Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

字解ソング

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 「抜け始めてわかる 髪は長~い友だち」という脱毛予防薬(カロヤン)のCMがあった(一九七八年)。これで「髪」という漢字を覚えた人も多いだろう。また、漢字の話になるとよく引用される三好達治の「郷愁」という詩には、「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」とある。海は旧字体では「海」、フランス語で海は「mer」(メール)、母は「mère」(メール)。言葉遊びなのだが、どこか本質的なことを言っているように聞こえる詩である。ちなみに、「斧」という字の中に「父」はある。これは語源的にもそうなのだ。

 漢字を分解して再構成してその成り立ちを解釈することによってそこから何かの意味を引き出すという、このたぐいの遊びで最も有名なのは『3年B組金八先生』のそれだろう。武田鉄矢扮する教師が、「人という字は、人と人とが支え合ってできています」と生徒に教える。漢字の俗解である。「人」の字の起源としてこれは間違っている。象形文字としての「人」は、立っている人の姿を側面から見た形で、一画目の前半は頭、後半は手、二画目は胴体と足である(『漢字の字形』落合淳思、中公新書、二〇一九年、p70)。もともと立ち姿であったが、字形が変遷するうちに横倒しになっていった。

 実は歌詞でも、金八先生の教え子たちが健闘している。「人という字は支え合い」ということを語る歌詞は、私が調べただけでも十九曲もあった。そのほとんど演歌である。演歌の字解はどこか説教臭い。

 漢字は象形やあるいは指事文字を組み合わせた会意形声文字が殆どであるが、漢字を分解して楽しむ文字遊びは、会意形声文字を扱ったほうがやりやすい。例えば、百人一首には「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ」(文屋康秀)がある。「嵐」という字を分解すれば「山風」だというたわいないものである。先の「髪」は旧字体では「髮」。「髟」と「犮(はつ)」の組み合わせであり、「友」ではない。「髟」は長い毛を意味している。「犮(はつ)」は勢いよく出るといった意味である(諸説ある)。http://gaus.livedoor.biz/archives/23228133.html 「髪は長い友だち」というのは字源としては間違っているが、そんなことは言うほうも承知であろう。ダジャレのように楽しんでいるのである。だからこういうのは神妙に受け取るのではなく、笑うのが正しい受け取り方だ。

 

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 字解ソングは以前からある。よく知られるのは小林旭「ノーチヨサン節」(作詞、西沢爽、一九六〇年)で、一番で〈恋という字は ヤッコラヤノヤ/分析すれば ノーチヨサン/いとしいとしと 言う心言う心〉と歌い、続いて、〈娘という字〉は〈良(い)い女〉、〈桜という字〉は〈二階の女が 気にかかる〉と〈分析〉していく。恋も桜も旧字体の「戀」「櫻」である。二階は二つの貝。都々逸を参考にしている。

 石野真子「春ラ!ラ!ラ!」(作詞、伊藤アキラ、一九八〇年)は〈春という字は 三人の日と書きます〉と歌う。この〈三人〉は誰かというと、あなたと私、そして私の元カレのことで、三人で会ってみたいというのである。いくら春でもはしゃぎすぎだろう。字解が奇想を導いた歌である。

 欽どこわらべのかなえちゃんこと倉沢淳美の「ある愛の詩」(作詞、康珍化、一九八四年)は、〈ロッキー ペーパー・ムーン アメリカン・グラフィティ〉などと映画のタイトルがズラズラ出てくるキテレツな歌だが、その中に〈愛っていう字 てのひらに書いた/恋という字に ちょっと似ているけど/愛は心が 奥にかくれてる〉とか〈涙という字 どこかさびしいね/水に戻ると 書いて涙になる〉と字解している。

 それをもう少し対比的に並べてみせたのが、サザンオールスターズ「SEA SIDE WOMAN BLUES」(作詞、桑田佳祐、一九九七年)で、〈“愛”という字は真心(まごころ)で “恋”という字にゃ下心(したごころ)〉と歌っている。昭和っぽさが好きな桑田らしい。この歌に影響されたのか、このあと、「愛」や「恋」の字をネタにした歌はいくつか生まれることになる。

 美空ひばりの「人」(作詞、阿久悠、一九八九年)も字解ソングである。(初出、アルバム『不死鳥』1989年、シングル・カットした「花蕾」にも収録)人と夢が寄りそって「儚い」、人が憂いを抱いて「優しい」、人と言葉を合せたら「信」。

 風男塾の「人生わははっ!」(作詞、はなわ、二〇一三年)も字解づくしである。〈「心」を「受け」止めれば「愛」という文字になる〉という。他にも、「幸せ」は「辛い」とひと筆違うとか、「明日」を信じて「明るい日」は必ずやって来るとか、「有難う」は「難が有る」、「叶える」は 十の口なのでみんなで語りあおう、「花」は「草」が「化けて」あざやかに咲き乱れる、「儚い」は「夢」を追いかける「人」、「歩く」は「止まり」ながらでも「少し」ずつ進むと歌われる。これだけ盛り込むのも珍しい。

 美空ひばり風男塾の歌に共通しているのが「儚い」。漢字はたくさんあるが、字解のための選択には好まれる漢字がある。先の「人」や「愛」。そして「儚い」も人気がある。私が調べただけでも八曲ほどがすぐ見つかった。

 

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 ここで字解ソングを分類しておこう。

 一つめは、「分解・合成型」である。漢字を分解して、その隠された意味を探るものである。これは一字のものと二字にわたるものとがある。一字のものは、「戀」という字は「糸し糸しと言う心」タイプである。漢字一字をパーツに分解している。いくつか例をあげよう。〈愛という字をよく見てごらん 心を受けると書いてある〉(愛本健二「こころ詩」)、〈忍ぶという字は 難しい 心に刃を乗せるのね〉(すぎもとまさと「忍冬」)、〈涙という字の右側に 戻るという字が隠れてる〉(山内惠介「スポットライト」)、〈「十月十日(とつきとおか)」で人は生まれ(中略)「十月十日(とつきとおか)」と書いてすなわち ほら「朝」が来る度生まれ変われる〉(ALvino「Alarm of Life」)、〈人の為と書いて偽と読む〉(KANA-BOON「アナートマン」)。ユニークなのは、〈幼いという文字の斜めの一筆ためらい傷のように隠せば幻〉(林部智史「恋衣」)。これは漢字をよくよく思い浮かべないと理解しにくい。〈ためらい傷〉という言い方が面白い。

 二字にわたるもので有名なのは、アン真理子「悲しみは駆け足でやって来る」(作詞、アン真理子、一九六九年)である。この歌では〈明日という字は 明るい日とかくのね〉と歌われる。「明日」というのは夜が明けるということだが、これをあえて「明るい日」と誤読している。漢字二字を一字ずつに分解している。このタイプは例が少ない。他には〈夢の中と書いて夢中と読む〉(JUJU「Roll the Dice」)、〈どうして大切という字は大きく切ないのかな〉(THE YELLOW MONKEY「淡い心だって言ってたよ」)、〈情けないくらいに熱いと書いて「情熱」〉(Sonar Pocket「つぼみ」)などがある。

 分解・合成されるのは漢字だけではない。先に三好達治の「仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」という詩を紹介しておいたが、漢字だけでなく、平仮名やアルファベットも分解される。〈「あいまい」という文字の中には「あい」という文字も含まれる〉(ポルノグラフィティ「曖昧なひとたち」)、〈”FRIENDS”という字の中に"END"が「複数」になっている〉〈”FORGET"という字が"FOR"と"GET"で「得るため」になっている〉(Seventh Tarz Armstrong「good bye,my good fellows!! ~Life Time~」。人は文字を見ているうちにいろいろ連想がはたらくようだ。あるいはネタ切れで歌詞を展開するヒントを、書きつつある文字に求めたのか。

 

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 二つめは、「類想型」である。「幸せ」は「辛い」と一画違うといったように、意味が違う漢字に、見た目の類似性を見出すものである。一画違うだけで意味が正反対になる「幸-辛」は、両者には決定的な違いはなく、たやすく反転しあうことを説くときに用いられる。これらの文字の類似を歌うものは、他に、〈“辛”いという字に フタして“幸”せだって うたいながら〉(コアラモード「雨のち晴れのちスマイリー」)、〈幸せという字は辛いという字じゃない〉(フラワーカンパニーズ「はぐれ者讃歌」)などがある。

 アグネス・チャンの「幸せという字」(二〇一五年)は、タイトルどおり「幸せという字」から連想を広げていったものだが、そこでは〈幸せという字は 辛いという字 隠してる〉と歌われ、もう一つの見方、〈幸せという字は 逆さにしても幸せ〉が示される。と歌われる。「幸」という字は、図形としてみると、左右、上下ともに線対称であり、対称軸が二つある。〈逆さにしても〉というのは、点対称として見た言い方で、漢字を図形にまで抽象化している。スキマスイッチ「さよならエスケープ」(二〇一七年)も似たようなものの見方を提示している。〈「幸」という文字に 上も下もないけれど/いつも一筆足りない僕は 「辛」に変わってしまう〉。「幸」という文字には上下だけでなく、右も左もないと言うべきだろう。

 「類想型」の例は少ないが、最も有名なのは、〈若いという字は 苦しい字に似てるわ〉と歌うアン真理子「悲しみは駆け足でやって来る」である。これは先にも引用した。たしかに、どこか似ている。漢字が似ているうえに、意味もつながっているように思えてくる。たまたま漢字が似ているからといって、そこに過剰な意味のつながりを見出すのは漢字を用いた精神分析みたいなものである。意表を突く例としてこんなのがあった。〈裸という字は神様の神という字にちょっと似てる 〉(TRA「裸になったら誰でも同じ」)

 違う漢字がなぜ似ているように見えるのか。それは人間のパターン認識が関わっている。漢字に限らず、図形というのは、まずその周辺(シルエット)によって形を認識し、ついでその内部の識別に及ぶという順番になる。漢字はだいたい四角形の枠におさまる形をしているが、その枠の上下左右、四つの辺に、分類に役立つ情報が集中している。印刷された文字がつぶれて細部が判明できなくなっても、そのシルエットがわかれば何という字か見当がつく。また、漢字は縦横の線が基本でできているが、その密集度による複雑性の大小でも文字を分類できる。「曇」は横線が多く、「剛」は縦線が多い。そして、この二つ(四辺情報と複雑性)を組み合わせれば、何という漢字かが絞り込めてくる。逆に言えば、この二つの要素が近いと、間違えやすくなる。例えば、「任」と「住」、「妻」と「毒」は見間違えやすい。だがたいていの場合、漢字は一字で存在せず文の中で用いられるから、与えられた文脈から予測され、見間違いはかなり軽減される。漢字単独だと、視力が悪かったり、あるいは漢字に親しみのない外国人には判断が難しいだろう。以上はOCR(光学式文字読取装置)の認識原理を参考に述べたが、人間の認識方法も似たようなものである。(「パターン認識としての漢字の識別」http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.23_06_350.pdf#search=%27漢字の認識%27)

 

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 これまで述べてきた「類想型」は、漢字で漢字を解釈する「漢字-漢字」タイプであったが、漢字をその読み方により解釈する「漢字-読み仮名」タイプもある。「漢字-読み仮名」タイプには、歌詞にルビを振る「ルビ型」と、歌の中で読み方を示す「提示型」とがある。

 

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 まず、「ルビ型」から見ていこう。ルビというのは漢字の横(横書きの場合は漢字の上)につけられた小さな仮名のことである。難読字や複数の読みがある場合や、書き手が本来の読み方とはズラした読みをさせたい場合などに振られる。欧米では活字の大きさに宝石の愛称をつけており、小さい方から、ダイヤモンド、パール、ルビーなどと称していた。振仮名の大きさがこのルビーに近かったため、ルビと呼ばれるようになった(欧文では五・五ポイント、和文では五・二五ポイント。日本独自の号数表記だと七号)。

 『振仮名の歴史』(集英社新書、二〇〇九年)を書いた今野真二(日本語学)は、振仮名には「読みとしての振仮名」と「表現としての振仮名」があると言う。「読みとしての振仮名」は「少時(しばらく)」のように単に漢字の音・訓を示したもので、p192「表現としての振仮名」は「瞬間」に「とき」、「永遠」に「とわ」という読みをあてるように、わざわざ違う読みをさせるもので、「漢字をめぐって、複線的な表現をつくりあげようという意志が働いていると思われる」ものである。p34本稿では「表現としての振仮名」について述べていく。(本稿では「複線的」ではなく、複層的、二層的と言うことにする。)

 歌の場合は、歌を聞いただけではルビ付きかどうかはわからない。歌詞カードやあるいは歌詞テロップなどを見ないとわからない。歌詞にルビがついていなくても、歌詞の表記どおりに歌っていなければ、ルビと同じことである。歌詞におけるルビの存在は、歌詞が文字として表現されたい意向をもつものであることを意味している。もし歌ったとおりの音が全てならば歌詞にルビは必要ない。

 ルビ付きの歌は例えば、「女(ひと)」「都会(まち)」「未来(あす)」「宇宙(そら)」「瞬間(とき)」など、常套的なものがある。「女」と書いて「おんな」と読むのは生々しい感じがするので「ひと」と読むこともあるだろうし、譜割の都合でそうすることもあるだろう。ただ、譜割の都合というだけなら、歌詞の漢字も「人」にすればよいのに、「女」とするのは、文字としてそう表現したいからである。「女」と書いて「ひと」と読ませるような場合は、直示できない人妻との不倫のような隠された雰囲気をかもしだす。俳句の入門書などを読んでいると、「太陽」と書いて「ひ」と読ませるようなルビは安易だからやめろと書いてあるが、歌詞はそこまでストイックに言葉を磨くことに徹していない。短い文字数でいい切らねばならぬ俳句では、別の意味を付加できるルビは便利なはずだが、お勧めされないようだ。

 桑田佳祐の歌詞には〈愛しいひと〉という言葉がよく出てくる。サザンオールスターズやソロの歌では二三曲あった。そのうち〈愛しい人〉という表記が十三曲、〈愛しい女性〉と書いて〈女性〉を〈ひと〉と読んでいるものが一〇曲あった。例えば、「TSUNAMI」では、〈身も心も愛しい女性しか見えない〉という歌詞の〈女性〉の部分を、実際は〈ひと〉と歌っている。この歌では他にも、〈幻影〉を〈かげ〉、〈瞬間〉を〈とき〉と歌っている。

 ルビの付け方は一九九〇年代に既にいじりつくされていた。TWO-MIX「BEAT OF DESTINY」(作詞、永野椎菜、一九九八年)あたりがそのピークではないか。trfを思わせるこの歌は、〈奇跡的瞬間(めぐりあうぐうぜん)は自発的結実(アクティブなひつぜん)〉とか〈幼い日(あのひ)の虹色(にじ)の宝石(きおく)〉〈人は皆 旅人(キャラバン)/虚無的現実感(しんきろう)つらぬいて駆け抜けよう〉などと、かなりユニークかつポエミーな読み方をしていた。わざわざ読み方と違う漢字をあてる必要があるのか疑問だが、二層構造にすることで不思議さを生んでいたのだろう。作詞者は漢字にかなり思い入れがあるのかもしれない。昨今のキラキラネームみたいである。

 チョコレートプラネットというお笑いコンビがいる。そのコントのカラオケネタに歌のルビを笑いのめしたものがある(『キングオブコント2014』TBS)。「ピエロンリー」という架空の懐メロを歌うという設定で、カラオケのテロップには、〈右側〉という漢字に〈君の横顔〉とルビが振られ、〈山手通り〉は〈いつもの帰り道〉になり、〈女〉一文字に対して〈ロンリー一人でも生きていける〉と長いルビが振られ、〈男〉一文字には〈ロンリー一人では生きていけない〉とエスカレートしていく。〈女〉を〈愛しい天使はもういない〉、〈男〉を〈僕はピエロなんだ〉と続いてゆく。漢字一文字にどれだけ思いをこめるのか。歌詞の本体は〈男 女 男 女〉と短いのに、歌は普通の長さになっている。このネタはその後、九城伸明名義で歌として配信されている。

 

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 これまで、歌詞にルビを振る「ルビ型」を見てきたが、次に、歌の中で読み方を示す「提示型」を見てみよう。「ルビ型」を隠喩とすれば、「提示型」は直喩である。隠喩は比喩であることを明示しないが、直喩は「~のようだ」と比喩であることを言葉で示している。「ルビ型」は書かれた歌詞を見ないとそれとわからないが、「提示型」は耳から入る歌だけでそれとわかるものをいう。例えば、〈ルビをふったらジェラシー〉という山口百恵の「愛の嵐」がそうだ。何のルビかというと、〈炎〉〈狂う〉のルビなのである。他の例をあげると、〈二人は些細な言葉に ルビふる〉(倉木麻衣「想いの先に…」作詞、倉木麻衣)なんてのは、ルビの複層性が裏にある気持ち示唆していて面白い。〈人の幸せのルビは みんなそれぞれ違うもの〉(Do As Infinity「もう一人の僕へ」)も、ルビの恣意性に比喩的に捉えている。

 読み方のパターンでよくあるのが「本気と書いてマジと読む」という歌詞。これは十一曲あった。『本気!(マジ)』というヤクザマンガが一九八〇年代の後半から一〇年ほど連載されていたので、その影響だろう。

 比喩のつながりを言葉ではっきり示す直喩というのは、意外性のあるものどうしを結びつけて比喩にすることができる。同じように「提示型」も、普段は思いつかない奇抜な読み方を提示するときに本領を発揮する。あたりまえの読み方ばかりでは面白くない。〈「働く」と書いて「戦う」〉(DOTAMA「リストラクション」)、〈苦を抜く木と書いて くぬぎ〉(すぎもとまさと「くぬぎ」)。強引な読み方をさせることも可能である。〈無敵と書いて俺たち氣志團と読むんだぜ〉(氣志團「ツッパリHigh School Musical(登場編)」)などがそうである。こうなるとだんだんお遊びになっていく。

 極端なのは、反対の意味を持つ言葉で解釈するものだ。いくつか例を並べよう。〈苦労という字を幸福と読み〉(三笠優子「夫婦橋」)、〈「護る」と書いて「殺す」と読んだ〉(TarO&JirO「Piranha」)、〈失敗と書いて、成長と読む〉(ベリーグッドマン「ハイライト」)、〈灯りと書いて暗闇と読み 表と書いて裏と読む〉(チャットモンチー「拳銃」)。これら反対の読みをする場合は、パラドックスのような真理を隠していると書き手は考えているということだろう。

 

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 字解ソングにはお遊びもあるが、ほとんどが真面目に人生を語るものが多い。中には漢字をネタに説教くさくなってしまうものも少なくない。漢字という中国年前年の歴史にあるものには真実が宿っているということだろう。権威による説明だ。漢字はいくつかの字が組み合わさってできているものがほとんだ。だから、分解して解釈する誘惑にたえずかられる。だが歌で示される解釈は字源的にはどこかおかしい。言っている本人もそれは承知の言葉遊びだろう。自分が言いたいことのために漢字を利用しているに過ぎない。いいこと(気の利いたこと)を言っているのだから、学問的厳密さはどうのかとか、固苦しいことは言うなという感じである。パズルのように分解合成していき、中にはよくわからなくなってしまうものもある。だから何?と言いたくなるものもある。「幸」という字はひっくり返しても「幸」。だから何?と思う。

 字解で感心するのは中学生までだろう。それを過ぎると鼻で笑われることもよくある。しかし年をとると再び、漢字の分解という単純な中に真理を見出してしまうようになるので不思議である。それは殆ど占いである。