Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

唱歌「故郷(ふるさと)」は今でも日本人の心の原風景か?

 夕飯の準備をする妻は、鍋の蓋を開けたり閉めたり、まな板で包丁をトントンしたり、右に左にボクサーのようにキュッキュッと忙しなく動いている。

 私はテーブルで、コンビニの安物ワインを手酌でグラスに注いで飲んでいる。ツマミはスーパーの惣菜で買ってきた鴨肉である。酔って目がとろんとしてきた。今日は一日、外で野良仕事をしていたのでクタクタだ。

「これ本当に鴨の肉なのかな。売るほど捕れるのかな」

「知らない。鶏かも」

「でも、鴨っぽい味がするよ」

「そういう風味のエキスを垂らしてあるんじゃない」

「ふーん。美味いからいいけど」

 またワインを一口飲んで妻に聞いた。

「ねえ」

「なに。忙しいんだけど」

「ウサギって食べたことある」

「ないわよ」

「美味いのかな」

「知らない」

「ばあちゃんが、戦時中はウサギを食べたって言ってた」

「ふーん」

「皮を剥いて逆さに吊るしてたんじゃないかな。想像だけど」

「かわいそう」

「赤むけだったんだろうな」

「うえーっ」

因幡の白兎って話があるでしょう」

「あー、出雲神話

「そう、オオクニヌシが、いじめられてたウサギを助ける話。あのウサギはワニに皮を剥かれたことになっている」

「ワニ? 日本にいたの?」

「サメのことらしいけど」

「サメにしても、ウサギの皮を剥くなんて器用なことができるの?」

「神話だから」

「ガマの穂に寝転ぶんでしょ。ふわふわして気持ちよさそう。そこだけリアルな感じがする」

「皮を剥がされたら死んじゃうから、毛をむしられて血が滲んだということだと思いたい」

「鳥なら羽をむしるのは簡単だけど、ウサギの毛を全部むしるのは手間がかかりそう」

「ウサギが皮を剥かれたというのは、そうやって食べられていたということなんだろうね。今はウサギはペットであって食べるイメージはないけど」

「あんな可愛い生き物、食べたくなーい」

「この話では、ウサギはワニをだまして仕返しされたけど、カチカチ山ではウサギは悪いタヌキをやっつけるよね。知恵者なんだよ。トリックスターというやつ。因幡の白兎もワニを騙して仕返しされたけど、そういう知恵がはたらく」

「月で餅をついているよね、ウサギ」

「あれはジャータカ起源だね。老人に食べ物を与えるためにサルやキツネは木の実や魚を取ってきたけど、ウサギは何もなかったから燃えている火に飛び込んで自分を食べてくれと我が身を捧げた。それで感心した老人、実は神様なんだけど、みんなが見るようにウサギの姿を月にとどめたんだ」

「ふーん、セーラームーンって仏教説話が起源なんだ」

「仏教とバニーガールと女子高生と魔法少女竹取物語と戦隊モノのチャンポンだね」

「火に飛び込むって話は、ウサギは食べるものという風習があったから生まれた話よね」

「そうだね。サルやキツネは食べたくないな。昔は日本でもサルを食べたみたいだけど。でも同じ霊長類だから病気が感染しやすい」

「うえーっ」

「国宝の「鳥獣戯画」にウサギやカエルやサルが擬人化されて出てくるでしょ。でもシカやイノシシは擬人化されていない。ウサギがシカに乗って川を渡っている。イノシシは貢物として引かれている。シカやイノシシは狩猟の対象として人間にとってその役割がはっきりしていたからかな。ウサギやカエルは身近にいたけど、利用価値の低い曖昧な存在だったからか」

「ふーん」

「ウサギってどういう味なのかな」

「食べたいの?」

「そういうわけじゃないけど」

ジビエであると思うよ。シカやイノシシほどじゃないけど。野原を駆け回っているから脂肪は少なくて、さっぱりしてそうだわね」

「ちょっとネットを見てみるか。あ、実際、野ウサギを捕まえて焼いて食べた人の感想があった。やっぱり脂肪はなくて、臭みもなくて食べやすく美味しいって書いてある。「コクのある鶏むね肉みたい」だって」

https://heposara.com/archives/ウサギ(野うさぎ)の味はどうなの?食べてみま.html

「それでもあたしは食べたくない。コテツみたいでかわいそうだもん」

 コテツというのはうちで飼っている太ったネコである。保健所からもらってきた時は握り拳くらい小さかったが15年も経つうちにツチノコのように丸々としてきた。

「コテツなんかアブラっぽくて食べられないよ」

「うえーっ」

「非常食にとっておくよ」これは冗談である。

 

 テーブルに料理が並べられ、妻も席に着いた。

「どうしたの?」

「え?」

「なんで急にウサギの話するのよ」

「「故郷(ふるさと)って歌があるでしょ。大正時代に教科書に載った唱歌

「ウサギおいし、かの山~ってやつね」

「そうそう」

「え? それで? あのウサギは美味しいとかか不味いとかじゃなくて、追いかけるってことでしょ」

「そうなんだけど」

「勘違いしやすい歌詞で有名じゃない」

「「赤とんぼ」の〈負われて見たのは いつの日か〉も勘違いされやすくて、これも「おう」なんだけど、赤とんぼの大群に追いかけられたと思っている人がいるらしい」

「「故郷」でウサギを追いかけたから、「赤とんぼ」ではトンボに逆襲されて追いかけられたってわけ?」

「「赤とんぼ」の「おう」は、ねえやに背負われてトンボを見たってことだよね。作詞の三木露風は幼い頃に母親が離婚して家を出て行き祖父母に育てられたから、ねえやが雇われたんだ」

「豆知識あるんじゃない。そんならウサギが美味しいんじゃなくてウサギを追いかけたってことは当然わかってることでしょ」

「だから、ウサギを追いかけてどうするの」

「遊んでるのよ、子どもが」

「なんで追いかけるのかってこと。遊びは仕事の模倣だとすれば、それは何をやっていることになる?」

「追いかけっこ?」

「誰と?」

「ウサギと」

「ウサギは追いかけられはしても、追いかけてはこないでしょ。イノシシじゃないんだし」

「ふーん。じゃあ、たんに追いかけてるんでしょ」

「それは狩猟をしてるってことだよ。狩猟ってことは、追いかけて、捕まえてからどうするのかというと、結局食べることになる。ウサギの肉が美味しいというなら、なおさらそうだ」

「それじゃ結局、ウサギ追いしは、ウサギ美味しにつながってるってこと?」

「だね」

 妻が包丁を手にしたまま振り返った。

「でもここは〈追いし〉でしょ。〈かの山〉という場所とセットで思い出してるんだから〈美味し〉というのはおかしいでしょ。野外でバーベキューでもやったのかってツッコミたくなるわね。山で追っかけたのよ」

「それは歌詞を見れば〈兎追ひしかの山〉ってなっているから争うところではないけどさ。それに文字を見なくても、文語調の歌詞だから、口語ふうの美味しいという意味ではそぐわないし、「美味し」では語幹だけだし、違和感があるからおかしさに気づく。美味しいということなら〈兎うまし〉にするはずだと想像できる」

「それなら、いいじゃない。まだ何か問題が?」

「ウサギってピョンピョン跳ねるように走るから、相当早いでしょ。子どもが追いかけたって捕まらないと思うよ。大人の脚だって無理だろ。うちのコテツだって外に出ちゃえば人間には捕まえられないよ」

「いいえ、コテツはつかまるわよ。年寄りのデブ猫でヨタヨタしてるから」

「それは今だからね。小さいころは捕まらなかったじゃん。小さいけど素早い」

「だから?」

「追いかけるっていうのは、捕まえることが予測できる場合に言うでしょ。ウサギを見つけてもすぐ逃げられちゃうんじゃ、ウサギ逃げしかの山だ。だから単純に後ろから追いかけたわけではなくて、ウサギ網を仕掛けておいてそこに追い込んだのかもしれないし、友達と何人かで巻狩をしたのかもしれない」

「何それ?」

「巻狩っていうのは、獲物を四方から囲い込んでだんだん狭めて捕まえるやり方だよ。最後は銃とか弓矢で仕留めるけど、ウサギなら棍棒で殴れたんじゃないかな。今は狩猟の方法や対象は法律で規制されているけど、戦前のことだから」

「ふーん」

「昨日読んだ本にこんなことが書いてあった。元朝日新聞の記者が、「故郷」を作詞した高野辰之の生地、長野県永江村(現、中野市)を訪ね、高野辰之記念館の元館長に話を聞いた。永江では大正時代まで2月下旬に「兎追い」をしたんだって。山の麓に子どもたちが一列に並んで、大声を上げて雪山を駆け上る。するとウサギが驚いて逃げる。それを猟師が待ち伏せていて鉄砲でズドンと撃つ。獲物は小学校の校庭でウサギ鍋にして食べたってさ。(伊藤千尋『心の歌よ!』新日本出版社2021年、176頁)」

「か弱いウサギを、残酷~」

「狩猟ってそんなもんでしょ。やっぱり巻狩ってことだね。あ、ネットにもこんな記事があるよ。

  「作詞者である高野辰之は長野県出身である。「兎追いし」という歌詞は高野の時代は実際に学校の伝統行事であり、みんなでマントを着て、手をつなぎ輪になって大声を上げながら雪の山を登る。驚いた兎を追い込み捕まえる。兎鍋にして学校の校庭で食したとのこと。その頃は大事なタンパク源でもあった。おそらく高野は作詞にあたって幼少のころの思い出深い学校での行事、級友と鍋を囲んで食べた兎鍋は懐かしさが溢れる出来事だったのであろう。」(文部省唱歌ふるさと100年の変遷を辿る)

 言ってることは伊藤の本と同じだから、これは記念館の説明文にこう書かれているのかもしれない」

「山でウサギを追いかけるって、かなり限られた地域の話よね。山の資源を生活に利用する里山のことだと思うけど、このあたりも裏山があるわけでもないし、日本人全員のふるさとにするには特殊じゃない?」

「この歌は日本人の心の原風景だとか言われてるけど、山でウサギを追いかけたことがある人はほとんどいないだろうね。この唱歌の作詞作曲者が誰なのかは長いことわからなかったし、日本人がみんな巻狩を経験したとも思えないから、ウサギを追うという歌詞は、たんに野山にウサギがいるくらいのイメージで受け取られたんじゃないかな」

「あたしの実家は里山に近かったけど、それでも子どものころウサギがそこら辺を走っているのを見たことはないわよ。そういう歌がどうして原風景になるの?」

「ウサギを追いかけることが重要ではなくて、〈兎追ひし〉というのは〈かの山〉を導き出す序詞なんだよ。要点は〈かの山〉にある」

「ふーん」

「次は〈小鮒釣りしかの川〉でしょ。これも〈小鮒釣りし〉は、〈かの川〉を持ち出すための序詞みたいなもんだよ」

「こぶなって?」

「ときどきスーパーで甘露煮にして売ってるのあるよね。小さい魚」

「あー、あれ」

「小鮒は三面をコンクリートで固めた今の用水路でも釣れるらしいから、昔の石積みの川ならもっといたろうね。そういう川なら日本全国そこらじゅうにありそうだ」

「小鮒っていうくらいだからフナの小さいのってこと? でも、フナ自体がよくわからないけど」

「コイを小さくしたようなのがフナだよ。ヒゲがないのが特徴。いくつか種類があるけど素人には見分けるのが難しい。金魚だって改良されたフナだし」

「身の回りにいる親しみやすい魚ってことね」

「小鮒釣りだから、これも子どもの遊びの範疇だね。たくさん捕れればおやつくらいにはなるだろうけど、本格的な仕事とはいえない。仕事の模倣としての遊びだ」

「昔は家の周りでいろいろ調達したのね」

「うん。小鮒じゃないけど、うちの前の小さい水路にはドジョウがたくさんいて、筌(うけ)を仕掛けておくとバケツにいっぱいとれた。昭和40年代くらいだけどね。童謡の「どじょっこふなっこ」では、ドジョウもフナも農村にいる身近な淡水魚としてひとまとめにされている」

「それを食べたの?」

「ドジョウはバケツに入れて泥をはかせて、玉子とじにした。柳川だね。うなぎの小さいやつみたいなもんだ」

「ふーん」

「ウサギで〈かの山〉、小鮒で〈かの川〉を出して山と川がそろった。これでふるさとの風景が構成されたわけだ。遠景に山があって、手前に田畑が広がっていて、田畑の中に民家があって、その近くを小川が流れている」

「原田泰治の絵にありそう。もはやそういう田舎はバーチャルなものになったんじゃなない? 絵の中にしかない」

「それはしかたないね。高度成長は田舎の景色を変えてしまったから。都会に出ていった人には田舎の風景は心の中のものだし、田舎に住んでいる人にとっても目の前に存在しない心の中のものだ。古き良き風景は二重に遠のいた。だから心の原風景ということになる」

「この歌は男の子の外の遊びを歌ってるから、女のあたしが聞いても、懐かしくないはず。あたしはウサギを追いかけたこともないし、小鮒を釣ったこともない。でも、この歌を聞くとなぜかしんみりした気持ちになる。曲調のせいかな」

「曲はしんみりしたものではあるけれど、それだけでは懐かしさという複雑な感情は生まれないよ。言葉がないとね」

「ウサギを追いかけたり、小鮒を釣ったりしたことはなくても、それぞれの人が自分の子ども時代の経験をあてはめてるのかしら」

「よく言われるのは、曖昧に書くことによって、個々人の体験を代入することができるということで、曖昧にしか書けない人が、そういう理屈を言ったりする。でも君が言うのは、具体的に書いてあることから聞き手が自分の体験を連想していくってことだね。具体的に書いてあっても、想像をはたらかす障害にはならないということ?」

「〈かの山〉〈かの川〉ってところは「コソアド」の遠称だから、自分の経験を代入できるんじゃない? ウサギや小鮒のところは、自分の経験と直接つながらないけど、代わりになるような子どものころの思い出に置き換える」

「本当にそんな面倒な手続きで歌を聞いたり歌ったりしているの? そもそも、歌の最中は歌詞があるから、他のことは考えていられないでしょ。ウサギおいしという言葉が頭を占めている時に、それとは別に、木登りしたとか、トンボを捕まえたとか考えていられないじゃない。女の子ならあやとりとかお手玉とかでもいいけど。時間とともに流れ去っていく言葉が換気するイメージについていくのがやっとで、それ以外に複雑な反応はしていられないよ」

「うーん、じゃあ、聞き終わってから自分のことに置き換えるかな」

「ほんとかい? 歌を聞いたあとに復習してるのか?」

「うーん、してないか」

「聞き手は、この歌詞は具体的なエピソードを語ることによって、子ども時代ののどかな経験を思い出させようとしていることがわかる。だから聞き手は、そこで語られている個別具体の経験に反応するのではなく、具体的なエピソードから帰納される子ども時代への郷愁という心の動きそれ自体に反応しているのではないか」

「まあそうかも」

「違う言い方をすると、歌詞で語られていることを、いちいち自分の身に置き換える必要はないんじゃないかな。自分の身に置き換えるというより、そのまま語り手の心の動きに共感してるんじゃないか。歌詞でいちいち聞き手自身の経験を呼び覚ます必要はない。肝心なのはミラーニューロンみたいに共通した心の動きを作ることでしょう。そのためには、個別具体の素材が語り手の心にどういう気持を湧き上がらせているか想像できればいい。悲しいとか寂しいとか懐かしいという説明的な言葉を好む人は、それが苦手な人なのではないか」

「経験にともなう心の動きは人間だいたい同じだから、ひとつ例示すればわかるでしょ、ということ?」

「そうだね。歌詞で語られる個別のエピソードが自分に合致した経験ではないから共感できないというものではないでしょう。個別のエピソードが喚起する情感というものをすくいとることができる。そうでなければ「蛍の光」なんかとっくに廃止されているよ。蛍の光や窓の雪明かりで勉強したことなんか一度もないんだから。それに例えば「万葉集」に「信濃道は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましむな(なむ)沓(くつ)はけわが背」という歌があるけど、いまどき切り株の突き出た道なんかないから、この歌の気持ちがわからない、という人はいないでしょう」

「今なら、旦那さんが長期出張するときに、気をつけてねと送り出すみたいなもの?」

「かな」

「じゃあ、結婚してない人は共感できない?」

「いや、大切な相手を先回りして心配する気持ちは誰にもあるでしょう」

「わかるけど、歌詞の内容と聞き手の経験にあまりにズレがあると共感は薄れると思う。「蛍の光」は歌詞の内容を説明してもらわないとわからない。知識を経由しないと共感が生まれない。ただ、「蛍の光」は卒業式に歌われる歌として別離の感情がセットになっているから、歌詞の内容が詮索されることもあまりないけど」

「知識経由で共感が形成されることはあると思うよ。というより、むしろそのほうが殆どじゃないかな。何も媒介せずダイレクトに理解できるものなんて少ない。万葉集もそうだけど、解釈を聞くことで共感が形成される。むしろ千年以上経っても人を思う気持ちは変わらないんだと知ると、そのぶん感動が深まる。解釈を聞いても宇宙人の言語のようで理解できないというなら古典として残らない。複雑な情感は社会的に構築されたものだから、男女の基本的な関係は千年以上変化してないということだろう」

「古典として残るものならいいけど、たいていのものは言葉や感覚が古くなるとどんどん新しいものに取り替えられていくでしょ。「仰げば尊し」は前から人気が廃れていたけど、「蛍の光」も文語調でわかりにくいからと歌われなくなってきているみたい。代わりに「旅立ちの日に」とかJポップが人気ね。「故郷」の歌詞も文語だからわかりにくいと敬遠されそう。内容的にも、高度成長以降は都会でも原っぱが消えたから、今どきの都会育ちの子どもにウサギを追いかける歌は通用しないかも」

「そうだなあ。自然はテレビで見て知っているかもしれないけど、田舎暮らしというものを知らないかもしれない。親が田舎の出身でお盆には子連れで帰省して、田舎の山野に親しむということがかつてはあったが、都会育ちの第二世代になると親の実家も都会になるから帰省も減少する」

「田舎を知らない子どもが増えれば「故郷」は何を言っているのかチンプンカンプンね」

「都会育ちの故郷はアスファルトとコンクリートで囲まれている。例えば、尾崎豊は両親は岐阜の田舎から東京に出てきたんだけど、本人は都会で生まれ育ったから、〈立ち並ぶビルの中〉〈アスファルトに耳をあて〉というのが、彼のふるさとの風景になっている。山はビルに変わり、小川はアスファルトでふさがれて暗渠になってしまった。それでも自分をとりまく環境に対する探究的な態度は似ている。何がどこにあって、どうすればいいかわかっている」

「田舎に接する機会が減少したんなら、最近のキャンプブームはその反動だと言えるんじゃない?」

「キャンプでウサギ追いしや小鮒釣りをイメージするのか、新世代は」

「世代的な理由による共感の低下のほかに、そもそもこの歌は男の子の外の遊びを歌ってるから、女のあたしが聞くのと男のあなたが聞くのと共感の程度が違うと思うのよね。都会に出て志を果たすというのもそうだけど。そういう歌を日本人の心の原風景と言われてもしっくりこない。でも、よくおばさんたちが合唱してるけど、それも不思議なのよね」

「たしかに、立身出世にまつわる傷心だからな。でもそうした具体性は考慮されず、日本人全体の郷愁を呼び起こすものにされている」

「なにかにつけて故郷を思い出すという部分は男女共通だし、そういう都合のいい部分だけを抜き出して受容されていると思う。それと故郷というものを持たない人たちにとっても、子ども時代はあるわけだから、子ども時代への郷愁の歌として受けとめられているのかも」

「ためしに「故郷」の歌詞を曖昧なものにしたらどうなるかな」

「〈野原を駆けたあの頃 川で遊んだあの時〉ってのはどう?」

「あははは。小○○正っぽいね。ウサギも小鮒もいないから誰にも当てはまりそうだ。「当てはめ主義」あるいは「代入主義」の人が採用しそうな歌詞だ」

「「ポケモンGO」なら外で遊べるから、現代でも通用する歌詞ね」

「現代の野原はヴァーチャルの中に存在している。〈ピカチュウ追いし かの山 コイキング釣りし かの川〉」

「あ、ピカチュウってウサギじゃない?」

「耳が長いからね。でもウサギにしては尻尾が長い。尻尾はリスっぽい」

「チュウだからネズミ?」

「ネズミの特徴は尖った鼻でしょ。ミッキーマウスをご覧よ。ピカチュウは鼻が潰れていてネズミっぽくない」

「あははは」

「さっきの〈野原を駆けたあの頃 川で遊んだあの時〉には山がないけど、山はどうした?」

「山が近くにない人もいると思って。それに、山や川はなくても、〈あの頃〉という過去は誰にでもあるものだから、空間を限定する言葉ではなく時間を示す言葉にしたの。これなら、故郷を離れていない人でも、故郷をもたない人でも、自分の過去を懐かしむことができる」

「日本は山がちの国だから、山がないのはどうかな」

「でも山と川だけで日本人の原風景が構成されるの?」

「桃太郎の昔話で、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きましたってあるでしょう。柴刈りっていうのは焚き木をとりに行ったんだね。庭に生えている芝生の芝じゃないよ。木切れだ。山と川が生活と仕事の場だった」

「おじいさんはお年寄りなのに毎日山登りするんじゃたいへんね」

「山といっても、林のことをヤマという地域が各地にあるんだよ。昔は、地形の平坦・傾斜を問わず、生活の資材を採取してくる空間をヤマと言ったらしい。ヤマは生産の場だから。逆に、山のことをモリと言う地域もある。モリはもともと土地が盛り上がって小高くなったところを指していたけど、転じて木が生い茂る森を指すようになったんだろうね。いずれにせよ、山に柴刈りへ行ったといっても山登りしたわけじゃないと思うよ」

「そうなの? 山と川のほかに海はないの? 日本は海に囲まれてるでしょ。桃太郎だって海を渡って鬼ヶ島に行くわ」

「海が見える場所って限られてるよ。海は一番低いから、海岸近くにこないと見えない。ちょっと離れると土地の高低や木や工作物に遮られて見えなくなる。一方、山はかなり離れたところからも目に入る」

 

 夕飯の料理を食べ終えて、緑茶を啜りながら、なおも話を続けた。

「歌詞の続きだけど、〈夢は今もめぐりて〉というがわかりにくいのよね」

芭蕉の辞世の句に「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」というのがあるでしょう。それを思い出させるよね。芭蕉の句は、旅の途中で病の床に伏しているけれど、心は自由に野原を駆け巡っている、というほどの意味だと思うけど、この「夢」というのは、過去を思い出すことを指してそう言っているのか、あるいは、今の自分の動かない体に比して想像力は自由に羽ばたいているということを言っているのか、あるいは、将来こうしたいということを言っているのか、どのようにも読める。「故郷」の〈夢は今もめぐりて〉の〈夢〉も、同じように、過去の思い出、ウサギを追ったとか小鮒を釣ったとかみたいな子ども時代の記憶が大人になった今も次々思い出されるということなのか、あるいは歌詞の3番に〈こころざしをはたして いつの日にか帰らん〉とあるから、立身出世という夢というか野望があって、それをいまでも諦められず故郷に戻れないということなのか」

「文脈からすると昔の思い出のことを〈夢〉と言ってるんじゃない? 1番の歌詞で立身出世を持ち出すと複雑になりすぎる」

「〈夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷〉の〈めぐりて〉は頭の中をぐるぐる巡っているイメージかな。夢にとらわれている。〈今も〉というのがクセ者だね。これは本来もっと気楽に扱ってもいいはずの故郷の話題に、いまだにかなりの比重が置かれているというふうに読める」

「思い出を引きずっているのね」

「〈今も〉をどう解釈するかね。〈夢〉が思い出のことだとすると〈今も〉という言葉のニュアンスがもつ時間的距離は子ども時代からの距離で、子どもの頃の思い出を〈今も〉思い出しているという意味になる。一方、〈夢〉が将来叶えたい志のことだとすると、〈今も〉が意味するのは、その志は叶えられそうもないのに、いまだに諦めきれず頭の中を占拠されているという未練がましい惨めな境遇の絵になる」

「それなら、この〈夢〉というのは思い出のことなんでしょうね。将来の〈夢〉にいつまでもしがみついているという意味だと陰気くさい特殊な歌になってしまう。でも、思い出のことをあえて〈夢〉というのは、思い出以上のものがあるのかな」

「故郷を出て何年もたち、記憶が鮮明ではなくなってきたから〈夢〉と言ってるのでは」

「そうか」

「でもぼくはこの二つは混じり合っているような気がするな。理想化された過去を〈夢1〉とし、理想化された未来を〈夢2〉とすれば、自分を東京に縛り付ける立身出世という〈夢2〉が何年も実現されないので、故郷との断絶が長くなり、そのぶん故郷に関わる保存された記憶に歪みが生じ〈夢1〉へと理想化される。〈夢2〉に拘束される不自由さが、たんなる過去の思い出を〈夢1〉に変質させる。故郷は、そこに戻りたいという未来にもなって、過去以上のものになる。〈夢2〉に媒介されて〈夢1〉が生じる」

「ホームシックというとまだ日が浅い感じがするけど、もうちょっと深刻な感じ? ノスタルジー?」

「ノスタルジーというのは現状への適応不全が生み出す心の病のひとつで、もともと戦争で遠く家を離れた兵士たちにみられた心の病だった。2番の歌詞は〈雨に風につけても 思いいづる故郷〉となっているから、甘美な郷愁というより、もっと不安定な精神状態を思わせる」

「私はひとり暮らしをしたことがないからわからないけど」

「ぼくは大学で東京に出たとき1か月くらいは苦しんだな。よく上京したての大学生があやしげな団体の勧誘の標的にされるじゃない。共同体的親密さを偽装して近づいてくるからやられちゃう」

「この歌がなんだか病的な内容に思えてくるんだけど」

「この歌はノスタルジーをかきたてると同時に、そういう気持ちをバネにして現状を乗り越えさせる機能も持っているんじゃないか。歌うことで、自分の気持ちが客観視できる。だからこの歌は、老人が目に涙を溜めて歌うものというより、青年に向けた歌だと思う」

「今は大人が歌うことが多いけど、もともと子ども向けに作られた唱歌なんでしょ」

「そうなんだ。「故郷」が不思議なのは、この歌は子どもたちに歌わせる目的で作られた唱歌なのに、内容的には大人の歌、故郷を出た人たちの歌だということだ。子どもに未来の視点から過去を振り返らせていることになる。なんかこうあるべきだみたいな押しつけがある。都会に出ても故郷のことは忘れるなよって。知らないうちに、そういうふうに感性を養成されているというか」

「作詞の高野辰之ってほかにどういう歌があるんだっけ」

「「春の小川」「春がきた」「もみじ」「朧月夜」なんかだね」

「わー、子どものときに音楽の時間に歌わされた歌だ」

「どれも今目の前にあるきれいな景色を歌っているもので、「故郷」のように強烈な郷愁はない」

「たしかに「故郷」はちょっと変わってるかも。逆にそれが大人に親しまれている理由でもあるんだけど」

「大人になって自然にこういう気持ちがあふれるぶんにはかまわないけど、子どものうちからそう感じるように仕込まれるのはどうなのか」

「よく言えば涵養ね」

「この歌を子どものときに親しませておくというのは、この歌を歌った記憶じたい、ウサギを追うことや小鮒を釣ることと同じく、子ども時代の記憶のひとつになる。故郷を懐かしむ感受性がこの歌で刷り込まれると同時に、将来、懐かしさを作動させるスイッチにもなる」

「なぜ、そんなことをさせるの」

「いつか帰ってきてもらうためだよ。3番の歌詞に〈いつの日にか帰らん〉とあるでしょ。故郷を出ていくのはいいけど、故郷のことは忘れずに帰ってきてもらいたい。それは作者の意図とは離れているかもしれないけど、そういうふうに利用されている気がする」

「〈こころざしをはたして いつの日にか帰らん〉っていうところね。大志を果たさなければ帰れないということなら、なかには帰れない人もいるわけね。帰りたいけど帰れない、みたいな」

「帰りたくないという人もいて、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という「小景異情 その二」なんかそうでしょう。懐かしい場所には帰りたいものだ、というステレオタイプにひねりを加えている。この詩が収録された『抒情小曲集』(1918年)が出たのは「故郷」(1914年)が教科書に掲載された四年後だ」

「近いのね。実際、遠くで思っているだけのほうが理想が崩れなくていいけど」

「〈こころざしをはたして いつの日にか帰らん〉という歌詞は、実は、帰るといっても故郷に帰ってずっと故郷で暮らすというわけじゃないんだよ。だって〈こころざしをはたし〉たということは、それなりの社会的な地位があるわけで、社会を動かす重要な決定は全部東京で行われているんだから、その人が大きな〈こころざしをはたし〉たのであればあるほど東京から離れられなくなるでしょう」

「〈いつの日にか帰らん〉というのは、いわゆる「故郷に錦を飾る」っていうことなのね」

「そうだね。郷土の誇りとして親戚や近所の人や役場の人が集まって、のぼりをたてて出迎えてもらう。夜は宴会をして、翌日は講演をしたり出身校に出向いて生徒に話をしたりする。数日間の凱旋だよ。そしてまた東京に戻って仕事をする。本格的に故郷に根を生やすのは退職後だろう。〈こころざしをはたして〉というのを、リタイア後と解釈できなくもない。そうなるとスケール感が増すなあ」

「昔は交通が不便だから、今みたいに気軽に帰れなかったでしょうし。今、役場に垂れ幕や横断幕を設置してもらえるのはスポーツ選手くらいじゃない? 全国大会とかオリンピック出場おめでとう、みたいな。文化人はないわね。政治家だと安倍さんや菅さんが首相になったとき出身地の役場で横断幕が掲示されたことが問題になった」

「昔から、故郷に帰りたいという詩はいくつもあって、古くは陶淵明の「帰去来辞」がそうで、これは長年の役人暮らしを辞めて田舎に帰ろうというもそうなると〈こころざしをはたして〉というのも文字通り受け取ると、それは、一定の職責を果たした後にということになるなあ」