Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

オフコース「さよなら」~君僕ソング(その4)

父■オフコースを紹介するつもりが、だいぶ回り道をしてしまった。

娘□えー、今のは回り道だったんだ。

父■オフコースで一番ヒットしたのが1979年の「さよなら」(作詞、小田和正)。12月に発売されて、歌詞の内容と季節がマッチしていたのもよかった。この歌の歌詞は、歌詞を書くのが苦手というわりには、よくできていると思う。

オフコース「さよなら」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a002409/l002f59.html

娘□例えば?

父■冒頭は、〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉。これは、「もう 終わりだね 君を遠くに感じる」としても同じ意味だけど、それだと説明になってしまうから、そうせずに、感覚のパースペクティブを〈君が小さく見える〉と視覚的な隠喩で描写した。

娘□たしかに、相手への関心が薄れると、小さく見えるような気がする。

父■僕もそう思っていたから、イルカの「雨の物語」(作詞、伊勢正三1977年)にずっと違和感を持っていたんだ。〈化粧する君の その背中がとても 小さく見えて しかたないから/僕はまだ君を 愛しているんだろう〉とあるんだけど、小さく見えるということは関心がなくなったことを意味しているから、愛情も消えているはずなのに、逆にここでは、〈僕はまだ君を 愛している〉っていうことを確認する契機になっているんだよね。どういうことかと思ったら、これはたぶん「小さい背中」から子どもを連想して、守ってあげたいという保護意識が賦活されたってことじゃないかと思った。コンラート・ローレンツの有名な「ベビースキーマ」ってあるでしょ。幼い動物は特有の身体的特徴を共通して持っていて、それを見るとかわいい、守ってやりたいと思うという。小ささも可愛らしさに結びついているよね。

娘□「雨の物語」も「さよなら」も〈小さく見え〉るという言い方は共通しているのね。客観的に小さくなった、のではなく、主観的に〈小さく見え〉るということ。

父■〈小さく見え〉るのは愛情が薄れて遠くに感じるようになったからなんだけど、〈小さく見え〉るようになると、今度はベビースキーマが作動して、別の愛しい気持ちが湧いてくる。

娘□大人なのにベビースキーマ

父■「不憫さ」と言ったほうがいいのかな。そうなると「かわいい」ではなく「かわいそう」ということになるけど。言いたいのは、さよならの気持ち一本槍ではなく、ここで一旦屈折しているということ。「さよなら」は、先の〈小さく見える〉という歌詞のあと、〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉と続くんだ。もう終わりだって思いながら〈抱きしめたくなる〉という気持ちも湧き上がってくる。この矛盾した心の動きを「さよなら」は2段階に腑分けしている。

(1)もう 終わりだね → 君が小さく見える

(2)君が小さく見える → 抱きしめたくなる

 だから〈小さく見える〉には二重の意味があるということだね。

娘□(1)をもう少し丁寧に言うと、ここは、(a)君への関心が薄れたので君が小さく見えるようになったというより、逆に、(b)君が小さく見えるようになったことから二人の関係ももう終わりの時期にさしかかっていることを知った、ということなんじゃないかな。歌詞を補うと、

a)もう 終わりだね (だから)君が小さく見える

b)もう 終わりだね (なぜなら)君が小さく見える(ようになったから)

父■どちらとも解釈できるけど、(b)のほうが自然だろう。そういう認識の先後関係はあるにしても、「さよなら」は〈小さく見える〉ことをめぐって、(1)(2)のように2段階の過程で把握している。一方、「雨の物語」では、なぜ小さく見えるようになったかを書いておらず、「さよなら」における(1)に相当する部分がなく、小さく見えたからどうしたという反応の方(2)を書くだけなので、愛情と憐憫とを混同してしまい、小さく見えたからまだ愛していると言ったんだろう。

娘□本当はそれは愛ではなく憐憫、哀れみなのね。

父■そういうことだと思う。さて次に進もう。「さよなら」の歌詞のここが上手だと思うところ。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉という部分。これはこの歌の底流にある「哲学」なんだけど、それをシンプルに「自由」の二文字で表現して、それがどういうことかを前後の文脈でわからせるというのもうまい。

娘□自由って明るいはずのものなのに、哀しいものになってる。さっき、お父さんが、川島だりあの「悲しき自由の果てに」についてちょっと話したじゃない(その2に掲載)。その「自由」と似ている気がする。

父■そうだね。「自由」って解放的ではあるけど不安な要素も併せもっているね。

娘□私も挙げていい? 女性から見て微笑ましいところ。〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉という部分。ここは初々しいカップルの「あるある」を取り入れていると思う。書き手の観察眼を感じさせる。

父■それはわかるけど、〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉っていう歌詞、よく読むとへんだよね。だって、人に見られず寄り添い歩くなら〈誰も見ていない道〉だけで十分だろ。どうして〈寒い日〉という条件も必要になるのか。

娘□うーん、そう言われればそうかも。

父■答えを言うと、〈てれる〉には二重の意味があるんだ。〈誰も見ていない〉というのは人目を気にする点はクリアしているけど、〈僕〉自身の抵抗感を解除するには〈寒い〉から寄り添うという合理的な理由も必要だった。

娘□二重に照れ屋さんなんだ。めんどっちい人。この二人は、女性がリードしているみたいね。

父■誰もいない道で大胆になるのは女性が積極的な感じがするね。他のところでもそうかな?

娘□〈「私は泣かないから このままひとりにして」/君のほほを涙が 流れては落ちる〉という直接話法のところもそうじゃない? 涙が溢れ出てくるくらい悲しいんだけど、グッと耐えて、〈このままひとりにして〉と突っぱねる。相手の男性にはっきり「これでお別れなんだ」=「さよなら」だと思わせることができた点で、別れ方に成功したと思う。きっぱり別れたほうが次に進める。

父■そんなにきっぱりしてるかな。〈泣かない〉と言いつつ泣くのは自分の意に反したことを言っていますよというメッセージだとすれば、〈ひとりにして〉というのも「ひとりにしないで」という反対の意味に解釈せよということにならないか?

娘□どっちなんだろう。

父■この歌詞は弁証法的にジグザグ進んでいくところに特徴がある。まず〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉というのは、君への思いがなくなりかけているということだけど、それなのにすぐあとに〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉とある。君を遠くに感じているはずなのに、直後に、身近に引き寄せようとする。反対の方向に気持ちが振れている。次は、〈「私は泣かないから このままひとりにして」〉とあって、抱き寄せようとする僕の気持ちを察知したかのように、それを拒む。〈私は泣かない〉と言っている一方で、〈君のほほを涙が 流れては落ちる〉というように、言葉と反対の出来事が起こっている。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉とあるのは、束縛しない交際のほうが楽しいし長続きすると思ったんだろうけど、〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉と、結局、思いもかけず関係が破綻する原因になっている。二番の歌詞になると、君は今は僕以外の誰かとくっついて寝ているかもしれないと想像する一方で、かつては僕とくっついて歩いたこともあったと回想する。〈外は今日も雨 やがて雪になって〉とあるように、雨かと思えば雪になる。要するにこの歌は前言と反することが積み重ねられていくという構造になっている。事態がその性質のまま延長されていくのではなく、反対の事態が語られることによって折れ曲がって進んでいく。

娘□弁証法って「正反合」でしょ。「正反」はわかるけど「合」は?

父■雪だね。ラストで〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉ってあるでしょ。全てを覆い隠す雪は、心を凍てつかす一方で葛藤を浄化する。〈もうすぐ外は白い冬〉というのも白紙に戻すという感じがある。雪が、いざこざのすべてをチャラにしてしまう。

娘□歌詞って少ない言葉で表現しているから掌サイズの小説よりもっと短い指先サイズの小説みたいなものでしょ。その長さだと物語的にははっきりした構造をもたせることはできないから、とりあえずここで一旦締めくくりますっていうときに雪が使える。ストーリーが途中であっても、雪は個物を覆って情景全体をまとめあげてくれる。

父■イルカの「雨の物語」でも〈物語の終わりに こんな雨の日 似合いすぎてる〉って歌ってるでしょ。「さよなら」は雨が雪に変わるんだけど、雨とか雪という天候は、惚れたはれたという人事とは関係なく動いている。でもそれがリンクしているように見えるときがある。

娘□映画『天気の子』は、天候と人間の思念がリンクしている、というより操作している。

父■それはオカルトだから。昔から、気合で天気を操るという触れ込みの人はいたよ。それはともかく、和歌や俳句の感性なのか、僕たちは人間関係に問題があるとき、それを直視することを避けていったん棚上げするときに雨や雪に目をそらそうとする傾向がある。それを風流とも言うけど。風流って、人事から目をそらしているときに生まれる。

娘□俳句の「二物取り合わせ」はそういう技法じゃない?

父■ところでこの歌の出来事はどこで起きているんだろうか。

娘□どこで?

父■そう、場所はどこ?

娘□なんか道路に立ってやりとりしている感じ?

父■どうしてそう思った?

娘□なんかそういうイメージがあるんだけど、言われてみればはっきりした根拠はない。過去を回想する、〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉っていうところに引きずられたかな。

父■これ室内の出来事だよね。〈もうすぐ外は白い冬〉とか〈外は今日も雨〉とあるからね。自分たちは〈外〉に対して建物の内側にいる。

娘□そう言われればそうか。〈外〉って繰り返されているのにスルーしてた。

父■それで、〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉と歌っているよね。この比喩はねじれがある。雪は外で降る。でも〈僕ら〉は建物の中で降雪から保護されている。建物の「外/内」だ。一方、心は、ふつうは箱みたいに閉ざされたものとしてイメージされる。心にも「外/内」がある。だから、〈外〉で降る雪が〈心のなか〉に積もるというのは、入れ子状態になった内側に一気に入り込んでくるということになる。

娘□心が世界と一体化してるってことじゃないの? 窓の外に見える世界の出来事に自分を投影してたとか。

父■室内の出来事が重苦しいものになってきたから、そこから目をそらして窓の外を見たということだよね。外部は室内から関心をそらすために要請されたものだ。でもそれが一気に〈心のなか〉の出来事に結びつくのは飛躍があるなあ。もしこれが「僕らの上に静かに 降り積るだろう」ぐらいの歌詞ならわかるんだけど。「僕らの上」って「僕らの屋根の上」ってことだよ。三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ」だからね。

娘□理屈はわかるけど、歌の言葉は一瞬で消え去っていくものだから、聞き手のわかりやすさという点では〈心のなか〉とした方が、冷え切った感じがダイレクトに伝わるんじゃないかな。

父■そこまでの直接性は必要かなぁ。ところで、また「そもそも論」になるけど、そもそもこの歌ってどういう歌だと思う?

娘□恋人の二人が別れるところなんじゃないの?

父■たしかにそうだけど、すっきりしないところがあるんだよなあ。

娘□そう? わかりやすい歌だと思うけど。

父■じゃあ、どういう理由で二人は別れるんだい? どちらから別れを切り出したの?

娘□それは男の人からでしょ。だって女の人は泣いているじゃない。

父■でも2番で〈愛は哀しいね 僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉とあるんだよ。〈僕のかわりに君が〉という日本語がちょっと怪しげだけど、ここは「僕のかわりに君は」という意味だとすると、君は僕のかわりに他の誰かと眠るかもしれないということだから、別れたその日に、君はもう他の人とベッド・インしているわけだ。割り切りが早すぎないか。僕の他に彼氏をキープしておいたとしか思えない。

娘□でも、この人は泣いているのはどうして? 「私は泣かない」と言いつつ泣いているのは、自分の感情を制御できていないということで、別れはそれほど衝撃だったんでしょ。そういう人に他に好きな人がいるっていうのはおかしいんじゃないの?

父■「私は泣かない」というのはたんなる強がりではなく、そもそもこの女性が浮気したことが別れる原因で、原因は自分にあるから「私は泣かない」と言っているんじゃないかな? 自分が原因なのだから自分が被害者ヅラして泣くに価しない。「私は泣かない」というのは論理的にとるべき態度で、それに反して泣いてしまうのは感情的な態度だ。論理的にやるのは難しい。もし二股かけていたとしても、別れるのは寂しいんだろう。

娘□二股っていう根拠は何?

父■それはさっき言った〈僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉というフレーズだけど、この二人は最初からそうなる運命だったんだよ。〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉とあるけど、その〈自由〉が原因なんだよ。

娘□「他人の関係」や「悲しき自由の果てに」にも〈自由〉ってあった。

父■同じオフコースの「眠れぬ夜」(作詞、小田和正1975年)も〈自由〉を主題にしている。〈愛にしばられて 動けなくなる〉〈愛のない毎日は 自由な毎日〉とあって、愛というのは人を束縛するもので、そこから逃げ出して自由になりたいという。そのあとで、どこまでそれが徹底できるか〈わからない〉とも言うんだけどね。「愛か自由か」はゼロサムで、どちらかを選べばどちらかを諦めなければならないと思われている。

娘□友達のことなんだけど、ステディになった途端に彼氏に厳しくされて、他の誰々と仲良くしすぎだとか、あの男と喋ってはだめだとか、どこに行ってたんだとか、スマホで連絡したときにすぐ返事を返せ何やってたんだとか、いろんなルール決められてウザくて仕方ないって。なにかそういう規制したり詮索したりする権利でも獲得したかのようにふるまわれて窮屈だって。

父■「他人の関係」という歌では、「愛か自由か」ではなく、「愛も自由も」の方法論が語られている。愛に拘束されないために、会っている時間以外は他人として自由でいようという。時間によって切り変えようとすところが実験的だね。時間によって態度を変更することで、不都合な恋愛のやましさを軽減している。でもこういう関係は両者の微妙なバランスで成り立っているものだから長続きしないだろうね。普通、こういう関係は金銭を介在させて時間を切り売りするものになるよね。「他人の関係」という歌は、性の売買から金銭的なものを取り去ったらどうなるかという思考実験だと思う。「愛と自由」は不安定だけど、「お金と自由」は安定している。

娘□「愛か自由か」という二者択一の他にも、「愛も自由も」という両者のいいとこ取りの方法もある。でも、いびつなところがあると。嫁入り前の娘のする話じゃないわよ。

父■それで〈「僕らは自由だね」いつかそう話したね〉と歌う「さよなら」の〈自由〉はどうなのかというと、「愛か自由か」ではなく「愛も自由も」のほうなんだよ。ただし、「他人の関係」は時間によって愛と自由を切り替えることで両立させていたけど、「さよなら」は愛と自由を対立するものと考えず、両者を合体しようとした。

娘□ん? どういうこと?

父■つまり自由恋愛。

娘□自由恋愛って?

父■他に好きな人ができたら遠慮なくつきあえばいいじゃんってこと。つきあう相手は特定の一人に制約されない。複数の人と同時期に交際してもいい。恋愛の一番の束縛が結婚というかたちだから、結婚という制度には取り込まれない。なんか先を行っている感じでカッコいいんだけど、この歌の二人は結局うまくいかずに別れてしまった。〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉ということになった。このあたりの歌詞はうまいよね。

娘□女の人はその〈僕らは自由だ〉という言葉を信じて、何人も恋人を作ったのだけど、男の人はカッコつけてそう言ったものの、その現実に耐えられずに別れてしまったということ? 理想と現実の差が別れの原因?

父■うん。男の人は他に彼女を作らなかったんだろうな。〈愛したのはたしかに君だけ〉とはっきり言ってるからね。あ、この言葉はそういう意味だったのか。自分でしゃべってみて気がついたよ。この男性は〈僕がてれるから〉とあるように奥手なのに、カッコつけて流行りの「自由」を口にしてみた。それを女性は真に受けた。その結果こうなった。

娘□〈愛したのはたしかに君だけ〉のあとに続く〈そのままの君だけ〉っていうのは?

父■僕の知ってる君、ということだろうな。他の男に見せる顔、僕の知らない隠された顔の君もいたんだけど、〈そのままの君〉以外は〈愛〉の対象外なんだ。〈君〉を愛していたんだけど、それは〈そのままの君〉の範囲に限定されている。それが繰り返される〈だけ〉の意味だろう。

娘□たしかに別れた日に他の人と寝るなんてどうかと思うけど、私はこう解釈するな。この歌には〈今日〉が3回出てきます。1番の〈まるで今日のことなんて 思いもしないで〉という〈今日〉は別れた日。2番の〈僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉の〈今日〉は、別れた日から1年たって、同じ季節がめぐってきたので別れた日のことを思い出し、もう今頃は他の誰かと付き合っているだろうと思いをめぐらしている日。おしまいの〈外は今日も雨 やがて雪になって〉というのは2番の〈今日〉と同じ日。

父■ふーん。1番は過去の回想で、2番は語りの現在において君を想像してるってことか。

娘□1番には〈もうすぐ外は白い冬〉ってあるけど、ラストは〈外は今日も雨 やがて雪になって〉とあって、天候が微妙にずれている。〈もうすぐ〉というのは、冬になるにはまだ数日から数週間の時間の経過を要することを思わせるけど、〈やがて〉というのは、降水が継続した状態で雪になると言っているわけだから、その日のうちに雪、つまりもう今は冬なわけで、時間がずれている。〈もうすぐ〉は季節の変化、〈やがて〉は時間の変化を表している。タイムスパンが違う。これも1番の〈今日〉とおしまいの〈今日〉とが違う〈今日〉である証拠ね。

父■2番にも〈もうすぐ外は白い冬〉ってあるのはどうするのか。ま、そこは繰り返しだから意味の穿鑿はスルーしてくれってことかな。山下達郎の「クリスマス・イブ」(作詞、山下達郎1983年)で〈雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう〉っていうのがあって、クリスマスに雨が降っていると必ず誰かがこの歌を歌ったものだけれど、すでに小田和正が〈外は今日も雨 やがて雪になって〉と書いていたのは、あらためて気づいたよ。

 

娘□なかなか「あなたと私」のほうに話がいかないんですけど。

父■ああ、そうだった。「さよなら」には「君僕」がよく出てくるということを言うんだった。この歌の「君僕(私)」を抜き出してみよう。

 

君が小さく見える、僕は思わず君を、私は泣かない、君のほほを涙が、僕らは自由だ、愛したのはたしかに君だけ、そのままの君だけ、僕のかわりに君が、僕がてれるから、寒い日が君は好きだった、僕らの心のなかに

 

 どうだろう、一つの歌のなかにいくつも使われていると思わない? 歌詞に使える文字数は少ないから、必然的に登場人物も限られる。君と僕しかいない場合がほとんどだから、関係が描けていればいちいち僕が何をしたとか君が何を言ったとか指示しなくても文脈でわかる。どちらの行為なのかがわかればいいだけだから、もっと「君僕」を省略しても内容は伝わると思うな。

娘□書き言葉ならそうなんだけど、歌の言葉は発せられた瞬間に消えていくから、同じ言葉が繰り返し使われてもそれほど気にならないし、むしろそのつど人称代名詞を補ってやらないとわかりにくいんじゃないかな。脳が情報処理できるのは限られた言葉のまとまりでしょ。だから歌の言葉って、全体をとおした論理的なつながりを判断しているんじゃなくて、そのつど立ち現れてくる断片的で短いフレーズに反応しているだけだと思う。

父■聞き手にとってはそうだろうね。歌は直線的に進んでいくから、言葉の把握が不十分でも後戻りできない。歌詞は短い言葉のまとまりで理解されることになる。逆に言えば、同じ言葉がたびたび出てきてもあまり気にならない。書き手は、歌の言葉のそういう特性、断片の寄せ集めのような歌詞を書くこともできるし、あるいは、もっと歌詞の全体を見渡して書くこともできる。歌詞の全体を見渡しながら書くということは、歌詞を、言語の作品として自律したものにしたいということだろう。この傾向が強い書き手を「詩人タイプ」と呼ぶことにすれば、松本隆なんかは詩人タイプの典型じゃないかな。で、その松本隆は人称代名詞を少なくしたいと考えているんだよね。たぶん歌詞を、書かれた文字として見ているからだと思う。書かれた文字なら視線は何度でも紙の上を行き来できるから、同じ言葉が出てくると気になる。

娘□で、お父さんは「詩人派」なわけね。じゃ、あたしもそれにつきあって、この歌の「君僕」の必要性ということを考えてみましょう。「さよなら」で「君僕」を省略しても前後の文脈で意味が通じるのは、まず〈僕は思わず君を 抱きしめたくなる〉。ここは〈君〉を取って〈僕は思わず 抱きしめたくなる〉にしても、あるいは語り手である〈僕〉を略して〈思わず君を 抱きしめたくなる〉でもいいかも。ここのところは、僕と君の距離がわからなくて、近くにいるのか離れているのかわからないから、余った文字数でその情報を補ってやればいいと思う。

父■Wikipediaの「さよなら」の項目には、「小田和正は、原詩では「僕は思わず 君を 抱きしめそうになる」としていたところを、間違えて『僕は思わず 君を 抱きしめたくなる』と、間違えて録音してしまったことを悔やんだという。」と書かれていて、このあたりの歌詞について、作詞者は言葉の細部にこだわっていたことがうかがえる。

娘□「抱きしめそうになる」と「抱きしめたくなる」は何が違うかよくわからない。

父■「抱きしめそうになる」のほうが、無意識にそうなってしまう感じがあるね。「抱きしめたくなる」は、意識にのぼっている感じがある。もう別れを決めているんだから、また「抱きしめたくなる」というのはおかしいということかな。

娘□ああ、そうか。「抱きしめたくなる」のほうが愛情が残っている感じがするね。「抱きしめそうになる」なんて条件反射みたいで嫌だな。

父■2文字違うだけだけど、印象も微妙に変わってくるよね。

娘□「君僕」の省略についてに話を戻すと、省略できるところとしては他に、〈君のほほを涙が 流れては落ちる〉は〈ほほを涙が 流れては落ちる〉でいいかな。

父■それだと〈僕〉の涙ということもありうるから、〈君〉であることをはっきりさせておかないと、言葉と態度の矛盾で引き裂かれた状態にあることが明らかにならないよ。

娘□そっか、そだね。〈愛は哀しいね 僕のかわりに君が/今日は誰かの胸に 眠るかも知れない〉の〈僕のかわりに〉もいらないんじゃない。むしろおかしな言葉遣いになってしまってる。〈僕がてれるから 誰も見ていない道を/寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった〉の〈僕が〉はなくてもわかるけど、ここは僕と君の対比でもあるから、あったほうがそれがはっきりわかるかな。〈外は今日も雨 やがて雪になって/僕らの心のなかに 降り積るだろう〉の〈僕ら〉は言わずもがな。

父■削れずに残したのも半分くらいあるね。

娘□そう、意外に必要でもあるんだと思った。省略しすぎると曖昧になって違う意味にとられかねない。

父■この歌って直接話法が2箇所引用されていたりして、結構演劇的だよね。「私は泣かないから」とか「僕らは自由だね」とか。

娘□たしかに。寸劇を見ているようで情景が目に浮かぶ。直接話法があるせいで、〈君〉や〈僕〉に存在感が生じている。歌謡映画にできそう。

オフコース「言葉にできない」〜君僕ソング(その3)

父■「あなたと私」の歌詞に話を戻すよ。フォークでもうひとりというか、グループなんだけど、取り上げたい人がいて、オフコース小田和正がいたグループだって言えばわかるかな。デビューしたのは1970年だけど、テレビにも出なかったせいか、なかなかヒットにめぐまれず、79年の「さよなら」でブレイクした。それまでも「眠れぬ夜」(1975年)とか「秋の気配」(1977年)とか人気のある曲はあったんだけど、ヒットというわけでもなかった。

娘□オフコースって面白い名前ね。「もちろん」ってどういうこと?

父■よくあるボケだね。OF COURSE ではなく OFF COURSE ね。グループ名をいちいち説明しなきゃいけないってのも余計な手間だ。誤解を修正することから入るコミュニケーションって、なんか気まずい。

娘□いっそ、オフロードとかにすればよかったのに。間違えにくいし、男っぽいじゃん。

父■それじゃ「お風呂どう?」みたいだ。OFF COURSE は、出身高校の野球部OB会の名前をそのままつけたらしい。シングルを見ると、始めは、カタカナ書きのオフコースと英語表記の OFF COURSE が混在していて、カタカナ書きのほうの書体が大きかったんだけど、やがて英語表記の方が優勢になって、「さよなら」のヒットのあとは英語表記だけになる。名前が認知されたから英語だけにしたのかな。英語のほうが本当の名前だということなんだろうか。そもそも当初はジ・オフ・コースと the がついていた。カタカナ表記もオフ・コースの中黒がとれてオフコースになっていったという経緯がある。英語表記も大文字だけの OFF COURSE と小文字の Off Course もあってこれは最後まで統一されていない。こういう表記の揺れがあるところも、どういうグループなのかわかりにくくさせている一因じゃないかな。テレビに出ていれば表記についてはもっと統一感のあるものになったと思う。

シングルジャケット一覧→https://sp.universal-music.co.jp/offcourse/disco/single/

娘□たぶんテレビに出てたら司会者にオフコースって「もちろん」ってことですかってからかわれて、うんざりしたでしょうね。

父■オフコースはシングルA面の曲はだいたい小田和正が作詞作曲している。

娘□A面って?

父■レコードの時代は、黒い円盤をひっくり返して聞いたんだよ。シングルの場合、AB面に1曲ずつ入っていた。制作サイドがプッシュしてるのがA面。B面はオマケ扱い。アルバムはSIDE 1SIDE 2 と表記されていた。

娘□小田和正って伝説の人でしょ。テレビの「歌うまランキング」で、高い声がきれいだって、よく名前が出てくる。

父■伝説というか、まだ現役だけどね。小田和正はたくさん曲を作っているんだけど、歌詞を書くのが苦手らしい。歌詞の書き方についてたびたび語っているんだけど、それを読むと面白い。例えば、『たしかなこと』(小貫信昭著、2005年、以下はWikipediaからの孫引き)のインタビューで、「言葉にできない」という歌についてこう言っている。この歌は今でもCMなんかで流れるから知ってるよね。歌詞には〈lalala……言葉にできない〉が繰り返されている。

オフコース「言葉にできない」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a002409/l002816.html

 

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(小田)「何しろラララでいこうというのはアイデアとしてあって。ただ、そこにたどり着くまでの過程があって。歌なんてもしかしたら、歌詞がないほうが強いんじゃないか?”って思ったのかな。その前段階で、歌詞、書くのイヤだなって、そう思ってたのが、だんだん歌詞がないほうが…”ってなっていったのかな。いや、ともかくラララって歌っているうちに、このままのほうがシンプルで強いって確信してったんだよ。ちょうどそれが当時の、バンドのテーマだったから」

(小田)「循環コードを弾きながら、ラララって、歌いながらメロディをちょっとずつ直していったんだと思う。ラララのあと、言葉にできないが先か悲しくてが先か、どっちか忘れたけど、このふたつが前後して浮かんだと思うんだよ。とにかく、そこのブロックが最初に出来たのは覚えている。言葉にできないって歌詞とラララっていうのはとても辻褄が合うじゃない?

(小田)「そしたら、悲しくてだけじゃなく、悔しくてっていうのも言葉にできないラララとも辻褄が合う。で、途中で、否定的な、暗いまま終わるのはイヤだなっていうことで嬉しくて言葉にできないという、それで締めればいいんだみたいな。そう思いついたときにああ、そうか、これで解決。ハッピー、ハッピー!って、この展開は素晴らしいな、とね」

   ***

 

娘□最初に「歌詞、書くのイヤだな」があったってのがウケる。でもそこから論理的に整合性があるように組み立てるところがすごい。悲しくても、悔しくても、嬉しくても言葉にできないんだね。何があっても言葉にできないと言い張っているようで、かたくなささえ感じる。「悲しくて言葉にできない」というのは、今ふうに言えば、「悲しすぎて言葉にできない」ってなるね。

父■ただね、僕にいわせれば、〈言葉にできない〉という歌詞を使うのは、お一人様1回にしてもらいたい。

娘□なんで?

父■だって反則技でしょ。歌詞は言葉で書いているのに、〈言葉にできない〉なんていうのはさ。それなら言葉にできる人が歌詞を書けばいいじゃん。先日読んだ本で、歌人永田和宏という人が対談で短歌入門の本を出しているんだけど、そこでこう言っていた。できあいの言葉を使わないようにという文脈だ。

 

   ***

よくある表現としては「ひとり」とか「寂しい」とか「悔しい」とか、あるいは、「計り知れない」とか多いね。もっとひどいのは、「言葉に尽くせない」とかね。言葉にしようとしているのに、言葉に尽くせないでは自己矛盾だよね。(永田和宏知花くらら『あなたと短歌』、朝日新聞出版、2018年、60-61頁)

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娘□短歌って何度も読み返すじゃない。だから精選された言葉を味わうことができる。でも歌の歌詞って、右の耳から左の耳に通り過ぎていくでしょ。そういう言葉は一度聞いただけでわかるフワっとした言葉のほうがいいんじゃない? 好きな歌は何度も聞きなおすけど、それでも、通り過ぎていく言葉って吟味しにくい。やっぱり短歌のように精密に組み立てられた言語作品とは違うような気がするなあ。

父■今引用した本で、こういう短歌が紹介されている。投稿歌なんだけど、「コンビニに流れる歌詞に聞き入ってどうかしている今日の私は」(松原和音)(同前、186頁)。ふつうは「コンビニに流れる歌に聞き入って」とすると思うけど、この人は「コンビニに流れる歌詞に聞き入って」としているでしょ。「歌詞を聞く」というねじれた言い方で、言葉を問題にしているということをはっきり言っている。

娘□失恋したときに、自分の気持ちを言葉にしたような歌詞があったので耳を傾けたというようなことかな。

父■どういう状況かはわからないけど、これなんか、短歌の言葉と歌詞の言葉の違いが表現されているようで面白い。「歌詞に聞き入ってどうかしている今日の私は」なんて、短歌を詠むような言葉へのこだわりのある人が、ふだんはみくびっている歌詞に、つい心を奪われてしまったっていうことでしょう。マジメな人がナンパされて、ついフラフラついていってしまうみたいな。歌詞の言葉の不思議さだよね。言語作品として精密なものに人が引きつけられるわけではない。

娘□短歌って縦に1行、ドーンと書かれているじゃない。周りに余白がたっぷりとられているし威厳がある。だから、それを読むときは、何が表現されているか読む人がちょっと身構えて解釈にのぞむ。一方、歌の言葉って、向こうから耳に入ってくるので、解釈する時間もないまま消えていくし、解釈してやろうなんて身構えてもいない。隙だらけの状態でいきなり耳に入ってくる。

父■短歌は正座して鑑賞し、歌の言葉は歩きながら聞く。評価の軸が違うんだろう。だけど、かといって、どの歌も「ひとり」「寂しい」「悔しい」「言葉に尽くせない」ばかりだったらうんざりするでしょ。

娘□うーん、たしかに「言葉にできない」という歌は、「ひとり」「哀しい」「せつない」「くやしい」「嬉しい」っていう歌だけど、こういうシンプルな言葉が耳にすっと入ってくるときってあるのよねえ。

父■シンプルな歌詞があってもいいけど、せいぜい10曲に1曲くらいにしてもらいたいな。例えば、あいみょんという人はひねった歌詞を書く人だけど、「裸の心」なんかはとてもシンプルだよね。曲もそうだけど。たまにそういう歌を歌うから、そこに何か強い思い入れのようなものを感じることができる。

娘□10曲に1曲っていう根拠は?

父■1枚のアルバムに1曲はそういうちょっと素朴な歌詞があっても、バリエーションの一つとしてありうる、ぐらいの感じかな。

娘□ふーん、お父さんの希望なのね。

父■最初に〈言葉にできない〉っていう匙を投げたような歌詞を思いついた人は、「こりゃ便利な言い方だ」と思ったんじゃないかな。何にでも使えるメタレベルに立った言い方だ。それこそ、嬉しくても悲しくても言葉にできないって言えば済む。聞き手の側の推測に委ねるものが多すぎる。

娘□でも実際、息を呑むとか、筆舌に尽くしがたいとか、感動のあまり言葉失うとかいったことはあるわけだから、〈言葉にできない〉という歌詞も「あり」だと思うけどな。

父■〈言葉にできない〉という言葉を発するまでの過程がそれなりに描かれていれば説得力のある歌詞になるだろうね。でも、安易に〈言葉にできない〉と逃げてしまうのは日本語の蓄積を無視している。たいていのことは言葉にできる。人が死んで悲しい、子どもが生まれて嬉しい、恋人と別れて悲しい、好きな人と一緒にいて嬉しい、こういったことはその心の振り幅にあった言葉の蓄積が千年ぶんある。失恋して悲しいなんてのは、言葉にできないような特異な経験ではない。宇宙人に会って驚いた、というのはあまりないかもしれないけど。

娘□言葉っていうのは他人が作ったものでしょ。それだと自分だけが持っている気持ちや考えを表現できないってことじゃないの?

父■じゃあ、自分だけの気持ちを伝えるのに、自分だけの言語を作るの? 私的言語っていうやつだね。でもそれって他人には伝わらないよ。

娘□だから〈言葉にできない〉って言うんじゃないの?

父■言葉にするのは他人に理解してもらいたいからでしょ。でも〈言葉にできない〉というのは、「俺の気持ちは他人であるあんたにはわからない」って言っているように聞こえる。

娘□そんなに特別感のあるものでも喧嘩腰的なものでもないけど。

父■今、二つの異なる観点のことが話題になっていて、言葉では表現しきれないことがあるということと、自分の気持ちは他人にはわからないっていうことで、この二つは別のことだから、分けて考えてみよう。

娘□あ、違うんだ。

父■まず、言葉では表現しきれないことがあるということから。〈言葉にできない〉って、そもそもどういう意味なのか。まず辞書をひいてみよう。国語辞書には、「言葉」の項に「言葉に余る」があり、「ことばでは言いつくせない」と説明されている。これはいくつかの辞書で全く同じだ。「言葉に余る」は、言葉にしてみたけれど、言い足りない部分が残ってしまうということだね。「言葉に余る」は、一旦は言葉にしてみたという点が〈言葉にできない〉とは違う。では、〈言葉にできない〉はどうなのか。全く言葉にならなかったのか、それとも「ことばでは言いつくせない」部分については言葉にできないという意味なのか。両方だろうけど、〈言葉にできない〉という方が、「言葉に余る」という言い方より強いよね。

娘□言い方にもいろいろあるんだ。

父■ネットにある「Weblio類語辞書」は、「言葉にできない」の類語を次の四つに分類している。わかりやすくするため順番を入れ替えた。カッコ内は類語の例から抽出した。

 

(1) 感動や衝撃で言葉が出ないさま(言葉を失う、絶句する、唖然とする、言葉が出ない、息を呑む)

(2) うまく表現できず思いを言い表せない(ふさわしい言葉が見つからない、言いようのない、言葉にならない)

(3) 言葉で表現できない程すぐれているさま(筆舌に尽くしがたい、言葉では言い表せない、得も言われぬ

(4) 言葉で表現しにくいさま(何とも言い難い、名状しがたい、言語を絶する、形容しがたい)

 

 〈言葉にできない〉理由として、(1)と(2)は表現する主体の側に重きがあり、(3)と(4)は対象の側に重きがある。オフコースの「言葉にできない」を見ると、使用例は次の3つ。

 

・終わる筈のない愛が途絶えた(…)また 誰れかを愛している/こころ 哀しくて 言葉にできない
・自分がちいさすぎるから/それが くやしくて 言葉にできない
・あなたに会えて ほんとうによかった/嬉しくて 嬉しくて 言葉にできない

 

 これらは(2)に(1)が少し混じってる感じかな。

娘□ふーん、そうなんだ。たしかに自分の心が通常の状態ではなくなって〈言葉にできない〉っていう感じだね。一方の(3)と(4)は対象の側に重きがあるっていうけど、対象の側ってどういうこと。例えば?

父■浦島太郎がそうだよ。〈昔昔浦島は 助けた亀に連れられて 龍宮城へ来てみれば 絵にもかけない美しさ〉という唱歌があるでしょ。

娘□それはいくらなんでも知ってる。〈たちまち太郎はお爺さん〉っていうあれね。

唱歌「浦島太郎」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a00126c/l013288.html

父■明治四四年の『尋常小学唱歌』に載せられた。僕も子どものとき歌ったけど、ずーっと違和感があったんだよね。

娘□浦島太郎が水中で呼吸できたのかってこと?

父■それもそうだけど、どこがひっかかるかというと〈絵にもかけない美しさ〉のところ。浦島太郎は龍宮城の美しさを表すのに絵によって表現しようと思ったのかね。そんなはずないよ。浦島太郎の伝説は古代からある。今ある昔話のかたちに近くなったのは室町時代に書かれた『御伽草子』。どういう話かというと…

 「昔丹後国に、浦島といふもの侍りしに、その子に浦島太郎と申して、年の齢二十四五の男有りけり。明け暮れ海のうろくづをとりて、父母を養ひけるが……」

 とあって、室町時代においても「昔」の話として伝えられていたんだね。そういう昔の人が簡単に絵を描こうと思うかな。絵を描くには道具が必要だろ。今なら手近なところに画材はいくらでもあるけど、昔はそうじゃなかった。チューブ入り絵具が発明されたのも、多色の色鉛筆が作られたのも一九世紀半ば。絵を描くという行為は一般に身近なものではなかったはずだ。絵師が工房で行う仕事だった。

娘□へんなとこにこだわるわね。どうでもいい気がするけど。

父■浦島は「明け暮れ海のうろくづ(=うろこ、つまり魚のこと)をとりて」とあるように、魚をとって生計をたてていた。今風に言えば漁師だね。漁師が絵を描いて人に感動を伝えようという発想が湧くだろうか。せいぜい砂浜に木の棒で落書きすることはあっても、浦島が半紙を片手に龍宮城のことを思い出してサラサラと絵を描き、「こりゃ美しすぎてうまく描けないな」などとつぶやくかな。仮にもし、浦島の手元に絵の道具が揃っていて絵を描いたとしても、その絵の出来はたいしたものではなかったはず。浦島の主な仕事は魚をとることなんだから。

娘□で、何が言いたいわけ?

父■〈絵にもかけない美しさ〉と言うとき、絵を描く腕前がそれなりにある人が、自分の力量を上回る対象について、それを表現しきれないというならわかるが、もともとたいした技量のない人が「俺の才能を越えている」と言ってみたところで、おまえの技術が未熟だから描けないのだろうと言い返されるだけだってこと。時代的にも語り手の資質的にも、二重の意味において、〈絵にもかけない美しさ〉という言い方は発想されえないものだ。

娘□〈絵にもかけない美しさ〉というのは美しいことの極みを表現したいための喩えでしょ。それを字義通りに解釈するのはバカだって言われるわよ。

父■喩え方が適切ではないから、違和感を生じさせるんだよ。『御伽草子』では龍宮城は、「此女房のすみ所、ことばにも及ばれず、中々申すもおろかなり」と書かれている。つまり「言葉にできない、言い尽くせない」ということ。それなら唱歌も〈龍宮城へ来てみれば 言葉にできない美しさ〉とでもすればいい。美しさという視覚的なものなので、つい〈絵にもかけない〉という歌詞にしたんだろうけど、それは歌詞を書いた近代の人間の感覚がそうさせたってこと。

娘□おしまい?

父■おしまい。

娘□残念ね。浦島太郎の歌が〈絵にもかけない美しさ〉じゃなくて〈言葉にできない美しさ〉だったらJポップの元祖になれたのに。

父■浦島の例は、対象の側に〈言葉にできない〉理由があった。それで、さっきは〈言葉にできない〉理由を主体の側に原因がある場合と対象の側に原因がある場合の二つに分けたけど、そもそも主体の側に原因があるといっても、その前に主体の外部の出来事があるわけで、それを知覚した結果生じる心の動きだから(1)から(4)は根本的な区分とは言えない。肝心なのは、表現するのは結局「この私」ってことで、自分の言語能力が経験を語るのに追いつかない、不十分だということだよね。

娘□どういう場合にそうなるの?

父■さっき君は「自分の心が通常の状態ではなくなって〈言葉にできない〉」って言ったでしょ。それなら、通常の状態なら滞りなく言葉にできるのかな?

娘□そういうことになるわね。普段の経験まで〈言葉にできない〉となったらボキャ貧か失語症でしょ。

父■そうかな。僕なんか普段の経験でも細かいニュアンスは伝えるのが無理だなって思うんだけど。誰でも同じようなことを考えているみたいで、例えば、作詞家でもあるいしわたり淳治という人は『言葉にできない想いは本当にあるのか』(筑摩書房、2020年)という本の「はじめに」でこう書いている。ちょっと長めに引用するね。

 

   ***

 音楽を聞いていると、よく「言葉にできない思い」というようなフレーズを耳にする。自分でも過去にそんな言葉を何度か書いたりもしたことがあるけれど、その表現にこの頃ちょっとした違和感を覚えるようになってきた。

 というのも、「言葉にできない思い」があるとわざわざ言っているということは、その人は日頃自分の感情をすべて言葉に出来ているということになる。しかし、どうだろう。私たちは本当にそんな大そうなことを日々やってのけているのだろうか。

 自分の感情を他人に伝えるために、人類が発明した非常に便利な道具が「言葉」である。言葉という道具はあまりにも便利すぎて、ともすれば忘れてしまいそうになるけれど、私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。

 例えば、恋人に「愛している」と伝える時、ただ単に「愛している」と口から発しただけで、愛情がすべて伝わるかというと、残念ながらそうではない。「愛している」の一言だけで、相手のことをどんな風に、どのくらい愛しているかを表現するのはハリウッドの名優でも至難の技だろう。だから私たちは、「君の笑顔だけが僕の幸せだ」とか、「出会った日から寝ても覚めても君のことばかり考えている」とか、「世界中を敵に回しても僕は君の味方だ」などと、「愛している」の言い換えをするのである。

 しかし、いくら言い換えて自分の思いと言葉とを近づけようとしても、じゃあ本当に君の笑顔以外では幸せを全く感じないかというとそんなはずはなく、眠っている間に別の誰かの夢を見ることがないかというと当然あるわけで、世界中を敵に回すほどのことをやってしまった人を本当に愛し続けられるかと言われると正直なところ難しい。つまり、これらのセリフは、一見するとさも自分の感情のきれいに言語化したもののようだけれど、どれも感情を大きくオーバーランしている表現なのである。もちろん、こういった大袈裟な言葉を並べることで、思いの熱量が伝わって説得力が増すという効果はあるとは思うけれど、それが自分の感情とイコールかというと、決してそうではないのである。

 そんな風に、私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする。

 「明日9時に集合ね」「そこのペンとって」のような事務的な連絡だけならば正確に言語化できていると言えるのかもしれないが、とかく「感情」という目に見えないものを言語化しようとすると、「言葉」は意外と不便な部分が多く、それこそ「言葉にできない感情」だらけではないかと思う。

   ***

 

 要するに、何をどう言おうと言葉は感情の全部を表現しきれるわけではなくて、「言葉にできない」ものがあるのは当たり前なのに、それをことさら「言葉にできない」などという人は、他のことは言葉に出来ていると思っているのだろうか、というシニカルなことを言っているんだ。

娘□〈言葉にできない〉を反語的に考えてみたってことか。でも、なんで言葉は「感情の近似値」しか表現できないの? 言葉は人間が作った道具だけど、それは不完全な道具だから? じゃあそれはもっと完璧なものに近づけられるの?「それ(言葉)が自分の感情とイコールかというと、決してそうではない」とか「私たちの口から出る言葉はいつだって、感情よりも過剰だったり、不足していたりする」って言うけど、両者が限りなく近づけば問題ないの? 限りなく円に近い多角形って円と同じじゃない?

父■この書き手は、まだだいぶギザギザのある円だって言いたいんだろうね。

娘□あたしはもう十分だと思うけど。これ以上言葉が微分化されても困るし、実際言葉って微細なニュアンスをとばしてコントラストを高める方向に変化していくでしょ。

父■「感情の近似値」とか「言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいる」という言い方は現実の写像として言語を捉えているみたいで誤解を招きやすいなあ。そもそも言葉の論理と世界の論理は別々のもので、言葉は世界と無関係な体系として自己完結しているということが理解されていない。そのことは、言葉と世界の齟齬が「感情」に限定されて語られていることからもわかる。

娘□民族によって虹が何色に見えるか違いがあるって聞いたことがある。言葉が違うから、言葉によって切り分けられる世界も違って見えてくるって。サピア-ウォーフの仮説だっけ? 言語によって世界の捉え方が異なるという。

父■それは言語が人の思考様式に影響を与えるというものだね。色の変化みたいにはっきりした線引きがないものは、特に言葉による分類に左右されそうだね。

娘□虹の色が5色だという民族の人が、そこにない2色をなんとか表現したいのに、ふさわしい言葉がみつからないとき、そのもどかしい感じを〈言葉にできない〉って言うのかも。

父■同じ虹を見ていても、それをどう捉えているかはわからない。『古畑任三郎』という刑事ドラマで、雨だれが音程になって聞こえる絶対音感の持ち主が犯人だったことがあったけど、僕たちは雨だれは雨だれにしか聞こえない。絶対音感をもっている人はどんな音でも音名で聞こえるので他のことに集中できないとかいうよね。その感覚は僕ら凡人には理解できない。それは違いがはっきりした極端な例だけど、他の人の頭の中で何が起きているかは、その人以外わからない。言葉とかジェスチャーとか、表面に出てきて共有できるものからしか理解できない。

娘□それって、さっき二つの観点があるという話に関係してる?

父■「自分の気持ちは他人にはわからない」っていうことね。哲学の独我論の問題になってくるけど、「私とあなた」は脳味噌を共有しているわけではないから、私の考えていることは所詮あなたにはわからない。言葉ってみんなで共有しているものでしょ。他人の脳味噌がどのように働いているかはわからないけど、言語として共通の場に表れてきたものは理解できる。逆に、言葉で言い表せない「この私」にしかわからない部分は、他の人にとっては、ないも同然ってことになる。言葉で表されたものしかわからない。しかも、言葉で表現されたものでも違う内容を受け取る。例えば、同じ「机」という言葉を聞いても、私とあなたではイメージしているものはかなり違う。だから、言葉にすらできないということになると、その時点でお手上げだ。

娘□歌詞の場合はそんなに小難しい話じゃないと思う。〈言葉にできない〉っていう言い方は、実質的な情報は何ももっていない、たんなる強調表現みたいなものになっていると思う。強調表現ってインフレぎみになるけど、なんでも「チョー」「マジ」「めっちゃ」で済ます人っているじゃない? それって微細な違いを無視して一律な表現に全てを押し込めているでしょ。そういう強調表現って、心の針がポンと右に振れた経験を共感してもらいたいってことかな。〈言葉にできない〉もそれに似たところがある。

父■そうだね。〈哀しくて 言葉にできない〉というのは「とても哀しい」ってことだもんね。だから〈くやしくて 言葉にできない〉〈嬉しくて 言葉にできない〉というのも、「とてもくやしい」「とても嬉しい」ということで、〈言葉にできない〉は何にでも付けられるんだよ。「おいしくて言葉にできない」とか。

娘□〈言葉にできない〉って、やっぱり一定のレベルの言語能力を有している人しか使えない言い方だなって思う。ちょっと上から目線な感じもしてきた。

父■歌詞には、他にも似たような言い方がいくつもある。〈言葉にならない〉〈言葉では表せない〉〈言葉では言えない〉〈言葉では足りない〉〈言葉では伝えきれない〉〈言葉では片付けられない〉なんていうのもあるよ。GLAYの「HOWEVER」(作詞、TAKURO)は〈言葉では伝える事がどうしてもできなかった 愛しさの意味を知る〉。もう少し洒落た言い方では、〈言葉にすれば()嘘に染まる〉(「ダンシング・オールナイト」作詞、水谷啓二)なんてのも。ここまで言葉が信用できなくなると、〈言葉なんていらない〉〈言葉なんかいらない〉ということになる。〈言葉にならない〉というところまで極端なことは言わない代わりに、ちょっと言い訳するみたいに〈うまく言えないけど〉とか〈ありふれた言葉〉だけどって留保をつけて何か言う場合もある。いずれも、適切な言葉が見つからないということなので、〈言葉にならない〉の一歩手前にいる。

娘□裾野が広いのね。

父■〈言葉にできない〉というフレーズは記号化しているけど、聞き手次第で、実質的な意味を残すことができる。聞き手は、歌詞の不明瞭な部分に、過去の自分の経験を当てはめて解釈する。でもそれって聞き手に丸投げしてるってことじゃないかな。聞き手の解釈に委ねる部分が多すぎると思う。浦島太郎が、竜宮城は〈絵にもかけない美しさ〉だから絵に描きませんでしたと白紙をだして、この白紙にそれぞれの人が思い浮かぶ最高の美しさをイメージしてくださいと言ったら、大喜利だったら1回は許すけど、安直すぎるから2回めは認めたくない。そういうのは「白いキャンバスソング」とでも言ったらいいのかな。

さだまさし「道化師のソネット」を読む〜ピエロの菩薩行

(概要)歌詞に3回出てくる〈小さい〉という言葉は、個々人の人生における無力さを表している。ピエロは利他行で人を救うとともに自分も救われることを望んでいる。

 

1 位置づけ

 道化師のソネット」は、さだまさしの人気がピークを迎えていた1980年に発表されている。前年に出した「関白宣言」が社会現象とも言えるブームを巻き起こし、その勢いにのって、続く「親父の一番長い日」という12分以上もある風変わりな曲も大ヒットしていた。

 道化師のソネット」は、さだ本人が主演した映画『翔べイカロスの翼』(1980年)の主題歌として作られたものである。歌詞は映画の内容をふまえていて〈笑ってよ〉〈道化師(ピエロ)〉などと出てくる。歌詞自体に物語性はない。映画が物語をもっているので、歌詞に物語性は必要なかった。

 歌詞の内容には思わせぶりなものはなく、川や山の比喩はわかりやすい。ピエロは比喩ではなく、そのものであるが、映画を見ていればその意味は明白である。

 この歌はサビ始まりで、冒頭が〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉となっていて、ここに歌の主題が明示されている。例えばさだの一番人気の「主人公」(作詞、さだまさし1978年)は、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉という主題は歌詞の最後に置かれていて、そこでようやく「主人公」というタイトルの意味がわかる仕組みになっているのであるが、「道化師のソネット」は「道化師」と〈笑ってよ〉という言葉が出だしで結びついているのである。出だしからわかりやすいのである。

 わかりやすいということは軽いものとみなされることでもある。「道化師のソネット」は売れたのでよく知られているし、サビがはっきりしていて聞きやすい。耳に馴染んでいる。けれどそれは、わかりやすく作られた大衆迎合的な歌と評価されるおそれももっている。「関白宣言」や「親父の一番長い日」という大ヒットを連発していたさなかなので、一挙に広がったファンに向けて、誰が聞いてもわかるものにしようと思ったのかもしれない。映画に依拠したピエロという表現も、歌の自立性をそこねたと思われる。「親父の一番長い日」という歌詞が6番まである長い曲に比べたら「道化師のソネット」のシンプルな歌詞は従来のファンには物足りないものではなかったか。「道化師のソネット」のあとは、一転して、「防人の詩」というシンプルな言葉で仏教的な死生観を語った深い歌ができた。これも映画主題歌であるが、映像作品からそのエッセンスを読み取り、そこに付きすぎず離れすぎない歌を作るという才能は、「北の国から」「夢の吹く頃」などでも示されている。

 

2 タイトル

 タイトルは「道化師」と書いてそのまま「どうけし」と読むが、歌の中では〈ピエロ〉と歌い、歌詞カードにもそのようにルビがついている。

 なぜタイトルは「どうけし」と読ませるのか。「ピエロのソネット」ではカタカナが続き軽い感じになってしまう。なにより「どうけし」と言った方がカッコいいからだろう。「ピエロ」というと私たちは、あの白塗りで大きな赤い口の顔を思い浮かべる。ところが「どうけし」になると途端にイメージがぼやけてしまう。そういう言葉は知っているが、それに対応するイメージはダイレクトに結びつくものがない。ヨーロッパの宮廷にいた道化師か、あるいは文学好きな人なら太宰治の「人間失格」を連想するのではないか。

 文化人類学では70年代に「道化」論が流行して、トリックスターなんて立派な名前が与えられていた。ピエロというとありふれたイメージに向かってしまうが、「道化師」ということで知的で高尚なイメージになってくる。

 ピエロというのはサーカスにいて滑稽なことを演じる人であるが、それが最近ではすっかり恐ろしい不気味な表象として定着してしまった。古くは、子供を多数誘拐した「ハーメルンの笛吹き男」はピエロのような衣装で不気味な存在であったが、近年では、『バットマン』のジョーカーや『IT(イット)』の怪物が典型だ。個人的には、子供のときに見た『帰ってきたウルトラマン』に出てきた凶悪なナックル星人がピエロ風で恐ろしかったのを覚えている。最近見た『仮面病棟』というツマラナイ邦画でも、犯人はなぜかピエロのマスクを被っていた。道化恐怖症という症状もある。ピエロは人を楽しませる存在ではなく、その厚塗りの化粧の下に邪悪な本心を隠した危ない奴ということになってしまった。

 ピエロと重複する概念にクラウン、アルルカン、マリオネットなどがある。ウィキペディアの「道化師」の項目には次のような記載があった。「クラウンとピエロの細かい違いはメイクに涙マークが付くとピエロになる。涙のマークは馬鹿にされながら観客を笑わせているがそこには悲しみを持つという意味を表現したものであるとされる。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/道化師)

 涙マークが省略されているピエロも多いが、ピエロはその顔の中に、笑う唇と涙という矛盾した感情をあわせもっていることが特徴だといえそうだ。涙のマークは瞳を中心にした十字のデザインに抽象化されることがあり、どちらが起源なのか(涙か十字か)わからないが、ピエロの顔にはもの悲しさを感じることは間違いないし、肝心なのは、ピエロはそれを隠していないということだ(化粧で表現している)。

 ということを書いてから『さだまさし 旅のさなかに』(さだまさし著、1982年、新潮文庫)という歌詞集を見たら、「道化師のソネット」についてのエッセイで、こう書いてあった。

 

「映画でピエロを演じる事になった時、メイクの人に頼んで、左の目の下に涙を入れてもらった。そんなピエロのメイクなんて見た事がない、と言われたが、お願いして入れてもらった。本当は描かずに、演技で見せるべきものなのだろうが、こちらはからきしだから、せめて、思い入れだけでも形にしたかったのだ。’’涙のピエロ’’は珍しかったとみえて、キグレサーカスの子供達は、かわるがわる見に来ては、変なの!?と言った。」(『さだまさし 旅のさなかに』30-31頁)

 

 これだけを読むと、ピエロの涙メイクはさだまさし起源のように思えてしまうが、さだもどこかで見たものを依頼したのであろう。

 日本の歌ではマリオネットが好まれている。BOØWYの「MARIONETTE」が有名だが、歌に出てくるマリオネットはもの悲しい存在で、自分自身であるとされる。さだまさしにもマリオネットを歌った歌がある。グレープの時代に書いた「哀しきマリオネット」で、〈糸が絡んだ操りピエロ〉と歌っていて、ピエロと同義で使われている。マリオネットは操り人形のことであるが、ピエロを模したマリオネットも少なくない。ピエロもまた操り人形を模したパントマイムをおこなうことがある。

 タイトルの後半部分は「ソネット」である。ソネットというのは歌謡をもとにした西欧の定型詩で、1篇が14行からなり、日本では短詩とか小曲とか訳されている。「道化師のソネット」は、道化師についてのちょっとした歌というていどの意味であろう。おそらくタイトルに他の言葉を思い浮かばなかったのであろう。「マツケンサンバ」とか「黒猫のタンゴ」とかの「サンバ」や「タンゴ」の呼称は、歌の内容に付加される情報量としては微小であり、タイトルをそれらしく見せるために付けられたものと考えられる。ウィキペディアの「道化師のソネット」には次のように記載されている。

 

「さだは詩を完成させた後で「道化師のソネット」というタイトルを付けたが、命名後に詩の行数を数えたら、偶然ソネットの形式通りの14行になっていた、つまり意志的に14行で完成させたから「ソネット」と名付けたわけではない。さだはこの偶然について「神様っているのかもわかんない」とコメントしている。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/道化師のソネット

 

 つまり、さだ本人も、タイトルに「ソネット」とつけたのは深い意味がなかったということである。また、ソネットには構成や押韻などに制約があるが、さだがたまたま一致したと喜んでいるのは14行という点だけである。しかもその14行というのは、歌唱で最初にある〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉という部分を無視して14行なのである。それを入れると15行になってしまう。そのためシングルレコード添付の歌詞表示はこの部分を省略して14行にしている。歌詞を見て、なんで冒頭部分がないのか疑問に思った人は(私もそうだが)、こういう事情があったのである。

 

3 歌詞

 道化師のソネット」の歌詞について具体的にみていく。

 まず形式的な面ですぐ目につくのは、この歌は対句的な発想で書かれているということだ。「笑ってよ 君のために/笑ってよ 僕のために」「舟人/山びと」、そして「小さな舟」と「別々の山」というのも、個別の人生という意味で対応している。なぜ対句的に書かれているかというと、書きやすいからだろう。フォーマットを一つ作れば、あとは応用でできる。1番の歌詞を書いて、それを下敷きにして2番の歌詞を書いたのだろう。

 

 この歌には〈小さな〉という形容動詞が3回使われている。〈小さな舟〉〈小さな手〉〈小さな腕〉がそうである。歌詞という少ない言葉のなかに、これだけ同じ言葉がでてくるということは、重要な言葉であるということだ。おそらく作詞者は自分でも気づかずに使ってしまったのだろう。この歌詞は一気に書かれたものであることを推測させる。

 では、この〈小さな〉が意味するものはなんだろうか。〈小さな舟〉〈小さな手〉〈小さな腕〉は次のように使われている。

 

〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉

〈君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを〉

〈君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉

 

 見てわかるように、〈小さな手〉と〈小さな腕〉は同じことの言い換えである。この三つは、〈小さな舟〉と〈小さな手〉〈小さな腕〉の二つに分けられる。

 まず〈小さな舟〉であるが、これは一人用の舟である。〈僕達〉は個人個人がそれぞれ〈小さな舟〉に乗るように別々の速さで各人の人生を生きている。私達はこの世界に一人ころんと投げ出されている。

 この解釈が正しいことは2番の歌詞からもわかる。そこでは〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね〉と歌われている。なぜか〈別々の山を それぞれの高さ目指して〉いるのである。パーティーを組んで協力しあって同じ山頂を目指しているわけではない。人は孤独に各々の人生を生きている。背中には重い荷物をしょっているだろう。同じように、舟もみんなが乗ることができる大きな舟ではなく〈小さな舟〉なのである。〈小さな舟〉だから、そこに積む荷物もたくさんは乗らない。宝舟のようにたくさん乗せられれば財産であるが、必要最小限の荷物だけであり、しかもそれは〈哀しみという荷物〉なのである。

 実はさだまさしの他の歌でも〈小さな〉はよく出てくる言葉である。この歌に関係しそうなのは、「主人公」の〈小さな物語〉と「驛舎(えき)」の〈小さな包み〉である。

 「驛舎(えき)」(作詞、さだまさし1981年)は、都会でうまくいかずに故郷へ帰ってきた女性を駅で出迎えるという内容である。〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉で、〈重すぎるはずの君の手荷物〉とされる。ここでも〈荷物〉は〈小さな〉ものである。その量は、一人ぶんの人生にみあったものだ。生きてきて最低限必要なものがそれだけだったものを持ち帰ったということである。都会で生きてきた何年間は、たったふたつの〈小さな包み〉にまとめられてしまうほどの価値しかなかった。それが〈重すぎるはず〉というのは、具体的な荷物は〈哀しみという荷物〉という象徴も帯びているということである。

 「主人公」(作詞、さだまさし1978年)は先にも引用したが、学生時代を思い出して、あなたの存在を糧に、〈小さな物語でも 自分の人生の中では誰もがみな主人公〉と前向きになる応援ソングである。この〈小さな物語〉とは、平凡な〈自分の人生〉のことである。私は誰かの物語の一部を生きているわけではなく、私以外のもっと「大きな物語」のために生きているわけでもなく、人はそれぞれ個人の〈小さな物語〉を生きていて、その物語の主役であるということだ。そうした価値転換をもたらす歌であるために、広く長くファンに支持された。本稿の文脈で確認しておきたいのは、この〈小さな物語〉はおのおのの物語であり〈小さな舟〉、〈別々の山〉と同じことであるということだ。それぞれ生きている個人が一人の力でできることは小さい。その無力感は諦念とともに受容される。

 

 さだはこの「道化師のソネット」を2021年の年末の『第72回NHK紅白歌合戦』で歌うという。対戦する歌手としてではなく、企画枠である。

 この紅白のテーマは「Colorful~カラフル~」である。趣旨説明にはこうある。コロナ禍のために日常の暮らしは彩りの欠けたものになってしまった。だから少しでも世の中を「カラフル」に彩りたい、「そして「カラフル」には、多様な価値観を認め合おうという思いも込められています。あらゆる色が集い、重なり合い、称え合い、素敵な大みそかを彩る。それが今年の紅白です。」(https://www.nhk.or.jp/kouhaku/theme/

 コロナ禍で彩りを欠いた世の中をカラフルに変えたいというのはこじつけで、「そして」以降に本当の理由が語られているように思える。アイコンも、赤と白がすっぱりと分かれているのではなく、グラデーションが施され、白の端はうっすら青味がかっている。工夫はされているが、基本は赤と白なのでカラフルとは言い難い。紅白に分かれて戦うのにカラフルでありたいというのは自己否定につながる。

 タイトルに「カラフル」「colorful」がつく歌は、歌詞検索サイトで検索すると150曲以上みつかる。「color」も含めるともっと増える。そんなにあるなら、テーマによる出場枠を作って誰かが「カラフル」という歌を歌えばいいのにと思うが、そういう歌はなかった。代わりにというわけではないが、出場者の中でテーマに関係した歌を歌うのは、ゆず「虹」とBUMP OF CHICKEN「なないろ」(連続テレビ小説の主題歌)である。「なないろ」も虹のことである。(検索するとタイトルに「なないろ」「七色」とつく歌は100曲以上出てくるので驚く。)出場者のNiziUは名前に「虹」が含まれている。

 学校の出席簿も男女が混合になっている時代である。『紅白歌合戦』が男女に分かれて戦う形式になっているのはいかがなものかという批判は毎年ある。今年も朝日新聞の社会面で記事になっていた(12月27日)。男女に二分するという露骨さから排除されるのが性的マイノリティだ。紅白のテーマをカラフルにしたのは性的マイノリティへの配慮からだろう。性的マイノリティの社会運動を象徴する旗がレインボーフラッグだし、多様性が実現される社会をカラフルという言葉で語っている。『紅白歌合戦』は、今後は言葉やアイコンだけでなく、肝心の出場者の選出や扱いについても苦慮していくことになるだろう。トランスジェンダー(当時は性同一性障害)であることを公表した中村中は2007年に紅組で紅白歌合戦に出場しているが、性的マイノリティであることが強調された演出でキツかったという。もし、カラフルであることをテーマに掲げたときに、それを実行しているかのように出演者を選出しマイノリティなのに頑張っていることを過剰に演出したら当人は傷つくだろう。理念を掲げても、その実現を具体的な人によって見せるのは難しい。

 さだまさしはこれまで『紅白歌合戦』に20回出場しているが、「道化師のソネット」を歌うのは初めてだという。さだは企画枠での出場なので、「カラフル」というテーマとこの選曲とは密接な関係があると推測される。そこで歌詞を見ると、該当しそうなのが、〈僕らは別々の山を それぞれの高さ目指して/息もつかずに登ってゆく 山びと達のようだね/君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉という部分である。それぞれの人が別々の山を、哀しみという荷物を抱いて(背負って)登っているという歌詞で強調されているのは、「みんなちがう」ということである。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という詩に対し、さだの歌が言っているのは「みんなちがって、みんなかなしい」ということである。先に紹介したゆずの「虹」(作詞、北川悠仁2009年)という歌でも〈特別な事ではないさ それぞれ悲しみを抱えてんだよ〉と歌われている。これも「道化師のソネット」と重なる言葉を持つ歌詞である。なぜ同じような言葉遣いになるかというと、人は個人個人に切り離されると弱くなり〈それぞれ悲しみを抱え〉るからである。多様性を認め合うには、人はいったんバラバラに切り離される時期を経ることになる。そのとき、それぞれの荷物を自分で持たなければならない。自分の悲しみを自分が引き受けなければならない。「道化師のソネット」は今のそういう時期を歌っているようにも受け取れる歌なのである。

 紅白歌合戦』で男女を二分することのおかしさは、性的マイノリティが問題になる以前からわかっていた。グループやバンドで男女混合になる場合はどちらの組に属するのか。男女のデュエットで歌う場合はどうなのか、といった問題があった。それらについては、複数で男女混合の場合はフロントマンで、デュエットで担当部分が半々の場合は有名なほうで判断するという基準があるように思えた。例えばデュエットで半分づつ歌うの都はるみ岡千秋「浪花恋しぐれ」は都はるみのほうが有名だから紅組、平尾昌晃・畑中葉子「カナダからの手紙」は平尾昌晃のほうが有名だから白組である。では、ロス・インディオス&シルヴィア「別れても好きな人」はどうか。ロス・インディオスは既にヒット曲もある男性5人組で、シルヴィアはクラブ歌手からスカウトされたデビュー作である。これは紅組としての出場になった。歌唱量は女性のほうが若干多めであるが、おそらく華やかさという点で紅組にされたのだろう。だがシルヴィアは、のちに菅原洋一と組んだ「アマン」では白組で歌っている。歌唱量は半々。菅原のほうがベテランとはいえ、シルヴィアもその時点で3回も紅白に出ているし、「華やかさ」という観点では、ハンバーグ顔の菅原は問題にならないはずだ。男女混合の場合、どちらの組に所属することになるかは、はっきりした基準がないようだ。恣意的なのである。先の朝日新聞の記事では「紅白の振り分けはNHKが決めており、申し出がない限り、出演者本人の意思を確認することはない」とある。これからは先に出演者の意思確認が必要になるだろう。だがそんなことをしたら、紅白が同数にならなくなるかもしれないし、イタズラっ気のある者は、男でも紅組で歌いたいと言ってめちゃくちゃになってしまうだろう。また、風男塾のように男装のグループの場合、紅白どちらにするのか、迷うことになるだろう。

 仮に『紅白歌合戦』が理想的に改善されたとしても、それで歌手のセクシュアリティの扱いにおける問題が解決されるわけではない。AKBや坂道グループはどうして女性ばかりなのか、ジャニーズはどうして男性ばかりなのか、エグザイルはどうして男性ばかりなのか。女性はどうしてE-girlsという妹分として外部グループを作るのか。一部のグループ、バンドやコーラス、ダンサーなどを除くと、芸能活動をするグループは男女が截然と分かれている。AKB48の第17期生メンバーの募集資格には「202227日時点で満12歳~満20歳までの女性(現小学校6年生から)」とある。AKBはアイドルになりたい人が全員女性だったというわけではない。募集時点で女性に限定されている。『紅白歌合戦』は、男性性、女性性をことさらに意識させるパフォーマーを分類して掛け合わせるのに適したシステムである。『紅白』は戦後72年も続いてきた、日本中が注目するイベントである。その歴史性を考えても、『紅白』はいろんなものを映し出す鏡であり続ける。これからどのように変容していくか注目していきたい。

 

 紅白歌合戦』に迂回したが、「道化師のソネット」の歌詞に戻る。

 先ほど〈小さな舟〉について見たので、次は〈小さな手〉〈小さな腕〉についてである。もう一度引用しておく。

 

〈君のその小さな手には 持ちきれない程の哀しみを〉

〈君のその小さな腕に 支えきれない程の哀しみを〉

 

 この〈小さな手〉は外見がそう見えることからきているが、比喩としてもっと拡大して解釈されることが読み手に期待されている。字面をそのまま読めば〈君〉は小柄な女性だという推測がなされる。しかしこの人が手にしているのは〈哀しみ〉である。既に〈僕達は小さな舟に 哀しみという荷物を積んで〉という表現があることを見ておいたが、〈哀しみ〉イコール〈荷物〉として捉えられている。「驛舎(えき)」に〈君の手荷物は 小さな包みがふたつ〉とあるように、どこへ行ってもこの荷物は人についてまわるものである。

 では〈哀しみ〉とは何かというと、これは生きることそのものである。人が生きることに哀しみはつきまとっていて、そこから逃れることはできない。さだはこのころ「防人の詩」という仏教の四苦(生(しょう)・老・病・死)を読み込んだ歌を作っている。〈生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと/病いの苦しみと 死にゆく悲しみと〉とある。生苦は、一般的には生まれることと説明される。人が生まれることがすべての苦の大本だ。今、「親ガチャ」という言葉が若者のあいだで流行っているが、生まれた条件は自分で選べずしかもそれは変えられないということであり、「親ガチャ」は生苦の現代的な表現だと言っていいだろう。最近、ファンタジーで「転生もの」や「人格交代もの」「タイムリープもの」などが大流行しているように、人は人生をやりなおしたいという思いが強い。だが、今の自分の肉体から外に出ることは不可能であり、自分の「生・老・病・死」は他の人と交換できない。

 ただ、苦といっても、古代インドではたしかに生きることは肉体的にも痛苦であっただろうが、文明化された現代日本では肉体的な苦痛はかなりやわらいで、感覚的な悲哀にまで低減されているだろう。生・老・病・死のような大きな悩みでなくても、生きていくうえでは様々な哀しいことに遭遇し、大なり小なり悲しむために生きているようだと感じることも少なくないだろう。私達の舟にはいつも〈哀しみという荷物〉が積まれているのである。

 そこで〈小さな手(腕)〉は何を意味しているかというと、これは外見とは関係がない。〈哀しみという荷物〉を抱えているのは大柄な女性でもそうだし、屈強な男性でもそうである。彼らはみな〈小さな手〉をしているのである。他の誰も「この私」に成り代わることはできない。自分の哀しみは自分で抱えるしかない。〈小さな〉は、人が無力な個人として世界に投げ出されていることの比喩である。個人でできることは限られている。誰しもなにか問題を抱えていて、それに一人で対処するのが難しい。その個人個人が向き合っている無力さが〈小さな〉という言葉で表現されているのである。つまりこれは、先にふれた〈小さな舟〉〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉と同じことなのである。

 

 では、この〈小さな〉ことからくる無力さであるが、それを克服する方法はあるのだろうか。たんに諦めるしかないのか。答えは簡単だ。他の人が手を差し伸べればいいのである。みたび「驛舎(えき)」という歌を持ち出すと、〈重すぎるはずの 君の手荷物をとれば〉とあるように、ここで手助けしてくれる人が現れるのである。小さくても一人で持つには〈重すぎる〉荷物である。はおそらく〈君〉一人だけでは立ち直れないかもしれない。動き始めるまでは負担が重い。駅に着いたとき、つまり再起しようとする瞬間にちょっとだけでいいから手を差し伸べてくれる人がいれば随分助かるのである。ちょっと手を貸すことはできる。だが助っ人といえどもそれ以上は立ち入れない。「驛舎(えき)」の歌詞は次のように続いている。〈ざわめきの中で ふたりだけ息を止めてる/口を開けば 苦しみが全て 嘘に戻るようで〉。言葉をかわして相手に少しでも〈苦しみ〉を分有してもらおうと思ってもそれは無理なのだ。〈苦しみ〉は自分で引き受けるしかない。他人は〈君〉の人生を生きることができない。

 道化師のソネット」でも手を差し伸べてくれる人が登場する。というより、この歌はその「お助けマン」誕生の瞬間を描いた歌なのである。

〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になれるよ〉
〈せめて笑顔が救うのなら 僕は道化師(ピエロ)になろう〉

 というのがそれである。この歌が映画の主題歌でなければ、ここで唐突に〈道化師(ピエロ)〉が出てくるのは面食らう。ここまでにピエロにつながるような伏線はなにもないからだ。

 〈僕は道化師(ピエロ)になろう〉とあるので、まだピエロにはなっていない。ピエロになる決意を固めただけである。そもそも〈僕〉はどういう人なのだろうか。人の哀しみを見てそれをやわらげようとしていることはわかる。ではことさらそう思う〈僕〉自身は何者なのか。〈僕〉は特別な人ではない。〈僕〉も哀しみを抱えている市井の一人なのである。〈僕達は舟人たちのようだね〉とあるように、〈僕〉もまた〈舟人〉である。逆に言えば、〈舟人たち〉の中のひとりが、発心してピエロになろうとするのである。仏教ふうに言えば、ピエロになろうとするのは他人の幸福のために行動しようということだから利他行である。映画『翔べイカロスの翼』は実話をもとにしており、ピエロになった青年はサーカスの公演中に事故により亡くなってしまう。

 常不軽菩薩という変わった菩薩がいる。菩薩というのはブッダになるために修行している人のことだ。常不軽菩薩は相手が誰であっても近づいていって、「あなたがたは仏になる可能性がある人だから敬います、軽んじません」と礼拝したのである。こんなことをされれば怒る人がでてくるので、石を投げられたり杖で打たれたりと迫害された。それでも礼拝をやめなかった。この、みな仏になるというのは大乗仏教の真髄である。

 ピエロの笑いというのは、人を笑わせるために自分が笑われる者になることである。ときには映画のように命がけで危ういこともする。人を幸せにするために自分をなげうつ。歌詞には奇しくも〈せめて笑顔が救うのなら〉と「救い」の文字が使われている。ピエロは人を救済するために道化を演じているのである。涙を流しながら人々を笑わしているというのは修行ではなくてなんであろうか。もちろんピエロが全員菩薩行をしていると言いたいわけではない。ただ、この「道化師のソネット」という歌が、ピエロの笑いによる人々の救済を描いているのは間違いないだろう。いわば常被笑菩薩である。

 道化師のソネット」は、〈小さな舟〉とか〈別々の山〉〈それぞれの高さ〉といった小乗的な言葉で語られている。その中からやがて、ピエロという利他的な行いをするものが出てくる。だが、この歌に描かれる段階ではまだ自分のための修行という面が表れている。それは〈笑ってよ 君のために 笑ってよ 僕のために〉の〈僕のために〉という部分である。ピエロの役割は笑われることにある。〈僕〉がピエロになったとしても笑ってもらえなければ自分が救われない。自分のことを考えて相手に笑ってくれというのでは、まだ未熟さが残っている。無理もない、まだピエロを志願したばかりなのだ。ツラい菩薩行に耐えられるのはごくわずかである。多くの修行者は途中で脱落してしまうはずだ。そのとき、弱い心の者もみんな含めて救われるように書かれたのが〈笑ってよ 僕のために〉である。〈笑ってよ 君のために〉は自分以外の全員に向けられている。〈笑ってよ 僕のために〉は自分に向けられている。この二つがあわさって取り残しのない全員になる。泣き顔のピエロという自己犠牲の思想は普遍性をもちえない。「道化師のソネット」は自己犠牲の熾烈さを超えたやさしさをもっている。 

伊勢正三「22才の別れ」、荒井由実「卒業写真」、菊池桃子「卒業」〜君僕ソング(その2)

父■〈貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉というのは、言い方を変えれば、「あなたはあなたのままでいてほしい」ということになる。

娘□「あなたはあなたのままでいてほしい」と言われても、自分をはっきり持っている人はいいけど、ほとんどの人はそう言われても逆に「自分っていったいなんだろう」って思うんじゃないかしら。

父■誰でも自分のやりたいことを持っている、という理想の姿がこういう歌の前提だから。

娘□将来の夢をサラサラ書けるような子どものまま大きくなっているってことね。

父■松山千春ほどの隠れマチズモではないけど、伊勢正三「22才の別れ」(作詞、伊勢正三1974年)もそうした発想の歌だよ。

伊勢正三「22才の別れ」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a0004fd/l0058d1.html

 この歌では〈あなた〉は6回、〈私〉は5回出てくる。「22才の別れ」も、松山千春「旅立ち」と同じく旅立ちを歌っている。というより、こちらのほうが古い歌なんだけど。

娘□あー、その歌好き。お父さんがよくカラオケで歌ってるでしょ。

父■伊勢正三かぐや姫のメンバーで、「22才の別れ」はかぐや姫のアルバム『三階建の詩』に入っている。

娘□あれ? でも、風の歌じゃなかったっけ?

父■ヒットさせたのはそうだね。

娘□歌詞に〈私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに/私の目の前にあった幸せに すがりついてしまった〉とあるじゃん。ここがよくわからないんだけど。

父■この〈鏡〉っていうのは、未来を映しているんだろうね。童話の『白雪姫』でもそうだけど鏡ってマジカルな道具でしょ。日本なら、三種の神器八咫鏡は神秘的な物とされるし、『ひみつのアッコちゃん』や『ミラーマン』では、鏡は不思議な世界を媒介する。

娘□鏡は女性に身近なアイテムだから、この人も鏡に向かっていろいろ考えたのね。

父■〈私には 鏡に映ったあなたの姿を 見つけられずに〉というのは、あなたとの将来が考えられなかったということだろう。おそらくあなたは何か叶えることが難しい夢を持っていて、私は途中まであなたの夢につきあったけれど、いつまでもそれは無理で、結局お見合いかなんかで知り合った人と結婚してしまうという現実を選んだんだね。

娘□じゃあ、〈目の前にあった幸せに すがりつい〉たっていうところは?

父■そこは意味がはっきりしないんだけど、「鏡に映る姿(未来)/目の前の幸せ(現在)」という対比の文脈だから、「あなた/もう一人別の存在」っていう対比にもとれるし、〈あなた〉の現在と未来との対比で、将来のことは直視せず毎日をだらだら続けてしまったともとれる。そもそもこの歌は最初のところが〈あなたに「さよなら」って言えるのは今日だけ/明日になって またあなたの暖い手に触れたら きっと言えなくなってしまう〉とあって、「今日/明日」の対比になっているように、対比で進んでいく歌なんだよね。

娘□〈あなた〉を捨てて、他の人とお見合いをして、その人のところへ行くってこと? お見合いについては歌詞には出てこないけど。

父■僕は野口五郎の「むさし野詩人」(作詞、松本隆1977年)が好きでよく聞いていたんだけど、歌詞に〈15行目から恋をして 20行目で終ったよ〉とあった。これは15歳から20歳まで彼女とつきあっていたということで、「22才の別れ」の17本目のローソクから22本までいっしょに火をつけたというのと類似の表現だ。どちらも不思議と5年間だしね。「むさし野詩人」は別れた彼女のことを思い出している歌なんだけど、〈お見合いの事悩んだあなた〉とあって、彼女はお見合いで結婚して離れていったと思わせる。僕はこの歌を通して「22才の別れ」を解釈しているからそう言ったんだね、きっと。

娘□そのころはまだお見合いって多かったと思うから、似たような別れ方になっても不思議ではない?

父■70年代半ばは、まだ全体の1/3はお見合い結婚だった。「22才の別れ」に〈あなたの知らないところへ嫁いでゆく〉ってあるよね。〈あなたの知らないところ〉というのは、〈あなた〉とは関係のないところということでしょ。具体的には、田舎から出てきた女性が両親に結婚をせっつかれて地元の男性とお見合いして田舎に帰って結婚するということだと思う。〈あなた〉と〈私〉の関係には、まだ〈私〉の背後にいる家族は関わっていない。〈私〉の家族は〈あなたの知らないところ〉に切り離されている。〈あなた〉の関心からはずれたところが〈あなたの知らないところ〉だ。要は、都会でカップルになって好き勝手やっている甘い時間、モラトリアムが終わったんだ。見ないふりをしていた家族との関係の力の強さを思い知らされる。

娘□それって「なごり雪」に似てるじゃん。

父■そう。「22才の別れ」が女性視点の歌だとすれば、同じ状況を男性視点で描いたのが、同じアルバムに入っている同じ作者の「なごり雪」だろう。「なごり雪」も女性が遠くに離れていく歌だ(〈東京で見る雪もこれが最後ね〉)。作詞した伊勢正三大分県の出身だ。

娘□遠くに行くから別れることになるのか、きっぱり別れたいから遠く離れようとするのかわからないけどさ、なんか地理的に距離をとらないと別れられないっていうのは面倒くさいな。遠くへ行った先でまたいろいろしがらみができそうだし、そこで幸せになれる保証もないし。場所を変えずに別れたいなぁ、あたしは。

父■今はドラマを見ていても、スマホの連絡先をサクッと削除することが別れの儀式になっているね。何度も消すのをためらったりすることで心の揺れを表現しているんだけど、指先一つで解消される関係ってのも薄っぺらいな。

娘□遠くに行くなんて、昔の人はフロンティア・スピリットがあったんだね。

父■故郷に帰るんだからフロンティアってことはないけど。

娘□〈嫁いでゆく〉っていう言い方は、たんに二人が結婚しますってことじゃなくて相手の家に入るっていうことだから、冒険よ。フロンティア精神がなければできないわ。解放的な都会暮らしを経験したあとは、濃密な人間関係の残る田舎は未知なる土地になるでしょ。子どものときとは違う大人の人間関係に巻き込まれるわけだしさ。

父■フロンティアかどうかはともかくとして、70年代っていうのはまだ、田舎から都会に出てきて故郷を思うという「望郷ソング」の影響が強く残っていたから、恋愛ソングもそういうタイプの歌になったんだろうね。都会で恋愛相手を見つけて都会で家庭を持つ、ということができなかった人のうち、何割かは故郷へ帰っていく。田舎から都会に出てきてそこで家庭を持てた人たちの子どもは、今は都会で華やかな恋愛を繰り広げている。彼らは、別れるにしても人の移動はセットにはならない。

娘□恋愛にいろんなものを絡ませたくないだけなんだよね。旅情ものの歌ってあるでしょ。失恋して旅に出て、すっきりして戻ってくるっていう。あれって、リセットしてまた元の環境に戻るわけだから、人が移動したように見えても、実質的な移動ではない。

父■バス旅行の歌集に必ず載っていた山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」(作詞、山上路夫1974年)も〈この旅終えて街に帰ろう〉とあって、都会の住人が田舎に来て、また都会に戻っていくという構造になっている。この歌の場合は、バス旅行は、亡くなったと思われる彼女についての「喪の仕事」の一部になっている。旅先での、人間を超越する自然や、バスという乗り物だからこそ保存されている世俗的な日常性により、〈僕〉は元の場所に帰ることができる。回復が予見されている。自分で一人でクルマを運転して同じ場所に行っても得られない体験だ。この歌の特徴は、都会から田舎へ、あるいは田舎から都会へという一方通行ではなく、往還を一つの歌の中で描いていることだね。

娘□移動ではなく元の場所に戻ることに主眼がある。

父■ご当地ソングてだいたいそうだよね。恋に敗れた女が都会から一人で地方都市に来て、そこの風物に癒されるという。旅と移住の違い。70年代は国鉄のディスカバー・ジャパンのキャンペーンがあって個人旅行が盛んになったし、雑誌片手の「アンノン族」という若い女性の一人旅も流行った。失恋と旅が結びつくのは、そういう女性の一人旅が珍しくなくなったという時代背景があるのかもしれない。80年代付近になると、久保田早紀の「異邦人」(1979年)とか中森明菜の一連の旅情ものなどグローバルなものになっていく。若い女性が一人で旅行している姿をはたから見ては、そこにセンチメンタル・ジャーニーのようなロマンチックな幻想を投影していくというパターンだね。

娘□そういうのに比べたら「22才の別れ」や「なごり雪」は行ったっきりになる。で、遠く離れるといっても、都会に行くんじゃなくて田舎に戻るわけよね。田舎の両親にしてみれば帰ってきてほしいわけでしょ。あれ? なんかそういう歌なかったっけ?

父■青木光一の「早く帰ってコ」(作詞、高野公男、1956年)か? 松村和子の「帰ってこいよ」(作詞、平山忠夫、1980年)かな?

娘□三味線をベンベンかき鳴らしてたやつ。

父■松村和子のほうだね。「帰ってこいよ」は東京に出ていった女性を、青森にいる幼なじみの男性の立場から、帰ってこいよと呼びかけている。一方、青木光一の「早く帰ってコ」は、田舎に残った農家の長男が、東京に出た次男三男に早く帰ってこいと呼びかけるもの。〈幼なじみも 変わりゃしないよ〉と田舎は変わらずに待っていると言っている。この2曲のあいだには24年の時間が経っているから社会的な事情は同じではないけど、田舎から人が出ていくことは同じだ。今でも、東京一極集中が止まらない。特に若い女性は、田舎では仕事がないからといって、どんどん東京に出て行ってしまう。今「帰ってこいよ」と呼びかけているのは地方自治体だけどね。

娘□ちょっと疑問なんだけど、「22才の別れ」は、田舎から出てきた女性が都会で男性と出会い、再び田舎に帰っていくという前提で話しているんだけど、〈私の誕生日に 22本のローソクをたて()17本目からはいっしょに火をつけた〉っていうことは、17歳から22歳まで交際していたっていうことでしょ。私はてっきり大学生活の出来事だと思っていたんだけど、17歳ってまだ高校2年か3年なんだよね。この人が田舎の高校を出て都会に来たとしたらおかしくない?

父■中学を卒業して集団就職で上京したのかもしれない。70年代に入ると都会への人口流入は減少数する。この歌が書かれた74年はオイルショックが起きて高度経済成長の時代も終わり、中卒者の採用も減少したけど、74年時点で22歳だとしたら、15歳時は67年で、その頃の高校進学率は右肩上がりで上昇しているころで、今みたいにほぼ全入ではなく、まだ7,8割だった。(就職・進学移動と国内人口移動の変化に関する分析 https://ktgis.net/lab/study/papers/tani2000a.pdf

娘□どうしても田舎から都会に来たということにしたいわけね。

父■僕がそう解釈したのは〈あなたの知らないところへ嫁いでゆく〉という部分からだけど、〈あなたの知らないところ〉って、〈私〉は知ってるけど〈あなた〉は知らない場所というニュアンスが含まれてるでしょ。〈私〉にとっても未知の場所に嫁いでいくとしたら、誰も知らないところへ嫁いでいくという、もっと覚悟を決めた表現になるはずだ。君の言うフロンティア的な場所になる。でも〈私〉は知ってる場所というニュアンスがあるから、〈私〉には〈あなた〉と暮らしている場所の他に、別に故郷があると思えるんだ。自分の出身地に帰るのに〈嫁いでゆく〉という言い方はへんだけど、相手の家に嫁いでゆくということなんだろう。

娘□この女性が高校を出て就職して22歳で結婚することになったとか、あるいは大学を出てすぐに結婚することになったとかいうことは考えられないの?

父■高校から就職、あるいは大学への進学ってそこに切断線があるよね。人間関係も大きく入れ替わる。でもこの二人は17歳から22歳まで5年間継続した関係をもっていた。そこに環境の変化が感じられない。

娘□べつに高校のときつきあい出して、そのあともずっとつきあっていてもいいじゃない。

父■いいけど、僕には17歳から22歳までずっと同じ環境だったように感じられるなあ。それと〈17本目からはいっしょに火をつけた〉っていうのは、家族より男性との関係のほうが濃密な感じだから、家族とは離れた場所で男性と同棲していたのだと思わせる。誕生日のお祝いは家族とではなく男性と一緒だったということでしょ。17歳なら普通はまわりに家族がいるはずだけど、この歌の場合は男性しかいなさそう。やっぱりこの人は、家族とは離れて暮らしているんだと思う。

娘□ふうん。でも〈私の誕生日に 22本のローソクをたて〉るってバースデーケーキにローソクを22本も立てたら穴だらけになっちゃうし、イチゴとか置くスペースがないよ。それなりに大きなケーキが必要だし、それだと家族で食べなければ食べきれない。ローソクって子どもが小さいうちだけだと思う。ローソクよりプレゼントが欲しい。〈ひとつひとつが みんな君の人生だね〉ってうまいこと言ってローソクでごまかされてる。ローソクの数ばかり増えていくから、こりゃだめだと思って別れる決心をしたんじゃないの? ローソクを立てることで、むしろ費やした年数を思い知らされたのね。

父■なんだか話しているうちに、〈私の誕生日に 22本のローソクをたて/ひとつひとつが みんな君の人生だねって言って/17本目からはいっしょに火をつけた〉って随分寂しい感じがしてきた。もしかしたらこの女性は田舎かから出てきたのではなく、家族をなくして孤独な境遇だったのかもしれないなあ。

 

父■話を本筋に戻そう。「あなたはあなたのままでいてほしい」ということを「22才の別れ」では、〈あなたは あなたのままで 変らずにいて下さい そのままで〉と歌っている。「あなたはあなたのままでいてほしい」って、なんでそんなことを言うと思う?

娘□なんで? あなたは変わらないでいてほしいっていうことでしょ。あなたは変わらないでっていうことは他に変わってしまう人がいるっていうことか。歌にはあなたと私しか出てこないから、あ、変わるのは私なのね。私は変わってしまうけど、あなたは変わらないでっていうこと?

父■そうだね。その「私は変わるけど、あなたは変わらないで」ということをはっきり歌っているのが「22才の別れ」の翌年に出たユーミンの「卒業写真」(作詞、荒井由実1975年)だよ。〈人ごみに流されて変わって行く私〉と〈卒業写真の面影がそのままだった〉あなたが対比される。そして〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉とひそかに願っている。

荒井由実「卒業写真」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a000c13/l00f607.html

娘□ちょっと都合よくない? 自分は変わってるのに相手には変わるなって。

父■まあ、心の中で思っているだけだからね。なぜそのように願うかというと、〈あなたは私の青春そのもの〉で、過去の記憶の中の〈あなた〉と一致していてほしいから、変わってほしくないんだよ。〈あなたは私の青春そのもの〉なので、変わらないあなたがいることが、変わらない過去の私があることを保証している。そして変わらない過去の私があることが、今の私の支えになっている。今の私はどんどん変わっているさなかにあるので、何が本当の私なのかわからなくなっているのだろう。そのとき確かなものとして依りどころとなるのが過去の私なんだ。

娘□今の私は過去の私を支えにし、過去の私は変わらないあなたを支えにしている。あなたってそんなに確かなものなの?

父■幻想だね。根拠をさかのぼってゆくと、最後は幻想というか空虚に行き着く。

娘□あなたに変わってほしくないっていっても、現実の〈あなた〉は何十年か経って同窓会であったらすっかり変わってオジサンになっていたっていうのがオチだろうけど。

父■この変わる女性というのは子どもから大人に変化するということでもあるし、男性のほうは青年のままでいてほしいということだろう。ここには逆説があって、変わらないということは保守的ということではなく、夢を持ったまま変わらないということだから未来志向なんだよね。一方、変わるというのは変化を恐れないというより、現実にあわせて変わってゆくということだから現実主義なんだ。現実が変わっているので、それに合わせて自分も変わっていく。

娘□男は未来を、女は目の前の現実を見るというのは類型的な発想よね。男脳/女脳の違いという疑似科学に結びつけられやすい。

父■未来志向と現実主義の対比を男女の違いに固定するわけではないよ。歌詞においても、男女の立場は入れ替えられているものがある。ひとつのパターンの中にもいろんな組み合わせがある。

娘□その「いろんな組み合わせ」のところは時間がかかるから省略して。

父■あ、そう。ではその一つを言うね。「22才の別れ」では女性のほうが遠くにいったけど、歌で、男と女のどちらが遠くに行くことになるのかという易動性の役割は固定的ではない。高度成長期に流行った望郷歌謡には、女性が田舎に残るという歌もいくつもある。例えば、大ヒットした青木光一「柿の木坂の家」(作詞、石本美由起1957年)はノスタルジーを喚起する典型的な歌で、男が都会に出て、故郷にいる〈あの娘〉は今も〈機(はた)織り〉して暮らしているかと思われている。この場合、女性は「変わらないふるさと像」の一部に織り込まれているんだけどね。

娘□その歌はちょっと古すぎてわからない。

父■太田裕美木綿のハンカチーフ」(作詞、松本隆1975年)も田舎に残るのは女性で、都会に出ていくのは男性。田舎に残るほうが変化にさらされないから、必然的に、変わっていくのは男性で、変わらないのは女性ということになる。この歌に出てくる男ってサイテー扱いされるけど、男がいる都会は変化が早くて、変化の早さについていくには自分も早く変わっていかなければならない。『鏡の国のアリス』の赤の女王じゃないけど、「同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」。

娘□変わる変わらないは、何と比較するかという相対的なものだってことね。田舎は変化がゆっくりだから、そこにいる人も変わらないように見える。都会は変化が早いから、そこにいる人も変わり方が早い。どちらも周囲の環境に適合しているだけ。田舎の中の視点、都会の中の視点では、それぞれ流れる背景の速さは同じで、それを背に人物が止まっているように見えるためには、それに合わせた速度で動いていなければならない。それが、田舎から都会に人が移動して、田舎の視点で都会の中を覗くとすごく早く動いているように見える。

父■「木綿のハンカチーフ」の男性が都会へ行ったのは就職のため。進学のために都会に出て行くこともある。菊池桃子の「卒業」(作詞、秋元康1985年)は進学か就職かわからないけど、こちらも男性が都会に行く。この歌には〈あなた〉という言葉は出てこない。代わりに〈あの人〉となっている。〈あの〉というのは遠称だね。近くにはいない人。自分たちのことなんだけど、語りの客観性が高くなっている。

娘□〈あの人〉って大人びた言い方だから、演歌なら〈あの人〉ってありそうだけど、アイドル歌謡で〈あの人〉ってのはユニークね。歌詞は高校生のことみたいだから、〈あなた〉っていう呼び方が照れくさいってこともあるのかな。お互い好きなんだけど、まだ恋人というほどはっきりした関係になれてなかったのかも。それで〈あの人〉なんてぼかした言い方になったのかもね。というか、〈あの人〉という呼び方からそう思わせるんだけど。

菊池桃子「卒業」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a00112e/l004f91.html

父■1番と2番のサビは同じで、〈4月になると ここへ来て 卒業写真めくるのよ/あれほど誰かを 愛せやしないと〉とあるんだけど、この〈になると〉が曲者なんだよね。一回の出来事なのか、毎年反復される習慣的な出来事なのか、どちらともとれる。

娘□よく、卒業してもみんなで毎年ここで会おうってのがあるじゃん。結局、半分も集まらなかったりするんだけど、そのときは感情が昂ぶっているからノリで言うじゃん。それみたいに、毎年4月に〈ここ〉へ来て思い出をたどるということじゃないの? この歌の場合は一人みたいだけど。他のみんなは卒業写真として。

父■普通に考えるとそうなんだけど、〈あれほど誰かを 愛せやしない〉という言い方がしっくりこないんだよな。若い人は出会いがいっぱいあるのに、いつまでもそんなことを思っているかな。

娘□それはいつまでもそう思うにちがいないほど素敵な人ってことよ。だから納得のいく恋愛ができるまでは毎年〈ここ〉へ来るんじゃない? 歌詞には〈ここ〉に該当する場所は出てこないから、〈ここ〉がどこかはわからないけど。ま、学校の敷地のどこかでしょうけど。

父■僕は、これは一回だけのことだと思うんだよね。〈あの人〉がいなくなった4月に、〈私〉は〈ここ〉にきて卒業写真をめくるということ。これは一番最後の、〈4月が過ぎて都会へと 旅立ってゆく あの人〉と対比になってるんだと思う。

娘□〈4月が過ぎて〉というのは、日本語としてちょっとヘンじゃない? 5月に都会に行くの? 〈4月になって〉ならわかるけど。普通は準備もあるから3月中に移動するはずだけど、区切りという意味では4月よね。

父■まさにそうなんだ。〈4月が過ぎて〉がおかしいのと同じように、〈4月になると〉もおかしいんだよ。〈になると〉という言い方は周期的な反復行動を思わせるでしょ。春になるとツバメが来る、みたいに。でも僕はこれは1回かぎりのことだと思うので、君の言うようにここも〈4月になって〉とでもすべきなんだよ。つまり「4月になって ここへ来て 卒業写真めくる私」と「4月になって都会へと 旅立ってゆく あの人」の対比なんだ。〈ここ〉と〈都会〉、〈卒業写真〉と〈旅立〉ち、〈私〉と〈あの人〉。卒業写真には過去が固着されている。一方、旅立ちは変化を示している。

娘□それはお父さんの図式に当てはめすぎじゃない? 歌詞を変えてまで自分の解釈にあわせるのは駄目でしょ。もとのままだと時間が錯綜してわかりにくいけど、それが味になっているんじゃないの?

父■あんまりきれいな図式にまとめられる歌だと、作り手の意図が見え透いてシラケてしまうかもね。整合的な解釈をはみでたところがあったほうが深さを感じる。

娘□私は別のところが気になった。最後の、〈4月が過ぎて都会へと 旅立ってゆく あの人の/素敵な生き方 うなずいた私〉と締められているところで、〈うなずいた私〉って何それウケる、って思った。自分で自分にツッコミいれてるじゃん。

父■この頷きは、〈私〉の判断は間違ってないということを自分に言い聞かす意味があるよね。〈私〉を捨てて遠くに去っていくんだから本当は恨み節の一つや二つは言いたくなるところをそうせずに、〈あの人〉の生き方を肯定する。そうでないと自分がみじめになるしね。〈あなた〉の生き方が素敵ならば、自分が捨てられたことも〈素敵な〉ことの一部でしょ。捨てられたのではなく違う意味が生じる。

娘□ありのままの現実を受け入れるのが恐いからごまかしているのかな。

父■たしかに〈あの人の/素敵な生き方〉ってどういうことなのか具体的にイメージできないんだけど、これって、「卒業写真」の〈あの頃の生き方を あなたは忘れないで〉に通じるものがあるよね。どちらも高校生か大学生くらいなんだけど、そんな若造に〈生き方〉なんてしっかりしたものがあるのかと。〈生き方〉というには対象になるスパンが短すぎるでしょ。〈あの人の/素敵な生き方〉は他の人には幻想にしか見えないとしても、根拠が自分の外に置かれているので、詮索を一旦そこで止めることができる。他の解釈として、〈あの人〉のこれまでの学生時代の〈生き方〉というより、この先の延長が〈素敵な生き方〉になるに違いないと言っている可能性もあるけれどね。

娘□この「卒業」も、田舎に残るのは女性で、都会に行くのは男性ね。都会に行って変わったとか変わらないとかは書いてないけど、それはまだ先の話ね。

父■〈素敵な生き方〉の人だから「木綿のハンカチーフ」の男のように変わってはいかないことが期待されている。

娘□〈素敵な生き方〉が、その人を縛る呪文になっている。変わらないようにする呪文。直接本人に言ったわけではないだろうけど、お祈りみたいなものなのかな。

父■いずれにしても、変わる変わらないは、置かれた立場によって、男でも女でもどちらでもありうる。

娘□移動する先は、都会に行くというのが多いみたいね。高度成長で都会に吸い寄せられていくからでしょうけど。さっきの「22才の別れ」は田舎に行くことがドラマを生んでいるでしょ。それって珍しくない?

父■そうだね。「さすらいもの」の別れのパターンなら、あちこち田舎を流浪するというのはあるけど、田舎に定着するために田舎に行くというのは・・・あ、「津軽海峡・冬景色」は田舎に帰るパターンだな。あれは、東京で失敗して北に逃げるタイプの歌だね。ドラマ『北の国から』みたいな。都落ちソング。「22才の別れ」も時間切れという点では失敗と言えるかも。敗者が北とか南に逃げるのは、日本人の想像力のパターンにあるよね。あるいは中心を避けつつ流浪する。それはまた別の話になってくる。今話しているのは「あなたと私」の二者関係の問題で、逃避行や流浪は、その関係がもう断ち切れて一人で行動している。まあ、「昭和枯れすすき」(1974年)みたいに二人で逃避行というのもあるけど。二者関係の移動を図式化すれば、移動する先(都会、田舎)、移動する人の性別(男、女)、語り手の場所(都会、田舎)、語り手の性別(男、女)の組み合わせでいろんなパターンができる。あ、またパターンの話に戻ってきちゃったな。

娘□変わる変わらないの歌って、変わるのは悪いことってイメージがあると思う。でも、変わるのは悪じゃないと思う。変わるのは生きていくために環境の変化に合わせるってことで、変化と場所の移動がセットになっているのは、移動が環境の変化をもたらすから。場所が変わらなくても、就職して環境が変われば自分も変わらざるをえない。女性の場合は、加えて結婚ということがある。結婚は女性のほうが男性に合わせる場合が多い。それに女性のほうが結婚の「適齢期」が短いとされるから、子どもから大人への変化の圧力が高くなる。女性の方が変わりやすい、というか変わる必要に迫られる場面が多い。

父■女性の方が環境の変化に対して柔軟に適応しているんじゃないかな。男のほうが硬直した考え方をしているような気がする。

 

父■「あなたはあなたのままでいてほしい」という歌を見てきたんだけど、ここにはもう一方の極が隠されている。

娘□なに?

父■「あなたはあなたのままでいてほしい」が「私」のほうに折り返されてくると「私は私のままでいたい」ということになる。

娘□それじゃ個人主義じゃん。二人をくっつけていた接着剤である愛が霧消してバラバラになっちゃう。

父■「あなたはあなた、私は私」って言い出すのは、普通は二人が別れたときだよね。うんと古い例をだせば、佐藤千夜子「この太陽」(作詞、西條八十1930年)では、いいなづけだった二人は、小さいときは一緒に遊んだりしたけど、大人になってからは〈恋の巡礼者〉となり〈あなたはあなたの途(みち)をゆき 私は私の途をゆく〉と離ればなれになってしまう。昭和5年の歌だ。

娘□別々の道を行くとか、それぞれの道を行くとか、違う道を行くとかいうのはJポップの歌詞にもよくあるけど、西條八十が書いた詞をいまだになぞってるんだねJポップは。

父■別れたあとなら「あなたはあなた、私は私」っていう潔さは、「別れは新しい出会いの始まり」という認識の転換をもたらして生産的なんだけど、つきあってるうちから既に「あなたはあなた、私は私」という意識が生じてることがあるんだよね。

娘□それが「あなたはあなたのままでいて、私は私のままでいる」という、干渉しあわない個人主義ね。

父■ユーミンの「卒業写真」では、〈人ごみに流されて 変わって行く私〉が歌われていて、現実にあわせて流されるように変わっていく女性が描かれているように見えたけれど、歌にある「変わっていく私」と「変わらないあなた」の対比のうち、「変わっていく私」は実はそれほど否定されているわけではなく、そこにあるのは「あなたはあなたのままでいて、私は私のままでいる」という、「あなた」から自立した女性なんだろうな。もっと言えば、「私が私のままでいるために、あなたはあなたのままでいて」ということで、「あなたと私」は対等ではなく。「私」の方に比重がある。いっけん「あなた」に象徴される過去に依存しているように見えるけれど、それはもうじき捨て去られるライナスの毛布なんだろう。過渡的な意識が歌われてるんだと思う。

娘□「あなたはあなた、私は私」ってはっきり言うのは、客観的でさっぱりしてるけど、突き放した冷たい感じがする。

父■自立していて、お互い干渉しないので、そう感じるんだな。そういう歌の典型は金井克子「他人の関係」(作詞、有馬三恵子、1973年)だろう。交通整理みたいに手を左右に振りわけるしぐさと「パッパッパパパ」というバックコーラスは子どものころよく真似したなあ。無表情で歌う金井克子はちょっと怖かったけど。子どもには歌詞の意味はわからなかったけど、大人は困ったんじゃないかな。

娘□小さい子は、形が面白いとすぐ真似するよね。

父■〈愛したあと おたがい 他人の二人/あなたはあなた そして私はわたし〉という歌詞で、会うときも別れるときも他人のふりをしようということ。会うときは初めて会う人のように新鮮な気持ちで会い、別れたあとは自由でいられるように、ということだね。「逢引の哲学」とでもいうのかな、お互いを尊重しあうということが、自分の領域への侵襲を防ぐことにつながっている。この歌の場合は、お互い深入りしないほうが長続きするという計算の上でそうしてるんだろうけど。「他人の関係」というのは、計算づくで動ける「大人の関係」でもあるね。

娘□「関係」って、なんか淫靡な響きがあるけど、それはこの歌から?

父■さあ、どうだろう。

娘□歌われているのは、なんかゲーム感覚の恋愛って感じね。でも、そんなにきれいに割り切れるものかな。恋愛って不安定なものでしょ。うまくいっているときはいいけど、どちらかのバランスが崩れるとあっというまに駄目になりそうな関係ね。

父■この歌の場合は恋愛というより、お互いが楽しむための契約という感じだね。契約といえば『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマがあって、二人の関係が愛という不安定なものから始まるのではなく、契約結婚という安定したものから始めようとしていた。結婚という制度を表面的に利用した関係だったのが、結局真実の愛にめざめるっていう展開だった。形式に内容が満たされていく。『逃げ恥』は結婚をふんぎるまでの敷居を低くして、愛がなくても結婚していい、愛はあとからついてくる、人は人によって変化するということを言っていたと思う。実際、愛なんてよくわからない心理状態でしょ。私は本当にあの人のことを愛しているのかしら、ってドラマのヒロインもよく悩んでるでしょ。

娘□あなた色に染まりたいっていう歌がよくあるけど、あなた色に染まっちゃったら「あなたはあなた、私は私」に戻れないね。

父■ウェディングドレスが純白であることの意味だね。一旦染まってしまったら洗っても落ちなそうだ。テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」(作詞、荒木とよひさ1986年)が〈時の流れに身をまかせ/あなたの色に染められ〉と歌っていたな。この歌は、一度きりの自分の人生さえ捨ててもいいと歌っていたから極端だけれど。

娘□尽くしてくれる女性って、男の理想じゃないの?

父■ここまで受け身だと特殊な事情を感じるね。こじれて厄介なことに巻き込まれそうな気がする。正反対の歌を川島だりあが歌っている。〈あなた色に染まってく 自分がこわくて/悲しき自由の果てに〉(「悲しき自由の果てに」作詞、川島だりあ1992年)。ドラマ『ウーマンドリーム』のサントラに入っていた。この歌の二人は別れて、自分が自分でいられることのほうを選んだんだね。愛より自由。〈悲しき自由の果てに〉というのは、自分が自分でいること(自由)をつらぬくのは寂しさと引き換えだということだろう。自分がなくなる、飲み込まれることが恐いんだね。自由というワードは「他人の関係」でも、〈大人同士の恋は 小鳥のように/いつでも自由でいたいわ〉と使われている。また『逃げ恥』の話をすれば、結婚によって自由を奪われると考える人がいるけれど、『逃げ恥』は自由が愛に入れ替わってゆく過程を描いているんだと思う。そしてそれはそんなに嫌なことではない。

娘□自由と拘束(愛)の中間ってないのかな。

父■1976年に亡くなった武者小路実篤が、晩年、色紙によく書いたというのが、「君は君 我は我也 されど仲よき」。一旦バラバラな個人になって、そのあと結びつく。これって束縛されてもいないし、孤独でもない。

娘□そうかも。でも、「仲よき」が「されど」で接続させられているのが危ういわね。飛躍できる根拠がないでしょ。

父■「君は君 我は我也」をどこまで徹底するかということだろう。「されど」と転回できる余地があるためには、ある程度のところで折り合わなければならない。相反するベクトルがある状態を保持するには均衡が重要だね。

娘□仏教でいう「愛」って執着っていうことだっけ。執着は「悟り」の障害になる。「あなたはあなた、私は私」というのは相手に執着しないということなら、これはある意味「悟り」なわけ?

父■「生悟り」だよね。中途半端なところで止まっている。あなたに干渉しないからこちらも放っといてというのでは、対話による深まりが得られないということで、お互い自立しているのはいいけど、バラバラなのは無関心に行き着く。僕はこの「あなたはあなた、私は私」という言い方は実は好きじゃない。決めつけてるよね。「あなたはあなた」というのは決めつけだし、「私は私」というのも自分のことを決めつけている。相手のことを全部わかっている人はいない。なのに全部わかったような言い方だ。人間って変化し続けるものだ。「あなたはあなた」、つまり「A = A」という同一性にとどまることを拒否して運動を生み出すのが「自同律の不快」だ。

娘□なにそれ? あ、埴谷雄高。えーと、ネットに立花隆との対談が抜粋されてる。

 

埴谷 ぼくが言うのは、「自同律の不快」というものを持たなければ、あらゆる存在は存在的価値を持っていない。「自同律の不快」というのは絶えず満たされない魂を持っていて、満たされよう、満たされようと思って絶えず満たされる方向へ向かっていく。これがぼくの宇宙の原理なんです。その満たされざる魂を持っているのが宇宙の原理だけどね、ぼくもある意味でヘーゲル的なんですね。(『無限の相のもとに』)

https://onmymind.exblog.jp/21935228/

 

父■「絶えず満たされない」のだから、相手をこういう人だと決めつけることはできない。「あなたはあなた、私は私」と言った途端に、お互いの変化が見えなくなってしまう。

娘□このあいだの哲学の授業で紹介されたバフチンという人が似たようなことを言っていた。

父■人は誰でも、他の人に理解できない不確定な部分が残る存在でしょ。そもそも自分ですら自分のことは十分にわからないから、なおさら決めつけることはできない。

娘□私、高校のときは世話焼きのお姉さんキャラだったのね。友達もみんなキャラ化していて、お互いかぶらないようにしていたけど、そういうのってホント、自分にも他人からも決めつけられたふるまいになっちゃってて苦しかった。現実の自分とズレがあるし、キャラを壊すことになるから変わりたいのに変われないし、そもそもキャラって自分の一部分でしかないから、そういう人間として接してこられるのはすごく嫌だった。お姉さんキャラでしっかりしてなきゃいけないから、友達に甘えたいときがあっても甘えられないし。泣きたいときは陰で泣いてた。

父■そうだったんだ。全然、気がつかなくてごめんね。

松山千春「銀の雨」「旅立ち」〜君僕ソング(その1)

父■このあいだ松山千春「銀の雨」(作詞、松山千春1977年)を久しぶりに聞いたんだ。なんかカッコいい歌だなと思った。でも歌詞を読んだら「ん?」ってなった。

娘□松山千春ってスキンヘッドでサングラスかけた強面(こわもて)の人でしょ。話はおもしろいみたいだけど、近よりたくない。歌は顔に似合わないやさしい声をしている。

父■昔はフサフサしていたんだけどね。当時は、さだまさしとどっちが薄くなったとか冗談で競いあっていた。今は、さだまさしはなぜか前より髪の毛が増えたように見えるけど、千春は潔く剃髪してしまった。

娘□お父さんもここ数年で急に薄くなったよね。

父■うちの父親も祖父も禿げてなかったのでおかしいなと思ったら、母方の祖父が見事な禿頭だったんだよね。さだまさしは坊主頭だと詞のイメージに似合わないかもしれないけど、これから取り上げる千春の歌詞はマッチョ的なので、意外にスキンヘッドでも似合ったりする。

娘□「銀の雨」って、銀色の雨ってこと?

父■〈銀色の雨〉とか〈銀の雨〉とか、雨を銀色に喩えるのはよくある。有名なところでは「黄昏のビギン」(作詞、永六輔、中村八大、1959年)とか。〈ふたりの肩に 銀色の雨〉とある。他には、〈雨はふるふる城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる〉という北原白秋の「城ヶ島の雨」は大正2年に作られたもの。

娘□〈利久鼠〉って?

父■少し緑がかった灰色のこと。昔は灰色のことを「ねずみいろ」って言った。今は鼠もすっかり見なくなったけれど、前はどこにでもいたよ。城ヶ島を散歩していた白秋が、雨にけぶる木立(こだ)ちを見て、それを〈利久鼠〉のような色だと言ったんだね。

娘□侘び寂び~。銀色っていうのは、雨の粒が光を反射するから銀色に見えるのかな。昔は銀色みたいに光るものが少なかったから、そういう比喩を思いつかなかったんじゃない? 城ヶ島の磯に銀色の雨が降るっていう歌だったら、小洒落た風景になっちゃう。

父■八神純子に「みずいろの雨」(作詞、三浦徳子1978年)っていう歌があって、雨は水なんだから水を「みずいろ」って言うのはトートロジーだと思ったけど、僕の好きな野口五郎の「沈黙」(作詞、松本隆1977年)も〈水色の雨降る街は〉って歌ってるんだよな。

娘□色の名前って、ものの名前の借用だよね。「はいいろ」って灰の色でしょ。「ちゃいろ」もお茶の色のことだけど、お茶って淡い黄緑色じゃん。昔はほうじ茶みたいに炒ったお茶が主流だったから、ああいう色が茶色って呼ばれるようになったみたい。

父■クレヨンとか色鉛筆で「うすだいだい」とか「ペールオレンジ」って言われている色は、ちょっと前までは「はだいろ」って言っていたんだよね。いろんな肌の色の人がいるので差別的だとして言い換えられた。でも僕が不思議だったのは、そもそも「はだいろ」って、日本人でもああいう肌の色をした人はいないってこと。でもこのHPを見てなんとなくわかった。「8世紀ごろにあった人や獣の肉の色を表す『しし色』が『はだ色』の前身」なんだって。(NHK生活情報ぶろぐ https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/800/299152.html)。なるほど、スーパーで売ってる皮をはいだ鶏肉って肌色してるのがあるね。でもあれは肌じゃないけど。だから「ししいろ」なんだね。「とりにくいろ」でもよさそうな気がする。

娘□それだと、いままで「はだいろ」を使って人の絵を描いていた人は気分を害することになるわね。

父■君も小さい頃そうだったんだけど、絵の中の太陽を赤色のクレヨンでグリグリ描く子がいるんだよね。あれは不思議だったな。どうして太陽が赤く見えるのか。夕日だと空は赤くなるけど、太陽は黄色いまま。たまに赤く見えるときもあるけど。

娘□暑さの隠喩なんじゃない? あるいは夕日で赤く照らされた景色の換喩。

父■なるほど。〈まっかに燃えた太陽だから 真夏の海は恋の季節なの〉(美空ひばり「真っ赤な太陽」作詞、吉岡治1967年)の赤い太陽は暑さに関係してそうだし、〈赤い夕日が校舎をそめて〉(舟木一夫「高校三年生」作詞、丘灯至夫1963年)の赤い夕日は換喩だな。正確には「夕日が赤く校舎を染めて」だろう。

娘□また脱線してるね。

父■はいはい、松山千春の「銀の雨」に戻ろう。

松山千春「銀の雨」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001fb5/l001b20.html

 この歌には〈貴方〉がよく出てくる。歌詞の2番はこうなっている。

 

  貴方のそばで 貴方のために

  暮らせただけで 幸せだけど

  せめて貴方の さびしさ少し

  わかってあげれば 良かったのに

  貴方がくれた 思い出だけが

  ひとつふたつ 銀の雨の中

 

 ここでは〈貴方〉は4回出てくる。歌詞の1番では2回、3番の歌詞では3回出てくる。一方、〈私〉は1番では1回、2番ではなし、3番では2回ある。

 歌の内容は、

 

 ・私がいつまでも貴方のそばにいたら貴方がダメになってしまう(1番)

 ・貴方の寂しさを少しもわかってやれなかった(2番)

 ・貴方についてきたのは私のわがままだった(3番)

 

ということが語られている。〈貴方〉が何回も出てくることからわかるように、〈私〉は〈貴方〉にたいへん気を使っている。引用した部分でも〈貴方のために 暮らせ〉て〈幸せ〉だったと言っている。

娘□歌詞だけ見ると演歌っぽい。3番の歌詞はとくにそう。〈ごめんと私に いってくれたのは/貴方の最後の やさしさですね〉って、それ〈やさしさ〉じゃなくて身勝手でしょ。〈いいのよ貴方に ついて来たのは/みんな私の わがままだから〉って、悪いのは女の人のほうなの? それなのに〈貴方の夢が かなう様に祈る〉って言わせてる。なんでそこまで気をつかうのって思うくらい。

父■女性歌手による応援ソングってあるでしょ。岡村孝子「夢をあきらめないで」(作詞、岡村孝子1987年)とか、ZARD「負けないで」(作詞、坂井泉水1993年)とか。それの一歩手前にある歌だよね「銀の雨」は。

娘□ニューミュージックの服を着てるけど、心は演歌のままってこと?

父■応援ソングって、他人を応援するけど、応援する自分のことについてはふれていない。自分はちょっと離れた立場から応援していて、相手に巻き込まれない客観的な位置を確保している。「銀の雨」も応援ソングの先祖みたいなものだけど、相手との距離がとれていないので運命共同体になっている。それで演歌の中の堪え忍ぶ女性みたいになってしまっている。

娘□「銀の雨」で、この二人が別れた理由はわからないけど、別れを切り出したのはたぶん男のほうよね。なのに〈私〉が〈貴方〉のことを理解してやれなかったってことにされてる。〈せめて貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉っていうけど〈貴方の さびしさ〉ってなんなの?

父■なんだろうね。〈私〉は召使いみたいに献身的なのに、〈貴方〉は〈私〉の理解をすり抜けていく。

娘□ありえなくない?

父■歌として聞くとスルスル聞けてしまうんだけどね。文字で読むとたしかに抵抗感がある。「銀の雨」に出てくるのは、古い日本の献身的(依存的)な女性で、男に都合よく使い捨てられる女性なのに自ら身を引くように描かれている。きれいな歌になっているから、歌詞の内容まではいちいち穿鑿されなかったと思うよ。「銀の雨」はシングルのB面だしね。それに比べたら、大ヒットしたさだまさしの「関白宣言」(作詞、さだまさし1979年)はフェミニストから抗議を受けた。歌詞を読めばタイトルは強がりだということがわかるし、「早く起きろ、飯を作れ」という歌詞も、気の弱い男の哀れさを滑稽味をもって逆説的に表現しているにすぎない。だけど、人はわかりやすい部分でしか反応しないからね。

娘□「銀の雨」と「関白宣言」じゃ、タイトルだけでどちらに矛先を向けるか決まっている。

父■80年代に入っても似たようなものだよ。都はるみ岡千秋「浪花恋しぐれ」(作詞、たかたかし、1983年)は〈芸のためなら 女房も泣かす/それがどうした 文句があるか〉という開き直り。これは今ならDVと言われそうだけど、当時としても時代感覚があまりにずれていて、「ダメ亭主を支えるけなげな女房」というコミックソングだと思って僕は聞いていたから不快感はなかったな。それに、妻は依存症的というより、夫を支える共同体という歌詞だった。

娘□それって男目線の読み方だと思うけどね。80年代ってフェミニズムが退潮してた頃よね。だから許されたのかな。男女雇用機会均等法の施行が86年で女性の職場進出が本格的になる。その途端、88、89年に子連れ出勤のアグネス論争が起きる。この論争って女どうしでやってたのよね。

父■男目線ということもあるかもしれないけど、ここには〈芸のためなら〉っていうマジックワードがあって、これが全ての不条理を飲み込んでしまう。もしこれが「ギャンブルのために女房を泣かす」ならお話にならないけどね。ギャンブルで快楽を得るのは男だけで、女は何の得にもならない。〈芸のため〉という、自分を超えた価値をもったものがあって、男もそのために身を捧げている。その男に女房は身を捧げる。結局は女房は男を媒介して芸のために身を捧げている。

娘□身を捧げるって、犠牲になってるってことでしょ。それに男のほうは好きでやってるからいいけど、奥さんのほうはつきあわされてるだけじゃないの?

父■男が好きでやってるのが問題ないとしたら、奥さんが旦那さんを好きでやってるなら問題ないってことにならないか?

娘□コミックソングって言うけど、私には面白くは聞こえないな。だって真剣に歌ってるもの。おちゃらけてないよ。

父■大真面目にやるから面白いんだよ。そこは僕の独特のとらえ方だけども。

娘□私、漫才やコントで精神障害っぽい人をからかったり(風変わりなおじさん)、ハゲの人をからかったりするのは、自虐であっても頭にくるのよね。やってる本人がハゲているからって、ハゲをからかう免罪符にはならないでしょ。同じように、女が女の地位を下げるようなことを言うのも許せない。

父■「銀の歌」は女性が自ら身を引くということになっていて、男にしてみれば相手があっさり別れてくれて都合がいいかも。女性がものわかりがいいから、別れはドロドロしたものにはならず、あっさりとしている。〈これ以上私が そばに居たなら/あなたがだめに なってしまうのね〉〈いいのよ貴方に ついて来たのは/みんな私の わがままだから〉というように、事を荒立てないよう先回りしている。

娘□姫くりの「都合いい女」のコントみたい。忖度しすぎる思考回路は自分が傷つかないようにするために発達したんじゃないかって思う。こういう歌は、女の側から一方的に男に都合のいい忖度をするように書くんじゃなくて、せめて男の側からのホンネを入れた掛け合いにしてほしいわね。〈貴方の さびしさ少し/わかってあげれば 良かったのに〉って女が勝手に忖度してるけど、せめて何がさびしいのか男の側から言って欲しい。

父■対話っていうことだね。それは重要だ。「浪花恋しぐれ」はそうなっているけどね。

娘□あれは男の価値観に女が合わせてるだけ。今見れば依存症的だけど、芸人という特殊性と関西という地域性で中心からの価値規範が撹乱されて、古くさい夫婦像が擁護されている。

父■それに歴史性もある。明治から大正にかけて人気のあった実在の落語家をモデルにしている。戦前の人を描いているので、それを「古くさい夫婦像」と批判しても意味がない。江戸時代が封建的なのはあたりまえのように。

娘□だからそういう夫婦像を戦後40年近くもたってから発掘し歌にするのは、理想というか規範として復活させようというバックラッシュの一つじゃないのかってこと。

 

父■松山千春の「旅立ち」(作詞、松山千春1977年)も「銀の雨」に似ている。

松山千春「旅立ち」歌詞→ https://j-lyric.net/artist/a001fb5/l005d1f.html

 この歌では〈貴方〉は6回、〈私〉は4回出てくる。〈私の事など もう気にしないで/貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉とある。私が足枷になるくらいなら捨ててくれということだ。それを〈貴方〉の〈旅立ち〉であると捉えている。

娘□女性のほうから言わせているのがいやらしいわね。

父■「別れじゃなく旅立ち」であるみたいな価値転換の歌は卒業ソングなんかによくあるけど、そのパターンだね。同じ出来事でも言葉によって捉え方が180度変わる。

娘□発想の転換っていうやつでしょ。別れは旅立ちであるといえばかっこいいけど、これもなんか「都合いい女」の感じがする。そんなにすっきり気持ちを切り替えられるものじゃない。

父■すがりついて泣いて引き止めるのはみっともないという「諦め」の美学みたいなものがあるかも。これがもう少し勝ち気な女性の場合は、堀江淳「メモリーグラス」(作詞、堀江淳1981年)の〈ふられたんじゃないわ あたしがおりただけよ〉ということになるのかな。

娘□忖度じゃなくて強がりになってる。

父■どう思うにせよ、すっきり別れられたことに喜ぶ男はいるかもね。「旅立ち」では、いつか別れることになるのは何故か〈二人が出会った時に 知っていたはず〉と言っていて、自分もあらかじめ承知していたことになっている。

娘□運命論というより自己責任論ね。実際に別れた場合の損得は非対称なのに「おあいこ」にされてしまう。

父■「銀の雨」や「旅立ち」には、〈貴方の夢がかなう様に〉とか、〈貴方は貴方の道を 歩いてほしい〉という歌詞はあるけど、〈私〉はどうなるのか不明なんだよ。ほっておかれる。〈貴方〉は輝ける夢を追いかけるからいいけど、〈私〉はその夢のルートから外れて日陰の道を歩いていきそうだな。〈私〉は〈貴方〉につきあわされるけど、その後は知らないと使い捨てられる。ロケットを打ち上げるときのブースターみたいに切り捨てられる。

娘□タレントなんかで、有名になると糟糠の妻と別れて若くてきれいな女と結婚する人がいるけど、そうなった場合でも、別れた奥さんは〈貴方の夢〉がかなってよかったと思うのかしら。〈貴方の夢〉には別の女の人が傍らにいるとしたら、そんなに簡単に送り出せるかな。「浪花恋しぐれ」みたいに古女房を隣に置いているほうがまだいい。

父■お、認めたな。

娘□結局、女性に母親的なものを求めているのかもしれないね。「旅立ち」って、息子の門出を祝いつつ寂しがる母親の心境みたいな歌だから。

(その2に続く)

「イエスタデイ」と「大きな栗の木の下で」~君僕ソング(前口上)

娘□あのさぁ、ちょっと協力してほしいことがあるんだけど。

父■なに?

娘□大学の社会学の講義で、課題にレポート出されたんだよねー。

父■ふーん。

娘□なんか社会学の有名な先生で、流行歌を読み解いている本があるんだけど、それみたいに最近の流行歌を分析しろっていうの。

父■あー、あれか。昔の本だよな。明治から高度成長までを扱っていたんじゃないかな。

娘□本の抜粋を何枚か配ってもらったけど、えー、と思って。歌は楽しんで聞くものなんで、分析なんかしないよ、マジで。

父■あれ? 国語は好きじゃなかったか。その本も、おもに歌詞の分析だから、君も詩を読むみたいに歌詞を読んでみたらいいんじゃないかな。そこに社会学っぽいことをまぶしておけば。

娘□歌詞と詩は違うでしょ。

父■まあそうだけど。歌詞は陳腐な言葉のほうがなぜか胸にグッとくるよな。とにかく、大学に入ったばかりで、最初のレポートなんだから頑張れよ。先生も、1年生向けに書きやすそうな題材にしてくれたみたいだし。

娘□歌詞なんていつも聞き流しているから、言葉としてまともに読んだことないんだよねー。どうしようって困っていたら、あ、そういえば、うちの親がこういうの好きじゃんって気づいて。

父■・・・。

娘□お父さん、ブログになんかこういうこと書いてたよね。

父■まあな。

娘□じゃ、それパクろうと。

父■そりゃダメだろ。

娘□親子だからいいじゃん。

父■世代が違うんだから、別のことを考えろよ。なんのために頭があるんだ。

娘□ケチ。

父■じゃあ、ネタだけ提供してやるよ。今度書こうと思ってたことなんだけど。それを自分なりに料理してみたらいい。

娘□なーに?

父■「あなたと私」っていうことなんだけどね。

娘□え? そんな大雑把なこと? それで書けるの?

父■書こうと思えば、何についてでも書けるよ。それに、これなら社会学ふうな感じにもっていける。

娘□ほんと?

父■歌詞に、「あなた、私」「君、僕」でも「俺、お前」でもいいけど、それがよく出てくる歌に注目する。英語だと、「I said」「She said」とかいちいち出てきてうるさいんだけど、日本語ってそういうの省略するよね。でも、省略されない場合があって、それはどういう効果を生むのか。昨日、『イエスタディ』(監督ダニー・ボイル2019年)っていう面白い映画を見たけど、ビートルズの「イエスタディ」を例に出せば、

 

 Why she had to go?

 I don't know, she wouldn't say

 I said something wrong

 Now I long for yesterday.

 

ってあるけど、これを日本語に訳すとき「僕」を一切使わなくても訳せるよね。もちろん使うこともできる。

娘□歌を聞いているときは全然気にならなかったけど、あらためて文字で見ると、たしかに多いわね。

父■今の例は〈I〉が連続して現れるところを選んでみたんだけど、ただ、英語の人称代名詞は「Imyme」で主格・所有格・目的格で形が異なる。こういうのは屈折語の性質だね。一方、日本語は膠着語で「私は、私の、私を」と、1パターンの名詞に助詞がつくので、「私」が繰り返されてうるさく感じることになる。

娘□「あなたと私」で思い出すのは、あたし、小さいとき英語の教室に通わされたじゃない? そこで「大きな栗の木の下で」を英語で歌って踊らされたの。あれって元はイギリスの民謡みたい。今でも歌えるよ。

 

 Under the spreading chestnut tree

 There we sit both you and me

 Oh, how happy we will be

 Under the spreading chestnut tree.

 

 これ、茂った栗の木の下にあなたも私も座りましょうって言っていて、私も座るから、あなたもどう?っていう感じで自然なお誘いなんだけど、これが日本語になると、〈大きな栗の木の下で あなたとわたし たのしく遊びましょ〉って〈あなたとわたし〉をことさら指し示すことになって、なんか不思議な雰囲気が生まれるのよね。かといって、〈あなたとわたし〉を省略すると、代わりになる言葉もないから困るんだけど。

父■保育園のお遊戯なら〈あなたとわたし〉があったほうが、振り付けで子ども同士が関われるけど、たしかに言葉だけ見ると「ことさら感」があるな。この歌は解釈ごっこが盛んで、なんで大きな栗の木の下なのかとか、なにして遊ぶのかとか、「大きな栗」と「大きい栗」ではどう違うのかとか、栗の木の神秘性だとか、戦後に占領軍が歌って流行らせたという説があることから、大きな栗はアメリカの核の傘の下のことだとか、他にもエロティックな解釈があったりする。やはり日本語としての不自然さを感じるから、そこに何か理由があると思って、解釈が盛んになるんだろうね。そもそも僕が子どものときは〈たのしく〉ではなく、〈なかよく遊びましょ〉だったんだけどね。

娘□へえ、そうなんだ。

父■なんで〈大きな栗の木の下〉で遊ぶのかというのは、〈大きな木〉が二人を結びつけているからだと思う。よく知られたCMで「日立の樹」(作詞、伊藤アキラ1972年)ってあったんだよね。子どもの頃やっていた『すばらしい世界旅行』のエンディングで、日曜日の夕飯どきのテレビ放送だったから、僕は「サザエさん症候群」じゃなくて「この木なんの木症候群」だったよ。今思うと、『サザエさん』のエンディングと「日立の樹」はイントロのギターがどことなく似ているな。それはともかく、「日立の樹」は、大きく枝葉を広げた木の映像に口調のいい歌が流れる。〈この木なんの木 気になる木 みんながあつまる木ですから みんながあつまる実がなるでしょう〉っていう歌詞があって、大きな樹に人は引き寄せられるんだよ。大木は神の依代だしね。日本では縄文時代から栗の木は盛んに栽培されていた。栗は食用になるし、木材として使いやすかった。大きな栗の木の歌も、バラバラになってしまう〈あなたとわたし〉を結びつける役目をしていると思う。

娘□栗の木のことはわかったけど、翻訳の話をしたいの?

父■違う違う。最初から脱線してしまったな。半分は君が悪いんだけど。僕が言いたいのは、日本語の歌で「あなた、私」がどう使われているかということだよ。油断すると多用する言葉なので、歌詞を書いている当人も意識しないところで、つい使ってしまう。

娘□そうなんだ。じゃまぁ、聞いてやりますか。

父■おい、立場が逆になってるぞ。さて、とっかかりは何がいいかな。まずは70年代フォークを見てみるか。

娘□お父さんが中学高校のころよく聞いたっていうやつね。あたしの授業の課題は最近の歌っていうことだけど、ま、70年代から行きますか。

父■「あなた、私」がよく出てくるのはフォークソング以降だと思うんだ。統計をとったわけじゃないから勘だけど。なぜそうなのかという総論はまたにして、今は各論を話していく。

娘□具体的な歌で使われ方を見ていくってことね。

(その1)に続く

自己言及ソング

「この歌が君に届くように」とか「僕は歌い続けている」のように、歌のなかで、その歌自身を指示しているものを自己言及ソングと呼ぶことにする。今歌っている歌のことを題材にしている歌である。

 こういう歌は、一つのジャンルを形成するほどたくさんある。歌詞に〈この歌〉や〈こんな歌〉とあるのは、たいてい自己言及ソングである。歌詞検索サイトで〈この歌〉の語を歌詞に含むものを検索すると約2460曲あった。〈こんな歌〉の語を含むものは約240曲である。合計で2700曲になる。カバー曲も含まれているので、差し引き2500曲ほど作られていることになる。(2021103日)

 例をみてみよう。

 

・それでも好きな人が できなかった人のために/この歌は僕からあなたへの 贈りものです(オフコース「僕の贈りもの」作詞、小田和正

・しなやかに歌って 淋しい時は/しなやかに歌って この歌を(山口百恵「しなやかに歌って」作詞、阿木燿子

・俺の歌 届くかな お前の その空へ(中略)約束だね この歌 cry cry crying 歌うよ(チェッカーズ「星屑のステージ」作詞、売野雅勇

・勉強ちっともしないで こんな歌ばっかり歌ってるから/来年はきっと歌ってるだろ 予備校のブルースを(高石ともや「受験生ブルース」作詞、中川五郎

・抑えきれない思いをこの声に乗せて 遠く君の街へ届けよう/たとえばそれがこんな歌だったら/僕らは何処にいたとしてもつながっていける(スキマスイッチ「奏(かなで)」作詞、大橋卓弥

・少し寂しそうな君に こんな歌を聴かせよう(あいみょん「君はロックを聴かない」作詞、あいみょん

 

「この歌」や「こんな歌」の扱われ方としては、以下が考えられる。

 

1 自分が歌う

2 他の誰かが歌う

3 自分が聞く

4 他の誰かが聞く

 

 1~4には組み合わせのパターンがあり、多いのは、1+4で、自分が歌う歌を他の誰か(多くは「君」)に聞かせるというものである。上記の例では、「僕の贈りもの」「星屑のステージ」「奏(かなで)」「君はロックを聴かない」がそうである。「Your Song」というタイトルの歌も多い。

「君に聞かせる」ということをもっとポエミーに言えば「君に届ける」「君に贈る」「君に捧げる」ということになる。上記の例では、「星屑のステージ」「奏(かなで)」で、「届く」という語が使用され、「僕の贈りもの」では「贈る」が使用されている。

 自作の歌を、他の誰かに届けたり贈ったりするのは勇気がいる。駄作にするわけにはいかない。贈り物に値する歌を作らねばならない。かつての歌は、神に届けられるもの、神に贈られるものだったという側面を持つが、それが随分と世俗化したものになった。

 1+2の組み合わせというのもある。自分と他の誰かが歌うということで、みんなで歌うことはここに含まれる。始原の歌は、歌い手と聞き手が分離しておらず、みんなで一緒に歌うものだったはずだ。今でも、コンサートなどで、歌手とみんなが一緒になって歌うことがある。そして、みんなが一緒に歌うことを歌った歌もある。

 

・さあ僕と声合わせて ひとつになろうよ/くちびるから くちびるへ 愛を伝えよう/心をひらいて つなごう コーラス・ライン(野口五郎コーラスライン」作詞、麻生香太郎

Sing a Song 歌いましょう(中略)これからもこのまま みんなで一緒になって 素晴らしい愛の歌 歌い続けていけたなら(松田聖子Sing」作詞、Seiko Matsuda

 

 こうした歌は、ある程度の大物歌手でないと、みんな一緒にという包容力が表現できない。

 1,2,4の例について見てきた。残ったのは「3 自分が聞く」である。3の例はあまりないが、ちあきなおみ喝采」(作詞、吉田旺)に、〈耳に私のうたが通りすぎてゆく〉とある。また、吉幾三「酒よ」(作詞、吉幾三)は、〈ひとり酒 手酌酒 演歌を聞きながら〉という。「酒よ」はベタな演歌であるから、演歌を聞いていることを歌う演歌ということになる。〈聞きながら〉つながりでいえば、尾崎豊十七歳の地図」(作詞、尾崎豊)にある〈十七のしゃがれたブルースを聞きながら〉のブルースが十七歳の自分の作った歌のことだとすると、これは自分の歌を聞いている歌ということになる。「十七歳の地図」はもともとテンポがゆっくりだったというから、「この歌」を聞いていることを「この歌」で歌っているという自己言及ソングになる。

 

 以上、「歌を歌う歌」についてみてきた。ただ、「1 自分が歌う」は、あくまで「この歌」にフォーカスがあった。似ているが違うものとして「歌う自分」にフォーカスするものがある。歌い手は歌を歌うことが仕事であり日常である。シンガーソングライターだと、歌を歌うことが経験の中心にあるので、歌の題材を探すときに、歌うことそれ自体が選ばれやすくなる。そのため「歌う自分」というジャンルも生じることになる。先に引用したちあきなおみ喝采」では、恋人の死を経験しても〈それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる〉と歌われる。歌う私について歌っているメタソングである。

 自分はなぜ歌を歌うのか、歌とは何か、という自明なものの問い直しを主題にした歌が作られている。メタ性に自覚的な歌である。これについては「rockin’on.com」に「ミュージシャンが「歌」について歌った曲10」という記事がある。(2019.10.10

https://rockinon.com/news/detail/189830

 そこで紹介されている中で、奥田民生「これは歌だ」、斉藤和義歌うたいのバラッド」、ケツメイシ「何故歌う」などは、歌とは何か、なぜ歌うのか、を主題にしており、[Alexandros]Your Song」は、作られた歌が一人称で語るという奇想が目を引く。

「歌う自分」への関心は、まず、歌うことが自分の存在証明になっていることに始まるだろう。尾崎豊僕が僕であるために」(作詞、尾崎豊)は、〈僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない〉と歌う。この歌には、もう一つ「○○し続ける」というフレーズがあり、それが〈歌い続けてる〉である。これを、〈僕が僕であるために歌い続けなきゃならない〉と入れ替えても、趣意をはずしてはいないだろう。歌い続けることが自分らしさをかたち作っているのだ。また、そこでは〈この冷たい街の風に 歌い続けてる〉とある。〈風〉という目に見えない空気の動きに対して、同じく〈歌〉という目に見えない空気の振動で対抗しようとする。途絶えることなく〈歌い続け〉なければ、大きな流れには抵抗できない。ここには、歌手である自分には歌うことしか手段を持てないというもどかしさも感じられる。(何に対してであれ、〈歌うことしかできない〉という内容の歌詞はJポップにしばしば登場する。)

 ジローズ戦争を知らない子供たち」(作詞、北山修)では、〈若すぎるからと許されないなら/髪の毛が長いと許されないなら/今の私に残っているのは 涙をこらえて歌うことだけさ〉と歌われる。歌うことが唯一残された抵抗の身振りである。歌も、平和的手段による社会変革である。手段である歌は、目的でもある。「歌うこと」という自由は〈許され〉ているということを、今まさに歌っていることで証明している。

 

「この歌」がどのように歌われるべきか、歌詞に規定される場合もある。「青い山脈」(作詞、西條八十)は、〈若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く〉と歌うが、〈若く明るい歌声〉とは、この歌を歌っている〈歌声〉それ自体である。私たちがもしこの歌をカラオケで歌うとしたら、歌詞との認知的不協和が生じないように、伸び伸びと明るく歌うことに務めるだろう。

「手のひらを太陽に」(作詞、やなせたかし)を歌うときも同じである。〈ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ〉と歌うこの歌はやはり、生き生きと歌うことを義務付けられている。小学生のとき音楽の時間で、この歌の躁病的カラ元気がどうにも好きになれなかった私は、小さい口でボソボソ歌っていたら、みんなの前で担任から注意を受けたことがあった。「〈ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きている〉んだ。お前だって生きているんだろう」と侮辱されたのである。金物屋セガレだったこの担任は、別に私が呪い殺したわけではないのだが、50代早々にして死んだ。それにしても、〈みんなみんな生きているんだ 友だちなんだ〉という歌詞は飛躍している。〈生きている〉ことは、ただちに〈友だち〉であることには結びつかない。

 

 ところで、歌が共有される「歌う/聞く」という場面においては、聞き手は一方的な受容者であるが(みんなで歌うという場合を除き)、ダンスのように、たんなる受容者ではなく能動的な参加者になることもできる。「東京音頭」(作詞、西條八十)は踊りを踊るための歌であるが、その歌詞は〈踊り踊るなら チョイト 東京音頭〉というもので、「この東京音頭という歌で踊ろう」といっている。この歌を聞いて踊る人は、「この歌で踊ろう」という歌で踊っていることになる。〈花の都の 花の都の 真中で〉という歌詞も、踊る人の場所を示している。同じく踊りの歌である「阿波踊り」も、〈同じアホなら踊らにゃそんそん〉と、踊ることをめぐる歌詞が入っている。踊る人の意識は、歌と身体の動きのリンクに向かっているので、意識が歌に沿いやすいようにするために自己言及的な歌詞がいいのかもしれない。

 ここで思い出されるのが労働歌である。労働歌のなかには、作業するときにみんなで息をあわせるために歌われるものがあり、歌とそれを聞く人とは一体である。労働歌を歌に取り込んだ美輪明宏ヨイトマケの唄」(作詞、美輪明宏)で〈父ちゃんのためならエンヤコラ〉と歌われるとき、歌い手と聞き手は一致している。これらは歌の素朴なかたち、歌い手と聞き手が分裂する前の歌のかたちを残している。