Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

バスの歌

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 私は子供の頃、乗り物酔いしやすい体質で、特にバスが駄目だった。バスに乗って吐いたことは何回かある。バスに近づいたときの排気ガスの匂いや、車内に入ったときの振動や匂いでもう気分が悪くなり、走り出してカーブを曲がると胃のあたりがムカムカした。それが何時間も続くと顔が青ざめ、冷や汗が出て、ついにはゲロを吐くに至る。酔止めの薬というものがあったが、私にはまったく効かなかった。だからバスの修学旅行は憂鬱の最たるもので、小中学生のときは仕方なく行ったが、高校では行かなかった。当日になって、行くのを拒否した。

 乗り物酔いというのは他人には理解されにくいもので、気持ち悪そうにしていると、「窓を開けて外の空気を吸え」とか、気持ち悪くて下を向いていると「下を見ているから気持ち悪くなるんだ。前を見ていろ」とか、「バスの揺れに合わせて身体を動かせばいい」とかアドバイスされたが、それで吐き気が収まるなら苦労はしない。あげくに「もう少しだ我慢しろ」などと言われ、「まだですか」と聞いても「あと15分だ」などといい加減にあしらわれ、結局、着いたのは1時間後だったりする。拷問である。私以外にもそういう子供は何人かいて、他の子がさっそく気持ち悪そうにしていると、俺はまだ大丈夫だなどと安心したものである。そう思って油断していると、カーブの揺れ一つですぐ気持ち悪くなるのである。

 これを書いていてだんだん思い出したが、私のバス酔い対策に教員たちも思案したようで、小学校の修学旅行では、担任が夜の楽しみに持ってきたウイスキーから、キャップに少しづつ注いで飲ましてくれ、私は酒によって陽気に騒ぎ、バス酔いを忘れたことがあった。これは楽しい思い出になっている。また、中学生のときは、担任が、クラスで一番かわいい女の子に私の隣の席に座れと命じ、当人も私も無口なまま、お互いなんでこうしているのかよくわからぬまま時間を過ごしたことを覚えている。バス酔い対策でお近づきになって会話がはずむわけがなかろう。

 そうした乗り物酔いも二〇歳くらいでふっと消えた。大概の人は、成長すると乗り物酔いしなくなるようだ。今はバスの中で本を読んでも平気である。バスも改善され、匂いも揺れもだいぶ軽減されている。それでも駄目な人はいて、先日、高速バスの中でビシャビシャという音がした。ゲロを床にぶちまけたらしい。高速バスにはエチケット袋なるものが備え付けられていて、これはゴミ入れなのかと思ったら、ゲロを吐くための袋でもあるようだ。

 血筋なのか、私の甥は極度の車酔いをする人間で、子供の頃は自家用車に乗ってもゲェゲェ吐いた。電車も駄目で、高校は家から離れているのに電車を使わず自転車で1時間ほどかけて通学した。いろんなことに敏感な子供であった。今はニートだが、人生の半分は乗り物酔いのせいで狂ったのだと思う。ただ、クルマに頼らず生きてきたおかげか、体格はいい。

 あとで知ったが、これは動揺病などというらしい。厚い本を購入したが、私はもう克服したので読んでいない。対処法としては、でんぐり返しをして三半規管を鍛えるといいらしい。東京に専門の訓練センターがあるという。

 

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 バスの歌で古いものと言えば、〈発車オーライ〉で知られる「東京のバスガール」(歌、初代コロムビア・ローズ、作詞、丘灯至夫、一九五七年)であろう。昭和三〇、四〇年代は人員輸送についてバスが鉄道を追い越していく時代であった。同じ年には、〈思い出すなァ ふる里のョ 乗合バスの悲しい別れ〉と歌う青木光一の「柿の木坂の家」(作詞、石本美由起、一九五七年)がある。バス路線が田舎の隅々まで伸長し、鉄道を補完するものとして毛細血管の網の目のように広がり、田舎から都会へと若い労働力を運んでくる役目を果たした。

 

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 船には港や桟橋があり、列車には駅やホームがある。大勢の人が集まり、出会い、別れる場所で、いろいろなドラマが演じられる舞台である。バスでそれに相当するのがバス停だ。実はバスを歌った歌のなかでバス停が歌詞に出てくる歌は多い(バス停という単語そのものがなくても雰囲気としてそれとわかるものもある)。バス停を舞台に、船や列車のようなドラマを描くことができる。いくつか掲げてみよう。
 〈雨が踊るバスストップ 君は誰かに抱かれ〉(Kinki Kids「硝子の少年」作詞、松本隆、一九九七年)
 〈貴方を乗せたこのバスが見えなくなるまでは笑っている〉(小川知子谷村新司「忘れていいの」作詞、谷村新司、一九八三年)
 〈ひまわりが影を伸ばしてる 小さなバス停で あなたと別れた〉(松任谷由実「ひまわりがある風景」作詞、松任谷由実、二〇〇四年)
 これらはいずれも、別れを歌ったものである。バスの停車場は、二人の人生の分岐点である。

 バス停はいろんな顔を持っている。いくつかの歌詞から抜き出してみる。朝のバス停 、黄昏のバス停、夕暮れのバス停、夜のバス停、真夜中のバス停、小さなバス停、無人のバス停、誰もいないバス停、坂道の下のバス停、天神前のバス停、3丁目のバス停、高校の前のバス停、放課後のバス停、錆たバス停、いつものバス停、君とよく待ち合わせたバス停、雨のバス停、ドシャ降りのバス停……等々。
 別れにふさわしいのか、意外にも雨とバス停という設定が多く、私が見た中では三分の一ほどがそうであった。バス停には屋根がないところが多いから雨が降れば困る。歌はそうした困った状況を好んで歌いたがる。そういえば、こんな歌もあった。〈雨ふり バス停 ズブヌレ オバケがいたら あなたの雨ガサ さしてあげましょう〉(井上あずみとなりのトトロ」作詞、宮崎駿、一九八八年)。

 

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 バスはその運行の形態によって路線バス、長距離バス、観光(ツアー)バスといった、さまざまな種類がある。〈朝のバス停〉〈雨のバス停〉といった日常の光景が歌われるのは路線バスだし、船や列車と同じ別れの感傷を伴っているのは長距離バスである。一口にバスと言ってもいろんな顔を持っており、人が読み取る情感も異なる。

 長距離バスを歌ったと思われるものに、ゆずの「サヨナラバス」(作詞、北川悠仁、一九九九年)がある。〈サヨナラバスはもうすぐ君を迎えに来て 僕の知る事の出来ない明日へ 君を連れ去って行く〉と歌うこのバスは、高速バスのように遠距離を運ぶバスであろう。バス停が分岐点となって二人は〈別々の道〉を行くことになる。バス停は港の桟橋や駅のホームと同じように別れの舞台になる。〈君〉と〈僕〉の関係を断ち切る抗しがたい力、自由にできない力の象徴となっている点で、バスは同じクルマの仲間というよりは、歌の世界では船や列車と同じ役割を果たすことが少なくない。
 次に観光バスについて考えてみたい。観光バスというのは、日帰りや一泊二泊する小さな旅に用いられる。船や列車と違うのは、行ったきりにならないこと、そのバスに乗ってまた同じ場所に戻ってくることである。しかも、旅の始まりから終わりまで同乗するのは同じメンツで、それは日頃の集団(会社や学校)と同じこともあれば、知らない者どうしのこともある。後者の場合でも、同じバスに乗っているということで旅行のあいだになんとなく親しみが湧いてくるものだ。バスガイドがいれば、彼女はバス車内の一体感を醸成するのに一役買っている。

 

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 子どもの頃、修学旅行などバス旅行の際に作る「旅の歌集」に必ず載っていたのが山本コウタローとウイークエンドの「岬めぐり」(作詞、山上路夫、一九七四年)である。恋人を亡くした〈僕〉がバス旅行によって喪失感から立ち直ろうとする歌だ。子どもだから、歌詞の意味を理解して歌ったわけではない。

 

 「岬めぐり」 山本コータローとウィークエンド 作詞、山上路夫 作曲、山本厚太郎

   (略)

 

 バス旅行でみんなで声をあわせて歌う歌なので、明るい歌のはずである。しかし歌詞には〈悲しみ〉とか〈ひとりで〉など、暗い言葉がちりばめられている。軽快な曲調に反し、この歌のバス旅行は、どうも楽しい気分のものではなさそうである。なぜかわからないけど、〈ぼく〉は〈あなた〉と二人で来たかったのに一人ぼっちでくるしかなかったらしい。子どもの私は、小さな疑問を抱きつつも、それ以上は深く考えなかった。

 大人になってからは、もう少し理解が進んだが、〈ぼく〉は〈あなた〉にふられてしまったので一人なのだと思っていた。だが、よく歌詞を読むと、それは失恋というより、もっと鎮痛な雰囲気をたたえた対象喪失の歌である。〈ぼく〉には強い悲しみがある。歌詞には言明されないが、〈あなた〉は予測できない事故や病気で亡くなってしまったのではないか。〈くだける波の あのはげしさで/あなたをもっと 愛したかった〉という後悔の念は、相手の不在が突然訪れたことからきている。しかも、〈あなた〉と過ごした日々は、意外に短い時間だった。

 岬めぐりというワンポイントの目的なので日帰りの旅行なのであろう。その岬とは三浦半島のことであるらしい。歌の舞台が気になる人がいて、いろいろ詮索しているが、私はそういうことは気にならない。伊豆半島かもしれないと思ったが、東京から日帰りだとあわただしいものになるだろう。だとすれば三浦半島が妥当かもしれない。

 

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 悲嘆から立ち直るとき、人はしばしば旅に出る。旅は見なれた日常から人を引き離し、束の間、不安定な状態に置く。その状態を経て、再び日常に戻ることで、もとの日常を変容させる。悲しみが別のものに変わっている。この歌はそういう普遍的なことを歌っている。わずかな言葉でとても深いところまで届いている。

 旅というのは境界上の経験である。見知らぬ土地に定着するわけではなく、帰ることを前提にもとの土地を離れる。二つの土地のあいだの往還である。この歌の旅の行き先である岬というのも境界的な場所である。岬は陸地が海に突出した部分である。人が住む陸地を生者の世界とすれば、海は死者の世界(異界)である。海に取り囲まれた岬は、生と死が入り組んだ場所、死の世界に接近した場所(異界への入り口)なのだ。岬めぐりは、異界を覗き見る旅といえる。

 〈ぼく〉はこのとき死に接近している。〈あなた〉を失って、自分も自殺する場所を探していたのかもしれない。だが、〈ぼく〉の胸中の悲嘆とは無関係に、自然は広がり、バスはただ走る。この「無関係に」ということが重要だ。二番の歌詞に出てくる〈幸せそうな人々たち〉も〈ぼく〉の悲しみを汲むことなく存在する。

 〈この旅終えて 街に帰ろう〉と締めくくられるが、このそそくさとした感じは、いつまでも異界の近くをうろうろしていたら、異界に取り込まれ、もとの世界に戻れなくなるからである。短い旅だからいいのだ。このとき、岬のいくえにも曲がりくねった道路を走るバスは、異界へ人を運ぶ不思議な乗り物になる。『銀河鉄道の夜』の汽車や、『となりのトトロ』のネコバスと同じだ。

 

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 心の整理をするまでに風景と人が重要な役割をはたしている。〈ぼく〉はバスに乗って、窓外に次々移り変わる風景を見ている。それは普段は目にすることのない景色だ。〈ぼく〉はバスの窓という、いわばスクリーンに映し出された岬を見る。窓の外には青い海が広がる。おそらく空も快晴だろう。海や空の青さは、しばしば喪失感、虚無感につながる。岬の岩礁には荒々しい波が寄せている。〈くだける波の あのはげしさ〉は、人を寄せ付けない自然の厳しさだ。同時に反転して、強く生きることの比喩にもなる。死に隣接した生であると同時に、枯渇していた生命力の充填になる。

 〈あなたがいつか 話してくれた/岬をぼくは たずねて来た〉という出だしは物語的だ。死せる〈あなた〉が生ける〈ぼく〉を動かしているということである。〈あなた〉が話してくれたことを覚えている〈ぼく〉がいる。〈あなた〉が死んでも、存在したという事実は消えない。〈ぼく〉の記憶の中で生きている。この旅は、そういう死者の心残りを満たす供養の旅であり、幻の〈あなた〉と同行二人なのである。

 岬めぐりの観光バスは途中での乗降客もいない。〈ぼく〉はバスという繭に守られながら、その中で安心して悲しみにひたることができる。〈ぼく〉がバスという一時的な共同性)(コミュニタス)を形づくる乗り物を旅の手段に選んだことは正解だった。同乗者は〈ぼく〉と対照的な〈幸せそうな 人々〉である。〈幸せそうな 人々〉は、悲しみにある〈ぼく〉との対比のためにそこに置かれているように見える。大勢と一人の対比。幸せと悲しみの対比。本当は〈ぼく〉も彼女と二人で来て〈幸せそうな 人々〉の側にいたはずなのにという、痛烈な欠如の感覚を浮かび上がらせる。〈ぼく〉にとっては、他の乗客たちは〈幸せそうな 人々〉という異質な他者の集団であり、〈ぼく〉はそこから疎外されている。一方で、彼らは、ありえたかもしれない〈ぼく〉の可能性を映し出している。〈幸せそうな 人々〉は、この二つを同時に〈ぼく〉に経験させる。

 〈ぼく〉はバスという枠組みから外に出ることができない。〈ぼく〉は疎外されつつ同時に包摂されている。バスの中に日常の幸せを持ち込んでいる人々が存在することで、もとの現実に戻る回路が開かれている。彼女に向けられたぼくの心の回路は、幸せそうな人々によって街に向けられる。悲しみにひたる〈ぼく〉とは関係なく、バスは走り、自然は広がり、人々は存在する。〈あなた〉の不在とは無関係に世界は存在し続ける。〈ぼく〉は〈ぼく〉と〈あなた〉に無関心な世界に接することで悲しみを相対化させ恢復への契機をつかむ。バスの車内の小さな世間で〈ぼく〉はそれを思い知る。それが人々の暮らしというものだと。だからぼくはそういう人が暮らしている街に帰る気になったのである。もし〈ぼく〉がひとりで旅をしていたら、心の恢復にはもっと時間を要したかもしれない。あるいは、これが電車だったらどうか。電車なら、席を移って目にしたくない相手から遠ざかれば済む。だがバスではそうは行かない。逃げ場がない。狭い車内に監禁されて見たくないものを見続けなければならない。

 

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 冒頭と終結部は響き合っている。〈あなたがいつか 話してくれた/岬をぼくは たずねて来た〉と始まる。この旅は、二人の思い出をたどる旅ではない。はじめて来る場所である。あなたはかつて来たことがあって、景色の素晴らしさをぼくに話してくれたのだろう。いわば、あなたの足跡をたどる旅である。おそらく〈ぼく〉は、岬めぐりの旅の前に、他にも、あなたの思い出の土地をたどってきたのかもしれない。この旅の前にも相当な苦悩の期間があったはずだ。この土地が、あなたの足跡をめぐるおそらく最後の土地なのである。そう考えると〈この旅終えて 街に帰ろう〉というフレーズが、よりぴったりしたものに聞こえてくる。この旅は、苦悩が和らいできて日常への復帰の最後のステップになる。それに、必要になったら、〈ぼく〉は小さい〈この旅〉を繰り返せばいい。

 

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 ところで、〈幸せそうな 人々たち〉という表現は残念だ。〈人々〉か〈人たち〉であろうが、音符と文字数の関係で引き伸ばしたのであろう。逆に、切り詰めた表現になっているのが、〈窓に広がる 青い海よ〉である。論理的に言うなら「窓の外に広がる 青い海よ」である。だが字数を切り詰めたことで、窓が額縁となって、風景が迫ってくるように見える。

山口百恵「プレイバック part2」

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 今年出版された山口百恵の本『時間(とき)の花束 Bouquet du temps』が売れている。内容は自作のキルト作品集で、今の自分を直接晒すものではない。息子の三浦祐太朗もテレビなどに出演し、母親を語ることがあるが、その穏やかな話しぶりや周囲の出演者の反応は、決してスキャンダラスなものを期待していない。そのように演出されているように見える。思うに山口百恵の扱いは、今や皇室のそれに近いものになっているのではないか。

 山口百恵の一番の傑作は「プレイバック part2」(作詞、阿木燿子、一九七八年)であろう。「いい日旅立ち」という百恵の代表曲とみなされている歌があるが、この二曲は対照的だ。「いい日旅立ち」は作詞作曲が谷村新司で、後に「昂」を書いた谷村らしい壮大さがある。この〈旅〉は恋人探しのわりにはお姫様の花婿(はなむこ)探しのようにスケールが大きく、〈日本のどこかに私を待ってる人がいる〉と歌われる。〈私〉はオクテのお嬢様のようであり、親離れして、赤い糸で結ばれているはずの男性と出会うための一歩を踏み出そうとしている。旧い家(親もと)を出て、新しい家(夫)を築くための〈旅立ち〉である。

 一方、「プレイバック part2」は車を走らせる〈みじかい旅〉である。こちらの〈私〉は昨夜の情事が不満で〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴りちらす、おきゃんな女だ。どちらの歌も一人旅であることは同じだが、内容は正反対であり、その正反対のものが二つながら山口百恵の代表曲と目されるところにこの歌手の面白さがある。

 二つの歌のどちらが山口百恵らしいかといえば、「いい日旅立ち」は、〈私を待ってる人〉=三浦友和を見つけ結婚して家庭の主婦となってテレビからその姿を消したままの現在からみると、こちらのほうが百恵のイメージに近いといえるかもしれない。「昭和の歌ベスト一〇〇」といったテレビ番組があればリクエスト上位に入りそうな歌で、国民歌謡になっているといえそうだ。けれども、山口百恵らしさの「らしさ」が他の誰かと代替不可能を意味するとすれば、百恵らしさが出ているのは「プレイバック part2」の方である。「いい日旅立ち」は他の歌手が歌ってもさまになるが「プレイバック part2」の切れ味は山口百恵でなければだせない。

 

 プレイバック part2   作詞 阿木燿子   作曲 宇崎竜童 (一九七八年)

  (略)

 

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 歌詞は冒頭、〈緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ〉と、緑と赤の補色を対比させ鮮烈に始まる。風景は鳥瞰的だ。

 一面を緑色に塗りつぶされた空間の中で、赤いポルシェは画面の中に埋没することなく存在を主張する。疾走する赤いポルシェは女の〈私〉でもある。それは圧倒的な緑の中を移動するひときわ目立つ孤高な一点だ。私たちはこの一行を聞いただけで、何か心がざわざわして落ち着かない気持ちになる。主人公の心理状態はひどく不安定な状態にあることが、続く歌詞でわかる。

 風景の鳥瞰から赤い一点へ、さらに車を運転している〈私〉へと、カメラは急速にズームアップされる。そしてそのまま〈私〉の内面(〈気まま〉)まで覗き込もうとするが、その瞬間カメラの方向は反転して突如起きたアクシデント(交差点でのミラーの接触)に向きを変える。これは映画的なカメラの動きである。最初はフルショットで全景をとらえ(緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ)、次にバストショットに寄って(私気ままにハンドル切るの)、アップにしてセリフを言わせる(馬鹿にしないでよ)。

 さて、〈ひとり旅なの 私気ままにハンドル切るの〉というように、〈気まま〉に運転していたはずが、一転、交差点で隣の車のミラーをこするアクシデントを起こし、一気に緊張が高まる。〈気ままにハンドル切る〉というのは、旅の目的地が決まっておらず、そのときの気分で道路の分岐を選んでいるということであろう。しかし後でわかるが、ここで言っている〈気まま〉な一人旅というのは嘘である。隣の車(の男)に怒鳴られて、後先も考えず〈ついつい〉怒鳴りかえしてしまうくらい〈私〉はイライラしているのだ。〈私〉のクルマはオープンカーなのだろう。それで運転しているのが女だということが一目瞭然で、〈隣の車〉のたぶん男にナメられて怒鳴られたのだろう。二番の歌詞でも〈潮風の中〉とあり、窓を開けて走っているというよりは、オープンカーの雰囲気がある。

 先に述べたように、〈私〉はイラついて雑な運転をしていた。事故を起こすのは当然のなりゆきである。それもあるが、ミラーをこするような運転なのだから技術的にヘタなのも間違いない。少なくともこの車の運転には慣れていない。(たぶんサングラスなんぞをかけて)気取って運転してはいるが、借り物である。おそらく後で出てくる喧嘩して飛び出した〈あなた〉から借りたもの(あるいは貰ったばかり)なのである。今までは〈あなた〉の隣に乗っていたので、自分では運転はあまりしたことがなかったのだ。しかも馴れない外車である。

 ミラーを擦るという物損事故ともいえないようなアクシデントも、独りで行動しているから身にふりかかる災難である。助けてくれる男はいない。頼りになる男が欲しいというのはこういうところでも痛感するはずだ。こういう場面で女一人ということが思い知らされる。作詞者は、女が一人であることの解放感とあやうさが背中合わせになっていることを短い歌詞のうちに的確に描く。これは後で、〈あなた〉のもとへ帰ることの伏線になる

 この歌で一番印象に残るのは、〈馬鹿にしないでよ そっちのせいよ〉というフレーズである。女も、男に怒鳴られておとなしく引っ込んでいる時代じゃない、泣き寝入りしないわよ、ということを宣言したようなインパクトが当時はあった(もっとも、今ならたんに「逆切れ」したと思われるのがオチだが)。

 〈怒鳴っているから私もついつい大声になる〉とあるが、〈ついつい〉言ってしまったのにはワケがある。昨夜も男に同じセリフを言ってしまったからだ。その興奮がいまだ冷めやらぬうちに接触事故を起こした。おそらく〈私〉の頭の中では昨夜のセリフがずっとエコーしていたのである。それで反射的に同じセリフが口をついて出てしまった。肝腎なのは、この時点で〈私〉は隣の車の相手に対して、自分がなぜそんな態度に出てしまうのか自覚していなかったということだ。それは記憶をプレイバックしてみて初めてわかることである。昨夜の男は〈坊や〉と見下しても安全なところがあったが、交差点で怒鳴ってきた〈隣の車〉の相手については氏素性も知らないわけで、〈ついつい〉怒鳴ってしまったが無事に済む保証はない。

 〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴り返すが、これは奇妙な言い返しかただ。相手から「ミラーをこすったじゃねぇか、このヤロー!」と怒鳴られたとしよう。そのとき「馬鹿にしないでよ」と言い返すのはおかしい。どこが。相手は〈私〉の人格を馬鹿にしてそう言っているわけではないからだ。しかし私はなぜか、馬鹿にされた、見下されたと思いこんでしまっている。これが安い軽自動車にでも乗っていれば馬鹿にされたと思わぬでもないが、当方も高級車なのだ。馬鹿にされる要素はない。あるとすれば女だからである。自分が女だから相手は見下していると思いこんだとしか思えない(ここから逆に、〈隣の車〉の怒鳴ってきた相手が男だと推測できる)。〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴り返したのは、女である自分が外車を運転していたから二重に(外車に乗っていることと、それを運転していること)生意気だと思われているに違いないと思い、過剰に反応してしまったのだろう。

 そういえば〈私〉は、女だからという理由で見下された経験をつい昨夜もしたばかりだったことを思い出す。しかし本当は、それ(〈馬鹿にしないでよ〉)を言ったから思い出したというよりは、ずっとそのことばかりを考えていたので、本来〈馬鹿にしないでよ〉などと言うべき場面でないときにも、昨夜と同じ〈馬鹿にしないでよ〉というセリフが口をついて出てしまったのである。

 

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 歌は、〈馬鹿にしないでよ〉という刺激的な言葉をカットバックに、昨夜のシーンの回想に入る。これまでの運転場面は枠構造における枠に過ぎなかったのである。肝腎なのはここからだ。歌の流れは一旦中断され、回想シーンがプレイバックされる。歌詞の冒頭では絵画的構成が強調されていたが、ここでは時間的な次元が強調される。その時間も単純に一方向に流れる線的なものではなく、中断したり折り返したりを繰り返す複雑なものだ

 この歌が実験的になるのは次のフレーズだ。

 〈ちょっと侍って Play Back  Play Back 今の言葉 Play Back  Play Back〉

 ここで〈ちょっと侍って〉と歌の流れをせき止めているのは、誰が誰に対して言っているのか。〈私〉が自己言及的に語っているということだろうか。メタレベルにいる自分が自分に対して編集者的にふるまい、記憶をさかのぼるよう要請しているようである。先に述べてきたように、〈私〉は頭の中ではずっと昨夜のセリフが堂々巡りしてプレイバックされていたと思われる。だがそれはここまでの歌詞には出てこない。隠蔽されている。聴き手は、なぜこの女性はこんなにイライラしているのだろうと疑問に思っているが、それがここで謎ときされる。メタレベルの〈私〉は、神の視点から、探偵のように隠されているものをおもてに暴きだすのである。冒頭では俯瞰的な視点から一人称視点に切り替わっていたが、ここでもまた視点の錯綜が引き起こされている。

 では、昨夜〈私〉に何が起こったのか? 

 〈気分次第で抱くだけ抱いて 女はいつも待ってるなんて〉

 ということだ。状況はよくわからない。が、〈私〉はこれで怒ってしまった。そしてこう言う。

 〈坊や いったい何を教わって来たの〉

 セックスをした相手のことを〈坊や〉というくらいだから、〈私〉はそんなに若くない。〈私だって 私だって 疲れるわ〉というので、やはり若くないのか(山口百恵はこのときまだ十九歳。作詞者の阿木燿子は三三歳である)。いや、これは〈坊や〉をたてて芝居をするのに〈疲れた〉という意味である。〈私〉は〈坊や〉のわがまま(わがままだから〈坊や〉と呼ばれる)と〈女はいつも待ってる〉という貞淑さを装うのに(〈坊や〉の価値観にあわせたのだろう)疲れたのである。

 相手のことを〈坊や〉と子供あつかいするのは、大人/子供という枠組で相手を見るということを意味している。この〈坊や〉は、大人の女のことを何も知らない。包容力もない。〈気分次第で抱く〉ような自分中心のセックスは卒業してくれ、ということである。それまで相手に感じていた男性性はここで崩れ、〈男〉から〈子ども(坊や)〉へと転落してしまう。男/女という枠組から大人/子どもという枠組に認知が変化したのである。男/女の関係を演じることに興醒めし、〈坊や〉という見下した第三者的な態度を取るようになった。ところが、ここで〈坊や〉と小馬鹿にしているのに、歌詞の二番になると、なんの脈絡もなく〈あなたのもとへ Play Back〉したいと飛躍する。同じ相手を、大人/子どもの関係を際立たせたいときには〈坊や〉と呼び、男/女の関係を際立たせたいときには〈あなた〉と呼んでいるのである。今回の〈みじかい旅〉は、〈坊や〉のもとを飛び出して旅の途中で回心し〈あなた〉のところへ戻るという、〈私〉の精神的な変容の旅なのである。

 〈馬鹿にしないでよ〉と怒鳴る〈私〉は、男に怖じけづかない戦闘的な威勢のいい女性のように見えるが、実はそれはたんにムシャクシャしていたからそうしただけであり、フェミニストとして男と対等にはりあう自立した女性というわけでは全くない。〈~のもとへ帰る〉という言い方じたい、庇護してくれる相手を求めている。男のもとを飛び出したはいいが、結局ほかに行き場所もなく戻るしかなく、相手を〈本当はとても淋しがり屋〉だからと理由をつけている。今この歌を聴けば、〈私〉に依存症の傾向があることを読み取るのは困難ではない。

 

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 歌詞の二番になると、クルマは鬱蒼とした森の中から開けた海沿いの道に出る。〈力いっぱいアクセル踏む〉とか〈ラジオのボリュームフルに上げれば〉のように〈力いっぱい〉〈フルに〉という量的な過剰さを表わす言葉がある。中庸ではなく、針が振り切れる方を選ぶところに、まだ〈私〉が不安定な心理状態であることを示唆している。また、〈ラジオのボリュームフルに上げ〉て流れてきた歌によって昨夜の記憶がフラッシュバックするのだが、この〈フルに上げ〉るというのは、一番の歌詞の〈怒鳴っている〉という部分に相応している。怒鳴られた後に記憶が遡行したように、フルボリュームのラジオを聴いて記憶が遡行するのだ。この歌では、記憶を呼び覚ますマドレーヌの匂いの役割を、鼓膜に刺激を与える大きな音が果たしている。

 ラジオから流れてきた〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉という歌の歌詞が、昨夜、男が言ったセリフと同じだった。〈ステキな唄〉だと思って聞いていたのに昨夜のイヤな事を思い出してしまったのである。そういえば一番の歌詞でも〈気まま〉に運転していたはずなのに昨夜のイヤな事を思い出してしまうのだった。この歌はこういう転回を特徴とする。何を見ても(聞いても)何かを思い出す。緑の中を走るポルシェ、海岸を走るポルシェ。そういった一見カッコいいシーンでも、ドライバーの心の中は複雑である。

 ところで、その〈ステキな唄〉とはどういう歌か。〈勝手にしやがれ 出ていくんだろ〉と歌うとおり、これは明らかに前年(一九七七年)発売してヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」を引用している。

 この歌が沢田研二の「勝手にしやがれ」を引用しているとすれば、昨夜〈あなた〉と〈私〉とのあいだにあったことが「勝手にしやがれ」の歌詞を読めばより詳しくわかるのではないか。「プレイバック part2」は「勝手にしやがれ」の後日譚であり、女性の側から見たアンサーソングだと考えることができる。

勝手にしやがれ」は女が出て行くのを男が窓辺で見ている歌である。しかしそこには、なんで女が出て行くのか説明されてはいない。たんに〈やっぱりお前は出て行くんだな〉とあるだけである。理由は〈やっぱり〉という判じ物めいた言葉があるのみ。それに対応させるがごとく、「プレイバック part2」には、〈私やっぱり 私やっぱり 帰るわね〉というフレーズが出てくる。〈やっぱり帰る〉と〈やっぱり出て行く〉。どちらも行為の理由は〈やっぱり〉である。なぜそうなったのかは語られない。〈やっぱり〉という意味ありげな言葉によって隠されている。

勝手にしやがれ」の男の特徴はやたらにカッコつけたがることである。出て行く女を引き止めるのもカッコ悪いと思っている。ところが内面は照れ屋であり本心が言えない。「プレイバック part2」になると、女のほうもカッコつけたがっている。ポルシェを駆って疾駆する。ところがこちらも内面はグチャグチャだ。

 「プレイバックPART2」というテクストは、先行する「勝手にしやがれ」というテクストを引用しつつ、そのテクストでは明言されていない意味を創作することによって、「プレイバックPART2」の解釈を経由した「勝手にしやがれ」というテクストを新たに生み出し、テクストが書かれた時間的な先後関係を逆転してしまったのである。

 タイトルにもなっている「プレイバック」について考えてみると、この歌の「プレイバック」には、記憶の再生、〈あなた〉のもとへ戻ること、歌自体が一回戻るといった意味が重ねられている。歌詞は、車に乗ったヒロインが直線的にどんどん恋人から離れてゆくかと思いきや、突如〈やっぱり〉という一語で一瞬で反転して恋人の元へ帰ることになる。この不合理な心情は男性の作詞家にはなかなか書けないのではないか。

 もとへ戻った理由を少し考えてみる。たいした理由もなく戻るということは、実は、出て行った理由もたいしたものではなかったのではないかと思える。ミラーを擦って怒鳴られ〈馬鹿にしないでよ〉と言い返す。それと同じくらい些細な原因で喧嘩して〈馬鹿にしないでよ〉と言って飛び出したのではないか。それが些細な原因であったことを、ミラーを擦るという些細な経験を反復して思い至ったのではないか。

自動車ソング

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 作詞家としてヒット曲を量産した松本隆の歌には乗り物がよく登場する。ちょっと思いついただけでも……〈恋人よ 僕は旅立つ/東へと 向かう列車で〉(太田裕美木綿のハンカチーフ」一九七五年)、〈からし色のシャツ追いながら/とびのった電車のドア〉(竹内まりや「September」一九七九年)、〈春色の汽車に乗って/海に連れて行ってよ〉(松田聖子赤いスイートピー」一九八二年)、〈弾丸みたいにふっとばすのさ/曲りくねったヘアピン・ロード/あの娘をさらった夜汽車の窓に/クラクションだけ鳴らし続けて叫んで〉(近藤真彦「ミッドナイト・ステーション」一九八三年)、〈舗道の空き缶蹴とばし/バスの窓の君に/背を向ける〉(KinKi Kids「硝子の少年」一九九七年)

 汽車、列車、電車と言い方は様々だが、自動車よりも電車のほうが多そうだ。人を遠くまで運んでくれる旅情があるし、時間がくると無慈悲に人を引き裂き別離の情を生む。この点は演歌の定番である港を出ていく船に似ている。列車は、望郷歌謡曲では欠かせない乗り物だ。列車の歌謡史というのはよくあるテーマなので、本稿では自動車と歌の関わりを考察してみたい。先に引用した「ミッドナイト・ステーション」は列車と自動車のチェイスになっている。映画のワンシーンのようだが、歌詞によって端的に表現する技術はみごとだ。バスについては別稿でふれる。

 

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 自動車と歌はとても相性がいい。車窓を次々移り変わる風景による疾走感とテンポのいい音楽。いつも見なれた部屋の中ではない景色の中で聞くと、耳になれた歌も新鮮に聞こえる。街なかでヘッドフォンをつけて聞くのと違い、クルマという移動する小部屋の中で音楽に包まれるのは格別だ。友人や恋人と一緒に、音楽と景色を共有する経験もクルマならではだろう。クルマを運転しながらシチュエーションにあった歌を聞くのは楽しい。私も、はじめてクルマを買ったときは「あの場所をドライブしながらこれを聞こう」と思ってカセットテープを編集したものだ。

 福山雅治の「ALL My Loving」(作詞、福山雅治、一九九三年)は、彼女とクルマで夜の道をドライブする歌だ。〈星くずの道 海まで飛ばす(略)出来たばかりの僕のカセット聞かせてあげる〉とある。デート用にカセットテープを編集したのだろう。なぜか得意げだが、そういう気持ちになるものだ。TUBEの「Summer Dream」(作詞、亜蘭知子、一九八七年)にも、〈渚のカセット好きな歌だけ詰めこんで 夏にアクセル ハンドルをきれば〉とある。カセットテープにどういう曲を選択するかは重要だ。もちろん、曲の順番にまでこだわりがあったはずだ。この歌は九三年のものだが、この後、クルマには、カセットデッキに代わってCDプレイヤーが装備されるのが標準になっていき、自作のカセットテープを作ることもなくなっていく。

 音楽聴取の空間としてのクルマの室内空間というのはとても興味深い。逆に、歌にとってもクルマは格好のアイテムになっている。自動車が歌によく出てくるようになるのは一九七〇年代からである。八〇年代になるとさらに量が増える。

 以下ではクルマに関する歌詞を具体的に見ていくが、クルマに関するといっても、関わりの度合いには親疎がある。歌詞のすべてがクルマに関する内容で占められているものもあれば、ほんの一瞬だけ登場するものもある。自分でクルマを運転していることを歌うものもあれば風景の一部としてのクルマを歌うものもある。

 

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 クルマが登場する割合初期のころの歌で有名なものに、〈彼の車にのって/真夏の夜を 走りつづけた/彼の車にのって/さいはての町 私は着いた〉と歌う平山みき「真夏の出来事」(作詞、橋本淳、一九七一年)がある。曲調は軽快だが、歌詞の内容は悲しい別れである。ウキウキした感じで〈彼の車にのって〉どこに行くかと思えば〈さいはての町〉なのである。この歌が出た一九七一年というのは、乗用車の保有台数が貨物車のそれを上回るようになった時期である。つまりクルマが日常の交通手段として定着しつつあったときだが、まだまだクルマは特別な乗り物といった感じである。

 川端康成の『雪国』で、国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国、つまり別世界だったというように、「真夏の出来事」では、クルマは境界を超えるための乗り物になっている。クルマで〈真夏の夜を 走りつづけ〉ることでこれまでの世界の境界を超え、〈さいはての町〉という非日常の世界にたどりついた。真夏なのに〈冷たい海〉〈冷たいほほ〉と冷たさが繰り返される。真夏なのに、ここはあべこべの世界なのである。別離が訪れないように〈祈りの気持ちをこめて 見つめあう二人〉というフレーズが繰り返されるが、これは〈さいはての町〉がどういう場所かをよく教えている。そこは、〈祈り〉の儀式をおこなう場所なのである。

 

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 クルマは普通名詞として歌詞に登場するのではなく、各部に言及することで提喩(あるものの一部によって全体を表す)的にクルマを表現することも多い。クラクション、テールランプ(ブレーキランプ)、ヘッドライト、ボンネット、ハンドル、アクセル、ルームライト、ワイパー、サイドシート(助手席)、バックミラー、ドア、ウィンドウ、音響装置、なども歌詞によく出てくる。

 例えば稲垣潤一はクルマに詳しいことで知られるが、その代表曲は、〈車のライトがまるで危険な恋さそうよ(略)レインもっと強く降り注いでくれ〉(「ドラマティック・レイン」作詞、秋元康、一九八二年)とか、〈夏のクラクション Baby もう一度鳴らしてくれ〉(「夏のクラクション」作詞、売野雅勇、一九八三年)のようにクルマの特徴の一部に注目している。そのほうがイメージはシャープになる。

 実際のクラクションは騒々しく不愉快なものだが、歌詞で使うとしゃれた感じになる。〈クラクション鳴らして今夜君を奪いにゆくよ〉(大滝詠一「A面で恋をして」作詞、松本隆、一九八一年)、〈街のどこかで 誰かのクラクションが泣いている〉(尾崎豊「誰かのクラクション」作詞:尾崎豊、一九八五年)。

 クルマは自分で運転するばかりではなく、街の風景の一部として外から眺められるものでもある。そのときクラクションは街のサウンドスケープを構成する一要素になる。クラクションは誰が発したかわかりにくく、あちこちから聞こえてくる。その喧騒は街が生きている証であるかのように思われてくる。佐野元春の「SOMEDAY」(作詞、佐野元春、一九八一年)は歌詞にクルマこそ出てこないが、イントロ部分に効果音でタイヤの軋む音やクラクションが使われてサウンドスケープの雰囲気を出している。歌詞は、〈街の歌が聴こえてきて〉と始まるが、クルマの発するさまざまな音をここでは〈街の歌〉と言っている。またオフコースの「YES-YES-YES」(作詞、小田和正、一九八二年)も歌詞にクルマは出てこないが間奏に一瞬電車の通り過ぎる音やクルマのクラクションが入る。そのあとの歌詞は、周囲がうるさくて君の声が、〈聴こえない聴こえない〉と、これも歌詞と効果音がセットになっている。クラクションはこのように、街の風景の一部としてのクルマを表現するのに便利だ。

 街の風景としてのクルマは、テールランプも絵画的に描かれる。後ろ姿の集合で、個々の個性がなく群れに見える。〈テールランプの淋しさに さよならの眼をとじる〉(山口百恵「パールカラーにゆれて」作詞、千家和也、一九七六年)のように、赤い光が夜の街の哀愁を誘うのである。〈ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない 足跡は降る雨と 降る時の中へ消えて〉(中島みゆきヘッドライト・テールライト」作詞、中島みゆき、二〇〇〇年)は、NHK『プロジェクトX』のエンディングだが、働く男たちの背中が見えるようだ。〈大雪が降ったせいで車は長い列さ どこまでも続く赤いテールランプが綺麗で〉(THE虎舞竜「ロード」作詞、高橋ジョージ、一九九三年)は、ベタな泣かせ歌である。テールランプの悲しい色が、少女の死を予感させている。以上のいずれも、テールランプの赤い色は寂しさや悲しさの象徴になっている。

 テールランプ(ブレーキランプ)を最も印象的に用いた歌はDREAMS COME TRUEの「未来予想図Ⅱ」(作詞、吉田美和、一九九〇)だろう。この歌は〈私を降ろした後 角をまがるまで見送ると いつもブレーキランプ5回点滅 ア・イ・シ・テ・ル のサイン〉というユニークなやり方を提示している。風景としてのテールランプではなく、運転者の意志が表現されたブレーキランプ。ここにはテールランプと聞いた時に思い浮かべる寂しさといった紋切り型のイメージはない。新たな使い方が歌で創造されている点ですぐれている。
 自分が乗っているクルマを歌ったものでは、バックミラーも不思議な使われ方をする。

例えば、〈夜の都会を さあ飛び越えて 1960年へ バックミラーに吸い込まれてく〉(荒井由実COBALT HOUR」作詞、荒井由実、一九七五年)と歌われるバックミラーは、過去に通じる不思議な鏡だ。また、〈真夜中のスコール Back ミラーふいにのぞけば〉と歌う吉川晃司の「モニカ」(作詞、三浦徳子、一九八四年)は、その〈ふいにのぞ〉いたバックミラーに映るのは、彼女が他の男と一緒にいる姿だ。知らなくてもいい真実を映してしまう鏡である。別稿でもふれるが、そもそも鏡というのは不思議な幻影を映し出すマジカルな道具だ。しかもバックミラーというのは背面、つまり本来見えないものを映しているという点で二重にマジカルなのである。

 一見、詩的ではないものでも、歌詞に取り入れられることで意外とイメージ喚起力を持っていることがわかるものがある。例えばボンネットがそうだ。〈最後の春に見た夕陽は うろこ雲照らしながら ボンネットに消えてった〉(松任谷由実「リフレインが叫んでる」作詞、松任谷由実、一九八八年)。このボンネットは、ワックスをかけてよく磨き上げられて鏡面のようになっているのだろう。ボンネットは他にも、その上に腰掛けたり飛び乗ったりする。あるいは〈ボンネットに弾ける雨に包まれて〉(浜田省吾「A LONG GOOD-BYE」作詞、浜田省吾、一九九九年)のように、雨の存在を音で表現するものとして見出されている。これは先に引用した「モニカ」でも〈ボンネットには雨の音〉と歌われている。ボンネットはエンジンルームの蓋にすぎないが、普段注目しないそういうところに作詞者は目を向けて、ちょっと変わった着眼点で日常を提示しようとするのである。

 

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 ところで、これまで引用してきた歌詞を読み直してもらってもわかるが、実は歌詞にクルマが出てくる歌は、同時に雨の歌でもある割合が大きいのである。雨降りの中、クルマに乗っているのだ。雨は困難な状況の象徴であったり、あるいはいつもとは違う感情の代理表現であったりする。演歌では雨が好まれるが、同時に雨をさえぎる傘の出現率も高くなる。演歌にはクルマは出てこないが、クルマは演歌における傘の代わりになっているのである。雨とクルマの組み合わせでは次の歌が激しい。〈ドライバーズ・シートまで 横殴りの雨/ワイパーきかない 夜のハリケーン〉(中村あゆみ翼の折れたエンジェル」作詞、高橋研一、一九八五年)これはもう雨というより嵐である。いくら強い風雨であろうと、鋼鉄のクルマの中では安心だが、このクルマはオープンカーなのかシートもずぶ濡れだ。

 

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 クルマは、船や列車と比べたら歴史が浅い。一九六〇年代のモータリゼーションの時代まで、クルマは庶民には高嶺の花だった。当然、クルマを運転するという歌も稀である。フランク永井の「夜霧の第二国道」(作詞、宮川哲夫)は一九五七年(昭和三二年)の歌で、庶民の間にはまだ自家用車は広まっていない。乗用車の保有台数は現在約六千万台を超えているが、当時は五〇万台に満たなかった。この歌はクルマが出てくる歌としては極めて初期のものであるのに、その内容は〈バック・ミラーに あの娘の顔が浮かぶ〉とか、〈ヘッド・ライトの光の中に つづくはてない ああ第二国道〉といった映像的なもので、これは先にも述べた提喩的な歌詞であり、歌詞におけるクルマの扱い方としては先進的である。だが、よく読むと、〈闇を見つめて ハンドル切れば/サイン・ボードの 灯りも暗い〉などとあって、これはむしろクルマを運転するというのが珍しい体験だったので、それを歌に書き起こしたのではないかということが推測される。夜霧の道なのでなおさら慎重な運転が必要になり、運転することに目が向けられる。ちなみに〈バック・ミラーに あの娘の顔が浮かぶ〉とあるのは、別れた〈あの娘〉の〈顔が浮かぶ〉ということであり、先に述べたバックミラーのマジカルさを歌っている。しかも夜霧の国道なので何やら不思議なことも起こりそうである。
 クルマを主題にした歌(クルマが歌詞全体の内容に深く関わっているもの)はたくさんあるが、その少なくないものはクルマを走らせることで過去の思い出を振り切ろうとしたり(「夜霧の第二国道」からしてそうだった)、あるいは窮屈な都会(=日常)から自由を求めて脱出しようとしたりするように、クルマに乗ることそれ自体よりも、情緒的な問題に対処するための道具として利用されていた。
 そんな中で、荒井由実の「中央フリーウェイ」(作詞、荒井由実、一九七六年)はクルマを走らせることの気持ち良さを、他の何かのためではなくそれ自体の心地良さとして描いている。そこにはハイウェイを疾走して周囲のものが目に入らないという焦燥感はない。〈中央フリーウェイ 右に見える競馬場 左はビール工場〉と、左右に展開する風景をパノラミックに描きながら、〈この道は まるで滑走路 夜空に続く〉と、現実から夢のような幻想へと継ぎ目なく移行していくのである。

 「中央フリーウェイ」では、まだ特別な気持ちよさを提供してくれたクルマは、それから二〇年後の小沢健二カローラIIにのって」(作詞、佐藤雅彦・内野真澄・松平敦子、一九九五年)で、ありきたりな日用品に行き着いた。ここにはマジカルさも特別な思い入れもない、便利で快適な乗り物になっている。大衆車の代名詞であるカローラの名を持ち、ハッチバックのみでさらに実用性を重視ということができる。

字解ソング

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 「抜け始めてわかる 髪は長~い友だち」という脱毛予防薬(カロヤン)のCMがあった(一九七八年)。これで「髪」という漢字を覚えた人も多いだろう。また、漢字の話になるとよく引用される三好達治の「郷愁」という詩には、「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」とある。海は旧字体では「海」、フランス語で海は「mer」(メール)、母は「mère」(メール)。言葉遊びなのだが、どこか本質的なことを言っているように聞こえる詩である。ちなみに、「斧」という字の中に「父」はある。これは語源的にもそうなのだ。

 漢字を分解して再構成してその成り立ちを解釈することによってそこから何かの意味を引き出すという、このたぐいの遊びで最も有名なのは『3年B組金八先生』のそれだろう。武田鉄矢扮する教師が、「人という字は、人と人とが支え合ってできています」と生徒に教える。漢字の俗解である。「人」の字の起源としてこれは間違っている。象形文字としての「人」は、立っている人の姿を側面から見た形で、一画目の前半は頭、後半は手、二画目は胴体と足である(『漢字の字形』落合淳思、中公新書、二〇一九年、p70)。もともと立ち姿であったが、字形が変遷するうちに横倒しになっていった。

 実は歌詞でも、金八先生の教え子たちが健闘している。「人という字は支え合い」ということを語る歌詞は、私が調べただけでも十九曲もあった。そのほとんど演歌である。演歌の字解はどこか説教臭い。

 漢字は象形やあるいは指事文字を組み合わせた会意形声文字が殆どであるが、漢字を分解して楽しむ文字遊びは、会意形声文字を扱ったほうがやりやすい。例えば、百人一首には「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」(文屋康秀)がある。「嵐」という字を分解すれば「山風」だというたわいないものである。先の「髪」は旧字体では「髮」。「髟」と「犮(はつ)」の組み合わせであり、「友」ではない。「髟」は長い毛を意味している。「犮(はつ)」は勢いよく出るといった意味である(諸説ある)。http://gaus.livedoor.biz/archives/23228133.html 「髪は長い友だち」というのは字源としては間違っているが、そんなことは言うほうも承知であろう。ダジャレのように楽しんでいるのである。だからこういうのは神妙に受け取るのではなく、笑うのが正しい受け取り方だ。

 

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 字解ソングは以前からある。よく知られるのは小林旭「ノーチヨサン節」(作詞、西沢爽、一九六〇年)で、一番で〈恋という字は ヤッコラヤノヤ/分析すれば ノーチヨサン/いとしいとしと 言う心言う心〉と歌い、続いて、〈娘という字〉は〈良(い)い女〉、〈桜という字〉は〈二階の女が 気にかかる〉と〈分析〉していく。恋も桜も旧字体の「戀」「櫻」である。二階は二つの貝。都々逸を参考にしている。

 石野真子「春ラ!ラ!ラ!」(作詞、伊藤アキラ、一九八〇年)は〈春という字は 三人の日と書きます〉と歌う。この〈三人〉は誰かというと、あなたと私、そして私の元カレのことで、三人で会ってみたいというのである。いくら春でもはしゃぎすぎだろう。字解が奇想を導いた歌である。

 欽どこわらべのかなえちゃんこと倉沢淳美の「ある愛の詩」(作詞、康珍化、一九八四年)は、〈ロッキー ペーパー・ムーン アメリカン・グラフィティ〉などと映画のタイトルがズラズラ出てくるキテレツな歌だが、その中に〈愛っていう字 てのひらに書いた/恋という字に ちょっと似ているけど/愛は心が 奥にかくれてる〉とか〈涙という字 どこかさびしいね/水に戻ると 書いて涙になる〉と字解している。

 それをもう少し対比的に並べてみせたのが、サザンオールスターズ「SEA SIDE WOMAN BLUES」(作詞、桑田佳祐、一九九七年)で、〈“愛”という字は真心(まごころ)で “恋”という字にゃ下心(したごころ)〉と歌っている。昭和っぽさが好きな桑田らしい。この歌に影響されたのか、このあと、「愛」や「恋」の字をネタにした歌はいくつか生まれることになる。

 美空ひばりの「人」(作詞、阿久悠、一九八九年)も字解ソングである。(初出、アルバム『不死鳥』1989年、シングル・カットした「花蕾」にも収録)人と夢が寄りそって「儚い」、人が憂いを抱いて「優しい」、人と言葉を合せたら「信」。

 風男塾の「人生わははっ!」(作詞、はなわ、二〇一三年)も字解づくしである。〈「心」を「受け」止めれば「愛」という文字になる〉という。他にも、「幸せ」は「辛い」とひと筆違うとか、「明日」を信じて「明るい日」は必ずやって来るとか、「有難う」は「難が有る」、「叶える」は 十の口なのでみんなで語りあおう、「花」は「草」が「化けて」あざやかに咲き乱れる、「儚い」は「夢」を追いかける「人」、「歩く」は「止まり」ながらでも「少し」ずつ進むと歌われる。これだけ盛り込むのも珍しい。

 美空ひばり風男塾の歌に共通しているのが「儚い」。漢字はたくさんあるが、字解のための選択には好まれる漢字がある。先の「人」や「愛」。そして「儚い」も人気がある。私が調べただけでも八曲ほどがすぐ見つかった。

 

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 ここで字解ソングを分類しておこう。

 一つめは、「分解・合成型」である。漢字を分解して、その隠された意味を探るものである。これは一字のものと二字にわたるものとがある。一字のものは、「戀」という字は「糸し糸しと言う心」タイプである。漢字一字をパーツに分解している。いくつか例をあげよう。〈愛という字をよく見てごらん 心を受けると書いてある〉(愛本健二「こころ詩」)、〈忍ぶという字は 難しい 心に刃を乗せるのね〉(すぎもとまさと「忍冬」)、〈涙という字の右側に 戻るという字が隠れてる〉(山内惠介「スポットライト」)、〈「十月十日(とつきとおか)」で人は生まれ(中略)「十月十日(とつきとおか)」と書いてすなわち ほら「朝」が来る度生まれ変われる〉(ALvino「Alarm of Life」)、〈人の為と書いて偽と読む〉(KANA-BOON「アナートマン」)。ユニークなのは、〈幼いという文字の斜めの一筆ためらい傷のように隠せば幻〉(林部智史「恋衣」)。これは漢字をよくよく思い浮かべないと理解しにくい。〈ためらい傷〉という言い方が面白い。

 二字にわたるもので有名なのは、アン真理子「悲しみは駆け足でやって来る」(作詞、アン真理子、一九六九年)である。この歌では〈明日という字は 明るい日とかくのね〉と歌われる。「明日」というのは夜が明けるということだが、これをあえて「明るい日」と誤読している。漢字二字を一字ずつに分解している。このタイプは例が少ない。他には〈夢の中と書いて夢中と読む〉(JUJU「Roll the Dice」)、〈どうして大切という字は大きく切ないのかな〉(THE YELLOW MONKEY「淡い心だって言ってたよ」)、〈情けないくらいに熱いと書いて「情熱」〉(Sonar Pocket「つぼみ」)などがある。

 分解・合成されるのは漢字だけではない。先に三好達治の「仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」という詩を紹介しておいたが、漢字だけでなく、平仮名やアルファベットも分解される。〈「あいまい」という文字の中には「あい」という文字も含まれる〉(ポルノグラフィティ「曖昧なひとたち」)、〈”FRIENDS”という字の中に"END"が「複数」になっている〉〈”FORGET"という字が"FOR"と"GET"で「得るため」になっている〉(Seventh Tarz Armstrong「good bye,my good fellows!! ~Life Time~」。人は文字を見ているうちにいろいろ連想がはたらくようだ。あるいはネタ切れで歌詞を展開するヒントを、書きつつある文字に求めたのか。

 

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 二つめは、「類想型」である。「幸せ」は「辛い」と一画違うといったように、意味が違う漢字に、見た目の類似性を見出すものである。一画違うだけで意味が正反対になる「幸-辛」は、両者には決定的な違いはなく、たやすく反転しあうことを説くときに用いられる。これらの文字の類似を歌うものは、他に、〈“辛”いという字に フタして“幸”せだって うたいながら〉(コアラモード「雨のち晴れのちスマイリー」)、〈幸せという字は辛いという字じゃない〉(フラワーカンパニーズ「はぐれ者讃歌」)などがある。

 アグネス・チャンの「幸せという字」(二〇一五年)は、タイトルどおり「幸せという字」から連想を広げていったものだが、そこでは〈幸せという字は 辛いという字 隠してる〉と歌われ、もう一つの見方、〈幸せという字は 逆さにしても幸せ〉が示される。と歌われる。「幸」という字は、図形としてみると、左右、上下ともに線対称であり、対称軸が二つある。〈逆さにしても〉というのは、点対称として見た言い方で、漢字を図形にまで抽象化している。スキマスイッチ「さよならエスケープ」(二〇一七年)も似たようなものの見方を提示している。〈「幸」という文字に 上も下もないけれど/いつも一筆足りない僕は 「辛」に変わってしまう〉。「幸」という文字には上下だけでなく、右も左もないと言うべきだろう。

 「類想型」の例は少ないが、最も有名なのは、〈若いという字は 苦しい字に似てるわ〉と歌うアン真理子「悲しみは駆け足でやって来る」である。これは先にも引用した。たしかに、どこか似ている。漢字が似ているうえに、意味もつながっているように思えてくる。たまたま漢字が似ているからといって、そこに過剰な意味のつながりを見出すのは漢字を用いた精神分析みたいなものである。意表を突く例としてこんなのがあった。〈裸という字は神様の神という字にちょっと似てる 〉(TRA「裸になったら誰でも同じ」)

 違う漢字がなぜ似ているように見えるのか。それは人間のパターン認識が関わっている。漢字に限らず、図形というのは、まずその周辺(シルエット)によって形を認識し、ついでその内部の識別に及ぶという順番になる。漢字はだいたい四角形の枠におさまる形をしているが、その枠の上下左右、四つの辺に、分類に役立つ情報が集中している。印刷された文字がつぶれて細部が判明できなくなっても、そのシルエットがわかれば何という字か見当がつく。また、漢字は縦横の線が基本でできているが、その密集度による複雑性の大小でも文字を分類できる。「曇」は横線が多く、「剛」は縦線が多い。そして、この二つ(四辺情報と複雑性)を組み合わせれば、何という漢字かが絞り込めてくる。逆に言えば、この二つの要素が近いと、間違えやすくなる。例えば、「任」と「住」、「妻」と「毒」は見間違えやすい。だがたいていの場合、漢字は一字で存在せず文の中で用いられるから、与えられた文脈から予測され、見間違いはかなり軽減される。漢字単独だと、視力が悪かったり、あるいは漢字に親しみのない外国人には判断が難しいだろう。以上はOCR(光学式文字読取装置)の認識原理を参考に述べたが、人間の認識方法も似たようなものである。(「パターン認識としての漢字の識別」http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.23_06_350.pdf#search=%27漢字の認識%27)

 

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 これまで述べてきた「類想型」は、漢字で漢字を解釈する「漢字-漢字」タイプであったが、漢字をその読み方により解釈する「漢字-読み仮名」タイプもある。「漢字-読み仮名」タイプには、歌詞にルビを振る「ルビ型」と、歌の中で読み方を示す「提示型」とがある。

 

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 まず、「ルビ型」から見ていこう。ルビというのは漢字の横(横書きの場合は漢字の上)につけられた小さな仮名のことである。難読字や複数の読みがある場合や、書き手が本来の読み方とはズラした読みをさせたい場合などに振られる。欧米では活字の大きさに宝石の愛称をつけており、小さい方から、ダイヤモンド、パール、ルビーなどと称していた。振仮名の大きさがこのルビーに近かったため、ルビと呼ばれるようになった(欧文では五・五ポイント、和文では五・二五ポイント。日本独自の号数表記だと七号)。

 『振仮名の歴史』(集英社新書、二〇〇九年)を書いた今野真二(日本語学)は、振仮名には「読みとしての振仮名」と「表現としての振仮名」があると言う。「読みとしての振仮名」は「少時(しばらく)」のように単に漢字の音・訓を示したもので、p192「表現としての振仮名」は「瞬間」に「とき」、「永遠」に「とわ」という読みをあてるように、わざわざ違う読みをさせるもので、「漢字をめぐって、複線的な表現をつくりあげようという意志が働いていると思われる」ものである。p34本稿では「表現としての振仮名」について述べていく。(本稿では「複線的」ではなく、複層的、二層的と言うことにする。)

 歌の場合は、歌を聞いただけではルビ付きかどうかはわからない。歌詞カードやあるいは歌詞テロップなどを見ないとわからない。歌詞にルビがついていなくても、歌詞の表記どおりに歌っていなければ、ルビと同じことである。歌詞におけるルビの存在は、歌詞が文字として表現されたい意向をもつものであることを意味している。もし歌ったとおりの音が全てならば歌詞にルビは必要ない。

 ルビ付きの歌は例えば、「女(ひと)」「都会(まち)」「未来(あす)」「宇宙(そら)」「瞬間(とき)」など、常套的なものがある。「女」と書いて「おんな」と読むのは生々しい感じがするので「ひと」と読むこともあるだろうし、譜割の都合でそうすることもあるだろう。ただ、譜割の都合というだけなら、歌詞の漢字も「人」にすればよいのに、「女」とするのは、文字としてそう表現したいからである。「女」と書いて「ひと」と読ませるような場合は、直示できない人妻との不倫のような隠された雰囲気をかもしだす。俳句の入門書などを読んでいると、「太陽」と書いて「ひ」と読ませるようなルビは安易だからやめろと書いてあるが、歌詞はそこまでストイックに言葉を磨くことに徹していない。短い文字数でいい切らねばならぬ俳句では、別の意味を付加できるルビは便利なはずだが、お勧めされないようだ。

 桑田佳祐の歌詞には〈愛しいひと〉という言葉がよく出てくる。サザンオールスターズやソロの歌では二三曲あった。そのうち〈愛しい人〉という表記が十三曲、〈愛しい女性〉と書いて〈女性〉を〈ひと〉と読んでいるものが一〇曲あった。例えば、「TSUNAMI」では、〈身も心も愛しい女性しか見えない〉という歌詞の〈女性〉の部分を、実際は〈ひと〉と歌っている。この歌では他にも、〈幻影〉を〈かげ〉、〈瞬間〉を〈とき〉と歌っている。

 ルビの付け方は一九九〇年代に既にいじりつくされていた。TWO-MIX「BEAT OF DESTINY」(作詞、永野椎菜、一九九八年)あたりがそのピークではないか。trfを思わせるこの歌は、〈奇跡的瞬間(めぐりあうぐうぜん)は自発的結実(アクティブなひつぜん)〉とか〈幼い日(あのひ)の虹色(にじ)の宝石(きおく)〉〈人は皆 旅人(キャラバン)/虚無的現実感(しんきろう)つらぬいて駆け抜けよう〉などと、かなりユニークかつポエミーな読み方をしていた。わざわざ読み方と違う漢字をあてる必要があるのか疑問だが、二層構造にすることで不思議さを生んでいたのだろう。作詞者は漢字にかなり思い入れがあるのかもしれない。昨今のキラキラネームみたいである。

 チョコレートプラネットというお笑いコンビがいる。そのコントのカラオケネタに歌のルビを笑いのめしたものがある(『キングオブコント2014』TBS)。「ピエロンリー」という架空の懐メロを歌うという設定で、カラオケのテロップには、〈右側〉という漢字に〈君の横顔〉とルビが振られ、〈山手通り〉は〈いつもの帰り道〉になり、〈女〉一文字に対して〈ロンリー一人でも生きていける〉と長いルビが振られ、〈男〉一文字には〈ロンリー一人では生きていけない〉とエスカレートしていく。〈女〉を〈愛しい天使はもういない〉、〈男〉を〈僕はピエロなんだ〉と続いてゆく。漢字一文字にどれだけ思いをこめるのか。歌詞の本体は〈男 女 男 女〉と短いのに、歌は普通の長さになっている。このネタはその後、九城伸明名義で歌として配信されている。

 

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 これまで、歌詞にルビを振る「ルビ型」を見てきたが、次に、歌の中で読み方を示す「提示型」を見てみよう。「ルビ型」を隠喩とすれば、「提示型」は直喩である。隠喩は比喩であることを明示しないが、直喩は「~のようだ」と比喩であることを言葉で示している。「ルビ型」は書かれた歌詞を見ないとそれとわからないが、「提示型」は耳から入る歌だけでそれとわかるものをいう。例えば、〈ルビをふったらジェラシー〉という山口百恵の「愛の嵐」がそうだ。何のルビかというと、〈炎〉〈狂う〉のルビなのである。他の例をあげると、〈二人は些細な言葉に ルビふる〉(倉木麻衣「想いの先に…」作詞、倉木麻衣)なんてのは、ルビの複層性が裏にある気持ち示唆していて面白い。〈人の幸せのルビは みんなそれぞれ違うもの〉(Do As Infinity「もう一人の僕へ」)も、ルビの恣意性に比喩的に捉えている。

 読み方のパターンでよくあるのが「本気と書いてマジと読む」という歌詞。これは十一曲あった。『本気!(マジ)』というヤクザマンガが一九八〇年代の後半から一〇年ほど連載されていたので、その影響だろう。

 比喩のつながりを言葉ではっきり示す直喩というのは、意外性のあるものどうしを結びつけて比喩にすることができる。同じように「提示型」も、普段は思いつかない奇抜な読み方を提示するときに本領を発揮する。あたりまえの読み方ばかりでは面白くない。〈「働く」と書いて「戦う」〉(DOTAMA「リストラクション」)、〈苦を抜く木と書いて くぬぎ〉(すぎもとまさと「くぬぎ」)。強引な読み方をさせることも可能である。〈無敵と書いて俺たち氣志團と読むんだぜ〉(氣志團「ツッパリHigh School Musical(登場編)」)などがそうである。こうなるとだんだんお遊びになっていく。

 極端なのは、反対の意味を持つ言葉で解釈するものだ。いくつか例を並べよう。〈苦労という字を幸福と読み〉(三笠優子「夫婦橋」)、〈「護る」と書いて「殺す」と読んだ〉(TarO&JirO「Piranha」)、〈失敗と書いて、成長と読む〉(ベリーグッドマン「ハイライト」)、〈灯りと書いて暗闇と読み 表と書いて裏と読む〉(チャットモンチー「拳銃」)。これら反対の読みをする場合は、パラドックスのような真理を隠していると書き手は考えているということだろう。

 

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 字解ソングにはお遊びもあるが、ほとんどが真面目に人生を語るものが多い。中には漢字をネタに説教くさくなってしまうものも少なくない。漢字という中国年前年の歴史にあるものには真実が宿っているということだろう。権威による説明だ。漢字はいくつかの字が組み合わさってできているものがほとんだ。だから、分解して解釈する誘惑にたえずかられる。だが歌で示される解釈は字源的にはどこかおかしい。言っている本人もそれは承知の言葉遊びだろう。自分が言いたいことのために漢字を利用しているに過ぎない。いいこと(気の利いたこと)を言っているのだから、学問的厳密さはどうのかとか、固苦しいことは言うなという感じである。パズルのように分解合成していき、中にはよくわからなくなってしまうものもある。だから何?と言いたくなるものもある。「幸」という字はひっくり返しても「幸」。だから何?と思う。

 字解で感心するのは中学生までだろう。それを過ぎると鼻で笑われることもよくある。しかし年をとると再び、漢字の分解という単純な中に真理を見出してしまうようになるので不思議である。それは殆ど占いである。

 

オノマトペソング

1 「子連れ狼
 日本語では擬音語、擬態語などというところを総称してオノマトペと言う。歌に出てくるオノマトペでユニークなのは、なんといっても橋幸夫の「子連れ狼」(作詞、小池一雄、一九七一年)であろう。作詞者が劇画の原作者だからだろうか、オノマトペの発想が図抜けている。
子連れ狼」は、刺客となった拝一刀(おがみいっとう)と、その幼い息子大五郎が旅をする話で、拝は生死をかけた斬り合いをしているので、大五郎はいつ孤児になってしまうかもわからない。歌は、一週間たっても戻ってこない父を荒屋で待つ大五郎の不安を描いている。
〈しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん しとぴっちゃん〉というのは雨が降る様子である。雨は物にあたって音を発する。「ザァザァ」といえば勢いのある雨、「パラパラ」は振り始めで大きめの雨粒がいくつか落ちてきた感じであろう。では、この歌にある〈しとしと〉はどうかというと、絹のような細かい雨が間断なく静かに降っている様子である。〈しとしと〉は〈しと〉を重ねている。〈しと〉を語感とする語に「しとやか」があるように、〈しと〉には荒々しさはない。
〈しとしと〉は擬音語なのか擬態語なのか。静かに降る雨でも、地上で物にあたるとかすかな音をたてる、それが総合されて〈しとしと〉と聞こえそうな気がする。似ている語に「したした」がある。これは人が静かに歩く音である。ちなみに我が家で飼っている猫が畳の上を歩くときはまさに「したした」という音がする。これは肉球がわずかに湿っているところからくる音であろう。さて、では〈しとしと〉は擬音語であって擬態語ではないのかというと、そうとも言えない。漫画では静かな様子を表すときに「しーん」というオノマトペを使うが、音がしないはずなのに「しーん」と書かれていると静かな感じがする。この「し」という音はそれだけで静かな様子を表すのに向いているのだ。口の前に人差し指を立てて「しーっ」と言うのも同じだ。それでいくと〈しとしと〉は擬態語的な側面も持ち合わせていると思われる。窓の外で雨が音もなく降っていてもそれは〈しとしと〉降っていると表現したくなる。
 歌詞には、〈哀しく冷たい 雨すだれ〉とある。簾(すだれ)越しの雨という用例はあるが、〈雨すだれ〉とは聞き慣れない。造語であろうか。雨が簾(すだれ)のように降っているということであろう。簾は細い竹や葦(よし)などを編んだもので、横にして掛けるものと縦に編んで立てかけるもの(葦簀(よしず))がある。〈雨すだれ〉は、雨が葦簀のように降っているということであろう。この場合、雨は地上にほぼ垂直に降っている。風が吹いて雨が斜めになびいているというわけではない。ただ、静かに〈しとしと〉とまっすぐ降っているのである。
〈しとしとぴっちゃん〉の〈ぴっちゃん〉は雨が降ってできた水たまりに弾けたところである。雨だれの音だ。『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社、二〇〇三年)では、「ぴちゃん」について「水が軽く平らな物に当たってたてる音」と解説されている。繰り返される〈ぴっちゃん〉は、〈父(ちゃん)の仕事は 刺客(しかく)ぞな〉の〈ちゃん〉と呼応している。また、雨が降ってきて下のほうで弾ける音であるから、目や耳の位置が低い。これは幼い息子の感覚器に近い位置での捉え方だ。〈ぴっちゃん〉という言い方にも幼さがある。
 二番の歌詞に出てくる〈ひょうひょうしゅるるひょうしゅるる ひょうしゅるる〉というのは寒い北風の音である。風の擬音語として最も一般的なのは「ひゅうひゅう」「ぴゅうぴゅう」であろう。唱歌の「たきび」では北風は〈ぴいぷう〉吹いている。〈ひょうひょう〉は「ひゅうひゅう」よりも低音がきいた風の吹き方だ。マンガでは吹雪が「ヒョォォォ」という擬音語で書かれることがある。面白いのは〈しゅるる〉だ。「ひゅるる」ではない。関東方言では「ひ」と「し」が入れ替わることがあるが、作詞した小池一雄秋田県の出身だ。劇画原作を書くために江戸時代の文献を読んで〈しゅるる〉に親しんだのかもしれない。歌では「ひゅるる」に聞こえる。森昌子の「越冬つばめ」(作詞、石原信一、一九八三年)のサビは印象的で、〈ヒュルリ ヒュルリララ〉と歌う。これをツバメの鳴き声だという人もいるが、ツバメは「チュピチュピ」といった感じのさえずりである。歌詞には〈吹雪に打たれりゃ寒かろに〉とあるので、これは吹雪の音であろう。
子連れ狼」に話を戻すと、三番の歌詞で〈ぱきぱきぴきんこぱきぴんこ ぱきぴんこ〉とにぎやかな音がでてくる。これは霜柱を〈ぱきぱき〉と踏む音だ。大五郎が父を探しに霜柱を踏んで外に出たのである。〈ぴきんこ〉は不明である。強いて言えば「ぴん」と張り詰めた感じであろうか。明るい響きの音の連なりで、大五郎の耳が捉えた幼児的な雰囲気は出ている。歌詞には〈別れ霜〉と出てくる。〈別れ霜〉というのは、一般的には、春も暖かくなってきて霜が降りるのもこれで終わりという頃の霜のことである。だが、この歌では、〈雨風凍って 別れ霜/霜踏む足が かじかんで〉とあるから、もっと厳冬の頃のようだ。造語ではないが、独自の使い方である。父と子の別れという意味を掛けているのであろう。
〈しとしとぴっちゃん〉も〈ひょうひょうしゅるる〉も〈ぱきぱきぴきんこ〉もいずれも自然との関わりの中で耳にする音だ。冷たい風は大五郎の〈こけし頭〉をなでていくし、外に出た大五郎の足元には霜柱がある。幼い大五郎は、一人で厳しい自然に取り囲まれていることがオノマトペが示している。人とのつながりは父のみである。その父も帰ってくるかわからない。大五郎はなんの媒介もなしに自然に接触している。
 歌詞の他の部分に目をやると、一番では〈この子も雨ン中 骨になる〉、二番では〈この子も風ン中 土になる〉、三番では〈この子も霜ン中 こごえ死ぬ〉となっている。骨になって土になるのは時間の経過を表している。私は初めてこの歌を聞いたとき、この部分が印象的だったのを覚えている。それが三番では〈こごえ死ぬ〉と戻ってしまう。あれ、死んで土に還ったはずなのにと、この部分は歌詞を詰め足らない残念さを感じた。三番の歌詞は父を探しに外に出たところなので、ここは希望を歌ってもいいかもしれない。父とは会えなくても、自分一人で(といっても当面は他の人に養ってもらって)生きていくのだ。だからここは、私なら「この子も霜ン中 大人(ひと)になる」とするだろう。大五郎が大人になるには霜を踏むような試練が待っているが、それでも生きていくということである。漫画の『子連れ狼』では最後、拝一刀は死んでしまうが、続編では大人になった大五郎が活躍するそうであるから、あながち間違いではないだろう。

2 「与作」
 演歌にはよくオノマトペが使われる、それは演歌は民謡の流れを汲んでいるからだろう。民謡は民衆が歌う労働歌などがもとになっているので、オノマトペをよく使うことになる。オノマトペが印象的な演歌といえば大ヒットした北島三郎「与作」であろう。〈ヘイヘイホー〉〈トントントン〉〈ホーホー〉が使われている。これらは何を表しているのか。まず〈トントントン〉であるが、これは女房が機(はた)を織ったり、藁を打つ音とされる。機織機や槌で藁を打つ擬音語と考えられる。〈ホーホー〉は遠くにいる人を呼ぶ呼び声であろうが、オーソドックスな用法では夜の暗闇に聞こえるフクロウの鳴き声であるから、夜の闇に包まれた山間の村を叙景しているようにも思える。問題は〈ヘイヘイホー〉である。〈与作は木をきる ヘイヘイホー〉とあるが、伐木のさいの掛け声ということであろうか。それにしては間延びしている。木を切るには、オノやノコギリを使うが、いずれの場合でも〈ヘイヘイホー〉では合図にも掛け声にもならない。作詞作曲の七澤公典はジャズギタリストで渡米経験もあるようなので、どこか欧米風の「ヘイ」である。とはいえ、〈ヘイヘイホー〉からはどんな状態も想像できず、擬態語とも思えない。また、藁葺き屋根に星屑が降るときにも〈ヘイヘイホー〉と歌われる。こちらは一層不可解である。そもそも星屑は降るものであろうか。星が降るというのはわかるが、星屑というのは、夜空に散らばる無数の星のことであるから、星屑の中を一つの星が流れることを言うのならわかるが、星屑じたいが降ることはない。あるいは流星群のように無数の星が降るということであろうか。〈ホー〉の部分が、星の尾を引くところと考えれば、擬態語ということもありえる。それはともかく、〈ヘイヘイホー〉は擬音語でも擬態語でもなく、これはいわばBGMのようなものなのではないか。与作や女房が暮らす民話のようなのどかな世界を音楽で表現したとして、それをボイスパーカッションのように口の発音に置き換えたようにも思える。

3 アニメ・特撮
 アニメや特撮の主題歌でもオノマトペがよく使われる。『鉄人28号』や『超人バロム・1』はそれが徹底している。『鉄人28号』はアニメで何度もリメイクされているが、その第一作の主題歌は作詞・作曲が三木鶏郎で、〈ビルのまちに ガオー〉と始まり〈ビューンと飛んでく 鉄人28号〉と終わる、擬音語が主役となっている歌である。
 擬音語だらけなのは、『超人バロム・1』の主題歌「ぼくらのバロム・1」(作詞、八手三郎、一九七二年)のほうが勝っている。〈マッハロッドで ブロロロロー〉と始まる擬音語づくしである。漫才の松本人志はこの歌の〈バロローム〉という箇所に感動したと言っている。歌詞としては無内容だが、歌として盛り上がる部分である。バロムというのはバロメーターのことで、二人が腕を組んで変身するのだが、友情のバロメーターが一定の量に達しないと変身できないのである。
 二つの歌のオノマトペに共通しているのは、それがマンガ的だということである。『鉄人28号』も『超人バロム・1』ももとはマンガが原作である。『鉄人28号』の〈ダダダダ ダーンと たまがくる〉とか〈ババババ バーンと はれつする〉〈ビューンと 飛んでく〉などはマンガのコマに書き込まれた文字と同じである。『超人バロム・1』の〈マッハロットで ブロロロロー〉とか〈やっつけるんだ ズババババーン〉とかもそうである。『北斗の拳』以降顕著になり、『ジョジョの奇妙な冒険』で拍車がかかり、マンガは今でこそユニークなオノマトペをきそっているが、古いマンガの擬音語は決まりきった記号であった。ピストルは「ダーン!」と発射され、火薬が爆発するときは「バーン!」、空を飛ぶ時は「ビューン」である。クルマは「ブロロロー」と走り去り、相手を殴る時は「ズバーン!」だった。オノマトペはマンガの雰囲気をそのまま伝える。だが、マンガのオノマトペは現実とはズレがあるから、それを口にすることは、マンガを実写化したような強引な感じがあった。

4 童謡
 オノマトペがよく出てくるのは童謡もそうである。アニメ・特撮も子ども向けだが、子ども向けの歌にはオノマトペが多い。例えば「おもちゃのマーチ」だと〈やっとこやっとこ くりだした〉、「たなばたさま」は〈ささの葉さらさら〉、「どんぐりころころ」は〈どんぐりころころ どんぶりこ〉ときりがない。童謡の歌のところでふれた「夕日」は〈ぎんぎんぎらぎら〉という擬態語が繰り返されるが、これは小学生のときお遊戯で踊らされて汚い擬態語のせいで嫌いになった。〈ぎんぎん〉の基本的な意味は、音がやかましいということである。『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社、二〇〇三年)では、第一の意味として、虫や動物がやかましく鳴く様子をあげている。〈ぎらぎら〉の方も、強すぎる光や不快に感じる光をいう場合が多いと解説する。〈ぎんぎん〉も〈ぎらぎら〉もあまりいい意味では使われないのである。その二つを重ねるのだから嫌な気持ちになって当然である。
 近藤真彦に「ギンギラギンにさりげなく」というヒット曲があり、キンキラキンでは軽いし派手すぎて〈さりげなく〉できそうにないが、〈ギンギラギン〉なら渋い。童謡の「夕日」は〈ぎんぎんぎらぎら〉だったが、それとは微妙に違う。「夕日」は〈ぎんぎん〉+〈ぎらぎら〉だが、「ギンギラギンにさりげなく」のほうは〈ギン、ギン〉+〈ギラ〉で〈ギラ〉が一回である。この違いは大きい。先の辞典では、「ぎんぎらぎん」について「「ぎらぎら」よりさらに強くどぎつい感じ」と述べるが(p109)、〈ぎんぎんぎらぎら〉と比べると、〈ギンギン〉のあいだに〈ギラ〉を入れることで〈ギン〉の連打が分断され不快感が緩和されている。
 近藤真彦といえば田原俊彦を連想するが、こちらにも「ハッとして! Good」という曲がある。機会があれば取り上げたい。