Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

自殺ソング

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 日本での自殺者数は年齢別で五、六〇代をピークに上昇してゆく。大人が自殺するのは、病気を苦にしたりリストラされて仕事がないといった経済的な理由であることが多い。中高生の場合は、いじめなど学校での人間関係や、虐待など家庭での親子関係に問題があって自殺する人の割合が多い。

 自殺によってしか救われないと思っている人に「自殺はいけない」と言ってみても効果はない。自分の意志とは関係ない事情によって死を選ばされているからだ。だが、その場合でも実際に行為するのは自分である。最近の流行りの言葉で言えば、能動態でも受動態でもなく、中動態である。

 自殺はポップスで扱うにはヘビーな題材だ。タブーに近い。歌という、聞き手が感染しやすいメディアで自殺にふれることで、影響されて自殺を選択肢に入れる人がでるかもしれない。生きるか死ぬかで揺れている人がいれば、その背中を押しかねないセンシティブな題材だ。メジャーな人気のある歌い手はそういうきわどいテーマは避けるだろう。挑戦するのは、マイナーで風変わりな歌い手が多い。

 

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 自殺という語を歌詞に取り入れた歌で一番有名なのは、〈都会では 自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた〉と歌う井上陽水の「傘がない」(作詞、井上陽水、一九七二年)といっていいだろう。これによって、自殺について歌うとき「自殺が増えている、それをニュースで知る」といったパターンができた。

 例をあげてみる。

 

・今年も自殺が増えている そんなニュースを聞くたびに (門倉有希「勇気」)

・自殺する人増えているって TVのニュースで言ってた (SHERBETS「わらのバッグ」)

・全国では自殺者が急増 テレビが君の顔を映し出す (AJISAI「アンドロイド」)

・都会では自殺する人が増えてます (米米CLUB「虫の息」)

・自殺する人が増えてる 都会まさに戦場と化している (X.Y.Z.ASTAY HUNGRY! STAY FOOLISH!」)

・自殺が増え続ける豊かな国で 死にたいと思えない程にlove you (Sady & MadyOne"S"Mile」)

・ジャパニーズ ジパング 和の国 先進国で自殺率 No.1 (UVERworld「奏全域」)

・自殺のニュースなんて 笑って見てたのに (THE 虎舞竜「Fight or Flight」)

・カーラジオ流れるのは ダーティマネーと 自殺のニュース (沢田研二「等圧線」)

 

 自殺する人が増えているとしたら、それは私たちに何か不気味なものが迫ってきている兆候のような気がして不安にかられる。いつでも社会の一定割合で自殺する人がいるのは統計的な事実であり、それをゼロにすることはできない。

 戦後の日本の年間自殺者数は昭和三〇年ころ、昭和六〇年ころ、平成一〇年以降という三つの山を持っている。昭和三〇年ころ自殺者が増え二万人を超えたが、昭和四〇年ころには一万五千人まで沈静化した。陽水の「傘がない」が出た昭和四七年当時は、再び右肩上がりで増えていった時期で、昭和六〇年ころには二万五千人に至る。そして、戦後、一万五千人から二万五千人のあいだを推移していた自殺者数は、バブル崩壊後、平成一〇年から二三年までの一四年間には三万人を超えてしまう。その後は減少に転じ、二万人まで下がっている。経済的な事情で上下するが、どうも日本の自殺者数は、年間二万人前後ということになる。

 〈都会では 自殺する若者が増えている〉というが、地域別にみると、都会は人口が多いので自殺者数は多いが、人口あたりの自殺率では、東北をはじめ地方が高い傾向にある。〈都会では〉という言い方にリアリティがあるのは、自然から遠く離れた環境が人間の精神にひずみをもたらしているのではないかという不安が底辺にあるからである。だが実際は、都会の砂のような人間関係のほうが精神的な負担が少なく、田舎の濃密で閉鎖的な人間関係のほうが抑圧を感じるということだろう。

 

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 この「自殺ソング」の項を書こうと思ったのは、あいみょん「生きていたんだよな」に触発されたからである。この歌は、飛び降り自殺した女子高生(〈血まみれセーラー〉)を歌っている。あいみょんのメジャーデビュー曲であり、きわどい話題でバズることを期待している感じもある。

 デビュー曲なのに歌の半分はメロディにのせないセリフである、ということも挑戦的である。息もつかせず早口でまくしたてるセリフはアングラの雰囲気を漂わせる。詩情と露悪性が共存していて、年配の人はこれを聞いて三上寛を思い出すのではないか。

 この歌の歌詞で一番フックになったのは、〈最後のサヨナラは他の誰でもなく/自分に叫んだんだろう〉という〈自分に〉の部分である。

 少なからぬ特攻隊の遺書には、つまり死を覚悟した者の最後の言葉として、天皇陛下万歳にあわせて父母への感謝が綴られていた。そこにはまだ、「自分」は入ってこない。アトランタオリンピック(一九九六年)の女子マラソンで三位だった有森裕子は、「あたしらしく走ろう」と思ったと言い、「初めて自分で自分をほめたいと思います」との「名言」を残した。ここで見出された肯定的な自己評価の感覚は、広く社会に流布することになる。ちょっとした贅沢をするのに「自分へのご褒美」という理由をつけるようになったのはこのころからだろう。自分がここまで頑張ってこれたのは、支えてくれた皆さんのおかげ、というのがそれまでの決まり文句だったが、そこには頑張った中心である「自分」が抜け落ちていた。しかし個人の時代にあっては、それまであとまわしにされていた「自分」が主題化されることになる。

 〈最後のサヨナラは他の誰でもなく/自分に叫んだんだろう〉というのは、周囲の人たちに〈サヨナラ〉を言ったあと、〈最後〉に〈自分〉にも言ったということである。自分以外の人にも〈サヨナラ〉を言うことを忘れていない。しかし、自分が一番お世話になったのはやはり自分である。自分がいなくなって一番変化があるのも自分である。だからやはり〈サヨナラ〉を言うリストを作るとしたら、そのトップに自分の名前が入らねばならないだろう。ただ、自分への〈サヨナラ〉は一番言いたくない相手でもある。だから一番最後になってしまうのだ。〈サヨナラ〉が言えなくなる寸前に、瞬時に切り裂くように叫ぶのである。

 〈サヨナラ〉と口にしたとき、最も寂しいと感じるのは、自分を宛先にしたときだろう。本来別れを告げられないものに別れを言うからである。ここでは心と体が分離させられている。ここには語り手の死後の世界についての世界観が表されている。死んだらどうなると思っているのかということである。

 伊佐敷隆弘(哲学)は『死んだらどうなるのか?』(二〇一九年、亜紀書房)という本で、日本人の死生観として六つのパターンを掲げている。(一〇四頁)

 

  1 他の人間や動物に生まれ変わる(仏教の輪廻)

  2 別の世界で永遠に生き続ける(仏教の往生とキリスト教の天国・地獄)

  3 すぐそばで子孫を見守る(盆という習慣に表れている民間信仰

  4 子孫の命の中に生き続ける(儒教の「生命の連続体」としての家)

  5 自然の中に還る

  6 完全に消滅する

 

 これらはそれぞれ截然と切り離されているのではなく、地層のように心の中に積み重なっているという。

 自分に〈サヨナラ〉を言うあいみょんの歌は、この中で「6 完全に消滅する」にあたるだろう。他の人間や動物に生まれ変わったり、別の世界で永遠に生き続けたりするような、死後も継続する何かがあると考えるのなら、自分に向かって〈サヨナラ〉とは言わないだろう。体が消滅すると同時に心も消滅してしまう。消えてしまう自分に「お疲れさま」と言っているのだ。お国のために死んだとされる兵士ならば、すぐそばで子孫を見守ってくれていると思えるかもしれないが、この歌では、死んだら無に帰して、後には「自分」は残らない。唯物的であり宗教性は感じられず、現代日本の若者らしく個人主義的であっさりしている。

 ただし、歌詞の他の部分には、〈いま彼女はいったい何を思っているんだろう/遠くで 遠くで〉と、死後にもなお残された心が存在するかのような一節がある。これは矛盾するというより、〈いま〉の〈彼女〉の思いを語り手が代弁しようとしているということではないだろうか。〈彼女〉は死んで何も考えられない。〈彼女〉の心を想像できる語り手が、代わりに〈思っている〉のである。

 

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 歌詞は三層構造になっている。

 

 1 死んだ女子高生

 2 それを見ている野次馬

 3 さらにそれをテレビで見ている自分

 

 あいみょんはこう言う。「この曲は、死を選んだ人、それを目撃した野次馬、そのニュースをテレビで観た人、どの当事者も第一人称には置いてないんです。」https://www.barks.jp/news/?id=1000135314

 「どの当事者も第一人称には置いてないんです」とはいえ、それは日本語の構造上省略できるので書かれていないだけであって、事実上は「そのニュースをテレビで観た人」が第一人称となる人であり、視点人物であり語り手である。「どの当事者も第一人称には置いてないんです」というのは、第一人称に相当する人は誰もいないということではなく、誰もが第一人称に相当するということである。多少なりとも関わった全ての人が、自分の立場において「当事者」になるということである。人の生死に立ち会った以上、無関係・無責任ではいられない。ネットを介して情報を送るという行為自体が、すでにこの件に関わってしまっている。死んだ女子高生の周りには野次馬がおり、その外側にはテレビの視聴者がいる。そしてさらにその外側にこの歌の聞き手がいる。

 ただし、特権的に場を支配しているのは語り手である。語り手は「1 死んだ女子高生」については共感して知りえない部分は想像で埋め合わせている。「2 それを見ている野次馬」については怒りと嫌悪感を抱いている。スマホ片手の彼らはネット住民の尖兵である。野次馬とは、ネットでつながっている人たち全てのことであり、彼らは他人の死をネタとして消費するだけで、その痛みを感じない。

 「3 さらにそれをテレビで見ている自分」は語り手のことであるが、自殺のニュースを見て泣くというように明瞭な反応を示している。しかし自分の情動に引きずり込まれることはなく一線を引いて、自殺した人を客観的に見ているところがある。それが一番よく表れているのがタイトルの「生きていたんだよな」である。これは死者への弔意としては奇妙な言い方に感じられる。生を寸断された悔しさを外側から見つめる言葉であるが、同時に、ついさっきまで生きていたのに、もう死んで動かなくなっているモノを見るような目をしてもいる。

 あいみょんはインタビューで「人は必ず死ぬ、ということがやっぱり不思議なんですよね」(https://www.barks.jp/news/?id=1000135314)と言っている。「生きていたんだよな」というのは、生命の不思議さに感嘆した言葉であり、これは自殺者への共感とは別種に働いている対象への知的な操作の結果によるものである。

 人が死ぬと動かなくなるが、遺体が残っていれば外見だけは生前と変わらず人として存在する。外見は同じなのに死んでいるという不思議さが「生きていたんだよな」ということである。火葬して骨灰だけになってしまうと外見も失われてしまうので、そのときあらためて、本当にこの世からいなくなったのだという事実が胸につきつけられる。子どもが昆虫採集をして昆虫が死んでしまっても標本にして残しておけば、この「死んでいるのに存在している」という感覚の不思議さが、子どもながらに理解できるであろう。

 さて、この三層は明瞭な価値づけによって示されているので、聞き手にとってこの歌は理解しやすい歌ということになる。第一層の自殺した人のことだけが歌われているのであったら、自殺したことをどう受け止めてよいか聞き手はとまどうであろう。だが第二層で野次馬という悪役が設定され、第三層のテレビのこちらがわという安全な場所で涙を流すという反応が示されると、聞き手は安心して、この第三層にいる語り手の立場に自分を置くことができる。

 野次馬に対する辛辣さは、〈馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった〉などと書かれており、苛立ちというより怒りが感じられる。また、大人に対しても〈濡れ衣センコー〉〈生きた証の赤い血は 何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう〉など、都合の悪いことを隠そうと躍起になっている様を示して腹を立てている。

 〈濡れ衣センコー〉という唐突に出てきた悪態は前後の脈絡に合わないが、これは直前の〈血まみれセーラー〉と対になった言葉であろう。〈血まみれセーラー〉と〈濡れ衣〉は「濡れた布」という意味上のつながりがあり、〈セーラー〉と〈センコー〉は似た響きを共有している。接近させられることによって違いが際立ち、若者/大人の対立の構図が作られる。

 死んだ女子高生を〈泣いてしま〉うほどよくわかってやれるのは、近くにいる野次馬や大人たちではなく、テレビの外側にいる語り手である。では、何も知らない人のために涙を流すほどの一体感に近い共感はどこからくるのか。

 あいみょんはこの歌の一年前に作った「19歳になりたくない」という歌でも自殺についてふれていて、〈自殺者を笑い その勇気に拍手して〉と書いている。「生きていたんだよな」とは随分違う印象で、他人事としてつきはなしている。自分のことで手一杯で、他の人のことまで頭がまわらない年齢ということであろう。それをシニカルな言葉遣いで書いている。それが「生きていたんだよな」になると素直になっている。「19歳になりたくない」では自殺者の〈勇気に拍手して〉いるのが、「生きていたんだよな」では〈精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ〉となっている。

 あいみょんはデビュー時のインタビューでこう言っている。

 

(インタビュワー)今は、何が音楽を作るモチベーションになっていますか? こないだのインタビューでは、デビューしたら高校時代に自分のことを変人扱いした人と街で会っても無視することがモチベーション、っておっしゃってましたけど。

あいみょん)はははは、性格悪いですけどマジでそう思ってました(笑)。今も見返したいという気持ちはなくなってはいないです。学生の時は、勉強大嫌いで成績が悪かったので、ホンマに見下されてたんですよ。ハタチの同窓会の時も、ある先生から「今何やってるの?」って訊かれて、その時はもう事務所さんと関わりがあったので「音楽やってます」って言ったら、「お前にそんなことできたんや」って言われたんですよ!? めっちゃムカついたから集合写真入らなかったですもん。だから、テレビとかラジオで今回のデビュー曲が流れてきてびっくりしたらいいのにって思ってます。

https://www.barks.jp/news/?id=1000135314&p=1

 

 高校時代に「変人扱い」されたあいみょんは、自分と同類ではない人を理解しない者たちを憎悪したのではないか。飛び降り自殺した女子高生に、理由はわからないまま自分に似たものを感じ、取り囲む野次馬や大人たちに、昔のクラスメイトや教員(〈濡れ衣センコー〉!)を重ね合わせたのかもしれない。人が死んでしまったことがただ悲しいというよりも、周囲に理解されないまま死に、死んだあとも理解されないままでいられるということが悲しいのではないか。それは歌詞のこんな部分に表れている。

 〈「ドラマでしかみたことなーい」 そんな言葉が飛び交う中で いま彼女はいったい何を思っているんだろう〉

 目の前の出来事をあくまで他人事とみなしてすます人々と、遠くでテレビを見ていながら我が事のように感じる人の違い。両者の距離感の違いは対象からの距離とは関係ない。〈いま彼女はいったい何を思っているんだろう〉とあるが、死んだ彼女が思うのはたぶん、自分が死んでも何も変わらないんだな、ということであろう。語り手からすれば、死んでも承認は得られず、無関係な他者の出来事として見世物になるだけだから、あてつけで死ぬのは無駄、ということである。語り手の涙は、死んでしまってものも言えない死者が好奇な視線にさらされるだけの状況にあることに対してであろう。

 

4-1

 この歌が興味深いのは、以上述べてきたような、「自殺者・語り手/野次馬・大人」の二項対立が提示されているからではない。それならありふれている。重要なのは、両者は表面的にはよく似ていると語られている点にある。

 語り手は〈何にも知らないブラウン管の外側〉にいる。一方、死んだ女子高生の流した血は〈何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう〉という。語り手も、語り手が嫌悪する大人たちも〈何も知らない〉のは同じなのだ。何を知らないかというと、女子高生が自殺を選ぶに至った事情である。大人たちは、何も起きなかったかのように、またたく間に証拠を消し去ってしまう。〈生きた証の赤い血〉を拭き取ってしまうのだから、存在すらなかったことにしたいのである。そのように見えるということだ。

 大人たちはなぜ〈何も知らない〉かというと、まさに大人であることによってである。ここでは「何も知らない警察官に二秒で拭き取られてしまう」と言っているのではない。〈大人たちに〉よってである。だからここは、語り手が大人/若者の構図で見ていることを自ずから語っているのである。

 大人たちは死者について〈何も知らない〉が、同時に、語り手もまた大人たちについて〈何も知らない〉はずである。もしかしたら、大人たちは、自分の娘と同じような年の女子高生の死を深く悼んでいるのかもしれない。だが、その心の中は他人には伝わらない。ましてや、テレビの外側にいる語り手には大人たちの表情も見えなかっただろう。相手に対し「何も知らないくせに」と非難するとき、そういう自分も相手について「何も知らないくせに」と非難されるおそれがある。語り手は死んだ女子高生について〈何も知らない〉し、居合わせた野次馬や大人たちについても〈何も知らない〉のである。ただ、その〈知らない〉は想像力によって乗り越えることができる。〈知らない〉けど、わかってやることはできる。想像力を発揮すること、あるいは物語を作ることによってそれは可能である。語り手は死んだ女子高生については、わかってやろうとしている。一片の情報から想像をふくらますこと。それゆえ、それは大きな勘違いに終わることもある。

 歌では、〈精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ/鳥になって 雲をつかんで/風になって 遥遠くへ/希望を抱いて飛んだ〉と言うが、これはすべて語り手の想像であり、その想像には根拠がない。なにしろテレビでチラッと見ただけなのだ。自殺の現場中継という報道の初期段階で、自殺の理由や遺書云々までふれることはない。死亡理由に事件性がなければ追加報道もないだろう。自殺した人は、もしかしたらリストカットを繰り返す自殺未遂の常習者で、その延長で、とうとう完全な自殺に至ったのたかもしれない。そこには何の〈希望〉もなかっただろう。(高校生の自殺の動機は、男子だと学業不振や進路の悩みが多く、女子では鬱病その他精神疾患が多い。(表「第2-3-36 高校生における自殺の原因・動機の計上比率」https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/19/dl/2-3.pdf#search=%27若者の自殺方法+日本%27))

 語り手は、〈「今ある命を精一杯生きなさい」なんて/綺麗事だな。〉と紋切り型の説教に対して批判的で、精一杯やることを、生きる方向ではなく死の方向に向けたのが飛び降り自殺だという。これはレトリック的にそういうふうに文が展開していったのであろうが、〈綺麗事〉という批判の刃は語り手にも向けられることになるだろう。語り手の想像力は、自殺者は鳥になって空を飛んだとロマンチックな美化(綺麗事)へと見立てが向いている。野次馬や大人たちに辛辣な批判をするが、その対案を述べたらよくあるポエムになってしまった。

 

4-2

 現場に集まった野次馬たちは自殺者の動機を知らない。〈「ドラマでしかみたことなーい」/そんな言葉が飛び交う〉というのは、現実をテレビの中の出来事(ドラマ)のように見ているということだ。一方、語り手はテレビの外側にいながら、テレビの中の出来事を現実のこととして受けとめている。これは一見、正反対のことであるかのように見える。

 語り手はテレビを見ている。野次馬が向けるスマホのカメラと、報道陣が向けるテレビのカメラはどこが違うのか。テレビクルーは野次馬ではないがその代理である。テレビの映像は見世物に飢えた世の人の野次馬的な期待に答えるために提供される。それを見ている自分もまた野次馬の一人なのであり、感傷的なところのある野次馬なのである。

 本稿冒頭の引用でみたように、歌にでてくる「自殺のニュース」はそれがメディアを経由しているぶんだけ他人事になりやすい。だがこの歌では、他人の死を我が事のように感じて泣く語り手が描かれる。ただ、その感じ方にはやはりメディア経由ゆえの歪みがある。死という冷徹な現実に意味付けを求めようとして、ロマンチックな読み替えが行われていた。それは、メディアが出来事を媒介することじたいが緩衝装置の役割を果たし残酷さが和らげられるためではないか。

 また、テレビは現場の要点を整理し精細に映しだす。そこにアナウンサーの神妙な面持ちによる語りが加わることによって、受容の方向性を指示する。一方、その場にいる人のほうが混乱して何が起こっているのかよくわからないことがある。現場の雰囲気をリアルに感じている人たちより、遠いテレビでつながっている人のほうが深く理解できる転倒が生じる。だが、その理解も全体的なものではない。テレビの画面のこちら側からは、死に至る深い闇を覗き込むことはできない。映像や短いテクストから知りうるのは、出来事の表層でしかない(スマホで撮影することができるのも出来事の中の切り取られた一部に過ぎず、情報としてはテレビよりもっと断片的だ)。

 〈冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない/赤さが綺麗で綺麗で〉という見方は、いかにもテレビ経由の受け取り方である。テレビで自殺した人の血を映すのは死の換喩としてだが、血の〈赤さが綺麗で〉というのはロマンチックに語りすぎであろう。現実が現実のように見えない(「ドラマみたーい」)のは、語り手も同じなのだ。美的判断は、死と向き合うことをカッコに入れたときに可能となる。流された血には恐怖を覚えるものだが、そういう感情から関心を逸らしたときに美的体験は可能になる。物見高い野次馬に囲まれた死者をその冒涜的でみじめな状況からなんとか救済したいと思った時に見出したのが、血の〈赤さが綺麗〉という美的観点だったのであろうが、それは美的なものにすり替えられることによって、実際に生きていた/死んでしまった人の実存に向き合うことを回避して一件を落着させてしまう。テレビの外側で見ていながら死んだ〈彼女〉に寄り添っているかに思えた語り手は、死者によって自分の実存に僅かな亀裂を入れられ、ふいに感情を揺さぶられて泣いてしまうが、映像による体験であることが美的判断による反応を可能にし、深い没入を妨げてしまう。

 

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 松任谷由実は「ツバメのように」(一九七九年)という、自殺をモチーフにした歌を作っている。失恋し〈高いビルの上から〉飛び降りた女性がいて、救急車で遺体が運ばれていくところまでを描いている。あいみょんの歌では女子高生は鳥になって遥か遠くへ飛んでいったと歌われるが、こちらも同じく鳥になるのではあるが〈ああ 束の間 彼女はツバメになった In Rainy Sky〉となっていて、それは落下している〈束の間〉なのである。ユーミンの歌では、救急車に乗せられて病院へ向かうのが〈彼女の最後の旅〉だとされている。自殺した人は、空の彼方へ消えたのではなく、その肉体は目の前の地面に叩きつけられている。地上の現実へと戻されている。

 あいみょんの歌では〈冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない/赤さが綺麗で綺麗で(略)赤い血は/何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう〉となっているが、ユーミンの歌では〈薔薇のように 舗道に散った汚点を/名も知らぬ掃除夫が洗っている〉となっている。両者とも死の表象を血痕として把握するが、あいみょんはそれを〈綺麗〉と言い、ユーミンは〈汚点〉と言う。後者のほうが想像は抑制されていて、即物的である。ただし、救いとして、死んだ彼女は年をとらずに〈綺麗だわ〉と付け足しのように書かれている。

 日本人の場合、自殺の方法の一位は首吊りである。これは全体の三分の二を占める。二番目が高い所からの飛び降りで、三番目のクルマの排気ガス練炭自殺などによる中毒死と同じくらいある。(「統計で見る日本人の自殺と他殺、身近な方法から驚きの手段まで」https://diamond.jp/articles/-/153462?page=3

 自殺というのは追い詰められて最後にとった手段であろうが、飛び降り自殺は高いところに登るので、最後の最後にどこか聖性を感じさせもし、また、閉塞した環境ではないので開放性や自由を感じさせもする。よく、鳥に喩えられるのはそのためだ。暗い部屋でひっそり首吊り自殺したのでは換喩的な想像力も働かせられず歌になりにくい。自殺を目撃したという事実から目をそむけることもできない。どんな暗い歌にも一点の救いが必要だ。そうでなければ聞き手は息苦しくて受け入れられない。

 首吊り自殺も飛び降り自殺も、重力を利用している点では同じだ。首吊り自殺は位置エネルギーを保持した静的な自殺であり、飛び降り自殺は位置エネルギーが運動エネルギーに変換されることで身体を毀損する動的な自殺である。飛び降り自殺は目に見える動きをともなう方法であり、死に至る過程が可視化される。実際はただ重力にしたがって落下するだけの受動的状態ではあるが、それを半ば強引な換喩的操作によって、鳥のように空を飛ぶというポジティブなイメージに変換している。

 

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 自殺の反対語は「繰り返し」ではないか。繰り返しは幸福感の源泉である。病気や災害などで平凡な日常という繰り返しが破られると、なんの変哲もない繰り返しの日々がいかに幸福だったかに気づく。他方、繰り返しは私たちにうんざりした気分をもたらす。毎朝、目を覚ますと、同じ日課に辟易するシジフォスのような気分になる。昨日やったことは毎日ご破産になって、成果は積み重ならない。こういうときはゲーミフィケーションを取り入れて、同じことでも効率よくやって時間を短縮できた、ということに喜びを見出すしかない。

 変わらない繰り返しにうんざりすると、自殺してこの繰り返しを終わらせたいという考えに至ることがある。自殺すると日常の繰り返しは破られるが、自殺者はその途絶えたあとの日常を引き受けることはない。この歌では、〈新しい何かが始まる時 消えたくなっちゃうのかな〉と語り手の推測が書かれているが、これは〈新しい何かが始ま〉っても、結局は今までの繰り返しが再開されるだけであるということに絶望するということであろう。やっと終わったと思ったのに、また同じことが始まるのは憂鬱である。

 この曲が生まれた経緯について、あいみょんはこう言っている。

 20161月、西宮の実家を出る前に作った最後の曲なんですけど、テレビを観ていて、年明け早々凄く悲しい事件だなと感じました。頭のなかにずっとこのニュースが残っていたので、自然とそれが曲になったというのが流れです。(中略)年始早々目にしたのでもちろんショックは受けました。」https://www.barks.jp/news/?id=1000135314

 つまり〈新しい何かが始まる時〉というのは、創作の経緯としては、新年の事件ということなのである。それを〈新しい何かが始まる時〉と抽象的に言うことで、歌詞は広がりを獲得した。私たちはふつう、新しいものに対しては期待に胸がふくらんだり、わくわくしたりすると思われている。しかしそうではない場合もある。

 小学生は自殺じたい少ないが、中学、高校生は、月別自殺者数だと、一月(年明け)と三・四月(年度の切り替わり)、八・九月(長い休み明け)が多い傾向にある。中島みゆきの「十二月」(一九八八年)という歌では〈自殺する若い女が この月だけ急に増える〉と歌われるが、これは詩的想像力によるものであろう。(「第2-3-42 平成21年から30年の児童・生徒等月別自殺者数」https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/19/dl/2-3.pdf#search=%27若者の自殺方法+日本%27

 特に夏休み明けの九月一日には子どもの自殺が多いことが最近はっきりわかった。「九月一日問題」などと言われ、つらければ無理して学校に行かなくてもいいとか、保健室に行けなどとキャンペーンが行われるようになった。長い休み明けに、会いたくない友達とまた会わなければならないことに気が滅入る。長期休暇という撹乱の期間が終わり、学校という「世間」に再び向き合わなければならない。ひきこもりの人たちは、震災などで「世間」が崩壊すると避難所などでは張り切ることがあるという。だが、避難所も時間が経つとコミュニティができてきてそこで形成される「世間」が嫌で、再びひきこもってしまうという(斎藤環『中高年ひきこもり』幻冬舎新書)。

 〈新しい何か〉というのは、実はなにも新しくないのである。新しいと言われつつも古いことが蘇って、その繰り返しが再び始まることに幻滅する。年が変わっても、学期が変わっても〈新しい何かが始ま〉らず、また同じ日常が繰り返される。日付の新しさだけが白々と残り、自分をとりまく環境は何も変わらない。そのことにうんざりしてしまう。それは自殺の動機になりうるのではないか。自殺はそういう繰り返しを断ち切る行為だったのではないか。世界が変わらなければ自分が変わる。〈新しい何かが始まる時 消えたくなっちゃうのかな〉という言葉にはふわふわしたポエム感はない。現実を直感的に把握した言葉だ。この歌がリリースされたのは二〇一六年で、その時点で〈新しい何かが始まる時〉というパターンに言及しているのはするどい。

 

7

 この歌の冒頭と末尾についてふれておく。〈二日前このへんで/飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた〉と始まり、〈最後のサヨナラは他の誰でもなく/自分に叫んだんだろう//サヨナラ サヨナラ〉と締めくくられている。

 冒頭の〈二日前〉はややわかりにくいが、これは語り手の現在の位置を示している。〈二日前このへんで/飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた〉と言っており、〈流れてきた〉とあるので、二日前に自殺した人について今ニュースでやっているのかと錯覚してしまうが、それだとそのあとの内容(野次馬が集まる)と整合がとれないので、この〈二日前〉というのは自殺したのが〈二日前〉ということではなく、ニュースが流れたのが〈二日前〉ということなのである。「このへんで飛び降り自殺した人のニュースを二日前に見た」ということだ。つまり語り手はニュースから中一日おいて、記憶を蘇らせているのである。これは歌の制作過程と一致している。先にも引用したが、あいみょんはインタビューで、「頭のなかにずっとこのニュースが残っていたので、自然とそれが曲になった」(https://www.barks.jp/news/?id=1000135314)と言っているからだ。

 冒頭になにげなく置かれた〈二日前〉という設定は以外に大事なのである。本来なら〈二日前〉のニュースということを省略して、今現在起きていることのニュースにするはずだ。そのほうがスッキリするしビビッドな感じがでる。〈二日前〉という枠組は語られている内容自体には必要がない。内容自体には必要な枠組ではないが、語り手の心の状態を伺わせるのに意味がある。

 肝心なのは、中継ニュースをさらに中継するように即座に反応したものが語られているのではなく、語り手の心のなかで熟成されたものが、しばらくたって外に出されているということである。

 小さい扱いのニュースであったろうが、にもかかわらず、なぜ数日たっても頭の一角を占めていたのか。それは短いが感情を激しく揺さぶられた出来事だったし、自分とは無縁の出来事ではないと感じられたからだろう。ニュースを見たすぐあとは頭が混乱していたが、二日たって体験として位置づけられ、言葉にすることができたということである。その出来事に呑み込まれていないということが、日数の経過で表されている。

 もしこれが今現在起きていることのライブ的な語りをとっていたら、語り手もこれからどうなるかわからないという不安定さが生じることになる。自殺は感染し模倣されるという群発性、連鎖性がある。語り手にもそうした危うさがあることが払拭できない。自殺がおこなわれたのが〈このへん〉という身近であることも引き寄せられる要因になる。だが、ニュースの視聴が〈二日前〉のこととして語られることによって、衝動性が回避され、繰り返しの日常に戻っていることが示される。〈二日前〉は影響圏を離脱し、しかし、まだ忘れない程度の感触は心に残っている期間である。

 終結部は〈最後のサヨナラは他の誰でもなく/自分に叫んだんだろう//サヨナラ サヨナラ〉である。この念を押されるように反復された〈サヨナラ サヨナラ〉には三つの含意がある。一つは、自殺した女性が自分に向けて叫んだ〈サヨナラ〉を語り手が巫女となって口にしたもの。二つめは、語り手から自殺した女性へ向けられた鎮魂の言葉。語り手が、死んだ女性の存在を承認していることをはっきり示している。お互い知ることのない二人のつながりができている。三つめは語り手自身に向けられたもの。語り手がこの出来事を我が事として受け止め、その経験を通過し、過去となった自分に向けて言う〈サヨナラ〉である。

 

8

 歌のサビの部分は〈生きて生きて生きて生きて生きて/生きて生きて生きていたんだよな〉と〈生きて〉が反復される。これは不特定の人に向けて死なないで〈生きて〉くれという倫理的な要請ではない。前にみたように、さっきまでは生きていたのに一瞬で死んで動かなくなってしまうという変化の激しさに対するとまどい、ひいては生命の不思議さの感覚を客観的に述べたものである。歌詞の他の部分で〈「今ある命を精一杯生きなさい」なんて/綺麗事だな。〉と毒づいているように、大人が口にしそうな「説教」に対して批判的である。だからこの歌は自殺をせずに〈生きて〉くれという自殺防止のメッセージソングにはなりようがない。ただたんに中立的に、生きているのは不思議だと言っているだけである。

 ここで〈綺麗事〉と批判されているのは、陳腐なタテマエばかりの言葉は無力だ、ということだ。〈「今ある命を精一杯生きなさい」〉という「お題目」の内実を自分で理解できるようにならなければ、結論だけ与えられても、そこにたどりつくまでの重要な部分が抜けている。

 では、死にたいと思っている人を前にして、他人はどんな言葉を投げかけることができるだろうか。

 少し前に女子高生に人気のあったグループに風男塾(ふだんじゅく)がある。もとは腐男塾という名前だったが改名した。メンバーは全員女性で、男装している。彼らの歌で一番人気があるのが「同じ時代に生まれた若者たち」(作詞、はなわ、二〇一〇年)である。

 この歌の歌詞の言葉遣いは、めまいがするほど直球である。〈フラれても 嫌われても いじめられても生きる/生きてゆく理由など考えないで生きる/死にたい時もあるさ だけど僕らは生きる〉という。〈生きてゆく理由など考えないで生きる〉というからパワーで押し切る体育会系である。行動中心アプローチといってもいいかもしれない。生きるとはどういうことかということを考えだすと時間がかかるしはっきりした答などでないから、生きていることでできることがあるなら、それをやる。

 誰が歌っているかも重要である。異性装をしているので、LGBT的な困難が背景にあって歌っているかのような説得力がある。死にたいという気持ちの裏側は理解したうえで、あえてそこはとばして、演出された男性性で奮い立たせるのである。

 この歌が人気があるのは、この歌を聴いて簡単に元気が出るからだろう。即効性がある。押しつけが嫌いな人は多いが、ここまで問答無用にそれをやられるとかえって清々しい。この非論理性に「きょとん」としているうちに「死にたい」という気分もなくなってしまうかもしれない。それゆえに、少し落ち込んだ程度なら元気が湧いてくるであろう。ただし、ひどく気が滅入っているときなどは無理かもしれない。〈死にたい時もある〉というのに〈だけど〉という逆接の接続詞ひとつで〈僕らは生きる〉とひっくり返しており、簡単に反転したものは、「生きようと思った、だけどやっぱり死にたい」と簡単に反転してしまう。じっくり考えたほうが、時間はかかるが結論は動かないこともあるだろう。「同じ時代に生まれた若者たち」は速効性の応援ソングでこれはこれでいいが、あらためて「生きていたんだよな」を見直すと、こちらは押しつけがなく、緩効性のものとしていいかもしれない。