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『あしたのジョー』前髪の進化論

1 正面を避けること

 風変わりなものでも、いつも見ていればそのうち見慣れて、おかしさを感じなくなる。矢吹丈(ジョー)の前髪もそのひとつである。

 まずは彼がどんな髪型だったのかを見ておこう。こちらである。

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 ジョーの髪型の特徴は2つある。

 

a.髪が全体的に長いのではなく、前髪の部分だけ特に長い。

b.その前髪が前方に砲弾のように突出している。

 

 襟足はやや長めであるが、前髪ほどではない。耳はすっかり出ている。サイドは後ろになでつけたり耳にかけたりしているのか、それとも短くしているのか、ベタ塗りなのでわからない。

 ユニークなのはその形状である。ジョーの前髪は、書道の筆の穂のように紡錘状の房が前に長く伸びるように描かれる。重力に抗し前方にピンと向いている。試合で汗をかいても顔にはりつくことはない。俗流心理学なら、これはジョーの過剰なまでの男性性を象徴していると言うだろう。ライバルである力石もカーロスもホセも、実際どこかにいそうな髪型をしている。ジョーだけが特別なのだ。

 マンガ『行け!稲中卓球部』に出てくる井沢ひろみは『あしたのジョー』の熱烈なファンで、ジョーの髪型を真似している。そしてその髪型をしていたらどんなに不自然かということが笑いになっている。マンガの視点でみてもマンガ的なのだ。井沢の髪を真正面から見ると、その不自然さは際立っている。

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 故地である台東区山谷にジョーの立体像が建てられているが、あの髪型を三次元に転換するにはどう解釈したらよいかという苦労のあとがうかがえる。マンガという抽象度の高い二次元の線描表現を、立体の造形物という具体性のある表現に変換する際に不自然さを排除するのは困難をともなう。

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 マンガ『あしたのジョー』で、矢吹丈が真正面の顔で描かれることはない。横顔か多少なりとも角度のついた斜めの顔である。斜に構えた感じが矢吹らしいといえるが、そもそもジョーに限らず、このマンガの登場人物は誰も、正面を向いて描かれることはない。読者は登場人物たちの顔=実存を正面から受け止めることがない。そのため、直接性が薄れ、一歩離れたところから彼らの行動を眺めることになる。

 正面顔がないのは、マンガ家のクセのようなものだったのかもしれない。しかしこのことはジョーの髪型が重視されていくことに有利につながった。ジョーのように、前方に真っ直ぐ伸びた髪は、正面から見たときに表現しにくい。このことは鼻も同じである。鼻は顔の前方に向かって突き出ている。正面顔で、手前へと突き出てくるものを立体感をもって描くのは、線描では難しい。だが顔が多少なりとも斜めを向いていれば、とたんに高さを表現しやすくなる。同じように、顔に少しでも角度がついていれば、髪を流す方向が決められるので描きやすくなる。

 髪型と顔の向きの問題は『鉄腕アトムからしてそうである。アトムの頭部で立体を意識させるのは、光の反射が描かれた頭の丸みだけで、それ以外は影絵のように塗りつぶされる。アトムの頭部には2本の突起が生えているが、それがどういう位置にあるのが正解なのか、よくわからない。キュビズムのように、異なる視点から見た髪のハネを同一の頭部に描きこんだということだろう。アトムのおもちゃを見ると、突起の位置に悩んだであろうことがうかがえる。突起が2本とも見える角度は限られていて、アトムらしさを損なわないようにするのは難しいからだ。

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2 前髪が保証するアイデンティティ

 矢吹丈の髪型はどこから来たのだろうか。

 実は、ジョーの前髪は最初からあれほど長いわけではなかった。はじめの頃は普通の少年と同じだった。第一話と最終話の髪を比べてみよう。

f:id:msktt:20210920102710j:plain 左:第一話  右:最終話

  最終話ではかなり長くなっていることがわかる。マンガ家がジョーを描いているうちに、髪型がジョーのアイデンティティの重要な部分を占めるようになっていったことがうかがえる。登場した当初は髪の先の尖った部分はそれほど目立たず、まだ頭の丸みを少し壊すていどの長さだったが、次第に庇のように伸びていき、ジョーの精神性が研ぎ澄まされていくのと比例するかのように進化し、形式化されていった。その結果、頭部には、扁平に尖った穂先が乗っているようになったのである。

 あしたのジョー』が始まったばかりのときは、ジョーはそれほど個性的なキャラクターというわけではなかった。ちばてつやがよく描く少年の造形がそのまま流用されていた。ジョーは、ちばの前作で人気のあった『ハリスの旋風』(1965-67年連載)の石田国松のイメージだった(このことは当時の担当編集者宮原照夫も明かしている。(『あしたのジョー大解剖』p32)。国松はジョーの子ども時代といっていいほどよく似ている。

f:id:msktt:20210920102708j:plain『ハリスの旋風』の石田国松

 髪型については、『ジョー』に出てくるドヤ街の子どもたちのうち最年長である太郎の髪型はジョーと同じだし、特等少年院の青山くんもそうである。さらに、もっと前にちばが作画した『ちかいの魔球』(1961年)に出てくる大田原一郎も同様の髪型で描かれている。はじめの頃のジョーの髪型は、ちばてつやが描く少年のタイプとしては標準的なものであり、特に熟考したオリジナリティのあるものというわけではなかったのである。

f:id:msktt:20210921202536j:plain『ちかいの魔球』の大田原一郎

 実は、国松タイプの髪型は、その当時の流行でもあった。『ハリスの旋風』のあと『週刊少年マガジン』に掲載された赤塚不二夫天才バカボン』(1967-69年連載)のバカボンパパも似たような髪型である。ハチマキで区切られるアーモンド型の毛髪部分や鬢の生え際のラインが共通している。(鬢の生え際のラインは、横山光輝が描く少年キャラによく使われたものと同型だ。)ちなみに、『天才バカボン』のヒットに対抗させられて『週刊少年サンデー』で連載を開始した『もーれつア太郎』(1967-70年連載)のア太郎は、みなりと頭部がバカボンパパそっくりだが、眉、目、額のシワ、鼻、前歯、前髪のライン、耳の鉛筆など、差異化のための工夫がなされている。

f:id:msktt:20210920102724j:plainf:id:msktt:20210920102817j:plain左:バカボンパパ 右:ア太郎

 国松とジョーには、髪のほかにも共通する外見の特徴がある。国松は学生服に学生帽で、一方のジョーは、オレンジ色のキャスハンチングをかぶり、丈の短いコートを羽織っている。15歳にしては小洒落ていて、ジョーを年齢不詳にしているアイテムだ。

 バカボンのパパはハチマキをしているが、そのハチマキが頭部で作る角度は、国松やジョーが阿弥陀かぶりに帽子をのせた角度と同じである。マンガは小さい画面の中で単純化された線によって幾人もの人物を描きわけなければならないので、すぐ誰とわかるよう差異化するためにいろんなアイテムが必要になる。帽子や上着はそのひとつだし、髪型が現実にはないユニークなものになるのもそのためだ。

 ジョーの髪型をもう少し詳しく見てみよう。前髪はひとまとまりに固まっているのではなく、その穂先は大きく二つに割れている。下側の髪の束のほうが大きめで先端はやや上をむき、上側の束はそれより少なめでやや下を向いていて、両者はカニのはさみのように向き合っている。ほかにも前方に向かう付属的な割れがいくつかあるが、それらは小さな束であり、描き方によって2つになったり3つになったりしている。また、上下の髪の束の上下に、それぞれ1-2本の髪が描き加えられていて、ふわりとした柔らかさと繊細さが演出されている。

 直接の関係はないが、ジョーの髪型を見ていて、あの紡錘形の尖り具合で連想するのがマッハGoGoGo』(1967年)である。未来的で、この上なくかっこいいデザインだった。

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 行け!稲中卓球部』の井沢ひろみの髪はスプレーで固めているとされるが、ジョーの髪にはそうした手は加えられておらず、あくまでも自然にそういう形状になったものである。ヤンキーが好むリーゼントの中には、前髪を前方に長く突き出して固めたものもあるが、そういう作られたものとは違うのである。

 先に述べた『天才バカボン』のパパの髪型には、穂先の二つの割れはない。ジョーの髪型はバカボンパパより複雑である。これはギャグマンガとシリアスな劇画調マンガの違いだろう。ギャグマンガは丸く単純化された線で描かれるが、劇画では線の種類は細分化される。パターン化された反応をするキャラと、激しく動く内面を持ったキャラの違いでもある。それが髪型に現れている。

 現実のボクシングの選手というのは短髪である。髪が顔にかかったら邪魔になり、試合に支障が出る。ジョーのような長髪はボクシングをやるのに合理的な髪型ではない。他のボクサーたちは、ウエーブがかかっていたり(力石、カーロス(カーロスは当初、前髪はアフロスタイルだった)、短髪だったり(ホセ)と現実的になるよう配慮されている。ジョーだけがボクサーとして特別に不自然であり合理性に反しているのである。そして、そうした非合理な部分は、ジョーという不思議な闇を抱えたキャラクターのアイデンティティとして重要になっていく。ジョーは現実的になるように修正されることはない。逆に、長髪の度合いが増し、不自然さの方向へと強調されていく。

 その反対なのが『スラムダンク』である。このマンガでは、主人公の桜木花道は、バスケに本気で取り組むようになると、リーゼントヘアをばっさり切って坊主頭に変わる。スポーツをやる人としてはそのほうが現実的だろう。『あしたのジョー』で、ジョーが坊主頭になっていたら、おそらく人気はでなかったと思う。『あしたのジョー』は70年前後のマンガで『スラムダンク』は90年代のマンガだから、マンガにリアリティを求めるようになったということもあるだろう。また、『あしたのジョー』はボクシングという一人での戦いであるため個人の精神性がより重視され、『スラムダンク』はバスケットボールというチームでの戦いであるため個性よりも人間関係のリアリティが重視されたからなのかもしれない。

 

3 長い前髪の系譜

 前髪が前に長く突き出ているのが特徴的なキャラは他にもいる。『巨人の星』(1966年)の花形満(ちばの『ちかいの魔球』に出てくる大田原一郎を参考にしたと思われる)、『ゲッターロボ』(1974年)のハヤト(その影響下にある『ボルテスV』の峰一平)、『大空魔竜ガイキング』(1976年)のピート・リチャードソン、『ドカベン』(1972年)の影丸などが思い浮かぶ。彼らは、影丸を除き、髪の先端が二つに分かれている。この点もジョーに似ている。

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 性格的な特徴も彼らは似たところがある。クールで理知的なのである。すぐ熱くなる情熱的な主人公の傍らにいて、冷めた目で状況を観察・分析しているタイプである。だが一旦キレると過激な行動にでる。周囲と調和しにくいのである。

 こういう性質をもった人物はチームの中に必ず一人は混ざっていて、直情的なリーダーと衝突したり、あるいは牽制したり、ものごとを複雑にし、思いもかけない解決をもたらしたりする。多様性の長所(複眼的な思考)と短所(分裂)を併せ持っている。そういう人は長身、痩躯、長髪、二枚目といった属性のうちのいくつかを持ち、シニカルで、仲間と非親和的で、一人でいることを好む。『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)コンドルのジョー、『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)の青レンジャーなどがそうである。色としては、主人公が情熱的な赤色の隊服を割り当てられるのに対し、冷静な青色が定番になっている。リーダー(主人公)には向かないが、リーダーのピンチを救う存在として重要である。プイッとそっぽを向いて姿を消すが、危機一髪のときに現れて「やっぱり俺がいなきゃお前はなんにもできねぇ」的なところを見せつける。

 矢吹丈がもし戦隊チームにいたら、皮肉屋の一匹狼なのでリーダーにはなれず、実力のある2番手として重宝されることになっただろう。色でいえば青である。しかし、ジョーのイメージカラーは赤である。オレンジの帽子に赤いセーターというのが普段のスタイルだ。ジョーは一人で何役も兼ねているのである。

 髪によって、その人物の内面が目に見えるかたちで表現されている場合がある。花形を含め、例示した4人の髪型は、矢吹丈と決定的に違う点がある。彼らは、長く伸びた髪の先端が、重力という現実に妥協するがごとく下に垂れているのであるが、ジョーの長い髪は自分を貫き通すがごとく先端までピンと張っているのである。髪の毛は長く伸びるほど、その人の意図で制御できない動きをする。髪の毛が頭皮に接続しているのは毛根の部分だけである。だから髪が長く伸びるほど、先端部分では、その人の意志にかかわらない動きが大きくなることになる。女性が髪を長くすることを好むのは、それがコントロールできない自然を宿していることの表象だからだろう。ヒッピーをはじめ反抗する若者たちが長髪にしたのも、コントロールできないものへの憧れ、反文明的なものへの憧れの身振りであろう。

 ジョーの前髪も、そのようなコントロールできない自然の表象なのだろうか。ジョーの前髪は汗だくになっても垂れてこない。その前髪を変わらぬ形状で保持し続けているのはジョーの精神性なのか、それとも髪そのものが持つ魔力なのか。ピンとした髪の先端まで精神力が充実しているのか、それとも先端に宿る髪の生命力なのか。いずれにしても、ジョーの髪が前を向いている限り、ジョーは決定的に敗北することはなく、何度でも復活するように思える。そしてその髪がどんどん長くなっていくということは、ジョーがどんどん精神的な存在になっていくということであり、髪の神秘性が増していくということなのである。ジョーは、長い前髪に導かれるようにして、破滅への道を進んでいったのかもしれない。

 ジョーや花形満のような髪型を「前方突出型」と呼んでおくことにする。「前方突出型」は、長髪が特異に進化してひとつの類型を形成したものである。男性キャラの長髪というと、キャプテン・ハーロックや『ルパン三世』の石川五右衛門などのように、全体的にボリュームのある長い髪の者が想起されるが、男性キャラは短髪が無徴なので、長髪じたいが例外的な有徴である。「前方突出型」はその長髪の範疇のなかでも風変わりな傾向をもつ髪型である。

 実は、花形満もピート・リチャードソンも、ハーロックも五右衛門も、アニメの声優は井上真樹夫である。井上は他にも『燃えろアーサー』のトリスタンなど長身で細面、色白、長髪のクールな役が多い。こうした、長身・細面・色白・長髪という外見のキャラが造形されるようになったのはヒッピー文化からきているのかもしれないが、そうした外見に加え、冷静沈着で孤独という行動パターンも付随している。クールで、周囲に影響されにくく、仲間内で相対的に知的なポジションにいる。

 そのクールさは鼻につくとキザになる。『ドラえもん』のスネ夫、『ちびまる子ちゃん』の花輪くんはキザの戯画であるが、彼らも似たような髪型に描かれている。スネ夫や花輪くんは長髪とは言いにくいが、髪型は「前方突出型」である。

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 『あしたのジョー』の成功は、前髪のユニークさがキャラクターの個性につながる手法をメジャーなものにした。かっこいい容貌は平均的な顔に近づく。そのため個性を際立たせるには前髪を操作するのがわかりやすい。例示したのは『750ライダー』(1975年)と『サーキットの狼』(1975年)である。『750ライダー』の作者石井いさみは『くたばれ!!涙くん』(1969年)ですでにジョーのような髪型を描いている。『サーキットの狼』はジョーよりもさらに攻撃的で、先端が下に垂れ下がるどころか、上を向いている。

f:id:msktt:20210920102732j:plainf:id:msktt:20210920102807j:plain左:『750ライダー』 右:『サーキットの狼

 人は見た目が9割」と言われることの確からしさはともかく、マンガでは、外見と内面の結びつきのステレオタイプ表現はよく利用される。髪型は人物の描きわけをするのに最適なパーツであるから、髪によってその人物の内面もまた表現されることになる。活動的な人物は髪が飛び跳ねており、おとなしい人物の髪はまとまりがある。『キャンディ・キャンディ』(1975年)のキャンディとアニーが典型である。髪を見るとその人物の性格がわかるようになっている。ただ、この二人はアメリカが舞台のマンガの登場人物だから単純に分類できるのだが、日本が舞台だとそこにねじれが生じる。『アタックNo.1』(1968年)の鮎原こずえ(主人公)と早川みどりはライバルであり親友である。『エースをねらえ!』(1973年)の岡ひろみ(主人公)にとって竜崎麗香(お蝶夫人)は目標である。この場合、主人公よりサブキャラのほうが髪が派手である。早川みどりは茶髪でありお蝶夫人は金髪の縦巻きである。高度成長中に連載されたこれらのマンガには、欧米への憧れと乗り越えたい気持ちが投影されているのであろう。それゆえ、主人公は黒髪で、主人公の憧憬が向けられる者に黒くない髪が与えられているのだろう。

 そのことは登場人物が多国籍になっている『機動戦士ガンダム』(1979年)でもまだ引きずっている。主人公アムロはライバルのシャアより地味な髪をしている。アムロは名前によって日本(沖縄という境界地域)とのつながりがほのめかされており、一方、シャアは金髪で、高貴な出身である。ただ、シャアはその前身とも言うべき『勇者ライディーン』(1975年)の悪魔シャーキンに似ているし、金髪の美男子のライバルというのは、『超電磁ロボ コンバトラーV』(1976年)、『超電磁マシーン ボルテスV』(1977年)、『ダイモス』(1978年)の異星人以来の伝統である。金髪の敵は『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)のデスラーがよく知られるが、デスラーヒットラーがモデルと言われるのに金髪なのである。このデスラーがもっと宝塚歌劇ふうになっていったのが今述べた悪役たちである。(ウィキペディアによれば、『ボルテスV』のプリンス・ハイネルは宝塚をヒントにしたという。宝塚歌劇団が『ベルサイユのばら』で大ヒットを飛ばすのは1974年から。)

 アニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)はスイス/ドイツが舞台で、田舎育ちのハイジは暗褐色の短髪、都会に住む資産家令嬢のクララは金色の長髪である。明るく活発な主人公が金色の髪、暗い性格で主人公に従属的な友人が暗い色の髪というパターンから外れている。ここにはたんに性格の違いではなく、田舎/都会、自然/人工、質素/富貴といった対立がからまっているのだろう。

 『ゴルゴ13』の主人公は短髪で、髪型から内面をおしはかることができない。ゴルゴは素性を隠した得体のしれない人物だから、自分がどういう人間かを読者に推測させる手がかりを与えないようにしている。その代わり、ゴルゴは主役にふさわしいだけの線を与えられている。太い眉、細く鋭い眼、がっしりした鼻梁、きつく結んだ口元、割れた顎、太いもみあげ、そして目の下から頬にかけて傷のように伸びる線はゴルゴ線という普通名詞にまでなっている。髪の線が少ない主人公は、顔にこれだけの暑苦しいほどの特徴を与えられなければキャラの独自性が確保できないのだ。

 少年マンガの主人公は活動的で、彼らの髪はたいてい奔放に伸びている。彼らは顔の周辺に先端が尖った線をたくさんもっている。それは彼らがひと目で主役であることを示している。しかしそれは、例えばサイボーグ009や『ドラゴンボール』の孫悟空のように、いろんな方向に向かって乱れている。ジョーや花形満のように、偏った方向に髪が集約して突き出ているわけではない。情熱が全体に放散している。ある特定の方向への偏りを持つ者は、どこか精神的なバランスの悪さがあるように見える。

 髪型の進化の袋小路は『伝説巨人イデオン』(1980年)の主人公ユウキ・コスモだろう。赤髪のアフロヘアで、しかも大きい。彼がかぶるヘルメットのほうが小さいくらいだ。髪型にキャラの淘汰圧がかかっていって、今までにない珍奇なものへと向かった結果だろう。ロボットのイデオンはシルエットに特徴があり、エヴァンゲリオンのような過剰な「いかり肩」である(例えの先後関係が逆だが)。これも肩だけが異様に進化したものである。『イデオン』はこのように定形からの逸脱を好む(物語としてもそうだ)。コスモの頭部の大きさは、『イデオン』の物語の観念的な要素(頭でっかち)を象徴しているとも言える。コスモの赤い髪はロボットの赤い色と響き合っているが、赤一色のそっけない配色の機体は解釈をよせつけず、3色のガンダムのようには親しみにくい。

 

4 前髪の役割

 ジョーの長い前髪は、顔を斜めに隠す遮蔽物になっている。先に述べたように、ジョーの顔は横向きか斜め向きで描かれる。横向きの場合は当然片方の目しか描かれないが、斜めを向いている場合も、髪で隠れて片方の目が描かれないことがよくある。

 片方の目が隠されているということは、人物の内面もすっかり表されてはいないということで、謎めいた部分が生まれる。マンガやアニメには片目だけのキャラが何人もいる。ゲゲゲの鬼太郎キャプテン・ハーロックエヴァンゲリオン綾波レイやアスカもそうである。いつもジョーの傍らにいる丹下段平も片目である。彼らは眼帯をしていたり片目が傷でふさがっていたりする。片目であることによって、その内面も全て露出されることがなく、どこかつかみにくい陰りがあるように感じられる。

 鬼太郎もハーロックもレイも、そして矢吹丈も、生い立ちがはっきりしない。正義なのか悪なのか、所属が曖昧である。ジョーは眼帯をしているわけではないが片目が髪で隠されることによって、全てをさらけださない者になっている。そこに他人には理解できない憂いのようなものが漂っている。心の中まで覗きこまれないように髪の毛で防御しているのである。

 このように長く伸びて顔を覆う髪に似た機能をもつアイテムがある。時代劇で旅人がかぶっている三度笠である。木枯し紋次郎でおなじみだ。笠は日除けや雨除けのためにかぶるものだが、三度笠は特に大きいので顔を隠すことができる。笠の縁の奥に目が光っているのである。

f:id:msktt:20210920102719j:plain木枯し紋次郎』テレビドラマ、(1972年)

 現代ものでは笠の代わりに帽子がその役割をはたしている。例えば『ルパン三世』の次元大介はいつもソフト帽を目深にかぶって目を隠している。『ドカベン』の不知火守は、帽子のツバの裂け目から隻眼をのぞかせている。このとき帽子はジョーの長い前髪と同じ役割をはたしている。ジョーはハンチングを阿弥陀にかぶっているが、代わりに前髪で顔を隠しているのである。その瞳は髪によって奥行きを与えられる。ジョーに比べたら、他の誰ものっぺりした顔に見える。

f:id:msktt:20210920102730j:plain『夕やけ番長』(1967年)の学帽のひさしも、長い前髪と同じ機能を果たしている。帽子の上部が髪の毛のようにボコボコしている。

 ジョーが顔を右に向けると長い前髪は右を向き、左に顔を向けると前髪は左を向く。髪は黒いベタ塗りで、尖った矢印のような形をしている。矢印としての方向性をもった髪は、ジョーの顔のわずかな動きで大きく左右に向きを変える。髪が長いため、軸となる頭部の角度が少し動いただけで、髪の先端は大きく位置を変える。わずかな顔の角度を髪は敏感に拾ってしまう。

 髪の黒ベタは、描かれた人物のなかで最初に読み手の視線を捉える、最も目立つ部分である。読み手の視線は、まず、髪の毛がなびく方向をたどるように動く。その次に、ジョーの顔に注意を向けようとする。しかし、顔をしっかり見ようとしても、方向性をもつ髪の毛によって、視線は絶えず顔の外側へと誘導されてしまう。読み手がジョーの顔をしっかり見るためには、髪が視線を誘惑する力に打ち勝たなければならない。

 髪の黒ベタの分量や髪の先端の向き、片方しか見えない目などによって、ジョーの顔は、左右が非対称であることが強調される。この非対称性は、ジョーが常に不安定な状態にあること、偏りを持っていることを暗示する。

 ジョーと対照的に左右対称を保っているのが白木葉子である。令嬢であるが、その髪は長い黒髪をオールバックにして富士額を見せつけるという独特なスタイルである。気の強さは伝わるが、生え際が手前すぎて額が狭くなっており、女性らしい柔らかさや気品を損ねている。

 力石徹は、準主役なのに、どんな顔だったのかよく思い出せない。重要性が増すに従って顔が完成してきたということもあるが、減量したときは日野日出志のホラーマンガのような顔になってしまい、普段の顔の印象が薄い。改めて見直してみると、受け口でしっかりした下顎をしている。初登場時にモブキャラ扱いの受け口だったのがずっと尾を引いているように見える。目は大きいが窪んでいて、しっかりした鼻から額にかけての線は日本人ばなれしている。

 マンガ版では力石は不思議な髪型で、サイドの髪がカールしているのか、もみあげがはねているのかよくわからない。アニメ版ではもみあげのハネとして整理されている。このハネは力石らしさのひとつのポイントになっているが、ゴツい顔をお茶目に見せることにも役立っている。ジョーは直毛で、髪の毛はつむじから前方あるいは下方に向いているのに対し、力石は天然パーマふうで、髪の末端はあちこちを向いている。

f:id:msktt:20210921202634j:plain力石徹 マンガとアニメではもみあげの処理が微妙に違う

 耳元の髪のカールは『リボンの騎士』(1953年)以来、女性の可愛らしさを表す記号になっているが、アニメ版では力石の耳元のカールは強調され、もみあげが長く伸びたものになっている。ちなみに、こうしたもみあげは永井豪の男性キャラに継承され、不動明や兜甲児はもみあげの先が強く跳ね上がって男性性が強調されている。似ているが違うのは松本零士のキャラで、男女とも頬にかかるほど髪がカールしている。耳元のハネは、男らしさ、女らしさを強調する役割をはたしているようだ。

 以下に、耳元でカールしているキャラをいくつか掲げてみた。有名どころなので紹介する必要もあるまい。このうち最後の花の子ルンルンは逆向きのカールである。

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 以上、矢吹丈の髪型を軸に、思いついたことの概略を駆け足で書いてきた。これで終わりにしようと思ったところ、ふとマンガの最終回、そのラストページを見て、重要なことを書き忘れていたことに気がついた。

 それは、これまで髪の「形状」について書いてはきたものの、その「色」については等閑視していたことだ。このマンガ(アニメ)には、外国人ボクサーも何人か出てくるが、彼らの髪は黒か黒に近い濃い色で表現される。カーロスのマネージャーが金髪であるのが目立つくらいである。ジョーの髪も黒なので、髪の色で分類するという発想がなかった。

 それが、マンガ史に残るあの有名な最終ページでは、ジョーの髪は真っ白になっているのである。何回も見ているのに、見れども見えずだったのは、劇的な効果を出すための演出なので、髪の色の変化とはみなしていなかったからだ。

 白くなっているのは髪の毛ばかりではない。黒のトランクス(アニメでは青)も、真っ白なのである。一方、顔や身体の筋肉表現は線が描き込まれて黒ずんでいる。黒/白が、ネガフィルムのように反転しているのである(正確な反転ではない)。これは、ジョーの身体から魂が抜けて、生者の状態とは反転していることを思わせる。また、身体の黒ずみは、これまでの戦いのあとの蓄積のようにも見える。

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 実は、対戦相手のホセも、試合のせいで髪が白くなってしまっていた。過度のストレスや恐怖のあまり一夜で白髪になってしまったという話は、マリー・アントワネットや、小説では『白髪鬼』(生きたまま埋葬される)などがある。ホセの場合も、ジョーの執念に恐れをなしたということだろう。白髪になるには、物語上の意味がある。ホセの白髪に物語上の必然性が与えられているとするなら、その次のページで、ホセに合わせるかのようにジョーの髪が白くなったことにも、表現上の効果というばかりでなく、物語的に何か意味があるに違いない。

 ジョーの髪の毛は、矢印のように前を指し示していた。前へ前へと進む生命力を象徴するのがこの前髪だった。その前髪が形をかえることなく、つまりジョーらしさを保持したまま、脱色されることで、形だけを残す抜け殻を象徴することになった。白くなった髪は、髪の魔力が失せたことを意味している。逆にいえば、ジョーは髪の魔力、つまり戦いの連続から解放されたということになる。あるいは、戦うことができなくなったから魔力が去っていったのか。ホセは悪魔祓師であったのだ。ラストページでは、ジョーは安らかな顔をしている。それは、悪魔が去ったことを意味している。それとともに憑依されていたジョーも力尽きたのである。

 では、髪の悪魔はどこからきたのかというと丹下段平である。ジョーがボクシングを始めたのは段平に見込まれたからだ。それまでは漂白民のように移動生活をしていたのだが、段平のもとに定着するようになる。段平の頭には毛髪が1本もない。物語上の重要人物で頭髪がないのは段平だけである。段平の頭にあるべき毛髪はジョーに移動していたのである。『あしたのジョー』は、この点においても丹下段平にすべて始まっていたのである。

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