Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

中森明菜と80年代アイドルたちの口唇期

1. アイドルたちの口ポカン~聖子と明菜を中心に

1-1 主流と傍流

 YouTubeを見ていたら中森明菜のデビュー当時の動画がありまして、ずんぐりした体とあどけない顔で〈駆けるシェパード〉とか歌っているわけです。16歳のときで、来生(きすぎ)えつこ、たかおの姉弟が作った「スローモーション」です。この子はやがて随分つらい経験をすることになるだろうに、まだ何も知らないのだと思って胸が痛むわけです。

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 80年代前半はアイドル界に松田聖子が君臨しており、その後を追う女性アイドルたちがひしめいていました。彼女たちは否が応でも聖子を意識して自らの立ち位置を決めることになります。聖子的なものに追随するか反発するか。はじめのうちは流行り(聖子)にあわせ、だんだん自分らしさをだしていくというのが無難な戦略でした。

 そうした中で、中森明菜は一馬身抜き出ていました。明菜もはじめのころは、特にビジュアル面で聖子の影響が見受けられます。一方、歌については聖子とはかなり異なりました。聖子には変化しながらの一貫性を感じましたが、明菜はシングル曲ごとのイメージの振れ幅が大きくて、それによって存在感をだそうとしたのかわかりませんが、その揺れに精神的な不安定さを感じました。

 二人の関係を喩えれば、聖子が明るい太陽だとすれば、明菜は翳りのある月という感じでした。マツコ・デラックスは「聖子ちゃんはライオン、明菜はチーター」(https://smart-flash.jp/entame/52774/1)と喩えています。他にも、カブトムシとクワガタ、フロイトユング柳田國男折口信夫とか、主流に対する巨大な傍流という関係にあると思います。

 

1-2 口ポカンの意味

 明菜のシングル・レコードのジャケット写真を見ると、あることに気づきます。デビュー曲「スローモーション」(1982年)から8作目の「サザン・ウインド」(1984年)まで、2作目の「少女A」を除き、7作全て、口がうっすら開いていて白い歯が少し見えているのです。曖昧な表情で「口ポカン」とでも言うのでしょうか、半開きというほどだらしなくはなく、口をしっかり結ぶよりも自然さを感じさせます。

ワーナーミュージック・ジャパンHP https://wmg.jp/akina/discography/single/

 

 私が子どもの頃はクラスに何人かいつも口をポカンと開けている児童がいて、学校の先生が「口を閉じなさい。口呼吸せず鼻呼吸しなさい」と注意したものです。口ポカンは口を閉じる口唇閉鎖力が弱いということで、医療関係者は「口唇閉鎖不全症」と言っています。最近の調査では、有病率は児童の3割ほどだそうです。

 本稿で述べる口ポカンはそうした症いとしての口ポカンではなく、芸能人が自分のビジュアルを考えて選び取った見せ方の問題です。(なかには口唇閉鎖不全症と思われる人もいますけれど。)

 まず、芸能人の口ポカンは、それによってどういう印象を与えたいのか、という問題を考えてみます。口をしっかり閉じている顔は、何か意志をもって口を閉ざしているかのような冷たさが感じられます。逆に、はっきり笑っている顔は、そこからただちに言葉が発せられそうな口の形をしているようには思えません。一方、口をうすく開いている顔は、語り出すための閾値が低いように思われてきます。口ポカンは、コミュニケーションをとる用意があることをほのめかしているように見えるのです。

 また、口ポカンで大事なのは、わずかであっても、唇のあいだから白い前歯(1番の歯=中切歯)をのぞかせていることです。これは写真の撮り方(顔の角度やライティング)によりますが、開いた唇のあいだに歯が見えず、暗い空洞がのぞくだけだと魅力が減衰します。

f:id:msktt:20210905200734j:plain上顎 右

 中切歯が見えると幼く感じられます。これは永久歯が生え変わる順番として中切歯が早く生え変わるので、大きく目立つことによるからでしょうか。大きい中切歯は幼さにつながり、無心さ、純粋さを表現しているようにも見えます。一方で、口ポカンはしまりがない顔とも受け取れるので、緩さを見せて誘っているかのようにも見えます。両義的な表情なのです。

 女性アイドルの表情というと屈託のない明るい笑顔が定番ですが、彼女たちもいつも元気でニコニコ笑ってばかりいられるわけがありません。そのため、笑顔には、どこか無理している作り物といったイメージが付随することになります。作為があるために本当のところを隠している、防衛的な表情のように見えます。アイドルに親しみを感じれば感じるほど、その笑顔は仮面をつけているようなよそよそしさ、拒絶の身振りが感じられることになります。そうしたとき、警戒を解いた顔をふと見せられると、仮面をはずしたその人の生の顔を受け取ったように感じられるのではないでしょうか。そのような、あえて油断をしてみせた顔が、口ポカンなのだと思います。これがアイドルの素顔であって、カメラを意識して自己演出している笑い顔は作り物の顔なのだということです。

 民俗学的に言えば、笑顔は非日常の「ハレ」の顔で、口ポカンは飾らない普段の「ケ」の顔です。アイドルは大勢に見られることが仕事なので、いつも「ハレ」の顔を見せています。人目を気にしないときが「ケ」の顔です。「ケ」の顔では無理に口角を持ち上げる必要はありません。口元を緩めていることができます。テレビで歌い終わったあとにホッとして表情が弛緩し、口ポカンになるときがあります。もちろん、それ自体、緊張ー弛緩という緩急をつけるための作為的な演出のひとつでしょう。ですが受容者はそこに素の部分にふれたという意味を見出します。口ポカンは笑顔を作らないことに意味があります。笑顔の欠如、沈黙する表情というゼロ記号として意味作用をもった表情なのです。そして、笑顔とその不在という二項対立において、表現の一角を占めていくことになります。

 

1-3 口ポカンの系譜

 先ほど、中森明菜のシングル・レコードのジャケット写真には口ポカンが多いと指摘しましたが、その元ネタは松田聖子だと推測されます。松田聖子を図像的に見ようとするとその髪型にばかり注目が集まりますが、実は口を図像的にどう見せるかという点においてもこの人は画期的なのです。

 聖子のシングル2作目の「青い珊瑚礁」(1980年)から20作目「天使のウィンク」(1985年)まで、「夏の扉」「白いパラソル」「風立ちぬ」「ハートのイアリング」を除き、15作ずっと口ポカン写真が並んでいます。「風立ちぬ」は口ポカンと言えば言えなくもないですが、これは笑っていますので除外します。口ポカンの要諦は無表情であることです。口角が少しでも上がっていれば、それは笑顔という意味が生じている顔ですから、放心したような口ポカンとは異なるカテゴリーになります。

松田聖子ジャケット写真一覧(ファンの方のブログ)→

 https://ameblo.jp/shoowasongs70s-80s/entry-11718628831.html

 

 聖子はアルバムでも口ポカンを貫いています。徹底しているのです。当時の女性アイドルは少なからぬ人が口ポカン写真を残していますが、私はこれは聖子の影響だと睨んでいます。例えば、伊藤つかさはビーバーみたいな前歯が可愛らしい女優さんですが、1981年に「少女人形」で歌手デビューし、レコードも何枚か出しました。前歯を見せて口ポカンをしているのが彼女の典型的なイメージです。「少女人形」のジャケット写真は「聖子ちゃんカット」で口ポカンをしているので、聖子の妹といった感じになっています。ライティングは前年に出した聖子のアルバム『North Wind』と似ています。

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 伊藤つかさは中切歯(1番の歯)と八重歯が目立っていました。八重歯は犬歯(3番の歯)が外側に重なって生えた状態ですが、犬歯の生え変わり時期は遅いので、顎が小さいなどでスペースがないと八重歯になってしまうのです。八重歯の女性芸能人は少なくないのですが(聖子もそうです)、八重歯が可愛らしさの代名詞だったのは小柳ルミ子です。ルミ子は八重歯をとってしまいますが、そのとき八重歯を粉にして男性ファンにあげたといったエピソードがあったことを記憶しています。仏舎利ですね。それはともかく、伊藤つかさのように中切歯と八重歯が目立つ女性アイドルといえば、石野真子1978年デビュー)や芳本美代子1985年デビュー)も思い出されます。彼女たちは八重歯が売りなのでレコードのジャケットは笑った写真が中心ですが、口ポカンのものも何枚も残しています。

 歯の審美性は容貌の印象に強く関わるので、デビュー前に手術やブリッジ、差し歯などで治療する場合が多いのですが、70-80年代はまだ不完全であることが若さとして価値が認められる場合があったということなのでしょう。

 1982年は女性アイドルが輩出し「花の82年組」と呼ばれていますが(中森明菜もそのうちの一人です)、その中で口ポカン率が高いのは、明菜のほかに三田寛子がいます。三田はきれいな歯並びですが天然おっとり系なので、いかにもアイドルらしい作り笑いよりも自然な口元のほうが似合ったのでしょう。

三田寛子レコード・ジャケット一覧(ファンの方のブログ)→

 http://blog.livedoor.jp/idol80s/archives/48516004.html

 

1-4 聖子のアルバムに見る口ポカン

 では、ここで口ポカンの本家である松田聖子について、そのアルバム・ジャケットについて簡単にコメントしておきます。(は口ポカンでないことを表します。)

 

1作目『SQUALL』(1980年)突然のスコールに濡れた髪、という演出です。口ポカンですが、人指し指を下唇にあてるポーズをとっているので口元が半分隠れています。この時点では、まだ口ポカンだけでは誘引力が弱いと思われたのでしょうか、思わせぶりな指の演技です。

2作目『North Wind』(1980年)明暗のコントラストが強く、髪に強い光があたっていて、顔は反射光を中心とした弱い光で暗くなっています。すでに口ポカンの表情は完成されていますが、ライティングの効果により髪が主役になっています。雰囲気は山口百恵「愛の嵐」のジャケットを思わせます。

3作目『Silhouette』(1981年)二重の自己像というテーマ性の強い図像ですが、絵としてはやや諄(くど)さを感じます。一人は口ポカンの聖子、それを横睨みするもう一人の聖子がいて、こちらは口を閉じています。口を閉じた自分が本当の自分で、口ポカンのほうは作られた自分というふうに読み取れます。ここから、笑顔>口ポカン>口を閉ざす、という順番で本当らしさが意識されているように受け取れて、興味深いものになっています。

4作目『風立ちぬ』(1981年)非常にわずかな口の開き方なので、ふつうなら暗い影になってしまいそうなところですが、唇の奥にある白い前歯は微妙に見えているところにこだわりを感じます。

5作目『Pineapple』(1982年)笑顔のアップですが、聖子の欠点が目立ってしまったように思います。ベース型の顔が強調され、歯並びや法令線のシワが気になります。

6作目『Candy』(1982年)自転車に乗った全身像で、笑っています。顔のアップにも飽きたのか珍しい図像ですが、統一感を欠いています。

7作目『ユートピア』(1983年)また顔のアップに戻り、プールに入ったまま濡れた髪をしています。首から上を水に出しているだけだと温泉に入っているみたいに見えるので、手の演技を加えています。口の開き方は申し分ありません。

8作目『Canary』(1983年)余分な演出を廃してストレートに正面から顔のアップを撮影しています。究極の口ポカン写真。歌番組などでは、長髪でフリルのドレスの明菜に対し、短い髪でタイトなスーツあるいはシンプルなドレスの聖子というイメージが印象に残っています。

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9作目『Tinker Bell』(1984年)口ポカンですが、強い赤の色相に統一され、表情は見分けにくくなっています。イメージに変化をつけたいという意図が感じられます。絵柄は従来どおりで、まずは色に変化をつけてみた、といったところでしょうか。

 10作目『Windy Shadow』以降は、はっきりした笑顔をとる、額を出すなど、これまでと異なる趣向になりますから、以下は省略します。

 松田聖子ジャケット写真一覧(ファンの方のブログ)→

 https://cress30.exblog.jp/12805605/

 

 口ポカンは前髪を垂らすこととセットです。いわゆる「聖子ちゃんカット」では額は前髪に覆われていますし、ストレートにしてからも額は見せていません。聖子は額をださないというのが当時の暗黙の了解でした。実際、映画『野菊の墓』で前髪をあげておデコをだしたことがありましたが、かなりがっかりしたことを覚えています。それが、海外進出するようになってからは徹底しておデコをだし、大人の女性であることを打ち出すようになります。子どもっぽい日本のアイドルのままではやっていけないんでしょう。最近は韓国アイドルが人気ですが、韓国の女性アイドルは前髪なしで日本のアイドルは前髪あり、といった比較もされています。これは韓国アイドルは世界を見据えているのに対し、日本のアイドルはロリコン男性向けに国内で受けることを前提に作られているからだと理解されています。

 脱線しましたが、見てきたように、聖子の口ポカン写真は、たまたまそうなったというわけではなく、あえてそうしているということが明確です。フォトジェニックを意識した明らかに作られた表情です。松田聖子は歌うときにもこちらをチラチラ見ては、口ポカンをしたり軽く首を振る仕草をすることがあります。この中途半端な開示に男性ファンはコロッとやられてしまい、一方で女性たちはそれを「ぶりっ子」と罵るのです。

 口ポカンは歌うときというより、歌い終わったときの半ば放心した状態を表現しているように思います。松田聖子のかつてのテレビ映像を見ますと、口ポカンの状態から口をキュッと閉じたり、あるいは笑ったりという移行を示しています。口ポカンは口を閉じるか大きく笑うかの中途にある境界的な表情のようにも見えますし、油断していると口ポカンになってしまうので、ふと気づいて口を閉じたり照れ隠しのように笑ったりするのだと解釈することもできます。ここにはデフォルト、あるいは「地」が口ポカンであり、唇を結んだり笑ったりするほうが作られた表情(「図」)であるという表現がなされています。

 

1-5 口ポカンをさかのぼる

 では、この松田聖子の口ポカンはさらにその起源を辿れるでしょうか。松田聖子の前の大スターというと山口百恵です。百恵のシングル・ジャケットにも「禁じられた遊び」(1973年)、「白い約束」(1975年)「夢先案内人」(1977年)、「イミテイション・ゴールド」(1977年)、「乙女座宮」(1978年)など口ポカンの写真がいくつもあります。「ささやかな欲望」(1975年)、「白い約束」(1975年)なども極めてわずかですが口を開けています。

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 ただこれらは聖子ほど徹底しているようには見えません。計算し尽くした表情というより、結果的にそうなったという感じです。百恵は三白眼気味の目なのでしっかり口を結ぶとキツい印象の顔になってしまいます。百恵にはヤンキー要素が混じっているので、キツめの表情も重要ですが、緊張感を解いた油断したような表情も多面性の点で重要です。百恵は21歳で結婚して芸能界を引退しますが、口を開けて表情を作って好ましく見えるのは、若いときに限られるかもしれません。

 さて、山口百恵より遡るとどうでしょうか。女性アイドルの嚆矢ともいえるのは南沙織1971年デビュー)です。そのレコード・ジャケットを見ると、沖縄出身らしい陽気な笑顔に混じって、どこか憂いを秘めた口ポカン写真がいくつも存在します。これもまた沖縄の裏面を表象しているようにも思えます。

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 海外にも口ポカンはあります。有名なのは、口を半開きにしたマリリン・モンローの「悩殺」の表情でしょう。顎を突き出して上目遣いになり肩をすくませたポーズが定番です。ただこれは、特別な方向へ意味を持たせた表情なので、聖子らの口ポカンとはカテゴリーが異なってきます。とはいえ他のハリウッド女優にも聖子的な口ポカンは見られますから、日本的な現象というわけではないようです。男性では、口ポカンが一番似合うハリウッド俳優はトム・クルーズでしょう。

 

1-6 中森明菜(から)の展開

 中森明菜に話を戻します。述べたように、デビュー曲「スローモーション」(1982年)から8作目の「サザン・ウインド」(1984年)まで、2作目の「少女A」を除き、7作全て、口ポカンをしています。口ポカンにはいろんな意味があって、性的誘惑、幼児性、自然(弛緩)性など、ないまぜになっていますが、アイドルはこれら全ての要素を兼ね備えています。口をしっかり結んだり、逆に大きく笑ったりすると表情の意味が限定されてきますが、口元を緩めて曖昧にしておくことで、様々な受け取り方に開かれてきます。

 最初のうちは顔を(で)売るためにシンプルな顔のアップばかりだったのが、次第にジャケット・デザインに変化が出てきます。派手な化粧をしたり、全身を映したり、小物に凝ったり、シュールなデザインにしたりします。特にアイドルからアーティストに方向性が変わってくると顔のアップはなくなり、同時に口ポカンへのこだわりもなくなってきます。

 明菜はデビュー曲の来生(きすぎ)姉弟作「スローモーション」が不発で、2作目の「少女A」でブレイクします。「少女A」についてはいくつかエピソードがあって、作詞作曲はすんなりできあがったわけではないようですし、明菜はこれを歌うことを強く拒んだといいます。しかし結果的に「少女A」はその後の明菜の一面を形成する非常に重要な作品になりました。作詞した売野雅勇は、以降、4作目の「1/2の神話」、6作目「禁句」、9作目「十戒」を担当し、明菜は、売野作詞の「ツッパリ路線」と、3作目「セカンド・ラブ」、5作目「トワイライト」という来生姉弟のバラードと交互に歌っていきます。この分裂した二つの路線は、明菜に不安定な危うさをもたらしたのではないかと思います。7作目の「北ウイング」から「旅情シリーズ」が始まり、久保田早紀の「異邦人」を思わせるような「エスニック歌謡」へと向かいます(「ミ・アモーレ」wiki参照)が、これは分裂を統合するための旅立ちだったようにも思えてきます。その間、「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE」などでオリジナリティを模索し、到達点のような「難破船」(カバー曲)に至ります。明菜の口ポカン写真は、来生姉弟のバラードと売野「ツッパリ路線」、そして「旅情シリーズ」の初期に重なっています。これは明菜らしさを確立するまでの試行錯誤の期間だったと思います。

 明菜の口ポカン写真で最上の一枚をあげるなら「トワイライト」のジャケットでしょう。というのも、この40年近く前に撮られた写真には、現在に通じるものがあるからです。口ポカンは今どうなっているでしょうか。私なりに分類してみます。

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 まず、昨今の流行りに「アヒル口」があります。ウィキペディアには「口角が上がり、口先をやや突き出したような形状であることが一般的で、アルファベットのWのように見える。」「1998年にデビューした歌手・鈴木亜美に対して用いられたのが最初」とあります。アヒル口がブームになったのは2010年で、火付け役はブロガーのまつゆうという人です。

 アヒル口芸能人を検索すると、上位に板野友美桐谷美玲鈴木亜美広末涼子らの名前があがってきます。アヒル口は上唇の両端が締められるため、中央部分が開くことがあります。ここでアヒル口は口ポカンに通じています。特に桐谷美玲は上唇の形状が台形になっており、アヒル口というより富士山型の口ポカンといったほうがよさそうです。

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 富士山型の口がさらに発展したものにM字型の唇があります。(発展といっても歴史的なものというより分類上の細分化です。)M字は美容方面での言い方で、アヒル口を表すW字の反対向きのように見えますが、W字のもっと微細な部分に着目したものと言えます。口角の上がりを要件としません。上唇のまんなかの突き出た部分を上唇結節と言いますが、鼻唇溝と上唇結節がM字唇を作ります。上唇結節は、その突出が少ないと唇が平坦に見え、口を閉じたときにできる線も平坦になることから、美容外科のメニューにも上唇結節形成術があるほどで、人は唇に立体感を求めているようです。M字もW字も閉じた唇の線に変化を与えています。

 現在活躍している女優でM字型の唇の典型は新木優子でしょう。M字型上唇は、赤ちゃんに多い形です。新木優子はツンとした雰囲気の人ですが、口元に幼さを感じさせるので人気なのでしょう。唇の形というのは写真の撮り方によっても見え方が変わる微妙なものですが、80年代のアイドルではっきりしたM字型上唇の人というとおニャン子クラブ河合その子が挙げられると思います。この人は口を閉じた写真はどれもはっきりしたM字をしています。顔全体の印象は平凡なのですが、M字であることを含め、口元に目が行くアイドルだったと思います。

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 さて、そこで「トワイライト」の明菜の写真を見てみますと、M字型の唇になっていて、かつ、桐谷美玲のように台形に開いていますから、こうした写真の可愛らしさは40年近くたった今でも通じるものだと思います。

 また、聖子と明菜の唇の写真を見比べると、聖子のほうが平坦な形であると言えそうです。逆に言えば、明菜が口ポカン写真をやると、そのほうが幼く見えるということです。シングル・ジャケットで比べると、明菜の方が一足先に口ポカン写真を卒業しているのはそういう理由があるのかもしれません。

f:id:msktt:20210831202816j:plain 左、明菜 右、聖子

2. 「い」の響く歌

2-1 口の大きさ

 さて、ここまで明菜の口元にこだわってきたのは、明菜が歌うときの口の形が気になったからです。

 明菜はいつの頃からか「歌姫」と呼ばれるようになりましたが、フレーズの終わりで声を伸ばしたり、あるいは消え入るような細い声で歌ったりと自由自在です。例えば「北ウイング」はAメロは囁くように歌い、サビは声を張り上げて歌っています。また、モノマネなどでよく知られるのは「DESIRE」で、「ゲラゲラゲラゲラ バーニンハァーーーーー」と声量を見せつけるかのように声をだしています。他にも「十戒1984)」で「イライラするわあーーーー」などたくさんあります。

 明菜は会話などで笑うと結構口が大きく見える人ですが、歌うときも口を大きめに開けて歌うことがあります。従来、女性は口が小さいほうがお上品だとされてきましたが、今井美樹吉田美和の人気が出てきた90年代あたりから、口の大きい女性に憧れる女性たちが増えた印象があります。今井美樹吉田美和の笑い方はアイドルの形式的な笑顔とは異なって、自由に自分をさらけだしている遠慮のない感じです。

 彼女たちに先行する中森明菜は、すでに80年代において、大きい口であることと自己表現とを結びつけていたと思います。お人形のように可愛いだけのアイドルを脱却し、自分の個性を表現するアーティストへと変化するときに、歌を紡ぎだす器官である口が、外見においても存在感が増したのだと思います。口を大きく開けて歌うことを厭わないのは、自分は歌の職人であるという自覚でしょう。

 明菜と比較すると松田聖子は口の小さい人だと思います。歌い方も、明菜のようにダイナミックな変化をつけた歌い方をせず、可愛らしくまとめる感じです。聖子が大口を開けたという印象があるのは、ゆーとぴあと共演したカプリソーネのCMで、のけぞって笑ったときです。口を横に開いてにっこり笑うのではなく、口を縦に開く「タテ型の笑い」です。人目を気にせず笑う普通の若い女性を演じてみたということでしょうが、既成のアイドルには見られない笑い方でした。

 口の大きさの印象は、左右口角間の長さ、笑ったときに見える歯の本数や歯茎の露出、口の開け方の大きさ等で決まると思います。骨格的には上顎が大きいと歯が見える本数が増えるように思います。また、口を開けたときに口角が作る角度が鋭角ではないと奥の方の歯が他の人より12本多く見えて口が大きく感じられるように思います。(このあたりは個人的な印象論を語っているだけなので「思います」が続きます。)

 次の写真では、聖子と明菜の笑った口を比較すると、上の歯が見える本数は、聖子は片側3~4本、明菜は4~5本あります。今の女優さんは、片側4~5本の歯が見える人がほとんどですから、これをもって明菜は口が大きいとは言えません。むしろ聖子は口が小さい、と言えるかもしれません。

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 口を開けて無理せず笑い、正面から見たとき犬歯(3番の歯)までしか見えない人は口が小さい人と言えるかもしれません。ただ、この条件にあてはまるのは志田未来と若い頃の松田聖子などごく少数です。若い時おちょぼ口だなと思った薬師丸ひろ子も笑うと4本目まで見えています。見える歯の数によって口の大きさが数値化できるかと思いましたが、顔の微妙な角度、笑い方や歯列の特徴、年齢による変化などがあるので一概には言えなさそうです。

 

2-2 明菜の「セカンド・ラブ」

 明菜の歌姫傾向がはっきりしたのはシングル3作目「セカンド・ラブ」(作詞、来生えつこ1982年)ではないかと思います。この歌は、来生たかお大橋純子に書いてヒットした「シルエット・ロマンス」の続編として大橋用に作っておいた曲がお蔵入りになっていたのを姉の来生えつこが歌詞をつけたものだそうです。(https://news.1242.com/article/108788

 この歌の歌い方は語尾を伸張するのが特徴です。それも尻上がりに音圧を高めるように歌うのです。日本の歌は語尾の母音を伸ばすことに心地よさがあるのですが、この歌はそれが強調されています。「セカンド・ラブ」の該当部分を掲げてみましょう。

 

・愛のメッセージ 伝えたいぃぃいいい

・うつむくだけなんてぇぇえええ

・そのひとことが 言えないぃぃいいい

・どこかへ運んでほしいぃぃいいい

・甘いささやきに 応えたいぃぃいいい

・うつむくだけなんてぇぇえええ

・動かぬように 止めたいぃぃいいい

・私をさらってほしいぃぃいいい

・どこかへ運んでほしいぃぃぃいい

 

 伸ばされる語尾の母音は「い」が7回、「え」が2回です。「い」の母音を伸ばすことがほとんどです。他にも「追いかけられるのいやよぉぉぉ」とか「とまどうばかりの私ぃぃ」というのがありますが、こちらは遠慮がちに伸ばすだけです。

 語尾の「い」を歌で伸ばすというのは難しいと思います。口を左右に開く「い」というのは、あまり心地よい響きではないからです。子どもが相手を拒絶するときに「いーっだ」と言いますね。

 この「い」を発音するときは、母音のなかで一番、口唇を横に引っ張る形になります。口を横に開くというのは面倒なためか、語中の「い」は発音されなくなる傾向にあります。例えば「令和」は「れいわ」ではなく「れぇわ」、「平成」も「へいせい」ではなく「へぇせぇ」。口を横に大きく開くのは経済性に反するんですね。

 日本語の五つの母音のなかで、「い」「う」は口腔内を狭く使って発音する狭母音です。「あ」は広母音、「え」「お」はその中間です。狭母音「う」は後舌母音で暗い感じがする一方、同じ狭母音の「い」は前舌母音で明るい感じがします。「う」のように口の後ろの方で音を作るとくぐもってしまうんですね。

 「日本語の母音における音象徴の研究」(吉岡ちさと、2004年)によれば、「大きい、小さい」「明るい、暗い」「広い、狭い」という概念と日本語の5母音のイメージとの関係を調べたところ、「い」は「小さい」「明るい」「狭い」といった印象と結びついているようです(調査対象、日本人女子学生93人)。音のイメージが「明るい」というのはわかりますが、「小さい」「狭い」というのはどういうことでしょうか。飯野布志夫は『音ものがたり』(鳥影社、2020年)という語源を考えた本で、「い」の音の意味は、存在しているものが「一点に集中していること」だといいます(28ページ)。例えば「一(いち)」「石(いし)」「今(いま)」というのは何か一点に凝集した感じがしますね。その語源としての正否はともかく、ここで言われているのは、「小さい」「狭い」ということと同じように思えます。もう少し感覚的に言うと「鋭い」ということでしょうか。「い」は5母音の中では、明るさとキツさを持った音だということです。だからずっと「い」を聞かされていると「いらいら」して「胃」が「痛く」なってくるかもしれません。

 他の母音と比べてみると、よく例にだされる笑い声の比較では、「あはは」「いひひ」「うふふ」「えへへ」「おほほ」で、なぜか「い」が一番イヤな感じの笑いという気がします。「い」という音は耳につく性質を持っているので、それを長く伸ばして耳に心地よいものにするのは難しいのではないかと思うのです。肝心なのは、「い」が強調されるといつも不快ということではなく、使いこなすのが難しいだろうということです。だから、事例が少ない「はず」だということです。

 さて「セカンド・ラブ」の歌詞を見ると、何々してほしいとか、何々したい、というように、語尾がちょうど「い」で終わっていて、それを伸ばしています。「い」で終わるように歌詞を合わせたかのようにも思えます。

 歌詞を読むと、何々してほしいとか、何々したいとか、心の中で思うだけで、実際やったり言ったりしたわけではありません。〈そのひとことが 言えない〉で、〈とまどうばかりの私〉を歌っています。そういう曖昧な態度の〈私〉なんですが、実は心の中ははっきり決まっているという思いの強さを、伸ばされる「い」のキツい響きによって歌い手は表現しようとしているのではないでしょうか。

 ついでに言うと、この歌詞には格助詞「に」が印象的に使われています。歌詞の1番では〈上手に〉とあるだけですが、2番になると〈器用に、ささやきに、舗道に、動かぬように、さよならに〉と多用されています。この「に」は、「い」列の音ですが、やわらかい感じの響きです。

 

2-3 沢田研二「ヤマトより愛をこめて」

 語尾の「い」を長く伸ばす歌い方で印象に残っている歌が他にあります。沢田研二「ヤマトより愛をこめて」(作詞、阿久悠1978年)です。

 語尾を伸ばしている部分を掲げてみます。

 

・君は手をひろげて守るがいいぃぃぃぃ

・身体を投げ出す値打ちがあるぅぅぅぅ

愛する人のためだけでいいぃぃぃぃ

・今はそれだけかもしれないぃぃぃぃ

・今はさらばと言わせないでくれぇぇぇぇ

・君は手をひろげて抱くがいいぃぃぃぃ

・確かに愛した証があるぅぅぅぅ

愛する人のためだけでいいぃぃぃぃ

・今はそれだけかもしれないぃぃぃぃ

・今はさらばと言わせないでくれぇぇぇぇ

・今はさらばと言わせないでくれぇぇぇぇ

 

 この歌では語尾の「い」を伸ばしているのが6回、「う」が2回、「え」が3回あります。何々がいい、何々でいい、という歌詞なので、歌詞とも相まって「い」が印象に残ります。

 中森明菜沢田研二も、どちらの歌詞も、何々してほしい、何々したい、何々がいい、何々でいい等、語尾が「い」になる形式が繰り返されているところが特徴的です。歌詞と曲と歌い方の三者がみごとに一致した例だと思います。曲が歌唱法を決定づけるのは当然だと思いますけど、この2例の場合はさらに歌詞が効果をあげるのに一役買っているようです。

 他にも「い」を響かせる歌があったら探していきたいぃぃぃぃと思います。

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