。連絡先を交換してどうということのないやりとりをしていただけであまり進展がなかったような場合。でも、恋愛が目的なので〈何から伝えればいいのか分からない〉というのもしっくりこない。

娘□たしかに、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉というグズグズした時間が許されるのは、恋愛以外の理由でお互いが近くにいることができるからよね。近くにいるから気持ちを伝えることに焦ることはなく、先延ばししてしまう。近くにいるから焦ってはいないけど、かといってどうでもいいわけではなく、その人へのこだわりがある。それってどういう関係なのかな。友達? 同じ会社の人? というのも無理があるか。

父■ちょっと例が思いつかないんだよね。〈あの日あの時あの場所〉っていうのは、字義どおりとらえるよりは詩的誇張だととらえたほうがいいかもしれない。

娘□どういうこと?

父■こまかく限定する方向での誇張ね。〈あの日あの時あの場所〉を厳密に考えると袋小路に入っちゃうし、傍からみていると、そういうこだわり方は滑稽に見える。歌だから〈あの、あの、あの〉っていうのは口調の良さで選ばれたんだろうって、多くの人は思っているのではないか。この歌詞の意味の密度からみても「あの時君に会えなかったら」で十分だと思う。「あの時」で済むのに、それを〈あの日あの時あの場所〉と微分することの理由が歌詞の中に見当たらない。

娘□歌詞の外側、受容のされ方も含めて考えれば、〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら〉というのは、運命の出会いを期待する聞き手にとっては共感ポイントじゃないかな。一方で、〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉というのも、日常の惰性に流されてもがいている聞き手にとっての共感ポイントになる。でもこの二つが同時に共感ポイントとして受容できる人はまず見つからないのでは? ただ、歌を聞いているときって歌詞の聞き方は結構いい加減だから、この二つについてどちらかに共感すれば、もう一方は背景に沈むのではないかと思う。

父■詩的誇張って言ってしまえば何でもそれで説明できてしまうから「逃げ」なんだけどね。

娘□だから、そこは逃げずに、もう少し〈あの日あの時あの場所〉にこだわってみたい。〈あの〉が何を指しているかというと記憶でしょ。始まりの日付をもった恋愛、まあ片思いだけど。そこでたんに〈君〉と出会ったということだけでなく、それじたいが記憶に刻まれるようなインパクトのある出来事がともなっていないと〈あの日あの時あの場所〉にはならない。そうでなかったら〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉なんてもったいぶった言い方は必要なく、たんに〈君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉でいいじゃん。

父■〈あの日あの時あの場所〉という熱のあるフレーズと、〈君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉という平熱のフレーズが組み合わさって微妙なねじれを生んでいる。

娘□〈君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉だけだったら、そんなの「あたりまえ」よね。二人が出会わなければ〈見知らぬ二人のまま〉なのは当然。トートロジー。もしこれが「僕等はいつまでも他人どうしのまま」とかだったら、情報が増えるんだけど。〈君〉とは他人ではない関係になっていることを前提にするから。で、平熱のフレーズにプラスされた〈あの日あの時あの場所〉という言葉が、その瞬間を特別なものであると伝えている。〈君〉と出会ったから〈あの日あの時あの場所〉が特別なものになったということはあるにしても、それ以上に、〈あの日あの時あの場所〉がそもそも特別な何かだったから、〈君〉との出会いも特別なものになった。

父■〈君〉と出会えたから〈あの日あの時あの場所〉が特別なものになったというんじゃなくて? その瞬間をのがすと出会えなかったような二人が出会えた運命的な偶然。

娘□いつどこで出会っても〈あの日あの時あの場所〉という聖なる瞬間になりうる。その偶然を記念日にしたり、思い出の店にしたりはあるけど、〈あの日あの時あの場所〉ってきざみ過ぎなのよね。そこには〈君〉と出会ったこと以上の何かがあったように思えるのよ。何か重要な瞬間としてピンどめされている。

父■それはどういう場合なの?

娘□例えば交通事故とか。

父■交通事故?

娘□〈あの日あの時あの場所〉と言うのに一番ふさわしいのは交通事故でしょ。事故と言っても大怪我をするわけじゃなくて小さい事故ね。その加害者と被害者として知り合う。事故は事故として銘記され、同時にそれは二人を引き合わせた出来事という意味も持つ。

父■まさに、食パンくわえて曲がり角で「ドーン!」だね。ぶつかった痛みとセットで相手が印象づけられる。

娘□そうして出会った二人は別に恋愛を前提に出会ったわけではないから、なかなか恋愛モードを出しにくく〈何から伝えればいいのか分からないまま時は流れて〉しまったと。

父■そういうレアケースを歌った歌なのか。他にどういうケースが考えられるか募集したいね。

娘□いずれにせよ、〈あの日あの時あの場所〉で出会えて感激しているのは〈僕〉だけで、〈君〉はその気持を共有していない。ラブ・ストーリーというからには二人の関係性が必要だから、〈あの日あの時あの場所〉ではまだラブ・ストーリーは始まっていなかったと言えると思う。ずっと続いていたのは〈僕〉の片思い。「突然」なのは一目惚れのことだったらわかる。

父■三原順子に「だって・フォーリンラブ・突然」(作詞、横浜銀蝿、1982年)というちょっと流行った歌がある。

娘□「ラブ・ストーリーは突然に」ではなく、「フォーリンラブは突然に」というタイトルならわかる。恋に落ちるのは「突然」だから「フォーリンラブ」と「突然」の結びつきは相性がいい。

父■ただ、「だって・フォーリンラブ・突然」は女性側の視点の歌で、恋人ではない男にドライブに誘われて海に行き、〈ちょっといいムードに負け(…)フォーリンラブあなたに夢中〉になったという内容で、男の方は十分その気があって誘っていて、なかなか女性の方がなびかなかったんだね。でも〈もういい私の負け〉と陥落した。

娘□あ、そのフォーリンラブって「ラブ・ストーリーは突然に」で言えば、〈今君の心が動いた〉に相当するって言いたいわけ?

父■そうそう。まあ、言葉がもどかしくてもじもじしている感じだから海に誘うほどの積極性はないんだけどね。逆に言えば、言葉だけで勝負してるのがエラい。

娘□お父さんって、すぐ話を脱線させるよね。〈あの日あの時あの場所〉で出会えて感激しているのは〈僕〉だけで、〈君〉はその気持を共有していないんじゃないかということに話を戻すね。さっき、〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら/僕等はいつまでも見知らぬ二人のまま〉という部分について話したじゃない? そこって、ある意味正しい認識が書かれていると思う。あの日あの時に出会えたことで〈見知らぬ二人〉ではなくなったというんでしょ。あの日あの時から恋愛関係が始まったとは言っていないのよ。たんに〈見知らぬ二人〉ではなくなっただけで恋人ではない。ラブ・ストーリーの起点ではない。それを自ら吐露しているのよ。

父■なるほど。でもそういう前後の文脈というのはいわば状況証拠だよね。それに加え、〈あの〉の使い方の説明も必要だよ。ふつう〈あの日あの時あの場所〉のように〈あの〉を使う場合は、二人がそれを特別なものとする共通した記憶を持っているからと考えるからね。会話の中で「あれ」とか「あの」とかの遠称を使う時、それが指す対象は目の前にない遠くにあるもので、記憶の中にあるものにも使う。二人で会話している場合は、お互いが共有している記憶があるものについて「あれ」や「あの」が使える。だから、〈君〉が〈あの〉を共有していないというのは、その点では無理があるかも。

娘□それが原則だけど、『日本語の大疑問』(国立国語研究所編、幻冬新書、2021年)という本が売れていて、それを読んだらこう書いてあった。

 

「「あれ」は、話し手と聞き手の共有知識を指し、そのことによって2人の共感を高めることができるのです。ただし(略)とても強い思い入れを表したいときには、例外的に、聞き手が知らなくても「あれ」が使えることがあります」(143頁)

 

 これってまさに今話していることが書かれていると思うの。〈あの日あの時あの場所〉の〈あの〉は〈君〉と〈僕〉の「共有知識」ではなく、たんなる〈僕〉の「強い思い入れ」と解釈できる。だって、その時点では〈君〉に恋心は生じていなかったから〈あの〉は〈君〉の記憶に残りようがない。気持ちを共有できない。

父■その「強い思い入れ」の場合の例文は掲げられている?

娘□あるわ。「このあいだ喫茶店でケーキを食べたんだけど、あれ、本当においしかったなあ!」

父■それってほとんど独り言だよね。

娘□そう。だからこの歌詞も〈僕〉の「独り言」ということになる。この本にも遠称は独り言でも使えるってあるわ。(141頁)

父■〈あの日あの時あの場所で君に会えなかったら〉というのは独り言か。ということは、この歌の言葉は全て〈僕〉という語り手の独り言ということになるね。独り言というか心内語。頭の中でそう思っているだけで、口に出したわけではない。だとすると〈あの日あの時あの場所〉というのは、ちょっと思い込みが激しくて滑稽な感じがするね。

娘□〈あの日あの時あの場所〉でなければ、いつラブ・ストーリーが始まったのかというと、〈今君の心が動いた〉とある、その時ね。〈君〉の心が動いたときにラブ・ストーリーという合作が開始される、というか、開始しうる。

父■〈君〉もフォーリンラブしたときだね。〈今君の心が動いた〉というだけではちょっと微妙だけど、歌詞の中から探せば、相当する言葉はそれしか見当たらない。

娘□まとめると、〈あの日あの時あの場所〉は〈僕〉にとってのフォーリンラブで、ラブ・ストーリーが始まったと言えるのは、〈君〉もフォーリンラブしたと考えられる〈今君の心が動いた〉ときから。ラブ・ストーリーって二人の気持ちが一緒じゃないと成立しない。ラブ・ストーリーの「突然」さは、〈今君の心が動いた〉の〈今〉で表現されている。