Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

スキーマソング

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 スキーマschema」というのは、人がものをとらえる際の認知の枠組みのことである。認知心理学ではスキーマといい、発達心理学では「シェマschema」というが、同じことである。似た言葉でビジネスでよく使う「スキームscheme」がある。これは計画というほどの意味である。本項では「スキーマ」を用いる。その理由はあとでわかる。

 

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 米津玄師の「Lemon」(作詞、米津玄師、二〇一八年)は何度聞いても歌詞が頭に入ってこない歌である。断片的な言葉は頭に残るけれども、断片的でしかない。あらためて歌詞を読み直すと、そもそも抽象的で何のことを言っているのかよくわからなかった。文字として読んでも理解できないので、耳で聞いて理解できるわけがない。何か男女の別れのようなことが歌われているようだが、それにしても暗くて悲しくて繊細な感じである。

 歌詞の難解さはスキーマが特殊なためである。どういう枠組みを採用してこの歌を聞いたらよいか、それが決められない。多くの場合、タイトルが手がかりになるが、それが「Lemon」ではとりつく島がない。歌詞の冒頭から聞き手はとまどいを感じる。最初の二行はこうなっている。

 〈夢ならばどれほどよかったでしょう/未だにあなたのことを夢にみる〉

 夢ならよかったのに、と言っておきながら、夢にみているというのだから、やっぱり夢なんじゃないの? と混乱してしまう。一つ一つの文は理解できる。しかし二つの文が続けて並べられると途端にわからなくなる。夢という語は多義的なので、はじめの文と次の文は異なる意味で夢を用いているのだろうが、冒頭部分の文脈もわからないところなのでとまどってしまう。

 この二つの文が同時に成立するのはどのような場合か。どのようなスキーマで理解すればよいのか。ほかに明かされない何かがあって、それが状況を決定づけているようだ。聞き手は状況もわからぬまま、歌はどんどん先に進んで、結局のところ何を言っているのかわからないまま取り残されることになる。最初のところで理解につまづくので、言葉の意味の詮索はそこでもう断念され、曲に身を委ねる比重が高くなる。

 多くの場合、歌詞が抽象的でもタイトルがスキーマを与えてくれ、どういう枠組みで解釈すればよいかのヒントになるのだが、この歌は肝心のレモンはちらっと出てくるだけで、手がかりには遠い。

 タネを明かすと、「Lemon」はテレビドラマ『アンナチュラル』の主題歌として書かれたもので、ドラマは不自然死した遺体を解剖してその謎を解いてゆくミステリーである。死を直視するものであり、その主題歌であるこの歌も死を見つめたものである。そういったことが制作の裏話として語られている。この程度のことはネットの浅いレベルで取得できる情報だ。それでもスキーマを獲得するには十分である。歌詞を解釈するにあたって、人の死に向きあったものという読みの方向が与えられれば、書かれた内容もそれに沿って理解することができる。スキーマさえわかれば言葉の裏側の意味がつながってくる。ラブソングが王道のJポップにあって、死のテーマは特殊なので、スキーマを探すのが困難だったのだ。

 この歌のタイトルは当初「Memento」とつけられていたが「あまりに直接的過ぎるという理由で変更された」という(wiki)。mementoの語源はラテン語で、「思い出せ」という意味である。「メメント・モリ(死を忘れるな)」というフレーズでよく使われるから、当初どおりのタイトルであったら、スキーマのヒントになっていただろう。

 歌詞には〈昏い〉とか〈暗闇〉といった言葉があるように、イメージとしては、薄暗いモノクロの中で、レモンだけが彩色されている感じである。具体的に提示されるのは〈あなたの背〉とレモンだけで、〈あなた〉とのことは触覚の記憶であり、レモンもそこに置かれているのではなく、匂いの記憶である。いずれも記憶であり、目の前にあるわけではない。〈あなた〉については正面の顔の記憶ではなく背の輪郭をなぞった記憶であり、顔という個人全体を代表する部分ではなく背中という断片的なものであることが隠された事情があることを想像させる。レモンについては〈匂い〉であるのに〈苦いレモンの匂い〉と共感覚的に味覚で表現されている。このズラしは、レモンといえば酸味という連想ともズラされており、レモンという単純な果実の像にゆらぎを与えている。

 タイトルの「Memento」が却下されたとき、ではどうするかというときに、歌詞のなかで印象的な個物であるレモンをタイトルに持ってきたのであろう。ではレモンはどのていどこの歌の象徴になりえているのか。歌詞からは、薄闇の中、テーブルに一つ置かれたレモン、という絵が浮かぶ。静物画にはヴァニタスというジャンルがあって生の儚さを寓意している。ヴァニタスでは頭蓋骨のように無常を意味するものを置いて生の儚さを説明するが、そういうわかりやすい絵解きでなくても、たんに水差しや果物が描かれているだけでも、静物画には、どこか虚無的な時間を感じる。レモンは静物画のモチーフとしてもよく描かれる。そのせいか、レモンにはたんなるモノ以上の精神性が感じられるのである。

 レモンというと文学趣味の人は梶井基次郎の短編小説「檸檬」を想起するだろう。梶井は結核で若死にしたが、その病気が小説にも反映している。胸の中にあるこぶしほどの得体のしれない不吉な塊のせいで鬱屈した気分が続いていたが、果物屋檸檬を見つけて買い、丸善で本を積み上げてその上に檸檬を置いてくるといういたずらをして気分を晴らす。このとき胸の中のこぶしほどの大きさの不吉な塊が檸檬に置き換えられたのであろう。不吉な塊に具体的な形を与え、それを体の外に取り出し、自分からはなれたところに置いてきたのである。

 もう一つよく知られた「檸檬」はさだまさしの同名曲である。梶井の小説にインスピレーションを得ているが、御茶の水の聖橋から檸檬を放るという行動に出る若い女性を歌っている。これはむしろ芥川龍之介の短編小説「蜜柑」に似ている。芥川の小説では汽車の窓から少女が子どもたちに蜜柑を放ってやる。檸檬と蜜柑は大きさも似ている。さだが檸檬を放るという行為を思いついたのは、それを持った感じが野球のボールに似ていたからではないだろうか。檸檬の大きさや重さは、投げることをアフォードする。檸檬を握ると、それを投げたくなる。なぜなら投げるのにちょうどよい大きさ重さ、形状、手触りをしているからだ。

 レモンはその色や形から爽やかなものの象徴とされる。いずれの作品でも、レモンはその持ち主の大切な部分と関わっている。大切な何かを目に見えるものとして外部化したものがレモンである。米津玄師の「Lemon」でも、レモンを思い浮かべることが希望につながっている。〈胸に残り離れない 苦いレモンの匂い〉は「死の匂い」に近いであろうが、暗闇の中にあるレモンの色は同時に光明でもある。何かがギュッと詰まったようなレモンは苦味であると同時に光でもある。〈今でもあなたはわたしの光〉とあるが、レモンを媒介に〈あなた〉の記憶に明るさを取り戻していく。そのことは歌詞の二番ではっきり〈切り分けた果実の片方の様に/今でもあなたはわたしの光〉と歌われている。レモンのあの紡錘形は、あなたと私が一体に凝集されたもので、それは半分に切られてしまったけれども、苦い皮の部分を切り開いた内部があらわになることで、苦さばかりでない新たなレモンらしさを見出したのである。〈わたし〉が〈あなた〉の死を受容するまでには、否認、抑鬱の段階がある。この歌はかすかに光が感じられるので、抑鬱から受容にさしかかる過程にあるのだろう。

 

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 2つめのスキーマソングとして、あいみょんマリーゴールド」(作詞、あいみょん、二〇一八年)を取り上げる。「マリーゴールド」の歌詞は、モノクロームを主調とし心の動きを語る「Lemon」に比べたら、情景が生き生きしていて、外形に注目した動きのある言葉を用いている。〈風の強さ、心を揺さぶりすぎて、でんぐり返し、揺れたマリーゴールド、ぎゅっと抱きしめて〉など動的である。〈アイラブユーの言葉じゃ 足りないからとキスして〉などというのも、外形によって表現しなければ満足できないということだ。心の中に生じる微細なことを捉えて述べるのではなく、〈真面目に見つめた、目の前でずっと輝いている、泣きそうな目で見つめる、目の奥にずっと写るシルエット〉など視覚情報を重視している。また、〈希望の光、輝いている、空がまだ青い夏〉など明るい輝きを志向する言葉が散りばめられており、そこに加えて〈マリーゴールド〉の華やかな色彩を添える。これも見え方の比喩である。〈絶望〉という精神的なものさえ〈絶望は見えない〉と視覚化される。この〈希望/絶望〉という対極にある言葉を用いているところも感情の振幅を大きくしてそれを動かそうとしているといっていいだろう。

 この歌では、ひとつのことを言うのにたくさんの言葉が費やされている。例えば、たんに「優しく抱きしめる」ではなく、〈雲のような優しさでそっとぎゅっと抱きしめ〉るというのである。たんに「2人ならんで歩く」ではなく、〈柔らかな肌を寄せあい 少し冷たい空気を2人 かみしめて歩く〉というのである。Jポップにありがちな言い方にとどまるのでなく、同じことを言うにも言葉をいくつも付け加えて状況に厚みを出そうとしている。メジャーデビューしたときのインタビューでは、「文章を書くのが好きっておっしゃってるし、学生の時に作文が評価されて中国に派遣されそうになったっていうエピソードもあるくらいで。」とインタビュワーに言われ、あいみょんは「そうなんです。歌詞には自信あるんですけど、曲にはそこまで自信ないので、そう言っていただけると嬉しいです。」と応じている。(https://www.barks.jp/news/?id=1000135314&p=1

 この歌は、歌詞を読む際に無意識に用いているスキーマに従うと混乱するところがある。歌の歌い手と作り手は同じで、女性である。女性が語り手の場合、歌詞の中で示される〈君〉は多くの場合異性愛の対象としての男性である。しかし、そうすると違和感が生じる箇所がいくつか出てくる。というより、一旦そこに引っかかると、おかしなところだらけである。〈君〉が女性のように思える箇所がいくつもあるからである。

 例えば、〈「もう離れないで」と 泣きそうな目で見つめる君〉というのは女性っぽい訴え方だし、その〈君〉を〈雲のような優しさでそっとぎゅっと抱きしめて 抱きしめて 離さない〉という語り手の能動性は男性っぽい。また、タイトルにもなっている〈麦わらの帽子の君が 揺れたマリーゴールドに似てる〉という部分は、〈麦わらの帽子〉から、〈君〉の姿に『ONE PIECE』のルフィを重ねてしまうが、〈マリーゴールドに似てる〉というところでブレーキがかかる。「麦わらのルフィ」ならツバの大きな麦わら帽子で「ひまわりに似てる」となりそうなもので、マリーゴールドのようなこぶりな花ではない。マリーゴールドに似ている麦わら帽子ということならつばの狭い女性用のそれである。帽子がマリーゴールドに見えるというだけでなく、その女性じたいがマリーゴールドのようなこじんまりした可愛らしさをもっているように思えてくる。他にも、細かなところでは、語り手の〈幸せだ〉の〈だ〉や、〈大好きさ〉の〈さ〉も男性的なキャラ語である。つまり、歌い手は女性だが、歌詞の語り手は男性で、〈君〉は女性のようなのである。

 そこでウィキペディアを見ると、あいみょんは男性のシンガソングライターに影響を受けており、自分の作る歌も男性の視点からの歌が多いとあった。歌い手(演者)と語り手(視点人物)の性がずらされているのである。そこで演者と歌詞の視点人物を一致させず、歌詞テクストの自律性を高めるというスキーマで読み直すと、歌詞に対する違和感が解消されるのである。あいみょんの他の歌、例えば「君はロックを聴かない」も男性視点の歌だが、こちらは〈僕〉という一人称が何度もでてくるから、男性の語りということがわかりやすい。だが「マリーゴールド」には語り手の一人称は出てこない。そのためわかりにくくなっているのである。

 先の米津玄師「Lemon」もそうだが、昔から現在まで、男性歌手が女性視点の歌を歌うことはよくある。「雨やどり」「あんたのバラード」「大阪で生まれた女」など数え切れない。その逆、女性歌手が男性視点の歌を歌うことは少ないが、最近ではAKB48の「ヘビーローテーション」や「フライングゲット」など多くの歌詞に〈僕〉が使われている。男性視点で女性を見ている。女性アイドルが再帰的視点の歌を歌うのは興味深い。とはいえ、それは男くさくない。風男塾というグループはもっと徹底していて、宝塚ばりにキャラ作りも込みの男性歌を歌う。

 あいみょんはどうかというと、AKB48風男塾の中間くらいではないか。AKB48風男塾の歌詞の書き手はいずれも男性(秋元康はなわ)である。だから男性視点の歌詞を作るのはたやすい。あいみょんは女性なので、男性ぽさを演出するには想像力が要求される。

 小説を読むと、熟達の書き手でも、異性のものの感じ方、考え方を理解するのは本当に難しいことなのだということがよくわかる。一般的に、書き手と異なる性の登場人物の数は、書き手と同性の登場人物の数より少ない。しばしば、主人公に書き手と異なる性の人物を据えて書かれる場合があるが、それを自然に描くというのは至難の技だ。

 たいていの場合、男性作家が書いた小説に出てくる主要な女性は一人か二人で、彼女らはミステリアスで美人で頭がいい。あるいは世話焼きでチャーミング。または娼婦的でヤサグレだったり、極端に性格が悪く容姿も劣っていたりする。これらはいずれも、書き手にとっての女性の類型を描いたもので、女性からしてみれば、空想に見えるだろう(最近のアニメ風のイラストは外形的な類型をさらにデフォルメさせている)。反対に女性の作家が書いた男性像を見ると、どこか白馬の王子様のようなところがある人か、存在感のない頼りない男に二分される。男から見ると、こんな男はいねぇよ、という奴ばかりである。一方、女性作家の描く女性はつかみどころのない複雑な生き物である。それがリアルな女性であろう。同性の生態や思考回路はよく理解できているが、異性のそれは空想するしかないのでバイアスがかかるという当たり前のことである。私は、女性について学ぶには女性作家の書いたものを読むのが一番いいと思っているが、それでも実際読んでみるとどこにも理想の女性が出てこないから辟易する。

 女性であるあいみょんが描く男性にも女性の理想バイアスがかかっている。まず、男は女性を花に喩えたりしない。〈麦わらの帽子の君が 揺れたマリーゴールドに似てる〉という見立てじたい女性特有の発想だ。〈雲のような優しさでそっとぎゅっと 抱きしめ〉るというのも抱きしめられる側である女性のあこがれである。男性のソングライターも〈優しく抱きしめる〉ぐらいの歌詞は書くが、〈雲のような〉とか〈そっとぎゅっと〉までの配慮はない。〈大好き〉というストレートな言い方も、女性が言ってもらいたい言葉であって、そういう照れくさいことをはっきり言う男は、まずいない。だからこの歌は、女性が書いたものなのに男性視点で、しかもその男はどうもなよなよしてしている、というものになる。性別が分類しにくいのである。男性視点というよりも、いっそ、女性が女性をいつくしんでいるというふうに解釈したほうが、今の時代にも合っていてしっくりするかもしれない。女性二人が交際していれば、片方が能動的になり、もう片方が受動的になるというように役割が分化していく。この歌も、能動的な側の女性による語りというスキームで解釈するということが、この先、もっと自然にできるようになるのではないか。

 あいみょんの書く歌詞は、緊張感とたるんだ感じが同居している。この歌でいえば、〈絶望〉〈少し冷たい空気〉などが張り詰めた感じをだす言葉で、〈でんぐり返し〉とか〈だらけてみた〉というのがゆるい感じの言葉である。〈でんぐり返しの日々〉というのはわかりにくいが、思うようにうまくいかないということをユーモラスに言い換えたものだろう。切実感をつきつめずにおどけに転化してみせる自己戯画化が、この書き手の特徴だ。男性の書き手だと、もっと深刻な方向に没入していくのではないか。異性の視点にたつという迂回を経ることで、客観性や余裕が得られたのではないか。

 

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 もう一つ、スキーマソングとして、スキマスイッチの「奏(かなで)」(作詞、大橋卓弥、二〇〇四年)を取り上げる。この歌はテクストの読み手のスキーマを問題にするというより、テクストの内容がスキーマの変化を歌ったものなのである。

 そういう歌の典型には、例えば秋川雅史の「千の風になって」(作詞、新井満、二〇〇六年)がある。〈私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません〉と歌う。墓に納骨してお参りをすることで、私たちはいつのまにか、お墓にご先祖様が宿っていると、思いこんでしまう。しかしそれは慣習の結果つくられた心性である。この歌は、〈そこに私はいません 眠ってなんかいません〉と強く断定的に言うことで、私たちの思い込みを打ち壊す。それは時代の要請とマッチしていたため広く受け入れられた。だが、「千の風になって」は、遺骨を骨壷に入れて墓石の下に安置するのではなく散骨しようと勧めているわけではない。そのように勘違いされるがそうではない。火葬した灰を散骨すれば(土葬でも)分子原子のレベルで世界のなかに溶け込む。他の物質を構成する一部になる。そういう意味では「千の風になって」いる。だが、この歌で言っているのは、そうした遺物の物理的なあり方の問題ではなく、あくまで精神的なものである。遺骨は重い墓石で蓋をされた暗闇の中にあっても、物理的な制約を離れた霊的なものが自然と一体化して普遍的にいきわたる。生きているときよりもむしろ活発に動いている。〈眠ってなんかいません〉〈死んでなんかいません〉と静的であることを否定し、〈千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています〉と活動的だ。聞き手は、それを納得する手がかりとして、散骨したからそうなったという錯覚を経由して理解しているのかもしれない。この歌は、私たちの死生観のスキーマを変えることで、死後のあり方を物質から解放する。論理的にそれをやろうとすれば長大な文章が必要になるが、歌は情動に訴えかけることによって、わずか五分間に収まるレトリックで絶大な効果を発揮する。

 スキマスイッチに話を戻す。その前に、なぜシェマでもスキームでもなくスキーマという言い方を採用したかという冒頭の答えを示しておくと、もうおわかりかと思うが「地口落ち」である。

 この「奏」という歌で、スキーマが変化するところがはっきり語られるのは次の部分だ。

〈君が僕の前に現れた日から 何もかもが違くみえたんだ/朝も光も涙も歌う声も 君が輝きをくれたんだ〉

 恋をすれば見慣れた世界が輝き出すというよくある歌詞のひとつだが、あたりまえのものが〈違く〉見える、新鮮に見えるというのはスキーマの変化によるものである。「今ここ」に意識が集中しているマインドフルネスの状態といっていいかもしれないが、他者に依存しすぎているため、魔法が解けやすい。

 以下では、もう少し微妙なスキーマチェンジをみてみたい。

 この歌は、駅での男女の別れを描いている。それは再会の予定もない別れである。別れ際に僕は君に何か気の利いたことを言いたかった。はじめのほうに〈いつものざわめき 新しい風〉とあり、〈いつも〉のなかに〈新しい〉変化が生まれていることをほのめかしている。

 この歌のキーワードは「つながり」である。二人が近くにいるときは〈手と手〉をつないでいられる。遠く離れ離れになったときそれはできなくなる。代わりのものを探して、それは歌だということに気づく。遠くにいる二人をつないでくれるものは〈こんな歌〉である。その認識の転換は、駅での別れというわずかな時間のうちに起こる。それを〈僕〉にもたらしたのは、手に関するイメージの変化である。

 冒頭の〈改札の前 つなぐ手と手〉というのは、これまでの日常の延長である。日常の意識では〈僕〉は、〈君の手を引くその役目が 僕の使命だなんて そう思ってた〉と、パターナルな心情を告白する。〈つなぐ手と手〉は対等なものではなく、「導く僕の手」と「従う君の手」だったのである(〈僕〉のくすんだ世界に輝きをくれたのは〈君〉のはずだが、いつのまにか〈僕〉が優位に立とうとしているのだ)。ところが、電車の発車を告げるベルが鳴って〈解(ほど)ける手 離れてく君〉という事態になる。〈君〉から手をほどいて離れていったのであろう。〈手と手〉がつながっている限りは〈僕〉が〈手を引く〉ことができたが、手が解かれてはそれができない。そして手を解くことは外的な要因がちょっと加わるだけで、〈君〉の意思で容易にできる、案外もろいつながりだったのである。〈僕〉はつないだ手をかたくなに離さないほどマッチョではなく、スマートなものわかりのよさをみせた。ただ〈僕〉は簡単にはあきらめず、手に代わるつながりを探し始める。そして〈こんな歌〉がそれに使えると気づき、〈君がどこに行ったって僕の声で守るよ〉という。

 結局〈君の手を引く〉のが〈僕〉の使命だという思い込みにはあまり変わりがない。〈手を引く〉のが〈守る〉に変わったくらいだ。これは別の言い方をしていて、〈僕らならもう 重ねた日々が ほら 導いてくれる〉とある。これはいっけん、〈君〉と〈僕〉が対等になったことを意味しているように思える。だが〈重ねた日々〉を言葉にしたものが〈こんな歌〉なのであり、その歌は〈僕〉が歌うものなので、結局は導き手は〈僕〉なのである。だが〈僕〉は手をつなぐという直接性は行使できないから、〈僕の声で守る〉とか〈重ねた日々が ほら 導いてくれる〉とか自分から離れた第三の力を設定し、間接的に支配しようとするのである。〈僕〉が直接見えないところにいても、〈僕〉の監視の目を内在化して〈僕〉を常に意識させようとする。〈君の手を引くその役目が 僕の使命だなんて そう思ってた だけど今わかったんだ〉というところの〈今わかった〉というのは、自分のパワーが作用する直接性をはなれたところで利用できるものとして第三の力を設定すれば良いということに気づいたということであろう。駅での別れの短い時間に、そのようにスキーマが切り替えられ、〈君〉との関係を再設定した。〈君〉の気持ちは全く語られず〈僕〉の一方的な思いが切々と述べられるだけだからわからないが、〈君〉がもし新しい土地で人間関係をリセットしたいと思っていたとしても(そこには新しい出会いがあるだろう)、〈僕〉は影響力を行使し続けると宣言しているわけで、〈君〉には息苦しい歌になっているであろう。〈こんな〉贈り物は電車の窓から投げ捨てたほうがいい。

 この歌の歌詞には、いくつか矛盾を感じるところがあるということを最後に書いておこう。

 一つめ。この歌は、「この歌」についての自己言及的な歌である。二人のあいだに〈こんな歌〉があればどうかというのだが、〈こんな歌〉は暗く悲しい歌である。〈悲しい歌で溢れないように 最後に何か君に伝えたくて 「さよなら」に代わる言葉を僕は探してた〉とあるのに、それが〈こんな歌〉では、〈僕〉は〈「さよなら」に代わる言葉〉を探すのに失敗したということになりはしないか。

 二つめ。冒頭は、〈改札の前〉だからホームに入っていないはずである。それが二番の歌詞になると、〈突然ふいに鳴り響くベルの音〉とあるから、この時点ではホームに入っているのだろうか。だが、移動した感じがない。ずっと手をつないだままだからだ。これはどういうことか。スキマスイッチの二人は愛知県からの上京組だ。「奏」の誕生秘話として、二人は上京したときの心境が反映しているとインタビューで語っている。(https://entertainmentstation.jp/67910)作詞した大橋卓弥の出身高校は愛知県知多市にあり、最寄り駅の新舞子駅はシンプルな作りの駅舎だ。改札の前にいても発車のベルは聞こえたであろう。ベルが鳴って彼女はあわてて走っていったのかもしれない。〈突然ふいに鳴り響くベルの音〉というのもちょっとおかしい。だって、電車の時刻は前もってわかっているはずだ。「なごり雪」(イルカ)や「赤いスイートピー」(松田聖子)では、電車がくる時間を気にして男は時計を見ている。「サヨナラバス」(ゆず)もそうだが、別れが近いなら、あとどれくらい一緒にいられるか一層時間を気にするはずだ。この歌の〈僕〉はよほど忘我状態だったのか。

 

 スキーマソングということで最近人気の歌を取り上げることになった。というのも、たいていの歌は、どこかしらスキーマソングの要素を持っているから(それが全くなければ詩として死んでいる)、何であっても素材になるのである。