Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

オノマトペソング

1 「子連れ狼
 日本語では擬音語、擬態語などというところを総称してオノマトペと言う。歌に出てくるオノマトペでユニークなのは、なんといっても橋幸夫の「子連れ狼」(作詞、小池一雄、一九七一年)であろう。作詞者が劇画の原作者だからだろうか、オノマトペの発想が図抜けている。
子連れ狼」は、刺客となった拝一刀(おがみいっとう)と、その幼い息子大五郎が旅をする話で、拝は生死をかけた斬り合いをしているので、大五郎はいつ孤児になってしまうかもわからない。歌は、一週間たっても戻ってこない父を荒屋で待つ大五郎の不安を描いている。
〈しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん しとぴっちゃん〉というのは雨が降る様子である。雨は物にあたって音を発する。「ザァザァ」といえば勢いのある雨、「パラパラ」は振り始めで大きめの雨粒がいくつか落ちてきた感じであろう。では、この歌にある〈しとしと〉はどうかというと、絹のような細かい雨が間断なく静かに降っている様子である。〈しとしと〉は〈しと〉を重ねている。〈しと〉を語感とする語に「しとやか」があるように、〈しと〉には荒々しさはない。
〈しとしと〉は擬音語なのか擬態語なのか。静かに降る雨でも、地上で物にあたるとかすかな音をたてる、それが総合されて〈しとしと〉と聞こえそうな気がする。似ている語に「したした」がある。これは人が静かに歩く音である。ちなみに我が家で飼っている猫が畳の上を歩くときはまさに「したした」という音がする。これは肉球がわずかに湿っているところからくる音であろう。さて、では〈しとしと〉は擬音語であって擬態語ではないのかというと、そうとも言えない。漫画では静かな様子を表すときに「しーん」というオノマトペを使うが、音がしないはずなのに「しーん」と書かれていると静かな感じがする。この「し」という音はそれだけで静かな様子を表すのに向いているのだ。口の前に人差し指を立てて「しーっ」と言うのも同じだ。それでいくと〈しとしと〉は擬態語的な側面も持ち合わせていると思われる。窓の外で雨が音もなく降っていてもそれは〈しとしと〉降っていると表現したくなる。
 歌詞には、〈哀しく冷たい 雨すだれ〉とある。簾(すだれ)越しの雨という用例はあるが、〈雨すだれ〉とは聞き慣れない。造語であろうか。雨が簾(すだれ)のように降っているということであろう。簾は細い竹や葦(よし)などを編んだもので、横にして掛けるものと縦に編んで立てかけるもの(葦簀(よしず))がある。〈雨すだれ〉は、雨が葦簀のように降っているということであろう。この場合、雨は地上にほぼ垂直に降っている。風が吹いて雨が斜めになびいているというわけではない。ただ、静かに〈しとしと〉とまっすぐ降っているのである。
〈しとしとぴっちゃん〉の〈ぴっちゃん〉は雨が降ってできた水たまりに弾けたところである。雨だれの音だ。『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社、二〇〇三年)では、「ぴちゃん」について「水が軽く平らな物に当たってたてる音」と解説されている。繰り返される〈ぴっちゃん〉は、〈父(ちゃん)の仕事は 刺客(しかく)ぞな〉の〈ちゃん〉と呼応している。また、雨が降ってきて下のほうで弾ける音であるから、目や耳の位置が低い。これは幼い息子の感覚器に近い位置での捉え方だ。〈ぴっちゃん〉という言い方にも幼さがある。
 二番の歌詞に出てくる〈ひょうひょうしゅるるひょうしゅるる ひょうしゅるる〉というのは寒い北風の音である。風の擬音語として最も一般的なのは「ひゅうひゅう」「ぴゅうぴゅう」であろう。唱歌の「たきび」では北風は〈ぴいぷう〉吹いている。〈ひょうひょう〉は「ひゅうひゅう」よりも低音がきいた風の吹き方だ。マンガでは吹雪が「ヒョォォォ」という擬音語で書かれることがある。面白いのは〈しゅるる〉だ。「ひゅるる」ではない。関東方言では「ひ」と「し」が入れ替わることがあるが、作詞した小池一雄秋田県の出身だ。劇画原作を書くために江戸時代の文献を読んで〈しゅるる〉に親しんだのかもしれない。歌では「ひゅるる」に聞こえる。森昌子の「越冬つばめ」(作詞、石原信一、一九八三年)のサビは印象的で、〈ヒュルリ ヒュルリララ〉と歌う。これをツバメの鳴き声だという人もいるが、ツバメは「チュピチュピ」といった感じのさえずりである。歌詞には〈吹雪に打たれりゃ寒かろに〉とあるので、これは吹雪の音であろう。
子連れ狼」に話を戻すと、三番の歌詞で〈ぱきぱきぴきんこぱきぴんこ ぱきぴんこ〉とにぎやかな音がでてくる。これは霜柱を〈ぱきぱき〉と踏む音だ。大五郎が父を探しに霜柱を踏んで外に出たのである。〈ぴきんこ〉は不明である。強いて言えば「ぴん」と張り詰めた感じであろうか。明るい響きの音の連なりで、大五郎の耳が捉えた幼児的な雰囲気は出ている。歌詞には〈別れ霜〉と出てくる。〈別れ霜〉というのは、一般的には、春も暖かくなってきて霜が降りるのもこれで終わりという頃の霜のことである。だが、この歌では、〈雨風凍って 別れ霜/霜踏む足が かじかんで〉とあるから、もっと厳冬の頃のようだ。造語ではないが、独自の使い方である。父と子の別れという意味を掛けているのであろう。
〈しとしとぴっちゃん〉も〈ひょうひょうしゅるる〉も〈ぱきぱきぴきんこ〉もいずれも自然との関わりの中で耳にする音だ。冷たい風は大五郎の〈こけし頭〉をなでていくし、外に出た大五郎の足元には霜柱がある。幼い大五郎は、一人で厳しい自然に取り囲まれていることがオノマトペが示している。人とのつながりは父のみである。その父も帰ってくるかわからない。大五郎はなんの媒介もなしに自然に接触している。
 歌詞の他の部分に目をやると、一番では〈この子も雨ン中 骨になる〉、二番では〈この子も風ン中 土になる〉、三番では〈この子も霜ン中 こごえ死ぬ〉となっている。骨になって土になるのは時間の経過を表している。私は初めてこの歌を聞いたとき、この部分が印象的だったのを覚えている。それが三番では〈こごえ死ぬ〉と戻ってしまう。あれ、死んで土に還ったはずなのにと、この部分は歌詞を詰め足らない残念さを感じた。三番の歌詞は父を探しに外に出たところなので、ここは希望を歌ってもいいかもしれない。父とは会えなくても、自分一人で(といっても当面は他の人に養ってもらって)生きていくのだ。だからここは、私なら「この子も霜ン中 大人(ひと)になる」とするだろう。大五郎が大人になるには霜を踏むような試練が待っているが、それでも生きていくということである。漫画の『子連れ狼』では最後、拝一刀は死んでしまうが、続編では大人になった大五郎が活躍するそうであるから、あながち間違いではないだろう。

2 「与作」
 演歌にはよくオノマトペが使われる、それは演歌は民謡の流れを汲んでいるからだろう。民謡は民衆が歌う労働歌などがもとになっているので、オノマトペをよく使うことになる。オノマトペが印象的な演歌といえば大ヒットした北島三郎「与作」であろう。〈ヘイヘイホー〉〈トントントン〉〈ホーホー〉が使われている。これらは何を表しているのか。まず〈トントントン〉であるが、これは女房が機(はた)を織ったり、藁を打つ音とされる。機織機や槌で藁を打つ擬音語と考えられる。〈ホーホー〉は遠くにいる人を呼ぶ呼び声であろうが、オーソドックスな用法では夜の暗闇に聞こえるフクロウの鳴き声であるから、夜の闇に包まれた山間の村を叙景しているようにも思える。問題は〈ヘイヘイホー〉である。〈与作は木をきる ヘイヘイホー〉とあるが、伐木のさいの掛け声ということであろうか。それにしては間延びしている。木を切るには、オノやノコギリを使うが、いずれの場合でも〈ヘイヘイホー〉では合図にも掛け声にもならない。作詞作曲の七澤公典はジャズギタリストで渡米経験もあるようなので、どこか欧米風の「ヘイ」である。とはいえ、〈ヘイヘイホー〉からはどんな状態も想像できず、擬態語とも思えない。また、藁葺き屋根に星屑が降るときにも〈ヘイヘイホー〉と歌われる。こちらは一層不可解である。そもそも星屑は降るものであろうか。星が降るというのはわかるが、星屑というのは、夜空に散らばる無数の星のことであるから、星屑の中を一つの星が流れることを言うのならわかるが、星屑じたいが降ることはない。あるいは流星群のように無数の星が降るということであろうか。〈ホー〉の部分が、星の尾を引くところと考えれば、擬態語ということもありえる。それはともかく、〈ヘイヘイホー〉は擬音語でも擬態語でもなく、これはいわばBGMのようなものなのではないか。与作や女房が暮らす民話のようなのどかな世界を音楽で表現したとして、それをボイスパーカッションのように口の発音に置き換えたようにも思える。

3 アニメ・特撮
 アニメや特撮の主題歌でもオノマトペがよく使われる。『鉄人28号』や『超人バロム・1』はそれが徹底している。『鉄人28号』はアニメで何度もリメイクされているが、その第一作の主題歌は作詞・作曲が三木鶏郎で、〈ビルのまちに ガオー〉と始まり〈ビューンと飛んでく 鉄人28号〉と終わる、擬音語が主役となっている歌である。
 擬音語だらけなのは、『超人バロム・1』の主題歌「ぼくらのバロム・1」(作詞、八手三郎、一九七二年)のほうが勝っている。〈マッハロッドで ブロロロロー〉と始まる擬音語づくしである。漫才の松本人志はこの歌の〈バロローム〉という箇所に感動したと言っている。歌詞としては無内容だが、歌として盛り上がる部分である。バロムというのはバロメーターのことで、二人が腕を組んで変身するのだが、友情のバロメーターが一定の量に達しないと変身できないのである。
 二つの歌のオノマトペに共通しているのは、それがマンガ的だということである。『鉄人28号』も『超人バロム・1』ももとはマンガが原作である。『鉄人28号』の〈ダダダダ ダーンと たまがくる〉とか〈ババババ バーンと はれつする〉〈ビューンと 飛んでく〉などはマンガのコマに書き込まれた文字と同じである。『超人バロム・1』の〈マッハロットで ブロロロロー〉とか〈やっつけるんだ ズババババーン〉とかもそうである。『北斗の拳』以降顕著になり、『ジョジョの奇妙な冒険』で拍車がかかり、マンガは今でこそユニークなオノマトペをきそっているが、古いマンガの擬音語は決まりきった記号であった。ピストルは「ダーン!」と発射され、火薬が爆発するときは「バーン!」、空を飛ぶ時は「ビューン」である。クルマは「ブロロロー」と走り去り、相手を殴る時は「ズバーン!」だった。オノマトペはマンガの雰囲気をそのまま伝える。だが、マンガのオノマトペは現実とはズレがあるから、それを口にすることは、マンガを実写化したような強引な感じがあった。

4 童謡
 オノマトペがよく出てくるのは童謡もそうである。アニメ・特撮も子ども向けだが、子ども向けの歌にはオノマトペが多い。例えば「おもちゃのマーチ」だと〈やっとこやっとこ くりだした〉、「たなばたさま」は〈ささの葉さらさら〉、「どんぐりころころ」は〈どんぐりころころ どんぶりこ〉ときりがない。童謡の歌のところでふれた「夕日」は〈ぎんぎんぎらぎら〉という擬態語が繰り返されるが、これは小学生のときお遊戯で踊らされて汚い擬態語のせいで嫌いになった。〈ぎんぎん〉の基本的な意味は、音がやかましいということである。『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社、二〇〇三年)では、第一の意味として、虫や動物がやかましく鳴く様子をあげている。〈ぎらぎら〉の方も、強すぎる光や不快に感じる光をいう場合が多いと解説する。〈ぎんぎん〉も〈ぎらぎら〉もあまりいい意味では使われないのである。その二つを重ねるのだから嫌な気持ちになって当然である。
 近藤真彦に「ギンギラギンにさりげなく」というヒット曲があり、キンキラキンでは軽いし派手すぎて〈さりげなく〉できそうにないが、〈ギンギラギン〉なら渋い。童謡の「夕日」は〈ぎんぎんぎらぎら〉だったが、それとは微妙に違う。「夕日」は〈ぎんぎん〉+〈ぎらぎら〉だが、「ギンギラギンにさりげなく」のほうは〈ギン、ギン〉+〈ギラ〉で〈ギラ〉が一回である。この違いは大きい。先の辞典では、「ぎんぎらぎん」について「「ぎらぎら」よりさらに強くどぎつい感じ」と述べるが(p109)、〈ぎんぎんぎらぎら〉と比べると、〈ギンギン〉のあいだに〈ギラ〉を入れることで〈ギン〉の連打が分断され不快感が緩和されている。
 近藤真彦といえば田原俊彦を連想するが、こちらにも「ハッとして! Good」という曲がある。機会があれば取り上げたい。