Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

ピンク・レディー「UFO」・・・〈それでもいいわ〉という生存戦略

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 阿久悠の作詞家稼業のなかでピンク・レディーは最重要の位置を占める。阿久悠が作詞したシングル・レコードの売り上げベストテンのうち五曲はピンク・レディーの曲なのだ。一位「UFO」一五五万枚、二位「サウスポー」一四六万枚、四位「ウォンテッド」一二〇万枚、五位「モンスター」一一〇万枚、七位「渚のシンドバッド」一〇〇万枚であり、「UFO」は、阿久悠が作詞した六〇〇〇曲(実際はもっと少ないようだ)の作品の中で最も売れた歌である。

 阿久悠がUFOを歌詞の題材にしようと思ったのは、一九七七年八月に横尾忠則らとイースター島を旅行したとき、「空をよぎる不思議なものを見た」からである。「UFO」の発売はその四ヶ月ほど後である。『未知との遭遇』の日本公開(一九七八年二月二五日)よりは早かったが、人気テレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』(一九七五年十月五日放送開始)はその二年も前に放送されていたし、日清食品の焼そば「U.F.O.」の発売は一九七六年で、丸いものなら何でも「UFO」と名付けるほどUFOの神秘性は剥ぎ取られて通俗化していた。当時十二歳だった筆者は、この歌を聴いたとき「今頃まだUFOかよ」とウンザリした覚えがある。

 

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 「UFO」の歌詞を素直に読むと、これは宇宙人との恋愛かと思えてしまうところがある。〈あなた〉が宇宙人だと思わせるようになっている。もちろん、それは錯覚である。「UFO」というタイトルがミスリードさせているのである。タイトルの文脈決定力は大きい。

〈あなた〉の超能力は次のようなものだ。

 ・手を合せて見つめるだけで 愛しあえる 話も出来る

 ・ものいわずに思っただけで すぐあなたにわかってしまう

 これらは宇宙人のテレパシーと思わせるように歌詞では書かれているが、冷静に考えれば仲のよい恋人どうしなら通じ合えるたぐいのものだ。

 語り手である〈私〉は、〈地球の男に あきたところよ〉と言うくらい、恋愛に慣れている。地球の男は気がきかないと言っている。これまでの恋愛において、お互いわかりあえる相手とはめぐり逢えなかったのだろう。今回は自分のことをわかってくれる相手にめぐりあえた、その喜びを素朴に表現したら〈信じられないことばかり〉と大げさになってしまっただけなのだ。実際、〈あなた〉を〈鏡にうつしてみたり 光をあててもみたり〉しても、〈それでもあなたは普通のあなた〉であり、宇宙人ではなかった。ただ、宇宙人なみの能力がなければ自分を虜(とりこ)にできないと言っているのである。

 オレンジ色の光につつまれて〈夢みる気持にさせて どこかへさらって行くわ〉という部分も、エイリアンによるアブダクション(誘拐)というよりは、セックスの恍惚描写といえる。すべてがほのめかしでありダブルミーニングなのだ。

 

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 ところで、この歌をこういう常識の範囲内の解釈で終わらせるなら、「UFO」というタイトルはあらかじめコケにされるためにつけられたものだということで終わってしまう。実際、この歌の振り付けでは、冒頭で〈ユーフォー〉という言葉を発すると同時に手を開いて頭の上にかざすが、そんな仕草は空飛ぶ円盤のUFOとは何の関係もない。この振り付けは、この歌はおかしな歌であるという、視聴者が文脈を読み取るのを導く役目をしている。手のひらを頭の上にかざすというのは「知能が劣っている」という侮蔑的な仕草であるから、〈ユーフォー〉と語感の似た「阿呆」も意味しているのだろう。「ペッパー警部」の股開きよりもきわどい振付けだ。だが、そういう振付師の解釈は歌詞の外部情報としてしばらく脇へ置いておこう。

 「UFO」というタイトルは、この歌をSFとして読むように誘っている。SFとして読むとはどういうことか。SFには、人間が宇宙人に身体を乗っ取られるボディ・スナッチャーものというのが山のようにある。人間と同じに見えるのだが、どこかにおかしな綻(ほころ)びがある。もちろんこれは宇宙時代の発想で、それより前ならいつのまにか身体を乗っ取られていたのは宇宙人にではなく吸血鬼や悪魔にだった。精神疾患には、カプグラ症候群という、家族や恋人など身近な人間がそっくりの偽物に置き換えられていると感じる替え玉妄想がある。慣れ親しんだものの自明性が奪われ見知らぬものなってしまうことの不安が誰にも素地としてあって、それが上記のようなSF的あるいはオカルト的な表現になっていったのであろう。

 人間そっくりの相手に対する違和感はささいなことから始まる。小さな出来事に後に起こる大きな事件が秘められている。この歌では、最も身近にいる者の直感が人間ではないと告げている。宇宙人であるという突飛な発想を立証するには、常識をくつがえすに足るだけの強力な証拠が必要であるが、語り手が述べるのは先に書いたように仲のよい恋人どうしとして理解できてしまうようなことばかりだ。それでも語り手の直感と、掲げられる弱い証拠を信じて、人間なのか宇宙人なのかわからない決定不能な状態としてこの歌を受け入れるというのがSFとして読むということだ。SFとして読むということは必要とされる証拠力の強さのレベルを下げることなのだ。

 人間なのか宇宙人なのか本当のところわからないという映画に、ケヴィン・スペイシーが主演した『光の旅人 K-PAX』がある。外見は人間にしか見えないし周囲の人たちからも精神病扱いされるのだが、自分は宇宙人であると言い張る中年男性が主人公である。妄想のようにも見えるが、不思議な能力を示しもする。人間か宇宙人か、どちらとも決定できぬまま映画は終わる。映画を見終わったときの奇妙な感じは、テレビでMr.マリックやセロのマジックを見たときの感じに似ている。彼らは超能力者ではなく手品師であり、タネや仕込みがあることはわかってはいるものの、あまりの見事さに超常現象を一瞬信じてしまいそうになる。先に述べた「奇妙な感じ」というのは、「ありえないけど、もしかしたら…」という曖昧なゾーンに取り残されたままの感じのことだ。私たちは不思議なことをたいした証拠もないまま、たやすく信じてしまう。宇宙人の映画や超能力まがいのマジックはその信じやすさを極端なかたちで教えてくれる。

 

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 この「UFO」という歌を聴いても、恋人は人間か宇宙人か断定できない。しかも歌の語り手の女性は、恋人が人間なのか宇宙人なのか、はっきり突き詰めようともしない。よく考えてみると、自分のすぐそばに人間そっくりの宇宙人が忍び込んでいるというのは相当ホラーな状態である。けれど大胆なのか大雑把なのか、〈それでもいいわ〉という安易さで曖昧さを受容し、関係を失うことの回避を優先している。実際、相手が人間そっくりなのであれば、それを人間なのか宇宙人なのか分類することには意味がない。この歌は一見ファンタジックな内容だが、歌の女性は逆に、とんでもなく現実主義的なのである。

 この歌は、恋人が宇宙人〈でもいいわ〉というほど、女性は状況の変化に対して受容度が高いことを歌っている。歌では、〈地球の男にあきた〉と女性に言わせているが、歌詞からは、飽きられている男性の方にこそ原因があるのではないかということをうかがわせる。〈地球の男〉が弱くなり種の維持が困難になったと感じられたときに、宇宙人を相手に選ぶという選択肢は、利己的な遺伝子ビークルとしては現実的な選択である。子どもが生まれれば雑種強勢を示すかもしれない。

 〈地球の男〉を「日本の男」に置き換え、宇宙人を「外国人(エイリアン)」に置き換えれば、この歌が寓意(アレゴリー)を秘めていることがよくわかる。いつまでも〈地球の男〉にこだわらず、そこからあっさり乗り換えてゆくことがたくましく生きるためには必要なのだ。そのためのキーワードが、〈それでもいいわ〉という、大雑把で深く考えずに曖昧なままでも行動にうつすことを許可する言葉なのだ。