Jポップの日本語

流行歌の歌詞について

尾崎豊「虹」の読書会

 尾崎豊の「虹」(作詞、尾崎豊、1990年)はCD2枚組アルバム『誕生』に収録された歌である。最初に聞いたときはアルバムの埋め草のような退屈な歌だなと思ったが、ライブビデオでじっくり歌う姿を見ているうちにスルメを噛むような味がある歌だなと思った。今回は、ファン以外には知られないようなこの歌を取り上げてみよう。よく知られていない歌のほうが尾崎豊という強烈なキャラクターから離れてテキストそのものに向き合えることができるだろう。

      *

1

 雨まじりの強い風が吹くなか、早坂は区民センターめざして歩いていた。駅から目的地まで歩いて十五分たらずだったが、傘でしのぎきれない雨が服をしっとりと濡らした。十二月だというのに春のような暖かさで、気持ち悪いほどだった。

 区民センターは有名な建築家が設計したもので当初こそ奇抜なデザインを興がられたが、新鮮さは既に失せ、周囲の家並みから浮いた佇(たたず)まいは今や滑稽さを残すだけとなっていた。

 読書会の開始時刻は午後三時である。二〇分前に着いた早坂は、借りてきた鍵で会議室のドアを開けると、薄暗い部屋の蛍光灯をぱちんと点(つ)けた。小さな会議室の隅には、折りたたみ式の机と椅子が寄せかけてある。人数が少ないので一番小さな部屋を予約してあった。おかげで借りるのも簡単だった。

 今日集まるのは早坂を含めて五人である。女性二人と男性三人で、お互い初対面の人はいない。会員は十数名いるが、取り上げる本によって食指が動かない者は参加しない。今回は小説やビジネス書ではなく詩、それも歌詞を読もうという初めての試みだ。参加者が少ないのも仕方ない。他方で、ふだんあまり参加しないが今回は是非参加したいという男性が一人いた。

 テーブルを広げ、周囲を五つのパイプ椅子で囲んだ。来る途中のコンビニで買ってきたペットボトルの温かいお茶とスナック菓子を机の上に並べていると、ポツポツと参加者が集まりだした。

「なんだか妙に暖かくておかしな天気だな。上野のほうで、強風でビルの看板が落下したらしいぞ」

「ホントもう、髪がバサバサ」

「よかった、来てくれて」

「うーん、実はちょっと迷ったけど」

「すぐ暖房がきいてくるんで、服を乾かしてくださいね」

 などと話しているうちに、予定していた五人が集まった。

 今日は尾崎豊の「虹」という歌詞を読むことになっている。決めたのは今回の担当である早坂だ。何を読むかは事前にメールで知らせてある。尾崎豊という名前を知らない人はさすがにいないだろうが、この歌はアルバムの中の一曲なので、よほどのファンでないと知らないだろう。早坂が六歳のとき尾崎は亡くなったが、そのとき繰り返しテレビから流れた歌を聴いて母親が尾崎のファンになりアルバムを買い揃えたので、幼い早坂もよくそれを聴かされるはめになった。

 時間になったところで早坂は開始を告げ、今回の趣旨を簡単に説明した。

「どんな歌か、事前にネットの動画で確認してもらってあると思うけど念のため流しますね」

 コピーした歌詞をくばり、スマートフォンにスピーカーを付けてみんなで歌を聴いた。

 

 

    虹

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

  街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨の 小さな雫が瞳の中に落ちてくる

  閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく

  水たまりに映った 君の影が 僕の心を開く

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

  優しさだけなら 素直にもなれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする

  灰色の空の様な冷たさに震えてる

  人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて 心を開いて

 

 

「この歌詞について二時間も話すのか。時間もつかな」

 歌を聴き終わって、まず一声を発したのは小太りの西という男である。三〇代半ばで皮肉屋だ。自分ではそれを知的だと勘違いしている。二時間もつかなと言ったわりには、どこか自信ありげだ。

 たまにしか参加しないが今回特に意欲的なのは山口だ。

「僕、尾崎について結構詳しいんで、随所で解説できると思います」

 自信ありげに言う山口は二〇代前半の眼鏡男子で、高校の国語教師を目指している。現在は都立高校で非常勤講師をしている。山口は早速タブレットを取り出して操作しはじめた。調べてきたことをまとめてあるのだろう。

 進行は今回の担当である早坂の役目だ。早坂も西と同じくは三〇代半ばで、チェーン店の書店員をしている。中国地方の出身で、県内の国立大学に進学し、卒業後はコンピューター関係の会社に勤務したが、小説家になろうと思って上京し、SFの短編を書いてはコンテストに応募している。これまで三回ほどチャレンジしたが候補作どまりである。

 女性たちに歌の第一印象を尋ねた。

「イントロはいいですね。大きな虹の橋がぶわーっとかかる感じが目に浮かびます。ただ、歌詞は理解できないところがあります。雨上がりの虹っていうロマンチックな歌なのに、雨に濡れながら女の人の家のドアの前でずっと待っているって、ちょっとストーカーっぽい執念深さがあって、奇妙なところがある歌詞だなと思いました。今日ここに来るときも少し濡れたけど、この歌の人はずぶ濡れでも平気そうだから、歌の季節は夏ですね。ずぶ濡れだということは繰り返されるけど、寒くて震えるとは言ってませんから」

 そう感想を述べた香織は社交的な性格の女性で、多少理屈っぽいのはタウン誌の編集をやっているせいだろう。夜はジムでトレーニングをしたり、一人でカラオケへ行ってストレスを発散している。体に悪いのはわかっているが煙草を吸うのはやめられないという。

「私も。この人イケメンだからそんなことしそうにないって女性は騙されちゃうけど、歌詞はちょっとヘンかなと。でも、歌い方もうまいし聴き手は自然に受け入れてしまいますね。歌詞カードさえじっくり読まなければ」

 続けて発言したのはなつみである。香織の友人で、会社の事務をしている。おっとりしたお嬢様タイプで、縦巻きにした長い髪が可愛らしい。読書会ではあまり発言しないが、ときおり鋭いことを言う。

「うーん、ストーカーか。その感想をひっくり返してやりたいですね、僕は」

 と、山口は腕組みして宙を睨んだ。

 西が薄く笑った。「そうだなぁ」ともったいをつけるように喋った。顎を人差し指でこするようなしぐさをするのが話すときの癖だ。自分の頭の中から事例のストックを引き出してくるといった様子だ。「雨が降っているのに傘もささずに濡れているっていう設定はよくあるパターンでしょ。三善英史の「雨」(作詞、千家和也、一九七二年)なんてまさに〈雨にぬれながら たたずむ人がいる〉っていう歌だからね。約束した人をいつまでもじっと待っている。他には、何人にもカバーされている名曲「黄昏のビギン」(作詞、永六輔・中村八大、一九五九年)に、〈傘もささずに僕達は 歩きつづけた雨の中〉とある。この歌は状況設定がよくわからないけど、傘もささずに歩いているということで何か複雑な事情がある男女であることを想定させる。とにかく、雨に濡れ続けることは、感情を抑えた静かな激しさを表しているわけで、歌の世界の住人にとってはそれほど変なことじゃない。なにも泣きわめくだけが激しさじゃない。で、尾崎の「虹」ね。虹はロマンチックだって言ってたけど、この歌は雨があがってほしいとは歌っていても、歌詞には虹なんて出てこないよ。タイトルについてるだけ」

 西は声が大きいので威圧感がある。その西に負けじと、香織が言い返す。

「〈閉じた傘〉とか〈水たまり〉とあるので、雨はやんだんじゃないんですか。そこでこのタイトルですから、空には虹が出ていると思います。歌詞の中に描かれていなくてもタイトルも含めた全体で表現されているんだと思います」

 嫌味たらしく言われて引っ込んでいるようなおとなしい女性ではない。きつい目つきをして西を睨んだ。

 西は、ふっ、と息を漏らして言った。

「虹なんて遠くから見れば綺麗だけど実体がないものの象徴だよ。虹は陰鬱な雨に耐えたことのご褒美なんだろうけど、すぐ消えてなくなる不安定なものでもある。そこからすると、歌の二人の関係は仮に一旦良好になったとしても、それが長続きするとは思えない。ま、女のほうはどういう人物か皆目わからないけどね」

 

2

 早坂は話を切り替えた。

「最初からあまり決めつけるのはやめときましょう。歌詞を読む前に、まずこの歌の外側をざっと説明しますね。この歌は一九九〇年のアルバム『誕生』に収録されたものです。それまでの尾崎のスローバラードって、もの悲しかったり気怠かったりして狭いところに入り込んで行き詰まっている感じがしたものだったんだけど、この歌は広がりがあって安定した感じがあります。いわゆる尾崎らしさがあまりないというか」

「尾崎らしさって何?」

 すかさず西が口を挟む。定義がゆるいと我慢ならないらしい。

「尾崎らしさというのは、深い内省があるかと思えば過剰な激しさもあることです。あるいは、権威への反抗があるかと思えば他者に理解を求めたりします」

「この歌は」と西が疑問を呈した。「内省はちょっとしかないけど、〈ずぶ濡れで待つ〉なんて過剰さがあるし、権威への反抗はないけど〈心のドアを開けて〉なんて他者にすがっているじゃない。それは尾崎らしさじゃないの?」

「まあ、細かいところはあとにしましょう」と、早坂は軽くいなした。

「わかったよ。両極端だってことなんだな」

 西は意外にあっさりと矛をおさめた。

「ええ、両極端な人なんですけど、それゆえの疎外感を他者との一体感で埋め合わせようとするみたいなところがありますね。もちろそんそれは求めても得られないものですけど」

 早坂は続けた。

「この歌の「虹」というタイトルは、尾崎の歌の中では明るく希望のある感じのものだと思います。ライブ映像を見たとき、飾らずのびやかに歌っていたのが印象に残っています。曲のアレンジも、大空に虹がかかっているイメージを想像させます。歌詞は、雨に包まれる街を自分の心情風景に見立てていて、比喩もわかりやすい。一見、そう見えます。ただ、サビの部分はちょっとヘンな人と言われればそうです。歌を聴いているときはそれほど違和感はないのですが、こうして歌詞を文字として読んでみると言葉の意味がはっきりわかって、どうしても目がそこにいってしまいますね」

 早坂が一息ついたところに、すかさず西が割り込んだ。

「この歌は、井上陽水の「傘がない」に似ているなと思ったね。ネットで見たら尾崎は陽水が好きだったって書いてあった。「傘がない」は、連合赤軍が一九七二年に起こしたあさま山荘事件の二か月後に発売されたアルバム『断絶』に収録されていて、若者が社会的なものへ無関心になっていく様を描いている。「傘がない」は、新聞やテレビには暗いニュースがあふれているが、君のこと以外は何も見えない(見たくない)と歌っている。私的なことに開き直る罪悪感への償いであるかのように語り手は雨に濡れる」

 山口が憤然とした口調で、「どこが似てるっていうんですか。全然違うように思うけど」と、言った。

「状況は違うけれど、似ているのは言葉だ。「傘がない」にある〈君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ/つめたい雨が僕の目の中に降る〉という部分は、「虹」では〈雨が上がるのをずぶ濡れで待つ〉〈雨の小さな雫が瞳の中に落ちてくる〉とあって、そのまんまでしょう」

 嫌味な西の発言にムッとして山口がさらに反論した。

「雨が目の中に降るって、ありきたりの涙の比喩なんで、パクリみたいに言わないでほしいですね。森田健作の「さらば涙と言おう」(作詞、阿久悠、一九七一年)は、〈雨の降る日を待ってさらば涙と言おう/頬をぬらす涙は(略)小雨に流そう〉と歌ってますよ」

 西は平然と返した。

「それは涙を雨でごまかすということだよ。でも尾崎や陽水の歌詞は、目薬みたいに目の中に雨が降るっていうことで、発想が異なっているよ。一般的には、雨で涙を表す場合には、雨が頬にかかるとか頬を濡らすという描写をするよね。涙は目から出るものであって、外から目の中に入ってくるものではないから」

 山口が放った言葉は西に叩き落とされてしまった。

「まぁ、細かいことはまたあとでふれましょう」

 早速ヒートアップしそうなので、早坂は仲裁にはいった。じっくり語るべきところは語るが、歌詞についてパクリなのか偶然の一致なのかを言い出すときりがないし、それを裁断する場でもない。進行担当として、先に進むことにした。

「全体的な印象ですが、歌詞は雨のイメージに満ちています。単調なくらい雨のイメージ一本槍だといっていいです。もちろんこれは、たんなる雨降りの歌ではありません。雨について語りながらそれとは別のことを語っています。それは、語り手である〈おいら〉は今、生まれ変わる苦しみの中にいるということです。雨に濡れるのは、そのための禊(みそぎ)のようにも思えます。ただし僕には、その生まれ変わりはうまくいかないように感じられます。さきほど香織さんは傘を閉じたとあるから雨はやんだと言いましたが、〈だから今日も〉とあるように、この人は何日も雨に濡れているようにも思えるんです。雨が降ったりやんだりが繰り返されているんじゃないかな。ちょっとした晴れ間はあるけれども、ピーカンの青空までには至らずに、またグズついた天気になってしまう」

 なつみがおずおず口を開いた。

「私はこの歌に出てくるような男の人って苦手だな。このタイプの人って自分の気持ちをわかってくれっていう強引さばかりで、相手の気持ちはわかろうとしないんです。〈ずぶ濡れ〉で相手を待ち続けるってそういうことでしょう」

 どこか自分の過去の経験を語っているようにも聞こえる。

 なつみが話の流れからずれたようなことを言ったため、どう受けていいかわからない早坂は軽くうなづいただけで、半ば無視するように続けた。

「一般に、小説やドラマなどで雨が出てくるときにはそれなりの理由があります。天気は晴れであることが「無徴」です。無徴というのは、その言葉からまず想像されるもののことです。今日はいい天気だ、というのは晴れていることを意味しますよね。雨は、悲しく憂鬱な気分を表す隠喩だったり、出かけるのを控えるといった行動の制限、濡れないために傘のような雨を防ぐ手段を必要とする煩わしいことの象徴だったりします。そのため、雨上がりの後の虹は、沈鬱な気分が去ったことを示すわかりやすい記号になっています。自然現象の虹は、目には見えるけれどもすぐに消えてしまうし、どこまで行ってもつかめない。それでいて鮮やかです。だから希望の比喩としてよく使われる。遠くから憧れの眼差しで見ることはできるが、たどりつくことができず、つかむことができない」

「それはさっき俺が言ったことじゃないか。繰り返すなよ。くどいな」と西が口を挟んだ。

「ええ。もうちょっと敷衍させてください」早坂が弁明する。

「手短に頼むよ。新味のない意見を聞くのは時間の無駄だからな」と西が念押しする。

「いいじゃない。早坂さんの言うことを聞きたいわ。私は」香りが援護する。

「ありがとうございます。もともとこの読書会は実用的なものではないので勘弁してください、西さん」

「おまえらデキてんのか」西が冷やかす。「俺はジャイアンじゃねぇからな。強引に仕切るつもりはない。好きにしろよ」

「では」と早坂は続けた。「雨は人を家の中に足止めにし、事態を停滞させます。だから逆に、そんな雨の中に飛び出し、あえて雨に濡れることが意味を生じさせることになります。90年代のトレンディ・ドラマでは、喧嘩のすえ土砂降りの雨の中に飛び出した恋人を傘もささずに追いかけたり、あるいは雨の中で抱き合ったりする場面がよくありました。こういうとき彼らは、大切な人との別れや死という重大な局面を迎えていることが少なくありません。たんに雨が降ることと雨に濡れることでは意味が異なります。

 神話に典型に表れていますが、水に濡れることは、洗い清められることを意味しています。もっと言うと、生まれ変わることを意味している。その典型が禊(みそぎ)や洗礼です。禊は汚れを水で洗い清めることであり、洗礼はキリスト教徒として生まれ変わること。これらは神話や伝説に起源を持っています。日本では修験道で滝行をおこなっています。冷たく強い水に打たれることで精神修養をするのですが、肉体的にハードなので、没我体験を起こして自然との一体感を得られることもあるようです」

「雨の中でずぶ濡れになっていると普段の自分じゃなくなっちゃうってのはわかる」となつみが言った。「ドラマなんかでも、雨の中で濡れている二人って普段は言えないことを言っちゃうのよね。異常事態だから、つい本音を口にしてしまう」

「なつみさんもドラマ好きなんですね」

「恋愛ものとか大好きでよく見てます」

「うちも、母が見てるんで、つきあわされてつい見てしまいます。昔のドラマもレンタルでよく見てます」と早坂が嬉しそうに言った。「歌詞では、〈おいら〉は自らすすんで〈ずぶ濡れ〉になっています。〈おいら〉が人間関係において精神的に打ちのめされていることが〈ずぶ濡れ〉という比喩で語られていると同時に、〈おいら〉は雨に打たれることでこれまでの過去を雨によって洗い流し、過去を切断し、生まれ変わり、それまでの自分を超えようとしているように見えます。雨は精神的なダメージとその乗り越えを同時に意味していると思います。〈おいら〉は変化の過渡にあるように見えるのです。

 それは「虹」というタイトルにも暗示されています。旧約聖書にあるノアの方舟(はこぶね)の物語では、四〇日続いた大洪水のあと、神は今後このような大洪水は起こさないと約束し、その証(あかし)として空に虹をかけました。大洪水は地上に増えた悪い人間たちを一旦リセットするために神が起こしたものです。洪水によって地上は洗い流され、生き延びたノアの家族や動物たちは、いわば生まれ変わった人類です」

「約束の証が虹っていうのは洒落てるわね」と香織が言った。「私たちが虹を見るときも、雨に耐えたご褒美っていう感じがする」

 早坂の話を聞きながらうなづいていたなつみが思い出すように言った。

「何年か前に見た『ノア 約束の舟』っていう映画でも最後に虹がかかっていました。ノアがちょっと理解できない人に描かれていて、楽しくなかったけど」

 

3

 早坂はテーブルの上のチョコレートを一つほおばり、生ぬるくなったペットボトルのお茶を一口飲んだ。他の者もてんでに菓子をつまんだ。なつみは「このチョコおいしい。どこで買ったんですかー」と目を輝かせて、パッケージをひっくり返して眺めていた。西が「ふぁーっ」と大きなあくびをして両手を伸ばした。煙草を吸いに外に出ていた香織が部屋に戻ってきた。いぶしたような匂いを身にまとっている。

「歌詞をこまかく読んでいきましょう」

 小休止のあと早坂は再開した。

「まず、タイトルの「虹」ですけど、さきほども少し議論になったんですが、虹は歌詞の中には出てこないですね。歌詞の視点は街に膠着していて、空には虹がかかっていないとしても、それを雲の背後に潜在性として感じることで、街の背景に奥行きや広がりが出ます。

 歌には、タイトルにある言葉が歌詞の中でも使われているパターンと、タイトルにある言葉が歌詞の中では使われていないパターンがあります。歌ができる経緯を考えれば、タイトルがまず頭に浮かんでそこから歌詞を書き始める場合と、歌詞を書いてからその中の印象的な言葉をタイトルにもってくる場合、それと歌詞の全体的な雰囲気から歌詞の中にはない言葉をつける場合が考えられます」

 尾崎ファンである山口が自分の出番とばかり、解説をはじめた。

「尾崎の場合、最初は、タイトルにある言葉が歌詞の中でも使われているというシンプルなものが多かったんですが、そうでないものも増えていきます。タイトルは歌詞と少し離れていたほうがヒネリが感じられてカッコいいです。中には謎解きを要するようなわかりにくいタイトルもありますが、この歌は〈雨が上がるのを〉待っているという最初の一行でタイトルの意味はわかります。

 尾崎の歌のタイトルは比較的わかりやすいですよ。「BOW!」「卒業」「存在」「シェリー」「彼」「核」「LIFE」「時」「理由」「KISS」「COOKIE」「FIRE」など、単語を一語置いただけのシンプルなものも少なくないです。「虹」もこの系列にはいりますね。「虹」のように漢字一字のタイトルは、「彼」「核」「時」があります。漢字一字に高い象徴性が負わされています」

 スマートフォンをいじっていた西が、画面を見せながら言った。

「今、スマホの歌詞検索サイトで調べたら、Jポップには漢字一字の〈虹〉というタイトルの歌はざっと数えただけでも五〇曲以上はあった。「桜」というタイトルも多いけど、それより多い。桜の花びらと虹に共通するのは、その存在は鮮烈だが、それを目にできる時間が短いということだ。綺麗だがはかないものである。はかないから日常化しない。だから人は惹きつけられる。「虹色~」というタイトルも多いし、同じように「桜色~」というタイトルも多い。両方とも日常を超えた不思議な感じをもたらしてくれるものという共通点がある」

「虹というタイトルが桜のそれより多いのは意外でした」と、早坂が少し驚いてみせた。

 西は即興の思いつきをそれらしく仕立て上げて喋るのが得意だ。さらにその場で思い浮かんだであろうことを続けた。

「もしこの歌のタイトルが「虹」ではなく「雨」とか「雨上がり」「灰色の街」とかだったらどうだろう。そのほうが歌の内容に即している。しかしそれでは展望が開けない感じだし、内容とタイトルが「つきすぎ」ている。「つきすぎ」というのは俳句の批評でよく使われる言葉なんだけど、一つの句の中に似たような題材を二つ入れてしまうことで結びつきがわかりやすくなって広がりが出ないってこと。この歌では、歌詞と関連はあるが直接には言及されない「虹」としたことで歌詞世界に広がりがでた。雨が上がっても虹がでるとは限らない。むしろ虹が空にかからないことのほうが多い。だから珍しがられる。雨が上がることと虹がかかることのあいだには飛躍がある。「虹」という歌では、雨上がりにおいて、たんに雨が「ない」というだけではなく、虹が「ある」という状態だというんだね。雨が止んだだけでは状況の遷移がはっきりしない。虹という区切りが必要だと言っているんだ。ちなみに、現象としては別物だが、虹と似ているものにオーロラ(極光)がある。見ることのできる場所が限られているだけに非日常の度合いが増す。オーロラは夢や神秘、ありえないものの象徴として使われている。虹よりフィージビリティー(実現可能性)が低いんだ」

 西という男は皮肉屋だが、議論を深めてくれるのでありがたい存在だと早坂は思った。もしかしたら嫌われ役をすすんで引き受けて議論を活発にしようとしているのかもしれない。だが、いつまでもタイトルにこだわっていては先に進まない。どうしようかと迷っていたら、いいタイミングで山口が発言した。

「雨や虹のほかにこの歌詞の印象を方向づけるものとして語り手の自称があります。語り手が〈わたし〉と言うのか〈俺〉と言うのかで歌詞のイメージが随分違ってきます。この歌での一人称代名詞、つまり語り手自身を指す言葉は〈おいら〉と〈僕〉が混在していますね」

「あ、ホント」香織が気づかなかったというふうに嘆息した。山口はちょっと得意な顔になって眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと上げた。

「尾崎の歌の一人称はたいてい〈俺〉か〈僕〉なんですが、〈おいら(俺ら)〉を使うものは他に「街の風景」「ハイスクール Rock’n’ Roll」「COOKIE」があります。これらは初期に作った歌です。他にも「秋風」「弱くてバカげてて」「酔いどれ」「もうおまえしか見えない」などデビュー前に作った歌で、アルバムには選ばれず、死後発掘されたものが〈おいら〉で語られています。つまり尾崎豊という書き手が選んだ一人称代名詞は当初〈おいら〉だったということですね。それではあまりに田舎くさいので〈俺〉や〈僕〉になっていったのでしょう。正式に世に出すものと決めた作品として〈おいら〉が使われているのは、「街の風景」「ハイスクールRock’n' Roll」という最初のアルバムに収録された歌と、「虹」「COOKIE」という後期のアルバム『誕生』に収録されたものだけです」

「そうね、男の人で自分のことを〈おいら〉なんて言う人は私の周りにはいないもの」お嬢様ふうのなつみが言った。

ビートたけしが「おいら」って言うよね。足立区の下町で育った人で、「おいら」は下町言葉だ」と西が補足した。

 山口は「なるほど」と頷いた。「尾崎は一九七〇年前後の幼少時代を練馬区で過ごしています。周囲はまだ田畑や原っぱが広がっていて、都市化されつつあったけど、まだ過渡の時期ですね。実は、「虹」と「COOKIE」のサビ部分の歌詞は、デビュー前の創作ノートに書かれていたものをそのまま利用したものなんです。だからそのとき使っていた〈おいら〉がそのまま残ったんですね。のちに「虹」となる詞は、当時のノートではこうなっていました。

 

  今日も雨があがるのを ずぶぬれで待つおいらさ

  ねえ あきれた顔をしないで 心のドアをあけて

尾崎豊『NOTES 僕を知らない僕 1981-1992』新潮社、二〇一二年、一九頁)

 

 このフレーズは、その後もノートに繰り返し現れますから、よほど気に入ったイメージだったんでしょう。だから〈おいら〉もそのままにしておきたかったんじゃないでしょうか」

「〈ずぶ濡れで待つ〉っていうのは大人らしくないと思っていたけど、やっぱりそうだったのか。〈ずぶ濡れ〉になるのは子どもなら半分遊びみたいなもんだ。でもそれを大人になってやると、かなり追いつめられたイメージに変わってしまう」と西は言った。

「そうですね。同じイメージを使うにしても年齢によって受け取り方が違いますね」と山口は応じた。「人称についてもう少し話しますね。二人称を見ると、「虹」では〈おまえ〉と〈君〉が混在しています。これは、〈ずぶ濡れで待つおいらさ おまえ呆れた顔をしないで〉、〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉と使われているように、「おいら/おまえ」「僕/君」がセットで使い分けられているんです。人称というのは単独で存在するものではないですから。必ず対他関係をともなっています。〈おいら〉という人称では、それにふさわしいまなざしで世界を見ている。だから〈おいら〉の目に映るのは〈あなた〉ではなく〈おまえ〉なんです」

 いかにも国語の教師を目指している山口らしい読み方だった。

 

4

 早坂がチラッと時計を見ると、始まって一時間ほどが過ぎたところだった。まだ歌詞の具体的な内容に入っていない。歌詞に限らず読書会で詩を読んだことはなく、この短い歌詞で二、三時間もたせられるかと不安だったが杞憂に終わりそうだ。

「歌詞を最初から見ていきたいんですけど、この歌は奇妙な始まり方をしていますよね。ここも山口さんが得意なところだと思うんですが、どうですか」

 

  だから今日も雨が上がるのを ずぶ濡れで待つおいらさ

  おまえ呆れた顔をしないで 心のドアを開けて

 

 早坂が振ってきたのを山口は引き取った。

「はい。冒頭に〈だから今日も〉とあって、たしかに不思議な始まり方ですが、理由は単純です。これはサビを頭に持ってきただけです。いきなり聴き手の心をつかむためによくある構成上の手法です。歌詞としては、倒置法と同じ効果を生んでいると思います。唐突に〈だから〉と始まると聴き手はとまどいます。〈だから〉という接続詞は、その前に理由となる文を必要とします。〈だから〉に続く文は、その理由を承(う)けて導かれた出来事が語られるはずです。けれど、この歌ではその前の部分が語られないまま始まりますから、聴き手は〈だから〉の前に何があったのか好奇心がかきたてられ、推測することになります。冒頭に置かれた〈だから〉は、聴き手をとまどわせると同時に歌詞の世界に引き込む力を持っています。たった一語で聴き手は、自動的に謎解きに参加させられるんです。ま、答えはすぐ後に続いてるんですけどね。つまり、相手の〈心のドアを開けて〉もらいたいから、ということです。おまえさんに心を開いてもらいたいから、おいらは雨の中で濡れたまま待っているのさ、呆れないでくれよ、ということです」

 山口を補足するように西が他の例を引いた。

美川憲一の「さそり座の女」(作詞、斎藤律子、一九七二年)は〈いいえ私は さそり座の女〉と始まる。いきなり〈いいえ〉だからね。これも、その前が気になるな」

 香織は「それはわかるんですけど」と、眉をひそめる。「「虹」の、この二つの文は〈だから〉で結ぶにはどうもしっくりこないんですよね。どうして、〈おまえ〉の〈心のドアを開〉けるために、〈ずぶ濡れ〉で待つという行為が選択されるのか。両者には順当な因果関係はありませんよね。〈だから〉の後に続く文は、理屈っぽい接続詞のわりには説明になっていないと思います。継起する関係がなぜそうなのか、さらに別の説明を必要とする内容です。わかるのは〈おいら〉の頑張りというか意地を見せているということだけです。〈ずぶ濡れ〉の自分を見せれば、かえって相手の心証は悪くなる(呆れる)とわかっているのに、〈おまえ呆れた顔をしないで/心のドアを開けて〉くれと言うんですから、相手の反応は無視して自分のやり方を押しとおそうとしているんです。〈心のドアを開〉けさせるにはいろんなやり方があるんでしょうけど、相手の反応にかかわらずそのやり方を変えない。〈おまえ〉に見せつけるためにやっているパフォーマンスなんですが、それが気味悪がられているのに自分は精一杯やっているからいいと思っている。ズレてることに気づいていないんです」

 自分の考えを率直に述べると辛辣に聞こえる、ということを香織は承知している。けれども迂遠な言い方に変換しようと配慮しているあいだに口が先に動いてしまうのだ。

「そう。そこに飛躍があるのに〈だから〉という接続詞が出てくる発想をしてしまうこの男の人が、私にはちょっと無理かなと思います。さっきも同じことを言ったんですけど」なつみが女子の意見という感じで言った。

「対話的でなく一方通行なんだな。昨今なら、サプラ~イズ! とか言ってびっくりさせるやり方があるけど、あのサプライズっていうのも相手の都合を考えてないよな。感動と驚きとを勘違いさせている。吊り橋理論みたいに。やられた方はありがたがるしかないだろ。〈おまえ〉も〈呆れた顔〉をする以外にない。でも〈呆れた顔〉を見れたということはドアを開けることに成功したということか」と言って、西は首をひねった。

「建物のドアではなく比喩としての〈心のドア〉ですからね。〈呆れた顔〉では〈心のドア〉は開いてないと思います」と香織は言った。

 西は素直に、そうか、と頷(うなづ)いた。香織は、ちょっと意外だといった面持ちで西を見て、さらに続けた。

「なんにせよ、この人のやろうとしているのは、相手が呆れようが何しようが、その強情ぶりに諦めて〈心のドアを開〉けさせることです。〈ずぶ濡れ〉になるのはそのための自虐的な演技でしょ。これは誠実で粘り強いというより相手のことを考えない自己中心的な性格の表れだと思います。境界例っぽいですね。〈だから今日も〉の〈今日も〉は女の人にとっては怖いですよ。毎日帰り道で待ち伏せするストーカーみたいに、この人は、昨日も一昨日もそうしていたのだし、おそらく明日以降も同じ事を繰り返します。変わった人だと〈呆れ〉られても、それを変えるつもりもまた、ないんです。それは、自分は相手に好かれているはずだ、相手は誤解しているだけだ、という根拠のない自信があるからでしょう」

「〈だから〉は、昨日もやった、だから今日もやる、という反復それ自体を理由にしているんじゃないかな」と、西は言った。

 なつみが香織のあとを引き継いで話しはじめる。

「女子的に引いちゃうのは〈ずぶ濡れで待つ〉というところです。小雨だったら、月形半平太じゃないけど「春雨じゃ濡れて行こう」ってのはカッコいいんですけど、〈ずぶ濡れ〉ってのは普通じゃない。そもそも〈ずぶ濡れ〉になってしまえば、〈雨が上が〉ろうが上がるまいがどうでもよくなると思うんですけど」

「ま、そうだね。雨の中での行為としてはふさわしくない。ふさわしくないところにメッセージが込められている。そこを読み取ってくれという歌だ」西が腕組みをして言った。「雨には雨のアフォーダンスがある。アフォーダンスとは、環境が人に与える、行為の可能性だ。たいていの人は雨に濡れることを嫌う。だから雨を避けようとする行動をとる。なぜ濡れるのを嫌うかというと、水は空気に比べたら熱の伝導度が二〇倍以上あるから、水に濡れたままでいると空気よりも大量の熱エネルギーが体から奪われてしまう。雨は人間の生活にとっては必要なものだけど、衣服を通してであれ人体に直接作用するのは嫌だから、雨を避けるために傘をさしたり、外出を控えたりする。〈ずぶ濡れ〉が続く状態は、体温が落ち生命力が弱っている状態だね」

 早坂は言葉の問題に引き戻した。

「〈今日も〉と〈ずぶ濡れ〉はどのように待つかを表していますね。今日も待っている、ずぶ濡れで待っている。〈ずぶ濡れ〉で待とうがどうしようが、それが〈雨が上がる〉ことに影響を及ぼすことはない。科学的には因果関係はない。しかし呪術的な行為としては、〈ずぶ濡れ〉で待つことが気象に影響を与えうる。それは「祈り」あるいは「儀式」のような行動です。この雨はたんに気象としての雨ではないですから、〈ずぶ濡れ〉で待つことは気象に働きかけうるんですね。

 表面的な物語は、自分は雨に濡れて外で待っているんだから家のドアを開けて中に入れてくれということです。そういう物語として読むことができる一方で、アレゴリーとして明らかに別のことも意味しています。雨や虹は、たんなる気象現象ではなく別のものの比喩です。それが何かはわかりやすい。歌詞でずっと歌っているのは「心を開くこと」です。「雨=心を閉ざした状態」「虹=心を開いた状態」ということです。心の持ち方を問題にしている。ただ、ここでは閉ざされているのは〈おまえ〉の心とされていますが、実は、心を閉ざしているのは〈おまえ〉だけではないんですね。自分もまたそうなんです。それはまた後でふれることになると思いますけど。

 比喩とはいえ、〈ずぶ濡れ〉で待つことには、尋常さを超えた思い込みの激しさがあります。〈ずぶ濡れ〉というのは自分なりの誠意です。そこまでやっているのだから〈心のドアを開けて〉くれという交換を暗黙のうちに要求しています。あるいは、〈ずぶ濡れ〉でいる滑稽さは、雨の岩戸の奥に隠れた〈君〉という天照大神を誘いだすために岩戸の前で滑稽な踊りを踊ったアメノウズメのようにも見えます。道化を演じていますね。

 この歌では〈ずぶ濡れで待つおいら〉のことが歌われていますが、もう一人の登場人物である〈おまえ〉がどういう状況でいるのかよくわからないままです。おそらく濡れてはいないでしょうね。自分は〈ずぶ濡れ〉であるが、〈おまえ〉はこの雨で濡れてはいない。その非対称を告発しているのかもしれない。〈おいら〉は誰も見ていないところで〈ずぶ濡れ〉になるのではなく、その姿を〈おまえ〉という観客の前にさらしているのです。〈ずぶ濡れ〉になることはナルシスティックに自己憐憫の感傷にひたるという意味もあるでしょうが、それだけではなく、濡れた姿を〈おまえ〉に見せつけることで、雨に打たれた子犬を目にしたときのような哀れさの感覚を相手にもよおさせるんです」

「演劇的だよな」西が口を挟んだ。「俺は、ニーチェの言うキリスト教的な論理を連想した。雨に打たれた弱者を装い、恵まれたところにいる相手に心理的な負債を負わせる。負けているほうが強い。相手に直接はたらきかけるのではなく、自分が被害者になることで間接的に相手を操作しようとしている」

「そこまでの解釈は深読みすぎませんか」と山口は言った。「ただ、相手の拒絶や見捨てられる恐怖から自己破壊的な行動をとるのは、境界性パーソナリティ障害の特徴のひとつで、尾崎にはその傾向があると指摘する精神科医は何人かいるので、それが歌詞に反映していると言えなくもないですけど。どうなのかな」

「ちょっと歌詞からは脱線しますけど、ずぶ濡れでたたずむ姿は尾崎っぽいなと思います」と早坂が言った。「何年か前に、『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』というドキュメンタリー映画を見たんです。1987年に熊本県の野外劇場で夜通し行われたロックフェスで、7万人の観客を集め、記録的な豪雨のなか行われたイベントとして知られています。尾崎も深夜2時ころ出演して、その時が雨量のピークでした。歌っているアーティストはもちろん観客もずぶ濡れですが、尾崎にぴったりのシチュエーションだなと思いました。それでもフェスは貫徹され、観客がひけて最後に泥だらけのくぼんだ足跡が無数に残っているのが印象的でした。これは災害だなと」

「歌謡曲って雨の歌が多いですよね」と香織が言った。「うちのおじいちゃんが好きだっていう歌は戦前戦後に流行ったものなんですけど、「雨に咲く花」「小雨の丘」「雨のブルース」「或る雨の午後」「雨の夜汽車」「雨のオランダ坂」とか、雨のナントカっていうタイトルがいくつもあります」

「感傷的な歌が多いですからね」と山口が言った。山口はタブレットを操作して、「雨のなかでもすごい土砂降り(どしゃ降り)という言葉を歌詞に使っている歌を検索したら900曲近くありました。昔の雨の歌は、悲しいけど思い出になっているぶんおだやかなものが多いですが、土砂降りというのはもっとはげしい感情とセットになっていて劇的なシーンを想像させますね」

「一番印象的なのは和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」かな」と西が笑った。「和田アキ子のイメージでは普通の雨ではもの足りない」

 

5

 一休みしたところで早坂は続けた。

「歌詞では、雨の様々な様態が写生されています。まずは〈街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨〉と全景が捉えられ、次いで〈小さな雫が瞳の中に落ちてくる〉と微視的に捉えられます。映画のカメラワークふうに言えば、街全体を写すロングショットから一気に特定の個人の顔にクローズアップしています。

 雨粒は、宙空を落ちて地面にたどりつく前に、物に接触してその様態が雨粒から流体に変わります。それを〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉と描写し、最後に地面に到達して〈水たまり〉になって、雨とは別な状態をさすものになります。〈落ちてくる〉〈こぼれた〉〈流れてく〉〈水たまり〉。空から落ちてきた雨が地面に落ちて雨でなくなるまでの過程を観察して丁寧に描いています」

「尾崎は短歌をやっていたので言葉による外界の描写に長けているんでしょう」と山口が補足した。

「歌詞のこの部分をさらにこまかく見てみます」早坂は続けた。「〈街中(まちじゅう)を銀色に染めてゆくこの雨〉とあります。歌のタイトルが「虹」なので、この歌はどこかカラフルな感じを先入観として持ってしまうんですが、歌詞には、色に関しては〈銀色に染めて〉とか〈灰色の空〉とあるだけです。銀色も灰色も同じです。鼠色、薄墨色、鈍色(にびいろ)などいろいろ呼び名はあるけど、色とついてはいても彩度はなく明度があるだけです。そうした色のない世界ではありますが、雨が上がることによって、潜在的に虹を隠し持っている世界ではあります。雨に覆われた街は全体が灰色に塗り潰されていますが、雨が上がり、虹がかかるときは、街を包むように大きな七色の橋をかけることになります。街がモノクロがカラーに変化するんですね」

 西が何か言いたそうな顔をしたので、早坂は「どうぞ」と促した。

「〈銀色の雨〉とか〈銀の雨〉とか、雨を銀色に喩えるのはよくある。さっき出した「黄昏のビギン」もそう。サトウハチロー作詞の「古き花園」では〈雨の色はいぶし銀〉。雨の色については、〈水色の雨〉とか〈透明な雨〉という歌詞があるけど安易だろ。それに比べたら、〈雨はふるふる城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる〉という北原白秋の「城ヶ島の雨」は大正時代に作られたものだけど、雨の色ひとつとっても名作と呼ばれるものはよく考えられている。利久鼠というのは灰色のことで少し緑色をしている。城ヶ島を散歩していた白秋が、雨にけぶる木立(こだ)ちを見てその色名を取り入れた」

「そうですね」と早坂は引き取った。「銀色の雨というのは都会的です。雨の色は背景の色に影響されるから、高層ビルやピカピカしたものが多い都会では銀色と言いたくなる。白秋が木の緑を背景にした雨を利休鼠と言ったように。なんにせよ、言葉でも絵でも雨の表現は難しいですね。同時にヴァリエーションもある。『雨のことば辞典』というのがあるくらいです。

 さて、「虹」に話を戻しますね。〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉とあります。傘は雨から身をかばうためのものですが、その傘を閉じている。一方、森昌子の「せんせい」(作詞、阿久悠)には、好きな先生を見送るのに〈傘にかくれて 桟橋で〉とあります。このとき傘は自分のからだを人目から隠す役をはたしています。いずれにしても、傘は、自分の身体を直接外界にさらさないように守るためのものです。雨に象徴的な意味があったように、傘も別の意味を持っています。「虹」では、後段で〈嘘の痛み〉〈人波に心許せず〉とあるように、傘というのは他人の冷たさから自分を守るバリアなんです。その傘をささないでいるというのは無防備な状態です」

「〈閉じた傘〉というのは誰の傘なの? 〈ずぶ濡れ〉でいるはずの〈おいら〉が傘を持っているのはおかしいよね」と西が口を挟んだ。

 早坂はそう言われればそうだ、と思った。それで「他人の傘のことを描写しているんですかね」と答えた。西は続けた。

「〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉と細部を描写するんだから、近くにある傘を見ているということだ。でも、こんな〈ずぶ濡れ〉でいる人の近くに他人は寄ってこないでしょ。だからこれは自分の傘じゃないかな。そうすると、この人はよっぽど変な人ということになる。傘がなくて濡れたままでいるのなら、濡れることは気にしない豪胆な人だという理解もできなくはないけど、傘があるのにそれを閉じたままにして濡れるに任せているとしたら、その人は何かの理由で一時的に茫然自失しているのか、あるいは日常生活においても適切な行動ができない人なのか、はたまた何か目論見があってそうしているのか、いずれかだろうね。〈ずぶ濡れ〉でかまわないんならどこかに傘は置いてくればいいのに、そうしないで、あえて傘を手に持ったまま開かないでいるとしたら、そこから何らかの意味を読み取らざるをえない。〈ずぶ濡れ〉でいることじたい普通じゃないのに、その人が傘を持っていたらよけいおかしいでしょう。周囲の人はその人を避けて通るだろう」

「ここは雨があがったということを意味してるのかもしれません。歌詞の行論上では飛躍がありますけど、雨があがったから傘を閉じたのだと」と早坂は言った。「しかもその雨はあがったばかりだということがわかります。〈閉じた傘〉というのは閉じる動作がおこなわれた直後の傘であり、その前まで傘は開かれていたということです。それを裏づけるのは〈閉じた傘からはこぼれた雨が流れてく〉という描写で、たった今、傘を閉じたばかりだから、傘についていた雨が流れ落ちているんです。それと、西さんの言うように、この傘は本人のものである確率が高いんでしょう。そうすると、傘を開いていたのに〈ずぶ濡れ〉になっていたという矛盾が生じます。

 大事なのは、傘が閉じられたということが指し示す状況です。普通、傘を閉じるというのは、雨がやむことを意味しています。軒下に入って雨宿りしたから傘を閉じたということも考えられますが、それならそうした場面の転換を意味する表現が入ってもいいはずですが、それがないので、たんに雨がやんだと解釈するのが自然だと思います。この歌では、雨がやんだと説明せずに〈閉じた傘〉を描写することで雨上がりを暗示させ、そのあとに出る虹へと期待感を持たせているんだと思います。

 〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉というのも雨上がりを意味しています。雨が上がって路面に水たまりが残されたんですね。水たまりに君が映るには、水たまりが鏡面のように澄明になっていなければなりません。雨が降っている状態では、波紋ができて水たまりの水面は乱れてそこに〈君〉は映らない」

「おっと、そこは俺に喋らせてくれよ。予習してきたところだからさ」

 早坂の独演がまだ続きそうなので、西が遮った。西は、あとはまかせろ、とばかりに鼻を指でこすった。

 早坂は、どうぞ、と機械的に応じた。

「〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉というこの部分はさ、この歌で最も不思議なところだよ。〈水たまりに映った君の影〉とあるけど、この〈影〉は何のことを言っているのかね。影というのは、〈君〉が陽の光を遮(さえぎ)ることによってできる影のことなのか。しかし〈君〉が〈僕〉の近くにいた形跡はないから、陽の光を遮る影はできようがない。また、もし〈君〉が近くにいたとしたら、生身の〈君〉を無視して〈君の影が僕の心を開く〉などとも言わないだろう。ということは、この〈影〉は、影のもう一つの意味、ぼんやりした姿としての影なんだよ。古賀政男の「影を慕いて」の「影」もそうだね。また、水や鏡に映った姿のことも影という。〈君〉が〈僕〉の近くにいたとは思えないから、水たまりに映ったのは現実の〈君〉ではなく、その幻影なんだろう。いずれにせよここでいう影は、〈君〉のことを思い出すきっかけとなる像のことだ」

 西はペットボトルのお茶を一口ぐびっと飲んで続けた。

「ここでの〈君〉には生身の実体はない。プラトンの洞窟の比喩、イデアとその影のような映像だ。実体ではなく映像。水たまりの表面が鏡となって〈君〉の幻の姿を映しだした。鏡には古来、神秘的な力が宿るとされてきた。神話・伝説・昔話、現代の怪談や空想物語にいたるまで、鏡は不思議なアイテムであり続けている。鏡は異次元への入り口であったり、人の無意識の願望を映しだしたりする」

 なつみは、魔法少女のアニメの名前をいくつか挙げて、「女の子と鏡は切っても切れない」と力説した。早坂は、男の子向けの作品にも鏡が使われているとして『ミラーマン』や『仮面ライダー龍騎』は鏡の世界を経由して変身する、あれは異次元の隠喩なんです、と言った。そして『鏡の国のアリス』を付け加えた。香織も、「怪談で、鏡を見ると幽霊が映るっていうのがあるじゃない。あれ怖いよね。学校の大きな鏡とか」と肩をすくめてみせた。鏡は映像になじみやすいね、という話になった。

 西は、『イグアナの娘』を例にして、「鏡には自己の本質が映される」と言った。『白雪姫』でも鏡は、現実世界のたんなる反射板ではなく、鏡を見る人の思い込みを超えた真実を語るという。

「話を戻すと、この歌では、〈僕〉は〈君〉の姿を望んでいた。だから水たまりという小さなスクリーンに〈君〉の姿が幻影のように映ったんだ。水たまりという魔法の鏡に映された〈君の影が僕の心を開く〉。ホンモノの〈君〉は〈心のドアを開けて〉くれそうにない。それで代替物として〈水たまりに映った君の影〉が要請された。雨上がりにできた水たまりに映る〈君の影〉は、最終的に待ち望まれるものとしての虹の前兆だ。面白いのは〈君〉に〈心のドアを開けて〉くれと言っている一方で、ここでは〈僕の心〉が開かれたと言っているんだよね。実は〈僕〉も〈心のドア〉を閉ざしていたんだね。でも〈僕〉はそれを〈水たまりに映った君の影〉で、つまり自分の想像力で解決できた。今度は〈君〉だ、ということだ。

 それと、ここでは〈君〉を映し出す魔法の鏡が、水たまりという小さくつまらないものであるところに、〈僕〉のうらぶれた感じがでている。〈君〉がドアを開けて〈僕〉を受け入れてくれたら、そんな水たまりは必要ないんだけど」

 西が言い終えたところで、腕組みをして聞いていた山口が首をかしげながら言った。

「なんか、随分曲がりくねった解釈だなあ。言ってることはわからないでもないけど、そんなに混みいったものなのかな。〈影〉という一語にそんなに複雑な意味を込められたら、それを歌という一瞬耳に入って過ぎ去ってしまう言葉として聴かされるほうは認知的な負荷がかかりすぎるんじゃないですか」

 山口をチラッと見て、西は答えた。「尾崎がどこまで考えて書いたかわからないよ。無意識に出てきた言葉だろうね。でもそこには言葉の来歴が複雑に折り重なっていて、本人の意図を超えたものになっている」

「詩の言葉をどこまで厳密に解釈するかっていう問題になりますね」と、香織。

「え、その解釈を楽しむ場じゃないの、ここは」と、西があきれた顔で言う。

「西さんの解釈は一応筋が通っているから、それはそれでひとまずいいと僕は思うけど」早坂は言った。「僕も面白いと思ったのは、さっきまで〈ずぶ濡れ〉になった〈おいら〉が〈おまえ〉に〈心のドアを開けて〉くれと言っていたことを議論してきたのに、西さんの言う通り、ここでは、〈水たまりに映った君の影が僕の心を開く〉とあって、実は自分も心を閉ざしていたのだとわかります。一体、開かれるべきなのは、「君の心」なのか「僕の心」なのか、それとも両方なのか。自分が心を閉ざしているのに、相手には心を開けと促しているのはちょっと変ですね。

 〈心のドアを開けて 心を開いて〉と〈僕〉は〈君〉に言っていたけど、それは、「僕を受け入れるために心を開いてくれ」ということでしょう。でも、そういう〈僕〉の心もつい先程までは閉ざされていて、〈君〉を受け入れる用意はできていなかった。水たまりの〈君の影〉で〈僕〉の心は開かれ、〈僕〉は〈君〉を受け入れる準備が整ったから、次は〈君〉の番だと。

 いずれにせよ確かなのは、それが〈君〉であれ〈僕〉であれ、心を開くには自分一人では不可能で、相手を必要とすることです。それが幻影だとしても。〈君の影〉を見て〈僕〉の心は開かれ、〈おいら〉の〈ずぶ濡れ〉の姿を見せて〈おまえ〉の心を開かせようとする」

「変わるには自分の内側の力だけじゃダメってことね。外から力をもらわないと」と、なつみが呟(つぶや)いた。

 

6

 山口が片手を立てて早坂を拝んだ。

「僕、久しぶりに参加したのにあんまり喋れてないんで、ここからちょっと自分に時間もらえないですか」

「山口さんの出番を削いではいけないね、どうぞどうぞ」早坂は山口に場を任せた。

 山口はペコリと頭を下げ、タブレットと皆を交互に見ながら話した。

「歌詞の残りの部分を読んでみたいと思います。

 〈優しさだけなら素直にもなれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする〉

 さきほどの雨降りの写生とは異なり、抽象的な表現が並んでいます。これは対句的ですね。素直になること=心を開くことで、心が冷たいこと=心を閉ざすことです。〈優しさ/嘘〉〈素直/心が冷たい〉という二項対立でできています。ここにあるのはぼんやりした曖昧な気分ではなく、割合単純で明瞭な心の構造です。心の動きの因果関係は、「優しさがあると↓素直になれる」「嘘があると↓心が冷たくなる」と、わかりやすいんです。〈僕〉という人間はセンシティブで扱いにくい人間のように思われているかもしれないけれど、本当はわかりやすい人間なんです。でも、だから両極端に針が振れやすいとも言える。〈僕〉の気に入るようにしてくれればご機嫌で快活だけど、気に入らないとたちまち塞ぎこんでしまう。

 続く歌詞はもう少し複雑になります。〈君〉という要素が加わるからです。

 〈灰色の空の様な冷たさに震えてる 人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい〉

 〈僕〉を凍えさせているのは雨に包まれた街、無関係な他人があふれている街という外部の環境です。〈僕〉は冷たい街に抗いがたく、それと同化しつつあります。でも〈君〉への思いが熱源になっているので、まだ冷えきらずにすんでいる。ただし、暖かいのは〈君〉そのものではなく、〈君を思う心〉なんですけどね。

 心を軸に読むと、歌詞の一番では、心は「開く/閉ざす」という空間の比喩で語られていましたが、二番では「暖かい/冷たい」という温度の比喩になっています。嘘が〈心を冷たくする〉、見知らぬ人の群れには〈心許せず〉、他方、〈君〉を思う〈心だけが暖かい〉となっています。冷たさに関わるものは「嘘、灰色の空、人波」であり、暖かさに関わるものは「優しさ、君への思い」です。

 尾崎の歌には、〈人波〉という言葉が自分に無関係に存在している人たちのこととしてしばしば出てきます。〈人波〉は物理法則のように動いているだけで、〈僕〉に関心のあるまなざしを向けるわけではありません。〈僕〉は彼らにとって物のような存在だし、彼らも〈僕〉にとって物のような存在です。「十七歳の地図」には〈人波の中をかきわけ〉と、人の群れをまるで物のように描いています。都会は大勢の人がいるのに、その殆どが自分と無関係な顔のない人達です。そんな中で手応えのある特定の人として際立った存在であるのが〈君〉なんです」

 まだまだ続けそうな気配の山口を遮り、「もうそろそろ時間だろ。最後、締めくくらせてもらってもいいかな」と、西が言った。「こんな短い歌詞でも書き手の性格はにじみ出るし、ものの考え方が反映されるものなんだな、というのは今回勉強になったよ。〈君を思う心だけが暖かい〉とあるけど、尾崎の歌詞が不思議なのは、普通は〈君〉の〈僕〉への思いが〈僕〉の心を暖かくする、と言いそうなところを、そうではなく〈君〉を思う〈僕〉の心が暖かいと言っているところだ。これはさっき山口君も言っていたね。〈君〉の心は知りようがないからなのか、自分の心について述べているだけなんだな。現実の〈君〉は、心を閉ざし〈僕〉を拒むような存在。しかし〈君を思う心だけが暖かい〉という歌詞は、〈君〉がどう思っているかはともかく〈僕〉の心の在り方だけを問題にしている。〈君〉はあくまで意識の向かう先に過ぎない。問題にしているのは〈僕〉の心の志向性についてだ。ここにあるのは自分のことだけだ。この人は最初から最後まで自分のことだけを考えている。現象学的なんだな。現象学は世界の成り立ちを自分の意識に還元する。〈君〉に心を開いてくれといってもそれは〈君〉が精神的に豊かになるためにそうしたらいいというのではなく、〈僕〉の依存対象として必要だからだ。歌詞をよく読むと利己的なのに、聞き流しただけでは利他的に聞こえる。

 早坂くんは始めのほうで、語り手である〈僕〉は生まれ変わりの苦しみの中にいるが、それはうまくいかないであろう、と言ったね。〈君〉を触媒にしようとしたけど、他人を動かすのは難しい。やり方も間違っている。歌詞を最後まで読んでも、〈僕〉が能動的に何かをやることはない。〈君〉に心を開かせるために、ただ〈ずぶ濡れで待つ〉という、雨に濡れた子犬のような哀れさを誘う作戦だ。随分、子どもっぽいと思ったな。

 それに、自分のためにドアを開けてくれと言っているのに、〈君〉を閉じこもっている状態から救い出そうとしているかのような錯覚を起こさせる、ねじれた歌だと思ったね。ユング派に「傷ついた治療者」という言葉があるけど、この人はそのようにふるまおうとしているんだろうか。ピア的というか。尾崎自身も聴き手にとってそういう存在なのかもしれないな」

「人によって、いろんな解釈があるもんですね」と、山口が閉口気味に言った。

 早坂がスマートフォンで時間を確認すると五時半になるところだった。開始して二時間半になる。女性陣は疲れた顔になっていた。これで締めようと思い、西の毒舌を中和するため、最後にフォローした。

「歌は、正義や善や健康さといった喜ばしいものばかりを歌うだけではないですから、こういう歌があってもいいと思います。この歌は、タイトルが与えるイメージや、しっとりと歌い上げる歌い方だけで理解していると、歌詞に注目したときに意外性を感じるものになるかもしれません。そういう歌だということがわかりました」

 読書会を終えて五人は外へ出た。既に雨は上がり風もやんでいた。街灯に照らされた道を、駅に向かって歩いていった。薄闇になった空には、虹ではなく月が浮かんでいた。

 

     *

 冒頭で「よく知られていない歌のほうが尾崎豊という強烈なキャラクターから離れてテキストそのものに向き合えることができるだろう」と書いたが、結果的に、テキストから浮かび上がってきた作中人物像は、書き手によく似た人物だった。おそらく尾崎の書くほとんどの歌がそのようなものであろう。

Official髭男dism「Pretender」V.S.King Gnu「白日」 勝つのはどっちだ!

 さあ、今ここに前代未聞の白熱バトル、「Official髭男dism 対 King GnuKing Gnu)」の一大決戦が幕を開けようとしています! 絶大なる人気をほこるビッグネームどうし、その優劣を競い合うというから聞き捨てなりません。

 登場するのはお互いのファンを自認する二人の女性。ふだんはおしとやかであろう彼女たちですが、舌戦のリングに上がったとたん、なりふりかまわぬ大激戦、死闘を尽くしたガチンコバトルとなるでしょう。対戦の結果、軍配はどちらに上がるのか! 今まさに開幕の火蓋が切って落とされようとしていますっ!

 えー、その前に簡単にルールをご説明申し上げておきます。決戦の対象となるのはOfficial髭男dismは「Pretender」、King Gnuは「白日」、この二つの大ヒット曲についてとなっております。しかも、いずれも歌詞についてのみ論じるという、いささか変わった趣向となっております。

 この2曲はいずれも2019年上半期にそれぞれ映画、テレビドラマの主題歌として発表され、人気が接戦、You Tubeの視聴回数はどちらも3億回弱と拮抗しております。まさにライバル、火花を散らし、切磋琢磨しあう運命のもとに置かれています。

 さーあ、それでは、今まさに決戦のゴングが鳴り響こうとしています。宿命の対決、いざっ!

 

1

「カーーーーン!」

--張りつめた空気を切り裂くようにゴングが会場内に鳴り響きました。まず序盤の口火を切ったのは、Official髭男dismのファンのようです。さあ、どう攻めてくるんでしょうか。

Official髭男dism支持者(以下、ヒゲ)■はぁー、もうやってらんないわ。なんなのこの対決。ヒゲダン対ヌーって。お前は口が達者だから行ってこいって言われて仕方なく来たんだけど、やる前から結果わかってるじゃん。歌詞なんてぱっと見れば「Pretender」の方がいいってすぐわかるじゃない。

--おーっと、ヒゲダン派、これは挑発でしょうか、いきなり溜息をついています。しかも早々に勝利宣言です。よほど自信があるんでしょうか。

King Gnu支持者(以下、ヌー)□なに言ってんの。「白日」の繊細さはおたくにはわからないでしょうよ。あんたみたいなガサツな人にはヒゲ面がお似合いよ。

ヒゲ■ヒゲダンでヒゲを生やしている人はいません! インパクトを与えるためにつけた名前よ。ヌーのほうこそ、常田も井口もヒゲ面じゃん!

--おーっと、King Gnu派、オウンゴールを入れてしまったのかーー!

ヌー□フン! ヒゲダンのくせにヒゲを否定するんじゃないわよ! 自分のバンド名に嘘があるってことでしょ! とっちらかった名前で、Officialもそうだし、いちいち意味がないのよ。漫才コンビ髭男爵と勘違いするじゃない!

ヒゲ■なによ! ヌーだって大集団でわけのわからない大移動するっていう特徴しかないくせに! それで川に入って溺れ死ぬんでしょ! どうせならレミングにすればよかったじゃない。そのほうが可愛いわよ!

--あのー、バンド名のディスりはそのくらいにして、歌のほうにはいっていきませんか。ちなみにわたし、実況中継と同時に進行役も兼ねておりますので、随時口をだしていきます。ご容赦ください。

ヒゲ■そうね。じゃあ「Pretender」からいくわね。この曲は『コンフィデンスマンJP -ロマンス編-』っていう詐欺師が主人公のコメディ映画のために書かれたもの。英語のpretenderは何々のふりをするっていう意味。つまり詐欺師がそうよ。ちゃんと映画の内容にあわせた歌になっている。

ヌー□『コンフィデンスマンJP』って、あの呪われた映画でしょ。出演者が次々不幸になっていくという。やっぱり詐欺にいいも悪いもないわね。義賊をきどるんじゃないってこと!

ヒゲ■映画じたいは面白いから関係ないでしょ! 現代の日本で呪われたの何だのって、ファラオの呪いじゃあるまいし、あなた迷信家なの?

ヌー□点と点があればつなぎたくなるものよ。

ヒゲ■もういいわ。それで「Pretender」の歌詞はお芝居と観客の比喩で語られているの。恋が始まったと思ったけど結局お互いの〈ひとり芝居〉で、自分は相手と舞台を共にできず遠くから見ているだけの〈観客〉だったって。一緒に恋愛の舞台を演じられないのよ。

歌詞→https://j-lyric.net/artist/a059eab/l04bae4.html

ヌー□ん? 芝居をやっている役者? 見ている観客? どっちなの? 比喩が混乱してない?

ヒゲ■相手が一人で芝居をやっているときは自分が観客になっているっていうことね。

ヌー□ふーん、まあいいけど。でも、自分が恋愛の当事者なのに、それを他人が演じるお芝居のように見ているってどうなのかな? 「Pretender」って他人事みたいな恋愛ってこと? 本当の恋愛はしないの?

ヒゲ■違う違う。これは恋愛の中間地点でいったん総括してみたらこうだったってこと。どうやら悲しい経験に終わりそうだけど、それを受け入れる時にどういう枠組みを使うか試みているのよ。自分も相手もそれぞれ演者で、客席の側からみたら自分はどういうふうに見えるか。相手はその気がないのに、自分は夢中だったら滑稽でしょ。それがわかったから、それ以上のめり込まないように身を引く。

ヌー□少し距離をとって客観的に見るっていうことね。

ヒゲ■離れたところから見る視点というのは、この歌には他にもあって、〈誰かが偉そうに 語る恋愛の論理 何ひとつとしてピンとこなくて 飛行機の窓から見下ろした 知らない街の夜景みたいだ〉とあるのね。〈飛行機の窓から見下ろした 知らない街の夜景みたいだ〉ってものすごい俯瞰だけど、これだけ距離をとるともう自分とは無関係って感じね。

ヌー□今不覚にもちょっと面白いなと思ったのは、どの時点で距離をとるかということ。この歌は「終わってしまった恋愛」をあとから眺めて感傷にひたっているのではなく、現在進行形の恋愛なのに、その途中でもう恋の行く末を見通して〈君の運命のヒトは僕じゃない〉って諦めている。潔いといえば潔いけど、傷つきたくないから早めに身を引いたという感じがする。〈繋いだ手の向こうにエンドライン 引き伸ばすたびに 疼きだす未来には 君はいない〉ってかなり先を透視してるわね。先のことを考えすぎると臆病になる。

ヒゲ■この男の人は素朴さに憧れている。〈いたって純な心で 叶った恋を抱きしめて 「好きだ」とか無責任に言えたらいいな〉ってあるけど、そうはできない自分ってことで、恋愛とは何か、僕にとってキミとは何かって、いろいろ考え込むタイプ。〈無責任に言えたらいい〉というのは、無反省に言うということだから、自分にいちいち距離をとらないでスパッと言っちゃえたら気楽でいいのになということね。

ヌー□〈でも離れ難い〉って言ってるから、すぐ別れるわけでもなさそうだけど。わからない状態のまま、もう少しダラダラ続きそう。

ヒゲ■そうね〈君の運命のヒトは僕じゃない〉とは言ってるけど、「僕の運命のヒトは君じゃない」とは思っていないわけだから。結局は破綻するにしても、それまでズルズルいきそう。

ヌー□この歌では女の人が実は何を考えているか全然わからない。男性視点だけなので、どこがダメだったのかわからない。〈感情のないアイムソーリー それはいつも通り 慣れてしまえば悪くはないけど〉ってあるでしょう。これは彼女に「これ以上つきあえません、ごめんなさい」って断られたってことかな。〈それはいつも通り〉というのは、ふられ続けるのが〈いつも通り〉のことなのか、それとも彼女の〈感情のない〉態度が、彼女のいつもどおりの態度ということなのか。ふられ続けるとしたらコメディになってしまうから、彼女の態度ってことかな。〈慣れてしまえば悪くはない〉とあるから、彼女はいつもそういう態度で接してきたのね。だから未来はなさそうだと思ったのかな。

ヒゲ■お試し期間が終わってさよならされたってことみたいね。それにしては思い込みが激しいところがある。〈それもこれもロマンスの定めなら 悪くないよな〉とあるけど、そんなつれない態度の女性に対して思い込みが強すぎる。この〈ロマンス〉っていうのは映画のタイトルが「ロマンス編」なのでその引用でしょうけど、ここでは起伏のある恋愛っていうほどの意味でしょう。〈運命〉とか〈ロマンス〉とかいささか大げさな言葉遣いをして、ひとつの物語として自分の恋愛を理解しようとする歌になっている。つらいことがあっても物語上の試練だと思えば受け入れられる。この歌はそういう枠組みを殊更に強調している。実際には殆ど起伏がないような平凡な恋愛でも、当事者は懊悩して苦しむものでしょ。起伏は拡大されロマンチックな物語になる。

ヒゲ■あ、ちょっとごめんなさい。スマホが・・・あー、はい、あたしだけど、今ちょっと取り込んでるんだけど、何? メール? うんわかった。じゃあね。・・・あ、すみません。おかあさんからで、すぐメール見ろって。これナマ配信されてるんでおかあさん見ててメール送ってきたみたい。えと、ふーん、あー。おかあさん、さだまさしが好きで私もよく聞かされたんだけど、さださんに「主人公」(1978年)という歌があって〈自分の人生の中では 誰もがみな主人公〉って歌ってるの。さださんは自分の歌の解説を歌詞カードに書いていて、その写真をメールで送ってきてくれた。ちょっと読みます。「自分が主人公であるという考え方は、とかく「利己」を感じさせる危険な言い廻しですが、生きてゆく強さをふるいたたせる為に必要な起爆剤だと思って下さい。/自分の人生はドラマであると信じる事が、時として自分の不幸を救う事もあるのです。」

ヌー□母娘でタッグを組んでいるの? 仲がいいわね。 審判さん、助っ人ありって反則じゃない?

--はい、えー、想定していなかったのでルールにはないですけど・・・

ヌー□まあ、いいけど。続けて。

ヒゲ■「主人公」は40年も前の歌ですけど、〈自分の人生の中では 誰もがみな主人公〉という感性はもう一般化しているかな、と。「自分の人生はドラマであると信じる事が、時として自分の不幸を救う事もある」というのは「Pretender」にも当てはまる。やっぱり「不幸」なときに「ドラマ」は必要ね。幸福はのっぺりして歴史がないけど、不幸は時間の流れの中で解釈しないとやっていけない。

ヌー□自分が物語の主人公だと思ってみれば救われる、というのは素朴な感じがする。今はもっと自分に都合よく考えるでしょ。

ヒゲ■そう。私たちはそれぞれの物語を演じる主人公なんだけど、なかなか思うようにいかなくて、もっと違う物語を生きれたらいいな、やり直したいなって思うことがある。それを「Pretender」は〈もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった〉と歌っている。もちろんそんなことは無理だけど、ゲームに親しんでいればそういう発想になじみがある。ある意味、「Pretender」は「主人公」が40年で進化した歌ね。進化なのか変化なのかわからないけど。

ヌー□最近、異世界で生まれ変わるとか、タイムリープとかいった幼稚な設定のライトノベルやマンガが流行ってるらしいけど、「Pretender」はそういう発想の歌? 〈世界線 選べたらよかった〉っていうのは多元的宇宙を言ってるの?

ヒゲ■そうあればいいって言ってるだけで、でもそんなのは空想の話で現実には無理だってわかってる。だから、〈そう願っても無駄だから〉〈そう願っても虚しいのさ〉って言ってるでしょ。そこは大人なの。

ヌー□現実をすぐ受け入れるタイプなのね。それで〈グッバイ 君の運命のヒトは僕じゃない 辛いけど否めない〉って現実をわかっているんだ。潔いじゃん。と思ったら、一方ですぐ〈でも離れ難いのさ〉って続ける。この矛盾はなんなの? たった一語の〈でも〉で急旋回しちゃうって。

ヒゲ■すぐには思いきれない。簡単には割り切れない。行ったり来たりの葛藤がある。〈グッバイ〉という切断と、〈でも〉という接続が繰り返される。この歌のテーマが葛藤だということは、〈ない〉〈いや〉という否定が繰り返されることからもわかるわ。歌詞特有の言葉遊びでもあるけど、サビの部分に否定が集中してる。

 

  グッバイ

  君の運命のヒトは僕じゃない

  辛いけど否めない でも離れ難いのさ

  その髪に触れただけで 痛いや いやでも

  甘いな いやいや

 

ヌー□混乱した精神状態の歌ね。別の言い方をすると、未練がましいっていうことなんだけど。男のくせに〈いやいや〉はないでしょ。あ、男のくせにっていう言い方は抑圧的だったかしら。〈髪に触れた〉っていうけど、こんなことを思っている男に髪に触れられたくないわね。

ヒゲ■マッチョではないのはいいことじゃない。思考が柔軟な人なんですよ。自分のことは客観的に理解していて、〈君の運命のヒトは僕じゃない〉ってことは否定できないって言ってるでしょ。それでこの人は残された問いを問うのよ。〈君〉にとっての〈僕〉は〈運命のヒト〉じゃなかった。それなら〈僕〉にとっての〈君〉は何かっていうことね。〈それじゃ僕にとって君は何?〉という部分。混乱しているようでも、ちゃんと論理的に詰めているのよ。

ヌー□何かにすがろうとして懸命なのね。〈それじゃ〉っていうのは自分の答えに自分で反論しているのね。まさに〈ひとり芝居〉。この歌じたいが〈ひとり芝居〉で、肝腎のお相手のことが全然わからない。本人の激しい思いがストーカーみたいに一方的に垂れ流されるだけで、相手の人の気持ちが全然出てこないというのが非対称的でキモい。一方向からの見方を言い募るだけなのが思いつめた感じになっていて息苦しい。

ヒゲ■自分の意識の流れを歌にしてるんだからそれは仕方ないでしょ。混沌のまま終わらせるわけにはいかないから、最後はちゃんと締めくくってるし。

 

  それじゃ僕にとって君は何?

  答えは分からない 分かりたくもないのさ

  たったひとつ確かなことがあるとするのならば

 「君は綺麗だ」

 

歌詞サイトで見ると〈「君は綺麗だ」〉にはカギカッコがついてるのよね。強調ってことでしょう。〈確かなこと〉だということを視覚的にも示している。もうひとつカギカッコがついているのは〈「好きだ」〉っていうところ。これは〈いたって純な心で 叶った恋を抱きしめて 「好きだ」とか無責任に言えたらいいな〉とあるように、素直な気持ちで自然に言える言葉っていうこと。〈無責任に〉ってあるけどこれは反語で、飾らずにすっと出てきた言葉っていうことね。「君は綺麗だ」も「好きだ」も心の底から出てきた本心だということじゃないかしら。

ヌー□最後は文脈に関係なく〈君は綺麗だ〉とか〈とても綺麗だ〉とかで強引にまとめてるでしょ。それまでいろいろ〈答えは分からない 分かりたくもない〉とか考えるふりをしていたのを、ここでいきなり跳躍して、超論理的に強引に締め括る。それまでに〈綺麗だ〉っていう言葉につながるような伏線ってあったっけ? 何も気配がないところにいきなりでしょ。〈綺麗だ〉っていうのは感覚的な趣味判断であって、論理じゃない。〈僕にとって君は何?〉とか理屈で考えても〈分からない〉から美的判断に逃げた。次元をずらしてしまった。もっとしっかり考えろよと思うけど、結局〈分かりたくもないのさ〉っていうのが本心なのよ。〈僕にとって君は何?〉という問いをつきつめれば、勘違いの思い込みをしていたということになるだろうから、それを誤魔化すために〈綺麗だ〉と言う。「僕にとって君は綺麗だ」というのは日本語になっていない。鑑賞する対象ってこと? いずれにせよ、綺麗だと言われて怒る人はいない。女にはとりあえずそう言っておけば喜ぶだろう、文句は言わないだろうっていう線を狙って言った。でもこの立場の人にそう言われても、言われた方も困るんじゃない? 「綺麗? だから、何?」って。この人は次に続けたい、振り向かせたい、閉ざされた心をこじ開けたい、みたいに軽いサプライズとしてそう言った面もあるかもしれないけど、空振りに終わるだけ。女性からのアンサーソングを聞いてみたいわね。〈君は綺麗だ〉と言われて、なんと返すか。

ヒゲ■〈君は綺麗だ〉っていうのは、自分が好きだった人に対するはなむけの言葉でしょう。君は間違っていないという。〈永遠も約束もないけれど「とても綺麗だ」〉とあるけど、〈永遠も約束もない〉というのは確かなものは何もないように思われる中で、主観としては確かなもの(綺麗)があるということでしょ。

ヌー□なんか別れ際になって、ふられた男が急に偉そうに評価してきたみたいに感じる。イルカに「なごり雪」(作詞、伊勢正三、1974年)ってあるよね。田舎から東京に出てきた女の子がまた田舎に帰るんだけど、そのとき駅のホームで男が見送るという内容で、最後に男性が〈今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっときれいになった〉と思っている。口には出さず心の中で思っているだけなんだけど。これもムカつく歌詞ね。なんで男にそんなふうに観察されて評価されなくちゃいけないの。「Pretender」だって、〈君は綺麗だ〉なんて強調されなくても自分の外見は自分でよくわかってるわよ。それとも何? 慰めてるの? って感じ。

ヒゲ■「なごり雪」の〈きれいになった〉というのは、田舎から都会に出てきて垢抜けたとか、〈去年よりずっときれいになった〉と時間の中で語られているから、女の子が大人の女性になったとかいった変化の意味があると思う。もう一つ、これは別れ際だから、手離すときに一層価値を増して輝いて見えたということもある。あなたは「慰め」って言ったけど、ひねくれた捉え方ね。女性の側からすれば「きれいだ」と言われることは自信になるから自立してやっていく力になる。男性からすれば、この人は、自分がいなくても一人でやっていけるだろうと安心できるんじゃないかな。「Pretender」で〈君は綺麗だ〉というのも、自分は一歩引いて女性の自己完結性を讃えているように見えます。

ヌー□対等には付き合えないから、身を引いて称賛する側にまわるってことでしょ。

 

--はい、では、そろそろ第1ラウンドを終了とさせていただきたいので、まとめ的なことを最後に言っていただいてもいいでしょうか。

ヒゲ■この歌の枠組みは、人生を物語に見立てることにあります。〈ラブストーリー〉とか〈ロマンス〉とか〈設定〉とか、物語として語ろうとする。では、なぜ人生を物語として解釈しようとするのか。その答えが端的に表れているのが、〈それもこれもロマンスの定めなら 悪くないよな〉というフレーズです。物語を生きているのなら、この人生も〈悪くない〉と。ナマの現実を受け入れるのはつらいから、これは起伏のある物語で自分はそれに従う役者なんだってことで癒やされる。福沢諭吉も「人生は芝居のごとし」って言ってます。「人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし」。この歌は人生を物語に託すことで現実を受け入れやすくしている。芝居に見立てることで客観化し、距離をおいて見つめ直そうとしています。

ヌー□失恋で傷ついた心を癒やす歌っていうまとめね。おしまいのところで〈君は綺麗だ〉って相手を褒めるから女子ウケもいい。

 

2

--さ、Official髭男dism「Pretender」については、思っていることを全部吐き出せたでしょうか。よろしいでしょうか。では、ここで攻守逆転してKing Gnu「白日」を論戦の俎上にのせたいと思います。第二回戦、開始してください!

カーーーン!

ヌー□やっと「白日」について話せるのね。最初に断っておきますけど、この歌は歌詞がどうこういうより、歌としていいのよね。メロディの高低が激しくてクセになりそうだし、歌い方も繊細で引き込まれそう。もちろん歌詞もいいわよ。

歌詞→https://j-lyric.net/artist/a05d6d3/l04abb6.html

ヒゲ■ラッセーラー? あれレッセーラーか。って歌っているところがあって、何これ、ねぶた? とか思って歌詞を見たら〈真っ新に生まれ変わって〉の〈真っ新(さら)〉がレッセーラーに聞こえてた。そこが典型的なところなんだけど、曲に気を取られて歌詞は断片的にしか頭に入ってこないタイプの歌ね。繊細な歌い出しだから勘違いしちゃうけど、歌詞を文字で読むと、デリケートな言葉遣いをしているというより、意外にぞんざいな言葉が並んでいる。例えば〈朝目覚めたら どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな 聞き流してくれ〉ってあるけど、〈聞き流してくれ〉っていうはぐらかし方はひねりがないわね。詩になる手前でうっちゃってる。

ヌー□そう? カフカみたいでいいじゃない。虫にはなれないけど。虫って究極の〈どっかの誰か〉でしょ。この歌は、生まれ変わってやり直したいという歌です。もう死にたい、ではなく。生命力が強い。繊細な歌だけど芯がある。その芯は歌詞の言葉が作っている。それが人気の秘密かも。

ヒゲ■〈雪よ(…)全てを隠してくれ〉とあるけど、問題を解決しようという態度ではなく逃避じゃないの?

ヌー□逃げるというのは、それでも生きたいということですよ。

ヒゲ■ものは言いようだけど。

ヌー□「白日」が作られた経緯を紹介しておきますね。この歌は2019年の1月から1クール放送されたテレビドラマ『イノセンス 冤罪弁護士』のために書きおろされたものです。ウィキペディアには、前年の年末から2019年の始めにかけて「家に1人こもって楽曲を制作した」と書いてあります。歌詞のイメージが雪を中心としたものになっているのは、制作した時期が冬だったからでしょうね。

ヒゲ■作詞した人はどこの人なの?

ヌー□常田大希さん。長野県の伊那市出身で高校まで伊那にいて、東京藝大入学後は神奈川にいる祖母と一緒に7年間暮らしたそうです。藝大は1年も行かずに中退したみたい。いずれもネット情報なんだけど。

ヒゲ■ふーん。伊那って雪が多いの?

ヌー□え? どうかな。あ、友達がたまたま伊那の出身なんで聞いてみる。ちょっと待って・・・。あ、もしもし真弓? 私。あのさ、あんたの実家って伊那って言ってなかったっけ。あ、いきなりごめん。今ちょっとめんどくさいこと聞いてくる奴がいるもんだからさ。うん、そーそー。でさ、伊那って、雪とか降るんだっけ? うんうん、あーそーなんだ、へー。ありがと、じゃね、バイバーイ。・・・わかったわよ。降るは降るけど、すごい降るわけじゃないって。特に最近はあんまり降らなくなったって。

ヒゲ■そーなんだ。曲を作ったとき常田って人は東京とか神奈川あたりにいたんでしょ。そのあたりは雪って殆どふらないじゃん。歌詞では、雪が降りしきるとか雪が全てを覆い隠すとか言ってるから、そのフレーズはどこから来たのかって思ったの。子どもの頃を思い出して書いたのかなとか。でも、出身地でもそれほど雪は降らないんじゃ、歌詞にある〈降りしきる雪〉というのは実体験じゃないのかも。うちのおかあさんも長野の人だけど、子どもの頃は毎年、膝くらいまで雪が降って実家の庭で大きな雪だるまとかかまくらを作ったって聞いたことがある。うちの親の子どもの頃って1970年代だけど、その頃は気温が低くて地球は寒冷化するんじゃないかって心配されたくらいだから雪は結構降ったんじゃないかな。この常田って人は、えーと何年生まれだっけ?

ヌー□1992年。

ヒゲ■あら、私と近いのね。私のほうが2コ上だけど。今は温暖化の影響で降雪量は減ったけど、降る時はドカ雪が降る。この歌が作られた1年前は平成30年豪雪(2017-2018)で、北陸が記録的な大雪だった。テレビでそういう映像を見ているから、仮に自分の周りで雪が少なくても雪に覆われるっていうイメージはできるでしょうけど。

ヌー□実体験しか歌にしちゃいけないわけでもないし、実体験がなければ歌が理解できないわけでもない。オーロラの歌ってたまにあるけど、オーロラを見たことがある人ってすごく少ないでしょ。

ヒゲ■経験は重要よ。言葉を受け取る深度が違ってくる。オーロラを見たことがないほとんどの人は、カレンダー写真のような薄っぺらいイメージしか抱けないでしょ。今の高校生くらいの子たちって雪らしい雪って知らないだろうから、雪の歌ってどこまで理解できるんだろう。ま、オーロラよりは実感できるでしょうけど。雪ってそのうち、北海道とか新潟、北陸とかの地域限定の話題になりそう。数年に一度のドカ雪は情緒というより災害だし。で、この歌の雪は大雪みたいだけど、異常気象の時代の雪なのね。〈降りしきる雪よ 全てを包み込んでくれ 今日だけは 全てを隠してくれ〉っていうでしょ。〈今日だけは〉ってあるから毎日降ってる感じではない。積もった雪もあたりを覆い隠すけど、それもすぐ溶けてしまいそうね。要するに短期間だけの大量の雪。雪がありふれている感じはしない。なんか自分の心が弱っているときに、うまいタイミングで雪が降ったみたい。

ヌー□気象としての雪だけじゃなくて、この歌では雪は冤罪の比喩でもあるの。言わずもがな、だけど。無実の罪をはらすことを雪冤っていうでしょ。雪のように白くするっていうことかな。刑事ドラマでも、犯人かどうかの信憑性をシロだクロだっていうじゃない。

ヒゲ■その場合の雪は空から落ちてくる氷の結晶ではないわよね。雪という漢字は刷(さつ)・拭(しょく)と音が近いから、すすぐ、ぬぐう、という意味が派生した(白川静『常用字解』)。雪辱もその意味ね。主題歌になったテレビドラマの方は冤罪ものでも、この歌の内容は、雪は比喩ではなく物理的な現象として扱われている。あたりを白く覆って視界を閉ざすモノという意味で使われている。そこから〈真っ新(さら)に生まれ変わって〉〈真っ白に全てさよなら〉という発想が出てくる。白い景色は何も描かれていないキャンバスだから、そこにどんな新しい絵を描くこともできる、一からやり直せるという意味になる。

ヌー□〈明日へと歩き出さなきゃ 雪が降り頻ろうとも〉というところは困難さの比喩でしょ。雪は人の足を止める。〈明日へと歩き出〉すことを雪が阻んでいるのね。

ヒゲ■そう、そこね。この歌詞がユニークなのは「降り積もる雪」ではなく〈降りしきる雪〉とか〈雪が降り頻〉ると言っていること。普通は、積もった雪が世界を白く覆うという発想なんだけど、この歌はそうではなく、今現在降り続いている雪を話題にしている。たしかにすごく降れば視界が閉ざされることもある。そのひどいのがホワイトアウト。ただそれが〈真っ新に生まれ変わって〉につながるのは少し無理があるなあ。一晩で積もった雪が世界を一変させるというならわかるけど、降ってる最中の比喩としてはどうかな。降るというのは動きのある状態だから、その動きが一応完結して、そこから新しく始まるというならわかるけど。

ヌー□微妙すぎてよくわからないけど。

ヒゲ■それと、〈全てを包み込んで〉〈全てを隠してくれ〉とあるけど、その〈全て〉というのは、自分を取りまく世界のことなのか、それとも自分自身も含むものなのか。〈今だけはこの心を凍らせてくれ 全てを忘れさせてくれよ〉とあるから、自分も雪の中にいるのね。ただ、自分の心も凍ってしまうと困るでしょ。〈明日へと歩き出さなきゃ〉という気持ちがわき起こらない。

ヌー□〈今だけはこの心を凍らせてくれ〉って〈今だけは〉って言ってるでしょ。休息が必要なのよ。少し休んでから〈明日へと歩き出〉すってことじゃないの?

ヒゲ■うーん、言いたいのは、短い歌のなかで雪の扱い方が一貫してないってことなのよね。雪は人の歩みを止めるような困難さだったり、心を凍らせて全てを忘れさせてくれるようなものだったり、あたりを覆い隠してくれるものだったりする。どんな意味で使ってもいいけど、一つの歌の中ではどれかに統一して欲しいわね。そうでないと聞き手が混乱してしまう。

ヌー□歌の言葉って時間の流れの中で明滅している感じがする。歌を聞いているときって、断片的な言葉が次々と現れては消えて、印象として残るのは散らばった言葉だけなので、そういう言葉に意味の一貫性を求めるのは歌の言葉が求められるものとは違うと思う。

ヒゲ■私はああくまで全体が一挙に示された状態の言葉として解釈してるので前提が違うと言われればそれまでだけど、あなた、論理的に矛盾するような都合が悪いときだけ、時間的な解釈を持ち出してない?

ヌー□それなら、こう言ってもいいわ。ものごとには二つの側面があるでしょ。例えば雨の歌で、雨は人を濡らしたり屋内に閉じ込めたりする嫌なものだけど、汚れたものをきれいに洗い流してくれる、みたいな歌がありそうじゃない。そういうのもダメなわけ?

ヒゲ■それは考え方の転換を提示しているわけで、そこに面白みがあるわけだけど、この歌はそういうわけでもないでしょ。

ヌー□歌詞は論理じゃないからどうでもいいけど。冤罪についての話に戻すと、今のところは正確に引用すると〈真っ新(さら)に生まれ変わって 人生一から始めようが〉って逆接の〈が〉がついています。〈人生一から始めようが へばりついて離れない 地続きの今を歩いているんだ〉って。〈人生一から始めよう〉と意気込んでも、〈今〉の諸関係をきれいに断ち切ることはできないってことで、与えられた条件のもとでやるしかないということを言っています。この歌は冤罪のドラマの主題歌で、歌詞も冤罪についてのアレゴリーとして読むことができます。この部分も、いったん犯人だとみなされてしまうと、冤罪が証明されて釈放になって人生をやりなおそうとしても、自分も世間も「はい、わかりました」って、きれいに切り替えられるわけではないというふうに読めます。

ヒゲ■罪が「なかった」というのは、もともと罪が「ある」とされたから「なかった」と言っているわけで、一度「ある」ことにされてしまうと、それを何もない〈真っ新(さら)〉な状態に戻すことは不可能よね。「ある」とされたことが頭に残っているから、「なかった」ことは、一遍「なかった」と言えば済むものではなく、絶えず「ない、ない」と継続して言い続けて「ある」の芽を叩き潰していくしかない。

ヌー□ドラマの冤罪の文脈で解釈できそうな歌詞は他にもあって、冒頭の〈時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり 失ったりして初めて 犯した罪を知る〉がそう。ここはイントロがなく歌いだすところで、静寂な空間に井口さんの声が響いて感動するところ。人を〈傷つけてしま〉うことを気にかけるやさしさっていう歌詞と声が一致している。

ヒゲ■歌声は繊細でも、歌詞はそれに似つかわしくないところもある。〈犯した罪を知る〉という殊勝なことを言っておきながら、一方で、〈誰かのために生きるなら 正しいことばかり 言ってらんないよな〉とか、〈後悔ばかりの人生だ 取り返しのつかない過ちの 一つや二つくらい 誰にでもあるよな そんなんもんだろう うんざりするよ〉って随分ぞんざいに開き直っている。こういうのは歌詞を文字で読まないと、耳から入ってきた言葉だけでは気がつかない。

ヌー□開き直るっていうけど、生きるためには、うなだれてばかりいられないからでしょ。

ヒゲ■〈犯した罪を知る〉っていうのは、そこは罪を認めているんだから、冤罪じゃなくない?

ヌー□これは冤罪にした側のことを言っているんじゃないかと思う。〈誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしま〉うというのがそうです。冤罪にするほうも、テレビによくある腐敗した警察組織みたいに、とりあえず面目のために誰か犯人にしとけって意図的に罪を着せるのではなく、犯人だと思ったのに違ったという非意図的なことを〈知らず知らずのうちに〉って言ってるんだと思う。

ヒゲ■警察はそんなデリケートなことは考えないでしょうけど。

ヌー□冤罪って無実の人を拘束して名誉を犯すのだから加害行為ですよ。それを権力が法的にやっているから罰されないだけで、せいぜい少額の慰謝料で済まされていて、ほとんど泣き寝入りでしょ。冤罪って裁判で有罪にされる前から、警察に連行されて容疑者にされた時点で世間では犯人扱いされるので、もうそこから始まっていると思います。で、それを個人に置き換えたのがこの歌詞です。私たちの日常でも、人は自分が知らないうちに他人に罪を着せていることがありますよね。

ヒゲ■〈犯した罪を知る〉ってのが大げさな表現だと思ったけど、冤罪から発想しているのならわからないでもない。冤罪にする方も〈罪〉だっていうのがヒネリになっている。それはいいけど、この出だしの〈時には誰かを 知らず知らずのうちに 傷つけてしまったり〉っていう歌詞はありがちね。尾崎豊の「卒業」には〈時には誰かを傷つけても〉とあるし、ミスチルの「名もなき詩」には〈時には誰かを傷つけたとしても〉ってある。他にもいくつも例はあるけど、Jポップ特有のコロケーションね。コロケーションというのは言葉どうしのよくある組み合わせのこと。〈時には誰か〉とくれば〈傷つけた〉を思いつく。最後まで聞くまでもなく先取りでわかってしまう。

ヌー□歌詞が相互に関連しているという指摘は、歌詞だけじゃなく、全ての創作物がそうでしょ。いわゆる間テクスト性で、その指摘じたいあまり意味がない。だから何? って感じ。King Gnuウィキペディアには「歌謡曲然とした親しみやすいメロディーや日本語による歌詞を乗せることを重視しており、「Jポップをやる」ということがKing Gnuの大きなコンセプトの一つとなっている」と書いてあったけど、あえてする「Jポップらしさ」じゃないの?

ヒゲ■はたして、どこまでそうなのかしらね。せっかく音楽的にユニークなんだから、歌詞ももっと考えればいいと思っただけ。なんで歌詞だけ、従来のJポップらしくしちゃうのかなって。

ヌー□冤罪に話を戻すと、冤罪の文脈で解釈できるのは、他にも〈戻れないよ、昔のようには〉もそうですね。ここは冤罪にされた側の視点ですね。図解したほうがわかりやすいんですが、

 1 日常の生活 →2 有罪 →3 冤罪 →4 日常へ帰還

という流れで、〈戻れないよ、昔のようには〉というのは、有罪の刻印を押されてしまうと、冤罪になったとしても、「1 日常の生活」には戻れないということです。1の「日常」と4の「日常」は似ているけど違う。〈戻れない〉というのは1の「日常」には戻れないということです。さっきの〈真っ新(さら)に生まれ変わって 人生一から始めようが〉それはできないということと同じで、1、2、3という段階を経て4に至ると、4の状態は1に似ているけれど異なるもので、1には再び戻ることができない。この歌の主題ですね。一からやり直すことは不可能だから、せめてひとときでもいいから雪で覆い隠して忘れさせてくれって。

ヒゲ■なんだか禅の「十牛図」の不幸バージョンみたいね。いろいろ考えても結局〈真っ新に生まれ変わ〉ることはできないって結論から出られず堂々巡りするだけなので疲れてしまったのかな。〈今の僕には 何ができるの?〉〈へばりついて離れない〉〈どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな 聞き流してくれ〉とか、一歩を踏み出そうとはするけど、自分自身で問答を繰り返して、出した足を引っ込めたりして身動きできず、あまり現在地から動いていない。

ヌー□希望も示されていますよ。〈どこかの街で また出逢えたら 僕の名前を 覚えていますか?〉というのは「4 日常へ帰還」からさらに時間が経ったときのことで、新しい生活に落ち着いた頃のことだと思います。〈どこかの街〉だから、元の住所には戻らず、住む場所を変えているんですね。〈僕の名前を 覚えていますか?〉というのは、2番の歌詞でも〈君の名前を 呼んでもいいかな〉とあるように〈名前〉にこだわっているんですけど、〈名前〉は同一性を象徴しています。〈僕の名前を 覚えていますか?〉というのは、「1 日常の生活」と「4 日常へ帰還」したあとの〈僕〉を同じ存在として認めてくれるかということです。〈君の名前を 呼んでもいいかな〉の〈君〉は「1 日常の生活」のまま生きている〈君〉で、その〈名前を 呼んでもいいかな〉というのは、「1」の世界に触れてもいいかなということです。〈僕〉と〈君〉の世界は「1」から「2」に移行する時点でパラレルワールドに分岐してしまったかのようです。だから「1」のまま継続している世界に生きている人と「2」に分岐した世界に生きている人が接触するのは慎重にやらないといけないんです。SFだとパラレルワールドが混じり合うと宇宙が消滅することになりますから。〈その頃にはきっと 春風が吹くだろう〉と言っているから。希望を見ています。

ヒゲ■人生をやり直さずにどうやって生きていくか、というのがこの歌の主題なのかな。

ヌー□音楽的な部分だけでなく、歌詞がいいっていう人も結構いて、人生に迷ってる人に刺さる歌詞だと思う。生きていて過ちや後悔のない人はいないですから。

ヒゲ■たしかにこの歌は「生きること」についての率直なフレーズが多い。〈誰かのために生きるなら〉〈真っ新に生まれ変わって〉〈人生一から始めようが〉〈如何しようも無い今を 生きていくんだ〉〈忙しない日常の中で 歳だけを重ねた〉〈それでも愛し愛され 生きて行くのが定めと知って〉〈後悔ばかりの人生だ〉。「Pretender」はやり直せない恋愛を歌っていたけど、「白日」はやり直せない人生を歌っている。

ヌー□どちらが切実かといえば「白日」でしょ。

ヒゲ■「Pretender」も「白日」も似ていて、「Pretender」は〈もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった(…)そう願っても無駄だから〉と歌い、「白日」は〈朝目覚めたら どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな〉と歌う。リセットできるゲーム感覚とか、生まれ変わりといった発想をして、それは無理だとわかっているけど言ってみた、というところまで似ている。

ヌー□曲の雰囲気はかなり違うし、言葉の選択も異なるけど、発想の根底は同じかもしれない。作詞した人は1歳違うだけだから、経験も似たりよったりのはず。

ヒゲ■昔は、どうやったら自分らしく生きられるかを模索する歌が多かったのに、それとは逆、というか安直。自分らしくないからやり直したいという。

ヌー□行き詰まったときに根底からやり直したいなと思うときはありますね。やり直すときに黒く塗りつぶすのではなく、白い初期状態に戻す。黒く塗りつぶすと、消したという経過も残ってしまう。

ヒゲ■この歌の歌詞に統一感や一貫性をもたせているのが白でしょう。ただ、タイトルを「白日」という漢字二文字にしたのはJポップにしては難解だわね。

ヌー□無罪が決定したという感じがありますね。

ヒゲ■はじめ見たときは「白目」に見えた。でもそれじゃおかしいし弁護士もののテレビドラマだから「自白」かと思った。あるいはドラマが1クール3か月だから「百日」かもって。私、乱視なんで、似たような文字で横棒の数が違うだけって判別しにくいのよね。それはそうと、「白日」というのは辞書的には「太陽」「真昼」「罪がなく潔白になったたとえ」という意味があるけど、潔白というのは派生的な意味よね。

ヌー□この歌の場合は、雪であたりが白くなっているという意味もあります。

ヒゲ■辞書にはない意味を作ってしまったというわけね。潔白になることを白日というのは「青天白日」からきているけど、これって「晴れ渡った青空に太陽が輝いている」ように隠し事がないこと。晴れ渡った青空と〈降りしきる雪〉って正反対よ。無罪と白日が連想でつながって、白日と降る雪が連想でつながるのはわかるけど、無罪と降る雪はつながらないわね。だって「青天白日」は全てをさらけだしているのに、〈降りしきる雪〉は逆に〈全てを隠〉すようにはたらくのだから。白日が無罪と雪をつなげているけど、正反対のものにねじれてしまった。

ヌー□この歌の白は多義的で、〈真っ新(さら)に生まれ変わって〉とあるように、全てをリセットして一からやり直すという意味もあります。

ヒゲ■それは雪では無理ね。じきに溶けてしまうもの。雪は全てをリセットするものというより、人の目を誤魔化すもの。雪におおわれてリセットされたように見えてもそれは表面的なことで、実は何も変わらない。

ヌー□だから〈今日だけは〉〈今だけは〉って言ってるでしょ。心が弱っているから、休みが必要なのよ。リセットという言い方がよくなかったわね。resetからeをひとつ抜いてrestね。

 

--えー、そろそろお時間がまいりました。最後に言い残したことはないでしょうか。

ヒゲ■じゃあ、最後に最近出た「三文小説」(作詞、常田大貴、2020年)について話してもいい? この歌って「白日」に似ているじゃない? テレビの主題歌として作られたし、曲の雰囲気も似ている。

ヌー□『35歳の少女』ね。10歳の少女が事故で植物状態になり25年後に目覚めるというもの。〈随分老けた〉とか〈増えた皺の数〉とか、急に年をとったことを意識する歌詞になっています。

ヒゲ■「白日」と「三文小説」みたいな歌ばかりではないでしょうけど、この二つの歌から言えることは、King Gnuは音楽的な部分はすごいかもしれないけど、歌詞じたいは・・・ポエムよね。いかにもJポップにありがちな発想や言葉遣いだし。「三文小説」の歌詞も、〈今日も隣で笑うから 怯えなくて良いんだよ そのままの君で良いんだよ〉ってJポップふうの言葉で書かれてる。タイトルどおり人生を小説に喩えていて、〈この小説(はなし)の果ての その先を書き足すよ〉とか〈過ちだと分かっていても尚 描き続けたい物語があるよ〉〈小説のように人生を何章にも 区切ってくれるから〉〈愚かだと分かっていても尚 足掻き続けなきゃいけない物語があるよ〉〈駄文ばかりの脚本と 三文芝居〉とあって、徹底的に小説や物語にこだわっている。ここは「Pretender」の枠組みと同じじゃない?

ヌー□枠組みは似ていても内容は反対ですけどね。「Pretender」はやり直したいというけど、「三文小説」はこのまま続けたいって歌ってますから。

ヒゲ■「三文小説」のほうが前向きな感じの歌詞なので、よけい平成のJポップふうになっている。もうひとつ言うと、「白日」と「三文小説」を並べると、この歌詞の書き手の癖がよくわかるわね。

 

白日

・煌めいて見えたとしても

・雪が降り頻ろうとも

・羨んでしまったとしても

三文小説

・君を忘れ去っても

・三文小説だとしても

・過ちだと分かっていても

・息を潜めたとしても

・愚かだと分かっていても

 

かっこいいと思ってるんでしょう、この〈も〉が。

ヌー□勝手に言ってればいいわよ。歌が素敵なら私はいいんだから。あなたが何を言ったってこの歌の価値は1ミリも下がらないからね。

 

--えー、それではこれでお二人の対戦は終了とさせていただいて、判定のほうに移りたいと思います。

ヒゲ■もうどうでもいいわよ、判定なんて。私はしゃべってるうちにだんだんKing Gnuが好きになってきたし。歌詞はともかく歌としてつい聞いちゃうのよね。

ヌー□私も。「白日」や「三文小説」は根本のところで「Pretender」と同じだって言われれば、あーそうだなって思うし、曲のタイプが違うから、どっちが好きか嫌いかなんてあまり意味がない。

ヒゲ■両方ともいいと思っている人が殆どじゃない? どっちか優劣つけようっていうこの企画じたいゲスなのよ。

--そう言われてしまうと元も子もありませんが、判定するのは両者の歌詞がどうこうというより、それを弁じたヒゲさんとヌーさんについてということになりますから・・・

ヒゲ、ヌー■□なによ、そんなのもっとどうでもいいことじゃない。私たちに興味持ってる人なんていないんだから。

--わ、わかりました。では、以上で収録を終わります。

ヒゲ■お疲れさまでしたー。

ヌー□お疲れさまでしたー。

ヒゲ■セリフ多いから覚えるの大変だったね。結構アドリブ入ったと思う。

ヌー□そうそう、私も。

ビスケットはなぜ増えるのか~まど・みちお「ふしぎなポケット」

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 まど・みちおが作詞した童謡で誰もが知るのは、「やぎさんゆうびん」(1939年)、「ぞうさん」(1951年)、「ふしぎなポケット」(1954年)の3つであろう。ここに「一年生になったら」(1966年)を加えて4つにしてもよい。

 岩波文庫版『まど・みちお詩集』(2017年)を編纂した詩人の谷川俊太郎は、「やぎさんゆうびん」と「ぞうさん」について、同書の解説でこう書いている。

 

「この二曲の歌詞は、まどさんが最初から歌になることを意識して書いたもので、歌詞にユーモアとウィットがありますが、詩として見た場合にはさほど優れたものではなく、人気はその多くを團伊玖磨の作曲に負っていると言ってもいいでしょう。」(337頁)

 

 厳しい評価だが、歌詞を詩の基準で判断して優劣をつけるのは無理がある。歌詞に「ユーモアとウィット」があれば十分であろう。それさえないのが殆どである。「ふしぎなポケット」と「一年生になったら」は、同書に収録すらされていないので、さらに劣ると考えられたのだろう。

 ところで、同書収録の「やぎさんゆうびん」を読んで私は「おや?」と思った。

 

  しろやぎさんから おてがみ ついた

  くろやぎさんたら よまずに たべた

  しかたがないので おてがみ かいた

  −−さっきの おてがみ ごようじ なあに

 

 この〈さっきの おてがみ/ごようじ なあに〉というところは、私の子どものころは〈さっきの てがみの/ごようじ なあに〉と歌っていたのである。この疑問は同書を読み進むとすぐに解けた。まどは修正した経過を書いていたのである。もともと私の記憶どおり〈さっきの てがみの〉だったが、それを〈さっきの おてがみ〉に直したという。「第一行も第三行も「おてがみ」なのに末行だけが「てがみ」ではおかしい。ましてこれは相手の手紙をさすのだから、と考えたのです。」(275頁)ところが直した後になって、相手の手紙を食べてしまうほどのトンマなヤギなので、その語法もトンマであっていいと思い、元に戻したくなったと1987年のエッセイで書いている。『詩集』の収録作は「おてがみ」のままなので、結局元には戻さなかったのだろう。だが、You Tubeにあがっている動画や、歌詞検索サイトの歌詞はほとんどが「てがみの」になっており、沢知恵(さわともえ)による歌だけが「おてがみ」になっていた。典拠が混在しているようだ。誰も作詞者が歌詞を修正するなどとは思ってもいなかったのだろう。

 何を言いたいかというと、作詞者は子どもだましに適当に書き飛ばしたのではなく、言葉の隅々にまで気を配っていたということだ。実際、これらの作品は幼稚園児にその歌詞の内容を聞いてもわかるほど明朗なものだが、だからといってたわいのないものとして切り捨てられるものではない。わかりやすさの裏に隠された意外な深みや奇妙な味があるのである。「やぎさんゆうびん」はエンドレスにループする構造が面白がられるし、「ぞうさん」はイジメを諭す文脈でしばしば語られることがある。

 「一年生になったら」は謎のある歌詞としてネットで話題になった。謎というのは一つの格助詞についてである。一年生になったら友達100人できるかな、と期待に胸をふくらませ、〈100人で食べたいな 富士山の上でおにぎりを〉というのであるが、自分と友達あわせれば101人のはずなのに一人足りないというのである。その一人はどこに消えたのか。〈富士山の上〉に着くまでに何があったのか。実は怖い童謡なのだということである。

 これは〈100人と〉ではなく〈100人で〉とあることから生まれた疑問である。この場合の格助詞〈で〉は、構成要素を表していると考えられる。一方、〈で〉には、数量を限定する意味もある。〈100人で〉は「この100人のメンバーで」という意味の他に、「100人の範囲を超えない」という意味も漂わしていることになる。きっちり100人と線引きしてしまうことによるシビアさみたいなものに敏感に反応したことにより生じた「謎」であろう。〈100人で食べたいな〉ではなく、もっと緩く〈みんなで食べたいな〉とすればよかっただろうが、歌詞のミソは100人という大きな数字を強調することであるから仕方ない。

 以上は私の解釈だが、この歌詞についてはネットに考察が出回っているのでご覧になれば良い。幼児は自分を勘定に入れないという「「友達100人できるかな」のナゾに迫る!」(https://ameblo.jp/ryou5533/entry-12382947335.html)が面白い。

 

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 まど・みちおによる先の四つの作品のうち、「ふしぎなポケット」は素朴すぎるのかあまり取り上げられることもないので、今回考察してみたい。子どもの頃、この歌のマネをして、ポケットにビスケットを入れて叩いてみたことがある人は多いだろう。それで粉々になったビスケットでポケットを汚した経験をしたことがあるはずだ。そもそも袋に入れないでポケットに直接食べ物を入れるのは大人になった今では汚くてできない。

 そういった思い出はともかく、実はこの歌もなかなか奥の深い歌なのである。まずはその歌詞を掲げておこう。

 

 ふしぎなポケット(作詞、まどみちお

 

ポケットのなかには ビスケットがひとつ

ポケットをたたくと ビスケットはふたつ

 

もひとつたたくと ビスケットはみっつ

たたいてみるたび ビスケットはふえる

 

そんなふしぎな ポケットがほしい

そんなふしぎな ポケットがほしい

 

 〈ひとつ〉〈ふたつ〉〈みっつ〉と同じような響きの語が反復され、〈たたく〉という語も繰り返される。〈ポケット〉と〈ビスケット〉も響きを共有している。ラッパーがライムの参考にしてもいいくらいの歌詞である。

 歌詞はシンプルな言葉で組み立てられているが、表面に見える素朴さの裏に意外な奥行きを持っている。

 歌詞は日常の中に非日常を呼び込む。〈ポケットのなかには ビスケットがひとつ/ポケットをたたくと ビスケットはふたつ〉というように、ありふれたポケットが手品師のシルクハットと化す。合理的に考えれば、ポケットを叩いたら増えるビスケットというのは、たんに割れてしまったのだということになる。割れて破片が〈ふたつ〉〈みっつ〉と増えていくのである。しかしそれも奇妙である。増え方が1,2,3と等差数列になっているのであるが、ビスケット全体に均等に力を加えたとして、破片の大きさが2分の1づつの割れ方をするとしたら、破片の数は1、2、4、8と幾何級数的に増えていくはずである(この場合、破片が細かくなるほど大きな力が必要になる)。もしビスケットが割れて破片の数が増えていくことを喜んでいるとしたら、破片の数は増えるが全体の量は増えていないので、それで喜ぶのは数字にだけ注目することの愚かさを意味することになる。だが、叩いた回数と同じだけビスケットの数が増えていくということは、破片が増えているという事態を意味しない。ここは文字どおり、ビスケットまるごとについての数を指しており、全体の量が増えているということであろう。(1,2,3の後、どのように増えたか書かれておらず、示された項数が短すぎて対応する関数が判断できないが、ここでは1回叩くとポケットの中のビスケットは n+1 枚になっているとする。)

 こうした疑問への迂回を誘うのは、〈ビスケットがふたつみっつ〉と汎用的な助数詞〈つ〉を使っているため曖昧になっているからである。もし〈ビスケットが二枚三枚〉という表現であれば迷わされることはない。

 ポケットを叩いて増えていくのは破片になったビスケットではなく、ビスケットの枚数であることは歌詞を最後まで読めば文脈からも理解できる。〈そんなふしぎな ポケットがほしい〉と言っているのである。ビスケットの破片が増えていくのでは不思議でもなんでもない。叩くという行為によってもたらされる物理法則にかなっている。手品みたいに原型のまま増えるということであれば不思議である。

 タイトルで「ふしぎなポケット」とすでに述べているではないかと思われるかもしれない。だが、「ふしぎなポケット」とあるだけでは、現実のポケットの中で割れたビスケットをビスケットが増えたことにして自分をごまかしているようにも考えられる。私たちも食べ物を小分けにすることで、一度に食べる量を減らし、口にする回数を増やすことで、全体の量が増えているわけではないのにそれと似た錯覚を作り出している。実際、〈そんなふしぎな ポケットがほしい〉というフレーズがなければ、この歌は貧しい子どもの自己欺瞞のようにも受けとれる。〈ほしい〉とあることによって、夢が述べられているのだということがはっきりするのである。

 この歌は「貧しさ」という文脈で解釈しなければ、その切実さが理解しにくいのではないか。この歌が書かれた1954年というのは敗戦後まだ10年とたっておらず、高度経済成長の手前で国全体が貧しかったころである。そういうときビスケットという西洋のお菓子に対する憧れは、欲しいモノが簡単に手に入る今の私たちからは想像しにくい。ポケットの中にビスケットが入っていたらいいな、そして叩けばどんどん増えていつまでもなくならなければいいなというのは、当時の子どもの夢想として大いにありうることだ。

 〈ポケットのなかには ビスケットがひとつ〉とあるが、多くの子どものポケットの中には1枚のビスケットどころか何も入っていないであろう。なにかの機会にもらうのを待つか、もらっても兄弟で分けるから取り分は少ない。運よく手に入れたら、その1枚を宝のようにポケットに入れて、それを元手に増やしていく。そういう歌ではないか。

 夢を語って言葉にしてみることで満足を得ようとするのは、最も安上がりな方法だ。しかしそれと引き換えに、叶いそうもないことを教えられることで、かえって苦しみが増してしまうこともある。

 

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 ビスケットが増える不思議なポケットと聞いて多くの人が連想するのが、『ドラえもん』(1969年)の四次元ポケットであろう。だが「ふしぎなポケット」はドラえもんのポケットとはかなり違って質素である。

 それにしても、なぜビスケットはポケットの中に入っているのか。ポケットを叩くとビスケットが増えると想像されるのはなぜなのか。

 ポケットというのは服についている小さな袋である。袋というのはそこに何が入っているか外からは見えない、物を隠してしまう容れ物である。クリスマスに枕元に靴下を置いておくのは、靴下が小さな袋だからである。その中に何が入っているのか取り出してみるまでわからない。隠されていることでワクワク感が生じる。何が入っているかわからないということは、何でも入っている可能性があるということだ。

 小さな袋からいろいろいろなものが溢れ出てくるという話は昔話(民話)にもよくある。小さな袋や小さな箱と言うのは不思議な世界につながっているマジカルなものである。泉のように溢れ出てくるもの、使っても使っても使い切れないものである。

 例えば「正太の初詣」という広島の民話はこういう話だ。初詣に行って神様から袋をもらい、「家に帰って袋に手を入れると中から小判が1枚出てきた。正太と母親は喜んで、小判を袋に戻すと、袋が動き出し、小判が2枚になった。さらに2枚を袋に入れると、小判が4枚になった。」http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=346&cid=58 この民話は「ふしぎなポケット」とよく似ているが、こちらの話は幾何級数的に小判が増えていく。

 また、「塩吹き臼」という山形の民話は、欲しいものを言いながら臼を右に3回まわせば何でも出てくる、止めるときは左にまわすというものである。臼から米や小判が出てくるが、海で魚を食べようとして塩味が足りないので臼から塩を出したが止め方を知らない者が使ったので塩があふれ、以来、海がしょっぱくなったという起源譚になっている。

 臼は穀物をすりつぶして粉にする道具だが、内部には隙間があるので、これも小さな袋といっていいだろう。臼は、入れたものと違うものに変換されて出てくるのが一層不思議がられたのだろう。

 「紅皿欠皿」や「米福粟福」といった民話では、山姥から、3度たたけば何でも欲しい物が出る小箱をもらう(いろんなバージョンがある)。今でもお正月の売出しには福袋が欠かせないが、袋に入れることがすたらないのは、袋の中に入れていったん隠すことで神秘さが演出されるからだろう。

 ドラえもん』の四次元ポケットも、これらの民俗学的な伝承とつながっている。『ドラえもん』の前作は『ウメ星デンカ』(藤子・F・不二雄1968年)で、このマンガでは、小さな壺からいろんなモノが出てくる。ドラえもんのポケットもデンカの壺も機能は同じである。壺は玄関に飾られることがよくあるが、それは壺が無限に富を生み出す幸福の象徴と考えられているからだろう。近年の創作では『なんでもやのブラリ』という絵本では、ネコのブラリは何でも出てくる不思議な袋を持っていて、出会った人に欲しいもの与えるというもの。

 袋や壺や小箱に似たものは他にもある。そこから鳩が飛び出す手品師のシルクハットも小さな袋である。シルクハットの不必要なほどの深いハイクラウンは魔法使いの三角帽子にも似て不可解さを演出する。『西遊記』で金角銀角を吸い込むのは瓢箪である。『アラジンと魔法のランプ』ではランプから大きな魔人が出てくる。物理的な容量をはるかに超えたものが小さな容器に入っている。内部に空洞をもつ瓢箪やランプの空虚な暗闇が異世界そのものなのである。

 ポケットだけではなく袋状のもの一般がそもそも謎めいた性質をもたされている、ということを述べてきた。不思議なのはビスケットではなくポケットのほうである、ということだ。ビスケットを叩いてビスケットを増やすのではなく、ビスケットをくるんでいるポケットを叩いてその中にあるものを増やすのである。ビスケットを叩いてもポケットを叩いても、行為としては同じに見えるが、行為が作用する対象が異なる。

 ここにあるのは、くるむこと、包むことのもつ不思議さである。くるむこと、包むことに対する想像力は、また『ドラえもん』のひみつ道具でいえば「タイムふろしき」に見られる。いくども映画化された『のび太の恐竜』では、化石の卵を風呂敷でくるむことで生きた卵に戻す。風呂敷に包まれたものだけの時間を逆行させるタイムマシン装置である。肝腎なのは、なぜそれが包むものとして発想されたかということだ。「タイムふろしき」には「翻訳こんにゃく」のような語呂合わせからの連想はない。ものを包むということについての神秘的な感覚が作者にあったのではないか。

 

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 ポケットはそれじたい不思議な容れ物である。では次の問題は、なぜ叩くと増えるのか、ということである。叩くとはどういう行為なのか。

 この歌の場合、それは、モノの機能を賦活する呪術的な試みといえるであろう。テレビの映りやラジオの受信状態が悪いときは、筐体を叩いてみるということを昔はよくやった。接触が悪かったりするときはそれで治ることもあった。どこが原因かわからないが、全体に微量に物理的な衝撃を加えてみるのである。すると、中の仕組みはどうなっているかわからないにもかかわらず、叩くという行為をすることで、不思議なことに治るのである。叩くことは調子を元に戻す、場合によってはそれ以上にする。叩くことじたいにマジカルな力が宿っているかのように思えてくる。大人が子どもの「頭を叩く」ような場合も、頭の内部の働きがうまくいっていないので、外部から物理的な衝撃を加えることで、内部が調整されると(多少でも)考えられているのではないか。

 たんにビスケットがポケットに入っているだけでは何事もおこらない。寝ている人を起こすようにポケットを叩いてやることで、ポケットの不思議な機能が目を覚まし、ビスケットを複製するのである。

 歌では、ポケットの中にもともとビスケットが1枚入っていたことになっている。そのビスケットをどこから入手したかはわからない。ただそれは貴重な1枚なので、なんとかこれを資本にしてそれを増殖させたいと考えた。そのとき叩けば増えるポケットがあればいいなあと思ったのだ。何も入っていないポケットを叩いても何も生み出せない。無から有を生み出すのは錬金術でも不可能だ。だがコピーして増やしていくのならなんとかなるのではないか。子どもはビスケットをすぐ食べて欲望を充足してしまうのではなく、いったん我慢してそれを増やすことを考えたのだ。手に持ったビスケットをポケットに入れて目の誘惑から隠す。まずは禁欲が必要なのだ。

 〈そんなふしぎな ポケットがほしい〉とあるように、子どもは、ビスケットを欲しいと言うのではなく、ポケットが欲しいと言うのである。富そのものではなく富を生み出すものが欲しいと言う。大人がこの歌を聞いてニンマリしてしまうのは、ビスケットをお金に読み替えるからであろう。

 

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 さて最後の問題は、なぜポケットに入っているのが他のなにかではなく、ビスケットなのか、ということである。

 ビスケットは小麦粉にバターなどを加えて焼いたお菓子だが、作りやすさ、食べやすさから、そのほとんどは平たい形状をしている。一方、服のポケットというのは服の生地にもう一枚布を重ねて縫いあわせたものであり、あくまで服の従属物であって、その形状も服のシルエットを大きくは乱さないものになっている。(この歌の場合に想定されているのはズボンなど下半身に着る服ではなく、上半身に着る服のうち上に羽織るタイプのものについているポケットであろう。)そのため、服のポケットには限定的な形状の物しか入らない。あまり立体的なものは無理である。そうした服のポケットに入るような平面的なもののうち選ばれたのがビスケットである。

 平面的なお菓子なら煎餅(せんべい)でもいいではないか。だが煎餅ではなくビスケットであるのは、1950年代の日本の子どもたちにとって、それが外国への憧れを象徴するような食べ物であり、煎餅ほどには身近にないものだからであろう。ビスケットじたいが、舶来のよくわからない不思議な食べ物なのである。実際、この歌ができてから70年近くになろうとしている今の私たちでさえ、ビスケットとクッキーとサブレとクラッカーの違いがよくわからない。一方、煎餅のほうが身近でありがたみが薄い。ポケットの中に煎餅が入っていたとして、それが叩いて増えたとしてもあまり嬉しくない。そもそも煎餅は増えそうな気がしない。そう考えると、不思議なのはポケットばかりではなく、ビスケットもそうであって、増えるのは両者の相互作用なのだということになる。また、クッキーでなくビスケットであるのは、クッキーのほうが高級で大人向けのお菓子であるのに対し、ビスケットのほうが庶民的で子ども向けのお菓子だからであろう。

瑛人「香水」入門~復縁ソングの現在

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瑛太の「香水」がYouTubeで再生回数1億超えたって

■ 瑛人ね

□ 紛らわしいから苗字を略さないで欲しいんだけど

■ 逆に瑛太が今年から芸名を本名の永山瑛太にしたよ

□ 瑛人って2世タレントとかなのか? それで苗字を隠してるとか

■ 違う。芸能界に縁のないところから出てきた普通の人。ネットにインタビューが3本ほどあがっていたので、それをまとめるとこうなる。高校を卒業して年ほどフリーターで、スニーカーや古着の店で働いたが、音楽への憧れがあったので19歳のとき音楽学校に入った。中学までは野球、高校ではダンス部で、音楽の経験はない。ギターは音楽好きのおじいさんにもらったのが家にあったけど、それまでいじったことはなかった。音楽学校は2年制だったが1年でやめてしまい、そこで知り合った先生の音楽塾に通った。「香水」はその先生に指導してもらいながら作った。音楽に本気になって2年目に作った歌が大ヒットした

□ ここまでヒットした理由はどう分析しているの?

■ 楽曲の中にその要因を見つけるのは難しいんじゃないかな。インタビュワーは音楽の話をもっと引き出したかったんだろうけど、何しろキャリアが浅すぎるし、特別な音楽の環境で育ったわけでもないからネタがない。ハンバーガーが大好きだというどうでもいい話になってしまう

□ 何もないところからどうしてヒットしたんだろう

■ 「香水」は1年前に配信した曲で、TikTokでみんなにカバーされることで知られて、今年(2020年)春に各種チャートにランクインし始め、あれよあれよというまに軒並み1位になった。4月下旬から5月上旬にかけて、「Apple Music」のシングル総合チャートで1位、「LINE MUSIC TOP 100」や「Spotify Japan Viral 50」でも1位。5月中旬にはビルボードの総合チャートで1位。9月にはYouTubeで再生回数が1億を超えた

□ 昔なら、オリコン1位とかザ・ベストテン1位とかでわかりやすかったけど、今は聞いたこともない細分化したチャートばかりで、すごさが実感できない

ビルボードの総合チャートはCD売上だけでなく、ダウンロードやストリーミングのチャートなどの総合なので、それで1位だから認めるしかないでしょう

□ よく新聞の書籍広告で、アマゾンで1位というのがたくさんあるけど、小さい字で「○○部門」という狭い範囲でしかも何月何日という限定つきだったりする。嘘じゃないにしても、わざわざ言うほどでもない。そういうゴマカシはないということか。すごいんだね

■ すごいんだろうけど、この歌を聞いて何か新しいものを感じるかというとそういうものはなかった。曲にのってブランド名が歌われるところがちょっと面白いけど、ここまでくるという現象のほうに新しさがある

□ 何年か前までは、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」がYouTubeの再生回数が2千万超えた、すごいって言われてたのに、今や1億超えというのはざらで、珍しくない。米津玄師の「Lemon」は6億超えた

■ 10億行きそうだな。でも世界では、You Tubeの再生回数トップは洋楽のMV「Despacito」で70億に届きそうだよ。6億だと100位にも入らない。日本限定だとトップなんだけどね

□ そういうのを聞くと「香水」の1億がかすんじゃうな

■ 無名の人が短期間でというのは例がないでしょう

□ 「香水」の動画は最初間違ってチョコプラのを見てしまったんだけど

■ そっくりなやつね

□ 瑛人ご本人は陽に灼けて短髪で野球部っぽいし、仏像みたいな顔をしていて、アルカイックスマイルを浮かべているようにさえ見える。何かコンプレックスがあって、歌という表現手段に向かったという感じはない。外見だけどね。アーティストって見た目の印象も重要でしょ

■ 瑛人が平凡な外見だからこそ、芸能人が面白がってカバー動画を競うように作ったのかもしれない。キャラが尖った方向に行くのではなく、個性を消して誰とも区別できないような凡庸化の方向に向けて競い合う。そして消しきれずわずかににじんでくる差異を楽しむ。いずれにしても米津玄師の繊細さとはかなり違う。米津の場合は歌と歌い手との印象が一致していて違和感がないけど、瑛人の場合は高校球児っぽい外見と歌とのあいだにギャップがあってシュールな感じすら抱く

□ たしかにこの人が「香水」というタイトルの歌を歌うとはいっけん思えない。もっとクネクネしたヤサ男かダンディなおっさんを想像していた。ミスマッチ感が新鮮と言うべきかな

■ タイトルもそうだが、この歌は歌詞を読むと自分をつきはなしたところがあって、屈折した感じがする。インタビューによると、瑛人が最初に作った歌というのは小学4年のときで、その2年前に両親が離婚して、母親に育てられていたんだけど、毎週父親のほうへ遊びに行っていて、そこで父親がつきあっている女性を見た。それを歌にして母親に聞かせたものがそうだという。戯れに口ずさんだだけであろうその歌を10年以上経った今でも覚えているのだから、子ども心に相当ショックだったんじゃないかな。もしかしたら、自分は愛されていない子どもだと自己評価を低くする経験だったのかもしれない。全くの空想だけど

□ タイトルは歌の内容からすると「再会」とかでもいいのでは?

■ それだと演歌っぽくなるし、やけぼっくいに火がつく感じだから、歌詞からタイトルをもってきてZARDみたいに「君をまた好きになることなんてありえない」なんてどうかな。そういう凝り方はなくて、弁別のためのそっけない記号のような「香水」というタイトルにしたところに一遍まわって新しさがあるのかも

□ いかにも素人っぽいシンプルな歌なのに、なんでTikTokで流行り出したんだろう

■ 歌詞で〈ドルチェ&ガッバーナ〉という固有名を出したのが面白がられたんじゃないかな。単に〈香水〉というだけだと漠然としているけど、具体的すぎる固有名がフックになった。ドルチェ&ガッバーナはイタリアのブランドで、80年代に二人の無名の若者が始めた。広く知られるようになったのは90年台初頭にマドンナが使ってくれたからだよ

□ タイアップじゃないんでしょ

■ そういう意図はないようだ。無名のまだ一曲も世に問うてない人に、有名ブランドがタイアップするわけがない。だが結果的に、曲のヒットにあわせてフレグランスの売上が伸びた。ドルガバ人気がフレグランス部門全体の売上を牽引した。20~30代の新規購入者が目立ったそうだ

□ 〈ドルチェ&ガッバーナ〉って濁音、促音、拗音、長音、撥音といろんな要素が混ざっていてユニークだし、響きが強いね。〈ドルチェ&ガッバーナ〉を略したドルガバってドン・ガバチョみたいでユーモラスだし

ひょっこりひょうたん島の大統領ね

□ 「君の香りが昔のことを思い出させる」みたいな茫漠とした歌詞ではなく、強烈な印象を持つ固有名を取り入れたところが想像以上の効果を生んだ

■ 歌詞が具体的だと自分の気持ちを代入できず感情移入できないとか言う人がいるけど、それは間違いだということがわかる。フィクションや人の経験談を見聞きして感情が動かされるのは、それを自分の身にあてはめるからではなく、虚構のあるいは他人の身に起きた出来事それじたいに心が動かされるからでしょう。だからその虚構や出来事を成立させるに十分な具体的な細部の描写が必要になる。自分の身にいったん置き換えてみるというプロセスは必要ない。例えば不慮の事故で家族が亡くなるというドラマを見たとき、いったんそれを自分の身に起きたことだと仮定することでようやく悲しくなる、などということはないよね。共感にはミラーニューロンが関わっていると思うけど、自分にあてはめるというワンクッションは必要ない。生得的なものだ。だから歌詞にもミラーニューロンを活性化させるための具体性が必要になる

□ 最近若者に昭和ポップスが人気があるというテレビ番組がいくつかあって(2020年9、10月)、そこでは歌詞がいいからという話が中心になっていて、松本隆ちあきなおみの「喝采」などが取り上げられていたんだけど、歌詞から情景が浮かぶからいいということをしきりに言っていたね。歌詞が具体的だからです

■ 多くの人はドルチェ&ガッバーナの香水と言われても具体的な匂いを想起することはできないだろうね。香水の匂いそのものというよりも、香水をつける人はどういう人で、それはどういう場所かということでイメージするでしょう。現代は脱臭化された時代で、匂いのあることそれじたいが嫌われる。香水がどれほど魅惑的な匂いであっても、他人の香水の匂いが嫌いという人は少なくない。柔軟剤の匂いがきつくなったので「香害」という言葉もできた。匂いをアピールする香水は使うのが難しい。普通の職場で香水をつけてくる人はあまりいない。この歌でも、香水という言葉と外国のブランド名が、非日常性のある時間と空間を想定させる

□ この人が〈ドルチェ&ガッバーナ〉という言葉にたどり着いたのは偶然で、それを歌に活かすことができたのは才能なんだろうけど、今後どうなるのか。ビギナーズラックの一発屋で終わるのか。それとも、育ててくれる人にめぐり会えるか。米津玄師やあいみょんは誰もが真似できるというわけではないけど、この歌はヒットしたことで二匹目のドジョウを狙う人がたくさん出そうだな

 

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■ ドルガバ以外にも、この歌詞には不思議なところがある。奇妙な味わいがある歌詞なんだよ。Jポップには、前につきあってた人と久しぶりに会ったらまたやり直せそうな感じになった、といった歌がいくつもあるけど、そうなるのは二人は運命でつながっているというロマンチックな思い入れがあるからだ

コブクロの「赤い糸」なんてまさにそれだよ。付き合ってる彼女となんだかうまくいかないんで、一旦リセットして復縁を信じて待っているという歌。別れて10か月後に彼女からまた会いたいって手紙がくる

■ 試しているみたいでちょっと嫌かも。「赤い糸」(作詞、小渕健太郎)はインディーズ時代の2000年に出したアルバムに収録。手紙っていうのは時代を感じるね。この部分の歌詞は、

 

「会ってくれますか?」とあなたの手紙

いつわりのない言葉たちが

あふれた涙でにじんでゆくよ

 

とあるから、手紙という物質を介在しないと成り立たない歌詞だな。〈いつわりのない言葉〉というのも、電子メールじゃ軽すぎる。〈あふれた涙でにじんでゆくよ〉とあるから、手紙を書いた女性が泣きながら書いたわけではなく、読んでいる男のほうが泣いているんだね。信じて待っていてよかったと。手紙を読んで文字が涙でにじむなんて昭和っぽい言い回しだけど、泣くのが男女逆転しているのは平成っぽい

□ 「香水」では、女性のほうから〈いつ空いてるのってLINE〉がくる。手紙がLINEに変わっている。しかも別れて3年後。別れて3年経った相手から連絡がくるのはマルチの勧誘を疑えっていうコメントがYouTubeに流れていて笑ったよ。3年に反応するコメントがいくつもあった

■ たしかに3年は長いな。ネットでは、「復縁のタイミングは1年が最適です」なんていうアドバイスがあったりする(笑)。3年も経つと人は変わるからね

ちあきなおみの「喝采」(作詞、吉田旺、1972年)も〈あれは三年前〉と過去を回想するけど、田舎を飛び出してから3年で大スターに変貌している

■ その歌では3年前に別れた人はいまだに大切な存在だったんだけどね。境遇は変わっても人の心はそんなに変わらないという歌だ

□ 「香水」は3年経って連絡してくるんだけど、このご時世に時間の流れがゆっくりだよね。そこも令和ポップスらしくなくて昭和じゃない?

■ 瑛人は、この歌は実話だと言っていて、彼女と別れて3か月くらいのときに作ったものだと。ただ、歌詞では3か月ではなく3年になっている。3か月ならよくある傷心にすぎないけど、3年という時間にはドラマがある。事実どおり3か月にしたらペラくなってしまっていたけど、3年にすることで歌に重みがでた

□ その点でも「香水」はJポップらしくないというか、今ふうではない。しかも、久しぶりに再会してまたやり直せるかもしれないと思った、という展開にはならない。ここもJポップらしくないし、そもそも歌を作ろうとするモチーフがよくわからない不思議なものになっている。運命の相手との再会でなければ、なぜこの人のことを歌にしたのか。昔の相手に呼び出されて久しぶりに会ったのにときめかないというネガティブなことをあえて歌おうとしたのはなぜか。香水の匂いのことを歌にしたかったのか。何を歌いたいのか。真意はどこにあるのか

「香水」歌詞→https://j-lyric.net/artist/a061908/l050f86.html

■ 〈別に君を求めてないけど〉〈別に君をまた好きになることなんてありえないけど〉〈何もなくても楽しかった頃に戻りたいとかは思わないけど〉なんていう歌詞があって、相手に会っても心が動かない。運命の相手と復縁するというロマンチックさがなくて、Jポップのパターンから外れているので、聞いていて落ち着かない。マルチに勧誘されたという説もあながち捨てがたい。3年ぶりに誘いの連絡があったので警戒していたところ、実際、勧誘の話になったのでうんざりしたという解釈もありうる。ただ、〈君〉の匂いだけはいやおうなく過去の楽しい記憶を蘇らせるので、その気がない〈僕〉は困惑することになる。この歌は何を歌っているかというと〈僕〉の困惑を歌っている

□ 長いあいだ没交渉の元カノからLINEで軽く呼び出されて、その気もないのにノコノコ出かけたのだとしたら、そもそも〈僕〉の心理状態は何らかの原因で不安定な状態にあったということだろうな

■ 匂いという外部の刺激を受ける身体の感覚と、〈君〉への気持ちという心身が分裂している

□ それを独特の言葉遣いで歌う

■ 今までにないタイプの歌詞だ。例えば、次の部分もそう。

 

でも見てよ今の僕を

クズになった僕を

人を傷つけてまた泣かせても

何も感じ取れなくてさ

 

 うちの女房はこの歌を聞いて、「人を傷つけて何も感じないって、こいつサイコパスじゃん」と言ったんだけど、そういう乾いた冷たさがある。2番の歌詞でも〈人に嘘ついて軽蔑されて 涙ひとつもでなくてさ〉と言っているのも感情の乏しさが表れている

□ インタビューを読むと、インタビュアーが、お世辞なのか、「共感できる歌詞」とか言ってるんだけど、ちゃんと歌詞を読んだのかと思う

■ 香水の匂い刺激によってプルースト的な「無意志的記憶」が呼び出されることに共感したということじゃないかな。共感の範囲は限定的だけど

□ 〈クズになった僕〉というのは、鬼束ちひろ「月光」の〈この腐敗した世界〉と対をなす突出した表現だと思った。でも、自分で自分のことを〈クズ〉って言わないでしょう普通は。他の人が「このクズめ!」って罵る言葉だよ

■ 鬼束の歌も〈I am GOD’S CHILD〉と、自分で自分のことを神の子と言っているよ。それはともかく、瑛人はインタビューでこう言ってるんだよね。「ちょうどその時、いろんな人にクズって言われてたんですよ。友達にも元彼女にもクズって言われて。あげく、遊んでた女の子にまでクズって言われて。母ちゃんにも言われた」。つまり人から「クズ、クズ」って言われ続けたんで、自分でもクズだって思うようになった。(https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/eito2?bfsource=relatedmanual

□ 自分はクズだっていうのは自己嫌悪なのか。自分はもう〈君〉にはつりあわないと卑下していて、気持ちを抑えているのか

■ 〈自分が嫌になる〉と歌う自己嫌悪ソングはいくつもある。でもそういう歌は、それでもそういう自分をありのままに肯定していくという方向の歌詞になる。ミスチルの「innocent world」(作詞、桜井和寿、1994年)は〈窓に反射する(うつる)哀れな自分(おとこ)が 愛しくもある この頃では〉と歌い、同じく「HANABI」(作詞、桜井和寿、2008年)では〈考えすぎで言葉に詰まる 自分の不器用さが嫌い〉というけれど、〈もう一回 もう一回〉と前向きなんだ。でも「香水」の場合は、だからどうするというのがない。僕は〈クズ〉です、〈空っぽ〉です、で終わっている。自分のことはわかっている。それで、その先どうするのっていうのがなくて、そこで止まっている

シャ乱Qの「シングルベッド」(作詞、つんく、1994年)は〈流行の唄も歌えなくて ダサイはずのこの俺 おまえと離れ 一年が過ぎ いい男性(おとこ)になったつもりが〉とあって、元カノに釣り合うようにと会わない期間に努力している。でも「香水」の〈僕〉は逆で、3年経ったら〈クズ〉になってしまった。元カノは、前よりいい男になっているかもと期待して呼び出したと思うけどがっかりしただろうね。元カノは少なくとも前につけていたのと同じ香水をつけてきたし、たとえ口先だけであろうと〈可愛くなったね〉と言われる程度には努力をしている。ところが男のほうは、自分の〈クズ〉さと釣り合いをとろうとするかのように彼女がタバコを吸い出したことをもって〈君〉は変わってしまったと言うんだ

■ 瑛人は「香水」の他にも少ないけれどいくつか作品があって、例えば「HIPHOPは歌えない」(作詞、8s、2020年)は、鏡に映った自分を〈俺の嫌いな奴が目の前にいるよ〉と言い、〈今日も誰かに言われてる お前はただのフェイクだと〉と歌う自己嫌悪ソングだ。〈愛着もないけど しょうがないなこれが自分だから〉とも言っていて、自分に愛着がないと言ってしまうのもすごいなと思う

□ どうしてそんなに「クズ、クズ」って言われたんだろう。瑛人という人は、映像ではにこやかな人に見えるけど

■ 具体的なことはわからないが、歌詞にそれを求めれば、この「HIPHOPは歌えない」という歌では、〈だらしがないくせに酒を飲むともっとだるい 朝も起きれずに約束を破ってく 鏡の中二日酔いの男が笑うんだ〉とあるから、だらしないところがあるうえに酒ばかり飲んでいるから周囲がもてあましているということじゃないかな。どこまで事実が反映されているのかわからないけど、歌詞を読むと空虚なものを抱えている印象がある

□ 具体的に〈クズ〉の中身を知りたいなあ。気になる

■ 歌詞を解釈する場合は現実のご本人とは切り離して考えないといけない。実際、この「香水」という歌の場合は、元カノがこの香水をつけていたから書いたというわけではなく、バイト先のオーナーのものをたまたま持ち帰ってしまったことから着想したらしい

□ あくまで作中の人物についてということで、この語り手が自分を〈クズ〉というのはなぜか。〈クズ〉な奴が果たす機能は何か

■ 実際に自分の身のまわりにクズな奴がいると腹が立つけど、マンガやドラマに出てくるクズ野郎は道化でもあって、どうしようもなさに腹立たしいけど何とかしてやりたいっていう愛おしさも湧いてくる。有能な人でも、ある一面においてはクズなところがあるけど、それは愛すべき欠点になる。完璧な人は近寄りがたい。どこか抜けているところがあって全体のバランスをとっている

□ 程度問題だけど、〈クズ〉っていうのは人から愛されるんだよな

■ 最近見た『私の家政夫ナギサさん』だと、多部未華子演じる主人公は、仕事はできるけど家事や恋愛ができないアラサー女子だった。仕事を自宅にまで持ち込む人で、仕事とそれ以外の時間配分ができない。それを補ってくれるのが家政「夫」さんで、家事をやってもらっていることが恋愛感情につながっていく。そういうダメなところのある主人公って共感を呼ぶよね。視聴者もたいてい自分にダメなところがあるから親しみを持てる

□ 〈クズ〉は「ダメ人間」というより強い言葉だね。歌詞の文脈の中でも浮いている

■ 〈クズ〉という強い言葉がこの歌の〈僕〉の印象を作っているけど、その〈クズ〉が香水の匂いで昔を思い出すっていうのはひとつの救いになっている。〈あの頃 僕達はさ なんでもできる気がしてた/2人で海に行っては たくさん写真撮ったね〉という昔語りがある。この部分だけ甘やかで肩の力が抜ける。Jポップふうの歌詞になっていて安心する。サイコ野郎の心の中に残っている人間らしい心の片鱗というか。それを呼び覚ますのに香水が威力を発揮している

□ Jポップの陳腐さが救いになることもあるんだな。ただ、歌詞の流れからいうと、その昔語りのあとに〈クズ〉っていう言葉が出てくるから、Jポップふうだと油断して聞いていたら「実は…」ってなってびっくりする。歌は何度か繰り返し聞くものだし、歌詞は言語作品としては短いもので全体の印象を形成するのも容易だから、言葉が出てくる順番は重要ではないかもしれない

 

3

■ この歌詞の語り口はずいぶんユニークなものだと思うけれど、間投助詞の〈さ〉が多いのは気づいてた?

□ そこは気になった。歌詞の穴埋めに〈よ〉〈ね〉〈さ〉を入れる例は多々あるけど、この歌の場合は無理やり感があるね。〈さ〉が入るタイミングが不自然だよ

 

夜中にいきなり「さ」

あの頃 僕達は「さ」

何も感じ取れなくて「さ」

今更君に会って「さ」

どうしたの いきなり「さ」

涙ひとつもでなくて「さ」

 

■ なんかこういう口癖の人はいそうだけどね

□ 『ちびまる子ちゃん』に出てくるお金持ちの子どもでキザな花輪クンは「ぼくの人生はいつも一人旅さ」みたいな言い方をする

■ それは役割語だね。勇ましい男性は「~だぜ」、女学生の「~だわ」、男性の老人だと「~じゃ」、中国人は「~あるよ」みたいに、現実でそのように言うことは殆どないけど、その人の属性を記号化した言葉で示すもの。一人称や文末によく表れる。もっと現実離れすると、マンガのニャロメの「~ニャロメ」とか、バカボンパパの「~なのだ」とかキャラ語になる

□ ぼくら自身、この会話の中で「よ」「ね」を多用しているよね

■ これは役割語というより、親しみを演出するためだけどね。方言を矯正するために「それでねー、それでさー、それでよー」などの「ね、さ、よ」を使わせないようにしようという「ネサヨ運動」が1960年代に全国に広まった。今は方言は無理に矯正すべき恥ずかしいものではなく、むしろ保存しないと消えてしまう文化になっているけど。方言ではないが、語尾にやたら「ね、さ、よ」をつける人がいて、話しているぶんにはいいが、文字におこすと押し付けがしつこい感じになる。オレも語尾に「ね、さ、よ」をつけるたびにチクチクする。ただ、歌から「ね、さ、よ」を追放したら、もう歌詞が書けなくなるんじゃないかな

□ 女性の〈わ〉はフィクションではいまだ健在。小説を読んでいると語尾に〈わ〉をつける例は多い。ドラマでも女優さんが脚本どおりに〈わ〉をつけてセリフを言っている。役者なので自然な感じで演じているけど、普段の生活で聞くことはまずない

■ 歌詞で、〈わ〉〈だわ〉の例としては、キャンディーズの「微笑みがえし」(作詞、阿木燿子、1978年)だと〈畳の色がそこだけ若いわ〉〈イヤだわ あなた すすだらけ〉。これは女性の作詞家。男性の作詞家によるものだと、中森明菜の「少女A」(作詞、売野雅勇、1982年)は多いな、〈蒼いあなたの 視線がまぶしいわ〉〈いわゆる普通の 17歳だわ〉〈私は私よ関係ないわ〉〈特別じゃない どこにもいるわ〉〈耳がああ熱いわ〉〈ルージュの口びる かすかに震えてるわ〉〈関係ないわ〉。これはツッパリソングなので、〈わ〉の多用でその雰囲気を出そうとしていたのかな

□ 女性の〈わ〉と比べたら、瑛人の〈さ〉は男性的だね。女性が〈さ〉を使うことはない

■ 終助詞の「さ」についてはそうだろうね。でも間投助詞では親しいあいだがらで使っているよ。「あのさー、昨日さー、ドンキでさー」って。終助詞の「ね、さ、よ」にまで目くじら立てていたら何も言えなくなるけど、間投助詞にまで「ね、さ、よ」を多用されると子どもっぽくなる。「それでさー、ぼくさー、あいつにさー」って子どもが言うぶんにはいいけど、大人になったらしつこいって思うでしょ。間投助詞の「ね、さ、よ」は口調を整えたり相手の注意をひこうとしたりするものだから、親密でない人に対しては使用を控えたほうがいい

□ 瑛人の歌の場合は間投助詞だね

■ 〈人を傷つけてまた泣かせても 何も感じ取れなくてさ〉と、〈人に嘘ついて軽蔑されて 涙ひとつもでなくてさ〉というのは言い差しになっている。この場合の〈さ〉っていうのは、自分はこんなに冷たい人間になってしまったけど、どうしてこうなってしまったんだろうという自己への再帰的問いかけになっている。ここは実際に口に出して〈君〉に話したのではなく、内面のセリフだね

□ では〈僕〉は〈君〉とどういう会話をしたんだろうかということが気になるね。あたりさわりのない会話をしたんだろう。でも内面ではこんなふうに考えていたと

■ この〈さ〉は、〈僕〉自身の内面の語りであると同時に、聞き手にも向けられている。この歌の人気のひとつに、〈さ〉が聞き手の無意識に訴求した部分があるかもしれない。「ね、さ、よ」が親密な関係において習慣的に使用されるものであるなら、〈さ〉の多用は、この歌を、聞き手を親密な相手に見立てた語りにしている

□ あらためて指摘されると〈さ〉が多くて耳障りに感じるけど、作り手にとっても意図せざる効果が生まれたということか

■他にも気になる言葉遣いがある。〈別に君を求めてないけど 横にいられると思い出す〉という部分。〈横にいられると〉って、ちょっと失礼な言い方だと思う。〈いられると〉って否定的な意味でしか使わないでしょう。オレは女房に、「そこにいられると邪魔、掃除できない!」なんてよく怒られる

□ 行為でなく存在を否定してるから、言われた方は頭にくるし傷つく

■ 〈いられる〉を辞書でひけば、「ア行上一段活用の動詞「いる」の未然形である「い」に、受身・尊敬・自発・可能の助動詞「られる」が付いた形」と書いてある。(https://www.weblio.jp/content/いられる)「素直な自分でいられる」と言えば「可能」の意味だけど、〈君〉に〈横にいられると〉というのは「受身」だ。

 〈いられると〉について「Lang-8」というブログでわかりやすく解説していた。「『いられる』というのは、自分の意志に関係なく、誰かがそこにいる状況」だという。例文として掲げられているのが、

 

ゴールデンウィークは、夫に毎日家にいられて困った。

・勉強したいのに、妹にいつまでも部屋にいられて迷惑した。

 

の二つだが、いずれも、困ったり迷惑に感じたりする場合だ。〈いられると〉の〈と〉については、「成績が悪いと、卒業できません」のように、「”Aが起こればふつうBが起こる”と考えられる場合に使う「と」です」とある。この歌に即して言えば、〈君〉が横にいることが困惑の原因になっていると言いたいための〈と〉だね

https://lang-8.com/1607194/journals/339075867325388583228487013770575250478

□ 望んでないのにそこにいるのだから、嫌な奴が居座っている感じが漂ってしまう

■ 〈横にいられると思い出す〉というのは、〈僕〉は〈君〉が横にいることを望んではいないが、〈僕〉がどう思っているかに関わりなく〈君〉がそこにいるので自動的に思い出してしまうというニュアンスを持つことになる。そこで記憶を媒介する香水の匂いは〈僕〉を受身にさせて思い出させるものだ。歌詞に〈い(居)られると〉を使っている歌は検索すると90曲ほど出てくるが(いられると 82曲、居られると 9曲)、「香水」以外は可能の意味の〈い(居)られると〉で、受身で使っているのは「香水」だけ

□ 言葉遣いにクセのある書き手なんだ。〈いられると〉は嫌な場合が多いけど、これが〈いてくれる〉だったら存在に感謝していることになる

■ 〈いてくれる〉だったら〈そばにいてくれるだけでいい〉というフランク永井「おまえに」(作詞、岩谷時子、1966年)が典型だね。ちなみに〈そばにいてくれるだけでいい〉という歌詞のフレーズをそのまま含むJポップは8曲あった。歌詞に古いも新しいもないようだ

 

4

■ この歌はおしまいのところで、〈別に君をまた好きになるくらい君は素敵な人だよ/でもまた同じことの繰り返しって/僕がフラれるんだ〉と言っている。それまで〈君〉にはもう興味はないみたいなことをずっと言ってきたのに、最後になってそれをひっくり返すようなことを言う

□ 〈「可愛くなったね」口先でしか言えないよ〉と言っていたかと思えば、〈君をまた好きになるくらい君は素敵な人だよ〉というのは矛盾している

■ 重要なのは、最後に置かれた言葉のほうが真実だと思われやすいということだ

□ 最後になって本音がポロッと出たということか

■ それまで、自分はクズだとか、空っぽだとか言っていたのは、〈君〉に冷淡にしている言い訳だったわけだ。久しぶりに会ったのに心を動かされないのは自分がクズだからだと。でも、それは本音を悟られないための韜晦なんだよ。聞き手には「ひっかけ」になっている。〈君〉にまた〈フラれ〉て〈同じことの繰り返し〉にならないように、〈君〉に惚れないよう自分をごまかしている、制御している。惚れないように予防線を張っていた。そのことが、最後に置かれた言葉によって露(あらわ)にされる。本音が漏らされたように聞こえる。そしてそういう目で読み直すと、〈クズ〉の別の意味が見えてくる。〈クズになった僕〉と言っていて、もともと〈クズ〉ではなかった。〈君〉と別れ、〈君〉以外の女性に対しては〈人を傷つけてまた泣かせても 何も感じ取れなくてさ〉ということだったかもしれない。それは彼女たちは運命の人ではなかったからだ、とも言える。運命の相手ではなかったからすげなくできた。それは〈君〉のような女性とつきあってこなかったから〈クズ〉になってしまったと言っているようにもとれる。〈僕〉がダメになったのは〈君〉のような素晴らしい人を手放してしまったからだと〈君〉を称賛している

□ どんでん返しだな。でも、この歌はミステリーを読むように読み解かなければならないほど論理的に構築されたものなのか

■ 先ほど、〈別に君を求めてないけど〉〈別に君をまた好きになることなんてありえないけど〉〈何もなくても楽しかった頃に戻りたいとかは思わないけど〉というところを引用したが、ここで〈けど〉が口癖のように3回使われている。これはミステリーふうに読み解くと伏線になっているといえる。〈けど〉は、本心を隠していることをわずかなニュアンスで示している。〈別に君を求めてないけど〉と言っているが、本心は君を求めている。〈別に君をまた好きになることなんてありえないけど〉と言っているが、本心では、君をまた好きになりそうだということ。自分で答えを言ってしまっているのに、それを〈けど〉であわてて隠している。その、これは本心じゃないよ、という意地の部分が〈けど〉に表されている

□ 自分でも何が本心なのかわからなくなっているんだろう。言葉にすることで、ああ、これが本心だったんだと気づくことになる。なんにせよ、よく練られた歌詞という結論になるのか?

■ もともとこの歌は即興で作っていったものらしい。ラップでフリースタイルってあるでしょ。即席でどんどん言葉を繰り出していくやつね。「香水」の元になる部分はそういう遊びの中でできた。だから構築力はそんなに強いものではないし、細部の言葉もよく練られたものではなかったはず。もちろん、あとから手を入れていると言っているけれどね。この〈けど〉がどれほど意識的に書かれたのかはわからない。無意識に入れてしまったというほうが面白い。言葉が緻密に配置されていないほうが、言葉じたいの持つ論理によって、作り手の意図を超えるところが出てくるからね

□ 読み手が想像するわけだ

■ そう。さっきも言ったけど、瑛人は、この歌は実話だと言う。彼女と別れて3か月のときに作ったと。「俺、何であんなひどいことしたんだろうな」ということを、別れて3か月たって気づいた。つまり自分が〈クズ〉だったから彼女と別れてしまったという後悔があって、そういう気持ちを歌にしたんだね。でも、歌詞では3か月ではなく3年になっている。3か月と3年では全然意味が違ってくる。3か月なら、別れた原因が自分が〈クズ〉だったからということでいいけど、3年だと、その間に自分が〈クズ〉になったということになる

□ なるほど、歌詞をよく読むと〈見てよ今の僕を クズになった僕を〉とあって、年月による変化を強調しているね

■ さっき君が言った「どんでん返し」というのはスキーマの変更だね。スキーマというのはものの見方の枠組み。瑛人はインタビューでこう言っている。

 

「歌詞の意味が文字通りだけじゃない表現にはこだわっています。最初聴いたら「あれ?」って思われるかもしれないけど、それも敢えてというか。」https://magazine.tunecore.co.jp/stories/62144/

 

 それはどういうことかということで、具体例をあげている。ハンバートハンバートの「おなじ話」について、こう言う。

 

「初めて聴いた時は、「可愛い曲だな」っていう印象だったんですが、よくよく歌詞を聴いてみると、「君のそばにいるよ」っていう歌詞のあとに、「どこへ行くの?」っていう歌詞だったり、すごく不思議な内容で。目の前にいるはずなのに、「どこにいるの?」「どこへ行くの?」っていう歌詞なのは、なんでなんだろうって。それで友達に話していたら、「この曲は目が見えない人の歌なんだよ」って言われたんです。本当は、どういう意味の歌詞なのかは、分かりません。でも、そういう解釈の仕方もあるんだって、その瞬間ぞくっとして。その時に、一つの歌詞で色んな解釈の仕方ができるのって、面白いなと思いました。」

http://www.billboard-japan.com/special/detail/2961

 

 要するに、「可愛い曲」というスキーマで聞いていたところ違和感があったので、「目が見えない人の歌」というスキーマに変更したところ、より理解できるようになったということだ。それはまさに今読み解いた「香水」もそうで、最後の部分でどういうスキーマで解釈したらよいかタネ明かししている

□ なるほど。「一つの歌詞で色んな解釈の仕方ができるのって、面白い」というのはいいけれど、それを抽象化するという方向でやらないようにしてもらえればと思う

■ まとめ的なことを言うと、さっき、この歌は困惑を歌っていると言ったけど、二重の困惑が歌われている。表層では、〈君〉に関心がないのに香水の匂いによって強引に懐かしい思い出が引き出されること。その下に隠された層では、〈君〉に惹かれているのにそうでない風を装わねばならないこと。前者では、香水の匂いは〈君〉を嫌悪させるものとなり、後者では君への思いを加速させる媒介になる。そしてそれを素直に表現できない自分を嫌悪させるものにもなる。いずれにせよ香水の匂いは、感覚器から抗えず侵入し〈僕〉の心を操るものの象徴だ

□ そこまでくるとサイコどころか相当デリケートな歌詞ということになる。女子ならわかるが、男子にしては草食系すぎるだろう

■ 瑛人の新曲「ライナウ」を見ると、これまで演奏はギター一本で趣味的な作品ばかりだったのに、ちゃんと商業作品に仕上がっている。ただ、歌詞は「香水」「HIPHOPは歌えない」のような毒がないし、「シンガーソングライターの彼女」のようなローカル性へのこだわりもない。平凡な日常の中の今を大事にしようというメッセージを歌っているけど、よくある一般論だし、上から目線だ。You Tubeの視聴回数もそれほど伸びてない(2020.10.11現在158万回)。瑛人の他の楽曲の視聴回数も伸びてない(「HIPHOPは歌えない」277万回、同)。世間の人は「香水」は面白がっているけれど、瑛人その人にまであまり関心が向いていないかもしれないね

□ まあ、ぼくらとしてはここまで話し合ってきたことで、なんだか親しみがわいてきたので頑張ってもらいたいね

ボインとおっぱい

1

 新アルバム発売でテレビによく出ているあいみょんだが、先日の『SONGS』(NHK R2.9.5放送)で、「いちゃいちゃって言葉を考えた人すごい」と言っていた。正確には、数年前にツイッターで呟いたことらしい。

 擬音語の造語力について「そういう言葉を一番最初に使った人ってすごい」と感心し、「空気感を擬音で言葉変換できるって素敵な能力」と賞賛する。そして自分も「そういうのを作れる人になりたい。最初に言い始めたのあいみょんらしいよっていう言葉が欲しい」と言う。

 「いちゃいちゃ」というのは、男女が仲良く身体を接し合っている状態だが、他にも「ねちゃねちゃ、べちゃべちゃ、ぐちゃぐちゃ」など、粘り気のある状態を指す語は「◯ちゃ◯ちゃ」と言うことが多い。それらは、「ねちょねちょ、べちょべちょ、ぐちょぐちょ」とも言うが、「いちょいちょ」はなぜか言わない。「ねとねと、べとべと」はあるが、「ぐとぐと、いといと」はない。これらはグループの言葉といえるが、形態が微妙にずれているところが面白い。

 擬音擬態語は漢語から来ていることがよくある。マンガに多い「しーん」は「森」から来ている。勝手な想像だが、「ねちゃねちゃ」は「粘着」、「いちゃいちゃ」は「居着」から来ているかもしれない。「居着」は現代では「いつく」としか読まれてはいないが、過去にこれを「いちゃく」と読んだ場合があったのではないか。

 「いちゃいちゃ」を歌詞に用いた例は、検索したら23曲あった。意外に少ない。だが、そのうち、AKB48SKE48、乃木坂46など、秋元康が作詞したものが5曲もあり、安倍なつみBerryz工房、THE ポッシボーなど、つんくが作詞したものが3曲あった。いずれも若い女性が構成員となるグループで、彼女たちに「いちゃいちゃ」と言わせることで、聞き手に身近な存在に感じさせるのだろう。

 

2

 あいみょんに話を戻すと、先の番組で、対談相手の大泉洋が、知ったかぶりを発揮してボインて言ったのは誰か知っているかと聞いて、巨泉さんだよと教えたら、あいみょんは「ええーすごい」と言ったが、それほど驚いたふうでもなかった。大橋巨泉1990年には芸能界を引退していたから、1995年生まれのあいみょんの反応が鈍いのは当然で、もし「それって誰ですか」と答えていたらこの部分はオンエアされなかっただろう。

 ちなみに、ウィキペディアによると、巨泉は俳号で(俳句をやっていた)、「アイデアが泉のように湧き出るようにと、最初「大泉」を考えたが、それでは、名字も名前も大がつくので、大の巨人ファンということから大を巨に変えて「巨泉」とした」という。なるほど大泉洋が巨泉の話を持ち出すわけだ(本人は知らないかもしれない)。

 さて、胸の大きい女性のことをボインという人は今やほとんどいない。昭和の時代に流行ったが、定着せず死語になったといっていいのではないか。廃れた理由は、それを指すものと語感がうまく一致していなかったからだろう。

 ボインは巨泉の造語というより、既成の言葉の流用である。『擬音語・擬態語辞典』(山口仲美編、講談社学術文庫2015年)によれば、「重くて弾力のある物が、勢いよく打ち当たる様子」の擬態語が「ぼいん」で、例文に「ぼいんとぶつかる」が載せられている。女性の胸については、「タレントの大橋巨泉が女優朝丘雪路の胸にぶつかって、ボインとはじきかえされたことから言い始めた」とある。「ぼいん」には「ぼよよん」という類義語もある。こちらの方がゴムボールが弾む感じで、弾力性が高い。「ぼよよ~ん」などとしてマンガなどから広まったのではないか。

 現在では「ボイン」より「巨乳」ということが殆どだが、両者について歌詞の使用例を調べると、「ボイン」の方が多い。「ボイン」は胸だけでなく、大きな胸の女性のことも指す。「巨乳」は露骨すぎるのか歌詞にはあまり使われず(18例)、「ボイン」は62例ある。ボインちゃんとか、ボインな姉ちゃんと言ってみたり、ボインボインと続けたり、どこかオッサンくさいところがある。ドリフやずうとるびなど古い歌が少なくないが、ボインにはユーモラスな感じがあるのでいまだに使う人がいるのだろう。

 「ボイン」で一番有名な歌は「キューティーハニー」(作詞、クロード・Q、1973年)であろう。歌詞に〈今どき人気の女の子 プクッとボインの女の子〉とある。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a001faf/l012bd1.html

 〈プクッと〉というのは小さいふくらみである。〈お尻の小さな女の子〉とも言っているが、ハニーは図像的にはお尻や胸が小さいわけではないので、言葉と絵が一致していないことになる。この〈プクッと〉は、「プクッとした巨乳」という言葉が形容矛盾であるのに対し、〈プクッとボイン〉はそれなりに理解できることから、「巨乳」は胸の大きさを表すが、「ボイン」は大きさよりもむしろ弾力性を表していると考えることができる。大きく張った胸は弾力性が高いと思われるのでボインは大きい胸を表しもするが、語の本義は見た目の大きさよりも、その性質・状態にあるのだろう。

(ちなみにアニメ『魔女っ子メグちゃん』(作詞、千家和也1974年)の主題歌は〈二つの胸のふくらみは なんでもできる証拠なの)とあり、女子児童が見る番組にしては大人っぽいが、これはキューティーハニーを意識したものらしい。)

 50年も前の「キューティーハニー」の時代より、女性たちは身体的に成長し胸の大きい人が増えたので、「ボイン」という特殊性のある呼び方ではなく、「巨乳」という即物的な呼び方に変わってきたのではないか。「○乳」という言い方は、貧乳・美乳などバリエーションとして発展させることもできたので、元となる「巨乳」の語も生き残っていったのだろう。「ボイン」という言い方には、男性を弾き飛ばすような(寄せ付けない)攻撃的な要素が幾分か含まれているが、「巨乳」になると、男性に鑑賞され格付けされ弄ばれる受動的な対象になってしまう。

 

3

 女性の胸のことは「おっぱい」とも言う。こちらのほうが、名指されるものと語の響きとがぴったりしている。擬態語かと思ったが、先の辞典には掲載されてない。「おっぱい」の語源についてはいくつか説があるようだが、しっくりくるものはない。「杯(はい)」から来ているという説もあるようだが、それが一番近いのではないか。

 「おっぱい」の歌詞の使用例を調べると85例あった。「おっぱい」の語をタイトルに含む歌は8例あった。「ボイン」や「巨乳」は、大きな胸を指すだけではなく、大きな胸を持つ人を指すことがあるが、「おっぱい」はその人じたいを指さない。「おっぱい」と言うとき、「ボイン」や「巨乳」の語と違い、大きさや弾力性といった見た目や性状はその語には含まれず、たんに身体の一部の形状を示している。「おっぱい」は母乳を指すこともあり、子どもを育てるのに必要であることから、性的なニュアンスは軽減され、幼児語として認知される。人ではなく機能に着目した言い方で、そこから母性的なものの象徴となる。「巨乳」のような受動性はなく、自立した存在価値を持っている。男性が「おっぱい」としてそれを弄ぶためには、男性が幼児化する必要がある。

 あいみょんにも「おっぱい」という歌がある。第二次性徴を迎えた女性の自意識を正面から描いて秀逸である。異性の親との関係(お父さんとのお風呂)、同年代の異性が向ける品定めするような視線、変化する自分の身体への意識(胸を隠すために猫背になる)、胸が揺れるとその存在感がフィードバックされて一層意識される、同性の親との具体的な関係(母親が選んでくれた下着への不満)などなど、「たかが胸のふくらみ」ひとつで不安になったり嫌悪感におちいったり優越感にひたったりと、矛盾した思いを抱えながら人間関係や自分自身との関係が組み替えられていくさまを、短い歌詞の中に余すところなく盛り込んでいる。あいみょんにはエッチ系の歌があり、この歌もその一つだが、卑猥さはない。(他にも〈パイオツ〉〈胸の谷間〉などシモネタ系の言葉を歌詞に使うことをいとわない書き手である。)

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a05996f/l038973.html

 女性の身体の一部である「おっぱい」にこだわる「おっぱいソング」は、視点が女性と男性では内容が異なる。

 女性が書き手のものは2パターンがある。一つは、自分の胸が小さいことと自信のなさが結びついている。中村千尋「あたしにおっぱいがあったなら」、ミオヤマザキ「コンプレックス」、齊藤さっこ「鏡」などがそうである。もう一つは、男性目線の欲望に沿ってお道化てみせるもの。こちらのほうが陽キャラになるので多い。

 男性が書き手になる「おっぱいソング」は軽薄で単純なものが殆どで、女子の気を引きたい中高生のシモネタみたいである。大きいおっぱいが好きで、おっぱいいっぱいぱいぱいぷりんぷりんを繰り返す。「ぱい」の響きが口唇に心地よいのだろう。おっぱいを飲む、揺れる、触りたいと明け透けである。エロティックなコミックソングというジャンルに重なっている。

 ふざけた歌が多い男性の「おっぱいソング」の中で、石崎ひゅーい「おっぱい」は、小さい胸を悩む女性に、〈君は君のままでいなよ〉と、やや真面目なところをみせる。だが、〈鶏肉とキャベツと豆乳いっぱい食べておっぱい大きくなぁれ 君の悩み事なんか宇宙のカスみたいなもんなんだから〉ともあって、はたして馬鹿にしているのか慰めているのかよくわからない。外見で判別されてしまう胸の大きさは女性のアイデンティティと結びついている。その切実さをわかっているようには思えない。

 「おっぱいソング」の中では、あいみょんの「おっぱい」が一頭地を抜いているといえそうだ。おっぱいという題材に正面から取り組んで、男に媚びを売るわけでもなく無理におどけるでもなく、ユーモアとデリカシーと明け透けさのバランスの上に、いろんな観点を取り込んで等身大の自己意識を描ききっている。

 

4

 「ボイン」や「巨乳」は男性語である。女性が使うことはまずない。女性は「バスト」とか、たんに「胸」といった、価値判断を含まないフラットな言葉を選ぶ。

 「おっぱい」という言葉も、偽装された幼児語として、今やすっかり男性が使う言葉になっている。女性が「おっぱい」と言うとき、それは胸ではなく母乳を指して言うことが多い。

 次のブログ記事は、女性が自分の胸について「おっぱい」というとき、それは特別な意味を持っていることを指摘している。(https://www.imbroke-s.com/entry/neta/oppai)主としてキャバ嬢を観察してのことだが、

  1. Eカップ以上の胸を持つ女性は自分の胸を「おっぱい」と表現する傾向が高い
  2. Eカップ未満の女子は自分の胸を「胸」と言う傾向が非常に高い。特にABカップの女子で「おっぱい」と言う人は皆無

(改略して引用)

 キャバクラ勤めの女性たちは商売柄、男性視点を内面化している。彼女たちにとっては「胸」という言い方が無徴、「おっぱい」という言い方が有徴であると推測される。男性の欲望に応えられる特別な胸を持った女性だけが「おっぱい」と言うことを許される。(2)の女性たちは、自分の胸には性的なアピールが乏しいと感じているから「おっぱい」という男性を引きつける語を用いられず、たんに身体の一部を指す「胸」と言っているのだろう。

 日本語で「胸」と言うより英語で「バスト」と言ったほうが直接性は弱まる。だが、「バスト」はスリーサイズを連想させるので、男性による格付けの発想にからめとられやすい。「バスト」を歌詞に用いている歌は72曲あったが、「ABC」といったサイズや数字、「ヒップ」や「ウエスト」といった女性の身体を特徴づける部分と一緒に用いられることが少なくない。胸を大きくする「バストアップ」として用いているものは6曲あった(上半身を撮影する意味でのバストアップを除く)。作詞者はいずれも男性であり、からかいの意味が含まれているように思える。

 「胸」や「バスト」といった言葉は、おっぱいそのものを指すにはやや曖昧である(性的にならないよう曖昧にしている)。おっぱいそのものを価値判断を含まずに言うとしたら「乳房」であろう。これは医療でも用いられており、外形が大きいとか小さいとかといった言葉とはなじまない。

 実は「乳房」の語は「おっぱい」よりも歌詞でよく使われている。約180曲ほどある。このうち半分ほどは演歌である。「乳房」は女であることの哀しみや生のほとばしりのようなものを表している。「おっぱい」や「ボイン」「巨乳」は真面目な顔で歌う演歌では使われない。「乳房」には神妙さがある。もちろん「乳房」はそのものズバリを指しているから、揺れたり噛んだりとエロティックな対象になるのであるが、ふざけた調子の歌詞は少なく、全体的に慎重な手つきで扱われた歌詞になっている。

歌詞がねじれてますが、何か?

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 歌詞を詩のように本に印刷したとすれば、たいていのものは、縦書きなら見開き二ページ、横書きなら一ページに収まってしまうだろう。言語の作品としてみた場合、それほど短いものである。

 だがその短さであっても、なぜか途中で言っていることが変わってしまうものがある。歌として聞いているぶんには気にならない。歌を聞いているときは、耳に届いているフレーズとその前後の言葉ぐらいにしか注意が向かず、歌詞全体の論理的一貫性を気にすることは、まずない。ところが、歌詞を活字としてじっくり読んでみると、途中で言っていることがズレているのではないかと気づくことがある。それは詩的な跳躍とは別のものである。

 以下では、よく知られた歌を三つ取り上げる。1と2は飛躍を感じる程度のものだが、3は別種の歌詞を接合したようにすら感じる。

 

1 ZARD「負けないで」

 コロナ禍で長い自粛生活が強いられているとき、元気が出る歌を募ったところ、ランキングのトップになったのは嵐「Happiness」、二位がZARD「負けないで」、三位はあいみょんマリーゴールド」であった(NIKKEIプラス1、二〇二〇年五月二三日)。これを世代別でみると、十、二十、三十代では一位が嵐、二位があいみょん、五〇、六〇代では一位がZARD、二位がウルフルズ「ガッツだぜ!!」であった。四〇代は一位がウルフルズ、二位があいみょん

 この中で、興味深い歌詞がZARD「負けないで」(作詞、坂井泉水、一九九三年)である。応援ソングの代表であるが、歌詞の内容も時世にあっている。〈負けないで もう少し 最後まで走り抜けて〉というのは、いつまで続くかわからぬ休業要請や在宅要請はまるでマラソンのような持久戦であり、それはまさに〈もう少し〉〈もう少し〉と励まされ続けて〈最後まで 走り抜けて〉くれと言われているようである。また〈どんなに離れてても 心はそばにいるわ〉というのは、「社会的距離」を保ちながらも気持ちはいつもどおりという意味に符号していたし、テレワークや無観客の客席に本来いるべき人の〈心〉のあり様でもあった。この歌はそのように、聞き手の置かれた状況によってさまざまに「誤読」されることで、長い間(三〇年近くも)親しまれてきた。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a0009c5/l005be5.html

 この歌をソラで(記憶だけで)歌うことができる人はどのくらいいるだろうか。ヒット曲なので、おそらくサビの部分だけならかなりの人が口ずさめるだろう。だが平メロの部分も含めてということになると、冒頭の〈ふとした瞬間に……〉ぐらいは出てくるが、あとはゴニョゴニョとなってしまうのではないか。

 では、そのゴニョゴニョのところには何が書かれているのか。

 一番の歌詞では、好きな人と目が合ってときめいた、というウブな恋心が書かれており、二番では、〈あなた〉は何が起きても平気な顔をして「どうにかなる」と嘯く人だということが書いてある。

 これらの歌詞が、〈負けないで もう少し 最後まで走り抜けて〉というサビにつながっていくのだが、そこにはかなり飛躍がある。〈負けないで〉と応援するほどの境遇に〈あなた〉が置かれているようには見えないからだ。しいていえば、何がおきても平気な顔をしている〈あなた〉というところに、今その何かが起きているので〈負けないで〉と励ましているととれなくもない。しかし〈どうにかなるサと おどけてみせる〉という不真面目な相手に対し、〈負けないで〉と真摯な声がけをしても手応えはなさそうである。〈今宵は私(わたくし)と一緒に踊りましょ〉というのは、〈あなた〉が言った〈おどけ〉のセリフであろうが、サビの、ゴールは近いからもう少しだけ頑張れ、という緊張感がある歌詞とは雰囲気がまるで違っている。違うものを張り合わせたような印象を受ける。

 この歌の「謎」は、〈あの日のように輝いてる あなたでいてね〉とか〈今もそんなあなたが好きよ 忘れないで〉といったように〈あなた〉との関係を過去のこととして語っていることである。また〈どんなに離れてても 心はそばにいるわ〉というように、近くにはいない。理由は語られないが、この二人はどうも現在は直接交流がなく、語り手が〈あなた〉を遠くから見守っているといった感じなのである。相手の〈夢〉だけは知っていて、心の中で応援している。既に遠い関係なのだから、〈夢〉といっても漠然としか知り得ないと思うが、それを沿道でマラソン選手に声がけするような直接さ(〈ほらそこに ゴールは近づいてる〉)で語るのである。このあたりは、作詞した坂井泉水の私生活が反映されているかもしれない。

 

2 中島みゆき「糸」

 カラオケでよく歌われる歌の一つに中島みゆきの「糸」(作詞、中島みゆき、一九九二年)がある。しんみりした曲で歌詞も七〇年代っぽい感じがするが、その素朴さゆえに人気がある。カバーするアーティストも多く、映画化もされ、まもなく公開される。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a000701/l0000fa.html

 歌は〈なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない〉とはじまる。タイトルが「糸」であり、この歌詞であれば、聞き手はただちに、赤い糸の言い伝えを連想するだろう。しかし歌詞には赤い糸という言葉は出てこない。それだとベタすぎるからだろうか。同じ中島みゆきの「おとぎばなし」(二〇〇二年)では〈小指の先に結ばれている赤い糸〉と歌われており、おとぎばなしのように恋がかなえばいいのにな、という内容である。赤い糸の言い伝えを匂わせはするが、それをダイレクトに示す言葉は置かれていないというのが、「糸」の重要なポイントだ。そのおかげで書き手の想像力が広がっていったと思われるからである。

 今更だが、赤い糸というのは、将来結ばれる運命にある男女は足首あるいは手の小指が赤い糸で結ばれているが、それは目に見えないという伝説である。いろんな歌によく出てくる。有名なのは木村カエラ「Butterfly」(作詞、木村カエラ、二〇〇九年)だろう。結婚式をイメージした歌であるが、そこに〈赤い糸で結ばれてく 光の輪のなかへ〉とある。この歌詞が興味深いのは、赤い糸は運命の人と結ばれているのではなく、結婚をしたから赤い糸がつながってゆくとしている点だ。書き手のたんなる勘違いなのか、あるいは〈白い羽ではばたいてく〉と対句にしたいのでそう表現したということなのかもしれないが、結果的に、赤い糸の言い伝えを作り変えたものになっている。

 中島みゆきの「糸」に話を戻すと、この歌は〈どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語〉と続いてゆくから、やはりその〈ふたつの物語〉をつないでいるのが赤い糸なのだろうと思わせる。だが、そのあとに続くサビは〈縦の糸はあなた 横の糸は私〉となっていて、赤い糸の話ではなく、糸で織られた布の話になっているのである。はじめはたしかに男女の縁を結ぶ赤い糸の話の流れで語られていたはずなのに、サビの部分で急旋回して、糸が加工された布という質的に変化したものに話が変わっている。糸の伝説から布の比喩へと連想が広がっていったのだろう。文脈からはそのように読める。

 歌詞の二番になると、心にできたささくれを治すのに糸では役に立たない、布なら役に立つ、という流れで〈こんな糸が なんになるの〉と歌われ、また〈縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に出逢えることを 人は仕合わせと呼びます〉とあって、ここでは布こそが本来あるべき状態であり、それを形成する材料として糸が存在するということになっている。糸は〈あなた〉や〈私〉の比喩から発展して、〈逢うべき糸に 出逢えること〉というように「糸の擬人化」へと進んでいる。

 この歌は結婚式の余興で歌われる歌としても人気が高い。そもそも中島みゆきに関わりがある天理教の中心人物の結婚を祝って作られたようだ。なるほど結婚という節目を代入すると歌詞のねじれが理解できる。つまり二人が出会うまでは糸は赤い糸であり、結婚して家庭を築いてからは、その糸は織物になって人をやさしく包むということである。これは隠喩を重ねるアレゴリーである。

 また、〈縦の糸はあなた〉=男性に割り当てられ、〈横の糸は私〉=女性に割り当てられている点も興味深い。縦の方向は権力関係を象徴し、横の方向はつながりを象徴する。これは男女の旧来の性別役割に一致している。実際、織物を作るときも、まず縦の糸が張られ、その間を縫うように杼(ひ)によって横の糸が通される。不動の男性の周囲を女性が動きまわって家庭がつくられていくという構図と同じだ。

 この歌では縦糸(あなた)と横糸(わたし)が緊密に織り込まれ一体化している。こうなったらちょっとやそっとでは関係をほどくことはできなくなる。がんじがらめになった人間関係を喜びとするようなこの歌は年配の方(特に男性)には受け入れられやすいであろうが、若者がそれを受け入れられるとしたら、結婚式のような高揚した瞬間に限られるであろう。

 「糸」の歌詞には赤い糸という言葉は使われていないということは既に述べた。糸が赤い糸に限定されないことによって、織物としての〈布〉にまで発想を広げることができた。赤い糸は運命的な恋愛を夢見る若い人にとって定番となっている類想だが、年配の人が口にするのはいささか気恥ずかしいだろう。そういう赤面するようなポエムの手前で踏みとどまって、さらに「糸」というそっけなく渋いタイトルにして乙女チック度を下げたことが、この歌が広く受容されることにつながったのではないか。

 

3 美空ひばり川の流れのように

 美空ひばりが亡くなって三〇年以上経つが、数ある曲の中で一番親しまれているのは、秋元康が作詞した「川の流れのように」(一九八八年)であろう。生前最後のシングルであり、売上も一番。歌詞もひばりの人生の総決算のような内容である。

 偉大な歌手の偉大な歌であるが、「川の流れのように」の歌詞をあらためて読み直してみると、奇妙な印象が残る。それは、この歌詞が木に竹を接(つ)いだようなちぐはぐなものであることからきている。

歌詞→http://j-lyric.net/artist/a000977/l001189.html

 サビではタイトルどおり〈ああ 川の流れのように〉と〈川〉の比喩が使われているのだが、それ以外の平メロの部分では、一貫して〈道〉の比喩が使われている。人生を道に喩(たと)え、〈細く長いこの道〉〈でこぼこ道や曲がりくねった道〉〈終わりのないこの道〉〈雨に降られてぬかるんだ道〉などと様々な道の状態に関するいくつもの比喩をくり出している。それがなぜかサビになると突然〈川〉の比喩にスイッチしてしまうのである。どこかに船着き場でもあって、そこで舟に乗り換えたとでもいうみたいに(もちろん、そんな描写はない)。

 人生を道に喩えることと川に喩えることとでは、どのように生きるかについてのとらえ方が大きく異なっている。道というのは苦労して自分の脚で歩いていかなければ一歩も前に進まない。己の意志を重視している。一方、川というのは舟でそこに浮かんでいれば自分でことさらな努力をせずとも流れがこの身をいずこかへ運んでくれる。ただし、道を歩くときのようには行き先は自由に選べない。道の比喩は「何とかする」あるいは「何とかしてきた」人生を、川の比喩は「何とかなる」あるいは「何とかなった」人生を意味していると、とりあえずは言えるだろう。

 道と川の比喩は、二つの異なった寓意が込められているものなので、それを接ぎ木することは本当はできないはずである。この接ぎ方に意味を見出すとすれば、こういうことになるだろうか。数々のエピソードで知られるようにひばりの人生は、困難な〈でこぼこ道〉や〈ぬかるんだ道〉であったかもしれない。これまでは苦しい道を自力で生きてきた。しかし、振り返ってみると、個人の意志を超えた大きな流れがあり、結局そのとおりに進んできた。これからはその流れに従って〈おだやかにこの身をまかせていたい〉ということだろうか。川は最終的にいろんなものを飲み込んで、大きな川になってゆく。

 道の比喩では〈細く長いこの道〉〈でこぼこ道や曲がりくねった道〉〈ぬかるんだ道〉など、その困難さばかりが語られている。舗装された真っ直ぐな道路を自動車で快適に走ってきた、という比喩にはなっていない。これが川の比喩になると〈ゆるやか〉〈おだやか〉といった言葉で語られ、精神的な安定が得られている。川には、激流や濁流もあり、洪水や氾濫をおこすこともあるが、この歌の川は、適度なカーブがある、ゆるやかな流れの川である。激流の川なら人生の若い時期の比喩になるだろうが、ここでは老成した時期の比喩となる川である。道の比喩は人生の青年から壮年、川の比喩は人生の老年という時間的な区分にもなっている。

 また、川の比喩には〈時代〉とか〈空〉などの言葉がでてきて、スケールが大きくなる。道の比喩は個人の人生を語るのに向いているが、川の比喩はもっとスケールアップして、人間の来し方行く末を包み込み、さらには自然と融合した悟りの境地のような雰囲気さえ漂わせるようになる。〈川の流れのように おだやかにこの身をまかせていたい〉という歌詞は、何に身をまかせるのか曖昧であるが、そのため、人間というあり方を越えて〈川〉そのものになってしまったかのようにも読める。

 ひばりは自分の人生を歌で語るつもりで歌っているであろう。一方、聞き手にとっても〈でこぼこ道や曲がりくねった道〉はあるし、年を取れば全てがなるようになった川の流れのようなものとして人生が見えてくるだろう。聞き手は、歌をあるときは歌手の人生の自分語りとして聞きつつ、あるときは聞き手自身の人生のこととして聞くのである。

 また、美空ひばりという歌い手を「国民的な歌手」という象徴的な存在としてとらえると、こうも考えられる。川のもとになった雨の一滴一滴を大衆の一人一人と考えれば、それが集まって支流を作り、さらに支流が集まって大きな川になる。川は大衆の人生の総合であり、その太い一本の川が美空ひばりの人生に重ね合わせられることによって、ひばりが大衆を代理する。人生を道に喩えるだけでは個人的な語りで終止してしまい、聞き手に共感を抱かせることはできても、所詮は他人の人生であり、聞き手を巻き込むほどの言葉の力は持てない。だが、道が川に置き換わることによって、寓意の内容が途中で変化してしまうけれども、多くの人の人生を暗示することができるのである。

 歌詞の不思議な接合は、美空ひばりという偉大な歌手によって無理なく一つの歌にまとめあげられている。歌詞だけを取り出して読んでみると、歌手の後光が消え去って、気づかずスルーしていたものが気になってくる。道や川はいずれも人生の比喩として一般によく使われるものだから、いつのまにか切り替わっていることに気づきにくい。歌詞の言葉は少しずつのまとまりでしか記憶にとどまらないので、もし道や川の比喩が交互に出てきたらさすがにおかしいと思うだろうが、平メロ、サビというふうにまとまりで切り替わっているため、そこに何となく変わって然るべき意味があるように思ってしまうのだろう。そして、そのように見過ごしていたものに気づいたあとで、それをもとにもう一度歌詞を解釈しなおしてみると、またこの歌の別の側面を発見(創造)することができるのである。

 

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 これまで見てきた「負けないで」「糸」「川の流れのように」は、比喩が重要な役割を担っている。比喩が歌の命である。そして「糸」と「川の流れのように」は比喩するものが途中で変わっている(糸→布、道→川)。一つの比喩が意匠の中心に据えられているものは、俳句でいえば「一物仕立て」である。「一物仕立て」の句はありきたりなものになりやすく、作るのが難しい。しかし、いい句ができると力強いものになる。

 「糸」や「川の流れのように」は、一つの比喩で押しとおす「一物仕立て」のように見えるタイトルだが、内容はそうではなかった。「一物仕立て」の外観をしているがそうではないものを、本稿では「ねじれ」と呼んだ。本稿では、ねじれた歌詞を三作みてきた。それらはいずれも大ヒットしている。歌詞がねじれているにもかかわらず受け入れられるのは、聞き手は歌詞のねじれを重視していない(気にならない、気がつかない)ということである。あるいは、歌詞の最初から最後まで統一した論理を求めていない(求められない)ということである。歌の言葉は次々に流れてきては消えていく。耳に残る断片的なフレーズに違和感を感じなければよいということだろう。

 ただ、歌詞が活字になって言語の作品として置き換えられたものを目で読んでみると、そのねじれや唐突な変化が、作品の統一感を揺るがすことになる。歌詞が裸の言葉としてさらされてしまうと、歌手の存在や楽曲によって一つにまとめあげられていた歌のイメージがほどけて崩れてしまう。歌詞というのは、言語の作品のなかでは短くコンパクトなものであり、全体を見渡しやすい。歌詞のねじれの許容は、歌詞が従属物であること、単独で鑑賞するものではないことを示している。

ホステス探しもの−−尋ね人ソング

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 水商売の女性を歌った歌は多いが、今回はその中でも、ある分野に絞って考察してみたい。

 「ホステス探しもの」とでも呼ぶべき種類の歌がある。水商売の女性に惚れてその人が店を変えるあとを追いかけたり、あるいは水商売に「身を落とした」知り合いの女性を探しにあちこちの店を尋ねまわるというものである。

 水商売で客を接待する仕事に携わる女性をなんと呼ぶか。店の種類や使われる文脈によって、ホステス、キャバ嬢、キャスト、フロアレディ、あるいは単に「女の子」などともいう。仕事の身分によって売上嬢とヘルプに分かれている。店の種類は、ナイトクラブ、ラウンジ、キャバクラ、ガールズバー、スナックなどがあるが、明確に違うというよりは、中間形態も少なくない。

 歌に出てくる水商売の女性というのは、キラキラした売上ナンバーワンといったタイプは少ない。その世界になじめず、ひとり悩んだり、男が手をさしのべてくれるのを待っているようなタイプが多い。店も華やかな一流店ではなく、哀愁ただよう場末の店である。特に「ホステス探しもの」の歌ではそうである。探す方は水商売の世界から抜け出してもらいたくて探しているので、女性が羽振りがいいことを想定していない。うまくいってないと思うから救い出そうとしているのである。

 水商売の水の意味にはいくつかあり、水の流れのように不安定な商売であるとか、江戸時代に道ばたでお茶をだして休息させる水茶屋からきているとか、諸説ある。角川国語辞典には、水商売の意味として、「待合・料理屋など、客の人気によって収入が左右される、はやりすたりのはげしい商売。接客業。」とあるが、たんに客の注文をとったり配膳したりするのではなく、風俗営業許可をとって、客に酒を提供し、その横に座って話をしたり一緒にカラオケを歌ったりするようなサービスをしているようなものが水商売のイメージの中心にある。それは主として、性的な魅力で客を誘引しもてなす仕事であるが、性的サービスとは違う。性的サービスを行うには、性風俗関連特殊営業の許可が必要になる。こちらは水商売というより狭義のフーゾクである。「ホステス探しもの」の歌は、字義通り水商売の女性を探す歌である。

 「ホステス探しもの」の歌には共通の特徴があって、それは女性が次々店を変えるということである。それによって探す方との追いかけっこが生じる。そもそも水商売の女性はずっと一箇所の店にとどまることが少ない。いろんな店を渡り歩く。もっと条件のいい店に移ったり、あるいは何かトラブルがあったりして短期間で店を変えていく。

 

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 「ホステス探しもの」の歌の要素がはっきり出ていて、最もよく知られ、歌詞も出色の出来栄えであるのは、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(作詞:阿木燿子、一九七五年)である。私は当時小学生だったが、〈一寸前なら憶えちゃいるが 一年前だとチトわからねエなあ〉とか〈髪の長い女だってここにゃ沢山いるからねエ〉とか〈アンタ あの娘の何んなのさ!〉というセリフは、子どもたちのあいだでも大流行した。頼みごとをしても、〈ワルイなあ他をあたってくれよ〉と冗談半分にかわされてしまうのである。

 歌詞→http://j-lyric.net/artist/a04a929/l005c6f.html

 歌詞の語りは、探す側の視点が映画でいうPOVのように主観ショットで移動していく。発話主は店の男性スタッフや女性キャストであり、そのセリフが歌詞として語られる。いずれもぞんざいな言葉遣いを特徴にしており業界の品性を活写している。

 ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、サングラスに白いツナギといった暴走族ふうのいでたちをしていたが、ハードな不良というより、ヒットした前作の「スモーキン・ブギ」や「港のヨーコ」の裏面である「カッコマン・ブギ」に見られるようにコミカルさを持っていた。「港のヨーコ」という歌にとって、歌い手の外観の威圧感が与えるホンモノ性と、不良性のガス抜きとしてのコミカルさの両輪が、大衆ウケの促進剤になったと思える。

 歌詞には、〈アタイたちにゃアイサツなしさ〉とか〈仁義を欠いちゃいられやしないよ〉といったヤクザまがいの言い方が出てくる。水商売の世界は任侠というほど世間と隔絶したところではないにしても、縦の関係が厳しい体育会系のノリが持ち込まれている。ボーカルの宇崎竜童はその後俳優としてもいくつかの作品に出演するが、この歌でセリフまわしは板についていた。

 歌詞には、探す人の言葉も探される人の言葉もそれ自体は出てこず、第三者の語りを通して両者の関係がだんだん明らかになってくるという技巧的なものになっている。男が探偵のように探すのであるが、〈一年前〉〈半年前〉〈三月前〉〈一と月〉〈たった今まで〉とだんだん近づいていく感じがスリリングで、最後はすれ違ったまま歌は終わってしまう。いろんな人の証言をもとに合わせ鏡のように人物像が浮かび上がってくるが、肝心の人物は不在、つかまえたと思ったらするりと逃げ、中心は空虚なままで、ハードボイルドのミステリーを縮約したような見事な構成である。歌詞は五番まであるが、一、二番は横浜、そこから流れて三、四、五番は横須賀の店に移っている。

 

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 歌詞の内容をもう少し詳しくみてみよう。

 ヨーコはどのような女性だったのか。人のあとを追いかける歌であるから、居なくなる寸前の手がかり、つまり、どのように辞めたかが主として述べられている。

 辞める経緯はどれも酷い。〈アタイたちにゃアイサツなし〉だったり、ふいに〈仔猫といっしょにトンズラ〉したり、〈前借り残したまんま一と月〉でいなくなったりと、いい加減である。最後の店では〈客がどこかをさわったって店をとび出していっちまった〉ということだが、おそらくこのまま戻らないと想像される。ホステスはフリーの個人事業主であり、店は場所を提供しているだけなので、店を渡り歩くのはよくあることだが、こうも唐突で辞め方もきれいではないと、店としては迷惑だろう。

 辞めるにあたっては一応予兆というかきっかけみたいなものはある。

 

 ・マリのお客をとって大さわぎになった→居づらくなったのか店の者に挨拶もなく辞めた

 ・小さな仔猫を拾った→仔猫を飼うなと言われたのか、仔猫に自分を投影したのか、仔猫といっしょに突然姿を消す

 ・外人相手で可愛そうだった→ルールの通用しない米兵の客に尊厳を傷つけられたのか、たった一か月でいなくなった

 ・客がどこかをさわった→客がさわることを黙認するようなゆるい店にまで落ちたことを身にしみて感じたのか、我慢できず店をとび出した

 

 ヨーコは夜の商売にはむいていないようだ。店でも〈あんまり何んにも云わない娘〉と思われていたから、人間関係の構築は苦手なのだろう。〈仔猫と話していた〉というのは、周囲になじめず孤立していたということだ。どの店でもそういう感じだったのである。むいていないことは自分でもわかっていたはずだが、ヨーコはなぜ水商売にこだわり、同じような店に次々移っていったのか。

 歌の中で、唯一ヨーコを評価する証言がある。それは〈ジルバがとってもうまくってよお〉というものだ。ジルバは戦後米兵がもたらした社交ダンスで、ペアで踊る。男女が密着しないので恥ずかしさは少ない。難易度もそれほど高くない。横浜には横浜ジルバ(ハマジル)と言われるものがあって男性が女性を操るように踊るが、ヨーコはハマジルが好きだった可能性もある。ヨーコはそういうダンスを踊れる店を主に選んでいたのだろう。〈あんまり何んにも云わない娘〉なので接客も下手だっただろうが、他のホステスの客を横取りしてしまうくらいだから、ダンスが上手いとか、スタイルがいいとか、そこそこ魅力的な雰囲気のある娘だったのだろう。そのため、目立ったトラブルがなければ店で働き続けられたのである。

 男がヨーコを探すのは、ヨーコが自分にあった職業を選べていないので、心配しているということだろう。置かれた状況をはっきりと理解せず、嫌なことがあったらすぐ辞めて他の店に移るということを繰り返すようでは本人に未熟なところがあると言われても仕方ない。〈ウブなネンネじゃあるまいしどうにかしてるよあの娘〉と呆れられるのも当然だ。ヨーコには覚悟が不足している。

 ところで、ヨーコというのは作詞家(阿木燿子)自身がヨーコという名前であり、歌い手であるバンドリーダー宇崎竜童の妻でもあることから、歌い手がその妻を探し歩いているかのような趣があり、この歌のかすかなリアリティを底支えしている。また、ヨーコという名前は横浜、横須賀という地名と響き合って頭韻を形成し、口調の心地よさを生じさせている。「ホステス探しもの」はなぜか横浜、横須賀といった港町の店にいることが多いが、それに名前をからめる妙技には舌を巻く。宇崎/阿木のコンビはこの歌の翌年、山口百恵に「横須賀ストーリー」という歌を提供するが、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」のヨーコ像は、ここで新たに山口百恵を加えることになった。

 

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 小林旭の「昔の名前で出ています」(作詞、星野哲郎、一九七五年)は「港のヨーコ」とは逆に、探してもらう側である女性視点によるものである。〈横浜(ハマ)の酒場〉に流れ着くので、この歌は「港のヨーコ」のアンサーソングかと思ったら、同じ年に少し早く出ているのである。

 歌詞→http://j-lyric.net/artist/a000d3b/l005c9e.html

 この女性は、歌詞に出てくる地名だけでも、横浜→京都→神戸→横浜と移動している。関東と関西を股にかけているが、おそらく中京方面にもいたのではないか。小林旭の歌なので、各地の繁華街を渡り歩く女性は、女性版の「渡り鳥」なのである。歌詞の中では〈流れ女〉と言っている。

 この歌で面白いと思ったのは、〈あなたがさがして くれるの待つわ〉〈あなたを信じて ここまできたわ〉〈あなたが止まって くれるの待つわ〉と歌っているところだ。うっかりすると、〈あなた〉が自分を探しまわってくれているように思ってしまうが、実は〈あなた〉が動いてくれているか私にはわかっていないのである。〈あなた〉の姿はどこにも出てこない。そもそも〈あなた〉との縁を捨てて関西に行ってしまったのだから、今さら〈あなたを信じて〉戻ってきたと言われても、虫がいいと思われるだけだ。〈あなた〉と別れたのは何か深い理由でもあったのか、なかったのか。それは歌詞には書かれていない。実は歌詞に書かれていないことが一番重要なのである。逆に歌詞に書いてあること(ボトルにあなたの似顔を描いたとか)は、どうでもいいことだ。あなたのことを忘れたことはなかったというのも嘘くさい。京都や神戸の店で使っていた適当な源氏名がなんだったのかも、横浜の店にいて何の関係があるというのか。

 この歌も「港のヨーコ」のように捜索人と尋ね人のすれ違いを描いているように思えるがそうではなく、女性による一方的な期待があるだけである。そうなってほしいという願望だけである。だが、期待が実現するのは困難だろう。横浜、横須賀に限定された「港のヨーコ」ですら結構苦労して探しているのになかなかたどりつけないのに、こちらの歌では、いつ横浜に戻ってきたのかも相手に伝わっていないだろうし、手がかりとして提示されるのが「昔の名前」しかないのでは心もとない。昔と同じ店に戻ったのなら、男は客として通っているかもしれないが、そうではないだろう。女は元の店には戻りにくいだろうし、考えてみれば男のほうも居なくなった女の店に通い続けるとは思えない。

 手がかりになるのは「昔の名前」だけだが、〈京都にいるときゃ忍〉〈神戸じゃ渚〉と名乗ったように、水商売の女性の名前(源氏名)は同一性をあてにできない最たるものである。「昔の名前」も同じように頼りにならないものである。「昔の名前」ではなく「本当の名前」で探してもらえないところに、〈あなた〉との関係が結局は水商売の虚構世界を出られない限界を持っていることを示している。

 ところで、歌詞には〈流れ女の さいごの止まり木に あなたが止まって くれるの待つわ〉とある。〈止まり木〉というのは、私は酒場の横長のカウンターのことだと思っていたが、ネット辞書には、カウンターの前にある高い椅子のこととある。どちらでもよいが、換喩として、ひととき寛ぐために立ち寄れるちょっとした飲み屋とか、そのような役割のある人物も意味している。この歌詞の〈さいごの止まり木〉というのは、〈流れ女〉にとってその店が〈さいごの止まり木〉であり、同時に自分自身も〈あなた〉の〈止まり木〉となるべく待っているということである。だが、流れのなかにある〈止まり木〉ではなんとも不安定である。流れる/止まるという矛盾した表現をしなければならないところに、水商売の世界の思考様式にからめとられた悲しさがある。

 〈流れ女〉は、流れているうちはどこか主体性があってそうしているように見えていたはずである。だがその流れが止まってしまうと、〈待つ〉しか手立てがなくなり、とたんに受け身になってしまう。受け身になる理由のひとつに、水商売の女性はドア・ツー・ドアができないという限界がある。店を拠点とした場合、拠点間を移動して目的の場所に近づくことはできるが、そこから先の各家庭までは入り込むことはできないのである。それは仮りそめの名前のネットワークと本当の名前のネットワークとの違いでもある。前者の人間が後者の世界に行くのは難しい。後者の世界から客として人が訪れてくるのを待つしかないのである。

 この歌は観点を変えて読むこともできる。この歌は男性によって歌われているところから、男性の願望を開陳している歌だと考えることもできる。かつて男が気に入った水商売の女性がいて、ある日姿を消してしまったが、どこかで自分が探してくれるのを待っているのではないかという妄想を女性になりかわって歌っているとも考えられる。男にはどこか、苦界に身を落としている女性を救ってみたいという願望があるのではないか。男と女、いずれの立場からも解釈できる奇妙な歌である。

 

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 石原裕次郎の死の翌月に発売された「北の旅人」(作詞、山口洋子、一九八七年)は、好きな女性の行方を探して北海道をあちこちまわるというもので、釧路、函館、小樽と、昭和四〇年代に流行ったご当地ソングでよく歌われた地名が出てくる。道東、道南、道央と広すぎて探しようがないように思うが、こうなると観光のついでに探しているような気がしてくる。

 歌詞→http://j-lyric.net/artist/a0009fe/l0014ae.html

 手がかりがないわけではない。〈ふるい酒場で 噂をきいた〉という。古い酒場というので、人があまりこない店である。儲からないから改装できず古いままだ。なぜそういう店にいたのか。たぶん探している人はあまりそのての接客をしたくないのだろう。それであまり人がこないような店を選ぶのである。あるいはそういう店でないと雇ってもらえないような地味な女性なのかもしれない。しかし、そこも〈半年まえまで 居たという〉ので、すでにやめてしまっていた。半年前までいたというのは「港のヨーコ」と同じである。細いつてをたどって近づいてはいるようだが、永遠に近づけない。それは相手も何かから逃げるように移動し続けているからである。あるいは、一曲のなかに、よくばって人気地名をいくつも織り込むためには場所を変遷する必要があるのでそうしているのかもしれない。

 〈いまでもあなたを 待ってると いとしいおまえの 叫(よ)ぶ声が〉とある。男は、女が自分を〈待ってる〉と思っている。ここで気になるのは〈いまでも〉という言い方である。〈いまでも〉というのは、別れてからかなり時間が経っているということを意味する。この男はなぜいまさら女を探そうという気になったのだろう。仕事を辞めて時間ができたので、昔つきあった女のことをふと思い出したのだろうか。いまさらやり直したいわけでもあるまい。時間が開いているのに、なぜ探す気になったのか。おそらく、こういう尋ね人ソングを歌う方も聞く方も年をとったということが外形的な理由だろう。この歌がレコーディングされたとき昭和九年生まれの石原裕次郎は五〇歳を過ぎており、病気でなかったとしても、釧路や小樽を探し歩く姿を思い浮かべるのは現実的ではなかったはずだ。身も蓋もない言い方になるが、初老にさしかかった男性の、夢は枯野を駆け巡る歌なのである。

 歌詞を読んでも、この歌の女性は本当に居たのかと疑問に思えてくる。〈いとしいおまえの 叫(よ)ぶ声が 俺の背中で 潮風(かぜ)になる〉とか、〈どこへ去(い)ったか 細い影〉〈消えぬ面影 たずねびと〉などと影のように存在感が希薄なのである。幻想のなかに存在した女性ではないかと思えてくる。〈いまでもあなたを 待ってる〉という一方で、〈どこへ去(い)ったか〉わからないというのも幻影を追いかけているかのようである。手がかりを残さず消えてしまうのは借金から逃げているからだとでも解釈できなくはないが、本当は存在しない女性なのではないだろうか。

 小林旭の「熱き心に」(作詞、阿久悠、一九八五年)では女性の姿は消えてしまっている。〈別れた女(ひと) いずこ〉とどこにいるかわからなくなっているが、だから探そうとか会いたいというわけでもない。懐かしくはあるけれど、いまさらよりを戻したいとは思っていない。〈熱き心に きみを重ね 夜の更けるままに 想いつのらせ〉というように、自分の心の中で済まされている。この歌を歌ったとき昭和十三年生まれの小林旭はあと数年で五〇歳にさしかかろうとしていた。さすがに〈オーロラの空の下 夢追い人ひとり〉さまようのは無理だろう。「夢は枯野を」系の歌なのである。そしてこういうとき同行二人となるのが昔の女の幻影なのである。その幻影の女は男の幻想のなかで〈いまでもあなたを 待ってる〉と言っては男を誘っているのであろう。

 

4

 「北の旅人」がそうだったように、「ホステス探しもの」は全国各地の繁華街を尋ね回るので、ご当地ソングと親近性がある。

 ご当地ソングが多い都道府県を調べたテレビ番組(「誰も調べた事がない日本語ランキング」二〇一八年、フジテレビ)によれば、ベストテンは一位から順に、東京、大阪、北海道、神奈川、青森、京都、沖縄、長崎、福岡、静岡となっている。(収録曲のタイトルに地名・名所・方言など、その土地の何かを表すモノが入っているものをご当地ソングとしてカウント。)https://kakaku.com/tv/search/keyword=ご当地ソングが多い都道府県ランキング/

 東京はダントツの一位だが、首都としての象徴性もあるから当然としても、人口が多いから上位にランクインするというわけでもない。人口の多い愛知は十六位、埼玉は四四位、千葉は三四位である。むしろ観光で行きたい都道府県ランキングのほうに近いといえる。

 観光地として人気があるからご当地ソングが作られるということもあるだろうが、ご当地ソングが人気となって観光客が押し寄せるというパターンも少なくない。例えば長崎などもそうである。この場合の長崎は長崎県というより長崎市周辺である。

 長崎の歌として真っ先に思い浮かぶのは、「長崎は今日も雨だった」(作詞、永田貴子、一九六九年)である。長崎は日本の中でもとくに雨が多い地域というわけではない。(年間降水量は長崎県は毎年十一位か十二位のあたりにいる。)歌の印象が強いので、長崎はいつも雨煙にくすぶっている感じがするのである。その土地の印象(しかも正確ではない)を言葉で作り上げてしまった例である。そしてこの歌は、歌詞をよく読むと「ホステス探しもの」でもある。場所はあちこち移動せず、長崎市の繁華街で探している。

 この歌の成立にあたってはいくつか有名な逸話がある。長崎のグランドキャバレーで専属バンドとして歌っていた内山田洋とクール・ファイブだが、競合店のバンドがオリジナル曲「思案橋ブルース」で世に出てそれがヒットしたので、負けじと作ったのがこの歌である。思案橋というのは、長崎にある丸山遊郭の近くにあった橋で、遊びに行くかどうしようか迷ったというところからきている。思案橋、丸山のあたりは今も長崎で一番飲み屋の多い街である。

 青江三奈の「長崎ブルース」もそうだが、長崎の歌には思案橋や丸山の地名がつきものである。「長崎は今日も雨だった」にも丸山は出てきて、愛しい人を〈さがし さがし求めて ひとり ひとりさまよえば〉と石畳の道を歩いたり、〈夜の丸山たずねて〉みるが見つからず、〈どこにいるのか教えて欲しい 街の灯よ〉と嘆くのである。この歌は、水商売の女性を探しあぐねて嘆いている歌なのである。普通の生活をしているなら幸せでいてくれていればいいと遠くから願うだけだが、水商売ならそこから救ってやりたいと使命感のようにも感じて懸命に探すのである。だが、街に隠されるように女性はどこかに消えてしまうのである。

 長崎は今日も雨だった」を聞いて長崎に来る観光客は、何かを〈さがし さがし求めて ひとり ひとりさまよ〉うのであろう。観光においても、欠けている何かを探そうとすることが、そこに引き寄せる力になる。

 

5

 「ホステス探しもの」の歌の源流はどこにあるのだろうか。戦後まもなくヒットした「上海帰りのリル」(作詞、東條寿三郎、一九五一年)という歌がある。上海から帰って来たリルを〈探して歩く〉というものである。噂では、リルは〈ハマのキャバレーにいた〉という。これは、ヨーコという娘を探して〈ハマから流れて来た娘だね〉と歌う「港のヨーコ」へと直接つながっていく歌だといっていいだろう。

 「上海帰りのリル」は、戦前にヒットした「上海リル」のアンサー・ソングである。「上海リル」は昭和八年のアメリカ映画『フットライト・パレード』の主題歌を日本語でカバーしたものである。唄川幸子が歌い、ディック・ミネほかも歌い競作となった。「上海リル」にはいくつかの訳詞があるが、かつて上海にリルという素敵な目立つ女性がいたという、リルを称賛する歌であることは共通している。唄川幸子やディック・ミネが歌う服部龍太郎版と津田出之版の訳詞は、いずれも今はもういないリルをあちこち探しているという内容で、原詞に近い。

 歌詞→http://www.kget.jp/lyric/298852/上海リル_ディック・ミネ

 戦前、上海には各国の共同租界、フランス租界があって、モダンな建築が立ち並び東洋のパリと呼ばれたが、一方で、賭博場、阿片窟、ダンスホール、妓館などが密集し歓楽街を形成しており、恐れと憧れから魔都とも称された。その上海という魅惑的な街が生み出した幻影のような人物がリルなのかもしれない。そもそもこのリルというのは人名というより英語の ‘little の省略で、「いとしい人」という意味の little darling であろう。最近でもヒップホッパーの名前に「Lil」をつけたものが多い。

 「上海帰りのリル」は〈どこにいるのかリル だれかリルを知らないか〉と歌い、「上海リル」にある「探す要素」をさらに発展させている。上海界隈にいたときさえどこにいるのかわからなかったのに、混乱のなか外地から引き揚げてきた大勢の中のひとりということならよけいわからなくなるだろう。

 先に「北の旅人」で〈いまでも〉とあることから、居なくなって探しはじめるまでにかなり時間が経っていると書いたが、「上海リル」も「上海帰りのリル」も、リルは思い出の中の人であり、探している今は居なくなってから時間が経っている。この時間のズレも「ホステス探しもの」の特徴の一つである。居なくなってすぐに探し始めれば簡単に見つけることができるが、時間がたっているからなかなか見つからないのである。

 「上海帰りのリル」が大ヒットしたせいでリルものがいくつも作られた。「リルを探してくれないか」「心のリルよなぜ遠い」「私がリルよ」「私がリルの妹よ」「私は銀座リル」「霧の港のリル」などがある。「リルを探してくれないか」は探す要素がされに強調され、「心のリルよなぜ遠い」になると半分あきらめており、「私がリルよ」では消えた本人が自ら名乗り出てきた。リルが固有名として扱われることで物語がふくらんでいったのである。

 「ホステス探しもの」の歌が成立するには、盛り場を流浪する女と、その女を探す流浪する男が必要である。流浪する男については「逃げることはかっこいい」という項でさすらいの歌としてふれておいた。では流浪する女はどこから来たのか。流浪する女を大量に生み出したのは戦争である。「上海帰りのリル」も戦争に関わる歌で、リルは〈ひとりぼっち〉で日本に帰って来た。帰ってきても頼れる家族はいそうもない。この歌は、終戦直後に、女性が一人で生きていこうとしたらどうなるかということを歌っている。

 リルは横浜のキャバレーで働けたようだからまだいいほうだろう。生きるために街娼となった女性を〈こんな女に誰がした〉と歌う「星の流れに」(作詞、清水みのる、一九四七年)のほうが悲惨である。満州奉天から引き揚げてきた女性の手記を読んで書かれた歌詞だというが、「星の流れに」の女性には、その身を案じてくれる男はいなさそうだ。むしろ自分のほうが、飢えてどこかにいるであろう妹を心配し、また母に会いたいと嘆いている。ただ、夜の女に落ちても、誰かに救い出してもらいたいという期待はない。

 流浪する女の歌に「カスバの女」(作詞、大高ひさを、一九五五年)がある。カスバはアルジェリアの首都アルジェの市街地にある。起伏の大きい地形に家が密集し、独特の景観を形成しており、世界遺産になっている。アルジェリアはフランスの植民地だったが、第二次大戦後の民族自決の流れの中で、一九五四年に独立のための武装闘争が起こり、六二年に独立が決定した。「カスバの女」は、花の都パリで〈踊り子〉をやっていたが、〈地の果てアルジェリヤ〉に流れてきて、今は〈夜に咲く 酒場の女〉になっている。

フランス外人部隊の本部はアルジェリアにあり、先に述べたアルジェリア独立戦争などでも活躍した。歌にも〈外人部隊〉が出てくる。客の〈外人部隊〉の兵士に惹かれたが、〈明日はチュニスか モロッコか〉と流れてゆく兵士との恋は〈一夜の火花〉と諦める。去りゆく後ろ姿に流浪の我が身を重ねている。「上海リル」はアメリカ映画の主題歌だったものだが、「カスバの女」の歌詞はフランス映画『望郷』がネタ元である。ただこの歌は外国が舞台ではあるが、聞き手は、よく知らないパリ/アルジェリアを日本の東京/地方に置き換えて聞いていただろうことは想像に難くない。

 

6

 これまで、いささか古い歌ばかり見てきた。では現在、「ホステス探しもの」はどこへ向かっているのか。

 今では、水商売の世界に入ることについて苦界に身を落とすといったイメージはなく、逆に、華やかさ、高給、女性の自立といったイメージに変化してきている。二〇〇〇年代後半であるが、女子高生のなりたい職業ランキングにキャバ嬢が入ったことが話題になった。性的要素は水商売という仕事とは切り離せないが、それは忌避されず、経済的な側面がもっぱら重視される。水商売はもはやそこから救い出されるべき場所ではない。むしろ、つきまとわれるのはお節介だし、辞めさせられるのは迷惑なのである。

 それを歌っているのが、鼠先輩の「六本木~GIROPPON~」(作詞、松嶋重、二〇〇八年)である。

 歌詞→http://j-lyric.net/artist/a04df63/l00dc88.html

 探される女性の視点から描いており、岡山県から東京に出てきて六本木で水商売をしている女性を〈昔の男〉が追いかけてきたが、気味悪がられ、汽車(電車)に乗って〈帰りなさい〉と冷たくあしらわれるという歌である。これも「ホステス探しもの」の一変形といっていいだろうが、女性は都会に慣れつつあるのに、そこに〈昔の男〉が現れるのは迷惑なだけである。女に会いに上京した男は哀れなピエロで、そのためコミカルな中に上京ソングの哀愁を兼ね備えた歌になっている。求められていないのにひょっこりやってきて挙げ句後悔するというのが今のリアルなのである。

 この歌では、人の移動は周縁ではなく中央に向かい、女性は場末の薄暗い酒場ではなくきらびやかな〈都会のネオン〉と衣装に包まれている。水商売は短時間で高給を稼げる憧れの職業であり、周縁性に親近な落魄した姿はそこにはない。

 女は〈きっと 今でも愛してるのよ 気持ちゆらゆら〉とはいうものの、すでに〈六本木の夜に 慣れ始め〉ており、男は〈昔の男〉になっている。この歌の〈今でも愛してる〉というのは、先に見た「北の旅人」の〈いまでもあなたを 待ってる〉を思い出させる。〈今でも〉というのは、相手にどのていど気持ちが残っているのか判断を間違えると道化になりかねない危険な言葉なのである。

 この歌は、探している対象にたどりついたときにどういう扱いを受けるかということをユーモラスに描いている。相手の気持ちを都合よく推測してそれを頼りに行動すると惨めな結果になるということを教えている。多くの「ホステス探しもの」の歌がいつまでも相手にたどりつけない理由はここにある。たどりつかないほいがいいのである。たどりつかずに妄想を描いているうちが幸せなのだ。現実を知ると、すごすご帰路につくことになる。実はそれは昔も今も変わらないのかもしれない。

 ところで「六本木~GIROPPON~」がヒットしたのは言葉遊びの楽しさもあるからだろう。なんで〈ぽっぽぽぽぽぽぽっぽ〉を繰り返すのかと思ったら、〈汽車ぽっぽ〉や〈鳩ぽっぽ〉にかけているのであるが、その〈ぽ〉は、六本木(ろっぽんぎ)の〈ぽ〉を展開したものなのだろう。〈っぽん〉は、〈ぽん〉の前に促音をつけて強く弾む音にしていて、口にすると気持ちいいのである。

 最近の歌をもう一つあげておく。ゴールデンボンバーの「水商売をやめてくれないか」(作詞、鬼龍院翔、二〇一六年)という歌は、タイトルどおり、男が付き合っている彼女に水商売をやめてくれと頼むもの。水商売をやめて、男の地元に帰って一緒に暮らそうという。女のほうにはそんなつもりはない。この歌はその率直すぎるタイトルや歌詞の内容からして「あるある系」のパロディとして書かれたものだろう。

 この歌では、男は女を探すまでもなく、すでにその女の近くにいる。「六本木~GIROPPON~」もそうだが、居場所はわかっており、探すという過程は重要ではない。苦労して探そうと、すぐ近くにいようと、結果は同じである。今や肝心なのは、そのつもりがない女に、その仕事をやめさせることである。探すより、翻意させるほうが大変なのである。水商売の仕事の捉え方は女のほうは変化しているのに、男のほうは昔のままなのである。

 桑田佳祐の「若い広場」(作詞、桑田佳祐、二〇一七年)は、〈愛の言葉をリル〉と始まり「上海リル」に始まる「リルもの」の痕跡を示しているが、昔を懐かしむことが主で、〈あの娘(こ)今頃どうしてる〉と気にはするものの、探すことはしない。過去の人に拘るしつこさはなく、〈明日誰かが待っている〉とあっさり気持ちを切りかえている。他人に対するこの淡白さが、今の時代のカッコよさなのである。

 人を探して見つけ出そうとするのは、その人の人生に積極的に関わろうとすることだ。探されるほうがどう思っているかわからないのに他人の人生に介入するお節介は個人主義の時代には嫌がられる。それは「六本木~GIROPPON~」や「水商売をやめてくれないか」のように滑稽を演じることにになる。「ホステス探しもの」の歌は今の時代には合わなくなっているようだ。