Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

野球ソング

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 平成の時代、野球とサッカーの人気は逆転した。サッカーの競技人口は増え、野球のそれは減った。特に子供がそうだ。テレビの中継も、かつてはシーズン中は野球一色だったが今はバラエティ番組に置き換わっている。このままだと野球は消滅するのではないかとさえ言われている。ところが、野球の競技人口は減少しているが、プロ野球の観戦者数は逆に記録を更新しているということがニュースになった。ただ、球団別にみると、人気の中心である巨人は減って、阪神・広島が増えているので、安定したものではないように見える。

 野球の歌ということで、「栄冠は君に輝く」「ゆけゆけ飛雄馬」「サウスポー」を取り上げる。

 栄冠は君に輝く」(作詞、加賀大介、一九四八年)は、高校野球での大会歌としておなじみ、「ゆけゆけ飛雄馬」(作詞、東京ムービー企画部、一九六八年)はアニメ『巨人の星』の主題歌、「サウスポー」(作詞、阿久悠、一九七八年)はピンク・レディーのヒット曲でいまも高校野球の応援で演奏されている。いずれも作られて随分経つが、誰もが知っている歌といっていいだろう。

 

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 まず「栄冠は君に輝く」から見ていこう。この歌詞は「白色が輝く」イメージが横溢している。〈雲はわき 光あふれて〉では、白い雲とまぶしい光があり、ボールは〈天たかく 純白の球きょうぞ飛ぶ〉とか〈空をきる 球のいのち〉と描写され、白球は青空を背景に白さが引き立っている。そして〈栄冠は 君に輝く〉と輝きが繰り返される。〈青春の 讃歌をつづれ〉とあるように、ここでは青春は純潔で輝かしいものである。

 

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 次いで「ゆけゆけ飛雄馬」であるが、こちらは随分様子が異なる。〈真赤にもえる 王者のしるし〉とか〈血の汗流せ〉とか、燃えるような赤色が主調になっている。アニメのオープニングやエンディングも赤い背景がよく使われる。それは燃える太陽や夕焼けをイメージしているようだ。他に〈熱球うなる〉〈剛球(ごうきゅう)もえろ〉なども、熱さや赤い色を想像させる。白い球が青い空で輝く「栄冠は君に輝く」の軽やかな爽やかさに比べたら、「ゆけゆけ飛雄馬」には、泥と汗にまみれた地を這うような重苦しさと暑苦しさがある(曲もそうである)。「栄冠は君に輝く」は〈一球に 一打にかけて〉と、運命はその場その場で決まっていくのに対し、「ゆけゆけ飛雄馬」は〈やるぞどこまでも 命をかけて〉と人生のすべてが野球に覆い尽くされているのである。

 「ゆけゆけ飛雄馬」のキーワードは〈ど根性〉である。ただ〈根性〉があるだけでは十分ではなく、〈ど根性〉でなければ夢を達成できない。また、ただその道を〈行け〉というのではなく、〈どんと行け〉と強く押し出す。他にも〈泥にまみれ マウンド踏んで〉とか、〈やるぞどこまでも〉など、〈ど〉の音が繰り返されて通低音になる。

 巨人の星』というのは、はるか遠い目標をめざしている、その過程を描いた物語である。目標は何かというと、アニメの第一話で父の星一徹がこう言っている。「見ろ飛雄馬、あの星座がプロ野球の名門、巨人軍。(略)飛雄馬、お前はあの星座にかけのぼれ。巨人軍という星座のどまんなかで、ひときわ輝くでっかい明星となれ」。ここには二段階の目標がある。一つはプロ野球で一番の球団である巨人軍に入ること。次に、その巨人軍の中で一番になることである。一つ目の目標(巨人軍に入ること)は、その達成の成否がわかりやすい。だが、二番目の目標(巨人軍の中で一番になること)は、何をもってそう言えるのかが難しい。仮に一旦一番にんあれたと思えたとしても、それをキープし続けるのは難しい。つまり、ここには隠れた三番目の目標がある。巨人軍の中で一番になって、それを維持し続けることである。星というのは天上でずっと輝いているものである。彗星なら一瞬で消えてもいい。しかし「巨人の彗星」ではなく、「巨人の星」であり続けることは困難だ。そのため飛雄馬は身体を壊して表舞台から退場することになる。

 この過程を描くということは歌詞にも表れている。〈巨人の星を つかむまで〉〈勝利の凱歌を あげるまで〉〈男の誓いを 果たすまで〉などと、〈○○まで〉何かをせよと言うのである。もちろん、この〈○○まで〉は終わりなく先のばしされ続け〈行け行け飛雄馬 どんと行け〉と〈行け行け〉と、休むことなく駆り立て続けられる。飛雄馬は永遠の過程という地獄に置かれている。こうなると〈思いこんだら試練の道を行く〉ことになった最初の「思い込み」が重要なものになる。物語では、志半ばで巨人軍を去った父親の夢を叶えるために飛雄馬が父親の代理の人生を生きさせられることになるのだが、いつからかそれが洗脳されたように自身の目標に置き換えられていく。それが〈思いこんだら〉ということであろう。なぜそれを目指すのか、自分に問い直すことはない。

 巨人の星」を目指す過程は苦しく、そこから逃れたいことばかりだ。「ゆけゆけ飛雄馬」が目的へと疎外された道程だとすれば、次に見る「サウスポー」は、自分が置かれた状況それ自体を楽しんでいるように見える。

 

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 ピンク・レディーを代表する曲といえば、先にとりあげた「UFO」(一九七七年)であるが、今も耳に入る歌ということでは次作の「サウスポー」になる。発表から四〇年経っているが、高校野球の応援歌として生き続けている。

 最近「サウスポー」が小さなニュースになった(二〇一九年七月)。この歌はプロ野球でも替え歌となって中日ドラゴンズの応援歌になっているが、その歌詞〈みなぎる闘志を奮い立て お前が打たなきゃ誰が打つ〉の〈お前〉が、子供も応援する中で選手をお前と呼ぶのはいかがなものかということで、応援歌として歌うのを自粛することになったという。この件についてコメントする学者は、「敬意低減の法則」により〈お前〉にかつてあった尊敬の意味合いがなくなったが、もともとは無礼な言葉ではないとやんわり擁護する。〈お前〉という呼び方が失礼というより、私がもしバッターボックスに立つ選手であったら、〈お前が打たなきゃ誰が打つ〉などと言われたら、ファンといえど他人から「お前がやれ」と言われることに腹がたつだろう。ここは選手目線に歌詞を変えて〈おいらが打たなきゃ〉にすればよい。ファンが選手と一体化して、一緒に〈おいら〉になればいいのだ。「お前がやれ」では選手は対象化され突き放されているように感じるのではないか。サッカーのサポーターと野球の応援団の選手との関係は、そのあたりに意識の違いがあるように思う。

 また、〈みなぎる闘志を奮い立て〉という部分も舌足らずだ。〈みなぎる闘志を奮い立たせ〉とか〈みなぎる闘志よ 奮い立て〉だろう。

 

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 「サウスポー」の本題に入っていこう。この歌には、〈背番号1〉の一本足打法の打者が登場する。これは当時、本塁打の世界記録(一九七七年)を打ち立てた王貞治がモデルで、王は、一本足打法というユニークな打撃スタイルをとっていた。ボールを打つときに片足(軸足ではないほう)を上げる選手はいるが、王の場合は、ピッチャーが投げる前から片足立ちになっているのだ。この打法を真似できる選手は多くない。

 一方のピッチャーはサウスポーである。サウスポーというのは左投げの投手のこと。この言葉は今では誰でも知っているが、当時はあまり知られていない珍しい言葉だった。また、このピッチャーは女性である。いまだに高校野球では女子は公式戦には出場できず、プロ野球でも女性の選手はいないが、この投手は、サウスポーであり女性であり、しかも魔球を使うという二重三重にマイナーな存在である。このことはバッターが一本足打法というユニークなスタイルをとることと関係している。風変わりなスタイルを持つものどうしの対決なのだ。作詞した阿久悠によれば、女性のサウスポーや魔球という設定は、ポール・R.ロスワイラーの小説『赤毛のサウスポー』(翻訳は一九七七年八月刊)、水島新司の漫画『野球狂の詩』(一九七二年~七六年に『週刊少年マガジン』掲載。女性投手の水原勇気が主人公でドリームボールという魔球を投げる。実写版の映画が一九七七年三月公開)からきているという。『巨人の星』の星飛雄馬も左投げのサウスポーで魔球を投げるが、それらは漫画に必要なエキセントリックな設定であって、出典が違うのである。野球好きの阿久悠ピンク・レディーに野球の歌を歌わせるのは不思議ではないが、スタンドで選手を応援する役割の女性という現実の平凡な延長ではなく、女性がマウンドに立ってプレーするという現実を超えたはじけっぷりを採用しているところにセンスがある。

 

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 歌詞はその半分くらいを、敵である相手がいかに強大か、そしてその影響力がいかに強いかを述べるのに費やしている。〈背番号1〉という明瞭なモデルのある具体性を持っているのも、聞き手に対して強いイメージ換気力がある。歌の主役はむしろ相手のほうである。それに負けまいとして、サウスポーであるとか、女性であるとか、魔球であるとかいった有徴な記号で語り手側を飾り立てる。女性であることは歌い手の性と一致しその実存を代入できるから歌詞内のキャラの存在感を強化するが、他の属性、サウスポーであるとか、魔球を投げるといったことは、歌の主題には深く関与してこない。サウスポーであることが一本足打法に有利であるわけでもないし、魔球もたいしたことなさそうだ。一本足打法にたいする切り札になりそうなすごい魔球であれば、それがタイトルになりそうなものである。タイトルでサウスポーを顕揚しているということは、魔球の衝撃度はサウスポーであることより下位であると言わざるをえない。

 「サウスポー」の歌詞は特に一番が優れている。野球の実況中継のような内容をコンパクトな歌詞にまとめており、職人技がうかがえる。打者、投手、ベンチ、スタジアムと目配りよくふれている。作者本人もお気に入りの作品のひとつだった。ただ、一番で言いたいことを言い尽くしてしまったのか、二番は蛇足のようなものになってしまった。

 「サウスポー」は身体感覚が豊富な歌だ。〈ひょいと一本足で〉〈首をふり〉〈投げこむ〉〈胸の鼓動がどきどき〉〈熱い視線がからみ合ったら〉等々。こういう言葉によって聴き手の身体は歌にシンクロし、まるで自分がその場にいるかのような臨場感を得る。しかし奇妙なことには、マウンド上の投手は頭の中で想像しているだけで、アニメの『巨人の星』のように投げるまでが長く、まだこの打者に一球も投げていないのである。そのことをよく示し、またこの歌の特徴にもなっているのが、〈胸の鼓動がどきどき〉以下の部分だ。〈どきどき〉〈くらくら〉という反復的な擬声語が誘い水となって、以下は語や文の反復がずっと続く。同じ言葉が反復されるということは同じ時間が反復されるということでもある。違う言い方をすれば心理的な時間が引き延ばされているということだ。言葉の反復の連続は、魔球を投げるまでの時間の密度を高め、一瞬が永遠に感じられるかのような印象をもたらす。

 この歌は野球の歌なのに〈熱い勝負は恋の気分よ〉と、いつのまにか恋愛感情がまぎれこんでくる。阿久悠は「UFO」ではUFOネタを強引にラブソングに仕立てる離れ業をみせたが、続く「サウスポー」でもプロ野球の勝負に〈恋の気分〉をからめようとする。これは、歌謡曲のパターンとして何でも恋愛に結びつけることをからかったものだろう。この歌でも、本来違うものをむりやり結びつけられたもののように見える。しかし、実は両者は本当はよく似たものなのかもしれない。俗流心理学で説かれる「吊り橋理論」では、好きな相手と一緒にいるからドキドキするのではなく、ドキドキするようなところ(不安定な吊り橋の上など)に一緒にいる相手を好きになる。だからこの女性投手が胸の高鳴りの原因を錯覚して相手の打者に本当に恋してしまうことはありえないことではない。

 自分の〈胸の鼓動〉がよくわかるのは、勝負に集中して周囲の雑音が耳に入らなくなったためだろう。ここでは球場の雑音は消えている。芭蕉に「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」という有名な句がある。この句にはサ行音が多く使われているせいで音の響きとしても静寂さが伝わってくるという説がある。同じように〈しんと静まったスタジアム 世紀の一瞬よ〉も〈さっと駈けぬけるサスペンス スリルの瞬間よ〉も静まりかえった場面の描写だが、サ行音が(特に語頭に)多用されている。

 〈背番号1の〉と歌いだされるこの歌は、そのあとも〈一本足〉〈逃げの一手〉〈世紀の一瞬よ〉と数字の〈一〉で揃えてくる。王貞治一本足打法は、そのフォームが似ていることからフラミンゴ打法とも呼ばれるが、この歌であえて〈フラミンゴみたい〉と言われるのはたんに形態の類似があるだけではなく、その色、つまりフラミンゴのピンク色も示唆されている。女性投手が〈私ピンクのサウスポー〉と名乗りに色名を添えるように、打者もピンクの一本足打法なのであると、対称性を持たせているのである。

 ところで、フラミンゴという鳥の姿をすぐイメージできる人はどれくらいいるだろうか。フラミンゴという言葉から、ただちに一本足で立つ姿を思い浮かべることができる人は物知りの部類に入るだろう。フラミンゴは私達の身近にいる鳥ではないから、知識としてそれを知らなければ知り得ない。一本足打法はフラミンゴ打法と比喩されるが、比喩の機能のひとつとして、わかりやすく理解させるために、よく知っているものによって、よく知らないものを喩えることがあるが、この場合はそれではない。逆に、わざわざよく知らないもの(フラミンゴ)を持ち出して、よく知っているもの(一本足)に置き換えているのである。これはわかりやすくするためではなく、イメージを豊かにするためにそうするのである。

 フラミンゴはアフリカや中南米に棲息している。日本人には馴染みのない鳥で、動物園に行かなければお目にかかれない。この歌では〈一本足〉と言っているので、あえて〈フラミンゴ〉を持ち出さなくても一本足打法であることが理解できるが、冗長にも〈フラミンゴ〉を喩えとして用いる必然性は、〈サウスポー〉という英語(外来語)に対応させるために非日常の言葉が必要だったからだろう。そして〈サウスポー〉や〈フラミンゴ〉という洋風な言葉によって、舞台は日本のありきたりなスタジアムをちょっと宙に浮かべるファンタジーの魔法がかかるのである。

 

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 先ほど「栄冠は君に輝く」は輝く白色、「ゆけゆけ飛雄馬」は燃えるような赤色であることを述べた、では「サウスポー」は何色か? 答えはもうおわかりだろう。白と赤を混ぜたピンクである。このピンクはピンク・レディーが歌うから女性に割り当てられた色というだけではない。対する男にもピンク色が配されている。

 〈ピンクのサウスポー〉のピンクは、可愛らしさを装うためだけに持ちだされた松田聖子の「ピンクのモーツァルト」に比べると、〈しばらくお色気さようなら〉とあるように攻撃性や気性の激しさを意味している。中野香織(服飾史家)は、ピンクは「決然として強い色」であるためかつては男の子の色で、逆にブルーは「デリケートではかなげ」なゆえに女の子の色だったという(『モードの方程式』)。ピンク・レディーが誕生した七〇年代半ばはウーマン・リブが盛んだった。その代表が、ピンクのヘルメットをかぶって戦闘的な集団示威行動をした「中ピ連」である。ピンク・レディーの歌も、男と互角になろうとする女性の歌が目立つ。

 〈男ならここで逃げの一手だけど 女にはそんなことは出来はしない〉とあるように、この歌ではジェンダーの類型が逆転している。男は弱く、女は強い。しかし〈背番号1〉の打者は〈男〉であるはずだが、「弱い男」の類型からは除外されてでもいるかのように、勝負から〈逃げ〉ずに不敵に〈笑う〉。〈背番号1〉の人物はこのあともいろんな呼び方をされる。〈すごい奴〉〈フラミンゴみたい〉〈スーパースター〉〈でっかい相手〉云々。彼は〈男〉ではなく、人間を超越した怪物とみなされているかのようだ。

 結局、勝負はどういう結果になったのだろうか。打者が勝ったのか、投手が勝ったのか。それは歌詞には書かれていない。打者は余裕綽々で不敵に笑い、投手は〈目先はくらくら/負けそう 負けそう〉と危うい。男と女の戦いであり、手練と新人(〈お嬢ちゃん〉と笑われているように聞こえる)の戦いであるが、向かい合っただけで、気迫で既にたじたじになっている。〈しばらくお色気さようなら〉とあるから、ふだんはお色気作戦の投手なのか。本人が思っている以上に、マスコット的な扱いなのかもしれない。〈ベンチのサインは敬遠〉というのは、監督はこの選手の役割をよく知っているからだ。にもかかわらず、一人で盛り上がって、再帰的に過熱し〈きりきり舞い〉に至ったのかもしれない。〈きりきり舞い〉の精神状態というのは事態に適切に対処できなくなっている状態なので、それで魔球を投げてもフニャフニャしたものになるだろう。

 最後に、振り付けについて書いておく。投手は一人なのに二人で歌う違和感を薄れさせるために、二人でいる必然性を振り付けで工夫している。ピンク・レディーの振り付けは基本的に二人が同じ動きをするもので、それはこの歌でもそうなのだが、冒頭のところはストップモーションをコマ撮りして構成したようなものになっている。