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流行歌の歌詞について

アニメソング(ロボットアニメ編)

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 ネットフリックスで『機動戦士ガンダム』を通して見直した。もう2,3回見ているはずだが、「あれ?こんな話だったっけ?」と思うところが多々あった。Gアーマーが結構活躍していたり、後半はジオンはモビルスーツよりモビルアーマーが主体になったりとか、記憶はいい加減なものだと思った。

 作画は崩れているところが少なくないが、ガンダムの動きようのない関節部分を隠して自然な動きに見せるなど、職人ワザを感じた。ただ、決めポーズなどセル画の使い回しが多いのが気になった。また、リアルロボットものと言いながら、空中換装とかジャンプして空を飛んだりするなど重力を無視している。木馬もあんなにゆっくり動いてよく落ちないものだと思う。ただ、最終回はちょっと感動して泣けた。

 その後のシリーズはモビルスーツの動きが早すぎて、火花が散っているだけで何をやっているのかよくわからず、メカの動きの楽しさというのが半減している。ファーストくらいゆっくりなのがちょうどいい。

 巨大ロボットものといえば、『砲神エグザクソン』を映画化してくれないかな。実写でもアニメでもいいけれど。

 以下、鉄腕アトムマジンガーシリーズ、機動戦士ガンダムというロボットアニメの歌詞についてふれてみたい。

 

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 鉄腕アトム』は一九六三年から放送された、日本初の本格的なテレビアニメシリーズである(手塚治虫の漫画は一九五二年連載開始)。その三一話から使用された主題歌を、詩人の谷川俊太郎が作詞している。五〇年以上前になる。

 〈空をこえて ラララ 星のかなた ゆくぞアトム ジェットの限り〉という歌は誰しも知っているであろう。私はこの歌詞に違和感があった。〈空をこえて〉というけれど、空って越えられるものなのだろうか。山を越える、峠を越える、海を越えるとは言うが、空を越えるとはどういうことなのだろう。

 何かを「越える」ためには、そこに目印がなければならない。山や海はある範囲として区切ることができ、富士山とか日本海といった固有の名付けをすることができる。それらを「越える」ことは可能である。ところが、空はのっぺりとしていて境界がなく、特定の範囲で区切ることができない。領空権というのはあるが、それは地上の権利を空に延長したもので、空じたいに目印があって区切られたものではない。

 ネットには「あの空をこえて」という用例が見つかったが、範囲が曖昧であっても「あの」と特定されれば「越える」ことは可能である。ということで〈空をこえて〉という歌詞は不思議だと思っていた。

 だが、アトムの歌詞をよく読むと、〈空をこえて〉の後は〈星のかなた〉と続くのである。アトムは〈空をこえて〉〈星のかなた〉へ行ったのである。空を地表と並行した空間と考えていたから区切りはないと思っていたのだが、垂直方向で考えると、地球の大気圏(=空)を越えて宇宙空間に出ていったということであれば、空にも区切りが生じるので、「越える」ことができるのである。アトムのジェットでは大気圏を突破できそうにないが、そこは詩的誇張でる。〈空をこえて〉と〈星のかなた〉のつながりが〈ラララ〉で遮られていたからわかりにくかったのだ。アトムは〈ラララ〉と楽しそうに鼻歌でも歌って空を越えていきそうだ。

 

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 鉄腕アトム』から一〇年ほどで『マジンガーZ』(一九七二~七四)が放送される。アトムはロボットとはいえ人間サイズで、やっていることはスーパーマンと同じだ。人間の肉体的な能力を強化したらどうなるかという想像力である。だが、ロボットが巨大になると別種の想像力が必要になる。

 そのひとつは、ロボットの他に操縦する人が別に存在するようになるということである。アトムにもプルートという大型ロボットが登場するが自律型であり、この点でアトムと同じだ。巨大ロボットのさきがけとして『鉄人28号』(横山光輝、一九五六年)があるがこれは外部からリモコンで操縦している。アニメ版では、〈いいも わるいも リモコンしだい〉(作詞、三木鶏郎、一九六三年)と歌われる。鉄人は人間臭さを持たない、モノであることがはっきり歌われている。

 続く『魔神ガロン』(手塚治虫、一九五九年)は、不完全な自律型ロボットに人間が組み込まれ一体化することで正常に作動するというものである。『バビル2世』(横山光輝、一九七一年)の「三つのしもべ」のポセイドンは巨大ロボットで、テレパシーで操縦される。悪人のテレパシーが強ければ悪人の意のままになる。『マジンガーZ』になると、ガロンやポセイドンのような超科学的、魔術的要素がなくなり、人間が操縦しなければ微動だにしない鋼鉄の物体となる。人間の身体の延長となる人型巨大ロボットという位置づけができあがる(但し、その後のマジンガーシリーズやゲッターシリーズは先祖返りして魔術化する)。挿入歌の「Zのテーマ」(作詞、小池一雄)に〈人の頭脳をくわえたときに〉とあるように、操縦席はまさにロボットの頭部にあるが、操縦者はロボットの脳の比喩なのである。

 マジンガーZ』はその後、『グレートマジンガー』(一九七四~七五)、『UFOロボ グレンダイザー』(一九七五~七七)と続いていく。グレンダイザーはデザインの都合からか、操縦席が口の部分になっている。コクピットの位置の問題は、ロボットと人との関わり方を象徴する。ガンダムエヴァンゲリオンでは、それは腹部になっている。特にエヴァでは、それは母の胎内の比喩になる。

 

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 マジンガーZ』の主題歌「マジンガーZ」(作詞、東文彦)や『グレートマジンガー』の主題歌「おれはグレートマジンガー」(作詞、小池一雄)では、〈とばせ鉄拳 ロケットパンチ〉とか〈必殺パワー サンダーブレーク〉といったように武器の名前を連呼している。ただ、同じく武器の名前を呼ぶとしても『Z』と『グレート』では文脈が違う。

 『Z』の主題歌は、〈くろがねの城〉のように大きい〈スーパーロボット〉があるよ、武器もすごいでしょ、とその存在に対する驚異と賛辞をおくる歌詞である。それが『グレート』になると〈悪を撃つ〉〈必殺パワー〉〈わるいやつらをぶちのめす〉〈むらがる敵をぶっとばす〉ためのものになる。殺戮をカッコよくみせるための手段である。マジンガーは〈俺は涙を流さない〉とロボットの非人間性が強調されており、情けは無用なのである。涙は流れないけど〈燃える友情〉は〈わかるぜ〉という。それは〈キミといっしょに 悪を撃つ〉ための勧誘のための友情だから〈わかる〉のである。グレートマジンガーは好戦的で、武器は敵を効率的に倒すための道具である。「倒すべき相手」のことに全てが収斂していく。

 それが『グレンダイザー』になると、主題歌「とべ! グレンダイザー」(作詞、保富康午)は一転して「守るべき対象」へと視線を移している。『グレート』がハードな戦闘ものだったので、ソフト路線に変更したのであろう。〈守りもかたくたちあがれ〉とか〈守れ守れ守れ人間の星〉と歌っていて、攻めるより守るほうに力をいれている。歌詞の二番になっても〈攻撃軍をくいとめろ〉〈悪の望みをはねかえせ〉となっている。敵をやっつけろという歌詞ではない。守りに専念するという思想がある。他にも〈大地と海と青空と〉とか〈友とちかったこの平和〉〈正義と愛とで輝く〉とか、自然を愛する腑抜けな平和主義者みたいな歌詞なのである。

 ただ、スーパーロボットとしてのグレンダイザーは武器が満載で、第一話では一〇種類の武器を次々に繰り出してはカメの化け物みたいな敵を撃退するのである。巨大ロボットはいつからこんなに全身に武器を装備するようになったのか。

 オープニングの歌では武器の名前は出てこないのだが、エンディング「宇宙の王者グレンダイザー」(作詞、保富康午)には〈切り裂け怒りのダブルハーケン〉とあって攻撃度がアップしている。こちらのほうがむしろオープニングっぽい。実はこのエンディングは『グレンダイザー』のパイロット版であるアニメ映画からの流用だから、こちらが主題歌っぽいのも当然である。とはいえ、こちらにも〈地球の緑の若葉のために ただ一輪の花のために〉と自然への愛を語る歌詞がついている。主人公は異星の王子様なのでふだんは野蛮から遠いのである。

 『グレンダイザー』は海外で放送され、そのヨーロッパ的な雰囲気もあってフランスで人気が高かった。マジンガーシリーズでは世界観が異なる作品で、前作に強引に接続した感じがある。これが同じシリーズであることを担保しているのはロボットのデザインに共通性があることで(グレンダイザーにも兜甲児がでてくるが、役どころは兜甲児である必要がない)、宇宙人が作ったものなのに地球人が作ったものとそっくりなのである。丸みをおびた白黒ツートンのボディと、胸と頭部の赤、ツノの黄色などが共通している。

 グレンダイザーの大きなツノは、グレートマジンガーのL型の耳の発展ともいえるが、直接的にはウルトラマンタロウ(一九七三年)の影響だろう。グレンダイザー(一九七五年)のあとガイキング(一九七六年)もそれを取り入れている。あの頃、頭に牡牛のような巨大なツノをつけたマッチョなデザインが流行ったのである。ジャンルが成熟してくると差異化するために尖ったところが増えてきて巨大化する(これは後にガンダムシリーズに顕著である)。グレンダイザーの頭部のデザインは海賊ふうでもある。『小さなバイキング ビッケ』(一九七四年)というアニメがあって、そのヘルメットとそっくりである。これもヨーロッパで受けた理由のひとつだろう。

 

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 マジンガーZ』や『グレートマジンガー』の歌詞(オープニング、エンディング、挿入歌)では、次のような部分が目につく。

 

・見たか君は マジンガーZ/きいたか君は マジンガーZ (「ぼくらのマジンガーZ」作詞、小池一雄、一九七二年)

・この広い空は おお誰のもの/君のもの ぼくのもの みんなのものだ(「空飛ぶマジンガーZ」作詞、高久進、一九七三年)

・キミといっしょに 悪を撃つ(「おれはグレートマジンガー」作詞、小池一雄、一九七四年)

・ぼくらもたたかう きみといっしょに(「勇者はマジンガー」作詞、小池一雄、一九七四年)

 

 この〈君(きみ、キミ)〉というのは、作中人物に対してではなく、視聴者である「ちびっ子」に対しての呼びかけである。〈キミといっしょに悪を撃つ〉という歌詞があるが、このころの男の子向けのアニメには〈正義〉という言葉もよく使われていて、正義のために一緒に悪を滅ぼそうと子どもたちをいざなうのである。ロボットを操縦するヒーローもテレビを見ている子どもたちのために戦っているのであって、テレビの向こうに座っているからといって無関係では済まないのである。呼びかけることで番組に取り込もうとしているのである。物語の中に、視聴者が共感できる小学生くらいの子どもが出てくるのとやり方は同じだ。これは〈君(きみ、キミ)〉だけでなく〈ぼくら〉とか〈みんな〉という歌詞でも同じである。

 マジンガーシリーズ以外で〈君(きみ、キミ)〉が出てくるロボットアニメの歌をいくつか掲げてみる。

 

・太陽は真っ赤 真っ赤は きみの顔 ぼくの顔 (「すきだッダンガードA」作詞、伊藤俊也、一九七七年)

・君の地球が君の平和が 狙われてるぞ(略)守って見せるぞ 君の幸せ (「大空魔竜ガイキング」作詞、保富康午、一九七六年)

・それが地球 君のふるさと/君もいつの日にか この星守り (「星空のガイキング」作詞、保富康午、一九七六年)

・君知ってるかい 宇宙の戦士/君知ってるかい 正義の心 (「がんばれ宇宙の戦士」(作詞、八手三郎、一九八〇年、『宇宙大帝ゴッドシグマ

 

 なかでも『大空魔竜ガイキング』の二曲は〈君〉へのアプローチが強い。作詞はいずれも保富康午で、この人はロボットアニメではないが他にも呼びかけ調のアニメソングを書いている。

 

・行こうか君 おいでよ君(略)君と行こうよ 緑の道を (「おれはアーサー」作詞、保富康午、一九八〇年、『燃えろアーサー 白馬の王子』)

・君が気に入ったなら この船に乗れ (「われらの旅立ち」作詞、保富康午、一九七八年、『宇宙海賊キャプテンハーロック』)

 

 これらは私が子どものころによく見た番組の主題歌やエンディングなのだが、テレビの向こうから呼びかけられるのは笛吹き男に踊らされるようで落ち着かなかった。

 

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 次に『機動戦士ガンダム』の主題歌「翔べ! ガンダム」(作詞、井荻麟、一九七九年)についてみてみよう。作詞の井荻麟は、当該アニメ作品を監督した富野喜幸(現、富野由悠季)の筆名である。

 いかにもロボットアニメらしい単純な歌詞であるが、そのためかえって作品の内容にそぐわないものになってしまった。このアニメ作品はそれまでにないロボットアニメの境地を切り開いたものなのに、残念なことにそれにふさわしい歌詞ではなかった。

 〈怒りに燃える闘志〉とか〈正義の怒り〉とか〈うず巻く血潮を燃やせ〉とか、熱血ヒーローを思わせる言葉が出てくるのだが、ガンダムを操縦するアムロはそういう激しさを持ったタイプではなく、反対に、思慮深く冷静で、イジケやすいところもあるキャラである。それまでの主人公とはタイプが違うことが特徴だった。アムロだけでなく他の登場人物たちも、若いのに大人びていて熱くなることは少ない。そういうキャラクターばかりなのに、熱血ヒーローの歌詞のフォーマットで書かれているので違和感があったのである。

 そもそもこの歌詞は作品の内容について全然ふれていないかピントがずれている。〈巨大な敵を討てよ〉とか〈平和を求めて翔べよ〉など具体性がなく、どんなアニメにもあてはまりそうな無内容さである。エンディングの「永遠にアムロ」もそうである。

 このことはテレビシリーズのアニメの宿命である。主題歌を作る時点では第一話もできておらず、作品の情報が極端に少ないなかで、わずかなヒントを頼りに歌詞世界をふくらませなければならない。例えば阿久悠が作詞した「宇宙戦艦ヤマト」は、イスカンダルに行って帰ってくるということ以上に、作品内容に関する情報はないし、「ウルトラマンタロウ」は〈何かが地球におきる時〉とか〈あれは何 あれは敵 あれは何だ〉と言って曖昧にしているし、これが意味深な感じが出ていいと思ったのか、「ウルトラマンレオ」でも〈何かの予言があたる時 何かが終りを告げる時〉と〈何か〉を繰り返している。主題歌を作るときはまだ作品の概要しか決まっていないのだから仕方ないだろう。しかしガンダムの場合は作詞家に依頼しているのではなく、作詞は監督自身なので、頭の中にもう少し具体的なプランや明確な方向性がなかったのだろうかと首をひねる。職業作詞家がお子様向けアニメだからとやっつけ仕事で書いて、とんちんかんなシロモノになってしまったかのようで不思議だ。『新世紀エヴァンゲリオン』の「残酷な天使のテーゼ」のように、謎めいた作品を解釈するのに視聴者の想像力を刺激するような、象徴的で意味ありげな歌詞もあるのであるから、いくらでも工夫はできるのである。

 さて、他にも〈銀河へ向かって翔べよ〉とあるが、ガンダムは地球と月の軌道のあいだを行ったり来たりしているだけで、ヤマトのように遠くへ旅をするスペースオペラではないので〈銀河へ向かって翔べよ〉というのはそぐわない。〈甦えるガンダム〉というのもおかしい。イデオン(主題歌は「復活のイデオン」)やターンエーガンダムのように遺跡から出てきたロボットなら〈甦える〉と言ってもいいだろううが、ガンダムは連邦の最新兵器である。〈甦える〉はないだろう。

 そもそもタイトルにもある「翔べ! ガンダムからしておかしい。ガンダムの装備では空を飛ぶことはできない。背中のバーニアは見るからに非力なので、宇宙空間での姿勢制御はできても、空を飛ぶことは無理だ。バーニアと驚異的なジャンプ力で飛んでいるように見えるだけだ(映画『マン・オブ・スティール』のスーパーマンもジャンプしているのであって空を飛んでいるのではない)。マジンガーZが空を飛ぶのにジェットスクランダーを必要としたように、ガンダムも空を飛ぶのにGアーマーが必要だった。ガンダムに「翔べ」というのは「設定にないことを要求している」ことになる。ひな鳥に「飛べ」と励ますのはわかるが、豚に「飛べ」とせかしても無駄だ。宇宙空間では飛んでいるように見えるかもしれないが、それは誰にもできることなので、逆に「翔べ」と叱咤することではない。いやこれは「跳べ」ということだと強弁するかもしれないが、ガンダムにウサギのように跳ねろということだとしたら滑稽である。

 にもかかわらずそうなったのは、「翔べ! ガンダム」というのはスーパーロボットもののアニメの流れの言葉だからである。先に見たようにグレンダイザーも「とべ! グレンダイザー」とあった。井荻麟は『聖戦士ダンバイン』でも「ダンバインとぶ」という歌を書いたが、こちらは空を飛べる。

 熱血ヒーローものの言葉というと、冒頭の「も、え、あ、が、れ/もえあがれ/燃え上がれガンダム」というのもそうである。当時は「燃える」という言葉がよく使われた。『グレートマジンガー』では〈燃える友情〉〈命をもやす ときがきた〉と歌われる。〈若い命が 真紅に燃えて〉(作詞、永井豪ゲッターロボ』)、〈戦う男 燃えるロマン〉(作詞、阿久悠、『宇宙戦艦ヤマト』)などもそうである。『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』はタイトルにも「燃えろ」がついている。主題歌の「希望よそれは」(作詞、関根栄一)にも、〈いのちを燃やしつづけよう〉とある。『グレートマジンガー』『ゲッターロボ』『宇宙戦艦ヤマト』は一九七四年、『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』は一九七九年の放送である。同じ七九年には、ツイストの歌謡曲「燃えろいい女」がある。「いい女」に「燃えろ」とは、言葉のインフレである。

 歌詞の表記は、〈も、え、あ、が、れ/もえあがれ/燃え上がれ ガンダム〉となっている。「お・も・て・な・し」のように〈も、え、あ、が、れ〉と読点が打たれ、〈もえあがれ/燃え上がれ〉となって、ひらがな、漢字と「進化」していく。歌詞は読まれることを意識して書かれている。だが歌い方は、〈も、え、あ、が、れ〉にタメがあるわけではない。三段階の進化に関係なく、同じ調子で歌われている。これでは何のための視覚効果なのか、わからない。

 「燃える」という言い方は、いつからこんなに流行ったのだろうか。司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』は一九六二年だが、人気があったとはいえ小説なので流行になるほど広がるとは考えにくい。その後は一九六八年にアニメ版が始まった『巨人の星』で星飛雄馬の瞳のなかに炎が燃えていることが熱さのしるしで、歌も〈真赤にもえる 王者のしるし〉(「ゆけゆけ飛雄馬」作詞、東京ムービー企画部、)とあった。これで燃えることと気持ちが熱いことが一致したのだと思う。次は一九七三年の映画『燃えよドラゴン』が決定的だったのではないか。学生運動で若者が熱かった六〇年代が終わり、七〇年代は内向きになったが、「燃え」た残り火は空想の中に残っていたのである。

 

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 最後に、この歌詞の特徴をもう一点記しておきたい。アニメソングにおける命令口調の問題である。

 歌詞の言葉は、〈翔べ、燃え上がれ、走れ、討て、怒りをぶつけろ、立ち上がれ、叫べ、行け、血潮を燃やせ、掴め〉などと命令形が羅列されている。この歌詞には、どこか息苦しい感じやせわしない感じがしていたのであるが、このためだろう。

 命令形は、次から次へと行動することを催促する。じっとしていない。こういう傾向は他の、敵をやっつけろタイプのアニメに共通していて、先にみた「とべ! グレンダイザー」も、歌詞の言葉遣いは攻撃から守備に転じているとはいえ、〈ゆけゆけ、とべとべ、たちあがれ、守れ守れ〉と命令口調が用いられている。「大空魔竜ガイキング」も〈空を見ろ、むかえうて、飛び立て、やぶれ〉となっている。ロボットものではないが熱血ものの「ゆけゆけ飛雄馬」も〈血の汗流せ 涙をふくな/ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ〉となっている。ここには禁止の終助詞〈な〉も使われている。

 なぜこの手の熱血もののアニメソングには命令口調が多いのか。ひとつには、主人公に迷いや選択の余地を与えず命令どおりに行動させることで、早い成長を促しているということがあるだろう。また、敵に負けないように奮いたたせているということもあるだろう。

 「翔べ! ガンダム」は命令形に加え、〈討てよ 討てよ 討てよ〉〈行けよ 行けよ 行けよ〉〈翔べよ 翔べよ 翔べよ〉と、終助詞〈よ〉が加えられ、語気が強調されている。命令形が強められているのだ。また、〈君よ 走れ〉〈君よ 叫べ〉〈君よ 掴め〉とあり、こちらは間投助詞の〈よ〉で、呼びかけである。この歌詞の書き手は〈よ〉を好む傾向にありそうだ。終助詞〈よ〉も間投助詞〈よ〉も、いずれも、歌詞において語りかける者と語りかけられる者がいることを際立たせている。この歌詞は先達が後進に語りかけるような印象を抱かせるのである。つまり「上から目線」というやつである。それはまた、〈まだ怒りに燃える 闘志があるなら〉の〈なら〉も繰り返されるが、なんだか試されているような感じのする言葉で、総じて、人から口うるさく何か言われているような気がして、イライラする。

 結論を言うと、『ガンダム』の主題歌における歌詞は、スーパーロボットものが熱血ヒーローものと融合していた時代の古く陳腐な言葉の使い方を引きずっており、それが作品の内容の新しさとマッチしておらず、ちぐはぐした感じを与えることになって失敗した例だといえるだろう。