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流行歌の歌詞について

ビスケットはなぜ増えるのか~まど・みちお「ふしぎなポケット」

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 まど・みちおが作詞した童謡で誰もが知るのは、「やぎさんゆうびん」(1939年)、「ぞうさん」(1951年)、「ふしぎなポケット」(1954年)の3つであろう。ここに「一年生になったら」(1966年)を加えて4つにしてもよい。

 岩波文庫版『まど・みちお詩集』(2017年)を編纂した詩人の谷川俊太郎は、「やぎさんゆうびん」と「ぞうさん」について、同書の解説でこう書いている。

 

「この二曲の歌詞は、まどさんが最初から歌になることを意識して書いたもので、歌詞にユーモアとウィットがありますが、詩として見た場合にはさほど優れたものではなく、人気はその多くを團伊玖磨の作曲に負っていると言ってもいいでしょう。」(337頁)

 

 厳しい評価だが、歌詞を詩の基準で判断して優劣をつけるのは無理がある。歌詞に「ユーモアとウィット」があれば十分であろう。それさえないのが殆どである。「ふしぎなポケット」と「一年生になったら」は、同書に収録すらされていないので、さらに劣ると考えられたのだろう。

 ところで、同書収録の「やぎさんゆうびん」を読んで私は「おや?」と思った。

 

  しろやぎさんから おてがみ ついた

  くろやぎさんたら よまずに たべた

  しかたがないので おてがみ かいた

  −−さっきの おてがみ ごようじ なあに

 

 この〈さっきの おてがみ/ごようじ なあに〉というところは、私の子どものころは〈さっきの てがみの/ごようじ なあに〉と歌っていたのである。この疑問は同書を読み進むとすぐに解けた。まどは修正した経過を書いていたのである。もともと私の記憶どおり〈さっきの てがみの〉だったが、それを〈さっきの おてがみ〉に直したという。「第一行も第三行も「おてがみ」なのに末行だけが「てがみ」ではおかしい。ましてこれは相手の手紙をさすのだから、と考えたのです。」(275頁)ところが直した後になって、相手の手紙を食べてしまうほどのトンマなヤギなので、その語法もトンマであっていいと思い、元に戻したくなったと1987年のエッセイで書いている。『詩集』の収録作は「おてがみ」のままなので、結局元には戻さなかったのだろう。だが、You Tubeにあがっている動画や、歌詞検索サイトの歌詞はほとんどが「てがみの」になっており、沢知恵(さわともえ)による歌だけが「おてがみ」になっていた。典拠が混在しているようだ。誰も作詞者が歌詞を修正するなどとは思ってもいなかったのだろう。

 何を言いたいかというと、作詞者は子どもだましに適当に書き飛ばしたのではなく、言葉の隅々にまで気を配っていたということだ。実際、これらの作品は幼稚園児にその歌詞の内容を聞いてもわかるほど明朗なものだが、だからといってたわいのないものとして切り捨てられるものではない。わかりやすさの裏に隠された意外な深みや奇妙な味があるのである。「やぎさんゆうびん」はエンドレスにループする構造が面白がられるし、「ぞうさん」はイジメを諭す文脈でしばしば語られることがある。

 「一年生になったら」は謎のある歌詞としてネットで話題になった。謎というのは一つの格助詞についてである。一年生になったら友達100人できるかな、と期待に胸をふくらませ、〈100人で食べたいな 富士山の上でおにぎりを〉というのであるが、自分と友達あわせれば101人のはずなのに一人足りないというのである。その一人はどこに消えたのか。〈富士山の上〉に着くまでに何があったのか。実は怖い童謡なのだということである。

 これは〈100人と〉ではなく〈100人で〉とあることから生まれた疑問である。この場合の格助詞〈で〉は、構成要素を表していると考えられる。一方、〈で〉には、数量を限定する意味もある。〈100人で〉は「この100人のメンバーで」という意味の他に、「100人の範囲を超えない」という意味も漂わしていることになる。きっちり100人と線引きしてしまうことによるシビアさみたいなものに敏感に反応したことにより生じた「謎」であろう。〈100人で食べたいな〉ではなく、もっと緩く〈みんなで食べたいな〉とすればよかっただろうが、歌詞のミソは100人という大きな数字を強調することであるから仕方ない。

 以上は私の解釈だが、この歌詞についてはネットに考察が出回っているのでご覧になれば良い。幼児は自分を勘定に入れないという「「友達100人できるかな」のナゾに迫る!」(https://ameblo.jp/ryou5533/entry-12382947335.html)が面白い。

 

2

 まど・みちおによる先の四つの作品のうち、「ふしぎなポケット」は素朴すぎるのかあまり取り上げられることもないので、今回考察してみたい。子どもの頃、この歌のマネをして、ポケットにビスケットを入れて叩いてみたことがある人は多いだろう。それで粉々になったビスケットでポケットを汚した経験をしたことがあるはずだ。そもそも袋に入れないでポケットに直接食べ物を入れるのは大人になった今では汚くてできない。

 そういった思い出はともかく、実はこの歌もなかなか奥の深い歌なのである。まずはその歌詞を掲げておこう。

 

 ふしぎなポケット(作詞、まどみちお

 

ポケットのなかには ビスケットがひとつ

ポケットをたたくと ビスケットはふたつ

 

もひとつたたくと ビスケットはみっつ

たたいてみるたび ビスケットはふえる

 

そんなふしぎな ポケットがほしい

そんなふしぎな ポケットがほしい

 

 〈ひとつ〉〈ふたつ〉〈みっつ〉と同じような響きの語が反復され、〈たたく〉という語も繰り返される。〈ポケット〉と〈ビスケット〉も響きを共有している。ラッパーがライムの参考にしてもいいくらいの歌詞である。

 歌詞はシンプルな言葉で組み立てられているが、表面に見える素朴さの裏に意外な奥行きを持っている。

 歌詞は日常の中に非日常を呼び込む。〈ポケットのなかには ビスケットがひとつ/ポケットをたたくと ビスケットはふたつ〉というように、ありふれたポケットが手品師のシルクハットと化す。合理的に考えれば、ポケットを叩いたら増えるビスケットというのは、たんに割れてしまったのだということになる。割れて破片が〈ふたつ〉〈みっつ〉と増えていくのである。しかしそれも奇妙である。増え方が1,2,3と等差数列になっているのであるが、ビスケット全体に均等に力を加えたとして、破片の大きさが2分の1づつの割れ方をするとしたら、破片の数は1、2、4、8と幾何級数的に増えていくはずである(この場合、破片が細かくなるほど大きな力が必要になる)。もしビスケットが割れて破片の数が増えていくことを喜んでいるとしたら、破片の数は増えるが全体の量は増えていないので、それで喜ぶのは数字にだけ注目することの愚かさを意味することになる。だが、叩いた回数と同じだけビスケットの数が増えていくということは、破片が増えているという事態を意味しない。ここは文字どおり、ビスケットまるごとについての数を指しており、全体の量が増えているということであろう。(1,2,3の後、どのように増えたか書かれておらず、示された項数が短すぎて対応する関数が判断できないが、ここでは1回叩くとポケットの中のビスケットは n+1 枚になっているとする。)

 こうした疑問への迂回を誘うのは、〈ビスケットがふたつみっつ〉と汎用的な助数詞〈つ〉を使っているため曖昧になっているからである。もし〈ビスケットが二枚三枚〉という表現であれば迷わされることはない。

 ポケットを叩いて増えていくのは破片になったビスケットではなく、ビスケットの枚数であることは歌詞を最後まで読めば文脈からも理解できる。〈そんなふしぎな ポケットがほしい〉と言っているのである。ビスケットの破片が増えていくのでは不思議でもなんでもない。叩くという行為によってもたらされる物理法則にかなっている。手品みたいに原型のまま増えるということであれば不思議である。

 タイトルで「ふしぎなポケット」とすでに述べているではないかと思われるかもしれない。だが、「ふしぎなポケット」とあるだけでは、現実のポケットの中で割れたビスケットをビスケットが増えたことにして自分をごまかしているようにも考えられる。私たちも食べ物を小分けにすることで、一度に食べる量を減らし、口にする回数を増やすことで、全体の量が増えているわけではないのにそれと似た錯覚を作り出している。実際、〈そんなふしぎな ポケットがほしい〉というフレーズがなければ、この歌は貧しい子どもの自己欺瞞のようにも受けとれる。〈ほしい〉とあることによって、夢が述べられているのだということがはっきりするのである。

 この歌は「貧しさ」という文脈で解釈しなければ、その切実さが理解しにくいのではないか。この歌が書かれた1954年というのは敗戦後まだ10年とたっておらず、高度経済成長の手前で国全体が貧しかったころである。そういうときビスケットという西洋のお菓子に対する憧れは、欲しいモノが簡単に手に入る今の私たちからは想像しにくい。ポケットの中にビスケットが入っていたらいいな、そして叩けばどんどん増えていつまでもなくならなければいいなというのは、当時の子どもの夢想として大いにありうることだ。

 〈ポケットのなかには ビスケットがひとつ〉とあるが、多くの子どものポケットの中には1枚のビスケットどころか何も入っていないであろう。なにかの機会にもらうのを待つか、もらっても兄弟で分けるから取り分は少ない。運よく手に入れたら、その1枚を宝のようにポケットに入れて、それを元手に増やしていく。そういう歌ではないか。

 夢を語って言葉にしてみることで満足を得ようとするのは、最も安上がりな方法だ。しかしそれと引き換えに、叶いそうもないことを教えられることで、かえって苦しみが増してしまうこともある。

 

3

 ビスケットが増える不思議なポケットと聞いて多くの人が連想するのが、『ドラえもん』(1969年)の四次元ポケットであろう。だが「ふしぎなポケット」はドラえもんのポケットとはかなり違って質素である。

 それにしても、なぜビスケットはポケットの中に入っているのか。ポケットを叩くとビスケットが増えると想像されるのはなぜなのか。

 ポケットというのは服についている小さな袋である。袋というのはそこに何が入っているか外からは見えない、物を隠してしまう容れ物である。クリスマスに枕元に靴下を置いておくのは、靴下が小さな袋だからである。その中に何が入っているのか取り出してみるまでわからない。隠されていることでワクワク感が生じる。何が入っているかわからないということは、何でも入っている可能性があるということだ。

 小さな袋からいろいろいろなものが溢れ出てくるという話は昔話(民話)にもよくある。小さな袋や小さな箱と言うのは不思議な世界につながっているマジカルなものである。泉のように溢れ出てくるもの、使っても使っても使い切れないものである。

 例えば「正太の初詣」という広島の民話はこういう話だ。初詣に行って神様から袋をもらい、「家に帰って袋に手を入れると中から小判が1枚出てきた。正太と母親は喜んで、小判を袋に戻すと、袋が動き出し、小判が2枚になった。さらに2枚を袋に入れると、小判が4枚になった。」http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=346&cid=58 この民話は「ふしぎなポケット」とよく似ているが、こちらの話は幾何級数的に小判が増えていく。

 また、「塩吹き臼」という山形の民話は、欲しいものを言いながら臼を右に3回まわせば何でも出てくる、止めるときは左にまわすというものである。臼から米や小判が出てくるが、海で魚を食べようとして塩味が足りないので臼から塩を出したが止め方を知らない者が使ったので塩があふれ、以来、海がしょっぱくなったという起源譚になっている。

 臼は穀物をすりつぶして粉にする道具だが、内部には隙間があるので、これも小さな袋といっていいだろう。臼は、入れたものと違うものに変換されて出てくるのが一層不思議がられたのだろう。

 「紅皿欠皿」や「米福粟福」といった民話では、山姥から、3度たたけば何でも欲しい物が出る小箱をもらう(いろんなバージョンがある)。今でもお正月の売出しには福袋が欠かせないが、袋に入れることがすたらないのは、袋の中に入れていったん隠すことで神秘さが演出されるからだろう。

 ドラえもん』の四次元ポケットも、これらの民俗学的な伝承とつながっている。『ドラえもん』の前作は『ウメ星デンカ』(藤子・F・不二雄1968年)で、このマンガでは、小さな壺からいろんなモノが出てくる。ドラえもんのポケットもデンカの壺も機能は同じである。壺は玄関に飾られることがよくあるが、それは壺が無限に富を生み出す幸福の象徴と考えられているからだろう。近年の創作では『なんでもやのブラリ』という絵本では、ネコのブラリは何でも出てくる不思議な袋を持っていて、出会った人に欲しいもの与えるというもの。

 袋や壺や小箱に似たものは他にもある。そこから鳩が飛び出す手品師のシルクハットも小さな袋である。シルクハットの不必要なほどの深いハイクラウンは魔法使いの三角帽子にも似て不可解さを演出する。『西遊記』で金角銀角を吸い込むのは瓢箪である。『アラジンと魔法のランプ』ではランプから大きな魔人が出てくる。物理的な容量をはるかに超えたものが小さな容器に入っている。内部に空洞をもつ瓢箪やランプの空虚な暗闇が異世界そのものなのである。

 ポケットだけではなく袋状のもの一般がそもそも謎めいた性質をもたされている、ということを述べてきた。不思議なのはビスケットではなくポケットのほうである、ということだ。ビスケットを叩いてビスケットを増やすのではなく、ビスケットをくるんでいるポケットを叩いてその中にあるものを増やすのである。ビスケットを叩いてもポケットを叩いても、行為としては同じに見えるが、行為が作用する対象が異なる。

 ここにあるのは、くるむこと、包むことのもつ不思議さである。くるむこと、包むことに対する想像力は、また『ドラえもん』のひみつ道具でいえば「タイムふろしき」に見られる。いくども映画化された『のび太の恐竜』では、化石の卵を風呂敷でくるむことで生きた卵に戻す。風呂敷に包まれたものだけの時間を逆行させるタイムマシン装置である。肝腎なのは、なぜそれが包むものとして発想されたかということだ。「タイムふろしき」には「翻訳こんにゃく」のような語呂合わせからの連想はない。ものを包むということについての神秘的な感覚が作者にあったのではないか。

 

4

 ポケットはそれじたい不思議な容れ物である。では次の問題は、なぜ叩くと増えるのか、ということである。叩くとはどういう行為なのか。

 この歌の場合、それは、モノの機能を賦活する呪術的な試みといえるであろう。テレビの映りやラジオの受信状態が悪いときは、筐体を叩いてみるということを昔はよくやった。接触が悪かったりするときはそれで治ることもあった。どこが原因かわからないが、全体に微量に物理的な衝撃を加えてみるのである。すると、中の仕組みはどうなっているかわからないにもかかわらず、叩くという行為をすることで、不思議なことに治るのである。叩くことは調子を元に戻す、場合によってはそれ以上にする。叩くことじたいにマジカルな力が宿っているかのように思えてくる。大人が子どもの「頭を叩く」ような場合も、頭の内部の働きがうまくいっていないので、外部から物理的な衝撃を加えることで、内部が調整されると(多少でも)考えられているのではないか。

 たんにビスケットがポケットに入っているだけでは何事もおこらない。寝ている人を起こすようにポケットを叩いてやることで、ポケットの不思議な機能が目を覚まし、ビスケットを複製するのである。

 歌では、ポケットの中にもともとビスケットが1枚入っていたことになっている。そのビスケットをどこから入手したかはわからない。ただそれは貴重な1枚なので、なんとかこれを資本にしてそれを増殖させたいと考えた。そのとき叩けば増えるポケットがあればいいなあと思ったのだ。何も入っていないポケットを叩いても何も生み出せない。無から有を生み出すのは錬金術でも不可能だ。だがコピーして増やしていくのならなんとかなるのではないか。子どもはビスケットをすぐ食べて欲望を充足してしまうのではなく、いったん我慢してそれを増やすことを考えたのだ。手に持ったビスケットをポケットに入れて目の誘惑から隠す。まずは禁欲が必要なのだ。

 〈そんなふしぎな ポケットがほしい〉とあるように、子どもは、ビスケットを欲しいと言うのではなく、ポケットが欲しいと言うのである。富そのものではなく富を生み出すものが欲しいと言う。大人がこの歌を聞いてニンマリしてしまうのは、ビスケットをお金に読み替えるからであろう。

 

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 さて最後の問題は、なぜポケットに入っているのが他のなにかではなく、ビスケットなのか、ということである。

 ビスケットは小麦粉にバターなどを加えて焼いたお菓子だが、作りやすさ、食べやすさから、そのほとんどは平たい形状をしている。一方、服のポケットというのは服の生地にもう一枚布を重ねて縫いあわせたものであり、あくまで服の従属物であって、その形状も服のシルエットを大きくは乱さないものになっている。(この歌の場合に想定されているのはズボンなど下半身に着る服ではなく、上半身に着る服のうち上に羽織るタイプのものについているポケットであろう。)そのため、服のポケットには限定的な形状の物しか入らない。あまり立体的なものは無理である。そうした服のポケットに入るような平面的なもののうち選ばれたのがビスケットである。

 平面的なお菓子なら煎餅(せんべい)でもいいではないか。だが煎餅ではなくビスケットであるのは、1950年代の日本の子どもたちにとって、それが外国への憧れを象徴するような食べ物であり、煎餅ほどには身近にないものだからであろう。ビスケットじたいが、舶来のよくわからない不思議な食べ物なのである。実際、この歌ができてから70年近くになろうとしている今の私たちでさえ、ビスケットとクッキーとサブレとクラッカーの違いがよくわからない。一方、煎餅のほうが身近でありがたみが薄い。ポケットの中に煎餅が入っていたとして、それが叩いて増えたとしてもあまり嬉しくない。そもそも煎餅は増えそうな気がしない。そう考えると、不思議なのはポケットばかりではなく、ビスケットもそうであって、増えるのは両者の相互作用なのだということになる。また、クッキーでなくビスケットであるのは、クッキーのほうが高級で大人向けのお菓子であるのに対し、ビスケットのほうが庶民的で子ども向けのお菓子だからであろう。