Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

海援隊「贈る言葉」「人として」の超越的視点と自己啓発~フォークソングの日本語

0 武田鉄矢の二つの貌

 「Jポップの日本語」と題しながら、70年代フォークに言及することがよくあるので、この際、「フォークソングの日本語」と括りなおして書いてみることにした。

 なぜ「70年代フォークに言及することがよくあ」ったのかというと、フォークの歌詞は面白いからである。これまでいくつもの歌詞を読解してきたが、分析に適した歌詞と、そうでない歌詞の二種類がある。心情を事物に託す歌詞は分析して面白いが、心情をそのまま説明してしまう歌詞は、書かれていること以上に何も言うことがないのでつまらない。Jポップ(=90年代以降の流行歌)以前は前者が多く、それ以後は後者が多いという印象をもっている。

 第一回目は何を取り上げるか。フォークの代表というわけではないが、超有名なところで海援隊の「贈る言葉」(作詞、武田鉄矢、1979年)と「人として」(作詞、武田鉄矢、1980年)を取り上げたい。言わずと知れたドラマ『3年B組金八先生』のシーズン1,2の主題歌である。

 海援隊は1973年に出した「母に捧げるバラード」で名を知られたが人気が続かず、その後77年の「あんたが大将」や79年の「JODAN JODAN」などのコミカルソングで再び耳にするようになった。「あんたが大将」のシニカルな歌詞はセンスが光っているし、〈あんたが大将〉というフレーズもちょっと流行った。「思えば遠くへ来たもんだ」という感傷的な歌もあって、これもその頃出て、のちに映画化もされた。

 海援隊は「贈る言葉」や「人として」が大ヒットして誰もが知るバンドになったが、これらの歌は生まじめさが前面にだされていて好きではなかった。私はベストアルバムを1枚買って聞いただけだが、海援隊の本質はコミカルな中に漂う悲しみだろうと思った。リーダーで作詞担当の武田鉄矢の俳優業が忙しくなったのか、海援隊の音楽活動は尻つぼみで終わっていった。

 タレントとしての武田鉄矢には、教師キャラと、冴えない男キャラ(女にモテない、会社で出世しない)というイメージの二つがある。いずれもテレビドラマの影響が大きく、前者は金八先生のシリーズに典型で、後者は『101回目のプロポーズ』(1991年)で戯画的に描かれた。この二つは分離したものではなく、金八先生はシリーズ当初は教師らしくない長髪で、冴えない外見でもあった。

 作詞においても、教師キャラ、冴えない男キャラが反映されている。「贈る言葉」は女にふられた男が人生訓を説くものだし、「あんたが大将」は出世した相手をねたみつつ、〈云わせてもらえばこの人の世は チャンスばかりじゃないんだよ/心に燃える小さな夢を つまずきながら燃やすこと〉(作詞、武田鉄矢、1977年)と、人生とはなんぞやを語る。「JODAN JODAN」も冴えない男キャラの歌だが、こちらには人世訓はない。そのかわり道化に徹底する。冴えない男キャラはそのままではやりきれないので、道化になるか、反転して教師化するのである。

 

1 「思えば遠くへ来たもんだ」の構築力

 贈る言葉」を見ていく前に、武田鉄矢の文学青年的な側面が強く表れている「思えば遠くへ来たもんだ」について簡単にふれておきたい。海援隊の歌の中で私が最も好きな歌だからだ。

海援隊「思えば遠くへ来たもんだ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0016d9/l00623d.html

 「思えば遠くへ来たもんだ」(作詞、武田鉄矢、1978年)は曲調もそうだが、しんみり感全開の歌である。歌詞は中原中也の詩「頑是ない歌」を発展させたもので、表現は一部流用されている。「頑是ない歌」はズルズルと続く内面が書かれているが、武田鉄矢の作詞のほうが構造がしっかりしている。改作という観点からも興味深い。

 「頑是ない歌」では、子どもの頃の12歳の自分を〈今では女房子供持ち〉の大人になった自分が回想している。一方、武田鉄矢の作詞では、歌という反復的な構造をもった性質のものにあわせる都合もあってか、過去の自分は14歳と20歳という2パターンが用意される。故郷にいた14歳の子ども時代を思い出しているのは〈故郷離れて六年目〉のときで、年齢的には20代半ばであろうか、これは在郷/離郷の対比である。20歳のときは女にふられて死にたいと泣いており、それを思い出しているのは〈今では女房子供持ち〉になったときである。これは孤独/家族の対比である。このあと〈眠れぬ夜に酒を飲み〉という場面も語られるが、これはさらに年齢を重ねたときのものであろう。大人時代/子ども時代の対比といえる。

 「頑是ない歌」がある固定した一点から一点への回想であるのに対し、武田の歌詞は段階的に年齢を重ねていき、回想される状況もそれにあわせてスライドしていて、状況の変化がよりくっきりした対比として描き出される。たんなる郷愁ではなく、過去は今に続いていて、今は未来に続いている。私はどこから来て、どこへ行くのか。今の自分を過去の自分は想像しえただろうか。「思えば遠くに来たもんだ」という感慨は、〈あのころの未来に ぼくらは立っているのかなぁ〉(「夜空ノムコウ」作詞、スガシカオ、1998年)というよく知られたフレーズに似ている。この歌はのちに映画化されたが、映画化したくなるようなドラマ的な構成をもっている。私がこの歌をはじめて聞いたのは中高生くらいのときだが、自分の行く末についても思いを巡らしたことを覚えている。

 ところで、この歌には〈踏切、貨物列車、レール、夜汽車、汽笛〉など鉄道に関わる語が何度も出てくるのでちょっと不思議だったが、wikipediaの「思えば遠くへ来たもんだ」の項に、「元々は所属事務所からの日本国有鉄道国鉄)のキャンペーンソングを作れという命令で作られた曲であったが、同じ事務所の谷村新司の作った「いい日旅立ち」が採用され、この曲は不採用となった」とあって腑に落ちた。

 ついでながら忘れないうちに書いておく。ミスチルの「イノセントワールド」(作詞、桜井和寿、1994年)を聞いた時に、〈窓に反射する(うつる) 哀れな自分(おとこ)が 愛しくもある この頃では〉という部分がどこかで聞いたことのある歌詞だなと思っていたら、これは海援隊の「心が風邪をひいたようで」(作詞、武田鉄矢、1982年)とそっくりなのだと思った。〈窓の向うに やけに寂しい 男がいるなと 僕が僕を見た/こんな悲しい 顔して生きてたのか〉。もちろんこれは石川啄木の短歌「鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/みすぼらしげに歩(あゆ)むものかも」と類似の発想である。誰かがパクったとか、そういう話ではない。

 

2 「贈る言葉

2-1 夕暮れと影

 贈る言葉」は別離を描いている。卒業式でよく歌われるので卒業ソングと思われているが、厳密に言えば送別の歌である。卒業ソングは、学校生活であんなことやこんなことがあった、もうお別れで寂しいね、というものだが、この歌には仲間同士の共感的な回想は含まれない。これからの処世的な注意事項が語られる。

 wikipedia贈る言葉」の項目には次のような記述がある。

 

「元来は叶わなかった愛を歌うラブ・ソングとして書かれた曲であった。当の武田自身は、この曲は、福岡市中央区桜坂で「女々しか(女々しい)」という理由で当時21歳の女性(ウメダさん)にフラレて、それを契機に作られた曲(失恋ソング)である、とも語っている[5]。別の機会には、(略)女性にふられ「大きい声出すよ!」と去られた経験から生まれたとも語っている。」

 

 この歌は作詞した武田鉄矢が女性にふられた経験を思い出して書いたものだという。別れる相手に人世訓を垂れるというのはおかしな話のように思える。ふられた者(弱者)は強者の立場から語ることはできない。だが賢者のように語ることはできる。賢者は、強者/弱者の対立軸を超越している。賢者の叡智を生み出すのは弱者の省察である。だからこの歌でも、別れ際に弱者が賢者に変身できたのである。人生訓じみた言葉を上から目線で語る「贈る言葉」は、弱者が強者を屈服させようとする、ニーチェ道徳の系譜』のような価値転倒をめざす歌なのかとさえ思えてくる。

海援隊贈る言葉」→ https://j-lyric.net/artist/a0016d9/l008fd6.html

 歌詞は〈暮れなずむ町の 光と影の中〉と、文学的な表現から始まる。〈暮れなずむ〉という言葉は普段あまり使わない。NHK放送文化研究所の言葉についてのコラムにはこう書いてある。

 

「暮れなずむ」というのは、完全に日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表します。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使っているのだとしたら、それは本来の使い方ではありません。

「暮れなずむ」ということばのなりたちについて考えてみましょう。まず「なずむ」という動詞があります。これは「水・雪・草などに阻まれて、なかなか思うように前に進めないこと」を表す伝統的なことばで、古事記万葉集にも出てきます。このような意味から広がって、物事がなかなかうまく進まなくなること、また、しようとしていることがうまくいかずに思い悩むこと、なども表すようになりました。/「暮れなずむ」というのは、この「物事がなかなかうまく進まなくなること」の意味を生かしたことばです。「暮れなずむ空」「暮れなずむ春の日」などのように使います。(略)暮れそうでなかなか暮れない状態のこと、春の日足の長いことを表します。

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/078.html

 

 〈暮れなずむ〉というのは、時期的には春のことなのである。描かれる別れは春の別れであるから、卒業や就職を契機に関係を解消するということであろう。2番の歌詞に〈これから始まる 暮らしの中で/だれかがあなたを 愛するでしょう〉とあるが、〈これから始まる 暮らし〉というのが、新しい暮らし、年度変わりの新生活と読めるので符牒が合っている。

 南沙織に「人恋しくて」(作詞、中里綴、1975年)という感傷的な歌があって、〈暮れそうで暮れない 黄昏どきは〉という歌詞がある。私が小学生のとき流行っていて、歌詞の意味はわからないまま歌っていた。〈暮れなずむ〉というのは「完全に日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態」ということだから、まさに〈暮れそうで暮れない 黄昏どき〉ということである。では、どうして「贈る言葉」は黄昏どきの歌なのか。2番の歌詞でも〈夕暮れの風に〉とあって、その時間帯をことさら指し示している。

 実は、海援隊の歌には「夕陽、夕空、夕暮れ、日暮れ」がよく出てくる。

 

・その空もゆっくり暮れてゆく 夕陽沈む時悲しみは きれいな茜に染まるでしょう 「いつか見た青い空」

・そして夕陽に消えてゆく 「思えば遠くへ来たもんだ」

・病院の窓から夕陽みつめ親父は黙って笑ってる 「おやじ」

・はぜる火の粉は夕空に舞い 「巡礼歌」

・鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど 「人として」

・飛んでみたくなる 夕暮の空 「新しい人へ」

・夕暮れの空まで 真っ直ぐに 駆けてきた 「遥かなる人」

・あなたが心を 夕暮に染めた 「恋不思議」

・丸太を割って薪にしようそして 夕暮れの浜辺に積み上げ 「ヘミングウェイをきどって」

・君と交せし恋文を日暮れの庭にて火に焼べる 「恋文」

・秋の日暮れに じゃが芋カレーライス 「郷愁心~のすたるじい~」

・日暮れの庭で薪を割る 「冬じたく」

・陽暮れの街角響く歌声 「ダメージの詩」

  (以上の作詞は全て武田鉄矢

 

 夕暮れというのは、昼から夜に移行する中間の時間帯である。一日はまだ終わりきらないが、これから何か行動を起こすには遅い。何かやり残したことがあっても、あきらめどきの、受け入れるしかない時間である。

 贈る言葉」が〈夕暮れ〉なのも理解できる。ここで語られるのは、何か区切りがついたときに振り返って出てくる言葉である。ヘーゲルは「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」と書いたが、これは哲学の知は現実に遅れてやってくるということだ。夕暮れどきに発せられる言葉は、どんなに気が利いていても現実を変えるには遅い。しかし、自分にとっては恋愛の終わり(=夕暮れ)であっても、相手にとっては〈これから始まる 暮らし〉(=新しい朝)なのである。だから、夕暮れに得た智慧を、相手に贈ろうとするのである。

 贈る言葉」が夕暮れの、しかも〈暮れなずむ〉歌であるのは、その内容からもふさわしいものである。さきほど引用したコラムで、「なずむ」というのは「しようとしていることがうまくいかずに思い悩むこと、なども表すようになりました」とあったことを思い出してほしい。「贈る言葉」は男女の別れの場面を描いている。ここでいろいろ言っている男の〈私〉はどういう性格かというと、〈さよなら〉とすっぱり別れるというよりは、〈さよならだけでは さびしすぎる〉と言って、いろいろ説教臭いことを言う。もう別れる相手に、である。少しでも自分の影響を残したいと思ったのだろうか。あるいは、うまいことを言って相手の気が変わるのを期待しているのかもしれない。言われる方からすれば余計なお世話である。〈さよなら〉だけで別れられると思っていたに違いない。別れる相手に人生とはこういうものだみたいなエラそうなことを言われたくない。〈暮れなずむ〉グズグズした感じがこの男にピッタリなのである。

 次に進もう。〈暮れなずむ町の 光と影の中〉とあるが、この〈光と影の中〉とは、どういうことだろうか。夕暮れどきは光が弱くなる。光が弱くなるということは影も薄くなる。光のあたっている部分と影になっている部分の境があいまいになっているということだろうか。

 〈光と影〉というのは、本のタイトルなどでも『○○の光と影』とかよくある言い方なので、思い浮かべやすいフレーズである。いいところも悪いところも含めた全体ということである。この歌の場合は、原義どおりで視覚的なものだ。〈影〉は、黒く塗りつぶされるのではなく、印象派の絵画みたいにいろんな色をもっている。影には陰という漢字もある。私(筆者)は、「陰」は日のあたらない暗い部分で、「影」は地面にできる二次的なもののことかと思っていたが、考えてみれば両者に原理的な違いはない。辞書にはこうある。「「陰」は物にさえぎられて光が当たらない暗い部分、目立たない部分を指すのに対し、「影」はできる「かげ」の像・形に注目し、「姿」という意味を持つという違いです。」(https://www.weblio.jp/content/陰と影の意味の違い・使い方の解説)この違いだと、歌詞の漢字は〈影〉より〈陰〉の方がふさわしいだろう。

 いずれにせよ、〈光と影の中〉というのは、冗長な付け足しのように思える。〈暮れなずむ〉というのは光の状態の変化に注目した言い方である。だからそれをまた〈光と影の中〉にいるというのは、同じようなことを言っていることになる。〈暮れなずむ〉という説明だけでは伝わらない〈光と影〉の微妙な状態を描写するならいいが、たんに〈光と影の中〉と説明するだけなら情報が絞り込まれていかない。とはいえ、こういう発想は俳句的だと言われるかもしれない。俳句なら冗長な部分は省略していくが、歌詞はすぐ耳から消えていくから、同じようなことでもあれこれ言い方を変えて繰り返したほうがわかりやすくなる。理解に時間がかかる歌詞ばかりだったら、聞いていて疲れてしまう。

 〈光と影の中〉についてもう少し説明を続けたい。歌の終わりの方はこうなっている。〈遠ざかる影が 人混みに消えた/もうとどかない 贈る言葉〉。〈遠ざかる影〉とあるように、ここにも〈影〉が出てくる。こちらの〈影〉は、さきほどの「陰と影の意味の違い」の説明どおり「像・形」のことである。〈影〉は、はじめの方で〈光と影(=陰)の中〉と出てきて、終わりの方で〈遠ざかる影〉と出てくることで呼応しあっている。明瞭な「像・形」をもっていた〈あなた〉の〈影〉は、〈人混み〉にまぎれて、ぼんやりした陰のようになって消えてしまう。全体の〈光と影〉の一部として溶け込んでいく。〈暮れなずむ町〉の一部になる。終わりと始まりが円環になっている。すべては、夕暮れという明晰さを書いた明かりの中の出来事である。

 

2-2 人生訓の真意

 次は〈去りゆくあなたへ 贈る言葉〉である。〈去りゆく〉というのは気取った言い方に聞こえる。ここは男がフラれるところのはずだ。その露骨さを〈去りゆく〉という言葉で隠している。なぜ〈去りゆく〉ことになるのか、その理由は語られない。

 ここまで〈暮れなずむ〉〈光と影〉〈去りゆく〉というブンガク的な言葉が並べられていた。だが、このあとは途端にドロっとしてくるのである。悲しいとか、泣くとか、信じないとか、強い情念的な言葉が出てくる。そして、ここは問題が多いところでもある。順に見ていこう。

 まず、1番と2番で、どう言っているかを掲げてみる。

 

1番 悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい

2番 信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい

 

 1番で言っているのは、無理せずに素直に感情に従えということである。悲しいなら、思い切り泣いて十分悲しみなさいというのである。一方、2番はどうかというと、1番の逆なのである。1番の論理を2番の内容に適用すれば、信じられないならどこまでも信じるな、ということになるはずだ。しかし、そうではない。騙されて傷ついてもいいから信じろというのである。今度は逆に、2番の論理を1番にあてはめるなら、悲しければ泣くのではなく笑ったほうがいい、ということになるだろう。実際、ジェームズ=ランゲ説では、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだと言われる。〈涙かれるまで 泣〉くのを勧めたら、悲しみを深くするだけではないだろうか。

 上記の二つの文は、「○○するよりも、○○したほうがいい」という形式を持っている。これを「徹底すること/抑制すること」という観点で書き直すと次のようになる。

 

1番 悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい

  →抑制するよりも、徹底したほうがいい

 

2番 信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい

  →徹底するよりも、抑制したほうがいい

 

 ということになる。方法論が一貫していない。これら二つの文は、普遍的にそうせよということではなく、場合によるものと理解したほうがいい。場合によっては、「涙かれるまで泣くよりも、悲しみこらえて微笑むほうがいい」こともあるし、「人を信じて傷つくよりも、信じられぬと嘆いたほうがいい」こともある。適用する当人の背景・文脈を抜きにはどちらともいえない。

 実は、1番のほうは、どういう場合にそうすべきかが示されている。続く歌詞にそれは書かれている。

 

1番 悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい/人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから

 

 ここには、〈涙かれるまで 泣くほうがいい〉のはどうしてなのかという理由が書かれている。泣くことは悲しみの感情の表出である。たくさん泣くことはたくさん悲しむことを意味する。〈人は悲しみが 多いほど 人には優しく できる〉ものである。人は人に優しくすべきだ。だから〈涙かれるまで 泣くほうがいい〉。人は、泣くと他人に優しくなれる。これは社会学ふうに言えば、順機能であり潜在的機能である。誰も、人に優しくなりたいがために泣くわけではない。目的論ではなく、悲しむから結果的にそうなるのである。

 2番の歌詞を見てみる。こちらはもう少し込み入っている。

 

2番 信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい/求めないで 優しさなんか 臆病者の 言いわけだから

 

 後半部分は、この歌で最も難解な箇所である。というのも、1番で〈人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから〉と言って〈優しさ〉を推奨しているのに、2番では〈求めないで 優しさなんか 臆病者の 言いわけだから〉などと言って、〈優しさ〉をずいぶん軽く扱っているからである。

 私は次のように解釈した。〈信じられぬと 嘆く〉のは〈人を信じて 傷つ〉きたくないからである。〈人を信じて 傷つ〉いたときに、それを癒やしてくれるのが誰かの〈優しさ〉である。だが〈優しさ〉を条件に人を信じるのは〈臆病者〉である。臆病の反対は勇気である。傷ついてもいいから人を信じようとするのが勇気のある人だ。人を信じることは跳躍である。跳躍に失敗したとき〈優しさ〉という救済が保証されていなければそうしないというのは臆病である。

 1番では、自分の悲しみは他者への優しさの肥やしになるという。2番では、他者への開かれ(人を信じること)を勧め、その際、自律した強さ(優しさを求めない)を持てという。優しさは人に贈与するものではあるが、傷つきと交換で求めるものではない。1番も2番も、他者に対して開放的であれという点は同じだ。

 さて、1番の歌詞は、誰が発した言葉なのかという点も重要である。〈人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから〉というのは、どこかで聞いたことがあるような(いわばクサイ)セリフでもあるが、こうしたセリフは、人生経験豊富な人が言うときにそれなりの説得力をもつ。だが、語り手の〈私〉は、〈はじめて愛した あなたのために〉というくらいだから、まだ若く、青年の年齢のようである。そうだとすれば、本を読んだだけで人生を知った気になっているのかもしれない。あるいは、若いのにすでに相当苦労を積んだ人である。

 もっと根本的なことをいうと、そもそも失恋して悲しいのは自分のほうであろう。〈涙かれるまで 泣くほうがいい〉というのは自分に言うべき言葉ではないか。それなのに、慰めの言葉を相手に言っているのである。この違和感は、これを再帰的な言葉として解釈することで理解できる。自分はすでに〈涙かれるまで 泣く〉経験をしている。だから〈人には優しく できる〉。そうした経験は今回もまた〈あなた〉とのあいだで反復された。〈贈る言葉〉は、今それを告げている相手との経験それ自体もその一部となって生まれた言葉であり、それを相手に伝えることは教訓であると同時に皮肉なのである。

 

2-3 うんざりする〈あなた〉と縋りつく〈私〉

 この歌では、語り手である〈私〉と〈あなた〉の関係がよくわからない。どういう状況で言っているのかも曖昧である。〈私〉が〈あなた〉を愛しているのは確かである。しかし〈あなた〉から〈私〉への愛は感じられない。学校もののテレビドラマなので、〈私〉と〈あなた〉は教師と生徒の関係ではないかと思ってしまうかもしれない。教師が生徒を教え子として愛するということは十分ありうる。しかし歌詞の中に〈だけど 私ほど あなたの事を/深く愛した ヤツはいない〉ともある。教師だったら、生徒に対し自分のことを〈ヤツ〉と卑下した言葉を使うまい。また〈私ほど(の)ヤツはいない〉という独占的な言い方もしないだろう。一般的に、生徒の家族の愛のほうが、教師の愛よりもずっと深いはずである。〈私〉と〈あなた〉を教師と生徒の関係であると考えるのは無理である。

 この歌はどういう状況を歌っているのか。すでに見たように、時期は春で、就職や進学で離れ離れになるのを契機に、交際も終わりになったようである。場所は路上である。では、別れ際の二人はどういう位置関係で立っているのか。「贈る言葉」というタイトルからは、二人が向かい合っていて片方の言葉を聞いているように思えるが、そうなのか。

 二人の位置関係を表す表現が少しながらある。〈去りゆくあなた〉〈遠ざかる影が 人混みに消えた/もうとどかない 贈る言葉〉である。これを読むと、語り手である〈私〉は一点に立ちつくしたままで、〈あなた〉は移動しているようである。しかも〈私〉がまだ言葉を発しているうちにどんどん動いて〈人混みに消え〉てしまうのである。〈あなた〉は、〈私〉の〈贈る言葉〉を行儀よく聞いていたわけではなく、〈私〉が話しているうちでも、背を向けて離れていってしまうのである。〈私〉は、それにも関わらず話し続けているようだ。〈もうとどかない 贈る言葉〉というのは、〈あなた〉が離れているときもまだ話していたことを表している。〈人混みに消え〉るとき〈私〉の言葉は届かなくなる。〈人混みに消え〉る、つまり〈あなた〉を個人として識別できなくなったので、思いを届ける先を失ったのである。あくまで〈私〉にとって〈もうとどかない〉ということである。

 では〈あなた〉はいつ、どのタイミングで〈私〉に背を向けたのか。二つ考えられる。一つは、最初から背を向けていたのではないかということである。冒頭は〈暮れなずむ町の 光と影の中/去りゆくあなたへ 贈る言葉〉となっている。この〈去りゆく〉というのは、一般的な解釈では「去りぎわ」とか「別れようとするそのとき」といった時間的意味であるが、この歌では〈あなた〉が〈遠ざかる影〉と動きをもって描かれているところをみると、この〈去りゆく〉も空間的に離れていくことを描写していると解釈できる。つまり〈私〉が〈贈る言葉〉を話している最初から、〈あなた〉は〈私〉に背を向けて離れつつあるのである。

 〈私〉に背を向けるタイミングとして考えられるもう一つは、2番の歌詞の〈夕暮れの風に 途切れたけれど/終わりまで聞いて 贈る言葉〉という箇所にある。これは2番の歌の最初に置かれているので、外見的には、歌の1番が終わり、間奏があって2番が始まるときに、間奏で〈途切れたけれど〉歌はまだ続くから〈終わりまで聞いて〉ということのように読める。歌の構造的にはそういう理由で書かれた歌詞かもしれない。だが、二人の位置関係の観点から考えると、男の話が〈夕暮れの風に 途切れた〉のを見計らって、チャンスとばかりに背を向けたというふうにも読める。〈終わりまで聞いて 贈る言葉〉というのは、〈贈る言葉〉はまだ途中なのに〈あなた〉がその場を離れていってしまうので、最後まで聞いてくれと引き止めているのである。〈終わりまで聞いて〉と言うのでまだまだ続きそうな気配であるが、〈あなた〉としては早く切り上げてもらいたかった。たぶん〈あなた〉にしてみれば別れの言葉は〈さよなら〉だけで十分だったであろう。だが〈さよならだけでは さびしすぎるから〉と勘違いした男が、道学者めいたことを語りだし、しかも長いので、うんざりしているのである。

 この歌では、二人が別れることになる理由は書かれていないが、おそらく〈さよならだけでは さびしすぎるから〉と〈贈る言葉〉を語りだし、長いので背を向けると〈終わりまで聞いて〉とすがりつく。「あなたのそういうところが嫌いなの!」ということではないか。(2-1で引用したwikipediaにある「女々しか」というのはそういうことであろう。)

 どちらのパターンにせよ、〈私〉は立ちつくしたまま話し続け、〈あなた〉はそれに対して何も応答せず無反応で立ち去る。せっかくの〈贈る言葉〉を〈あなた〉は無視するかのように離れていき、その背中に〈贈る言葉〉は投げかけられる。それがこの歌の二人の位置関係になるだろう。そしてそれはすこぶる奇妙な情景である。

 これまで、去りゆくあなたの背中に語り続けているという前提で書いてきたが、相手がいないにも関わらず話しているとしたら周囲からは異常に見られるので、途中からは心内語として語っていると解釈してもいいだろう。

 以上、「贈る言葉」を読んできたが、よく読むとふうがわりな歌詞であることがわかる。「贈る言葉」とはいうものの、それは一般的にイメージするような端的なアフォリズムのようなものではないし、前向きなものというより、痛々しさが残る赤むけの言葉なのである(それが〈飾りもつけずに 贈る言葉〉ということなのかもしれない)。

 どこからどこまでが「贈る言葉」なのか。〈悲しみこらえて~〉〈信じられぬと~〉というところであろう。だが、そもそもそれは、別れるときに贈る言葉にふさわしいものとは言い難い。この人が一番伝えたいことは、〈これから始まる 暮らしの中で だれかがあなたを 愛するでしょう/だけど 私ほど あなたの事を 深く愛した ヤツはいない〉というところだろう。この部分はそれまでとは趣を異にしている。それまでは人生悟りきったようなことを言っていたのが、ここでは自分の思いがストレートに出されている。これは、オレと離れてもオレとの愛や思い出を糧に(自信に)生きてくれ、ということとは違う。この先もオレほどあなたの事を深く愛するヤツは現れない、オレはあなたにとって特別な存在なんだ、オレのことを忘れないでくれ、もっと言えば、オレと別れたことを後悔するぞ、というルサンチマンが含まれた言葉なのである。それが〈だけど〉という接続詞に表れている。他の〈だれか〉より、この〈私〉の特別さ。だが、他の〈だれか〉より、この〈私〉の愛のほうが深いという根拠はない。あるのは信念だけである。

 〈私ほど あなたの事を 深く愛した ヤツはいない〉という主張は、相手に何を求めているのだろうか。よりを戻せということか。言われた方はそれに対してどうしようもないだろう。「ありがとう」くらいなら返せたかもしれない。だが〈あなた〉から〈私〉へと贈られる言葉はない。〈私ほど あなたの事を 深く愛した ヤツはいない〉というのが最後の「贈る言葉」だとしたら、その言葉は相手を混乱させるだけである。この歌の救いは、その言葉は〈もうとどかない〉ものとされていることである。逆に言えば、相手に届かないとわかっているからそう言った(思った)のである。

 

3 「人として」

3-1 「人として」の自己啓発

 贈る言葉」は『3年B組金八先生』の第1シーズンの主題歌であるが、第2シーズンの主題歌は「人として」(作詞、武田鉄矢、1980年)である。

海援隊「人として」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0016d9/l005a16.html

 「人として」はそのタイトルや繰り返される〈人として〉というフレーズから、露骨な説教調の歌かと思われてしまうが、歌詞を読んでみるとなかなか気の利いたことを言っている。「贈る言葉」の高みに立った賢者視点ではなく、弱者に寄り添ったものになっている。次のような部分がそうである。

 〈鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど/翼は愚かな あこがれと気付く/私は大地に影おとし 歩く人なんだ〉

 これは「翼をください」(作詞、山上路夫、1971年)に代表される、翼が生えて空をとびたいという歌に対するアンチである。「人として」のあとも、卒業ソングの定番「旅立ちの日に」(作詞、小嶋登、1991年)では〈勇気を翼にこめて 希望の風にのり〉と歌われ、小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」(作詞、小田和正、1991年)でも〈君のためにつばさになる君を守りつづける〉と歌われる。「翼ソング」は、ポジティブな感じをだすための発想の一つの類型になっている。

 だが、こうした「翼ソング」にも弊害はある。翼を求めるから翼がないことに悩む。本来ないものを想像してその欠如に悩むとしたら愚かである。「人として」は、空を見上げていたまなざしを大地に反転させる。中島みゆき地上の星」(作詞、中島みゆき、2000年)もそうである。〈地上にある星を誰も覚えていない/人は空ばかり見てる〉。これら現実主義の歌は、空をフワフワ舞うような夢を語る歌の群れの中にあって、新鮮なものの見方を提供する。

 とはいえ、それは作詞者の一貫した考えが反映されたものというわけではない。「人として」の2年後に出した「遥かなる人」(作詞、武田鉄矢、1982年)では、〈本など広げて 言葉を探すより/人は空を見上げている方が/ずっと 賢くなれるんだ〉と正反対のことを言っている。流行歌は世間の常識と反対のことを言うから日常のレースからはずれた人の心の癒やしになる。本を読む(勉強する)より空を見ていたほうが賢くなる、というのも流行歌ふうの逆説ではある。

 ちなみに「遥かなる人」は〈恋に悩んで考えこむより 汗を飛ばして走ってみろよ ただの水さえ美味く飲めるから〉などと三島由紀夫太宰治に対して言うようなことを言ったりして、日常の思考のクセを否定することで変革をうながす自己啓発につながっていく感じがあって好きではない。この書き手は、エンタメと自己啓発の危ういところでバランスをとっているように私には思える。〈遙かなる人の 声が僕に届く〉という言い方には超越的な視点がはっきり表れているので、この歌は海援隊的なものを受容できるか否かの試金石になるだろう。

 「人として」にもそういう側面がある。この歌には1番と2番に共通するフレーズがある。

 

1番 思いのままに生きられず 心に石の礫なげて
   自分を苦しめた 愚かさに気付く
   私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ

2番 鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど

   翼は愚かな あこがれと気付く

   私は大地に影おとし 歩く人なんだ

 

 ここで〈自分を苦しめた 愚かさに気付く〉、〈翼は愚かな あこがれと気付く〉というのがそうである。愚かな自分に気づくということである。では、何を契機にそう気づいたのかというと、それはよくわからない。〈思いのままに生きられず 心に石の礫なげて〉と言った直後に、次の行では、それが愚かなことだったと気づいてしまうのである。この跳躍は、これが詩だからである。

 「気づき」の直接のきっかけはわからない。しかしどうやって気づいたかは書かれている。それが〈そうだ人なんだ〉というところである。〈そうだ…なんだ〉が気づきを意味している。人間は完璧ではない。現実と妥協して生きていくしかない。人間そのものが中途半端で愚かな生き物であり、自分はその一員である。だから愚かであるのは当然である、ということである。「私は人間である。人間は愚かである。だから私は愚かである」という三段論法であるが、この中で「人間は愚かである」というのが重要である。人間には愚かでない人もいるが、それはむしろ例外である。自分は例外のうちに含まれない。「人間は愚かである」と定義することができるというのが「気づき」の部分である。

 「気づき」というのは自己啓発のキーワードであるが、それを2回も繰り返すこの歌は、駄目な自分という自己否定感を一瞬で自己肯定感に変え、〈人として〉前向きに生きることを促す。ただしその〈人〉は、エリートではなく大衆の一人である。

 

3-2 「人として」の倒置法

 「人として」の歌詞の最初の部分を「贈る言葉」と対比しつつ読んでみよう。

 〈遠くまで見える道で 君の手を握りしめた〉と始まる。なぜ〈遠くまで見える道で〉なのか。この歌の場所的なイメージは、2番の歌詞にも〈鳥のように生きたいと 夕空見上げて佇むけれど〉とあるように、開放感のある屋外である。「贈る言葉」も〈暮れなずむ町の 光と影の中〉〈夕暮れの風〉などとあり、屋外にいることがわかる。これらは『金八先生』のオープニングに出てくる広々として多くの人々が行き交う荒川土手を想像させる。特に「人として」にある〈遠くまで見える道〉というのはそうである。〈君の手を握りしめた〉のがもし映画館の暗闇の中であれば、かなり違う雰囲気の歌になっただろう。

 武田鉄矢という人は、モテない男の道化ぶりを笑いと嘆きで語る人で、このあとの歌詞にも、〈手渡す言葉も 何もないけど〉とか〈思いのままに生きられず 心に石の礫なげて〉といった不器用さが語られているので、この歌の場面も口説達者な爽やかイケメンが女性をうまいこと手玉にとっているというものではないのだが、開けた屋外であることによって、〈君の手を握りしめた〉という行為に非モテのいじけたコソコソ感はまったくない。

 〈遠くまで見える道で 君の手を握りしめた〉というのは、比喩としては、君と将来の約束をするというように読める。〈手渡す言葉も 何もないけど〉とあるのは、知的な理解より身体性が優位になっているということを言っている。2番の歌詞に〈夢を語り合えばいつも 言葉はすぐに途切れてしまう〉とあり、言葉の無力さが繰り返される。これは言葉の力を信じている「贈る言葉」と対照的だ。「贈る言葉」の能弁さは頭でっかちと退けられ、代わりに、しどろもどろであっても存在じたいに価値を認めている。すでにふれた「遥かなる人」では、さらに進んで〈本など広げて 言葉を探すより/人は空を見上げている方が/ずっと 賢くなれるんだ〉とか〈恋に悩んで 考えこむより 汗を飛ばして走ってみろよ〉と反知性的な方向へ進んでいる。

 ところで、なぜ冒頭で〈君の手を握りしめた〉とでてくるのだろう。この人は手を握ったものの〈手渡す言葉も 何もないけど〉という。手を握って声をかけるのではなく、言葉にならないから手を握ったのである。それはいいが、それなのに、なぜここで手を握ったのかである。歌の語り手は不器用な生き方をしてきたことを自認している。〈思いのままに生きられず〉〈自分を苦しめた〉とか〈ひざを抱えて うつむくことばかり〉などと自分に自信がない。〈手渡す言葉も 何もないけど〉というのは言葉のみならず、相手に与える価値のあるものは何もない、魅力のない人間だということである。そういう人はたいてい自分のカラに閉じこもりがちだ。にもかかわらずここでは他者に積極的にふれあおうとしている。それはなぜか。それはこの冒頭の一文は始まりではなく答えだからである。すでに述べたように、〈自分を苦しめた 愚かさに気付〉いた語り手は、その悟りをもって他者にふれあおうとしたのだ。魅力のない人間でも〈人として〉価値がある。それは言葉では伝えにくい。存在として示すしかない。

 〈君の手を握りしめ〉ることができたのは気づきの成果である。そこにいたるまでの道のりが、冒頭の一文に続いて語られていることなのである。結果が倒置されているのである。

オフコース「YES-YES-YES」「Yes・No」「愛を止めないで」~君僕ソング(その5)

1「YES-YES-YES

娘□オフコースの他の歌はどうなのかな?

父■じゃあ僕が好きなところで「YES-YES-YES」(作詞、小田和正1982年)。間奏でクラクションの効果音が入るのが洒落ていていいんだよね。きれいにまとまっているだけでは物足りないと思ったので異物を入れたのかな。

オフコースYES-YES-YES」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l005cde.html

娘□歌詞をとおして読んでも状況がよくわからないんだけど、なんとなくマッチョというか、マンスプレイニングの感じがする。

父■ああ、そうなんだ。実は歌詞をしっかり読んだことがないんだ。この機会に読んでみよう。

娘□この歌詞の内容には、はっきりした目的があるでしょ。何回も繰り返される〈僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ〉っていうこと。その目的を達成するために、〈君〉に指図したり、おだてたり、言い訳したりして自分に従わせようとしいる。具体的にどういう場面かはわからないのに、〈僕〉の〈君〉に対する支配性、エラそうに「教え導く感じ」だけは伝わってくる。

父■そうなんだ(笑)

娘□最初から見ていくと、〈君が思うよりきっと 僕は君が好きで〉っていうのは、なんだか見透かしている感じだし、マウントをとりたがっている。この二人はうまくいってないんだね。その原因は〈僕〉にあって、〈あの頃の僕はきっと どうかしていたんだね〉っていうから、過去になんかやらかしたんだね。それを〈どうかしていた〉で済まそうとしている。浮気でもしていたのかな。それで〈失すものはなにもない 君の他には〉なんて持ち上げているけど、他の彼女に逃げられてしまったので、〈君〉にまで逃げられないように囲い込もうとしているように聞こえる。〈失すものはなにもない 君の他には〉って、それはあなたの都合でしょ。〈今 君はすてきだよ〉というのも評価者ぶった言い方。自分には〈どうかしていた〉という引け目があるから、そっぽむかれないようにおだてておく。〈大切なことは ふたりでいること〉とか〈切ないときには 開けてみればいい〉なんていうのは教え諭す立場からの言い方。〈どうかしていた〉人に言われたくない、って思うんだけど。他人を評価したり指導したりできる立場なのか。

父■君は何にたいしてムカついているの?

娘□もちろんテクスト内の人物であり語り手でもある〈僕〉についてよ。歌詞の書き手の人生観とかそういうのじゃなくて。誤解されないように言っておくけど。

父■この歌では〈君〉は〈僕〉に一方的にはたらきかけられる対象になっていて、〈君〉のことはよくわからないままだね。〈君はいつも そんな顔して〉ってあるからムスッとしているのかな。〈僕〉に強く促されて、小さな声で「うん」とでも言ったのか。それが〈君〉の返事としての〈YES-YES-YES〉ってことだろう。

娘□〈もっと大きな声で きこえない きこえない〉ってせっつくんだけど、相手は渋々返事をしただけでまだ迷っているのに、無理やり承諾させるみたいで嫌だ。無理やり復縁を迫る感じ?「お前は俺の言うとおりにしてりゃいいんだよ! 俺についてきますって言えよ! 「はい」って言えよ!「はい」って!」みたいな。

父■そんなに乱暴かな。

娘□言われる方は脅威よ。〈もっと大きな声で きこえない きこえない〉なんて。

父■小学校の先生が子どもを叱るみたいではあるね。あるいは上級生が新入生に気合を入れるみたいな?「声が小さい! 聞こえないぞ!」って。

娘□怖~い。もともと過失は〈僕〉にあったはずなのに、〈振り返らないで〉〈手を離さないで〉って禁止したり〈もっと大きな声で〉とか命令的な言い方になっているし、〈あなたを連れてゆく〉なんて指導者になったつもりでいる。そもそも〈僕のゆくところへ あなたを連れてゆくよ〉っていうけど、そんなに自信があるわけ?〈僕のゆくところ〉に。

父■〈僕のゆくところ〉って具体的に何のことかわからないけど、これから先の人生を一緒に歩いてほしいといったことじゃないかな。この〈YES-YES-YES〉っていうのは、〈君〉はそんなに嫌がっていないような気もするんだけど。むしろ嬉しくて、ちょっと恥ずかしがっているから声が小さいのかもしれない。

娘□まあ、〈君〉の態度がよくわからないから、そうととれなくもないけど、〈君はいつも そんな顔して〉というところに〈君〉の気分が表されているとすれば〈君〉は不機嫌なままなんじゃないかな。

父■〈そんな顔〉ってどんな顔?

娘□嬉しそうな顔ではない。「そんな顔するな」って言うのは、相手の意に沿わない顔のことでしょ。

父■〈そんな顔〉をさせることになった理由に思い当たるフシがあるから、〈あの頃の僕はきっと どうかしていたんだね〉って反省というか言い訳したんだね。その上、〈失すものはなにもない 君の他には〉っていう「君が大事アピール」を付け加えた。案外これで簡単に機嫌が直ったのかもしれないよ。

娘□そうかなあ。そんなに簡単かなあ。だとしたら、みくびられてるなあ。

父■「君僕」の観点から言うと、出だしの〈君が思うよりきっと 僕は君が好きで/でも君はいつも そんな顔して/あの頃の僕はきっと どうかしていたんだね/失すものはなにもない 君の他には〉というところは「君僕」が繰り返されていて、それによって世界がすごく狭くなっている気がする。視線が君と僕のあいだでぐるぐる往復しているだけで息苦しい。出口がないというか。〈君の嫌いな東京も 秋はすてきな街/でも大切なことは ふたりでいること〉とあって、〈東京〉の風景に開かれるかと思いきや〈ふたり〉に閉じてしまう。歌詞だけだとそうなんだけど、さっき間奏でクラクションの効果音が入るって言ったでしょ。クルマの走行音や電車のガタンゴトンといった雑多なものがその一瞬に詰め込まれている。雑踏の雰囲気が凝縮されている。歌詞じたいは、ふたりの世界に閉じられているんだけど、効果音が断片的に入ることによって、街の風景がスッと広がってくるんだ。効果音が覗き穴のようになって、そこから街の広がりが見える。街の広がりを言葉ではなく音で表現する。見事じゃないか。しかもこの効果音は歌詞とのつながりで意味を持っている。決して遊びで入れたものじゃない。あなたに〈YES〉と言わせたいのに、それが聞こえないというところで入っている。〈もっと大きな声で/きこえない きこえない〉というのは、なんで聞こえないかというと、街の雑踏がうるさいからだ。ちゃんと理屈がとおっている。理知的な遊びだよね。

娘□へえ、一瞬で反転するのが好きなんだ。お父さんらしい、ひねくれた感受性だね。

 

2「YesNo

父■「YES-YES-YES」を取り上げたら、「YesNo」についてもふれておかなきゃだね。

娘□似たようなタイトルだ。

父■「YesNo」は1980年の、「YES-YES-YES」は1982年のシングル。最初に細かいことを言うと、シングルレコードジャケットや歌詞カードでは「YesNo」の真ん中の点はナカグロになっているけど、レコードに貼ってあるラベルやCDでは「Yes-No」とハイフンになっている。こういうこだわりのなさはオフコースのグループ名と共通している。一方、「YES-YES-YES」はハイフンで統一されている。

娘□ナカグロって日本語の並列表記とか、「お・も・て・な・し」みたいに一字づつ区切るとき使うけど、英語ではあまり見ないね。

父■この歌の場合は「YesNo」とスラッシュにしたほうがかっこよかったかもね。それと、このジャケットで左側にいるメンバーがのけぞっているんだけど、それが小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」の写真とちょっと似ている。ま、どうでもいい話なんだけど。

娘□先にでた「YesNo」と、後にでた「YES-YES-YES」はどういう関係なの?

父■「YesNo」というのは疑問文が重ねられた歌詞で、返事は「Yesなのか、Noなのか、どちらなの」と迫っている歌。「YES-YES-YES」の方は「YES」と返事をしているみたいだけど、声が小さいし、周囲がうるさいので、本当に「YES」と言っているのか、それとも「YES」と言うように促しているだけなのか曖昧さが残る。〈きこえない きこえない〉というのが本当に聞こえないのか、それとも〈もっと大きな声で〉言わせて意思表示をはっきりさせるためにそう言っているだけなのか確定できない。実は「YesNo」も答えを聞いていない。こちらは逆に、自分のほうが〈ぼんやり〉しているんだけどね。

娘□「YesNo」は「Yesなのか、Noなのか」という選択だったけど、「YES-YES-YES」は「YES」を3連打しているわけで、一歩前進なのか、それとも〈僕〉に都合のよい解釈をしただけなのか。どちらにせよ、「YesNo」も「YES-YES-YES」も、二人で手をたずさえて睦まじくという感じの歌ではなさそうね。「YES-YES-YES」には〈手を離さないで〉ってあるから、二人の結びつきにはすでに懸念材料があること(手を離すかもしれない)が承知されている。

父■〈僕〉はどんどん先に行くから、置いてかれないようにしてねってことでしょう。

娘□この二人はペースが合わないのよ。

父■タイトル解釈はそのくらいにして、「YesNo」の歌詞を読んでみよう。

オフコースYesNo」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l005cf4.html

娘□「YesNo」ってタイトルとしては洒落てると思うけど、歌詞を読んでも、状況がよくわからない。

父■うふふ。

娘□なに? 気持ち悪い。

父■2,3回じっくり読んでみてよ。

娘□えー。(5分経過)あ、わかった、そういうことか。

父■では、順を追って説明してみて。

娘□最初はスキーマが不明な歌だなって思った。イメージがぼやけていて像を結んでこない。歌詞にも〈君のことぼんやり見てた〉ってあるように、曖昧な靄に包まれて〈ぼんやり〉した感じの歌だなって。昼下がりの気怠そうな感じがした。

父■そのはっきりしない感じがどこから来たのかもっと教えて。

娘□〈~の?〉という疑問文が多いからかな。〈今なんていったの、好きな人はいるの、君を抱いていいの、好きになってもいいの、心は今 何処にあるの〉。で、それに対する答えは最後までない。宙ぶらりんのまま。〈好きな人はいるの?〉って聞くのは、いなければ自分が立候補したいっていうことでしょ。でもここには肝心の問がないわね。この男の人はこの女の人が好きだってことはわかる。で、女の人に他に〈好きな人はいるの?〉と聞いている。ここまではいいけど、もし返事がノーだったら、即、抱いてもいいということになるわけ? そうじゃないわよね。だって女の人がこの男の人を好きかどうかの情報がないじゃない。「僕のことは好きなの?」という問いが抜けている。

父■たぶんそこはあんまり期待してないんじゃないかな。〈心は今 何処にあるの〉っていうくらいだから、中途半端だということがわかっている。〈好きな人はいるの、君を抱いていいの、好きになってもいいの〉という質問は、君を好きになったらトラブルが生じるかという質問でしょ。君が僕を好きかどうかは聞いていない。答えてくれなさそうだからね。だから、君の意思は曖昧なままでも、自分の気持ちを遂行した場合、トラブルにはならないよね、という確認をしているんじゃないかな。

娘□しゃべらないけど雰囲気で語るタイプなのね、この女の人は。〈ああ 時は音をたてずに ふたりつつんで流れてゆく〉とか〈今 君の匂いがしてる〉っていうから、もうかなり親密な感じがする。それなのに今さら〈君を抱いていいの〉って許可をもとめてくるのは、あんた空気読めない男ね、って思ってるんじゃないかな。〈好きになってもいいの〉って言うけど、好きになる気持ちって自分を超えたところから押し寄せてくるものだから、好きになろうと決めて好きになりましたっていうもんじゃないでしょ。まあ、この人はいろいろ聞いてくるけど〈君のことばかり 気になる〉っていうように、もう自分を制御できてない状態になってる。いっそギュッと抱きしめてしまえばよさそうなものなのに、我慢強くて、あくまで相手の許可を得られるまで一線を超えようとしない。ある意味ずるいところがある。「君が承諾したから行為に及んだんだ」って言い訳を用意している。

父■この歌を作詞した小田和正は『YES-NO 小田和正ヒストリー』でこう言っている。

「ずっと疑問文で成立している。そして最後に相手に責任を取らせる歌なんだ。どうなんだって、突きつける。当時それならタイトルは『Yes or No?』じゃないかって言った奴がいたけど、突きつけてるんだ。だから『Yes-No』なんだ」(WikipediaYesNo」の項目から孫引き)。

娘□たしかに〈好きな人はいるの、君を抱いていいの、好きになってもいいの〉はどれもイエスかノーの二者択一で答えられる問いね。二者択一だからまさに突きつけられている感じがする。でも「Yes or No?」じゃなくて、突きつけてるから「Yes-No」なんだってどういうことなのかな?「Yes or No?」と「Yes-No」の違いがよくわからない。だけど、どうしてそんなこと突きつけられなきゃいけないのかな? 自分は女性に誘惑されたって思ってるの? 誘惑されたのに相手の態度が曖昧だから、どうすればいいのかってジレンマに陥って怒ってるの? もうこの状況なら自分で行動しちゃえばいいと思う。返事はいらないでしょ。でもこの人は、手を出すのに許可を求めている。慎重派というかズルいというか。

父■その誘惑されたのか、っていう見方は面白いね。誘惑したんだから態度を鮮明にしろと。でも誘惑というのは曖昧なまま引っ張るものなんだよね。小田はさっきの本でこんなことも言っていた。「抱きしめようはともかく、君を抱いていいのは、当時の歌詞の中でも一線を越えてた。でも、そこを超えたから、みんなのアンテナに引っ掛かったんだよ。世の中には、いい曲だけど地味な曲って、たくさんある。それは、歌詞が一線を越えてないから、アンテナには引っ掛からないってことなんだよ」(同前)。

娘□たしかに〈君を抱いていいの〉はちょっとキツいフレーズだと思った。お金が介在してるみたいな割り切った言い方。

父■この前年に出した「愛を止めないで」には〈いきなり君を抱きしめよう〉ってあるんだよね。いきなり抱きしめるより〈君を抱いていいの〉と相手に了解を得るほうが「一線を越えて」いるのはどうしてか。行為としてはいきなり抱きしめるほうが過激だよね。

娘□それは男の人の意志か女の人の意志かということでしょ。いきなり抱きしめるのは男の人がやることだから男性が支配する社会では許されているけど、〈君を抱いていいの〉という問いに「はい」と答えるのは女の人の意志をあきらかにしてしまうことになる。それは本来隠しておかなければならないもの。性について女が主体性を持ってはいけないとされているから。

父■そうだね。ちょっと引っ掛け問題だったけど、実は「愛を止めないで」のほうは〈なだらかな明日への坂道を駆け登って/いきなり君を抱きしめよう〉という文脈なので比喩的だし、外で抱きしめてもその後はないんだけど、〈君を抱いていいの〉のほうは性行為を意味する換喩だからね。字面は似ているけど、比較はできない。

娘□でも字面だけから解釈すれば、あたしの言ったことも間違ってないはず。

父■さっき君が言った「誘惑」という考えを敷衍することで解釈できるフレーズがある。〈今日はありがとう 明日会えるね〉という不思議な歌詞があるんだけど、前後の文脈から浮いていて唐突だと思ったんだよね。言葉が足りなくなって適当な言葉で埋めたのかなと思っていた。〈ありがとう〉なんて何も思いつかないときにふっと口をついて出てきそうな言葉だからね。でもこの人が誘惑されて、相手にメロメロになっているとしたら、まさに〈今日はありがとう 明日会えるね〉なんてボーッとした頭で言いそうだね。

娘□この男の人って、自分のことは棚に上げて相手を責めている感じがする。最初からそう。〈今なんていったの? 他のこと考えて 君のことぼんやり見てた〉って。いろいろ相手に問いただしている状況で、〈今なんていったの?〉はないでしょ。この歌の中心的な問いは〈好きになってもいいの〉だと思うけど、もしかしたらそれへの答えを言ったのかもしれないのよ。それなのにぼんやりして聞いてなかったなんて。一旦答えているのに、何度も聞いてくるから呆れているんじゃないかな。〈ほら また 笑うんだね ふざけているみたいに〉というのは、答えをはぐらかしているということかと思ったけど、質問に対して答えているのに、また同じことを聞いてくるから笑っちゃうという意味もあるのかも。

父■〈ほら また 笑うんだね ふざけているみたいに〉というのは、ひとつの答えだよね。言わなくてもわかるでしょ、ということかな。

娘□何か答えても〈今なんていったの?〉と聞き返してくるとしたら、それはなんでだろう。聞きたくない答えだったから聞こえないことにしたのかな。もしそうなら、〈好きな人はいるの? こたえたくないなら/きこえない ふりをすればいい〉という歌詞があるけど、この〈きこえないふり〉は自分がすでにやっていることになる。〈こたえたくないなら/きこえない ふり〉をするに対応して、聞きたくない答えには〈きこえないふり〉をするっていう。

父■聞きたくない答えが返ってきたとすると、言わなくてもわかるでしょ、というふざけてはぐらかす感じとは相容れないものになってしまうな。

娘□あたしが言いたいのは、相手に対して投げかけていることは全部自分に跳ね返ってきているってこと。〈心は今 何処にあるの〉って言うけど、そういう自分の〈心は今 何処にあるの〉か? 自分にも煮え切らないところがあるでしょ。質問する前に行動すればいいと思う。だって「YES-YES-YES」の方はそういう歌でしょ。「YesNo」は返事を待って行動しないけど、「YES-YES-YES」は返事を聞く前に先に行動している。俺について来いって。

父■「YES-YES-YES」は「YesNo」のアンサーソングかと思ったけど、行動原理はかなり違っているね。

娘□あたしは、どちらの男も好きじゃない。「YES-YES-YES」みたいに決めつける男も、「YesNo」みたいに女に決めさせる男も嫌。

父■「YesNo」にはシンプルな言葉が並べられているんだけど、そのせいか言葉どうしが反応しあうところがあるね。

娘□あたしも、じっくり読み直したときに思ったのがそういうこと。作詞者はパズルのように言葉を並べているんじゃないかって。〈心は今 何処にあるの〉ってまじめに聞いているようだけど、実は最初から〈今なんていったの?〉ってはぐらかしていて、何を言ってもしっかり聞いていない人なんだってことを仄めかしている。尻尾と頭がつながっている。これってパズル的な配置じゃない?「言葉にできない」についてしゃべったときも、そんなような感じを受けた。哀しくても悔しくても嬉しくても、全部〈言葉にならない〉で締めくくれるっていうところが。

父■僕も、この人が書く歌詞は、素朴な言葉をパズルのように組み合わせたものだと思う。全部の作品がそうだとは言わないけど。でもそれは僕たちの深読みから生まれたものかもしれないね。同じような言葉を使って書いているから、言葉どうしが共鳴しやすくなって、そう読めるのかもしれない。

娘□この歌にはまだ謎なところがある。〈他のこと考えて 君のことぼんやり見てた〉ってあるけど、何を考えていたのかな?〈君〉は他に好きな人がいるのかなって考えていたのかな。だとしたら質問の答えを聞く前に次の質問で頭が埋まっていたことになる。この段階では考えるばかりで、目の前にいる〈君〉の存在をしっかり感じていない。

父■この男の人は言葉にこだわっていて、〈君〉の返事は曖昧な態度や雰囲気ではなく、明瞭な言葉として聞きたいようだ。一方で、自分の気持ちを伝えることには不器用で、〈ことばがもどかしくて うまくいえないけれど 君のことばかり 気になる〉っていうんだ。たしかに、〈君を抱いていいの〉なんてぶしつけな聞き方をするのは〈ことばがもどかしくて うまくいえない〉からだろう。二者択一の質問になるのも、言葉の微妙なニュアンスを表現できないからだろう。

娘□自分だって〈うまくいえない〉のに、相手にははっきりしろって言うのね。二者択一だから答えやすいと思うのは勘違いね。どちらでもない中間はどう答えたらいいの?

父■どっちとも答えられないから〈ほらまた笑うんだね〉ということになる。言葉へのこだわりがくじかれていく。それで、だんだん言葉から存在にシフトしてくる。〈今 君の匂いがしてる〉なんて、言葉ではないものが〈君〉の存在を強烈に意識させているということだよね。両者にとって、はたして言葉は必要なのか。〈ああ そうだね 少し寒いね〉という歌詞がある。この〈ああ そうだね〉という応答は何に対してのものなのだろうか。言葉ではなく体感でコミュニケーションが成立している。

娘□歌詞の謎なところといえば、〈何もきかないで 何も なにも見ないで/君を哀しませるもの 何も なにも見ないで〉っていうところも、どういうことかよくわからない。文脈上も唐突だし。

父■僕だけを頼ってくれってことなのかな。何も見るな、何も聞くなって引き算していって、残るのはこの僕だけになる。僕は〈君〉をそれまでの環境から引き離そうとしている。

娘□〈何もきかないで〉とは言うけど、僕の言うことは聞けと。〈なにも見ないで〉とは言うけど、僕のことは見ろと。もちろん比喩としてね。

父■〈君を哀しませるもの 何も なにも見ないで〉と言ってる。僕は君を〈哀しませ〉ない、だから僕を見よ、ということが言外にあると思う。いずれにせよ、〈何もきかないで 何も なにも見ないで〉というのはちょっと強い言い方だよね。だって、それまでは〈好きになってもいいの〉なんて遠慮がちな口ぶりだったのに、ここでは、〈何も〉聞くな、〈何も〉見るなって強調してるからね。

娘□ここだけ口ぶりが変わっている。

父■もう一つの特徴は、〈何もきかないで 何も なにも見ないで〉って、〈○○ないで〉を繰り返していること。この歌は疑問文を繰り返したり、〈○○ないで〉を繰り返したり、文体に意識的だよね。実は、小田和正はこの〈○○ないで〉という言い方が好きなんだよ。

娘□あ、「YES-YES-YES」にも〈振り返らないで()手を離さないで〉ってあった。

父■〈○○ないで〉を重ねるやり方は言葉が出て来やすいということに「愛を止めないで」で気がついたんじゃないかな。小田が作詞した歌でタイトルに「ないで」がついているのは3曲ある。オフコース時代の「愛を止めないで」(1979年)、ソロになってから「勝手に寂しくならないで」(1990年)、「だからブルーにならないで」(1993年)。これらは歌詞にも〈○○ないで〉が多用されている。

 

「愛を止めないで」・・・やさしくしないで、愛を止めないで!そこから逃げないで!、甘い夜はひとりでいないで

「勝手に寂しくならないで」・・・約束させないで そんなに縛らないで、想いをめぐらさないで、電話で捜さないで、愛が醒めたと責めないで、黙らないで、勝手に空しくならないで、もう ため息つかないで、勝手にひとりにならないで、勝手に寂しくならないで

「だからブルーにならないで」・・・ブルーにならないで 哀しいカオしないで、そんなふうに思わないで、時をさかのぼらないで、もう 戻らないで、失くさないで、気分じゃないなんて 言わないで、ためらわないで、忘れないで

 

娘□なにかするたびに〈○○ないで〉ってチクチクと禁止されたり否定されたりしたら、中森明菜じゃないけど「いい加減にして」って言いたくなる。「寂しくならないで」も「ブルーにならないで」も同じような意味だけど、そう言われても無理でしょう。

父■「だからブルーにならないで」に顕著なんだけど、〈○○ないで〉は、指示的な言葉とセットになっている。〈元気を出して、強く足をけって 走り出して、笑いとばせ、もう少し 顔上げて、だから信じて〉と上からの物言いなんだ。「愛を止めないで」もそういうところがあって、〈愛を止めないで! そこから逃げないで! /すなおに涙も流せばいいから/ここへおいで! くじけた夢を すべてその手にかかえたままで〉とあって、禁止と助言がセットになっている。「YES-YES-YES」もそうだったでしょ。

娘□応援ソングで「負けないで」とか「夢をあきらめないで」とか、「ないで」形式で奮起させるのがあるけど、そういうのとは違うなあ。応援ソングは相手を励ますために叱咤しているんだけど、これは応援ではない。

父■例えば〈そんなにブルーにならないで 気分じゃないなんて 言わないで/ためらわないで その愛が 誰れかの心に届く その時まで〉という〈○○ないで〉の3連発は、否定から励ましへ転換しているよね。いずれにせよ、〈○○ないで〉という形式を重ねると相手を追い込むかたちになって息苦しいかな。でも形式があるというのは言葉が出てきやすいということだから、つい使ってしまうのかもね。ちなみに、他の人の歌で、タイトルに「ないで」が含まれるものを見ると、いくつかパターンがあって、多いのが「あきらめないで」「行かないで」「さよならと(は)言わないで」「冷たくしないで」「泣かないで」「忘れないで」といったもの。発想が類型的になっている。

 

3「愛を止めないで」

父■オフコースについて、これまでもたびたび言及してきた「愛を止めないで」(作詞、小田和正1979年)を最後に見ておこう。この歌は、歌詞に〈「眠れぬ夜」はいらない もういらない〉とあるんだけど、「眠れぬ夜」はオフコース1975年に出したシングルで、それをわざわざカギカッコつけて引用している。タイトルの引用だけで、歌詞の内容は「眠れぬ夜」に関係ないんだけどね。

オフコース「愛を止めないで」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l001a01.html

娘□それなら、なんでそんなことしたんだろう。

父■その8か月くらい前に、山口百恵の「プレイバックPart2」(作詞、阿木燿子1978年)が発売されて大ヒットしていた。その歌詞に〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉とあるんだ。これはその1年前にヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」からきている。沢田の歌の歌詞には「勝手にしやがれ」という言葉は入っていない。もともとゴダールの映画のタイトルで、映画好きな阿久悠が拝借したものだ。ただ、〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉の〈出ていくんだろ〉があることで、沢田研二の歌を出典にしていることが明確になっている。そこで僕の勝手な想像なんだけど、小田和正は、歌詞に他の歌のタイトルを引用すると不思議な味が出ることに気づいたんじゃないかな。オフコースの歌の場合は自分が作った歌だけど。

娘□ちょっと論証にはなってないけど、ふーんって思った。

父■では、歌詞の内容をみていこう。まず、外見上の特徴だけど、同じ言葉が重ねられている。〈恐れている、叩いてる、揺れ始めてる〉と語尾に〈て(い)る〉を重ねる。それとさっきみた〈ないで〉の反復。それと、〈そっとそっと〉〈いらない もういらない〉という繰り返し。これは音読する場合に効果的なやり方だね。他には、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が〉と、直前のフレーズに出てきた〈君の心〉を引き取ってすぐ繰り返すところ。

娘□技巧的なのか、意図せずそうなっただけなのか……

父■それはわからないけど。

娘□じゃあ、次はあたしの感想を言わせてもらうね。まず「愛を止めないで」っていうタイトルなんだけど、これ、日本語として舌足らずな感じがする。愛する気持ちを止めないでってことなんだろうけど。

父■winkの「愛が止まらない」(1988年)っていうヒット曲もあるよ(笑)。「止める/止まる」は他動詞/自動詞っていう違いがあるけれど、共通しているのは、愛という精神的なものを客体化して、操作する対象として扱っていることだね。日本語としてはこなれていない。ポエムを書く時に使うくらい。愛の客体化といえば、「時に愛は」(作詞、小田和正1980年)のほうがすすんでいて、〈時に愛は力つきて 崩れ落ちてゆくようにみえても/愛はやがてふたりを やさしく抱いてゆく〉と擬人化されている。「愛を止めないで」を擬人化して言えば「愛よ止まらないで」になる。

娘□なんでそんなふうに愛を生き物みたいに言うの?

父■人を愛したときって、その気持をおさえようと思ってもおさえきれなかったり、逆に、あっというまに冷めてしまったりする。自分の気持ちなのに自分の思うようにいかない。しかも愛は二人の関係によって成り立っているものだから、余計当人どうしの思惑からずれてしまう。まるでそれ自体が意思をもった生き物みたいに。

娘□はぁー、今後の参考にさせてもらいます。次にいくね。歌詞の最初に〈「やさしくしないで」君はあれから/新しい別れを恐れている〉とあるんだけど、この〈新しい別れ〉っていうのも気になる言い方なのよね。そんな言い方する? ネットでも用例がほとんど見つからない。この歌が出て40年経っているのに用例がないということは、〈新しい別れ〉という言い方は受け入れられなかったということになる。

父■過去の別れの経験がまだ心の傷として残っていて、それが癒えないうちにまた別れるのは怖いということだろう。〈新しい別れ〉というのは斬新な言い方ではあるけど、かといって他の言い方も思いつかない。

娘□この歌の二人って、そもそもまだ正式につきあっている感じでもないのに、つきあう前から別れる心配を先取りしているのね。

父■なるほど、それならこれは〈新しい別れ〉というより「新しい出会い」だね。新しい出会いを恐れている。これなら日本語としてすっきりするし意味もわかりやすい。もちろんこの「出会い」というのは単なる人と人が出会うことではなく、おつきあいするという意味だよ。

娘□なんで「新しい出会い」はしっくりするのに、〈新しい別れ〉はしっくりしないの?

父■「新しい」という形容詞は多くの場合、プラスの価値をもって使われる。一方、「別れ」はたいていマイナスの場面に結びついているし、「出会い」はプラスの価値と結びついている。だから〈新しい別れ〉はちぐはぐな印象になるんじゃないかな。

娘□なるほどね。じゃあ、冒頭に戻ります。この歌が〈やさしくしないで〉って始まるところはいいと思うの。なんの前置きもなくいきなり〈やさしくしないで〉って言われると、聞き手は「どういうこと?」って引き込まれる。だって普通はやさしくしてほしいもの。やさしくされてあなたのことが好きになっちゃうと困るから、私に〈やさしくしないで〉っていうことでしょ。それでそうやって心を閉ざしている女の人にアプローチしてくる人がいて、それを〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という隠喩で表現している。〈心の扉を叩〉くっていうのはよくある表現だけど、この歌にある別の言い方では〈やさしく〉するということね。〈やさしく〉するのが〈君の心の扉を叩〉いていることになる。だから〈やさしくしないで〉というのは私の〈心の扉を叩〉かないでということ。私は誰とも関わらず閉じこもっていたいから。でも諦めずに〈心の扉を叩〉き続けたから、私も変わりはじめた。〈やさしく〉接したのが功を奏した。ここらへんまでは素直に理解できる。問題はここから先。

父■ほう、なんだろう?

娘□比喩の一貫性ということなんだけど、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉のあとに〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉と続くでしょ。この組み合わせがちぐはぐなのよね。〈愛を止めないで!〉というのは、〈愛〉を運動としてとらえ、それは今動いているということでしょ。止めるなという言葉は、動いているものにたいして言うよね。『カメラを止めるな!』って映画があったけど、あれはカメラを動かし続けろってことよね。

父■映画で叙述トリックを使ったものだった。

娘□何が言いたいかというと、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という比喩で、〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉というのは止まっていた心が動き出したということでしょ。〈君の心〉を心臓マッサージのようにほぐしていったら、〈君の心〉が蘇生したってことだと思う。閉ざされた〈扉〉を開きそうな気配が〈扉〉のむこうから伝わってきた。〈君の心〉は、〈ぼく〉がはたらきかけるまで仮死状態にあった、自分の部屋に閉じこもっていた、運動を停止していたわけ。心の動きは愛の前提。〈君の心〉が活動を再開して愛という運動が再びはじまる。

父■あー、わかった。こう言いたいんだな。〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉ということは、〈揺れ始め〉る前は、〈君の心〉はほとんど活動を停止していたということ。つまり愛も止まっていた。愛はすでに動きを止めていたのに、それに対して〈止めないで!〉と呼びかけるのはおかしいと。

娘□そうそう。

父■論理的な整合性を求めるとそうなるかな。うーん、でもこうも考えられる。ほら、火をおこすとき、種火ができたらフーフー息を吹きかけて火を大きくしようとするみたいに、〈君の心が そっとそっと揺れ始めて〉愛も少しずつ動き出したから、その再開した運動について〈止めないで!〉と言ってるのかも。頑張れって励ましてる。「火よ消えないで!」って。

娘□えー、屁理屈っぽい!〈愛を止めないで!〉という呼びかけは、比喩の中の〈ぼくが君の心の扉を叩いてる〉しぐさに相当すると思う。だからやっぱり止まっているものについて〈止めないで!〉と言ってるのよ。

父■すでにサボっている人に「サボるな!」とも言うね。

娘□サボり続けることはその状態を継続するために絶えずサボり続けている必要があるから「サボるな!」という禁止がサボりを解除することに効果があるけど、止まっているものは何の力も必要なくただ止まっているだけだから、その状態でいるものに〈止めないで!〉って言っても、もう遅い。

父■君の理屈だと、〈そこから逃げないで!〉もおかしいということになる?

娘□うん。それって逃げようとする人を引き止めるときに言う言葉でしょ。〈君〉はどうしているかというと、この隠喩では心を閉ざしているわけだから、愛から逃げてしまった人ということになる。どこまで逃げれば完全に逃げたことになるのか、逃げるのは永遠に終わらない過程なのかということは議論はできるけど、心の動きを停止してしまったような人は、とりあえず一旦は逃げおおせて、〈そこ〉つまり葛藤のある場所とは別の場所に引きこもったということができると思う。要は、逃げようとしているのではなく、もう〈そこ〉から逃げてしまって〈そこ〉にはいない。だから〈そこから逃げないで!〉という呼びかけも〈愛を止めないで!〉と同じで、もう遅い。

父■〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉という呼びかけは、〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という比喩と齟齬があるってことか。それなら〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉はどう言い直せばいいのかな。

娘□「愛を動かせ、そこから出てこい」とかじゃない。

父■おれじゃ歌にならないよ(笑)

娘□逆に〈愛を止めないで! そこから逃げないで!〉というフレーズを活かしたいなら、〈ぼくが君の心の扉を叩いてる/君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉という比喩を変えたほうがいいかも。

父■二番の歌詞に〈なだらかな明日への坂道を駆け登って いきなり君を抱きしめよう〉ってあるじゃない。これも比喩だけど、これはどう?

娘□心を閉ざして部屋の中に閉じこもっていた人が、明るい屋外に出てきたイメージなのかな。〈坂道を駆け登〉るっていうから坂道の上のほうに〈君〉はいるのかな。坂の上って解放的な感じがする。狭い部屋とは対照的。一番の比喩と二番の比喩はちょっと飛躍はあるものの一貫したイメージの延長として理解できる。でも〈いきなり君を抱きしめよう〉っていうのは気になる。外に出てきた人がまた薄暗い部屋に戻らないように抱きしめるってことなのかな。〈君〉を部屋から引き出したのは〈ぼく〉の功績だから、〈ぼく〉には抱きしめる権利があるってこと? でも〈いきなり〉すぎない? 〈君〉の気持ちを無視して〈ぼく〉の妄想を遂行しようとしている。そもそも〈君〉は〈ぼく〉のことをどれだけ理解してるんだろう。歌詞からは二人の関係がよくわからないけど、少なくとも「恋人未満」の関係だと思う。あたしの解釈は、女の人が失恋して落ち込んでいるところに新しく言い寄ってきたのが〈ぼく〉なんだと思う。そういう恋人でもない人にいきなり抱きつかれたらびっくりする。過去の傷を癒そうと思って外に出たらセクシュアルな関係を想定していない男に抱きつかれて、またトラウマになる、なんて戯画的な事態になりそう。それまでは〈君の心が そっとそっと揺れ始めてる〉なんてやさしく見守る感じだったのに、いきなり男くささが全開になっちゃった。女なんて抱いてやれば全部忘れるもんだ、みたいな押し付けがある。〈愛を止めないで!そこから逃げないで!〉っていうのも説教臭く聞こえてくる。この歌もマンスプレイニングソングなのかな。

父■マンスプレイニングは、言っている当人はそのことに無自覚だよね。

娘□精神科医斎藤環が『なぜ人に会うのはつらいのか』(中公新書ラクレ2022年、78-87頁)という対談で、人と会うことは暴力性をはらんでいると言っているのね。ここでの暴力というのは殴って従わせるとかということじゃなくて、「他者に対する力の行使」のこと。相手がどんなに優しい人だったとしても、会って会話をするのは相手の領域を侵犯しあう行為になる。とくに対人恐怖症ぎみの人はそれに敏感。この歌の〈君〉も心に傷を抱えている。そういう人が〈やさしくしないで〉というのは、私の領域に入ってこないでということでしょ。なのに〈ぼく〉は〈君の心の扉を叩いて〉、相手の領域に入ろうと試みている。〈ぼく〉からすれば〈君〉のためを思っての行為なんだろうけど、本来慎重であるべき。それなのに〈いきなり君を抱きしめよう〉なんて企んでいるなんて、まさに暴力。

父■そういう意味での暴力は、一律に否定できない。暴力的でなければいつまでも〈君〉は一人で心を閉ざしたままになってしまう。こじあけるのはよくないけどね。この歌の場合は、比喩の流れで解釈すれば、〈ぼく〉の呼びかけに応答して自分から外に出てきた感じかな。

娘□でも、それをいきなり抱きしめるのはやりすぎでしょ。

父■まあ〈ぼく〉の気持ちも理解してやってよ。〈ぼく〉は〈君〉が出てきてくれたんで嬉しくなって、つい抱きついちゃったんだよ。いや、そう思っちゃったんだよ。

娘□この人は〈君の人生がまっすぐにぼくの方へ〉続いていると、どういう根拠なのか思いこんでいる人だから、相手のことを思っているというより、自分中心な考えの持ち主なのよ。

父■そういうことをファンの人が聞いたら喧嘩になるよ。ネットにあったけど、普通はこういう解釈なんだから。

【愛を止めないで/オフコース】歴史に残る名曲の歌詞を解釈!ためらう相手を全て受け止める大きな愛に感動 https://otokake.com/matome/iF906Q

娘□ふうん。読んでみたけど、歌詞を素朴に理解するとこうなるってことか。そのサイトの解釈だと抱きしめることは救済だみたいなことが書いてあった。ここね。

 

「なだらかな未来への坂道を登り切ったら、いきなり君を抱きしめる。/これまでの「ぼく」から考えると少し大胆な行動にも思えます。/しかしその背景には、過去の傷から少しでも早く「君」を救い出したいという気持ちが表れています。/どこを切り取っても、「ぼく」は「君」の気持ちを第一優先として思いやっています。」

 

 えっと、〈いきなり君を抱きしめ〉ることがどうして「「君」の気持ちを第一優先として思いやってい」ることになるのか、あたしにはさっぱりわからないんだけど。

父■実は作詞した小田和正もそのあたりのこと、歌詞にでてくる男の傲慢さについては自覚的なんだよ。違う歌だけど「秋の気配」についてこう言っている。

 

いちばん好きな曲は?って、ファンクラブでアンケートをとると必ず1位になったんだよ。こんなに冷たい男なのに、どこがいいんだ?って、いっつも思ったもんね。この男の正体を、君たちはわかってないなって」

「本当に好きだったら、別れないもんね。別れるのは好き度が低下したからなんだし、もっといい相手が出てきてこっちのほうがいいなあと思ったからかもしれないんで。そういう傲慢な気持ちを横浜の風景の中に隠したのが、あの曲だったんだ。でも、書いたときは必死だったんだよ、言葉さがして。本当はそんなつもりなかったんだけど、あとで考えたらひどい男だな、と」

(小貫信昭『小田和正インタビュー たしかなこと』ソニー・マガジンズ2005年。引用はWikipedia「秋の気配」の項から孫引き)

 

娘□自分が書いた歌詞についてよくわかってる人なんだね。「冷たい男」「傲慢な気持ち」とかはなかなか言えないよ。書いた本人のほうがファンより客観的に見れている。聞き手は、曲のきれいさに引きずられて、そこまで深読みできないのかもね。だから歌詞を歌から切り離して、それを書かれた言葉として解釈することに意味が出てくる。

父■ファンは、たとえ違和感があったとしても批判的に語ることに遠慮があるだろうし、そもそも「そんなこまかいことは気にならない」タイプの人たちなのかもしれない。

娘□お父さんやあたしみたいに歌詞の細部にこだわる人間のほうが異常なのよ。9割9分の人は聞き流しているわよ。歌詞を丁寧に読む人でも、さっきのサイトみたいに微妙なところは適当に辻褄をあわせちゃうでしょうし。

父■比喩といえば、さっきもちょっと出てきたけど、この歌には印象的な歌詞があるじゃない。〈君の人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐにぼくの方へ〉っていうところ。最後は、それを反転して〈ぼくの人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐに〉と結ばれている。図解的にわかりやすいよね。ここが好きだっていう人は多いと思う。

娘□あたし、他人に「あなたの人生は二つに分かれてます」って言われたら頭にくる。あたしの人生お見通しみたいなこと言わないでって。しかも〈そのひとつがまっすぐにぼくの方へ〉って傲慢でしょ。占い師か!って。「あなたの人生は二つに分かれてます。一つは天国に続く道、もう一つは地獄へ続く道。天国に続く道はぼくの方です」みたいな。

父■うーん、この歌で一番感動してもらう部分なんだけどなあ……

娘□二つに分かれていて、どっちにするんだって〈君〉に選択させているのよ。「YesNo」も〈君を抱いていいの〉ってイエスかノーを選択させる歌だったけど、「愛を止めないで」も選択を迫る歌。それが「YES-YES-YES」になると〈僕のゆくところへ/あなたを連れてゆくよ〉、返事はイエスだよねって有無を言わせぬ強引さになる。選択できたほうが主体性を認められているぶんまだよかったのかとすら思う。

父■「愛を止めないで」は〈ぼくの方へ〉来てほしいから〈ここへおいで!〉と誘っているんだよね。しかも〈ここへおいで!くじけた夢を すべてその手にかかえたままで〉ってワケありの人を引き受ける気前良さがある。

娘□ホ、ホ、ホタルこい、こっちの水は甘いぞって、自分のほうに誘ってるわけね。〈ここへおいで!〉って言うけど、自分のほうから行こうとはしないのかな?「YES-YES-YES」みたいな強引さではなく。

父■過去を乗り越えるには自分で未来を選択しなければならないってことを言いたいんじゃないのかな? 「自分のほうから」ということでは、選択してもらう前に〈いきなり〉抱きしめちゃってるよね、強引にも。でも〈抱きしめよう〉だから未遂かもしれない。

娘□この歌をぼんやり聞いていると、〈まっすぐにぼくの方へ〉とあるから、将来二人は一緒になるような期待をさせるけど、〈ふたつに分れてる〉わけだから、〈君〉の選択次第でどうなるかまだわからない。〈ぼく〉としては〈ここへおいで!〉と誘い、〈くじけた夢を すべてその手にかかえたままで〉来なさい、それも引き受けるよと破格の条件を示しているんだけど、あくまで〈ぼく〉を選べ、全てはそのあとだということでしょ。そういうところに〈ぼく〉のプライドを感じるな。〈君〉という傷ついた人に対しても自分のプライドを優先する。

父■微妙なところをついてくるね。厳しいなあ。じゃあ、〈ぼくの人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐに〉って、〈ぼく〉も選択をすることになってるのはどうなの?

娘□〈ぼく〉のほうから反転させた視点ね。〈君の人生がふたつに分れてる〉の〈君〉を〈ぼく〉に入れ替えたら面白いと思って付け足したんじゃないかな。「言葉にできない」で、〈哀しくて 言葉にできない〉を〈嬉しくて 言葉にできない〉に置き換えても成り立つと思ったのと同じように。〈君の人生〉〈ぼくの人生〉という場合、順番が重要なのよね。先に〈君〉の選択が置かれている。〈ぼく〉は「あとだしじゃんけん」のように〈君〉のあとに選択する。〈そのひとつがまっすぐに〉といい差しになっているのも気になる。

父■言わなくてもわかるから言わないんじゃないのかな。〈ぼくの人生がふたつに分れてる/そのひとつがまっすぐに〉のあとは、当然、君の方へ続いてるってことじゃないかな。

娘□そう思わせておいて言わない。あたしにはそれがズルいなって思う。自分のことになると、言うまでもないじゃんって曖昧にするところが。選択の順番ということでは、これは〈君〉がまだ選択をしてないので、〈ぼく〉と〈君〉のルートが明瞭になっていないということを言っているようにも思える。〈君〉が〈ぼくの方〉を選択してくれたら〈ぼくの人生〉もまっすぐに君の方へつながる道ができる。でも自分から〈君〉への道は作らない。相手が態度をはっきりしないうちは自分も曖昧にしておく。問題はさらにあって、仮に君の方へつながる道ができたとしても、まだ〈ぼく〉にはもう一つの分かれ道が残されているということ。〈君〉に選ばれたあとも、まだ〈ぼくの人生〉は〈ふたつに分かれてる〉のよ。その分岐って必要? 相手に〈ここへおいで!〉って誘うなら、〈ぼくの人生〉は〈君〉への道一本じゃね? まだ分岐を残しておく理由はある? だから歌詞はいさぎよくこうあるべきね。「ぼくの人生がひとつに続いてる その先はまっすぐに君の方へ」

父■だけど、もし〈君〉が〈ぼく〉を選ばなかったらどうするの?

娘□馬脚をあらわしたわね。選ばれなかった場合を想定して保険をかけておくなんて。〈ぼく〉が自分の人生について言う場合、それが〈ふたつに分かれてる〉というのは「逃げ」なのよ。〈そこから逃げないで〉という人が、自分に関しては巧妙に逃げ道を用意している。

父■〈君の人生がふたつに分れてる〉という文を下敷きにして書いてしまったから陥った誤りのようにも思うけど、君の個人的な解釈としては面白いね。

オフコース「さよなら」~君僕ソング(その4)

父■オフコースを紹介するつもりが、だいぶ回り道をしてしまった。

娘□えー、今のは回り道だったんだ。

父■オフコースで一番ヒットしたのが1979年の「さよなら」(作詞、小田和正)。12月に発売されて、歌詞の内容と季節がマッチしていたのもよかった。この歌の歌詞は、歌詞を書くのが苦手というわりには、よくできていると思う。

オフコース「さよなら」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l002f59.html

娘□例えば?

父■冒頭は、〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉。これは、「もう 終わりだね 君を遠くに感じる」としても同じ意味だけど、それだと説明になってしまうから、そうせずに、感覚のパースペクティブを〈君が小さく見える〉と視覚的な隠喩で描写した。

娘□たしかに、相手への関心が薄れると、小さく見えるような気がする。

父■僕もそう思っていたから、イルカの「雨の物語」(作詞、伊勢正三1977年)にずっと違和感を持っていたんだ。〈化粧する君の その背中がとても 小さく見えて しかたないから/僕はまだ君を 愛しているんだろう〉とあるんだけど、小さく見えるということは関心がなくなったことを意味しているから、愛情も消えているはずなのに、逆にここでは、〈僕はまだ君を 愛している〉っていうことを確認する契機になっているんだよね。どういうことかと思ったら、これはたぶん「小さい背中」から子どもを連想して、守ってあげたいという保護意識が賦活されたってことじゃないかと思った。コンラート・ローレンツの有名な「ベビースキーマ」ってあるでしょ。幼い動物は特有の身体的特徴を共通して持っていて、それを見るとかわいい、守ってやりたいと思うという。小ささも可愛らしさに結びついているよね。

娘□「雨の物語」も「さよなら」も〈小さく見え〉るという言い方は共通しているのね。客観的に小さくなった、のではなく、主観的に〈小さく見え〉るということ。

父■〈小さく見え〉るのは愛情が薄れて遠くに感じるようになったからなんだけど、〈小さく見え〉るようになると、今度はベビースキーマが作動して、別の愛しい気持ちが湧いてくる。

娘□大人なのにベビースキーマ

父■「不憫さ」と言ったほうがいいのかな。そうなると「かわいい」ではなく「かわいそう」ということになるけど。言いたいのは、さよならの気持ち一本槍ではなく、ここで一旦屈折しているということ。「さよなら」は、先の〈小さく見える〉という歌詞のあと、〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉と続くんだ。もう終わりだって思いながら〈抱きしめたくなる〉という気持ちも湧き上がってくる。この矛盾した心の動きを「さよなら」は2段階に腑分けしている。

(1)もう 終わりだね → 君が小さく見える

(2)君が小さく見える → 抱きしめたくなる

 だから〈小さく見える〉には二重の意味があるということだね。

娘□(1)をもう少し丁寧に言うと、ここは、(a)君への関心が薄れたので君が小さく見えるようになったというより、逆に、(b)君が小さく見えるようになったことから二人の関係ももう終わりの時期にさしかかっていることを知った、ということなんじゃないかな。歌詞を補うと、

a)もう 終わりだね (だから)君が小さく見える

b)もう 終わりだね (なぜなら)君が小さく見える(ようになったから)

父■どちらとも解釈できるけど、(b)のほうが自然だろう。そういう認識の先後関係はあるにしても、「さよなら」は〈小さく見える〉ことをめぐって、(1)(2)のように2段階の過程で把握している。一方、「雨の物語」では、なぜ小さく見えるようになったかを書いておらず、「さよなら」における(1)に相当する部分がなく、小さく見えたからどうしたという反応の方(2)を書くだけなので、愛情と憐憫とを混同してしまい、小さく見えたからまだ愛していると言ったんだろう。

娘□本当はそれは愛ではなく憐憫、哀れみなのね。

父■そういうことだと思う。さて次に進もう。「さよなら」の歌詞のここが上手だと思うところ。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉という部分。これはこの歌の底流にある「哲学」なんだけど、それをシンプルに「自由」の二文字で表現して、それがどういうことかを前後の文脈でわからせるというのもうまい。

娘□自由って明るいはずのものなのに、哀しいものになってる。さっき、お父さんが、川島だりあの「悲しき自由の果てに」についてちょっと話したじゃない(その2に掲載)。その「自由」と似ている気がする。

父■そうだね。「自由」って解放的ではあるけど不安な要素も併せもっているね。

娘□私も挙げていい? 女性から見て微笑ましいところ。〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉という部分。ここは初々しいカップルの「あるある」を取り入れていると思う。書き手の観察眼を感じさせる。

父■それはわかるけど、〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉っていう歌詞、よく読むとへんだよね。だって、人に見られず寄り添い歩くなら〈誰も見ていない道〉だけで十分だろ。どうして〈寒い日〉という条件も必要になるのか。

娘□うーん、そう言われればそうかも。

父■答えを言うと、〈てれる〉には二重の意味があるんだ。〈誰も見ていない〉というのは人目を気にする点はクリアしているけど、〈僕〉自身の抵抗感を解除するには〈寒い〉から寄り添うという合理的な理由も必要だった。

娘□二重に照れ屋さんなんだ。めんどっちい人。この二人は、女性がリードしているみたいね。

父■誰もいない道で大胆になるのは女性が積極的な感じがするね。他のところでもそうかな?

娘□〈「私は泣かないから このままひとりにして」/君のほほを涙が 流れては落ちる〉という直接話法のところもそうじゃない? 涙が溢れ出てくるくらい悲しいんだけど、グッと耐えて、〈このままひとりにして〉と突っぱねる。相手の男性にはっきり「これでお別れなんだ」=「さよなら」だと思わせることができた点で、別れ方に成功したと思う。きっぱり別れたほうが次に進める。

父■そんなにきっぱりしてるかな。〈泣かない〉と言いつつ泣くのは自分の意に反したことを言っていますよというメッセージだとすれば、〈ひとりにして〉というのも「ひとりにしないで」という反対の意味に解釈せよということにならないか?

娘□どっちなんだろう。

父■この歌詞は弁証法的にジグザグ進んでいくところに特徴がある。まず〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉というのは、君への思いがなくなりかけているということだけど、それなのにすぐあとに〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉とある。君を遠くに感じているはずなのに、直後に、身近に引き寄せようとする。反対の方向に気持ちが振れている。次は、〈「私は泣かないから このままひとりにして」〉とあって、抱き寄せようとする僕の気持ちを察知したかのように、それを拒む。〈私は泣かない〉と言っている一方で、〈君のほほを涙が 流れては落ちる〉というように、言葉と反対の出来事が起こっている。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉とあるのは、束縛しない交際のほうが楽しいし長続きすると思ったんだろうけど、〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉と、結局、思いもかけず関係が破綻する原因になっている。二番の歌詞になると、君は今は僕以外の誰かとくっついて寝ているかもしれないと想像する一方で、かつては僕とくっついて歩いたこともあったと回想する。〈外は今日も雨 やがて雪になって〉とあるように、雨かと思えば雪になる。要するにこの歌は前言と反することが積み重ねられていくという構造になっている。事態がその性質のまま延長されていくのではなく、反対の事態が語られることによって折れ曲がって進んでいく。

娘□弁証法って「正反合」でしょ。「正反」はわかるけど「合」は?

父■雪だね。ラストで〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉ってあるでしょ。全てを覆い隠す雪は、心を凍てつかす一方で葛藤を浄化する。〈もうすぐ外は白い冬〉というのも白紙に戻すという感じがある。雪が、いざこざのすべてをチャラにしてしまう。

娘□歌詞って少ない言葉で表現しているから掌サイズの小説よりもっと短い指先サイズの小説みたいなものでしょ。その長さだと物語的にははっきりした構造をもたせることはできないから、とりあえずここで一旦締めくくりますっていうときに雪が使える。ストーリーが途中であっても、雪は個物を覆って情景全体をまとめあげてくれる。

父■イルカの「雨の物語」でも〈物語の終わりに こんな雨の日 似合いすぎてる〉って歌ってるでしょ。「さよなら」は雨が雪に変わるんだけど、雨とか雪という天候は、惚れたはれたという人事とは関係なく動いている。でもそれがリンクしているように見えるときがある。

娘□映画『天気の子』は、天候と人間の思念がリンクしている、というより操作している。

父■それはオカルトだから。昔から、気合で天気を操るという触れ込みの人はいたよ。それはともかく、和歌や俳句の感性なのか、僕たちは人間関係に問題があるとき、それを直視することを避けていったん棚上げするときに雨や雪に目をそらそうとする傾向がある。それを風流とも言うけど。風流って、人事から目をそらしているときに生まれる。

娘□俳句の「二物取り合わせ」はそういう技法じゃない?

父■ところでこの歌の出来事はどこで起きているんだろうか。

娘□どこで?

父■そう、場所はどこ?

娘□なんか道路に立ってやりとりしている感じ?

父■どうしてそう思った?

娘□なんかそういうイメージがあるんだけど、言われてみればはっきりした根拠はない。過去を回想する、〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉っていうところに引きずられたかな。

父■これ室内の出来事だよね。〈もうすぐ外は白い冬〉とか〈外は今日も雨〉とあるからね。自分たちは〈外〉に対して建物の内側にいる。

娘□そう言われればそうか。〈外〉って繰り返されているのにスルーしてた。

父■それで、〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉と歌っているよね。この比喩はねじれがある。雪は外で降る。でも〈僕ら〉は建物の中で降雪から保護されている。建物の「外/内」だ。一方、心は、ふつうは箱みたいに閉ざされたものとしてイメージされる。心にも「外/内」がある。だから、〈外〉で降る雪が〈心のなか〉に積もるというのは、入れ子状態になった内側に一気に入り込んでくるということになる。

娘□心が世界と一体化してるってことじゃないの? 窓の外に見える世界の出来事に自分を投影してたとか。

父■室内の出来事が重苦しいものになってきたから、そこから目をそらして窓の外を見たということだよね。外部は室内から関心をそらすために要請されたものだ。でもそれが一気に〈心のなか〉の出来事に結びつくのは飛躍があるなあ。もしこれが「僕らの上に静かに 降り積るだろう」ぐらいの歌詞ならわかるんだけど。「僕らの上」って「僕らの屋根の上」ってことだよ。三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ」だからね。

娘□理屈はわかるけど、歌の言葉は一瞬で消え去っていくものだから、聞き手のわかりやすさという点では〈心のなか〉とした方が、冷え切った感じがダイレクトに伝わるんじゃないかな。

父■そこまでの直接性は必要かなぁ。ところで、また「そもそも論」になるけど、そもそもこの歌ってどういう歌だと思う?

娘□恋人の二人が別れるところなんじゃないの?

父■たしかにそうだけど、すっきりしないところがあるんだよなあ。

娘□そう? わかりやすい歌だと思うけど。

父■じゃあ、どういう理由で二人は別れるんだい? どちらから別れを切り出したの?

娘□それは男の人からでしょ。だって女の人は泣いているじゃない。

父■でも2番で〈愛は哀しいね 僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉とあるんだよ。〈僕のかわりに君が〉という日本語がちょっと怪しげだけど、ここは「僕のかわりに君は」という意味だとすると、君は僕のかわりに他の誰かと眠るかもしれないということだから、別れたその日に、君はもう他の人とベッド・インしているわけだ。割り切りが早すぎないか。僕の他に彼氏をキープしておいたとしか思えない。

娘□でも、この人は泣いているのはどうして? 「私は泣かない」と言いつつ泣いているのは、自分の感情を制御できていないということで、別れはそれほど衝撃だったんでしょ。そういう人に他に好きな人がいるっていうのはおかしいんじゃないの?

父■「私は泣かない」というのはたんなる強がりではなく、そもそもこの女性が浮気したことが別れる原因で、原因は自分にあるから「私は泣かない」と言っているんじゃないかな? 自分が原因なのだから自分が被害者ヅラして泣くに価しない。「私は泣かない」というのは論理的にとるべき態度で、それに反して泣いてしまうのは感情的な態度だ。論理的にやるのは難しい。もし二股かけていたとしても、別れるのは寂しいんだろう。

娘□二股っていう根拠は何?

父■それはさっき言った〈僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉というフレーズだけど、この二人は最初からそうなる運命だったんだよ。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉とあるけど、その〈自由〉が原因なんだよ。

娘□「他人の関係」や「悲しき自由の果てに」にも〈自由〉ってあった。

父■同じオフコースの「眠れぬ夜」(作詞、小田和正1975年)も〈自由〉を主題にしている。〈愛にしばられて 動けなくなる〉〈愛のない毎日は 自由な毎日〉とあって、愛というのは人を束縛するもので、そこから逃げ出して自由になりたいという。そのあとで、どこまでそれが徹底できるか〈わからない〉とも言うんだけどね。「愛か自由か」はゼロサムで、どちらかを選べばどちらかを諦めなければならないと思われている。

娘□友達のことなんだけど、ステディになった途端に彼氏に厳しくされて、他の誰々と仲良くしすぎだとか、あの男と喋ってはだめだとか、どこに行ってたんだとか、スマホで連絡したときにすぐ返事を返せ何やってたんだとか、いろんなルール決められてウザくて仕方ないって。なにかそういう規制したり詮索したりする権利でも獲得したかのようにふるまわれて窮屈だって。

父■「他人の関係」という歌では、「愛か自由か」ではなく、「愛も自由も」の方法論が語られている。愛に拘束されないために、会っている時間以外は他人として自由でいようという。時間によって切り変えようとすところが実験的だね。時間によって態度を変更することで、不都合な恋愛のやましさを軽減している。でもこういう関係は両者の微妙なバランスで成り立っているものだから長続きしないだろうね。普通、こういう関係は金銭を介在させて時間を切り売りするものになるよね。「他人の関係」という歌は、性の売買から金銭的なものを取り去ったらどうなるかという思考実験だと思う。「愛と自由」は不安定だけど、「お金と自由」は安定している。

娘□「愛か自由か」という二者択一の他にも、「愛も自由も」という両者のいいとこ取りの方法もある。でも、いびつなところがあると。嫁入り前の娘のする話じゃないわよ。

父■それで〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉と歌う「さよなら」の〈自由〉はどうなのかというと、「愛か自由か」ではなく「愛も自由も」のほうなんだよ。ただし、「他人の関係」は時間によって愛と自由を切り替えることで両立させていたけど、「さよなら」は愛と自由を対立するものと考えず、両者を合体しようとした。

娘□ん? どういうこと?

父■つまり自由恋愛。

娘□自由恋愛って?

父■他に好きな人ができたら遠慮なくつきあえばいいじゃんってこと。つきあう相手は特定の一人に制約されない。複数の人と同時期に交際してもいい。恋愛の一番の束縛が結婚というかたちだから、結婚という制度には取り込まれない。なんか先を行っている感じでカッコいいんだけど、この歌の二人は結局うまくいかずに別れてしまった。〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉ということになった。このあたりの歌詞はうまいよね。

娘□女の人はその〈僕らは自由だ〉という言葉を信じて、何人も恋人を作ったのだけど、男の人はカッコつけてそう言ったものの、その現実に耐えられずに別れてしまったということ? 理想と現実の差が別れの原因?

父■うん。男の人は他に彼女を作らなかったんだろうな。〈愛したのはたしかに君だけ〉とはっきり言ってるからね。あ、この言葉はそういう意味だったのか。自分でしゃべってみて気がついたよ。この男性は〈僕がてれるから〉とあるように奥手なのに、カッコつけて流行りの「自由」を口にしてみた。それを女性は真に受けた。その結果こうなった。

娘□〈愛したのはたしかに君だけ〉のあとに続く〈そのままの君だけ〉っていうのは?

父■僕の知ってる君、ということだろうな。他の男に見せる顔、僕の知らない隠された顔の君もいたんだけど、〈そのままの君〉以外は〈愛〉の対象外なんだ。〈君〉を愛していたんだけど、それは〈そのままの君〉の範囲に限定されている。それが繰り返される〈だけ〉の意味だろう。

娘□たしかに別れた日に他の人と寝るなんてどうかと思うけど、私はこう解釈するな。この歌には〈今日〉が3回出てきます。1番の〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉という〈今日〉は別れた日。2番の〈僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉の〈今日〉は、別れた日から1年たって、同じ季節がめぐってきたので別れた日のことを思い出し、もう今頃は他の誰かと付き合っているだろうと思いをめぐらしている日。おしまいの〈外は今日も雨 やがて雪になって〉というのは2番の〈今日〉と同じ日。

父■ふーん。1番は過去の回想で、2番は語りの現在において君を想像してるってことか。

娘□1番には〈もうすぐ外は白い冬〉ってあるけど、ラストは〈外は今日も雨 やがて雪になって〉とあって、天候が微妙にずれている。〈もうすぐ〉というのは、冬になるにはまだ数日から数週間の時間の経過を要することを思わせるけど、〈やがて〉というのは、降水が継続した状態で雪になると言っているわけだから、その日のうちに雪、つまりもう今は冬なわけで、時間がずれている。〈もうすぐ〉は季節の変化、〈やがて〉は時間の変化を表している。タイムスパンが違う。これも1番の〈今日〉とおしまいの〈今日〉とが違う〈今日〉である証拠ね。

父■2番にも〈もうすぐ外は白い冬〉ってあるのはどうするのか。ま、そこは繰り返しだから意味の穿鑿はスルーしてくれってことかな。山下達郎の「クリスマス・イブ」(作詞、山下達郎1983年)で〈雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう〉っていうのがあって、クリスマスに雨が降っていると必ず誰かがこの歌を歌ったものだけれど、すでに小田和正が〈外は今日も雨 やがて雪になって〉と書いていたのは、あらためて気づいたよ。

 

娘□なかなか「あなたと私」のほうに話がいかないんですけど。

父■ああ、そうだった。「さよなら」には「君僕」がよく出てくるということを言うんだった。この歌の「君僕(私)」を抜き出してみよう。

 

君が小さく見える、僕は思わず君を、私は泣かない、君のほほを涙が、僕らは自由だ、愛したのはたしかに君だけ、そのままの君だけ、僕のかわりに君が、僕がてれるから、寒い日が君は好きだった、僕らの心のなかに

 

 どうだろう、一つの歌のなかにいくつも使われていると思わない? 歌詞に使える文字数は少ないから、必然的に登場人物も限られる。君と僕しかいない場合がほとんどだから、関係が描けていればいちいち僕が何をしたとか君が何を言ったとか指示しなくても文脈でわかる。どちらの行為なのかがわかればいいだけだから、もっと「君僕」を省略しても内容は伝わると思うな。

娘□書き言葉ならそうなんだけど、歌の言葉は発せられた瞬間に消えていくから、同じ言葉が繰り返し使われてもそれほど気にならないし、むしろそのつど人称代名詞を補ってやらないとわかりにくいんじゃないかな。脳が情報処理できるのは限られた言葉のまとまりでしょ。だから歌の言葉って、全体をとおした論理的なつながりを判断しているんじゃなくて、そのつど立ち現れてくる断片的で短いフレーズに反応しているだけだと思う。

父■聞き手にとってはそうだろうね。歌は直線的に進んでいくから、言葉の把握が不十分でも後戻りできない。歌詞は短い言葉のまとまりで理解されることになる。逆に言えば、同じ言葉がたびたび出てきてもあまり気にならない。書き手は、歌の言葉のそういう特性、断片の寄せ集めのような歌詞を書くこともできるし、あるいは、もっと歌詞の全体を見渡して書くこともできる。歌詞の全体を見渡しながら書くということは、歌詞を、言語の作品として自律したものにしたいということだろう。この傾向が強い書き手を「詩人タイプ」と呼ぶことにすれば、松本隆なんかは詩人タイプの典型じゃないかな。で、その松本隆は人称代名詞を少なくしたいと考えているんだよね。たぶん歌詞を、書かれた文字として見ているからだと思う。書かれた文字なら視線は何度でも紙の上を行き来できるから、同じ言葉が出てくると気になる。

娘□で、お父さんは「詩人派」なわけね。じゃ、あたしもそれにつきあって、この歌の「君僕」の必要性ということを考えてみましょう。「さよなら」で「君僕」を省略しても前後の文脈で意味が通じるのは、まず〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉。ここは〈君〉を取って〈僕は思わず 抱きしめたくなる〉にしても、あるいは語り手である〈僕〉を略して〈思わず君を 抱きしめたくなる〉でもいいかも。ここのところは、僕と君の距離がわからなくて、近くにいるのか離れているのかわからないから、余った文字数でその情報を補ってやればいいと思う。

父■Wikipediaの「さよなら」の項目には、「小田和正は、原詩では「僕は思わず 君を 抱きしめそうになる」としていたところを、間違えて『僕は思わず 君を 抱きしめたくなる』と、間違えて録音してしまったことを悔やんだという。」と書かれていて、このあたりの歌詞について、作詞者は言葉の細部にこだわっていたことがうかがえる。

娘□「抱きしめそうになる」と「抱きしめたくなる」は何が違うかよくわからない。

父■「抱きしめそうになる」のほうが、無意識にそうなってしまう感じがあるね。「抱きしめたくなる」は、意識にのぼっている感じがある。もう別れを決めているんだから、また「抱きしめたくなる」というのはおかしいということかな。

娘□ああ、そうか。「抱きしめたくなる」のほうが愛情が残っている感じがするね。「抱きしめそうになる」なんて条件反射みたいで嫌だな。

父■2文字違うだけだけど、印象も微妙に変わってくるよね。

娘□「君僕」の省略についてに話を戻すと、省略できるところとしては他に、〈君のほほを涙が 流れては落ちる〉は〈ほほを涙が 流れては落ちる〉でいいかな。

父■それだと〈僕〉の涙ということもありうるから、〈君〉であることをはっきりさせておかないと、言葉と態度の矛盾で引き裂かれた状態にあることが明らかにならないよ。

娘□そっか、そだね。〈愛は哀しいね 僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉の〈僕のかわりに〉もいらないんじゃない。むしろおかしな言葉遣いになってしまってる。〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉の〈僕が〉はなくてもわかるけど、ここは僕と君の対比でもあるから、あったほうがそれがはっきりわかるかな。〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉の〈僕ら〉は言わずもがな。

父■削れずに残したのも半分くらいあるね。

娘□そう、意外に必要でもあるんだと思った。省略しすぎると曖昧になって違う意味にとられかねない。

父■この歌って直接話法が2箇所引用されていたりして、結構演劇的だよね。「私は泣かないから」とか「僕らは自由だね」とか。

娘□たしかに。寸劇を見ているようで情景が目に浮かぶ。直接話法があるせいで、〈君〉や〈僕〉に存在感が生じている。歌謡映画にできそう。

オフコース「言葉にできない」〜君僕ソング(その3)

父■「あなたと私」の歌詞に話を戻すよ。フォークでもうひとりというか、グループなんだけど、取り上げたい人がいて、オフコース小田和正がいたグループだって言えばわかるかな。デビューしたのは1970年だけど、テレビにも出なかったせいか、なかなかヒットにめぐまれず、79年の「さよなら」でブレイクした。それまでも「眠れぬ夜」(1975年)とか「秋の気配」(1977年)とか人気のある曲はあったんだけど、ヒットというわけでもなかった。

娘□オフコースって面白い名前ね。「もちろん」ってどういうこと?

父■よくあるボケだね。OF COURSE ではなく OFF COURSE ね。グループ名をいちいち説明しなきゃいけないってのも余計な手間だ。誤解を修正することから入るコミュニケーションって、なんか気まずい。

娘□いっそ、オフロードとかにすればよかったのに。間違えにくいし、男っぽいじゃん。

父■それじゃ「お風呂どう?」みたいだ。OFF COURSE は、出身高校の野球部OB会の名前をそのままつけたらしい。シングルを見ると、始めは、カタカナ書きのオフコースと英語表記の OFF COURSE が混在していて、カタカナ書きのほうの書体が大きかったんだけど、やがて英語表記の方が優勢になって、「さよなら」のヒットのあとは英語表記だけになる。名前が認知されたから英語だけにしたのかな。英語のほうが本当の名前だということなんだろうか。そもそも当初はジ・オフ・コースと the がついていた。カタカナ表記もオフ・コースの中黒がとれてオフコースになっていったという経緯がある。英語表記も大文字だけの OFF COURSE と小文字の Off Course もあってこれは最後まで統一されていない。こういう表記の揺れがあるところも、どういうグループなのかわかりにくくさせている一因じゃないかな。テレビに出ていれば表記についてはもっと統一感のあるものになったと思う。

シングルジャケット一覧→https://sp.universal-music.co.jp/offcourse/disco/single/

娘□たぶんテレビに出てたら司会者にオフコースって「もちろん」ってことですかってからかわれて、うんざりしたでしょうね。

父■オフコースはシングルA面の曲はだいたい小田和正が作詞作曲している。

娘□A面って?

父■レコードの時代は、黒い円盤をひっくり返して聞いたんだよ。シングルの場合、AB面に1曲ずつ入っていた。制作サイドがプッシュしてるのがA面。B面はオマケ扱い。アルバムはSIDE 1SIDE 2 と表記されていた。

娘□小田和正って伝説の人でしょ。テレビの「歌うまランキング」で、高い声がきれいだって、よく名前が出てくる。

父■伝説というか、まだ現役だけどね。小田和正はたくさん曲を作っているんだけど、歌詞を書くのが苦手らしい。歌詞の書き方についてたびたび語っているんだけど、それを読むと面白い。例えば、『たしかなこと』(小貫信昭著、2005年、以下はWikipediaからの孫引き)のインタビューで、「言葉にできない」という歌についてこう言っている。この歌は今でもCMなんかで流れるから知ってるよね。歌詞には〈lalala……言葉にできない〉が繰り返されている。

オフコース「言葉にできない」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a002409/l002816.html

 

   ***

(小田)「何しろラララでいこうというのはアイデアとしてあって。ただ、そこにたどり着くまでの過程があって。歌なんてもしかしたら、歌詞がないほうが強いんじゃないか?”って思ったのかな。その前段階で、歌詞、書くのイヤだなって、そう思ってたのが、だんだん歌詞がないほうが…”ってなっていったのかな。いや、ともかくラララって歌っているうちに、このままのほうがシンプルで強いって確信してったんだよ。ちょうどそれが当時の、バンドのテーマだったから」

(小田)「循環コードを弾きながら、ラララって、歌いながらメロディをちょっとずつ直していったんだと思う。ラララのあと、言葉にできないが先か悲しくてが先か、どっちか忘れたけど、このふたつが前後して浮かんだと思うんだよ。とにかく、そこのブロックが最初に出来たのは覚えている。言葉にできないって歌詞とラララっていうのはとても辻褄が合うじゃない?

(小田)「そしたら、悲しくてだけじゃなく、悔しくてっていうのも言葉にできないラララとも辻褄が合う。で、途中で、否定的な、暗いまま終わるのはイヤだなっていうことで嬉しくて言葉にできないという、それで締めればいいんだみたいな。そう思いついたときにああ、そうか、これで解決。ハッピー、ハッピー!って、この展開は素晴らしいな、とね」

   ***

 

娘□最初に「歌詞、書くのイヤだな」があったってのがウケる。でもそこから論理的に整合性があるように組み立てるところがすごい。悲しくても、悔しくても、嬉しくても言葉にできないんだね。何があっても言葉にできないと言い張っているようで、かたくなささえ感じる。「悲しくて言葉にできない」というのは、今ふうに言えば、「悲しすぎて言葉にできない」ってなるね。

父■ただね、僕にいわせれば、〈言葉にできない〉という歌詞を使うのは、お一人様1回にしてもらいたい。

娘□なんで?

父■だって反則技でしょ。歌詞は言葉で書いているのに、〈言葉にできない〉なんていうのはさ。それなら言葉にできる人が歌詞を書けばいいじゃん。先日読んだ本で、歌人永田和宏という人が対談で短歌入門の本を出しているんだけど、そこでこう言っていた。できあいの言葉を使わないようにという文脈だ。

 

   ***

よくある表現としては「ひとり」とか「寂しい」とか「悔しい」とか、あるいは、「計り知れない」とか多いね。もっとひどいのは、「言葉に尽くせない」とかね。言葉にしようとしているのに、言葉に尽くせないでは自己矛盾だよね。(永田和宏知花くらら『あなたと短歌』、朝日新聞出版、2018年、60-61頁)

   ***

 

娘□短歌って何度も読み返すじゃない。だから精選された言葉を味わうことができる。でも歌の歌詞って、右の耳から左の耳に通り過ぎていくでしょ。そういう言葉は一度聞いただけでわかるフワっとした言葉のほうがいいんじゃない? 好きな歌は何度も聞きなおすけど、それでも、通り過ぎていく言葉って吟味しにくい。やっぱり短歌のように精密に組み立てられた言語作品とは違うような気がするなあ。

父■今引用した本で、こういう短歌が紹介されている。投稿歌なんだけど、「コンビニに流れる歌詞に聞き入ってどうかしている今日の私は」(松原和音)(同前、186頁)。ふつうは「コンビニに流れる歌に聞き入って」とすると思うけど、この人は「コンビニに流れる歌詞に聞き入って」としているでしょ。「歌詞を聞く」というねじれた言い方で、言葉を問題にしているということをはっきり言っている。

娘□失恋したときに、自分の気持ちを言葉にしたような歌詞があったので耳を傾けたというようなことかな。

父■どういう状況かはわからないけど、これなんか、短歌の言葉と歌詞の言葉の違いが表現されているようで面白い。「歌詞に聞き入ってどうかしている今日の私は」なんて、短歌を詠むような言葉へのこだわりのある人が、ふだんはみくびっている歌詞に、つい心を奪われてしまったっていうことでしょう。マジメな人がナンパされて、ついフラフラついていってしまうみたいな。歌詞の言葉の不思議さだよね。言語作品として精密なものに人が引きつけられるわけではない。

娘□短歌って縦に1行、ドーンと書かれているじゃない。周りに余白がたっぷりとられているし威厳がある。だから、それを読むときは、何が表現されているか読む人がちょっと身構えて解釈にのぞむ。一方、歌の言葉って、向こうから耳に入ってくるので、解釈する時間もないまま消えていくし、解釈してやろうなんて身構えてもいない。隙だらけの状態でいきなり耳に入ってくる。

父■短歌は正座して鑑賞し、歌の言葉は歩きながら聞く。評価の軸が違うんだろう。だけど、かといって、どの歌も「ひとり」「寂しい」「悔しい」「言葉に尽くせない」ばかりだったらうんざりするでしょ。

娘□うーん、たしかに「言葉にできない」という歌は、「ひとり」「哀しい」「せつない」「くやしい」「嬉しい」っていう歌だけど、こういうシンプルな言葉が耳にすっと入ってくるときってあるのよねえ。

父■シンプルな歌詞があってもいいけど、せいぜい10曲に1曲くらいにしてもらいたいな。例えば、あいみょんという人はひねった歌詞を書く人だけど、「裸の心」なんかはとてもシンプルだよね。曲もそうだけど。たまにそういう歌を歌うから、そこに何か強い思い入れのようなものを感じることができる。

娘□10曲に1曲っていう根拠は?

父■1枚のアルバムに1曲はそういうちょっと素朴な歌詞があっても、バリエーションの一つとしてありうる、ぐらいの感じかな。

娘□ふーん、お父さんの希望なのね。

父■最初に〈言葉にできない〉っていう匙を投げたような歌詞を思いついた人は、「こりゃ便利な言い方だ」と思ったんじゃないかな。何にでも使えるメタレベルに立った言い方だ。それこそ、嬉しくても悲しくても言葉にできないって言えば済む。聞き手の側の推測に委ねるものが多すぎる。

娘□でも実際、息を呑むとか、筆舌に尽くしがたいとか、感動のあまり言葉失うとかいったことはあるわけだから、〈言葉にできない〉という歌詞も「あり」だと思うけどな。

父■〈言葉にできない〉という言葉を発するまでの過程がそれなりに描かれていれば説得力のある歌詞になるだろうね。でも、安易に〈言葉にできない〉と逃げてしまうのは日本語の蓄積を無視している。たいていのことは言葉にできる。人が死んで悲しい、子どもが生まれて嬉しい、恋人と別れて悲しい、好きな人と一緒にいて嬉しい、こういったことはその心の振り幅にあった言葉の蓄積が千年ぶんある。失恋して悲しいなんてのは、言葉にできないような特異な経験ではない。宇宙人に会って驚いた、というのはあまりないかもしれないけど。

娘□言葉っていうのは他人が作ったものでしょ。それだと自分だけが持っている気持ちや考えを表現できないってことじゃないの?

父■じゃあ、自分だけの気持ちを伝えるのに、自分だけの言語を作るの? 私的言語っていうやつだね。でもそれって他人には伝わらないよ。

娘□だから〈言葉にできない〉って言うんじゃないの?

父■言葉にするのは他人に理解してもらいたいからでしょ。でも〈言葉にできない〉というのは、「俺の気持ちは他人であるあんたにはわからない」って言っているように聞こえる。

娘□そんなに特別感のあるものでも喧嘩腰的なものでもないけど。

父■今、二つの異なる観点のことが話題になっていて、言葉では表現しきれないことがあるということと、自分の気持ちは他人にはわからないっていうことで、この二つは別のことだから、分けて考えてみよう。

娘□あ、違うんだ。

父■まず、言葉では表現しきれないことがあるということから。〈言葉にできない〉って、そもそもどういう意味なのか。まず辞書をひいてみよう。国語辞書には、「言葉」の項に「言葉に余る」があり、「ことばでは言いつくせない」と説明されている。これはいくつかの辞書で全く同じだ。「言葉に余る」は、言葉にしてみたけれど、言い足りない部分が残ってしまうということだね。「言葉に余る」は、一旦は言葉にしてみたという点が〈言葉にできない〉とは違う。では、〈言葉にできない〉はどうなのか。全く言葉にならなかったのか、それとも「ことばでは言いつくせない」部分については言葉にできないという意味なのか。両方だろうけど、〈言葉にできない〉という方が、「言葉に余る」という言い方より強いよね。

娘□言い方にもいろいろあるんだ。

父■ネットにある「Weblio類語辞書」は、「言葉にできない」の類語を次の四つに分類している。わかりやすくするため順番を入れ替えた。カッコ内は類語の例から抽出した。

 

(1) 感動や衝撃で言葉が出ないさま(言葉を失う、絶句する、唖然とする、言葉が出ない、息を呑む)

(2) うまく表現できず思いを言い表せない(ふさわしい言葉が見つからない、言いようのない、言葉にならない)

(3) 言葉で表現できない程すぐれているさま(筆舌に尽くしがたい、言葉では言い表せない、得も言われぬ

(4) 言葉で表現しにくいさま(何とも言い難い、名状しがたい、言語を絶する、形容しがたい)

 

 〈言葉にできない〉理由として、(1)と(2)は表現する主体の側に重きがあり、(3)と(4)は対象の側に重きがある。オフコースの「言葉にできない」を見ると、使用例は次の3つ。

 

・終わる筈のない愛が途絶えた(…)また 誰れかを愛している/こころ 哀しくて 言葉にできない
・自分がちいさすぎるから/それが くやしくて 言葉にできない
・あなたに会えて ほんとうによかった/嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない

 

 これらは(2)に(1)が少し混じってる感じかな。

娘□ふーん、そうなんだ。たしかに自分の心が通常の状態ではなくなって〈言葉にできない〉っていう感じだね。一方の(3)と(4)は対象の側に重きがあるっていうけど、対象の側ってどういうこと。例えば?

父■浦島太郎がそうだよ。〈昔昔浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来てみれば 絵にもかけない美しさ〉という唱歌があるでしょ。

娘□それはいくらなんでも知ってる。〈たちまち太郎はお爺さん〉っていうあれね。

唱歌「浦島太郎」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a00126c/l013288.html

父■明治四四年の『尋常小学唱歌』に載せられた。僕も子どものとき歌ったけど、ずーっと違和感があったんだよね。

娘□浦島太郎が水中で呼吸できたのかってこと?

父■それもそうだけど、どこがひっかかるかというと〈絵にもかけない美しさ〉のところ。浦島太郎は龍宮城の美しさを表すのに絵によって表現しようと思ったのかね。そんなはずないよ。浦島太郎の伝説は古代からある。今ある昔話のかたちに近くなったのは室町時代に書かれた『御伽草子』。どういう話かというと…

 「昔丹後国に、浦島といふもの侍りしに、その子に浦島太郎と申して、年の齢二十四五の男有りけり。明け暮れ海のうろくづをとりて、父母を養ひけるが……」

 とあって、室町時代においても「昔」の話として伝えられていたんだね。そういう昔の人が簡単に絵を描こうと思うかな。絵を描くには道具が必要だろ。今なら手近なところに画材はいくらでもあるけど、昔はそうじゃなかった。チューブ入り絵具が発明されたのも、多色の色鉛筆が作られたのも一九世紀半ば。絵を描くという行為は一般に身近なものではなかったはずだ。絵師が工房で行う仕事だった。

娘□へんなとこにこだわるわね。どうでもいい気がするけど。

父■浦島は「明け暮れ海のうろくづ(=うろこ、つまり魚のこと)をとりて」とあるように、魚をとって生計をたてていた。今風に言えば漁師だね。漁師が絵を描いて人に感動を伝えようという発想が湧くだろうか。せいぜい砂浜に木の棒で落書きすることはあっても、浦島が半紙を片手に龍宮城のことを思い出してサラサラと絵を描き、「こりゃ美しすぎてうまく描けないな」などとつぶやくかな。仮にもし、浦島の手元に絵の道具が揃っていて絵を描いたとしても、その絵の出来はたいしたものではなかったはず。浦島の主な仕事は魚をとることなんだから。

娘□で、何が言いたいわけ?

父■〈絵にもかけない美しさ〉と言うとき、絵を描く腕前がそれなりにある人が、自分の力量を上回る対象について、それを表現しきれないというならわかるが、もともとたいした技量のない人が「俺の才能を越えている」と言ってみたところで、おまえの技術が未熟だから描けないのだろうと言い返されるだけだってこと。時代的にも語り手の資質的にも、二重の意味において、〈絵にもかけない美しさ〉という言い方は発想されえないものだ。

娘□〈絵にもかけない美しさ〉というのは美しいことの極みを表現したいための喩えでしょ。それを字義通りに解釈するのはバカだって言われるわよ。

父■喩え方が適切ではないから、違和感を生じさせるんだよ。『御伽草子』では龍宮城は、「此女房のすみ所、ことばにも及ばれず、中々申すもおろかなり」と書かれている。つまり「言葉にできない、言い尽くせない」ということ。それなら唱歌も〈龍宮城へ来てみれば 言葉にできない美しさ〉とでもすればいい。美しさという視覚的なものなので、つい〈絵にもかけない〉という歌詞にしたんだろうけど、それは歌詞を書いた近代の人間の感覚がそうさせたってこと。

娘□おしまい?

父■おしまい。

娘□残念ね。浦島太郎の歌が〈絵にもかけない美しさ〉じゃなくて〈言葉にできない美しさ〉だったらJポップの元祖になれたのに。

父■浦島の例は、対象の側に〈言葉にできない〉理由があった。それで、さっきは〈言葉にできない〉理由を主体の側に原因がある場合と対象の側に原因がある場合の二つに分けたけど、そもそも主体の側に原因があるといっても、その前に主体の外部の出来事があるわけで、それを知覚した結果生じる心の動きだから(1)から(4)は根本的な区分とは言えない。肝心なのは、表現するのは結局「この私」ってことで、自分の言語能力が経験を語るのに追いつかない、不十分だということだよね。

娘□どういう場合にそうなるの?

父■さっき君は「自分の心が通常の状態ではなくなって〈言葉にできない〉」って言ったでしょ。それなら、通常の状態なら滞りなく言葉にできるのかな?

娘□そういうことになるわね。普段の経験まで〈言葉にできない〉となったらボキャ貧か失語症でしょ。

父■そうかな。僕なんか普段の経験でも細かいニュアンスは伝えるのが無理だなって思うんだけど。誰でも同じようなことを考えているみたいで、例えば、作詞家でもあるいしわたり淳治という人は『言葉にできない想いは本当にあるのか』(筑摩書房、2020年)という本の「はじめに」でこう書いている。ちょっと長めに引用するね。

 

   ***

 音楽を聞いていると、よく「言葉にできない思い」というようなフレーズを耳にする。自分でも過去にそんな言葉を何度か書いたりもしたことがあるけれど、その表現にこの頃ちょっとした違和感を覚えるようになってきた。

 というのも、「言葉にできない思い」があるとわざわざ言っているということは、その人は日頃自分の感情をすべて言葉に出来ているということになる。しかし、どうだろう。私たちは本当にそんな大そうなことを日々やってのけているのだろうか。

 自分の感情を他人に伝えるために、人類が発明した非常に便利な道具が「言葉」である。言葉という道具はあまりにも便利すぎて、ともすれば忘れてしまいそうになるけれど、私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。

 例えば、恋人に「愛している」と伝える時、ただ単に「愛している」と口から発しただけで、愛情がすべて伝わるかというと、残念ながらそうではない。「愛している」の一言だけで、相手のことをどんな風に、どのくらい愛しているかを表現するのはハリウッドの名優でも至難の技だろう。だから私たちは、「君の笑顔だけが僕の幸せだ」とか、「出会った日から寝ても覚めても君のことばかり考えている」とか、「世界中を敵に回しても僕は君の味方だ」などと、「愛している」の言い換えをするのである。

 しかし、いくら言い換えて自分の思いと言葉とを近づけようとしても、じゃあ本当に君の笑顔以外では幸せを全く感じないかというとそんなはずはなく、眠っている間に別の誰かの夢を見ることがないかというと当然あるわけで、世界中を敵に回すほどのことをやってしまった人を本当に愛し続けられるかと言われると正直なところ難しい。つまり、これらのセリフは、一見するとさも自分の感情のきれいに言語化したもののようだけれど、どれも感情を大きくオーバーランしている表現なのである。もちろん、こういった大袈裟な言葉を並べることで、思いの熱量が伝わって説得力が増すという効果はあるとは思うけれど、それが自分の感情とイコールかというと、決してそうではないのである。

 そんな風に、私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする。

 「明日9時に集合ね」「そこのペンとって」のような事務的な連絡だけならば正確に言語化できていると言えるのかもしれないが、とかく「感情」という目に見えないものを言語化しようとすると、「言葉」は意外と不便な部分が多く、それこそ「言葉にできない感情」だらけではないかと思う。

   ***

 

 要するに、何をどう言おうと言葉は感情の全部を表現しきれるわけではなくて、「言葉にできない」ものがあるのは当たり前なのに、それをことさら「言葉にできない」などという人は、他のことは言葉に出来ていると思っているのだろうか、というシニカルなことを言っているんだ。

娘□〈言葉にできない〉を反語的に考えてみたってことか。でも、なんで言葉は「感情の近似値」しか表現できないの? 言葉は人間が作った道具だけど、それは不完全な道具だから? じゃあそれはもっと完璧なものに近づけられるの?「それ(言葉)が自分の感情とイコールかというと、決してそうではない」とか「私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする」って言うけど、両者が限りなく近づけば問題ないの? 限りなく円に近い多角形って円と同じじゃない?

父■この書き手は、まだだいぶギザギザのある円だって言いたいんだろうね。

娘□あたしはもう十分だと思うけど。これ以上言葉が微分化されても困るし、実際言葉って微細なニュアンスをとばしてコントラストを高める方向に変化していくでしょ。

父■「感情の近似値」とか「言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいる」という言い方は現実の写像として言語を捉えているみたいで誤解を招きやすいなあ。そもそも言葉の論理と世界の論理は別々のもので、言葉は世界と無関係な体系として自己完結しているということが理解されていない。そのことは、言葉と世界の齟齬が「感情」に限定されて語られていることからもわかる。

娘□民族によって虹が何色に見えるか違いがあるって聞いたことがある。言葉が違うから、言葉によって切り分けられる世界も違って見えてくるって。サピア-ウォーフの仮説だっけ? 言語によって世界の捉え方が異なるという。

父■それは言語が人の思考様式に影響を与えるというものだね。色の変化みたいにはっきりした線引きがないものは、特に言葉による分類に左右されそうだね。

娘□虹の色が5色だという民族の人が、そこにない2色をなんとか表現したいのに、ふさわしい言葉がみつからないとき、そのもどかしい感じを〈言葉にできない〉って言うのかも。

父■同じ虹を見ていても、それをどう捉えているかはわからない。『古畑任三郎』という刑事ドラマで、雨だれが音程になって聞こえる絶対音感の持ち主が犯人だったことがあったけど、僕たちは雨だれは雨だれにしか聞こえない。絶対音感をもっている人はどんな音でも音名で聞こえるので他のことに集中できないとかいうよね。その感覚は僕ら凡人には理解できない。それは違いがはっきりした極端な例だけど、他の人の頭の中で何が起きているかは、その人以外わからない。言葉とかジェスチャーとか、表面に出てきて共有できるものからしか理解できない。

娘□それって、さっき二つの観点があるという話に関係してる?

父■「自分の気持ちは他人にはわからない」っていうことね。哲学の独我論の問題になってくるけど、「私とあなた」は脳味噌を共有しているわけではないから、私の考えていることは所詮あなたにはわからない。言葉ってみんなで共有しているものでしょ。他人の脳味噌がどのように働いているかはわからないけど、言語として共通の場に表れてきたものは理解できる。逆に、言葉で言い表せない「この私」にしかわからない部分は、他の人にとっては、ないも同然ってことになる。言葉で表されたものしかわからない。しかも、言葉で表現されたものでも違う内容を受け取る。例えば、同じ「机」という言葉を聞いても、私とあなたではイメージしているものはかなり違う。だから、言葉にすらできないということになると、その時点でお手上げだ。

娘□歌詞の場合はそんなに小難しい話じゃないと思う。〈言葉にできない〉っていう言い方は、実質的な情報は何ももっていない、たんなる強調表現みたいなものになっていると思う。強調表現ってインフレぎみになるけど、なんでも「チョー」「マジ」「めっちゃ」で済ます人っているじゃない? それって微細な違いを無視して一律な表現に全てを押し込めているでしょ。そういう強調表現って、心の針がポンと右に振れた経験を共感してもらいたいってことかな。〈言葉にできない〉もそれに似たところがある。

父■そうだね。〈哀しくて 言葉にできない〉というのは「とても哀しい」ってことだもんね。だから〈くやしくて 言葉にできない〉〈嬉しくて 言葉にできない〉というのも、「とてもくやしい」「とても嬉しい」ということで、〈言葉にできない〉は何にでも付けられるんだよ。「おいしくて言葉にできない」とか。

娘□〈言葉にできない〉って、やっぱり一定のレベルの言語能力を有している人しか使えない言い方だなって思う。ちょっと上から目線な感じもしてきた。

父■歌詞には、他にも似たような言い方がいくつもある。〈言葉にならない〉〈言葉では表せない〉〈言葉では言えない〉〈言葉では足りない〉〈言葉では伝えきれない〉〈言葉では片付けられない〉なんていうのもあるよ。GLAYの「HOWEVER」(作詞、TAKURO)は〈言葉では伝える事がどうしてもできなかった 愛しさの意味を知る〉。もう少し洒落た言い方では、〈言葉にすれば()嘘に染まる〉(「ダンシング・オールナイト」作詞、水谷啓二)なんてのも。ここまで言葉が信用できなくなると、〈言葉なんていらない〉〈言葉なんかいらない〉ということになる。〈言葉にならない〉というところまで極端なことは言わない代わりに、ちょっと言い訳するみたいに〈うまく言えないけど〉とか〈ありふれた言葉〉だけどって留保をつけて何か言う場合もある。いずれも、適切な言葉が見つからないということなので、〈言葉にならない〉の一歩手前にいる。

娘□裾野が広いのね。

父■〈言葉にできない〉というフレーズは記号化しているけど、聞き手次第で、実質的な意味を残すことができる。聞き手は、歌詞の不明瞭な部分に、過去の自分の経験を当てはめて解釈する。でもそれって聞き手に丸投げしてるってことじゃないかな。聞き手の解釈に委ねる部分が多すぎると思う。浦島太郎が、竜宮城は〈絵にもかけない美しさ〉だから絵に描きませんでしたと白紙をだして、この白紙にそれぞれの人が思い浮かぶ最高の美しさをイメージしてくださいと言ったら、大喜利だったら1回は許すけど、安直すぎるから2回めは認めたくない。そういうのは「白いキャンバスソング」とでも言ったらいいのかな。

さだまさし「道化師のソネット」を読む〜ピエロの菩薩行

(概要)歌詞に3回出てくる〈小さい〉という言葉は、個々人の人生における無力さを表している。ピエロは利他行で人を救うとともに自分も救われることを望んでいる。

 

1 位置づけ

 道化師のソネット」は、さだまさしの人気がピークを迎えていた1980年に発表されている。前年に出した「関白宣言」が社会現象とも言えるブームを巻き起こし、その勢いにのって、続く「親父の一番長い日」という12分以上もある風変わりな曲も大ヒットしていた。

 道化師のソネット」は、さだ本人が主演した映画『翔べイカロスの翼』(1980年)の主題歌として作られたものである。歌詞は映画の内容をふまえていて〈笑ってよ〉〈道化師(ピエロ)〉などと出てくる。歌詞自体に物語性はない。映画が物語をもっているので、歌詞に物語性は必要なかった。

 歌詞の内容には思わせぶりなものはなく、川や山の比喩はわかりやすい。ピエロは比喩ではなく、そのものであるが、映画を見ていればその意味は明白である。

 この歌はサビ始まりで、冒頭が〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉となっていて、ここに歌の主題が明示されている。例えばさだの一番人気の「主人公」(作詞、さだまさし1978年)は、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という主題は歌詞の最後に置かれていて、そこでようやく「主人公」というタイトルの意味がわかる仕組みになっているのであるが、「道化師のソネット」は「道化師」と〈笑ってよ〉という言葉が出だしで結びついているのである。出だしからわかりやすいのである。

 わかりやすいということは軽いものとみなされることでもある。「道化師のソネット」は売れたのでよく知られているし、サビがはっきりしていて聞きやすい。耳に馴染んでいる。けれどそれは、わかりやすく作られた大衆迎合的な歌と評価されるおそれももっている。「関白宣言」や「親父の一番長い日」という大ヒットを連発していたさなかなので、一挙に広がったファンに向けて、誰が聞いてもわかるものにしようと思ったのかもしれない。映画に依拠したピエロという表現も、歌の自立性をそこねたと思われる。「親父の一番長い日」という歌詞が6番まである長い曲に比べたら「道化師のソネット」のシンプルな歌詞は従来のファンには物足りないものではなかったか。「道化師のソネット」のあとは、一転して、「防人の詩」というシンプルな言葉で仏教的な死生観を語った深い歌ができた。これも映画主題歌であるが、映像作品からそのエッセンスを読み取り、そこに付きすぎず離れすぎない歌を作るという才能は、「北の国から」「夢の吹く頃」などでも示されている。

 

2 タイトル

 タイトルは「道化師」と書いてそのまま「どうけし」と読むが、歌の中では〈ピエロ〉と歌い、歌詞カードにもそのようにルビがついている。

 なぜタイトルは「どうけし」と読ませるのか。「ピエロのソネット」ではカタカナが続き軽い感じになってしまう。なにより「どうけし」と言った方がカッコいいからだろう。「ピエロ」というと私たちは、あの白塗りで大きな赤い口の顔を思い浮かべる。ところが「どうけし」になると途端にイメージがぼやけてしまう。そういう言葉は知っているが、それに対応するイメージはダイレクトに結びつくものがない。ヨーロッパの宮廷にいた道化師か、あるいは文学好きな人なら太宰治の「人間失格」を連想するのではないか。

 文化人類学では70年代に「道化」論が流行して、トリックスターなんて立派な名前が与えられていた。ピエロというとありふれたイメージに向かってしまうが、「道化師」ということで知的で高尚なイメージになってくる。

 ピエロというのはサーカスにいて滑稽なことを演じる人であるが、それが最近ではすっかり恐ろしい不気味な表象として定着してしまった。古くは、子供を多数誘拐した「ハーメルンの笛吹き男」はピエロのような衣装で不気味な存在であったが、近年では、『バットマン』のジョーカーや『IT(イット)』の怪物が典型だ。個人的には、子供のときに見た『帰ってきたウルトラマン』に出てきた凶悪なナックル星人がピエロ風で恐ろしかったのを覚えている。最近見た『仮面病棟』というツマラナイ邦画でも、犯人はなぜかピエロのマスクを被っていた。道化恐怖症という症状もある。ピエロは人を楽しませる存在ではなく、その厚塗りの化粧の下に邪悪な本心を隠した危ない奴ということになってしまった。

 ピエロと重複する概念にクラウン、アルルカン、マリオネットなどがある。ウィキペディアの「道化師」の項目には次のような記載があった。「クラウンとピエロの細かい違いはメイクに涙マークが付くとピエロになる。涙のマークは馬鹿にされながら観客を笑わせているがそこには悲しみを持つという意味を表現したものであるとされる。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/道化師)

 涙マークが省略されているピエロも多いが、ピエロはその顔の中に、笑う唇と涙という矛盾した感情をあわせもっていることが特徴だといえそうだ。涙のマークは瞳を中心にした十字のデザインに抽象化されることがあり、どちらが起源なのか(涙か十字か)わからないが、ピエロの顔にはもの悲しさを感じることは間違いないし、肝心なのは、ピエロはそれを隠していないということだ(化粧で表現している)。

 ということを書いてから『さだまさし 旅のさなかに』(さだまさし著、1982年、新潮文庫)という歌詞集を見たら、「道化師のソネット」についてのエッセイで、こう書いてあった。

 

「映画でピエロを演じる事になった時、メイクの人に頼んで、左の目の下に涙を入れてもらった。そんなピエロのメイクなんて見た事がない、と言われたが、お願いして入れてもらった。本当は描かずに、演技で見せるべきものなのだろうが、こちらはからきしだから、せめて、思い入れだけでも形にしたかったのだ。’’涙のピエロ’’は珍しかったとみえて、キグレサーカスの子供達は、かわるがわる見に来ては、変なの!?と言った。」(『さだまさし 旅のさなかに』30-31頁)

 

 これだけを読むと、ピエロの涙メイクはさだまさし起源のように思えてしまうが、さだもどこかで見たものを依頼したのであろう。

 日本の歌ではマリオネットが好まれている。BOØWYの「MARIONETTE」が有名だが、歌に出てくるマリオネットはもの悲しい存在で、自分自身であるとされる。さだまさしにもマリオネットを歌った歌がある。グレープの時代に書いた「哀しきマリオネット」で、〈糸が絡んだ操りピエロ〉と歌っていて、ピエロと同義で使われている。マリオネットは操り人形のことであるが、ピエロを模したマリオネットも少なくない。ピエロもまた操り人形を模したパントマイムをおこなうことがある。

 タイトルの後半部分は「ソネット」である。ソネットというのは歌謡をもとにした西欧の定型詩で、1篇が14行からなり、日本では短詩とか小曲とか訳されている。「道化師のソネット」は、道化師についてのちょっとした歌というていどの意味であろう。おそらくタイトルに他の言葉を思い浮かばなかったのであろう。「マツケンサンバ」とか「黒猫のタンゴ」とかの「サンバ」や「タンゴ」の呼称は、歌の内容に付加される情報量としては微小であり、タイトルをそれらしく見せるために付けられたものと考えられる。ウィキペディアの「道化師のソネット」には次のように記載されている。

 

「さだは詩を完成させた後で「道化師のソネット」というタイトルを付けたが、命名後に詩の行数を数えたら、偶然ソネットの形式通りの14行になっていた、つまり意志的に14行で完成させたから「ソネット」と名付けたわけではない。さだはこの偶然について「神様っているのかもわかんない」とコメントしている。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/道化師のソネット

 

 つまり、さだ本人も、タイトルに「ソネット」とつけたのは深い意味がなかったということである。また、ソネットには構成や押韻などに制約があるが、さだがたまたま一致したと喜んでいるのは14行という点だけである。しかもその14行というのは、歌唱で最初にある〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉という部分を無視して14行なのである。それを入れると15行になってしまう。そのためシングルレコード添付の歌詞表示はこの部分を省略して14行にしている。歌詞を見て、なんで冒頭部分がないのか疑問に思った人は(私もそうだが)、こういう事情があったのである。

 

3 歌詞

 道化師のソネット」の歌詞について具体的にみていく。

 まず形式的な面ですぐ目につくのは、この歌は対句的な発想で書かれているということだ。「笑ってよ 君のために/笑ってよ 僕のために」「舟人/山びと」、そして「小さな舟」と「別々の山」というのも、個別の人生という意味で対応している。なぜ対句的に書かれているかというと、書きやすいからだろう。フォーマットを一つ作れば、あとは応用でできる。1番の歌詞を書いて、それを下敷きにして2番の歌詞を書いたのだろう。

 

 この歌には〈小さな〉という形容動詞が3回使われている。〈小さな舟〉〈小さな手〉〈小さな腕〉がそうである。歌詞という少ない言葉のなかに、これだけ同じ言葉がでてくるということは、重要な言葉であるということだ。おそらく作詞者は自分でも気づかずに使ってしまったのだろう。この歌詞は一気に書かれたものであることを推測させる。

 では、この〈小さな〉が意味するものはなんだろうか。〈小さな舟〉〈小さな手〉〈小さな腕〉は次のように使われている。

 

〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉

〈君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを〉

〈君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉

 

 見てわかるように、〈小さな手〉と〈小さな腕〉は同じことの言い換えである。この三つは、〈小さな舟〉と〈小さな手〉〈小さな腕〉の二つに分けられる。

 まず〈小さな舟〉であるが、これは一人用の舟である。〈僕達〉は個人個人がそれぞれ〈小さな舟〉に乗るように別々の速さで各人の人生を生きている。私達はこの世界に一人ころんと投げ出されている。

 この解釈が正しいことは2番の歌詞からもわかる。そこでは〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね〉と歌われている。なぜか〈別々の山を それぞれの高さ目指して〉いるのである。パーティーを組んで協力しあって同じ山頂を目指しているわけではない。人は孤独に各々の人生を生きている。背中には重い荷物をしょっているだろう。同じように、舟もみんなが乗ることができる大きな舟ではなく〈小さな舟〉なのである。〈小さな舟〉だから、そこに積む荷物もたくさんは乗らない。宝舟のようにたくさん乗せられれば財産であるが、必要最小限の荷物だけであり、しかもそれは〈哀しみという荷物〉なのである。

 実はさだまさしの他の歌でも〈小さな〉はよく出てくる言葉である。この歌に関係しそうなのは、「主人公」の〈小さな物語〉と「驛舎(えき)」の〈小さな包み〉である。

 「驛舎(えき)」(作詞、さだまさし1981年)は、都会でうまくいかずに故郷へ帰ってきた女性を駅で出迎えるという内容である。〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉で、〈重すぎるはずの君の手荷物〉とされる。ここでも〈荷物〉は〈小さな〉ものである。その量は、一人ぶんの人生にみあったものだ。生きてきて最低限必要なものがそれだけだったものを持ち帰ったということである。都会で生きてきた何年間は、たったふたつの〈小さな包み〉にまとめられてしまうほどの価値しかなかった。それが〈重すぎるはず〉というのは、具体的な荷物は〈哀しみという荷物〉という象徴も帯びているということである。

 「主人公」(作詞、さだまさし1978年)は先にも引用したが、学生時代を思い出して、あなたの存在を糧に、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉と前向きになる応援ソングである。この〈小さな物語〉とは、平凡な〈自分の人生〉のことである。私は誰かの物語の一部を生きているわけではなく、私以外のもっと「大きな物語」のために生きているわけでもなく、人はそれぞれ個人の〈小さな物語〉を生きていて、その物語の主役であるということだ。そうした価値転換をもたらす歌であるために、広く長くファンに支持された。本稿の文脈で確認しておきたいのは、この〈小さな物語〉はおのおのの物語であり〈小さな舟〉、〈別々の山〉と同じことであるということだ。それぞれ生きている個人が一人の力でできることは小さい。その無力感は諦念とともに受容される。

 

 さだはこの「道化師のソネット」を2021年の年末の『第72回NHK紅白歌合戦』で歌うという。対戦する歌手としてではなく、企画枠である。

 この紅白のテーマは「Colorful~カラフル~」である。趣旨説明にはこうある。コロナ禍のために日常の暮らしは彩りの欠けたものになってしまった。だから少しでも世の中を「カラフル」に彩りたい、「そして「カラフル」には、多様な価値観を認め合おうという思いも込められています。あらゆる色が集い、重なり合い、称え合い、素敵な大みそかを彩る。それが今年の紅白です。」(https://www.nhk.or.jp/kouhaku/theme/

 コロナ禍で彩りを欠いた世の中をカラフルに変えたいというのはこじつけで、「そして」以降に本当の理由が語られているように思える。アイコンも、赤と白がすっぱりと分かれているのではなく、グラデーションが施され、白の端はうっすら青味がかっている。工夫はされているが、基本は赤と白なのでカラフルとは言い難い。紅白に分かれて戦うのにカラフルでありたいというのは自己否定につながる。

 タイトルに「カラフル」「colorful」がつく歌は、歌詞検索サイトで検索すると150曲以上みつかる。「color」も含めるともっと増える。そんなにあるなら、テーマによる出場枠を作って誰かが「カラフル」という歌を歌えばいいのにと思うが、そういう歌はなかった。代わりにというわけではないが、出場者の中でテーマに関係した歌を歌うのは、ゆず「虹」とBUMP OF CHICKEN「なないろ」(連続テレビ小説の主題歌)である。「なないろ」も虹のことである。(検索するとタイトルに「なないろ」「七色」とつく歌は100曲以上出てくるので驚く。)出場者のNiziUは名前に「虹」が含まれている。

 学校の出席簿も男女が混合になっている時代である。『紅白歌合戦』が男女に分かれて戦う形式になっているのはいかがなものかという批判は毎年ある。今年も朝日新聞の社会面で記事になっていた(12月27日)。男女に二分するという露骨さから排除されるのが性的マイノリティだ。紅白のテーマをカラフルにしたのは性的マイノリティへの配慮からだろう。性的マイノリティの社会運動を象徴する旗がレインボーフラッグだし、多様性が実現される社会をカラフルという言葉で語っている。『紅白歌合戦』は、今後は言葉やアイコンだけでなく、肝心の出場者の選出や扱いについても苦慮していくことになるだろう。トランスジェンダー(当時は性同一性障害)であることを公表した中村中は2007年に紅組で紅白歌合戦に出場しているが、性的マイノリティであることが強調された演出でキツかったという。もし、カラフルであることをテーマに掲げたときに、それを実行しているかのように出演者を選出しマイノリティなのに頑張っていることを過剰に演出したら当人は傷つくだろう。理念を掲げても、その実現を具体的な人によって見せるのは難しい。

 さだまさしはこれまで『紅白歌合戦』に20回出場しているが、「道化師のソネット」を歌うのは初めてだという。さだは企画枠での出場なので、「カラフル」というテーマとこの選曲とは密接な関係があると推測される。そこで歌詞を見ると、該当しそうなのが、〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね/君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉という部分である。それぞれの人が別々の山を、哀しみという荷物を抱いて(背負って)登っているという歌詞で強調されているのは、「みんなちがう」ということである。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という詩に対し、さだの歌が言っているのは「みんなちがって、みんなかなしい」ということである。先に紹介したゆずの「虹」(作詞、北川悠仁2009年)という歌でも〈特別な事ではないさ それぞれ悲しみを抱えてんだよ〉と歌われている。これも「道化師のソネット」と重なる言葉を持つ歌詞である。なぜ同じような言葉遣いになるかというと、人は個人個人に切り離されると弱くなり〈それぞれ悲しみを抱え〉るからである。多様性を認め合うには、人はいったんバラバラに切り離される時期を経ることになる。そのとき、それぞれの荷物を自分で持たなければならない。自分の悲しみを自分が引き受けなければならない。「道化師のソネット」は今のそういう時期を歌っているようにも受け取れる歌なのである。

 紅白歌合戦』で男女を二分することのおかしさは、性的マイノリティが問題になる以前からわかっていた。グループやバンドで男女混合になる場合はどちらの組に属するのか。男女のデュエットで歌う場合はどうなのか、といった問題があった。それらについては、複数で男女混合の場合はフロントマンで、デュエットで担当部分が半々の場合は有名なほうで判断するという基準があるように思えた。例えばデュエットで半分づつ歌うの都はるみ岡千秋「浪花恋しぐれ」は都はるみのほうが有名だから紅組、平尾昌晃・畑中葉子「カナダからの手紙」は平尾昌晃のほうが有名だから白組である。では、ロス・インディオス&シルヴィア「別れても好きな人」はどうか。ロス・インディオスは既にヒット曲もある男性5人組で、シルヴィアはクラブ歌手からスカウトされたデビュー作である。これは紅組としての出場になった。歌唱量は女性のほうが若干多めであるが、おそらく華やかさという点で紅組にされたのだろう。だがシルヴィアは、のちに菅原洋一と組んだ「アマン」では白組で歌っている。歌唱量は半々。菅原のほうがベテランとはいえ、シルヴィアもその時点で3回も紅白に出ているし、「華やかさ」という観点では、ハンバーグ顔の菅原は問題にならないはずだ。男女混合の場合、どちらの組に所属することになるかは、はっきりした基準がないようだ。恣意的なのである。先の朝日新聞の記事では「紅白の振り分けはNHKが決めており、申し出がない限り、出演者本人の意思を確認することはない」とある。これからは先に出演者の意思確認が必要になるだろう。だがそんなことをしたら、紅白が同数にならなくなるかもしれないし、イタズラっ気のある者は、男でも紅組で歌いたいと言ってめちゃくちゃになってしまうだろう。また、風男塾のように男装のグループの場合、紅白どちらにするのか、迷うことになるだろう。

 仮に『紅白歌合戦』が理想的に改善されたとしても、それで歌手のセクシュアリティの扱いにおける問題が解決されるわけではない。AKBや坂道グループはどうして女性ばかりなのか、ジャニーズはどうして男性ばかりなのか、エグザイルはどうして男性ばかりなのか。女性はどうしてE-girlsという妹分として外部グループを作るのか。一部のグループ、バンドやコーラス、ダンサーなどを除くと、芸能活動をするグループは男女が截然と分かれている。AKB48の第17期生メンバーの募集資格には「202227日時点で満12歳~満20歳までの女性(現小学校6年生から)」とある。AKBはアイドルになりたい人が全員女性だったというわけではない。募集時点で女性に限定されている。『紅白歌合戦』は、男性性、女性性をことさらに意識させるパフォーマーを分類して掛け合わせるのに適したシステムである。『紅白』は戦後72年も続いてきた、日本中が注目するイベントである。その歴史性を考えても、『紅白』はいろんなものを映し出す鏡であり続ける。これからどのように変容していくか注目していきたい。

 

 紅白歌合戦』に迂回したが、「道化師のソネット」の歌詞に戻る。

 先ほど〈小さな舟〉について見たので、次は〈小さな手〉〈小さな腕〉についてである。もう一度引用しておく。

 

〈君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを〉

〈君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉

 

 この〈小さな手〉は外見がそう見えることからきているが、比喩としてもっと拡大して解釈されることが読み手に期待されている。字面をそのまま読めば〈君〉は小柄な女性だという推測がなされる。しかしこの人が手にしているのは〈哀しみ〉である。既に〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉という表現があることを見ておいたが、〈哀しみ〉イコール〈荷物〉として捉えられている。「驛舎(えき)」に〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉とあるように、どこへ行ってもこの荷物は人についてまわるものである。

 では〈哀しみ〉とは何かというと、これは生きることそのものである。人が生きることに哀しみはつきまとっていて、そこから逃れることはできない。さだはこのころ「防人の詩」という仏教の四苦(生(しょう)・老・病・死)を読み込んだ歌を作っている。〈生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと/病いの苦しみと 死にゆく悲しみと〉とある。生苦は、一般的には生まれることと説明される。人が生まれることがすべての苦の大本だ。今、「親ガチャ」という言葉が若者のあいだで流行っているが、生まれた条件は自分で選べずしかもそれは変えられないということであり、「親ガチャ」は生苦の現代的な表現だと言っていいだろう。最近、ファンタジーで「転生もの」や「人格交代もの」「タイムリープもの」などが大流行しているように、人は人生をやりなおしたいという思いが強い。だが、今の自分の肉体から外に出ることは不可能であり、自分の「生・老・病・死」は他の人と交換できない。

 ただ、苦といっても、古代インドではたしかに生きることは肉体的にも痛苦であっただろうが、文明化された現代日本では肉体的な苦痛はかなりやわらいで、感覚的な悲哀にまで低減されているだろう。生・老・病・死のような大きな悩みでなくても、生きていくうえでは様々な哀しいことに遭遇し、大なり小なり悲しむために生きているようだと感じることも少なくないだろう。私達の舟にはいつも〈哀しみという荷物〉が積まれているのである。

 そこで〈小さな手(腕)〉は何を意味しているかというと、これは外見とは関係がない。〈哀しみという荷物〉を抱えているのは大柄な女性でもそうだし、屈強な男性でもそうである。彼らはみな〈小さな手〉をしているのである。他の誰も「この私」に成り代わることはできない。自分の哀しみは自分で抱えるしかない。〈小さな〉は、人が無力な個人として世界に投げ出されていることの比喩である。個人でできることは限られている。誰しもなにか問題を抱えていて、それに一人で対処するのが難しい。その個人個人が向き合っている無力さが〈小さな〉という言葉で表現されているのである。つまりこれは、先にふれた〈小さな舟〉〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉と同じことなのである。

 

 では、この〈小さな〉ことからくる無力さであるが、それを克服する方法はあるのだろうか。たんに諦めるしかないのか。答えは簡単だ。他の人が手を差し伸べればいいのである。みたび「驛舎(えき)」という歌を持ち出すと、〈重すぎるはずの 君の手荷物をとれば〉とあるように、ここで手助けしてくれる人が現れるのである。小さくても一人で持つには〈重すぎる〉荷物である。はおそらく〈君〉一人だけでは立ち直れないかもしれない。動き始めるまでは負担が重い。駅に着いたとき、つまり再起しようとする瞬間にちょっとだけでいいから手を差し伸べてくれる人がいれば随分助かるのである。ちょっと手を貸すことはできる。だが助っ人といえどもそれ以上は立ち入れない。「驛舎(えき)」の歌詞は次のように続いている。〈ざわめきの中で ふたりだけ息を止めてる/口を開けば 苦しみが全て 嘘に戻るようで〉。言葉をかわして相手に少しでも〈苦しみ〉を分有してもらおうと思ってもそれは無理なのだ。〈苦しみ〉は自分で引き受けるしかない。他人は〈君〉の人生を生きることができない。

 道化師のソネット」でも手を差し伸べてくれる人が登場する。というより、この歌はその「お助けマン」誕生の瞬間を描いた歌なのである。

〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になれるよ〉
〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になろう〉

 というのがそれである。この歌が映画の主題歌でなければ、ここで唐突に〈道化師(ピエロ)〉が出てくるのは面食らう。ここまでにピエロにつながるような伏線はなにもないからだ。

 〈僕は道化師(ピエロ)になろう〉とあるので、まだピエロにはなっていない。ピエロになる決意を固めただけである。そもそも〈僕〉はどういう人なのだろうか。人の哀しみを見てそれをやわらげようとしていることはわかる。ではことさらそう思う〈僕〉自身は何者なのか。〈僕〉は特別な人ではない。〈僕〉も哀しみを抱えている市井の一人なのである。〈僕達は舟人たちのようだね〉とあるように、〈僕〉もまた〈舟人〉である。逆に言えば、〈舟人たち〉の中のひとりが、発心してピエロになろうとするのである。仏教ふうに言えば、ピエロになろうとするのは他人の幸福のために行動しようということだから利他行である。映画『翔べイカロスの翼』は実話をもとにしており、ピエロになった青年はサーカスの公演中に事故により亡くなってしまう。

 常不軽菩薩という変わった菩薩がいる。菩薩というのはブッダになるために修行している人のことだ。常不軽菩薩は相手が誰であっても近づいていって、「あなたがたは仏になる可能性がある人だから敬います、軽んじません」と礼拝したのである。こんなことをされれば怒る人がでてくるので、石を投げられたり杖で打たれたりと迫害された。それでも礼拝をやめなかった。この、みな仏になるというのは大乗仏教の真髄である。

 ピエロの笑いというのは、人を笑わせるために自分が笑われる者になることである。ときには映画のように命がけで危ういこともする。人を幸せにするために自分をなげうつ。歌詞には奇しくも〈せめて笑顔が救うのなら〉と「救い」の文字が使われている。ピエロは人を救済するために道化を演じているのである。涙を流しながら人々を笑わしているというのは修行ではなくてなんであろうか。もちろんピエロが全員菩薩行をしていると言いたいわけではない。ただ、この「道化師のソネット」という歌が、ピエロの笑いによる人々の救済を描いているのは間違いないだろう。いわば常被笑菩薩である。

 道化師のソネット」は、〈小さな舟〉とか〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉といった小乗的な言葉で語られている。その中からやがて、ピエロという利他的な行いをするものが出てくる。だが、この歌に描かれる段階ではまだ自分のための修行という面が表れている。それは〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉の〈僕のために〉という部分である。ピエロの役割は笑われることにある。〈僕〉がピエロになったとしても笑ってもらえなければ自分が救われない。自分のことを考えて相手に笑ってくれというのでは、まだ未熟さが残っている。無理もない、まだピエロを志願したばかりなのだ。ツラい菩薩行に耐えられるのはごくわずかである。多くの修行者は途中で脱落してしまうはずだ。そのとき、弱い心の者もみんな含めて救われるように書かれたのが〈笑ってよ 僕のために〉である。〈笑ってよ 君のために〉は自分以外の全員に向けられている。〈笑ってよ 僕のために〉は自分に向けられている。この二つがあわさって取り残しのない全員になる。泣き顔のピエロという自己犠牲の思想は普遍性をもちえない。「道化師のソネット」は自己犠牲の熾烈さを超えたやさしさをもっている。 

伊勢正三「22才の別れ」、荒井由実「卒業写真」、菊池桃子「卒業」〜君僕ソング(その2)

父■〈貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉というのは、言い方を変えれば、「あなたはあなたのままでいてほしい」ということになる。

娘□「あなたはあなたのままでいてほしい」と言われても、自分をはっきり持っている人はいいけど、ほとんどの人はそう言われても逆に「自分っていったいなんだろう」って思うんじゃないかしら。

父■誰でも自分のやりたいことを持っている、という理想の姿がこういう歌の前提だから。

娘□将来の夢をサラサラ書けるような子どものまま大きくなっているってことね。

父■松山千春ほどの隠れマチズモではないけど、伊勢正三「22才の別れ」(作詞、伊勢正三1974年)もそうした発想の歌だよ。

伊勢正三「22才の別れ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0004fd/l0058d1.html

 この歌では〈あなた〉は6回、〈私〉は5回出てくる。「22才の別れ」も、松山千春「旅立ち」と同じく旅立ちを歌っている。というより、こちらのほうが古い歌なんだけど。

娘□あー、その歌好き。お父さんがよくカラオケで歌ってるでしょ。

父■伊勢正三かぐや姫のメンバーで、「22才の別れ」はかぐや姫のアルバム『三階建の詩』に入っている。

娘□あれ? でも、風の歌じゃなかったっけ?

父■ヒットさせたのはそうだね。

娘□歌詞に〈私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに/私の目の前にあった幸せに すがりついてしまった〉とあるじゃん。ここがよくわからないんだけど。

父■この〈鏡〉っていうのは、未来を映しているんだろうね。童話の『白雪姫』でもそうだけど鏡ってマジカルな道具でしょ。日本なら、三種の神器八咫鏡は神秘的な物とされるし、『ひみつのアッコちゃん』や『ミラーマン』では、鏡は不思議な世界を媒介する。

娘□鏡は女性に身近なアイテムだから、この人も鏡に向かっていろいろ考えたのね。

父■〈私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに〉というのは、あなたとの将来が考えられなかったということだろう。おそらくあなたは何か叶えることが難しい夢を持っていて、私は途中まであなたの夢につきあったけれど、いつまでもそれは無理で、結局お見合いかなんかで知り合った人と結婚してしまうという現実を選んだんだね。

娘□じゃあ、〈目の前にあった幸せに すがりつい〉たっていうところは?

父■そこは意味がはっきりしないんだけど、「鏡に映る姿(未来)/目の前の幸せ(現在)」という対比の文脈だから、「あなた/もう一人別の存在」っていう対比にもとれるし、〈あなた〉の現在と未来との対比で、将来のことは直視せず毎日をだらだら続けてしまったともとれる。そもそもこの歌は最初のところが〈あなたに「さよなら」って言えるのは今日だけ/明日になって またあなたの暖い手に触れたら きっと言えなくなってしまう〉とあって、「今日/明日」の対比になっているように、対比で進んでいく歌なんだよね。

娘□〈あなた〉を捨てて、他の人とお見合いをして、その人のところへ行くってこと? お見合いについては歌詞には出てこないけど。

父■僕は野口五郎の「むさし野詩人」(作詞、松本隆1977年)が好きでよく聞いていたんだけど、歌詞に〈15行目から恋をして 20行目で終ったよ〉とあった。これは15歳から20歳まで彼女とつきあっていたということで、「22才の別れ」の17本目のローソクから22本までいっしょに火をつけたというのと類似の表現だ。どちらも不思議と5年間だしね。「むさし野詩人」は別れた彼女のことを思い出している歌なんだけど、〈お見合いの事悩んだあなた〉とあって、彼女はお見合いで結婚して離れていったと思わせる。僕はこの歌を通して「22才の別れ」を解釈しているからそう言ったんだね、きっと。

娘□そのころはまだお見合いって多かったと思うから、似たような別れ方になっても不思議ではない?

父■70年代半ばは、まだ全体の1/3はお見合い結婚だった。「22才の別れ」に〈あなたの知らないところへ嫁いでゆく〉ってあるよね。〈あなたの知らないところ〉というのは、〈あなた〉とは関係のないところということでしょ。具体的には、田舎から出てきた女性が両親に結婚をせっつかれて地元の男性とお見合いして田舎に帰って結婚するということだと思う。〈あなた〉と〈私〉の関係には、まだ〈私〉の背後にいる家族は関わっていない。〈私〉の家族は〈あなたの知らないところ〉に切り離されている。〈あなた〉の関心からはずれたところが〈あなたの知らないところ〉だ。要は、都会でカップルになって好き勝手やっている甘い時間、モラトリアムが終わったんだ。見ないふりをしていた家族との関係の力の強さを思い知らされる。

娘□それって「なごり雪」に似てるじゃん。

父■そう。「22才の別れ」が女性視点の歌だとすれば、同じ状況を男性視点で描いたのが、同じアルバムに入っている同じ作者の「なごり雪」だろう。「なごり雪」も女性が遠くに離れていく歌だ(〈東京で見る雪もこれが最後ね〉)。作詞した伊勢正三大分県の出身だ。

娘□遠くに行くから別れることになるのか、きっぱり別れたいから遠く離れようとするのかわからないけどさ、なんか地理的に距離をとらないと別れられないっていうのは面倒くさいな。遠くへ行った先でまたいろいろしがらみができそうだし、そこで幸せになれる保証もないし。場所を変えずに別れたいなぁ、あたしは。

父■今はドラマを見ていても、スマホの連絡先をサクッと削除することが別れの儀式になっているね。何度も消すのをためらったりすることで心の揺れを表現しているんだけど、指先一つで解消される関係ってのも薄っぺらいな。

娘□遠くに行くなんて、昔の人はフロンティア・スピリットがあったんだね。

父■故郷に帰るんだからフロンティアってことはないけど。

娘□〈嫁いでゆく〉っていう言い方は、たんに二人が結婚しますってことじゃなくて相手の家に入るっていうことだから、冒険よ。フロンティア精神がなければできないわ。解放的な都会暮らしを経験したあとは、濃密な人間関係の残る田舎は未知なる土地になるでしょ。子どものときとは違う大人の人間関係に巻き込まれるわけだしさ。

父■フロンティアかどうかはともかくとして、70年代っていうのはまだ、田舎から都会に出てきて故郷を思うという「望郷ソング」の影響が強く残っていたから、恋愛ソングもそういうタイプの歌になったんだろうね。都会で恋愛相手を見つけて都会で家庭を持つ、ということができなかった人のうち、何割かは故郷へ帰っていく。田舎から都会に出てきてそこで家庭を持てた人たちの子どもは、今は都会で華やかな恋愛を繰り広げている。彼らは、別れるにしても人の移動はセットにはならない。

娘□恋愛にいろんなものを絡ませたくないだけなんだよね。旅情ものの歌ってあるでしょ。失恋して旅に出て、すっきりして戻ってくるっていう。あれって、リセットしてまた元の環境に戻るわけだから、人が移動したように見えても、実質的な移動ではない。

父■バス旅行の歌集に必ず載っていた山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」(作詞、山上路夫1974年)も〈この旅終えて街に帰ろう〉とあって、都会の住人が田舎に来て、また都会に戻っていくという構造になっている。この歌の場合は、バス旅行は、亡くなったと思われる彼女についての「喪の仕事」の一部になっている。旅先での、人間を超越する自然や、バスという乗り物だからこそ保存されている世俗的な日常性により、〈僕〉は元の場所に帰ることができる。回復が予見されている。自分で一人でクルマを運転して同じ場所に行っても得られない体験だ。この歌の特徴は、都会から田舎へ、あるいは田舎から都会へという一方通行ではなく、往還を一つの歌の中で描いていることだね。

娘□移動ではなく元の場所に戻ることに主眼がある。

父■ご当地ソングてだいたいそうだよね。恋に敗れた女が都会から一人で地方都市に来て、そこの風物に癒されるという。旅と移住の違い。70年代は国鉄のディスカバー・ジャパンのキャンペーンがあって個人旅行が盛んになったし、雑誌片手の「アンノン族」という若い女性の一人旅も流行った。失恋と旅が結びつくのは、そういう女性の一人旅が珍しくなくなったという時代背景があるのかもしれない。80年代付近になると、久保田早紀の「異邦人」(1979年)とか中森明菜の一連の旅情ものなどグローバルなものになっていく。若い女性が一人で旅行している姿をはたから見ては、そこにセンチメンタル・ジャーニーのようなロマンチックな幻想を投影していくというパターンだね。

娘□そういうのに比べたら「22才の別れ」や「なごり雪」は行ったっきりになる。で、遠く離れるといっても、都会に行くんじゃなくて田舎に戻るわけよね。田舎の両親にしてみれば帰ってきてほしいわけでしょ。あれ? なんかそういう歌なかったっけ?

父■青木光一の「早く帰ってコ」(作詞、高野公男、1956年)か? 松村和子の「帰ってこいよ」(作詞、平山忠夫、1980年)かな?

娘□三味線をベンベンかき鳴らしてたやつ。

父■松村和子のほうだね。「帰ってこいよ」は東京に出ていった女性を、青森にいる幼なじみの男性の立場から、帰ってこいよと呼びかけている。一方、青木光一の「早く帰ってコ」は、田舎に残った農家の長男が、東京に出た次男三男に早く帰ってこいと呼びかけるもの。〈幼なじみも 変わりゃしないよ〉と田舎は変わらずに待っていると言っている。この2曲のあいだには24年の時間が経っているから社会的な事情は同じではないけど、田舎から人が出ていくことは同じだ。今でも、東京一極集中が止まらない。特に若い女性は、田舎では仕事がないからといって、どんどん東京に出て行ってしまう。今「帰ってこいよ」と呼びかけているのは地方自治体だけどね。

娘□ちょっと疑問なんだけど、「22才の別れ」は、田舎から出てきた女性が都会で男性と出会い、再び田舎に帰っていくという前提で話しているんだけど、〈私の誕生日に 22本のローソクをたて()17本目からはいっしょに火をつけた〉っていうことは、17歳から22歳まで交際していたっていうことでしょ。私はてっきり大学生活の出来事だと思っていたんだけど、17歳ってまだ高校2年か3年なんだよね。この人が田舎の高校を出て都会に来たとしたらおかしくない?

父■中学を卒業して集団就職で上京したのかもしれない。70年代に入ると都会への人口流入は減少数する。この歌が書かれた74年はオイルショックが起きて高度経済成長の時代も終わり、中卒者の採用も減少したけど、74年時点で22歳だとしたら、15歳時は67年で、その頃の高校進学率は右肩上がりで上昇しているころで、今みたいにほぼ全入ではなく、まだ7,8割だった。(就職・進学移動と国内人口移動の変化に関する分析 https://ktgis.net/lab/study/papers/tani2000a.pdf

娘□どうしても田舎から都会に来たということにしたいわけね。

父■僕がそう解釈したのは〈あなたの知らないところへ嫁いでゆく〉という部分からだけど、〈あなたの知らないところ〉って、〈私〉は知ってるけど〈あなた〉は知らない場所というニュアンスが含まれてるでしょ。〈私〉にとっても未知の場所に嫁いでいくとしたら、誰も知らないところへ嫁いでいくという、もっと覚悟を決めた表現になるはずだ。君の言うフロンティア的な場所になる。でも〈私〉は知ってる場所というニュアンスがあるから、〈私〉には〈あなた〉と暮らしている場所の他に、別に故郷があると思えるんだ。自分の出身地に帰るのに〈嫁いでゆく〉という言い方はへんだけど、相手の家に嫁いでゆくということなんだろう。

娘□この女性が高校を出て就職して22歳で結婚することになったとか、あるいは大学を出てすぐに結婚することになったとかいうことは考えられないの?

父■高校から就職、あるいは大学への進学ってそこに切断線があるよね。人間関係も大きく入れ替わる。でもこの二人は17歳から22歳まで5年間継続した関係をもっていた。そこに環境の変化が感じられない。

娘□べつに高校のときつきあい出して、そのあともずっとつきあっていてもいいじゃない。

父■いいけど、僕には17歳から22歳までずっと同じ環境だったように感じられるなあ。それと〈17本目からはいっしょに火をつけた〉っていうのは、家族より男性との関係のほうが濃密な感じだから、家族とは離れた場所で男性と同棲していたのだと思わせる。誕生日のお祝いは家族とではなく男性と一緒だったということでしょ。17歳なら普通はまわりに家族がいるはずだけど、この歌の場合は男性しかいなさそう。やっぱりこの人は、家族とは離れて暮らしているんだと思う。

娘□ふうん。でも〈私の誕生日に 22本のローソクをたて〉るってバースデーケーキにローソクを22本も立てたら穴だらけになっちゃうし、イチゴとか置くスペースがないよ。それなりに大きなケーキが必要だし、それだと家族で食べなければ食べきれない。ローソクって子どもが小さいうちだけだと思う。ローソクよりプレゼントが欲しい。〈ひとつひとつが みんな君の人生だね〉ってうまいこと言ってローソクでごまかされてる。ローソクの数ばかり増えていくから、こりゃだめだと思って別れる決心をしたんじゃないの? ローソクを立てることで、むしろ費やした年数を思い知らされたのね。

父■なんだか話しているうちに、〈私の誕生日に 22本のローソクをたて/ひとつひとつが みんな君の人生だねって言って/17本目からはいっしょに火をつけた〉って随分寂しい感じがしてきた。もしかしたらこの女性は田舎かから出てきたのではなく、家族をなくして孤独な境遇だったのかもしれないなあ。

 

父■話を本筋に戻そう。「あなたはあなたのままでいてほしい」ということを「22才の別れ」では、〈あなたは あなたのままで 変らずにいて下さい そのままで〉と歌っている。「あなたはあなたのままでいてほしい」って、なんでそんなことを言うと思う?

娘□なんで? あなたは変わらないでいてほしいっていうことでしょ。あなたは変わらないでっていうことは他に変わってしまう人がいるっていうことか。歌にはあなたと私しか出てこないから、あ、変わるのは私なのね。私は変わってしまうけど、あなたは変わらないでっていうこと?

父■そうだね。その「私は変わるけど、あなたは変わらないで」ということをはっきり歌っているのが「22才の別れ」の翌年に出たユーミンの「卒業写真」(作詞、荒井由実1975年)だよ。〈人ごみに流されて変わって行く私〉と〈卒業写真の面影がそのままだった〉あなたが対比される。そして〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉とひそかに願っている。

荒井由実「卒業写真」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000c13/l00f607.html

娘□ちょっと都合よくない? 自分は変わってるのに相手には変わるなって。

父■まあ、心の中で思っているだけだからね。なぜそのように願うかというと、〈あなたは私の青春そのもの〉で、過去の記憶の中の〈あなた〉と一致していてほしいから、変わってほしくないんだよ。〈あなたは私の青春そのもの〉なので、変わらないあなたがいることが、変わらない過去の私があることを保証している。そして変わらない過去の私があることが、今の私の支えになっている。今の私はどんどん変わっているさなかにあるので、何が本当の私なのかわからなくなっているのだろう。そのとき確かなものとして依りどころとなるのが過去の私なんだ。

娘□今の私は過去の私を支えにし、過去の私は変わらないあなたを支えにしている。あなたってそんなに確かなものなの?

父■幻想だね。根拠をさかのぼってゆくと、最後は幻想というか空虚に行き着く。

娘□あなたに変わってほしくないっていっても、現実の〈あなた〉は何十年か経って同窓会であったらすっかり変わってオジサンになっていたっていうのがオチだろうけど。

父■この変わる女性というのは子どもから大人に変化するということでもあるし、男性のほうは青年のままでいてほしいということだろう。ここには逆説があって、変わらないということは保守的ということではなく、夢を持ったまま変わらないということだから未来志向なんだよね。一方、変わるというのは変化を恐れないというより、現実にあわせて変わってゆくということだから現実主義なんだ。現実が変わっているので、それに合わせて自分も変わっていく。

娘□男は未来を、女は目の前の現実を見るというのは類型的な発想よね。男脳/女脳の違いという疑似科学に結びつけられやすい。

父■未来志向と現実主義の対比を男女の違いに固定するわけではないよ。歌詞においても、男女の立場は入れ替えられているものがある。ひとつのパターンの中にもいろんな組み合わせがある。

娘□その「いろんな組み合わせ」のところは時間がかかるから省略して。

父■あ、そう。ではその一つを言うね。「22才の別れ」では女性のほうが遠くにいったけど、歌で、男と女のどちらが遠くに行くことになるのかという易動性の役割は固定的ではない。高度成長期に流行った望郷歌謡には、女性が田舎に残るという歌もいくつもある。例えば、大ヒットした青木光一「柿の木坂の家」(作詞、石本美由起1957年)はノスタルジーを喚起する典型的な歌で、男が都会に出て、故郷にいる〈あの娘〉は今も〈機(はた)織り〉して暮らしているかと思われている。この場合、女性は「変わらないふるさと像」の一部に織り込まれているんだけどね。

娘□その歌はちょっと古すぎてわからない。

父■太田裕美木綿のハンカチーフ」(作詞、松本隆1975年)も田舎に残るのは女性で、都会に出ていくのは男性。田舎に残るほうが変化にさらされないから、必然的に、変わっていくのは男性で、変わらないのは女性ということになる。この歌に出てくる男ってサイテー扱いされるけど、男がいる都会は変化が早くて、変化の早さについていくには自分も早く変わっていかなければならない。『鏡の国のアリス』の赤の女王じゃないけど、「同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」。

娘□変わる変わらないは、何と比較するかという相対的なものだってことね。田舎は変化がゆっくりだから、そこにいる人も変わらないように見える。都会は変化が早いから、そこにいる人も変わり方が早い。どちらも周囲の環境に適合しているだけ。田舎の中の視点、都会の中の視点では、それぞれ流れる背景の速さは同じで、それを背に人物が止まっているように見えるためには、それに合わせた速度で動いていなければならない。それが、田舎から都会に人が移動して、田舎の視点で都会の中を覗くとすごく早く動いているように見える。

父■「木綿のハンカチーフ」の男性が都会へ行ったのは就職のため。進学のために都会に出て行くこともある。菊池桃子の「卒業」(作詞、秋元康1985年)は進学か就職かわからないけど、こちらも男性が都会に行く。この歌には〈あなた〉という言葉は出てこない。代わりに〈あの人〉となっている。〈あの〉というのは遠称だね。近くにはいない人。自分たちのことなんだけど、語りの客観性が高くなっている。

娘□〈あの人〉って大人びた言い方だから、演歌なら〈あの人〉ってありそうだけど、アイドル歌謡で〈あの人〉ってのはユニークね。歌詞は高校生のことみたいだから、〈あなた〉っていう呼び方が照れくさいってこともあるのかな。お互い好きなんだけど、まだ恋人というほどはっきりした関係になれてなかったのかも。それで〈あの人〉なんてぼかした言い方になったのかもね。というか、〈あの人〉という呼び方からそう思わせるんだけど。

菊池桃子「卒業」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a00112e/l004f91.html

父■1番と2番のサビは同じで、〈4月になると ここへ来て 卒業写真めくるのよ/あれほど誰かを 愛せやしないと〉とあるんだけど、この〈になると〉が曲者なんだよね。一回の出来事なのか、毎年反復される習慣的な出来事なのか、どちらともとれる。

娘□よく、卒業してもみんなで毎年ここで会おうってのがあるじゃん。結局、半分も集まらなかったりするんだけど、そのときは感情が昂ぶっているからノリで言うじゃん。それみたいに、毎年4月に〈ここ〉へ来て思い出をたどるということじゃないの? この歌の場合は一人みたいだけど。他のみんなは卒業写真として。

父■普通に考えるとそうなんだけど、〈あれほど誰かを 愛せやしない〉という言い方がしっくりこないんだよな。若い人は出会いがいっぱいあるのに、いつまでもそんなことを思っているかな。

娘□それはいつまでもそう思うにちがいないほど素敵な人ってことよ。だから納得のいく恋愛ができるまでは毎年〈ここ〉へ来るんじゃない? 歌詞には〈ここ〉に該当する場所は出てこないから、〈ここ〉がどこかはわからないけど。ま、学校の敷地のどこかでしょうけど。

父■僕は、これは一回だけのことだと思うんだよね。〈あの人〉がいなくなった4月に、〈私〉は〈ここ〉にきて卒業写真をめくるということ。これは一番最後の、〈4月が過ぎて都会へと 旅立ってゆく あの人〉と対比になってるんだと思う。

娘□〈4月が過ぎて〉というのは、日本語としてちょっとヘンじゃない? 5月に都会に行くの? 〈4月になって〉ならわかるけど。普通は準備もあるから3月中に移動するはずだけど、区切りという意味では4月よね。

父■まさにそうなんだ。〈4月が過ぎて〉がおかしいのと同じように、〈4月になると〉もおかしいんだよ。〈になると〉という言い方は周期的な反復行動を思わせるでしょ。春になるとツバメが来る、みたいに。でも僕はこれは1回かぎりのことだと思うので、君の言うようにここも〈4月になって〉とでもすべきなんだよ。つまり「4月になって ここへ来て 卒業写真めくる私」と「4月になって都会へと 旅立ってゆく あの人」の対比なんだ。〈ここ〉と〈都会〉、〈卒業写真〉と〈旅立〉ち、〈私〉と〈あの人〉。卒業写真には過去が固着されている。一方、旅立ちは変化を示している。

娘□それはお父さんの図式に当てはめすぎじゃない? 歌詞を変えてまで自分の解釈にあわせるのは駄目でしょ。もとのままだと時間が錯綜してわかりにくいけど、それが味になっているんじゃないの?

父■あんまりきれいな図式にまとめられる歌だと、作り手の意図が見え透いてシラケてしまうかもね。整合的な解釈をはみでたところがあったほうが深さを感じる。

娘□私は別のところが気になった。最後の、〈4月が過ぎて都会へと 旅立ってゆく あの人の/素敵な生き方 うなずいた私〉と締められているところで、〈うなずいた私〉って何それウケる、って思った。自分で自分にツッコミいれてるじゃん。

父■この頷きは、〈私〉の判断は間違ってないということを自分に言い聞かす意味があるよね。〈私〉を捨てて遠くに去っていくんだから本当は恨み節の一つや二つは言いたくなるところをそうせずに、〈あの人〉の生き方を肯定する。そうでないと自分がみじめになるしね。〈あなた〉の生き方が素敵ならば、自分が捨てられたことも〈素敵な〉ことの一部でしょ。捨てられたのではなく違う意味が生じる。

娘□ありのままの現実を受け入れるのが恐いからごまかしているのかな。

父■たしかに〈あの人の/素敵な生き方〉ってどういうことなのか具体的にイメージできないんだけど、これって、「卒業写真」の〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉に通じるものがあるよね。どちらも高校生か大学生くらいなんだけど、そんな若造に〈生き方〉なんてしっかりしたものがあるのかと。〈生き方〉というには対象になるスパンが短すぎるでしょ。〈あの人の/素敵な生き方〉は他の人には幻想にしか見えないとしても、根拠が自分の外に置かれているので、詮索を一旦そこで止めることができる。他の解釈として、〈あの人〉のこれまでの学生時代の〈生き方〉というより、この先の延長が〈素敵な生き方〉になるに違いないと言っている可能性もあるけれどね。

娘□この「卒業」も、田舎に残るのは女性で、都会に行くのは男性ね。都会に行って変わったとか変わらないとかは書いてないけど、それはまだ先の話ね。

父■〈素敵な生き方〉の人だから「木綿のハンカチーフ」の男のように変わってはいかないことが期待されている。

娘□〈素敵な生き方〉が、その人を縛る呪文になっている。変わらないようにする呪文。直接本人に言ったわけではないだろうけど、お祈りみたいなものなのかな。

父■いずれにしても、変わる変わらないは、置かれた立場によって、男でも女でもどちらでもありうる。

娘□移動する先は、都会に行くというのが多いみたいね。高度成長で都会に吸い寄せられていくからでしょうけど。さっきの「22才の別れ」は田舎に行くことがドラマを生んでいるでしょ。それって珍しくない?

父■そうだね。「さすらいもの」の別れのパターンなら、あちこち田舎を流浪するというのはあるけど、田舎に定着するために田舎に行くというのは・・・あ、「津軽海峡・冬景色」は田舎に帰るパターンだな。あれは、東京で失敗して北に逃げるタイプの歌だね。ドラマ『北の国から』みたいな。都落ちソング。「22才の別れ」も時間切れという点では失敗と言えるかも。敗者が北とか南に逃げるのは、日本人の想像力のパターンにあるよね。あるいは中心を避けつつ流浪する。それはまた別の話になってくる。今話しているのは「あなたと私」の二者関係の問題で、逃避行や流浪は、その関係がもう断ち切れて一人で行動している。まあ、「昭和枯れすすき」(1974年)みたいに二人で逃避行というのもあるけど。二者関係の移動を図式化すれば、移動する先(都会、田舎)、移動する人の性別(男、女)、語り手の場所(都会、田舎)、語り手の性別(男、女)の組み合わせでいろんなパターンができる。あ、またパターンの話に戻ってきちゃったな。

娘□変わる変わらないの歌って、変わるのは悪いことってイメージがあると思う。でも、変わるのは悪じゃないと思う。変わるのは生きていくために環境の変化に合わせるってことで、変化と場所の移動がセットになっているのは、移動が環境の変化をもたらすから。場所が変わらなくても、就職して環境が変われば自分も変わらざるをえない。女性の場合は、加えて結婚ということがある。結婚は女性のほうが男性に合わせる場合が多い。それに女性のほうが結婚の「適齢期」が短いとされるから、子どもから大人への変化の圧力が高くなる。女性の方が変わりやすい、というか変わる必要に迫られる場面が多い。

父■女性の方が環境の変化に対して柔軟に適応しているんじゃないかな。男のほうが硬直した考え方をしているような気がする。

 

父■「あなたはあなたのままでいてほしい」という歌を見てきたんだけど、ここにはもう一方の極が隠されている。

娘□なに?

父■「あなたはあなたのままでいてほしい」が「私」のほうに折り返されてくると「私は私のままでいたい」ということになる。

娘□それじゃ個人主義じゃん。二人をくっつけていた接着剤である愛が霧消してバラバラになっちゃう。

父■「あなたはあなた、私は私」って言い出すのは、普通は二人が別れたときだよね。うんと古い例をだせば、佐藤千夜子「この太陽」(作詞、西條八十1930年)では、いいなづけだった二人は、小さいときは一緒に遊んだりしたけど、大人になってからは〈恋の巡礼者〉となり〈あなたはあなたの途(みち)をゆき 私は私の途をゆく〉と離ればなれになってしまう。昭和5年の歌だ。

娘□別々の道を行くとか、それぞれの道を行くとか、違う道を行くとかいうのはJポップの歌詞にもよくあるけど、西條八十が書いた詞をいまだになぞってるんだねJポップは。

父■別れたあとなら「あなたはあなた、私は私」っていう潔さは、「別れは新しい出会いの始まり」という認識の転換をもたらして生産的なんだけど、つきあってるうちから既に「あなたはあなた、私は私」という意識が生じてることがあるんだよね。

娘□それが「あなたはあなたのままでいて、私は私のままでいる」という、干渉しあわない個人主義ね。

父■ユーミンの「卒業写真」では、〈人ごみに流されて 変わって行く私〉が歌われていて、現実にあわせて流されるように変わっていく女性が描かれているように見えたけれど、歌にある「変わっていく私」と「変わらないあなた」の対比のうち、「変わっていく私」は実はそれほど否定されているわけではなく、そこにあるのは「あなたはあなたのままでいて、私は私のままでいる」という、「あなた」から自立した女性なんだろうな。もっと言えば、「私が私のままでいるために、あなたはあなたのままでいて」ということで、「あなたと私」は対等ではなく。「私」の方に比重がある。いっけん「あなた」に象徴される過去に依存しているように見えるけれど、それはもうじき捨て去られるライナスの毛布なんだろう。過渡的な意識が歌われてるんだと思う。

娘□「あなたはあなた、私は私」ってはっきり言うのは、客観的でさっぱりしてるけど、突き放した冷たい感じがする。

父■自立していて、お互い干渉しないので、そう感じるんだな。そういう歌の典型は金井克子「他人の関係」(作詞、有馬三恵子、1973年)だろう。交通整理みたいに手を左右に振りわけるしぐさと「パッパッパパパ」というバックコーラスは子どものころよく真似したなあ。無表情で歌う金井克子はちょっと怖かったけど。子どもには歌詞の意味はわからなかったけど、大人は困ったんじゃないかな。

娘□小さい子は、形が面白いとすぐ真似するよね。

父■〈愛したあと おたがい 他人の二人/あなたはあなた そして私はわたし〉という歌詞で、会うときも別れるときも他人のふりをしようということ。会うときは初めて会う人のように新鮮な気持ちで会い、別れたあとは自由でいられるように、ということだね。「逢引の哲学」とでもいうのかな、お互いを尊重しあうということが、自分の領域への侵襲を防ぐことにつながっている。この歌の場合は、お互い深入りしないほうが長続きするという計算の上でそうしてるんだろうけど。「他人の関係」というのは、計算づくで動ける「大人の関係」でもあるね。

娘□「関係」って、なんか淫靡な響きがあるけど、それはこの歌から?

父■さあ、どうだろう。

娘□歌われているのは、なんかゲーム感覚の恋愛って感じね。でも、そんなにきれいに割り切れるものかな。恋愛って不安定なものでしょ。うまくいっているときはいいけど、どちらかのバランスが崩れるとあっというまに駄目になりそうな関係ね。

父■この歌の場合は恋愛というより、お互いが楽しむための契約という感じだね。契約といえば『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマがあって、二人の関係が愛という不安定なものから始まるのではなく、契約結婚という安定したものから始めようとしていた。結婚という制度を表面的に利用した関係だったのが、結局真実の愛にめざめるっていう展開だった。形式に内容が満たされていく。『逃げ恥』は結婚をふんぎるまでの敷居を低くして、愛がなくても結婚していい、愛はあとからついてくる、人は人によって変化するということを言っていたと思う。実際、愛なんてよくわからない心理状態でしょ。私は本当にあの人のことを愛しているのかしら、ってドラマのヒロインもよく悩んでるでしょ。

娘□あなた色に染まりたいっていう歌がよくあるけど、あなた色に染まっちゃったら「あなたはあなた、私は私」に戻れないね。

父■ウェディングドレスが純白であることの意味だね。一旦染まってしまったら洗っても落ちなそうだ。テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」(作詞、荒木とよひさ1986年)が〈時の流れに身をまかせ/あなたの色に染められ〉と歌っていたな。この歌は、一度きりの自分の人生さえ捨ててもいいと歌っていたから極端だけれど。

娘□尽くしてくれる女性って、男の理想じゃないの?

父■ここまで受け身だと特殊な事情を感じるね。こじれて厄介なことに巻き込まれそうな気がする。正反対の歌を川島だりあが歌っている。〈あなた色に染まってく 自分がこわくて/悲しき自由の果てに〉(「悲しき自由の果てに」作詞、川島だりあ1992年)。ドラマ『ウーマンドリーム』のサントラに入っていた。この歌の二人は別れて、自分が自分でいられることのほうを選んだんだね。愛より自由。〈悲しき自由の果てに〉というのは、自分が自分でいること(自由)をつらぬくのは寂しさと引き換えだということだろう。自分がなくなる、飲み込まれることが恐いんだね。自由というワードは「他人の関係」でも、〈大人同士の恋は 小鳥のように/いつでも自由でいたいわ〉と使われている。また『逃げ恥』の話をすれば、結婚によって自由を奪われると考える人がいるけれど、『逃げ恥』は自由が愛に入れ替わってゆく過程を描いているんだと思う。そしてそれはそんなに嫌なことではない。

娘□自由と拘束(愛)の中間ってないのかな。

父■1976年に亡くなった武者小路実篤が、晩年、色紙によく書いたというのが、「君は君 我は我也 されど仲よき」。一旦バラバラな個人になって、そのあと結びつく。これって束縛されてもいないし、孤独でもない。

娘□そうかも。でも、「仲よき」が「されど」で接続させられているのが危ういわね。飛躍できる根拠がないでしょ。

父■「君は君 我は我也」をどこまで徹底するかということだろう。「されど」と転回できる余地があるためには、ある程度のところで折り合わなければならない。相反するベクトルがある状態を保持するには均衡が重要だね。

娘□仏教でいう「愛」って執着っていうことだっけ。執着は「悟り」の障害になる。「あなたはあなた、私は私」というのは相手に執着しないということなら、これはある意味「悟り」なわけ?

父■「生悟り」だよね。中途半端なところで止まっている。あなたに干渉しないからこちらも放っといてというのでは、対話による深まりが得られないということで、お互い自立しているのはいいけど、バラバラなのは無関心に行き着く。僕はこの「あなたはあなた、私は私」という言い方は実は好きじゃない。決めつけてるよね。「あなたはあなた」というのは決めつけだし、「私は私」というのも自分のことを決めつけている。相手のことを全部わかっている人はいない。なのに全部わかったような言い方だ。人間って変化し続けるものだ。「あなたはあなた」、つまり「A = A」という同一性にとどまることを拒否して運動を生み出すのが「自同律の不快」だ。

娘□なにそれ? あ、埴谷雄高。えーと、ネットに立花隆との対談が抜粋されてる。

 

埴谷 ぼくが言うのは、「自同律の不快」というものを持たなければ、あらゆる存在は存在的価値を持っていない。「自同律の不快」というのは絶えず満たされない魂を持っていて、満たされよう、満たされようと思って絶えず満たされる方向へ向かっていく。これがぼくの宇宙の原理なんです。その満たされざる魂を持っているのが宇宙の原理だけどね、ぼくもある意味でヘーゲル的なんですね。(『無限の相のもとに』)

https://onmymind.exblog.jp/21935228/

 

父■「絶えず満たされない」のだから、相手をこういう人だと決めつけることはできない。「あなたはあなた、私は私」と言った途端に、お互いの変化が見えなくなってしまう。

娘□このあいだの哲学の授業で紹介されたバフチンという人が似たようなことを言っていた。

父■人は誰でも、他の人に理解できない不確定な部分が残る存在でしょ。そもそも自分ですら自分のことは十分にわからないから、なおさら決めつけることはできない。

娘□私、高校のときは世話焼きのお姉さんキャラだったのね。友達もみんなキャラ化していて、お互いかぶらないようにしていたけど、そういうのってホント、自分にも他人からも決めつけられたふるまいになっちゃってて苦しかった。現実の自分とズレがあるし、キャラを壊すことになるから変わりたいのに変われないし、そもそもキャラって自分の一部分でしかないから、そういう人間として接してこられるのはすごく嫌だった。お姉さんキャラでしっかりしてなきゃいけないから、友達に甘えたいときがあっても甘えられないし。泣きたいときは陰で泣いてた。

父■そうだったんだ。全然、気がつかなくてごめんね。

松山千春「銀の雨」「旅立ち」〜君僕ソング(その1)

父■このあいだ松山千春「銀の雨」(作詞、松山千春1977年)を久しぶりに聞いたんだ。なんかカッコいい歌だなと思った。でも歌詞を読んだら「ん?」ってなった。

娘□松山千春ってスキンヘッドでサングラスかけた強面(こわもて)の人でしょ。話はおもしろいみたいだけど、近よりたくない。歌は顔に似合わないやさしい声をしている。

父■昔はフサフサしていたんだけどね。当時は、さだまさしとどっちが薄くなったとか冗談で競いあっていた。今は、さだまさしはなぜか前より髪の毛が増えたように見えるけど、千春は潔く剃髪してしまった。

娘□お父さんもここ数年で急に薄くなったよね。

父■うちの父親も祖父も禿げてなかったのでおかしいなと思ったら、母方の祖父が見事な禿頭だったんだよね。さだまさしは坊主頭だと詞のイメージに似合わないかもしれないけど、これから取り上げる千春の歌詞はマッチョ的なので、意外にスキンヘッドでも似合ったりする。

娘□「銀の雨」って、銀色の雨ってこと?

父■〈銀色の雨〉とか〈銀の雨〉とか、雨を銀色に喩えるのはよくある。有名なところでは「黄昏のビギン」(作詞、永六輔、中村八大、1959年)とか。〈ふたりの肩に 銀色の雨〉とある。他には、〈雨はふるふる城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる〉という北原白秋の「城ヶ島の雨」は大正2年に作られたもの。

娘□〈利久鼠〉って?

父■少し緑がかった灰色のこと。昔は灰色のことを「ねずみいろ」って言った。今は鼠もすっかり見なくなったけれど、前はどこにでもいたよ。城ヶ島を散歩していた白秋が、雨にけぶる木立(こだ)ちを見て、それを〈利久鼠〉のような色だと言ったんだね。

娘□侘び寂び~。銀色っていうのは、雨の粒が光を反射するから銀色に見えるのかな。昔は銀色みたいに光るものが少なかったから、そういう比喩を思いつかなかったんじゃない? 城ヶ島の磯に銀色の雨が降るっていう歌だったら、小洒落た風景になっちゃう。

父■八神純子に「みずいろの雨」(作詞、三浦徳子1978年)っていう歌があって、雨は水なんだから水を「みずいろ」って言うのはトートロジーだと思ったけど、僕の好きな野口五郎の「沈黙」(作詞、松本隆1977年)も〈水色の雨降る街は〉って歌ってるんだよな。

娘□色の名前って、ものの名前の借用だよね。「はいいろ」って灰の色でしょ。「ちゃいろ」もお茶の色のことだけど、お茶って淡い黄緑色じゃん。昔はほうじ茶みたいに炒ったお茶が主流だったから、ああいう色が茶色って呼ばれるようになったみたい。

父■クレヨンとか色鉛筆で「うすだいだい」とか「ペールオレンジ」って言われている色は、ちょっと前までは「はだいろ」って言っていたんだよね。いろんな肌の色の人がいるので差別的だとして言い換えられた。でも僕が不思議だったのは、そもそも「はだいろ」って、日本人でもああいう肌の色をした人はいないってこと。でもこのHPを見てなんとなくわかった。「8世紀ごろにあった人や獣の肉の色を表す『しし色』が『はだ色』の前身」なんだって。(NHK生活情報ぶろぐ https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/800/299152.html)。なるほど、スーパーで売ってる皮をはいだ鶏肉って肌色してるのがあるね。でもあれは肌じゃないけど。だから「ししいろ」なんだね。「とりにくいろ」でもよさそうな気がする。

娘□それだと、いままで「はだいろ」を使って人の絵を描いていた人は気分を害することになるわね。

父■君も小さい頃そうだったんだけど、絵の中の太陽を赤色のクレヨンでグリグリ描く子がいるんだよね。あれは不思議だったな。どうして太陽が赤く見えるのか。夕日だと空は赤くなるけど、太陽は黄色いまま。たまに赤く見えるときもあるけど。

娘□暑さの隠喩なんじゃない? あるいは夕日で赤く照らされた景色の換喩。

父■なるほど。〈まっかに燃えた太陽だから 真夏の海は恋の季節なの〉(美空ひばり「真っ赤な太陽」作詞、吉岡治1967年)の赤い太陽は暑さに関係してそうだし、〈赤い夕日が校舎をそめて〉(舟木一夫「高校三年生」作詞、丘灯至夫1963年)の赤い夕日は換喩だな。正確には「夕日が赤く校舎を染めて」だろう。

娘□また脱線してるね。

父■はいはい、松山千春の「銀の雨」に戻ろう。

松山千春「銀の雨」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001fb5/l001b20.html

 この歌には〈貴方〉がよく出てくる。歌詞の2番はこうなっている。

 

  貴方のそばで 貴方のために

  暮らせただけで 幸せだけど

  せめて貴方の さびしさ少し

  わかってあげれば 良かったのに

  貴方がくれた 思い出だけが

  ひとつふたつ 銀の雨の中

 

 ここでは〈貴方〉は4回出てくる。歌詞の1番では2回、3番の歌詞では3回出てくる。一方、〈私〉は1番では1回、2番ではなし、3番では2回ある。

 歌の内容は、

 

 ・私がいつまでも貴方のそばにいたら貴方がダメになってしまう(1番)

 ・貴方の寂しさを少しもわかってやれなかった(2番)

 ・貴方についてきたのは私のわがままだった(3番)

 

ということが語られている。〈貴方〉が何回も出てくることからわかるように、〈私〉は〈貴方〉にたいへん気を使っている。引用した部分でも〈貴方のために 暮らせ〉て〈幸せ〉だったと言っている。

娘□歌詞だけ見ると演歌っぽい。3番の歌詞はとくにそう。〈ごめんと私に いってくれたのは/貴方の最後の やさしさですね〉って、それ〈やさしさ〉じゃなくて身勝手でしょ。〈いいのよ貴方に ついて来たのは/みんな私の わがままだから〉って、悪いのは女の人のほうなの? それなのに〈貴方の夢が かなう様に祈る〉って言わせてる。なんでそこまで気をつかうのって思うくらい。

父■女性歌手による応援ソングってあるでしょ。岡村孝子「夢をあきらめないで」(作詞、岡村孝子1987年)とか、ZARD「負けないで」(作詞、坂井泉水1993年)とか。それの一歩手前にある歌だよね「銀の雨」は。

娘□ニューミュージックの服を着てるけど、心は演歌のままってこと?

父■応援ソングって、他人を応援するけど、応援する自分のことについてはふれていない。自分はちょっと離れた立場から応援していて、相手に巻き込まれない客観的な位置を確保している。「銀の雨」も応援ソングの先祖みたいなものだけど、相手との距離がとれていないので運命共同体になっている。それで演歌の中の堪え忍ぶ女性みたいになってしまっている。

娘□「銀の雨」で、この二人が別れた理由はわからないけど、別れを切り出したのはたぶん男のほうよね。なのに〈私〉が〈貴方〉のことを理解してやれなかったってことにされてる。〈せめて貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉っていうけど〈貴方の さびしさ〉ってなんなの?

父■なんだろうね。〈私〉は召使いみたいに献身的なのに、〈貴方〉は〈私〉の理解をすり抜けていく。

娘□ありえなくない?

父■歌として聞くとスルスル聞けてしまうんだけどね。文字で読むとたしかに抵抗感がある。「銀の雨」に出てくるのは、古い日本の献身的(依存的)な女性で、男に都合よく使い捨てられる女性なのに自ら身を引くように描かれている。きれいな歌になっているから、歌詞の内容まではいちいち穿鑿されなかったと思うよ。「銀の雨」はシングルのB面だしね。それに比べたら、大ヒットしたさだまさしの「関白宣言」(作詞、さだまさし1979年)はフェミニストから抗議を受けた。歌詞を読めばタイトルは強がりだということがわかるし、「早く起きろ、飯を作れ」という歌詞も、気の弱い男の哀れさを滑稽味をもって逆説的に表現しているにすぎない。だけど、人はわかりやすい部分でしか反応しないからね。

娘□「銀の雨」と「関白宣言」じゃ、タイトルだけでどちらに矛先を向けるか決まっている。

父■80年代に入っても似たようなものだよ。都はるみ岡千秋「浪花恋しぐれ」(作詞、たかたかし、1983年)は〈芸のためなら 女房も泣かす/それがどうした 文句があるか〉という開き直り。これは今ならDVと言われそうだけど、当時としても時代感覚があまりにずれていて、「ダメ亭主を支えるけなげな女房」というコミックソングだと思って僕は聞いていたから不快感はなかったな。それに、妻は依存症的というより、夫を支える共同体という歌詞だった。

娘□それって男目線の読み方だと思うけどね。80年代ってフェミニズムが退潮してた頃よね。だから許されたのかな。男女雇用機会均等法の施行が86年で女性の職場進出が本格的になる。その途端、88、89年に子連れ出勤のアグネス論争が起きる。この論争って女どうしでやってたのよね。

父■男目線ということもあるかもしれないけど、ここには〈芸のためなら〉っていうマジックワードがあって、これが全ての不条理を飲み込んでしまう。もしこれが「ギャンブルのために女房を泣かす」ならお話にならないけどね。ギャンブルで快楽を得るのは男だけで、女は何の得にもならない。〈芸のため〉という、自分を超えた価値をもったものがあって、男もそのために身を捧げている。その男に女房は身を捧げる。結局は女房は男を媒介して芸のために身を捧げている。

娘□身を捧げるって、犠牲になってるってことでしょ。それに男のほうは好きでやってるからいいけど、奥さんのほうはつきあわされてるだけじゃないの?

父■男が好きでやってるのが問題ないとしたら、奥さんが旦那さんを好きでやってるなら問題ないってことにならないか?

娘□コミックソングって言うけど、私には面白くは聞こえないな。だって真剣に歌ってるもの。おちゃらけてないよ。

父■大真面目にやるから面白いんだよ。そこは僕の独特のとらえ方だけども。

娘□私、漫才やコントで精神障害っぽい人をからかったり(風変わりなおじさん)、ハゲの人をからかったりするのは、自虐であっても頭にくるのよね。やってる本人がハゲているからって、ハゲをからかう免罪符にはならないでしょ。同じように、女が女の地位を下げるようなことを言うのも許せない。

父■「銀の歌」は女性が自ら身を引くということになっていて、男にしてみれば相手があっさり別れてくれて都合がいいかも。女性がものわかりがいいから、別れはドロドロしたものにはならず、あっさりとしている。〈これ以上私が そばに居たなら/あなたがだめに なってしまうのね〉〈いいのよ貴方に ついて来たのは/みんな私の わがままだから〉というように、事を荒立てないよう先回りしている。

娘□姫くりの「都合いい女」のコントみたい。忖度しすぎる思考回路は自分が傷つかないようにするために発達したんじゃないかって思う。こういう歌は、女の側から一方的に男に都合のいい忖度をするように書くんじゃなくて、せめて男の側からのホンネを入れた掛け合いにしてほしいわね。〈貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉って女が勝手に忖度してるけど、せめて何がさびしいのか男の側から言って欲しい。

父■対話っていうことだね。それは重要だ。「浪花恋しぐれ」はそうなっているけどね。

娘□あれは男の価値観に女が合わせてるだけ。今見れば依存症的だけど、芸人という特殊性と関西という地域性で中心からの価値規範が撹乱されて、古くさい夫婦像が擁護されている。

父■それに歴史性もある。明治から大正にかけて人気のあった実在の落語家をモデルにしている。戦前の人を描いているので、それを「古くさい夫婦像」と批判しても意味がない。江戸時代が封建的なのはあたりまえのように。

娘□だからそういう夫婦像を戦後40年近くもたってから発掘し歌にするのは、理想というか規範として復活させようというバックラッシュの一つじゃないのかってこと。

 

父■松山千春の「旅立ち」(作詞、松山千春1977年)も「銀の雨」に似ている。

松山千春「旅立ち」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001fb5/l005d1f.html

 この歌では〈貴方〉は6回、〈私〉は4回出てくる。〈私の事など もう気にしないで/貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉とある。私が足枷になるくらいなら捨ててくれということだ。それを〈貴方〉の〈旅立ち〉であると捉えている。

娘□女性のほうから言わせているのがいやらしいわね。

父■「別れじゃなく旅立ち」であるみたいな価値転換の歌は卒業ソングなんかによくあるけど、そのパターンだね。同じ出来事でも言葉によって捉え方が180度変わる。

娘□発想の転換っていうやつでしょ。別れは旅立ちであるといえばかっこいいけど、これもなんか「都合いい女」の感じがする。そんなにすっきり気持ちを切り替えられるものじゃない。

父■すがりついて泣いて引き止めるのはみっともないという「諦め」の美学みたいなものがあるかも。これがもう少し勝ち気な女性の場合は、堀江淳「メモリーグラス」(作詞、堀江淳1981年)の〈ふられたんじゃないわ あたしがおりただけよ〉ということになるのかな。

娘□忖度じゃなくて強がりになってる。

父■どう思うにせよ、すっきり別れられたことに喜ぶ男はいるかもね。「旅立ち」では、いつか別れることになるのは何故か〈二人が出会った時に 知っていたはず〉と言っていて、自分もあらかじめ承知していたことになっている。

娘□運命論というより自己責任論ね。実際に別れた場合の損得は非対称なのに「おあいこ」にされてしまう。

父■「銀の雨」や「旅立ち」には、〈貴方の夢がかなう様に〉とか、〈貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉という歌詞はあるけど、〈私〉はどうなるのか不明なんだよ。ほっておかれる。〈貴方〉は輝ける夢を追いかけるからいいけど、〈私〉はその夢のルートから外れて日陰の道を歩いていきそうだな。〈私〉は〈貴方〉につきあわされるけど、その後は知らないと使い捨てられる。ロケットを打ち上げるときのブースターみたいに切り捨てられる。

娘□タレントなんかで、有名になると糟糠の妻と別れて若くてきれいな女と結婚する人がいるけど、そうなった場合でも、別れた奥さんは〈貴方の夢〉がかなってよかったと思うのかしら。〈貴方の夢〉には別の女の人が傍らにいるとしたら、そんなに簡単に送り出せるかな。「浪花恋しぐれ」みたいに古女房を隣に置いているほうがまだいい。

父■お、認めたな。

娘□結局、女性に母親的なものを求めているのかもしれないね。「旅立ち」って、息子の門出を祝いつつ寂しがる母親の心境みたいな歌だから。

(その2に続く)